2024.01.12 21:30平安時代叢書第一集 安殿親王と薬子(784年~810年)安殿親王と薬子 1.平城天皇の時代 女の幸せは、妻となり、母となることだという人がいる。 しかし、それは否だと私は考える。 そしてこう考える。 幸せとは、男であれ、女であれ、誰かに愛されることなのではないのだろうかと。 そう考えると、いささめのまとめ安殿親王と薬子 2.薬子の変 政治の効率としては、複数の権力者による話し合いより、一人がトップに君臨してのトップダウンであるほうが圧倒的に効率的である。 桓武天皇の頃も天皇をトップにしてのトップダウンであったが、その途中には貴族いささめのまとめ第二集 北家起つ(810年~826年)北家起つ 1.縄文時代終結 平城上皇の出家、薬子の自殺、そして仲成の死刑。 ライバルを一掃した藤原冬嗣(ふゆつぐ)はまだこのとき三五歳。平均寿命の短い当時でもこの若さならば未来はまだまだ長い。 その長い未来を前にして、ライバルいささめのまとめ北家起つ 2.対新羅戦争 東北地方の戦乱が集結したことで、とりあえず平和にはなったと誰もが感じた。 だが、その平和は半月しかもたなかった。 一二月二八日、新羅軍、対馬襲来。 桓武天皇の時代は、新羅といつ戦争となってもおかしくいささめのまとめ北家起つ 3.藤原独裁政治の入り口 役人の腐敗は止まらないどころか悪化していた。 無論、それに対して何もしていなかったわけではない。 二月九日、横領の容疑で複数名の役人が逮捕された。ただし、懲戒免職となった三名と、発覚する前に死去していささめのまとめ第三集 中納言良房(826年~843年)中納言良房 1.若き反逆者 藤原氏の確立した摂関政治と、徳川氏の確立した江戸幕府。この二つはともに最高権力を継続するシステムとして二〇〇年以上の寿命を持ったが、この二つの政体を比べた場合決定的な違いが存在する。 それは後者が完いささめのまとめ中納言良房 2.若者は時代に挑む 閏三月九日、空席となっていた大学頭に藤原良房が任命された。淳和天皇の強い推薦があったからである。 淳和天皇は空席となった大学頭の後任を探したとき、皇太子に相談するという名目で春宮亮である藤原三成にもいささめのまとめ中納言良房 3.仁明天皇の時代 しかし、このときの水害救援を淳和天皇は評価するのである。 一一月二日、藤原緒嗣が念願だった左大臣に就任した。 ただし、後任の右大臣には清原夏野が就任する。 緒嗣にとっては満面の喜びに水を差された形といささめのまとめ中納言良房 4.遣唐使渡航失敗 承和昌宝の大きさだが、直径が約二一ミリの円形だから現在の五〇円硬貨と同じ大きさである。ただし、現在の五〇円硬貨が四グラムあるのに対し、承和昌宝は約二・五グラムしかない。実際に手に取ってみるとその軽さいささめのまとめ中納言良房 5.遣唐使帰国 三月一一日、常嗣と篁に餞別が渡された。そのときの儀式の様子は前年の四月二四日に行なわれた賜餞の儀式と全く同じである。詩のタイトルが「春晩入唐使に餞別を賜わるの題」に変わったことと、大使常嗣が激しい酔いささめのまとめ中納言良房 6.承和の変 常嗣、淳和天皇とこの年は死者が相次いでいたが、七月七日、また新たな死者が出る。 右大臣藤原三守死去。享年五六歳。 就任する直前まで大臣になるなど想像せぬ人生であったが、右大臣に就任してからこれまで、いささめのまとめ第三集 中納言良房 外伝 あこな中納言良房 外伝 あこな(上) 島根県の七類や鳥取県の境港から高速船で一時間、あるいはフェリーで二時間半の旅路を経ると隠岐に着く。今でこそ気軽な旅路になったが、かつては一日がかりの旅路であった。いささめのまとめ中納言良房 外伝 あこな(下) 翌日、戦場から本府へと帰る軍勢が都万目の村を通りかかった。 タカムラを先頭とする軍勢は、縄で縛られた捕虜を本府へ運びつつ、亡くなった者の故郷に遺体を帰しながら帰還していた。 ここで都万目の村に寄ったいささめのまとめ第四集 応天門燃ゆ(843年~866年)応天門燃ゆ 1.伴善男登場 意外なことかも知れないが、平安時代、庶民が宮中に足を運ぶことは自由にできた。ただし、建物に入ることはできない。そのため、屋外で開催される宮廷行事の様子を描いた絵巻物であれば、観客として行事を見物するいささめのまとめ応天門燃ゆ 2.律令派 良房はこれに加え、もう一つの罠を用意した。 