德薙零己

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鳥羽院の時代 5.保元の乱

 災害で記録が失われることは歴史上に何度も登場する。アレクサンドリアの大図書館しかり、この時代から三七年後の平泉しかり。また、応仁の乱で失われた歴史資料はあまりにも多く、現在は一部しか残っていない、あるいは書名しか残っていない資料は応仁の乱での消失が理由であるというのも珍しくない。 そこまでの規模ではなくとも、記録が失われる事態となったケースとして仁平三(一一五三)年四月一五日の事例が挙げられる。未刻というから現在の時制にすると昼の二時前後、五条坊門南から鳥丸東にかけてのエリアから出火し、大規模な火災へと発展した。このときの火災により、大江家で代々保存していた図書およそ数万が灰に消えたという。 数万の図書というのは誇張表現であろうが、現在では書名しか残っていない書物を挙げるだけでも、菅原文時の著した『文芥集』、為憲所撰の『本朝詞林』、菅原是善の著した『東宮切韻』、菅三品自筆被書である『統理平集』と『荘子成英疏』。その他にも『為憲集』、『扶桑集』、『有国集』、『本朝佳旬』、『以言集』全八巻、『許渾集』、『旌異記』、『内傳博要』、『本朝秀句』といった書物が失われたことが判明している。 当時としては群を抜いた所蔵数の図書館、当時の呼び名で言うと文庫がこの火災で失われたことは、単に書物が失われたことだけを意味するのではない。現在の図書館でも同じことであるが、当時の文庫も学習の場所であった。何より大江家そのものが学者を輩出する家系として有名で、多くの図書を自宅に所蔵していたのも学習のためである。この頃の大江氏は貴族の一員であると同時に、この時代にも残っていた役人登用試験の最高峰である方略試に合格する者も大江家から輩出しているのはその一例である。もっとも、学問の世界で捉えると菅原氏がトップに君臨して大江家は二番手か三番手といったところであり、大江匡房が亡くなってからの大江氏はいまいちパッとしないのが実情であった。 このときの文庫焼亡で大江氏は大きな打撃を受けることとなる。しかし、この悲劇を眺めていた五歳の男児がいた。後に中原広元と呼ばれ、晩年に大江広元と名乗ることとなる少年である。後に源頼朝の頭脳となるこの少年は、成人してから後、涙を流したことがないという逸話を残している。もしかしたら、このときに感情を失ってしまったのかも知れない。感情を失った代わりに他を圧倒する知性を手に入れて。 

鳥羽院の時代 4.悪左府の時代

 話を源頼朝の産まれる前年である久安二(一一四六)年に戻すと、朝廷内に一つの問題が起こっていた。 左大臣源有仁の体調不良である。このとき左大臣源有仁四四歳。 当初は誰もが一時的な体調不良であると考えていた。いかに五〇歳で高齢者扱いされる時代であるとは言え、四四歳の人間を相手に加齢による寿命を考える人はいない。 律令には左大臣不在時の対処が定められている。左大臣不在時は右大臣が、右大臣も不在のときは大納言筆頭が左大臣の職務を代行する。内大臣に左大臣代行はできない。 久安二(一一四六)年時点で右大臣はいない。内大臣藤原頼長がいるが、前述の通り藤原頼長は内大臣であるため、藤原頼長に左大臣の代行は認められていない。ゆえに大納言筆頭が左大臣代行ということになるのだが、問題は、大納言が一人もいないということであった。権大納言ならいる。それも五人いる。権大納言は大納言よりも一段階下という位置づけであるが、与えられている権限は大納言に相当する。ゆえに、権大納言筆頭である藤原実行が左大臣代行を務めることは可能である。普通ならば。 忘れてはならないのは、このときの内大臣は、律令だけはやたら詳しく藤原頼長だという点である。律令にあることが全て正しく、律令の通りに現実のほうを変えれば全てうまくいくと考えている藤原頼長に対し、権大納言筆頭である藤原実行に左大臣の職務の代行が認められているという説明は通用しない。どんな論拠を展開しようと右大臣が空席であることが異常であり、永治元(一一四一)年に右大臣藤原宗忠が亡くなってから五年間という長きに渡って右大臣職が空席であることは許されざる怠慢であるという結論になる。 その上で藤原頼長はこのように主張することを忘れていない。自分を右大臣にすべきである、と。 実際、左大臣不在は国政を停滞させるに充分であった。久安二(一一四六)年三月一八日の京都大火でも、左大臣不在が原因で緊急召集をかけることができず、早期に対処していれば救えたはずの火災の被災者に対して手を差し伸べることができずにいたのである。

