徳薙 零己

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次に来るもの 8.藤原師通

 寛治五(一〇九一)年八月七日、京都を中心とする地域を巨大地震が襲った。 藤原道長の建立した法成寺は大打撃を受け多くの建物が崩壊した。 白河上皇の建立した法勝寺は、そのシンボルであった九重塔が傾いたほか、確認できるだけで五つの建物が崩壊した。 大和国からは吉野にある宝殿が崩壊したという連絡が届いた。 歴史の記録として残っているのは寺院に関するものだけであるが、それ以外の被害が全くなかったとは考えられない。それどころか、被害は史料に残された具体的な記録よりはるかに大きかったのではないかと推測されるのである。 何があったのか? 寛治五(一〇九一)年一一月一五日、藤原清衡から関白藤原師実に対して二頭の馬が献上された。まずは第一弾として二頭を送るが、必要とあればさらに増やすことも可能というメッセージも同封している。 この時代の馬は現在で言うクルマやオートバイ、あるいは工事現場でのブルドーザーに相当する。この時代の東北地方は馬の名産地であり、後三年の役でも清原家衡は逃走する前に愛馬の花柑子(はなこうじ)を弓で射殺しているほどであった。馬の名産地の覇者となった藤原清衡から馬が届いたというのは、単に名産品の献上ということではない。自然災害の情報が東北地方に届いた結果、奥州藤原氏が自然災害からの復旧支援を申し出たということである。 この地震について朝廷がどのような対処をしたのか? この記録は全く残っていない。 奥州藤原氏から支援の申し出があったことは記録に残っているが、その回答も記録に残っていない。 唯一残っているのは、奈良の興福寺の復旧工事完了の式典に関白藤原師実が参加したという記録だけである。 この態度は失望を呼ぶに充分であった。 朝廷に失望しても、他に期待があるならまだ救いはある。 特に、宗教は本来ならばこのようなときの救いになるべき存在である。 ところが、宗教はこの期待を裏切るのである。 復旧工事を終えた興福寺から届いた次のニュースは、興福寺の僧徒が京都のある山城国まで来て、平安京の北にある荘園の賀茂荘を襲撃し、荘園住民に暴行をくわえて民家を焼いたというニュースであった。奈良から賀茂荘まで来るのに平安京の近くを通らないと言うことはあり得ない。仮に平安京の視線に入らないように遠回りをしたとしても、誰にも気づかれずに賀茂荘までたどり着くなど無茶な話だ。 この時代の人が実感したのは、これから暴れようとしている集団が南から北へ大挙して移動してきているのに誰も止めようとしないし、止めることのできる存在もないという現実であった。 これまでであれば清和源氏がどうにかした。清和源氏から動かなくても、藤原摂関家の命令一つで清和源氏は動いていた。藤原摂関家と清和源氏とのつながりは多くの人の知ることであり、藤原摂関家が命令すれば、清和源氏の武士たちはただちに動くことが常識となっていた。 その藤原摂関家が動かなかった。いや、動けなかった。 興福寺の僧徒が加茂荘で暴れたという知らせが届いたのが寛治六(一〇九二)年三月六日のことである。これでも充分恐怖を感じるニュースなのであるが、同日、京都はさらなる恐怖に包み込まれた。 京都を大火が襲ったのだ。 この火災で関白藤原師実の邸宅の三条第が灰に消えた。 犯人が興福寺であるとは記録に残っていないが、これは容易に想像できることである。我が家が灰になり、仕える者が焼死し、その住まいもまた灰に消えている。テロに屈しないというのは、目の前で殺されている現状の前では綺麗事になってしまう。 それでも、藤原摂関家の命令なしで清和源氏が動くことは出来なかったのかという疑念が出るが、その疑念は、源義家は後三年の役についての責任がまだ問われ続けているために鎌倉から出てこないこと、そして、清和源氏内部は源義家と弟の源義綱との争いとなっていることを考えると、簡単に立ち消えとなる。 清和源氏以外はいないのか? 平氏では駄目なのか? このような考えを持つ人もいるかもしれないが、平氏はこの頃、武士として認識されてはいたが、名声とは無縁の存在であった。伊勢国を根拠地とする平正衡(たいらのまさひら)が藤原師実に仕えて京都における事実上の警察権力として行動していたという記録もあるが、そこにオフィシャルな地位はない。 寛治六(一〇九二)年時点での権力構造は、表面上は、摂関政治の復活が機能していたことになっている。若き堀河天皇を関白藤原師実が支え、藤原師実の子の藤原師通が内大臣として議政官に君臨している。藤原師実は関白専任であるため、議政官に対して何らかのアクションを加えることは許されていない。議政官の議決が堀河天皇に上奏されてきたとき、堀河天皇から相談を受け、助言を上奏することはできるが、藤原師実の意見は最終決定ではない。 ただし、これまでの摂関政治と一つだけ大きな違いがある。それは、白河上皇の存在。 白河上皇は自分のことを関白に比すべき存在と考えていた。堀河天皇へと上奏された法案を読む権利もあれば、堀河天皇に対して、それが最終決定ではないにせよ助言を与える権利があるとも考えていたのである。つまり、関白が二人いるという形に持って行くつもりであった。 ところが、白河上皇をそのように捉える人は多くなかった。無視するわけではないが、関白に比すべき存在と考える者は少なかったのである。白河上皇の知らぬところで法案が通り、堀河天皇の御名御璽を伴って正式な法律となって発令されるのだ。これは白河上皇も想像していなかったに違いない。 白河上皇を政務から遠ざけたのは、白河上皇が忘れられた存在になったからではない。忘れることのできない存在として君臨しているからこそ政務から遠ざけることを意図するようになったのである。 それを意図したのが内大臣藤原師通であった。藤原師通は白河上皇が権力を発揮しないための方法を選んだのだ。法案が提出され、議政官で決議され、可決されれば天皇に上奏されて正式な法律となる。この流れにおいて、関白も、そして上皇も、必要条件には含まれていない。白河上皇に何かを伝えるにしても、法案について議政官で議論しているときでも、決議を堀河天皇に上奏するときでもなく、既に堀河天皇の御名御璽によって正式な法律となった後での報告である。ここで白河上皇が何かを言おうとしても、既に法律は発令され、全国へと飛んでいる。白河上皇が法律に反対しようと、白河上皇が反対したというニュースが飛んでも、法律が廃案になるわけではない。 ただし、それが良い結果をもたらすかどうかと考えると問題が出てくるが…… 止まったはずの荘園停止が、寛治六(一〇九二)年五月二日、何の前触れもなく復活した。この日、若狭国に新しく設立された荘園について、荘園としての許可を与えないと宣言されたのである。 いきなりの宣言に戸惑いを見せた人は多かったが、その理由は五月五日に判明した。この日、源義家が新しく設立した荘園について停止すると発表されたのである。有名無実化しているとは言え後三条天皇の出した荘園整理令は有効である。そして、この時の朝廷の判断は無効となっていない荘園整理令に従ってのものである。ゆえに、若狭国の荘園停止も、源義家の荘園停止も、法的には何ら問題のあることではない。そう、法的には。 だが、誰がそのように考えるであろうか? 明らかに、源義家をターゲットにした荘園整理令の発動である。若狭国はそのとばっちりを受けたにすぎない。 それにしてもなぜ、源義家がこのタイミングで朝廷から嫌がらせを受けることとなったのか? 一つは、後三年の役を源義家の私的な戦闘であるとする従来の方針を維持するため。興福寺が暴れまわったとき、多くの京都市民が考えたのが源義家の存在であった。ここに源義家がいればこんなことにはならなかったはずだとする考えは強く、この場に源義家がいなくなった理由である朝廷の態度に原因があるとする不満を抱く者が多くなったのである。 と同時に、清和源氏内部の争いでは明白に源義綱に肩入れするようにもなっていた。朝廷は、源義家に対して責任を求めはしても、清和源氏の武力そのものは必要としていたのである。朝廷にとっての最良は、後三年の役は源義家の私的な戦闘であるという立場を変えることなく責任は全て源義家が背負い、清和源氏の武力は後三年の役と無関係である源義綱が握り、これまで通り藤原摂関家と清和源氏とのつながりで清和源氏の武力を朝廷が使えるようになるというものであった。ところが、清和源氏に仕える武士のほとんどは源義家の家臣となっており、源義綱のもとの軍勢はあまりにも少なすぎる。これでは朝廷が動かせる軍勢に程遠い。 源義家に対する嫌がらせは、この時点における朝廷なりの清和源氏対策であったと考えれば理解はできる。ただし、同意はできない。朝廷の考えでは、朝廷の敵と認識されるようになった源義家は孤立し、清和源氏内部の自浄作用が働いて源義家が隠居に追い込まれるか追放されるかしていなくなり、源義家の地位を次弟の源義綱が受け継ぐはずであった。そこでは、当然ながら後三年の役は源義家一人の責任とされ、その費用は全て源義家の負担となり、源義家に従って戦いに加わった者は悔い改めて朝廷の元に降り、朝廷の指揮下にある源義綱のもと、朝廷の意思によって動く軍勢の一員となるという構想であった。 これはあまりにも甘すぎる構想とするしかない。武士というものを理解していないし、戦争というものも理解していないし、朝廷の権威をあまりにも高く見すぎている。 朝廷のこの甘い認識を白河上皇はとんでもないことと考えていた。白河上皇は私的に源義家に連絡をとり出したのである。それも、朝廷の決定を何一つ破らない形で。 まず、受領功過定を受けることを促した。つまり、源義家が国司であった間、陸奥国から納めるべきであった税を、分割払いでいいし、時間を要してもいいから、とにかく全部納める。その代わり、全部納め終わるまで、源義家は鎌倉から動かないし、源義家に従う武士たちも京都から呼ばれたからという理由で京都に来る義務はない。命令が出たとしたら源義家に対する処分の撤回が優先である。 また、清和源氏がいなくて困るという状況が続いてもそのまま放置するようにさせた。要はストライキである。自分の要求を相手に認めさせるための手段としてのストライキは、現在でこそ権利として認められているが、この当時はそのような権利もないし、それ以前にストライキなどという単語もない。だが、概念ならあった。居ないと困るという人が、その人のなしている仕事に対して正当な報酬を得ていない、正当な待遇を得ていないというとき、正当な報酬や正当な待遇を得るまで自分の仕事をしないというのは、当然の話である。その人がいないと困ると言う人がすべきことは、困ると文句を言うことではなく、困らないようにするにはどうするかを考えることである。清和源氏がいなくて困ると言うなら、清和源氏に変わる軍事力を作り上げるか、清和源氏がに対するこれまでの態度を改めて適切な報酬や適切な待遇を用意することである。そのどちらも拒否しておいて上から目線で対応していては、問題は全く解決しない。 さらに、寛治六(一〇九二)年六月三日に朝廷に対してある知らせを届けさせた。陸奥国司藤原基家から届けられた、藤原清衡の挙兵計画に対しての報告である。東北地方で再び戦乱となろうものなら、現在の朝廷ではどうにもならなくなる。どうにかできる手段があるとすればそれは、鎌倉にいる源義家に清和源氏の軍勢を率いさせての軍事行動しかなくなる。 新しく東北地方の覇者となった奥州藤原氏は、その勢力に見合わぬ広大な土地の支配者となってしまった。新しく支配下に組み込まれた中には、新興勢力である奥州藤原氏を快く思わない面々もいるし、隙あらば支配からの脱却を図ろうとする面々もいる。 朝廷もそれについて無策ではなかった。藤原清衡に対して正六位上陸奥押領使という、朝廷に組み込まれている公的な地位を与えたのである。陸奥押領使は陸奥国だけでなく出羽国の治安維持のための武力発動が認められており、藤原清衡が挙兵しようと、相手が反朝廷の勢力であればそれは堂々たる公務になる一方、奥州藤原氏に対して反旗を翻すことは、それが朝廷を思っての行動であろうと朝廷への叛逆と扱われ、藤原清衡の行動は朝廷の治安維持活動の一つとなるのである。 しかし、奥州藤原氏が日本からの独立を目指して立ち上がったとしたらどうなるか? そもそも前九年の役は日本からの独立戦争であり、そのときに独立を目指して戦った者やその子孫が奥州藤原氏に仕える身となっている。こうなると、独立をめざるための戦いを起こしたとしても陸奥押領使としての職務であるとカモフラージュできてしまうのだ。 さらに、寛治六(一〇九二)年六月二七日に届いた知らせは、この危惧を深めることとなった。日本海の向こうにある遼との関係についてである。この時代、北海道は蝦夷ヶ島と呼ばれており、はるか北で大陸とつながっていると考えられていた。北海道の北にある樺太が独立した島であり、大陸とは海峡で隔てられていると判明するのは江戸時代になってからであり、それまでは北海道が島であるらしいという認識はできていてもハッキリと確認されてはおらず、その北に樺太という場所があるらしいと知っている者はごく一部、樺太が大陸と離れている島であると知っているのは地元住民のみであるという状況が続いていた。というところで遼の存在がクローズアップされたのである。 遼は日本海に面していた渤海国を滅ぼした国であるということで、日本の最大の同盟国の渤海国を滅ぼした国ということで警戒されていたが、その警戒は減っていた。少なくとも、日本国に対する遼からの侵略の記録は無い。とは言え、驚異は全くなかったとは言えなかった。なぜかと言うと、渤海国が滅んだのとほぼ同時期に北海道の各地域で環濠型集落が見られるようになり、一時的な防御施設の予定が、集落を構成する通常の光景へと変貌していったのだ。 環濠型集落とは集落の周囲を取り囲むような堀や塀といった防御施設を構えている集落のことで、このような設備を必要とするようになったのは、集落の外から攻撃を仕掛けてくる存在があるからである。侵略を受けるようになったとして、それも、何度も繰り返し受けるようになったとして、黙って侵略を受け入れるなどということはない。侵略に対してどのように抵抗するかを考えるし、侵略に対して抵抗できないとなればその場から離れることも考えなければならなくなる。そして、皮肉なことに、侵略を受けたがために土地を離れた集団は、移動先においては侵略者となるなど珍しくない。 遼はたしかに日本に向けての侵略をしてはいない。しかし、遼に押し出される形でのちに満州族と呼ばれることとなる女真族が日本海沿岸に勢力を築き上げるようになっていたのだ。朝鮮半島の高麗王朝は女真族の侵略を受けていたし、高麗は高麗で日本へ海賊となって押し寄せた。刀伊の入寇はこういう事件である。もっとも、日本への侵略は失敗に終わった。侵略する側は、侵略先との戦力を比較し、負けると判断したら攻めてはこない。ただし、それは朝廷権力の及ぶところの日本国であって、朝廷権力が及ばない地域となると侵略者にも勝算が出てくる。 樺太や北海道が侵略されたら、次のターゲットは東北地方。東北地方が侵略されたら、次は関東、あるいは北陸。ここまで来たら京都は目と鼻の先だ。この動きを止めることができるのは誰か? 奥州藤原氏、そして、関東地方の清和源氏である。 清和源氏の武力を求める声は多く挙がったが、朝廷は国民のこの声を無視し続けた。