二月八日、伴善男が右少弁(うしょうべん)に任命される。弁官は太政官、いわゆる中央政府のもとで庶務や雑務を行う職務であり、右少弁はその上から六番目の地位に相いささめのまとめ応天門燃ゆ 3.巻き返し 良房と反良房の対立は、律令を捨てるか律令を守るかの対立でもある。 両派とも現状が良くないことは認識できていた。ただし、現状が良くない理由を、良房派は律令そのものに原因があるとし、反良房派は律令を守っいささめのまとめ応天門燃ゆ 4.文徳天皇 嘉祥三(八五〇)年一月六日、仁明天皇体調不良で倒れる。 翌一月七日、仁明天皇不在のまま、左大臣源常、右大臣藤原良房の二名により、この年の昇格者が発表される。皇族一名、貴族一四名がこの日昇格。同時に一いささめのまとめ応天門燃ゆ 5.トロイカ体制 良房は自宅を開放し、天然痘の災厄を逃れようとする者を収容した。もっとも、いくら良房が裕福であると言っても、この時代の医学水準を超えるような医療を提供できるわけではない。つまり、良房の屋敷に足を運んでいささめのまとめ応天門燃ゆ 6.太政大臣 良房の権力の最たる物は何であるか? この問いに対するの答えは、そのまま藤原北家がなぜ二〇〇年もの長きにわたって権力を維持し続けてきたかという答えになる。 良房の権力の由来は、娘を天皇の妻としたことでいささめのまとめ応天門燃ゆ 7.御霊会 清和天皇が即位した後も元号は「天安」のままであったが、前天皇の元号をそのまま使い続けるというのはあまり一般的ではない。もっとも、現在のように天皇の死去と同時に元号が変わるという決まりはないので、天皇いささめのまとめ応天門燃ゆ 8.応天門炎上事件 では、この間、良房は何をしていたのか。 名目上は咳逆病に罹ったために貴族の邸宅に立ち並ぶ自宅を離れ、比較的閑散としている地域に建つ染殿第で療養していることとなっているが、そんなものは目的のごく一部いささめのまとめ第四集 応天門燃ゆ 外伝 山崎の踊り娘応天門燃ゆ 外伝 山崎の踊り娘(上) 「それがな、落ちたんだってよ」 男は喜々として言った。 「嘘でしょ! 何で道真さまが落ちるの!」 女は信じられないというより、信じたくないという思いで言った。 「落ちたのは道真さんだけじゃねえって。いささめのまとめ応天門燃ゆ 外伝 山崎の踊り娘(下) 河陽離宮の建設工事は九割ほど完成していて、国府の一部の業務は既にこの場で稼働していた。 軽食を終えた二人は工事中の国府の中に入っていった。 家出同然で都を発ったとは言え、本物の家出ではない以上、貴族いささめのまとめ第五集 摂政基経(866年~882年)摂政基経 1.清和天皇 芥川竜之介の作品の中に『芋粥』という短編小説がある。そのあらすじを簡単に記すと、『平安時代初期のとある貴族に仕える侍の中に、好物である芋粥を一度でいいから腹一杯食べてみたいと普段から考えていた貧しいいささめのまとめ摂政基経 2.武士たち 現在の日本で言えば、法人税を引き上げたり、サラリーマンへの課税を強めたりと、現在の税負担を一手に引き受けている現役世代に対するさらなる負担の増加は、失業の増大と生活の困窮化によりかえって税収の減少をいささめのまとめ摂政基経 3.対新羅戦 新羅との戦線は膠着していた。 一方的に侵略を食らっているわけだが、上陸を許しておらず海の上での戦闘に終始している。また、海の上での戦闘も最近は行われることなく静まり返っている。 新羅の立場に立てば当いささめのまとめ摂政基経 4.藤原良房死去 貞観一三(八七一)年一二月一一日、加賀国に渤海国から楊成規を大使とする渤海使が来日したとの報告が届いた。 唐は混乱が激しくまともな外交使節を送れない。 新羅に至っては今まさに戦争をしている最中であるいささめのまとめ摂政基経 5.源能有 清和天皇の兄の源能有の存在価値は日に日に向上していた。 反律令の現実主義の政策を進めるとき、壁となって立ちふさがる集団が二つある。一つは源融のように反律令ではあるものの基経には味方しない者、もう一ついささめのまとめ摂政基経 6.元慶の乱 日本が干害に襲われて大変なことになっていることを理解して渤海使たちは帰国した。 朝廷はこれで干害対策に専念できることとなった、はずであった。 しかし、現在の科学でも干害はどうにもならないのに、この時いささめのまとめ第六集 左大臣時平(883年~909年)左大臣時平 1.