平家物語の時代 12.一ノ谷の戦い

 源頼朝が報告書を受け取って読んでいた寿永三(一一八四)年一月二八日、京都では何の前触れもなく源義経が訴えられるという事態が起こっていた。

 訴えられた理由は、源義経の郎従が小槻隆職の邸宅に押し掛けて乱暴を働き小槻隆職を捕縛しようとしたことである。捕縛だけならまだ妥協できようが、押し掛けて乱暴を働くとなると話が違う。これまで鎌倉方の武士たちは全く乱暴狼藉を働いていなかったので安心していたのに、ここでいきなり自分だけこのような目に遭う理由は何なのか、まるで木曾義仲と同じではないかと小槻隆職は右大臣九条兼実に訴え出て、九条兼実はただちに源義経への状況説明を求めた。

 ちなみに、九条兼実が直接源義経に説明を求めたのではなく、九条兼実はまず前中納言源雅頼に説明を求め、前中納言源雅頼は鎌倉方の事務方を代表していた中原親能に説明を求め、中原親能から源義経に説明を求めるという多重構造である。

 源義経からの返答は平家討伐の指令文中にあった「史大夫」と「大夫史」を間違え、「大夫史」が職掌である小槻隆職を逮捕しようとしたという、少し確認すれば間違えようのないことを間違えてしまった、しかも、独断専行でやらかしてしまった狼藉であった。このときは一刻も早く平家討伐に向かう必要ありとして源義経への訴えは却下となったが、この一件は源義経という人物に対する、お世辞にも良好とは言えない評価を作り出すきっかけとなった。

 一月二八日は源義経に対する評価であったが、二月一日には源範頼に対する評価が作り出されることとなった。それも京都での評価ではなく源頼朝の中における評価であるため、ある意味、源義経が受けることとなった評価よりも源範頼の立場を悪化させる評価であったと言える。

 前述の通り源頼朝は各人に対して木曾義仲討伐後に現地報告書を鎌倉まで届けるように命じており、源範頼の書いた報告書も一月二七日に鎌倉まで届いている。報告書の質において梶原景時から届けられた内容に遠く及ばないというのも既に記したとおりである。ただ、いかに梶原景時の報告書の内容が素晴らしくとも、梶原景時は源義経とともに搦手(からめて)の一員として戦場にいたため、源範頼のいた大手の行動についてまで把握できているわけではない。そのため、一月末まで源頼朝は源範頼が大手を率いて木曾義仲討伐の成功に貢献したことまでは知っていても、どのように貢献したのかまではわからないでいたのである。

 貢献の様子が判明したのが二月一日のことである。前年一二月に墨俣川を渡河するときに先陣を争って御家人らと乱闘になったことが源頼朝のもとに伝わったのだ。先陣争いだけならまだ許すこともできようが、平家と戦う前に仲間同士で戦うとはいったい何を考えているのかと源頼朝は頭を抱えたという。怒るというより呆れるというところか。

 ただ、源頼朝の中での評価が悪化しても、京都における源範頼の評価に影響を与えたわけではない。それは、この後の史料の不整合さにも現れている。

 どういう不整合か?

 まず、九条兼実の日記によると、一月二九日に平家討伐軍の大将が参内したとある。一方で、二月一日に源氏の軍勢が大江山のあたりを通っていることの報告が京都に届いている。それでいて、二月四日に源氏の軍勢が後白河法皇より安徳天皇の保護と三種の神器の奪還を命じられて京都を出発したとある。つまり、このあたりの時間軸がムチャクチャなのだ。

 ところが、ひとつだけムチャクチャな時間軸の整合性がとれる理屈が存在する。それは、源義経と源範頼がどのような評価を受けたかを考えると納得できる理屈である。

 平家討伐軍の大将は源範頼であり、源義経は別働隊たる搦手(からめて)の指揮を執るものの、軍勢全体で考えると源義経は源範頼の部下であったとすれば全て納得ができるのだ。源範頼は先陣争いをしたもののそれが軍勢の士気に悪影響を与えたわけでも、軍勢の指揮に悪影響を与えたわけでもない。軍勢を統率することを考えれば支障とはなっていないばかりか、兵士たちを鼓舞するのに役立ったのである。それに、改善の余地も更生の余地もある。一方、源義経がやらかしたことは痛事だった。京都の世論を敵に回した上に、源義経の配下の武士たちが他の源氏方の武士たちから白い目で見られるきっかけにもなった。しかも、源義経の性格から発生した失態であることから、今となっては改善も更生も見込めない。しかし、利用はできる。

 どういう利用か。

 これもまた九条兼実の日記にヒントがある。

 源氏の軍勢が二月四日に揃って出発したと書いてあるのは平家物語であり、九条兼実の日記には二月四日に出発したと書いてあるだけで揃って出発したとは書いていない。しかも、二月四日に京都を出発したのは九条兼実の原文を読むと「一二千騎」、つまり、たかだか一〇〇〇騎ないしは二〇〇〇騎だけが京都を出発したと書いているだけである。それが、二日後の二月六日の九条兼実の日記になると、平家の軍勢が二万騎を数えるのに対し「官軍僅二三千騎」とその数の少なさを嘆きながら、二日前と比べて一〇〇〇騎は増えているのである。

 この一〇〇〇騎はどこから来たのか?

 源義経が集めたのである。源義経を利用すると軍勢を増やすことができるのだ。

 一ノ谷の戦いにおいて源義経が戦場でどのように活躍したかについては多くの人が注目してきたし、戦場での源義経の活躍は派手なエピソードに満ちていてドラマや小説でも人気のシーンであるが、それだけが一ノ谷の戦いにおける源義経の活躍なのではない。戦場に至るまでの過程、具体的には軍勢を増やす過程もまた、源義経の活躍なのである。それがどのような活躍なのかはこの後で触れることとなる。


 摂津国福原の本拠地を再興しつつある平家を討伐するため、源範頼の率いる軍勢が京都を出発したのは事実である。山陽道を進んで東から福原を攻める大手、すなわち源氏の軍勢の本隊は源範頼が率い、いったん丹波国に向かって大回りをして西から福原を攻める搦手(からめて)、すなわち別働隊は源義経が指揮を執ったことも記録に残っている。作戦としては、東から源範頼率いる源氏方の軍勢の主力が福原に攻撃を仕掛け、その隙を突いて西から源義経らが率いる搦手(からめて)が一ノ谷を突破して福原に攻撃を仕掛けて挟み撃ちにするという作戦である。源氏の軍勢が二月一日に大江山の周辺を通過している記録があることから、全軍が一斉に出陣したのではなく何度かに分けて出陣し、最後の一〇〇〇騎ないしは二〇〇〇騎が後白河法皇の命令を受けて京都を出陣したとすれば辻褄が合うのだ。なお、九条兼実はこの軍勢のことを「官軍」と日記に記している。

 それにしても、山陽道を進むだけの源範頼率いる大手と違い、源義経率いる搦手(からめて)は何とも大回りである。西方から福原に攻撃をするのであるから山陽道を進むわけにはいかないのは仕方ないにしても、これでは移動時間だけでもかなりのロスであったろう。たしかに挟み撃ちは戦術における基本の一つとは言え、迅速な軍事行動を考えるとここでの時間の浪費は大きなマイナスになりかねない。

 ところが、あえて時間を掛けているのだと考えれば搦手(からめて)の時間の浪費は何の問題も無い、それどころか作戦通りの行動となる。

 平家を討伐するために軍勢を差し向けたことは福原にいる平家も理解しているが、だからと言って平家が福原で軍勢を黙って受け入れるわけではない。防衛ラインはとっくに敷いている。さらに言えば、源氏の搦手(からめて)がどこを行軍しているのかの情報も漏れており、迎え撃つ準備を整えてもいる。

 ただし、この時点ではまだ戦闘が決まったわけではないのだ。

 平家物語によると、二月四日は平清盛の命日であるため仏事のために戦闘はやめて欲しいという申し入れがあり、二月五日は方違えで西に向かうのは不吉であり、二月六日は陰陽道で外出そのものが凶であるとされる道虚日(どうこにち)であるとして、二月七日に福原に攻め込むこととしたとある。ただし、軍勢の出発だけを考えると二月四日に出発するのが吉であるとして、軍勢は二月四日に出発して二月七日の早朝に戦闘をはじめることとした。この日付は平家にも通告している。

 つまり、二月七日まで戦闘延期ないしは戦闘停止をゴールとする話し合いをする余地があるということだ。

 平家と朝廷との折衝はギリギリまで続いていた。京都の主目的は平家殲滅ではなく安徳天皇の身の安全と三種の神器の返還であり、戦闘無しで主目的が果たせるならそれに越したことはなく、主目的完遂のためには平家の京都帰還も妥協せざるを得ないとまでは譲歩しているのである。安徳天皇の還御によって後鳥羽天皇はどうなるのかという問題もあるが、これは後鳥羽天皇即位と同時に安徳天皇が退位して安徳上皇となったこととし、安徳上皇が京都に戻ったら重祚ということで再び帝位に就くようにすれば問題ない。

 平家方でもそれは理解しており、平家は自分たちの京都帰還と安徳天皇が天皇であることの確認は求めていたものの、その他に法外な要求を突きつけているわけでは無かった。三種の神器を保持し安徳天皇を奉じていることから京都の後鳥羽天皇は認めていないでいるが、それでも平家はここで一つの妥協を見せている。後白河法皇の院宣のもとで安徳天皇は福原に行幸しており、平家は安徳天皇の福原行幸を遂行するのに尽力しているという立場で福原に滞在しているという体裁をとることで、京都の権力を認めてもいたのだ。ただし、平家にも譲れない一点があった。名目上は安徳天皇の祖父である平清盛の命日を控えて喪に服すためとして、安徳天皇をいつでも出港できるようにしていたのである。目的はもちろん、福原が仮に攻め落とされたとしても安徳天皇を奉じて平家が海へと脱出するためである。

 こうした交渉のための時間稼ぎが、源義経を丹波国経由で大回りさせて西から福原を攻撃させることにした理由である。源義経は短絡的な性格な上に人命軽視の思考がある。この人に任せると、勝利と引き替えであったとしても冗談では済まない損害を招きかねないことが見破られていた。一月二八日の短絡的な行動はその発露である。こうした短絡的な人には時間稼ぎの作戦だと伝えても伝わらない。だが、福原に向かう前に相手方の陣営をいくつか攻め落とすように命じることで遠回りをさせることならば可能だ。

 二月一日に源氏の軍勢が大江山のあたりを通っていることの報告が京都に届いたのはその翌日である二月二日のことである。その軍勢を指揮しているのが源義経であるという明確な記録はこの時点では存在しないものの、源義経が大江山のあたりを通過した軍勢を指揮していると考えなければこの後の戦況の展開が全く話にならなくなる。


 源範頼の出陣を翌日に控えた寿永三(一一八四)年二月三日、源行家が後白河法皇の配慮によって京都に戻ってきた。平家に敗れ、木曾義仲の派遣した樋口兼光にも大敗し、源行家は絶望のまま時間がすぎるのを待っていただけであった。そんなときに飛び込んできた木曾義仲戦死の知らせ、そして、木曾方絶滅の知らせは源行家に希望をもたらした。生き残るチャンスが巡ってきたと考えたのだ。

 源頼朝が京都に直接出向いてきているのではなく、源頼朝の弟である源範頼と源義経の兄弟が源頼朝の代理として京都に出向いてきたことも源行家にとっては好都合であった。寿永三(一一八四)年二月三日時点の源行家の頭の中にある源範頼も源義経の姿は、二一世紀に生きる我々の考える源範頼や源義経ではない。源範頼は源義経ほど有名ではないが、それでも源氏の軍勢の総大将を務めたことを現在の我々は歴史の授業で習っている。源義経はもっと有名で、それこそ幼稚園児向けの絵本にも登場する人物であり、二一世紀の我々は源義経のことを数多く伝説に彩られた戦場の天才だと考える。だが、兄弟に対する現在の評価が誕生するのは一の谷の戦いの後のことであり、源行家が京都に戻ってきた時点での兄弟は、あくまでも兄の代理を務める形だけの大将という扱いであったのだ。鎌倉方の御家人たちが兄弟の脇を固めていることは理解しているが、その上に立つのは、ただ源頼朝の弟というだけで大将を任されることになった未熟な若輩者たちであると源行家は考えたのである。さらにここに一月二八日の源義経の失態が加わる。源行家は甥の失態を甥の幼さから来るものと考え、叔父である自分が年長者として甥たちの上に立って指揮してあげなければならないとまで考えたのだ。

 源行家は治承四(一一八〇)年の以仁王の令旨のときに八条院暲子内親王の蔵人に補されたという過去がある。そして八条院暲子内親王の蔵人に補された過去は消えたわけではなく、寿永三(一一八四)年時点でも源行家は、公的には八条院暲子内親王の蔵人であった。源行家は自分のこの肩書きを活かして八条院暲子内親王の元に行き、八条院暲子内親王から後白河法皇に取り次いでもらって京都帰還を認めてもらったのである。目的としては自身の身の安全の確保が第一に来るが、第二の目的としては鎌倉方の軍勢の上に立つという、良く言えば野望、普通に考えれば妄想が存在していた。なお、九条兼実はこのときの情景を、たかだか七〇騎ほどの軍勢しか残っていない源行家が後白河法皇もとに命乞いしてきたと、源行家が見たら激怒必定な、しかし、現実をそのままに直視した文面で書き記している。

