剣の形代 3.源頼朝死す

 後鳥羽天皇はもう幼帝ではなかった。

 関白はいるものの摂政を必要としない元服済の天皇であり、政治的意志を持った一個人として天皇親政を、そして、院政復活を狙うまでになっていたのだ。

 後鳥羽天皇の目指すべき政治体制は、実体験しているわけではないが知識としては問題なかった。ベストは白河院政、次点で鳥羽院政、妥協して後白河院政だ。

 後白河院政はその大部分が平家政権と重なっており、平家政権と重なっていない部分は木曾義仲と鎌倉幕府の強い影響下だ。

 鳥羽院政はそれなりに強固なものがあったが藤原頼長をはじめとする藤原摂関家の勢力が白河院政と比べて強く、また、武家の台頭も目の当たりにした。

 目指すとすれば白河院政だ。白河法皇は時代の最高権力者として国家の前権力を握り、それまで二〇〇年間に亘って日本国に君臨してきた藤原摂関政治を完全に屈服させることに成功した。

 後鳥羽天皇が目指したのは白河法皇であり白河院政であった。白河法皇のように藤原摂関家を屈服させ、自らの意思で国政を司ることを考えたのだ。それまで二〇〇年間続いてきた藤原摂関政治を白紙にしたりはしていない。しかし、藤原道長の頃とは比べものにならないレベルで弱体化したものとなり、全ての権力は白河法皇に集中した。しかも、白河法皇は責任を免除されていた。白河法皇は、父として、祖父として、曾祖父としてその時代の天皇や貴族達に感想を述べているに過ぎない。天皇を辞した一個人が、さらに言えば僧籍に入った一僧侶が政治に対する感想を述べているに過ぎず、どういうわけか、その時代の政治が一僧侶の感想と同じ選択をしているということになっている。これこそが後鳥羽天皇の理想とする政治体制であった。

 ただし、一つだけ問題がある。

 院政のためには帝位を退かねばならない。それも、帝位を継ぐのは実子でなければならない。

 中宮任子が男児を産んだならばその男児に帝位を継がせるという選択肢を選べたし、その場合は九条兼実が新たな天皇の摂政になっても問題ない。もっと言えば、後鳥羽天皇が上皇となって院政をはじめる際に誰かが摂政になっていたほうがありがたい。何しろそのときに帝位に就いていると想定しているのは未だ元服を迎えていない後鳥羽天皇の男児なのだ。

 九条兼実は自分の娘の産んだ子が女児であったことに落胆したというが、後鳥羽天皇も落胆はしていた。ただし、その落胆のほどは九条兼実ほどではない。中宮の産んだ子が女児であったとしても後鳥羽天皇は年齢的にまだまだ未来が期待できるし、そもそも中宮任子だけが妊娠していているのではない。土御門通親こと源通親の養女もまた後鳥羽天皇の子を妊娠しており、彼女の産んだ子が男児であるならその子に帝位を就かせることもできる。その場合、新帝の摂政は土御門通親ということになるが、後鳥羽天皇はそのようなことなど意に介していない。自分が上皇として院政を敷くためには自分の息子が天皇であることだけが重要であり、自分の息子が天皇としての政務を執り行うことができるならば誰が摂政になろうと構わないというのが後鳥羽天皇の姿勢である。九条兼実の娘が自分の男児を産んだならば九条兼実を摂政とさせる、すなわち藤原摂関家の当主が摂政になるという従来の藤原摂関政治の継承であるから、特にこれといった政務の断絶が起こらない。一方、土御門通親が摂政となった場合は政務の継承に失敗して政務の断絶となってしまう可能性もあるが、後鳥羽天皇が退位して院政を始めたときに貴族達が争っていようと知ったことではないし、それで貴族達の勢力が弱まって相対的に院の勢力が強まるならむしろ歓迎すべきところである。


 院政復活を意図する後鳥羽天皇は、権力掌握を考えれば最善の行動をしていたと言える。しかし、権力を握って何をするかという視点で捉えると疑念を感じるところがある。政治家として最も大切な要素、すなわち、いかにして庶民生活を向上させるかという観点が完全に抜け落ちているのだ。

 後鳥羽天皇にしてみれば、平家政権という混迷、源平合戦という混乱、そして、その渦中で迎えてしまった養和の飢饉という悲劇があったのだから、それより前の時代に戻ればそれで社会が良くなると考えたであろうが、その考えは甘すぎるとするしかない。

 権力を手にしたからには統治を避けることができず、統治というものはそう単純にいく代物ではない。

 まず、人を動かさなければならない。それも、今まで権力を手にしていた者ではなく別な者を、特に、従来の権力構造下では不遇に喘いでいたために自分達の天下となったからにはこの世は自分達のものと考え、それまで権力を握っていた者への復讐を忘れない者を手足として動かさねばならない。さらに言えば、従来の権力構造下での不遇の理由がその人の生まれの地位の低さに起因するわけではなく、単に能力の低さゆえに能力相応の社会的地位しか得ていなかった、すなわち、自分は優秀だと勘違いしており、優秀な自分を冷遇してきた従来の権力は無能ゆえに全否定しても良いと考える者を指揮しなければならない。改革や革命の熱狂的な雰囲気というのも突き詰めれば、社会が大変革を迎えている、自分達が社会に大変革に携わっていると熱狂させることで人々を動かすことであるが、改革にしろ、革命にしろ、庶民生活が一瞬で向上するということはない。革命に至っては、革命でむしろ庶民生活が悪化する方が当たり前であり、例外を探すとすれば、革命政権に対してもう一度革命を起こして革命前に戻すといった革命である。一九八九年の東欧革命がそうした例外に該当する。東欧革命のような例外でない限り、熱狂は庶民生活を悪化させてしまう。ゆえに、熱狂させながらも庶民生活を悪化させず向上させるように動かすマネジメント能力が求められる。

 後鳥羽天皇にこれができるかどうかは怪しい。天皇であり、院政を始めるとなれば退位して院となり、院で働く者を自らの権力遂行のための手足とする能力が求められるが、後白河法皇のこの能力はお世辞にも高かったとは言えず、鳥羽法皇も白河法皇の院政の継承であって鳥羽法皇自身のマネジメント能力を推し量るとなると、厳しいと答えるしかないものであった。そして後鳥羽天皇が理想とした白河法皇であるが、残念ながら突出しているとは言い切れなかった。藤原摂関政治のもとで不遇を強いられている者を自らの院に引き入れることで人員の質を上げることには成功していたが、彼らを問題なく使いこなしていたかとなると、そこには些かの疑念を生じるのである。


 それでも白河院政が絶大な権力を握ることに成功していたのは、それまで絶対的な権力として君臨していた藤原摂関政治における不遇への反発を最大限活かすことができたこと、藤原道長は身分の低い者でもそれなりに抜擢していたが藤原道長の死後は従前のようにその人の生まれでその人の上限を定め、いかに優秀でも抜擢されることがなくなっていたために、白河院政の時代となると白河法皇のもとに赴くことしか藤原摂関家に対する反発を示す方法が無かったことが挙げられる。一方、後鳥羽天皇の時代となると、まずは鎌倉幕府が存在し、藤原摂関家が近衛家と松殿家と九条家に分裂しているので、藤原摂関家に対する反発ではなく、九条家に対して反発するなら近衛家、近衛家に反発するなら九条家、そのどちらにも反意を示したいなら松殿家を選ぶという方法があり、院政に身を寄せる必要は必ずしも存在しなかった。

 それに、院政に身を寄せることは中央政界での出世を考えるとむしろ遠回りであるというコンセンサスも生まれていた。白河法皇から鳥羽法皇の時代は、院司として院政に身を寄せてキャリアを積むと、院からの強い推薦で中央政界でのポストを獲得できるという期待があったが、藤原摂関家が分裂している現在、藤氏長者が変われば下のポストも総入れ替えになることが期待できる。院に身を寄せて推薦を得るより、藤原摂関家の分裂の隙を狙って一発逆転を狙う方が、より高い位階と役職を獲得しやすくなるのだ。

 さらに、人を動かすマネジメント能力だけではなく、資産向上を生み出す経営能力、それも、国家規模の経営能力も求められる。統治者に求められる国家規模の経営能力を突き詰めると、戦争をしないことに行き着く。戦乱の渦中に統治者となった者が戦乱を鎮めて平和を取り戻したというのは称賛すべき行動であるが、それはあくまでも経営の入り口に立ったに過ぎない。平和を取り戻した後で、戦乱前よりも庶民生活を向上させるだけの経営をしなければ政治家としての評価を得るに値しないのが現実だ。建久六(一一九五)年という年代は戦乱終結から一〇年という節目の年になっていた。つまり、戦乱からの復興を考えるには遅すぎる。平和な時代の経済運営が求められるのだ。


 この意味で、源頼朝は大きなアドバンテージを獲得していた。何と言っても戦争を終わらせた当事者である上に、源頼朝の元には京都の貴族社会に入ることの許されない低い地位に生まれた者が周囲に結集している。それまでの権力のもとでは権勢を掴むことをできなかった者をまとめ上げることに成功しているだけでなく、現在進行形で平和の維持に成功させている。ついでに言えば、鎌倉幕府の御家人に対して守護や地頭という形で、平和の維持と実利の付与の双方を実現させている。これは源頼朝にしかできない話である。

 そもそも戦争を終結させたというのは庶民生活の向上において大きなアドバンテージを獲得することを意味する話である。トマ・ピケティは大著「21世紀の資本」の中で格差縮小の三要素として戦争、革命、大規模自然災害の三つを挙げ、ウォルター・シャイデルはトマ・ピケティの後を受けて、戦争、革命、国家破綻、感染爆発の四つを格差縮小の四要素として挙げた。ついでに記すと、ウォルター・シャイデルはそのほかに格差縮小をもたらす要素はなく、再分配や教育ですら格差縮小はつながらないことを挙げている。トマ・ピケティにしてもウォルター・シャイデルにしても戦争を格差縮小のトップに上げていることに違いはなく、戦争によって強制的に全体の貧困を生み出した後は格差の少ない社会からの経済再生となることは指摘しており、この時代でいうと源平合戦がまさに全国的な戦乱、そして、源平合戦の終結こそ格差を縮小した上での経済成長を呼び込むタイミングなのだ。

 年齢が年齢ゆえにどうにもならないが、後鳥羽天皇は一〇年遅かった。

 普通ならば、後鳥羽天皇は自らの置かれている状況を悟って、現実と妥協するところであろう。皇位を降りて院政をスタートさせた場合に周囲を固める人材がどれだけいるか、院政をスタートさせたところでどれだけの荘園を確保してどれだけの資産を手にできるか疑念に感じるところであろう。

 しかし、後鳥羽天皇は普通ではなかった……


 後鳥羽天皇が九条兼実を見限っていた頃、鎌倉の源頼朝は政治家としての判断を下していた。

 先に、統治者に求められる国家規模の経営能力として、戦争をしないことを書き記した。ならば源頼朝の奥州合戦はどうだったのか、戦争を仕掛けて奥州藤原氏を滅ぼしたではないかと感じる人も多いであろうし、実際にあれは侵略以外の何物でもない。

 しかし、同じ侵略でありながらロシアがウクライナに対してしでかしたことと、源頼朝の奥州合戦との間には大きな違いがある。

 それは、侵略した土地に住む人に対する扱い。

 源頼朝は奥州藤原氏を滅ぼしたし、その残党の命も戦場で奪った。しかし、奥州藤原氏の統治下であった東北地方に住む一般庶民は戦乱から逃れることができていた。プーチンはウクライナ人を暴行し、虐殺し、強姦し、殺害し、拉致したが、源頼朝は庶民に手を掛けてはいない。統治者が変わったものの、平泉以外の東北地方に住む人々の暮らしは以前と変わらないか、もしくは以前より向上している。平泉は大ダメージを受けたが、平泉にダメージを与えたのは源頼朝ではなく奥州藤原氏である。源頼朝は都市平泉の再興を目論んで、実際に人員を派遣した結果、都市としての機能は回復しつつある。とは言え、まだ復興の途上であるため、奥州藤原氏の頃の平泉からは遠い。この平泉だけが、東北地方における例外といえる。

 奥州合戦の勝者となった源頼朝は奥州藤原氏の統治していた東北をそのまま継承し、朝廷システムの構造のもと、自らの支配下へと組み込んだ。新たな統治者として鎌倉方の御家人を送り込んだが、奥州藤原氏の統治下のもとで暮らしていた人達は、統治者の変更こそあったものの、最低でも今までと変わらぬ、多くの人の場合は奥州藤原氏の頃よりも向上した生活を手にできていた。

 この件で興味深い記事が吾妻鏡の建久六(一一九五)年九月二九日の記録に残っている。この日、藤原基成の娘、すなわち亡き藤原秀衡の妻がいまだ平泉に生きており、源頼朝は葛西清重と伊沢家景の両名に彼女を手厚く保護するよう命じたのである。藤原基成の娘に特別な事情があったのはその通りであるが、彼女は特別扱いされたわけではない。奥州藤原氏は滅んだが奥州藤原氏に仕えていた人の多くはそのままだったのだ。反抗を起こした奥州藤原氏の残党も戦場に散ったが、基本的には奥州藤原氏の頃と変わらないか、あるいはそれ以上の暮らしができるように統治していたのが源頼朝である。

 源頼朝の行動はたしかに侵略であるが、侵略を、単に領土を拡げるため、あるいは人や物を奪うための行為、そして収奪のための行為と考えていては、このときの源頼朝の行動は理解できない。たしかに自分の支配の及ぶ地域を広げたが、収奪どころか資産持ち出しである。御家人を派遣して地頭として現地に滞在させ、彼らの統治する荘園からの年貢を手にしてはいたが、必要経費を差し引いたらほとんど残らない。馬や武具といった東北地方の豊かさを鎌倉に持ち込むこともできるように思えたが、それをしてしまったら東北地方を貧困に追い込んでしまう。たしかに東北地方の馬や武具が鎌倉に流れてくることはあるが、それは収奪ではなく交易の結果である。交易自体は奥州藤原氏が健在であった頃から続いていたことだ。

 これでは一体何のための侵略なのかという話になるが、鎌倉にとってはとても大きかった。何しろ北の安全が保証されるのだ。奥州藤原氏が北方から侵略してくる可能性が消えて無くなったというのは鎌倉にとって最高の安心材料であり、その安心材料を強固にするためには東北地方の生活水準を維持し、さらには高めることで鎌倉への叛旗の可能性をゼロにすることができる。東北地方の安定のために鎌倉から資産持ち出しとなってもそれは安い出費だ。


 中宮任子が女児を産んだ。

 九条兼実は自分の娘の産んだ子が女児であったことに落胆したし、九条兼実ほどでないにしても後鳥羽天皇も落胆があった。とは言え、天皇の実の子であり相応の待遇が用意されている。建久六(一一九五)年一〇月に中宮任子が産んだ女児である第一皇女が内親王宣下を受けた。後に春華門院と呼ばれることになる昇子内親王である。

 この時点では昇子内親王のみが後鳥羽天皇の実子であり、九条兼実は中宮任子の次の妊娠の期待もあったし、可能性が薄くなってきていたとは言え源頼朝も娘の大姫の入内を諦めてはいなかった。

 だが、建久六(一一九五)年一一月一日に全てをひっくり返す激震が起こった。土御門通親こと源通親の養女である源在子が皇子を出産したのである。後に土御門天皇と呼ばれることとなる為仁親王である。

 それでも九条兼実には期待があった。何と言っても自分の娘は中宮だ。中宮任子が皇子を産んだなら、源在子が出産した皇子よりも皇位継承権で優位に立てる。

 というタイミングで、源頼朝から一通の書状が届いた。

 娘を入内させることを正式に公表する書状である。

 これで混乱が隠せなくなった。

 混乱の中、貴族達の間で一つのコンセンサスが生まれた。

 源頼朝は権大納言を辞したことで中央政界から去っているが、正二位の位階を得ている貴族であることに変わりはない。征夷大将軍として朝廷から一線を画した軍事組織のトップになっており、源頼朝から征夷大将軍を辞するという連絡は来たものの朝廷が正式に辞任承諾をしたわけではないため、この時点での源頼朝は朝廷から軍勢を指揮して東国に向かって軍事作戦を遂行している途中の貴族という扱いになっている。源頼朝が征夷大将軍を辞した場合、慣例に従えば中央政界では征夷大将軍としての功績に応じた官職を用意しなければならない。

 既に権大納言の経験を持つ源頼朝の場合、手にすることとなる官職は、大臣、もしくは大納言ということになる。権大納言への復帰とするのも可能と言えば可能だが、そのためには大臣も大納言も席が全て埋まっていることが必要となる。空席が無いためにやむをえず権大納言に留めるしかないので承諾してもらいたいという体裁以外に、源頼朝を大納言未満の役職に留める方法がないのだ。そして、建久六(一一九五)年一一月初頭時点でいうと、空席があった。