後継者藤原時平 「それが大臣(おとど)たる者の言葉とは思われません。」 「どのように言われても構わない。朝(ちょう)にはそのような力などなく、民にはそれを受けるだけの力などないのです。」 元慶七(八八三)年、陽成天いささめのまとめ左大臣時平 2.阿衡事件 さて、時平はこのとき何をしていたのか。 時平はこうなることを知っていて、それでもなお高みの見物を決めていた。 時平は基経と同様学者派と対立している。そして、学者派の追放にかける思いは父より強かった。いささめのまとめ左大臣時平 3.道真は“追放”されたのか? 歴史書の編集は面白さをもって眺められたが、その数日後、とてもではないが笑えない事態が見つかった。 「主上は防人を復活なさるおつもりですか。」 いつも通りの思いつきかと思い、宇多天皇に拝謁するとやはりいささめのまとめ第七集 貞信公忠平(909年~949年)貞信公忠平 1.忠平政権 聡明にして寛大な性格は誰からも愛され、その死は全ての人に計り知れない悲しみをもたらしたと歴史書は伝えている。 兄である藤原時平の死から四〇年に渡って権力を握り続けただけでなく、藤原氏の権力の系譜も忠いささめのまとめ貞信公忠平 2.道真怨霊伝説 延喜一七(九一七)年一二月一日、奈良から東大寺で大火が発生したとの情報が届いた。講堂と僧坊の焼失は大きな損害となった。 それは例外ではなかった。 この年の冬、異常気象が日本を、特に近畿一帯を襲ったのいささめのまとめ貞信公忠平 3.平将門登場 朱雀天皇の治世と藤原忠平の生涯を追いかけるとき、絶対に欠かすことの出来ない人物が一人いる。 より正確に言えば、その人の時代であることを説明するとき、京都で一番勢力を持っていた貴族の名が藤原忠平でありいささめのまとめ貞信公忠平 4.反乱勃発 関東地方で平氏同士の争いが展開されているというニュースは京都にも届いていた。届いていたが、京都に届いたとき、そのニュースはその他大勢のニュースの一つに紛れ込んだ。 ではそのとき、京都にはどのようなニいささめのまとめ貞信公忠平 5.関東大乱 将門は敗走した。民衆を見捨て、妻子を見捨てた将門であるが、武具は健在である。ゆえに、再度の武装に要する時間は短縮できる。新たな本拠地とした猿島で将門は良兼打倒の軍勢を整え始めた。 一方、良兼の元に捕いささめのまとめ貞信公忠平 6.平将門の破滅 興世王は良かれと思って税を集めたが、待っていたのは領民からの激しい反発であった。国府の前に興世王を非難する匿名の手紙が置かれていたことは、興世王のプライドを大きく傷つけた。そして、武芝の元に多くの領いささめのまとめ貞信公忠平 7.危機の終焉 京都はきわめて絶妙なタイミングで救われることとなった。 天慶三(九四〇)年二月二二日、追捕使の小野好古から、純友率いる軍勢が京都に向かって進軍しているという情報が届いたのである。純友は自分が従五位下いささめのまとめ第八集 天暦之治(949年~970年)天暦之治 1.村上天皇親政 村上天皇の妻は太政大臣藤原忠平の次男、藤原師輔の娘である。その上、忠平の長男である藤原実頼は四八歳の左大臣、そして、義父でもある藤原師輔は四〇歳の右大臣。さらに、忠平の四男の藤原師氏が三五歳の参議、いささめのまとめ天暦之治 2.藤原北家再興 藤原良房の時代から、源氏の面々は藤原氏とのつながりを深めるのが当たり前であった。この意味で、清和源氏の行動はこれまでの源氏の伝統を継承していると言える。 とは言うものの、源氏の行動はただ単に藤原氏のいささめのまとめ天暦之治 3.安和の変 そもそも藤原独裁とは何か? 血筋による藤原北家の権力継承という答えは正解ではない。 正解は、藤原氏の教育機関である勧学院の出身者による権力継承である。 律令制によれば、国の教育機関である大学寮を卒業いささめのまとめ第九集 戦乱無き混迷(970年~990年)戦乱無き混迷 1.伊尹から兼通へ 藤原実頼の死後、藤氏長者は藤原師輔の長子藤原伊尹の手に移り、摂政の地位にも藤原伊尹が就任した。ただし、この時点の藤原伊尹の地位は右大臣であり、人臣としてのトップではない。人臣のトップは左大臣藤原在衡いささめのまとめ戦乱無き混迷 2.兼通から兼家へ 天延三(九七五)年六月一六日、六衛府官人らが給与支払いを求めてストをはじめた。