次に来るもの 7.後三年の役終結

 朝廷からの連絡が来ないまま時間を過ごしていた源義家は、援軍なしでの軍事行動を決意する。清原清衡とともに軍勢を進めた源義家は、出羽国沼柵(現在の秋田県横手市雄物川町)にある清原家衡の本拠地までたどり着いた。ただの陸奥国司であれば国境の外まで軍勢を派遣したこの瞬間に国司失格の行動となったところであるが、源義家は鎮守府将軍を兼任している。ゆえに、軍勢を派遣する先が出羽国である場合に限り、陸奥国の外まで軍勢を派遣することが許される。 ただ、いかに権限があろうと、戦闘に勝てるかどうかは全く別の話である。季節は冬。軍勢の移動に適した季節ではない。兵糧はどうにかなったとしても、攻城戦に適しているとは言い切れないのだ。 結果は、攻城失敗。 攻撃を仕掛けるものの沼柵を落とすことはできず、撤退を余儀なくされたのである。 この戦いの結果は、去就を定めきれずにいた者たちに決断させるに充分であった。特に、兄弟の叔父にあたる清原武衡が清原家衡のもとに参戦したのである。清原氏内部の争いという点で立場を決めかねていた者は、清原武衡の決断に促される形で続々と清原家衡のもとへと加わっていった。 しかし、ここで冷静な判断を下した者もいた。吉彦秀武である。吉彦秀武は、第一戦こそ弟の勝利に終わったが、最終的には兄が勝つと見定めたのだ。その上で、全軍を源義家の元へと合流させた。ついこの間まで清原真衡に刃を向けていた軍勢がそのまま清原清衡の軍勢の一部を構成するようになったのである。もっとも、清原真衡に刃を向けていたのは清原清衡も同じであり、かつての仲間同士が再び仲間同士になったとも言えるが。 ではなぜ、吉彦秀武は兄が勝つと考えたのか? 清原家衡の軍勢が増えすぎてしまったのを見逃さなかったのだ。 誰だって勝ち戦に乗っかりたい。そして、戦いが終わった後は勝者として敗者の上に立ちたいと考えるものである。第一戦に勝利したのは清原家衡であるから、勝ち戦に乗っかりたいと考える者は清原家衡のもとに向かう。ただ、清原家衡が勝てたのは、清原家衡の戦略ではなく、沼柵の防衛能力の高さにある。決して多いとは言えない軍勢でありながら沼柵に籠って攻撃に耐え続け、相手が攻城を諦めて撤退したというのが勝った理由であった。ここで重要なのは、沼柵の中の人数が少なかったことである。 場内の人数が少ないということは、蓄えていある兵糧の消費も減らせるということなのだ。おまけに、収穫があった直後だから蓄えは充分にある。攻められ続けても、食い物もあれば水もあるという状況であれば耐え続けられる。だが、今や清原家衡は大軍になってしまった。こうなると、蓄えておくべき兵糧も増えてしまう。だが、季節は収穫の時期をとっくに過ぎている。兵糧を新しく手に入れるなど無茶な話だ。 清原武衡は、沼柵ではなく金沢柵(現在の秋田県横手市金沢中野)に移るよう勧めた。沼柵も充分に攻め込まれづらい建物であったが、金沢柵は昔から難攻不落の要塞と扱われている。実際、のちの戦国時代にも同地点に城が築かれたほどで、周囲が断崖絶壁の岩山のてっぺんにありながら、山を降りると目の前に羽州街道が走っている。人の移動も物資の移動も容易でありながら攻撃は難しい要塞となると、これ以上の好条件は考えられない。ここに籠もれば安全と考える人はたくさんいるだろうし、籠もるだけで戦いの勝者になれると考えればたくさんの人が押しよることとなる。それだけの人を養えるだけの蓄えがあるかどうかは別問題であるが。

