源頼家の発案した指令は各地の御家人に波紋を投げかけた。
これから土地を貰える可能性が出てきた武士はいい。問題は既に土地を持っている武士だ。
農地改革には成功例と失敗例がある。
戦後日本の農地改革、それを真似した韓国の農地改革は成功例である。簡単に記すと地主の持つ農地を国が安い値段で買い、それまで小作農であった人に農地を渡すという仕組みである。多くの地主が資産を失った一方で、多くの小作農が小作農ではなくなった。
失敗例は共産主義諸国における集団農場である。農地を没収してこれまで小作農であった人に土地を渡すという点では成功例と同じであるが、土地の所有者は個人ではなく国である。
成功例と失敗例の違いを突き詰めると、農地没収前と同じか否かという点である。
成功例の場合、今まで耕していた土地を今まで通りに耕すことができる。それでいて、収穫を小作料として地主に納める必要が無くなったため手元に残る収穫が劇的に増える。今までは地主から土地を借りて小作料を払わねばならなかったし、小作料を納めるのに不満を訴えたなら、土地の継続利用の契約が打ち切られ、次年度からの生活が成り立たなくなっていた。何しろ小作料を払い終えた残りを手元に残してそれで生活してきたのだ。それが、農地改革で一変した。土地は耕作者のもので、収穫も耕作者のもの。努力すればするほど手元に残る収穫は増え、収穫を売って手にする金銭も増える。努力せず今までと同じ暮らしをしているのであっても小作料を払わなくて良くなるのに、今後は努力すればするほど結果が返ってくるのだから、これで生産性が上がらないとしたらその方がおかしい。
一方、失敗例の場合は土地が国のものとなる。どのように耕作するかは国に委ねられ、収穫も国に上納しなければならない。どれだけ上納するかは国からノルマとして課せられ、ノルマを果たせない場合は容赦なく強制収容所に送り込まれる。その一方で、努力してノルマを大幅に超えて果たしたところで何ら特別な成果はなく、手元に残るのはノルマをギリギリ達成した他の者と同じだけの成果である。場合によっては次年度のノルマが引き上げられてしまうのだから、これでは努力の意味が無くなってしまう。
源頼家の発案した農地改革はどちらか?
一応は前者である。
その土地の地頭が、その土地とは関係ない武士から、その土地とはある程度関係のある武士に移ることを前提として、御家人の恩賞の土地を最大五〇〇町に制限するわけで、新しく土地を手に入れることになる御家人は、基本的にはその土地に関係ある武士、そうでなくともその土地に在住することを前提とする武士になる、という想定である。兵農分離が完全に完了しているわけではないこの時代、鎌倉幕府の御家人の中でも一三人の合議制に加わるとか、朝廷から位階を付与されているとか、守護に選ばれるとかでない限り、武士を専業とすることは難しく、多くは、農民でありつつ武士でもあるという生き方になる。源平合戦や奥州合戦で奮闘したのは著名な御家人達だけではなく、こうした名もなき武士達もまた、源頼朝のもとで奮闘してきたのだ。しかし、奮闘に見合った褒賞を得られたかとなると、その答えはゼロではないが満点でもない。多少は得られた者もいる一方で、全く得られなかった者もいる。それでも源頼朝は本領安堵として、現時点で保有する所領の保有権を鎌倉幕府として認めることで報奨としたが、現実問題、自分と同じだけの奮闘をした、あるいは自分より奮闘してはいなかった者が新たな所領を得て、自分は現状維持を約束されたというのでは、不公平感極まりない。
源頼家は不公平感を減らすことを目的として所領の再分配を目論んだとも言える。
ここまで見れば源頼家の発案は善意に基づくものであると言える。
しかし、経済的にはマイナスであるとするしかない。また、所領を巻き上げられることとなる御家人の反発も尋常ならざるものがあろう。先に挙げた農地改革はいずれも戦争や革命といった混乱時に強権を以て強行したからできたことであり、そうでなければ農地改革そのものが頓挫するか、あるいは、新たな内乱を呼び出すこととなるであろう。
だからこそ、中原広元は躊躇し、三善康信は叱責したのだ。
恐れていたことは、年が明けた正治三(一二〇一)年一月に早くも発生した。
この時代、ニュースはリアルタイムで伝わるものではない。しかも、時間がかかるだけでなくニュースの正確性にも疑問の生じる形で伝播する。源頼家の出した所領没収案は、延期となったという知らせが伴ってはいたものの、正治三(一二〇一)年には正式に実行されるであろうという話になって京都内外に広まっていたのだ。
もっとも、源頼家からすれば言いがかりにも程があるという事情もある。正治二(一二〇〇)年の年末に院近臣である源仲国の妻が、亡き後白河院の託宣があったとしてさまざまな雑言を言い触らしていたのである。源頼朝の突然死の知らせの後に京都で起こった混乱はついこの間の出来事であり、後鳥羽院に関係ある女性が有ること無いこと喚き散らしていたためにその流言蜚語に乗ってしまった人も多かったのだ。虚言癖、あるいは何かしらの疾患の影響かもしれないが、近年のソーシャルネットワークで導入されたコミュニティノートのような情報の正確性の審査などなく、信じる人は信じてしまったのである。
さらにタイミングの悪いことに、正治三(一二〇一)年という年は六〇年に一度の辛酉の年であった。辛酉の年は世の中が激変するという言い伝えがあり、過去を振り返ると、昌泰四(九〇一)年は菅原道真が右大臣を辞任し太宰府に向かったのちに菅原道真が九州の地で命を落としたために菅原道真怨霊伝説が誕生してしまい、この件が先例となって、それから六〇年後の天徳五(九六一)年二月一六日に応和へ改元したのをはじめ、寛仁五(一〇二一)年二月二日に治安へ改元、承暦五(一〇八一)年二月一〇日に永保へ改元、保延七(一一四一)年七月一〇日に永治へ改元と、過去四例とも改元することで辛酉の年の激変を食い止めようとした。ただ、正治三(一二〇一)年はなかなか改元の話が出ておらず、世情は社会の激変のほうに目が向いてしまっていた。
そんなタイミングで京都に源頼家からの領地没収を告げる指令が飛び込んできた。ただでさえ情勢不穏となっているところで火に油を注ぐことになってしまったのである。
吾妻鏡によると、正治三(一二〇一)年一月二三日に、越後の住人城長茂が、土御門天皇の朝勤行幸のあった二条殿に乱入し、関東を討伐すべし、源頼家を征伐すべしとの宣旨を要求するという事件を起こしている。現代でもデマに乗って行動してしまったデモというのは存在するが、武器を持たぬ民間人のデモならばともかく、武士が武器を持ってデモをしでかすのであるから物騒極まりない。記録によると、城長茂は当初、軍兵を率いて小山朝政の滞在する三条東洞院の宿廬を囲んだが、小山朝政は行幸に供奉しているため留守であり、宿廬に残っていた小山朝政の郎従たちが防戦して城長茂を退けたとある。ここで城長茂が完全に退いたならば問題は解決した可能性もあるが、城長茂は諦めなかった。後鳥羽上皇に院宣を出してもらおうと院御所に軍勢を向かわせたのである。この知らせを聞きつけた後鳥羽上皇は慌てて逃れ、院御所は四つの門を全て閉ざした。城長茂は、強行突破は不可能であるが自らの主張を後鳥羽上皇に届けることについては譲ることなく、院御所内の後鳥羽上皇に対して関東追討の院宣発給を要求。後鳥羽上皇はこの要求を正式に拒否しただけでなく逮捕を命じたことから、城長茂は逐電してしまったという。現在でも、デモをするだけならば違法ではないが、武装して暴れるとあっては逮捕要件に該当する。このあたりは現在もこの時代も変わらない。
この事件は九条兼実の日記にも記されており、どうやら城長茂は、源頼家に対する反発から鎌倉を脱出して京都に向かい、当初は京都在駐の小山朝政の襲撃を計画したものの失敗し、その後で後鳥羽上皇のもとに向かって、源頼家を朝敵と認定し追討の院宣を発するように要求したとなっている。
城長茂はもともと源平合戦期に平家方の人間であったが、敗れた末に鎌倉方の捕虜となり、梶原景時に預けられたのちに鎌倉方の御家人に加わるようになったという経歴の持ち主である。その後は鎌倉方の有力武人の一人として活躍するようになり、奥州合戦にも参戦してその名を残している。
城長茂が鎌倉幕府の御家人となったのは梶原景時の仲介があったからであり、梶原景時に対する評判は多々あるものの、城長茂にしてみれば梶原景時は恩人である。その恩人を死に追いやった鎌倉幕府に対する疑念が生じていたところで、源頼家の発した領地没収の指令。これは鎌倉幕府への臣従の意を消滅させるに十分な話であった。
その上で、九条兼実はその日記に興味深いことを書き記している。城長茂は一人で行動したのでなく複数名で行動した。そして、城長茂らに逮捕命令が出たことでそれぞれが四方八方に逃走し、城長茂本人は行方不明となったものの仲間の多くは逮捕された。ここまではご理解いただけるであろう。気になるのは、逮捕された者の中に藤原高衡が含まれていたことである。藤原高衡は藤原秀衡の四男で、奥州藤原氏の最後の生き残りであった。鎌倉幕府は奥州藤原氏を滅ぼしたが、滅ぼしたのはあくまでも鎌倉に楯突く者だけであり、そうでない者は、藤原秀衡の子であろうと鎌倉幕府の御家人として遇していたのだ。そしてどうやら、藤原高衡が奥州藤原氏の再興を考えるのではなく鎌倉幕府の一員であり続けることを選んだのも、梶原景時の仲介があったからのようなのである。
その梶原景時がいなくなったことで、梶原景時を経由して鎌倉幕府に仕えるようになっていた御家人達が、ここにきて一斉に反旗を翻したというのが、このときの騒動の根底にあるようなのだ。
源平合戦の終わりである壇ノ浦の戦いがあまりにも鮮烈であるためにイメージづけることは難しいが、源頼朝が権力を握るまでの道程を追いかけていくと、敵を絶滅させるというケースがそこまで多く無いことに気付かされる。おそらくスパイであったろう梶原景時は例外として、誰もが認める平家一門の一員であった平頼盛とその子達や、越後国で平家側として戦っていた城一族の城長茂、さらに、源頼朝が滅ぼしたはずの奥州藤原氏の藤原高衡といった面々が鎌倉幕府のメンバーに名を連ねている。源頼朝に逆らうのならば弟の源義経ですら死に追いやった源頼朝であったが、源頼朝に臣従するならば受け入れる度量を源頼朝は持ち合わせていたのである。
ただし、鎌倉幕府の面々が彼らを以前からの仲間と同列に扱ったかどうかとなると話は別だ。石橋山の戦いで全滅寸前に至った頃から盛り返して勢力を築いた面々と、勢力を作り上げて戦乱の勝者となった後に鎌倉幕府の一員に加わった面々とが、鎌倉幕府の中で対等な立場でいられたとは考えづらい。やはりそこには多少なりとも、古参の誇りと、新参の戸惑いがあったであろう。だからこそ、源頼朝が亡くなった後の困惑は新参の方が強かった。
彼らが鎌倉幕府で受け入れられているのは何と言っても源頼朝の意向が働いているからで、御家人一人ひとりの感情がどのようなものであろうと、源頼朝が受け入れると結論づけたならば鎌倉幕府としては受け入れるという判断になる。その判断に逆らう者はいない。
だが、源頼朝が亡くなった後の鎌倉幕府の判断は、理論上は源頼家に、実質上は源頼家を補佐する面々、特に北条政子と鎌倉幕府の有力御家人達との判断に委ねられる。そして、その判断の第一弾は梶原景時の死であった。城長茂も、藤原高衡も、梶原景時が窓口となって鎌倉幕府に迎え入れた人物であったが、その人物はもういない。その上、源頼家は武士にとって何よりも大切な所領を没収しようとしている。鎌倉幕府に反旗を翻して生き残れる可能性は少ないと感じたであろうが、それでも黙って耐えることはできなかったのだ。
先にも述べたように、正治三(一二〇一)年という年は六〇年に一度の辛酉の年である。変動が予期される年であるという言い伝えも城長茂らの騒擾によって言い伝えがあながち間違いではないという認識が誕生してしまっていた。
朝廷もそのことは考えており、正治三(一二〇一)年二月一三日に改元を発令した。新しい元号は建仁である。改元の知らせが鎌倉に届いたのは二月二二日のことであり、鎌倉幕府は新元号が届いた瞬間から建仁の元号を用いている。
改元の効果があったのか、建仁への改元の連絡が鎌倉に届いたまさにその日、京都を騒然とさせた後に行方をくらませていた城長茂らが大和国吉野で捕らえられ、その場で殺害されたというニュースが飛び込んできた。吾妻鏡によると、城長茂と、城長茂とともに逃走していた者、合わせて計五名が殺害後に首を切り落とされ、二月二五日には五名の首が掲げられて大路を練り歩いたという。
二月一九日には城長茂の三人の子も誅殺となったため、理論上はこれで城長茂の起こした騒動は解決したこととなる。
それにしても不可解な点がいくつかある。
まず、鎌倉に情報として先に届いたのは二月二五日の首を掲げての練り歩きである。この情報が鎌倉に届いたのが三月四日であるから、日数としてはおかしくない。
問題は、二月一九日の誅殺の情報である。官軍を以て誅殺とあるので、検非違使ではなく何かしらの軍事行動であることがわかる。官軍とあるのでこの時点の朝廷ないしは院が動かすことのできる武力、すなわち西面武士かあるいは北面武士が殺害したということになるが、そのあたりははっきりとしていない。ただし、後述する理由から、西面武士である可能性が高い。
西面武士である可能性のついての叙述は後述するとして、情報が届くのが遅いことは気になるところである。二月一九日の出来事が鎌倉に届いたのは三月一二日である。源頼朝による街道整備で京都と鎌倉との間の情報は七日間でやりとりできるようになったが、このときは二〇日以上を要している。ちなみに、源頼朝の手による街道整備前でも東海道を用いた京都と鎌倉との間の情報伝達は半日であったから、それより時間を要している。
さて、白河法皇が設置した北面武士については馴染みのある人も多いであろうが、西面武士については馴染みも少ないであろう。馴染みの少ないのは当然で、歴史資料における初出がまさに正治三(一二〇一)年二月のこのときなのである。
北面武士は白河法皇が結成して以降、院が独自に展開できる武力であり続けていた。歴史の経緯を辿ると平清盛の祖父である平正盛や、平清盛の父である平忠盛も北面武士として院に仕えることを中央政界におけるキャリアプランに組み込んでおり、平家政権が樹立されるまでは武士がキャリアアップを図るとき、まずは検非違使、次いで北面武士となり、位階を上げて貴族の一員に組み込まれるというのが一般的であった。しかし、平家政権樹立後に北面武士の武力は衰退し、源平合戦期には有名無実化し、後鳥羽院政によって理論上は復活するも、朝廷官職と深く結びついている北面武士は時代の武士達にとってあまりメリットのある官職では無くなっていた。北面武士になることと、鎌倉幕府の御家人であることの両立ができなかったからである。後鳥羽院は両立させようとしたが、北面武士になると朝廷官職の一員に組み込まれ鎌倉幕府の一員であることのメリット、すなわち、本領安堵と新恩給与が保証されなくなる。鎌倉幕府の御家人が朝廷官職を得るためには鎌倉幕府の許可が必要であり、鎌倉幕府の許可があれば鎌倉幕府の一員でありつつ朝廷官職を得ることができるが、許可がなければ自らの得てきた所領の保有権を失う。朝廷官職はその穴埋めにはほど遠い。源頼家が土地没収を打ち出したとはいえ、それでも五〇〇町は残すとしている。鎌倉幕府の許可無しに北面武士になったらその五〇〇町も失ってしまう。
そこで後鳥羽上皇が生みだしたのが西面武士である。名目上は後鳥羽上皇が個人的に招集した武家集団であり、あくまでも後鳥羽上皇の身の安全を守るための集団である。後鳥羽上皇が個人的に集めただけであり朝廷官職とは連動しないため、西面武士に選ばれることと鎌倉幕府の御家人であることは両立可能であり、六波羅に常駐している鎌倉幕府の御家人達や、領地を離れて京都まで来ることができる武士達を集めて西面武士を結成することとなった。
