承久之乱 5.承久の乱 後鳥羽上皇にとっての大内裏再建は日本国再建と同義であった。 先にも述べたように承久元(一二一九)年八月半ばに後鳥羽上皇は再び病に倒れることとなったが、九月初頭に復帰すると、九月七日、九月二〇日、一〇月二日、一〇月一三日と臨時除目を繰り返すことで朝廷内における自らの発言権強化を図ると同時に、大内裏再建をさらに強化する人事異動を展開した。 さらに後鳥羽上皇は、一〇月一〇日に最勝四天王院に御幸して名所和歌会を開催している。最勝四天王院は鴨川の東の白河の地の南端、具体的には現在の平安神宮や京都市美術館の少し南のあたりに後鳥羽上皇が建立させた寺院であり、元久二(一二〇五)年の建立時に、障子に日本国内から選りすぐりの四十六ヶ所の名所を描き、そ...2026.03.14 21:20平安時代叢書
承久之乱 4.源実朝受難 源実朝が権大納言という高位の官職に就いたものの、京都に足を運べないために議政官の一員として会議に参加することはできずにいる。 しかし、建保六(一二一八)年六月時点の貴族の序列でいくと、関白近衛家実、左大臣九条良輔、右大臣九条道家、内大臣三条公房に続く五番手グループを構成する一員となっている。本来であれば内大臣と権大納言との間に定員二名の大納言がいるところであるが、この年の一月に藤原兼宗と藤原兼基の二人の大納言が揃って大納言職を辞職してしまったために大納言職は空席となり、八名いる権大納言の誰かが大納言職の臨時代理を務める状況が続いている。ちなみに、この時点で太政大臣も適任者無しとして空席となっている。 議政官は左大臣が議長となり、左...2026.03.14 21:15平安時代叢書
承久之乱 3.公卿、諸大夫、侍 時代は鎌倉幕府の時代となっている。 しかし、三〇年も遡れば時代はまだ平家の時代であり、この時代の人達にとっての源平合戦はついこの前のことである。源平合戦で実際に戦った人達の中には存命中の人も珍しくなかったし、その中には源平合戦の敗者である平家の面々も含まれていた。 こうした平家の落人(おちうど)達の中には、鎌倉幕府は無論、後鳥羽上皇も認めず、土御門上皇や順徳天皇も認めず、あくまでも帝位は壇ノ浦の戦い以降行方不明となっている安徳天皇であるという前提のもとに生きる落ち武者となっている者もいたし、そこまで極端でなくとも自らが源平合戦の敗者であることを認めてひっそりと生きる者もいた。 建保元(一二一三)年一二月一三日、源平合戦の敗者である...2026.03.14 21:10平安時代叢書
承久之乱 2.和田合戦 後世から見ると、幕府とは一つの政治機構であり、筆者がこれまで何度か記してきたような現在の政党に比する組織であるが、この時代の人達にとってはそうではない。 そもそもこの時代に幕府という概念などない。 今に生きる我々が鎌倉幕府と呼ぶ組織が登場したときも政治組織として誕生したわけではない。あくまでも上級貴族であれば誰もが保有する家政機関の応用で誕生した組織であり、この時代の人達は鎌倉幕府という組織が京都から遠い地に存在することを認識してはいても「幕府」という特別な名で呼ぶことはなかった。場所が相模国鎌倉であるという一点では特異であるものの、源頼朝という上級貴族の家政機関を、源頼朝の死後に同じく上級貴族となった源頼家が継承し、さらに源実朝...2026.03.14 21:05平安時代叢書
承久之乱 1.鎌倉幕府第三代将軍源実朝 承久三(一二二一)年六月一四日、鎌倉幕府の軍勢が上洛。 同七月、後鳥羽院は隠岐島へ、順徳上皇は佐渡島へと配流となることが決まった、また、後鳥羽院の皇子である土御門上皇は自ら望んで土佐国への配流を自らに課した。 さらに、後鳥羽上皇の皇子である六条宮雅成親は但馬国へ、冷泉宮頼仁親王は備前国へ配流となり、仲恭天皇は廃位となって後鳥羽上皇の甥である茂仁王が新たに天皇として即位した。後堀河天皇の治世の開始である。なお、仲恭天皇の贈諡は明治時代のことであり、帝位にあったのがわずか七十八日間のみであったこともあって、明治時代の贈諡までは九条廃帝と呼ばれていた。 これが平安時代終結の瞬間である。 四〇〇年間続いた平安時代は鎌倉幕府の成立によって終...2026.03.14 21:00平安時代叢書
