徳薙 零己

記事一覧(380)

末法之世 8.前九年の役

 スパイというものは、想像上の存在なわけでも、近現代だけの存在でもない。どの時代にあっても、どの社会にあっても、スパイというのは存在する。安倍頼時が利用したのはスパイであった。 奥六郡に向けて軍勢を進めているタイミングで、朝廷軍に潜り込んだ反乱軍のスパイが、平永衡が反乱軍側に寝返る可能性があるという情報を流したのである。そして、この情報を源頼義が信じてしまった。それだけではなく、平永衡が殺されてしまった。 源頼義はこれで、裏切り者はいなくなり、安心して戦えると考えた。 だが、平永衡が殺されたことは藤原経清を一つの決断をさせるに充分であった。八〇〇名の軍勢を率いて朝廷軍を脱出し、反乱軍側に加わったのである。その上、平永衡の所領に平永衡が殺害されたことを告げ、自らの所領とともに朝廷軍への補給を拒絶するよう指示したのである。 安倍頼時にとっては、考えられる最高の成果を収めたこととなる。手強い武人になると想定されたの二人のうち、平永衡は亡くなり、藤原経清は軍勢を率いて自らの軍勢に加わった。その上、平永衡と藤原経清の所領が反乱軍側に立ち、朝廷軍への補給拒絶を宣言したのである。これは朝廷軍を挟み撃ちにすると同時に、大軍であるがゆえに兵糧も大量に必要とする朝廷軍が補給できなくなることを意味したからである。

末法之世 6.後冷泉天皇

 後冷泉天皇が断固譲らぬこととして主張したのは、弟である尊仁親王を皇太子に就けることである。 この時点でまだ子がいない後冷泉天皇である。皇位継承権の筆頭として弟が選ばれるのはおかしな話ではない。この時点でまだ一二歳であるというのは不安要素ではあるが、前例のないことではない。そこまでは何に問題もないのである。 問題となるのは、尊仁親王の母が藤原氏でないということ。後冷泉天皇に何かあったとき、即位するのは尊仁親王である。そして、まだ元服していない以上、摂政が置かれることとなる。 繰り返すが、摂政というのは、天皇がまだ幼い、あるいは天皇が病気に倒れたなどの理由で、天皇の近親者が天皇の職務を代行する仕組みのことであり、藤原氏だから摂政になれていたのではなく、天皇の近親者ゆえに摂政になれていたのだ。 尊仁親王が天皇になったとしたら、摂政となるのは皇族の誰かであり、藤原氏ではなくなってしまうのだ。 これは、皇室との婚姻を前提とした摂関政治の終焉を意味するのである。 藤原頼通は、尊仁親王を皇太子とすることに可能な限り抵抗したが、どうあがいても尊仁親王以外に皇太子になる資格を持つ皇族はいないという現実を覆すことはできなかった。ただ、そこですんなりと尊仁親王を皇太子とするわけにはいかない。それは二〇〇年続いた摂関政治の終焉に直結する。藤原頼通は何とかして摂関政治を続ける方法を模索し、妥協点を探し出そうとしたのである。 一方、後冷泉天皇は摂関政治がどうなろうと知ったことではない。自分の身に何かあったときのことを考えても弟が皇太子になるのは何の不都合もない。ゆえに、摂関政治を存続させるための妥協点などには興味などない。ただし、藤原頼通を無視できたわけではなく、藤原頼通を繋ぎとめておくための妥協点は何としても見出す必要があった。 この時代の天皇に課せられた業務量は、一人の天皇でこなせる分量ではない。だから摂政や関白の出番が出てくるのだし、皇太子にも相応の役割が求められるのである。後冷泉天皇がいかに意欲を見せたところで、膨大な業務量を考えると業務をこなすことに汲々とし、自分の目指す政治を実現させる時間などどこにも見当たらないという現実がある。 しかも、弟以外に皇太子になれる人物が見当たらない以上、弟を皇太子とするしかないのだが、さすがに一二歳の少年に天皇としての国事行為の一部を肩代わりさせるなど荷が重すぎる。