この西面武士の活動は正治二(一二〇〇)年頃にはじまると推測されるが確定的な記録は存在しない。記録として確認できるのは正治三(一二〇一)年のこのときであり、元号が建仁へと改元されたあたりで西面武士が通常の存在として認知されるようになった。
城長茂らが起こした騒動も覚めやらぬ、そして、改元から間もない建仁元(一二〇一)年二月一七日、内大臣土御門通親にとって大打撃となる出来事が起こってしまった。
天台座主弁雅が亡くなったのである。
天台座主弁雅の父親と内大臣土御門通親の祖父は実の兄弟であるから、土御門通親は自分の親族を天台座主に送り込むことに成功、すなわち、宗教界の最難関を抑えることに成功していたわけであるが、そのキーパーソンを失ったことは土御門通親にとって大打撃であるが、それだけではない。
さらに大打撃となったのが、後任の天台座主である。
慈円が天台座主に復帰することとなったのだ。
愚管抄の作者としても名を残している慈円は九条兼実の実弟であり、建久七年の政変で天台座主の座を追われている。その慈円が天台座主に復帰するということは、建久七年の政変で権力を失った九条家が権力を取り戻してきているという一つの道標になるのだ。天台座主から退いた僧侶が天台座主に復帰するというのも、珍しいものの前例の無い話ではなく、仁安元(一一六六)年の快修と治承三(一一七九)年の明雲の二例が存在する。慈円の例で三例目であり、前例踏襲の考えの強い人でも黙り込むしかない。
九条家の当主たる九条兼実は既に政界の第一線から退いているものの、嫡子である九条良経が左大臣に就任しており、摂政近衛基通の身に何か起こった場合は、近衛家の者が摂政を継承するのではなく左大臣九条良経が摂政につくというコンセンサスが既に成立している。
土御門通親だけでなく、摂政にして藤氏長者である近衛家もまた、建久七年の政変で打倒したはずの九条家が舞い戻ってきていることを自覚しなければならなくなっていたのである。そして、多くの人はこう考えた。建久七年の政変の勝者は後鳥羽院だと。
ところがここに、もう一人の勝者がいた。それも、誰も想像していなかった勝者が。
その勝者の名は、法然。中学の歴史教科書にも出てくる鎌倉仏教のトップバッターを務める僧侶だ。極楽浄土への往生のためには、ただひたすらに念仏を唱えるべしという浄土宗の開祖である法然に、九条兼実は以前から傾倒していた。ただ、法然は当時の仏教界で異端と見做されていた。比叡山延暦寺の出身ではあるものの僧位も僧官も持たない遁世僧であり、摂政や関白がこうした僧侶の教えに傾倒することはスキャンダル以外の何物でもなかった。にもかかわらず、九条兼実は公然と法然を自宅に招き入れることが多々あり、建久六(一一九五)年の中宮任子の出産にあたっても法然を招いて受戒を行わせたほどであるが、このことを快く思わない人も多かった。
しかし、九条兼実は過去の人となった。過去の人となったのだから、九条兼実が法然を重用しようがそれは勝手である。比叡山延暦寺の中には、延暦寺を飛び出した法然が独自の行動をとるようになったことに対して不満を持つ僧侶が数多くいたが、延暦寺のトップである天台座主が九条兼実の実弟となった以上、そうした不満の声は全て握りつぶされることとなる。
源平合戦期、越後国で平家方として一大勢力を築いていた城一族であるが、当主の城長茂が鎌倉方に捕らえられ、梶原景時の仲介もあって平家の赤旗から源氏の白旗に乗り換えたことで、城一族全体が鎌倉幕府に仕える存在となったと認識されるようになっていた。少なくとも文治五(一一八九)年時点で奥州合戦に向かう鎌倉方の一員として城長茂の名があること、そして、奥州合戦において鎌倉方の軍勢が越後国を特に何の支障も来(きた)さないまま通過していることを捉えると、城一族は鎌倉の支配下にあり、越後国もまた鎌倉の強い影響下にあったことが読み取れる。
だが、その前提は建仁元(一二〇一)年四月二日に崩れた。
城長茂は城資国の次男であり、兄の城資永が亡くなったことで城一族の当主となっていたものの、城資永の息子は叔父の城長茂が城一族とその郎等を率いる立場になったことを快く受け入れているわけではなかった。源平合戦が源氏の勝利に終わったこと、源氏の頭領である源頼朝が絶大な権力を握り、ついには奥州藤原氏を滅ぼすまでに至ったことは知識として知っているものの、城資永の長男の城資盛とその弟たち、そして、城資盛から見て叔母にあたる城資国の娘である女性は、源氏に従うことなく潜伏していたと推測されている。なお、彼女の名は不詳であり、呼称も史料によって「坂額」「板額」「飯角」とバラツキがある。一般的には板額御前と呼ばれることが多いため、以降は板額御前で統一する。
その潜伏していた城資盛らが越後国で一斉蜂起したのだ。現地でも対応しようと越後国で招集できる鎌倉幕府の面々を集めて討伐部隊を編成しようとするも、越後国には統率する者がおらず、バラバラに行動することになった鎌倉幕府の御家人達が各個撃破されたという知らせが鎌倉幕府に飛び込んできたのである。
翌四月三日、北条時政、中原広元、三善康信らが集って対応策をまとめた。吾妻鏡にはこの三名をはじめとする複数名が集まって会議をしたとあるが、どこで会議をしたかも、この三名以外に誰が参加したのかも、また、会議に源頼家が参加したのかも不明であり、わかっているのはこの会議で決まった鎌倉幕府としての判断である。
まず、現時点の越後国に鎌倉幕府の代表者として軍勢を指揮できる人間はいないという認識で一致を得た。同時に、本来であれば鎌倉から指揮官を派遣すべきであるが、適切な人物がいない。鎌倉から派遣するのでは時間が掛かりすぎるのだ。
その上で、上野国磯部郷にいる佐々木盛綱に指揮を執らせることを決定した。なお佐々木盛綱は二年前に出家していたため、建仁元(一二〇一)年時点では本来であれば隠居生活を過ごしているはずであったが、その佐々木盛綱を現場に復帰させる以外に早期解決の手段はなかったのである。
侍所別当として鎌倉幕府の御家人の人事権を持つ和田義盛を経由して、越後国の御家人に対し佐々木盛綱のもとに結集して城資盛とその一味を処罰すること、特に主犯の城資盛については殺害もやむなしとの指令を出した。
指令は迅速に遂行されたようで、四月六日には命令を受け取った佐々木盛綱がただちに戦場に向かっていったとの記録が戻ってきた。なお、佐々木盛綱は命令書を受け取ってすぐに、それこそ家の外で受け取った命令書に目を通してから家の中に戻ることなく、ただちに馬に乗って戦場へ出向こうとしたという。さすがに準備無しで戦場に赴こうとするのはシャレにならないので部下達が食い止めたが、そのときも平将門討伐の命令を受けた藤原忠文が、命令書を受け取ったのが食事中であったのに、ただちに箸を放り出して朝廷に出仕し、責任者として朝廷から刀を拝領して自宅に戻らず京都を出発したことの故事を挙げて自分の行動を正当化したという。
建仁元(一二〇一)年五月一四日、佐々木盛綱の派遣した使者が鎌倉に到着した。
結果は、鎌倉幕府の勝利。城資盛率いる反乱軍は鎮圧された。
佐々木盛綱が総指揮を執る鎌倉幕府の軍勢は、鎌倉幕府が出動を命じた越後国だけでなく佐渡国と信濃国からの軍勢も詰めかけ、城資盛の籠もる鳥坂城への攻撃を開始。城一族側も、城資盛の叔母である板額御前の奮闘もあって鎌倉幕府の軍勢の猛攻に対して抵抗するも、城資盛の息子の城盛季が負傷したのを契機として城一族の瓦解がはじまり、板額御前も負傷して生け捕りとなる。城一族の指揮を執っていた城資盛は混乱の中から逃走を図り行方不明となった。
なお、城資盛のこの後の動静は不明である。後世の逸話によると、この後で出羽国に逃走して潜伏し、その子孫は後に上杉謙信や徳川家康に仕えるようになったとあるが、系図不明の者の僭称である可能性が高い。
これにより城一族の反乱は終結を迎えたが、この戦いの後に一つの逸話が生まれた。
吾妻鏡は建仁元(一二〇一)年六月二八日のこととして記事にしている。
この日、勝利した軍勢が凱旋してきたのだ。
日付を考えると、いかに越後国から距離があるとはいえ戦乱終結からかなりの日数を要しているように感じるが、凱旋までに時間を要したというより、越後国の残党勢力の掃討に時間を要したというところであろう。
このときの凱旋の主役となったのは板額御前である。彼女は戦闘で矢を射られて動けなくなり、このときの凱旋時は捕虜の一人として鎌倉まで連行されてきたのであるが、そのときはまだ完全に回復したわけではなかった。
彼女はかつての巴御前を彷彿させる人物の登場とあって鎌倉では奇異の目で見られた。源頼家は御簾の中から板額御前を眺め、畠山重忠、小山朝政、和田義盛、比企能員、三浦義村といった御家人達も彼女を目にするために参集していた。
板額御前は彼らの視線を気にすることなく源頼家の前に歩み寄り正面を見据えた。
このときどのような話をしたのか吾妻鏡は伝えていない。ただ、彼女の堂々とした様子、そして、絶世の美女であったという逸話の残る板額御前の美貌を褒め称えているだけである。ただし、後世の史書によればさほどの美貌の持ち主ではなかったというものもある。
彼女のその後の人生であるが、甲斐源氏の一族である浅利義遠が源頼家に彼女を妻として貰い受けることを申し出て、板額御前も自分の人生を浅利義遠の妻となることを選んで、甲斐国で過ごすようになったのち、一男一女を出産したという。なお、浅利義遠は久安五(一一四九)年生まれであるためこの時点で既に五〇代になっているが、この人の婚姻歴は板額御前しか確認できず、浅利義遠の子供として記録に残っているのも板額御前との間の二人の子だけである。
鎌倉幕府が越後国の反乱を鎮圧している頃の京都であるが、一言でまとめると平穏である。記録を残しているのが藤原定家であるという点と、藤原定家と後鳥羽上皇との関係が政務ではなく和歌に集中しているという点から、後鳥羽上皇の建仁元(一二〇一)年の様子については、和歌についてだけ異様に充実している。あるいは、他に特に記すべきことのなかった時期であったというところか。
建仁元(一二〇一)年七月二七日に後鳥羽上皇が和歌所を二条殿に設置した。藤原定家は自分が一一名の寄人(よりうど)の一人に選ばれ和歌所に参仕したことを誇らしげに日記に書き記している。もっとも、これは藤原定家でなくても選ばれたことを誇りに感じるであろう。何しろ醍醐天皇の頃の古今和歌集の撰集の情景を復活させたのである。
ただし、時代の変遷もあって、和歌所の組織構造は後白河天皇が保元元(一一五六)年に設置した記録所に倣っている。後白河天皇の設置した記録所は後白河天皇が退位した後の後白河院政においても存在していたものの、後白河院の記録所は荘園整理や訴訟を管轄する実務機構であり続けたのに対し、後鳥羽上皇の設置した和歌所は、同様の組織図でありながら和歌に特化した文化機関といった位置づけになっている。
国の公的機関であることを示すために左大臣九条良経と内大臣土御門通親を参加させている一方、あくまでも和歌のための専門機関であるとして、通常の国家機関には組み込まれないはずの出家隠遁者も組織体制の中に入れている。このあたりは和歌の前であれば誰もが平等であるという原理原則の通りともいえる。ただし、和歌の示す平等は性差別の無い平等もあるのだが、この平等については無視されたようで、和歌所にいるのは全員が男性である。
藤原定家の日記に基づくと、和歌所に選ばれた一一名の寄人(よりうど)は以下の通り。
左大臣藤原(九条)良経、内大臣源(土御門)通親、天台座主慈円、藤原俊成、頭中将源(堀川)通具、藤原有家、藤原定家、藤原家隆、藤原(飛鳥井)雅経、源具親、寂蓮の以上一一名。左大臣と内大臣がいるが右大臣近衛家実は選ばれていない。また、二人の大臣がいるとは言っても実際に和歌に携わることは考えづらく、実務となると藤原定家をはじめとする、和歌専従になっても国政に支障がない者に限られる。
さらに八月五日には一二人目として源家長が加わることが決まり、和歌所は一二名の開闔からなる組織として確立された。開闔(かいこう)とは朝廷や院の配下役職の一つであり、書類や文書の管理と保存を司る職務である。和歌所の開闔(かいこう)となると和歌の収集の保管が仕事となるが、もう一つ、大きな仕事がある。取捨選択である。
後鳥羽上皇はどのような理由で和歌所を設置したのか。
藤原定家は古今和歌集の撰集の情景が復活し、その中に自分が含まれていることに感激していたが、後鳥羽上皇はその感動を上回る期待を示した。
もう一度古今和歌集を作ることにしたのだ。
新古今和歌集の撰集の開始である。正式な発表はまだだが、新古今和歌集編纂の土台はこの頃に誕生していた。
後鳥羽上皇はなぜこのタイミングで新古今和歌集の撰集を命じたのか?
後鳥羽上皇自身が和歌を愛する人であるからという点以外にも、理由は二つ考えられる。
一つは古今和歌集がこれまでの文化の集大成の一つとして認知されており、古今和歌集に対する知識が皇族や貴族の必須知識になっていたことである。ただし、古今和歌集の編纂から三世紀もの歳月が経っており、その間に世に放たれた和歌も数多い。その中には後世に語り継ぐべき和歌も多く、古今和歌集以後の和歌の編纂を命じることで、新たな共用の土台を作ることを後鳥羽上皇は目論んだ。成功すれば後鳥羽上皇は後世まで多大な影響を及ぼし、その名声は、古今和歌集時の醍醐天皇に匹敵することとなる。
もう一つは、激動の時代が終わって時代が安寧へと進んでいると認識したことである。国家的文化事業を展開することを全国に発すること、それは、社会の平和を取り戻したことを意味する。その平和を作り上げた人物こそ後鳥羽上皇であり、その後鳥羽上皇がこれからの平和な時代をさらに発展させていくというアピールを打ち出すのはきわめて大きなメリットがある。
京都内外を震撼させた城長茂らの騒動、そして、越後国で発生した城一族の反乱の鎮圧、それこそが、源平合戦以後延々と続いてきた戦乱の時代の最後であり、これからは平和な時代が到来するというアピールを後鳥羽上皇は試みた。実際、この頃の朝廷の記録を紐解くと、城長茂らの騒動を最後に混乱らしい混乱は見えてこない。京都内外に限った話になるが、かなり平和な空気が流れていたことは、当時の記録からも感じられる。
しかし、平和な空気を満喫できたのは京都をはじめとするごく一部の地域だけであった。
この頃の鎌倉の記録を読むと、とてもではないが平和な空気の満喫とはほど遠い空気が流れていたのである。
カレンダーは遡るが、建仁元(一二〇一)年三月一〇日、早朝の鎌倉を地震が襲い、地震による被害はさほどでは無かったものの、その後の火災が鎌倉の西半分を襲ったのである。火災は大規模な者に発展する前に食い止めることに成功したものの、十数件の民家が燃え尽きてしまった。
それから五ヶ月後の八月一一日、台風が関東地方を襲った。鎌倉では多くの民家が強風で倒壊し、港では船が横転し、鶴岡八幡宮をはじめとする施設の多くが台風の被害に直面した。それでも鎌倉はまだマシだったと言える。吾妻鏡の記述に従うなら、下総国葛西郡では高潮が襲い掛かって一千名以上が呑み込まれてしまったという。実際には下総国に葛西郡という地名はなくおそらく葛飾郡のことと思われ、被害者の総数に誇張もあるであろうが、それでも現在で言う東京湾沿岸の一帯で台風による高潮の被害が生じたであろうことは推測できる。
さらに台風は八月二三日にも関東地方に上陸し、八月一一日と同様の爪痕を各地に残していった。
そして、関東地方とその周辺の各地から悲痛な叫びが届いてきた。
凶作決定である。
それから後の吾妻鏡は不自然なまでに源頼家が蹴鞠に興じていたことの記録が連続している。あたかも、自身とその後の火災に遭った人達、そして、台風の被害に遭った人達を源頼家が見捨てたかのような記載が連続しているのである。
しかし、そのようなことは考えづらい。
どういうことか?