次に来るもの 6.後三年の役開戦

 承暦四(一〇八〇)年八月一四日、白河天皇はついに決断した。 内大臣藤原信長を太政大臣に昇格させると発表したのである。内大臣から太政大臣への昇格自体は過去に例のないことではないが、丸六年に渡って政務をボイコットしていた人物を太政大臣に昇格させるというのはああまりにも異例であった。また、太政大臣に昇格したと同時に右近衛大将から解任された。右近衛大将を太政大臣が兼ねることはあり得ないことであり、右近衛大将解任自体は通例に基づくものである。ただし、そのやり方はあまりにも強引であった。何しろ、太政大臣でありながら位階は正二位のままなのだ。正二位でありながら太政大臣というのは 人事の詰まりが解消されたことにもなり、同日、大幅な人事刷新が行われた。 権大納言の藤原俊家が右大臣に、同じく権大納言の藤原能長が内大臣に昇格し、空席ができた権大納言に、権中納言であった藤原師通と藤原実季が昇格した。また、右近衛大将は権大納言源顕房が兼ねることとなり、それまで内大臣兼右近衛大将が政務ボイコットをしていたため止められていた人事が正常化した。 ただし、この人事に期待を寄せていた貴族の中には失望を味わった者もいた。人事が膠着しているのは藤原信長のせいであるとは共通認識であり、藤原信長が太政大臣になったことで自分はこれから出世できるのだと考えていた貴族の中には、自分ではない他の者が出世したこと、さらには出世競争で追い抜かれたことに対する激しい怒りを見せるようになったのだ。 権中納言から中納言へと出世した藤原祐家であるが、同じ権中納言でも自分より格下であると考えていた藤原師通と藤原実季が揃って自分より上の権大納言に飛び級で昇格したことに怒りを見せ、今度は藤原祐家が政務ボイコットに、さらに藤原祐家の兄の藤原忠家も弟に呼応して政務ボイコットに加わった。 太政大臣に出世した藤原信長もボイコットを続けていたため、これで政務ボイコットの貴族が三人に増えたこととなる。 ただし、ボイコットにしろ、ストライキにしろ、放棄するというのは放棄されたら支障が出るという場面であるから効果があるので、いてもいなくても誰も困らないという場面でのボイコットやストライキなど何の効果も無い。藤原信長のボイコットが強引に終結させられたこともあり、ボイコットは失笑を買っただけであった。 藤原信長のボイコットを強引に終結させた白河天皇は、承暦四(一〇八〇)年一〇月、藤原信長にトドメを刺した。 関白藤原師実を一座とするという宣旨を下したのである。 一座(いちざ)というのは貴族の座る順番においてもっとも天皇に近い場所である。 通常は太政大臣がトップで、左大臣が二番目、右大臣が三番目である。太政大臣藤原信長と左大臣藤原師実とを比べれば、それまでの常識に従えば太政大臣藤原信長がトップであり、いかに関白であろうと左大臣である藤原師実は藤原信長の下に位置することとなる。極論すれば、貴族全員が集まる儀式において、太政大臣藤原信長が不在であるなら、天皇のもっとも近い席を文字通りの空席にしなければならなくなる。 しかし、関白を太政大臣より上席とするとなると、藤原信長は藤原師実の後塵を拝することとなる。これで藤原信長が藤原師実よりも上席に立つ方法は完全に無くなった。最上位になるには藤原師実に何かしらの事情があって、それこそ死去や出家などの事情があって繰り上げで最上位になることだけであるが、それでは藤原師実を追い越すことにならない。 太政大臣は議政官として法案作成に加わる資格を持たない。上奏された法案に対する拒否権が存在するのみである。ただし、どのような法案に対して拒否権を行使したのかについては全て公表される。ゆえに、太政大臣がその権利を行使したことは滅多にない。極論すれば名誉職である。藤原公季が治安元(一〇二一)年に太政大臣に就任したときも、長く藤原道長の右腕として藤原道長の政務に協力したことに対する報償の意味があったとは言え、藤原頼通の政権にとって障壁になるであろう藤原公季を名誉職に祭り上げることで事実上の引退に持ち込ませたのである。このときの藤原信長も藤原公季と同じ運命を命じられたのであった。 ただ、藤原公季は藤原道長の右腕であったという実績があり、世間からの評価も高いものがあったのに対し、藤原信長はそのような評価など全くない。とにかく迷惑を掛けさせられたのがやっと処罰されたという爽快感を呼んだだけであった。 承暦五(一〇八一)年二月一〇日、永保への改元が発表された。 特に何かしらの出来事があったわけではなかったが、当時の人は誰一人として、このときの改元を何の前触れもないサプライズであるとは考えていなかった。 承暦五年、西暦で記すと一〇八一年という年は、十干十二支で表すと辛酉の年にあたる。辛酉の年は大規模な社会変革があるとされており、中国ではこの年に王朝交代があるという言い伝えもあった。 そこで、昌泰四(九〇一)年に三善清行の提唱したのが、政権交代をさせない代わりに意図的な大規模改革をするとしての改元である。この年に延喜へと改元して以来、天徳五(九六一)年には応和へ、寛仁五(一〇二一)年には治安へ、そして、この承暦五(一〇八一)年には永保への改元がなされた。なお、いずれも前の元号の五年目に改元したが、単なる偶然であり、この六〇年後にも改元がなされたが、そのときは保延七(一一四一)年での永治への改元である。 その翌日、関白左大臣藤原師実が高野山へ参詣した。 同じ頃、源義家が鎌倉の八幡宮を修理した。 世間で六〇年に一度しか経験できない特別な年での改元にそれなりの騒ぎを見せていたところでのこの行動の意味するところは計り知れていなかったが、すぐにその行動の意味を把握するようになった。 永保元(一〇八一)年三月五日、興福寺から数千人の僧侶が多武峯(とうのみね)を襲い、人家を焼いたのである。同じ大和国(現在の奈良県)の寺院として勢力争いをしていたこともあっての衝突であるが、このときの興福寺の蛮行は平安京の人を恐怖に陥れるに充分であった。焼かれた家屋は三〇〇ほど。多武峯の僧侶たちは興福寺の僧侶たちによって凌辱され、多武峯に祀られていた藤原鎌足の像が持ち出された。 三月二五日に入京した多武峯の僧侶たちが興福寺の非道を訴えた結果、興福寺別当であった公範はその職務から罷免され、多武峯を襲撃した僧侶たちは逮捕されることとなったが、それを興福寺がおとなしく受け入れることはなかった。 ここで京都市民は理解したのである。武力を操れる源義家が八幡宮を通じて京都の南を守り、関白藤原師実が高野山に出向いたことで興福寺の南に楔を打ち込んだのだということを。ただし、それで問題が全て解決したわけではない。問題を看過してはいないというアピールにはなったが、問題を解決するという結果は生まなかったのであるから。 永保元(一〇八一)年四月一五日、次に姿を見せたのは園城寺の僧侶である。園城寺から近江国大津に僧侶がやってきて日吉山王祭を妨害したのだ。数百名の兵士が園城寺からやってきたと記録にあるから、僧侶のデモ行進だとかというレベルではなく、武装した僧侶が数百人単位で祭のさなかに乱入して暴れまわったということになる。大津の日吉大社は、その歴史こそ比叡山延暦寺より古いが、この時代は事実上、比叡山延暦寺を構成する一宗教施設となっていた。ちなみに、後年、比叡山延暦寺の僧侶が神輿を担ぎだして強訴に赴くことが見られるようになるが、その時に用いた神輿はこの日吉大社の神輿である。 この園城寺の僧侶たちを、比叡山延暦寺の僧侶たちがおとなしく見守っているわけはなかった。 永保元(一〇八一)年四月二八日、今度は比叡山延暦寺の僧侶たちが園城寺を強襲。園城寺が数百人の兵で、それでも充分に迷惑千万なのだが、このとき比叡山延暦寺が派遣したのは数千人の兵である。 当時の記録には、ただ「兵」とだけあるが、これは僧兵のことである。僧兵の誕生はこの時代よりも前に確認され、この時代には既に僧兵が日常によく見られる存在になっていた。ただし、僧兵を快く受け入れる者は極めて少なかった。寺院にとっては、あるいは寺院の持つ荘園に住む者にとっては自分たちを守ってくれるありがたい存在であっても、それ以外の人たちにとっては迷惑極まりない存在であった。いや、迷惑なだけならともかく、実際に恐喝され、暴行され、命を奪われる存在とあっては、憎しみの対象にしかなれない存在であった。 僧兵という奇妙な現象を、平安時代特有の存在であると片付けるのは簡単だが、現在とは無縁の現象であると片付けることはできない。自分は正義であると考え、自分とともに行動をする者は正義であると考え、それ以外の者は悪であり敵であると考え、正義である自分は敵である存在に対しては何をしてもいいと考え、悪である敵は正義である自分に対して何かをすること自体許されないと考える者はたくさんいる。少し前の学生運動や、現在でも見られる首相官邸前や米軍基地前の反対運動など、この時代の僧兵とやっていることは変わらない。ついでに言えば、頭の悪さも変わらない。 ただ、いくら頭が悪いという事実を突きつけようと、かれらは自分の頭の悪さを自覚しないだけでなく、その事実を突きつけてくる者を敵と考え容赦無く攻撃してくる。殺しても何の問題も無いが、反撃する姿勢を見せるだけで許されざる大罪であると考える。武器を持って暴れまわる者に憎しみを抱く者は多いが、その者を取りおさえることのできる者は少ないのだ。