そのあたりの荷を軽くする存在として最も適切なのが、他ならぬ藤原頼通なのだ。 摂関政治を終わらせることは何とも思わなかった後冷泉天皇であるが、自らの政務を一部でも肩代わりできる存在の必要性は見出していた。その答えはこの時点で藤原頼通しかいなかったのである。 後冷泉天皇は摂関政治の継続など考えないが藤原頼通は必要としており、藤原頼通は何としても摂関政治を続けようとする。その妥協点を見出した結果が、関白藤原頼通の続投、そして、この時点では尊仁親王を皇太子とするが、藤原氏の女子を入内させ、その女子が後冷泉天皇の子を産んだら、そしてその子が男児なら、その男児を皇太子とするというのが妥協点であった。 これだけ見ると、藤原頼通にあまりにも有利である。後冷泉天皇が与えるばかりで藤原頼通は何も与えていないではないかと思える。ギブアンドテイクのギブだけでテイクがないのだ。 だが、後冷泉天皇には、ギブに見合ったテイクを、いや、ギブ以上のテイクを手にしていた。 そのテイクこそ、この時代の最大の社会問題となっていた荘園問題である。 荘園が社会問題であることは誰もが把握していた。しかし、荘園の所有者自身が他ならぬ貴族なのである。すなわち、法案を作る側なのだ。法案を作る者が、自らの資産を大きく減らす法案を作るであろうか? 後冷泉天皇は荘園問題の解決を目指したのだ。そのために、最大の荘園所有者である藤原頼通との間に妥協点を見出した。 後冷泉天皇の最終目標は、荘園の消滅である。律令で定められているように全ての土地が国のものとなり、全ての収穫が国への納税対象となる。年貢を納めるべき相手は荘園領主ではなく国であるというのが後冷泉天皇の考えであった。 ただし、それはあまりにも非現実的すぎた。何しろ、律令制により土地が全て国のものであった一八〇年間だけで飢饉が六回も発生し、飢饉でない年も生産性が著しく劣化していた一方、荘園制が始まってからの二〇〇年間は、生産性が大きく向上し、飢饉も二〇〇年間で一度、それも、藤原純友の乱に影響による一回という数まで減少したのである。 経済の視点で見るなら、律令制は社会主義であり、荘園制は資本主義である。資本主義による格差の拡大が社会問題であることは人類史上何度も現れた光景であるが、その格差解消の答えを社会主義に見出したとき、例外なく全て失敗している。後冷泉天皇がもし理想を実現させたなら、日本国は、正義と引き換えに、絶望の貧困へと落ちぶれてしまうのだ。 藤原頼通がそれを理解していなかったわけはない。荘園制に対する批判や非難が繰り広げられようと、荘園制は何としても維持しなければならないのである。貴族ばかりが儲かっていると言われようと、そのように非難する当の本人ですら、荘園制が始まる前より暮らしぶりも良くなっていることは否定できないのである。 藤原頼通は、父道長と比べるかどうしても見劣りしてしまうが、歴史上の執政者、すなわち、摂政、関白、太政大臣、征夷大将軍、鎌倉幕府の執権、そして明治時代以後の首相たち全員を採点して順番に並べたら、平均以上に位置するだけの結果を残してきた政治家でもある。しかも、およそ四〇年に渡って政界に身を置いてきた人間である。このような人間は、現実離れした理想に基づく法案を、一見すると実現させているように見えながら、実際にはかなりの骨抜きの、つまり、現実に与えるダメージを限界まで削った法案とさせるように変えることぐらい簡単にできる話である。 貴族が荘園で儲けている。それは事実だ。 荘園が制御されると貴族の収入が減る。それも事実だ。 だが、貴族の収入が減るという理由だけで、荘園の消滅に反対するわけではない。それは国民生活に直結する話なのである。国民生活の悪化に比べれば、自らが悪評を受けることなど些事とするしかないのが政治家というものである。

末法之世 5.後朱雀天皇