 九条兼実の日記に従えば、源行家はこれから平家討伐に向けて西へと出発する源範頼とすれ違ったはずである。あるいは言葉を交わすぐらいの時間もあったかも知れない。しかし、すれ違おうと、言葉を交わそうと、源行家が痛感することになったのは源範頼と自分との間に誕生してしまった絶望的なまでの格差である。ついこの間までは記憶の片鱗にも留めていなかった甥が、今や源氏の総大将で後白河法皇と直接謁見する身になっており、話によると源義経はもう西へと向かっているという。一方、自分は命乞いをしてきた身。叔父として源氏の総指揮をとってあげなければなどという思いなど断じて通用しないことを、源行家はこれでもかと思い知らされることとなったのだ。

 なお、寿永三(一一八四)年二月四日のこととして、現在の大阪府箕面市にある勝尾寺が一つの記録を残している。この日に梶原景時が略奪を働いたというのだ。一ノ谷の戦場に向かっている途中の梶原景時率いる軍勢が勝尾寺に押し掛け、寺院の僧侶が静止しようとするも梶原景時は聞く耳を持たずに寺院に押し入り、近隣住民がここならば安全であろうと寺院に託しておいた財物を略奪し、略奪を止めようとした僧侶が一人殺害され、殺害を免れながらも身ぐるみを剥がされることとなった僧侶は一〇〇名を越え、さらには寺院そのものが焼き尽くされたというのが勝尾寺に残る記録である。これだけを見れば梶原景時の弁明の余地のない暴挙であるが、梶原景時はこの件について納得できる弁明をしている。平家が勝尾寺に軍勢を潜ませており、背後を取られる可能性を断つために勝尾寺を攻撃したというのがその内容だ。


 寿永三(一一八四)年二月五日、山陽道を進んできた源範頼率いる源氏の軍勢の大手が摂津国に到着。既に伝えている通り、二月七日の戦闘開始に向けて準備を進めることとなった。

 源範頼率いる大手には武田信義や千葉常胤といった源頼朝の挙兵とほぼ同時期からともに戦ってきた仲間に加え、下河辺行平や小山朝政、さらには梶原景時らも加わる総勢五万六〇〇〇騎というのが平家物語での軍勢の記載である。平家物語が軍勢を多く記すのはいつものことなのでこの数字は信用できない。一方で、九条兼実の記した一〇〇〇騎から二〇〇〇騎ではさすがに少なすぎる。その二日後に二〇〇〇騎から三〇〇〇騎というように数字が増えているが、それでも九条兼実の日記に記されている人数は実数よりは少ないのではないかと思われる。そうでなければこの後の源氏の軍勢の配置が成立しなくなる。

 同日夜、源義経ら搦手(からめて)の一行は丹波国との国境に近い播磨国の三草山の近くに到着した。この搦手(からめて)には、土肥実平、三浦義澄、畠山重忠、和田義盛、佐々木高綱、熊谷直実、多田行綱、安田義定らも加わっており、平家物語ではここに武蔵坊弁慶もいたともしている。御家人をはじめとする軍勢を構成する武人のエピソードの多さという点では搦手(からめて)のほうが豪華であるが、実は、この全員が源義経の指揮下にあったわけではない。搦手(からめて)のトップはたしかに源義経であるが、軍勢全体のトップはあくまでも大手を率いる源範頼であり、源義経は兄の源範頼が指揮する軍勢の一部を引き受けているという立場であった。さらに、搦手(からめて)には源義経に匹敵する指揮権を持った武人が複数名いた。彼らは源義経の配下というわけではなく、源範頼の配下のもと源義経とともに行動しているという立場になっている。これではまるでナポレオンがラザール・カルノーに充てて記した「一人の凡将は二人の勇将に優る(Un mauvais général vaut mieux que deux bons)」ではないかと思うかも知れないが、実際には違う。一見するとたしかに一つの搦手(からめて)の中に複数名の指揮官が混在しているように見えるが、実際には全体の上に大手を指揮する源範頼がいて、搦手(からめて)の指揮官たちは源範頼の作戦に沿って行動していたのである。

 平家物語によると搦手(からめて)の総数は一万騎であったという。この一万という数字はさすがに多すぎるように感じるが、実際のところ一万という数字はそこまで強引な数字ではない。少なくとも途中で出会った平家の軍勢よりは多かったはずである。強引な数字ではなかったことの理由は後述することとなる。それこそが作戦の根幹なのだから。


 神戸市は北に六甲山系のそびえる都市である。現在の神戸市にあたる福原もそれは変わらない。京都から福原に行くならば、陸路ならば名神高速を経て阪神高速、あるいは鉄道でJRか阪急か阪神か京阪に乗るといった選択肢がある一方、北にそびえる六甲山系を移動経路として考えることなどほとんど無く、山陽新幹線は例外中の例外である。寿永三(一一八四)年二月時点で考えると京都から福原に向かうルートとして六甲山系を想定することはまずない。一方、陸路だけではなく水路にも目を向けると、神戸の南に広がる海を利用した大阪湾沿いの航行も選択肢に含まれるが、以前より海外交易に目をつけ、海賊討伐の実績を持ち、自身も海軍力を持つ平家ならばできても源氏にはできないことであった。淀川沿いに大阪湾に出るところまでは行軍できても、水上戦力を持っていない点では木曾義仲と共通している鎌倉方の軍勢はそこから先の大阪湾の航行という選択肢は無い。ゆえに、鎌倉方が京都から福原へと向かおうとするなら大阪平野を東から西へ移動することが普通に考える選択肢となる。

 ただし、大阪平野を東から西へ移動するのは平時の発想であり、今は戦時である。北に山がそびえている地形に陣を構えている軍隊が東から攻め込んでくる軍勢に対処するには東に防御を固めるのが定石である。つまり、攻め込まれようとしている平家にしてみれば軍勢が来るとわかっている方向の防備を固めるのは当然であるし、攻めこもうとしている源氏としても鉄壁の防衛ラインを福原の東に築いているであろうことも容易に想像できる話だ。そこで両者ともいかに相手の裏を狙うかの勝負になる。

 先に情報線を仕掛けたのは平家である。平知盛と平重衡の両名が福原の東にある生田の森に陣を敷き防御を固めているという知らせ、すなわち、平家の軍勢指揮でトップに立つ平知盛を生田の森に送り込んでいるという知らせを漏らしたのだ。平家の防衛構想が伝わったことは、源氏方にとって福原の東の防衛ラインは尋常ならざる堅牢な代物に仕上がっていると判断するに充分であった。実際、馬の侵入を阻む堀を築き、現在の鉄条網に掃討する逆茂木を張り巡らせ源氏方の馬での進軍を食い止める上に、城壁を多重構造にしていたことも判明している。

 では、東ではなく西ではどうか?

 源氏方にとってはこれもまた困難である。

 大阪平野は西方にずっと広がっているわけでなく、六甲山系の最西端である鉢伏山で大阪平野はふさがっている。現在でも神戸市内を東から西に海沿いに移動すると、須磨と塩谷との間で鉢伏山が海に迫っている箇所があり、そこでは平地の幅が極端に狭くなっている。既に記したとおり、一ノ谷とはこの地点のことだ。京都を出発した軍勢が東からではなく遠回りして西から攻めてくることも考えられるし、瀬戸内海沿岸や九州から平家の軍勢に加わるのではなく平家を討伐しにくる軍勢も考えられる。九条兼実は四国や九州から平家の軍勢に加わる者を危惧したが、当の平家は九州や四国から源氏方に加わって攻撃を仕掛ける者を警戒したのだ。西から福原に向けて攻め込んでくる軍勢を食い止めるには一ノ谷を封鎖すればいい。狭い隘路だから攻めにくく守りやすい拠点だ。平家は一ノ谷に平忠度を配備して陣営を築かせていた。こちらもまた生田の森に負けない堅牢な要塞だ。いや、入り口が狭いだけに面積あたりの要塞建築のための時間をより多く確保できるので、堅牢さと言う意味では生田の森以上のものがあった。

 東を封鎖し、西を封鎖しても、平家はまだ万全とは考えなかった。東から西に遠回りする途中で六甲山系を突っ切って福原に攻め込んでくる部隊がある可能性を平家は見抜いていた。六甲山系はたしかに最高峰一〇〇〇メートルという巨大な山岳地帯であるものの、一〇〇〇メートルを超える壁が築かれているわけではない。山々が連なっているのが六甲山系であり、山と山との間には比較的低い谷があり、谷には川が流れている。川沿いの道は山陽道ほど整備されているわけではないが、六甲山系を縦断して福原に向かうことを考えるなら山中を突っ切って六甲山系を縦覧するよりも川沿いの道を縦断するほうが現実的であった。ただし、いかに現実的であると言っても福原は平家が本拠地としていた都市であり、寿永三(一一八四)年二月初頭時点でも根拠地となるように整備している途中の都市である。平家が熟知しているのは都市福原だけではなくその周辺も含まれる。六甲山系を貫いて福原に襲撃を掛けるとすれば湊川のあたりからだろうと睨んだ平家は湊川に沿った山麓地に平通盛を派遣して陣を築かせると同時に、迂回して西から攻撃する源氏の軍勢を迎え撃つために平資盛を総大将とする軍勢を三草山に配備し、さらに平資盛の陣営の軍勢を拡張しつつあった。平家物語では、この時点で既におよそ三〇〇〇騎からなる軍勢を三草山に配備していたという。

 寿永三(一一八四)年二月五日の夜に搦手(からめて)の軍勢は三草山に平家の軍勢が陣を構築しつつあるのを目撃した。

 ここで搦手(からめて)には二つの選択肢が突きつけられた。夜襲を仕掛けるか、攻撃を明日に控えてここで一晩過ごすかである。

 源義経の選択は単純明快であった。夜襲である。それも真夜中の総攻撃だ。

 夜空を見ると三日月である。風流かも知れないが、暗い。この暗さでは夜襲の勢いも削がれることとなるという懸念に対し、源義経は単純明快な答えを示した。

 全部燃やせというのだ。

 野原や草木を燃やすだけならまだ許されようが、源義経は周囲の民家も全部燃やせと言ったのだ。

 夜襲において敵の陣営や敵の籠もる城を燃やすことは戦略の一つであるしこの時代の戦闘におけるマナーでもある。

 陣営や城を燃やすための火が周囲の野原や草木に燃え移ったというなら失態ではあるがやむをえないこととされる。

 民家に飛び火したら責任問題に発展する失態となる。

 源義経は以上のどれでもなく、暗いという理由だけで灯りのために民家に火を付けよと言ったのである。責任問題云々以前に、この人は正気なのかと誰もが思ったが、源義経の家臣たちは悪びれることなく民家に火を放っている。悪逆極まりないと思いながらも、夜襲に必要な灯りはこれで誕生してしまった。

 明日の決戦に備えて眠っていた三草山の平家の武士たちは、いきなりの火に驚き、大歓声とともに総攻撃を仕掛けてきた源氏の夜襲に慌てふためくしかなかった。そのあとで平家の軍勢が直面したのは、戦闘ではなく殺戮であった。戦闘どころか抵抗にすらならず、いかにして逃げるかという問題だけになり。総大将平資盛や、平資盛の弟の平有盛は脱出することに成功したものの、平家方の多くの兵士が三草山で命を落とした。源義経は逃走した平家の面々を土肥実平らに追撃させた。

 ここで、搦手(からめて)に複数名の指揮官がいることが意味を見せる。当初の想定通りに搦手(からめて)の軍勢を分割させたのだ。平家物語はこのとき、安田義定が七〇〇〇騎、源義経が三〇〇〇騎と記しているが、さすがにそれは多過ぎるし、指揮権についても合致しているとは言えない。ただ、軍勢を七対三に分けたというのは納得いく話である。

 どういうことか?