 内大臣だ。

 大納言や権大納言を一人内大臣に昇格させ、大納言や権大納言の空席ができたら中納言や権中納言を一人昇格させて席を埋める。そうしないと、源頼朝が大臣位に就いてもおかしくなくなる。


 建久六(一一九五)年一一月一〇日、除目。

 九条良経こと権大納言藤原良経、内大臣に昇格。

 土御門通親こと中納言源通親、権大納言に昇格。

 吉田経房こと権中納言藤原経房、中納言に昇格。

 関白九条兼実の息子の九条良経が内大臣になり、後鳥羽天皇の第一皇子の祖父となった土御門通親が権大納言となった。そして、土御門通親の後を受けたのが、今や誰もが認めることとなった源頼朝の協力者である吉田経房であるため、九条兼実も、土御門通親も、そして源頼朝も何ら文句の付けようのない結果となったのである。

 このときの除目について源頼朝の思いを推し量ることはできない。

 一方、思いを推し量ることのできる人が一人いる。

 後鳥羽天皇だ。

 先に、後鳥羽天皇は院政をスタートさせるのに困難さを背負っていることを書き記したが、後鳥羽天皇は平凡な執政者では無かった。これから院政を始めるにあたってどれだけの人材を集めることができるか、どれだけの資産を集めることができるか、そのどちらも困難とするしかなかったが、人材についてはどうにかなることに気づいたのだ。

 その答えは、鎌倉幕府を選ばなかった下級貴族。

 貴族達は、近衛家を選ぶか、九条家を選ぶか、あるいは松殿家を選ぶかが未来を築くための選択肢であった。中原広元のように源頼朝を選んで鎌倉に赴く者もいたし、吉田経房のように京都に留まって源頼朝の協力者であることを選んだ者もいたが、それらはいずれもレアケースであった。

 ただ、藤原摂関家のどこを選ぶか、あるいは鎌倉幕府を選ぶかといった選択肢は、それなりの地位を獲得している貴族にしか許されなかった贅沢であった。ある程度の位階を獲得し、役職を獲得する資格を持った貴族達だけが、役職を獲得するために誰を選ぶかという贅沢をでき、位階の低い貴族達はそのような贅沢など夢の世界であった。一方、位階とは無縁の一般庶民となると、選択肢は鎌倉幕府のみとなる。鎌倉幕府に仕えて御家人となれば、位階を手にするのは困難でも鎌倉幕府の役職を獲得でき、守護として、あるいは地頭としてそれなりの権勢と資産を獲得することができる。

 つまり、貴族の一員である、あるいは間もなく貴族になろうかという地位の役人である場合、鎌倉幕府を選ぶのはリスクが高いが、かといって上流貴族を気取って、近衛家を選ぶか九条家を選ぶかといった選択はできない。

 その下級貴族を後鳥羽天皇は抜擢したのである。それも、何の前触れもなく。

 建久六(一一九五)年一一月一二日、右中弁に藤原宗隆、権右少弁に平親国、従三位に藤原公房、蔵人頭に藤原定経、五位蔵人に藤原朝経と藤原長兼が任命された。いずれも事前に予期するところの無かった任命であり、いきなり降って湧いた後鳥羽天皇からの直々の抜擢に舞い上がった。通常であれば上級貴族に取り入るために莫大な賄賂を送る、あるいは自分の娘や姉妹を差し出す、あるいは上級貴族の男色の相手のために自分自身を差し出さなければ未来を切り開くための入り口に立つなどできないのに、後鳥羽天皇は何の前触れもなく低い位階の貴族達を抜擢したのだ。

 この抜擢について九条兼実は苦言を呈したが、九条兼実の苦言はもう通用しなくなっていた。何しろ天皇自らの抜擢があったのだ。こうなれば近い未来に後鳥羽天皇は院政を開始し、自分達は退位後の後鳥羽天皇の院に身を寄せて未来を獲得できることとなる。九条兼実の娘である中宮任子がこれから後鳥羽天皇の男児を産む可能性があるとはいえ、土御門通親の養女の産んだ男児がいれば、そしてその男児がいれば、男児に皇位を継承させることで院政を始めることができる。九条兼実からの不興を買ったところで問題ない時代がやってきたのだ。

 このときに抜擢された貴族の一人である五位蔵人の藤原長兼の日記は抜擢の瞬間から未来が輝いたかのような溌剌さを見せる記録となり、後鳥羽天皇に対する惜しみない称賛を繰り返して後鳥羽天皇の日常を細かく書き記す日記へと変わった。


 後鳥羽天皇は幼帝ではなく、天皇親政を、そして院政を目指して行動する若き帝王へとなっていたことに気づいた。

 後鳥羽天皇が政治家として勢力を築き上げていることを源頼朝は知っていたのか?

 おそらくだが知っていたであろう。

 だが、具体的なアクションについてはわからない。

 どういうことか?

 吾妻鏡が欠けているのだ。

 吾妻鏡は建久六(一一九五)年一二月を最後に三年間の空白があり、次の記事が建久一〇(一一九九)年まで飛んでいる。建久一〇(一一九九)年がどのような年かは後に記すことになるが、建久七(一一九六)年から建久九(一一九八)年までの鎌倉幕府の公式記録が抜け落ちているのはこの時代を知るという点で大きなダメージとするしかない。ゆえに、この時代を知りたければ他の史料や他の貴族の日記から推し量るしかない。

 空白の三年の前に残る源頼朝の記録は、鎌倉に留まって御家人達とともに統治にあたる文人官僚のそれである。知識としては武家の棟梁として戦場を駆け巡ってきたことは知っているものの、建久六(一一九五)年一二月頃の源頼朝の記録を見ると、そこに武人としての姿は見えない。

 吾妻鏡以外の記録から集めることができる源頼朝の行動についても、やはり武人としての行動は見えない。そして、年が明けた建久七(一一九六)年一月、すなわち、吾妻鏡の空白の一年目の一月に、貴族としての源頼朝の行動の垣間見える記録が登場する。

 建久七(一一九六)年一月二〇日に蔵人頭藤原忠季が死亡し、後任の蔵人頭には一条高能が任じられたのである。藤原忠季は九条兼実の側近の一人であり、九条兼実の日記には、自身の側近の死に悲しむだけでなく、その後任が一条高能であることの悔しさを隠せずにいる様子が記されている。

 九条兼実な一条高能の能力を高いと考えていなかったというのもあるが、一条高能の母は源頼朝の妹の坊門姫、すなわち、一条高能が源頼朝の甥であることも九条兼実にとってはマイナス要素であったし、さらに大きなマイナス要素として、松殿基房の娘を妻として迎え入れたことも挙げられる。九条家と近衛家との対立に埋もれだしてきていた松殿家と手を組むことは、藤原摂関家に楔(くさび)を打ち込むに十分な選択であった。

 なお、一条高能は一時期、源頼朝の娘である大姫の嫁ぎ先候補に挙がったことがあり、大姫との結婚は大姫自身の激しい反発に遭って白紙撤回されたが、それでも源頼朝は一条高能のことを目に掛けており、また、一条高能の父の一条能保も我が子の将来を考えてなかなかの環境と教育を用意してことが見てとれる。そうでなければ一条能保が建久五(一一九四)年に出家して家督を息子に譲ったりはしていない。一条高能の経歴を追っていくと、この人は血筋だけでなく能力でも及第点だったと判断できるのだ。


 愚管抄は歴史書であるが、源平合戦以降の歴史について言えば同時代史料でもある。どういうことかというと、著者である慈円の生まれたのが久寿二(一一五五)年であり、慈円は建久七(一一九六)年時点で四一歳であるから、愚管抄の記事のうち源平合戦以降の記述の多くは慈円自身が体験し、あるいは見聞きしたことである。

 この慈円という僧侶であるが、九条兼実の実弟であると同時に天台座主である。天台座主に就任できたのは兄が九条兼実だからという側面もあるが、徒然草の吉田兼好は天台座主としての慈円を書き記しており、能力のある者ならばその者の身分が低くても抜擢したと慈円を絶賛している。

 南都北嶺の争いにおける南都こと興福寺も、山門寺門の争いにおける寺門こと園城寺も、今はもう過去のこととなっている。しかし、比叡山延暦寺の権勢は今もなお変わることなく続いている。他にも宗教界の有力者は多々いるが、比叡山延暦寺、厳密に言えば廃墟からの復興途上であった園城寺も含む天台宗のトップである天台座主となると、日本国に他に並ぶことのない宗教界の権力者となる。その天台座主の座に自分の弟を据えることに成功していた九条兼実は、白河法皇ですら実現できなかった山法師こと比叡山延暦寺の僧兵の制御に成功していたこととなる。延暦寺と園城寺の対立は、園城寺が灰に帰したことで延暦寺の勝利に終わったかのように見えていたのだから、慈円が天台座主であること九条兼実は宗教界からの圧力を撥ね除けることに成功したのだと誰もが考えたであろう。

 しかし、園城寺は大ダメージを受けたものの廃寺となったわけではない。東大寺がそうであったように、園城寺もまた復旧しつつあったのだ。

 寺院の復旧は単に建物だけを元に戻そうとしているわけではない。僧侶を取り戻し、経典を取り戻し、園城寺の持つ荘園を取り戻す。そうした園城寺の権勢を蘇らせてはじめて園城寺は復活する。


 その流れの中において、天台座主が慈円であるということ自体が園城寺の僧侶にとって許容しづらいものであったのだが、建久七(一一九六)年四月一八日に四天王寺別当の定恵が死去したことが混乱をさらに深めるものとなった。九条兼実は慈円に四天王寺別当を兼任させようとしたのである。しかし、四天王寺はかつて園城寺の支配下にあった寺院であり、園城寺が灰燼に帰したことで一時的に園城寺の支配から離れることとなっていたが、復旧しつつある今、園城寺の意向を無視して天台座主慈円にさらなる権勢を与えることは容認しづらかったのだ。

 本音はともかく、天台座主が四天王寺別当を兼任するというのは異例な事態であることに違いはなく、園城寺は慈円に代わることのできる人物を推戴することで慈円の権勢強化に反発することにした。しかもこのときの園城寺には担ぎ上げるのに絶好の人物がいた。

 その僧侶の名を承仁という。嘉応元(一一六九)年生まれであるから、数えで二八歳、満年齢では二七歳の若き僧侶だ。延暦寺で出家し、当時の天台座主であった明雲をはじめとする天台教学の僧侶達から天台宗を学んできた僧侶であるから、天台座主も夢ではないエリートコースを歩んできたことは間違いない。延暦寺に縁が深い点は気になるところであるが、延暦寺を出て園城寺に赴く僧侶など珍しくもなく、園城寺が承仁のことを、園城寺の意向に沿った天台座主を目指す僧侶として担ぎ上げたとしても誰もが理解できるところであった。表向きは。

 裏ではどうか?

 承仁が単に僧侶としてのエリートコースを歩んでいるだけなら、同様のエリートコースを歩んでいる他の数多くの僧侶達の誰かでも良いではないかとなる。なぜ承仁なのか? 承仁はそれほど優秀なのか?

 そうではない。承仁が無能とは言わないが、承仁は他の僧侶にはない出生が存在したのだ。父親が後白河法皇で、母親が丹後局であるという出生が。

 これで複雑に絡み合っていた関係が一つにまとまった。丹後局高階栄子と土御門通親の二人に園城寺が接近し、丹後局の息子にして亡き後白河院の実子である承仁を担ぎ上げることで、九条兼実と比叡山延暦寺の間に楔(くさび)を入れようとしているのだ。


 九条兼実が摂政となってから一〇年が経過している。とは言え、九条兼実はまだ四九歳であり、政界引退を考える年齢ではない。しかし、周囲は九条兼実の政界引退を予期するようになっていた。それまでの九条兼実の独善的な行動を支えてきた源頼朝はもう九条兼実を選ばず、慈円のおかげで制御できていた比叡山延暦寺も怪しくなってきている。

 だからこそ、周囲の思惑とは逆に九条兼実自身は関白の職位を手放さないことに執心するようになった。仮にここで九条兼実が関白を降りたら、実弟の太政大臣藤原兼房でもなく、九条家の後継者となる内大臣九条良経でもなく、現時点では無官である前摂政近衛基通が関白として復帰することとなるか、あるいは元摂政松殿基家が関白として復帰することとなる。この双方とも、九条兼実にとってはいかなる理由があろうと避けなければならない選択肢である。

 その一例として、時間は多少前後するが、建久七(一一九六)年三月二三日の出来事が挙げられる。この日、三条実房こと左大臣藤原実房が病気を理由に左大臣職を辞職し出家することを選んだのである。通常であれば花山院兼雅こと右大臣藤原兼雅の左大臣への昇格など大幅な除目が繰り広げられるものであるが、九条兼実は左大臣を空席とし、右大臣花山院兼雅に議政官の指揮を執らせることにしたのである。一見すると理不尽に感じるが、九条兼実にとっては理不尽どころか有効な戦略であった。あえて空席とすることで近衛家にも松殿家にも圧力を加えることに成功したのである。忘れてはならないのは、前述の通り、九条兼実の息子である九条良経が内大臣に就いていることだ。空席を埋めようとした瞬間に九条良経は内大臣から右大臣へと出世することとなる。この無言のプレッシャーは大きなものである。

 見限れるようなことがあってはならないと九条兼実が考えていても、周囲はもう九条兼実を見限っている。かといって貴族達は、九条家と藤原摂関家の当主の座を争う近衛家や、木曾義仲と手を組んだことで勢力を失うことになったものの無視できぬ存在である松殿家を、九条兼実に代わる勢力として選ぶことはなかった。かといって、既に手に入れている地位の高さもあって、そろそろ姿が見え始めていた後鳥羽天皇退位後の院政に人生を掛けるつもりにはなれなかった。

 彼らが選んだのは、丹後局高階栄子と土御門通親、そして、その背後の勢力として期待できる園城寺、さらに、九条兼実から協力関係先を乗り換えつつあった鎌倉幕府といった新興勢力であった。つまり、藤原摂関家以外の勢力が呉越同舟状態で集まるという集団が構築されてきたのである。

 九条兼実がこの状況を黙って見過ごすわけはなかった。九条家による藤氏長者の継承が頓挫したとしても、九条家の勢力の基盤の拡充を果たすことは無意味ではない。鳥羽天皇の皇女である八条院障子内親王は病に倒れたのを機に養女三条姫宮に所領の多くを譲ったが、残りの所領を猶子とした九条良輔、すなわち、九条兼実の三男に譲与させることに成功したのである。このときの九条良輔は、数えで一二歳、満年齢だと一〇歳になったばかりであり、貴族としてのデビューもできていない。しかし、この段階で一定の資産を獲得することは将来への布石として十分に機能する。

 また、九条兼実への反発を軸として集結している勢力が、実際に統治者としての能力を保持しているのかという問題もある。現状の政権に対して不満を抱いた末に政権を交代させるとどのような地獄が待っているかは、二〇〇九年の日本人がやらかした失敗を思い出していただければ十分である。特に丹後局高階栄子の権勢の寄って立つところが、自身の統治者としての能力ではなく亡き後白河院の威光であるところは、九条兼実にとって絶好の攻撃材料であった。蔵人大夫橘兼仲の妻が後白河法皇の霊が憑いたと称して、後白河法皇を祀る社を建ててその経営のために国を寄せるように求める事件が起きたとき、丹後局はこの言葉を信じて国費による負担を検討させようとしたが、九条兼実は非現実的として退けている。


 先に記したように、吾妻鏡は建久七(一一九六)年から建久九(一一九八)年までの記事が現存していない。ゆえに、この三年間の鎌倉幕府の動静は吾妻鏡以外の情報から記さねばならない。

 壇ノ浦の戦いで平家が敗れてから十一年目。鎌倉に刃向かう平家は滅んだということになっているが平家の残党は探せばまだ存在していた。もっとも、かつてのように朝廷の中枢に君臨して政権を操るレベルの強大さではなく、存在はするものの国政に何ら影響を与えることのない、それでいて迷惑極まりない犯罪集団として、平家の残党が存在している。

 彼らは後鳥羽天皇の帝位も認めずにいる。壇ノ浦で身を投げて命を落とした安徳天皇こそが正式な天皇であり、安徳天皇が行方不明になっているために後鳥羽天皇が帝位を受け継いでいることは認めているものの、安徳天皇が戻り次第帝位を戻すべきだとも考えている。

 後鳥羽天皇ですらこうなのだから、鎌倉幕府の権威についてはもっと認めない。鎌倉幕府の御家人達のことを討伐すべき存在と考え、彼らが治安維持を担当していることすら認めないし、彼らに対して何をしてもそれは全て許されることと考えている。こうした動きは鎌倉幕府のほうでも不完全ながら掴んでおり、平家の残党が犯行の兆しを見せているらしいという情報ならば掴めている。情報収集の重要性を理解している源頼朝のもとに集められるだけの情報が集まっているので、把握できる限りの情報に基づいて指示を出すことにできている。ただし、あくまでも把握できる限りの情報であって、平家の残党の正確な所在地や正確な作戦まで掴めているわけではないのが実情である。

 源頼朝が平家の残党の情報を集めていることは平家の残党の側も理解している。鎌倉幕府の御家人達に向かって反抗心を示そうとしても、具体的には誰かにターゲットを絞って暗殺しようとしても、返り討ちに遭うのは目に見えている。

 権勢を失って一〇年以上が経過した。過去に一度でも権勢を手にしていた経験があったならばともかく、物心ついたときには流浪の身で、気づいたら鎌倉幕府の権勢の前に逃げ続けなければならない人生を過ごしているとなった、それも、好転する兆しが全く見えないという人生を過ごしているとき、未来に希望が見えないままこのあと数十年も人生が続くと考えてしまったらどのような行動を見せるか?