まさに吾妻鏡に災害からの救援についての記事が載っているのである。ただ、救援をしたのは源頼家ではなく北条家、それも北条泰時が救援に乗りだしたと書いてあるのだ。
吾妻鏡の記載に従うと、建仁元(一二〇一)年一〇月六日、江間泰時、すなわち北条泰時が一族の故郷である伊豆国北条に到着し、凶作のため収穫が乏しいために借りたコメを返すこともできないだけでなく、このままでは餓死者が大量に出てしまうという訴えを耳にし、土地の人達を救うために、返済免除を宣言しただけでなく、食糧支援まで宣言したのである。
吾妻鏡は鎌倉幕府の正史であるが、北条家にとって都合の良く脚色されている歴史書でもある。いかに江間泰時が後の鎌倉幕府第三代執権として名声を築くことになろうと、この時点ではまだ数えで一九歳、現在の学齢で言うと高校三年生である。その年齢でも一人の御家人として自らの所領を保有し武士団を形成している者もいるが、この時点での江間泰時は北条時政の孫、北条と江間とを別の一族として捉えたとしても江間義時の息子であり独自の勢力を築いているわけではない。伊豆国北条に赴くとすれば、北条時政の代理か江間義時の代理として赴くという状況しかない。つまり、独自の判断で返済免除と食糧支給を決定する権利などなく、江間義時か北条時政のどちらかが命令し、あるいはそれより上の地位にある者が命令し、その命令を遂行するために現地に向かったのが江間泰時であったと考えるべきであろう。
では、その命令をしたのは誰か? 北条時政か? 江間義時か?
そうではなく、源頼家、あるいは鎌倉幕府の合議制とすべきであろう。
命令としては全国的な、実際には鎌倉幕府の勢力下に対して適用した命令であったろう。そのうちの伊豆国北条での事例だけを取り上げて吾妻鏡に記載した。江間泰時はあくまでも命令遂行者の一人であり、吾妻鏡に記された江間泰時の行動はその通りの記載なのだが、江間泰時以外については記さなかったとすると納得がいくのである。
源頼家が政務を無視して蹴鞠に興じていたとするのが建仁元(一二〇一)年後半の吾妻鏡の記事である。
そう言えば後鳥羽上皇の院政が始まったばかりの頃、藤原定家は後鳥羽上皇が政務を顧みることなく蹴鞠に興じていることを批難しているが、同じ感じで源頼家が蹴鞠に興じていることを吾妻鏡は批難しているといったところであろう。
ただ、蹴鞠に興じることと政治に無関心ということは全くの別の話である。
政治家たるもの、二四時間三六五日政治に向かい合わねばならないというのは宿命である。無論、この時代には一日が二四時間という概念も、一年間が三六五日という概念も無いが、それでも現在の考えでいう年中無休で政治に向かい合うという概念は通用する。ただし、実際に年中無休で政治に向かい合うことができるかと言われると、その答えは否である。人間としての生活があり、人間としての人生がある。
後鳥羽上皇も、源頼家も、日々の政務の中のひとときの休息ぐらい必要だ。その休息のための時間が蹴鞠であるというのは、この時代の皇族や貴族のごく普通のことである。
それに蹴鞠には政治的に大きなメリットがある。人員選別の材料にもなるのだ。
蹴鞠は皇族や貴族の必須素養であり、蹴鞠をうまくこなすかどうかはその人の育ちの良さ、受けてきた教育の高さを測る指標の一つとなっている。蹴鞠に秀でた者を集めることで教育を受けてきた人材を集めやすくなる。
蹴鞠が上手であることはその人の受けてきた教育の高さの指標一つであるが、世の中にはどうしても蹴鞠が得意ではない人、どうしても苦手とする人もいる。どれだけ練習しても無理なものは無理だ。そのような人はどうするのか?
その点も蹴鞠はクリアしている。これは蹴鞠の特性であるが、蹴鞠というのは一人の活躍で成立する芸能ではなく、その場に参加している全員の協力がないと成立しない芸能である。つまり、他者を思いやる人材を選別するに適した芸能であり、極論すればその場にいる他者を思いやる姿勢さえ見せるのなら、蹴鞠そのものがどんなに下手でも構わない。何なら、見ているだけでも構わない。重要なのはその場にいて仲間のために協力することである。
さらに、蹴鞠の多くは同世代の間で繰り広げられる、特に若者の間で繰り広げられるものである。四〇代から五〇代になっても蹴鞠に興じる者も多かったが、ある程度の年齢になると実際に蹴鞠をするより蹴鞠を見ることの方が増えてくる。主催者が若い場合は主催者と同世代、主催者がある程度の年齢になると主催者は蹴鞠に参加せず蹴鞠を眺める側になるので、自分より若い世代を集めることとなる。
蹴鞠の場で蹴鞠の上手さを示した者、そして、蹴鞠の場で他者を思いやる姿勢を見せた者は、かなりの割合で蹴鞠を主催した者の協力者となる。自身も蹴鞠に参加するなら同世代の協力者、自身が見る側に回ったならば若い世代の協力者を集める手段の一つとなるのだ。
建仁元(一二〇一)年一〇月一七日、後鳥羽上皇が熊野詣に出かけている最中に信じられないニュースが飛び込んできた。
宜秋門院九条任子が出家したのだ。
九条兼実との間で出家するしないの論争があったようで、宜秋門院九条任子は九条兼実を振り切って出家をし、せめて髪は切らないでくれと懇願する父の制止を振り切って仏門に身を投じた。
九条兼実が重用するようになっていた法然も、九条兼実の懇願ではなく、九条任子の出家の思いを優先させた。
熊野詣から戻ってきた後鳥羽上皇、そして、後鳥羽上皇の熊野詣に同行していた藤原定家は、かつて中宮であった九条任子が今はもう仏門の人になったことを知った。それも後鳥羽上皇不在のタイミングを狙っての出家であるから、人生に達観した末の出家ではなく、何かしらの意趣返しとしての出家であったと言える。
かつて自分の中宮であった女性が出家したことについて、後鳥羽上皇がどのような思いを抱いたかを知ることはできない。この頃の後鳥羽上皇について知ることができるのは、公的記録と、貴族の日記である。
建仁元(一二〇一)年一一月三日、後鳥羽上皇が正式に新古今和歌集の編纂に乗り出した。和歌所寄人の中から源通具、藤原有家、藤原定家、藤原家隆、藤原雅経、寂蓮の六名を選抜し、上古以来の和歌撰進を命じたのである。
後鳥羽上皇が和歌にのめり込むようになったときからずっと後鳥羽上皇のすぐ近くに侍っていたのは、土御門通親と僧侶の寂蓮の二人であるから、寂蓮がここに選ばれるのは特に不可思議ではない。不可思議なのは土御門通親がこの六名の中にいないことである。
これには裏がある。
当初は内大臣土御門通親が入る予定であったのだ。醍醐天皇以来の国家的事業に乗り出すことを踏まえると内大臣を加えるのはおかしなことではないが、土御門通親は御世辞にも和歌に卓越しているとは言えない。それに、古今和歌集を作り直すわけであるから、選ばれようものなら残る人生の全てが新しい古今和歌集の編纂で終わってしまう。養女の産んだ男児が帝位に就くことで藤原摂関政治における藤氏長者に匹敵する権力の裏付けと、内大臣にまでのぼりつめたという自身の栄達を考えたとき、ここで新しい古今和歌集の編纂に名を連ねることはメリットよりもデメリットの方が大きい。藤原定家のように和歌が自らの未来を託す存在だというのならばまだしも、土御門通親にとっての和歌は貴族としての教養の一環であって人生の全てではない。そこで土御門通親は先手を打って息子の堀川通具こと源通具を推挙した。和歌所に選ばれた当時は頭中将であった源通具であるが、この年の八月一九日に参議に任じられて議政官の一員となっている。しかも参議末席であるから議政官における発言権はかなり高いものがある。源通具は三一歳であるから、現在ならばともかくこの時代ではさすがに若いとは言えないが、それでもあえて言うならば、これからキャリアを構築していこうという若き参議にとって、新しい古今和歌集の編纂は、日常業務に加わる大きな負担ではあるものの、達成したときに手にする名声は今後の貴族社会で生きていくときの大きな武器になるのだ。
また、選抜された六名の中で源通具がただ一人飛び抜けた位階と役職を得ている。寂蓮は僧侶であるためにそもそも位階も役職も関係なく、藤原有家、藤原定家、藤原家隆、藤原雅経の四名は歌人としての才能が認められて和歌所に呼ばれたものの、役人としての、あるいは貴族としての地位や官職は御世辞にも高いものではない。そのため、選抜された六名の組織図は、責任者である和歌所別当として参議源通具がトップに君臨し、残る五名が実働部隊として古今東西の和歌を撰進することとなる。
後鳥羽上皇が醍醐天皇以来の国家事業に乗り出すと宣言したことのインパクトは大きく、選抜された六名の待遇はかなり優遇されたものとなった。一二月四日には勅撰和歌集の完成を祈願するためとして権中納言藤原公継が伊勢神宮に派遣されたほどだ。権中納言が格下である参議のために使い走りをするのは本来であればありえないことであるが、後鳥羽上皇直々の命令であることに加え、これは国家的事業である。藤原公継には拒否する選択肢など最初から存在しない。
さて、源頼家は鎌倉幕府第二代将軍という接頭辞が付く人物であり、その認識は間違いではないのだが、厳密に言うと建仁元(一二〇一)年時点ではまだ征夷大将軍ではない。源頼家は従三位の位階を得ている上級貴族の一員であり、かつ武官として独自行動をとることのできる左衛門督の官職も得ているのだが、源頼朝が考えた征夷大将軍の官職を用いた幕府運営の継承はできずにいた。
建仁元(一二〇一)年一二月二日、源頼家は左衛門督の官職を辞任する旨を公表し、そのための書状を京都に送ることとした。書状を持参するのは文章生三善宣衡である。
三善宣衡が京都から戻ってきたのは一二月二八日のこと。三善宣衡からの報告は、一二月一五日に辞表を朝廷に提出したものの朝廷からの返答は辞任拒否。そのまま左衛門督であり続けよというのが朝廷からの返答であった。
現在に生きる我々は幕府のトップが征夷大将軍であるという常識が成立しているが、この時代の人にはそのような概念は無い。幕府という仕組みそのものが三位以上の位階を持つ貴族の周囲に集まる人の集団という認識であり、武官としての職位を持つがゆえに周囲に集まる人達のうち武士についての指揮命令権が存在するという構図になっている。鎌倉幕府全体が朝廷のコントロール下にあるという図式だ。
源頼朝が考えたように、幕府のトップたるに最良なのはやはり征夷大将軍なのである。征夷大将軍は朝廷のシビリアンコントロールの枠外にある職務であると源頼朝が見抜いてからというもの、朝廷は征夷大将軍という職務があまりにも強大なものであると気づいたのである。源頼家に三位以上の官職と、征夷大将軍以外の武官の官職、すなわち朝廷のシビリアンコントロールに置くことのできる地位にすることで、鎌倉幕府を朝廷の完全なコントロール下に置くことを模索したのだ。
また、源頼朝が手に入れた征夷大将軍という官職は、壇ノ浦の戦いで海中に没してしまった天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)の新たな形代(かたしろ)でもある。生きた形代(かたしろ)として存続することで皇位継承が可能となるのであるが、その際に熱田神宮につながる源頼朝の血筋の者が征夷大将軍に就くことはもっとも明瞭な形で三種の神器の存在を確約することを意味する。
源頼家は、ここで左衛門督を辞して征夷大将軍になることを求めた。朝廷のシビリアンコントロールから脱して、鎌倉幕府の継承を完全に成功させるためである。位階相当で言えば、左衛門督も、征夷大将軍も、従三位の位階の者が就くには低すぎる職位である。特に征夷大将軍は、前任者が正二位にまで登り詰めたために上級貴族のための官職であるとの概念が生まれつつあったが、本来は従四位下、高くても正四位下、三位以上の位階は例外という官職である。既に従三位に登り詰めている源頼家は、位階相当だけを考えれば征夷大将軍に就くには位階が上がりすぎている。
そして同じことは、左衛門督についても言える。左衛門督も征夷大将軍と同様に従三位の貴族が就くには低すぎる職位である。何しろ延喜式に従えば左衛門督の位階相当は正五位上だ。ただ、位階のインフレと役職のミスマッチングのせいで、三位以上の位階を持つ者が左衛門督を務めることも、また、参議や権中納言が左衛門督を兼任することも珍しくないという時代になっていた。その延長上で源頼家は左衛門督に就任していた。
ここで注目すべきは、源頼家が求めたのは左衛門督の辞任であって征夷大将軍の就任ではないことである。これは駆け引きなのだ。位階相当だけを考えれば正五位上である左衛門督から従四位下である征夷大将軍への昇格を求めるという図式を作り上げる第一段として、従三位である自分が左衛門督を務めてしまっては、位階はあるものの役職に就くことのできずにいる他の貴族の官職を一つ減らしてしまう。そこで、従三位の貴族として左衛門督を辞任する。後任に誰を選定するかは朝廷に任せる。そのあとで、空席となっている征夷大将軍に父の後を継ぐという形で就任させてもらいたいという構図に持っていこうとしたのである。
年が明けた建仁二(一二〇二)年一月、朝廷から源頼家に対して一つの答えが示された。正三位への昇叙である。求めていた征夷大将軍への任命の話は片鱗もなく、左衛門督の官職もそのままである。通常は新年一月の除目で昇叙や任官が一斉に行われるが、公卿補任を見る限り、源頼家と同タイミングでの昇叙や任官は少ない。ゼロではないが乏しい。毎年恒例の昇叙や任官ではなく源頼家のための昇叙ではあるが、源頼家ただ一人だけの昇叙ではないため、一応は特別扱いではないという体裁を取ることができる。もっとも、源頼家と同日に従三位から正三位に昇叙したのは鷹司兼基こと藤原兼基、すなわち、摂政近衛基通の四男であり、寿永元(一一八二)年生まれの源頼家よりも三歳若い一八歳である。朝廷的には、源頼家を特別扱いしたというより、鷹司兼基を特別扱いするわけにはいかないので源頼家を巻き込んだと捉えることもできる。
源頼家が、自身が正三位に昇叙となったこと、自分と同タイミングで同じ位階に上がったのが摂政近衛基通の子であることをどのように捉えたかを示す資料はない。それ以前に、残念ながら、建仁元(一二〇一)年末から建仁二(一二〇二)年初頭についての歴史資料そのものが豊富であるとは言えない。記録そのものがないとは言わないが、取り立ててニュースとなるような出来事が記されていないのである。
裏を返すと、前年の凶作の連絡に対する源頼家の対処が成功していたとも言える。吾妻鏡は鎌倉幕府の正史であるものの、北条家にとって都合の悪いことは削ぎ落とす歴史書でもある。源頼家を暗君として扱う姿勢が隠されることはなく、他の歴史資料に接することなく吾妻鏡だけを読めば、源頼家が政務を顧みることなく蹴鞠にうつつを抜かしているとさえ思えてしまう。
だが、前年の自然災害の影響による凶作の知らせがあったにもかかわらず、この頃の吾妻鏡の記載に飢餓を扱う記事はない。飢餓があったならば暗君としての源頼家を示すエピソードとしてこれ以上の記録はないのに、そのような記事は載せていない。つまり、政治家としての源頼家の命令と判断は、少なくとも自然災害に遭った人達の救済になっていたといえるのだ。
顕著な例として一月二八日の出来事を挙げることができる。
この日の早朝に巨大な地震が鎌倉を襲った。ただ、地震があったという記録しかなく、それで鎌倉に住む人達に何かしらの被害が出たという記録はない。源頼家を悪し様に描く材料を懸命に探している吾妻鏡のことであるから、このときの地震で何かしらの被害があったならば吾妻鏡は必ず記すはずである。にもかかわらず書いていないということは、被害らしい被害がなかったと結論づけることができるのだ。