 後朱雀天皇は、そして藤原頼通は、人事が詰まってしまっていることが問題の一つであることを理解してはいた。そして、人事が詰まっているのだから、詰まりを取れば、根本的解決とまではいかなくとも問題を多少なりとも解決するという考えはあった。 人事の詰まりは何が問題なのか? 自分に相応しい地位ではないと考える者が増大することが問題なのである。 能力のある者の増加は平和な時代では当然のことである。かつては一〇〇人に一人しかその能力を持っていなかったのに、今では一〇人に一人という割合にまで、さらには二人に一人という割合まで増加することは珍しくない。二〇世紀から今世紀にかけての日本を見ても、かつて、大卒者は一〇〇人に一人であったが、今では二人に一人とまでなっている。それでいて、現在の大卒者と、一〇〇人に一人の割合であった頃の大卒者とで、能力に違いはない。 だが、一〇〇人に一人であるために手にできる社会的地位を、一〇〇人に五〇人が手にできるかとなると、それは別問題である。社会的地位は割合の問題であって能力の問題ではないのである。一〇〇人に一人であるからこそ価値を持つ社会的地位を、一〇〇人に五〇人とすることはできない。できたとすればそれは社会的地位の価値を失う。 能力ではなく割合の問題になってしまっているために人事が詰まってしまっているのである。 長久四(一〇四三)年九月九日、文章生の大江佐国、惟宗孝言、源時綱、そして、文章生ではなかったが大学生ではあった藤原国綱の計四名を弓場殿に招き、試験をさせた。結果は合格。これにより、この四人は晴れて貴族入りを果たすこととなった。人事の詰まりを解消するというアピールであると同時に、問題の多少なりの解決のためである。 文章生とは、大学の中でもトップエリートコースとされていた紀伝道の学生のことであり、定員は一〇名。さらに、定員待ちである擬文章生が一〇名いて、この二〇名だけが大学で紀伝道を学べる。紀伝道というのは文学と歴史を学ぶ学部であり、理論上は、法律を学ぶ明法道、哲学を学ぶ明経道、数学を学ぶ算道と並列する存在であるが、大学の他の学部と違って卒業時につける位階の高さ、さらに一気に貴族入りできる方略試の受験資格が紀伝道にしか存在しないなど、特別な存在であった。 このような特別な地位にある者は、得てしてエリート意識の固まりとなる。エリート意識自体は悪いものではない。人の上に立つ者は、多かれ少なかれ、自分がエリートである認識しているものである。その意識は人の上に立つための必須要素とも言える。しかし、そのような意識を持ち合わせている者が一人残らず人の上に立つに相応しい存在であるかとなると、それは別問題になる。 かつては、合格するどころか挑むことすら困難であった試験に四人が合格したのである。能力だけを考えれば能力に相応しい試験結果であると言える。だが、挑むことすら困難であった時代の合格者が手にした社会的地位を、四人の合格者が揃って手にできるかとなると、それは別問題である。割合を考えて試験のレベルを上げるか、そもそも試験を開催しないかというのであれば、相対評価としての社会的地位を維持でき、秩序も保てる。しかし、試験を規定通りに実施すると、相対評価としての社会的地位の価値が減る。藤原道長はそのあたりをわかっていた。わかっていたから、自分の地位を二位に留めるという荒療治で、人事のインフレを防いで社会的地位の暴落を防ぎ秩序を維持していた。あるいは、力づくで人事を抑えることのできた藤原道長だからできた芸当とも言える。 エリート意識をこじらせ、分相応の社会的地位に留まっている現状に対し「君はエリートではないから、相応の地位に留まっているのだ」などと言っても聞く耳を持たない。なぜなら、エリートであるべき自分がエリートになれずにいるのは社会が悪いからだと考えているからで、変えるべきは自分ではなく社会なのである。