鳥羽院の時代 3.叛旗を翻す者

 鳥羽法皇と崇徳上皇からなる二頭体制は、藤原摂関家にとって痛手であった。 とは言え、鳥羽法皇は何一つ法令違反をしていないのである。法に精通している内大臣藤原頼長が黙っていたのも、鳥羽法皇に逆らうことを躊躇したからという側面もゼロではないが、それよりもっと大きな理由は鳥羽法皇に付け入る隙が無かったというところである。そこへ来て、藤原摂関家の内部分裂の今や誰の目にも明らかになっていた。内大臣藤原頼長と、兄の摂政藤原忠通との対立である。ここに出家した父の藤原忠実が加わると話はよりややこしくなる。 勢力を伸ばしていく院と、内部分裂している藤原摂関家という構図であったが、ここにきて、藤原摂関家には院に匹敵する力があることを日本中に広める出来事が起こった。それが前述した康治元(一一四二)年八月三日の興福寺の僧侶追放である。興福寺の僧侶を追放したことが力を示す出来事となったのではない。一人の人物の復活が力を示す出来事となったのである。興福寺に乗り込んで、一五名の僧侶を逮捕し、実際に陸奥へと追放した源為義が今も藤原摂関家の人物の一人として健在であることを示したのだ。 藤原道長の時代から藤原摂関家は清和源氏と密接につながっていて、いざとなれば清和源氏に武力を発動させることもできたのであるが、これが白河法皇院政で崩れていた。白河法皇に利用されていた源為義は、その後、鳥羽上皇に仕える貴重な軍事力となっていた。しかし、白河法皇亡き後、鳥羽上皇は源為義に対する処遇を誤り、源為義は再び藤原摂関家のもとに舞い戻っていたのである。源為義に対する公的地位は保延二(一一三六)年の左衛門少尉辞任でいったん途切れ、それ以後の源為義は藤原摂関家との私的な関係が続いていた。 院のもとから離れて藤原摂関家に仕える武士の一人に戻ったというのは、現在の感覚でいくと、国家公務員を辞して民間企業のサラリーマンになったようなものである。ただし、現在のサラリーマンと比べて大きな点が一つある。それは、待遇。藤原摂関家に仕える武士の一人であるとは言え、清和源氏の武士団のトップであり、サラリーマンで言うと断じて平社員ではない。藤原摂関家の持つ荘園の管理と警備だけでも重職だが、その代わり報酬は高かったのだ。どれだけ高かったのかは、源為義の長男である源義朝が、藤原摂関家の持つ所領のうちの三ヶ所を荘園として手に入れることができたと言えば理解いただけるであろう。民間企業のサラリーマンが、いかに功績を残したとは言え、三つの子会社の社長に就任できるであろうか? それも本人ではなく息子が。 もっとも、源義朝がそれだけの資産を手にできたのは理由がある。 源義朝は父の源為義の命令で関東地方に追放されていたのである。源義朝に何かしらの失態があって追放されていたのではない。源義朝の母が、亡き白河法皇の側近の娘であるという理由で追放されていたのだ。 