 逃走した平家の面々を土肥実平らに追撃させたが、土肥実平に全体の三割を充てたとするならこの後の源氏方の戦略が納得できるのである。

 一方、残る七割の多くは安田義定と多田行綱の両名に率いられる形で、源氏方の重要作戦を展開することが求められた。東方でもなく、西方でもなく、六甲山系を突っ切って夢野口から平家の本陣に突入するというのが彼らに課された任務であったのだ。

 源義経とともに残る軍勢は僅かであるが、摂津国と播磨国の平家勢力を一つ、また一つと向かい合い、一ノ谷の西方の出口である播磨国塩屋へと進んでいった。ここまでは平家も情報として掴めていた。だが、その足取りはいきなり喪失した。三草山に陣取っていた平家が壊滅状態にあったとは言え源氏方の軍勢の偵察はしている。七割が六甲山系を突っ切って北から福原を目指し、残る三割は敗走した平資盛らを追いかけている。その方向は明らかに一ノ谷ではない。ここまではわかる。ただ、搦手(からめて)にいるはずの源義経の足取りがここで消える。どうも六甲山系のどこかにいるらしいことはわかるのだが、どこにいるのか皆目見当つかなくなったのだ。


 福原に陣取る平家のもとへ、三草山に陣取っていたはずの平資盛の軍勢が源氏方に完膚なきまでに叩きのめされ、総大将平資盛が命からがら逃走したという知らせが飛び込んできた。これで平家の想定は崩れた。平家の想定では、平資盛が遠回りをする軍勢を撃破する、ないしは撃破と行かなくとも源氏方の部隊を食い止めて西側からの福原侵入を遅らせることであったのに今のままでは同日の攻撃開始になってしまうのだ。

 平家のこの時点での戦力では、東からも西からも北からも攻め込まれるのに対処するという三方面作戦は厳しいものがあった。九条兼実は平家のほうが圧倒的に優位にあったと記しているが、実際にはそこまで平家優位ではなかった。兵力差を考えた平家は、真っ先に到達するであろう生田の森の東部戦線で源氏方を討ち破ったのち、生田の森の軍勢を北部と西部に移動させてそれぞれ各個撃破することを考えていたのである。つまり、源氏方の攻撃が時間差となることを前提とした作戦を立てており、その要となるのが平資盛であったのだ。

 源氏の搦手(からめて)の軍勢の過半数が六甲山系を突っ切って北から福原に攻め込もうとしていること、残りは平資盛を追いかけて一ノ谷とは全く違う方向に進軍していること、そして、搦手(からめて)の中にいるとされた源義経の姿が消えたことは平家の軍勢のもとにも伝わっており、これでさらに想定が崩れた。このまま行けば西方の一ノ谷で陣を構える平忠度の軍勢を東方や北方に向かわせることも可能となる。ただし、この時点では断定できない。のちに判明するがこれは源義経の策略であったのだが、この時点ではまだ知られていない。

 このままでは二月七日に福原の東と北の双方で戦闘となることが見えていたが、ここで最後の和議の使者が京都からもたらされた。後白河法皇の派遣した使者であり、二月八日を期日として安徳天皇より返答の使者が京都に戻るまで戦闘を止めるよう要請するものであった。

 この使者の派遣について九条兼実は悲観的な内容を日記に書き記している。平家の軍勢は源氏の軍勢の一〇倍、しかも、四国や九州から続々と平家の援軍が福原に向けてやってきており、戦力差は開くばかりだと嘆いている。それが二月六日の「官軍僅二三千騎」の記述である。後白河法皇の送ったのは和平を求める使者ではなく、この時点で京都が掴んでいた戦況を見定めての悪足掻きだというのが九条兼実の感想であった。

 ところが、軍勢差は広がるどころか埋まってきていたのだ。いや、そもそも軍勢差は源氏のほうが上回っており、軍勢差を更に開かせていたとしてもよいのである。そもそも九条兼実がまともに見た源氏の軍勢は源範頼の出発時の軍勢だけであり、それよりも前に搦手(からめて)は出発している。それに、源義経は軍勢を増やす算段も同時進行で進めていた。

 平資盛を追いかける軍勢と、夢野口へ向かう軍勢とを分けるとき、源義経は精鋭部隊を選抜している。この選抜部隊に課されたのは行方をくらますことである。源義経率いる選抜部隊は、夢の口に向かう軍勢と違って、六甲山系を突っ切るのではなく、六甲山系を突っ切らないまま六甲山系の只中を行軍していたのだ。

 ここで源義経が選抜した基準は、騎馬能力である。一騎当千の強者であろうと、馬を御すのに難ありとあれば源義経とともに行動することは許されない。一方で、弓を引くのも槍を操るのも難ありとあっても、馬を御す能力が素晴らしいと判断すれば選抜部隊に選んでいる。平家物語はこの選抜部隊が三〇〇〇騎であったとしているが、これはいくらなんでも多すぎる。他の記録にある七〇騎が現実的な数字であったろう。

 七〇騎に絞ったとはいえ、源義経らはどうやってそんな難所を行軍できたのか。

 答えから先に記すと、在地の武士の協力を獲得できたのである。

 それが、以前に記した源義経の利用である。

 九条兼実は四国や九州から平家の援軍がやってきていると日記に書き記したが、実際に集まってきていたのは平家に対抗する武士たちであった。ある者は源氏が官軍であるという打算から参加し、ある者は源氏に勝機を見いだして勝ち馬に乗ろうとし、ある者は平家との所領争いの結果から参加した。しかも、ただ単に参加したのではない。彼らは皆、源義経の誘いに乗って参加したのだ。その上で、選抜部隊に相応しい者は源義経のもとに帯同させ、そうでない者は土肥実平のもとに向かわせたのである。土肥実平の率いる軍勢はたしかに敗走する平資盛を追いかけていたが、平資盛は取り逃している。というより、平資盛を追いかけるというのは名目であり、主目的は一ノ谷に向かっていないと思わせることである。大回りして一ノ谷に向かうどころの話ではなく、平家に対抗する武士たちを軍勢に加えながら山陽道を西から東へ進軍して西方から一ノ谷を攻撃するのが目的であり、源義経は行軍前後に摂津国や播磨国の武士たちに手紙を送っていたのである。

 鎌倉武士というと荒々しいだけで文的素養に乏しいというイメージを持たれることが多く、その延長上からか、源義経に対するイメージとして戦略の天才というイメージはあっても、書を読んだり手紙を書き記したりするようなイメージは思い描きにくい。しかし、源義経という人は鞍馬寺に預けられて僧侶としての教育を受けてきた、すなわち、この時代における最高の教育を受けてきた人である上に、鞍馬寺を抜け出して亡命した先は奥州藤原氏の平泉だ。平泉はこの時代有数の都市であっただけでなく、この時代において数少ない平和な都市である。奥州藤原氏が平泉に多くの文人を招き入れて、平泉を戦乱とは無縁の文化都市へと発展させていたまさにその最中に青春時代を過ごしたのが源義経であり、源義経自身の文的素養は決して低いものではなかったと言えるのだ。

 その証拠となるのが源義経の書き記した手紙である。平安時代末期から鎌倉時代初期における手紙を集め、各種の文書の雛形となるように作成された文例集である「雑筆要集」には、一ノ谷の戦いの前に源義経が摂津国の武士たちに送り届けた手紙が文例として記録されている。さらに、手紙を含めた様々な文書の手本とすべく平安時代中期から鎌倉時代初期にかけての様々な文書を集めてまとめた「儒林拾要」にも、源義経が摂津国の武士たちに送り届けた手紙が模範として記されている。手紙を書いたら模範となるような内容だと判断されたほどの文章能力を有していたのが源義経という人なのだ。

 話を源義経の手紙の内容に戻すと、そこに記載されていたのは期日までに播磨国の一ノ谷の入り口に来るように求めるものであった。そして、源義経からの手紙に摂津国の武士たちは賛同したのだ。源義経は賛同によって集合した摂津国の武士たちを戦力として組み入れただけでなく、現地の情報を知り、現地の地形を知ったのである。

 源義経が考えたのはあくまでも一ノ谷を陥落させることであった。狭い隘路である一ノ谷に西から単純に攻撃したのでは、平家の構築した陣営、いや、防塁の規模を考えると要塞と呼ぶに値する建造物に阻まれてしまう。そこで、一ノ谷に構築された要塞を破壊して一ノ谷を攻略して西から福原に進み、福原を挟み撃ちにすることを狙ったのである。

 これが鵯越(ひよどりごえ)の逆落としである。

 一ノ谷の戦いにおいてもっとも有名なエピソードである鵯越(ひよどりごえ)の逆落としは、行き当たりばったりではなく、源義経が事前に計略を練った上で展開された作戦であった。ただ、あまりに突飛であるがために尾鰭がついてかえって現実離れしてしまっている。


 一ノ谷の戦いの代名詞とも言うべき鵯越(ひよどりごえ)の逆落としのあった場所として、現在も地名として残っている神戸市兵庫区の「鵯越(ひよどりごえ)」を思い浮かべてしまうのは仕方の無いことである。実際に訪れてみるとたしかに鵯越は目の前に六甲山系の広がっている土地であるし、六甲山系を降りたら目と鼻の先に福原が広がっている、ように見える。ただ、源義経が狙っていたのは現在の神戸市兵庫区鵯越のことではなく、鉢伏山のことだ。

 実は、鵯越の逆落としは一ノ谷の戦いにおいて二回登場している。そのうち、源義経の登場しないほうの逆落としがまさに現在も地名で残る鵯越のほうなのだ。源義経の逆落としがあまりにも有名になってしまったためにもう一つの鵯越の逆落としはあまり着目されず、地名の鵯越と源義経とが結びついてしまったというのが実情である。

 もう一つの鵯越の逆落としがあまり着目されていない理由は二つある。一つは、この逆落としを主導したのが源義経ではないという点、もう一つは、現在の鵯越を通って夢野口に至る、すなわち六甲山系を縦断して福原を側面から突くよう攻撃するのを平家の側も見抜いていた点である。たしかに通常であれば想定し得ない六甲山系を縦断しての攻撃であったが、搦手の七割からなる軍勢は湊川沿いの道を進んで行軍したのだ。平時では考えられないが戦時であれば考えられる道を通ってしまったために、湊川に沿った山麓地である夢野口に陣を築いていた平通盛と正面衝突することとなったのである。源義経の鵯越の逆落としは想像をはるかに超える不意打ちであったがために伝説になったが、夢野口へと向かった鵯越の逆落としは、普通であるか否かと問われれば普通ではないものの、予想できるかできないかと問われると予想できてしまう、まっとうな行軍だった。

 一方、源義経の展開したほうの鵯越の逆落としは普通で無い上に予想の範囲をはるかに超える、暴挙ともしても良い、しかし実際には綿密に計算されたものであったために伝説となった。

 以下は歴史学者の前川佳代氏が実際に鉢伏山に訪れて現地で確認した結果に基づいて記載する。

 まず「鵯越(ひよどりごえ)」は固有名詞では無い。現在の神戸市兵庫区の鵯越は一般名詞が固有名詞化したという地名のよくある名付けられ方に過ぎず、鵯越(ひよどりごえ)という単語自体は一般名詞である。

 「ひよ」の意味するのは山中の標識、すなわち何かしらの境界線を示す標識のことであり、その意味が広がって国境線である峠道そのものを意味するようになった。鉢伏山の峠道は実際に摂津国と播磨国の国境であることを示す標識が立っていたという。この峠道のうち凹んでいる部分、いわゆる鞍部のことを「鵯(ひよどり)」という。この鵯(ひよどり)を越えることを鵯越(ひよどりごえ)である。

 また、「逆落とし」とは急な坂道を一気に駆け下りることである。現在の湊川に沿った道は六甲山系を降るためにたしかに坂道であり、軍勢が一気に駆け下りたのであるから、現在の神戸市兵庫区の鵯越を通った軍勢もたしかに鵯越の逆落としをしたのである。しかし、一気に駆け下りたのは急な坂であるとは言え、また、現在のように整備されていたわけではないとは言え、道である。だからこそ平家に動きを読まれた。

 ところが、鉢伏山で源義経が繰り広げたほうの鵯越の逆落としは想像もできないことであった。

 ただし、実際には不可能では無かった。

 鉢伏山から海を見下ろしてみると、鉢伏山と海沿いの平地まで高さはあるが、その傾斜は四〇度ほどであり、かつ、その四〇度ほどの傾斜が海沿いの狭い平地まで続いていることがわかる。

 しかも、上からだと平地で繰り広げられている戦乱の様子が丸見えである。西から攻撃することとなる搦手(からめて)の軍勢のほうに向けて平家の要塞が構築されており、後ろががら空きであるのも手にとるように見えたのだ。ここから一気に傾斜を駆け下りて一ノ谷の要塞の背後を突けば挟み撃ちになることは前もって判明しているのである。七〇騎という数字は確かに少ないが、作戦決行を考えると、少数精鋭というよりも、四〇度の傾斜を一気に駆け降りることのできる騎馬技術を持っている者を選抜したら七〇騎になったというところであろう。

 平家物語を読むと、崖の上までたどり着いたはいいが崖下に広がる戦場にいかにして向かおうか悩んでいたところ、鹿は崖を降りることができるのだから、鹿と同じ四本足である馬でも降りることができるであろうということになったとある。また、後述するように源義経に対して、こうした崖を降りることぐらい地元と比べればどうということないと述べた武士がいたともある。ただ、実際には崖の上までたどり着いてどうしようかと悩んだあとで崖を下り降りるのを決意したのではなく、前もって計算した行動であったことがわかるのだ。

 かつて、鵯越の逆落としは断崖絶壁を一気に落ちたものとされていた。そのため、不可能であると考えられ、鵯越の逆落とし自体が虚構であると考えられるまでになっていた。しかし、研究者の近藤好和氏はそれに異を唱えている。鵯越の逆落としは不可能でないというのが近藤氏の主張だ。

 近藤氏の主張のポイントは二点。

 一点は、二〇世紀初頭までヨーロッパの士官学校では騎兵訓練の一環として騎馬での難所攻略訓練を毎日のように繰り返しており、その中には鉢伏山の傾斜四〇度をはるかに超える傾斜の崖を一気に下ることも含まれていたこと。つまり、訓練を積んだ者であれば不可能では無いということ。

