平家物語の時代 13.平家滅亡 平家物語の記すところの平維盛の死から遡ること一〇日、実際の平維盛の死からは二〇日ほどが経過した寿永三(一一八四)年三月一八日、源頼朝が鹿狩りという名目で伊豆国へと出発した。当然ながらそのような名目を信じる人など誰もいない。源頼朝はあえて鎌倉を離れたのである。より正確に言えば、鎌倉より情勢を優位に働かせることのできる場である伊豆国へ移ったのである。 源頼朝が伊豆国に向かったのは伊豆国で平重衡を出迎えるためであった。平治の乱で敗れて伊豆国に流されてきた源頼朝が、平家の武将の一人である平重衡と伊豆で会う、それも完全に立場が入れ替わっている状態で会うというのは、平家に対するかなりの意趣返しである。 それに、もう一つ目的があった。一ヶ月前の二月一八日に源義経に対しては京都の守護を、梶原景時と土肥実平の両名に対しては山陽道五ヶ国の制圧を命じたとき、京都近郊の各国に平家の残党と木曾義仲の残党の追補と兵糧米の確保を命じる必要性を認識しながらも情報の収集と人員の選抜に手間取ったとも記したが、源頼朝が伊豆国にまで移動すれば、伊豆国から鎌倉までの片道一日、往復二日間の時間短縮が可能なのである。源頼朝は伊豆国に移動することで京都からの情報の時間差を少しでも埋めようとしたのだ。 伊豆国に身を移してから二日後の三月二〇日、大内惟義を伊賀国に派遣することが決まった。一ノ谷の戦いにおける戦功を評価し、伊賀国の制圧を任せることができると把握したからである。 三月二二日には、大井実春が伊勢国に向けて出発した。伊勢国は伊勢平氏発祥の地であり平家の勢力が未だ強い地域である。なお、吾妻鏡の記述では大井実春だけの名が記されているが、実際には山内首藤経俊も同行している。それにしても、山内首藤経俊は三年半前まで源頼朝に弓矢を向けていた側であり、捕縛されて土肥実平のもとに預けられて処罰を待つ身になっていた人物である。そんな人物が今や源頼朝の送り出す武将の一人となっているのは、源頼朝という人物の政治家としての能力のアピールの一つにもなった。 平重衡が到着したのはこうした知らせが既に発せられている状態の伊豆国である。伊豆国の北条館で待ち構えていた源頼朝の前に囚われの身となっていた平重衡が到着したときの様子を吾妻鏡はこのように記している。 源頼朝は本三位中将こと平重衡を北条館に招き、平重衡を廊下に座らせて面会した。 最初に言葉を発したのは源頼朝の方である。 自分が平家討伐に起ち上がったのは、後白河法皇の怒りを静めるため、また父の仇討ちためであり、石橋山で挙兵してからこれまで平氏の抵抗を退治できたのは思った通りの結果である。平重衡を捕虜として会うことができるのはたいへんな名誉挽回であり、あとは前内大臣こと平宗盛ともこうして会うことになるであろうというのが源頼朝の言葉だ。 これに対し平重衡はこう答えた。 源平はともにこの国を守る立場にあったが、源氏が落ちぶれてしまったおかげで平家だけが二〇年に亘って朝廷を守ることになり、そのおかげで八〇名以上の平家が官職に就くこととなった。しかし、今や我らが平家の命運は縮まり、自分も捕虜となって連れてこられる身となっている。もっとも、武士として囚われの身となることは何ら恥ずべきところはなく、あとは斬首されるのを待つだけだというのが平重衡の言葉だ。 これが平家物語になると互いの会話がもっと長くなる。吾妻鏡における源頼朝は南都焼討について全く口にしなかったが、平家物語での源頼朝はそれこそが尋問の首題となっている。一方の平重衡もまずは南都焼討については全て自分の責任であると述べてから源頼朝の問いに答えている。ただし、最後のフレーズは同じで、囚われの身となることは恥ではなく、あとは斬首されるのを待つのみという覚悟のほどが平家物語には記されている。 平重衡の主張するように斬首するのは簡単であろう。だが、源頼朝は平重衡の言葉を受け入れず生かしておくことにした。平重衡は南都焼討の主犯であり、奈良からの恨みの集中している人物でもある。そのため、奈良からは平重衡の引き渡しを求める声、それが受け入れられないならせめて死罪とすべきとする訴えも届いていたが、源頼朝は平重衡を斬首させることなく狩野宗茂に預けることに決めた。狩野宗茂に課せられたのは何としても平重衡を生かし続けることである。特に奈良からどのような要請があろうと全て相手にしないことが厳命された。 なお、寿永三(一一八四)年三月という時期は鎌倉方における史料の再出ならびに初出の時期でもある。 まずは再出について記すと、源頼朝が平重衡と面会した場所が伊豆国の北条館であるというところから想像した方も多いかも知れないが、寿永元(一一八二)年を最後に全く史料に登場しなくなってきていた北条時政と北条政子の存在が確認できるのがこのときである。 次に初出について記すと、後に姓を大江に変え大江広元と呼ばれることになる中原広元が京都を捨てて鎌倉の源頼朝のもとにやってきたのも寿永三(一一八四)年三月である。中原広元の兄の中原親能は治承四(一一八〇)年の年末に平時忠によって捕縛される寸前であったところを脱出することに成功し鎌倉までやってきており、中原広元は兄を頼って鎌倉にやってきたわけであるが、ただちに兄よりも存在感を発揮することとなる。兄の中原親能が京都にいた頃は優秀な実務官僚であり鎌倉方において重要な役割を担う官僚となっていたが、弟の中原広元は現在でいう法学者であり、この時代の日本で手に入れることのできる最高の法学の知識を持っている人であったことから、鎌倉方の法務を一手に引き受けることとなったのである。ちなみに、鎌倉方の人としては珍しく従五位下の位階を持った状態での鎌倉方への参入であったことから、他の御家人よりも常に一段階から二段階は上の位階であり続けた人でもあった。2022.10.15 10:00