剣の形代 4.二代将軍源頼家

 源頼朝の後継者は源頼家と決まっている。ただし、それは源頼朝が五三歳という若さでこの世から退場することを前提になどしていない。

 源頼朝亡き後の鎌倉幕府をどのようにすべきかという点で鎌倉は統一見解を得ることができなかった。鎌倉幕府という仕組みそのものが源頼朝のもとに集った御家人達の組織であり、源頼朝の政治家としての能力に寄って立つところがあまりにも大きすぎたのである。

 また、源頼朝が正二位の位階を持つ上級貴族であるという点も大きかった。源頼朝という卓越した政治家が、朝廷に連なる権威を鎌倉の地で発揮することではじめて鎌倉幕府が成立していたのであり、建久一〇(一一九九)年時点で既に源頼家が仮に父を超える政治家としての能力を有していたとしても、父と違って正五位下という位階的にギリギリ貴族の一員としてカウントされるというレベルの源頼家には、父の振るってきたような能力を発揮する機会すら存在しない。

 何度も繰り返しているが、吾妻鏡は建久六(一一九五)年の記事を最後に三年間の欠落があり、次に記録が登場するのは建久一〇(一一九九)年である。ただ、ここで注意すべきことがある。建久一〇(一一九九)年になればたしかに吾妻鏡の記事も復活するのだが、建久一〇(一一九九)年になってすぐに復活するのではなく復活するのは建久一〇(一一九九)年二月六日になってから、すなわち、源頼朝の死を記していなければならない建久一〇(一一九九)年一月の記事が存在しないのである。

 そこで、タイムラグは存在するが鎌倉から離れた京都にある記録を追いかけることとなる。

 京都における最初の記録は建久一〇(一一九九)年一月一五日のことであるが、この頃はまだ正式な情報ではない。源頼朝が出家したらしい、源頼朝が亡くなったらしいという噂である。

 正式な連絡が京都に届いたのは一月一七日のことであり、鎌倉からの飛脚によって源頼朝の出家が伝わったのである。このときはまだ源頼朝の死が伝わっていない。

 源頼朝の死が京都に届いたのは一月二〇日のことであり、一月一三日に源頼朝が亡くなったというのがその内容だ。ただし、源頼朝の死の知らせについて藤原定家はまたも難癖を付けている。一月二〇日は除目の日であり、まさにこの日の除目で土御門通親が右近衛大将、源頼家が左近衛中将に就任することが発表になったのである。形骸化しているとは言え、武官としての組織図で言えば権大納言土御門通親が武官の序列第二位、源頼家が武官の序列第三位となったことで、理論上、土御門通親は鎌倉幕府の持つ軍事力に対する指揮命令権を手に入れたこととなる。そのため、藤原定家は源頼朝の死を隠蔽した上で自身を右近衛大将とさせ、さらに源頼朝の後継者であることが既に喧伝されている源頼家を自分のすぐ下である左近衛中将としたとして批難を加えている。

 こうした難癖は藤原定家のいつものことであるが、この難癖は無視するべき話だ。


 どういうことか?

 忘れてはならないのは、前年の後鳥羽天皇から土御門天皇への譲位である。

 土御門天皇は三種の神器が揃わない状態で即位した。ただし、公式見解としては三種の神器が揃っている状態での即位ということになっている。

 壇ノ浦の戦いで一度は海中に投じられたものの、引き上げることに成功した八咫鏡(やたのかがみ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)はいいが、壇ノ浦の戦いで海中へと失われた天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は皇室に現存しない。ただし、天叢雲剣の実物は熱田神宮に祀られており、皇室の保有する天叢雲剣は熱田神宮の作った形代(かたしろ)であり、もう一度熱田神宮に形代を作らせるよう命じることは可能である。ただ、熱田神宮からはもう形代があるという答えが返ってくる。熱田神宮の宮司の娘を母とする源頼朝が天叢雲剣であり、源頼朝が就いた征夷大将軍こそこれからの時代の天叢雲剣の形代であるというのだ。

 その源頼朝が命を落とした。ただし、源頼朝は生前に源頼家を後継者とすると公表しており、源頼家が何かしらの公的権威を持たなければ天叢雲剣の形代の継承もできないのだ。

 ただ、ここで源頼家を征夷大将軍としなかったのは、征夷大将軍が天叢雲剣の形代なのではなく、源頼朝の血脈が天叢雲剣の形代であるとする意識もあったからと言えるだろう。征夷大将軍は位階と比べて行使することのできる権力が大きい。それこそ朝廷権力では制御できぬ権力だ。そのような巨大な権力を、実際に武力で日本国の戦乱を鎮めた源頼朝が手にするならまだしも、その息子であるという以外には何もない源頼家が手にするのは問題だと考えたとしてもやむを得ない。征夷大将軍が必要となるのは土御門天皇が退位して次の天皇が即位するときなのだから、それはまだまだ先の話になるはずだ。


 建久一〇(一一九九)年一月の源頼朝の死の知らせは京都を混迷に陥らせたらしく、特に土御門通親への反発は強かったようで土御門通親は二二日に後鳥羽院のもとに避難せざるを得なくなっている。

 現在と違ってこの時代の庶民に参政権など存在しないが、だからといって政治に無関心だなどということはない。いつの時代でも人は多かれ少なかれ政治的な意思や意見を持っており、その意思や意見に基づいて行動している。庶民が政治と無縁であると考えているのは民主主義での敗者だけだ。自分の暮らしへの危機感を強めれば強めるほど、政治的な意見を発し、政治的な行動をとるようになる。ただし、組織化されていなければ各々がどうにかしようと動き出し、収拾が付かなくなる。このあたりは関東大震災直後の自警団を思い浮かべていただければ御理解いただけるであろう。平時からすれば物騒で、非論理的で、全く同意できない行動であるが、今から一〇〇年前を思い浮かべるだけで、自警団のような存在を生み出してしまうだけの混迷は、どの時代も、どの社会にも、日常と背中合わせで実在している。そして、あのときと似た混迷は建久一〇(一一九九)年一月の源頼朝の死の知らせのときにも発生してしまった。源頼朝の突然の死の知らせはまさに危機以外の何物でもなかったのだ。源平合戦とその途中の養和の飢饉、そして木曾義仲の劫略は忘れようとしても忘れることのできない悪夢であり、源頼朝はそれらの悪夢を取り払ってくれた人なのだ。その人が何の前触れもなく亡くなってしまったというのだから、平然していられるほうがおかしい。

 誰もが安寧を求め、誰もが正解を求めようとしているとき、噂は生まれる。一月二四日には土御門通親の右近衛大将拝賀が来月二日に開催されるという噂が流れ、一月二六日にも具体的な噂の内容は不明だが京都市中で噂が跋扈し、多くの庶民がそれぞれに身を守ろうとしたため京都内外が不穏な情勢になった。一月二七日には院中警固に加えて女房らの避難が行われたとあるから、源頼朝の死という大ニュースは相当な混乱を招いたのであろう。

 この動揺のピークは一月二九日に訪れた。今は亡き一条能保とともに京都の守護を担ってきており、このときはたまたま鎌倉に戻っていた掃部頭中原親能が近いうちに上洛し、その後ただちに処置がとられるという噂が流れ、さらに関東から武士達が次々と上洛するという話が広まったことで不穏さは増す一方であった。誰もが混迷に打ち震え、唯一明らかな共通敵として認識できる土御門通親への憎しみが増していく一方であった。土御門通親に対して危害を加えたところで、あるいは土御門通親が命を落としたところで源頼朝が生き返ることなどないのだが、それでも土御門通親への憎しみを集中させていれば不安を一時的にごまかすことができるのだ。土御門通親は命を奪われたわけではないものの、籠もって身の安全を守らなければならなくなったのである。

 藤原定家はこのときの京都市中の庶民の様子を「このところたくさんの人が私財を積んで京都から逃げようとするも、逃げる宛もなく途方に暮れている」とした上で、こう結んでいる。「心中皆臆病か」と。

 藤原定家は臆病と記したが、実際にはそうではない。庶民は政治的な行動を見せはするものの、単独で攻撃的な行動を起こすことは滅多にない。攻撃的な行動を選ぶ集団で、集団になれないなら守備的な行動に終始するのが通例だ。

 なぜか?

 攻撃的な行動というのはその多くが犯罪である。集団心理が働いて暴走することはあっても、個々となったならば、暗殺にしろ、暴行にしろ、それは犯罪であると認識できるし、犯罪に手を染めたあとで生きていけるかどうかを考える余裕も出てくる。後は野となれ山となれという感情にまで陥らない限り、庶民の見せる政治的な行動とは自分の守りに入ることなのだ。攻撃的な行動に対する幻想を持つことはあるが、それは自分以外の誰かがすることであり、自分のすることではないというのが通常だ。


 鎌倉幕府は源頼朝という上流貴族が鎌倉に滞在し、その上流貴族の周囲に多くの御家人が集まって形作られている組織として誕生している。

 そのトップにある人間が、権大納言も経験した正二位征夷大将軍から正五位下左近衛中将に交替したのである。これから先、鎌倉幕府はどうすればいいのか、鎌倉幕府の御家人達はどうすればいいのか、明確な回答を示すことのできる者はいなかった。

 もっとも困惑を少なくする方法は、これまで源頼朝が果たしてきた職務を源頼家が引き受けることである。位階も役職も低いが、何と言っても源頼朝の実の子であり、後継者であると内外に喧伝されていた人物だ。若さと経験不足は否定できないが、他の者がトップに立つよりは理解を得られやすい。

 中断していた吾妻鏡の記事も、建久一〇(一一九九)年二月六日に、源頼家が左近衛中将に出世したことと、源頼朝の果たしてきた地方の治安維持の役割を源頼家が鎌倉幕府の御家人達を指揮することで果たすよう土御門天皇からの命令があったことからはじまる。

 この命令を受け、政所に北条時政、中原広元、三浦義澄、源光行、三善康信、八田知家、和田義盛、比企能員、梶原景時、二階堂行光、平盛時、中原仲業、三善宣衡が集結し、土御門天皇の命令を遂行することを決めた。

 なお、気になるのは政所が存続していたことである。政所を設置できるのは皇族ないしは三位以上の貴族に限定されており、これまでは正二位の貴族である源頼朝がいたから政所が鎌倉にあっても何ら問題なかったが、今はもう源頼朝がいない以上、本来ならば政所を存続させることはできないはずである。ただ、そのあたりのことはクリアしていたであろう。何しろ鎌倉には中原広元がいるのだ。百戦錬磨の貴族達と対等に渡り合ってきた冷徹な人間が政所別当として君臨しているのである。政所から公文所に変更となるがトップである別当の地位は中原広元が今後も継承するという交換条件を朝廷が提示してきたとしても、職掌を減らすような提案を受け入れるわけはない。中原広元のことだから、上級貴族である人物が突然の死を迎えたため、後継者がまだ上級貴族ではないという貴族の家でも政所は存続しているという論陣を張るのはあり得る話だ。

 源頼朝の後継者が源頼家であるという認識は京都でも成立しており、特に後鳥羽院政でのキーパーソンとなっている土御門通親が藤原摂関家と対抗しうる人物として源頼家を考えたようで、そもそもまだ正五位下である源頼家が左近衛中将に就いたというのはかなり異例な話であった。前例が無いわけではないが、その特権を行使できたのは藤原摂関家だけというのがこの時代の人達の認識であり、源頼家が左近衛中将に就いたのは土御門通親のゴリ押しと見られていた。

 土御門通親の本名は源通親である。一見すると同じ源氏として源頼家を厚遇したのかと思えてしまうが、土御門通親は源氏の中でも名門中の名門である村上源氏、一方、源頼家は村上源氏よりはるかに格下と扱われていた清和源氏。清和源氏にとっての村上源氏とは、同じ源氏ではないかという言葉を主張しても、武力でこの国のトップに立っても、財力を手に入れていても敵わない相手である。村上源氏にとっての清和源氏は利用可能な格下でしかなく、源頼家も土御門通親にとっては駒の一つだったのである。土御門通親は、さすがに源頼朝は利用できるなどという相手ではなかったが、経験の浅い一九歳の源頼家であれば利用可能と考えたのだ。


 源頼朝の突然死の知らせが京都を混迷に招いたことは既に記した通りである。それは二月になってある程度鎮静化してきたものの平穏が取り戻せたというレベルにはほど遠いものであった。

 特に後鳥羽院の周辺警護の物々しさは際立っており、土御門通親が自らの身を守るために後鳥羽院に身を寄せたのも、土御門通親への不満を増すことにつながるものの身の安全のためにはやむをえないことと納得されてもいた。

 そんな中、建久一〇(一一九九)年二月一一日に左馬頭である源隆保が自邸に武士を集めて謀議していた事実が明らかとなった。名目的には左衛門尉を務めるほどの有力な武官に警護を務めてもらうというものであったが、その中には讃岐守護を務めるほどの有力な御家人である後藤基清もいたことから騒然となった。

 源隆保も土御門通親と同じく、源姓ではあるが清和源氏ではなく村上源氏である。しかし、源頼朝とは全くの赤の他人というわけではなく、源隆保の母と源頼朝の母が姉妹であるため、源隆保と源頼朝とは従兄弟同士にあたる。源頼朝も源隆保が自分と従兄弟同士であることは把握しており、建久六(一一九五)年に上洛したときに源頼朝は源隆保と面会し、源隆保も源頼朝の石清水八幡宮への参詣時に同行している。

 その源隆保が、武士達を自分の元に集めている。

 これが一つの噂を生み出した。

 源隆保が土御門通親の暗殺を狙っているという噂である。

 本当に源隆保が土御門通親の暗殺を企んだのは本当かどうかわからない。だが、このときの京都は土御門通親のことを許さないとする雰囲気が漂っており、どうにかして土御門通親を処罰すべしという空気が生じていたのである。そこに飛び込んできた、源頼朝とは従兄弟同士にあたる人物の突然の武士の招集の知らせ。土御門通親に対する処罰は願うが自分で処罰をするつもりなどはなく、誰かがやってくれないかと考えているところで飛び込んできたニュースは当時の庶民を熱狂させた。

 ただ、執政者としては看過できない状況である。特に、暗殺されるのではないかと噂されている土御門通親と、土御門通親を匿っている後鳥羽院にとっては許容できることではない。

 さらにタイミングの悪いことに、源隆保が自邸に武士を集めた翌日である二月一二日に鎌倉幕府から、京都の混迷を鎌倉でも把握できていること、混迷下において土御門通親を支持する方針であることの書状が届くと、一気に源隆保に対する支持が反発に変わった。土御門通親を積極的に支持するわけではないが、土御門通親への反発心を隠さないと鎌倉幕府の手が伸びてくると恐怖が誕生したことで、土御門通親の暗殺を企んでいると噂されるようになった源隆保に関係することが命の危機につながるようになってしまったのだ。


 建久一〇(一一九九)年二月一四日、源隆保に対する噂が一つの結末を生み出した。この日、後藤基清、中原政経、小野義成の三名の武士が六波羅在中の鎌倉幕府の雑色に捕らえられ院御所に連行されたのである。これにより源隆保が集めた武力が激減したが、それで源隆保の身に降りかかった不幸が終わるわけではない。

 二月一七日、西園寺公経、持明院保家、そして源隆保の三名が出仕停止。さらに源頼朝の帰依を受けていた僧侶の文覚も検非違使に身柄を引き渡された。

 事態が沈静化したのは二月二六日のことである。この日に鎌倉から中原親能が上洛して騒動の処理を展開したことで京都は平静を取り戻すこととなった。

 この一連の出来事のことを、逮捕された後藤基清、中原政経、小野義成の三名とも左衛門尉であったことから、三左衛門事件という。しかし、ここで人生を破壊されたのは三人の左衛門尉だけではない。三名の貴族と一名の僧侶、つまり、合計七名もの人生が破壊されたことになる。なぜ彼らの人生も破壊されなければならなかったのか?

 三名の貴族について慈円は愚管抄で一つの説を述べている。

 西園寺公経こと藤原公経は一条能保の娘である一条全子を妻としていることから一条能保の娘婿である。

 持明院保家こと持明院保家は一条能保と従兄弟同士の関係にあたり、また、一条能保は持明院保家を猶子としていた。

 そして源隆保は源頼朝の従兄弟であるが、中央政界で地位を築くようになっていったのは一条能保が源隆保を抜擢したことに始まる。

 一条能保は源頼朝との近さを京都における自身の権勢の基盤としており、三名とも一条能保が存在していることで中央政界に取り立てられるようになっていた人物である。

 ここまで一条能保が絡んでくると、今は亡き一条能保に絡んでいることが想定できる。その上で慈円は、一条能保とその息子の一条高能が亡くなったことで一条家の権勢が喪失し、一条家の家人が形勢を挽回するために土御門通親を襲撃することを企てたとするのが慈円の主張する説だ。

 裏にどのようなものがあったかはわからないが、表立った処罰は一部であるが判明している。

 まず、三左衛門の語源となった後藤基清、中原政経、小野義成の三名についてであるが、彼らは鎌倉幕府の御家人でもあるため鎌倉に護送されたのち、鎌倉幕府が身柄を受け取らなかったために京都へと戻された。なお、後藤基清はそれまで讃岐守護であったがこのタイミングでその職を解任されたことは判明しているものの、その他の処罰は無し。残る二名については処罰があったのかどうかの記録も残っていない。そもそも処罰が無かったのかもしれない。

 出仕停止となった三名の貴族については処罰が判明している。西園寺公経と持明院保家の両名は蟄居、源隆保については土佐国への配流が決まった。また、僧侶の文覚は佐渡国への配流となった。


 源頼朝はもういない。

 しかし、源頼朝の意思はまだ生きている。

 大姫の入内にこだわり続けていた源頼朝であるが、その目論見は大姫の死によって潰えた。しかし、誰かを入内させることにはこだわっていた。そして、このときの鎌倉には入内できる女性がいた。

 源頼家の妹である三幡だ。記事が復活した翌月である建久一〇(一一九九)年の三月にさっそく彼女が登場する。なお、吾妻鏡では彼女のことを「乙姫」と記している。

 皇室に嫁ぐ前提であるはずの乙姫であるが、吾妻鏡に記されている乙姫の様子は不穏である。高熱にうなされ重症なのだ。しかも、このときの鎌倉には彼女の容態を診ることのできる医師がいなかった。京都からこの時代随一の医師である丹波時長の派遣を求めるものの、丹波時長からの返答は鎌倉行きを拒否するというもの。もう一度呼び出すために京都に使者を送り、これでもダメなら後鳥羽上皇の院宣を発給してもらうという強硬手段を考えるまでになっていた。

 このあたりのインフラ整備の未然が鎌倉の弱点であった。たとえば平泉は一〇〇年かけて文化都市を創り出し、一一世紀から一二世紀にかけての一大文化都市となることに成功していたが、鎌倉はまだそこまでの歴史は無い。京都は別格として、都市鎌倉は少し前の平泉と比較しても文化面でのインフラが弱かった。道路網はある程度形作られてきたし、防衛については天然の要害という世情の評判を獲得していた。鶴岡八幡宮を中心とする宗教的整備も整ってきていた。しかし、医療や教育といった文化資本はまだまだ弱かった。鎌倉の中で有識者が見つからないために京都から呼び寄せるというのも通例化していたのである。

 鎌倉の提示する条件は決して悪いものでは無かったが、医療や教育を職業とする者に対して京都と鎌倉とどちらで仕事をするかを選ばせたら、多くの者が京都を選ぶというのが、このときの京都と鎌倉との都市としての差であった。ほんの二〇年前であれば、京都と平泉とどちらを選ぶかと問われれば平泉を選ぶと答える者がそれなりにいたのに比べると大きな違いだ。

 皮肉にも、奥州藤原氏を滅ぼして平和を確立したために、かつての平泉の持っていた優位性を鎌倉は提示できなくなったのである。平泉が文化都市として発展していた頃というのは、戦乱に明け暮れる社会にあって平泉は数少ない平和な場所であった。戦乱を逃れる人の受け入れ先として平泉は申し分なかった。一方、源平合戦を終結させ、奥州藤原氏との最終決戦も終わらせ、日本中に平和を取り戻したことで、日本中の全てが戦乱を逃れる必要のない土地になり、平泉のように避難者を受け入れることで文化都市として発展するという選択肢そのものが喪失したのである。日本全体を考えれば喜ぶべきところであるが、都市鎌倉の発展だけを考えれば、日本中が平和になったために鎌倉に来れば平和な日々を過ごせるというメリットを提示することができなくなったのだ。