 二つ目は平家物語の記載。平家物語では、源義経に対して三浦義連や畠山重忠が、三浦義連の本拠地である三浦半島や畠山重忠の本拠地である秩父地方と比べればどうと言うことないと述べたという記述がある。これを平家物語の虚構と見なすのは簡単であるが、近藤好和氏は、横須賀のある三浦半島の地形はたしかに三浦義連の言う通りであること、特に三浦氏の居館があった衣笠城址はまさに鵯越の逆落としに似た地形での城塞であったことを述べた上で、源義経は不可能ではないことをしたのだと断定している。特に横須賀の地形については異議を挟む余地が無い。近藤氏は五〇年以上横須賀に暮らした上での実体験として述べているのである。

 なお、鉢伏山から一ノ谷を見下ろすことのできる地点まで到着した源義経らの精鋭部隊は、到着からただちに攻撃を始めたのではなく、ここで一晩を過ごしている。理由は簡単で、まだ戦闘が始まっていないのだ。

 寿永三(一一八四)年二月六日夜、翌日の攻撃に開始に備えた準備が整った。


 以下は平家物語の記載である。

 寿永三(一一八四)年二月七日に攻撃開始であることは源氏方の誰もが理解しており、源義経のもとにいる武士たちも翌日の攻撃に備えて眠っていた。

 ところが、源義経のもとを抜け出す武士たちがいた。一番乗りを目指す武士たちである。平山季重、熊谷直実、熊谷直家ら五騎が夜中に源義経の軍勢を抜け出して一ノ谷の西方の塩屋に出向き、早朝と同時に平家の陣に攻め込もうとしたのである。

 一ノ谷を守る平忠度らの軍勢の中には、どうやら源氏軍はこちらから攻めてこないという風評も広がっていたため、いきなりの攻撃開始に驚きはしたが、攻め込んできた軍勢を見てみるとわずかに五騎だ。これでは先頭というよりやぶれかぶれの無差別テロだと考えた平家の軍勢であるが、攻撃は攻撃である。しかも、先陣争いである。先陣を切って敵陣に突入して功績を残すとあれば軍功最上位とあって源氏方の誰もが、といってもわずかに五騎であるが、その誰もが必死である。平家の軍勢は門の中に入れさせないとして防戦に努めるものの勢いは源氏方にあった。その理由を平家物語は、平家の軍勢の馬が海の上の長距離航行の末に疲労していたからであるとしている。

 さらに、最初は五騎のみと見ていた源氏の軍勢であったが、後ろから土肥実平率いる軍勢が押し寄せてきたためにおよそ三〇〇〇の軍勢となり、一ノ谷の門は破壊され源氏の軍勢の突入を許すようになった。ただし、門は開いたとしても一ノ谷が要塞であることに違いはなく、当初は源氏の軍勢が優勢であったものの一ノ谷の戦況は平家優勢に傾いていた。

 その平家優勢の情勢を一変させたのが源義経である。平家の面々にとっては予想もしなかった崖の上から騎馬集団が掛け声とともに集団でなだれ込んできたのだ。

 一ノ谷の戦いでもっとも有名な「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」である。

 一ノ谷の要塞に控えていた平家にとっては後ろからいきなり襲いかかってきただけでも恐怖であったが、更なる恐怖は、源義経らが一気に火を放ったことである。堅牢な要塞であるとはいえ要塞の素材は木材だ。わずか七〇騎での奇襲攻撃は兵力差だけをみれば平家優位であったはずだが、奇襲攻撃を仕掛けてきた源義経は平家の軍勢個人ではなく要塞そのものを破壊することに主眼を置き、とにかく燃やせるものは全部燃やしてしまえと暴れまわったのである。要塞の中の兵士の軍勢にしてみれば、前方は源氏の軍勢、後方は奇襲攻撃によって燃え盛る炎という挟み撃ちになってしまったのである。おまけに風が強く吹いており、燃え盛る炎がもたらす黒煙は平家の軍勢を覆い隠す煙幕になってしまった。

 これではもう戦闘どころではない。平家の武士たちはいち早く戦場から離脱しよう海へ向かって逃走し、岸辺に停泊してあった船に次々と飛び乗ろうとした。

 たしかに平家の用意してあった船は立派であった。兵糧や武器の輸送の面でも船は活躍した。ただ、逃げようとする武士の全員を乗せて航行するに充分な船の数ではなかった。一つの船に四〇〇名から五〇〇名が乗ろうとする。しかも陸上での、それも馬上での戦闘を前提とした鎧兜を身につけた完全武装であるから重い。最初から船の上で戦うあるいは徒歩で戦うことを想定しているのであればもう少し武装を軽くすることができるが、馬上で戦うことを前提とするならば大鎧となる。大鎧の質量は二五キロを超える。馬上であれば前後の草摺を鞍の前輪と後輪に覆いかけることで鎧の質量のかなりを馬に預けることが可能となり、馬は重荷に耐えなければならなくなるが武士本人は鎧の質量をさほど気にすることなく主に弓矢を前提とした戦闘に挑むことができるのであるが、馬に乗ることができなくなると質量を馬に任せるという前提が崩れ、地上を重荷に耐えながら歩かなければならなくなる。歩くだけでも一苦労な重量の人間が船に乗ったらどうなるか?

 その答えはこのときに示された。出航してから三町、メートル法で記すと三〇〇メートルほどで三艘の船が沈んでしまったのだ。

 残された船は少なく、船に乗ろうとする平家の武士は多い。身分の高い者を優先させて雑兵どもは乗せるなという指令が飛んだために、どうにかして船に乗ろうとする者は仲間から海へ突き落とされ、どうしても船にしがみつく者は腕を切り落とされ、そのまま浜辺に打ち捨てられた。

 ここに一ノ谷は陥落し、福原は西の守りを失った。


 戦いは一ノ谷だけで始まったのではない。平家が主力を集中させていた生田の森でも戦いは始まっていた。その中で奮闘を見せたのが梶原景時である。このときまで梶原景時の評判はあまりにも高いものではなかった。ところが、生田の森で真っ先に平家の軍勢に向かって突撃をしたのが梶原景時であるだけでなく、平家物語によると梶原景時の率いる五〇〇騎のうち生き残ったのはわずかに五〇騎というのであるから、誰もがかなりの激闘であったと認めざるを得ない内容であった。それだけでもかなりの功績だが、一旦自陣に戻った梶原景時は自分の子が戻ってきた軍勢の中にいないのに気づいてもう一度敵陣に向かって突入し、平家の軍勢の総大将である平知盛に向かって一直線に進んで行ったのである。

 梶原景時の目に飛び込んできたのは、梶原景時の子の梶原景季が馬も射られて徒歩での戦いとなり、二丈、メートル法に直すと六メートルほどの崖を背にして平家の軍勢に取り囲まれている光景であった。梶原景時は馬から下りて息子に向かい合っている平家の武士のうち三人を戦死させ二人に重傷を負わせることで平家のもとから息子を救い出すことに成功した。

 この「梶原の二度懸け」は、それまで策謀だの計略だのといった点でしか評価されず、陰湿さから嫌われることの多かった梶原景時に対する評価が一変する武勇であった。

 梶原景時らの奮闘を目の当たりにしながらも平知盛は生田の森を守ることに成功していたが、一ノ谷が陥落したという知らせが終わりを悟らせた。生田の森を守ったとしても戦闘そのものは平家の敗北に終わるのが決まったのだ。

 平知盛にできることは、息子らとともに一刻も早く福原に引き返して安徳天皇と三種の神器を奉じて福原から脱出することである。船の上に留まっているはずの安徳天皇を乗せた船が三種の神器とともにとっくに出航していたのであれば何の問題もないが、安徳天皇と三種の神器のどちらか片方でも欠けたら平家の命運はそこで終わる。ここでは船が誰かが脱出させてくれているだろうという希望的観測は通用しない。無駄足に終わったとしても福原まで赴いて自分の目で脱出を確認しなければ意味がないのだ。

 結論から言えば平知盛は無駄足に終わった。平知盛が敗北を悟ったように、平宗盛もまた敗北を悟って安徳天皇と三種の神器を乗せた船を和田岬から出港させていたのである。最低最悪は回避することができたと考えた平知盛は、これでようやく自分のことを考えることが許されるようになった。自分もまた、安徳天皇のもとに向かいながら逃走しなければならない。ただ、平知盛は平家の総大将であるがために源氏方の軍勢にとって絶好のターゲットとなる。ここで平知盛を討ち取ったら最高の報奨が待っている。平知盛は逃走に成功したものの、多くの平家は逃走に失敗した。その中には平知盛の子も含まれていた。

 平知盛の長男の平知章は、全軍が総崩れになる中にあって父を守るために奮闘し、源氏方の児玉党の大将を討ち取ったものの襲い掛かる源氏方の軍勢の前に一六年の生涯を終えた。

 平重盛の五男の平師盛は、脱出のために乗り込んだ船が転覆して海に投げ出され、畠山重忠の郎等に熊手で引き上げられた後に討ち取られた。

 平経盛の長男の平経正は河越重房の手勢に討ち取られて戦死した。

 平経盛の次男の平経俊は、叔父の平清房、平清盛の養子の平清貞とともに敵陣に突入し、そして戦死した。

 平経盛の三男の平敦盛は、船に乗って逃れようとしている途中で討ち取られた。

 平教盛の長男の平通盛は、湊川で佐々木俊綱に討たれた。

 平教盛の三男の平業盛は、六甲山系を越えて進軍してきた土屋重行に討たれた。

 平清盛の弟の平忠度は、逃走しようとしていたところを岡部忠澄に追いつかれて討たれた。

 平清盛の五男平重衡は、命は助かったものの庄家長に捕縛された。

 代々平家に仕えてきた有力家人の平盛俊は源氏の武士ともみ合った末に討ち取られた。

 正々堂々たる最期もあれば卑劣な内容による最期もあった。

 この中で一つの逸話が生まれている。

 熊谷直実の目に、馬に乗って沖に停泊している船に向かっている武者の姿が飛び込んできた。熊谷直実は武者に向かい、敵に背を向けるのは卑怯であろうと呼びかけ戻るように言うと、沖に向かっていた武者は引き返して熊谷直実と組み合った。

 勝負は熊谷直実の勝利に終わったが、組み倒した武者の兜を外して武者の顔を見てみると、熊谷直実の息子と同い年ぐらいの若者であった。名を名乗るように求めるも名を告げることはなく、自分を倒して首を切り取って持っていけば手柄として褒め称えられるであろうと告げるのみであった。

 我が子と同い年ぐらいの若者をこのまま討ち取って良いものかどうか逡巡していた熊谷直実であったが、後ろを振り返ると源氏方の仲間たちが迫ってきている。いや、勝敗が決まり残党狩りの局面になっている現在、ともに源氏方で戦った仲間は誰がより多くの手柄を手にするかを争う残党狩りのライバルだ。まさに戦闘の最中に討ち取った場合であろうと、戦闘が終わって逃げ惑う敵を討ち取った場合であろうと、手にする手柄は同じである。ここで熊谷直実がこの若者を見逃したとしても、残党狩りを繰り広げている源氏方の誰かに討ち取られて終わりだ。ならば熊谷直実が討ち取るべきと考え、若者は討ち取られた。

 若者の腰には笛の入った袋があった。鎧も兜も豪勢であった若者は笛の入った袋もまた豪勢な作りであり、これだけでも平家は何と金持ちなのかと驚いたと同時に、これほどの高級品を持っているのはいったい誰なのかという思いに包まれた。

 熊谷直実は若者の首だけでなく腰に携えていた笛も持って源義経のもとに向かった。

 その結果、この若者は平経盛の息子の平敦盛であり、平敦盛が持っていた笛は平敦盛の祖父である平忠盛が鳥羽院から拝領された笛であった。

 平家物語の異本によると、熊谷直実はこの笛を平敦盛の父である平経盛の元へと送り届け、平経盛から熊谷直実への返書も送り届けられたという。


 寿永三(一一八四)年二月八日、源氏勝利の第一報が京都に届いた。九条兼実は梶原景時から第一報が届いたとしており、九条兼実の日記には、伝聞にしてはわりと細かな一ノ谷の戦いの経緯が記されている。ただし、伝聞なだけあってその記事の量は多くない。平家物語がかなりのページを一ノ谷の戦いに割り当て、吾妻鏡でも一ノ谷の戦いの推移を鎌倉幕府の公的史書であるという前提を踏まえてもかなりの文章量で記しているのと比べると大違いであり、それが京都の貴族における一ノ谷の戦いに対する認識であったとも言える。また、九条兼実の日記には、源氏の戦果については書いてあっても、このときの朝廷にとってもっとも大切な二点、すなわち、安徳天皇がどうなったか、そして、三種の神器はどうなったかについては不明となっている。

 ところが、その現象は翌二月九日に逆転する。京都にいる九条兼実のほうが細かく書き記しているのだ。ある意味これは当然であろう。二月九日の日記には京都で何が起こったかを京都にいる貴族の立場で記しているのである。この日、平重衡が捕縛されたまま直垂と小袖の姿で、すなわち武装解除させられた上で一人の貴族として京都に連行されてきたのだ。なお、吾妻鏡では源義経が京都に平重衡を連れてきたとしているが、九条兼実は平重衡を連行してきたのは源頼朝の郎従である土肥実平であると九条兼実は記している。

 一ノ谷の戦いで源氏が勝った、それも平家に大ダメージを与えた形で勝利を手にしたという第一報はにわかに信じられない話であった。二月九日に平重衡が平家の公達の一人として京都に連行されてきたことで京都内外の人たちは源氏の勝利を納得したが、それでもこのときはまだ平重衡一人が囚われの身となったことが京都で示されたという以外のことはなく、平家が敗れたことの実感も特に掴めないものであった。