藤原道長は、社会が悪いという声があろうとそれを許しただけでなく、真に能力のある者はどんなに自分に批判的な言動を繰り返していようと能力に見合った地位と役職を用意した。人事のインフレは抑えたが、正当な人事そのものは維持していたのである。ゆえに、道長政権下で社会が悪いという声をあげることはすなわち、能力の低さを意味するのである。それがわかっているから、エリート意識をこじらせた者は恐ろしい存在ではなくなったいたのである。 ところが、藤原頼通政権の誕生後、政権が能力に見合った地位と役職を用意できないという見られ方をするようになってしまった。正当な人事が行なわれなくなった以上、社会に対する不満は理のない話ではなくなるのである。 こういう者は、実に簡単に反体制運動に加わる。 反体制運動に参加する者は、現在の体制が腐りきっているから打倒しようという題目を掲げてはいるが、実際は、エリートでも何でもないのにエリート気取りをし、行動力もなければ知性もないから社会の全体図を描けず、それでいて分相応の社会的地位に満足していないから現状の体制に対し批判的になっているだけの愚者である。愚者でないのに反体制運動に参加するのは、現在の体制が腐りきっている体制のときだけ。違いをわかりやすく言うと、体制への支持と反体制とで、反体制の方が圧倒的に高い支持率をあげているときというのは、体制が腐っている。そうでないときの反体制運動は、ただ単に迷惑な騒音でしかない。 その上、エリート気取りで働かずにいる者というのは、それなりに資産を持っている。つまり、働かなくても生活できるだけの余裕がある。歴史上、貧しい人を救い出すことを題目に掲げて来た集団や政党の幹部が、豪邸に住み、莫大な資産を蓄えているなんてのは珍しくない。このような者が反体制運動に加わると厄介なことこの上ない。自己賛美の運動のために暇人を雇えるのだ。 実際に体制が腐りきっているから打倒しようという動きではないのだが、暇人をかき集めて集団を作り上げている以上、迷惑この上ない。いや、迷惑だというならならまだマシで、下手すると命に関わる話である。反体制を掲げる者は、いとも簡単にテロへと転身する。しかも、自分がテロリストとは認めない。 反体制運動を抑え、テロを未然に防ぐために、エリート意識の固まりとなっている人間を体制側に飲み込ませてしまうことは、対策としてよく見られる話である。 例えば、自民党なんてのはこのような対策を得意とする政党で、どう考えても自由主義でもなければ民主主義でもない思想、それこそ、それらの対立概念でしかない社会主義思想にどっぷり浸かっている者でさえ、平然と入党させているし、能力次第では大臣にまでさせている。 ヨーロッパに目を向けても、カトリックというのは典型的な飲み込み組織で、キリスト教の解釈の違いでどう考えても法王庁から異端の烙印を突きつけられそうな人を、カトリックという組織の中に取り込んで、司教へと、さらには枢機卿へとさせてきた歴史がある。 アメリカの二大政党制も、共和党も民主党も、共和党が保守で民主党がリベラルとされるが、民主党よりも強く社会福祉を主張する共和党の議員がいるかと思えば、福祉削減を訴える民主党の議員がいたりもする。あの国は飲み込み組織が二つあると言ってもいい。 このような飲み込み組織は、組織内に異なる意見の幅を持たせ広く世論を呼び込むことができるというメリットの他に、反体制運動を抑えてテロを未然に防ぐというメリットも持っている。むしろ、後者の方が大きなメリットであるとしてもいい。 理想を高く掲げ、飲み込まれないようにする者と、掲げた理想を低く下ろして飲み込まれた者と、どちらが清廉潔白に見えるかと言えば、前者である。しかし、どちらがより強く社会のことを考えているかと言えば、犯罪に走らないという点で後者だとするしかない。