覇者の啓蟄 6.征夷大将軍源頼朝 源頼朝が京都に到着した翌日の建久元(一一九〇)年一一月八日の早朝、三位以上の貴族が身につけることのできる参内用の直衣(のうし)が源頼朝のもとへと届けられた。これにより、源頼朝は一人の貴族として宮中に自由に参内できるようになった。もっとも、理論上は自由に参内できると言っても人生初の参内がそう簡単にすむわけはない上、源頼朝は軍勢を引き連れての上洛であり、その武力でこの国の戦乱を鎮静化させてきた人物である。その人物がこれから、藤原摂関政治の復興を目指している宮中へと乗り込むのだ。藤原北家でなければ居場所はないとまで言い切ることができる場所へ向かうとき、頼りになるのは、源頼朝と近しい限られた貴族を除けばむき出しの武力ということになる。 法...2024.01.12 21:25平安時代叢書
覇者の啓蟄 5.奥州平定 源頼朝という人は情報の重要性に関係なく情報そのものを定期的に収集し、同時に発信してきていた人である。それはこのときの奥州遠征でも例外ではない。二階堂行政に書き記させた書状を京都に向けて送り出したのが九月八日、一方、翌九月九日に朝廷からの正式な宣旨が陣ヶ丘に届いている。藤原泰衡追討を命じる宣旨であり、発給日は七月一九日、すなわち、鎌倉方の軍勢出発の日になっている。つまり、鎌倉方の軍勢が鎌倉を出発して東北地方に進軍して藤原泰衡を処罰したことは朝廷の命令に基づいての行動であり、後三年の役のときの源義家のように私戦と判断されることはないという朝廷のお墨付きが得られたこととなる。 さすがに京都に向けて送り出した翌日に宣旨が届いたなどというの...2024.01.12 21:20平安時代叢書
覇者の啓蟄 4.奥州合戦勃発 鎌倉で畠山重忠がハンガーストライキに突入していた頃、京都では摂政九条兼実が憂鬱に襲われていた。この頃の九条兼実の日記を読むと、自らの思い描いている政務を執り行えないことへの苦悩が読み取れる。 ただ、九条兼実という人は本質的に裏表のある人である。生真面目な人であり、また、常識人でもあるのだが、日記に書き記している内容はお世辞にも上品とは言えないところがある。あるいは、日記だから安心して書き記しているというべきか、九条兼実の日記には他者への、それも権力者への悪口がこれでもかと出てくる。いかに政敵であるとは言え、先代の摂政であり、また、自分の実の甥でもある近衛基通のことを後白河法皇の男色相手と貶したのはその嚆矢であろう。 文治三(一一八...2024.01.12 21:15平安時代叢書
覇者の啓蟄 3.源義経逃走 行方不明となっている源義経の捜索はまだ続いていた。 文治二(一一八六)年二月一八日には源義経が大和国の多武峰(とうのみね)に潜伏しているという噂が流れた。多武峰(とうのみね)は源義経がいたことが確実な吉野から直線距離で五キロもない。いかに踏破の面倒な山道であるといっても少人数が移動するだけならば支障はない。おまけに多武峰(とうのみね)は単なる山ではなく、明治時代の神仏分離で現在は談山神社となっているが、神仏混淆のこの時代は多武峰妙楽寺(とうのみねしょうらくじ)という寺院であり、これまでの歴史で何度も興福寺と争ってきたという過去がある。南都焼討で平家が破壊した興福寺を源平合戦終結もあって立て直しているということは、現政権の手によって...2024.01.12 21:10平安時代叢書
覇者の啓蟄 2.源義経追放 鎌倉の一歩手前で待たされ続けていたのが源義経であるならば、鎌倉の街中で待たされ続けていたのが連行されてきた平家の落人達である。 彼らのことを源頼朝が放置していたわけではない。早々に判決を下して処罰するなり、京都に戻して処罰させるなりする必要があることは脳裏にあったが、源頼朝は急いで判決を下すつもりはなかった。判決を下そうと思えば下せたのだが、歩調を合わせる必要があったのだ。 何の歩調か? 京都に留まっているはずの平家の文官や平家方の僧侶達に対して朝廷が下した判決との歩調である。武人であるために鎌倉に連行されてきたのだし、戦場において実際に軍勢を指揮し、また、自ら武器を手にして戦ったのであるが、連れてこられた平家の面々は都落ちの前ま...2024.01.12 21:05平安時代叢書
覇者の啓蟄 1.平家滅亡ののち かつては鎌倉幕府の成立年を源頼朝が征夷大将軍に就任した建久三(一一九二)年とするのが一般的であった。征夷大将軍就任年から「イイクニ作ろう鎌倉幕府」と鎌倉幕府の成立年を覚えてきた人も多いであろう。一方、近年の教科書だと、源頼朝が後白河法皇に全国に守護と地頭を置くことを承認させた文治元(一一八五)年が鎌倉幕府成立の年となっていることも多く、その延長で「イイハコ作ろう鎌倉幕府」という覚え方が広まった。さらに最近の教科書となると、そもそも鎌倉幕府が誕生したのが何年なのかを明記しない教科書も珍しくなくなっている。 いったい歴史教育に何が起きているのか。 結論から記すと、誰一人として鎌倉幕府の成立年を明言できないという現実に、教科書が、そして...2024.01.12 21:00平安時代叢書