 平知盛の次男である平知忠は、平家都落ちの際に両親と離されて伊賀国にいる乳母子の橘為教のもとに預けられ、そのまま伊賀国で成長していた。

 その平知忠が、建久七(一一九六)年六月二五日に一条能保への襲撃を企てているとして、法性寺付近で検非違使の捜索を受け、観念して自害したのである。平知忠の生年は治承四(一一八〇)年生まれとする説と安元二(一一七六)年生まれとする説があり、前者であるなら享年一七、後者であれば享年二一となる。多くの人はこの事件で平家の残党がまだ健在であったこと、その平家の残党を鎌倉幕府はまだ警戒していることを思い知り、誰のおかげで今の平和が存在しているのかを知ることとなった。

 ただし、一つの悲劇も生み出した。映像はおろか写真など存在しないこの時代、討ち取られた人物が間違いなくその人物であると確認するためには、その人物の顔を知っている人に討ち取った人物の顔を見せるしかない。すなわち、遺体のもとにその人を連れて行くか、あるいは、遺体をその人のもとに連れて行くしかない。そして、その遺体は全身とは限らない。

 平知忠の実母である治部卿局こと武藤明子は高倉天皇の第二皇子である守貞親王の乳母であり、夫の平知盛とともに守貞親王の養育をしており、守貞親王とともに平家都落ちに帯同した。そして迎えた壇ノ浦の戦いで治部卿局は夫とともに壇ノ浦に身を投げたものの、彼女は鎌倉方に救出されたために夫と死に別れ、その後、守貞親王が上西門院統子内親王の養子となった事から、治部卿局は守貞親王の乳母として上西門院に仕えた。

 その治部卿局の前に、亡き息子の首が運び込まれてきたのである。彼女は変わり果てた息子の姿に涙を流したとある。


 後鳥羽天皇と関白の娘との間に女児が生まれ、土御門通親の養女との間に男児が生まれた。性に目覚める年齢の少年の周囲に性の相手をする女性がいる、それも、女性のほうから数多くやって来るという環境であることを考えると、年齢から言っても後鳥羽天皇はこれから何名も子をもうける可能性が高い。実際、建久七(一一九六)年一〇月一六日には坊門信清の娘との間にも皇子をもうけている。

 これは九条兼実としても状況を悪化させる事態である。状況悪化は九条兼実自身だけでなく、九条兼実の周囲にも及ぶ話だ。

 九条兼実は実弟である慈円の天台座主としての地位が怪しくなっていることにも気づいていたが、この点でも九条兼実はどうにもならなかった。

 後鳥羽天皇は趣味人であった。弓、馬術、水泳、相撲、そして蹴鞠といったアウトドアな趣味もあるし、和歌への造詣も深いものがある。また、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)無しの即位であったことの裏返しなのか、刀剣については執着とも言える態度であった。全国から選りすぐりの刀鍛冶を呼び寄せただけでなく、後鳥羽天皇自身が刀を打つこともあった。なお、刀剣を打った際に後鳥羽天皇は銘を打たずにデザインを打ち込んだ。それが十六葉の菊紋、すなわち皇室の菊の御紋の誕生である。

 九条兼実は有職故実に通じた人物ではあるし、慈円も僧侶として有能な人物であったが、後鳥羽天皇のこうした趣味については接点が無かった。一方、同じ僧侶でも承仁は後鳥羽天皇と相撲や蹴鞠で接点があり、その面でのハンデは想像よりも大きな存在感があった。

 九条兼実のピンチは土御門通親のチャンスである。

 九条兼実を関白から引きずり下ろすと当時に、生後一年の為仁親王を即座に帝位に就けることを目標に動きはじめたのである。ただし、土御門通親一人が行動を起こしたのではない。九条兼実に反発心を見せる人が、一人、また一人と九条兼実の元から離れていき、もはや九条兼実は誰からも支えられない存在となったと気づかされたとき、その出来事が起こったのである。

 歴史家はその出来事を、建久七年の政変と呼ぶ。

 全ては建久七(一一九六)年一一月二三日、何の前触れもなく中宮任子が内裏から退去させられたことに始まった。いったい何が起こったのか誰もわからずにいるまま関係者以外は時間が経過するのを待たされることとなった。娘が内裏から追放されたことについて九条兼実がどのように感じたのかを知ることはできない。九条兼実の日記の建久七(一一九六)年の記事は一一月五日で終わっていて次の記事は翌年元日の記事である。慈円の愚管抄もこのときの九条兼実については何も書き記しておらず、中宮任子が内裏を出て八条院に身を寄せることとなったと記しているのみである。

 しかし、何かの企みがあることに気づいていた人がいる。九条兼実の家司である三条長兼である。夕刻以降に土御門通親をはじめ、権大夫参議藤原光雅、参議藤原宗頼、左大弁右三位中将参議徳大寺公継、皇太后宮大夫藤原成経、大蔵卿藤原親雅といった面々が動きを見せたのだ。

 これが建久七年の政変の幕開けである。


 建久七年の政変の幕開けから二日後の建久七(一一九六)年一一月二五日、誰もが信じられないニュースを耳にした。

 関白九条兼実、更迭。上表すら許されず、後任の関白には前摂政の近衛基通が就くこと、併せて近衛基通を藤氏長者に任命することが発表された。

 愚管抄によると、土御門通親の指示のもと、権右少弁の平親国と五位蔵人の藤原朝経が中心となって動いたとある。なお、このときに九条兼実の流罪を検討したとあるが、後鳥羽天皇自身が九条兼実には流罪に値する罪科がないことを理由に、関白罷免のみとさせたとある。

 ただし、上表すら許されなかった、すなわち自発的な辞意ではなく、命令による罷免であることが告げられたことの意味は大きい。九条兼実のキャリアは事実上終止符を打たれたこととなるのだ。

 さらにその三日後の一一月二八日は、九条兼実の実弟で太政大臣である藤原兼房が上表を提出し太政大臣を辞職、九条兼実の実子である九条良経は内大臣留任となったものの事実上の軟禁状態となり政権から離脱、また、慈円も天台座主の地位から降り、ここに建久七年の政変は九条兼実の政権を白紙に戻す形で終了した。後白河法皇の死後、わずか四年間しか続かなかった九条兼実政権の終焉である。

 そしてここに一つの噂が登場した。

 九条兼実が関白でなくなったのは関東の意向であるという噂である。

 既に記した通り、吾妻鏡には建久七(一一九六)年の記事がない。ゆえに、鎌倉幕府側から九条兼実の失脚について何かしらの工作をしたという証拠がない。また、九条兼実の建久七(一一九六)年の日記も一一月五日で終わっているので、このことを九条兼実がどう捉えたかを知ることはできない。残された記録から見えてくるのは、九条兼実に近づくことが関東の意向に逆らうことを、すなわち源頼朝の意向に逆らうことを意味し、多くの者が源頼朝の意向に逆らわないよう務めるようになったという、この頃の貴族達の行動様式の変容である。

 これが人口に膾炙されているところの建久七年の政変である。

 しかし、近年は建久七年の政変について新たな見識が登場している。研究者の遠城悦子氏が同時代の記録や日記を深く読み込んでみると別の側面が見えてくるというのである。

 まず、九条兼実の建久七(一一九六)年の日記はたしかに一一月五日で終わっているものの、前に遡ってみると奇妙な記述が見えてくる。年明け間もなくの一月一七日時点で九条兼実は弟の藤原兼房とともに上表を提出すること、すなわち、九条兼実は関白を、藤原兼房は太政大臣を辞職することを十ヶ月前に決めていたようなのである。

 さらに九条兼実の家司である三条長兼の日記には、一一月一八日の記事として、九条兼実が関白を辞職するらしい動きを見せていることを書き記している。つまり、建久七年の政変の七日前には九条兼実の関白辞任が決まっていたようなのである。

 そこで九条兼実が関白罷免となったときの正確な動きを見てみると奇妙な点が見つかる。たしかに九条兼実は上表無しに関白罷免となったが、体裁としてではあるものの一条高能を経由して辞職を申し出ている。その上で、二日後に藤原兼房が上表を提出しているのだ。この動きを遠城悦子氏は注目した。


 ここで着目したいのが、そもそも九条兼実が実弟でもある太政大臣藤原兼房のことをどのように捉えていたのか、という視点である。藤原兼房は、兄の引き立てがなければ太政大臣になることはあり得ない人物であった。何しろ太政大臣になる前は内大臣であったのだ。

 内大臣であった者が、右大臣にも左大臣にも就くことなく太政大臣に就くことは何例かある。そして、その全てが、太政大臣に出世させることで実権力から遠ざけることを目的とした空虚な出世である。

 どういうことか?

 内大臣は大臣であるが、手にしている権力は小さい。

 法の制定は議政官の議決を必要とし、議政官を取り仕切るのは左大臣、左大臣不在時は右大臣が左大臣代理を務める。では、左大臣も右大臣も不在ならば?

 内大臣ではなく大納言筆頭が左大臣代理を務める。

 つまり、内大臣は大納言より上の官職であるものの、議政官においては議決における一票でしかなく、その弁論で議政官を左右することはあってもその権力で議政官を支配することはないのが内大臣という職務だ。そのため、貴族としてのキャリアから言っても位階から言っても出世させるのが適切であるが、能力がお世辞にも高いとは言えない者を内大臣にするということが頻繁にあり、藤原兼房もその例に該当したのである。

 さらに、このような内大臣がいるときに、他に大臣に就けるのに適切な人物がいる場合、内大臣を太政大臣に昇格させることで大臣位を空席とすることがある。内大臣が太政大臣へと出世したために大臣位が空き、空いた大臣位に大臣に相応しい人物を据えることが可能となるのだ。

 太政大臣は権威も権力も有する職位であるが、議政官に参加することはできないため法案に対する議決権も有さない。つまり、法案の採決にかかわることができない。太政大臣は議政官に参加できない代わりに議政官の議決に対する拒否権を有しているが、太政大臣がその拒否権を行使することは事実上存在しない。そのため、太政大臣という職務は名誉職となることが珍しくなかった。

 内大臣が太政大臣になるというのは、主に血筋を由来とする偉さを認めてそれなりの官職を用意しなければならないが、実権を与える優秀さは有さないという人物にたいする処遇としてよくあることであったのだ。そのよくあることに藤原兼房が該当した。

 九条兼実は実弟の政治家としての能力を高く買っていたわけではない。しかし、有能でないために自分にとって都合の良い存在であり、藤原兼房にしても自分の実力では到底たどり着けない権威と権勢を手にできたことは感謝すべきことであった。この人がどのような思いで太政大臣を辞す決意をしたかわからないが、おそらく兄に促されて兄に同調した結果であろう。


 それにしても、九条兼実はなぜ関白の地位を手放したのか?

 従来の説では、関白の地位を手放したのではなく失脚させられたということになっている。

 これも遠城悦子氏は別の視点から捉えている。

 中宮任子は後鳥羽天皇の子を産んだが女児であった。一方、土御門通親の養女である源在子が後鳥羽天皇の男児を産んだ。

 この点を遠城悦子氏は注目した。そもそも源在子は土御門通親の養女であったのかという疑問だ。源在子は藤原範子の娘であり、藤原範子の土御門通親の妻である。しかし、娘を産んだときの藤原範子は僧侶の能円の妻であった頃であり、後鳥羽天皇の男児を産んだ時点でも周囲は源在子のことを土御門通親の養女ではなく僧侶の娘と捉えていたのである。天皇の男児が帝位に就く可能性は極めて高いが、天皇の男児が複数いる場合は年齢ではなく生母の血筋がモノを言う。能円は皇后宮亮をもつとめた藤原顕憲の子であるので藤原北家の一員ではあるのだが、出家した後に女児をもうけたとなると、その女児は藤原氏の娘ではなく僧侶の娘として扱われる。そして、僧侶の娘は皇族男子の母として最も地位が低いと扱われる。

 建久七年の政変時点で後鳥羽天皇のもとに生まれている男児は、土御門通親の娘ではなく僧侶の娘である。ゆえに、九条家が失脚することとなっても、源在子が産んだ後鳥羽天皇の男児が皇位を継承する可能性は低い。少なくともその男児以外に男児が生まれるのでもない限り、源在子が産んだ男児が皇位を継承することはあり得ない。

 遠城悦子氏は、これまでの九条家による政権運営の失敗に対する責任として辞職したと論文で結論づけたが、私はその意見に同意しない。


 現時点で土御門通親のもとに集っているのは九条兼実に対する反発である。ここで九条兼実がいなくなり、藤原兼房がいなくなり、さらに慈円も天台座主の地位から降りたために権力の中枢から九条家がいなくなる。つまり、九条兼実への反発だけを軸にして集まっている勢力から共通の敵を奪ったらどうなるか?

 集団が瓦解する。

 関白は近衛家が継承したものの、近衛家が九条家に変わって政権を握ることのできる可能性は低い。何しろ主導権は土御門通親こと源通親が握っているのだ。近衛家でないどころか藤原北家ですらない。さらに土御門通親の権勢の一翼を担っているのは後白河法皇の最後の寵姫である丹後局高階栄子である。この人もまた藤原北家ではない。また、九条兼実に代わって鎌倉幕府の権勢を利用しようにも、源頼朝が狙っているのは娘の入内であり、反九条兼実の勢力が素直に受け入れることのできる要望ではない。何しろ反九条兼実の勢力は、九条兼実を権力から放逐することについては意見の一致を見るものの、それ以外は意見の一致点を見いだせないのだ。典型的な大同団結運動の脆さというか、一つの敵を倒すために手を組んだはいいが、倒した後の協調は期待できないのである。

 これを九条兼実の立場で捉えるとどうか?

 九条兼実打倒に成功したとしても、そのあとでできあがるのは九条兼実抜きの政権だ。はたしてこの政権が強固なものであろうか?

 政権の瓦解はそう遠くない未来に起こる。それも、九条兼実の頃より悪化した経済情勢を伴った政権の瓦解が起こる。そうなったら瓦解後の政権は再び九条兼実のもとに戻る。おまけに九条兼実は二人の実弟も第一線から退かせた上に、娘である中宮任子を内裏から離している。実子の九条良経は内大臣に留まったままであったものの事実上の軟禁状態にあって政権から離れているとなると、瓦解時の政権に九条兼実は一切関わりを持たないこととなる。それが何年後になるかはわからないが、「九条兼実の頃の方が良かった」という世論を生み出すことに成功すれば、瓦解した政権に全く関わってこなかったがためにクリーンな立場である九条兼実のもとに政権が戻ってくる。

 忘れてはならないのは、一度失脚した貴族が再び政権に携わるようになるなど珍しくないというコンセンサスがこの時代にはまだ健在であったことだ。平家のように完全に抹殺された政治集団は異例中の異例であり、それ以外の政治集団は、勢力が減少することはあっても復活することは珍しくなかったのである。 


 クーデターとしてもよい建久七年の政変を主導したのは土御門通親である。

 その後の政権運営を見ても土御門通親の意向が強く反映されていることが読み取れるというのが人口に膾炙されているところである。

 しかし、よく見ると、本当に土御門通親の意向なのかと疑念に感じる点も出てくる。公卿補任を見る限り、建久七年の政変に伴う人事と断言できるのは、関白が九条兼実から近衛基通に変わったことと、藤原兼房が太政大臣を辞職したため太政大臣が空席となったこと、そして、一条高能が新たに参議に任命されたことだけである。しかも、一条高能が参議に任命されたのが一二月二五日であるから、建久七年の政変に伴う人事ではあるものの日数が経ち過ぎている。一条高能の参議就任は、建久七年の政変に伴う人事であるものの、七月二六日に亡くなった参議藤原雅長の穴埋めという側面もあったのは事実だ。誰かを参議にしなければならないことに気づいたから、土御門通親にとって都合のいい存在であり、また、源頼朝とのつながりもある一条高能を参議に任命したという側面もあるといえばそれまでだが。

 それより注目すべきは、公卿補任に記されない人事、すなわち、上級貴族の人事ではなく、実務を担う中下級貴族の人事である。

 九条兼実の家司である三条長兼の日記によると、九条兼実の関係者とみなされた人たちの多くが九条兼実の関白辞任と連動して職位を追われたことがわかる。ただし、全員ではない。そもそも現在まで残る日記を書き記した三条長兼自身が、自分の上司でもあるはずの九条兼実が関白から追われたにもかかわらず内裏に出入りしている。

 なぜ内裏を出入りできたのか?