次に来るもの 5.三不如意の萌芽

 藤原信長のストライキによる内大臣不在は続いていた。 内大臣がいなくても政務がどうにかなっていたということである。 白河天皇は、やがていつかは自分が帝位に就くことを確信してきた人生を過ごしていた。ただ、二〇歳という若さで即位するとは夢にも思わずにいた。父が四〇歳を迎える前に退位して二〇歳の自分に帝位を譲るとは全く想像してこなかったし、即位後、継母である禎子内親王が歯向かう存在となるとも想像していなかった。それが、若くして即位しただけでなく、気がつくと、藤原頼通が亡くなり、関白藤原教通も亡くなり、上東門院藤原彰子も亡くなった摂関家が味方という状況になっていた。その上、白河天皇自身が、皇太子実仁親王が即位するまでの中継ぎの天皇とさえ見られていた。統治者としての能力の差異によるものではなく、実母が藤原摂関家であるか否かの違いによるものである。後三条天皇という藤原氏を母としない天皇の政権が誕生し、現在はいったん藤原氏を実母とする白河天皇の時代になっているが、皇太子実仁親王が元服したらただちに白河天皇は退位して実仁親王の政権を誕生させるというのが既定路線になっていた。 この既定路線に対し、内大臣がいなくてもどうにかなるという現時点の政権のあり方は、一つのメリットと二つのデメリットを内包しているものであった。 メリットの一つは何と言ってもそれまで存在していた藤原摂関政治を利用できるという点である。産業生産性で言えば後三条天皇の推し進めた荘園整理よりも、藤原摂関政治における荘園性拡大路線の方が上だった。格差問題が広がっていたのは事実であるが、格差を無くすために豊かな者を貧しくさせると、その時点で貧いいものはもっと貧しくなる。格差を無くすためなら自分が貧しくなっても構わないと考える人はそう多くはない。そのような人が多い社会というのは、ソビエトにしろ、文化大革命にしろ、ポルポトにしろ、戦争の方がまだマシとするしかない人類史における負の遺産でしかない。白河天皇は明らかに、父の政策は誤りであったと認め、その上で父の政策を一見すると継承するとしながらも、実際上は否定する政策をとっていた。藤原摂関政治への回帰がそれである。 問題は二つのデメリットである。一つは、内大臣藤原信長が白河天皇の政権に協力しなかったという点で、白河天皇の退位後に藤原信長が藤原摂関家の主軸を担えてしまう可能性を持っていることである。二〇〇年以上続いてきた藤原摂関政治は滅亡したわけではない。藤原摂関政治を前提とした社会は残存しており、他ならぬ白河天皇自身がその残存を利用した政務をしている。ゆえに、白河天皇退位後も藤原摂関家を残存させ、そのトップには白河天皇政権下で冷遇されてきた藤原信長が就くと宣言することで、藤原摂関政治の継続を望む勢力の支持を得ることができるのである。 もう一つのデメリットは、藤原摂関政治を否定する勢力。藤原道長によって完成させたとされている藤原摂関政治の仕組みは、内大臣の不在でも政務が遂行できるという点で実際は不完全なものであると証明され、今後も継続させる必要はないという判断材料となるのである。皇太子実仁親王の政権は後三条天皇の政権の復活でなければならないという考えの人たちは、白河天皇退位後に内大臣藤原信長が中央政権に戻ることは容認しても、それがかつての藤原道長のような権威の所有者となることは容認できるものではなかった。 この時代に政党というものは無いが、派閥なら明確に三つが存在していた。一つ目は白河天皇と関白藤原師実と中心とする現行政権。二つ目は藤原摂関政治の継承を目指すがその中心は藤原信長であるべきとする勢力。そして三つ目は禎子内親王を中心とする藤原摂関政治全否定の集団である。この二つ目の勢力と三つ目の集団が手を組み、一つ目の派閥に対立するというのがこの時代の日本国の政治のあり方になっていた。 それにしても、藤原摂関政治の長年の敵対派閥であった律令派という存在が、この時代になると物の見事に姿を消している。強いて挙げれば禎子内親王を中心とする勢力の中に藤原摂関政治以前の政治体制である律令制への回帰を願う者がいたであろうことが推測される程度で、打倒藤原摂関政治を訴えきた勢力にとって、藤原摂関政治を否定してきた後三条天皇の政策という、律令への回帰を目指さなくても藤原摂関政治の否定は可能であると証明できたことは大きかったのだ。言うなればトドメの一撃となったということか。 白河天皇はこうした派閥争いに真正面から向かい合うことはなかった。と言って、敵対する派閥など自分には何の関係もないという超然とした態度で終始したわけではない。問題であると認めながら無視をすることにしたのだ。 内裏を出て高陽院を里内裏にしたことは無視の一つであったが、承保三(一〇七六)年になるとこの動きはさらに加速する。後三条天皇は内裏を再建させたが、白河天皇は里内裏を前提とした建物を建設させたのだ。それも、場所は六条である。 平安京は朱雀大路によって東西に分かれ、東を左京と、西を右京と言う。そして、最北端に北辺があり、そこから一条、二条、と数え、平安京の最南端は九条となる。北から順番に北に行けば行くほど貴族向けの高級住宅地となり、南に行くほど庶民向けの住まいとなる。藤原道長は平安京の外の宅地造成をしてそこを十条と名付けたが、事実上は平安京の一部でも、法の上では平安京の外である。現在の感覚で行くと、東京二三区と同様に市外局番は〇三であるが、二三区ではない東京都の多摩地域の市部というところか。 このような平安京の宅地事情を踏まえると、六条は貴族の住まいではなく庶民の住まいである。その上、このときに白河天皇が建設させた里内裏は朱雀大路から東に遠く離れた四坊にあった。平安京の住所表記で示すと、左京六条四坊である。朱雀大路を基準に東西に数えるのが坊で、朱雀大路に面した区画が一坊、朱雀大路から離れるにつれ、二坊、三坊となり、四坊となると朱雀大路よりも平安京の区画街の方が近いというレベルになる。つまり、白河天皇が建設させた六畳の里内裏は、敷地の広さで言えば里内裏にふさわしいとは言え、庶民街の一角に里内裏を作ったのだ。 これに対する不満の声は聞こえたが、これがかえって庶民の支持を集めることとなった。どんな種類の政権でも共通して言えることがある。それは、庶民の支持を集めることに成功しなければ政権の維持はできないということ。庶民に嫌われていることを認めたがらず、武力で無理やり庶民の不満を押さえつける政権もあるが、そうした政権に待っているのは、破滅である。延命すればするほど、悪として断罪され滅ぼされる運命が待っている。逆に、その時点における権力層を敵に回しても庶民の支持を得ることのできる政権が打ち立てられたならば、その政権は維持が可能だ。さらに言えば、既存の権力層を断罪すべき庶民の敵と認じ、庶民の側に立って庶民とともに既存の権力層に立ち向かう正義のヒーローを演じれば政権の意地はより一層容易になる。 白河天皇がしたのはこれである。既存の権力層は大内裏にいるとし、庶民の味方である新しい政権は庶民の住むエリアにあるとしたことで、白河天皇の政権を既存の権力に立ち向かう庶民の味方の政権と位置付けたのだ。 さらに、地理的なメリットもあった。六条という場所は、平安京の南に広がる十条を都市部に含めると考えると南北で見てほぼ中央になる。また、朱雀大路の西にある右京はもはや都市機能を有さなくなる一方、住まいは平安京の区画を超えて、平安京の東に流れる鴨川の岸辺に、さらには鴨川の東にまで広がるようになっていたことを踏まえると、四坊という場所は東西で見てもほぼ中央になる。 これは平安京に限ったことではないが、藤原京を除く古代の計画都市は、重要な施設を北端に置いている。そして、北に広がるのは、山地。平安京だけでなく平城京も恭仁京も長岡京も同じ構造で、さらに言えば平安京のモデルである長安もそう。これは都市の防衛を最優先にした結果であり、防衛以外の面を考えると不便とするしかないのである。 防衛を無視して都市の便利を考えると、都市の中央に重要な施設や多くの人の利用する施設があるほうが優れている。都市の生産性を考えても、働く場所と住む場所との移動に不便をきたすのは得策ではない。本来なら現代日本の長距離通勤も本来の感覚で行けば異常なのであるが、移動手段が公共交通機関である場合、座っている、あるいは立っているだけで勝手に移動してくれて、その移動時間を生産時間や教育時間に当てることも不可能ではない上に、移動途中の商業施設を利用することでの経済効果もあるので、異常さを相殺できていると言う側面もある。ただ、それは公共交通機関の発達している現代日本だから言える話であり、この時代の都市内移動手段は歩きか牛車。牛車は貴族しか認められていない移動手段であったことを踏まえると事実上徒歩だけが移動手段であることを考えると、北端の内裏と、六条にできた新しい里内裏とでは、新しい里内裏のほうが優れている。 おまけに、平安京最大の商業施設になっている東市は左京七条二坊に存在する。六条四坊の新しい里内裏から歩いてすぐ、現在の東京で考えると新宿駅と東京都庁ぐらいの距離しかない。これぐらいなら新しい里内裏で働いたあとで自宅に戻る前に市に寄って買い物をするのも特に面倒なことではなくなる。ただでさえ庶民の本拠地と考えられている市は、六畳の里内裏の誕生でさらに庶民の本拠地としての性格を強めて行くのである。朝廷で働くのは貴族だけではなく役人も働いている。下級役人は現在の感覚で行くと確かに公務員であるが、立場の意識で言えば庶民の一員だ。 荘園整理を取りやめたとは言え生産性が回復したわけでは無い。輸出が増えて宋銭の流入もあったが、現金が増えたところでコメが増えたわけでは無い。おまけに当時の人は感覚的にしかわからなかったが現在の発掘調査では明らかになっている気候問題が加わる。つまり、市場(しじょう)に出回る製品の量が増えたわけではないから経済問題そのものは解決していないのである。にも関わらず、暮らしぶりの不満を訴える声は減っているのだ。暮らしが豊かであるとは言わないにせよ、暮らしの不満を時の統治者に向けるという古今東西どこにでも見られるごく普通の光景が、白河天皇の時代には、ゼロとは言わないが後三条天皇の頃と比べて減ったのだ。 この時代の庶民の思いをまとめると、庶民の味方である白河天皇と、その白河天皇を支える従来の藤原摂関政治があり、その敵として、藤原摂関政治を壊そうとする禎子内親王 一派と、藤原摂関政治の乗っ取りを企む内大臣一派という構図になっていたと言える。