なお、この一月二八日という一日は、残されている歴史資料が豊富ではないこの時期にあって、例外的に史料に恵まれている一日である。
この日、九条兼実が出家したのである。もはや九条兼実が政界に復帰することは無くなった。とはいえ、建久七年の政変で失った地位と権勢については、ある程度取り戻すことができていた。実弟の慈円を天台座主に戻し、息子の九条良経を左大臣にまで出世させることができた。自分の娘が産んだ男児が天皇となる未来を築くことはできなかったが、九条家の権勢を取り戻す筋道を立てることには成功したことを見届けてからの出家である。
なお、九条兼実は法然を戒師として出家している。これは既存の仏教勢力、特に比叡山延暦寺からの大きな反発を受ける話であったが、延暦寺のトップである天台座主に実弟を据えたことで反発を強引に抑えることに成功している。
この後に起こることを考えたならば五五歳での出家は早すぎたと考えるべきなのだが、この時点では九条兼実が出家することについて誰も特に何も問題ないと考えていた。誰もが一つの時代が終わったと考えただけである。
建仁二(一二〇二)年のその後の記録は、後鳥羽上皇については和歌、源頼家に関しては蹴鞠と、歴史資料の上側だけをなぞっていたら、いったいいつどこで政務をしていたのか、そもそもこれで問題なかったのかと疑問を持つ内容が続いている。
しかし、よく読むと、後鳥羽上皇も、源頼家も、政務を正しく遂行していることが読み取れる。
特に注意すべきなのが、一三人の合議制として始まったはずの鎌倉幕府の宿老達の合議体が姿を消していることである。あえて記録に残さなかったのかと感じるほどだ。
おそらくであるが、合議体そのものは継続していたであろう。また、その合議の結果が源頼家の名で発せられることもあったろう。しかし、源頼家の名で発せられた政治的な指令として残っている記録は穏当なものである。特に所領争いをめぐる裁判などでは、前年の五〇〇町を超える分の所領没収など無かったかのように、源頼朝の頃と変わらぬ穏当な判決を下している。残された記録から追いかけても、源頼家は所領争いに関する裁判について現地まで使者を派遣して綿密な調査を行わせ、正確な判断を下すようにしていたことがわかる。
吾妻鏡などでは蹴鞠に興じ過ぎているとして北条政子に怒られる源頼家の姿が描き出されているが、真面目にするよう嗜める母親というより、ほんのひとときの休みにも口出しする喧しい母親としか感じられない。と同時に、本当にそのようなことを言ったのか怪しく感じるほどだ。北条家にとって都合よくなるように脚色するのが通例である吾妻鏡のことであるから、愚かな息子を嗜める母親としての北条政子を描こうとしたのであろうが、読み込んでいくと、本当にこのようなことを北条政子が言ったなら正気が疑われるというレベルになってしまっているのだ。
前にも記したが、壇ノ浦の戦いの平家滅亡があまりにもドラマティックであるためにイメージしづらいものの、源頼朝という人は自分に降ったならば、以前は敵であった人であっても自らの味方に迎え入れてきた人である。梶原景時や城一族といった例外はあるものの、基本的には、源頼朝が迎え入れたかつての敵が今も鎌倉幕府の中にいるという状況である。
このことは源頼家もわかっている。
吾妻鏡によると、建仁二(一二〇二)年に江間義時の弟、すなわち、北条政子の弟である北条時連が北条時房と改名したときのエピソードとして、北条時連の「連」の文字が良くないという指摘があったという。文字が良くないと指摘したのは平知康である。
平知康といえば、木曾義仲の京都制圧時に、木曽義仲を討伐すべしと後白河法皇に訴え出て法住寺合戦を引き起こし、源義経が京都に入ると源義経に接近した人物である。その人物が文治二(一一八六)年に鎌倉に呼び出されたのはこれまでの事件に関する取り調べと弁明のためであり、それから一五年近く鎌倉に滞在し続けていた。その平知康が、気がつけば源頼家の取り巻きの一人となり、北条時連に対して名を改めるように言ったわけであるから、北条政子としては、過去のやらかしを全く反省せずに自分の弟の名前に難癖をつけて改名しろと言ってきたとなる。気に食わないことこの上ないであろう。しかも、弟は実際に「連」の文字を「房」に改めて、北条時房と改名したのである。
ところが、吾妻鏡のこのあたりの記事を読んでいくと矛盾が生じる。北条政子の弟が建仁二(一二〇二)年に改名したのは事実であろうし、改名がこのタイミングであることも事実であろうが、よく読んでいくとおかしいのである。
どういうことかというと、北条時房へと改名した時点ではまだ征夷大将軍に就任していない源頼家のことを、征夷大将軍と扱っているのである。吾妻鏡を編纂するときに元々の史料を読み誤ったか、あるいは意図的に間違えたとするべきであろう。
源頼家が正式に征夷大将軍に就任したのは建仁二(一二〇二)年七月三日のことである。この日、源頼家を従二位に昇叙させたと同時に征夷大将軍に任命することが決まった。なお、左衛門督との兼任である。
と同時に、征夷大将軍の位階相当が変わった。前任の源頼朝が正二位で征夷大将軍に就任したのに続き、源頼家が従二位で征夷大将軍に就任したことで、征夷大将軍の位階相当が従二位以上に引き上げられたのだ。
それにしてもなぜ朝廷は、そして後鳥羽上皇は、このタイミングで源頼家を征夷大将軍に任命したのか?
逆説的ではあるが、源頼家を昇叙させると同時に征夷大将軍に任命することで、鎌倉幕府の永続性を細めることを意図したのである。
源頼朝が征夷大将軍の役職を求めたのは、朝廷のシビリアンコントロールから離れて独自の行動をとる合法的根拠を求めたと同時に、従四位下が位階相当である征夷大将軍であれば、源頼朝の後継者となる人物の位階が低くても征夷大将軍を相続できると考えたからである。それなりの権勢を手にしている貴族であれば、自分の子や弟といった後継者を従四位下にまで引き上げることは可能だ。源頼朝自身や源頼朝の後継者の身に何か起こったとしても、その後を継ぐ者が従四位下にまで昇叙していれば征夷大将軍に就くことで鎌倉幕府を継承できると考えたのである。
ところが、源頼家が従二位に昇叙した上で征夷大将軍となった。これにより、征夷大将軍の位階相当が従四位下から従二位に引き上げられてしまった。源頼家は数えで二一歳、満年齢では二十歳の若者だ。この時点の源頼家に息子がいるにはいるが、考えていただきたい。現在の学齢でいうところの二十歳の若者の子が何歳であるか?
どう考えても従二位にまで昇叙しているわけがない。
それ以前に、貴族としてのデビューすら果たしていない。
つまり、源頼家の身に何かが起こった瞬間に征夷大将軍の継承が失敗し、鎌倉幕府は瓦解するのである。実際、源頼家の長男である一幡は建久九(一一九八)年生まれであり、このときはまだ、数えで五歳、満年齢で四歳だ。ちなみに、一幡の母である若狭局は比企能員の娘であり、比企能員は源頼家を娘婿として扱ってきていたが、若狭局を源頼家の正室であるという記録と、側室の一人であるという記録とがあるのは注意が必要である。
ただし、この方法は朝廷にとって極めて危険であった。征夷大将軍は武人の役職なだけでなく、三種の神器の一つである天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)なのである。現時点では土御門天皇が誰かに譲位する、あるいは、土御門天皇がやむなく皇位を去らねばならぬというような事態は全く考えられていない。誰もそのようなことは心配していないし、起こらないと確信している。だからこそ、征夷大将軍が空席であっても構わないと考えるし、征夷大将軍の官職を渇望するのは鎌倉幕府の側であると考えている。征夷大将軍が天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)であるという点で朝廷は無視できなくなっているが、征夷大将軍の実利、すなわち、朝廷のシビリアンコントロールから離れた独自の軍事行動を展開する権利はあまりにも大きいのだ。征夷大将軍を渇望するのが鎌倉幕府の側である限り、征夷大将軍に就く資格を厳しくすることは朝廷にとってメリットの大きな話になる。
後世に生きる我々は源頼家がこの後どうなっているかを知っているからわかるが、この時代の人は、源頼家の身に何かが起こったときに鎌倉幕府がどのような対応をするかなど知りようもなかったのだ。この時点の鎌倉幕府の取りうる方法はただ一つ、源頼家の後継者を貴族デビューさせ、相応の位階を獲得させることであるが、そのような人物など今の鎌倉にいなかった。強いて挙げれば源頼家の弟の千幡、後の源実朝ということになるが、建久三(一一九二)年生まれの千幡はこのとき数えで一一歳、満年齢で九歳から一〇歳。現在の学齢で言うと小学四年生である。位階どころかそもそも元服すらしていない。
さらに後鳥羽上皇はほぼ同じ頃に一つの対策をしている。前年に天台座主に復帰したばかりの慈円を辞任させ、後任に実全を天台座主に据えている。これにより九条家が比叡山延暦寺を抑えつけるという構図を破壊し、延暦寺の勢力を利用した既存権力への牽制を図ったのである。
源頼家が従二位に昇叙して征夷大将軍に就任したことは、本来であれば喜ばしいことであるはずであったが、位階の高さがかえって鎌倉幕府を混乱に招くことになった。
特に混乱のもととなったのが、源頼家の後継者を誰とするかという問題である。
それは遠い未来を見据えたこととなるが、源頼家の後継者を貴族として出世させなければ、最低でも従二位にまで出世させなければ征夷大将軍に就任させることができないのであるから、鎌倉幕府として総力を挙げて源頼家の後継者を貴族界に送り込んで出世させなければならない。そのためには藤原氏や村上源氏、そして、後鳥羽院への接近も必須である。
ところがここで問題がある。
複数名送り込むわけにはいかないのだ。
征夷大将軍に就くことができる位階の者が複数いた場合、征夷大将軍の役職をめぐる争い、すなわち、源頼家の後継者争いが必ず起こる。鎌倉幕府の内部での争いということは武士の争いということだ。権謀術数ではなく剥き出しの武力での争いになる。ただでさえ梶原景時という前例を生み出してしまった鎌倉幕府だ。後継者争いとなったらそれは血が流れる事態を意味する。
ゆえに、早々に源頼家の後継者を選定し、源頼家を中心とする鎌倉幕府を維持すると同時に源頼家の身に何か起こったときに限り、源頼家の後継者に指名された人物が征夷大将軍を継承して鎌倉幕府を存続させるという方策を取るしかない。
では、誰が源頼家の後継者たるべきか?
ここで誰よりも早く動き出したのが比企能員であった。何しろ源頼家は比企能員の娘との間に男児をもうけている。源頼家の長男である一幡はこのとき、数えで五歳、満年齢で四歳である。たしかに幼いが、そもそも源頼家の年齢を考えると、長男が既にこの年齢になっていることのほうを感嘆すべきであり、幼さについて文句を言うわけにはいかない。
一方、北条政子や江間義時も動き出していた。源頼家の弟である千幡である。前述の通り現在の学齢でいくと小学四年生であるから、一幡よりは年長者であるものの、こちらもやはり源頼家の後継者とするには幼すぎる。
肝心の源頼家はどう考えていたのか?
結論から言うと、息子である。弟に自分の後を継がせるという考えは毛頭なかった。弟を推す実母や叔父、すなわち、北条政子や江間義時は、源頼家からしてみれば征夷大将軍の役職を簒奪しようとする者に見えたろう。自分が手にした征夷大将軍の役職は自分の子が継ぐべきであり、そのために協力する比企能員をはじめとする比企一族は味方、敵対する北条一族は敵であるという考えが源頼家の心のうちに生まれてきていた。
なお、後にこの国の歴史を悪い意味で動かすことになってしまう公暁はこのとき四歳であり、生前の源頼朝は公暁のことを源頼家の後継者にしようとしていたという。無論、源頼朝が亡くなったのは五年前、そしてこのとき公暁はまだ四歳であるから、源頼朝が公暁を目にしたことなどあるわけがない。しかし、源頼朝は比企氏より家格の高い源氏一族の賀茂重長の娘を頼家の正室とし、彼女が男児を産んだならその男児を源頼家の嫡子として、鎌倉幕府の第三代将軍にしようと計画していたという。もし源頼朝がもっと長生きしていたならば源頼朝の目論見も成功していたであろうが、源頼朝は六十歳にもならない若さでこの世を去ってしまった。そのため、賀茂重長の娘、すなわち公暁の母は、源頼朝の死とタイミングを合わせるかのように段々と立場を弱くしていったと考えられる。それこそ、源頼家の正室の地位を失い、代わりに比企能員の娘である若狭局が事実上の正妻になるほどに。
源頼家も賀茂重長の娘ではなく比企能員の娘を自分の正妻であると考えていたようで、だからこそ一幡を自分の後継者と考え、一幡への将軍位継承の障害となる存在、具体的には北条家と、北条家に関係する面々に対する牽制である。
源頼家が征夷大将軍となったことで源頼朝から源頼家への権力継承が完成した。
後鳥羽院政はもう完全に確立している。
この二つが合わさったとき、京都で一つの希望と二つの絶望が誕生した。
一つの希望は、源頼家の征夷大将軍就任がこれからの大々的な除目のスタートになるという希望である。位階が上がることを希望する者、新たな役職を手に入れることを希望する者、そうした希望を抱く者が数多く誕生したのだ。
この希望がピークを迎えたのは建仁二(一二〇二)年七月二三日、源頼家が征夷大将軍に任じられてから二〇日後のことである。
きっかけはその三日前、七月二〇日のことであった。この日、新古今和歌集の撰集に携わっていた僧侶の寂蓮が亡くなったのだ。新古今和歌集の撰集は国家事業として進めていることを後鳥羽上皇は表明している。その中でのキーパーソンとなっている寂蓮の死は、新古今和歌集の撰集体勢の見直し、さらには全体的な人事の見直しに発展するという観測が広がっていたのだ。
新古今和歌集に携わっている寂蓮以外の五名は国家事業を遂行していることの報償としての昇叙や出世があると考え、その他の貴族は寂蓮の死によってできた新古今和歌集撰集者の空席に自分が入り、その延長上として自分の出世があると考えた。
さらにここに源頼家の征夷大将軍就任が加わる。実際には左衛門督との兼任であったが、源頼家が征夷大将軍専任になり、これまで源頼家が就いていた左衛門督が空席になると考えた者が多かった。
建仁二(一二〇二)年七月に誕生した二つの空席が埋まるところから始まる大規模な人事改定が起こると考えたのである。
結論から記すと、希望が叶った者がいた一方で、多くの貴族は希望が絶望に変わった。希望を叶えたのは後鳥羽上皇の近臣に限られたが、後鳥羽上皇の近臣であろうと無条件に出世したわけではなく、昇叙したとも限らない。それは新古今和歌集の撰集にあたっていた者も例外ではなく、藤原有家だけが新たに大蔵卿に任じられ、藤原定家、藤原家隆、そして、飛鳥井雅経こと藤原雅経の三名は何も無かった。ある程度パターン化されているとも言えるが、自らの出世を期待していた藤原定家は自分の日記に、藤原有家だけが出世したことについてかなりの悪口をちりばめている。さらに言うと、藤原定家は自分の出世を、内大臣土御門通親や、後鳥羽上皇の乳母である藤原兼子に頼み込んだようで、人事が発表される前日の七月二二日には自分の新たな官職についての希望を述べているため、僅か一日での日記の落差は、古典の教科書における藤原定家のイメージをこれでもかと破壊する効果がある。
先に一つの希望と二つの絶望と記した。
希望は新たな官職を手に入れるかもしれないという希望、二つの絶望のうちの一つは新たな官職を手にできなかったという絶望である。
では、残る一つの絶望とは?