 後鳥羽天皇自身が三条長兼を呼び寄せたのである。

 現在も残る記録によると、三条長兼だけでなく多くの中下級貴族が後鳥羽天皇に直々に呼び出されてそれぞれの職務を与えられたことが読み取れる。しかも、その記録の記載者は三条長兼だけではない。三条長兼よりはるかに有名な人物の残した記録から読み取れるのである。

 その人物の名は、藤原定家。

 新古今和歌集や新勅撰和歌集を撰進したことで現在の古典の教科書に名の残る人物であり、また、源氏物語や土佐物語が現在に残っているのもこの人が書き写して注釈を付してくれたおかげであるが、この人の本業は文筆業ではない。九条兼実の家司である。九条兼実に使えることで朝廷内での出世を果たしてきた人物であり、九条兼実の関白罷免に連動して朝廷内での地位を失ったのが藤原定家という人物である。

 雅やかな和歌を現在まで残してきていることから藤原定家という人に対して穏やかなイメージを持つ人も多いであろうが、現在も残る史料に描かれている藤原定家の姿は、穏やかとは真逆の、短気で、暴言癖があり、気に食わないことがあると怒鳴りつけるだけでなく手も出るという、現在であればパワーハラスメントで訴訟を起こされそうな人物である。

 その藤原定家が残しているのが、九条兼実の関白罷免と連動させられて官職を失ったことの嘆きと、自分と同じ境遇でありながら三条長兼のように朝廷内に居場所が用意された面々への恨み辛みの数々である。おかげで、藤原定家への同情よりも先に、建久七年の政変の後に後鳥羽天皇が抜擢した中下級貴族が誰であるのかが明らかとなっていることへの感謝のほうがつよく思い浮かぶ。特に、自分の義弟である西園寺公経が一条高能の後任の蔵人頭に任命されたことの悔しさは隠せないでいることには、藤原定家の思いよりも、客観的な記録を残してくれたことへの感謝が強くなる。藤原定家の日本文学における貢献を考えると、ここで義弟に出し抜かれたことは日本文学にとって幸運なことだったと言えるのだ。本人にとっては屈辱極まりない話であろうが。


 失脚したはずの九条兼実の家司であるはずの三条長兼が、自由自在に内裏に出入りするようになっているのは、後鳥羽天皇が三条長兼を直接呼び出すようになったからである。三条長兼は唯一の例外なわけではなく、多くの中下級貴族が後鳥羽天皇に呼び出されるようになっている。

 この件について、三条長兼は面白い記録を残している。

 建久七年の政変を境にして、後鳥羽天皇のもとに情報が数多く集まるようになったというのだ。

 藤原摂関政治においては、摂政や関白である藤氏長者のもとに情報が集中するようになっていた。日記のタイトルが御堂関白記であるにもかかわらず、生涯に亘って一度も関白に就かず、摂政就任もやむを得ぬ事情と割り切った上での短期間の就任であった藤原道長ですら、内覧として情報を優先的に入手する権利は決して手放そうとしなかった。このことは何かと藤原道長を理想としてきた九条兼実も同じであり、摂政や関白の当然の権利として自分の元に情報が届くようにしていた。もっとも、源頼朝のように独自の情報網を構築するのではなく、既存の情報網の超転移自分を組み込むという形であったが。

 院政期となると、同じような情報の集中は藤原摂関家ではなく院に向かうようになった。ただし、こちらは非公式な情報収集である。院司を利用しての情報収集であり、情報網は藤原摂関家と併存していたと言える。藤原摂関家の場合は国家統治機構を利用しての公的な情報収集、院の場合は独自の情報網構築という違いがあり、この二つは併存可能だ。

 では、建久七年の政変後の後鳥羽天皇はどうか?

 天皇でありながら独自の情報網を構築しつつあったのだ。

 これの意味するところは二つしかない。

 一つは天皇親政、もう一つは院政への布石。

 九条兼実の政権を倒すことは多くの人が同調したものの、九条兼実の政権の後の姿をどのようにするかについては全く同調できていなかった。ある者は九条兼実の後釜に自分が座ることを考え、ある者は自分が事実上の議政官の執政者として君臨することを考え、ある者は天皇親政や将来の院政を考えた。九条家以外の藤原北家が考えたのが一番目であり、土御門通親が考えたのが二番目であり、中下級貴族の考えたのが三番目であった。そして、後鳥羽天皇自身も三番目を考えた。

 大同団結で現政権を打倒した後も大同団結が続く可能性は低い。多くはこのように三々五々に分かれて相互に対立するようになる。それが相互の派閥の統治者としての能力を高め、より優れた結果を出すよう研鑽しあうなら問題ないが、多くの場合は足の引っ張り合いを繰り返すようになる。

 公卿補任にある建久七年の政変に伴う人事は三名しか確認できなかった。例年であれば年明けの一月の除目に大幅な人事変更があるのでそれまで待った可能性もあるが、建久八(一一九七)年の公卿補任を眺めてもそこまで大きな変化は無いように見える。数名の昇格や昇叙があっただけだ。

 とは言え、その数名が問題であった。公卿補任には記されていないが一月一一日に土御門通親の子である土御門通宗が蔵人頭に就任し、こちらは公卿補任に記されている記録であるが一月三〇日に関白近衛基通の子である近衛家実が一九歳で権中納言になったのである。権力を握ろうとしている人が自分達の派閥の未来のキーパーソンを朝廷の中枢に送り込んだのだ。


 京都で九条兼実が失脚したことを鎌倉の源頼朝が掴んでいなかったわけはなく、何らかの形で京都のコンタクトを取る必要も感じていた。土御門通親や丹後局高階栄子とのコンタクトを続ける必要も忘れずにいたのは無論、九条兼実不在の朝廷の在り方として可能性の高い天皇親政、ないしは新たな院政に向けて動き出す必要も感じていた。それに、この時点でもまだ源頼朝は娘の入内を断念したわけではなかった。

 源頼朝は九条兼実を通じて京都に影響力を及ぼすことに成功していたが、九条兼実を少しずつ見限るようになり、建久六(一一九五)年の上洛時にはもう、九条兼実の次を見据えた動きを見せるようになっていたが、ただ一つ、後鳥羽天皇に対する接触は弱かった。全く無かったわけではないが、天皇親政や院政復活が実現した場合に、後鳥羽天皇が鎌倉幕府へのそれなりの配慮を見せるほどの接点ではなかった。

 このタイミングで鎌倉幕府が後鳥羽天皇とつながりを持つとした場合、ベストは源頼朝の娘である大姫が後鳥羽天皇のもとに入内することであるが、多くの貴族が源頼朝の娘の入内を快く思っていない状況下では大姫の入内を前面に押し出すことはできない。かといって、後鳥羽天皇と政治的な意見が合うという理由で後鳥羽天皇と源頼朝とが協力し合うようになるとは思えない。自身の親政を経て近い未来の院政を意図する後鳥羽天皇と、鎌倉幕府という従来には存在しなかった組織を構築した源頼朝とでは、互いの求めているゴールが違いすぎる。

 ポイントとなるのは、後鳥羽天皇が多趣味の人であるという点である。政治家としての意見は合っていなくとも、趣味の世界で思いを合わせることのできる人は数多くいる。そういった人物を鎌倉幕府から送り込むことは、後鳥羽天皇と鎌倉幕府との接点の構築につながる。

 では、そのような人物が鎌倉にいるのか?

 いた。

 難波頼経の息子、飛鳥井雅経がその人だ。嘉応二(一一七〇)年生まれであるから、源平合戦の混迷を少年期に目の当たりにしているし、木曾義仲の劫掠の被害も被っているし、多感な時期に源義経が活躍を見せて京都に平穏を取り戻したことも実体験している。そのせいか、一〇歳にして叙爵するという貴族としてのエリーコースを歩んでいながら、早々に源義経に心酔し、源義経と行動を共にしようとしている。もっとも、これは父である難波頼経の影響も少なくないとも言える。ただ、父は後白河院との接近のために源義経を利用したのに対し、飛鳥井雅経のほうは後白河院ではなく心酔という形での源義経への接近であった。


 源義経と行動を共にしようとした飛鳥井雅経であるが、父親が源義経の協力者であったために配流となり、自身も連座として鎌倉に護送されると、ここで飛鳥井雅経はその才能を発揮することとなる。この人は貴族としての教育を受けてきた人であり、また、貴族の嗜みとしての和歌と蹴鞠で才能を示す人であったのだ。元からして貴族趣味のある源頼朝にとって、京都の貴族社会の教育を受けている途中の若者が鎌倉にやってきたというのは貴重なことであった。特に、息子達を自身の後継者とするために貴族としての教育も施さねばならないと考えていたこともあり、飛鳥井雅経は鎌倉における文人達の輪に加えられることとなったのだ。しかも、中原広元の娘を正室として迎えるだけでなく、源頼朝の猶子となったのであるから破格の待遇だ。

 ただ、中原広元や三善康信のように自らの意思で鎌倉に赴いた貴族達と違い、この人は父の連座で鎌倉に護送された人である。いかに鎌倉で破格の待遇を受けたとしても、本質的には京都の人間であり、京都における貴族社会こそが自らの本来の場所であると考えている。

 源頼朝はこれを利用した。

 建久八(一一九七)年二月、飛鳥井雅経の帰京が決まった。家柄は高くないため、単に京都に戻るだけであれば京都で大した出世を果たすことなどできない飛鳥井雅経であるが、経緯はどうあれ鎌倉幕府の一員と見なされるようになり、鎌倉幕府の一員として京都に派遣される、それも、自らの趣味が評価されて後鳥羽天皇のもとに送り込まれるという形での帰京とあれば、人生一発逆転を狙えるのだ。元からして後鳥羽天皇のもとに詰めかける中下級貴族たちは、後鳥羽天皇親政、そしてその後の院政に自らのキャリア構築のチャンスを見いだしている若者達である。飛鳥井雅経がその中に混ざっても何らおかしくない。源頼朝は後鳥羽天皇のもとに結集する若き中下級貴族達の中に、鎌倉幕府の一員である人物を加えることを目論んだのである。

 そしてこれが成功した。京都に戻ってからの飛鳥井雅経は後鳥羽天皇の周囲に集まる若き貴族達の一人としてカウントされるようになるのである。もっとも、後鳥羽天皇も飛鳥井雅経がどのような人生を歩んできた人物であり、また、鎌倉幕府とどのような関係を持つ人物であるかぐらいは知っている。源頼朝が飛鳥井雅経を利用して後鳥羽天皇との関係を構築したと同時に、後鳥羽天皇にとっても飛鳥井雅経は鎌倉との接点を有するために貴重な存在となったのである。


 後鳥羽天皇のもとには人生一発逆転を狙う者が集まり、後鳥羽天皇は周囲に集う野心家達を自分の手駒として利用するようになっていた。

 後鳥羽天皇は自らの周囲に野心家を集めたが、野心があるだけでは後鳥羽天皇の側に身を寄せることはできない。それが趣味の世界であろうと、あるいは実務の世界であろうと、後鳥羽天皇の求める資質を持った人物でなければ後鳥羽天皇の周囲に身を寄せることは許されなかった。彼らの野心は彼らの全員が後鳥羽天皇の求めに応えていたならば歴史は大きく変わっていただろう。

 しかし、歴史はそれを許さなかった。

 後鳥羽天皇の対宗教対策の根幹である天台座主承仁が体調不良を訴えるようになり、無理して出仕するようになったのである。誰の目にも無茶な行動であったが、承仁の使命感の高さからか、それとも後鳥羽天皇が無茶をさせたのか、病人が無理して出仕していることを隠すことはできず、建久八(一一九七)年四月になると白河の房に籠もるようになり、四月一〇日に天台座主から降りざるを得なくなっていた。

 その後も承仁の体調は戻ることなく、建久八(一一九七)年四月二七日、前天台座主承仁、入滅。承仁は三〇歳を迎える前に死を迎えた。

 承仁を失った後鳥羽天皇は、承仁の弟子である承円に門跡の相承を認める宣言をすぐに下している。しかし、天台座主にただちに任命することはできなかった。承円は治承四(一一八〇)年生まれの一〇代の若者であり、また、松殿基房の息子でもあるため、本人の僧侶としての資質以前に権力関係の問題からこの時点で天台座主に就くことは不可能であった。天台座主の地位が突然空席になったために、天台座主の座を巡る争いが始まり、実に一年近くに亘って天台座主が空席であり続ける時代を迎えることとなる。

 流人時代から京都の情報を定期的に収集していた源頼朝のことである。源頼朝がこの情報を掴んでいないわけがない。

 これは推測の域を出ないが、源頼朝は九条兼実の実弟である慈円を天台座主に復帰させることで、九条兼実の、さらには九条家の再興を図り、その延長で源頼朝の娘である大姫を後鳥羽天皇の元へ入内させることを計画していたようなのだ。

 断言できないというのは、建久八(一一九七)年の九条兼実の日記が四月二日を最後に欠落しているからである。また、建久八(一一九七)年の日記そのものも、一月一日から四月二日まで毎日続いているわけでなく、ほとんどの日が欠落しているのである。そして、欠落していない部分を追いかけると、源頼朝と九条兼実との間の書状のやりとりの記録が残っているのである。九条兼実を通じて宗教界に影響を与える人物を天台座主に据えるとすれば、その答えは慈円しかいない。

 ただし、源頼朝が娘を入内させることを前提としたやりとりは七月で終わりを迎えたはずである。

 建久八(一一九七)年七月一四日に大姫が亡くなったのだ。


 大姫は治承二(一一七八)年に源頼朝の娘として生まれ、六歳のときに木曾義仲の後継者であるはずの源義高と婚約しており、このまま年月を重ねれば源義高との結婚生活が待っているはずであった。

 しかし、木曾義仲が討ち取られた後に源義高も誅殺されると、その瞬間に大姫の人生は終わってしまった。無理もない。現在の学齢でいくと小学二年生から三年生だ。その年齢の少女が、将来の結婚相手と考えていた源義高の死を知った、それも、他ならぬ父の命令で殺害されたのである。源義高の死を知った瞬間から大姫は病床に伏すようになり、その後も体調はまともに回復することは無かった。

 それでも病床で横になったままというわけではなく、起き上がって日常生活を過ごすぐらいはできるようになっていた。ただし、そこにいるのは源義高と一緒に暮らしていた頃の明るい少女ではなく、人生に絶望した少女だった。

 その後、源頼朝は摂政近衛基通に大姫を嫁がせることを考えたが、藤氏長者に九条兼実を推して九条兼実による摂関政治を考えるようになったことで近衛基通の元へ嫁がせる話は頓挫した。その後、源頼朝は一条高能のもとに嫁がせることも考慮するようになったが、これは大姫自身の猛反発で白紙に戻った。

 大姫を含む鎌倉幕府にかかわる全ての人が反対しなかった大姫の嫁ぎ先、それは後鳥羽天皇であった。ただし、大姫が反対の意思を示さなかったというだけで、積極的に大姫が賛成したという記録はどこにもない。また、大姫の入内を求めているのは源頼朝と鎌倉幕府の面々だけで、源頼朝と協力関係にある時期の長かった九条兼実ですら大姫の入内については同意していなかったし、九条兼実への反発のために源頼朝と接近することを選んだ土御門通親も大姫の入内については快く思っていなかった。

 建久六(一一九五)年に大姫が上洛したことは記録に残っている。いかに源頼朝が東海道を整備して京都と鎌倉との陸路の時間を半分に短縮させたといっても、それでも最短で七日を要しており、現在のように新幹線で移動できるような時代ではない。建久六(一一九五)年の上洛はスピードを重視した上洛行ではなかったとは言え、また、大姫自身が歩いたわけではなくその多くは輿に担がれての移動であったとは言え、大姫は家族とともに鎌倉から京都まで向かい、そして無事に鎌倉に戻ってきたのであるから、大姫は源義高の死をきっかけとして体調を悪化させたと言っても鎌倉と京都を往復できるだけの体力をつけるまでは回復していたこととなる。

 吾妻鏡が欠落していることもあり、京都から鎌倉に戻ってきてからの大姫の動静はそのほとんどが不明である。鎌倉と京都との間を往復できる体力までは取り戻したものの、心因性からと思われる不健康は大姫の身体をむしばみ、建久八(一一九七)年七月一四日、大姫は死を迎えてしまった。享年二〇。


 慈円は愚管抄にて、大姫を失った源頼朝が、大姫の妹である三幡を入内させようと画策したと記述した。しかし、吾妻鏡の欠落もあって、三幡という女性についての記録は乏しい。文治二(一一八六)年生まれではあることはわかっているものの、吾妻鏡の文治二(一一八六)年の記事のどこを探しても三幡という女性が登場することはない。また、北条政子の産んだ女児であることも判明しているのだが、この年に北条政子が妊娠していることの記録も出産したことの記録も存在しない。