 それにしても、鎌倉には源頼朝の娘の病状を診ることのできる医師すらいないというのだから、事態は深刻だ。


 ここで一つ注意すべきことがある。

 それは、北条政子の出家の時期。

 夫である源頼朝の死を受けて、北条政子が出家したことは間違いなのだが、何月何日に出家したかが記録に残っていないのだ。

 吾妻鏡の空白の三年間の後の建久一〇(一一九九)年三月五日の記事に、何の前触れもなくいきなり「尼御臺所」、すなわち、出家した北条政子が登場する。

 おそらくであるが、源頼朝の突然の死とほぼ同時、遅くても数日のタイムラグで北条政子は出家したのであろう。それからの北条政子は、常に尼僧姿であり続けることとなる。

 ただし、出家はしても北条政子は隠遁生活に入ったのではない。それどころか、これまで以上に幕政に関わるようになるのである。

 これまで人類は何度も、権力者の配偶者である、あるいは権力者の愛人であるという理由で権力を手にし、権力を行使してきた例を目の当たりにしてきた。北条政子も理論上はそうした人物のうちの一人としてカウントされるべき人物なのであるが、北条政子には一つだけ際だった特徴が存在する。

 統治者としての能力だ。

 その人の能力ではなく、権力者との恋愛関係によって権力を手に入れた場合、その多くは能力の乏しさから政治家として失敗する。しかし、北条政子にそのような失敗例は見当たらない。もっと言えば権力者の失敗を正す側になっている。

 これは北条政子個人の能力に加え、彼女が母として幼い我が子を支えなければならない、亡き夫が作り上げた組織を維持させ発展させなければならないといった使命感が存在していたことを考えるべきであろう。しかも、源頼朝が亡くなったことで鎌倉幕府という組織が瓦解する可能性すら現実味を帯びている状況下で有効となるのは、北条政子という源頼朝の正妻が存命であるという事実だ。源頼朝の意思を継承するという点では鎌倉幕府の誰もが意見の一致を見ている。ここで北条政子が源頼朝の意思の継承を前面に掲げれば、鎌倉幕府の御家人達に瓦解の兆しが見えても統一体として復活するのである。

 その統一体の答えの一つが合議制の成立だ。

 源頼朝が亡くなり、源頼家が源頼朝の後継者となった。人口に膾炙されるところでは、源頼家は統治者としての器になく、ただちに御家人達の合議制による鎌倉幕府の統治が始まったとされる。特に、裁判における源頼家の裁許に問題があり、源頼家の資質に疑念を感じた御家人達が合議制を発足させる契機となったとされている。

 たしかに吾妻鏡の記事を追いかける限りでは、源頼家は心許ない二代目と感じる。だが、それはやむをえないところがある。一般には源頼朝の後を継いで源頼家が鎌倉幕府の第二代将軍に就任したとされているが、源頼家が正式な征夷大将軍に就任するのは源頼朝の死去から三年半を経た建仁二(一二〇二)年のこと。この時点の源頼家は正五位下左近衛中将であり、征夷大将軍に就くことのできる位階ではない。源頼朝の後継者として父の作り上げた組織を相続したものの、鎌倉幕府そのものが上級貴族ゆえに許されている権利を土台として存在している組織であるために、貴族としては下級貴族とするしかないこの時点の源頼家では鎌倉幕府を父と同様に運営する資格そのものを有していないのである。


 しかし、源頼家個人の資質を全否定するところのある吾妻鏡の記載も多少割り引いて考えなければならないところがある。中原広元の尽力があったとは言え政所をそのまま保持し続けることに成功したことと、鎌倉の地にいながら三左衛門事件の対処をしたことは認めねばならない。また、三左衛門事件において土御門通親支持を鮮明に打ち出したことは後鳥羽上皇との関係を考えても適切であったと言える。源頼家が父の地位を継承するのに必要な位階と役職を獲得するという意味でも後鳥羽上皇と接することに意味があったが、それだけではない。忘れてはならないのは、京都と鎌倉との間の情報やりとりは片道七日、往復半月を要するということである。土御門通親に対する反抗心が強まっているタイミングで土御門通親支持を決定し、その回答を京都に送ることで京都を鎮静化させたのは源頼家の功績とも言えるのだ。

 ただ、源頼家がそこまで無能な人間ではないといっても、比べる相手が源頼朝だ。源頼朝がいることが前提となって存在していた鎌倉幕府から源頼朝がいなくなったのだから、誰かが源頼朝の代わりを務めなければ鎌倉幕府は瓦解してしまう。その代わりを務める人物として考えた場合、源頼家は弱い。

 弱いが、だからといって源頼家に代わる人材などいない。鎌倉幕府の中にいないというレベルではなく同時代の日本を探しても一人としていない。

 鎌倉幕府の御家人達はこの問題を解決しようとした。

 源頼朝は征夷大将軍の地位を世襲しようとしたが、現時点の源頼家は征夷大将軍に相応しいキャリアを積んではいない。鎌倉幕府のトップである鎌倉殿であることは認めるが、鎌倉幕府のトップに課せられている職務のうち、権威が必要な職務については源頼家に任せるわけにはいかないという共通認識が生まれた。


 権威が必要な職務、それは、司法。

 武士達が御家人として鎌倉幕府に身を寄せるようになったのは、鎌倉幕府が日本最大の武力集団であることだけではなく、鎌倉幕府に御家人として仕えることで、鎌倉幕府が功績に応じた新たな所領を与えてくれ、また、鎌倉幕府が現時点で武士の持つ所領の保有権の裏付けもしてくれるという理由がある。

 と同時に、別の武士との所領の保有権の争いが生じたとき、源頼朝の持つ権威に基づいた裁決が保有権争いを解消してくれたのだ。

 鎌倉幕府の御家人達は、源頼家から司法権を分離することを画策した。

 吾妻鏡の記載に従えば、建久一〇(一一九九)年四月一日に源頼家の命令で、現在の裁判所に相当する問注所について、大倉御所の敷地外に建設すると決めた。もともと問注所は大倉御所の敷地の中にあったのだが、裁判に持ち込まれるほどの騒動になっている対立関係は問注所の区画に来て顔を合わせただけで、良くて殴り合い、そうでなければ刀や弓矢での争いになることも珍しくなく、大倉御所の中で物騒な場所になっていた。そこで問注所の機能を一時的に三善康信の邸宅に移していたのであるが、それを源頼家の命令で、問注所専用の施設を別途建造することとなったのである。

 ここまでであれば源頼家は特に何ら文句を言わなかったであろう。

 しかし、四月一二日の発表は源頼家を当惑させた。

 北条時政、北条義時、中原広元、三善康信、中原親能、三浦義澄、八田知家、和田義盛、比企能員、安達盛長、足立遠元、梶原景時、二階堂行政の以上一三名の合議により裁判の裁決を下すこととしたのである。

 この一三人の合議制については大河ドラマのタイトルにもなったほど著名であるが、その実態は微妙である。まず、一三人の一人である中原親能は京都にいるため、一三人が全員揃うわけではない。さらに、吾妻鏡の記載に従えば、源頼家が裁決を下すことが認められなくなったわけではない。源頼家の前に直接訴えるのではなく一三名の御家人の誰かが訴えを受け入れた上で、一三人のうち集められることのできる面々で合議をした結果を源頼家が裁決するという仕組みであり、現存する記録の中には源頼家が裁決を下したものも存在している。つまり、源頼家から司法権の全てが奪われたわけではないのだ。

 ただ、源頼家はこの発表に完全に逆らう行動に出た。


 源頼家の起こした行動の前に、このときに選抜された一三名について記しておく必要がある。

 一三名を吾妻鏡の順番に記すと以下の通りとなる。

 北条時政、伊豆国守護兼駿河国守護、六二歳。源頼朝の岳父にして源頼家の祖父。

 江間義時、源頼朝の家子筆頭。三七歳。源頼朝の義弟にして源頼家の叔父。

 中原広元、政所別当。五二歳。

 三善康信、問注所執事。六〇歳。

 中原親能、京都守護。五七歳。源頼朝の流人時代からの知友。中原広元の義兄。京都守護として在京中。

 三浦義澄、相模国守護。七三歳。源義朝の代から仕え続けている源家累代の家人。相模国最大の豪族である三浦一族のトップ。

 八田知家、常陸国守護。生年未詳。源頼朝の乳母である寒河尼とはきょうだい。姉と弟か、兄と妹かは不明。常陸国の大豪族。

 和田義盛、侍所所司。五十三歳。相模国三浦一族の一員で元々は侍所別当であったが、和田義盛の親族に不幸があったときに梶原景時が別当代行を務めることになった隙に別当の地位を奪われ、侍所の二番目である侍所所司となっている。

 比企能員、信濃国守護兼上野国守護。生年未詳。源頼朝の乳母の比企尼の甥で、源頼家の乳母夫。娘若狭局が源頼家の妻であることから源頼家の外戚でもある。ただし、若狭局を源頼家の正妻とする記録と、源頼家の側室の一人であるとの記録とがあることには注意が必要である。

 安達盛長、三河国守護。六五歳。源頼朝の乳母である比企尼の女婿。

 足立遠元、政所寄人。生年未詳。源義朝の代から仕え続けている源家累代の家人。なお、生年不詳であるものの、前述の安達盛長の甥でありながら安達盛長よりも一〇歳以上年齢が上であることは確実のためこの時点で七〇歳を超えているはずである。

 梶原景時、侍所別当兼播磨国守護兼美作国守護。生年未詳。源頼朝側近。愚管抄によると源頼家の乳母夫であるとされる。

 二階堂行政、政所令。生年未詳。源頼朝の母の叔母の子。政所令とは政所の副官である。

 いちおう、一三名中九名が武士、四名が文人官僚であるが、武士とカウントされている足立遠元はすでに問注所の寄人、現在でいう裁判官や検事にあたる役職を勤めており、鎌倉幕府における文人官僚の一人とも言える。また、他の四名が文人官僚であると言っても鎌倉幕府の御家人であることに違いはなく、各人がそれぞれ所領を保有している。例えば三善康信は地頭として備後国太田荘だけで六一三町という広大な所領を保有しており、他の三名について最低でも五〇〇町を上まわる所領を保有していたことが確認できる。それは中央の貴族としてもともと所有していた荘園ではなく、鎌倉幕府に仕え、鎌倉幕府の一員として功績を果たしたことを源頼朝が評価し、その褒賞として与えられたものである。武器を手に戦場を駆け巡ることもなく文人として安全なところにいたと貶す者はいたかもしれないが、この四名の鎌倉幕府における功績を考えると、四名とも、一三名の中に選ばれても誰も文句を言えないものがある。


 武士である九名の本拠地を記すと、伊豆国が北条時政と江間義時の二名、相模国が三浦義澄、和田義盛、梶原景時、安達盛長の四名、武蔵国が比企能員、足立遠元の二名、常陸国は八田知家の一名。すなわち、鎌倉幕府創設の段階で功績のあった人物というだけでなく鎌倉幕府の根拠地とその周辺に本拠地を持つ武士である。源平合戦から鎌倉幕府建設に至るまでの過程を追いかけると千葉常胤をはじめとする千葉氏から誰かが選ばれていてもおかしくないのだが選ばれていない。千葉常胤はこの時点で八〇歳を超えているから年齢を理由に外れるとしても、千葉常胤の子の千葉胤正ならば選ばれていてもおかしくないのだが、一三名の中に千葉氏の名はない。

 年齢を記したので年齢について記すと、最年長の三浦義澄が七三歳、その他にも六〇代や五〇代の面々であり、江間義時がただ一人の三〇代である。大河ドラマのタイトルにもなった一三名であるために、このときの一三名からなる合議体が強固なものであり、鎌倉幕府を合議制によって統率する組織が誕生したと感じられるが、吾妻鏡を追いかけるとそこまで強固な合議体とは想定できない。

 たしかに建久一〇(一一九九)年四月に何かしらの合議体が誕生していたことは間違いない。そうでなければ源頼家が後述するような行動を起こすようになったとは考えられない。しかし、後世の人が思い浮かべるような強固な合議体であったとは考えられないのである。

 なぜか?

 源頼朝の挙兵から一八年間の歴史を振り返り、各人が残した功績や各人が果たした役割を見ると、江間義時、三浦義澄、安達盛長、足立遠元の四名が何らかの責任者として組織運営に関わった記録が存在しないのである。鎌倉方の武士の一員として活躍し、鎌倉幕府の御家人として活躍した記録ならばある。たとえば足立遠元が武士でありながら問注所の寄人として鎌倉幕府に貢献した記録や、三浦義澄が三浦一族を統率した記録などは存在する。しかし、組織運営の一翼を担ったと言いきることができるのは一三名中九名であり、前述の残る四名についてはこのときの鎌倉幕府の運営の根幹を担う合議体に加わるに相応しい実績が存在しないのである。吾妻鏡は後世に記された歴史書であり、吾妻鏡を執筆した時点では鎌倉幕府に必要不可欠な人物として認識され建久一〇(一一九九)年四月時点で既に活躍していたかのように記されても不可解には感じなかったであろうが、後世から眺めると不自然とするしかないのだ。

 喩えて言うなら、企業の取締役会の推移を記した記録を見たときに、後に副社長を務めるほどの人物の名が記されているのを見つけ、さすがに後に副社長になるほどの人物だと感心していたら、よく考えてみると後に副社長になる人物はその頃はまだ係長か課長であり、出世街道を歩み始めてはいたものの、とてもではないがその時点では取締役会に名を連ねるほどの役職では無かったというところか。

 未だ一八歳、それも数え年であるから現在の満年齢にすると一七歳、学齢で言うと高校二年生なのが源頼家だ。その少年をトップとして推戴しなければならない組織は脆いと感じるであろう。その脆さを補うために組織の有力者が集まって一つの合議体を作り組織を支えることにしたというのはあり得る話である。ただ、その人員として吾妻鏡に記されている一三名をそのまま信じるのは危険なのである。


 建久一〇(一一九九)年四月一二日に一三人の合議制が誕生したことに対し、源頼家は反発を見せたとはすでに記したが、では、具体的にどのような反発を見せたのか?

 吾妻鏡の記載を信じれば、到底容認できない反発である。

 建久一〇(一一九九)年四月二〇日、源頼家の側近五名に対する特権が発令されたのだ。ここに記されている特権は二つ。一つは源頼家への目通しは側近五名の誰かを通じてでなければならず、五名以外の者を通じて、あるいは、誰も通すことなく直接源頼家に会うことは許さないとする特権。この特権については、同意はできないものの理解はできる。鎌倉幕府のトップとして繁忙から逃れることのできない以上、自身の政務を減らすためにも誰かを介さなければ面会を許さないというのは、実際に現在のビジネスの現場でも稀に見られる光景であるから、ここまでは理解できる。だが、もう一つの特権は同意もできなければ理解もできない。

 その特権とは、狼藉不問の特権。すなわち、この五名は何をしようと罰せられないだけでなく、被害を訴え出たら被害を訴え出た方が有罪になるというとんでもない特権だ。

 なお、このときの特権を受けたのが五名であることは確実であり、うち三名は小笠原長経、比企時員、中野能成であることがわかるのだが、残る二名は確定していない。吾妻鏡には残る二名のうち一名の名を比企三郎とし、比企時員のことを比企四郎と記しているので、比企三郎は比企時員の兄である可能性が高いが、その人物の名として推定できる者の名として、比企能員の子の比企宗員とする説や、同じく比企能員の子である比企宗朝とする説がある。もう一名については完全にわからず、和田朝盛、細野四郎、そして、北条政子や江間義時の弟である北条時房、いや、この時点では改名前であるから北条時連の名が候補者として挙げられているものの、断定はできないのが現状である。

 誰なのかが断定できないということは四月二〇日に発せられた指令そのものが、あまりにも無茶苦茶で直ちに撤回されたかあるいは死文化した、あるいはそもそもそのような指令がなかったと考えるのが妥当であろう。ただし、源頼家が自分と親しい世代の面々を側近として取り立てていたことは確実で、こののちの資料に登場する源頼家の行動を眺めても、四月二〇日に特権を付与された吾妻鏡に記載されている面々や、付与されたと推測される面々と行動を共にしていることが確実である。

 そして、同じく吾妻鏡の記事において着目すべきことがある。

 それは四月二〇日の司令の後ろ盾となった人物である。

 吾妻鏡はここで梶原景時と中原仲業の二名を源頼家の後ろ盾として記している。すなわち、この時点の源頼家には梶原景時の後ろ盾が存在していたことを吾妻鏡は謳っているのである。それが本当かどうかはわからないが、これから先、鎌倉幕府は源頼家をトップとして運営していく組織になることが確実であることを考えると、早い段階で源頼家と関係を結んでおくことは不合理な話ではない。特に梶原景時は特筆するレベルの武士団を形成しているわけではないばかりか、本拠地である相模国での武士団の規模としては弱小としてもよい。北条家や比企家が源頼家との血縁関係を築き、三浦家や八田家が各々の地域において強大な武士団を形成していることを踏まえると、源頼朝の死によって生じてしまった自らの権力の源泉の枯渇を、何らかの形で補完しておく必要があるのは容易に想像できる。その補完のための手段としての源頼家との接近は考えうる選択肢である。


 一三人の合議制の成立と、その合議制のメンバーに含まれていない五名への特権の付与。

 本来であれば対立すること間違いない構造であるが、この後の記録を追いかけていくとそこまで対立した構図は見られない。一三人の合議制も、五名への特権付与も、そもそも存在しなかったのではないかと言えるほどだ。

 建久一〇(一一九九)年四月二七日、鎌倉幕府は源頼家の名で一つの指令を出している。

 東国における新田開発である。

 荒廃した、あるいは不作であると言った理由で年貢が減ってしまっている土地について、今後もそのまま放置するならば土地管理者としての責任放棄にあたるとして所領没収も考えるというのだから穏当な言葉ではないが、源頼家の名で発令され、中原広元を責任者に任命したこと、また、政策そのものは源頼朝の頃から一貫しており、もっと言えばのちに源実朝も同じ指令を出すので、これは鎌倉幕府初期の普遍の姿勢であったと言える。

 なお、建久一〇(一一九九)年四月二七日は建久から正治へと改元された日であるため、以降は正治で記していく。

 対立した構図が見られないのは、正治元(一一九九)年五月にも見てとれる。まず、五月一六日に東海地方で発生した大規模な地震に対する救済措置を鎌倉幕府として打ち出している。また、五月一九日には源頼家の名で所領の保有権をめぐる裁判の結審をし、敗訴となった者の地頭職を免職としている。救済措置も、裁判の判決も、その内容は穏当なものとするしかなく、仮に源頼家ではない誰かの代筆であるにしても、政治家としての源頼家の資質は特に問題ないように思える内容である。このまま年齢を重ねたならば源頼家は穏当な統治者になったのではないかとする説も存在するのは納得できる内容である。

 さらに注目すべきは、この裁判が鎌倉幕府の内部に留まる裁判ではなかったことである。被告は鎌倉幕府の御家人であるが、原告は鎌倉幕府と無縁の人物であったのだ。にもかかわらず、源頼家の名で鎌倉幕府の御家人を敗訴としたのみならず、地頭職を解職しているのである。

 これを朝廷の側から捉えるとどうなるか?