後鳥羽上皇にしろ、源頼家にしろ、自らの趣味を通じて近臣を選抜している。源頼家に和歌の趣味があったかと問われると微妙だが、蹴鞠や狩猟は後鳥羽上皇と源頼家とで趣味が合う。また、源頼家自身の和歌の趣味の有無が微妙でも、鎌倉には和歌を趣味とする武士や文人がそれなりにいる。鎌倉幕府は京都の警護のために御家人を京都に派遣することがあったが、その中に和歌への造詣の深い者がいると新古今和歌集の撰集の場に入ってくる。
藤原定家はそのことについて、多くの武士や武士の子が自分に弟子入りしたことを記している。これまで藤原定家は武士のことを歯牙にもかけてこなかったが、いざ弟子を取る段になると喜びを隠せないでいる。武士が次世代の権力者となったことを苦々しく感じる貴族は数多くいたが、その権力者が貴族の仲間入りをしようと自分達に頭を下げて弟子入りするのであるから気分良くならないわけはない。
また、鎌倉からやってきた彼らは趣味の世界で後鳥羽上皇につながるところもあったため、ここに後鳥羽院と鎌倉幕府との連帯が生まれた。藤原定家は自身が新たな役職を得られなかったことを嘆いたが、後鳥羽院と鎌倉幕府の融合からなる新たな権力構造の中に自分も加わったことに喜びを隠せなかった。
藤原定家は喜びを隠せなかったが、喜べなかった者のほうが多かった。
これからの時代で権勢を手にしてキャリアを構築していくのに必要なのは、学問でもなく、役人としての勤務実績でもなく、政治家としての実績でもない。京都では後鳥羽上皇に、鎌倉では源頼家に、趣味の世界で気に入られることなのだ。そうすれば後鳥羽院や鎌倉幕府で地位を手にできる、あるいは、それ以外にキャリアアップの手段がない。
後鳥羽院と鎌倉幕府の連帯に多少なりとも関係することができれば、出世するかどうかという期待が得られる。そして、関係する手段は後鳥羽上皇や源頼家の趣味に付き合うことである。
これは多くの貴族にとって絶望でしかなかった。それまで自分がやってきたことが全く無意味で遭っただけでなく、格下と考えていた武士達が貴族と並んで地位や権勢を掴む時代になったのだ。年齢を考えても後鳥羽上皇の院政はまだまだ続く。後鳥羽上皇と源頼家との関係が良好になっていることを考えると、まだ若き二人が京都と鎌倉に並び立つという構図はこれからかなり長く続くことになる。それまで自分が培ってきた人生を全否定するにはあまりにも苦しいが、否定しなければ貴族として生きていけない。
これは絶望とするしかない。
一方の鎌倉はどうであったか?
源頼家が源頼朝の完全なる後継者となったこと、かつて打ち出した所領の五〇〇町制限が立ち消えになったことに加え、どうやらこの頃には一三人の合議制と源頼家の政務との整合性がとれたか、あるいは、合議制のほうが有名無実化したか、源頼家の政務や言動、行動が、御家人達の反発を招くことなく受け入れられるようになり、鎌倉幕府の内部が穏当化してきた。
たとえば建仁二(一二〇二)年八月二四日に古郡保忠が起こした騒動についてはこの頃の鎌倉幕府が特に問題のない組織体を構築していることが読み取れる。
古郡保忠の起こした騒動の経緯を記すと以下の通りとなる。
この年の三月に一人の女性が鎌倉に現れた。吾妻鏡は彼女の名を「舞女微妙」と記している。厳密に言うと「舞女」は職業名であるから、名だけを考えると「微妙」となる。彼女が鎌倉に現れた理由、それは彼女が七歳のときに冤罪で逮捕されただけでなく奥州へと連れて行かれた。京都の牢に閉じ込められている囚人を連行して北海道の蝦夷に奴隷として売り渡そうとする者がいて、その中に彼女の父親がいたというのである。しかも、連行していった者は源頼朝の雑色だというのだ。
他に頼れる親族もいない彼女はどうにかして父親に会おうと、それがいつのことになるかはわからないが、鎌倉でどうにかして将軍源頼朝に会うことを決めた。とは言え、鎌倉に行くだけならまだしも源頼朝に会うのは容易ではない。そこで彼女が選んだのが舞女になることであった。
舞女(まいおんな)とは、公的には神前でダンスを披露する女性のことであるが、それだけで食べていけるわけではない。当時の有力者や富裕層の開催する宴席に出向いてダンスを披露することで食べていく女性は、この時代、それなりの人数が存在していた。その中でも顕著な例が、源義経の愛人である静御前が職業としていた白拍子である。なお、舞女微妙が白拍子であったとは吾妻鏡に書いておらず、彼女を白拍子であったと記すのは後世の説話の話である。
厳密に記すと白拍子とは舞女の一ジャンルであり、女性が男装をしてダンスを披露する白拍子は鳥羽法皇の頃から現れるようになった比較的新しい、とはいえのこの時代となると既に半世紀を数えることとなる流行であったのに対し、舞女はそれより前から存在している芸能である。
舞女微妙の話に戻すと、年齢を重ね舞女として食べていけるようになった舞女微妙は、この年の三月に鎌倉で開催された蹴鞠の場に登場し、自らの境遇を訴えて源頼家の同情を買ったとある。
彼女はその後、北条政子のもとで生活することとなったのだが、それには理由がある。
彼女の美貌に鎌倉の若き武士達の目の色が変わったのだ。それは源頼家も例外ではなく、このまま彼女を放置していては源頼家の正妻の座を舞女微妙が射止めてしまう可能性があったからである。北条政子の側に舞女微妙をおいておけば、少なくとも舞女微妙に言い寄る男性は少なくなる。なお、舞女微妙の境遇に同情した源頼家は彼女の父を捜索するよう陸奥国に使者を派遣させている。
ここまでが三月末のことである。
それから四ヶ月以上の月日が流れて迎えた建仁二(一二〇二)年八月五日、捜索結果が鎌倉にもたらされた。舞女微妙の父が既に亡くなっていたのだ。その知らせを聞いた舞女微妙は号泣したのち気を失った。そして、それから一〇日後の八月一五日、彼女は出家した。ちなみに、その出家に立ち会ったのが、臨済宗の開祖として今も名を残す栄西である。
ところが、この四ヶ月間の間に、舞女微妙はどういう芸当を使ったのかわからないが古郡保忠と恋仲に陥っていたのである。あるいは、古郡保忠の一方的な恋心であった可能性もあり、舞女微妙側の言葉は記録に残っていない。
古郡保忠は舞女微妙が出家したと聞きつけて慌てて甲斐国から鎌倉に戻り、栄西の弟子である祖達の僧坊に押し掛けて舞女微妙が出家したときの誓いの言葉を教えろと迫ったのである。出家するときは誓いの言葉を述べるのが通例であり、その言葉を聞くことでその人がどのような思いで出家を選んだのかを周囲の人は知ることとなる。古郡保忠はその言葉を聞こうとしたのであるが、聞こうとするだけならまだしも暴力に訴えて暴れだしたために大問題となったのだ。これが建仁二(一二〇二)年八月二四日に古郡保忠が起こした騒動である。
吾妻鏡はここで北条政子が結城朝光を派遣して事態を沈静化したとしているが、結城朝光の派遣が事実であっても、実際に北条政子が派遣したのかどうかはわからない。判明しているのは、このときの問題にあたって鎌倉幕府として統一見解を出して対処したことである。
源頼家の後継者を誰にするかという問題で比企一族と北条家との対立が存在していたこと、特に実母である北条政子の意向を無視して自分の子を後継者にしようとする源頼家の判断が、北条家と比企一族との対立を深くするものがあったことは無視できない。
それでも、表面上は穏やかな情景が広がっていたと言える。
また、日常の政務だけでなくプライベートでも御家人達と源頼家との関係は好転してきていた。中でも源頼朝の事績を踏襲する意味で開催することの多かった巻狩は、蹴鞠に対する好意を見せない御家人達にも好意的に受け入れられた。何しろ源頼朝の完全なる再現なのだ。かつての源頼朝のように源頼家が御家人達とともに巻狩に興じることは、武士としての嗜みに源頼家も理解を示しているだけでなく、源頼朝を再現しようと懸命になっている様子を示すことが、御家人達の間に存在した源頼家に対する不満感と不安感を解消するのに役立ったのだ。
望んでいた形ではないにせよ、後鳥羽上皇の院政と源頼家の幕府とが並立する社会は、後鳥羽上皇と源頼家の若さもあって、長期間に亘ると多くの人が考えていた。
しかし、建仁二(一二〇二)年一〇月二一日にその考えが一瞬にして終わった。
土御門通親こと内大臣源通親が急死したのである。五四年間の生涯が何の前触れもなく終わってしまっただけではない。土御門通親に対する評価は毀誉褒貶あるが、唯一誰もが同意できることとして、後鳥羽上皇の暴走を止めることができていた唯一の人物という評価がある。
土御門通親の突然の訃報を聞いた右大臣近衛家実は内大臣がいることを前提となっている政務であったことを述懐し、後鳥羽上皇も御歌合を中止して哀悼の意を表した。新古今和歌集の撰集に当たっていた面々は土御門通親の詠んだ和歌を新古今和歌集に採用することとした。もっとも、土御門通親の実子である堀川通具こと源通具が新古今和歌集の撰集における最高責任者であったと言えばそれまでであるが。
土御門通親は内大臣である。摂政でも、太政大臣でも、左大臣でも、右大臣でもない。すなわち、法的には議政官の議決における一票以上の権力を有さない。しかし、実質的に議政官を仕切っていたのは内大臣土御門通親であった。また、土御門天皇の実母は土御門通親の娘である。正確に言えば土御門通親の養女が土御門天皇の実母であるため、この時代の人達は土御門通親のことを土御門天皇の祖父と見做すことはほとんどなかったが、
その土御門通親はもういない。
一〇月二四日、大納言藤原隆忠が後任の内大臣に就任。藤原隆忠は松殿基房の長男であるものの傍流と扱われたため、松殿の苗字を名乗ることはなかった人物である。それでも、左大臣が九条良経、右大臣が近衛家実、そして内大臣が松殿家の人間であるということで、三分裂した藤原摂関家が四つの大臣職のうち三つを占めることとなった。なお、太政大臣はその三つの家のどこにも属さない藤原頼実であるが、摂政は近衛基通であるため、三分裂した藤原摂関家の中では近衛家が一歩先を歩んでいることとなる。
土御門通親が亡くなっても村上源氏が議政官から姿を消したわけではなく、土御門通親の弟である源通資が権大納言、土御門通親の子である源通具が参議兼歌会所別当であり、藤原摂関家の勢力は強いものの、完全なる独占状態となっているわけではない。
村上源氏である土御門通親が亡くなったことで議政官のパワーバランスは藤原摂関家の間の争いに委ねられることになった一方、バランスは取れているために不完全ではあるが政権の安定は図ることができると考える者が多かった。
一一月までは。
建仁二(一二〇二)年一一月二七日、摂政近衛基通が藤氏長者の地位から降ろされ、左大臣九条良経が藤氏長者に就任すると同時に内覧の権利を獲得することとなった。内覧の権利はどの貴族よりも先に情報に接することができる特権であり、通常は摂政や関白に付随する権利である。その権利を左大臣が得たという例はあり、中でも、この時代の貴族達からは何かにつけ理想の時代の理想の人物と扱われる藤原道長は、二〇年ものの長きに亘って左大臣でありながら内覧の権利を維持し続けてきたという例がある。九条良経は藤原道長の先例を踏襲することとなったのであるが、九条良経は藤原道長のように藤原摂関家の中の絶対的指導者として君臨しているわけではない。
微妙なパワーバランスは一日にして完全に崩れ去ったのである。近衛基通はこれまで二回、摂政の地位を追われている。寿永二(一一八三)年と文治二(一一九六)年の二回である。多くの人はこのとき、三度目が起こると考えた。
もともと近衛基通が摂政になったのは、九条兼実に対する反発に由来している。近衛基通を後鳥羽天皇の関白とさせることで摂関の地位に戻し、後鳥羽天皇の退位と土御門天皇の即位と同時に摂政になってから五年間、かつては悪評を受けることの多かった近衛基通の摂政や関白としての職務も、経験を積み重ねることで無難に職務を遂行する摂政という評判を得るに至っていた。