 三幡の記録が登場しないのはその後も同じで、建久六(一一九五)年の源頼朝の上洛に同行したという記録もない。源頼朝らを京都で迎えたはずの貴族達の記録のほうにも現れないことから、後に源実朝と呼ばれることとなる弟の千幡とともに鎌倉に残っていたものと推測される。

 また、源頼朝は別方面から朝廷との接触を図っていたことの記録も残っている。

 源頼朝は、千幡の乳母夫と乳母に、源頼朝の弟である阿野全成とその妻の阿波局を任命していた。阿波局は北条政子の妹である。そして、阿野全成と阿波局の間には娘が産まれていた。血縁で考えると源氏としてだけでなく北条政子にしても北条氏の血を引く女性であるため、自分の産んだ娘と同格とまではいえないにせよ、鎌倉幕府が京都に送り込む女性としてかなり価値の高い女性となるはずである。

 源頼朝は自分の姪にあたるその少女を、信頼のおける殿上人である阿野公佐こと藤原公佐に嫁がせたことが判明している。承久の乱の後に天皇の侍従となった藤原実直の尊卑分脈による記載に従うと、阿野全成と阿波局の間に生まれた女性が阿野実直の母であることが確認できる。ことと、阿野全成と阿波局の出会いがいつ頃かを考えると建久八年(一一九七)年時点で一五歳から一六歳頃と推測できる。なお、源頼朝の弟である僧侶の全成が阿野全成と名乗るようになったのは駿河国阿野に住まいを構え所領を手にしたからであり、阿野全成の亡くなった後に阿野の所領を藤原公佐が相続したことから、藤原公佐は阿野公佐と呼ばれることとなったという経緯がある。

 さらに、自他共に認める源頼朝の協力者である吉田経房は、娘を阿野公佐の兄である滋野井公時こと藤原公時に嫁がせており、源頼朝は藤原北家閑院流三条家との結びつきを考えたことがわかる。阿野家も滋野井家も藤原北家閑院流三条家を構成している家である。藤原北家でありながら本流ではなく、本流ではないものの重要な家流と見做されている閑院流の主軸ではなく三条家の、さらにその一部である滋野井家と阿野家である。九条兼実という藤原摂関家の当主も務めた人間との結びつきに比べれば弱いように見えるが、血筋は弱くとも実力はある者が多い。

 ここで思い出してもらいたいのが、後三条天皇の周囲に集う中下級貴族達というのが、自らの実力を確信しながら血筋のために権勢を掴めずにいる者達ということである。その野心の上で、後鳥羽天皇がその実力を見いだしたなら初めて後鳥羽天皇の周囲に侍ることができるようになるのだ。


 この時代の貴族達は、源頼朝が大姫を亡くしても自分の娘の入内を諦めないでいること、また、源頼朝がこの時代の最大の武力を有していることも熟知しているが、源頼朝の武力を背景に源頼朝の要望に屈するようでは貴族ではない。貴族というものは、良く言えば百戦錬磨、普通に考えれば底意地が悪い存在である。源頼朝が自分の娘を入内させようとしている状況とは源頼朝にとって現在の立場が良好とは言えない状況であることを意味し、源頼朝の意向を後回しにして自分の娘を後鳥羽天皇のもとに入内させ、土御門通親と同様の立場、あるいは、土御門通親よりも上の立場を獲得するチャンスであることも意味する。

 この時点で誕生している後鳥羽天皇の皇子は土御門通親こと源通親の養女が産んだ為仁親王である。すなわち、源通親の娘であれば母を村上源氏とする皇子ということで為仁親王は皇位継承に何ら問題を有さないが、源通親の養女である源在子は僧侶の能円と藤原範子との間に生まれた女性である。僧侶の能円が平家都落ちに帯同する際に妻と娘を捨て、夫と離縁した藤原範子は娘を連れて土御門通親と再婚した。土御門通親は妻の連れ子を養女に迎え入れたために源在子は源姓を手に入れて村上源氏の一員となることに成功していたが、周囲はそのように考えていない。彼女はあくまでも僧侶の能円の娘である。為仁親王の生母は僧侶の娘であるために為仁親王は母の地位の低さが問題となり、他に男児が生まれたならその男児のほうが為仁親王よりも皇位継承権で高くなる。さらに言えば、能円は壇ノ浦の戦いで捕らえられ罪人として京都に連行されていたから、為仁親王は僧侶の孫というだけでなく国家反逆者の孫でもあるため、よりいっそう立場が弱いものとなる。ちなみに、壇ノ浦で拿捕された能円は備中国への流罪となったのち文治五(一一八九)年に赦免となり京都に戻ってきたが、そのときにはもう、自分の元妻が土御門通親と再婚したこと、自分の娘が土御門通親の養女となったこと、そして後鳥羽天皇との間に皇子を産んだことを知ってはいたものの、どうにもできずにいた。没年が正治元(一一九九)年であることは判明しているためこの時点で能円が存命であったことは確実であるものの、このときの能円の動静を伝える歴史資料は無い。

 話を土御門通親に戻すと、この時点で次期皇位継承権に伴う院政のキーパーソン争いでポールポジションに立っていたのは土御門通親であるが、理論上こそ村上源氏であるものの、実際には僧侶、それも源平合戦の敗者となった僧侶の娘より生まれた皇子ということで、為仁親王の立場は必ずしも強いものではなかった。


 しかし、建久八(一一九七)年九月一〇日、藤原範季の娘の藤原重子が後鳥羽天皇の皇子を産んだことで、藤原範季は土御門通親に続いて後鳥羽天皇の皇子の祖父となった。

 これで話はややこしくなった。藤原範季は藤原氏であるが藤原北家の人物ではなく藤原南家の人物である。もともとは後白河法皇に仕える蔵人であり、平治の乱の後は各地の国司を歴任する身になっていた。ここまではまだいい。

 この人のキャリアには三つ問題があった。

 一つは平治の乱の後で源範頼を引き取って養育するようになったこと。

 二つ目は安元元(一一七五)年から治承二(一一七八)年まで陸奥守兼鎮守府将軍として奥州藤原氏第三代当主藤原秀衡の協力者であったこと。

 三つ目は文治二(一一八六)年に源義経を匿ったことを理由に解官となり、建久八(一一九七)年時点で位階はあるものの官職を有していなかったこと。

 源頼朝にとっては三重の意味で厄介なキャリアを築いてきた人間ということになるが、後鳥羽天皇にとっては有能な貴族が官職を得ることなく不遇の日々を過ごしているということになり、無官であるがために後鳥羽天皇の周囲に置くに最良の人材ということになる。従来であれば大江氏もしくは菅原氏でなければ就任できない天皇の教育係である侍読(じとう)に就任したのも、藤原範季の学問的素養において申し分なかったことに加え、他の官職に就いていないために侍読(じとう)に任じることに何ら支障がなかったという事情があった。

 侍読(じとう)を務める貴族の娘がその時代の天皇と関係を持って子を産むこと珍しくなく、後鳥羽天皇はその珍しくないことを起こした。藤原範季は藤原南家の人間であり藤原北家の人間ではないが、侍読(じとう)を務める貴族の娘となれば天皇の母の血筋として申し分ない。それこそ、仮に源頼朝の娘を入内させることに成功し、その娘が後鳥羽天皇との間に男児を産んだとしても、その男児が皇位継承をするのは困難になるというレベルの話だ。


 大姫を失った源頼朝は三幡を入内させようとしたものの入内させられずにおり、様々な手段を練って朝廷に食い込もうとしているものの上手くいかずにいる。

 これは源頼朝だけの話ではない。九条兼実への反発で集まった面々が、いざ九条兼実を関白から引きずり下ろすのに成功したあと、明瞭な権力の構築をできずにいる。誰もが自分の、あるいは自派の拡張を狙って他者を牽制しあう状況が前年一一月からずっと続いており、源頼朝が入り込む隙間などなかったのだ。何だかんだ言って九条兼実のもとに権力が集中していたのは、敵を多く生み出すものの、権力構造の明瞭化という点ではメリットが大きかった。それが無くなったことで混迷が続いてしまったのだ。

 その混迷の中で、相対的に他者より一歩リードしていたと言えるのが権大納言土御門通親である。

 まず、空席となっていた天台座主に弁雅を就任させることに成功した。弁雅はかつて権大納言を務めた源顕雅の息子であり、土御門通親の祖父である源雅実と弁雅の父親である源顕雅は兄弟であるから、土御門通親にとっては親族の一員を天台座主に据えたことになる。それでいて、年齢的にも、僧侶としてのキャリア的にも、この人が天台座主にするのは問題ないと思われた。弁雅の父の源顕雅がこの世を去ったのは保延二(一一三六)年のことであるから、その息子とあればどのぐらいの年齢の僧侶であるか想像できるであろう。

 さらに土御門通親は伊予国を知行国とすることにも成功した。伊予国は美濃国と並んでもっとも国司に就任するのが難しい令制国である一方、中下級貴族にとって国司になることイコール莫大な資産と将来のエリートコースの双方を期待できることを意味する令制国でもある。京都のヒーローとなっていた源義経の最後の公的官職が伊予国司であったことを思い出していただければ、伊予国司がどれだけ羨望の的となる官職であるか想像できるであろう。その伊予国を知行国とする、すなわち国司任命権をこの手にできるということは、土御門通親本人が莫大な資産を得る機会を得たと同時に、中下級貴族に強い影響を与えることもできるようになったということだ。

 一方、関白に復帰した近衛基通も負けてはいなかった。治承三年の政変で関白にとなり、翌年には安徳天皇の摂政となった近衛基通であったが、その当時は未熟な関白、頼りない摂政と評され、源平合戦期も無力を露呈せざるを得なくなっていた過去がある。木曾義仲によって摂政を追われ、木曾義仲放逐後に摂政に復帰したものの、最終的には再び追われて九条兼実に摂政位を譲らねばならなくなった過去もある。しかし、それから一〇年を経て三八歳となった近衛基通は、年齢を重ね、経験を積んだことで、関白として申し分ない人物に成長していた。九条兼実は実の甥である近衛基通のことを後白河法皇の男色の相手をしたから摂政であり続けたと貶し、慈円は愚管抄で近衛基通のことを無能な人物と評しているが、建久七年の政変後に関白に復帰した近衛基通は、なかなかどうして、そこまで傀儡になるほどの人物ではないことを示すことに成功した。自身の後継者である近衛家実を、参議の経験無しに一気に権中納言に就任させ、並行して従二位に昇叙させることで、近衛家による摂関の継承を内外に広めることにも成功していた。このときの近衛家実はまだ一九歳であるが、藤原摂関家の次期当主としては順当なキャリアの構築である。

 こうした京都の情勢と比べると源頼朝は無力であった。その上、建久八(一一九七)年一〇月八日に、京都における源頼朝のかけがえのない協力者であり、源頼朝の妹と結婚したことから源頼朝の義弟でもある一条能保が五一歳の生涯を終えた。一条能保は三年前に病に倒れて出家して第一線から退いており、後継者の一条高能が政界デビューして参議に登り詰めているとはいえ、源頼朝にとってはあまりにも痛い話であった。


 吾妻鏡の欠落のために、昔から議論の起こる話がある。

 源頼家はいつから源頼家と名乗るようになったのかという話である。

 源頼家の幼名が万寿であることは誰も異論がなく、元服時に源頼家と名乗るようになったことも意見の一致を見ている。

 問題は、どのタイミングで元服を迎えたのかという点だ?

 建久四(一一九三)年の巻狩のときか?

 建久六(一一九五)年の上洛のときか?

 吾妻鏡が源頼家を詳しく書き記している場面を読んでも、また、同時代史料における源頼家の扱いを見ても、建久六(一一九五)年の上洛までの源頼家に関する内容は元服を迎えた人物に対する扱いではない。かといって、巻狩のときはともかく、京都の上洛時の源頼家の行動の中には元服前の少年が許されるであろうかと疑問を持つ行動もあるのも事実だ。

 公的資料における源頼家の名の初出は建久八(一一九七)年一二月一五日、源頼家が従五位上に叙し、右近衛権少将に任官したという記録である。このときの源頼家は一六歳であるから、正二位の貴族の嫡男の貴族デビューとしてはおかしくないキャリアのスタートである。他の貴族と違うことがあるとすれば京都から遠く離れた鎌倉に住まいを構えていることぐらいであり、それ以外に関しては、この時点の源頼家は典型的な貴族の子弟としてのキャリアスタートであったことがわかる。

 そして、源頼家の名は公的文書に記される名でもあるため、少なくとも建久八(一一九七)年一二月には元服を終えて幼名を捨てたことが確認できる。

 それにしても、関白近衛基通の息子は従二位の権中納言で、源頼朝の息子は従五位上右近衛権少将というのは大きな差に感じるが、だからこそ、ここで源頼朝が征夷大将軍を羨望したことの効果が発揮されるとも感じる。

 征夷大将軍に求められる位階は決して高くないのだ。

 正二位である源頼朝が征夷大将軍であることのほうがおかしく、位階だけを考えれば、源頼家の位階がもう少し上がれば、具体的には従四位下まで上がれば、それで征夷大将軍を継承することができ、鎌倉幕府は継続するのだ。たしかに源頼朝は征夷大将軍の辞意を伝えている。しかし、鎌倉幕府を白紙に戻すとはしていない。源頼家の位階が征夷大将軍に就任できるレベルまで上がったら、それで鎌倉幕府の継承は成立するのである。

 現在に生きる我々はこの後の歴史を知っている。ゆえに、源頼家がこのタイミングで貴族の一員となったことをギリギリの出来事であったと感じる。だが、当時の人は当然ながら未来に起こる出来事など知りようがない。現在に生きる我々がギリギリのことと感じることであっても、当時の人にとっては何ら問題無いことと感じたはずである。なにしろ源頼朝は前例の無い権力体制を構築しているのだ。その権力体制のトップを担う人物への権力継承もまた前例の無い話であり、その時代に存在する制度に則った上での最良を模索するしかなかったのである。その最良こそ、このタイミングでの源頼家の貴族界デビューであった。


 建久八(一一九七)年の年末時点での鎌倉幕府の継承は理論上の話であったが、それよりはるかに大きな継承、すなわち、皇位継承は現実味を帯びてきていた。かなりの可能性で、後鳥羽天皇は退位して上皇となり、院政を敷くという未来が見えてきたのである。

 建久七年の政変時、後鳥羽院政は可能性の一つとして考えられはしたものの、現実味を帯びた話ではなかった。それが一年近くの時間経過で現実味を帯びるようになってきた。源頼朝は情報の重要性を強く認識していた人であるから例外に近いが、源頼家が従五位上右近衛権少将に任命されて貴族の一員に列せられた際、源頼朝は息子への配慮を感謝すると同時に、幼帝への譲位を「甘心」しないとの書状を送っていることから、建久八(一一九七)年一二月時点で既に、鎌倉ではそう遠くない未来に後鳥羽天皇が譲位をし、同時に院政を開始するとのコンセンサスが誕生していたことが窺える。

 関白罷免となった九条兼実が以前のように源頼朝と書状のやりとりをしていたことは九条兼実の日記にある。関白辞任後の九条兼実の日記については現存する記事は少なくなってしまっているものの、その残り少ない記事の中から九条兼実と源頼朝との書状のやりとりの内容を調べてみると、年明けの建久九(一一九八)年一月四日に九条兼実の元に届いた書状の中で、後鳥羽天皇の退位は決定事項であり、問題は誰が帝位を継ぐべきかという局面になっていることが、九条兼実と源頼朝との間で共通認識として成立していたことが確認できる。

 注意していただきたいのは、誰が帝位を継ぐかという共通認識は形成されていないことである。

 九条兼実はここではっきりと、土御門通親の養女が産んだ皇子は、村上源氏の女性を母とする皇子ではなく、僧侶の能円と藤原範子との間に生まれた女性を母とする皇子であると記している。僧侶の娘であるというだけでも皇位継承権が下がるのに、妻と子を捨てて平家都落ちに帯同した能円の孫となると為仁親王の皇位継承権にも疑念が生じるのだ。九条兼実によれば僧侶の外孫が天皇になるなどという前例など無く、自らの養女とすることで前例の無いことを強行しようとしている土御門通親を手厳しく非難している。

 その上で九条兼実は、後鳥羽天皇の二人の兄、すなわち、守貞親王と惟明親王の二人のどちらかが皇位を継承すべきであるとしている。後鳥羽天皇は高倉天皇の第四皇子であり、第一皇子は壇ノ浦の戦いで海に沈んだ安徳天皇、第二皇子の守貞親王は安徳天皇の擬似的な皇太子として平家とともに行動させられた後、鎌倉方に救出されて帰京したものの、帰京時にはもう第四皇子が後鳥羽天皇として即位していた。平家物語によると第三皇子の惟明親王と第四皇子の尊成親王のどちらが帝位に相応しいかを考えた後白河法皇が、尊成親王のほうが兄と違って躊躇うことなく自分の膝の上に座ったことから尊成親王を帝位に就けることを決め、後鳥羽天皇として即位したというのが後鳥羽天皇即位時の状況だ。