次に来るもの 4.白河天皇即位

 後三条上皇について、新たに帝位に就いた白河天皇がどのような思いでいたのかを示す面白い記録がある。後三条天皇は、摂関政治の否定、荘園の否定、内裏再建の三つに全身全霊をかけてきた。そのうち、内裏再建は既に完了し、摂関政治の否定は白河天皇の後継者が藤原氏を母としない実仁親王となったことで形になった。そして、後三条上皇が見えないところで君臨している。普通に考えれば全身全霊をかけてきた政策の残る一つである荘園の否定についても継続しているはずである。 ところが、荘園の否定を前提とした組織である記録荘園券契所の記録が白河天皇の即位とほぼ同時に姿を消す。荘園整理自体が無くなったわけではない。だが、荘園整理をする組織が無くなったのに荘園整理がうまくいくだろうか? 荘園整理は本来の事務方である弁官局に移管された、正確に言えば元に戻されたし、実際に弁官局の作成した荘園整理の書類も残っているのだが、記録荘園券契所がおよそ三年に渡って実施してきた荘園整理に比べればその量は明らかに少ない。 考えられる答えは一つである。 白河天皇はイレギュラーな存在であった記録荘園券契所をレギュラーなシステムである弁官局に戻すという形で荘園整理を否定したのだ。後三条天皇が格差の縮小を求めて荘園を無くすことを最終ターゲットとした荘園整理をしたが、白河天皇は荘園整理が生活の悪化を招き景気を悪くしていると考えた。格差を無くすという考えは納得できるが、格差を無くすために貧しさを生んでしまっては何の意味も無い。そんな結果になるぐらいなら荘園整理など無くしてしまった方が良い。 白河天皇の背後には後三条上皇がいる。それは事実だ。だが、白河天皇は後三条上皇に逆らったのだ。それも、後三条天皇の定めを何一つ変更していない。記録荘園券契所から弁官局に荘園整理を戻すという、それまでイレギュラーであった政治システムをレギュラーなシステムに戻すという、誰も文句を言えない形で逆らったのだ。 記録荘園券契所での事務を一手に引き受けていた大江匡房に対する処遇でも、白河天皇は何ら文句の言えないものであった。記録荘園券契所での大江匡房は荘園整理の最大の実務者であったが、大江匡房のオフィシャルな役職は右少弁。弁官局における弁官の順位で行くと六番目、すなわち、一番下である。その一番下の弁官であったが、蔵人を兼任しているため、弁官局の中での地位は低かったが他の弁官よりは行使できる権力が大きかったというのが記録荘園券契所の存在を強めてもいた。 その大江匡房を、白河天皇は蔵人に改めて任命した。天皇の代替わりで蔵人を任命し直すこと自体はおかしなことではない。そして、前天皇の蔵人であった人物をそのまま蔵人に任命し直すことは、政策の継承を意味する。だが、白河天皇は大江匡房の弁官局の中での地位を高めたのである。記録証券券契所の事務に専念できたのは蔵人であると同時に右少弁という低い地位であったことも理由だったのだが、弁官局の中における地位が上がると記録荘園券契時に関わっていられなくなり、弁官局での仕事に時間を割く必要がある。こうなると記録荘園券契所に関わっていられなくなる。白河天皇は後三条天皇の政権の重要人物であった大江匡房を高く評価するという、後三条上皇が何一つ文句を言えない形で荘園整理を否定したのだ。 後三条上皇は自らが関白に比肩する存在になることを意図した。だが、白河天皇は、天皇の雑務を肩代わりできる存在としての関白は必要としたが、相談役としての関白は必要としなかったのだ。後三条上皇にとって自らの最大の協力者であり後継者である白河天皇のこの思いが読めなかったというのはかなりの誤算であった。 摂関政治を否定するために自らが摂政や関白を上回る権威を持った存在になることを後三条天皇は意図して退位したが、肝心の白河天皇がそのような権威を必要としない統治者になるとは全く予期していなかった。と同時に、自らの体調についても想定を超えていたとするしかない。後三条上皇は退位直後の延久四(一〇七二)年一二月時点で既に体調を崩していたという記録もあるから、後三条上皇は退位前の時点で既に発病していたのではないかという説もある。 退位まもなく明らかになったのは、後三条上皇が病気の身であるということである。後三条上皇が罹患していたのは、糖尿病であった。自分の母親が藤原氏で無いこと、白河天皇の皇太子となった実仁親王が藤原氏を母親としないこと、すなわち、藤原氏からの決別を自身の血統として重要視していたが、皮肉にも、藤原氏の多くの者が罹患した糖尿病に後三条上皇も罹患したのである。 糖尿病になった藤原氏と言えば藤原道長が有名であるが、他にも、藤原道長の叔父の藤原伊尹、長兄の藤原道隆、甥の藤原伊周も糖尿病で亡くなっている。そして、後三条天皇と藤原道長との関係を家系で示すと、後三条天皇の母である禎子内親王は藤原道長の娘を母親としている。つまり、実母は藤原氏でないことはその通りなのだが、後三条上皇は藤原道長の曾孫でもあるのだ。 皮肉にも、藤原氏の面々が罹患してきた糖尿病に、藤原氏でないことを前面に掲げてきた後三条上皇が罹患したのである。 退位後の後三条上皇が延久五(一〇七三)年一月二三日に院蔵人所を設置させたことで、このときを以て院政の始まりとする人がいるが、上皇としての政務を取り扱う院蔵人所を設置し、身の回りの事務を取り扱う院司を雇うのは、上皇としての手順の通りである。後年の院政という政治システムの呼び名も既存システムである院の権威が高まった結果であり、新しく院という組織を作ったわけではない。退位して少ししてから院蔵人所を設置するというのもこれまでの手順通りであり、後三条上皇が何か新しいシステムを創始したわけではない。 後三条上皇の体調不安がはじめて公表されたのは延久五(一〇七三)年二月二〇日のこと。後三条上皇がこの日、石清水八幡宮、住吉大社、四天王寺への御幸に出発したのである。 京都の西を流れる桂川を下ると、山崎の地で宇治川、木津川との合流地点に出る。その合流地点の東にあるのが石清水八幡宮に出る。三つの川が山崎の地で合流して淀川となり、淀川を下って大阪湾(当時の呼び名は「茅渟の海(ちぬのうみ)」)に出ると、この時代最大の港である難波津に出る。ただし、難波津は土砂の堆積により港湾機能が薄れてきており、大阪湾最大の港湾が難波津の南にある住吉津に移ってきていた。この住吉津の近くにあったのが住吉大社。現在は大阪湾の埋め立てにより海から五キロ以上離れているが、この時代は海に面した神社であった。難波津と住吉津のほぼ中間に位置するのが四天王寺で、四天王寺もまた、現在とは違って海に比較的近かった。 つまり、後三条上皇はほとんど歩くこと無く、川や海を船で移動したのである。石清水八幡宮、住吉大社、四天王寺と、寺社勢力を抑えつけることのできる権威を持った者が、想像だにしない絢爛豪華な船で移動するというのは、本来ならば後三条上皇の威光を示すはずである。そして、後三条上皇もそれを狙っていたのである。だが、この時代の人たちは思わぬ感想を抱いた。後三条上皇が歩けなくなるほどの重病であり、寺社の祈りに頼るまでに病状が悪化しているのだと思われるようになってしまったのだ。 後三条上皇重病の噂は、噂で無くなった。 延久五(一〇七三)年二月二〇日に出発した後三条上皇が京都に戻ってきたのは二月二七日のこと。それからしばらく後三条上皇についての動静が消え、その次に出た動静が三月一八日のことである。それも、後三条上皇の病状が悪化したので大規模な恩赦を実施するという知らせである。これにより後三条上皇が重病にあることは周知の事実になった。 四月七日、白河天皇が後三条上皇のもとへと行幸したことで、後三条上皇の回復はかなり困難であることが公表された。同日、後三条上皇は住まいを源高房の邸宅に移した。なぜ源高房の邸宅に身を寄せたのかについてはっきりとした資料は残っていないが、源高房の息子である源高実は後冷泉天皇の蔵人を務めたことと、後年、白河天皇のもとに仕えたことが記録に残っていることから、藤原摂関政治との決別を計ってのものではないかと推測されている。ついでに言えば源高房は源氏の中でも少数派としてもよい醍醐源氏であり、この時代の源氏の主軸である村上源氏や、後に源氏の代名詞となる清和源氏とは一線を画している。 最後まで摂関政治との決別を図っていた後三条上皇は、自らの命の終わりを悟ったのか、延久五(一〇七三)年四月二一日に出家。六日後の四月二七日には、近江国の三井寺新羅神社に祭文を奉納した。三井寺とは園城寺の通称であり、園城寺の敷地の一角に新羅神社が存在しているという構成になっていた。ちなみに、この新羅神社という神社はどのような神社なのかわからないのが実情である。普通に考えれば古代朝鮮半島に存在した新羅に関係のある神社なのだろうが、記録に残る最古の記録が新羅滅亡後なのである。伝承としては、唐から日本に戻って園城寺を開山した僧侶の円珍が、日本へと戻る船の途中で新羅の神に助けられたのがきっかけとなって、園城寺の一角に新羅神社も作ったとなっている。近年考えられているのは、そもそも新羅とは何の関係も無い神社であり、本来は「新羅(しらぎ)」ではなく「白木(しらき)」なのではないか、表面の木の皮を削っただけで漆などを塗っていない建物である真新しい神社、すなわち「白木神社」なのでは無いかという説である。となれば、新羅神社の歴史の浅さも説明が行く。 後三条法皇は神仏に祈りを捧げて病気平癒を願ったが、神仏はその願いを答えなかった。 延久五(一〇七三)年四月三〇日。後三条法皇が危篤状態に陥る。翌日、五〇〇名の僧侶が集められての読経が始まる。 一方、白河天皇は後三条法皇が危篤状態にならなければ絶対に許さなかったであろう行動に出る。五月六日、白河天皇の生母である亡き藤原茂子を皇后と、藤原茂子の父である亡き大納言藤原能信を正一位太政大臣とすると発表。また、藤原能信の妻で藤原茂子の実母である藤原祉子にも正一位が与えると発表したのである。これの意味するところは誰もがわかった。後三条法皇が間もなく亡くなるというタイミングで、これまで白河天皇につきまとっていた藤原氏の血を引くという点をむしろプラスポイントに変えるのである。後三条法皇はまさか、最後の最後で自分が執念を燃やしてきた摂関政治からの決別を息子が否定することになるとは夢にも思わなかったであろう。 この現実を後三条法皇がどう考えていたかを伝える記録はない。あるのは、息子が父との決別を宣言した翌日である延久五(一〇七三)年五月七日に後三条法皇が逝去したという記録だけである。後三条法皇このとき四〇歳。 後三条天皇が即位する前、老いた藤原頼通の時代の終わりと、若き後三条天皇の時代の始まりというイメージが持たれていた。しかし、先に亡くなったのは後三条天皇のほうであった。八二歳の藤原頼通は隠遁したとは言え宇治の地で健在であり、その弟の藤原教通も七八歳の関白として現役であり続けていた。 後三条法皇の死を宇治の地で知った藤原頼通はその死を嘆き悲しんだという。