剣の形代 5.源頼家から源実朝へ 源頼家の発案した指令は各地の御家人に波紋を投げかけた。 これから土地を貰える可能性が出てきた武士はいい。問題は既に土地を持っている武士だ。 農地改革には成功例と失敗例がある。 戦後日本の農地改革、それを真似した韓国の農地改革は成功例である。簡単に記すと地主の持つ農地を国が安い値段で買い、それまで小作農であった人に農地を渡すという仕組みである。多くの地主が資産を失った一方で、多くの小作農が小作農ではなくなった。 失敗例は共産主義諸国における集団農場である。農地を没収してこれまで小作農であった人に土地を渡すという点では成功例と同じであるが、土地の所有者は個人ではなく国である。 成功例と失敗例の違いを突き詰めると、農地没収前と...2025.10.10 21:20平安時代叢書
剣の形代 4.二代将軍源頼家 源頼朝の後継者は源頼家と決まっている。ただし、それは源頼朝が五三歳という若さでこの世から退場することを前提になどしていない。 源頼朝亡き後の鎌倉幕府をどのようにすべきかという点で鎌倉は統一見解を得ることができなかった。鎌倉幕府という仕組みそのものが源頼朝のもとに集った御家人達の組織であり、源頼朝の政治家としての能力に寄って立つところがあまりにも大きすぎたのである。 また、源頼朝が正二位の位階を持つ上級貴族であるという点も大きかった。源頼朝という卓越した政治家が、朝廷に連なる権威を鎌倉の地で発揮することではじめて鎌倉幕府が成立していたのであり、建久一〇(一一九九)年時点で既に源頼家が仮に父を超える政治家としての能力を有していたと...2025.10.10 21:15平安時代叢書
剣の形代 3.源頼朝死す 後鳥羽天皇はもう幼帝ではなかった。 関白はいるものの摂政を必要としない元服済の天皇であり、政治的意志を持った一個人として天皇親政を、そして、院政復活を狙うまでになっていたのだ。 後鳥羽天皇の目指すべき政治体制は、実体験しているわけではないが知識としては問題なかった。ベストは白河院政、次点で鳥羽院政、妥協して後白河院政だ。 後白河院政はその大部分が平家政権と重なっており、平家政権と重なっていない部分は木曾義仲と鎌倉幕府の強い影響下だ。 鳥羽院政はそれなりに強固なものがあったが藤原頼長をはじめとする藤原摂関家の勢力が白河院政と比べて強く、また、武家の台頭も目の当たりにした。 目指すとすれば白河院政だ。白河法皇は時代の最高権力...2025.10.10 21:10平安時代叢書
剣の形代 2.源頼朝上洛 日本国だけでなく世界史の流れを振り返ると、新しく誕生した政権はその多くが、これまでの政権に悪事を押しつけ、自分達の政権は庶民の暮らしを軽くするものだと訴えるために減税をする。ただし、減税することで国家財政が立ちゆかなくなって、それほど長い時間を要することなく元の税率に戻る、あるいは政権交代前を超える税率になってしまう。 それは鎌倉幕府も例外ではないが、源頼朝という人はただの政治家ではない。日本史上有数の政治家だ。 源頼朝も財政は理解しているし、その一方で庶民生活の窮乏も、その救済措置としての減税の必要性も理解している。 そこで源頼朝が選んだのは、増税しながら減税するという妙案である。 どういうことか? 鎌倉幕府という組織...2025.10.10 21:05平安時代叢書
剣の形代 1.初代将軍源頼朝 現在に生きる我々は知っている。鎌倉幕府は源頼朝が作り出したことを知っている。 現在に生きる我々は知っている。鎌倉幕府が滅ぶ百年以上前に鎌倉幕府の将軍の名から清和源氏が消えたことを知っている。 源頼朝が自らの身体に流れる血統を利用して永続的な組織として作り上げたはずの鎌倉幕府なのに、鎌倉幕府は永続的でなかっただけでなく、幕府のトップたる征夷大将軍の地位に至っては源氏が独占することもなかった、いや、源氏が継承し続けることすらできなかったのだ。理由を突き詰めると、源頼朝は永遠の命を持つ存在ではなかったし、源頼家は源頼朝の後継者としての資質を有さず、源実朝は後継者を残す前に命を落としてしまったということになるが、もっと突き詰めると、源...2025.10.10 21:00平安時代叢書
覇者の啓蟄 6.征夷大将軍源頼朝 源頼朝が京都に到着した翌日の建久元(一一九〇)年一一月八日の早朝、三位以上の貴族が身につけることのできる参内用の直衣(のうし)が源頼朝のもとへと届けられた。これにより、源頼朝は一人の貴族として宮中に自由に参内できるようになった。もっとも、理論上は自由に参内できると言っても人生初の参内がそう簡単にすむわけはない上、源頼朝は軍勢を引き連れての上洛であり、その武力でこの国の戦乱を鎮静化させてきた人物である。その人物がこれから、藤原摂関政治の復興を目指している宮中へと乗り込むのだ。藤原北家でなければ居場所はないとまで言い切ることができる場所へ向かうとき、頼りになるのは、源頼朝と近しい限られた貴族を除けばむき出しの武力ということになる。 法...2024.01.12 21:25平安時代叢書