 後鳥羽天皇の即位の状況はこの時代の人であれば誰もが知っている。ゆえに、帝位に就く資格を有しながら弟に追い抜かれた守貞親王と惟明親王のことは、この時代の人であれば誰もが知っている。これは平家物語の延慶本の伝えるところであるが、どうやら源頼朝は守貞親王を後鳥羽天皇の次の天皇と目論んでいたようなのである。ただし、源頼朝が守貞親王をわかりやすい形で推していたのではなく、文覚を通じて守貞親王の即位の後援をしていたというのが平家物語の記載だ。

 ただ、これは平家物語の過剰反応とも言える。

 守貞親王と文覚の関係は、平家都落ちに帯同させられた守貞親王が壇ノ浦の戦いののちに保護され京都へと戻ったときから始まる。本人の望まぬ形であったとはいえ平家とともに行動させられ、京都に戻ってきたら弟が帝位を継承していたというのが守貞親王だ。京都に戻った守貞親王は、乳母の治部卿局が後白河法皇の姉である上西門院に仕えていた関係から上西門院のもとで養育されるようになり、上西門院が亡くなった後は文覚の庇護のもとで暮らすようになっていた。文覚は色々と評判のある人物であるが、一人の僧侶として、平維盛の子の六代や、平重盛の子で藤原経宗の猶子となっていた平宗実の延命を源頼朝に頼み込んでいたこと、そして、その身柄を預かることで生活を保障していたこと、さらに、治部卿局と平知盛との間に生まれた平増盛を鎌倉の勝長寿院の供僧とすることで助命に成功しているなど、壇ノ浦で散った平家の生き残りの人々を援助していたことは有名である。高倉天皇の第二皇子にして後鳥羽天皇の実兄という特殊な立場であるものの、源平合戦の敗者の一人としてもカウントされてしまっている守貞親王を助け出していることは否定できず、源頼朝にとっても鎌倉幕府に反旗を翻さないでいる平家の関係者を保護している文覚の存在はありがたいものであったろう。また、守貞親王が帝位に就くことがあれば源頼朝にとってこれ以上ない結果であったろう。

 ただ、それは非現実的な話であった。

 弟が退位して兄が帝位に就くだけでも珍しい話であるが、帝位を退いた後に院政を始めるとなると前例など無い。それに、院政を始めることを考えるならば、とっくに元服を迎えている後鳥羽天皇の兄が帝位に就くより、摂政を必要とする幼児が帝位に就くほうが院政をスムーズに遂行できるようになる。文覚は守貞親王のことを有能な人物と評しており、帝位に就いたならば名君になるであろうとしているが、これから院政を始めようと画策している面々にとっては、有能な人物が帝位に就くほど都合の悪いことはない。院政を始めるのに必要なのは天皇親政が期待できない天皇なのである。特に、年少者であるがゆえに摂政を必要とする天皇であれば院政における天皇として最上の選択肢となるのだ。


 建久九(一一九八)年一月五日、権大納言土御門通親が後院別当に就任することが発表された。後院別当とは、字義だけを捉えれば天皇の退位後の住まいの管理人であるが、そのような字義で捉える者などいない。院政という概念が誕生した後の後院別当とは間もなく始まる院政のキーパーソンに任命されたことを意味する。土御門通親の後院別当就任により、間もなく後鳥羽天皇が退位すること、退位して後鳥羽院政が始まること、後鳥羽院政において土御門通親が重用されることが決まったのだ。

 そして、次期天皇が事実上公表された。

 建久九(一一九八)年一月七日にはもう、後鳥羽天皇が自分の幼い皇子に帝位を譲るつもりでいることが判明したのである。反発する人もいるが、もはや過去の人となってしまった九条兼実や、遠く鎌倉にいて京都の政治と直接関係することがなくなっている源頼朝は、後鳥羽天皇の皇子が帝位を継承することに難色を示したものの、既に動き出した皇位継承に口を出せる立場ではなくなっていた。

 九条兼実にできるのは、現状を嘆き、貶す文面を書く記すことであった。土御門通親を口汚く罵り、甥でもある関白近衛基通が土御門通親と共謀してこのような事態になったと批判し、このあと土御門通親は新たな院政において院別当として権力を手に入れ、禁裏も仙洞も掌中に入れることになるだろうと非難している。

 また、譲位においては右近衛大将と左近衛大将の両名が揃っていなければならない先例を踏まえると、九条兼実の息子で左近衛大将兼内大臣である九条良経は建久七年の政変を期に事実上の軟禁状態となっているが、軟禁状態が解かれる見込みが立っていないことからかなりの可能性で九条良経は左近衛大将を罷免されることとなる。また、新たな天皇が土御門通親の養女の産んだ男児となると、事実上はともかく理論上は土御門通親が天皇の外祖父となるが、このときの土御門通親の役職は権大納言であることを考えると、外祖父に権威を与えるために最低でも内大臣へ昇格させるであろうことも考えられる。つまり、建久七年の政変後も九条家でただ一人朝廷の中枢に身を起き続けることに成功していた九条良経が名実ともにその地位を追われることとなると、九条兼実は危惧している。

 一方、愚管抄の作者である慈円はそこまで指摘していない。慈円は徹頭徹尾、後鳥羽天皇の意思によって譲位が画策されたとしており、甥の九条良経が、左近衛大将はともかく内大臣を追われることを危惧していない。

 なぜか?

 そもそも左大臣職が建久七(一一九六)年三月からずっと空席のままなのだ。大臣位にある者は花山院兼雅こと右大臣藤原兼雅と内大臣九条良経の二名で、左大臣が空席である。誰もいないことが通常態である太政大臣も考えると、四つの席がある大臣位に現時点で二人しか就任していないのであるから、土御門通親が大臣位を得たとしても何ら問題などないのだ。

 建久九(一一九八)年一月八日に馬と剣が伊勢神宮、石清水八幡宮、賀茂社といった神社に進められて譲位の祈りが執り行われた。

 翌九日に閑院内裏にて譲位の議定が開かれた。白河院が堀河天皇に譲位した応徳三(一〇六八)年の例に則って為仁親王への譲位が決まった。なお、本作ではこれまで後鳥羽天皇と源在子の間に生まれた皇子のことを為仁親王と記してきたが、皇子が為仁親王と名付けられたのは建久九(一一九八)年一月一一日のこと、すなわち皇太子となったときにはじめて名付けられた。

 そしてこの為仁親王は、皇太子となってすぐに皇太子でなくなった。


 同日、後鳥羽天皇が退位して為仁親王に帝位を譲ったのである。土御門天皇の治世のスタートであり、後鳥羽院の院政のスタートの瞬間でもあった。

 土御門天皇はまだ三歳であるため、天皇としての政務を執ることは期待できず摂政が必要となる。土御門天皇の治世のスタートに合わせて関白近衛基通は関白を一旦辞任し、改めて土御門天皇の摂政に任命された。摂政にしろ、関白にしろ、自動的に就任できる役職ではなく天皇によってその都度任命される役職であるという建前は変わることない。

 そして注意すべきは、摂政近衛基通が土御門天皇の祖父ではないという点である。養女であるとはいえ、土御門天皇の母は権大納言土御門通親こと源通親である。にもかかわらず、摂政に就任したのは父が帝位にあった頃の関白であった近衛基通である。源通親はこの時代の人達から「源博陸」、すなわち、関白と同等の有力源氏という渾名を受けることになったが、あくまでも同等であって朝廷の職掌上、土御門通親が藤原摂関家の上に立つことはなかった。土御門通親は既に後鳥羽院の院司であることは決まっており、院政における実権確保という点では藤原摂関家の上に立つことができたが、さらにその上に後鳥羽院がいるという構図が完成したのである。

 ちなみに、このときの土御門天皇の即位のときに、表立った問題とはならなかったものの、一歩間違えれば大問題となること間違いなしのことをしでかした人物がいる。藤原定家がその人で、「光仁の例によるなら弓削法皇は誰なのか」と批難している。弓削法皇とは奈良時代の道鏡のことで、今回の土御門天皇の即位に至るまでの経緯を先例と比較し、九条兼実を道鏡と扱っていると日記に書き記している。もし外部に流出したら流罪を喰らっていたであろう。

 なお、現在からすると大問題となるが、このときは問題となっていなかったことが一つある。三種の神器が揃っていないことである。三種の神器の一つである天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は壇ノ浦に沈んだままであり京都にはない。ただし、皇室で保管している天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は形代(かたしろ)であり、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)の現物は熱田神宮に存在する。そして熱田神宮からは、熱田神宮の宮司の血を引く源頼朝が新たな天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)であり、源頼朝が就任している征夷大将軍がこれからの天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)であると宣言されているので、壇ノ浦から引き上げることに成功した八咫鏡(やたのかがみ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)と合わせることで、三種の神器は揃っているという体裁が成立する、ということになっている。


 土御門天皇の治世が始まったことで新帝の外祖父となり、院政を始めた後鳥羽院の院司となった土御門通親こと源通親の権勢は頂点を極めるはずであった。

 しかし、後鳥羽院はまだ一九歳という若さながら既に老獪さの片鱗を披露するようになっていたのである。

 土御門通親の権勢の根幹は、天皇の外祖父であることと、後鳥羽院の院司別当、つまり、後鳥羽院に仕える貴族や役人達のトップであることの二点である。

 そして、この二点とも永続する要素ではない。

 どういうことか?

 替えが効くのだ。

 後鳥羽院にとっては自分の息子が帝位に就いていることが重要なのであり、息子であれば誰でもいい。土御門天皇が即位したのは、第一皇子だからというより、後鳥羽院政を始めるにあたって新たな天皇としてもっとも都合が良かったからである。土御門天皇が元服を迎え自らの意志を持って政務に取りかかるような時代を迎えたとき、日本国全体を考えたなら喜ばしい話になろうとも、後鳥羽院政にとっては不都合な話になる。そのとき、かなりの可能性で土御門天皇は後鳥羽院によって退位させられ、土御門天皇の弟か、あるいは、その頃に生まれている可能性のある土御門天皇の皇子が新たな天皇として即位する時代になっている。そうなったら、土御門天皇の外祖父であることなど権勢の根拠とつながらなくなる。

 もう一つの根拠である院司別当はもっと簡単に替えが利く。そもそも院司別当は正二位権大納言という高位の貴族の就く役職ではない。院司別当とは四位の位階の貴族が就くことの多い役職であり、院司別当を経験した後に三位以上の位階を経て議政官入りするというキャリアプランのほうが一般的なのだ。それなのに土御門通親は議政官のトップクラスでありながら院司別当に就いている。位階と役職を考えると、土御門通親が院司別当であることのほうがおかしく、今すぐ別人が院司別当に任命されることとなったとしても、それは罷免ではなく出世になるのだから、土御門通親としても感謝の言葉を述べるしかなくなる。

 しかも後鳥羽院は自身の退位と同時に殿上人の厳選まで実施した。後鳥羽天皇の時代は八〇名を数えていた殿上人が三〇名に絞られ、後鳥羽院の院司には別当である土御門通親をはじめ、在位中の側近がそのまま選ばれた。しかも、彼らは協力関係にあるのではなく競争関係に晒されている。花山院忠経、坊門信清、西園寺公経、源通宗、高階経仲、日野資実といった面々だ。

 先に土御門通親が正二位権大納言という高位の貴族であることを記したが、実際、このときの土御門通親は従来の院政では考えづらい高位の貴族である。また、院内の他の貴族と比べて群を抜いている位階と役職である。しかし、土御門通親ただ一人が高位の貴族であるわけではなかった。花山院忠経は従二位権中納言という、土御門通親から見れば格下だが従来の院政では考えられない高位の貴族である院司である。また、源通宗は土御門通親の実の息子であり、土御門通親の身に何かあったとしても、あるいは土御門通親が出世して院司から離れることがあったとしても、土御門通親の息子が後継者となるとあれば土御門通親は何も言えなくなる。

 後鳥羽院は想像しているよりも手強い上皇であり、後鳥羽院政は想像よりも手強い院政になると誰もが痛感するようになったのだ。


 さて、ここまで後鳥羽上皇ではなく後鳥羽院と記してきたのには理由がある。

 実は、天皇を退位すると同時に上皇となるのではない。天皇退位の後に太上天皇の尊号が奉られてはじめて上皇となるのである。ゆえに、退位してから上皇となるまでの間は、後鳥羽院と記すことならばできても後鳥羽上皇とは記せないのである。

 また、どんなに用意周到な譲位ではあっても、退位と同時に上皇として院政を開始できるわけではない。このあたりは、衆議院の総選挙で次期首相が決まったとしても、正式に総理大臣に就任するのは国会での指名の後であるという現在の仕組みに近い。

 そしてこれも現在の新内閣発足に似ているが、誰を院司に任命するかを事前に決めていても正式な任命は内閣発足後であるように、後鳥羽院の院政の正式なスタートも、後鳥羽天皇の退位と同時ではなく、建久九(一一九八)年一月一七日が正式な日付である。

 正式に上皇となったのはその三日後の一月二〇日に太政天皇の尊号が奉られたときであり、後鳥羽上皇の上皇権力による正式な院政もこの日がスタートである。一九歳の治天の君の誕生である。

 これで後鳥羽上皇は日本国の最高権力者として自分の思い通りの政治を執り行うことができる、はずであった。いや、その環境は整ったのであるが後鳥羽上皇は使わなかった。これは後鳥羽上皇に同情すべきところでもあるが、院政開始後の後鳥羽上皇の日常についての記録の多くは藤原定家の日記に由来する。そして、藤原定家の日記に記された後鳥羽上皇の記載であるが、よくもまあ後鳥羽上皇のここを悪し様に書けるものだと感心してしまう内容であり、悲しいかな、この藤原定家の評価が院政開始直後の後鳥羽上皇の評価として定着してしまっているのだ。

 退位した翌日に蹴鞠、太上天皇の尊号が奉られてから二日後にまた蹴鞠。さらに一月二七日には後鳥羽上皇が牛車に乗って最勝光院に御幸したのだが、そのときに乗った牛車は身分の低い女性用の牛車である女車。こうしたことを藤原定家は嘆かわしいとして断罪している。

 牛車について言うと、この時代のマナーとして、牛車同士がすれ違うことがあるなら格下の側の牛車が格上の牛車に道を譲らねばならないだけでなく格下の牛車の中に乗っている人も牛車から降りて格上の牛車が通り過ぎるのを待つしかないのだが、どちらが格上かを争うことは珍しくなく、この争いを避けるためもあってか、どのような身分の人が乗っている牛車なのかわかるよう外見の違いを設けており、序列で言うと女車というだけで無条件に格下になる。ゆえに、貴族が乗る牛車が他の牛車とすれ違う場合、相手の牛車が女車であれば女車に乗っている側が牛車から降りて道を譲らねばならないのだが、その中に乗っているのが後鳥羽上皇だとどうなるか?

 かなりの可能性で道を譲らないし、牛車から外に出ない。そして、鎌倉武士ほどではないにしろ、この時代の貴族は血の気が多く短気な性格な者が多い。そうでないにしても相手に道を譲らせるために多少の実力行使に打って出る、具体的には牛車の周囲を固める随兵に殴りかかり、牛車の中の人を外に引きずり出そうとする貴族は多い。そうした貴族が女車を無理に停車させて中にいる人を外に引きずり出したらどうなるか?