防人の消滅と武士の台頭により勢いを弱めていた朝廷直属の武官であるが、いかに勢いを弱めていると言っても武器を手にした人間がいささめのまとめ戦乱無き混迷 3.花山天皇の暴走 天延四(九七六)年五月一一日に焼け落ちた内裏を復旧させ、避難していた円融天皇が内裏に戻ったのが貞元二(九七七)年七月二九日。それから三年四ヶ月になろうという天元三(九八〇)年一一月二二日、また内裏がいささめのまとめ戦乱無き混迷 4.寛和の変と尾張国解文 花山天皇のような独善的な政治を行う人には一つの特徴が見られる。それは、側近を必要以上に重視し、能力以上に取り立ててしまうということ。 敵と味方が歴然としていて敵と妥協する意志を見せない者が味方だけをいささめのまとめ第十集 源氏物語の時代(990年~1016年)源氏物語の時代 1.藤原道隆の時代 藤原氏を代表する人物と言えば藤原道長である。 書店で子供向けの伝記のコーナーに足を運んだとき、そこにいる藤原氏は、藤原冬嗣でも、良房でも、基経でも、時平でも、忠平でもなく、藤原道長である。 それは歴いささめのまとめ源氏物語の時代 2.藤原伊周と枕草子 正暦三(九九二)年四月二七日、一条天皇が母である皇太后藤原詮子のもとを訪れた。 出家した身の者に、子が顔を見せに訪れることは珍しい話ではない。本来、出家とは、俗世間とのしがらみを切り捨て、余生の全ていささめのまとめ源氏物語の時代 3.藤原伊周の破滅 長徳元(九九五)年四月一〇日、正二位関白藤原道隆。四三歳の若さで死去。 同日、内大臣藤原伊周が関白代行の職務から解かれる。名目上は父の死による服喪のため参内できなくなることに伴う措置であるが、誰の目いささめのまとめ源氏物語の時代 4.藤原道長政権始動 長徳五(九九九)年一月一日時点の議政官構成は、藤原氏一二名、源氏二名、平氏一名という極端な藤原独占ではあったが、総勢一五名という少ない陣容でもあった。これが前年の伝染病の影響の結果である。貴族が次々いささめのまとめ源氏物語の時代 5.紫式部のいる宮中 寛弘二(一〇〇五)年一月一六日、宮中において大スキャンダルが起こった。 事件の犯人として名が残っているのは六名。 藤原道兼の子である藤原兼綱。 かつての左大臣源雅信の孫で、大納言源時中の子である源朝いささめのまとめ源氏物語の時代 6.三条天皇 寛弘六(一〇〇九)年一〇月五日、里内裏として事実上の内裏として機能していた一条院が焼亡した。一条天皇は緊急避難措置として織部司庁に遷ったが、内裏とするには手狭な建物であった。 一条院は、その本来の目いささめのまとめ源氏物語の時代 7.満ちたる望月 一方で、道長が激怒したのは長和二(一〇一三)年五月九日のことである。 三条天皇はこの日、天文博士安倍吉昌の辞表と遍救法師の申文を受け取った。 このような上奏文が天皇のもとに届くのはおかしなことではないささめのまとめ第十一集 欠けたる望月(1016年~1031年)欠けたる望月 1.道長から頼通へ 摂関政治のピークは藤原道長と頼通の父子の時代であるとなっている。 そして、摂関政治のピークはなぜ過ぎ去ったのかという問いへの答えはだいたい一定している。藤原頼通の娘が男児を産むことができなかった、すいささめのまとめ欠けたる望月 2.あの和歌 寛仁元(一〇一七)年四月二八日、三条上皇が危篤状態となった。 この知らせが飛び込んできたのは現在の時刻にすると午前四時ごろである。 知らせに慌てた道長は夜が明けぬうちに三条上皇のもとを訪れ、三条上皇いささめのまとめ欠けたる望月 3.刀伊の入寇 藤原道長の詠んだ和歌が話題になったという記録はない。現在の我々が道長の詠んだ和歌を知ることができるのは藤原実資の日記に記されているからであるが、その続きを見ても、ただ単に詠んだというだけで、それが話いささめのまとめ欠けたる望月 4.道長のいない朝廷 寛仁四(一〇二〇)年元日時点の議政官の構成は以下の通りである。いささめのまとめ欠けたる望月 5.存在感 藤原頼道が議政官をここまで身内で固めていたことに対して目を閉ざしていたわけではない。ただ、藤原頼通が確実な味方として計算できたのは身内しかいなかったのである。 思い返していただきたいのは、頼道が若きいささめのまとめ欠けたる望月 6.道長の死 右大臣藤原実資の生み出した冤罪事件の噂が京都市民の間を駆け巡ったのは万寿四(一〇二七)年五月まで。