ただ、近衛基通が摂政や関白になることができたのは、土御門通親を中心とする九条兼実への反発が理由であり、九条兼実を追い出すときに掲げる神輿にちょうど良かったからに過ぎない。神輿が神輿の枠を超えた動きを見せるようになっただけでも想定外であったのに、反九条兼実の中心人物ということになっていた土御門通親がこの世から退場したことで近衛基通が摂政であることの必要性も喪失してしまったのである。
摂政でありながら内覧の権利を失ったのでは、政務をまともに執ることができなくなる。建仁二(一二〇二)年一二月二五日、近衛基通、三度目の摂政辞職。後任の摂政には左大臣九条良経が就任。同日、太政大臣藤原頼実が、かつて土御門通親が務めていた春宮傳を兼任することとなり、朝廷内のパワーバランスに大きな動きが見られるようになった。ここでの動きは強力ではなく、互いに争い合うという動きであることは要注意である。
そしてもう一つ要注意なのが、土御門通親亡き後、朝廷の人事権を一手に握るようになったのが後鳥羽上皇である。藤原定家はその日記に、後鳥羽上皇が人事をちらつかせて貴族達を手玉に取っている様子が描かれている。なお、藤原定家も手玉に取られている貴族の一人であるはずなのであるが、本人にその自覚は無いようである。
年が明けて建仁三(一二〇三)年の最初の四ヶ月について、朝廷の記録を見ても、鎌倉幕府の記録を見ても、後鳥羽上皇は和歌と熊野詣に終始し、源頼家は蹴鞠に終始している。貴重な同時代史料を残してくれている藤原定家は新古今和歌集の撰集に専念しているのか、そもそも大きな出来事そのものがなかったのか、平凡な四ヶ月が経過しているだけである。
ただし、一つだけ気になる記事がある。建仁三(一二〇三)年三月一〇日の夜に源頼家が病に倒れ床に伏すこととなったのである。もっとも、数えで二二歳、満年齢で二一歳の若者である。健康に不安があるとも思えず、実際にこのときの病気もさほど長引かせることはなく三月一四日に回復している。なお、病床にある渦中で駿河国片上御厨をめぐる所領争いを解決させているので、健康でなかったのは事実でも政務を執ることには特に支障のない程度であったことは読み取れる。
しかし、五月に入ってくるとだんだんと怪しくなってくる。
源頼家は若い。後継者もいる。しかし、源頼家の身に何かが起こるかもしれないという可能性は、それまで思うことすら許されなかった野心に火を付けてしまったのである。
源頼家の身に何かあったらという消極的な思考ではなく、源頼家の身に何かを起こしたらという積極的な思考を生み出すようになってしまったのだ。
当事者である源頼家は自身の病気は一時的なものと考えたようで、吾妻鏡は源頼家が相変わらず蹴鞠三昧の日々を過ごしていると記しているが、ごく稀に鎌倉幕府のトップらしい行動を見せている。
建仁三(一二〇三)年四月六日、伊予国の御家人である河野通信を伊予国守護である佐々木盛綱の支配下にないという宣言が出された。その代わりに源平合戦期に名を挙げた河野水軍の再結集を命じている。
また、このときの指令には少し特別な対応になっている。政所が文書を発給したのだが、通常であれば政所別当の中原広元の名で起草する書状であるが、このときは平盛時が書状を書き起こしている。平盛時は名前だけを見れば平家の一員に見えてしまうが、この人は平家の人間ではない。鳥羽法皇の時代の軍事パレードに参加した武士の中に同姓同名の者が確認できるが同一人物であるかは怪しい。なぜなら、この人が武士であった記録は無いのである。平盛時の事績として確認できるのは文人官僚としての実績だけであり、鎌倉幕府との関係における平盛時の記録も源頼朝の右筆として源頼朝に個人的に仕えてきた人という記録のみである。
平盛時の名は源平合戦の最中の元暦元(一一八四)年には既に源頼朝の個人的な秘書として登場しており、同年一〇月の問注所の設置時には三善康信の補佐役として名を連ねている。その後、中原広元の部下として政所で勤めるようになり、源頼朝は、自分の花押が記せないときは中原広元が、中原広元が多忙で関わることのできない文書に関しては平盛時が花押を記すことで政所の正式な文書とすることを明言している。
建仁三(一二〇三)年五月一八日、源頼家はいつも通りの蹴鞠をした。源頼家と一緒に蹴鞠をしていた面々もいつも通りであったと吾妻鏡は記している。前年秋からの吾妻鏡の記述を読み続けると、この日の記事もいつも通りの蹴鞠としか感じられない。この日までの記事を読んで、その翌日に何か起こるなどと想像する人がいたらそのほうが異常と感じるほどだ。
五月一九日、阿野全成が謀叛の嫌疑で何の前触れもなく拘束されたのである。
阿野全成は源頼朝の弟であり、源頼朝とは母の違う弟ということになるが、源義経とは母を同じくする兄弟である。平治の乱の後、母と二人と弟とともに平家のもとに出頭したときは七歳であるから、実弟の源義経と違って父の源義朝のことも記憶にある。
平治の乱の敗者となった源義朝の子を平清盛は殺害しなかった。実際に戦場を駆け巡った源頼朝の命も助けた平清盛は、当時七歳の阿野全成の命も奪わなかっただけでなく、兄の源頼朝のように流刑に処すことも無かった。ただし、出家することが条件である。条件を受け入れたために阿野全成は醍醐寺で出家させられ、以降、この年まで僧体のままでいる。なお、実弟の源義経も本当は出家が命じられていたが、源義経は出家する前に鞍馬寺を脱走して勝手に元服し奥州平泉にまで逃れたため出家していない。
話を阿野全成に戻すと、源頼朝の弟である僧侶の全成が阿野全成と名乗るようになったのは、駿河国阿野、現在の静岡県沼津市の所領を手にし、阿野に住まいを構えたからである。基本的には本拠地である駿河国阿野に在駐していたが、現在の沼津と鎌倉との距離からも想像できるとおり、箱根を越えなければならないという点はあるものの、そこまでの距離はないことから頻繁に鎌倉に姿を見せている。
謀叛の嫌疑がかけられたときにただちに拘束された。阿野全成を拘束したのは武田信光であり、阿野全成の身柄はただちに宇都宮頼業に預けられることとなった。
翌五月二〇日、阿野全成の謀叛の嫌疑について源頼家は阿野全成の妾である阿波局(あわのつぼね)を取り調べるよう命じるも失敗した。彼女は北条政子のもとに身を寄せていたのである。源頼家は近習である比企時員を北条政子のもとに遣わして阿波局を出頭させるように求めたものの、北条政子は拒否。本年二月より阿野全成は本拠地である駿河国にいて阿波局と連絡もとっていないため、仮に阿野全成が謀反を企んでいたとしてもその知らせを阿波局が知ることはできなかったとしたため、比企時員は手ぶらで源頼家の元に戻らなければならなかった。
阿野全成に対する処分は早々に決まった。常陸国への流罪であり、流罪が五月二五日に執行された。
それから一ヶ月後、阿野全成は下野国において、八田知家の手で殺害された。これで源頼朝の兄弟は九名とも命を落としたこととなる。
それにしても不可解な事件である。
阿野全成に対する捕縛命令が出たのは建仁三(一二〇三)年五月一九日のことであり、その日のうちに捕縛された。ただ、実際に捕縛されたのは駿河国においてなのである。北条政子の供述が正しければ阿野全成は最低でも三ヶ月間は駿河国に居続けただけでなく、捕縛命令が出たその日のうちに駿河国で捕縛されたわけであるから、源頼家は阿野全成の居場所を把握していたこととなる。そして、甲斐源氏である武田信光を駿河国に派遣するだけの体制を整えていたこととなる。
もっとも、この頃の武田信光はその勢力を甲斐国から南へと拡張しており、拡張する先に阿野全成の所領があることは確認できているので、阿野全成と武田信光との間で所領争いを繰り広げていた多能性は否定できない。所領争いをしている相手の行動を監視し続け、裁判で有利な材料が出てきたらただちに問注所に訴え出るというのは、この時代の御家人達が稀に選んできた行動である。源頼家が阿野全成を排斥しようと考えた場合、武田信光をそのための駒として利用するのはおかしくない話である。武田信光にしても、梶原景時の件で兄の武田有義が梶原景時と連携していると通報したという前例がある。兄を追い落として甲斐源氏のトップの地位を手にした武田信光は、ここで源頼家の忠実な駒になることを選んだとしてもおかしなことではない。甲斐源氏の中における自らの勢力を築くと同時に甲斐源氏そのものの勢力を南へと拡張する絶好のチャンスだ。
ただし、根本的な問題がある。
本当に阿野全成は謀叛を計画していたのか?
阿野全成は源頼朝の弟であることから、源頼朝の後継者候補の一人としてカウントできる人物であることは否定できない。しかし、阿野全成は源頼朝と母親を同じくしていないため、征夷大将軍の役職を継ぐことはできないのである。壇ノ浦の戦いで海中に没した天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)の新たな形代(かたしろ)は征夷大将軍である。無理を重ねれば阿野全成が征夷大将軍につくこと自体は可能であろうが、新たな形代(かたしろ)としての征夷大将軍の権威は、官職ではなく、熱田神宮の宮司の娘を母とする源頼朝、そして、その源頼朝の直系の子孫でなければならない。
あくまでも説の一つであるが、阿野全成は協力者の一人であったとする説がある。
何の協力者か?
源頼家から将軍位を簒奪し、後に源実朝と呼ばれることとなる弟に将軍位を継がせることの協力者である。阿野全成自身は将軍位を継ぐ資格を有さないが、叔父とあれば無視できないものがある。どのように源頼家から征夷大将軍の地位を取り上げるか具体的な手段は未定ではあるものの、叔父の介在があるのとないのとでは成功率は違うのであろう。
その後、吾妻鏡は謎の記載が繰り広げられる。
建仁三(一二〇三)年六月一日に源頼家が伊豆の奥山にある狩場に到着した。父の源頼朝と同じように巻狩をするためである。蹴鞠は貴族趣味と見做し、歓迎する者がお世辞にも多いとは言えなかったのが鎌倉であるが、巻狩ならば貴族と武士とで共通する趣味であるだけでなく、武芸鍛錬のために推奨されている趣味であるため、源頼家が仲間とともに巻狩に出向くことについては特に何も言われない。先月末に阿野全成を追放したばかりだというのに気軽に巻狩に行くのかという懸念はあったが、そのことについては誰も何も言わなかった。
ここまではいい。
問題はここから先である。
巻狩予定の場所に伊東崎という名の山があり、その山に大きな洞窟がある。おそらく現在の静岡県伊東市にある大室山の洞窟であろう。その洞窟を確かめようと、源頼家は和田胤長に命じて中を探索させた。探索を命じられた和田胤長が洞窟に入っていったのはまだ午前中であったが、なかなか戻ってこない。
和田胤長は夕方になってようやく戻ってきてこう言った。「この穴の長さは数十里もあって、暗くて全く光は無かったです。中には大蛇が一匹いて自分を呑み込もうとしたので刀を抜いて切り殺しました」と。
それから二日後の六月三日、今度は駿河国富士の裾野の狩場へ移ったが、そこでも巻狩ではなく山麓に見つけた洞窟の探索になった。なお、一日の洞窟探索は和田胤長が一人で入っての探索であったが、このときは仁田忠常をはじめとする六名での探索である。
その六名は夜になっても洞窟から出てくることなく、洞窟から出てきたのは翌日の午前であった。しかも、戻ってきたのは六名では無かった。途中で四名が亡くなってしまったというのである。
以下が仁田忠常の供述である。
洞窟の中は狭くて振り返ることができないため前へ前へと進むしかなかったが、真っ暗なので不安でたまらず、やむをえず松明を灯すと顔の前をコウモリが飛び交い、洞窟の地面は水が流れているので足が濡れっぱなしである。途中に大きな川が猛烈な勢いで流れていて渡りたくても渡れないでいて途方に暮れていると、突然光が当たってきて、川の向こうの謎の存在を見たところ、瞬く間に家来のうち四名が亡くなってしまった。仁田忠常は源頼家から頂いた剣を川へ投げ入れたので、命を失わずに帰ることができた。
いったいこれは何なのか?
忘れてはならないのは、これが吾妻鏡に記された、すなわち鎌倉幕府の正史だということだ。仁田忠常の四名の家来が亡くなってしまったのは痛事であることは認めるが、この話は本質的にオカルト話である。本当にあったことという体裁なのでこれ以上は指摘しないが、いったい何が起こったというのか?