 しかし、二月一〇日に京都市民は現実を目の当たりにすることとなった。一ノ谷の戦いを終えた源範頼や源義経らが討ち取った平家の首を携えて入京してくるというのである。そのような物騒極まりないことは本音を言えば誰もが反対なのだが、源氏にとっては平家討伐の院宣を成し遂げただけでなく、平治の乱以来の敵(かたき)討ちも成し遂げた成果を見せる絶好の機会であり、特に平治の乱の後で源義朝らの首がどのように扱いを受けたのかを知らない者はいない以上、首を携えて入京して源氏の勝利をアピールしてようやくプラスマイナスゼロになるのである。後白河法皇はどうにかして平家の首を携えての入京を回避できないものかと、左大臣藤原経宗、右大臣九条兼実、内大臣藤原実定、大納言源定房に答申するものの、誰もが明瞭な回答を示すことができなかった。

 妥協案として、捕縛した平重衡の処遇を後白河法皇に委ねることを認める代わりに平家の首を携えての入京を認めることとなった。

 京都市民の感情は複雑な物となった。

 源氏が平家の首を携えてやって来るのであるが、その首は大将格の首だけではなく、討ち取った平家方の兵の首の全てなのだ。京都市民の中には家族が平家方の武士として参戦した者もいるし、家族が平家方の郎等として都落ちに帯同していた者もいる。平家に対する忠誠として行動した場合もあるし、その時点での上司が平家であったというだけの理由で都落ちに帯同せざるを得なくなった者もいる。そうした者とは音信不通が続いており、平家の都落ちから半年ぶりの再会が首だけというケースもあり得るのだ。

 同日、後白河法皇のもとに処遇が託された平重衡は、後白河法皇に対して一つの交換条件を提示した。平宗盛に対して三種の神器と自分の身柄の交換を要求して欲しいというのである。この時点で平宗盛のもとに三種の神器があることが京都で判明していたという証拠は無い。九条兼実の日記に平重衡と三種の神器とを交換条件とする交渉開始についての記録があるだけである。

 この裏で一人の政治家が表舞台から姿を消した。木曾義仲と手を組んで権力奪回を図った松殿基房、いや、出家後の法名で記すところの善観である。藤原摂関家における松殿家の権勢構築どころかもはや居場所すら無くなったのである。それでも松殿基房は有職故実に通じた有識者として史料に何度か登場することとなるが、政界の表舞台から姿を消し、近衛家や九条家と藤氏長者の地位を争う宿命にあったはずの松殿家が歴史の闇に消えるきっかけにもなった。


 寿永三(一一八四)年二月一一日、朝廷は源氏方に対して平家の首を携えての上洛を許可するにいたった。

 二月一三日、源氏方の武士たちが討ち取った平家の武士の首を掲げて入京し、源義朝らがされたのと同じように、しかし、それよりも大量の首が晒し首となった。平家物語によると二〇〇〇を越える晒し首が六条河原に並んだという。実際にはもっと少なかったであろうが、それでも、平通盛、平忠度、平経正、平教経、平敦盛、平師盛、平知章、平経俊、平業盛、平盛俊の一〇名の首が晒し首になったことは判明している。

 平家の都落ちから半年、それまで音信不通であった家族がいるのではないかと六条河原に出向いた京都市民は多く、変わり果ててしまった家族の姿に泣き崩れる者が数多く現れた。あまりにも残酷に感じたが、平治の乱の後で繰り広げられたことが、それから二十三年という歳月を経て源氏と平家の立場が逆転して繰り広げられたのである。源氏が受け続けてきた悲しみをこれからは平家が受けることになるのだという反論の前には、いかなる同情心も通用しなかった。源氏方を率いた源範頼も源義経も平家に父と兄を殺されている。復讐の連鎖を立つべきなどという正論は通用しない。

 さらに、源氏方はもう一つの復讐をした。

 源頼朝がされたのと同じことが平重衡にもされることが決まったのである。平治の乱のあと、源頼朝は捕らえられて平清盛の前に突き出された。今度は平重衡が源頼朝のもとに突き出されることが決まったのだ。ただ、平治の乱の後の平清盛は六波羅にいたのに対し、寿永三(一一八四)年二月時点の源頼朝は鎌倉にいる。平安京とは鴨川を東へ渡ればいいだけの六波羅に行くのと、どんなに急いでも陸路で半月はかかる鎌倉へ向かわなければならないのとでは同列に扱えないではないかとなるが、単純にそうだとは言い切れない。平重衡には南都焼討の総大将であったという過去があり、奈良の人たちからの怨嗟を買っていたのである。平重衡が捕らえられて京都に連行されてきたという情報は奈良にも届き、奈良からは平重衡を奈良へ引き渡せ、それがダメならせめて平重衡の顔だけでも見せろという要求が出たため、平重衡を京都に置いたままでは平重衡の命に関わる話になっていたのである。それならば、奈良から近い京都よりも、奈良から遠い鎌倉まで連行したほうが平重衡の命は守れる可能性が高い。忘れてはならないのは、平重衡の身柄と三種の神器との交換を平宗盛に対して書状で送り届けていることである。ここで平重衡が死んでしまおうものなら三種の神器が返ってくることは無くなるのだ。

 京都の源氏軍は、当初の目的である木曾義仲の討伐を成功させたこと、また、一ノ谷の戦いで平家に対して完勝したことの凱旋のために、鎌倉にいったん戻ることが決まった。ただし、源義経をはじめとする一部の者は京都に残留となる。このときの鎌倉方の軍勢の中で誰かを京都に残さねばならないとしたら、文人としての能力で京都の貴族たちと渡り合うことのできる源義経を選ぶのは妥当な選択肢である。

 源義経は文人としての能力によって京都に留まることが求められたが、源義経に最初に課された課題は京都の治安維持、次の仕事は平重衡の身の安全の確保である。寿永三(一一八四)年二月一四日に奈良からの強い要請により平重衡が京都市中を引き回されたが、その警護を源義経らが受け持ったのである。そうしなければ奈良からやってきた怒り狂った民衆の襲撃を受けて平重衡が殺害されかねない勢いであったのだ。


 一ノ谷の戦いで敗れた平家の面々は四国屋島に海路で戻っていた。

 誰が一ノ谷の戦いで討ち取られたのか、あるいは、討ち取られたかどうかはわからないにしても行方不明になっているのは誰かという確認は続いていた。

 それは平家の面々にとって絶望を伝える確認作業であった。

 その中で一つの悲劇が生まれた。

 寿永三(一一八四)年二月一四日、平通盛の妻で、本名は不詳であるが「小宰相」と呼ばれている女性が海中へ身を投げ入水自殺したのである。平家物語によると、それまでの婚姻生活で一度も妊娠することのなかった小宰相が、一ノ谷の戦いの前になってようやく子を宿したとある。都落ちとはなったものの、それでもどうにか最愛の夫と、これから生まれてくる子との暮らしを迎えるとしていた矢先の一ノ谷の戦い、そして、敗戦と夫の死は、彼女を絶望の淵に追いやった。最初のうちは夫の戦死を信じられずにいたが、実際に平通盛が亡くなった場にいた武士の証言、そして、屋島に向かう平家の船に追いつく船があって船の上で再会を喜ぶ者がいるのに自分のもとには夫が戻ってこないでいるという現実、さらに、間もなく目的地である屋島に到着してしまう、すなわち、逃避行が終わって屋島の地に到着した瞬間に夫の死が確定してしまうという情景が、彼女を決断させてしまった。

 誰かが船から落ちたという知らせが飛び交い、船から落ちた人を救い出そうとたくさんの人が手を差し伸べたことで救い出すことは一応ではあるが成功した。ただ、救い出された女性は息を引き取る寸前であり、船から落ちた女性が小宰相であることが判明し、小宰相のもとに仕えてきた乳母の女性のもとへ小宰相を連れて行って間もなく、小宰相は命を終えた。乳母の女性は小宰相を追って自分も入水自殺しようとしたが、周囲の人に止められ、平通盛の弟で八年前に出家し僧籍にあった忠快の手で出家し仏門へと入ることとなった。

 小宰相の入水自殺から間もなく平家の船は屋島に到着した。

 屋島には想像もしなかった連絡が待っていた。

 後白河法皇から平重衡と三種の神器との交換を求める書状が届いていたのである。

 平宗盛を宛先とする書状だけでなく、平清盛の正妻で二位尼(にいのあま)と呼ばれることの多い平時子を宛先とする書状も届いており、平時子は我が子の命と三種の神器と引き替えにできるなら三種の神器を朝廷に返しても良いのではないかと訴え、平宗盛も母の意見に同意しつつあった。

 しかし、平知盛は反対した。

 それではいったい何のために一ノ谷の戦いに挑んだのか、何のために多くの平家の者が命を落としたのか、何のために平家に付き従ってくれた武士たちが戦場に散ったのか。一ノ谷の戦いの前に三種の神器を返すならまだしも、ここで三種の神器を返してしまってはなくなった者は全く浮かばれないではないか。

 それに、実情はどうあれ理論上は三種の神器とともに安徳天皇を奉じている平家のほうが正しい統治者であり、京都にいる面々は理論上、三種の神器のないまま天皇を称する人物を帝位に掲げた国家反逆者なのである。非現実的と言われようと、平家としてこの一点はどうしても譲ることができない、譲ろうものなら平家のアイデンティティが全否定される一点なのである。

 また、一ノ谷の戦いの前に後白河法皇から三種の神器を返還することを前提とした和平交渉が提案され、平家は後白河法皇との交渉を続けていたにもかかわらず源氏方がいきなり不意打ちをしてきた点も問題であった。ここで三種の神器と平重衡との交換に応じたところで後白河法皇相手の交渉はもう信用ならないのだ。


 寿永三(一一八四)年二月一五日、時刻は辰刻とあるから現在の時制にして午前八時頃、鎌倉にようやく一ノ谷の戦いでの勝利の報告が届いた。もっとも、ようやくとは言うが一ノ谷の戦いのあったのは二月七日であり、勝利の第一報が鎌倉に届いたのは二月一五日であるから、いかに源頼朝の情報収集能力に尋常ならざるものがあろうと、わずか八日で勝利の第一報を手にしたのは相当に早いとするべきである。なお、木曾義仲討伐成功時のこともあり、この日に届いた書状はかなり詳しい内容の書状であったという。特に、政治家としての源頼朝を念頭に置いた、権力者としての平家がいなくなったことによる無政府状態がもたらす惨状も詳細に記されているものであった。

 源頼朝はいかにして源氏方が勝利を手にしたかを知ったのち、源義経とともに京都に残っているのが誰かを把握した上で、源範頼をはじめとする主立った者が鎌倉に戻ってきている途中であること、捕縛された平重衡が鎌倉にやって来ることになっているが実際にはまだ土肥実平の監視下にあって京都から出発していないことを把握し、最初の指令を出した。なお、ここでの源氏方の勝利の方法を源頼朝の知ることになったことは、源範頼にも、源義経にも、勝利では埋め合わせできない痛時となることはまだ知る由もない。

 寿永三(一一八四)年二月一八日、源義経は京都にそのまま滞在して京都の治安維持に当たるよう、梶原景時と土肥実平の両名に対しては播磨国、美作国、備前国、備中国、備後国の五ヶ国の制圧するよう指令を出した。同時に、平重衡の監視役については土肥実平から源義経に移すように命じている。なお、繰り返し記すが、海路を選んで黒潮に乗ってしまったら逆方向になってしまう鎌倉から京都への情報伝達は陸路の方が早く、陸路だと早くても半月、通常は一ヶ月を要する。つまり、二月一八日に源頼朝の送った指令が京都に届く頃には月が変わっている。

 吾妻鏡によると二名に対して五ヶ国の制圧という記載になっているが、この年の一二月一六日の吾妻鏡の記録から、播磨国と美作国については梶原景時が、備前国、備中国、備後国の三ヶ国については土肥実平が担当するという作戦分担があったことが判明している。

 この五ヶ国の制圧指令には三つの意味がある。

 一つは平家からの防衛。平家が都落ちしたのちに九州に逃れようとするも太宰府を脱出せねばならず、平家は四国屋島に本拠地を構えるしかなくなっていることは源頼朝も把握している。とは言え、四国屋島に本拠地を構えられてしまうというのは、これがかなり厄介なことなのだ。海上戦力で圧倒的に劣る鎌倉方としては現段階で瀬戸内海の航行を制圧することはできないことから、瀬戸内海を挟んで対岸にあたる山陽道各国の防御を固めないと、四国から海路で反転攻勢に出るであろう平家に対抗できなくなってしまうのである。

 二つ目は平家への攻勢。途中までではあるが山陽道の制圧に乗り出すことで、それまで西日本に構築できていなかった鎌倉方の勢力拡張を図ることが可能となる。この時点では途中までであるが、一ヶ国ずつ勢力を西に伸ばすことで鎌倉方の勢力を九州にまで及ぼすことができれば、四国の平家を取り囲む構図が誕生する。源頼朝という人は軍勢を率いるのは下手くそでも、地図の上で政略を作り上げるのは長けている人だ。