六月になるとそれよりもはるかに大きな噂が京都市民の間を駆け巡ることとなった。 法成寺の藤原道長がいよいささめのまとめ第十二集 末法之世(1031年~1064年)末法之世 1.藤原道長の影と遺産 時代の移り変わりには二種類ある。一瞬で起こった移り変わりと、少しずつ変化して気がついたら時代が変わっていた移り変わりである。多くの人は、前者の移り変わりについては明確に自覚するし、そのとき自分は何をいささめのまとめ末法之世 2.社会、経済、文化の変容 島根県を代表する観光地、出雲大社。 いつ誕生したのかの記録を遡ると古事記や日本書紀にまで遡る。 ただし、出雲大社という名称を歴史資料で探しても出てこない。出てくるとすればそれは明治時代以後の史料であいささめのまとめ末法之世 3.執政者藤原頼通 この切迫感の感じられなさについて、もう一つ取り上げるべきエピソードがある。 長元七(一〇三四)年一〇月二四日、上総国の官物を四年間免除すると決定された。上総国に命じられている国からの税を四年間免除すいささめのまとめ末法之世 4.末法思想の登場 長久の荘園停止令が発令されてから一ヶ月半ほどが経過した長暦四(一〇四〇)年七月二六日、近畿地方一体に暴風雨が吹き荒れた。平安京の被災状況が次々と朝廷に告げられ、ひと段落ついたと思ったら今度は伊勢からいささめのまとめ末法之世 5.後朱雀天皇 後朱雀天皇は、そして藤原頼通は、人事が詰まってしまっていることが問題の一つであることを理解してはいた。そして、人事が詰まっているのだから、詰まりを取れば、根本的解決とまではいかなくとも問題を多少なりいささめのまとめ末法之世 6.後冷泉天皇 後冷泉天皇が断固譲らぬこととして主張したのは、弟である尊仁親王を皇太子に就けることである。 この時点でまだ子がいない後冷泉天皇である。皇位継承権の筆頭として弟が選ばれるのはおかしな話ではない。この時いささめのまとめ末法之世 7.末法の年 永承六(一〇五一)年、藤原頼通が還暦を迎えた。寛弘六(一〇〇九)年に一八歳の若さで議政官入りしてから四二年という長きに渡って国のトップグループの一員であり続けたのだから、人生としては順風満帆だったかいささめのまとめ末法之世 8.前九年の役 スパイというものは、想像上の存在なわけでも、近現代だけの存在でもない。どの時代にあっても、どの社会にあっても、スパイというのは存在する。安倍頼時が利用したのはスパイであった。 奥六郡に向けて軍勢を進いささめのまとめ第十三集 次に来るもの(1064年~1099年)次に来るもの 1.藤原頼通政権の終わり ダートマス大学のシドニー・フィンケルシュタイン教授は、著書「名経営者がなぜ失敗するのか」の中で、失敗する経営者のパターンとして七種類を挙げている。 一、自分と会社が市場や環境を「支配している」と思いいささめのまとめ次に来るもの 2.後三条天皇即位 即位間もない後三条天皇には、真逆の二つの期待が寄せられていた。 世の中を大きく変えることと、世の中を大きく変えないことである。 前者はより良い世の中になることを期待し、後者はこれまでの暮らしが続くこいささめのまとめ次に来るもの 3.後三条天皇退位 さて、しつこいくらいにこの時代の通貨は「コメや布地」と書いてきたが、途中から通貨がコメしかないかのような書き方をしてきた。ここに、この時代のインフレの問題点がある。 コメや布地が通貨として機能していいささめのまとめ次に来るもの 4.白河天皇即位 後三条上皇について、新たに帝位に就いた白河天皇がどのような思いでいたのかを示す面白い記録がある。後三条天皇は、摂関政治の否定、荘園の否定、内裏再建の三つに全身全霊をかけてきた。そのうち、内裏再建は既いささめのまとめ次に来るもの 5.三不如意の萌芽 藤原信長のストライキによる内大臣不在は続いていた。 内大臣がいなくても政務がどうにかなっていたということである。 白河天皇は、やがていつかは自分が帝位に就くことを確信してきた人生を過ごしていた。ただいささめのまとめ次に来るもの 6.後三年の役開戦 承暦四(一〇八〇)年八月一四日、白河天皇はついに決断した。 内大臣藤原信長を太政大臣に昇格させると発表したのである。内大臣から太政大臣への昇格自体は過去に例のないことではないが、丸六年に渡って政務をいささめのまとめ次に来るもの 7.後三年の役終結 朝廷からの連絡が来ないまま時間を過ごしていた源義家は、援軍なしでの軍事行動を決意する。