吾妻鏡はその後に、下野国で阿野全成が討たれたという話を載せたほかは、源頼家の蹴鞠と、謎のオカルト話が続いている。建仁三(一二〇三)年六月三〇日、七月四日、七月九日と、鶴岡八幡宮で繰り返すようにハトがいきなり地面に転げ落ちて死んでしまったというのだ。
不気味な記事が続いたあと、吾妻鏡は何の前触れもなく一つの記事を載せる。
建仁三(一二〇三)年七月二〇日、源頼家倒れる。しかもかなり症状が重い。
源頼家の症状は七月二三日になっても休まることなく、祈祷を繰り返すも改善する様子は見られず、占わせたところ神の祟りだという。
なお、源頼家が倒れたという知らせは七月二五日に後鳥羽上皇のもとに届いており、その日はさすがに後鳥羽上皇も心配をしたが、二日後には白拍子を集めたり、交野に狩に出たりと、遊興三昧の日を過ごしている。
そんな中、二つの出来事を吾妻鏡は記録する。
七月二五日に阿野全成の息子である播磨公頼全を京都の東山延年寺で見つけ処刑したという連絡が届いた。実際に処刑したのは七月一六日のことである。なお、僧侶である阿野全成の息子を処刑したことが巡りめぐって源頼家の症状を悪化させているのではないかとする噂話も流れている。
八月四日には三浦義村が土佐国守護職に任命された。病床にある源頼家が無理をして任命したのか、それとも源頼家ではない誰かが任命したのか、そのあたりのことを吾妻鏡は記してくれていない。源頼家について書いていることは二つ、一つは月が変わっても源頼家の症状が重いままであること、もう一つは源頼家が病欠していても鎌倉幕府の八月の恒例行事は今まで通り遂行したこと。この二つである。
この二つを経て、八月二七日のこととして、源頼家の症状回復が期待できないことから、源頼家の次の代の相続の取り決めがあったするのが吾妻鏡の記述だ。なお、人口に膾炙されるところでは日本全国六六ヶ国であるが、実際に令制国を数えると六八ヶ国になる。西の三八ヶ国の地頭職を源頼家の弟である千幡が、東の二八ヶ国の地頭職と総守護職を源頼家の長男である一幡が受け継ぐというものであり、合計すると六六ヶ国になってしまって二ヶ国足らないことになるが、そのあたりの釣り合いをどのようにしたのかはわからない。対馬と壱岐を数えずに六六ヶ国とすることもあれば、陸奥国と出羽国を特別視して数えないこともある。また、鎌倉のある相模国や平安京のある山城国、また、興福寺の勢力の強さから国司が国司としての職責を果たすことができないでいる大和国を統治上の特別地域とすることもあるので、一概には言えない。そもそもこのときの二八ヶ国と三八ヶ国の具体的な区分も記録に残っていない。それでも吾妻鏡の記載に従えば、北条時政と江間義時の主導したこの案は多数の支持を得たが、比企能員は一幡が全てを相続するべきという意見であったため、否認とまではいかないものの黙認するという姿勢に終始したこととなる。
以上が吾妻鏡の記載である。
ところが、他の史料を見るとおかしな点が見えてくる。
まず、三浦義村を土佐国守護に任命したのは源頼家の発病前とする記録がある。
また、吾妻鏡によると症状が悪化し続けている状態であるはずの八月一〇日付の源頼家の自筆の般若心経が今も三嶋大社に保管されている。さらに八月二一日には京都の藤原定家のもとに源頼家からの直筆の手紙が届いている。つまり、常に病気に苦しんでいたわけではなく、持ち直したり悪化したりを繰り返していたと推測されるのである。前述の後鳥羽上皇の遊興三昧も、源頼家の体調が回復したという続報があったからだと考えれば特に不謹慎な考えではなくなる。源頼家が急病で倒れたという知らせは建仁三(一二〇三)年七月二五日に第一報が届いたのち、断続的に源頼家の病状が京都に届いていたと考えられ、予断を許さない状況に陥ったという知らせが京都に届いたのは八月二五日のことである。
これは推測であるが、源頼家は自分の症状が悪化していることは自覚していても、意識を失っているわけでもなければ、判断力を喪失しているわけでもない。吾妻鏡では源頼家の弟と息子とで日本国を二分するかのような決断が鎌倉幕府の内部でなされ、比企能員は黙認したとなっているが、実際には源頼家の息子の一幡が鎌倉幕府における源頼家の権利と権力の全てを継承するとなったのであろう。それを吾妻鏡では二分することが決まったかのように改竄したと考えられるのだ。
既に記したように源頼家は常に病床に伏していたわけではなく、完全回復とまではいかなくともある程度の体調回復とはなっていたようで、それなりの政務をとっていたことが確認できている。八月二一日に藤原定家のもとに源頼家の手紙が届いたことと、八月一〇日付の源頼家の自筆の般若心経が現存していることから、八月一〇日頃にはどうにかなるレベルまで回復してきたと推定される。
この頃の京都の記録を追いかけると、鎌倉の情勢はほとんど注目していない。
京都での最大の関心事となっていたのは、比叡山延暦寺や、復活しつつあった南都勢力をはじめとする宗教界の問題である。建仁三(一二〇三)年八月七日、南京衆徒とも吉野悪徒とも呼ばれる大和国の宗教勢力が、比叡山延暦寺をはじめとする天台宗の勢力との騒乱に発展しつつあっただけでなく、熊野や伊勢といった勢力との対立が根深くなっていたのである。さらに、天台内部の争いも根深くなってきており、特に厄介であったのが天台の学生と堂衆との対立である。学生(がくしょう)とは止観や真言といったの仏道を修めた学僧であるのに対し、堂衆(どうしゅ)は仏堂等で雑役に従事した下級僧侶であり、学生(がくしょう)に仕えていた童から堂衆(どうしゅ)に転じた者がいるなど、学生(がくしょう)のほうが堂衆(どうしゅ)よりも格上という認識が成立していた。しかし、こうした格差を黙って受け入れ続けることは難しく、いつ、どのタイミングで対立の末の暴発が起こってもおかしくなかった。
その暴発は、誰も想像すらしないところで発生した。何しろ寺院内の湯屋に入る順番から口論になり、暴動になり、合戦に及ぶまでになったのだから、こんなものいったい誰が制御できようか。記録によると、堂衆の無礼を学生が咎めたことから合戦に及んだとある。堂衆が先に入浴していたところに学生が入ってきて、順番を守れとする堂衆と、学生の方が優先されるべきだとした学生とが争いになったのがきっかけというのだから、学生だからという理由で順番を無視して優先させるべしという特権を求めるのはさすがに下品に感じるが、学生にしてみれば、苦労に苦労を重ねて僧侶としての格を高めてようやく学生になったのであり、その苦労を無視して平等を求められるのは心外であるといったところであろう。
このときの暴動はなかなか沈静化せず、建仁三(一二〇三)年八月二五日に実全が天台座主を辞任するに至った。後任の天台座主には真性(しんじょう)が就任した。真性(しんじょう)は以仁王の子であり後白河院の孫にあたる人物である。理論上は一人の僧侶ではあるが、そのように見る者は誰もいない。皇族であり、かつ、後鳥羽上皇とは従兄弟同士にあたる人物であると見る。このような人物をトップに据えた上で後鳥羽院とのつながりを暗に示すことで強引に天台内部の事態を沈静化させると同時に、大和国の宗教勢力に対しても圧力を示すことでどうにか鎮静化させようとしたのである。
この情勢下である以上、京都内外に住む者のうち鎌倉で何が起こっているかを注視する者は、ゼロではないが際立って多いわけではなかったであろう。
一方で、前述の通り、八月に開催する鎌倉幕府の八月の恒例行事は源頼家不在の状態で開催したのだが、源頼家不在の記録の初出は八月一五日に鶴岡八幡宮で開催した放生会である。例年は源頼家が参加していたが、この年は源頼家不在である。
つまり、八月一〇日から八月一五日までの間に源頼家の容態が予断を許さないものになっていたことが確認できる。
このあたりのことを調べると、八月一五日付の御教書(みぎょうしょ)が出てくる。御教書は三位以上の貴族に仕える者が主人の意思を奉じて発給する文書のことであり、文書を作成するのは貴族本人ではなく、また、扱いとしては私信ということになっているが、貴族本人が承認した上で発給する文書である。正式文書よりは一段下と扱われるが、訴訟においては正式な文書としての効力を有しており、受け取った側は三位以上の貴族の発給した正式文書として保管する。
八月一五日の御教書は、宇佐八幡の大官司職の譲与申請を北条時政が源頼家に取り次いだ際の返信である。前述のように八月一五日は鶴岡八幡宮で開催した放生会に源頼家が欠席した日でもあるため、この御教書を書くにあたって北条時政が源頼家に取り次いだかどうか怪しく、独断で御教書を発給した可能性がある。
北条時政に独断で御教書を発給する権利があるのか?
理論上は存在しない。しかし、事実上は存在する。
鎌倉幕府の組織図における北条時政には御教書を発給する権利などないが、源頼家の実の祖父である、すなわち、病気に苦しむ孫の代わりに祖父が筆を手にしたとするのは許容範囲内なのだ。
そして既に記したように、八月二七日には源頼家の身に何か起こったときの対処として、源頼家の息子である一幡と、源頼家の弟である千幡とで、令制国の分割をするという決定をしているが、その際に主導権を握ったのが北条時政だ。
月末に至っても源頼家の体調は回復せず、かつ、この時代の医療技術ではできることも限られているため、鎌倉幕府としてできるのは加持祈祷だけであった。その代わり、規模は大きかった。
建仁三(一二〇三)年八月二九日の鶴岡八幡宮はその一つのピークであろう。鶴岡八幡宮にて八万四千もの宝塔を奉納し、安楽坊重慶をはじめ二五名の僧侶が読経をしたのである。ただで読経させるなどなく、中原広元、三善康信、二階堂行光といった面々が中心となって、絹織物一〇〇疋、白布二〇〇反、藍摺三〇〇反、色染の皮が二〇枚、コメ四〇石の布施を用意している。
しかし、加持祈祷でどうにかなるような症状ではなかった。九月一日の記事として、鎌倉中が大騒ぎになっているだけでなく、普段は鎌倉から離れて自分の領地に住んでいる御家人達も一斉に鎌倉にやってきていることを記している。無論、源頼家を心配してのことであるが、それだけの理由で鎌倉にやってきているのではない。源頼家の身に何か起こったときの次のことを考えてやってきているのである。
ここで吾妻鏡は奇妙なことを記事にしている。御家人達は叔父と甥の対立があるのではないかと考えているのだ。叔父とは江間義時、甥とは源頼家。この二人の対立がある中での源頼家の突然の発病なのではないかと話をしているのだという。論拠のあることとは言えないが、何か怪しいものを感じていたのであろう。
そして建仁三(一二〇三)年九月二日のできごと、すなわち比企能員の変につながる。
この日、病床の源頼家のもとに若狭局がやってきた。若狭局は比企能員の娘であり、事実上の正妻の地位にある。ただし、吾妻鏡では足助重長と源為朝の娘との間に生まれた女性である辻殿を源頼家の正室とし、若狭局は源頼家の側室の一人として扱っている。
その若狭局が病床の源頼家のもとにやってきて告げたのは、これから一幡と千幡の二人で日本国を令制国単位で二分しようという企みが存在しているという話であり、その話の中心を担っているのが北条時政であるとして、ここで源頼家に対し北条時政の殲滅のための命令を出すよう求めたのである。
病床の源頼朝は比企能員を自分の枕元まで招き、正式に北条時政を討伐するよう命じた。
ところが、この話が北条時房を通じて北条政子の元に届いてしまったのである。北条時政は名越にある北条家の屋敷に戻っているところであり、ただちに馬を走らせて北条時政に追いつかせようとした。
北条家の屋敷に戻っている最中であった北条時政はいったん馬から下りて娘からの書状を目にした後、ただちに馬を引き返して鎌倉の中原広元のもとに向かった。北条時政としては、ここで政所別当である中原広元に話を付けることで自分に有利に話を進めようとしたというところか。なお、北条時政は一人でこうどうしていたのではなく、天野遠景と仁田忠常も北条時政と行動を共にしていたことが判明している。ただし、中原広元と会うのは北条時政一人であり、天野遠景と仁田忠常は外で待機していた。
もっとも、中原広元としては困った話である。ここで北条時政に加勢したとしても、北条時政と袂を分かったとしても、中原広元に残されているのはマイナスだけなのだ。何しろ時代は源頼家の次の時代を真剣に検討すべき時期になってきており、源頼家の息子である一幡が鎌倉幕府を継承するなら一幡の祖父の比企能員が、源頼家の弟である千幡が鎌倉幕府を継承するなら千幡の祖父の北条時政が、その時代の鎌倉幕府のキーパーソンとなることがきまっているのである。
少し前の梶原景時のように鎌倉の御家人達の間の憤怒を一人で集めていた人物への糾弾であるなら、糾弾に乗ることは下品であるものの、今後の鎌倉幕府薙いでの自身の地位だけを考えるとメリットは存在する。しかし、北条時政と比企能員との対立はそう簡単に済む話ではない。
政所として比企能員討伐を要請する北条時政に対し、中原広元の回答は中立に徹するというものであった。自分は政治についてはわかるが軍事についてはわからない。比企能員に対して軍事にどうするかを口は出せない。どうかよく考えてほしいというのが中原広元から北条時政への言葉であった。
北条時政は中原広元の承認、すなわち政所の後ろ盾を得ることはできなかったが、比企能員に対する行動を開始することは決めていた。外で待機していた天野遠景と仁田忠常に中原広元の言葉を伝えると、天野蓮景が軍隊の出動は不要であり、既に老いた身である比企能員の討伐など呼び寄せて殺害すれば終わりだと述べた。
天野蓮景の言葉が過激であったのか、中原広元の承認無しで行動するのはやはり問題があると考えたか、いったん屋敷に戻った北条時政は中原広元を呼び寄せることとした。中原広元にしてみれば、これから何が起こるかわかっている以上、北条時政の元に行って生きて帰ることのできる保証は無いと考えたか、飯富宗長一人だけを引き連れて北条時政の屋敷に向かった。飯富宗長の役割は中原広元を守ることではない。いざというときは中原広元を殺すことである。荷担するにしろ、反対するにしろ、中原広元のみの安全は保証できなくなる。ならばその前に自分を殺害するべしと伝えたのだ。
北条時政は自宅で薬師如来像の開眼供養を開催すると大々的に発表した。目的は源頼家の回復を願ってのものであり、既に鎌倉で著名になっている栄西を指導僧とする式典であることも公表した。北条時政が源頼家の健康回復のために薬師如来像を作らせていること自体は以前から明言しており、タイミング的に不可思議な頃ではない。その式典に北条政子が参加するというのは既に伝わっている。何しろ自分の息子の回復を祈願しての式典なのであるから参加しないという選択肢はない。また、その式典には数多くの御家人が招待されており、その中には比企能員も含まれていた。
なお、比企能員の家臣の中には、北条時政からの招待ということで訝(いぶか)しんだ者も多く行くのを取りやめるか、あるいは、行くならば一族郎党に武装させて同行させるべきと主張する者もいたが、比企能員はその案を拒否。北条時政の怪しさについては否定しないが、ここで武装して鎌倉の街を練り歩くこと自体が不安を増幅させてしまうし、何と言っても源頼家のための開眼供養なのである。ここで娘婿のために物騒な行動を見せるのは多くの反発を招くであろうとした。
それに、北条時政の屋敷で繰り広げられるのは開眼供養だけではないことは容易に想像できた。日本国を令制国単位に二分割して一幡と千幡とに分かつというアイデアは既に出ていたが、その件についての話し合いもあるはずだ。
比企能員は仏事の礼節に則った格好で北条時政の屋敷に出向いた。武装はせず、同行した者も郎等二名、雑色五名という、良く言えば仏事の礼節に則った、悪く言えば不用心な訪問であった。
総門を入り、廊下の沓脱石に上がり、扉戸を通って北側へ行こうとした瞬間、比企能員の身柄が天野遠景と仁田忠常によって取り押さえられ、山裾の竹藪へと連れて行かれ、比企能員はその場で殺害された。
全くの突然のことに慌てふためいたのは比企能員の屋敷の中にいた面々である。
比企能員が殺害されたという知らせは信じることができなかったが、それが事実であると知ると、比企一族として徹底抗戦に努めることが決まり、集められるだけの人員を集めて屋敷に籠もって防戦の準備を始めた。その中には源頼家の息子である一幡もいた。
一方、北条政子は比企能員の謀叛を正式に宣言し、未刻、現在の時制で言うと午後二時頃に比企一族の殲滅を命じ、その声に江間義時、江間泰時、平賀朝雅、小山朝政、小山宗政、結城朝光、畠山重忠、榛谷重朝、三浦義村、和田義盛、和田常盛、和田景長、土肥惟光、後藤信康、後藤朝光、尾藤知景、工藤行光、金窪行親、加藤景廉、加藤景朝、仁田忠常といった面々が呼応してそれぞれが軍勢を組織し、比企能員の屋敷へと集結。一方、比企能員の屋敷の側の抵抗も激しく、戦闘は申刻、現在の午後四時頃まで続き、加藤景朝、加藤景廉、加藤知景、加藤景長といった加藤一族のダメージは激しく交替を余儀なくされた。
一方、畠山重忠の軍刀は凄まじく、比企能員の屋敷内の面々もこれで自分達の運命は終わりだと悟り、一幡と、比企能員の跡取りである比企宗朝の両名を脱走させ、残りの者は屋敷とともに運命をともにすべく、屋敷に火を放って自らの死を選んだ。ただし、女装して逃げようとした比企宗朝は途中で加藤景廉に見つかり、その場で切り殺されてしまった。
同日、北条時政は大岡時親を現地に派遣して比企一族の遺体を検分。併せて、比企能員の舅である渋川兼忠も処刑された。