 源頼家の公正さは信頼できるという評価につながる。

 実際、この頃の後鳥羽上皇の記録を追いかけると、源頼家に対する親近感を隠せない様子が窺える。後鳥羽上皇にとって、源頼朝は後鳥羽上皇にもどうにもできない政界の実力者だが、その後継者である源頼家は後鳥羽院政と良好な関係を築くことのできる人物だと見定めたようなのである。

 かといって源頼家は朝廷に完全に阿(おもね)ったのではない。同様の所領争いにおいて、源頼家はその土地が平家没官領であり、源頼朝の名で正当に与えられた土地であることを確認して、所領の保有権が鎌倉幕府の御家人にあることを認めたところ、朝廷からの訴えを退けている。


 源頼家の名で発令された命令として特筆すべきが、各国の守護の職掌の明確化である。地頭が荘園を管理監督しその年貢を手に入れることのできる役職である一方、守護という役職は明瞭化しがたいところがある役職である。

 ただ、鎌倉幕府を国家運営組織の一部と捉えるから明瞭化しがたいのであり、鎌倉幕府を現在の政党と捉えると、意外とスムーズに理解できる。

 守護とは何かを定義するならば鎌倉幕府が令制国単位に任命する令制国単位における鎌倉幕府の総責任者ということになるが、現在の政党政治における地域でのその政党の責任者と考えると困惑は減る。国家と密接につながっているものの国家運営機関そのものではなく、国家の役職を得ているとは限らない。しかし、発言権は持つし、政党に由来する権威も持つ。その人の発言や行動は断じて無職の妄想や暴走ではない。

 同様のことは地頭にも言える。地頭の場合は荘園管理に付随する年貢徴収権という実利を伴うが、守護が令制国単位ならば地頭は荘園単位、現在の感覚で行くと、守護は都道府県単位で地頭は市区町村単位での、その政党の責任者なのだ。

 ただ、どんな政党であろうと選挙で勝ったならば国家権力に紐づく地位と権威を獲得できる現在と違い、この時代の鎌倉幕府は国家権力に紐づく地位と権威を獲得する明瞭な方法を有してはいない。鎌倉幕府はあくまでも、鎌倉にいる上級貴族の子の周囲を固める人を束ねる組織であって、明確な組織体として存在しているわけではないのだ。そのため、選挙という確実な方法を有する現在と違って、自らの組織を存続させ発展させる方法を模索しなければならない。

 源頼家はその回答の一つを示した。正治元(一一九九)年時点ではその方法こそ最良と言えるであろう回答である。

 すなわち、守護の職務は大番催促と謀坂人および殺害人の検断にあり、その他の職務は国司にあると明言したのである。大判催促はその土地の運営に必要な人員を用意すること、すなわち地方公務員を集めることであり、謀坂人および殺害人の検断とは現在で言う道府県警業務だ。そのどちらもかつては国司に課せられていた責務であるが、年月を経るごとに国司では職掌遂行が困難となり、人員も足らずに治安も悪化するという惨状を招いていた。そこに守護が登場したことで、国司にはできないでいる人員の用意とその人数を活かしての治安維持を鎌倉幕府の出先機関である守護が対応することで、地方での治安維持を鎌倉幕府が対応すると明言したのである。

 さらに、大番催促の中には京都の行政に要する人員と京都の治安維持も含まれる。こうなると現在で言う警視庁だ。首都京都の治安維持も鎌倉幕府が責任を持って対応すると宣言すること以上に、京都内外の人たちの鎌倉幕府への信頼度を増す宣言はない。最悪機を脱しているとはいえ、京都の治安は現在に比べると絶望的に低く、同時代の人も京都の治安の悪さを嘆いていたほどだ。その治安の悪さに鎌倉幕府が真正面から立ち向かうと宣言することは、鎌倉幕府を相続した源頼家への支持を伸ばすにつながったのである。この時代に支持率調査という概念はなく、それに類する記録も存在しないが、この時代に支持率を調査したら、政党支持率としての鎌倉幕府は高い数字を獲得していたであろう。


 こうした源頼家の政治姿勢は、亡き父である源頼朝の政治姿勢を踏襲したものである。ただし、源頼朝が源平合戦の勝利者として、すなわち、源頼朝の行使できる武力でもって権勢を手にしたのに対し、源頼家は父のような戦(いくさ)の勝利者というバックグラウンドを持ち合わせていない。持っているのは源頼朝の正当な後継者であるという一点である。

 そのため、亡き父である源頼朝に逆らうことを源頼家はしていない。

 その中には、源頼朝が執念ともいうべき形で実現させようとしていた源頼朝の娘の入内がある。

 大姫は既にこの世の人ではなくなってしまっているが、源頼朝の娘にはまだ三幡、吾妻鏡の記載では乙姫と記される女性がいたのだ。

 その乙姫の体調はお世辞にも芳しいものではなかったこと、彼女の病状を治すことのできる医師を鎌倉まで呼び寄せようとしたことは既に記した通りであるが、源頼家は父の意志を継ぐため、そして、妹の体調を治すために京都から名医として名高い丹波時長を招くことを考え、そして、正治元(一一九九)年五月七日、京都から丹波時長を招き入れることに成功した。砂金二〇両の報酬も魅力的であったが、丹波時長も法外な報酬を吹っ掛けたわけではない。この時代は高級薬として手に入れることが困難であった朱砂丸を持参しており、その朱砂丸の代金が砂金二〇両なのである。丹波時長としてみれば、高価としても有名であった朱砂丸を使わなければならないほどの病状と反応すれば鎌倉幕府も諦めて引き下がるであろうと考えたのかもしれないが、朱砂丸を使えるだけの資金を鎌倉幕府が用意してしまった以上、丹波時長は鎌倉に行かなければならない。

 ちなみに、朱砂丸とは硫化第二水銀、すなわち水銀と硫黄の化合物であり、天然に採取することができる物質である。実際にその写真を見ると効果のありそうな服用薬にも見える。ただ、現在はこの物質を容易に取り扱うことができない。有害性物質として取扱注意となっている。

 その、現在では有害性物質となっている医薬品を、乙姫は服用した。

 貴重で効き目のありそうな服用薬と見られていたこともあり、丹波時長は五月一三日以降、鎌倉幕府の御家人達から連日の饗応を受けることとなった。また、乙姫の体調についても日に日に回復してきていることが周囲からも見てとれ、五月二九日には乙姫がわずかではあるが食事を摂ることができたため、丹波時長の医療技術の素晴らしさを誰もが感嘆することとなった。

 このときはまだ希望があった。

 だが、六月一二日になると乙姫の容態が急変した。乙姫の目の上の腫れ上がりが酷くなり丹波時長がつきっきりで診ていたが、一四日になって丹波時長は一つの宣告を下すしかなくなった。

 もう長くない。


 その頃京都では、ようやく源頼朝死去に伴う混乱が収束したばかりであった。

 これでようやく落ち着きを取り戻し、しばらくは安泰であると誰もが考えた。

 その安泰を後鳥羽上皇が壊した。

 全ては正治元(一一九九)年六月二一日に花山院兼雅が病気を理由に左大臣を辞職すると公表したことに始まる。

 正治元(一一九九)年六月二一日時点で摂政は近衛基通、太政大臣は空席という体制である。建久七(一一九六)年三月二三日に三条実房こと藤原実房が左大臣を辞職したことで左大臣職がしばらく空席となり、建久七年の政変のあとも左大臣は空席。建久九(一一九八)年に一一月一四日にようやく右大臣花山院兼雅が左大臣に昇格して左大臣職が埋まった。それから七ヶ月での病気を理由とする辞職である。花山院兼雅にとっては悔やんでも悔やみきれなかったであろう。

 後鳥羽上皇は、建久七(一一九六)年に三条実房が左大臣を辞してすぐに左大臣職を埋めたわけではなかったため、このときもしばらくは左大臣職を空席にするものと考えられていた。

 ところが、その予想は早々に裏切られた。

 花山院兼雅が病気を理由に左大臣を辞職した翌日に、後鳥羽上皇は大幅な人事刷新を繰り広げるのである。

 左大臣が不在となったならば、通常は右大臣が左大臣に昇格するところである。だが、右大臣藤原頼実は左大臣を通り過ぎていきなりの太政大臣就任。花山院兼雅の辞職で空席となった左大臣に就任したのは内大臣九条良経。建久七年の政変で失脚を余儀なくされた九条兼実の息子で、建久七年の政変時に失脚はしなかったものの蟄居状態となった九条良経がここに来て左大臣に就任したことで、建久七年の政変の雪解けが始まったこととなる。


 ただし、藤原氏内部の近衛家と九条家の争いはさらに悪化させている。摂政近衛基通の長男である近衛家実が二一歳の若さで右大臣に就任したのである。

 内大臣九条良経が左大臣に就任したことで空席となった内大臣の職位は土御門通親こと権大納言源通親が昇格。ここに後鳥羽院政のキーパーソンである土御門通親が大臣位を帯びることとなった。

 さらに大臣より下の職位に目を向けると、中納言藤原泰通と権中納言源通資が権大納言へ昇格、権中納言平親宗、権中納言四条隆房、権中納言藤原忠経の三名が中納言へ昇格、参議藤原実教が権中納言へ昇格し、九条兼実の甥の九条兼良と、関白近衛基通の次男である近衛道経の両名が参議未経験で権中納言へ就任。

 なお、近衛家実は前年に左近衛大将に就任しているが、これは関白近衛基通が自分の息子に箔を付けるためという側面もあり、内大臣近衛家実が左近衛大将として武力を統率することは現実的な話ではない。ただし、朝廷の武官の組織図としては左近衛大将、右近衛大将、左近衛中将という順番であり、トップである左近衛大将は二一歳の左大臣近衛家実、三番目に位置する左近衛中将は鎌倉に滞在している一九歳の源頼家という体制であるため、その二人の間に位置する右近衛大将土御門通親が朝廷の武力を事実上統率する形が継続することとなる。

 さすがに土御門通親が直接武力を統率するわけではないが、土御門通親が実務能力を高く買っていた権中納言葉室宗頼に検非違使別当と左衛門督を兼ねさせることで、平安京内外の武力に対して土御門通親が強い影響を示すことが可能となった。

 この人事にもっとも怒りを見せたのが、太政大臣藤原頼実である。

 藤原頼実にしてみれば、あと一歩で議政官のトップである左大臣に就任できるところであったのに、左大臣を素通りして太政大臣に祀り上げられてしまったのだ。一月に土御門通親に右近衛大将を奪われ、さらにここに来て念願の左大臣が通り過ぎてしまった。この人事は土御門通親が主導したと考えた藤原頼実であるが、積極的抗議の方法は無かった。どうにかできる抗議、それはボイコットである。太政大臣の職位を手にしたまま太政大臣の職務を放棄し、知行国である土佐国に対する国務も放棄したのである。

 なお、九条良経の左大臣昇格と同時に中宮任子を内裏に復帰させるという話が出たが、内大臣土御門通親が猛反発して中宮任子の内裏復帰の話は白紙撤回せざるを得なくなっている。もっとも、上皇や法皇は内裏に入ることが許されないという鉄則があるため、建久七年の政変で内裏を離れ後鳥羽上皇のもとを離れてもなお中宮のままであり続けている九条任子こと藤原任子は、後鳥羽上皇と行動を共にする義務がある。つまり、後鳥羽上皇が内裏に入ることが許されない以上、中宮任子の内裏復帰も許されない。


 源頼朝によって京都と鎌倉との間の情報伝達が七日間まで短縮されたこともあり、正治元(一一九九)年六月二二日に京都で起こった大幅な人事刷新の情報は六月末までに届く。

 吾妻鏡の記載に従うと、一三人の合議制の一員に選ばれた中原親能が鎌倉に到着したのが六月二五日のことであり、中原親能が京都での正式な人事改編についての詳細な情報を携えて鎌倉にやってきたとは考えられない。ただし、源頼家を自らの権力構造の一員に組み込むことを意図している土御門通親こと源通親から人事予定を聞かされていた可能性があるため、非公式情報として鎌倉に伝えた可能性はある。吾妻鏡に鎌倉に京都での人事に関する情報が伝わったことを記す記録は無いので、これは推測である。

 乙姫の乳母夫である中原親能が京都から鎌倉に戻ってきた翌日である六月二六日、京都から招き寄せた医師の丹波時長が京都へと戻っていった。乙姫の病気を治すことはできなかったが源頼家は最高の礼を以て遇したと見え、馬五頭、旅の途中の食料等、荷物運びの人夫として二〇名、さらに二名の役人と護衛の兵まで同行させるという厚遇である。

 ただし、丹波時長は無念であったろうし、源頼家も兄として、北条政子も母として、諦念を伴った思いであったろう。乙姫は健康を取り戻すどころか近い未来の覚悟を迎えなければならなくなったのであるから。

 その瞬間が訪れてしまったのは、正治元(一一九九)年六月三〇日。乙姫死去。一四歳という短い生涯の終わりであり、この瞬間に娘を入内させるという源頼朝の野望は終わった。北条政子としては、この二年間に二人の娘と夫を失ったこととなる。いや、自身の出家を含めれば俗人としての北条政子も失った人物としてカウントすべきか。

 同日、乙姫の乳母夫である中原親能は出家。ただし、僧体となり寂忍の法名を名乗るようになったものの、中原親能はこの後も幕政に関わり続け、基本的には京都と鎌倉とを行き来する日々を過ごすようになる。

 これは執政者の宿命ともいうべきところであるが、家族の死の悲しみを無視するかのように、為すべき責務が次から次へとやって来る。あるいは、為すべき責務が来るおかげで家族の死の悲しみを少しでも忘れることができる特権と言うべきか。

 その責務が源頼家に押し寄せてきたのは正治元(一一九九)年七月一〇日のこと。三河国で室平四郎重広の率いる強盗集団が暴れ回っているため対処するよう求めてきたのである。源頼家は鎌倉幕府のトップの地位を継承したものの征夷大将軍ではないため朝廷の命令を帯びることなしに独自の軍事行動を起こすことはできないが、左近衛中将という朝廷武官の序列第三位であるため朝廷からの軍事行動要請があった場合は従う義務を持つ。後の時代の概念からすると幕府のトップとは征夷大将軍であり、征夷大将軍は幕府を自由に操ることができるというものに感じるが、鎌倉幕府が誕生してからようやく八年目を迎えたというタイミングであるこの時点では、鎌倉幕府に仕える御家人とは、実質的には鎌倉幕府に仕える武士や貴族であるが、理論上は朝廷の武官第三位である左近衛中将源頼家に仕える武士や貴族ということになっている。彼らは源頼家を通じて朝廷に仕える身ということになっており、彼らは朝廷の命令に従う義務を有している。

 朝廷からの要請に対し、源頼家は安達盛長の長男の安達景盛を三河国に派遣することを決めた。

 ここまでは鎌倉幕府の統率者として正しい決断であったと言える。


 吾妻鏡は安達景盛の派遣以後の源頼家について、同意しがたい行動を書き記している。

 安達景盛を三河国に派遣した隙に安達景盛の愛人を奪ったというのだ。

 以前から源頼家が気になっていた女性であったが彼女は源頼家に全く関心を示さないため、安達景盛を三河国に派遣し、安達景盛が居なくなった隙に中野能成に命じて彼女を小笠原長経の住まいに連れて行き、半ば監禁状態とした上で源頼家が思いを果たしたというのだ。

 このようなことが本当に起こったかどうかはわからない。吾妻鏡は鎌倉幕府の正史であるが編纂の中心は北条家であり、北条家としては源頼家が暗君であったほうが都合良い。もっとも、この時代の人の倫理観は現在と比べものにならないほど低い。というより、二一世紀になるまでの人類の所業は二一世紀の人間にとって看過できないものが多い。源頼家について不当に貶められた記事である可能性もあるが、だからといって源頼家が清廉潔白な人物であったということにもならない。それでも、事実であるならばやはり看過しがたい話である。

 そこで、なぜ安達景盛を三河国に送り込んだのかを改めて考えてみたい。

 安達景盛の父の安達盛長は、伊豆での流人生活をしていたころから源頼朝に仕えていた人物であり、鎌倉幕府の古参の宿老としてもよい。一三人の合議制の一人に選ばれたほどであるから安達盛長に対する周囲からの信頼も厚いものがあったはずである。ただし、この人物に軍勢を率いさせるのは困難とするしかない。安達家は後に鎌倉幕府内の巨大勢力となるが、この時点の安達家ご動員できる武力となると微少とするしかない。また、安達盛長は源頼朝が亡くなった後に出家しており、一三人の合議制には参加したものの武人としての行動はしなくなっている。

 しかし、安達盛長の息子の安達景盛となると話は違う。安達景盛は安達盛長と丹後内侍との間に生まれた子であり、丹後内侍は比企一族の女性である。さらに言えば、丹後内侍は源頼朝の乳母である比企尼の娘であるため源頼朝とは擬似的な従兄弟関係にあたる。つまり、亡き源頼朝の名を活かした上で比企一族の武力を使った武力発動が可能となるのである。安達景盛は安達家ではなく比企一族として三河国に向かったのだ。

 その上で後に比企一族がどのような運命を迎えるか、そして、その後に安達景盛がどのような活躍を見せるようになるかを考えると、安達景盛と関連するこのときのエピソードは疑ってしまいたくなる。

 さらに疑いを強めたくなるのが、吾妻鏡のその後の記述である。

 正治元(一一九九)年七月二六日、安達景盛の愛人を御所の北側の建物に移して幽閉した源頼家が、小笠原長経、比企三郎、和田朝盛、中野能成、細野四郎の五人以外にその建物に来ることを禁止した。

 そして、八月一八日に三河国から鎌倉に戻ってきた安達景盛のことを源頼家は八月一九日に討ち取ろうとしたという。愛人のことで安達景盛が源頼家を恨んでいるという報告が上がり、源頼家は小笠原長経、和田朝盛、比企三郎、中野能成、細野四郎の五人に対し安達景盛を討つように命令したというのが吾妻鏡の記載だ。中心を担うこととなった小笠原長経は軍旗を掲げ安達景盛とその父の住む安達盛長の邸宅に向かおうとしたのだが、その動きを止める人物がいたことで事件そのものが未然に食い止められることとなった。


 その人物は、北条政子。

 彼女は息子の不祥事を母として窘(たしな)めるため、二階堂行光を使者として源頼家に思いとどまるように示した。なお、ヒートアップしている状況を冷静に持っていこうと、中原広元が故事を持ち出して宥(なだ)めている。かつて白河法皇が源仲宗の妻の祇園女御を愛人にしようと源仲宗を隠岐へ島流しにした例もあるというのが故事である。

 それにしても、事実だとすれば何ともみっともない事件である。愛人を横取りしようと安達景盛を三河国に向かわせ、安達景盛のいなくなった隙に愛人を監禁し、安達景盛が戻ってきたと知ったら安達景盛を襲撃して亡き者にしようとし、母親に止められた。これもみっともない事件であるが、被害者になる可能性のあった安達景盛が何ら問題ないとまでは言わない。三河国に派遣されたものの強盗団を指揮している室平四郎重広はおろか、室平四郎重広率いる強盗集団の面々すら見つけることができず、探し出しても見つからなかったという理由で一ヶ月も経たずに鎌倉に帰ってきてしまったのである。逃散したので一時的に三河国の治安回復は成り立ったであろうが、「犯人が見つからなかったので帰ります」のあとで三河国がどうなったかは容易に想像ができよう。事実ならば。

 正治元(一一九九)年八月二〇日、北条政子によってかなり強引な事態終息宣言が出された。北条政子が安達盛長の家に泊まることで、源頼家が安達親子の邸宅を襲撃することは息子が母親を襲撃することになるという状況を用意した上で、安達景盛を呼び出して源頼家に向けた誓約書を出すように命じたのである。安達景盛は源頼家に対して何ら野望を抱いていないという誓約書である。

 なお、この誓約書を源頼家の元に届ける際、北条政子はこうも言っている。「安達景盛を殺そうとしたのは迂闊なことで、とんでもない話だ。近頃の源頼家の様子を見ると世の中の治安維持には役に立っていないし、政治にも飽きて庶民の苦しみを思うことなく、遊女屋で遊ぶのに熱心で他人からの批難も反省しないでいる。重宝している連中は揃いも揃って無能な常識知らずのゴマ擦りばかりで呆れて物も言えない。源氏は源頼朝の一族だし北条家は私の親戚だからと源頼朝は気にかけてくれて、いつでもそばにおいて相談相手にしていたのに今では彼らを優遇することもないばかりか皆を実名で呼びつけて、誰もが恨みを抱いていると聞いている。何事を行うにも、ちゃんと用心してかかれば、末代までも世の乱れはないものだろうに」と。

 ここで一つ補足すると、本作は可能な限り人物の実名を記すようにしているが、当時は実名を呼ぶことが大きなマナー違反であり、また、ルール違反でもあった。源頼家が鎌倉幕府の御家人達を実名で呼ぶのは、面を向かって呼ばれたときだけでなく、自分の名を源頼家が実名で呼んだと知ったときも、それが如何に主君とされる人物の言葉であろうと、かなり強めの不満を生み出すに十分であった。