清原清衡とともに軍勢を進めた源義家は、出羽国沼柵(現在の秋田県横手市雄物川町)にある清原家衡の本拠地までたどり着いささめのまとめ次に来るもの 8.藤原師通 寛治五(一〇九一)年八月七日、京都を中心とする地域を巨大地震が襲った。 藤原道長の建立した法成寺は大打撃を受け多くの建物が崩壊した。 白河上皇の建立した法勝寺は、そのシンボルであった九重塔が傾いたほいささめのまとめ第十四集 天下三不如意(1099年~1127年)天下三不如意 1.藤原師実亡きあと 格差が問題だと考えるのは現在も平安時代も同じである。 そして、格差社会の解決方法が存在しないのも、現在も平安時代も同じである。 厳密に言えばあるのだが、それは、格差のほうがまだマシと言える絶望、すないささめのまとめ天下三不如意 2.新勢力の勃興 康和四(一一〇二)年に興福寺の起こした武装蜂起は、年が明けた康和五(一一〇三)年、最悪な形で収束した。 一日、また一日と興福寺の武装勢力は平安京に近寄り、三月中旬には白河法皇が破壊を命じた宇治橋を超いささめのまとめ天下三不如意 3.堀河帝から鳥羽帝へ 彗星というのは、現在では単なる天体現象である。 しかし、彗星のメカニズムが知られていない時代において、何の前触れもなく姿を見せる彗星というのは凶兆であった。箒星(ほうきぼし)という別名からもわかるといささめのまとめ天下三不如意 4.清和源氏の崩壊と再生 治安を悪化させる要因は、検非違使と北面の武士を総動員してデモ集団にぶつけたことだけではない。この時代の犯罪に直面したときの対応の常識にもある。 その一例が、嘉承三(一一〇八)年四月二四日の夜の出来事いささめのまとめ天下三不如意 5.山法師たち とは言え、事件は事件として審理されてはいたのだ。許されざる事件であるが、この時代の法に基づいて審理されていたのであるから、この審理自体は問題ないはずである。 しかし、比叡山延暦寺はここを問題視した。いささめのまとめ天下三不如意 6.藤原忠通 国境の外に目を向けると、このとき、中国大陸を震撼させることになる勢力が誕生していた。いささめのまとめ天下三不如意 7.白河院政 この時代の日本人は白河法皇が圧倒的権力者として君臨していること、藤原忠実の後を継いだ関白藤原忠通は前任者よりも白河法皇の言いなりになる関白であること、議政官は白河法皇の命令を法にするための儀式の存在いささめのまとめ第十五集 鳥羽院の時代(1127年~1156年)鳥羽院の時代 1.鳥羽院政開始 社会科学は実験できるか? 結論から言うと、できない。 こうすればより良い社会、より良い法律、より良い経済、より良い政治を作り出せるかを試行錯誤することはあっても、その全ては現実の暮らしとなって人々のいささめのまとめ鳥羽院の時代 2.諍う若者たち さて、長承二(一一三三)年の三月頃から一つの記録が見えてくる。旱魃の記録である。とにかく雨が降らないのだ。もっともこの時点ではまだ慌てた様子はない。単に雨が降らずに作物に影響が出るかもしれないとはあいささめのまとめ鳥羽院の時代 3.叛旗を翻す者 鳥羽法皇と崇徳上皇からなる二頭体制は、藤原摂関家にとって痛手であった。 とは言え、鳥羽法皇は何一つ法令違反をしていないのである。法に精通している内大臣藤原頼長が黙っていたのも、鳥羽法皇に逆らうことをいささめのまとめ鳥羽院の時代 4.悪左府の時代 話を源頼朝の産まれる前年である久安二(一一四六)年に戻すと、朝廷内に一つの問題が起こっていた。 左大臣源有仁の体調不良である。このとき左大臣源有仁四四歳。 当初は誰もが一時的な体調不良であると考えていささめのまとめ鳥羽院の時代 5.保元の乱 災害で記録が失われることは歴史上に何度も登場する。アレクサンドリアの大図書館しかり、この時代から三七年後の平泉しかり。また、応仁の乱で失われた歴史資料はあまりにも多く、現在は一部しか残っていない、あいささめのまとめ第十六集 平家起つ(1156年~1179年)平家起つ 1.信西政権 「平家ニ非ズンバ人ニ非ズ」 現在でも、平清盛率いる平家が、武士としての権勢を拡大し、その勢いがいかに強大なものであったのかを記すときに使われる言葉である。 ただ、この言葉は二重三重の思い込みが重なっいささめのまとめ平家起つ 2.