エリート意識をこじらせて体制に飲み込まれないのは、無能ゆえに飲み込まれない頑固者か、頑固ゆえに飲み込まれなかった無能者のどちらか、あるいはその両方であるのだから。 様々な考えの者を体制に飲み込ませる仕組みがあり、その仕組みを発動させれば、下手すると反体制に転んでテロに走りかねないエリート気取りを飲み込ませることができる、つまり、犯罪を未然に防ぐことができるというのであれば、仕組みを発動させることは何らおかしなことではない。 話を平安時代に戻すと、エリート気取りをこじらせた者を貴族の一員に入れてしまえば、とりあえずはどうにかなった。貴族というエリートの地位を与えておいて、あとは閑職にでも回してしまえば、平和にはなるのである。ただし、代償は大きかった。藤原頼通の力のなさに起因するのだが、貴族が増えすぎてしまったのだ。

末法之世 4.末法思想の登場

 長久の荘園停止令が発令されてから一ヶ月半ほどが経過した長暦四(一〇四〇)年七月二六日、近畿地方一体に暴風雨が吹き荒れた。平安京の被災状況が次々と朝廷に告げられ、ひと段落ついたと思ったら今度は伊勢からの被災の報告である。何しろ伊勢神宮の外宮が倒壊したというのだから穏やかではない。 この暴風雨の被災から立ち直りつつあった九月八日には京都で大規模な地震が起こった。 そして、その二日後の九月一〇日には、里内裏としていた故藤原道長の邸宅である土御門殿が火災に遭い、三種の神器の一つである八咫鏡(やたのかがみ)もその被災に巻き込まれた。もっとも、八咫鏡の本体は伊勢神宮に安置されており、京都にあるのはその形代(かたしろ)、つまりレプリカである上に、寛弘二(一〇〇五)年一一月一五日の内裏の火災でその形代も燃えて灰になっており、桶代(灰を納めている箱)があるだけである。 内裏が焼け落ちたために土御門殿に避難したのに、その土御門殿も被災した。そのため、後朱雀天皇は亡き藤原惟憲邸に移り住んだ。亡き藤原惟憲は、後朱雀天皇が皇太子であった頃の春宮亮であり、亡き藤原惟憲の邸宅が土御門殿の西隣であるから移動も最短距離で済み、持ち主が不在であり、それでいて里内裏として充分な機能を持った邸宅であったからである。 ただ一つを除いて条件としては最高であった。 それは、狭いこと。何しろ土御門殿の半分の大きさしかないのである。 そもそも貴族の邸宅の大きさは決まっている。皇室に嫁いだ女性が余生を過ごすための邸宅であれば貴族の邸宅の倍の広さ、皇族のための邸宅であれば四倍の広さまで認められるが、一貴族でしかなかった藤原惟憲の邸宅は貴族の邸宅の大きさに留まるしかなかったのである。 藤原道長が土御門殿に住めたのも、実質上はどうあれ、名目上は藤原彰子の邸宅だからであり、藤原道長自身は娘の住まいに身を寄せる父親というスタンスであり続けたのである。 皇室に嫁いだ女性のための邸宅であるから土御門殿は内裏になりうるだけの設備を兼ね揃えていた。藤原惟憲がいかに裕福であったとしても、いかに費用をかけて調度品を揃えていたとしても、皇族ではないという一点がある以上、その広さに制限がかかることはやむを得ないことでもあった。 内裏が燃え、里内裏たる土御門殿も燃え、後朱雀天皇が藤原惟憲の邸宅に避難するという異例事態にさらに輪をかけたのがおよそ二ヶ月後のことである。 長暦四(一〇四〇)年一一月一日の夜、京都に巨大な地震が起こった。 揺れが収まった後で起こったのは大規模火災である。翌一一月二日は京都市中のいたるところで火災が起こった。 関東大震災にしろ、阪神淡路大震災にしろ、大規模な震災は火災とセットになっている。だが、このとき京都市中に起こっていたのは自然発火ではなく放火であった。 朝廷はただちに検非違使に不眠不休の警護を命じた。検非違使たちは放火犯を次々と逮捕していった。しかし、それで根元的な問題を解決することには繋がらなかった。 