 後から振り返ると、これがスタートであったと言える。


 鎌倉でゴタゴタがあった頃、後鳥羽上皇は自身の二つの趣味界への傾倒を深めていた。

 一つは和歌、もう一つは熊野詣。

 どうやら正治元(一一九九)年八月頃から、後鳥羽上皇は和歌に本格的にのめり込むようになっていったようで、正治元(一一九九)年八月一四日から九月七日にかけての熊野詣には歌人としても名を残している僧侶の寂蓮を同行させている。なお、現在の古典の教科書では寂蓮よりもはるかに歌人としての名を残すこととなる藤原定家はこのときの熊野詣に同行できなかったようで、京都へと戻ってきた寂蓮から、後鳥羽上皇とともに熊野詣に出向いて帰ってきたことを九月八日に聞いている。また、このときに後鳥羽上皇も和歌を詠んだことを伝え聞いているが、残念ながらこのときに後鳥羽上皇の詠んだ和歌は現存していない。

 もっとも、本当に現存していないのかという説もある。

 後のこととなるが、後鳥羽上皇は二十三名の歌人に和歌を詠ませ、翌年に『正治初度百首』としてまとめている。ここまではいい。問題は、その中に一人、素性不明な僧侶が混ざっているのである。その者の名を「中納言得業信広」という。

 「聞くたびに涙も露もこぼれきてあはれ尽きぬは萩の上風」を詠んだ者の名として中納言得業信広の名が出ているのだが、この人物の素性が不明なのである。中納言得業まではわかる。中納言まで務めた貴族が政界を引退して出家したことを示しており、ここまでであれば珍しくはない肩書きである。

 問題は、「信広」。

 出家後の法名である「しんこう」なのか、それとも出家する前の名である「のぶひろ」なのかわからないし、それ以前に、どれだけ探してもそのような同時代の人物は出てこない。中納言ともなれば公卿補任にその名が記されるはずであるから正治元(一一九九)年時点で存命であり、かつ、貴族としてのキャリアの終わりが中納言もしくは権中納言であった人物を探しても出てこないし、出家後の法名なのかと調べてみても、そもそも後鳥羽上皇に呼び出されるほどの僧侶ともなればこちらもこちらで名前が残っていなければおかしくないのだが、どれだけ調べても信広という名の僧侶は出てこない。

 この点に注目した研究者がいる。山崎桂子氏だ。山崎氏は「中納言得業信広」の正体を後鳥羽上皇としたのである。和歌の世界においては、年齢も、性別も、身分も、国籍も全く関係なく、詠んだ歌の素晴らしさだけでその優劣が決まる。このことは後鳥羽上皇自身も理解している。だとすれば、和歌の世界で自ら詠んだ作品を公平に扱わせるには自分自身が上皇であることがかえって制約を生み出してしまう。上皇の詠んだ歌は他よりも素晴らしいと扱わなければならないというのは許されざる忖度だ。そこで後鳥羽上皇はペンネームを使って自分の詠んだ和歌を他の者と混在させるようにし、公平に判断させることとしたというのが山崎桂子氏の挙げる説である。

 無論、中納言得業信広の正体として他の者を充てる研究者もいる。慈円や雅縁といった僧侶、あるいは九条良経をはじめとする貴族が中納言得業信広の正体であるとする説を唱える研究者もいる。しかし、後鳥羽上皇があれだけ和歌にのめり込み、和歌を詠んだという記録もありながら、実際に詠んだ和歌が記録に残っていないことの理由としてペンネームを使ったことは十分に考えられるのである。


 視点を鎌倉に移すと、正治元(一一九九)年八月までゴタゴタはあったが、その後は平穏であるかのように映っていた。しかし、正治元(一一九九)年一〇月二五日に鎌倉で波乱が沸き起こった。

 一般に「梶原景時の変」と称される梶原景時弾劾事件である。

 その発端は一〇月二五日の結城朝光の言葉にあった。

 結城朝光は源頼朝の乳母である寒河尼を母としているため、源頼朝に対して兄弟に似た親近感があったことは事実であるが、それにしても迂闊な発言であった。亡き源頼朝を偲ぶあまり、侍所で傍輩に対して「昔から私が故実に聞くのには、忠義な侍は、二人の主人には仕えないという。特に源頼朝様には御恩を受けてきた。亡くなられたときの御遺言に従って出家して隠居しなかったことを悔やんで仕方ない。近頃の鎌倉幕府の政務は薄氷を踏むような不安な毎日だ」と語ったのである。

 それでもここまでは問題ないのだが、よりによってこの発言が梶原景時の元に届いてしまい、一〇月二七日に梶原景時が源頼家に対し、結城朝光に謀叛の恐れありと訴え出たのである。

 吾妻鏡の記載に従うと、北条政子の妹で阿野全成の妻である阿波局が、梶原景時が源頼家に対して密告したことを結城朝光に伝えたとある。二人の主人に仕えないと言ったということは源頼家に仕える意思がないと暗に訴えているのだと梶原景時が密告すれば、源頼家は結城朝光を討とうとするであろう。吾妻鏡の記載に従えば源頼家には安達景盛の先例がある。結城朝光とすれば今度は自分にターゲットが向けられたのかという恐怖心が湧き上がる。

 しかし、結城朝光は黙って襲撃を受け入れるような人物ではない。また、絡んでいるのが梶原景時であるということもあり、梶原景時に対する反発心を抱いている者を頼るという選択肢があったのだ。


 その選択肢の最初に浮かんだのが三浦義村である。結城朝光はすぐに三浦義村の屋敷に向かって梶原景時の讒言によって自分が何かしらの処罰を受ける可能性があることを告げると、三浦義村も文治年間からの梶原景時の行動のために命を落とした者の多さを振り返り、このままでは結城朝光だけでなく鎌倉幕府の御家人の多くがこのような讒言で処罰される可能性があると睨んだ。

 さらに三浦義村は和田義盛と安達盛長を招き入れることに成功した。三浦義村は事情を話した上で、梶原景時に対する不満を持つ者を結集させることを試み、そのための署名を集めることを提案。書名の文案を中原仲業に起草させることを提唱した。中原仲業の文章力だけで無く、梶原景時に対する不満の強さも考えると中原仲業を招き入れることに成功したことは大きな意味があった。

 一〇月二八日、錚々(そうそう)たる面々が鶴岡八幡宮の回廊に集まった。吾妻鏡に記載されているとおりに記すと、千葉介常胤、三浦介義澄、千葉太郎胤正、三浦兵衛尉義村、畠山次郎重忠、小山左衛門尉朝政、同七郎朝光、足立左衛門尉遠元、和田左衛門尉義盛、同兵衛尉常盛、比企右衛門尉能員、所右衛門尉朝光、民部丞行光、葛西兵衛尉清重、八田左衛門尉知重、波多野小次郎忠綱、大井次郎実久、若狹兵衛尉忠季、渋谷次郎高重、山内刑部丞経俊、宇都宮弥三郎頼綱、榛谷四郎重朝、安達藤九郎盛長入道、佐々木三郎兵衛尉盛綱入道、稲毛三郎重成入道、藤九郎景盛、岡崎四郎義実入道、土屋次郎義清、東平太重胤、土肥先次郎惟光、河野四郎通信、曾我小太郎祐綱、二宮四郎、長江四郎明義、諸二郎季綱、天野民部丞遠景入道、工藤小次郎行光、右京進仲業など、合計六六名。彼らの梶原景時弾劾を求める署名は連判状となって中原広元に託された。

 ただし、中原広元はその連判状を自分で持ったままにしていた。次に連判状の記録が登場するのは一一月一〇日のことである。つまり、およそ半月に亘って梶原景時弾劾の連判状は中原広元のもとに存在していたこととなる。

 正治元(一一九九)年一一月一〇日の記録も、連判状が中原広元の手元にあり続けていることに対して和田義盛が怒りを見せていることを記す記事である。中原広元も苦悩したであろう、一一月一二日に連判状を源頼家に提出した。しかも、その場には梶原景時もいた。連判状を目にした源頼家はその連判状を梶原景時に手渡し、内容について正しいか否かを申し述べるように命じた。

 梶原景時が連判状を受け取ったときにどのような様子であったかを伝える記録は無い。次の記録は連判状を受け取った翌日の一一月一三日のことであり、梶原景時が子供達や親類を連れて相模国寒川神社へと向かったという記録である。ただし、梶原景時の三男である梶原景茂だけは鎌倉に滞在し続けている。


 鎌倉で梶原景時弾劾が始まっていた頃、建久七年の政変から三年を経て、その際に地位や権力を失った者の名誉回復が始まってきていた。

 名誉回復の目的としては、土御門通親への反発が絡んでいる。また、摂政近衛基通が藤氏長者となり近衛家が藤原氏の主軸として藤原摂関家を領導するようになっていたが、近衛家の増大は脅威になる。本音としては土御門通親の権勢を弱めると同時に藤原摂関家の権勢を抑制するためであるが、名目としては誰も文句を言えない題目が存在する。

 建久七年の政変で地位を失った者の復権である。

 名誉回復の第一段として選ばれたのは正治元(一一九九)年一一月一二日のこと。ただし、そのときの対象者として選ばれたのが建久七年の政変に直接絡んでいるわけではなかった人物である。

 その人物の名は三左衛門事件で蟄居を命じられた西園寺公経こと藤原公経。この日、西園寺公経への処分が解除となり出仕を復活させることとなったのである。後に鎌倉幕府の協力者として承久の乱の後に従一位太政大臣にまで上り詰めることとなる人物であり、このときの処分解除がなければ後の栄達を生み出さなかったどころか承久の乱そのものの影響も無視できぬものがあったろうが、この時点で承久の乱の起こる未来まで見据えることのできる人間などいない。

 しかし、ここで西園寺公経が朝廷に復帰したことの影響は大きな物があった。建久七年の政変よりもより直接的な土御門通親への反発の運動であった三左衛門事件への処分解除が始まったのである。しかも、西園寺公経は一条能保の娘である一条全子を妻としており、一条能保の妻は源頼朝の妹である。そのため、西園寺公経は源頼家と従兄弟同士という関係になり、西園寺公経は鎌倉と強いつながりが期待できる人物となる。

 さらに左大臣九条良経、すなわち、建久七年の政変の後も朝廷の中枢に残った数少ない九条家の貴族に対する特別措置も発令された。建久九(一一九八)年一月一九日に左近衛大将を辞したことで武官としての権威を持たなくなっていたが、一年一〇ヶ月の年月を経て兵仗を賜ったのである。九条良経が何かしらの武官の地位を有していれば独自にボディガードを置くことが許されたが、武官の地位を失ったため、ここで改めて随身を付ける優遇措置がとられたことを意味する。

 ここまで来れば九条家の完全復権も目と鼻の先だ。なお、父の九条兼実が政界に戻るか、あるいは息子の九条良経が父に代わって九条家のトップとして藤原摂関家を渡り歩いていくか、そのどちらになるかはこの時点では不明である。また、内裏から遠ざけられたままである中宮任子についても特段の動きはない。


 朝廷で九条家の復権が見えていた頃、鎌倉では梶原景時が話題を独占していた。

 梶原景時とその家族が鎌倉から発って寒川神社に向かったことは鎌倉中に知れ渡っており、梶原景時に対する反発は必然的に鎌倉に滞在し続けた三男の梶原景茂のもとに向かうこととなる。この梶原景茂が、鎌倉で一人、梶原景時擁護の論陣を張ることとなったのだ。

 正治元(一一九九)年一一月一八日に比企能員の屋敷で蹴鞠が開催され、北条時連、比企時員といった面々だけでなく源頼家も蹴鞠に参加していた。もっとも、蹴鞠は名目でしかない。源頼家の手による梶原景茂の尋問である。源頼家は梶原景茂に対し、弾劾の連判状を梶原景時に渡したはずなのに返事がないことを訊ねるも、梶原景茂からは、連判状に記されている御家人達の弓矢を恐れているので返事が来ないという回答が戻るだけであった。

 その後も梶原景時に対する弾劾は特に大きな動きを見せない。少なくとも一二月八日まで梶原景時は鎌倉を離れていることは判明しているが、特に何かの動きがあったわけではない。

 梶原景時弾劾に対するそれらしい動きを見せたのも正治元(一一九九)年一二月九日のことであるが、それは梶原景時が寒川神社から鎌倉に戻ってきたという記録であり、少なくとも吾妻鏡には梶原景時が鎌倉に戻ってきた以上の記録は存在しない。

 梶原景時弾劾に対する源頼家の処罰が下ったのは一二月一八日のこと。源頼家の決断は梶原景時追放である。梶原景時を鎌倉から追放し、梶原景時の邸宅は分解され永福寺に寄附されることとなった。追放された梶原景時は寒川神社に再び戻ったはずである。鎌倉から追放された梶原景時が直接寒川神社に向かったかどうかはわからないが、梶原景時の次の記録が寒川神社にいる梶原景時なのである。

 年が明けた正治二(一二〇〇)年の一月は、源頼朝が亡くなってから初めての正月である。前年までは源頼朝に向けてであった正月の椀飯の儀礼は、今年から源頼家に向けての儀礼に変わった。一日に北条時政、二日に千葉常胤、三日に三浦義澄、四日に中原広元、五日に八田知家、六日に大内惟義、七日に小山朝政、八日に結城朝光が献上している。なお、七日の小山朝政の椀飯の儀礼の後に中原広元が差配した吉書始めの儀と、二名三組計六名が参加しての弓始めの儀が執り行われ、鎌倉幕府は新年モードから通常業務モードに戻っている。八日の結城朝光の椀飯は、通常業務となっても欠かすことはできないということから執り行われたものと考えられる。椀飯の儀礼を行うか否かは源頼家と自身の近さ、さらには鎌倉幕府内部での自らの地位のアピールの機会であり、一月一日に近ければ近いほど自らの高さを周囲にアピールできる、一日から離れても開催したなら面目は保てるというものなのだ。それでも、いつまでも順番待ちをさせ続けるわけにはいかないと考えたのか、一月一三日に亡き源頼朝の一周忌法要を開催し、盛大な法要とする代わりにこれで椀飯の儀礼の終結とさせた。このあたりのドライさは、源頼家の性格なのか、あるいは後ろで差配している中原広元の手によるものなのか、事務的で淡々としていながらも、誰からも非難の声はあがっていない。そういえば、吾妻鏡の正治二(一二〇〇)年の椀飯の儀に、いてもおかしくないはずの比企能員の記録は確認できない。

 通常業務へと移行して数日を経た一月一五日には源頼家が従四位上に昇叙したという連絡も届き、征夷大将軍に必要な位階を獲得したことに成功し、源頼朝が構想した鎌倉幕府の未来が予定通りに進んでいると多くの人が実感できるようにもなっていた。


 しかし、一月二〇日に風雲急を告げるようになる。

 梶原景時が討ち取られたという知らせが飛び込んできたのだ。

 辰刻というから、現在の時制に直すと午前八時頃、原宗房からの伝令が駿河国から鎌倉に到着した。

 時系列を追うと、梶原景時は寒川神社で陣を構えて防戦準備をしていたが、前日の丑刻、現在の時制では午前二時頃に梶原景時が子供達や従者達と一緒に密かに脱出し、鎌倉幕府への謀反のために京都へ上る動きを見せた。そのため、北条時政、中原広元、三善康信といった面々が御所へ集まり、梶原景時征伐のために三浦義村、比企能員、糟谷有季、工藤行光を始めとする軍隊の派遣を決定。ここまでは鎌倉でも掴めていた情報である。

 ここからが伝令の伝える情報である。

 同日の亥刻、現在の時制での午後一一頃に軍勢は東海道を西に進んでいた梶原景時の一行と駿河国清見関、現在の静岡市清水区興津で衝突し、さらに駿河国の在地の武士も自らの手柄を挙げて鎌倉幕府の中枢に入り込む絶好のチャンスと考え、三浦義村らの率いる軍勢は増大し、梶原景時らは多勢に無勢となった。

 梶原景時の一行も奮戦するも、次々と討ち取られていった。

 梶原景時の三男で鎌倉に滞在していた梶原景茂が吉川小次郎と相討ちになって命を落としたのをはじめ、六男の梶原景国、七男の梶原景宗、八男の梶原景則、九男の梶原景連も乱戦の末に死去。梶原景時と、長男の梶原景季、次男の梶原景高は乱戦の最中に姿をくらましたものの死体となって発見された。ただし、三名とも首が切り落とされていた。

 以上が伝令からの知らせである。

 翌二一日、山中で梶原景時と子供二人の首が見つかったほか、梶原景時一行のうち討ち取られた者の合計が三十三名であったことが判明し、首は晒し首となることとなった。

 正治二(一二〇〇)年一月二三日の夕刻に駿河国の武士達とともに派遣した軍勢が鎌倉に到着し、それぞれが戦いの記録を提出した。記録は中原広元が受け取り、源頼家の前で読み上げるのであるが、このあたりの手順は戦勝の後の儀式のようなものである。

 廬原小次郎が先陣を切って敵に襲い掛かり、梶原景国と梶原景則を討ち取った。

 飯田家義の手先が、梶原景茂の手下の二名を討ち取った。

 吉川小次郎が、梶原景茂を討ち取った。

 渋川次郎の手先が、梶原景時の身内四名を討ち取った。

 矢部平次の手先が、梶原景季、梶原景高、狩野兵衛尉の三名を討ち取った。

 矢部小次郎が、梶原景時を討ち取った。

 三沢小次郎が、梶原景時の共侍を討ち取った。

 船越三郎が、梶原景時の身内の一人を討ち取った。

 大内小次郎が、梶原景時の手下の一人を討ち取った。

 工藤八郎の手先と工藤六郎が共同で、梶原景連を討ち取った。

 これが吾妻鏡にある記録である。

 戦争であることは認めねばならないが、このあたりの記述は残酷な話を繰り広げている。それでいて、討ち取った武士達は喜ばしげな様相である。

 なお、派遣された軍勢の主軸を担っていたはずの三浦義村は同じタイミングで悲痛な、しかし、覚悟をしていた報せを受け取っていた。この日、父の三浦義澄が亡くなったのである。


 梶原景時が討ち取られたが、事件はそれで終わるわけではない。

 正治二(一二〇〇)年一月二四日、鎌倉幕府は安達親長を使者として京都へ派遣した。梶原景時が討ち取られたことを六波羅に伝えることが表向きの目的であるが、もう一つ裏の目的がある。梶原景時が上洛しようとしたということは、京都にも梶原景時の協力者がいた可能性があるのだ。そこで、梶原景時の協力者を見つけ出して捕らえるよう大内惟義と広綱の二名に対し源頼家からの命令が伝えられたのである。なお、吾妻鏡に単に「広綱」とだけ記されている人物は誰なのかは不明。源頼政の末子で建久元(一一九〇)年に逐電した源広綱の可能性もある。

 同日、加藤景廉が梶原景時と親友であったという理由で領地没収となった。

 親友であったというだけで所領没収となったのだから、梶原一族の所領はもっとわかりやすい運命が待っていた。一月二五日、美作国の守護職としての梶原景時とその子の領地が没収された一方、梶原景時討伐に協力した駿河国の武士達に対して鎌倉幕府からの恩賞が与えられた。同日、梶原景時の弟の梶原朝景が北条時政の邸宅に自首し、工藤行光を通して武器を差し出した。一月二六日には糟谷有季が安房高重を捕縛。安房高重は梶原景時の親友であり、梶原景時と行動を途中まで共にしていた後に消息不明となっていたが、消息が判明して糟谷有季の部下たちが捕縛した。

 一月二八日、武田信光が甲斐国から鎌倉に到着。兄の武田有義が梶原景時と共謀して京都に上ろうと行方をくらませたことが報告された。武田信義の四男で武田信義の後継者であった武田有義についての現存する最後の記録であり、その後武田有義がどうなったかはわからない。ただし、甲斐源氏は清和源氏の中でもかなりの有力な氏族であり、武田有義は源頼家に代わって征夷大将軍の地位を狙っていたとも、行方をくらませた後で、京都を経由して九州に赴き、九州で一大武士勢力を結集させて鎌倉幕府に対抗する組織を構築する野望があったともされる。ただし、清和源氏であることが征夷大将軍となる資格と見做されるようになったのはもっと後の時代であり、この時代は、源頼朝とその子孫、より正確に言えば、三種の神器の一つで、壇ノ浦の戦いで海中へと失われた天叢雲剣の生きる形代として、熱田神宮につながる血筋の人物であることが求められていた時代である。つまり、武田有義には征夷大将軍に就くかどうか以前に、源頼朝の手にした立場を継承する資格が無いのだ。


 一見するとあまりにも無謀な計画に見えるが、吾妻鏡によると実際に計画された話だという。また、かなり都合のいい展開が続いたならばという条件が付くが、越後国の城一族の残党や、九州の武士達を武力として期待できるほか、上洛して後鳥羽院のバックアップを手に入れることができれば朝廷の権威を利用できるとの目算も立っていた。これだけ重なれば無謀としか形容できない計画であろうと賭けてみる価値はゼロではなくなる。

 その話が出てくるのが正治二(一二〇〇)年二月二日のこと。この日、源頼家は波多野盛通に命じて、勝木則宗を捕らえさせたとある。勝木則宗は梶原景時の息の掛かった人物であると同時に源頼家の側近でもあり、源頼家のボディガードのような役割も担っていた人物であった。捕縛は波多野盛通だけでなく近くにいた畠山重忠の手も借りて行われ、勝木則宗は抵抗するものの畠山重忠の手によって腕を骨折させられたことで抵抗を断念。捕縛の後に侍所所司、すなわち、侍所の次官の役割を担っていた和田義盛へと預けられることとなった。

 もともと侍所の長官である別当の役職は和田義盛で所司は梶原景時であったのだが、建久三(一一九二)年のどこかで二人の役割は交替させられていた。逸話では、和田義盛が喪に服さなければならなくなり、一日だけ別当にさせてくれと頼んだ梶原景時の言葉を和田義盛が受け入れてしまったところ、梶原景時は一日どころか延々と別当の地位を手放さなかったために役職が交替させられることになったという。しかし、もう梶原景時はいない。長官である別当が不在の侍所では次官である所司の和田義盛が侍所を統べなければならないのである。

 和田義盛が勝木則宗を尋問すると、勝木則宗は武田信光と似たようなことを述べた。梶原景時は九州に赴いて鎌倉幕府に対抗できる一大勢力を築こうとし、そのために途中で京都に寄って後鳥羽院より院宣を賜り、その上で武田有義を、いや、ここは本名である源有義を征夷大将軍に据えることを狙っていたのだという。

 ただし、真偽の程は不明である。何しろ骨折させられているのだ。拷問とは、事実を吐かせる取り調べではなく、尋問する人にとって都合のいい供述を生み出す暴力である。

 なお、和田義盛は二月五日に侍所別当に復帰している。


 正治二(一二〇〇)年二月二二日、中原広元と三善康信の両名によって、梶原景時の鎌倉からの逃亡と上洛未遂が後鳥羽上皇のもとに伝わったこと、この知らせを受けた後鳥羽上皇が御所仙洞で五大明王の護摩炊祈祷を始めたこと、梶原景時の息が掛かっている人物と見られていた芝原長保が自分は梶原景時と無関係であると訴えでたことの知らせが源頼家に上げられた。ただし、梶原景時は播磨守護であったため芝原長保とは上下関係にあること、そして、梶原景時の上洛計画を知っていたことから、芝原長保は小山朝政のもとに囚人(めしうど)として預けられることが決まった。

 それにしても後鳥羽上皇の行動は不可解である。護摩炊祈祷をなぜ執り行ったのか?