平治の乱前夜 保元三(一一五八)年二月三日、鳥羽法皇の第二皇女である統子内親王が後白河天皇の准母として皇后に立后された。准母とは、天皇の実の母ではない女性が天皇の母に擬されること、また、そうした女性への称号であるいささめのまとめ平家起つ 3.平治の乱 藤原信頼は三条烏丸殿の外から後白河上皇に向けて宣告した。平治物語では、これまで朝廷に仕えてきたのに信西の讒言で誅せられようとしているので東国へ逃れることにすると馬上から宣告したという。しかし、三条烏いささめのまとめ平家起つ 4.平治の乱の戦後処理と二条天皇親政 藤原経宗と藤原惟方の二人の貴族は逮捕されたが、裁判はまだ始まっていない。 その一方で別の判決が下った。 信西の息子達に対する追放命令が白紙撤回されたのである。 信西の息子達を追放刑に処したのは藤原信いささめのまとめ平家起つ 5.平家の経済政策 応保元(一一六一)年九月一三日、大規模な人事異動が発表された。 まず、藤原公能の死去により空席となっていた右大臣に、内大臣藤原基房が昇格。これにより、藤原基房が一上(いちのかみ)としての職務を遂行でいささめのまとめ平家起つ 6.二条天皇親政の終焉 平安京で崇徳上皇の崩御のニュースが公然と語られるようになった長寛二(一一六四)年九月、平家納経の一回目の奉納が行われた。 奉納先は厳島神社。 厳島神社といえば社殿と大鳥居を思い浮かべるが、平家納経がいささめのまとめ平家起つ 7.平家の膨張と雌伏する源氏 平清盛不在の京都では後白河上皇の院政が着々と形作られていた。 まずは後白河院政の中心となる法住寺である。二条天皇と近衛基実の時代は貴族のほとんどが内裏のみに姿を見せていたが、今や多くの貴族が内裏と法いささめのまとめ平家起つ 8.殿下乗合事件と反平家の萌芽 嘉応二(一一七〇)年五月になると、平家が築き上げつつあるつながりに、それまで意識されることはあってもつながりとして考慮されることのなかった人物が加わった。奥州藤原氏第三代当主である藤原秀衡である。嘉いささめのまとめ平家起つ 9.白山事件と太郎焼亡 視点を京都に戻すと、武士団同士の抗争ではなく武官の人事が展開されていた。承安四(一一七四)年七月八日、源雅通が右近衛大将を辞任し、後任の右近衛大将に権大納言平重盛が就任したのである。 これにより、平いささめのまとめ平家起つ 10.鹿ヶ谷の陰謀と治承三年の政変 鹿ヶ谷(ししがたに)の陰謀について、平家物語はそれがいつのことであったのか具体的な日時を記してはいない。確実に言えるのは、平重盛が左近衛大将に、平宗盛が右近衛大将に就任した安元三(一一七七)年一月二いささめのまとめ第十七集 平家物語の時代(1179年~1189年)平家物語の時代 1.源平合戦前夜 治承三(一一七九)年一一月一七日。治承三年の政変。平家が日本国の天下を獲得。 元暦二(一一八五)年三月二四日。壇ノ浦の戦い。平家滅亡。 この間わずか五年半。 この短さで、源平合戦、歴史用語で言うとこいささめのまとめ平家物語の時代 2.以仁王 後白河法皇には男児が十一名いる。ただし、そのうちの八名は僧籍に入っており帝位継承の資格を持たない。 第一皇子は亡き二条天皇である。 高倉上皇は後白河法皇の第七皇子であり、二条天皇とは一八歳の年齢差がいささめのまとめ平家物語の時代 3.源頼朝挙兵 福原遷都と言うが、治承四(一一八〇)年五月三〇日の発表はあくまでも安徳天皇、高倉上皇、後白河法皇の福原御幸であり、首都機能の福原移転ではない。しかし、平清盛が告げた六月三日の福原御幸は、京都出発が六いささめのまとめ平家物語の時代 4.鎌倉入り 源頼朝の立てた作戦とは何か? 源氏勢力を房総半島に集結させることである。 治承四(一一八〇)年八月二八日、それまで姿を隠していた源頼朝の所在がついに確認された。真鶴から出港して相模湾を西から東へ横断いささめのまとめ平家物語の時代 5.福原遷都挫折 平清盛の福原遷都は容赦ない批判を受けたが、源頼朝による都市鎌倉の建設は批判を全く受けていない。理由は明白で、源頼朝は鎌倉という都市を構築することは狙っても、鎌倉を首都にしようとも、ましてや皇族の方々いささめのまとめ平家物語の時代 6.挫折と焼亡 治承四(一一八〇)年一一月二六日、安徳天皇平安京に還都。 同日、高倉上皇が平頼盛の六波羅池殿に入り、そこで病の床についた。 後白河法皇は平教盛の六波羅邸に入る。 