鳥羽院の時代 2.諍う若者たち

 さて、長承二(一一三三)年の三月頃から一つの記録が見えてくる。旱魃の記録である。とにかく雨が降らないのだ。もっともこの時点ではまだ慌てた様子はない。単に雨が降らずに作物に影響が出るかもしれないとはあるが、それだけである。この時代、雨が降らないとなれば雨乞いもするが、それすらない。 後の記録を知る者は、このときの旱魃が危機のスタートであることを知っている。だが、それを知らなければこのときの呑気な様子はむしろ正解とするしかない。言い伝えとしても「日照りに不作無し」というのはある。全く雨が降らないのではさすがに作付けに影響が出るが、日本国の河川はそう簡単に水量がゼロになるということは無い。河川の始まりである山はその多くが森林に覆われ、森林はその多くが地面に水をたたえている。足を踏み入れたことのある人は多いと思われるが、その中に、森に覆われた山の地面が乾いているなどというのを見たことがある人がどれだけいるであろうか? 山を覆う森はダムほどの貯水量は無いにしても天然のダムとして河川への水の供給源となり、日照りであっても山を覆う森からもたらされる水分が多少なりとも河川に水を供給する。田植えが始まろうかという時期の日照りは不穏なものではあるが、それで今年の作付け不良を考える人は少ない。地獄の始まりは後世の者が歴史の視点に立つことによってのみ知ることができるものであり、実際に地獄の始まりに立たされた者はその時期を迎えていることに気づかない。 地獄の始まりであることを知らぬ人たちがワイドショー的に着目していたのは、一人の女性の入内であった。長承二(一一三三)年六月二九日、一人の女性が入内した。藤原忠実の娘である藤原勲子である。政界復帰を果たした藤原摂関家の有力者が娘が入内したのだから、これだけを見れば特におかしな話ではない。 ところが、藤原勲子の年齢と、藤原勲子が誰に入内したのかに視点を向けると異例な話になる。年齢はこのとき三九歳。そして、崇徳天皇ではなく鳥羽上皇への入内である。年齢も異例だか上皇への入内など前代未聞だ。 ただし、当時の人はこの入内を異例とは思っても、純粋に祝福すべき入内と考えていた。藤原勲子は三九歳という年齢まで声が掛からなかったわけではなく、運命に翻弄され続け、この年齢になるまで入内が許されずにきてしまった悲劇がこれで終わると誰もが考えたのだ。受け入れる鳥羽上皇も、これだけの年月を経て、それも天皇を辞して上皇となってようやく受け売れることが許されたのかという万感の思いであった。 藤原勲子はもともと、天仁元(一一〇八)年に当時の鳥羽天皇のもとに入内する予定であったのだが、この入内に対して白河法皇の出した交換条件に、父である藤原忠実が難色を示したことで白紙になったという経緯があったのだ。白河法皇の寵愛する祇園女御の養女である藤原璋子を藤原忠実の息子である藤原忠通に嫁がせることが藤原勲子を鳥羽天皇のもとに入内させることの交換条件であったのだが、藤原璋子が亡き藤原公実の子であることに藤原忠実が難色を示したのだ。白河法皇の寵愛する女性の養女なだけであれば藤原摂関家にとって何の問題も無かったであろうが、藤原公実の子となると藤原摂関家の中心が藤原道長の子孫の系統から藤原公実の系統へと移ってしまう可能性が出てくるのである。これは藤原摂関家の主導権争いにおいて許されざる話であった。 とは言え、藤原忠実は娘の入内そのものを諦めたわけではなかった。交換条件なしの入内は模索し続けていて、保安元(一一二〇)年一一月には、白河法皇が熊野詣で京都を離れている隙を狙って鳥羽天皇に入内させようとするところまではできた。実際、鳥羽天皇はこのとき、藤原勲子の正式な入内を公表している。ところが、これに白河法皇が激怒した。藤原勲子の入内を認めないどころか、関白藤原忠実の内覧停止命令まで出したのである。関白から内覧の権利を取り上げるというのは事実上の左遷命令だ。藤原忠実は運が尽きたと言って内覧停止命令に従い、藤原勲子の入内は白紙に戻った。 それから一三年を経て、藤原勲子はようやく鳥羽天皇の、いや、すでに退位して院政を敷いていた鳥羽上皇のもとに入内できたのである。鳥羽上皇にとってはようやく祖父白河法皇の呪縛から逃れることができたということか。 このときの藤原勲子への祝福なのか、この頃になると、旱魃の記録が消え、その代わりに祝福すべき雨の記録が増えてくる。何しろ、ただの雨ではなく霖雨(りんう)、すなわち恵みの雨とまで記しているのだ。霖雨(りんう)がなかなか終わらぬこと、それが水害を招き農地にダメージを与えることを、このときの人たちはまだ知らない。 鳥羽上皇は、それまでの藤原勲子に強要された不遇を一気に解消するかのように藤原勲子に特例を次々と与えていった。そもそも上皇に入内するという時点だけでも異例であり特例であるのだが、それですら問題にならぬほど、特例を積み重ねていったのである。 年が明けて長承三(一一三四)年三月二日、まずは女御宣下が与えられた。藤原勲子は天皇の妃ではなく上皇の妃である。上皇のもとに入内した女性が女御になるというのは前代未聞であったが、この後のことを考えれば、このときの前代未聞も儀礼みたいなものであった。 同年三月一九日には藤原勲子が皇后宮に冊立されたのである。これは、女御宣下をはるかに超える前代未聞の出来事であった。同日、藤原勲子は泰子と改名。 白河法皇の逆鱗に触れたために隠居することとなった藤原忠実が政界に復帰し、入内が許されなかった藤原勲子、いや、藤原泰子が皇后にまで上り詰めた。これで、当時の人は白河法皇の呪縛が終わりを迎えたことを悟った。 と同時に、新しい時代の萌芽も現れた。 藤原泰子の皇后冊立と同時に正二位権大納言で実弟でもある藤原頼長が皇后大夫兼任となり、姉のサポートをすることとなったのである。と書けば弟が姉のサポートをすることになったのかとだけ感じるが、実際にはそう単純では無い。いつかは藤原氏のトップの地位に立つことが決まっている藤原頼長を、兄のもとから姉のもとに移すことが主眼だったのである。 藤原泰子の入内から皇后立宮までの過程で穏やかならぬ心境に至ったのが関白藤原忠通である。と言っても、心境を穏やかならぬものとさせたのは藤原泰子ではなく藤原頼長の存在であった。より正確に言えば、父である藤原忠実が、自分ではなく弟を藤原氏のトップにするために藤原頼長に対して露骨な行動を見せたことであった。藤原忠通自身、自分の後を継ぐのが弟の藤原頼長であることは受け入れていたが、それはあくまでも自分の後継者としてであって、父の藤原忠実の威光も、姉の藤原勲子の威光も認められないと考えていた。しかし、今の構造は、自分がいてもいなくても構わない構造になってしまっている。ただでさえ関白でありながら内覧の権利を奪われているのがこのときの藤原忠通であったが、それでも関白にして藤氏長者であるとの自負は抱いていた。しかし、このままでは自分が全否定され、鳥羽上皇から藤原勲子を経由して藤原頼長のもとに藤氏長者の地位が流れていってしまうことは目に見えた。ただでさえ父の復帰で心中穏やかならぬ状態であるところでのこのニュースは、不穏な未来を実感させるに充分であった。

