徳薙 零己

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末法之世 8.前九年の役

 スパイというものは、想像上の存在なわけでも、近現代だけの存在でもない。どの時代にあっても、どの社会にあっても、スパイというのは存在する。安倍頼時が利用したのはスパイであった。 奥六郡に向けて軍勢を進めているタイミングで、朝廷軍に潜り込んだ反乱軍のスパイが、平永衡が反乱軍側に寝返る可能性があるという情報を流したのである。そして、この情報を源頼義が信じてしまった。それだけではなく、平永衡が殺されてしまった。 源頼義はこれで、裏切り者はいなくなり、安心して戦えると考えた。 だが、平永衡が殺されたことは藤原経清を一つの決断をさせるに充分であった。八〇〇名の軍勢を率いて朝廷軍を脱出し、反乱軍側に加わったのである。その上、平永衡の所領に平永衡が殺害されたことを告げ、自らの所領とともに朝廷軍への補給を拒絶するよう指示したのである。 安倍頼時にとっては、考えられる最高の成果を収めたこととなる。手強い武人になると想定されたの二人のうち、平永衡は亡くなり、藤原経清は軍勢を率いて自らの軍勢に加わった。その上、平永衡と藤原経清の所領が反乱軍側に立ち、朝廷軍への補給拒絶を宣言したのである。これは朝廷軍を挟み撃ちにすると同時に、大軍であるがゆえに兵糧も大量に必要とする朝廷軍が補給できなくなることを意味したからである。