 後鳥羽上皇という人はエキセントリックなところのある人でもあるが、梶原景時の行動に後鳥羽上皇が絡んでいた可能性も否定はできないのだ。

 ここで梶原景時という人物のキャリアを振り返ってみると、鎌倉幕府の御家人たちの中で一人だけ異彩を放っていることがわかる。

 何が異彩か?

 梶原景時の本名が平景時ということか?

 確かに梶原景時は平氏である。だが、姓が平である鎌倉幕府の御家人など数え切れぬほどいる。梶原一族の本拠地は相模国鎌倉郡梶原郷であり、本拠地の名を採用するという、この時代の武士によく見られる苗字である。姓と苗字が同じ意味を持つ現在と違い、この時代は姓と苗字に明確な違いがある。苗字はあくまでもアダ名であり、公式文書では姓が用いられる。北条家が実は平氏であるというのは多くの人の知るところであろうが、梶原家もまた、祖先を辿れば桓武天皇に行き着くという桓武平氏であり、梶原景時の本名も平景時である。ただ、鎌倉幕府の御家人には、源平合戦で源氏についたものの本人は桓武平氏であるという人物はゴロゴロしており、その一覧を苗字ではなく姓を用いて記したならば、鎌倉型の軍勢は源氏の軍勢ではなく源氏と平氏の連合軍であったと断じることができるほどだ。

 話を戻すと、それでは、梶原景時と源氏との関係か?

 梶原景時の先祖を遡ると後三年の役で源義家の郎等として東北で清原氏と争った鎌倉景正に行き着くから、源氏との関係は一〇〇年を数える。もっとも、先祖を辿ると源義家の郎党まで遡ることもできる鎌倉幕府の御家人も、これまた数多くいる。その点でも梶原景時は珍しくない。

 異彩なのは、源平合戦後の行動だ。


 梶原景時は石橋山の戦いまで平家の一員として源頼朝を討伐する側にいたのである。筆者は源平合戦時に梶原景時を源頼朝が平家の側に送り込んでいたスパイとし、そして実際にスパイとして申し分ない活躍を見せてきたことを前作で書き記したが、梶原景時はその後も汚れ仕事を一手に引き受けてきたとするしかないのだ。源頼朝のもとに降ったという形式で鎌倉方の一員となったのち、梶原景時が闇の立場で手をかけてきた、あるいは、手をかけないにしても問題に関係してきた者が多い。寿永二(一一八三)年の上総介広常、元暦二(一一八五)年の源義経、文治三(一一八七)年の畠山重忠、こうした問題には必ずといっていいほど梶原景時が絡んでいる。そして、正治元(一一九九)年は自分自身が問題の当事者となった。

 吾妻鏡は梶原景時のことを「文筆に携わらずといえども、言語を巧みにする武士」と評し、そのために源頼朝の引き立てられることとなったとしている。源頼朝としても、武人でありながら文人官僚としての職務もこなせる梶原景時は、裏面での活躍を無しとして考えたとしてもありがたい存在であったろう。建久三(一一九二)年に侍所別当の地位を和田義盛から奪ったときに、喪に服すために職務を離れなければならない和田義盛から一日だけ別当の地位を借り受けるという予定であったのを、そのまま返すことなく別当の地位にあり続けたとするのが吾妻鏡の記載である。ただし、吾妻鏡の建久三(一一九二)年の記録を調べてもそのような記事は見当たらず、後になっていきなり登場する。

 話を侍所別当に戻すと、そもそも鎌倉幕府の人事の中枢を担う侍所別当の地位をそう簡単にやり取りできようか。それも源頼朝の死後ならばまだしも源頼朝が存命中のときに。戦時における和田義盛は侍所別当として計算できるが、平時の侍所別当となると、文武両道での能力を期待できる梶原景時を和田義盛に代えてトップに据えるのは非合理な決断ではない。

 また、梶原景時は京都の貴族と渡り合えるだけの文人官僚としての資質も有しており、本人はその才をひけらかすことなかったが、この時代の貴族の教養一般には精通していたことは源頼朝にとってありがたい存在であった。平治の乱で敗れて伊豆国へと流罪となった後も京都の貴族趣味を隠せなかった源頼朝は、鎌倉方を率いる武士のリーダーとして武人趣味に理解を示しはしたものの、源頼朝は本質的に貴族であり、個人的な趣味の方向も貴族趣味に向いていた。その貴族趣味に付き合うことのできる数少ない鎌倉方の武士が梶原景時であった。もしかしたら、この方面から源頼朝は梶原景時を知り、平家の軍勢に紛れ込ませるスパイとしての資質を見出したのかもしれない。


 愚管抄によると、寿永元(一一八二)年八月に、後に源頼家と名乗ることとなる男児が誕生した際に、源頼朝は梶原景時の妻を男児の乳母にしたとある。このあたりは吾妻鏡の記録と違っており、吾妻鏡では、生後すぐに比企尼の娘で河越重頼の妻が「乳付」となった後、比企尼の娘である平賀義信の妻が乳母になったとしている。また、比企能員の娘が源頼家と結婚しているから比企一族が頼家の後見的立場に選ばれたことからも、源頼朝は自分の後継者となる男児と比企一族との関係とを容認していたことは窺える一方、梶原景時と源頼家との関係について源頼朝が関与していたことは読み取れない。もっとも、吾妻鏡には三年間の欠落があるので、そのタイミングで何かしらの判断が存在していた可能性は否定しないが。

 吾妻鏡では梶原景時の死に至るまでの過程で梶原景時と京都とをつなぐ情報が出てこない。しかし、別方向から眺めると違う情景が見えてくる。源頼家の昇叙の連絡は京都から届いているのだから鎌倉に京都から情報が届かないというわけではなく、情報というものは一方通行では無く双方向であるものである以上、鎌倉から京都にも何かしらの情報が届いているはずである。そこで、この時代の同時代史料ともいうべき貴族の日記を見てみると、このときの梶原景時に関連する出来事を言及したものが見つかる。

 そこでは、新しい将軍として源頼家の弟の千幡、すなわち、後の源実朝を擁立しようと陰謀を働かせたことで鎌倉を追放されたとある。しかも情報は断続的に届いており、第一報が届いたのは正治二(一二〇〇)年一月二日、すなわちまだ梶原景時が存命の頃である。その時点での情報は梶原景時が源頼家に対して、御家人達が源頼家の弟、後の源実朝を主君に頼み、武士達が計略を企んでいると申し入れたために梶原景時が鎌倉を追放されることとなったとあり、その上で、梶原景時は土御門通親を頼って上洛するという話が届いていたのである。

 しかも、土御門通親と梶原景時との間には中原広元がいる。中原広元は武士ではなく文人官僚であり、朝廷中央のキャリアを断念する代わりに鎌倉に身を寄せることを選んだものの、京都での自らの地位の全てを放棄したわけではない。あくまでも京都の貴族の一人であるが、自分の仕える人が京都を離れて鎌倉に滞在しているため、自分も鎌倉に身を寄せている、という体裁であり続けている。そして、京都と鎌倉とをつなぐ情報のパイプラインの一翼を担っている。中原広元が連判状を躊躇したという点を考えたときに無視できない話である。

 さらに着目すべき点が二点ある。一つは以上の流れに北条時政がほとんど登場しないこと、もう一つは、江間義時が全く登場しないことである。何度も繰り返すように吾妻鏡は鎌倉幕府の正史である一方、その時代の鎌倉幕府の実権を握っていたのは北条家であり、北条家にとって都合の悪いことは残さないように編纂して平然としている歴史書が吾妻鏡である。梶原景時に対抗しようと鎌倉幕府の主立った御家人が総結集している場面に北条親子がいないのは不自然としか考えられないのだ。その上で、二君に仕えずと結城朝光が語ったとされる出来事、それを梶原景時の耳に入ったという逸話、それが北条政子の妹によるものであるとする記録、それらは吾妻鏡にしか存在しないことにも着目したい。

 それが何であるかは言わないが、不気味である。


 俗に、源頼家が鎌倉幕府第二代将軍ということになっている。

 後から歴史を振り返ると正しい認識となるが、正治二(一二〇〇)年二月時点では正しくない。どういうことかというと、源頼家はまだ征夷大将軍に就任していないのである。そもそも征夷大将軍が幕府のトップを意味する称号であるとする概念自体が後の時代になって誕生した概念であり、この時点ではまだそのような概念は存在していない。鎌倉幕府自体が上級貴族である源頼朝の周囲に集った面々の集合体という扱いであり、源頼家は源頼朝の後継者であることは誰もが認めるもののこの時点ではまだ上級貴族ではない。

 ただし、朝廷がこの状態を放置していたわけではない。前年一月二〇日に源頼家が左近衛中将に就任したために、源頼家は朝廷の武官組織の一員として、武力を統率することの法的根拠が確立された。一月二〇日はまさに源頼朝の死が京都に伝わった日でもあるため、除目を主導した土御門通親が前もって源頼朝の死を知っていたのではないか、その上で源頼家を取り込んだのではないかという反発を生み出したが、結果だけを見れば土御門通親こと源通親が源頼家に武官の地位を与えたのはファインプレーであったとするしかない。仮に源頼家が武官の公的地位を有していなければ、鎌倉幕府の御家人達の法的根拠が喪失してしまったであろう。

 源頼朝がここまで見据えていたならば大したものだと評するしかない、いや、源頼朝のことだからここまで見通していたとしてもおかしくないのだが、いくら何でも源頼朝が自らの突然の死と同タイミングでの息子の武官としての官職獲得まで画策するとは考えづらい。そこまで考えたとしても源頼朝が朝廷に対して何かしらのアクションを起こすとすれば、窓口となるのは一条能保か吉田経房であって、土御門通親ではない。土御門通親と源頼朝が接点を持ってはいたのは確認できるが、源頼朝の都合に合わせて行動するほど土御門通親は源頼朝の手のひらの上に乗った人物ではない。

 ただ、源頼朝と利害を共通しているならば同調するぐらいはする。

 源頼朝は突然の死を迎えたが、用意周到な人物である。朝廷における自分の意見の代弁者たる一条能保は建久八(一一九七)年に亡くなっており、一条能保の息子で後継者である一条高能も建久九(一一九八)年に亡くなってしまった以上、残る綱は吉田経房ということになるが、吉田経房は一条能保ほど忠実な源頼朝の協力者というわけでなかった。どこか一線を画するところがある人であったのだ。

 そこで土御門通親との接近ということになる。土御門通親であれば、中原広元や梶原景時を通じて連絡をとることも可能だ。ただし、土御門通親は源頼朝の手のひらの上に乗る人物ではないため、交渉はギブアンドテイクとなる。土御門通親にもメリットがあることを示した状態で源頼朝のアイデアに乗ってもらうしかない。

 というタイミングで、源頼朝が亡くなった。中原広元や梶原景時を通じて鎌倉からの交渉を持ちかけることは可能であったが、その梶原景時も亡くなってしまった。土御門通親と鎌倉とを結ぶ線が細くなってしまったのだ。

 その細さがさらに加速してしまったのが正治二(一二〇〇)年閏二月一一日のことである。この日、吉田経房が五八歳という、この時代の平均寿命を超えてはいるものの、まだ老いを危惧するほどの年齢ではない状態での死は、朝廷と鎌倉との線をさらに細くしてしまったのだ。


 梶原景時が粛正されたという知らせを受けたとき、後鳥羽上皇が護摩炊祈祷を執り行ったという記録がある。これを以て梶原景時が後鳥羽上皇とつながりがあった、あるいは後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒を主導して梶原景時を操っていたという説がある。そこまで深く関わっていたとは考えられないものの、何ら情報を得ていなかったとも考えられない。特に、ようやくの思いで院政を構築したと安堵したら、過去三例の院政には存在しなかった鎌倉幕府という存在が登場し、源頼朝の死というニュースだけであれだけの騒動を生み出したのである。後の承久の乱のように打倒とまではいかなくとも何らかのアクションを起こさねばならないと考えていたところで鎌倉での騒動を知り、その騒動が後鳥羽上皇にとって都合の悪い状況に展開しようとしていると知ったのであるから、後鳥羽上皇にできる範囲となると、護摩炊祈祷という選択肢も理解できる範囲内である。

 それに、後鳥羽上皇がエキセントリックな性格の人であるのは否定できないが、同時に後鳥羽上皇の若さも考えなければならない。それも、運命に翻弄され続けてきた人生を歩んできた若者であることを考えたとき、エキセントリックに走らねばならないのも理解できよう。だからこそ、後鳥羽上皇がエキセントリックと対を成すかのような静寂に身を寄せる趣味に没頭したのも理解できよう。

 後鳥羽上皇にとっての和歌は、後鳥羽上皇の没頭できる数少ない静寂な趣味であった。和歌の世界に身を投じることで心の安寧を求めることができたし、この国の伝統に従えば和歌の前には誰もが平等である。皇族であろうと庶民であろうと関係ない、年齢も性別も関係ない、完全な平等が和歌の前には存在する。

 このあたりの行動様式は祖父である後白河法皇の影響も少なからず存在しているであろう。後白河法皇は既に故人となっているが、娘である式子内親王は健在である。


 式子内親王は、現存する和歌こそ少ないものの歌人としても有名であり、藤原定家との関係も深いものがあったことがわかる。治承五(一一八一)年には既に式子内親王のもとに藤原定家が出入りしていたことは判明しており、藤原定家の記録の中に何度か式子内親王のもとを訪問したことの記録がある。ここまではいい。問題は式子内親王の振る舞いだ。

 藤原定家が式子内親王のもとに呼び出され、実際に式子内親王の御所の近くまで向かったのだが、嵯峨の山荘の近くに死人の頭が転がっていた。現在の考えからするとあり得ない物騒な話である。いや、その概念はこの時代の人にも通用する話であるが、死体を放置するなど許されない現在と違い、この時代は死体が放置されていても珍しくない時代になっていた。とは言え、死体を穢れとするこの時代の概念に従うと、貴族の一員でもある藤原定家は死体の転がっている場所に近寄るなど許されない。藤原定家もそのように式子内親王に訴え出たのであるが、式子内親王からの返答は、自分の住む御所には穢れなどないとするものである。これには藤原定家も参内しないわけにはいかない。

 他にも式子内親王は、八条院領を得ようとして八条院やその養女となっていた以仁王の姫宮を呪詛したとの疑いがかけられて出家するまで追い詰められたほか、後白河院の霊託をめぐって洛中からの追放をされかけたことがあるなど、後鳥羽上皇以上にエキセントリックな人である。

 式子内親王はこのような性格の人なのだが、読み上げた和歌は最上の芸術品なのだ。そして後鳥羽上皇は、プラスかマイナスかで言えばマイナス面の評価のほうが強かった式子内親王の和歌の才能を見いだし、初めての御幸に式子内親王の平安京内の住まいである大炊御門邸を選び、式子内親王に百首歌を依頼し、最終的には皇太弟を猶子にすることまで考えるほど信頼したのである。

 後鳥羽上皇にとっての和歌は、その人に対する世間からの評判をリセットするに十分な資質であり、後鳥羽上皇自身の精神安定も担う世界でもあった。それは正治二(一二〇〇)年三月二一日の春日御幸も例外でなかった。摂政近衛基通から宇治の平等院で歓待を受けた後に奈良に到着し、大衆が演じる延年に興じ、東大寺と興福寺を参詣した後鳥羽上皇は、京都への帰路、通常であれば経由地とする宇治を経ることなく水無瀬御所に直行している。水無瀬御所はもともと土御門通親の所有する別荘であったが、後鳥羽上皇が土御門通親から購入し、和歌に本格的にのめり込むための空間として利用することになった建物である。なお、水無瀬御所は承久の乱の後で荒れ果て、その後に御影堂が建立された後、現在は水無瀬神宮となっている。水無瀬神宮は令和五年時点で大阪府唯一の神宮となっている。上皇としての日常を過ごす中にあって、和歌が数少ない心の拠り所となっていたのであろう。


 一三人の合議制が誕生した鎌倉幕府であるが、まず梶原景時が命を落とし、次いで三浦義澄もこの世の人ではなくなっていた。

 一三人の合議制は明瞭な政治機構ではなく、一三名を定員とする会議体なわけでもない。一三名のうち二名が欠けたからと言って誰か二人が補充されるというわけでもなく、二名分の権力が他の者に渡るだけである。

 まず、梶原景時が奪い取ったということになっていた侍所別当の地位は和田義盛の手に渡った。正確に言えば本来の役割に戻った。なお、梶原景時の空席を誰かが埋めたわけではない。

 三浦義澄については、三浦家のトップの地位が三浦義村のもとに移った。ただし、三浦義澄の空席を三浦義村が埋めたわけではない。

 この二点しかない。

 他の配慮はほとんどない。

 合議制に加わるに相応しい人材に欠いているわけではなかった。畠山重忠や仁田忠常、岡崎義実、佐々木四兄弟、そして千葉常胤といった、源平合戦で大きな功績を残し、今も鎌倉幕府の有力御家人とカウントされている人物であっても合議制に新たに加わることはなく、合議制を外から眺めるだけである。

 合議制の一員に加わることができるかどうかは鎌倉幕府の中における序列に直結し、序列が下がると生活に直結する話になる。現在のように年金制度があるならばまだしも、そうでないまま年齢を重ねたならば、自らの所領を保有し、子が生まれ、子を育て、子が元服して自らの所領を受け継いだあとの老後ならどうにかなるが、そうでないなら生活に困窮することとなる。