平家物語の時代 13.平家滅亡 平家物語の記すところの平維盛の死から遡ること一〇日、実際の平維盛の死からは二〇日ほどが経過した寿永三(一一八四)年三月一八日、源頼朝が鹿狩りという名目で伊豆国へと出発した。当然ながらそのような名目を信じる人など誰もいない。源頼朝はあえて鎌倉を離れたのである。より正確に言えば、鎌倉より情勢を優位に働かせることのできる場である伊豆国へ移ったのである。 源頼朝が伊豆国に向かったのは伊豆国で平重衡を出迎えるためであった。平治の乱で敗れて伊豆国に流されてきた源頼朝が、平家の武将の一人である平重衡と伊豆で会う、それも完全に立場が入れ替わっている状態で会うというのは、平家に対するかなりの意趣返しである。 それに、もう一つ目的があった。一ヶ月前の...2022.10.15 10:00平安時代叢書
平家物語の時代 12.一ノ谷の戦い 源頼朝が報告書を受け取って読んでいた寿永三(一一八四)年一月二八日、京都では何の前触れもなく源義経が訴えられるという事態が起こっていた。 訴えられた理由は、源義経の郎従が小槻隆職の邸宅に押し掛けて乱暴を働き小槻隆職を捕縛しようとしたことである。捕縛だけならまだ妥協できようが、押し掛けて乱暴を働くとなると話が違う。これまで鎌倉方の武士たちは全く乱暴狼藉を働いていなかったので安心していたのに、ここでいきなり自分だけこのような目に遭う理由は何なのか、まるで木曾義仲と同じではないかと小槻隆職は右大臣九条兼実に訴え出て、九条兼実はただちに源義経への状況説明を求めた。 ちなみに、九条兼実が直接源義経に説明を求めたのではなく、九条兼実はまず前中...2022.10.15 09:55平安時代叢書
平家物語の時代 11.木曾義仲破滅 寿永二(一一八三)年七月二五日、平家一門、京都を脱出。平家の都落ちである。 各地に派遣していた平家はただちに呼び戻され、安徳天皇、三種の神器、後白河法皇とともに西へ脱出することが発令された。 ところが後白河法皇が行方不明になった。前日に安徳天皇は法住寺に行幸しており、少なくとも七月二四日の夜までは安徳天皇が後白河法皇とともに法住寺にいたことが判明している。ところが、未明に法住寺に駆けつけてみると後白河法皇がいない。安徳天皇はいるのだからどこかにいるだろうと思って探してみても、やはり見つからない。しかし、刻一刻と猶予は消えていく。やむなしとして、平家は安徳天皇だけを保護し、三種の神器とともに法住寺を脱出した。なお、後白河法皇はこのと...2022.10.15 09:50平安時代叢書
平家物語の時代 10.木曾義仲上洛 源頼朝との間に相互不可侵が成立したことで、木曾義仲は行動の自由を獲得できた。 多くの武士が木曾義仲のもとに集って挙兵したのは、平家への怒りに満ちた正義の感情からでも、誰からも邪魔されない暮らしを手に入れようとしたからでもない。名目は平家打倒ではあっても、その本音はこれまでより高い地位を手にし、より多くの資産を手にし、今まで以上に好き勝手暴れまわることを望んで、武器を手にして木曾義仲のもとに駆けつけたのだ。木曾義仲自身も含め、木曾方は現状維持で妥協するつもりなどない。 ここに志田義広が加わった。志田義広は源頼朝から源氏嫡流の地位を奪い取ろうと画策している人間である。平家討伐を名目として京都にまで軍勢を勧めることはほぼ全ての者が望んで...2022.10.15 09:45平安時代叢書
平家物語の時代 9.養和の飢饉 治承三年の政変で成立した平家政権がほころびだしていることは鎌倉でも感じ取ることができることであった。 年が明けてしばらく経過した養和二(一一八二)年一月二三日、平時家が源頼朝の家人となったのである。これまでのパターンで行くと、平という姓であっても平家とは関係ない人物と思うかも知れないが、今回はパターンを裏切る。 何しろ平時家は平時忠の息子だ。平時忠は現役の権中納言兼検非違使別当である人と評すよりも、平家の権勢を示すかのような「平家ニ非ズンバ人ニ非ズ」という言葉を言ったとされる人と評したほうがわかりやすいであろう。武士ではないが平家の中軸を担っている一人であり、例えば武士として生まれながら貴族としての教育を受けてきた平宗盛と違って、...2022.10.15 09:40平安時代叢書