德薙零己

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剣の形代 5.源頼家から源実朝へ

 源頼家の発案した指令は各地の御家人に波紋を投げかけた。  これから土地を貰える可能性が出てきた武士はいい。問題は既に土地を持っている武士だ。  農地改革には成功例と失敗例がある。  戦後日本の農地改革、それを真似した韓国の農地改革は成功例である。簡単に記すと地主の持つ農地を国が安い値段で買い、それまで小作農であった人に農地を渡すという仕組みである。多くの地主が資産を失った一方で、多くの小作農が小作農ではなくなった。  失敗例は共産主義諸国における集団農場である。農地を没収してこれまで小作農であった人に土地を渡すという点では成功例と同じであるが、土地の所有者は個人ではなく国である。  成功例と失敗例の違いを突き詰めると、農地没収前と同じか否かという点である。  成功例の場合、今まで耕していた土地を今まで通りに耕すことができる。それでいて、収穫を小作料として地主に納める必要が無くなったため手元に残る収穫が劇的に増える。今までは地主から土地を借りて小作料を払わねばならなかったし、小作料を納めるのに不満を訴えたなら、土地の継続利用の契約が打ち切られ、次年度からの生活が成り立たなくなっていた。何しろ小作料を払い終えた残りを手元に残してそれで生活してきたのだ。それが、農地改革で一変した。土地は耕作者のもので、収穫も耕作者のもの。努力すればするほど手元に残る収穫は増え、収穫を売って手にする金銭も増える。努力せず今までと同じ暮らしをしているのであっても小作料を払わなくて良くなるのに、今後は努力すればするほど結果が返ってくるのだから、これで生産性が上がらないとしたらその方がおかしい。

剣の形代 4.二代将軍源頼家

 源頼朝の後継者は源頼家と決まっている。ただし、それは源頼朝が五三歳という若さでこの世から退場することを前提になどしていない。  源頼朝亡き後の鎌倉幕府をどのようにすべきかという点で鎌倉は統一見解を得ることができなかった。鎌倉幕府という仕組みそのものが源頼朝のもとに集った御家人達の組織であり、源頼朝の政治家としての能力に寄って立つところがあまりにも大きすぎたのである。  また、源頼朝が正二位の位階を持つ上級貴族であるという点も大きかった。源頼朝という卓越した政治家が、朝廷に連なる権威を鎌倉の地で発揮することではじめて鎌倉幕府が成立していたのであり、建久一〇(一一九九)年時点で既に源頼家が仮に父を超える政治家としての能力を有していたとしても、父と違って正五位下という位階的にギリギリ貴族の一員としてカウントされるというレベルの源頼家には、父の振るってきたような能力を発揮する機会すら存在しない。  何度も繰り返しているが、吾妻鏡は建久六(一一九五)年の記事を最後に三年間の欠落があり、次に記録が登場するのは建久一〇(一一九九)年である。ただ、ここで注意すべきことがある。建久一〇(一一九九)年になればたしかに吾妻鏡の記事も復活するのだが、建久一〇(一一九九)年になってすぐに復活するのではなく復活するのは建久一〇(一一九九)年二月六日になってから、すなわち、源頼朝の死を記していなければならない建久一〇(一一九九)年一月の記事が存在しないのである。  そこで、タイムラグは存在するが鎌倉から離れた京都にある記録を追いかけることとなる。  京都における最初の記録は建久一〇(一一九九)年一月一五日のことであるが、この頃はまだ正式な情報ではない。源頼朝が出家したらしい、源頼朝が亡くなったらしいという噂である。  正式な連絡が京都に届いたのは一月一七日のことであり、鎌倉からの飛脚によって源頼朝の出家が伝わったのである。このときはまだ源頼朝の死が伝わっていない。  源頼朝の死が京都に届いたのは一月二〇日のことであり、一月一三日に源頼朝が亡くなったというのがその内容だ。ただし、源頼朝の死の知らせについて藤原定家はまたも難癖を付けている。一月二〇日は除目の日であり、まさにこの日の除目で土御門通親が右近衛大将、源頼家が左近衛中将に就任することが発表になったのである。形骸化しているとは言え、武官としての組織図で言えば権大納言土御門通親が武官の序列第二位、源頼家が武官の序列第三位となったことで、理論上、土御門通親は鎌倉幕府の持つ軍事力に対する指揮命令権を手に入れたこととなる。そのため、藤原定家は源頼朝の死を隠蔽した上で自身を右近衛大将とさせ、さらに源頼朝の後継者であることが既に喧伝されている源頼家を自分のすぐ下である左近衛中将としたとして批難を加えている。  こうした難癖は藤原定家のいつものことであるが、この難癖は無視するべき話だ。