 先に挙げた岡崎義実がまさにその例である。嫡男であった佐奈田義忠を治承四(一一八〇)年の石橋山の戦いで亡くしてから、老いた身に鞭打って鎌倉幕府のために全てを捧げること二〇年。年齢を重ね自らの人生の終わりを考えるようになったものの、想像以上に長生きしてしまった。家督は孫の岡崎実忠が相続したもののその所領は少なく、亡き息子の供養のための仏寺への寄進を考えたもののそれも叶わぬとあって、正治二(一二〇〇)年三月一四日に北条政子からの配慮によって所領が与えられることとなった。岡崎義実はこの三ヶ月後に命を落とすこととなるが、岡崎義実のこのときの訴えにより、源平合戦で鎌倉方の一員として奮闘した御家人達の老後が考慮されるようになった。

 ただし、ここで一点、新たな問題が発生することになった。

 与えることのできる土地がないのだ。

 梶原景時のように討ち取られた者の所領を与えるという手はあるが、それにも限界がある。岡崎義実のようなケースは例外であると誰もが受け入れている。


 しかし、正治二(一二〇〇)年四月一日の発表は今後の趨勢を大きく変更する内容であった。北条時政が従五位下の位階を獲得した上で遠江守に補任されたのである。北条時政は駿河国と伊豆国の両国の守護であるから、現在の静岡県の東部においては守護として、静岡県西部では国司として、公的な武力行使の権利を獲得したのである。

 北条時政は源平合戦前に京都で勤務したことがあるだけでなく、源義経に代わって京都における鎌倉方の代表者として送り込まれた経緯もある。もっともそれは北条時政の文官としての能力や軍勢指揮の能力によるものではなく、源頼朝の岳父であるという他の御家人にはない源頼朝のとの関係性によるものである。数多くの御家人の中から誰かを源頼朝の代理として選ばねばならないというとき、源頼朝は自分の妻の父であるという理由で北条時政を選ぶのは無難な話であった。また、北条時政は他の武士と違って文官としての能力も持ち合わせており、京都からしてみれば北条時政は御すことのできる人物となる。これまでの北条時政のキャリアを考えても貴族の一員に列せられ、国司に就任するに申し分ない。

 ただ、これだと北条時政が他の御家人より一人だけ浮かび上がってしまうのだ。

 先に、正治二(一二〇〇)年の椀飯の儀礼をするかどうか、するならば誰が先にするかが御家人達の間の序列を意味すると記した。そして、椀飯の儀礼の初日、すなわち一月一日は北条時政であった。源頼家にとっては実の祖父であるから他の御家人と違うといえばその通りであるが、これを危機として喜ぶほど鎌倉幕府の御家人達は安穏としてはいない。

 特に厄介なのが比企一族だ。

 比企一族は、血のつながりがある北条家以上に源頼家との関係性が強い。比企一族と鎌倉幕府との関係を見ると、比企能員が源頼家の乳母夫であるだけでなく、江間義時、すなわち、源頼家の叔父の正妻が比企一族出身の女性であり、その女性は江間義時との間に二人の男児を、すなわち、建久四(一一九三)年に生まれた北条朝時と、建久九(一一九八)年が生年である北条重時の二人を産んでいる。さらに比企一族は源頼家の側近として二名を送り込んでおり、血縁関係を利用して鎌倉幕府の内部で強大な権力を構築したとしてもおかしくなかったのであるが、一三人の合議制が誕生したときに比企能員が加わってはいるものの、比企能員だけでなく比企一族の存在そのものが無視されていることが多い。

 鎌倉幕府の安定を考えるなら、梶原景時が亡くなったことでできた空席を埋めるべく、一三名の中に北条時政と江間義時の親子が加わっているように、比企能員の他に比企一族の誰かを入れるべきであったろうが、そのような話は全くなく、その一方で北条時政が朝廷から官職が与えられている。比企能員は血縁関係で鎌倉幕府の御家人との間の関係性を築いたが、北条時政は源頼朝と血縁関係を結んだ。この違いがここにきて大きく現れることとなったのだ。かといって、北条時政を非難することはできない。北条時政は京都での実績を残してきている人物である。源頼家の実の祖父であることが大きく働いたことはかなり大きな理由であろうが、理論上はあくまでも京都における北条時政の実績が評価されての国司就任なのである。憤怒の感情を抱いても表に出すことは許されなかった。


 また、朝廷からの視点で捉えると、正治二(一二〇〇)年四月一日の人事は複数の意味が重なったものであることが読み取れる。

 鎌倉では北条時政の国司就任が話題になっていたが、京都ではそこまで大きなニュースとなったわけではない。それよりも大きなこととして、参議の坊門信清が権中納言に昇格し、藤原定輔と藤原親雅の両名が新たに参議に任じられたのである。また、権中納言藤原宗頼が太宰権師を兼ねるなど、後鳥羽上皇の近臣の官職が軒並み上昇したのである。新たに遠江守に就任した北条時政が鎌倉幕府の人物であり、また、京都で源頼朝の代理人としての役割を果たしたことは知識として知ってはいるが、この時の北条時政の国司就任はそこまで大きなものとは扱われなかったのだ。

 既存権力である議政官において実質的な権力を握ることになった土御門通親であるが、その官職は内大臣であり、議政官の招集権もなければ議事進行権もない。議政官の中で三番目の高さの官職であるからその発言が無視されることはないと断言できるが、理論上はあくまでも議政官の中の一票でしかない。

 その土御門通親の権力が一気に高まったのが四月一五日のことである。後鳥羽上皇と藤原重子との間に誕生した第三皇子の守成親王を皇太弟とし、同時に、土御門通親こと内大臣源通親が東宮傳(とうぐうのふ)に任命されたのである。さすがに土御門天皇に皇子はいないが、土御門天皇の身に何かあったときに誰が皇位を継承するのかという問題は無視できない。ましてやこの時代の乳幼児死亡率の高さは現在の比ではない。そのことを考えたとき、土御門天皇の弟である守成親王を皇太弟とすると内外に宣言することは皇位継承に大きな意味があった。

 もっとも、土御門通親の権力が高まったのは事実であるが、裏もある。土御門通親は土御門天皇の乳母夫でもあるのだ。土御門天皇が成長し、後鳥羽上皇に逆らうまでは行かなくとも後鳥羽上皇のプレッシャーから脱却して独自の政務を志すようになったとき、土御門通親は乳母夫として大きな権力を行使できる、はずであった。ところが、後鳥羽上皇によって皇太弟が任命された以上、土御門天皇が自らの政治的意思を発揮するようになる前に土御門天皇が退位させられる可能性は高くなる。いかに自分が東宮傳(とうぐうのふ)として守成親王の教育にあたったとしても、天皇に対する影響力という点では乳母夫としての影響力発揮の方が大きい。ちなみに、東宮大夫には権大納言藤原忠経、東宮権大夫には権中納言藤原宗頼、東宮亮には藤原範光、東宮権亮には土御門通光こと源通光が任じられている。土御門通親は自分の子の土御門通光を東宮権亮に据えて土御門天皇の次の時代に向けての足がかりをつけることには成功した。


 一三人の合議制のうち既に二名が命を落としており、かつ、誰かが後を埋めたわけではないので最大で一一名ということになる、はずであった。

 この人数がさらに減る出来事が正治二(一二〇〇)年四月二六日に起きてしまった。この日、安達盛長が亡くなってしまったのである。六六年間の生涯の終わりであった。伊豆国の流人であった頃から源頼朝に仕え、源頼朝のいるところ必ず安達盛長ありと言っていいほどの信頼置ける側近であった。源頼朝より一回り歳上ということもあり、父と兄を平治の乱で亡くして一三歳で流人生活を送らねばならなくなった源頼朝にとっては兄代わりの人でもあった。

 なお、安達盛長は、史料にとっては足立盛長や小野田盛長といった名とする記録もある。

 小野田という苗字は父の苗字である。ただし、安達盛長の父親は小野田を苗字とする人物であることはわかっているものの、父の名として小野田兼広と小野田兼盛の二つの記録がある、すなわち、父親の名がはっきりしていない。一方、安達盛長は藤原北家の一員であり、本名も藤原盛長であることは判明している。また、かつて宮中で女房を務めていた経緯のある丹後内侍を妻に迎えているほどの人物であるので、流人として伊豆国に流されてきた源頼朝に仕えることがなかったとしても、名も無き一地方官僚として人生を終えることにならなかったであろう。ただ、ここまで名を残す人物となることもなかったであろう。

 足立盛長という記録であるが、同じ「あだち」の書き間違いであるものの、当たらずとも遠からずというところである。安達盛長には藤原遠兼という兄がおり、藤原遠兼の子、すなわち安達盛長の甥として足立遠元が系図に存在している。足立遠元は武蔵国足立郡を根拠地とするため足立の苗字を名乗るようになったことを踏まえると、安達盛長が足立を苗字としてもおかしくはないのだが、ただ、同時代史料にその名は登場しない。同時代史料で安達盛長の名の記され方を探すと「藤九郎」、すなわち、九男である藤原氏という記され方が一般的であること、奥州合戦後に奥州合戦後に陸奥国の安達郡を所領とするようになったため安達を苗字とするようになったことを考えると、この人は人生のほとんどの場面で苗字を使わず、奥州合戦後になってはじめて苗字を使うようになったこと、その苗字がたまたま甥と同じ読みの「あだち」であったことから、安達盛長ではなく足立盛長という間違った名が記されてしまったというところであろう。

 正治二(一二〇〇)年四月二六日に安達盛長が亡くなり、既に述べたように中原親能は出家後も京都と鎌倉とを頻繁に往復する形で幕政にかかわることを選んだため一三人の合議制にほとんど関与できなくなっていることから、一三人の合議制は一年ほどで九人合議制になってしまったのである。


 一三人の合議制が早々に九名へと減ったこと、そして人員の入れ替えをしていないこと、すなわち、永続的な組織体ではなく一時凌ぎ牽制の末の妥協でしかないことは、一三人の合議制そのものへの懸念を抱いている人にとって絶好の攻撃材料であった。

 特に源頼家にとって最高の攻撃材料であった。

 もともとは源頼家から司法権を奪うところからスタートしたはずの合議制であるが、源頼家は司法権の奪還を目論むようになったのである。この時代は司法権と検察権と警察権が一体化している時代でもあるため、司法権の奪還とは警察権の獲得も意味する。最低でも都市鎌倉における治安維持と犯罪者の処罰、拡大して捉えるなら日本列島全域に、源頼家をトップとする司法権を確立することを目論んだのだ。

 その嚆矢は正治二(一二〇〇)年五月一二日の指令である。この日、源頼家が念仏を禁じ、念仏僧の袈裟を焼くという所業に出たのだ。

 吾妻鏡によると、同じ黒色を身に着けていることに源頼家が怒ったとある。源頼家が黒色の束帯を身に付けているのは従四位上の位階を朝廷から得たためであり、その一点に目を向けても特別なことと扱われるべきところであるのに、勝手に出家をして僧体となった者が自分と同じ黒色を身につけているのが気に食わないというのだ。比企能員は源頼家の指令をそのまま遂行すべく、念仏を唱えていた一四名の僧侶を集め、彼らの袈裟を剥ぎ取って政所の橋で燃やしたという。ただし、僧侶のうちの一人である称念は自分の袈裟が燃やされるというタイミングで比企能員に訴え出て、どういうわけか袈裟が燃えることなく、称念は燃えなかった自分の袈裟を手にして立ち去ったとある。

 では、称念は比企能員に対してどのような訴えをしたのか。

 「以前から俗人の束帯と坊主の黒衣は同じ色を使っているのに、今になってなぜ禁止するというのか。だいたい現在の社会を見ても、仏法も、政治も、どちらも滅亡が近いと言えるが、それでも称念の袈裟は燃えることなどない」というのが訴えである。

 この出来事だけを切り取ると、源頼家と、源頼家の悪法に従った比企能員の両名に対して、正義である称念に奇跡が起こって悪が成敗されたという構図が出来上がる。実際、称念もこのエピソードを広く訴えることで自らの正義を広く喧伝することができたであろう。


 ただ、忘れてはならないのは、この出来事が吾妻鏡の記事であるという点である。吾妻鏡は鎌倉幕府の正式な歴史書である一方、編纂時の権力者である北条家を称揚するために源頼家をはじめ北条家にとって都合の悪い人間を必要以上に悪し様に記している歴史書であるということである。

 対象が念仏を唱える僧侶であるという点に目を向けると宗教弾圧ということになるが、弾圧する対象が存在し、実際に弾圧したというのは、悪の権力者を描写するときの実にわかりやすい構図である。現在においても、学生デモや環境保護デモ、あるいは反政府デモがあり、そうしたデモを弾圧する権力者というのはマスメディアにとって絶好の報道対象であり、悪の権力者を打倒せよという世論を喚起しやすい。ただし、そのマスメディアの意見に乗る人だけは。

 現在の社会を思い浮かべていただきたい。デモをはじめとする社会運動に対する意見は必ずしも好意的なものばかりではない。デモの振りまく迷惑に翻弄される庶民という姿は世界の至る所で目にできるし、デモに対する反感も珍しくない。そうでなくとも称念の言葉は現在の反政府デモの思想に似たところがあり、時代を嘆くだけ嘆き、時代の権力者を叩くだけ叩いて、自分だけが正義の人として君臨するというのだから、熱心な支持者以外は反感を抱くに十分であろう。

 吾妻鏡に従えば、源頼家は称念ら念仏を唱える僧侶を弾圧したことになる。しかしそれは、執政者の判断として間違っているとは言い切れないのだ。現在と同等の言論の自由は藤原道長の時代まで遡らねば存在せず、この時代の言論の自由は現在と比べものにならないほど低い。しかし、現代人が想像するよりは言論の自由があり、この時代の言論の自由の範囲内で僧侶たちは活動していた。ただ、その内容が迷惑極まりなく、活動そのものも迷惑であった。要は現在の選挙カーや街頭演説のようなものだ。源頼家が迷惑を感じている庶民の想いに応えたならば、それはそれで正しい行動である。

 ただ、政治家としての力量を考えると、どうしても見劣りしてしまう。単純明快な弾圧であるがために反発も生み出しやすい。源頼朝と同レベルを求めるのは酷であるとは言え、陰謀蠢(うごめ)く京都の朝廷での日々を過ごしている政治家ならば選ばなかった手段であったとも言える。


 源頼家の政治判断で最悪なものとして著名な出来事が起きたとされているのが、正治二(一二〇〇)年五月二八日の裁決である。所領をめぐる争いにおいて、係争中の地図の中央に線を引いて結審としたという出来事だ。

 これについて吾妻鏡の記事を追いかけると以下の通りとなる。

 陸奥国葛岡郡の新熊野神社が自分の坊領地と他領地との境界線を訴え、双方の文書を持った上で、付近一帯の管理権をもつ惣領地頭である畠山重忠の結審を望んできた。しかし、畠山重忠は武士同士の争いならばともかく朝廷に由来する神社のかかわる所領争いであることから自分の裁量範囲を超えているとし、一三人の合議制の一人である三善康信に話を上げ、三善康信から源頼家の裁許を求めた。

 その判決の日が五月二八日である。源頼家は差し出されてきた境界付近の地図を見て、自分で筆をとり、墨で地図の真ん中に線を引いた後、土地の狭い広いは運不運だと思って諦めること、このようなことは現地調査など不要であること、今後も境界争いは今回のように結審すること、それに納得いかないなら裁判を起こすな、と述べたという。

 何ともムチャクチャな話であるが、よく調べてみると、ムチャクチャなのは源頼家の判断ではなく、吾妻鏡に挿入された逸話の方になる。

 どういうことか?

 矛盾点が多すぎるのだ。

 まず、陸奥国に葛岡郡はない。ただし、葛岡という地名は最低でも三ヶ所、現在の宮城県大崎市、仙台市青葉区、宮城県柴田郡柴田町で確認できる。また新熊野神社に関連する地名となると宮城県仙台市太白区も関連する。そして、これが吾妻鏡自身の矛盾なのであるが、これより一一年後の建暦元(一二一一)年四月二日の記事として、陸奥国長岡郡小林新熊野社が登場する。つまり、葛岡郡の所領争いそのものが、どこか別の土地での所領争いについて地名の記載を誤ったと言えるのである。それも意図的に。

 どうして意図的と言えるのか?

 理由は明白で、源頼家が各地から寄せられてくる所領争いに対して現地調査を命じた記録が多々登場するのである。それも、何年何月何日に誰をどこに向かわせたかという記録が各地に残っているのだ。こうなると、所領争いで現地調査など不要と言い放った吾妻鏡での源頼家と、他の記録に残る源頼家との間に違いが出てくる。これで仮に実際の地名を吾妻鏡に記録として残したならば、その地に残る源頼家からの調査命令に関する記録と不整合が起きてしまい、吾妻鏡の記載は誤りであるということになってしまう。

 だが、実在しない土地についてならばどうか?

 源頼家の記録など残っているわけがない。なぜならそんな名前の土地は存在しないのだから。

 そもそも源頼家の元に所領争いの訴訟が寄せられてくるケースというのは、源頼朝から源頼家への代替わりを狙った土地の権利関係の清算、さらには土地の権利の改変に限定されているとしていい。そして、源頼家が現地で調査を命じたのは父の源頼朝の頃にどのような判断が下されていたかという確認であり、その目的も徹頭徹尾現状維持であった。源頼朝に由来する所領の保有権を源頼家も認めるという形式の裁決にするために苦心していたのである。

 吾妻鏡に記されている源頼家のこのエピソードはムチャクチャだとしたのは、他の記録に残る源頼家とあまりにも乖離しているからである。


 宋銭利用禁止は九条兼実が承諾した経済政策であり、九条兼実が失脚した後も継続する必要はない。しかし、後鳥羽院政が成立しても宋銭禁止は有効のままであり続けており、宋銭の利用が一般化して宋銭の蓄財が珍しくないほどに有名無実化していようと、宋銭禁止というのは絶好の攻撃材料となっていた。

 どういうことか?

 土御門通親が長年主張し続けてきた主張であるために九条兼実失脚後も続いていたというのもあるが、気に食わない相手を攻撃するのに用いる絶好の材料でもあったのだ。

 特に有効に働いたのが宗教を相手にする場合である。源頼家のようにわかりやすい形での宗教弾圧は、単純明快であると同時に、その単純明快さが弾圧そのものの正当性を喪失させることとなる。このあたりは先に記した通りであるが、それでは京都の朝廷はどのように接したのか?

 有名無実と化している法を持ち出すのである。要は宋銭禁止だ。寺院の関係者が宋銭を使っている場面を取り押さえることができれば、寺院に対する宋銭禁止処分の確認を持ち出すことができる。

 寺院というのはただでさえ資産を溜め込むのが通例化している組織である。出て行くカネも多いが入ってくるカネはもっと多いのだ。これまでは穀物や布地、砂金をはじめとする貴金属、そして土地を寺院は蓄財してきたが、宋銭流通により蓄財資産として宋銭が増えてきた。それでも「これは貨幣ではなく銅の塊(かたまり)である。この寺院では仏像を鋳造するのに必要な銅を集めており、信者にも銅の寄付を募っているのは認めるが、それは資産とするためではない」と言い訳されたらそれまでだ。現在と違い、貨幣に手を加えることは違法ではない。宋銭禁止となっている以上、手に入れた宋銭を銅の塊(かたまり)と言われたら話はそこで終わる。

 そこで、宋銭を集めるところではなく、宋銭を貨幣として使用している場面を取り押さえる。

 朝廷はこれに成功した。蘇ってしまった比叡山延暦寺の勢力に対し、宋銭利用の場面を検非違使に取り押さえることで比叡山延暦寺にダメージを与えることに成功したのである。また、取り押さえた対象も延暦寺の僧侶ではなく日吉社の神人である。神仏習合のこの時代、延暦寺と日吉社はほぼ同一の組織として扱われている。しかし、厳密に言えば別組織である。朝廷としては、延暦寺にダメージを与えながら、延暦寺にダメージを与えていないと訴えることが可能となる。

 無論、比叡山延暦寺はこれで平然としているようなおとなしい組織ではない。取り押さえのときに日吉社の神人が検非違使に傷つけられたとして訴えを起こしたため、正治二(一二〇〇)年六月二五日、このときの責任を取るためとして徳大寺公継こと藤原公継の検非違使別当の職を解いたのである。現在でいうと、不当逮捕を訴えてきた人たちがいることから警察庁長官を解職するようなものである。一見すると朝廷が延暦寺の反発に屈したかのように見えるが、後任の検非違使別当は後鳥羽上皇の母系の叔父であり、また、のちに源実朝の岳父となる坊門信清である。人生のキャリア構築の一環として警察庁長官になった人物を更迭し、後任に警察庁のキャリア官僚出身の人物を据えるようなものであるから、延暦寺としても自分達の訴えが受け入れられたことは認めねばならないものの、結果は延暦寺にとってもっと不都合な結果なのだから憤怒を溜めるしかなくなる。


 後鳥羽上皇の正妻は、後鳥羽上皇の元から離れて暮らしている中宮任子、すなわち、九条兼実の娘である。

 ただし、後鳥羽上皇は人生でただ一人の女性しか愛さなかったわけではなく、確認できるだけでも生涯に一三名の女性との間に子をもうけている。

 正妻はあくまでも中宮任子であるが、建久七年の政変で内裏を去ったのを最後に後鳥羽天皇のもとを離れ、後鳥羽天皇が退位して後鳥羽上皇となって以降も後鳥羽上皇とは公的には会っていない。プライベートで会っていた可能性も否定はしないが、基本的には後鳥羽上皇と中宮任子は離ればなれになっている。

 それでも中宮は九条任子こと藤原任子なのだ。

 土御門天皇はまだ三歳である。それも数えで三歳であるから、現在の満年齢だと二歳だ。当然ながら土御門天皇に正妻などいない。十数年後に娘を入内させようと考えている貴族がいるかもしれないというレベルである。

 そして、中宮は後鳥羽上皇の正妻で、九条兼実の娘である九条任子。

 するとこのように考える人もいるのではなかろうか?

