剣の形代 5.源頼家から源実朝へ 源頼家の発案した指令は各地の御家人に波紋を投げかけた。 これから土地を貰える可能性が出てきた武士はいい。問題は既に土地を持っている武士だ。 農地改革には成功例と失敗例がある。 戦後日本の農地改革、それを真似した韓国の農地改革は成功例である。簡単に記すと地主の持つ農地を国が安い値段で買い、それまで小作農であった人に農地を渡すという仕組みである。多くの地主が資産を失った一方で、多くの小作農が小作農ではなくなった。 失敗例は共産主義諸国における集団農場である。農地を没収してこれまで小作農であった人に土地を渡すという点では成功例と同じであるが、土地の所有者は個人ではなく国である。 成功例と失敗例の違いを突き詰めると、農地没収前と...2025.10.10 21:20平安時代叢書
剣の形代 4.二代将軍源頼家 源頼朝の後継者は源頼家と決まっている。ただし、それは源頼朝が五三歳という若さでこの世から退場することを前提になどしていない。 源頼朝亡き後の鎌倉幕府をどのようにすべきかという点で鎌倉は統一見解を得ることができなかった。鎌倉幕府という仕組みそのものが源頼朝のもとに集った御家人達の組織であり、源頼朝の政治家としての能力に寄って立つところがあまりにも大きすぎたのである。 また、源頼朝が正二位の位階を持つ上級貴族であるという点も大きかった。源頼朝という卓越した政治家が、朝廷に連なる権威を鎌倉の地で発揮することではじめて鎌倉幕府が成立していたのであり、建久一〇(一一九九)年時点で既に源頼家が仮に父を超える政治家としての能力を有していたと...2025.10.10 21:15平安時代叢書
剣の形代 3.源頼朝死す 後鳥羽天皇はもう幼帝ではなかった。 関白はいるものの摂政を必要としない元服済の天皇であり、政治的意志を持った一個人として天皇親政を、そして、院政復活を狙うまでになっていたのだ。 後鳥羽天皇の目指すべき政治体制は、実体験しているわけではないが知識としては問題なかった。ベストは白河院政、次点で鳥羽院政、妥協して後白河院政だ。 後白河院政はその大部分が平家政権と重なっており、平家政権と重なっていない部分は木曾義仲と鎌倉幕府の強い影響下だ。 鳥羽院政はそれなりに強固なものがあったが藤原頼長をはじめとする藤原摂関家の勢力が白河院政と比べて強く、また、武家の台頭も目の当たりにした。 目指すとすれば白河院政だ。白河法皇は時代の最高権力...2025.10.10 21:10平安時代叢書
剣の形代 2.源頼朝上洛 日本国だけでなく世界史の流れを振り返ると、新しく誕生した政権はその多くが、これまでの政権に悪事を押しつけ、自分達の政権は庶民の暮らしを軽くするものだと訴えるために減税をする。ただし、減税することで国家財政が立ちゆかなくなって、それほど長い時間を要することなく元の税率に戻る、あるいは政権交代前を超える税率になってしまう。 それは鎌倉幕府も例外ではないが、源頼朝という人はただの政治家ではない。日本史上有数の政治家だ。 源頼朝も財政は理解しているし、その一方で庶民生活の窮乏も、その救済措置としての減税の必要性も理解している。 そこで源頼朝が選んだのは、増税しながら減税するという妙案である。 どういうことか? 鎌倉幕府という組織...2025.10.10 21:05平安時代叢書
剣の形代 1.初代将軍源頼朝 現在に生きる我々は知っている。鎌倉幕府は源頼朝が作り出したことを知っている。 現在に生きる我々は知っている。鎌倉幕府が滅ぶ百年以上前に鎌倉幕府の将軍の名から清和源氏が消えたことを知っている。 源頼朝が自らの身体に流れる血統を利用して永続的な組織として作り上げたはずの鎌倉幕府なのに、鎌倉幕府は永続的でなかっただけでなく、幕府のトップたる征夷大将軍の地位に至っては源氏が独占することもなかった、いや、源氏が継承し続けることすらできなかったのだ。理由を突き詰めると、源頼朝は永遠の命を持つ存在ではなかったし、源頼家は源頼朝の後継者としての資質を有さず、源実朝は後継者を残す前に命を落としてしまったということになるが、もっと突き詰めると、源...2025.10.10 21:00平安時代叢書
覇者の啓蟄 6.征夷大将軍源頼朝 源頼朝が京都に到着した翌日の建久元(一一九〇)年一一月八日の早朝、三位以上の貴族が身につけることのできる参内用の直衣(のうし)が源頼朝のもとへと届けられた。これにより、源頼朝は一人の貴族として宮中に自由に参内できるようになった。もっとも、理論上は自由に参内できると言っても人生初の参内がそう簡単にすむわけはない上、源頼朝は軍勢を引き連れての上洛であり、その武力でこの国の戦乱を鎮静化させてきた人物である。その人物がこれから、藤原摂関政治の復興を目指している宮中へと乗り込むのだ。藤原北家でなければ居場所はないとまで言い切ることができる場所へ向かうとき、頼りになるのは、源頼朝と近しい限られた貴族を除けばむき出しの武力ということになる。 法...2024.01.12 21:25平安時代叢書