次に来るもの 3.後三条天皇退位

 さて、しつこいくらいにこの時代の通貨は「コメや布地」と書いてきたが、途中から通貨がコメしかないかのような書き方をしてきた。ここに、この時代のインフレの問題点がある。 コメや布地が通貨として機能している、いや、コメと布地の二種類が通貨として機能していると言うことは、モノやサービスの売買をコメにするか布地にするか選べると言うことでもある。 化学繊維など存在しないこの時代、布地というのは天然繊維である。 では、どのような天然繊維があったのか? まずは絹である。発掘調査の結果、日本国での絹生産は紀元前二世紀にはすでに始まっていたことが判明しており、律令における税制でも絹織物を納めるよう規定されていた。農家の貴重な副業であると同時に、絹糸を作り出す蚕の餌となる桑の栽培も重要な副業であった。ただし、生糸や絹織物が明治時代から昭和中期にかけての日本の重要な輸出品であったことは脳裏から捨てていただきたい。この時代の日本の絹織物は質が低く、輸出品とするには不適格であったからである。日宋貿易の品目を見ても、絹織物や生糸は日本が宋から輸入するものであり、宋へと輸出するものではなかった。そもそも、絹織物を作って税として納めろと命じられているのだから最低限のノルマさえ果たせばそれで充分であり、質を高めようなんて意欲は全くなかったのである。もっとも、税では無く売り物とする前提の絹織物はさすがに高品質である。稲作には向いていないが絹織物の生産には向いているという土地である場合、コメを納める代わりに絹織物で、つまり、コメがとれる土地で納める以上の絹織物を税として納めることになっていたが、税として納める分の絹織物はテキトーに済ませておいて、市場(いちば)で売り買いするための絹織物は最高級品を作り上げる。この結果、税として納められた絹織物は通貨として市場に流通し、売買用に織られた絹織物は売り物として市場(しじょう)で流通するようになる。 次に麻である。絹は紀元前二世紀という比較的新しく伝来してきた繊維素材であるのに対し、麻は縄文時代の遺跡からも見つかる古くからの繊維素材である。絹が高級品であったのに対し麻は一般庶民の繊維としてもっとも一般的であった。絹織物の作ることのできない地域では絹織物ではなく麻の布を税で納めることとなっていた。絹織物よりは一段下に見られていたことから納めるべき麻布の量は絹織物より多く設定されていた。もともとは絹織物の三分の一の価値とされ、絹織物の場合、一反、すなわち、長さ一五メートル・幅六五センチの絹織物を納めれば六人分の税を納めたことになるとされていたのに対し、麻布の場合は同サイズの納税が二人分の税ということになっていた。 これが、平安時代になると絹織物一反と麻布六反が等価値となるまでになった。もっとも、上に政策あれば下に対策ありということで、絹一反と麻布一反のサイズが同じでは無くなった。絹一反は長さ六丈(一七メートル七六センチ)と伸ばされた代わりに幅が一尺九寸(五六センチ)へと細められ、麻布一反は、横幅が広がったものの長さが四丈二尺(一二メートル四三センチ)と縮められた、より正確に言えば、少しずつサイズをごまかし続けてこの数値へと落ち着いた。税を納める側からは「長さと幅が違っていますが布地としての面積は同じです」という言い訳があったようだが、律令に定められた面積とこの時代の麻布一反の面積とを比べると、一二パーセントほど面積が減っている。 日本の伝統的な衣料として思い浮かぶ衣類にはそのほかに木綿があるが、この時代、木綿は一般的ではない。木綿は飛鳥時代に日本に確かに伝わったが一般に普及するようにはならず、一般に普及するのは戦国時代になってからである。この時代から二五〇年ほど前の渤海との交易で日本から渤海へと輸出されたという記録はあり、平安京の市(いち)でやりとりされた製品の中には木綿も含まれているから、この時代の人が木綿という繊維を知らなかったわけではない。だが、後三条天皇時代における木綿とは富裕層向けの嗜好品であり、通貨として利用できるほど流通しているものではなかった。 現在では一般的な天然繊維でありながら当時は富裕層向けの嗜好品であったという点でさらに特筆すべきは羊毛である。十二支に入っているぐらいだから日本国で羊という存在が知られていなかったわけではない。ただ、羊そのものがきわめて珍しい動物と扱われており、その毛を刈り取って衣服とするという発想は考えづらいことであった。富裕層の持つ超高級品として羊毛製品があったという記録があるにはあるが、そのように扱われているものを一般の布地として考えるのは厳しい。 以上が後三条天皇の時代における日本国の衣料事情である。 そして、この衣料事情を前提として、コメと布地とが通貨として市場(しじょう)に流通している。 というタイミングで、まずコメの量が減った。新しく生み出される布地の量も減ってきているが、もって三年というコメと違って、布地ははるかに長持ちする。この結果、通貨としての価値が、円安ドル高ならぬ、布安コメ高になった。同じ品物をコメで買うときと布地で買うときとで必要となる手持ちが激変することとなったのである。 どういうことかというと、コメはコメ、布地は布地とそれぞれ異なる貨幣価値が存在しているのである。 二一世紀の現在に住む我々は、あるいは、ブレトン=ウッズ体制崩壊後の変動相場制に住む我々は、貨幣価値というものが頻繁に変わるものだと理解している。仮に一ドル一二三円四五銭という数字であったとして、一分後に一ドル一二三円六七銭になっていたとしてもおかしくはないと知っている。ただし、日本国内で流通している通貨は日本円のみであり、ドルだといくらになるかというのを考えるのは貿易に関わる人か、海外製品をドル決済で直購入する人ぐらいなものである。貨幣価値は頻繁に変わるものだという概念は知っているが、通貨が一つではないというのは考えづらいものとなっている。 だが、平安時代は、コメと布地の二種類の通貨が存在していた。そして、コメと布地と二種類の通貨が手元にあるという人が普通だったのである。そして、布地を使ってモノやサービスを買おうとすると、必要となる布地の量が日に日に増えてきている。コメのほうが少ないし貴重になると考えれば、相対的に価値が下がることとなる布地でモノやサービスを買おうとする。誰もが同じ考えで行くと、布地の価値はますます下がり、コメの価値はますます上がる。たとえば、ある書物一冊の値段がコメだと三升、布地だと絹一反だという場合、書物を買いたいという人は一反の絹を持って行くか三升のコメを持って行くかを選べた。しかし、コメの値段が上がり布地の値段が下がるとどうなるか? コメ二升、もしくは絹二反という値段になる。コメを持っている人にとってはデフレである一方、布地を通貨として使おうとしている人にとっては手に負えないインフレだ。 ただし、ここで布地というモノの特性が発揮されることがある。それは、ごまかしが効くということ。先ほど、麻布の面積が一二パーセントほど減ったと記したが、それがさらに進行した。布一反を通貨単位とした場合、一反の面積を減らせばインフレに対処できる、と通貨としての布地を使う側は考える。 これは正しいことではないと後三条天皇も考えたであろう、延久二(一〇七〇)年二月七日、絹一疋の長さを三両二分と定めると布告した。ここで定めたのは絹のみであり、麻布については定めていない。一疋というのは布地の長さの単位のことで、二反と等しい。両は長さ全般の単位で一両が四〇尺に相当するから、三両二分だと一二八尺となる。本来の絹一反は長さ六丈、つまり六〇尺。一疋となるとその二倍だから一二〇尺となる。絹一疋の長さを伸ばすと言うことは、通貨としての布地の貨幣価値切り上げを意味する。コメの値段が上がり布地の価値が下がったのであるから、布地の量を増やせばコメと布地とで貨幣価値が釣り合う。これは理論上正しい。 もっとも、上に政策あれば下に対策ありというのは世の常。絹一疋を一二八尺とする命令を後三条天皇が出した。市場(しじょう)はその命令に従う。ただし、尺貫法という代物は現在のメートル法と比べものにならない不安定な存在である。 現在の日本国は、世界の多くの国と同様にメートル法が浸透している。ヤード・ポンド法の国に行ったり、あるいはゴルフやアメリカンフットボールのように距離をヤードで表する競技でメートル法ではない単位を受け入れたりすることがあるが、基本的には、距離はメートル、重さはグラム、容積はリットルで考える。ただし、日本文化がそのようになったのは昭和四一(一九六六)年以降のことで、それまでは尺貫法とメートル法が混在していた。現在の日本の建物や日用品でも、メートル法で表すと中途半端な数字であるが、尺貫法だとピッタリとはまるというケースが散見される。 