 中にいるのは後鳥羽上皇なのだ。

 藤原定家は、起きてしまうかもしれない憂事としてこのエピソードを記しているから実際には起こらなかったのであろう。しかし、藤原定家がどんなに憂慮しようと後鳥羽上皇の自由気儘な振る舞いは今後も続くのである。

 藤原定家はその後、後鳥羽上皇が連日連夜、近臣の数名とともにお気に入りの女房を連れて京都内外に出向いていることを書き記している。


 もっとも、実際の後鳥羽上皇はそれなりに政務も執っていたはずであり、藤原定家がこうした後鳥羽天皇の日常の過ごし方について苦言を呈しつつ書き記しているのも、上皇としてのあるべき姿、すなわち、上皇としての政務を執っている姿は特筆すべきことではなかったからであろう。

 藤原定家の日記を紐解くと、建久九(一一九八)年二月三日に後鳥羽上皇が殷富門院のもとへ御幸したことの記録が出てくる。藤原定家はその御幸の様子があまりにも壮麗であり、卑近な言葉で言えばどんちゃん騒ぎを繰り返したことを非難している。また、後鳥羽院に仕えている源家長も、昼は真面目に政務に取り組むが夜になると遊び呆けてそのまま朝を迎えていると非難している。しかし、そのどちらの記録も、後鳥羽上皇は上皇としての当然の政務をこなしていることは記しているのだ。政務を放り投げているわけではなく政務を終えた後の時間の過ごし方についての苦言であり、後鳥羽上皇が殷富門院のもとへ御幸した際も、後白河法皇の上西門院や美福門院の御所への御幸の例に則っていることを記している。また、御幸の際に見物の人々の車が隙間なく連ねられたことも日記に残っているが、質素倹約を旨とする人にとっては認めたくなくとも、大規模なイベントというのは経済を喚起させ景気を向上させる効果を持つ。緊縮財政派にとっては眉を顰めることであっても、経済政策としては間違っていない。

 ただし、このように目立つ行動は非難を浴びやすいという宿命を持っている。それこそ、取り立てて問題視することのない些事を見つけて問題視し、騒ぎ立てる人達にとっては、絶好の攻撃材料として目をつけられやすいという宿命を持っている。

 現在でも、政治家のパフォーマンスやプライベートはニュースになるが、普段の政務の状況などニュースにならない。政務がニュースになるとすれば国論を揺るがすような決断のときぐらいである。一方で、パフォーマンスはニュースになるし、プライベートはもっとニュースになる。そして、プライベートで世情の非難を集めるようなことをしたら政治家失格の烙印を押されて、軽くても大臣辞職、重ければ議員辞職に追い込まれる。

 ところがここが院政という特殊な政治システムの問題点なのだが、後鳥羽上皇は余程のことがない限り責任を問われない。その余程のことというのは後鳥羽上皇の院政の終わりに起こったことなので今は記さないでおくが、一般的には余程のことが起こらない限り責任を取ることができない。

 政治家でも、ビジネスパーソンでも、芸能人でも、仕事だけでなくプライベートで何かしらの不祥事をしたら責任を取ることとなり辞めさせられる。こうした責任の取り方は天皇も例外ではない。天皇であろうと不祥事を起こせば帝位を維持できなくなる。退位させられた陽成天皇がその例である。しかし、上皇にそのような責任の取り方は存在しない。天皇を辞めた後で上皇となるのであり、その他の選択肢は出家して法皇となることだけ。かつ、法皇になっても上皇の持つ権威と権勢は失われることがない。つまり、責任をとって辞めるというのがないのが上皇や法皇であり、上皇や法皇の存在が前提となっている院政だ。さらにいうと、上皇にしても、法皇にしても、治天の君と称されても理論上は天皇に対する近親者としての助言であり、天皇や摂政関白、そして議政官の貴族たちは上皇や法皇の助言を参考にすることはあっても助言に従う義務はない。議政官の議決を経て天皇の名で発布するのが法であり、上皇も法皇も法の制定には関与しないことになっている。よって、政治に対する責任が発生したとしても、助言をしただけである上皇や法皇は責任を問われることがないし、プライベートでの不祥事があったとしても、もうこれ以上辞めるものを有さない上皇や法皇は辞めるという責任の取り方を選ぶことができないのである。

 その結果、白河法皇にしろ、鳥羽法皇にしろ、後白河法皇にしろ、権威と権勢を手にしながら責任から逃れられるという権力者たることができたのだ。そして、こうした院政の四代目として、後鳥羽上皇の院政がスタートしたのである。


 藤原定家が呈している苦言の全てを受け入れるわけにはいかないが、受け入れなければならない苦言もある。

 院政開始前から周囲に人を集めていたこともあって、一九歳にして治天の君となった瞬間に、後鳥羽上皇の周囲には後鳥羽上皇の意のままに動く人材が揃っていた。その多くは自らの不遇からの一発逆転を狙って院政に自らの未来を託した野心家である。

 その野心家の全てを後鳥羽上皇は周囲として迎え入れたのではない。後鳥羽上皇は自らの周囲に集った人材に競争させたのである。

 ここまではいい。

 問題はどのように競争するかだ。

 政治家としての能力で競争する、たとえば弁論で、たとえば文章に記された主張で、たとえば実務で成し遂げた結果で競争するなら、それは公平な話である。しかし、後鳥羽上皇は明確な基準を持たぬまま自らの情実で人を選んだのだ。いかにして後鳥羽上皇に気に入られるかが競争の源泉であり、そこに政治家としての必要な資質、すなわち、庶民生活の向上という概念は存在しなかった。

 ただし、後鳥羽上皇の取捨選択で、これは問題ないだろうと言えるのが一点ある。財力で官職を買うという動きか珍しいものではなかった時代に、後鳥羽上皇は財力での官職購入に肩入れしなかったのである。財力で官職を手に入れようとする者が叱責され収監されるという潔癖さはなかったものの、財力だけで官職が手に入るような簡単な時代ではなくなったのだ。後鳥羽上皇に気に入られるかどうかだけが基準であり、財力でどうにかしようとしても気に入られなかったら失敗、財力がなくても後鳥羽上皇に気に入られたならば成功という状況になったのだ。つまり、贈収賄に頼って官職を手に入れるという方法を閉ざすことには成功したのである。

 贈収賄でどうにかする道を閉ざしたのは事実であるが、後鳥羽上皇の評価基準は気まぐれであることには変わりはない。そのあたりの記録として残っているのが建久九(一一九八)年二月一〇日のことで、蔵人である三条長兼こと藤原長兼が後鳥羽上皇へ奏聞しようとしたところ、何の前触れもなく御幸に出かけてしまい連絡が取れず、日を改めて後鳥羽上皇が御幸から戻ってきているのを確認できた上でもう一度奏聞しようとしたら、今度は蹴鞠で忙しいという回答が返ってきて奏聞できなかったと嘆いている。それなら一体いつになったら連絡がつくのかと嘆いているのがこの日の三条長兼の日記の記事であるが、上皇としての政務において必要不可欠な情報を持参した者との連絡すら取らずに放置するような後鳥羽上皇に気に入られるというのは至難の業とするしかない。何しろ、後鳥羽上皇とコンタクトを取ること自体が難事で、気に入られるかどうかという以前の話になるのだ。


 日を改めるともっと困惑する記事が出てくる。

 建久九(一一九八)年二月一四日、後鳥羽上皇が石清水八幡宮へ御幸することとなった。これだけならば問題ない。上皇が石清水八幡宮へ参ること自体は珍しい話ではなく、後鳥羽上皇の行動は前例踏襲である。しかし、規模が前例のない壮麗さ、そして、スケジュールが綿密でないとなると、周囲の人はただただ振り回されることとなる。

 このときの石清水八幡宮への御幸について、後鳥羽上皇が綿密なスケジュールを立てずに行き当たりばったりで行動するつもりだとするのが当時の人の出発前の嘆きであり、ここまでは当時の貴族であれば理解できる嘆きである。

 そして、ここから先は当時の貴族にはあり得ない嘆きが出てくる。

 石清水八幡宮に参詣したことのある人ならばわかるであろうが、石清水八幡宮は山頂に鎮座する社(やしろ)である。つまり、参詣するには登山しなければならない。標高一四三メートルとそれほど高い山ではなく、また、古来より多くの人が参詣したこともあって、参詣のための登山道は整備されているため、輿に乗ったまま参詣することも可能だ。ちなみに現在はケーブルカーで山頂まで行くことができる。

 話をこの時代に戻すと、皇族や貴族が岩清水八幡宮に参詣するときというのは、輿に乗って、すなわち、自分の足で登るのではなく従者たちに担がれて山を登るというのが一般常識になっており、このときの御幸に同行した貴族たちも輿に担がれて参詣するものと考えていた。前例を遡ると退位して間もなくの頃の白河上皇が自分の足で途中まで登ったことの記録はあるが、上皇が参詣するのに自分の足で最後まで歩いて登頂した例はない。

 その前例のないことを後鳥羽上皇はした。

 このときの御幸に同行した者として以下の者の名が確認できる。 

 彼らは後鳥羽上皇とともに牛車に乗って石清水八幡宮の麓まで来て、後鳥羽上皇とともに高良社を参拝した。いかに貴族であろうとも高良社への参詣はさすがに牛車から降りて歩いて行く。しかし、その後も歩き続ける、いや、登山するとは夢にも思っていなかった。まだ一九歳と若く、また、武芸を嗜んで身体を鍛えることも趣味とする後鳥羽上皇は石清水八幡宮への参詣は苦労せず、実際に軽々と山頂への参道を歩いて行ったという記録もあるが、同時に、後鳥羽上皇に付き合わされた貴族達が息も絶え絶えになってようやく石清水八幡宮に到着したという記録もある。


 石清水八幡宮に到着した後、後鳥羽上皇がどのように過ごしたかの記録も残っている。すなわち、石清水八幡宮に参拝した後、巫女の里神楽を奉納し、大僧都弁暁が導師として経供養を行い、ついで浄衣で若宮に参ると、近習の人々や巫女三十人ほどが拝殿に集まり、乱舞に堪能の輩が白拍子を舞って、御幸の一日目が終わったというのがこのときの石清水八幡宮詣である。豪奢にして壮麗に感じるであろうし、緊縮財政論者が聞いたら卒倒する内容に感じられるであろうが、治天の君である上皇の参詣ならばこれぐらい当たり前である。ついでに言うと、上皇をはじめとする皇族や、あるいは上級貴族の参詣を前提とした経済と文化の継承が存在するので、倹約目的で質素にしたら、その瞬間に失業者が生じ、文化継承が断絶する。そのあたりのことを理解しているのか、当時の記録を眺めても、後鳥羽上皇が自分の足で登山したことへの苦言や、後鳥羽上皇に付き合われて自分たちも山を登らなければならなくなったことについての不平ならば読み取れるものの、石清水八幡宮での豪奢と壮麗な過ごし方についての文句は読み取れない。

 しかし、それから先が問題である。

 石清水八幡宮で朝を迎えたのち、後鳥羽上皇は傘を差して雨の中を自分の脚で歩いて山を降り、建久九(一一九八)年二月一六日には鳥羽北殿に赴いて随身や北面による競馬を開催した。二月一七日にいったん京に戻って大炊殿御所に入ったが、二月一九日にはまた島羽殿に赴いて闘鶏を行い、二〇日には土御門天皇が即位の儀のために大内に行幸するのに合わせて後鳥羽上皇も大内に向かう予定であったのだが、後鳥羽上皇はこの予定を直前で白紙に戻して二月二一日にようやく京都に姿を見せた。もっとも、後鳥羽上皇にしてみれば、息子である土御門天皇の即位の儀は三月三日と決まっていること、いかに自分が父であろうと上皇となった以上、大内裏はともかく内裏に入ることが許されない身となっており、三月三日に大内裏にいるという状況さえクリアすればそれまでの時間は自由であるはずだとなる。それに、後述することとなるが、この自由であるはずの時間に後鳥羽上皇はあることをしたのである。それが何かは後述することとなる。

 後鳥羽上皇のしたことが何であるかを理解すれば慌ただしさも理解できなくもないが、それにしても、とにかく慌ただしいスケジュールである。いや、事前にスケジュールを組んでいたのではなくその場の思いつきで行動しているのだから、スケジュール策定以前の話である。普通に考えれば。

 後鳥羽上皇は普通ではない。この間に後鳥羽上皇は三つのことをしたのである。

 一つは建久九(一一九八)年二月二六日に判明する。この日、後鳥羽上皇は賀茂社へ御幸した後、最勝寺にも御幸して蹴鞠を開催したが、後鳥羽上皇はこれに先立って源雅行、藤原宗経、源清信、藤原資家、藤原親房、源時賢の六名に院昇殿を許したのである。つまり、これまでの動きの全てが後鳥羽上皇の人材の取捨選択におけるテストであり、後鳥羽上皇についてくることのできた六名が新たに後鳥羽上皇の側近に加わることとなったのだ。資産でも、政治家としての才能でもなく、ただただ後鳥羽上皇についてくることができるか否かが後鳥羽天皇の近くに侍(はべ)ることができるか否かの審査基準だったのである。

 さらに、二月二七日に後鳥羽上皇は再び鳥羽殿に御幸している。これが三つのうちの二つ目である。当時の人はこれもまた後鳥羽上皇の気まぐれと感じたようであるが、実際には気まぐれでも何でもなかった。後鳥羽上皇はかつての鳥羽法皇のように鳥羽の地を自らの院政の根拠地と定めたのだ。そう考えると、後鳥羽上皇は何も気まぐれであちこちに移動したのではなく、自らの院政の根拠地を探しに京都周辺を巡っていたとも考えられるのだ。


 それにしてもなぜ鳥羽か?

 過去三代の院政では鴨川の東に院政の根拠地を置くか、もしくは、平安京の真南にある鳥羽の地に身を寄せた。

 なぜ独自の根拠地を持たなければならないかというと、実は、上皇や法皇は内裏に入ることができないのである。平治の乱で藤原信頼によって後白河上皇が二条天皇とともに内裏に監禁されたことがあるが、これは例外中の例外で、天皇が内裏を離れて父や祖父や曾祖父のもとを、すなわち、上皇や法皇のもとに向かうことはできても、上皇や法皇が内裏にいる子や孫や曾孫のもとを、すなわち、天皇のもとを訪れることは許されないのだ。そのため、内裏に睨みの利かせることのできる土地に根拠地を構えることは院政を展開するにあたって重要なポイントだったのである。特に白河法皇が鴨川の東の白河の地に自らの根拠地を置いたのは画期的だった。平安京遷都前、いや、その前の平城京の時代から続いていた、北を上、南を下とし、北を仰ぎ見る方角とする概念を壊し、九重塔という圧倒的存在感を見せつけるランドマークとともに鴨川の東の白河の地こそ仰ぎ見る方角であるという意識付けに成功したのである。現在の京都は高い建物の建設が許されない都市であるが、当時の京都は現在よりももっと建物が低い。二階建ての建物すらほとんど見られない。そんな京都の人にとって九重塔は否応なく日常生活の中で意識せざるを得ないランドマークとなり、そのランドマークの持ち主である白河法皇のことも意識せざるを得なくなる。

 これに対し後鳥羽上皇は平安京から少し距離のある鳥羽の地に自らの根拠地を定めた。鳥羽離宮は確かに壮麗な建物であり、鳥羽の地も平安京から少し離れているもののこの時代の京都の一部を為す重要な土地である。しかし、そこには白河法皇が築くことに成功した圧倒的存在感を有するランドマークなど存在せず、平安京に住む人の日々に意識に鳥羽の地のことが意識づけられることもない。

 しかし、時代の変遷を考えると鳥羽の地が重要な意味を持つ。


 忘れてはならないのは鎌倉幕府の存在である。源頼朝が遠く離れた相模国鎌倉にいながら、その距離を感じさせないレベルで京都内外の情報を収集していたことは後鳥羽上皇も知っている。そして、情報伝達経路というものは一方通行ではなく往復で利用可能である。つまり、源頼朝が鎌倉にいながら京都の情報を手に入れることができるということは、後鳥羽上皇にとっても京都にいながら鎌倉の情報を手に入れることが可能だということである。しかし、ここで一点の問題がある。鴨川東岸にある六波羅だ。かつて平家が根拠地として構え、源平合戦後は鎌倉方に押さえられ、今や鎌倉幕府の出先機関とまでなっている六波羅の地は、平安京と目と鼻の先でありながら平安京の一部でないために、平安京内での武器使用禁止の規則に引っかかることなく大規模な軍勢を構えておくことができる土地である。それでいて、鴨川を東から西に渡ればそこはもう平安京なのだから、平安京に住む人にとっては六波羅の鎌倉幕府を意識から外すなどできない。しかも、京都と鎌倉とを結ぶ最短経路である東海道を考えると、情報は六波羅を経由することになる。情報の出発地点や到着地点として考えた場合、平安京の一歩手前であるために優位に働く。現代の日本人の感覚で行くと、東海道新幹線の東京駅が平安京で品川駅が六波羅といったところか。

 一方、鳥羽は平安京から少し離れた巨椋池(おぐらいけ)に面している。つまり、六波羅の鎌倉幕府の視線から少し離れた場所である。それでいて瀬戸内海方面には河川一本で移動でき、少し東に行けば東海道だけでなく、東山道や北陸道とのアクセスも容易だ。そして、平安京から少し離れているといっても平安京の朱雀大路をそのまままっすぐ南に行くだけで鳥羽に辿り着けるのであるから、住所表記こそ平安京ではないものの、事実上は京都の一部だ。鎌倉幕府の圧力からある程度自由を獲得できつつ、それでいて鎌倉をはじめとする京都から離れた土地との連絡も容易であり、さらに平安京への睨みを利かせることも問題ない土地とあれば、これから院政を開始しようとしている後鳥羽上皇にとって鳥羽の地は根拠地として申し分ない土地と言える。

 ただし、ここが後鳥羽上皇らしいとすべきポイントかもしれないが、鳥羽の地を根拠地とすることは選んでも、鳥羽の地に留まってはいない。それこそ、内裏に入らなければそれでいいだろうと言わんばかりに、後鳥羽上皇は平安京内に頻繁に姿を見せるようになるのである。


 さて、建久九(一一九八)年二月二〇日に土御門天皇の即位の儀のために、父である後鳥羽上皇も、内裏の中に入れないにしても大内裏には行こうとしていたこと、そして、直前になって予定を白紙に戻したことは既に記したとおりである。

 まだ三歳である土御門天皇はさすがに自分がこれから何をするか深く理解できていなかったであろうが、それでも自分がこれから父の後を継ぐこと、そのための儀式が執り行われること、そしてその儀式が他ならぬ父によって直前に予定が乱れたことは理解できていたであろう。

