平家起つ 6.二条天皇親政の終焉 平安京で崇徳上皇の崩御のニュースが公然と語られるようになった長寛二(一一六四)年九月、平家納経の一回目の奉納が行われた。 奉納先は厳島神社。 厳島神社といえば社殿と大鳥居を思い浮かべるが、平家納経が厳島神社に奉納された時点ではまだ現在にあるような社殿や大鳥居は存在していない。ただし、伝承による厳島神社の創建そのものは推古天皇の年代にまで遡り、確実に存在していたことを裏付ける史料に絞ったとしても弘仁二(八一一)年にはその存在が確認できている。 さて、厳島神社に平家納経があること、すなわち、お経を厳島神社に奉納したことを不可解に思う人もいるかもしれない。神社なのになぜ平家はなぜ仏教の経典を奉納したのか、と。確かに当時は神仏融合の時代で...2021.06.01 10:50平安時代叢書
平家起つ 5.平家の経済政策 応保元(一一六一)年九月一三日、大規模な人事異動が発表された。 まず、藤原公能の死去により空席となっていた右大臣に、内大臣藤原基房が昇格。これにより、藤原基房が一上(いちのかみ)としての職務を遂行できるようになった。 空席となった内大臣に大納言筆頭であった藤原宗能が昇格。年齢から一上としての職務の遂行が懸念されていた藤原宗能であるが、左大臣が一九歳、右大臣が一八歳という異例な体制、特に経験不足への危惧に対する答えとして、経験実績ともに申し分ない内大臣が控えるというのは望ましい形式である。また、七八歳と言う高齢を考えたときも、大納言筆頭であるより内大臣であるほうが少ない負担ですむ。 藤原宗能が抜けた大納言職には、三八歳の権大納言藤原...2021.06.01 10:40平安時代叢書
平家起つ 4.平治の乱の戦後処理と二条天皇親政 藤原経宗と藤原惟方の二人の貴族は逮捕されたが、裁判はまだ始まっていない。 その一方で別の判決が下った。 信西の息子達に対する追放命令が白紙撤回されたのである。 信西の息子達を追放刑に処したのは藤原信頼であるが、その命令は藤原信頼の死後も有効であり続けていた。信西の息子達は追放解除となったのではなく、追放命令そのものが間違っていたと宣告され、ただちに帰京するよう命じられた。 藤原信頼の下した追放命令が平治元(一一五九)年一二月二七日にも解除されなかったのは藤原経宗と藤原惟方の二人が藤原信頼の死後も命令を遂行していたからであるとし、藤原経宗と藤原惟方の二人が逮捕された以上、藤原信頼の命令は無効となるというロジックである。 後白河上皇の...2021.06.01 10:30平安時代叢書
平家起つ 3.平治の乱 藤原信頼は三条烏丸殿の外から後白河上皇に向けて宣告した。平治物語では、これまで朝廷に仕えてきたのに信西の讒言で誅せられようとしているので東国へ逃れることにすると馬上から宣告したという。しかし、三条烏丸殿の外におよそ五〇〇騎の軍勢がいてこちらを向いているのである。これは逃れようとする者のとる行動ではない。おまけに、三条烏丸殿の人達は門の外から早く火を掛けるよう促す声まで聞こえてきているのだから、これで冷静でいられる人がいたらそのほうがおかしい。 後白河上皇のもとに権中納言源師仲が駆け寄り、ここは危険なので御車に乗って避難するべきと主張し、後白河上皇と上西門院統子内親王が源師仲の言葉に促されて御車に乗りこんだ。御車に乗った後白河上皇と...2021.06.01 10:20平安時代叢書
平家起つ 2.平治の乱前夜 保元三(一一五八)年二月三日、鳥羽法皇の第二皇女である統子内親王が後白河天皇の准母として皇后に立后された。准母とは、天皇の実の母ではない女性が天皇の母に擬されること、また、そうした女性への称号である。実母である待賢門院藤原璋子を一三年前に亡くしている後白河天皇が誰かを准母に指名することは不合理なことでは無かったが、准母として選ばれた統子内親王の素性を考えると異例であった。統子内親王は後白河天皇の一歳上の実姉なのである。 すでに述べてきたように、この時点で近衛天皇中宮の藤原呈子が皇后であり、近衛天皇皇后藤原多子の姉である藤原忻子が後白河天皇の中宮に、近衛天皇妃の藤原多子が皇太后である。ここに統子内親王が入り込むため、皇后藤原呈子が皇...2021.06.01 10:10平安時代叢書
平家起つ 1.信西政権 「平家ニ非ズンバ人ニ非ズ」 現在でも、平清盛率いる平家が、武士としての権勢を拡大し、その勢いがいかに強大なものであったのかを記すときに使われる言葉である。 ただ、この言葉は二重三重の思い込みが重なっている言葉である。 まず、この言葉を話したのは平清盛ではない。この言葉を語ったとされているのは平清盛の義理の弟である平時忠であり、語ったのは承安四(一一七四)年一月一一日に権中納言平時忠が従二位に昇叙したときのこととされている。 次に、平時忠は武士ではない、平家の一員ではあるが、平時忠が平家の一員となったのは姉が平清盛と結婚したからであり、それまでは、桓武平氏ではあっても伊勢平氏ではなく、末端の貴族であった。 三番目に、この言葉は平家物...2021.06.01 10:00平安時代叢書