剣の形代 3.源頼朝死す

 後鳥羽天皇はもう幼帝ではなかった。  関白はいるものの摂政を必要としない元服済の天皇であり、政治的意志を持った一個人として天皇親政を、そして、院政復活を狙うまでになっていたのだ。  後鳥羽天皇の目指すべき政治体制は、実体験しているわけではないが知識としては問題なかった。ベストは白河院政、次点で鳥羽院政、妥協して後白河院政だ。  後白河院政はその大部分が平家政権と重なっており、平家政権と重なっていない部分は木曾義仲と鎌倉幕府の強い影響下だ。  鳥羽院政はそれなりに強固なものがあったが藤原頼長をはじめとする藤原摂関家の勢力が白河院政と比べて強く、また、武家の台頭も目の当たりにした。  目指すとすれば白河院政だ。白河法皇は時代の最高権力者として国家の前権力を握り、それまで二〇〇年間に亘って日本国に君臨してきた藤原摂関政治を完全に屈服させることに成功した。  後鳥羽天皇が目指したのは白河法皇であり白河院政であった。白河法皇のように藤原摂関家を屈服させ、自らの意思で国政を司ることを考えたのだ。それまで二〇〇年間続いてきた藤原摂関政治を白紙にしたりはしていない。しかし、藤原道長の頃とは比べものにならないレベルで弱体化したものとなり、全ての権力は白河法皇に集中した。しかも、白河法皇は責任を免除されていた。白河法皇は、父として、祖父として、曾祖父としてその時代の天皇や貴族達に感想を述べているに過ぎない。天皇を辞した一個人が、さらに言えば僧籍に入った一僧侶が政治に対する感想を述べているに過ぎず、どういうわけか、その時代の政治が一僧侶の感想と同じ選択をしているということになっている。これこそが後鳥羽天皇の理想とする政治体制であった。  ただし、一つだけ問題がある。  院政のためには帝位を退かねばならない。それも、帝位を継ぐのは実子でなければならない。  中宮任子が男児を産んだならばその男児に帝位を継がせるという選択肢を選べたし、その場合は九条兼実が新たな天皇の摂政になっても問題ない。もっと言えば、後鳥羽天皇が上皇となって院政をはじめる際に誰かが摂政になっていたほうがありがたい。何しろそのときに帝位に就いていると想定しているのは未だ元服を迎えていない後鳥羽天皇の男児なのだ。  九条兼実は自分の娘の産んだ子が女児であったことに落胆したというが、後鳥羽天皇も落胆はしていた。ただし、その落胆のほどは九条兼実ほどではない。中宮の産んだ子が女児であったとしても後鳥羽天皇は年齢的にまだまだ未来が期待できるし、そもそも中宮任子だけが妊娠していているのではない。土御門通親こと源通親の養女もまた後鳥羽天皇の子を妊娠しており、彼女の産んだ子が男児であるならその子に帝位を就かせることもできる。その場合、新帝の摂政は土御門通親ということになるが、後鳥羽天皇はそのようなことなど意に介していない。自分が上皇として院政を敷くためには自分の息子が天皇であることだけが重要であり、自分の息子が天皇としての政務を執り行うことができるならば誰が摂政になろうと構わないというのが後鳥羽天皇の姿勢である。九条兼実の娘が自分の男児を産んだならば九条兼実を摂政とさせる、すなわち藤原摂関家の当主が摂政になるという従来の藤原摂関政治の継承であるから、特にこれといった政務の断絶が起こらない。一方、土御門通親が摂政となった場合は政務の継承に失敗して政務の断絶となってしまう可能性もあるが、後鳥羽天皇が退位して院政を始めたときに貴族達が争っていようと知ったことではないし、それで貴族達の勢力が弱まって相対的に院の勢力が強まるならむしろ歓迎すべきところである。

剣の形代 2.源頼朝上洛

 日本国だけでなく世界史の流れを振り返ると、新しく誕生した政権はその多くが、これまでの政権に悪事を押しつけ、自分達の政権は庶民の暮らしを軽くするものだと訴えるために減税をする。ただし、減税することで国家財政が立ちゆかなくなって、それほど長い時間を要することなく元の税率に戻る、あるいは政権交代前を超える税率になってしまう。  それは鎌倉幕府も例外ではないが、源頼朝という人はただの政治家ではない。日本史上有数の政治家だ。  源頼朝も財政は理解しているし、その一方で庶民生活の窮乏も、その救済措置としての減税の必要性も理解している。  そこで源頼朝が選んだのは、増税しながら減税するという妙案である。  どういうことか?  鎌倉幕府という組織が誕生して強大な権力を鎌倉の地に創出したとはいえ、日本国から独立した新たな国家が誕生したわけではない。鎌倉幕府はあくまでも正二位という高い位階にある貴族である源頼朝の作り出した個人的な組織であり、他の貴族と比べて規模が桁違いに大きいとはいえ、組織体制そのものは他の貴族と大差ない。  そして、源頼朝はあくまでも朝廷に仕える一人の貴族であり、源頼朝はシビリアンコントロールを脱することのできる征夷大将軍という役職を帯びているために、朝廷から源頼朝に何かしらの命令を出したとしても源頼朝がその命令に従うとは限らない。  ただし、征夷大将軍源頼朝が朝廷からの命令に従わなくても違法ではないというだけで、本来あるべき姿としては、源頼朝はあくまでも朝廷に仕える一人の貴族であり、あるべき姿への回顧を試みる九条兼実の進める政治に対し、貴族としての源頼朝が従うことは何ら不都合なことではない。  ただし、コインの裏表のように源頼朝の選択には裏がある。  それが律令制に基づく納税だ。  律令制に基づく納税だと租庸調であるが、無償強制労働である庸はともかく、コメを納める租と、地域の特産物を納める調については、律令制に基づく税率だけを考えると、さほど重いものとはならない。租については荘園製の拡充とともに税負担が増えてきていたから、律令通りの納税というのは法で定められた税率よりも安い租税額で済ませることを意味していた。そして、調については特に何ら手が加わっていない。手が加わっていないというより有名無実化したとするべきか。