 皇后は空席なのか?

 結論から言うと、いる。

 高倉天皇の第二皇女である範子内親王だ。

 二年前の土御門天皇の即位時に土御門天皇の准母となり、准母立后として皇后となった。たしかに名誉職的なところがあるが皇后位は皇后位である。既に皇后がいて、さらに中宮がいるため、後鳥羽上皇と関係を持つ女性は誰もが皇后や中宮になれないままであるというのが正治二(一二〇〇)年六月の状況である。

 この状況に終止符が打たれたのは正治二(一二〇〇)年六月二八日のことである。中宮任子への院号宣下が行われ、この日より九条任子は中宮ではなく宜秋門院(ぎしゅうもんいん)となった。

 九条任子は承安三(一一七三)年生まれであるからまだ三〇歳にもなっていない。にもかかわらず、彼女は隠居生活に入ることを余儀なくされたのである。兄の九条良経が左大臣に昇格したときに後鳥羽上皇のもとに復帰することが検討されたが、内大臣土御門通親の猛反対によって実現しなかった。院号宣下はその代償と言うべきか、少なくともかつて中宮であった女性の生活を支えるという意味では土御門通親ですら何ら批難するところを見つけ出すことのできない待遇であった。そして、不遇を託(かこ)つ娘のために、九条兼実は物質的な豊かさを提供した。

 ちなみに、藤原定家は後に宜秋門院のもとを訪問しているが、宜秋門院のために用意した邸宅は後鳥羽上皇の院御所に負けぬ立派な建物であったという。


 宋銭を利用して比叡山延暦寺に対して圧力をかけることに成功した後鳥羽上皇は、和歌の世界への傾倒をさらに深めていった。史料の出典が藤原定家の日記なので和歌に関する記事が多くなるのはやむを得ないと言えるが、それでも、この頃の朝廷と後鳥羽院の様子を知ることができることに違いはない。

 そこで、この頃の様子を一言でまとめると、さらなる前例踏襲である。

 この時点で、鎌倉幕府という前例のない組織が誕生して八年。

 現在に生きる我々は鎌倉幕府が何年続いたか、そして、室町、江戸と、幕府という体制が続いた時代がどれだけの長さであるかを知っている。しかし、この時代の人達には幕府という概念そのものが希薄であるし、多少詳しい人でも、鎌倉幕府とは誕生して間もない新興勢力であって、かつ、鎌倉幕府を創設した源頼朝が故人となってしまったために、そうは長続きしないだろうというのが一般認識であった。何しろ、武家政権の前例とすべき平家がどのような結末を迎えたかはこの時代の人達にとってついこの前の出来事であり、それこそが先例なのだ。

 その上で、平家政権や源平合戦は歴史上の例外であり、その前の時代こそあるべき姿であるという考えが深くなっていた。理想として藤原道長の時代を挙げる人がいる一方で、過去三例の院政、特に白河院政を理想として挙げる人もいるために意見の完全な一致を見ることはできないが、双方とも前例を復活させることが理想の時代への回帰であることで意見の一致を見ており、より古い時代から続いている前例を復活させることこそが自らの主張の正当性を強めることであるというコンセンサスも成立している。

 正治二(一二〇〇)年六月の検非違使別当の交代の頃、内大臣土御門通親を中心に「石清水若宮歌合」が編纂されている。この石清水若宮歌合は、六六名の歌人から歌を集めた歌合、すなわち一つのテーマで二人が和歌を出し合い、どちらが優れた和歌であるかを競い合った結果をまとめた歌集であり、石清水八幡宮寺の別当道清の勧進という体裁で編纂されている。

 権勢を手にしているとはいえ、一貴族が歌合を編纂したとあっては後鳥羽上皇も黙っていられない。正治二(一二〇〇)年七月一五日、百首歌を歌人たちに進めさせる企画を立てたのである。そして、この知らせが藤原定家に届いたのだ。歌人として選ばれなかったとして。

 これに藤原定家は激怒した。他に選ばれた歌人が、藤原定家も認めねばならないほどの和歌の才を持つ人物ばかりならば納得もできるが、今回選ばれた歌人はお世辞にも藤原定家と同等未満の才しかない者ばかりである、と藤原定家は確信している。そこで、どうして自分が選ばれないのかと食い下がってみたところ、前例に従って四〇歳以上から選んだため、三九歳である藤原定家は対象外となったという回答が返ってきた。これでさらに藤原定家の怒りは増した。前例を調べたところでどこにも四〇歳以上などという記録はない。探しても出てくるのは三九歳以下でも歌合に参加し結果を残した歌人はたくさんいるという結果ばかりである。

 しかし、結果は覆らない。

 そこで藤原定家はこのときの歌人選定を大々的に批判するキャンペーンを打ち出した。前例にない四〇歳以上という縛りを作り出しただけでなく、内大臣土御門通親に親しい者と、賄賂を贈った者だけを歌人として選んだと非難するキャンペーンであり、抗議のため自分は後鳥羽院の今回の歌合に参加しないと宣言したのである。

 大学の文学部の中における藤原定家の評価は真っ二つに割れる。国文学科における藤原定家は一三世紀前半の優れた歌人という評価であるのに対し、史学科における藤原定家は院政期のパワハラ貴族という評価である。その国文学科において高い評価を受ける藤原定家も、この記録についてはさすがに評価を曇らせている。


 正治二(一二〇〇)年七月九日、京都で騒動が起こった。

 佐々木兄弟の次男である佐々木経高が、淡路、阿波、土佐の三ヶ国の軍隊を京都に集めたことが後鳥羽上皇の怒りを買ったのである。それも、軍隊を集めるだけならまだしも、軍隊を集めた理由が強盗捕縛のためということになっているが、強盗がいるにはいるものの軍隊の出動が必要なほどの強盗はこの時点では存在しなかったのだ。その上、佐々木経高の集めた軍隊が京都内外で乱暴狼藉を働き庶民の住まいからの略奪を繰り広げているとなると穏便に済ますことのできる話ではなくなる。

 佐々木経高は先に挙げた三ヶ国の守護を兼任しており、軍勢を招集する権利自体は存在する。しかし、そのうちの少なくとも淡路国では国司の命令を無視しての行動であることもまた記録に残っている。単に武士を集めただけでなく完全武装の状態で京都内外を威嚇しているというのだから尋常ではない。平安京内に武装して入ることができるのは、朝廷から認められた正式な武官とその配下のみ。左近衛大将を筆頭とする武官の官職を得ているか、あるいは検非違使に任命されている者の要請が無ければ、武士は平安京内に武装して入ることができない。平家が六波羅に根拠地を築いたのも、鎌倉幕府が平家の跡地をそのまま接収して六波羅を鎌倉幕府の出先機関としたのも、六波羅は鴨川を東から西に渡るだけで平安京にたどり着くという場所でありながら、平安京内ではないために武装することが許されるという、法のギリギリを突くことのできる場所であったからである。正当な官職を得ることなく、あるいは、正当な法的根拠もなく武装して平安京内に入ろうものなら、ただちに処罰を喰らうことを知らずに六波羅に駐在することなどできない。

 そして、書状に従えば佐々木経高は処罰を喰らうようなことをした。


 後鳥羽上皇の怒りを伝える六波羅からの書状が鎌倉に届いたのが七月二七日のことである。この知らせを受けた源頼家は佐々木経高の守護職を三ヶ国全てで罷免し、領地没収の処分を決めた。

 ただ、このときの処分は二つの理由から簡単に済ませることのできる話ではなかった。

 一つはこれまでの佐々木経高の功績である。佐々木経高ら佐々木兄弟は源頼朝挙兵時から鎌倉方の一員として戦場を渡り歩き、特に次男の佐々木経高は挙兵時の最初の矢を放つなど鎌倉方において果たした功績が計り知れないものであったのだ。その人物を簡単に処分して良いのだろうかというのがこのときの鎌倉幕府の中で繰り広げられていたのである。

 そして、もう一つの理由。この理由の方が大きいのだが、そもそも佐々木経高が本当に軍を集めて京都で威嚇したのかという問題がある。時間がかかりすぎているのだ。

 京都と鎌倉との間の情報連携は源頼朝の手によって改良され、平時では七日で、緊急時はそれよりも短い日数で済むようになっている。騒動の発生が七月九日ということは、遅くても七月十六日には鎌倉に情報として届いていなければならない。にもかかわらず、鎌倉に佐々木経高の情報が届いたのは七月二七日なのだ。それも、奈良時代に構築された既存の朝廷の情報網ではなく、源頼朝が作り上げた情報連携路であることの証明も存在している。何しろ書状の出発地点が六波羅なのだ。六波羅を出発した書状が鎌倉に到着したのが七月二七日ということは、佐々木経高が京都で騒動を起こしたとされる日から一〇日近くを経てから書状が書き起こされ鎌倉へと届けられたこととなる。源頼朝が健在であったら断じて許されない失態であったろうし、基本的には源頼朝の政務を継承している源頼家も、そして鎌倉幕府の面々も、このような遅れは断じて赦しはしなかったろう。

 そこで今回の騒動と、その後の佐々木経高の人生を振り返ると、不可思議なことが見えてくる。佐々木経高は鎌倉幕府の御家人として三ヶ国の守護を兼任している。ここまでは佐々木経高のキャリアを考えれば何ら不都合ではない。しかし、この人は京都の治安維持を担う役割も果たしていたのである。何しろ三ヶ国の守護を兼任していながらそのいずれの国にも赴任することなく、六波羅に滞在し続けているのだ。六波羅に駐在している鎌倉幕府の御家人には、平安京と目と鼻の先というギリギリの土地に軍勢を集結させる日々を過ごしている。治安維持のための軍勢集結自体は別に珍しい話ではない。そして、六波羅に集結させる軍勢は、自身が個人的に抱えている家臣であるとは限らない。鎌倉幕府の一員として、任地である令制国から武士を集めて六波羅に駐在させることはおかしくないのである。

 そのため、こう考えると辻褄が合う。佐々木経高は今までの六波羅駐在の武士と同様に自分が守護を務める国から武士を集めて六波羅での任務を果たそうとした。それを後鳥羽上皇が問題視してクレームを入れた。鎌倉幕府はクレームに屈して佐々木経高を罷免するしかなくなった。

 これならば理解できるのだ。


 それにしてもなぜ、後鳥羽上皇がいきなりクレームを入れてきたのか。

 結論から言えば鎌倉幕府に対する反発であろう。後鳥羽上皇は院政を構築すること過去の院政と同様に自らの権勢を作り上げることに成功したと確信していたが、白河院政が完全無欠な絶対権力者であったのに対し、鳥羽院政が藤原頼長らをはじめとする藤原摂関家の盛り返しと武士の台頭、後白河院政が平家の強い影響下と源平合戦の混乱、そして新たに台頭した鎌倉の新勢力と、院政は代を重ねる毎に絶対権力に対抗する存在が院政を上回ろうという勢いで勃興してきた。

 そして、現在の後鳥羽院政の前には鎌倉幕府がある。かつての平家政権のように六波羅に武士を結集させてはいるものの、かつての平家政権のように朝廷の中枢に食い込んでいるわけではない。それでも源頼朝が健在の頃は権大納言を務めた征夷大将軍として朝廷が認める権威を持つ人物が平安京の区画外である六波羅にいるという、珍しいが前例のないわけではないことであったが、源頼朝の突然死の後で六波羅にいるのは、一応は武官としての官職を得ているものの、議政官の経験もない若者であり、その源頼家がトップを務める組織となってからは組織内でゴタゴタが起きているという状況なのだ。

 ここで鎌倉幕府に打撃を与えることができれば後鳥羽院政の今後に大きなメリットがあると考えたのは、理解できない話ではない。鎌倉幕府は国家最大の軍事力を持った組織ではあるが、その軍事力を削ぐことができればこれからの後鳥羽院政はよりスムーズな政権運営が可能となるのだ。

 このときの後鳥羽上皇の行動は若さゆえの暴走とすればある程度は理解できるのだ。ただ、暴走の結果としては痛すぎる。鎌倉幕府に与えた損害が大きすぎるのだ。乱暴狼藉を働き略奪を繰り広げたという後鳥羽上皇の訴えがその通りであるならば責任を取らせることは理解できようが、そうなると今度は佐々木経高の罷免では刑罰が軽すぎることとなる。かといって、それがないと佐々木経高は何の法令違反もしていないこととなり、不当な処罰となる。佐々木経高に対しても、鎌倉幕府に対しても、後鳥羽上皇は貸しを作ってしまうことになるのだ。

 実際、鎌倉幕府は佐々木経高を処罰したものの、これで後鳥羽上皇に対して大きな貸しを作ったこととなる。この貸しは正治二(一二〇〇)年のうちに一つの結果を生むこととなるが、その結果については後述することとなる。

 なお、源頼朝や源頼家が六波羅にいると記したが、これは書き間違いではない。この時代の人達も源氏が相模国鎌倉に根拠地を築いて巨大な軍事組織を構築していることは理解していたが、この国のトップはあくまでも朝廷であり、トップクラスを形成しているのは皇族と朝廷に仕える貴族であり、貴族としての住まいはかつての平家政権のように六波羅であり、鎌倉は、かつての平清盛が福原にいることが多かったように、貴族の一人である源頼朝や源頼家が京都を離れたときに一時的に滞在する場所であるという認識であった。そのため、源頼家をはじめとする鎌倉幕府の面々に対して何かしらのアクションを起こそうというとき、わざわざ鎌倉まで足を運ぶのではなく、六波羅に駐在している鎌倉幕府の誰かに取り次ぎを頼み込むこととなる。この頃で言うと中原親能が鎌倉と京都を往復する日々を過ごしているので、中原親能が相手だと最も話がスムーズに進んだであろう。


 後鳥羽上皇が和歌の世界にのめり込んでいることは既に記した通りであり、正治二(一二〇〇)年七月一五日に百首歌を企画したのも既に記した通りである。そして、このときの百首歌の歌人の中に藤原定家は含まれておらずに憤慨し、ボイコットを宣言したことも既に記した通りである。

 その抗議が功を奏したのか、正治二(一二〇〇)年八月九日、藤原定家が百首歌の歌人に選ばれた。三左衛門事件で蟄居を命じられた後に赦免され、後鳥羽上皇の側近の一人となっていた西園寺公経こと藤原公経から、藤原定家に対して百首歌の歌人の一人として追加されたという連絡が来たのである。なお、このときに追加されたのは藤原定家を含め三名であったという。

 西園寺公経は藤原定家の義弟であるが、西園寺公経の貴族としての出世街道の進み方は義兄の比ではなかった。もっとも、藤原定家という人物は新嘗祭の最中に乱闘事件を起こして謹慎処分を受けたような人物であるだけでなく、その事件よりはマシではあるものの、さすがに外に漏れたら大問題に発展すると判断するしかないことも記録に残している。生前の藤原定家がどこまで口外したかはわからないが、藤原定家の日記を読み返すと、これでよる流罪判決を受けずに貴族の一員であり続けたことができたものだと感心するしかない。

 ただし、藤原定家の歌人としての才能は間違いないのだ。九条兼実政権の一翼を担っていたために建久七年の政変で地位を失った藤原定家であるが、和歌を愛する後鳥羽上皇にとっては、少なくとも和歌についてならば安心のおける人物だったのである。

 また、派閥で区分するならば藤原定家は九条兼実の派閥であり、土御門通親への対抗を考えると藤原定家を百首歌の歌人の一人に加えることはメリットある話であった。四〇歳以上に限るという年齢制限を見直せば済む話であり、藤原定家以外の者も加えることで藤原定家を特別扱いするわけではないと示し、それでいて土御門通親に対するダメージを与えることも可能となる。

 それではなぜ、土御門通親へのダメージを与える必要があるのか?

 内大臣土御門通親が土御門天皇の外祖父ということになっているからである。実際の血縁関係があるわけではないが、土御門天皇の母である源在子は土御門通親の養女であり、このまま土御門天皇が成長し元服を迎えたなら、土御門通親は天皇の外祖父として絶大な権限を手にしてしまうのだ。

 摂政とは、天皇が幼少である、あるいは天皇が病床にあるため政務を執ることができないというときに、天皇の近親者が天皇に変わって政務を執るという職務である。この職務には近衛基通が就いているが、血縁関係だけを考えると近衛基通の摂政というのは無理がある。ただ、土御門通親は村上源氏であり藤原摂関家ではない。藤原摂関家ではない民間人が摂政に就いた例はない。実の娘ではなく養女が天皇の母であるという点を突くことで土御門通親を摂政とさせないことに成功しているし、そもそも藤原摂関家が摂政の地位を手放すはずはないのだが、理論上の話だけをすると土御門通親が摂政に就くことも可能なのだ。

 それでも摂政だからどうにかなる。しかし、土御門天皇が元服して摂政不要となったならどうなるか?