尺貫法を捨ててメートル法になったのは法による強制があったからだが、もう一つ忘れてはならない点があった。それは、度量衡としての完成度。尺貫法というものは長期間に渡ってぶれ続けてきた、不安定な度量衡だったのである。その不安定さを明治維新以後は改良しようとしたし、実際にある程度の改良も進んでいたのだが、メートル法の完成度の前にはどうにもならなかった。明治維新以後の近代学術が機能しても不安定であり続けた尺貫法は、近代学術を頼れない時代ではより一層不安定なものとなる。律令で定められている一尺をメートル法に直すと三五・六センチであったが、平安時代になると二九・六センチへと縮んでしまった。あくまでもオフィシャルには。 厳密にはもっとい加減であった。現在のように同じ目盛りを刻んだ定規を複製できるだけの技術はこの時代存在しない。厳密に言えばあるのだが、その技術が発揮されることを望んでいない。長さも、重さも、容積も都合よく解釈されてきたのが尺貫法である。たとえばこの時代で言うと、一尺の長さを現在のメートル法に直して二九センチ、さらには二八センチと縮めることで、絹一疋を一二八尺という規則は守っていると称するようになったのである。 モノやサービスの値段が上がっている状況というのは、生産者としては嬉しい話である。何しろ売上が増えて給与が増えることを意味するのだ。しかし、消費者にとっては苦しい話となる。それまで手にできていたモノやサービスが手に入らなくなるのだ。そして、物価上昇が真っ先にダメージをもたらすのは、生産者としての収入が無い者、次いで、生産者としての収入が少ない者である。執政者とは、こうした声に耳を傾ける義務がある。もっとも、耳を傾けすぎて、消費者を守るために生産者にさらなる苦痛を与え続けているという日本国の失われた二〇年という失敗もあるが。 物価上昇は、生産者を守り、経済成長を続けるためには不可欠である。かと言って、バブル崩壊以後の日本ほどである必要はないが消費者は守らねばならない。そのあたりが執政者としてのバランス感覚なのだが、このときにやってはいけないことが一つだけある。それは、物価を法律で強引に固定してしまうこと。物価が上がったために社会問題となっているとき、法律を定めて、あるいは既にある法律を再起動させて物価の上限を定め、それ以上の物価は許さないとするのは、人類史上あまたの執政者が挑戦し、例外なく失敗し続けてきた政策である。物価というのは、あるいは経済というものは、政治よりはるかに巨大であり、法律で簡単に制御できるような代物ではない。政治の力でどうにかしようとしたとき、経済は地下に潜り、市場(いちば)からはさらにモノが消え、市場(しじょう)からは通貨が消え失せる。それを、政治の力で制御しようとすること自体に無理がある。物価に対して、あるいは経済そのものに対して政治ができるのは、現在の経済が誤っていると超然とした態度を示すことではなく、現在の経済を受け入れた上で、国民の暮らしがいかに前よりも向上するのかを考えて実行することだけである。 そもそも、価格はどうやって決まるのか? よく言われるのが、需要と供給のバランスで決まるという説明であるが、この説明は間違っている。価格を決めることができるのは売る側だけであり、買う側が誰も手を上げない値段をつけようと、あるいは、買う側が殺到するような値段をつけようと、それは売る側の自由である。値段設定は売る側の最大利益を計算してのものであり、外部によって統制されるようなものではない。 たとえば、コンサートホールやスタジアムの入場券が瞬く間に売れてしまう一方で、誰かが定価で買った入場券が本来の倍以上の価格で裏取引されるなどということについて、それを需要と供給にバランスによる価格の適正化と擁護する声が挙がることがあるが、コンサートやスポーツイベントの主催者はより長期的な売り上げを考えてその値段にしているのであり、裏取引の価格は適正価格ではなく、単なる寄生者でしかない。二〇〇〇円でコンサートに来てくれた人が、一〇年間、毎年二回足を運んでくれれば、コンサートの主催者は入場料だけでその人から一〇年間で四万円の売り上げを計算できるが、その価格が闇取引のせいで高騰してしまい、とてもではないが二〇〇〇円では入場券が買えなくなったとき、今後一〇年間のファンであることを期待できるであろうか? 裏取引を正当化する人の主張するように適正価格を見直すという名目で、入場料を二倍の四〇〇〇円に高騰させたとしても、その人がファンでなくなったとすれば、一〇年間の売り上げは二倍の八万円ではなく、一〇分の一にしかならない四〇〇〇円である。これは最大利益だなどとはとてもではないが言えない。これはスポーツイベントでも、あるいは品薄で人気商品となっているものでも同じで、売る側が最大利益を考えた値段設定をしているときに横から寄生者がやって来て小遣い稼ぎをしようというのは、売る側と買う側の両方に大損害を与えるだけである。 一方で、原価高騰による値上げや、人件費高騰による値上げに対し、「その値段では買えないから安くしろ」という外部の声もまた、売る側に張り付いた寄生者でしかない。高いから買わないという人は、安くなっても買わない。買わないことの理由を値段の高さにしている人の声に合わせて、原価を割り込む値段設定にして、あるいは、従業員がまともな生活のできなくなる低レベルの給料にさせる値段設定にして安くさせても、「安くしてくれてありがとう」と寄生者は絶対に口にしない。「もっと安くできるはずだ」と文句を言うか、もっと安い値段設定にしているところに身を移すだけである。 価格というのは需要と供給のバランスではなく、供給者が最大利益となるよう考えた末に決まるものである。これを高くなったから安くしろとか、不自然に安くなっているから高くしろと外部が口出しするのは、供給者の最大利益を壊すだけでなく、そもそも利益の出ない構造にさせ、さらに未来の利益をゼロ、あるいはマイナスへと導く所業である。 このような状況に対し、執政者がとれる政策はあるのか? それともないのか? 答えは、ある。 それは古今東西のほとんどの執政者が手にできている権力構成要素の一つでもある。 その政策とは、税制。 増税と減税を国家財政や地方財政の健全化ではなく、景気を調整する政策として使うのである。 不自然に値下がりしているときに執政者がすべきは、増税である。特に、安値を強要する寄生者にターゲットを絞った増税である。安値を強要し自分の懐が痛むのを良しとしない寄生者が増えれば増えるほど、市場(しじょう)から通貨が減り、景気はより一層悪化する。市場(しじょう)から減り、寄生者のもとに死蔵されるようになった通貨を吐き出させるような増税をすることで強引に市場(しじょう)に流通する通貨を増やせば、不自然な値下がりが生み出すデフレ不況は解消する。 一方、値上がりしているときにすべきは減税である。特に、生産者に対する減税である。値上がりというのはそもそもの絶対量が足らないために起こる現象である。コメの値段が上がったならコメの量を増やせば、布地の値段が上がれば布地の量を増やせば、値段は下がる。ただし、そのためには生産を増やさなければならない。働いても税として持っていかれるだけというのは生産意欲を落とすだけでなく、生産の性能そのものを落とすことにつながる。税を払うために給与を減らしたり、税を払うために人手を減らしたりして、生産が増えるとは夢ですら考えることができない。先ほどのコンサートの例でいうと、収容人員三〇〇〇名であるために入場券が売り切れるというケースで、収容人員を倍の六〇〇〇名に増やせば入場券が売り切れずに定価で全員に行き渡ることも考えられるが、ここでも減税が効果を発揮する。それだけ大きな施設を用意したり利用したりするのは負担がかかるものであるが、その負担に対する税を減らせば、用意に要する費用、人件費、管理費、施設利用費が抑えられるために負担が軽くなり、大きな施設を用意したり利用したりしやすくなり、入場券の発券枚数を増やして入場券を定価で行き渡らせることができるようになる。 後三条天皇は、荘園の不正義を正そうとした。その動機は理解できる。だが、待ち構えていたのは生産性の低下であった。生産性の低下が物価高騰を招き生活苦を招いた。増税はたしかに不景気のときにとるべき対策であるが、そこでターゲットにすべきは生産者に打撃を与えるような増税ではなく、資産を死蔵する寄生者に対する増税である。それなのに、荘園整理という事実上の増税策は、資産を死蔵する寄生者ではなく生産者に対する増税となってしまった。かといって、とるべき策であった減税というのは後三条天皇が許すはずはなかった。ここでの減税というのは荘園の拡大を意味する。後三条天皇が心血を注いでいる荘園整理を逆行させることは、かりにそれが有効な経済政策であると当時の人が考えて進言したとしても、絶対に認めることは無かったであろう。