鳥羽院の時代 5.保元の乱 災害で記録が失われることは歴史上に何度も登場する。アレクサンドリアの大図書館しかり、この時代から三七年後の平泉しかり。また、応仁の乱で失われた歴史資料はあまりにも多く、現在は一部しか残っていない、あるいは書名しか残っていない資料は応仁の乱での消失が理由であるというのも珍しくない。 そこまでの規模ではなくとも、記録が失われる事態となったケースとして仁平三(一一五三)年四月一五日の事例が挙げられる。未刻というから現在の時制にすると昼の二時前後、五条坊門南から鳥丸東にかけてのエリアから出火し、大規模な火災へと発展した。このときの火災により、大江家で代々保存していた図書およそ数万が灰に消えたという。 数万の図書というのは誇張表現であろうが...2020.04.01 07:00平安時代叢書
鳥羽院の時代 4.悪左府の時代 話を源頼朝の産まれる前年である久安二(一一四六)年に戻すと、朝廷内に一つの問題が起こっていた。 左大臣源有仁の体調不良である。このとき左大臣源有仁四四歳。 当初は誰もが一時的な体調不良であると考えていた。いかに五〇歳で高齢者扱いされる時代であるとは言え、四四歳の人間を相手に加齢による寿命を考える人はいない。 律令には左大臣不在時の対処が定められている。左大臣不在時は右大臣が、右大臣も不在のときは大納言筆頭が左大臣の職務を代行する。内大臣に左大臣代行はできない。 久安二(一一四六)年時点で右大臣はいない。内大臣藤原頼長がいるが、前述の通り藤原頼長は内大臣であるため、藤原頼長に左大臣の代行は認められていない。ゆえに大納言筆頭が左大臣代...2020.04.01 06:00平安時代叢書
鳥羽院の時代 3.叛旗を翻す者 鳥羽法皇と崇徳上皇からなる二頭体制は、藤原摂関家にとって痛手であった。 とは言え、鳥羽法皇は何一つ法令違反をしていないのである。法に精通している内大臣藤原頼長が黙っていたのも、鳥羽法皇に逆らうことを躊躇したからという側面もゼロではないが、それよりもっと大きな理由は鳥羽法皇に付け入る隙が無かったというところである。そこへ来て、藤原摂関家の内部分裂の今や誰の目にも明らかになっていた。内大臣藤原頼長と、兄の摂政藤原忠通との対立である。ここに出家した父の藤原忠実が加わると話はよりややこしくなる。 勢力を伸ばしていく院と、内部分裂している藤原摂関家という構図であったが、ここにきて、藤原摂関家には院に匹敵する力があることを日本中に広める出来事...2020.04.01 05:00平安時代叢書
鳥羽院の時代 2.諍う若者たち さて、長承二(一一三三)年の三月頃から一つの記録が見えてくる。旱魃の記録である。とにかく雨が降らないのだ。もっともこの時点ではまだ慌てた様子はない。単に雨が降らずに作物に影響が出るかもしれないとはあるが、それだけである。この時代、雨が降らないとなれば雨乞いもするが、それすらない。 後の記録を知る者は、このときの旱魃が危機のスタートであることを知っている。だが、それを知らなければこのときの呑気な様子はむしろ正解とするしかない。言い伝えとしても「日照りに不作無し」というのはある。全く雨が降らないのではさすがに作付けに影響が出るが、日本国の河川はそう簡単に水量がゼロになるということは無い。河川の始まりである山はその多くが森林に覆われ、森...2020.04.01 04:00平安時代叢書
鳥羽院の時代 1.鳥羽院政開始 社会科学は実験できるか? 結論から言うと、できない。 こうすればより良い社会、より良い法律、より良い経済、より良い政治を作り出せるかを試行錯誤することはあっても、その全ては現実の暮らしとなって人々の日常に降り注ぐ。どんなに実験のつもりであったとしても、実験そのものが日常を破壊したとき、実験は失敗であったと認めて元に戻そうとしても、破壊された日常が勝手に元に戻ることはない。「こうなるはずだ」という理論を立てることは可能でも、「試してみたらこうなった」という証拠を用意することはできない。それが社会科学の宿命である。 しかし、実験に極めて近い例証を提示することは可能である。 一つは歴史。もう一つは人文地理。 過去にどのようなことが行われ...2020.04.01 03:00平安時代叢書
天下三不如意 7.白河院政 この時代の日本人は白河法皇が圧倒的権力者として君臨していること、藤原忠実の後を継いだ関白藤原忠通は前任者よりも白河法皇の言いなりになる関白であること、議政官は白河法皇の命令を法にするための儀式の存在になっていることを自覚していた。 鴨川の東に生まれた白河の大邸宅とその奥にそびえる九重塔は白河法皇の勢力を示すものであり、法制化を求める陳情も内裏ではなく白河に向かっている。内裏で働くより白河で働くほうが役人としての成功であり、白河法皇にいかに近づくかが貴族としての成功である。2019.03.29 16:54平安時代叢書