 関白は天皇の近親者である必要のない職務である。そして、その職掌もあくまでも天皇の相談役であり、天皇の代理である摂政に比べれば付与される権限は少ない。藤原摂関家が手放す意思を示さなくても、土御門天皇が祖父を関白に任命することは可能なのだ。

 そうなったとき、土御門通親の手にする権威は多大なものとなる。それこそ後鳥羽院政を凌駕する権勢を手に入れることとなる。後鳥羽天皇は、九条兼実から政権を奪還するという点では土御門通親と協力を見せたが、退位して院政を始めた結果、今度は土御門通親が邪魔になったのである。

 土御門通親への権勢勢力として九条家の復権を図ることはメリットのある話なのである。


 土御門通親がこのことを理解していないわけではない。

 とは言え、土御門通親の権威の源泉を辿ると、養女が土御門天皇の生母であるという一点に行き着く。

 仮に後鳥羽上皇の皇子が土御門天皇一人であるならば土御門通親の地位も安泰であったろう。だが、後鳥羽上皇の皇子は土御門天皇一人ではない。そもそも土御門天皇の実母である源在子は後鳥羽上皇の女院の一人であって皇后でも中宮でもなかった。中宮は九条兼実の娘である藤原任子であるが、彼女は皇子を産んでいない。ゆえに、天皇の実母の地位は後鳥羽上皇の女院や後宮、更衣の間で公平に争うこととなる。彼女達の中で後鳥羽上皇の男児を産んだ者がいるなら、彼女は土御門天皇の次の天皇の生母、彼女の父は土御門通親に代わる次の外祖父の地位を手に入れることとなる。

 後鳥羽上皇は既に、藤原重子との間に誕生した第三皇子の守成親王を皇太弟とすることを発表している。その上、藤原重子は第二子を妊娠しており、間もなく生まれようかというところである。藤原重子の父は藤原南家の藤原範季であり、藤原氏ではあるものの藤原摂関家でないため摂政になることは現実的ではない。皇太弟の祖父であるために従三位の位階を得ているものの議政官の役職を得ておらず、この官職のままであれば土御門通親のように関白を狙うことも不可能である。

 自分の養女のライバルとなる女性が既に一人の男児を産んだだけでなくその男児が皇太弟となり、その上で二人目を妊娠し、間もなく出産予定日を迎えるという状況を土御門通親は迎えていた。

 土御門通親は時代の趨勢が自分の元から離れていることを実感せざるを得なくなっていたが、それで諦めたわけではない。ただ、土御門通親は時代を掴み取るのに必要な要素を一つ欠いていた。

 組織力だ。

 土御門通親は権力を手にしたが、土御門通親の家臣となって働く貴族や役人、そして武士を集めることに失敗しているのである。特に痛手であったのが息子の源通宗が二年前に亡くなってしまったことだ。次男の堀川通具や三男の久我通光、後に土御門の苗字を継承することとなる四男の土御門定通が貴族としてデビューしていたものの、亡き兄のように貴族として順調なキャリアパスを歩んでいるとは言いがたく、この時点の土御門通親は後継者の選定に難ありと見做されるようになっていたのである。

 ただし、後に次男の堀川通具も、三男の久我通光も、そして四男の土御門定通も、それぞれの形で中央政界に自らを作り上げることに成功する。ただし、それらはいずれも後の話であり、正治二(一二〇〇)年八月時点の土御門通親を評すれば、勢力形成に失敗していたと断じるしかない。


 土御門通親が勢力形成に失敗しているのと対を成すかのように、後鳥羽上皇は自らの勢力を着々と作り上げていた。

 藤原定家は自身の日記で正治二(一二〇〇)年九月二日に昇殿が許されるようになったことを誇らしげに記しているが、この日に昇殿を許されるようになったのは藤原定家だけではない。他にも複数名がこの日に昇殿を許され、その全員が後鳥羽上皇のおかげでの昇殿であることを理解する後鳥羽院の一員として活躍するようになる。

 このときのつながりは正治二(一二〇〇)年九月一一日に一つのピークを迎えた。藤原重子が第二子である男児を出産したのである。のちに雅成親王と名付けられることとなる男児である。この男児の生誕に喜んだ後鳥羽上皇は翌一二日に右中弁藤原長房を通じて十首歌を進めるよう歌人たちに命じ、藤原定家は早々に和歌を持参することを宣言した。ちなみに、このときに選ばれた歌人の中には内大臣土御門通親や左大臣九条良経も含まれている。この二人が同席している状態は本来なら緊張状態であるのだが、後鳥羽上皇が目を見張っているとなれば話は別だ。

 さらにこれは後鳥羽上皇の趣味の発動であるが、十首歌を進めるように命じられた歌人達の中に後鳥羽上皇自身が含まれている。ただし、後鳥羽上皇の名で参加しているわけではない。名も無き女房が和歌を詠んで奉じたという体裁である。後鳥羽上皇は和歌を愛し和歌を詠むことを愉しみとしていたこともあり、このときの十首歌をすぐに詠み終え奉じている。同じく詠み終えて奉じたのが藤原定家であり、歌を詠むように命じられて早々に奉じたことで後鳥羽上皇の評判を獲得することに成功している。

 一方で、左大臣九条良経や内大臣土御門通親はなかなか詠み終えていない。後鳥羽上皇の和歌の趣味は有名であるし、貴族としての藤原定家はパワハラ気質の物騒な男であるが、歌人としての才能は有名である。そうした人達の中に混ざって自ら和歌を詠んで出せと言われても簡単に行くわけはない。後鳥羽上皇から直々に催促されてようやく和歌を奉じている。

 九条良経にしても、土御門通親にしても、本業は政治家であって歌人ではない。貴族の嗜みとして和歌を詠めと言われれば詠めなくはないが、後鳥羽上皇の和歌の趣味につきあえるほど和歌にのめり込めているわけではない。それでも九条良経はまだいい。自派の人物のうちそれまで評判を獲得しているとは言えなかった藤原定家が、和歌を利用して後鳥羽上皇の側近の一人のなることに成功したのである。

 問題は土御門通親だ。ただでさえ自派の構築に失敗しているのに、建久七年の政変でどうにか打倒したはずの九条家が、政治家としての才ではなく、後鳥羽上皇の趣味を利用して後鳥羽上皇の側近になる人物を送り込んだのだ。村上源氏と藤原摂関家の組織力の差を、これでもかと目の当たりにさせられたのである。


 史料の問題があるのはやむをえないが、同じ頃の朝廷の鎌倉幕府の記録を比較すると、真面目に政務を遂行している源頼家が正しく評価されないのはどうかと思う。

 史料元が藤原定家であることを差し引いても、正治二(一二〇〇)年の夏から秋にかけての後鳥羽上皇に、切迫感も緊張感も見られない。社会の危機を真面目に考えて行動している源頼家が哀れに感じるほどだ。

 話は正治二(一二〇〇)年八月二一日に遡る。源頼家はこの日、宮城四郎家業を陸奥国に派遣した。芝田次郎に謀叛の恐れありという知らせが飛び込んできたのである。

 源頼朝の街道の整備は京都と鎌倉との間だけとは言わないが、大動脈となった東海道と、その他の街道の整備にはどうしても差が出てきてしまう。

 その上、宮城家業はただ単に偵察のために派遣されたのではない。謀叛の恐れのある芝田次郎を対処するために陸奥国に派遣されるのである。ここでの対処とは処罰を含む。逮捕して処罰するだけではない。場合によっては戦闘も覚悟する処罰である。実際、源頼家は宮城家業に馬を与えている。現在の感覚で行くと軍勢に戦車を供与するようなものであるが、吾妻鏡に記されているのは軍勢とするには少ない。宮城家業の一族が三名とその配下の者が十数名である。

 一戦交えるかもしれないのにこの人数で足りるのかという疑念があるだろうが、その答えは、足りるわけがない、である。ただし、宮城家業はたしかに鎌倉から陸奥国に派遣されたが、宮城家業が動員できる軍勢は鎌倉から連れて行った軍勢だけではないのだ。

 宮城家業の兄である伊沢家景は大河兼任の乱の鎮圧の後に陸奥国留守職に任ぜられ、多賀城に居を構えて陸奥国における鎌倉幕府の総責任者となっていた。また、陸奥国内の民政も担い、葛西清重と共に奥州総奉行として東北地方行政の長となっていた。さらに、建久元(一一九〇)年には陸奥国宮城郡岩切に岩切城を築城しており、宮城家業は陸奥国在住の伊沢家景の軍勢を期待できたのである。

 宮城家業の続報は一〇月一三日までない。一〇月一三日の続報も宮城四郎家業が帰ってきたことの記録である。

 以下は宮城家業が源頼家に伝えた報告である。

 九月一四日に芝田次郎と戦闘となり、その夜になって芝田館を攻撃。もともと工藤行光の家来である藤五郎と藤三郎の兄弟が奥州の領地から鎌倉へ向かっている途中であったが、白河関のあたりで鎌倉幕府からの使者が芝田を攻めると聞いてただちに反転し、戦闘の日に芝田館の裏へ回って弓矢を沢山の矢を射まくったことで芝田次郎の家臣の十数人が戦死、芝田次郎本人も逃走することとなった。一節によると出羽国へと避難したという。

 それにしてもなぜこのタイミングで芝田次郎の謀叛の話が出たのだろうか?

 どうやら謀叛の話ではなく、所領争いに敗れて所領を奪われそうになったために抵抗したようなのだ。そしてこれは、陸奥国だけで起こっている現象ではなく、日本全国でいつ爆発してもおかしくない現象だと鎌倉幕府に届いたのだ。

 根本対応しなければならない。


 正治二(一二〇〇)年一〇月二六日、三人の貴族が従三位に昇叙した。

 九条兼実の四男である正四位下右近衛中将九条良輔。

 摂政近衛基通の四男である従四位下右近衛中将鷹司兼基。

 そして、源頼家。

 源頼家は従三位に昇叙したと同時に左衛門督へと異動となった。武官としての序列でいうとそれまで務めていた左近衛中将のほうが上の地位であるが、左近衛大将、右近衛大将という二人の上官がいる左近衛中将と違い、左衛門督は武官として独立した職掌である。左近衛大将は右大臣近衛家実、右近衛大将は内大臣土御門通親であるため、源頼家が左近衛中将のままであると右大臣と内大臣の指揮下に置かれることとなるが、左衛門督となったことで指揮下から離れることとなったのである。

 とは言え、征夷大将軍ではない。

 位階を考えても源頼家はとっくに征夷大将軍になっていなければおかしいし、征夷大将軍が三種の神器の一つである天叢雲剣の形代であることを考えても、源頼家は左衛門督ではなく征夷大将軍であるべきであった。

 ただ、征夷大将軍はあまりにも手にする権力が大きすぎるのだ。朝廷の指揮を離れた独自の軍事行動を遂行することが許されるなど、朝廷からすれば危険極まりない話だ。

 一方、左衛門督であれば、軍事行動の指揮権は存在するものの、朝廷のシビリアンコントロールの指揮下になる。つまり、三位の貴族になったというだけでなく、源頼家の上には土御門天皇と後鳥羽上皇のみが存在する武官となったのである。源頼家は従三位の左衛門督として上官のいない武官となることになったが、征夷大将軍と比べると、法で認められている範囲での武力行使には限界点が低い。

 なお、武官としての源頼家が左近衛中将から左衛門督に移っただけでは近衛府から鎌倉幕府の人員がいなくなってしまうため、鎌倉幕府の御家人である安達親長と二階堂行村の両名が左衛門少尉となった。もっとも、武官としての、近衛、衛門、兵衛の区分はこの時代になるとあまり意味を持たなくなり、朝廷直属の事実上の武力となると検非違使ということになる。ただ、常設の武官は左右の、近衛府、衛門府、兵衛府であり、それぞれの組織のトップであれば独自の武力発動が可能となる。もっとも、しつこく繰り返して記すが、征夷大将軍と違って朝廷のシビリアンコントロールから逃れることはできない。

 また、源頼家が従三位に昇叙したことで鎌倉幕府の組織の延命に成功したことは無視できない。

 どういうことかというと、政所の存在である。

 鎌倉幕府の組織における政所は、事実上は鎌倉幕府の行政機構であるが、理論上は三位以上の貴族にならないと設置することが許されない、貴族の保有する荘園をはじめとする資産の管理をメインとする家政機関である。つまり、前年一月に源頼朝が亡くなってからこれまで、本来ならば政所ではなく、より規模を縮小した公文所でなければならなかったのである。実際には、三位以上の位階である当主が亡くなり、後を継ぐ人物の位階が低い場合であっても、将来の三位以上の位階を前提として政所を存続させ続ける貴族は珍しくなかったが、厳密には不可となる行動であった。しかし、この日に源頼家が従三位に昇叙したため、鎌倉幕府の政所は晴れて三位の貴族ゆえに許される設置が許される組織であり続けることが可能となった。


 鎌倉幕府という組織の表向きの体裁は、上級貴族の一員に加わった源頼家個人に仕える武士達の集まりである。その集まりの政務をまとめるのが政所であり、人事を束ねるのが侍所であり、問題が起こったときに裁決を下すのが問注所である。そのいずれもが源頼家という個人の組織であり、政所でどのような役職を勤めていようと、侍所でどのような立場にいようと、朝廷の公式見解としては源頼家に仕える人間でしかない。

 先に鎌倉幕府の御家人である安達親長と二階堂行村の両名が左衛門少尉となったと記したが、これも朝廷が横車を押したわけではなく、御家人であろうと位階を持つ身であるならば朝廷に仕える貴族や役人であり、その人事権は朝廷に属し、朝廷からの命令があるならば鎌倉幕府でどのような役割を務めていようと朝廷の役職を優先させなければならないのである。無論、これは理論上の話であり、実際にはもっと融通が利く。他の貴族でも同様であるが、自分に仕えている者がとても優秀であるという評判が広まり、朝廷でもその評判を聞きつけ、朝廷が評判に応じた役職を用意して付与しようとしても、実際のところは上役である貴族の要望をある程度は聞き入れるようになっている。このときに二名の御家人が朝廷の役職を付与されたのも、源頼家に打診をした上での付与であり、与り知らぬところで勝手に話が進んだわけではない。

 一方、朝廷から何も言われない限り、鎌倉幕府の支配の及ぶ範囲であるならば、その統治の責任は源頼家に行き着くことになる。既に何度か幕府という組織を現在の政党に喩えているが、これも現在の政党に似ていると言える。すなわち、党員が何かしらの不祥事をしでかした場合に党として何かしらの処罰を下すという光景は珍しくない。これを正治二(一二〇〇)年時点で考えると、源頼家は鎌倉幕府の御家人が何かしらの問題を起こしてしまったときに、トップとして処分を下すということになる。

 源頼家のもとには正治二(一二〇〇)年八月から一〇月にかけて奥州に遠征した宮城家業の報告がある。そして、御家人の間の土地をめぐる争いがある。

 貧富が金銭で決まるとき、金銭を吸い上げて再分配することは、格差是正や平等の成就となるかもしれないが、生活水準の向上とはならない。

 ここで喩え話をしてみる。

 一億円の年収を稼ぐ一名と、全く稼がない九九名がいるとき、一億円の年収を持つ者から九九〇〇万円を取り上げて一〇〇万円ずつ分配することは、一見すると格差を是正し公平を築けるように感じるが、実際には格差の是正どころか成長の鈍化、あるいは衰退へと没落してしまう。

 なぜか?

 一億円の年収を稼ぐにはそれなりの理由がある。法に触れるのでない限り、一億円の年収を稼ぐにはそれまで積み上げてきた、そして、現在進行形で続けている努力と苦労が伴っている。努力と苦労の結晶が年収一億円であり、その年収に応じた税を課せられたとしても、それはそれで受け入れるしかない。しかし、これまでの努力と苦労、そして、現在の努力と苦労が無に帰すことは断じて受け入れることなどできない。自分より努力していない、自分より苦労していないという人が、自分と同じ成果を得ることなど耐えることができない。そのような社会になってしまったら、待っているのは努力も苦労も投げ出して何の生産も生まないか、あるいは、一億円の年収を得ていた者がその社会を捨てるかのどちらかである。


 かといって、一〇〇人全体で一億円であることが決まっており、その一億円を努力と苦労の結晶ということで一人の人に集中しているとなると、とてもでは無いが社会が正しく機能しているとは言えなくなる。全体で一億円と決まっているなら、その一億円をどのように分配するかという問題になるが、どのように分配したとしても誰もが不満を持つ。一億円を稼いでいた人は自分の収入が減るし、平等に分配するとなったら一年間を過ごすに不十分な金銭に留まってしまう。

 しかし、ここは脱成長の人が考えているのと異なる経済の現実がある。そもそも全体で一億円と決まっているわけではないと考えれば、それこそ、全体で一〇億円、すなわち一〇倍に増えたとしたらどうなるか?

 金銭の全体量を増やせば、格差問題も公平の成就も解決しないが、生活水準の向上が実現する。その結果として、一億円の年収が五億円に増え、残る五億円を九九人で分配して一人あたり五〇五万円となったならば、双方とも受け入れることができる話になる。

 金銭というものは年数を経る毎に増えていく宿命を持っている。二〇世紀末からの三〇年間の日本国はきわめて稀な例外とするしかなく、また、失敗例として特筆すべきところである。普通なら金銭は年々増え、増えた金銭は給与の増額となって勤労者の元に戻ってくる。ただし、金銭の増幅によってインフレが起こるために、勤労者でなくなった人、特に高齢ゆえに年金生活となった人にとって苦しい社会となる。これが、脱成長の人が掲げるのとは全く逆の経済の現実である。金銭全体の増額は、誰かの金銭が増えることと誰かの金銭が減ることとはつながらない。唯一つながるのは、年金生活や貯金を切り崩して生活する人がインフレに苦しむという声だけである。

 しかし、経済の基盤が金銭ではなく土地で決まるとなると、脱成長と主張する人の考えがある程度は成立してしまう。土地は金銭と違って容易に増やすことができず、自分の土地を増やすことと他人の土地が減ることとが同じ意味になる。

 ここで源頼家の話に戻る。

 鎌倉幕府に仕えている御家人達は、各々がそれぞれの形で鎌倉幕府に対して貢献している。ただし、貢献に見合うだけの土地を鎌倉幕府が用意できるわけではない。土地には限りがある。貢献しても土地が得られないとなったならば、鎌倉幕府に対する貢献の意欲は完全に消える、あるいは、貢献ではなく反発を見せることとなる。ならば、どうやって土地を用意するか?

 梶原景時のように鎌倉幕府に楯突いた、とされる人物を討ち取って、その人物の土地を分配するという方法もあるが、このような方法を何度も繰り返すのは現実的ではない。この後の歴史を知っているなら現実的ではないことが実際に発生してしまったと考えるであろうが、未来を知らないこの段階では現実的ではない。

 源頼家は現実的な解決方法としてどのような選択肢を選んだのか?


 正治二(一二〇〇)年一二月二八日、源頼家は一つの指令を出した。

 源平合戦での恩賞の土地は、御家人一人あたり五〇〇町、現在の面積単位で言うとおよそ五ヘクタールを上限とし、それ以上を没収するというのである。一戸あたり平均二〇ヘクタールである北海道を除き、現在の日本の農家の保有する田畑の敷地面積は一戸あたり一ヘクタールであり、源頼家は御家人一人あたり農家五戸分の敷地面積、すなわち、御家人の所領として農家五戸分を上限とするとしたのだ。この五戸分の収穫からの年貢で御家人に生きて行けというのである。

 五戸あたりで養うことのできる非農家の人数など限られている。武士一人ならば、あるいはその武士とその家族ならばどうにかなるかもしれないが、武士団を養うなど無茶な話だ。戦時は武器を取り平時は自分で田畑を耕すのであっても、農家五戸分での収穫では鎌倉幕府の御家人としてやっていくなど不可能と断じることができる。

 少し考えても無茶なこの指令について、源頼家は土地を没収する理由も明言している。源平合戦以後の功績に対する報償を用意しなければならないが、現在の鎌倉幕府にそれだけの土地はない。そのため、報償としての土地を提供できず、生活苦に陥っている御家人がたくさんいる。そうした御家人達を救うために、過剰な土地を持つ者から土地を没収するというのだ。

 この発表は事前通告無しでの発表であったようで、政所にただちに諸国の田文調進を命じたものの、実践するように命じられた中原広元は困惑し、知らせを聞きつけた三善康信がただちに駆けつけて源頼家を叱責する場面も見られた。田文調進とは令制国単位での荘園および公領の田地面積とその土地の所有関係などを調査した土地台帳であり、また、鎌倉幕府の御家人への賦課台帳でもある。源頼家はこれまで何度も田文調進を命じており、土地政策に積極的であったことが窺える。ただし、土地の没収と再分配が前提であることを明言した田文調進はこのときがはじめてであった。

 このときの源頼家の発表は当日中に取り消さざるをえなくなったが、それでも源頼家は諦めず、来年にはまた命令を出すと明言した。

 先に、金銭ではなく土地で経済の基盤が決まる場合には脱成長の主張がある程度成立してしまうと書いた。このときの源頼家の発想は、まんま脱成長の主張、あるいはさらにそれを悪化させた社会主義に通じるものがあった。すなわち、成長を止め、全体を等しく貧困に陥らせる考えだ。厄介なことに、本人は善意でやっている。正しいことだと確信しているから過ちを認めないし、何なら過ちであると証明されても証明のほうが間違っているという態度で終始する。

 さらに記録をよく読むと、源頼家の発表そのものは突然でも、何の計画も無しに発表したのでは無いことが読み取れる。

 発表に先立つ一二月三日、源頼家は蹴鞠仲間である大輔房(だいゆうぼう)源性(げんせい)を呼び出した。この人物はこの時代の日本国におけるトップクラスの人物であり、特に土地の測量について抜群の才能を示していた人物である。源頼家は大輔房源性を陸奥国に派遣しており、現地における所領争いの実情を調査させていた。吾妻鏡ではこの後、大輔房源性が自分の数学の知識をひけらかしたのを、現在の宮城県松島に出会った僧侶に窘められたことのエピソードが載っているが、そのようなエピソードより重要なのは、源頼家が綿密な現地調査を実行させていたことである。その上で出した答えが御家人一人あたりの五〇〇町という結果なのであろう。これは平等な分配のみを考えた結果であり、御家人にとっても、農地の住人にとっても、最善の結果では無い。しかし、この時点の鎌倉幕府でできる最大限の譲歩の結果でもあったのだ。

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

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