次に来るもの 2.後三条天皇即位

 即位間もない後三条天皇には、真逆の二つの期待が寄せられていた。 世の中を大きく変えることと、世の中を大きく変えないことである。 前者はより良い世の中になることを期待し、後者はこれまでの暮らしが続くことを期待する。相反するこの二つの期待は政権交代が起こるたびに見られるごく普通の期待であるが、解決するのは難しい。通常はどちらか一方しか選べないものである。 しかし、後三条天皇はその双方の期待に応える一つの策に打って出たのである。 それが、大規模な開発である。莫大な国家予算を通じて新たなものを生み出すのだ。 世の中の変化を求める者にとっては、大規模な開発によって新しい時代が作られることの期待であり、これまでの暮らしが続くことを願う者にとっては、現状に手をつけないという安心感である。 治暦四(一〇六八)年七月二一日、正式に即位した後三条天皇は、ただちに内裏再建を宣言する。その上、早急な建造であることを示すために、九月四日には、関白左大臣藤原教通の邸宅である二条第を内裏とすると宣言し、その上で早期の内裏建造完了を求めたのだ。この時代、自らの住まいが内裏となるのは名誉なことであったが、関白左大臣藤原教通にとっては朝から晩まで、いや、眠りについている間も朝廷の中で生活するようなものであり、心労はただならぬものがあった。この心労が終わりを迎えるためには、一刻も早く正式な内裏の建造工事が完了して後三条天皇が正式な内裏に遷ることを待つしかない。 内裏再建につぎ込む予算は膨大なものとなったが、誰も文句が言えなかった。内裏が焼け落ちてそのままになっていることのほうが問題であり、仮の住まいを転々とするのがおかしな話であったのである。内裏は一刻も早く再建されなければならないというのは、誰も文句を言える話ではなかったのだ。ただし、国家予算の問題を除いて。 藤原摂関政治は善かれ悪しかれ現実に目を向けた政治である。現実に目を向けると国家予算の都合にも目が向く。よく、野党があれこれと展開する理想の政治に対し「財源はどうするのか」という反論を向けられることがあるが、あれは何も揚げ足をとっているわけではない。予算がどのようなものであるかをわかっているからこそそのように応えるのである。そもそも、野党が思いつきそうな解決策など、予算さえ許せばとっくにやっている。 後三条天皇の即位という政権交代も、与野党逆転という政権交代と変わらない。その上、それまで主張してきた急進的な改革ではなく、誰もが文句を言えない政策を展開している。だが、予算がないというのはどうにかなるものではなかった。どうにかするとしたら他の支出を引き締めるか増税するしかないのだが、そのどちらも後三条天皇は述べていない。後三条天皇が掲げたのは予算をつぎ込んでの内裏再建であり、その予算をどのように捻出するのかは全く述べなかったのだ。 このとき、予算の問題を一手に引き受けなければならなくなったのが、藤原頼通の引退に伴い人臣のトップに立つこととなった関白左大臣藤原教通である。無い予算を生み出すことなどできないが、後三条天皇が自分の邸宅である二条第に身を寄せている。この結果、予算の問題を無視して工事を進めよという後三条天皇に対して予算の問題で拒否する藤原教通という構図が延々と続いたのだ。 後三条天皇が二条第から遷ることとなったのは、内裏再建工事が終わったからでも、関白左大臣藤原教通の訴えを聞き入れたからでもない。治暦四(一〇六八)年一二月一一日、二条第が火災に見舞われたのだ。 どのような理由での失火なのかは史料に残されていない。しかし、想像は容易につく。 予算の問題をどうにもできなくなった藤原教通の選んだ最低最悪の選択肢であったのではないか、と。とは言え、証拠はない。朝から晩まで休むことなく後三条天皇の監視下に置かれることがなくなったという結果があるだけである。 内裏再建を命じた藤原教通からの回答がこれであると考えた後三条天皇は、その対応策を出した。天皇としての人事権の発動である。間も無く年が変わろうかという治暦四(一〇六八)年一二月二九日、大規模な人事異動が発表された。 その結果は下記の通りである。

次に来るもの 1.藤原頼通政権の終わり

 ダートマス大学のシドニー・フィンケルシュタイン教授は、著書「名経営者がなぜ失敗するのか」の中で、失敗する経営者のパターンとして七種類を挙げている。 一、自分と会社が市場や環境を「支配している」と思い込む 二、自分と会社の境を見失い、公私混同する 三、自分を全知全能だと勘違いする 四、自分を一〇〇パーセント支持する人間以外を排斥する 五、会社の理想像にとらわれ、会社の「完璧なスポークスマン」になろうとする 六、ビジネス上の大きな「障害」を過小評価して見くびる 七、かつての成功体験にしがみつく 政治家と経営者は必ずしも完全に同一ではないが、同一視できるのではないかと言えるほどあまりにも多くの共通点がある。自分の働いている先の責任者がこれらの七パターンのどれか、あるいは、それらの複数、あるいはその全てに該当しているという人もいるであろうし、教師がこのような人であったという学生生活を過ごした人や現在進行形で過ごしている人もいるであろう。 そのような人とは無縁だと考えていたとしても、首相がこういう人である、知事がこういう人である、市町村長がこういう人である、あるいはそうであったという人はこの国に住む全ての人が該当するであろう。 話を平安時代に向けるとどうなるか? 藤原頼通はかつての成功体験にしがみついた。 藤原信長は自分を完璧なスポークスマンであろうとした。 後三条天皇は障害を過小評価して見くびった。 白河天皇は支配していると思い込んだ。 藤原師実は公私混同した。 藤原師通は自分を全知全能だと勘違いした。 そして、この全員が、自分を支持する人間以外を排除した。 誰もが藤原道長の時代をピークに時代が落ちてきていると考えていた。そして、様々な人がそれぞれの方法で時代の転落を食い止めようとし、全員が失敗した。 政治とは国民生活の向上である。それが果たせなかった場合は、清廉潔白であろうと、正義感あふれる人であろうと、政治家としての失敗であり、政治組織としての失敗である。 摂関政治を倒すべきと考えたのは正義の実現のためであり、格差の解消のためであり、国民生活の向上のためである。それはそれで正しい。ただし、正義が実現し、格差が解消され、国民生活が向上したであろうかという疑問に対する答えは……