 最後に無政府状態の解消と治安維持。一ノ谷の戦いで平家が敗れたことで、それまで平家が保有していた所領は無主の地となった。こうなると、実際にはそうでないにもかかわらず自分のことを鎌倉方の武士と称して所領に攻め込もうとするのが現れる。そこで、無主の地となった公田や荘園を守るために早々に人員を派遣し、公田や荘園が無主の地となっても安全を確保することが可能となる。ドサクサに紛れて所領を盗み取ろうとしているのがいても、一ノ谷の戦いの勝者である鎌倉方の勢力の手が伸びていると知ったならば、鎌倉方の武士を詐称する者は手も足も出なくなり、所領に住む領民の安全は確保できる。源頼朝は戦争をしているのではなく政治をしているのだ。戦いに勝つことを求める戦争と違い、政治に求められるのは国民生活の向上だ。勝てばそれで良いというレベルの低い選択を源頼朝は選んでいない。

 なお、源頼朝はこのときに京都近郊の各国に対して平家の残党ならびに木曾義仲の残党の追捕に加えて兵根米の確保を命じる必要を認識することとなるが、具体的な情報収集と人員の選抜に手間取り、実際に指令を発動するのは三月のこととなる。また、京都の多くの人が考えたように源頼朝自身が京都に上るという動きは全く見せていない。

 京都に向かわないという一点だけを捉えれば、源頼朝は鎌倉に滞在し続けたまま安全な場所で戦乱と無縁な安穏とした生活をしていたという言い方もできてしまうが、鎌倉に滞在し続けたのはその通りでも、安全でもなければ、戦乱と無縁な生活でもない。そして、断じて安穏ではない。それどころか、いっそのこと上洛してしまったほうがどれだけ楽であったろうかという日常である。

 まず、既に記しているように京都方面から届く情報がある。情報を手にして指令を出すのは源頼朝の仕事だ。それも、どのような情報が届いてどのような指令を出しているかは全て公表しているし、指令を出すに至るまでの決断には鎌倉在住の御家人の意見を広く集めている。

 また、鎌倉にやって来るのは書状だけではなく人間もやってきている点も忘れてはならない。特に多かったのが当初は木曾義仲とともに行動していながら、木曾義仲と袂を分かって木曾義仲のもとを離れた武士である。彼らは平家の都落ち後に没収となった平家の所領を得た者であるが、所領保有の根拠が木曾義仲に由来しているため、木曾義仲亡きあとの所領保有の根拠を源頼朝に求めたのである。元々が平家の所領であった土地であるから、偽りの源氏のトップである木曾義仲ではなく、正真正銘の源氏のトップである源頼朝の後ろ盾を獲得することに成功すれば所領の保有権について文句を言うのは平家だけとなる。これを源頼朝の立場で捉えると、鎌倉方の勢力拡張と情勢安定となるのであるが、むやみやたらに木曾義仲のもたらした所領の保有権をそのまま認めたわけではない。そもそも鎌倉にやってきた武士が根拠とする所領の保有権の証拠について真実であるか否かを判定する必要がある。不届き者というのはどの時代にもいる。ドサクサに紛れて赤の他人が保有権を手にしていた所領を、武力ではなく合法的に横取りしようと考えて、合法とは言えないレベルの武装をして鎌倉にやってくる者もいたのだ。


 鎌倉から京都へは、書状ならば届くが源頼朝自身については全く姿を見せないでいる。

 源頼朝の末弟である源義経が京都にいて、一ノ谷の戦いにおける活躍はたしかに評判になっていたが、京都がもっとも必要としているのは源頼朝なのだ。より正確に言えば、源頼朝が鎌倉にて構築している勢力が京都に移転して、京都を中心としたこの国の安定をもたらす材料になってくれることなのだ。源頼朝であれば以前のような平家の面々と違った政治をするであろうし、間違えても木曾義仲のような乱暴狼藉を繰り返すこともないという期待があった。

 また、平家に対してたしかに大ダメージを与えることに成功したものの、三種の神器も安徳天皇もまだ平家のもとにある。これでは後鳥羽天皇の統治の正統性が完璧ではなくなってしまうのだ。その点を平家に突かれたならば、平家がもう一度勢力を盛り返して京都に武力で襲撃してくる可能性もあった。そうなったら、治承三年の政変、木曾義仲に次ぐ、第三の悲劇を京都は体験することになってしまう。

 源頼朝の上洛を求める声が日増しに高まった結果、寿永三(一一八四)年二月一九日に諸国七道の公田や荘園に対する乱暴狼藉に対する取り締まりを源頼朝に命じるとともに、公田や荘園からの兵糧供出の停止を定めた宣旨が下った。源頼朝であればどうにかしてくれるであろうという希望と、これで源頼朝が京都に来てくれるであろうという狙いがそこにはあったのだ。特に乱暴狼藉の取り締まりは一ノ谷の戦いの勝利を伝える書状に記していたこともあって切実なものであった。戦勝報告時にはこのような問題が起こっていることを伝えるという内容であったのが、このときは源頼朝にはっきりと問題解決をさせるという内容になっている。

 同日の九条兼実の日記には、前権中納言源雅頼の言葉として源頼朝が四月に上洛する予定であると述べた上で、もし源頼朝が上洛しないなら後白河法皇のほうが鎌倉に臨幸するつもりだと源雅頼から九条兼実に伝えられたとある。このときの九条兼実の感想は後白河法皇の言葉に呆れかえっている様子であるが、このときの後白河法皇の言葉はこのときの京都に住む多くの人が共通で抱いている感想であったろう。このときは結局、後白河法皇ではなく、中原親能が後白河法皇の命を受けて源頼朝の上洛を促すため鎌倉に向かうこととなった。ちなみに、源雅頼はたしかに源を姓としているが、村上源氏であって清和源氏ではない。

 宣旨の出た翌日である寿永三(一一八四)年二月二〇日、鎌倉の源頼朝からの第一報が京都に届いた。そこには源頼朝上洛のことなど全く記されておらず、大したことはしていないのだからそこまでの報奨は要らないとあっただけであった。源頼朝の謙虚さは寿永二(一一八三)年九月にもう知れ渡っている。それから半年、源頼朝の謙虚さは今も変わることないことが示された。と同時に、源頼朝の情報伝達速度の速さを思い知ることとなった。二月七日に起こった一ノ谷の戦いについて二月二〇日に源頼朝からの報告が届いている、すなわち、わずか一三日間で京都と鎌倉との間の情報の往復をさせたのである。どんなに離れていてもリアルタイムで情報が伝わるのが当たり前である現在では理解できない感覚であるが、この時代の感覚でいくと一三日で情報を往復させたというのは常識をはるかに超えるスピードだ。もっとも、宣旨が出た翌日に届いた源頼朝のからの書状であるから、前日の宣旨の内容については何ら記されていないのは当然であるし、そのことについての京都の人の感想は何ら記録に残っていない。

 その五日後の二月二五日、源頼朝から高階泰経に向けて書状が届いた。高階泰経は後白河法皇の近臣であり元々は大蔵卿であったが、法住寺の戦いの影響で大蔵卿を罷免され、木曾義仲が亡くなったあとで大蔵卿に復帰したばかりという立場であった。現在の感覚でいくと政権交代で財務省の事務次官を罷免された官僚が、さらなる政権交代で事務次官に復帰したというところか。現在でもそうだが、財政を扱う職務の人は冷静な視点で世の中を捉える人でもあり、この人の目に源頼朝は次世代の権力者と映ったであろうし、源頼朝も接点を持つならこの人という確信もあったろう。

 源頼朝から高階泰経に向けて送られてきた書状は国政に対する源頼朝からの意見を四ヵ条にまとめて記したものであった。

 本作は源頼朝をこのように何度か評している。武将としては三流でも政治家としては超一流であると。その源頼朝の政治家としての才覚をここではじめて京都の貴族たちは目にすることとなったのだ。九条兼実はこのときの四ヵ条を目の当たりにしたときの感想として、このままでは後白河法皇の院政を基盤とする現在の政治が、源頼朝の政治家としての能力の高さの前に圧倒されてしまうと警鐘を鳴らしている。源頼朝の政治家としての資質が後白河法皇だけでなく京都の貴族たちの資質をもはるかに上回っているのだ。

 まずは第一条「朝務等の事」。

 戦乱の影響で土地を離れざるをえなくなり、特に農地から離れて失業者となってしまった人が数多くいることを挙げ、その人たちに農地に戻るように促すため各国の国司を任命していただききたいという要望を述べている。この要望が満たされたとき、今からはじめて今年の秋に間に合わせることは難しいが、来年の秋は飢饉以前の収穫が期待できるというのが源頼朝の主張だ。これは何も新しい政治を始めようとしているのではない。治承三年の政変と木曾義仲の勢力によって破壊されてしまった国政を建て直し、本来あるべき国の形に戻すことを源頼朝は訴えているのである。

 特に着目すべきは飢饉以前の収穫に対する期待を述べたところである。飢饉は最悪期を脱しているという認識は広まっていたが、だからと言って飢饉が完全に過去の話となったわけではない。相変わらず食糧事情は苦しいままであり、餓死に対する恐怖は京都市中の人たちにとって日常で隣り合わせとなっている恐怖である。その恐怖からの脱却のための農地回復を失業の減少と組み合わせて実施する、それも、新たな政策ではなく破壊されてしまった国政を元に戻すという方法で実現させ、国民生活の向上を図るというものである。後付けで考えるから源頼朝の視点は当たり前のことではないかと感じるが、実際に源頼朝に指摘されるまで、飢饉問題と失業問題と農地荒廃問題と治安悪化問題の根幹に目を向けた者はいなかった。

 次に第二条「平家追討の事」。

 平家を完全に討伐するため、五畿やその近隣の武士を源義経のもとに派遣して欲しいという要望が源頼朝より出た。これには少し解説を必要とする。たしかに一ノ谷の戦いは鎌倉から派遣した源範頼が総大将となり、源義経が鵯越(ひよどりごえ)の逆落としをするなど活躍を見せた。鎌倉から派遣された御家人たちも奮闘を見せた。ただ、鎌倉から派遣された軍勢だけで平家を倒したのではなく、たとえば多田行綱のように京都や京都近郊に在住する源氏方の武士も軍勢の一翼を担っていたし、都落ちに帯同しなかった平家の武士の中には、源範頼率いる軍勢の方が官軍だからと平家であることよりも朝廷に仕えることを優先させて軍勢に加わった者もいたのである。一ノ谷の戦いの終結までは源氏の軍勢であることと朝廷から派遣された軍勢であることとが同一であり、源範頼の指揮下に入って戦場で戦うことは朝廷の命令に従うのと同じであった。

 この命令を今後も続けて欲しいというのが源頼朝から出された要望である。要望の中には、現在は海軍力がないに等しいがそれでも平家討伐は危急の事態であるとして早急な対応を求めている部分もある。平家が讃岐国屋島に戻って体勢を立て直そうとしているのは京都では誰もが知るところとなっていたが、忘れてはならないのは、この要望が二月二五日に鎌倉から届けられた書状による内容であるという点である。二月二〇日の書状は報奨の遠慮であり、その内容は簡潔なものであり、二月二〇日の書状は一ノ谷の戦いについての第一報を聞いてただちに書状を書き起こして届けさせたのであればまだ納得できる。しかし、今回の書状は詳細に亘っている。調べるだけで何日かかるか、さらに言えば調査に必要な情報を収集するだけで何日必要かという内容であり、明らかに一ノ谷の戦いの結果だけを知ってまとめた書状では無い。二月七日の一ノ谷の戦いだけでなく、その後の一ノ谷と京都の情勢、そして、海路で避難していった平家の動静も、リアルタイムとまでは行かなくとも適宜情報収集していなければできない芸当を見せている。何度も記していることだが、この時代、陸路で京都から鎌倉までは情報を届けるには早くても半月、正確な情報となると一ヶ月を要する。往復となればその倍だ。それなのに、源頼朝はわずか一八日で情報を往復させている。片道九日というスピードは異常だが、それだけではない。二月二〇日の書状が往復一三日であったことから実際にはもっと短かったことが容易に想像できるだけでなく、何人もの、いや、何十人もの人が京都と鎌倉とを往復していること、すなわち、京都で何か情報を掴むたびに京都から鎌倉へと情報が送られ、鎌倉では時間差があるものの京都で手にしたのと同じ順番で情報を掴めていることが判明したのである。

 このヒントとなるのが、海路だ。

 本作の冒頭にも記した今井雅晴氏の研究によると、黒潮に乗ることで紀伊半島から相模湾まで三〇時間で航行できるという。情報のスピードにこだわる源頼朝が海路のスピードに気づかぬはずがない。

 このスピードと情報量を確保した上で鎌倉においても情報を把握し続けていることがかわる書状を京都まで送り届けたことに気づいた貴族は、鎌倉の源頼朝の情報収集能力を目の当たりにさせられ、源頼朝が本当に鎌倉にいるのかと疑う者まで出る始末であった。