民度が低いと言ってしまえばそれまでだが、民度を高める努力を朝廷がしていたのかと言われればその答えはNOである。 民度を高めるには、教育水準と生活水準の両方を引き上げなければならない。だが、その両方とも現在の日本と比べられるものではない。 平安時代の教育水準は思っているほど低くは無い。もっとも、現在のように中等教育が義務教育であり、ほぼ全員が高等教育を終え、半分が大学を出るという時代に比べると低いとするしか無い。裕福な家庭に生まれたか、あるいは寺院に入った者でなければ教育の機会は無かったと言うしかないが、それでも教育の機会を手にできた者は意外と多かった。 ただし、教育に対するインセンティヴは乏しい。少なくとも律令制の頃は教育の結果次第で自身の出世が期待できたし、出世に伴った豊かな暮らしも期待できたが、律令制が崩壊したことで教育と出世とを繋げるのが難しくなった。 かといって、豊かになる手段が失われたわけでは無い。 律令制が機能していた頃は、誰もが等しく貧しく、教育を受けて官界に入ることのできるごく一部の恵まれた人だけが豊かになれた。その一部の人になる努力をすることだけが豊かになる道であり、それ以外の方法でいくら努力しても貧しいままであった。だが、律令制が機能しなくなったことで教育が必ずしも豊かになる道ではなくなったと同時に、豊かになる方法が無限に生まれるようになったのだ。 誰もが等しく貧しければ格差問題は起こらない。だが、豊かになるチャンスが生まれると格差が起こる。豊かさは格差を伴い、平等は貧しさを伴う。 同じ無位無官の一般庶民であっても、一方はその日の暮らしもおぼつかない者、もう一方は貴族を思わせる暮らしぶりをする者、そうした二者が平安京という狭い空間の中で同居するようになったのだ。どうしてあいつが俺よりいい暮らしをしているんだという鬱屈した思いを押し留めるのが民度というものだが、その民度が低い場合、ちょっとしたきっかけで爆発する。 自然災害というのはきっかけとなるのに充分な存在である。 これだけ自然災害が続くと、何かしらの良くない原因があるのではないかと考える。ましてや、科学水準が現在とは比べ物にならない平安時代、良くない何かしらを除去するのは、超自然的な存在に頼るしかなかった。 まず、長暦四(一〇四〇)年一一月一〇日に長久へと改元した。いや、ただの改元ではない。「長暦」という元号がこの世にはなかったのだと示すかのように、長暦四年の記録がことごとく長久元年へと書き換えられた。この年に発令された荘園停止令が「長久の荘園停止令」と呼ばれるようになったのも、長暦という元号を捨て去りたいという思いがあったからである。 また、後朱雀天皇はこの頃、頻繁に神社仏閣に足を運んでいる。これはもっともわかりやすい超自然的なものへの頼み込みである。もっとも、その足取りは平安京の周辺にとどまっており、平安京の外へ泊まり込みの行幸をしているわけではない。 ただし、平安京を離れて一般庶民も参詣するような神社や寺院に足を運ぶことに違いはなく、内裏の奥に鎮座して一般庶民とかけ離れた暮らしをしているというイメージからは離れた瞬間でもある。 その一瞬を狙っての事件が起こったのが長久元(一〇四〇)年一二月二五日のこと。この日、後朱雀天皇は平安京北部にある平野社に行幸したのだが、その帰路、和泉国の百姓より直訴を受けたのである。 直訴というのは、現在の自分達の抱えている問題をかなりの高権力者に直接訴え、その権力者の力で自らの訴えを実現させようとするものである。 このときの直訴の内容はわからない。言えることは、天皇に直接訴えを届けようと考える者が出てくる時代になったということである。そこまで追い詰められた者が出てきたということもあるだろうが、そうして自らの訴えを広めようと考える者も出てきたということである。