覇者の啓蟄 5.奥州平定 源頼朝という人は情報の重要性に関係なく情報そのものを定期的に収集し、同時に発信してきていた人である。それはこのときの奥州遠征でも例外ではない。二階堂行政に書き記させた書状を京都に向けて送り出したのが九月八日、一方、翌九月九日に朝廷からの正式な宣旨が陣ヶ丘に届いている。藤原泰衡追討を命じる宣旨であり、発給日は七月一九日、すなわち、鎌倉方の軍勢出発の日になっている。つまり、鎌倉方の軍勢が鎌倉を出発して東北地方に進軍して藤原泰衡を処罰したことは朝廷の命令に基づいての行動であり、後三年の役のときの源義家のように私戦と判断されることはないという朝廷のお墨付きが得られたこととなる。 さすがに京都に向けて送り出した翌日に宣旨が届いたなどというの...2024.01.12 21:20平安時代叢書
覇者の啓蟄 4.奥州合戦勃発 鎌倉で畠山重忠がハンガーストライキに突入していた頃、京都では摂政九条兼実が憂鬱に襲われていた。この頃の九条兼実の日記を読むと、自らの思い描いている政務を執り行えないことへの苦悩が読み取れる。 ただ、九条兼実という人は本質的に裏表のある人である。生真面目な人であり、また、常識人でもあるのだが、日記に書き記している内容はお世辞にも上品とは言えないところがある。あるいは、日記だから安心して書き記しているというべきか、九条兼実の日記には他者への、それも権力者への悪口がこれでもかと出てくる。いかに政敵であるとは言え、先代の摂政であり、また、自分の実の甥でもある近衛基通のことを後白河法皇の男色相手と貶したのはその嚆矢であろう。 文治三(一一八...2024.01.12 21:15平安時代叢書
覇者の啓蟄 3.源義経逃走 行方不明となっている源義経の捜索はまだ続いていた。 文治二(一一八六)年二月一八日には源義経が大和国の多武峰(とうのみね)に潜伏しているという噂が流れた。多武峰(とうのみね)は源義経がいたことが確実な吉野から直線距離で五キロもない。いかに踏破の面倒な山道であるといっても少人数が移動するだけならば支障はない。おまけに多武峰(とうのみね)は単なる山ではなく、明治時代の神仏分離で現在は談山神社となっているが、神仏混淆のこの時代は多武峰妙楽寺(とうのみねしょうらくじ)という寺院であり、これまでの歴史で何度も興福寺と争ってきたという過去がある。南都焼討で平家が破壊した興福寺を源平合戦終結もあって立て直しているということは、現政権の手によって...2024.01.12 21:10平安時代叢書
覇者の啓蟄 2.源義経追放 鎌倉の一歩手前で待たされ続けていたのが源義経であるならば、鎌倉の街中で待たされ続けていたのが連行されてきた平家の落人達である。 彼らのことを源頼朝が放置していたわけではない。早々に判決を下して処罰するなり、京都に戻して処罰させるなりする必要があることは脳裏にあったが、源頼朝は急いで判決を下すつもりはなかった。判決を下そうと思えば下せたのだが、歩調を合わせる必要があったのだ。 何の歩調か? 京都に留まっているはずの平家の文官や平家方の僧侶達に対して朝廷が下した判決との歩調である。武人であるために鎌倉に連行されてきたのだし、戦場において実際に軍勢を指揮し、また、自ら武器を手にして戦ったのであるが、連れてこられた平家の面々は都落ちの前ま...2024.01.12 21:05平安時代叢書
覇者の啓蟄 1.平家滅亡ののち かつては鎌倉幕府の成立年を源頼朝が征夷大将軍に就任した建久三(一一九二)年とするのが一般的であった。征夷大将軍就任年から「イイクニ作ろう鎌倉幕府」と鎌倉幕府の成立年を覚えてきた人も多いであろう。一方、近年の教科書だと、源頼朝が後白河法皇に全国に守護と地頭を置くことを承認させた文治元(一一八五)年が鎌倉幕府成立の年となっていることも多く、その延長で「イイハコ作ろう鎌倉幕府」という覚え方が広まった。さらに最近の教科書となると、そもそも鎌倉幕府が誕生したのが何年なのかを明記しない教科書も珍しくなくなっている。 いったい歴史教育に何が起きているのか。 結論から記すと、誰一人として鎌倉幕府の成立年を明言できないという現実に、教科書が、そして...2024.01.12 21:00平安時代叢書