 併せて、平家討伐において手柄を立てた者への褒美は後ほど源頼朝が推薦するので、朝廷は推薦に応えていただきたいという要望も記している。既に述べたことであるが、一ノ谷の戦いに参加した武士の中には鎌倉から派遣されたわけではない武士も混在している。そうした武士についても戦功については源頼朝が把握した上で推薦するとしている。こうなると、鎌倉方の武士ではなかった者、それこそかつては平家の一員であったが平家の都落ちに帯同せずに京都とその近郊に留まり、官軍であるからと源範頼のもとに加わって戦場に赴いた者も事実上鎌倉の軍門に降ることとなる。朝廷の命令だからと戦地に赴いても、その功績を朝廷が評価するのは鎌倉にいる源頼朝であるとなれば、命令に従うことと源頼朝の支配下に入るのが同一となる。朝廷の命令には従うが、戦いにおける功績など評価されなくても構わないと考える武士がいれば話は違うが、そのような武士はいない。

 第三条と第四条はともに宗教政策に関することで、第三条は「諸社の事」、すなわち神社に関することであり、第四条は「仏寺の間の事」、すなわち寺院に関することである。

 神社について源頼朝は、神社の修理と増築、また、新築を促して頂きたいという要望を出している。このあたりは熱田神宮の宮司の娘を母として生まれた源頼朝の個人的な感情もあるだろうが、第一条で述べた復旧による国民生活の建て直しにも直結している。二一世紀の現在、特に新興住宅地においては内部に宗教施設を全く有さない地域も珍しくはないが、それでも地域コミュニティの根幹を有さない地域はない。この時代は神社が地域コミュニティの根幹であり、どんな地域でもどんな集落でも人々の住まう一角には神社があり、神社が地域コミュニティの場として機能している。戦乱によって荒廃した地域を立て直すことを考えるとき、神社の再建は地域の再建と密接につながっている話となるのだ。

 一方の寺院について源頼朝の主張は手厳しい。現在と違って神仏分離となっていないこの時代では、地域における寺院と神社の役割は分業ではなく混交となっており、寺院も前段の神社と同じく地域コミュニティの場として機能している。それについては源頼朝も認めているが、寺院とは仏事を行い仏門に励む場であるとして、仏事にも仏門にも関わらない僧侶は不要だとしているのである。ここで源頼朝が念頭に置いているのは僧兵のことであり、武器を持って暴れている僧侶など税の無駄遣いであるとし、僧兵の存在そのものを禁止すべしとした上で寺院の武装を完全に禁止して武器を没収し、没収した武器は官軍で利用することも主張しているのだから、僧兵が当たり前の時代であるのにこうした主張をするのはかなり斬新である。

 また、寺院については少し視点を変える必要がある。特に、地域コミュニティの場である寺院ではなく、巨大寺院についてだ。かつて隆盛を誇っていた園城寺は消え、興福寺も南都焼き討ちで消滅し、京都において脅威となる僧兵勢力となると残るは比叡山延暦寺ということになる。延暦寺は木曾義仲と同調したという過去があり、その一点において源頼朝にとっての延暦寺は明白に敵であったのだ。ただし、源頼朝は延暦寺に対してアプローチを掛けている。木曾義仲が強引に天台座主にさせた俊堯は木曾義仲の死と前後して天台座主を降りたようだが、延暦寺にはなお木曾義仲に同調する勢力があるとして、木曾義仲に同調する勢力の延暦寺からの追放と、その勢力の保有している武器の供出を求めたのである。


 平重衡はいつでも鎌倉に搬送される準備が整っていたが、この時点ではまだ讃岐国屋島の平家からの返答を得ておらず、三種の神器との交換次第では搬送先が鎌倉ではなく讃岐国になるという状況であった。

 にもかかわらず、まだ平家からの回答が届いていない寿永三(一一八四)年二月二六日に源頼朝に対して平宗盛の追討宣旨が下った。一ノ谷の戦いの始まる前は、建前としてではあるが安徳天皇は福原に行幸していて平家は安徳天皇を守っているということになっていたのに、二月二六日にははっきりと平家が国家反逆の一味であると断定され、山陰道、山陽道、南海道、西海道の各国で暴徒となって租税を略奪し回っていることへの対処として、源頼朝に対し平家討伐のための軍勢派遣を求めたのだ。

 とは言え、陸路では早くとも片道半月、往復一ヶ月を要する京都と鎌倉との距離を考えると、そう簡単に源頼朝を動かすなどできない。海路を選んで黒潮に乗ればもっと早くはなるが、それは京都から鎌倉に向かうときの話であり、鎌倉から京都へ向かうのでは逆方向だ。さらに、二月二六日時点で考えると、一ノ谷の戦いのときのような官軍をもう一度結成することもできずにいるのが実情だ。この時点の京都で用意できる軍事力が減っているのである。

 既に述べている通り、源範頼らは既に鎌倉に向けて戻っており、源範頼らとともに鎌倉に戻らなかった武士の多くが源頼朝によって各国に派遣されていたため、この時点で京都にいる鎌倉方の武力は一ノ谷の戦いの頃と比べるとかなり少ないものとなっている。それでいて荒廃した京都を立て直すための治安維持にあたるのであるから、源義経らはそう簡単に京都から出て行くことはできない。出ていこうものなら京都の治安は再び悪化する。今は武力で強引に治安維持を図っているところなのだ。

 そもそもどうして源範頼らが鎌倉に戻ることを認めたのかとなるが、そもそも想定以上に長くなってしまっていたのであり、源義経が京都にまだいることのほうが特例なのである。鎌倉から京都へ源義経らが派遣されたのは木曾義仲の討伐のためであり、木曾義仲討伐が完了した後に一ノ谷の戦いに出向くこととなったのは朝廷からの指令に従った結果であって本来の京都派遣の目的ではない。ここでの鎌倉帰還を許したのは、緊張を強いられ続けている日々を終えたら鎌倉に戻ったほうが寛げるだろうという心理的なものもあるが、兵糧という大問題がある。鎌倉方の軍勢は平家とも木曾方とも違って略奪をしていないだけでなく、略奪の被害に遭った地域に兵糧を配っている。その兵糧は東国から運びこんできたものであり、これ以上の滞留は兵糧を枯渇させてしまうのだ。鎌倉に帰還しなかった武士たちの全員を京都に残すのではなく、京都に残すのは源義経らだけでその他の多くの者を近隣各国に派遣させたのも、統治の問題もあったが食い扶持をどうにかする必要もあったからである。

 軍に対するシビリアンコントロールは軍を暴走させない手段の一つであるが、シビリアンのほうが暴走していると、かえって軍に無謀をさせてしまう。シビリアン自身は現地にいないことも手伝って、現状を理解しないまま威勢良い意見を通してしまうのは古今東西よく見られるシビリアンコントロールの欠点の一例である。その例は寿永三(一一八四)年二月の京都でも適用できた。そのような軍勢を用意できない、そのような作戦を遂行できる兵糧などないといった当事者からの反論があろうと、一ノ谷の戦いの鮮やかな勝利に酔いしれていながら未だ最終的な勝利を手に収めていない状況にあると、最終的な勝利を獲得しようとさらなる軍事行動を起こさせてしまうシビリアンコントロールの暴走の例である。

 このままだと一ノ谷の戦いの勝利を帳消しにしてしまう大敗を招いてしまう可能性が高かった。

 九条兼実はその日記に、讃岐国屋島に集結している平家は三〇〇〇騎を数えていると記している。万単位の軍勢を一ノ谷の戦いにおける平家の軍勢として書き記した九条兼実にしてみれば三〇〇〇という数字は少なく感じるが、海を越えて攻撃しようとしている軍勢がどれだけの規模になるかを考えると、三〇〇〇という平家の数字は京都の用意できる軍勢で容易に倒せるような兵力ではない数字であることが読み取れる。

 なお、平家の軍勢の数を書き記しているのと同箇所で九条兼実は平維盛が四国を脱出したことも述べており、平家物語にある記述よりも一ヶ月早い段階で既に平維盛出奔の知らせは京都まで届いていたことが判明している。


 寿永三(一一八四)年二月二九日、平家追討の一時中止が決まった。

 この日、平宗盛から三種の神器と安徳天皇、そして、平清盛の正妻であった二位尼こと平時子を帰洛させるとの回答があったのだ。ただし、平宗盛をはじめとする平家一門はこのまま讃岐国に留まるとし、讃岐国を平家の知行国として了承してほしいとの要請が出ている。

 仮にこの要請を受け入れたなら源平合戦はここで終わったのだ。

 ただ、朝廷からの回答は平宗盛からの要請を拒否するというものであった。

 朝廷としては悪い条件ではなかったが、横槍が入ったのである。源頼朝からの横槍が。

 このときの源頼朝の公的地位は従五位下右兵衛佐であり、お世辞にも高いものとは言えない。低い官職の者が一名だけ反対したことをどうして朝廷が考慮し、その反対意見に従わなければならないのかという疑念が無いと言えば嘘になる。しかし、今の京都のどこに源頼朝に逆らうことのできる者がいるというのか。おまけに、源頼朝は京都にいない。仮に源頼朝の居場所が六波羅のように京都と目と鼻の先であればただちに意見を求めることができるが、源頼朝の居場所は相模国鎌倉だ。どんなに源頼朝の情報連携速度が尋常ならざるものであろうと現在のように電話やメールのようにリアルタイムのやりとりができるわけではない。ゆえに、源頼朝が即断しなければならない場合は事前に条件毎の回答を伝えておいて、京都在住の者に返答させている。

 源頼朝が平宗盛からの要請を拒否するよう求めた理由は単純明快で、三種の神器と平重衡との交換を主張したのは平重衡であって源氏の意見でもなければ朝廷の意見でもないからである。そもそも三種の神器と安徳天皇を京都から勝手に連れ出したこと自体が許されざる犯罪であり、平家は無条件で安徳天皇と三種の神器を朝廷に返すのが当然のことで、その上で平家は犯罪者としていかに罪を償うのかという以外に交渉の余地はないというのが源頼朝の意見なのだ。現地にいないために現状を理解せぬまま威勢良い意見が通るというのが既に述べたシビリアンコントロールの欠点の一つであるが、源頼朝は自身が武人であるもののシビリアンコントロールの暴走を体現させてしまう人でもあったと言えるのだ。

 一方、仮にここで平家に妥協した場合をシミュレートするとどうなるかを考えると、源頼朝の意見のほうが正しくなるのも事実だ。

 どういうことか?

 源頼朝にとっての平家討伐は目標のための過程であって目標そのものではない。平家によって破壊されたこの国と国民の暮らしを立て直すことが目標である。国民生活を壊した当事者である平家は責任をとらせる対象であって、ともに国民生活を立て直す協力者ではないのだ。極論すれば討伐できなくても構わない。平家に責任をとらせることができるならば討伐できなくてもよいが、平家のやってきたことについては無罪放免とさせるわけにはいかないのである。

 源頼朝の視線の先には、荒廃した農村があり、荒廃に苦しめられた多くの人たちの姿がある。この時代に民主主義はないが、荒廃の原因となった平家を赦すという民意を完全に捨てる行動を選ぶのは、これからのこの国を立て直すことを目的とする政治家としては断じて認められない選択なのである。

 一方で、源氏方にも責任を取らせなければならない人物がいる。それも二人。

 源範頼と源義経だ。

 この二人が一ノ谷の戦いに勝利するために何をしたか。

 現地調達だ。

 一ノ谷の戦いとは言うが、戦闘は一ノ谷だけで繰り広げられたのではない。福原の東の生田の森でも戦闘は繰り広げられたし、福原の北の夢野口でも戦闘は放り広げられた。攻め込んでくるとわかっている源氏の軍勢に対して平家が何の対策もせずにいたわけはなく、堅牢な要塞を構築して源氏方の軍勢を食い止めようとして堀を掘削し、現在の鉄条網に相当する逆茂木を張り巡らせ、城壁を多重構造で構築している。その全てを平家の軍勢だけで成し遂げたのではなく、平家は現地の人を動員して構築させたのだ。

 この時点までで話が終わるのであれば平家が命じた不当な強制労働と一刀両断にできるところであったが、源範頼は、平家の作った堀を埋めさせ、平家の作った逆茂木を取り払い、源氏方が馬で攻撃しやすくするために戦場を整地させるのを現地の人にさせたのだ。源範頼は平家の作ったものを壊すために平家と同じことをしたのである。

 それでも源範頼はまだマシである。働かせるにしても報酬を用意している。充分かどうかと言われると首を傾げるしかないが、少なくともタダ働きをさせていないところまでは判明している。ところが源義経は違った。タダ働きをさせただけでなく、一ノ谷の戦いに挑む前には三草山において夜襲を仕掛けるのに夜が暗いからという理由で民家に火を放って夜襲を仕掛けたのだ。こんなもの許されるわけがない。

 源頼朝は戦場から離れた鎌倉からのシビリアンコントロールの暴走と言われようと、二人の弟がやらかしたことから生じる民意の離反をこれ以上増やすことは断じて許されなかったのである。

 源頼朝は平家討伐を選択したのみならず、寿永三(一一八四)年三月一日には九州一一ヶ国に対して平家追討の指令を送った。後述するが、二月一九日の諸国七道の公田や荘園に対する乱暴狼藉に対する取り締まりを源頼朝に命じる宣旨が鎌倉に届いたのはこれより八日後の三月九日のことであり、源頼朝はその八日前には宣旨に対する指令を発していたこととなる。八日間ものズレが起こるのは何たることかと思うかも知れないが、源頼朝の情報連携速度が異常なまでの早さであり、二月一九日に京都で出された宣旨が三月九日に鎌倉に到着したのが妥当な早さなのである。三月九日に届いたのはあくまでも京都からの正式な知らせであって、京都で発令された宣旨の内容を源頼朝の情報網が独自に先行して鎌倉に別途送り届けるとなった場合、その情報が鎌倉に到着するのがいつ頃であるかを考えると、月が変わったこのタイミングで九州に指令を送るのは源頼朝ならば不可能ではない。