これで正式に平安京への帰還が完了したいささめのまとめ平家物語の時代 7.平清盛死す 年が明けた治承五(一一八一)年、鎌倉では平穏な日々として始まり、京都では不穏な情勢として始まった。 源頼朝が新年を鶴岡八幡宮への参詣で迎えた頃、京都では前年の南都焼討の後始末に追われていた。と言っていささめのまとめ平家物語の時代 8.源氏の興隆、平家の衰退 西八条第の放火のあった治承五(一一八一)年閏二月六日、平清盛の遺言に従って平家の政務のトップを継承した平宗盛が、現状を考えると後白河法皇に全面的に従うのが得策であるとして後白河法皇への恭順を表明したいささめのまとめ平家物語の時代 9.養和の飢饉 治承三年の政変で成立した平家政権がほころびだしていることは鎌倉でも感じ取ることができることであった。 年が明けてしばらく経過した養和二(一一八二)年一月二三日、平時家が源頼朝の家人となったのである。いささめのまとめ平家物語の時代 10.木曾義仲上洛 源頼朝との間に相互不可侵が成立したことで、木曾義仲は行動の自由を獲得できた。 多くの武士が木曾義仲のもとに集って挙兵したのは、平家への怒りに満ちた正義の感情からでも、誰からも邪魔されない暮らしを手にいささめのまとめ平家物語の時代 11.木曾義仲破滅 寿永二(一一八三)年七月二五日、平家一門、京都を脱出。平家の都落ちである。 各地に派遣していた平家はただちに呼び戻され、安徳天皇、三種の神器、後白河法皇とともに西へ脱出することが発令された。 ところいささめのまとめ平家物語の時代 12.一ノ谷の戦い 源頼朝が報告書を受け取って読んでいた寿永三(一一八四)年一月二八日、京都では何の前触れもなく源義経が訴えられるという事態が起こっていた。 訴えられた理由は、源義経の郎従が小槻隆職の邸宅に押し掛けて乱いささめのまとめ平家物語の時代 13.平家滅亡 平家物語の記すところの平維盛の死から遡ること一〇日、実際の平維盛の死からは二〇日ほどが経過した寿永三(一一八四)年三月一八日、源頼朝が鹿狩りという名目で伊豆国へと出発した。当然ながらそのような名目をいささめのまとめ第十八集 覇者の啓蟄(1185年~1192年)覇者の啓蟄 1.平家滅亡ののち かつては鎌倉幕府の成立年を源頼朝が征夷大将軍に就任した建久三(一一九二)年とするのが一般的であった。征夷大将軍就任年から「イイクニ作ろう鎌倉幕府」と鎌倉幕府の成立年を覚えてきた人も多いであろう。一方いささめのまとめ覇者の啓蟄 2.源義経追放 鎌倉の一歩手前で待たされ続けていたのが源義経であるならば、鎌倉の街中で待たされ続けていたのが連行されてきた平家の落人達である。 彼らのことを源頼朝が放置していたわけではない。早々に判決を下して処罰すいささめのまとめ覇者の啓蟄 3.源義経逃走 行方不明となっている源義経の捜索はまだ続いていた。 文治二(一一八六)年二月一八日には源義経が大和国の多武峰(とうのみね)に潜伏しているという噂が流れた。多武峰(とうのみね)は源義経がいたことが確実いささめのまとめ覇者の啓蟄 4.奥州合戦勃発 鎌倉で畠山重忠がハンガーストライキに突入していた頃、京都では摂政九条兼実が憂鬱に襲われていた。この頃の九条兼実の日記を読むと、自らの思い描いている政務を執り行えないことへの苦悩が読み取れる。 ただ、いささめのまとめ覇者の啓蟄 5.奥州平定 源頼朝という人は情報の重要性に関係なく情報そのものを定期的に収集し、同時に発信してきていた人である。それはこのときの奥州遠征でも例外ではない。二階堂行政に書き記させた書状を京都に向けて送り出したのがいささめのまとめ覇者の啓蟄 6.征夷大将軍源頼朝 源頼朝が京都に到着した翌日の建久元(一一九〇)年一一月八日の早朝、三位以上の貴族が身につけることのできる参内用の直衣(のうし)が源頼朝のもとへと届けられた。これにより、源頼朝は一人の貴族として宮中にいささめのまとめ2024.01.20 09:00みどり2024.01.12 21:25覇者の啓蟄 6.征夷大将軍源頼朝いささめのまとめ徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。フォロー0コメント1000 / 1000投稿
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