比企能員は殺害され、比企能員の屋敷は炎に包まれたが、比企能員の変はまだ終わらない。翌日である建仁三(一二〇三)年九月三日、比企能員の仲間の捜索が始まり、ある者は流罪となり、またある者は死を命じられた。比企能員の妻や側室や二歳の男の子は縁故関係にある和田義盛に預けられ安房国への流罪となった。
また、焼け跡となってしまった比企能員の屋敷の捜索が行われた。この時点で源頼家の長男である一幡の消息は掴めていなかった。吾妻鏡では、一幡はここで焼死したとしており、焼け跡へ訪れた大輔房源性は一幡が菊の模様のある小袖を着ていたことを聞き、焼け跡から見つかった遺体のうちの一つに菊の模様の服が一寸、メートル法で言うと三センチメートルほど焼け残っているのを見つけ、一幡の遺体であると考えて焼け残った服を拾い、頭陀袋に入れて高野山へと向かっていった。奥の院に奉納するためである。一方、他の歴史資料の中には少なくとも一一月まで生存していたとしているものもある。
建仁三(一二〇三)年九月四日、小笠原弥太郎、中野能成、細野兵衛尉といった面々が逮捕監禁された。彼らは源頼家の縁故の威力を背景に普段から比企能員と親しくしていており、九月二日の合戦において比企能員の息子たちと一緒だったからである。また、島津忠久はそれまで務めていた大隅・薩摩・日向の三ヶ国の守護職を罷免された。比企能員との連帯責任の結果である。また、加賀房義印は逮捕される前に北条時政の屋敷まで出向いて自首をした。
一方、ここで処罰されたとされている中野能成については特別処置として北条時政の名で所領安堵の書状が発給されており、所領安堵の文書は現存している。中野能成が北条時房に頼み込み、北条時房が父の北条時政に頼み込んで発給してもらったと推測されており、かなり早い段階で北条時政の名で所領安堵が進んでいたことの記録の一つともなっている。
このような混迷の渦中にあって、誰も想像しなかったことが起こった。
建仁三(一二〇三)年九月五日、源頼家の病状が回復したのである。
そこで、この三日間で何が起こったのかを聞いた。
息子の一幡が亡くなった。
比企能員も亡くなった。
比企一族の多くの者が命を落とし、源頼家に親しい人達も命を落としたか、流罪となったか、鎌倉幕府の役職を失った。
これに源頼家は激怒し、和田義盛と仁田忠常の両名に文書で命令を出した。謀反人北条時政の抹殺である。実の祖父であろうと関係なかった。
しかし、この命令を直接伝えるのではなく文書で伝えたのが問題であった。和田義盛のもとに文書を持参した堀親家であるが、和田義盛は怒りに任せて記したとしか推測できない源頼家の文書を扱うのに戸惑い、結局は文書を北条時政に渡してしまった。
北条時政は孫の記した文書に怒り、文書を持参した堀親家を捕まえ、工藤行光に命じて殺害させた。
源頼家の元に届いた知らせは、北条時政の死ではなく、北条時政が使者である堀親家を殺害したという知らせであった。これに源頼家の怒りはさらに増えたが、源頼家は自らの無力を実感せざるをえなくなった。
さらなる悲劇は建仁三(一二〇三)年九月六日に起こった。源頼家が北条時政の殺害を命じたもう一人の人物である仁田忠常が北条時政に招かれたのである。仁田忠常がどこまで理解していたのかはわからないが、仁田忠常と弟達はおそらく覚悟はしていた。しかし、北条時政が仁田忠常を名越の屋敷に招いた理由は比企能員を倒したからであり、言わば北条時政の命令を遂行したからである。ゆえに呼ばれて歓待を受けてもおかしくないと言われればその通りなのである。
仁田忠常が北条時政の屋敷に招かれたがなかなか外に出てこないことを訝(いぶか)しんだ仁田忠常の従者は、仁田忠常の乗ってきた馬を引き連れて、仁田忠常の弟である仁田忠正と仁田忠時の兄弟に報告した。北条時政の命令に従って比企能員を処したように、源頼家の命令に従って北条時政を処すようにしようとしていることが露顕したと考えた二人の弟は、北条時政の屋敷ではなく江間義時のもとに向かうことにした。ここで北条時政と向かい合おうとしても武力を競う時点で既に劣勢にあるだけでなく、そもそも北条時政としても反攻を察知している可能性が高い。ここで北条時政にダメージを与えるとすれば北条時政ではなく江間義時をターゲットとする方がまだ勝算があると考えた。
結論から記すと、その勝算は間違っていた。江間義時はそのとき姉の北条政子と一緒に源頼家の元にいたのである。ただでさえ混迷の渦中であり、源頼家の周辺警護は鎌倉でもっとも厳重になっている。その厳重警備の中に江間義時がいると知った仁田忠正と仁田忠時の兄弟は、勝算ではなく自暴自棄になってしまった。厳重警備に対する弓矢での襲撃である。いや、襲撃未遂である。仁田忠正は波多野忠綱に討ち取られ、自宅へと戻った仁田忠時は台所に火をつけて自ら死を選んだ。
しかも、このとき仁田忠常は生きていたのである。仁田忠常は弟二人が死を迎えてしまったことを知り、自宅も燃えているのを目にして、こうなってしまっては自分も弟達と同じ運命を迎えなければならないと覚悟して御所へと向かい、その途中で加藤景廉に殺害された。
建仁三(一二〇三)年九月七日、亥刻というから現在の時制で言うと午後一〇時頃、源頼家は出家した。このままでは源頼家がいつ暗殺されてもおかしくないと考えた北条政子の考えである。源頼家は出家を躊躇ったが、もはや運命として迎え入れるしかないと悟って出家を選んだ。
ここに、六日間に亘った比企能員の変は終わりを迎えた。
建仁三(一二〇三)年九月一〇日、源頼家の弟の千幡を次の将軍へ推薦することが決まった。ただし、かなり強引な決定であったようで、反発する者が多いであろうという懸念から北条時政の屋敷に千幡を移し、江間泰時と三浦義村の両名が警護に当たった。
同時に、鎌倉幕府の全ての御家人に対し領地は以前のとおり認めることの文書を発給した。ただし、文書の肩書きは遠江守としての北条時政であり、北条時政が将軍の命により発給するという体裁になっている。
九月一二日、平知康をはじめとする鎌倉在中の文人官僚の多くが京都へ戻るように命じられた。ただし、中原広元をはじめ実務担当の文人官僚は鎌倉にとどまっていることから、推測するに、ここで京都に戻っていったのは、源頼家の蹴鞠趣味に付き合ってきた文人官僚達であったはずである。
建仁三(一二〇三)年九月一五日、千幡の乳母である阿波局が北条政子の元を訪問し、千幡の、いや、この日からの名を記すならば源実朝の身を北条政子のもとに預けることを提案した。これまでは祖父の北条時政のもとにいたが、北条時政の妻である牧の方の様子に不安があるというのである。政治的な問題もさることながら、子を守る大人としても、牧の方が何かしらの危害を千幡に加える可能性があると言うのである。北条政子はただちに江間義時、三浦義村、結城朝光を北条時政の屋敷に派遣して千幡の身柄を北条時政のもとから北条政子のもとへと移した。突然のことに驚きを隠せなかった北条時政も、実の娘が我が子を母の手元で育てると宣言した以上どうにもならない。
一応、鎌倉はこれで落ち着きを取り戻したと言える。
しかし、忘れてはならないのは、源頼朝が整備したとはいえ、それでもこの時代の京都と鎌倉との情報は七日間の時間差があること、そして、伝達する情報の正確性は御世辞にも高いとはいえないことである。
京都に第一報が届いたのは九月七日のことである。九月一日に源頼家が病死し、源頼家の後継をめぐって鎌倉幕府の御家人達の間で争いが起こり、源頼家の長男が北条時政に殺害されたほか、源頼家に近い御家人達も殺害されたというのである。
しかも、この第一報を届けたのは鎌倉幕府の派遣した正式な使者なのだ。この使者は鎌倉で起こった事件の全容として前掲の内容を述べた上で、源頼家の弟を次の征夷大将軍に任命するよう朝廷に要請したのである。
これらの京都の記録は、藤原定家の日記だけでなく、近衛家実も、白川伯王や業資王も、同じ内容を日記に記している。
そこで、もう一度鎌倉と京都とのタイムラグを考えていただきたい。
鎌倉から京都まで七日間というのは通常の情報伝達スピードであり、緊急であるために六日間でやってきたというのはわかる。鎌倉幕府からの使者が九月一日時点の情報を持って京都にやってきたというのも理解できる範囲である。
しかし、九月一日時点ではまだ源頼家は亡くなっていないし、比企能員の変もまだ発生していない。源頼家が病気になってから九月一日までの間に鎌倉で殺害された御家人などいないのだ。それなのに、鎌倉幕府からの使者は源頼家の死と幕府御家人の間での騒乱、源頼家の息子の死を告げた上で新たな将軍を任命してもらうよう要請しているのである。これはどう考えてもおかしい。
そこでこのような説が登場する。
九月一日時点で源頼家の症状が限界を迎えており、いつ亡くなってもおかしくない状態であったために、京都に向けて源頼家の次の将軍の任命を依頼する使者を派遣する。同時に、北条時政を真犯人とする一幡殺害計画があり、また、北条時政が絡むかどうかは明言しないものの、比企能員も殺害する計画があったため、使者は京都で、計画が全て遂行された前提で話をした、と。
では、この使者を京都に派遣したのは誰か?
北条政子か江間義時のどちらか、あるいはその両名の共謀であろう。
確証はないが、この後の歴史を考えたとき、この二人が全くの無関係であったというのは考えられないのだ。しかし、証拠が見つからない以上、断定はできない。
北条時政はどうなのかといいう疑念もあるが、この人も無関係ではないにせよ、主犯格の一人とは言えない。比企能員と利益が相反するが、最大の利益享受者となったわけでもない。それに、曾孫を殺害したなどという報告をわざわざ自分が送り出すであろうかという疑念もある。
さて、これまでの流れはあくまでも吾妻鏡に準拠している。別の歴史資料に目を通すと細部で違いが見えてくる。
まず、源頼家の出家を建仁三(一二〇三)年九月七日としているのが吾妻鏡であるが、愚管抄では、息子の一幡を後継者とする前提で八月三〇日の時点で源頼家が出家したとしている。比企能員が殺害されたのは九月二日のことであり、また、北条時政に呼び出されたところを殺害されたという点は愚管抄と吾妻鏡で同じ記載となっているが、その後、北条時政が源頼家とその息子の一幡の身柄を拘束すべく軍勢を派遣し、母に抱かれた一幡は逃走することに成功したものの比企能員の息子達をはじめとする大勢の御家人が討たれたとするのが愚管抄の記載だ。また、仁田忠常の死も愚管抄では九月六日ではなく九月五日としており、仁田忠常を殺害したのは江間義時であるとしている。
そして肝心の源頼家の病気からの回復の日付を、愚管抄は比企一族滅亡の二日後としている。それも突然の回復ではなく出家を境に徐々に回復したのであり、ようやく起き上がることのできた源頼家は自分が将軍でなくなったことは予定通りとして受け入れたものの、息子の一幡が自分の後継者として鎌倉幕府のトップに立っていると思っていたら、一幡は行方がわからなくなり、源頼家の親類縁者でもある比企一族は滅亡したと聞いて激怒し、病み上がりの身体で太刀を手にして立ちあがろうとしたところを北条政子に押さえつけられ、九月一〇日には伊豆の修善寺に押し込められたとするのが愚管抄での記載である。
そして、吾妻鏡によると一幡はこのときに焼死したとなっているが、愚管抄では一一月まで生存しており、一一月三日に北条義時の派遣した刺客によって殺害されて地面に埋められたとしている。
吾妻鏡は北条家にとって都合よく記された歴史書であるが、それでも北条家の暗躍と悪辣さを感じずにはいられない。ましてや北条家への配慮など全く必要ない愚管抄では北条家の行動を遠慮なく書き記している。ただし、愚管抄は日本国の通史たることを前提として著された歴史書であるため事件に対する分量はどうしても少なくなる。それに、いかに慈円が同時代の人物であるといっても、この頃の慈円は前年まで天台座主として比叡山にいた人物であり、その後の記録を追いかけても京都とその周辺にしか滞在していないことが見てとれる。つまり、鎌倉での出来事は伝え聞いたこととして書き記すしかない。
なお、ここで注意すべき点が二つある。
一つは、この頃の北条氏は鎌倉幕府における有力氏族のうちの一つではあるものの、飛び抜けているわけではないという点である。北条政子が源頼朝の正妻であり、源頼家の実母であるという点は誰もが受け入れているが、それと北条家が鎌倉幕府において絶対的権力を持つこととは別の話だ。後世になると北条家こそが鎌倉幕府の主軸であると見做されるようになるが、この頃の北条家は後世の執権職の世襲など想像もできない小さな氏族であった。北条時政が征夷大将軍源頼家の名を用いた書状を発給し、当時の御家人達がその書状をやむを得ぬこととして受け入れているが、北条時政の手による書状の発給は、病床にあって動けない源頼家に代わって、祖父として書状を代筆したのであり、北条時政が実力で手にした権勢ではなかったのである。和田義盛や三浦義村らの行動を見ても、北条家が黒幕ではあるものの、比企一族謀殺については鎌倉幕府の御家人の多くが賛同ないしは黙認があったからできたと考えられるのである。
もう一つの注意点は一点目と相反するように見えるが、鎌倉幕府の統治における北条家の人物として絶対に無視できない人物が一人いるという点である。北条政子がその人である。北条政子が源頼朝の後家であるため、源頼朝に関連する宗教行事に深く関わることは何らおかしくない。しかし、この頃の北条政子はどうやら宗教行事への関連性を契機として、鎌倉幕府の実務官僚達、それこそ中原広元や三善康信といった有力文人官僚達も含めた幕府の実務官僚達を掌握していたようなのである。あるいは、文人官僚達が北条政子を利用した、さらには、北条政子が文人官僚を操り、文人官僚が北条政子を利用するという相互関係があったとも言えるが、鎌倉幕府の文治における北条政子は必要不可欠なキーパーソンとなっていたことは否定できない。
建仁三(一二〇三)年九月七日、後鳥羽上皇は一つの宣言をした。
源頼家死去の奏上を受けて、源頼家の弟に従五位下の位階を与えると同時に征夷大将軍に補任し、併せて、「実朝」の名を与えると決めたのである。
鎌倉と京都との情報のタイムラグがここで機能した。
先に記した通り、鎌倉幕府が源頼家の弟を次の征夷大将軍に推挙したのは九月一〇日になってからである。その三日前に後鳥羽上皇は源頼家の弟、いや、源実朝を征夷大将軍に任命するとしたのだ。
鎌倉にいながら京都で何が起こっているかをリアルタイムで知ることができる現在であれば絶対にできない話であるが、京都と鎌倉との間にタイムラグがあるからこそ、何の問題もない第三代征夷大将軍の誕生となった。
後鳥羽上皇の命じた、位階、役職、そして「源実朝」という名前が鎌倉に届いたのは建仁三(一二〇三)年九月一五日のことである。鎌倉ではあくまでも九月一〇日に出した要請の返信が九月一五日に届いたという体裁であり、絶対にあり得ないとは言い切れないスピードなのが微妙だ。京都と鎌倉との間の情報のやり取りが、片道七日、往復半月というのはこの時代の常識になっていたが、例外として、昼夜問わず馬に乗り続け、それも同じ馬を走らせ続けたのでは疲労の末に動けなくなってしまうので途中で頻繁に馬を乗り換えることで徹夜で移動し続ければ、九月一〇日に出発した使節の返信が九月一五日に返ってくること自体は不可能ではない。あくまでも理論上の話であるが、今回の事態は、理論上でしかあり得ないような無茶を行使するのにやむを得ない状況だ。
また、源頼家のときと違っていきなり征夷大将軍としたのも、征夷大将軍の有する天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)の側面から捉えなければならない。天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)は熱田神宮の宮司の血を引く源頼朝とその子孫に付随する役職である征夷大将軍と紐づいている。源頼朝の死から源頼家の征夷大将軍就任までの間に空白期間があったことの方が異常であり、たとえ位階が低くても、それこそ建仁三(一二〇三)年九月時点の源実朝のように無位無官で元服すら迎えていない年少者であったとしても、源頼朝の子孫にして鎌倉幕府のトップであるという人物に征夷大将軍の官職を与えなければ皇位継承に支障が出る。皇位継承問題を考えるなら、前二者が二位まで位階を上げてから征夷大将軍に就任したことの方が異例であり、建仁三(一二〇三)年の源実朝の征夷大将軍就任の方が正常とするしかない。
視点を鎌倉に移すと、鎌倉幕府としては九月一五日を契機に征夷大将軍源実朝をトップとする組織として再出発を果たすことが可能となったこととなる。しかし、まさにその日は源実朝の身柄は北条時政のもとから北条政子の元へと移された日でもある。
源頼家から源実朝への将軍位を移し、その時に比企一族をはじめとする多くの血が流れたこと、そして、源頼家も出家させられたこと、これらのどこにも平穏な空気など存在しない。
藤原氏は、中で争いながらも外に対しては一枚岩となってきた歴史がある。だからこそ藤原摂関政治はこの国の中軸を二〇〇年以上担い続け、中軸から外れても明治維新まで継続させることに成功した。
一方の鎌倉幕府は、一枚岩でありながら外に敵がいなくなると中で争い始める歴史を刻むこととなる。その歴史の長さがいかほどかは、あえて記すまでもない。
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