鳥羽院の時代 1.鳥羽院政開始

 社会科学は実験できるか? 結論から言うと、できない。 こうすればより良い社会、より良い法律、より良い経済、より良い政治を作り出せるかを試行錯誤することはあっても、その全ては現実の暮らしとなって人々の日常に降り注ぐ。どんなに実験のつもりであったとしても、実験そのものが日常を破壊したとき、実験は失敗であったと認めて元に戻そうとしても、破壊された日常が勝手に元に戻ることはない。「こうなるはずだ」という理論を立てることは可能でも、「試してみたらこうなった」という証拠を用意することはできない。それが社会科学の宿命である。 しかし、実験に極めて近い例証を提示することは可能である。 一つは歴史。もう一つは人文地理。 過去にどのようなことが行われどのような結果となったかを示すのが歴史であり、他の国や他の地域で、現在進行形でどのようことが行われ、どのような結果となっているかを示すのが人文地理である。結果を生み出すのに要した条件や環境が異なるので必ずしも完全に再現するわけではないが、それでも、より良い暮らしのために考えたアイデアがどのような結果をもたらすのかの例証として歴史も人文地理も役に立つ。 たとえば、三四六年もの長きに渡って死刑執行をしなければどういう社会になるかという実験はできない。仮に実験として始めることができたとしても、答えが出るのは三四六年後になる。その答えに基づいて改めて判断するとしても、そこには三四六年間に渡って積み重なった現実がある。これは実験とは言わない。だが、大同五(八一〇)年九月一一日から保元元(一一五六)年七月二八日の三四六年間にかけて死刑を実施しなかった歴史ならばここに示すことができる。 そして、なぜ死刑の無い時代が終わりを迎えたのかも示すことが可能となる。 本作では、白河法皇の亡くなった大治四(一一二九)年から、死刑の復活した保元元(一一五六)年までを記していくこととなる。本作に至るまでの記述は死刑の存在しない社会がどのような社会であったのかの記述である。本作で記すこととなるのは、死刑の存在しない歴史はいかにして終わりを迎えたか、である。死刑執行をしなければどういう社会になるかという、実験に極めて近い例証がここに記されることとなる。