末法之世 6.後冷泉天皇

 後冷泉天皇が断固譲らぬこととして主張したのは、弟である尊仁親王を皇太子に就けることである。 この時点でまだ子がいない後冷泉天皇である。皇位継承権の筆頭として弟が選ばれるのはおかしな話ではない。この時点でまだ一二歳であるというのは不安要素ではあるが、前例のないことではない。そこまでは何に問題もないのである。 問題となるのは、尊仁親王の母が藤原氏でないということ。後冷泉天皇に何かあったとき、即位するのは尊仁親王である。そして、まだ元服していない以上、摂政が置かれることとなる。 繰り返すが、摂政というのは、天皇がまだ幼い、あるいは天皇が病気に倒れたなどの理由で、天皇の近親者が天皇の職務を代行する仕組みのことであり、藤原氏だから摂政になれていたのではなく、天皇の近親者ゆえに摂政になれていたのだ。 尊仁親王が天皇になったとしたら、摂政となるのは皇族の誰かであり、藤原氏ではなくなってしまうのだ。 これは、皇室との婚姻を前提とした摂関政治の終焉を意味するのである。 藤原頼通は、尊仁親王を皇太子とすることに可能な限り抵抗したが、どうあがいても尊仁親王以外に皇太子になる資格を持つ皇族はいないという現実を覆すことはできなかった。ただ、そこですんなりと尊仁親王を皇太子とするわけにはいかない。それは二〇〇年続いた摂関政治の終焉に直結する。藤原頼通は何とかして摂関政治を続ける方法を模索し、妥協点を探し出そうとしたのである。 一方、後冷泉天皇は摂関政治がどうなろうと知ったことではない。自分の身に何かあったときのことを考えても弟が皇太子になるのは何の不都合もない。ゆえに、摂関政治を存続させるための妥協点などには興味などない。ただし、藤原頼通を無視できたわけではなく、藤原頼通を繋ぎとめておくための妥協点は何としても見出す必要があった。 この時代の天皇に課せられた業務量は、一人の天皇でこなせる分量ではない。だから摂政や関白の出番が出てくるのだし、皇太子にも相応の役割が求められるのである。後冷泉天皇がいかに意欲を見せたところで、膨大な業務量を考えると業務をこなすことに汲々とし、自分の目指す政治を実現させる時間などどこにも見当たらないという現実がある。 しかも、弟以外に皇太子になれる人物が見当たらない以上、弟を皇太子とするしかないのだが、さすがに一二歳の少年に天皇としての国事行為の一部を肩代わりさせるなど荷が重すぎる。そのあたりの荷を軽くする存在として最も適切なのが、他ならぬ藤原頼通なのだ。 摂関政治を終わらせることは何とも思わなかった後冷泉天皇であるが、自らの政務を一部でも肩代わりできる存在の必要性は見出していた。その答えはこの時点で藤原頼通しかいなかったのである。 後冷泉天皇は摂関政治の継続など考えないが藤原頼通は必要としており、藤原頼通は何としても摂関政治を続けようとする。その妥協点を見出した結果が、関白藤原頼通の続投、そして、この時点では尊仁親王を皇太子とするが、藤原氏の女子を入内させ、その女子が後冷泉天皇の子を産んだら、そしてその子が男児なら、その男児を皇太子とするというのが妥協点であった。 これだけ見ると、藤原頼通にあまりにも有利である。後冷泉天皇が与えるばかりで藤原頼通は何も与えていないではないかと思える。ギブアンドテイクのギブだけでテイクがないのだ。 だが、後冷泉天皇には、ギブに見合ったテイクを、いや、ギブ以上のテイクを手にしていた。 そのテイクこそ、この時代の最大の社会問題となっていた荘園問題である。 荘園が社会問題であることは誰もが把握していた。しかし、荘園の所有者自身が他ならぬ貴族なのである。すなわち、法案を作る側なのだ。法案を作る者が、自らの資産を大きく減らす法案を作るであろうか? 後冷泉天皇は荘園問題の解決を目指したのだ。そのために、最大の荘園所有者である藤原頼通との間に妥協点を見出した。 後冷泉天皇の最終目標は、荘園の消滅である。律令で定められているように全ての土地が国のものとなり、全ての収穫が国への納税対象となる。年貢を納めるべき相手は荘園領主ではなく国であるというのが後冷泉天皇の考えであった。 ただし、それはあまりにも非現実的すぎた。何しろ、律令制により土地が全て国のものであった一八〇年間だけで飢饉が六回も発生し、飢饉でない年も生産性が著しく劣化していた一方、荘園制が始まってからの二〇〇年間は、生産性が大きく向上し、飢饉も二〇〇年間で一度、それも、藤原純友の乱に影響による一回という数まで減少したのである。 経済の視点で見るなら、律令制は社会主義であり、荘園制は資本主義である。資本主義による格差の拡大が社会問題であることは人類史上何度も現れた光景であるが、その格差解消の答えを社会主義に見出したとき、例外なく全て失敗している。後冷泉天皇がもし理想を実現させたなら、日本国は、正義と引き換えに、絶望の貧困へと落ちぶれてしまうのだ。 藤原頼通がそれを理解していなかったわけはない。荘園制に対する批判や非難が繰り広げられようと、荘園制は何としても維持しなければならないのである。貴族ばかりが儲かっていると言われようと、そのように非難する当の本人ですら、荘園制が始まる前より暮らしぶりも良くなっていることは否定できないのである。 藤原頼通は、父道長と比べるかどうしても見劣りしてしまうが、歴史上の執政者、すなわち、摂政、関白、太政大臣、征夷大将軍、鎌倉幕府の執権、そして明治時代以後の首相たち全員を採点して順番に並べたら、平均以上に位置するだけの結果を残してきた政治家でもある。しかも、およそ四〇年に渡って政界に身を置いてきた人間である。このような人間は、現実離れした理想に基づく法案を、一見すると実現させているように見えながら、実際にはかなりの骨抜きの、つまり、現実に与えるダメージを限界まで削った法案とさせるように変えることぐらい簡単にできる話である。 貴族が荘園で儲けている。それは事実だ。 荘園が制御されると貴族の収入が減る。それも事実だ。 だが、貴族の収入が減るという理由だけで、荘園の消滅に反対するわけではない。それは国民生活に直結する話なのである。国民生活の悪化に比べれば、自らが悪評を受けることなど些事とするしかないのが政治家というものである。