 日付だけを観るとその翌日の三月二日、平重衡の身柄が土肥実平から源義経のもとに移された。土肥実平の遠征のためである。ただし、実際には時間差がある。源頼朝は鎌倉から指令を出したが、鎌倉からの指令が京都に届くのに半月、京都から九州に届くにもさらに半月かかるのがこの時代の情報連携速度だ。つまり、源頼朝は自分の元に情報が届くまでの間に情勢が変化していることを踏まえて指令を出さねばならないわけである。前述の八日前の指令も、源頼朝が身を置いている環境の生み出した産物と言えよう。


 一ノ谷の戦いの結果、鎌倉は京都と並んで時代を動かす拠点となったが、何度も繰り返すように鎌倉と京都の間の情報連携は早くても半月の時間を要する。これが人間となるとその倍は要する。

 一ノ谷の戦いを制して京都に凱旋した源範頼が鎌倉に戻ったのは寿永三(一一八四)年三月六日のことであり、通例よりも速い速度での鎌倉帰還ではあったものの、およそ一ヶ月間に渡って源範頼が時代を動かす拠点から離れることになったことは源範頼にとって大きな損失であった。鎌倉に留まり続けている源頼朝はもちろん、京都に滞在し続けている源義経と比較しても、源義経が存在感を高めるようになっていたのと反比例するかのように源範頼の存在感が小さくなってきていたのである。

 もっとも源範頼の存在感の低下はやむをえないことと言える。源範頼は一ノ谷の戦いにおいて全軍の総指揮を執っており、戦勝報告を源頼朝にする義務があるだけでなく、鎌倉から預かっている軍勢を鎌倉へと返す義務もあるのだ。

 源範頼は一ノ谷の戦いでの勝利の凱旋として鎌倉に帰ったつもりであった。

 ところが鎌倉で待っていたのは兄からの激怒であった。

 木曾義仲を討伐したことは問題ない。その前の先陣争いで源範頼がやらかした失態についても不問とすることもできる。

 だが、いかに平家の壊滅が目的であるとは言え、それも平家討伐の宣旨があったとは言え、一ノ谷の戦いの前に現地の人を動員したことは到底容認できることではなかった。それでも相応の報酬を払っての動員であったらまだ許せようが、全く無報酬とは言えなくとも充分とは言えない程度の報酬しか払わないというのは容認できる話ではなかったのだ。

 これでは民意を獲得しようがないのだ。

 源頼朝が民意を獲得するのに四苦八苦していることは京都でも掴めており、寿永三(一一八四)年三月九日には諸国の武士が関東の威を前面に掲げて各地の荘園の人や物を奪い取るのを取り締まるよう求める宣旨が鎌倉に届いている。物だけでなく人を奪うのを取り締まるよう宣旨が届いているということは、それだけの所業を源氏方の武士がやってきたということだ。

 この頃にはもう、源頼朝は対平家戦が長期戦になることを見込んでいた。源頼朝にとって平家討伐は、目標のために途中経過であり、ゴールではない。源頼朝のゴールは破壊された日本国の国民生活の再建であって、平家討伐は日本国の国民生活を破壊したことに対する責任を取らせるための行動である。その平家討伐が国民生活の破壊を招かないで済む方法はただ一つ、平家を倒すための過程で国民生活を一切破壊しないことである。具体的には兵糧であろうと武器であろうと全て輸送し、現地からは米一粒たりとも、糸一本たりとも現地調達しないことだ。その逆に、軍勢のために持ち込んだ兵糧や、軍事転用できない日用品を、行軍路の周辺に住む人、特に平家の軍勢の略奪損害を被った人に配ることは推奨した。

 そんなことできるのかという疑念はあろうが、清和源氏が何かと模範としてきた前九年の役は、前九年という名称ではあるものの実際には足掛け一二年に及んでいる戦争である。ところが、そのうちの一一年は兵糧の戦地への輸送に費やされていて、前線は緊張状態にあったものの決定的な戦闘は起こっていない。それだけの長期戦で物資をやりくりしたからこそ完璧なまでの戦勝を手にできたのだし、現地の民意を敵に回すこともない戦勝を手にできたのだ。

 源頼朝は、たとえ時間がかかろうとも、祖先が成し遂げた功績を自分も繰り返すことを狙ったのである。

 源範頼に拒否権はなかった。自分がいかに戦場において功績を残そうと源氏のトップは兄なのだ。しかも、源頼朝は自分と違って戦闘以外のことまで俯瞰した上で述べている。一ノ谷の戦いで勝利を手にしたことは賞賛に値するが、勝利に至るまでの過程は繰り返してはならないことだと悟らざるを得なくなったのである。自分は源頼朝の弟であるがために軍勢の指揮を手にすることができたが、それよりも上の地位に昇ることは許されていない。求めたとしても源範頼に従う武士はいない。一ノ谷の戦いで源氏方に立った武士は、朝廷からの宣旨があったことと、軍勢が源頼朝の支配下にあることから参加した武士であり、そのうちのどちらか一方でも存在しなかったら源範頼の命令に従って戦場に赴いてくれる武士などいないというのが現実だ。


 鎌倉の源頼朝が京都から源氏方の武士に対する取り締まりの要請を受けていた頃、京都では源頼朝の意向に沿った動きが見られるようになった。

 その嚆矢が寿永三(一一八四)年三月七日のことである。この日、八条院暲子内親王から右大臣九条兼実に対し、平頼盛の申状が伝えられたのである。八条院暲子内親王と平頼盛との関係は誰もが知るところである。そして、平頼盛が現在は鎌倉にいることも誰もが知るところである。経緯はどうあれ、前権大納言平頼盛は鎌倉においてもっとも地位の高い人物であり、鎌倉からの書状を朝廷上位者に届けるとすれば、平頼盛から八条院暲子内親王を経由させるのがもっとも確実な方法である。書状そのものの公表はされないが、書状が伝達されたことは公表されるのだ。

 それにしても、源頼朝はなぜ九条兼実を仲介させたのか。

 それはこの後の九条兼実の動きでわかる。九条兼実を摂政とする動きが始まったのだ。実際にはその第一段階である内覧の権利を右大臣九条兼実に付与する動きが見られたのである。この段階で九条兼実は、源頼朝が九条兼実を摂政にするべく動いていることを文覚より聞いている。もっとも、後述するようにこの時点の源頼朝は右大臣九条兼実と直接やりとりすることが許されている身分ではない。しかし、木曾義仲の影響下にある京都にあって一人の僧侶として民衆を守るべく動いていた文覚を通すことで九条兼実と源頼朝との接点は誕生する。

 九条兼実への内覧の権利の付与が検討されたのはこれで三度目である。

 一度目は治承四(一一八〇)年七月。高倉上皇と摂政近衛基通がともに病気で倒れた後に検討されたことがあるのが記録に残る最初の検討例であり、かなり具体的な進展は見られていたものの、平家の影響下にある摂政近衛基通の病気からの回復と、平家の支配下に置けるとは言い切れない九条兼実とが天秤にかけられることとなった結果、平家が近衛基通を選んだために九条兼実を内覧とする計画は立ち消えになった。

 二度目は寿永二(一一八三)年八月から九月にかけて。京都を制圧した木曾義仲に対して九条兼実を摂政とするよう訴える落書きが見つかり、そのときは九条兼実も自分の摂政就任をかなり意識したらしい。ところがそのときも、摂政は近衛基通が留任した。九条兼実はよほど悔しかったのか、実の甥について後白河法皇と男色関係を結んで後白河法皇の寵愛を得ることに成功して摂政であり続けることになったと日記に書き記しているほどである。

 寿永三(一一八四)年三月七日の申状は三度目であった。

 源頼朝が九条兼実を摂政とすることを最終目標として、まずは内覧の権利を九条兼実に与えるべきとの申状を送ったのである。もっとも、このときの源頼朝は官職だけを見れば皇族や大臣に直接書状を送るなど許されない地位である。二月二五日の書状は、源頼朝から高階泰経に向けて送られたものであり、高階泰経自身は後白河法皇の近臣であるものの後白河法皇や九条兼実が読むことを前提とした書状ではない。一方、今回は後白河法皇や九条兼実が読むことを前提とした申状である。そこで源頼朝は前権大納言平頼盛を利用して送ることとしたのである。そこに源頼朝の名は存在していないとは言え、理論上はついこの間まで権大納言であった人物からの書状という体裁をとったのである。

 結論から言うと、源頼朝の目指した九条兼実を内覧とする計画は握りつぶされた。それで大人しくしていられる人物が九条兼実の隣にいると知らずに。


 源頼朝は九条兼実をまずは内覧にすることを求めたが、源頼朝の意見を一つ実現させることには成功した。寿永三(一一八四)三月一〇日、平重衡が鎌倉へ護送されることが決まったのだ。なお、護送の責任者は梶原景時とし、山陽道制圧を命じられていた梶原景時は一時的に制圧の任務から外されることとなる。三種の神器と引き替えに平重衡を平家のもとに渡すことを拒絶したことで、現在の朝廷は平家を京都に戻さないとする意思表示をしたこととなる。

 これにより、平重衡は平家の軍勢から永遠に離れることが決まった。

 そして、ほぼ同時期に平家はもう一人の人物を失うこととなった。

 平家物語によると寿永三(一一八四)三月、九条兼実の日記によるとそれより一ヶ月前、平維盛が四国屋島を脱出して紀伊国に向かったという。

 平維盛のデビューは鮮烈であった。安元二(一一七六)年の後白河院五十宝算ではその美貌から光源氏がこの世に実在したのだとまで言わせ、未来の平家の主軸を担うことを期待されていたのがデビュー時の平維盛である。その平維盛が、治承四(一一八〇)年の富士川の戦いでは略奪行の末の不戦敗となり、寿永二(一一八三)年の倶利伽羅峠の戦いでは多くの仲間の命を失わせる惨敗を招き、平家の未来を担うどころか平家のお荷物でしかない無能な武将という評価が完全に染みついてしまった。そして招いた一ノ谷の戦いでの敗北と逃避行は平維盛に一つの決心をさせることとなった。

 京都に戻って最愛の妻や子供たちともう一度逢いたいと願いながらも、捕虜となった平重衡が京都でどのような処遇を受けているかを考えると、平維盛もまた京都に足を運ぼうものならどのような処遇を受けるか目に見えている。しかし、このまま平家の一員として行動しても自分は既にお荷物扱いだ。

 平維盛はこれまで自分に仕えてくれていた武士である与三兵衛に自分の思いを口にした結果、与三兵衛は平維盛と行動を共にすることを決意。また、こちらもまた平維盛に仕えてきた石童丸も平維盛とともにすることを選び、三人で四国を抜け出し紀伊国へと船を向かわせた。

 紀伊国に着いたあと、平維盛らは高野山へと向かった。高野山には滝口入道と呼ばれる僧侶がおり、平維盛は滝口入道の元を訪れたのである。滝口入道はかつて斎藤時頼という名の滝口の武士であったが、一九歳のときに身分の低い一人の女性に恋をしたことを父親に咎められ、このまま父の命令に従うか、それとも愛する女性を連れての逃避行を選ぶかで悩んだ末に、第三の選択肢として出家を選んだという僧侶であった。

 平維盛の脳裏にある斎藤時頼という若き武士は流行の最先端のファッションに身を包んでいた武士であったが、今の滝口入道は実年齢よりもかなり老いた老僧のように見えたという。この姿こそが平維盛の求めている姿であった。

 平維盛は自らの死を覚悟していた。

 死の前に出家して俗世間とのつながりを全て断つことを考え、俗世間とのつながりを全て捨てた先駆者として滝口入道に会ったのちに出家した。ただし、平維盛は同行してくれた二人については出家させるつもりがなかった。二人にはこれから京都に戻ってもらい平維盛の妻子を託すことにしていたのである。だが、二人とも平維盛とともに出家を選んだ。

 二人の出家に平維盛は戸惑った。平維盛は単に出家したのではない。これから死ぬために出家したのである。ここで死ぬのは自分一人であり、同行してくれている二人には平維盛の妻子の面倒を看てもらうという役割があるはずだった。それなのに、二人とも平維盛と同じ道を歩んでいるのである。

 平維盛は同行してくれた二人とともに僧体で熊野三山に詣で、参詣を終えると船で海原へと向かった。これから入水自殺をするのである。

 平維盛、いや、出家後の名である浄海は、自分一人だけが死を選ぶから、二人は京都に戻って平維盛の妻子の安全を見守るよう、それも、僧体となったならば源氏もこれ以上追究することはないだろうからと念を押した上で京都に戻るよう再三に亘って告げ、念仏を唱えながら一足先に海へと飛び込んだ。

 二人は平維盛の言葉を守らなかった。同行した二人が選んだのは平維盛と同じ選択であった。二人とも平維盛の後を追って海に飛び込んだのである。

 三人の自死は平家物語によると寿永三(一一八四)年三月二八日のことであったというが、実際には二月中に亡くなったと考えられている。

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

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