 さて、先に、三月三日までは自由だと考えた後鳥羽上皇が三つのことをしたと記した。そして、そのうちの二つが何であるかも記した。

 土御門天皇即位の儀の当日、後鳥羽上皇のしたことの三番目が明らかとなったのである。

 この日の即位の儀は一見すると何事もなく執り行われたように感じられたが、実は裏で大問題が繰り広げられていたのだ。

 儀式の前に諸寺の蔵に収められている礼服を調べたところ、存在するはずの礼服が散逸していることが判明したのだ。東大寺には存在するが、法勝寺、勝光明院、金剛勝院、蓮華王院、鳥羽殿の御倉といった礼服を保存していうるはずの寺院がことごとく礼服を散逸させていたのである。思い出していただきたい。こうした寺院のほとんどが、三月三日までは自由だと考えて自由気儘に各地を練り歩いていたと思われていた後鳥羽上皇が向かった先なのである。

 後鳥羽上皇は自由気儘に放浪していたのではない。息子の即位の儀に必要な品々が滞りなく用意できるかを、自分自身が足を運ぶことによって確認していたのだ。その上、散逸していることも確認し、後鳥羽上皇の指示によって集められた品々だけで即位の儀を開催することを命じたのだ。

 このままでは息子の天皇としての日々のスタートが失態から始まるところだったのを、後鳥羽上皇は自ら行動することによって未然に防ぐことに成功したのである。

 と同時に、後鳥羽上皇も一つの現実を目の当たりにすることとなったのだ。

 建久七年の政変で九条兼実ら九条家の多くを朝廷の中枢から追放し、慈円を天台座主の地位から下ろすことにも成功したが、その後を受けた者が九条兼実らの穴を埋める行動ができていないこと、すなわち、建久七年の政変で権力を手にした者の多くは九条兼実ら九条家の面々より能力の劣る者だという現実である。何しろ、日本国誕生からずっと存在し続けてきたためにマニュアル化されているはずの新帝即位すらまともにできないのだ。これを無能と言わずして何と言おうか。

 建久九(一一九八)年三月三日の土御門天皇の即位はとりあえず終えたが、前途多難を予期させるものとも言えた。特に、土御門天皇の外祖父である土御門通親こと源通親にとって。


 上皇となり院政を始めるメリットは多々ある。責任からの回避や政治的自由も無視できないメリットであるが、忘れることのできないメリットとして資産がある。天皇は皇室予算や国家予算が資産であり、自由に行使できる資産は、ゼロではないにしても乏しい。行使できる資産の量は多大であるが、天皇の独断で行使できるものではない。

 しかし、院政となると違う。院が独自に資産を手にできるだけでなく、手にした資産を院が自由に使うことができる。その成果が如実に示されたのが建久九(一一九八)年四月二一日のことである。

 二条東洞院殿御所、通称二条殿が落成し、後鳥羽上皇が無事に移ったのである。

 これだけを聞くと後鳥羽上皇が御所に移っただけのように見えるが、実は大きな転換点である。

 鎌倉に頼らずに造成できたのだ。

 鳥羽院の頃からは、平家であったり鎌倉方であったり、あるいは奥州藤原氏といった武士の支援がなければ大規模な造成などできなかった。鎌倉幕府成立後は鎌倉幕府の支援がなければ話にならなかった。国家予算からは出せないし、どの貴族に支援を求めても支援を出せる余力のある貴族はいない。院となったならば独自に荘園を手にできるために自由に支出できる資産も増えるが、白河法皇、鳥羽法皇、後白河法皇と過去の院政は代を重ねる毎に自由に扱える資産が減っていた。それと反比例するかのように女院の数が増えていた。元皇后、元中宮、あるいは皇后でも中宮でもなかったが第一線から離れることを余儀なくされた皇室、あるいは皇室に嫁いだ女性が院となり、各々が資産を相続し、あるいは構築していった。つまり、治天の君たる院はただ一人であるが、院そのものは増えていた。

 院の数が増えているところに加え貴族の数も増えていた。藤原摂関家が九条家と近衛家、そして松殿家に分裂したのが顕著な例であるが、摂関家ではない藤原氏もまた分裂していた。さらに藤原氏ではない貴族も代を重ねて増えていき、それぞれの家がそれぞれの資産を構築するようになっていた。

 確認できる限りでは、年月を経る毎に、人口も、荘園の数も増えている。つまり、日本国全体の経済規模は増えている。だが、資産を持つ立場にある者の絶対数が増えることで、一つの院や一人の貴族が自由に扱える資産の量は減っていく一方であったのだ。日本国全体の資産が五割増しになっても、資産を得ようとする者が倍に増えれば、一人あたりの資産は減る。一〇〇〇を一〇人で割れば一人あたり一〇〇だが、一五〇〇を二〇人で割れば一人あたり七五だ。

 それぞれの院が独自の荘園についての所有権を持ち年貢を得て資産を得ているために、後鳥羽上皇が新たに後鳥羽院をスタートさせたときの資産は、過去三例の院政より少ない資産でスタートすることになるはずであった。後鳥羽上皇の院政に反意を感じる人は財政面からの後鳥羽院政の失敗を希望するところもあった。

 その希望は、後鳥羽院政開始から僅か三ヶ月で潰えた。朝廷からの公的な財政支援もあったものの、基本的には後鳥羽院とその院司達の財政のみで、これまでのように平家や鎌倉幕府といった武家勢力からの財政援助無しに、二条東洞院殿御所の造営に成功したのである。

 一方、後鳥羽院政のアピールの裏で一つの悲劇が落ちていた。建久九(一一九八)年五月六日、土御門通親の息子である源通宗が三一歳という若さで命を落としてしまったのである。息子を自身の後継者と定めていただけで無く、もともと人脈の乏しい土御門通親にとって息子は貴重な人脈であるはずであった。その息子が若くしてこの世を去ったために土御門通親は孤立を深めることとなった。


 後鳥羽上皇は、自らの院政が成功のもとでスタートしたことを周囲にアピールした後に従来の院政の継承をした。

 藤原定家の日記には後鳥羽上皇が連日連夜、ときには蹴鞠に興じ、ときには相撲に興じていることが記されている。なお、自宅に籠もって蹴鞠や相撲に興じるのではなく、後鳥羽上皇は各所に参詣した上で蹴鞠や相撲を奉納しており、建久九(一一九八)年六月の後鳥羽上皇の足跡を追うと、六月二七日に日吉社、二八日に稲荷社、三〇日に春日社という足跡となる。

 このように各地へと出歩く後鳥羽上皇であるから、過去三例の院政に倣って熊野詣をするのではないかとの憶測がかなり早い段階から飛んでいる。

 憶測が初めて確認できるのは七月二八日のこと。後鳥羽上皇はこの日に宇治の平等院に御幸しており、タイミング的に次は熊野詣となることが窺えた。なお、令和五年の日本の七月や八月は摂氏四〇度に至る酷暑であり、とてもではないが外出に向いている季節ではなかったが、この時代の七月や八月はここまで暑くはない。汗をかきはするものの熱中症の危険性はそこまで高くはない季節である。現在でいう夏季のバカンスのような感覚でこの時代の皇族や貴族は夏季に熊野に詣でることもあり、このときの後鳥羽上皇も時代の流行に乗って建久九(一一九八)年八月一六日に後鳥羽上皇が熊野詣に出発した。

 なお、ここには後鳥羽上皇ならではのアピールもある。前任の後白河法皇も頻繁に熊野詣に出向いていた人であったが、熊野詣というのは建物造営ほどではないにせよそれなりの予算の掛かるものだ。後白河法皇の末期は鎌倉からの援助で熊野詣に出向いていたことが判明しており、上皇や法皇の熊野詣は鎌倉からの資金援助で執り行われる行事であるというコンセンサスが成立していたのである。それなのに、後白河院政が途切れてから六年を経て復活した院政は鎌倉の資金援助に頼らない姿勢を見せている。建物造営で既に後鳥羽院の独自の資産が確立されていることをアピールしたのだが、後鳥羽上皇はここで、鎌倉の資産に頼らない熊野詣を執り行うことにしたのだ。

 もっとも、ここで後鳥羽上皇は無茶をしたようである。

 先に二条東洞院殿御所について、朝廷からの公的な財政支援もあったものの、基本的には後鳥羽院とその院司達の財政で造営したと記したが、そのときに最大の出資者となったのは土御門通親である。土御門通親は伊予国と因幡国を知行国とすることに成功し、土御門通親主導のもとに院分国である美濃国や丹波国からの収入が加わり、その上で頭中将藤原伊輔や右中弁藤原宗隆、蔵人次官藤原清長といった面々も造営のための資産援助に応じた結果、二条東洞院殿御所は鎌倉幕府の協力なしに完成させることができたのである。後鳥羽上皇は熊野詣で同じこともう一度繰り返そうとしたのであるが、二条東洞院殿御所の造営に協力した貴族達からの回答は芳しいものではなかった。協力しようにも協力するだけの資産がもう残されていなかったのだ。

 そこで後鳥羽上皇は熊野詣を国家行事と見なし、朝廷経由で各令制国に対して後鳥羽上皇の熊野詣のための予算の一部を負担させるようにしたのである。いかに合法であろうと、これはさすがに問題であった。和泉国の興福寺領や春日社領への賦課をめぐって紛争が起こり、和泉の国司から派遣された使者が、谷川荘では寺の仕丁を、池田荘では神人を陵轢し、さらに春日荘では春日社の神木である榊を焼いたとして、興福寺から訴えが出され、ついには大衆の強訴という事態にまで発展したのである。南都北嶺に悩まされてきた白河法皇の苦悩がここに来て復活してしまったのだ。


 熊野御幸から戻ってきた後鳥羽上皇は、今なお宗教問題が片付いていないことを知ることとなった。

 話は同年六月に発生した遠江国の赤土荘の騒動まで遡る。赤土荘はもともと比叡山の千僧供、すなわち、一千名の僧侶に食物や衣服を供給するという形式での年貢を納めている荘園であり、僧供米の減少から延暦寺の西塔や横川の衆徒の使者が追及して責めたてたところ、延暦寺の執当、すなわち、諸職の補任を司る寺官である法眼実誓が東塔の僧と結び、その使者に恥辱を与える事件を起こしたのである。

 比叡山のトップである天台座主が慈円のままであったなら、後鳥羽上皇も天台座主に、そして九条兼実をはじめとする九条家に対応を丸投げできたが、建久七年の政変以降はそうした丸投げも通用しない。丸投げに応じることのできる九条家の権力など風前の灯である。法は議政官の議決のもと天皇の名で発せられるという原理原則があろうとも、今や治天の君は後鳥羽上皇だ。治天の君には現在発生している問題を超法規的に即座に対応することが求められる。正式な法令に基づく処分は天皇の名で出される法令に基づくとはいえ、治天の君の意思が早々に示されれば問題解決か早まるのだ。

 それこそが院宣である。

 建久九(一一九八)年九月一六日、後鳥羽上皇は院宣を発した。西塔や横川の衆徒からの訴えを受け入れた後鳥羽上皇は、実誓をはじめとする複数の僧を配流とする院宣を出したのだ。

 後鳥羽上皇の宗教界への介入が明白となったことで、宗教界は後鳥羽上皇が対処可能な相手であると見做すようになった。鳥羽法皇が平家を利用して宗教界の動きを武力で封じるようになってからというもの、武力の台頭は平家政権とは源平合戦を生み、その結果、圧倒的武力集団である鎌倉幕府を成立させるに至った。鎌倉幕府が相手であると知って武力行使を考える者はいない。そのようなことをしたら待っているのは身の破滅だ。しかし、後鳥羽上皇が相手なら話は違う。後鳥羽上皇の行使できる武力は少なく、武装デモを繰り広げたならば自分達の主張が通る可能性も高くなるのだ。

 ここで院宣を出したことで後鳥羽上皇は目の前の宗教界の暴走を抑えることに成功したものの、このような譲歩は相手をつけあがらせることとなる。今まで九条兼実が鎌倉幕府と効力関係にあったこと、そして、六波羅に鎌倉幕府の御家人が常駐していることは大きな意味があったのだ。しかし、後鳥羽上皇はそこまで鎌倉幕府との協力関係を築けていない。朝廷を見渡しても鎌倉幕府との協力関係の窓口になれそうな人はそれほどいない。

 吉田経房はどうなのか、一条能保はどうなのか、一条能保の息子の一条高能はどうなのか、朝廷に鎌倉幕府との協力関係を築ける人間はいるではないかという考えは通用しない。吉田経房は鎌倉幕府の協力者であるものの、窓口となれるほどの協力者ではない。源頼朝の妹を妻に迎えたことから源頼朝の義弟にあたる一条能保は前年に亡くなっている。そして、後鳥羽情報が院宣を発した翌日である建久九(一一九八)年九月一七日には、従三位一条高能が二三歳という若さで亡くなってしまった。後鳥羽上皇が鎌倉幕府の軍勢を頼ることが困難であることは誰の目にも明らかになったのだ。


 後鳥羽院政に武力無し。

 この知らせが広まっただけでも、およそ五〇年間、はじめは平家の武力の前に、その後は鎌倉方の武力の前に沈黙させられていた寺社勢力の武装デモが勢いづくようになった。

 朝廷内の理論上の武力のトップである左近衛大将は関白近衛基通の息子である二〇歳の権中納言近衛家実であるため、朝廷が武力を発動させることも困難とするしかない。

 後鳥羽上皇が院宣を発して比叡山延暦寺の問題を解決してからわずか一〇日後には、奈良の興福寺の大衆が和泉国司の流罪を求めて武装蜂起する予定であるとの通達が飛び込んできた。何しろ武装蜂起の理由が和泉国における後鳥羽上皇の熊野詣における負担への反発であり、その負担を負わせた和泉国司を流罪にしろというのだから、武装蜂起自体は物騒であるものの、要求そのものはムチャクチャと評するほどのものでもない。和泉国での問題なのにどうして大和国の奈良からニュースが飛び込んできたのかであるが、その理由は単純明白で、負担させられた土地の中には奈良の興福寺の所有する荘園も含まれていたのだ。

 これは院政というシステムの常であるが、大問題が起こったときに矢面に立たされるのは、治天の君たる上皇や法皇ではなく、朝廷である。さすがに未だ幼い土御門天皇が矢面に立つことはないが、朝廷の貴族達が矢面に立たされることとなる。

 このときも内裏において何度も議場が繰り返され、権大納言土御門通親、権中納言検非違使別当源通資、参議源兼忠、参議葉室宗頼の四人が軸となり、さらにここに権大納言藤原頼実、権大納言吉田経房、権中納言四条隆房らも定期的に加わって興福寺の動きを牽制するための話し合いが行われた。

 さすがにこの状況下では後鳥羽上皇も出歩くことはできず、建久九(一一九八)年一〇月三日には予定していた蓮華王院の惣社祭への御幸を取りやめている。

 このとき鎌倉の源頼朝がどのような思いでいたのかは吾妻鏡の欠落によって詳しく知ることはできないが、慈円の愚管抄によると、問題解決のために三度目の上洛を九条兼実に打診していたことが読み取れる。目先の解決でなく抜本的な解決を源頼朝は考えていたのであろう。しかし、議定に吉田経房が絡んでいるとはいえ、朝廷の下した選択は興福寺に対する譲歩である。

 建久九(一一九八)年一〇月一六日、和泉守平宗信の解官と、平親宗の和泉国知行国の権利剥奪が宣告された。これで朝廷としては騒乱を未然に収束させることができたと考え、後鳥羽上皇も問題は解決したと考えて一〇月二〇日に延暦寺の鎮守である日吉社に御幸したのである。

 ところが、後鳥羽上皇が日吉社への御幸に発った翌日である一〇月二一日に興福寺から返ってきたのは、平宗信の国司罷免ではなく平宗信の流罪を求めるというものであった。その上、平宗信の流罪が受け入れられないのであれば一一月一日に強訴を決行するという最終通告まで寄せられたのだ。

 結論から記すと、興福寺からの最終通告は白紙撤回された。

 ただし、白紙撤回の理由は朝廷と興福寺との間で妥協案が成立したからではない。遠く離れた鎌倉から興福寺に対して最後通告が送られたからである。名目は、土御門天皇の大嘗会が控えている以上、強訴は取りやめるべきであるという主張である。その名目は興福寺が黙り込むに充分であったが、理に従ったわけではない。後鳥羽上皇が鎌倉幕府との関係を築き上げるのに失敗しているのは事実でも、鎌倉幕府が騒擾を黙って見ているわけではないという圧力が奈良まで届いたのである。


 鎌倉幕府の圧力が利いて興福寺の強訴が鎮静化した。

 この事実は朝廷に、そして後鳥羽院政に対する一つの現実を突きつけることとなった。

 鎌倉幕府の武力はどうあっても無視できなくなっているという現実である。

 この現実と向かい合うために採るべき選択肢は三つ。

 一つは鎌倉幕府からの要望に譲歩する。

 二つ目は鎌倉幕府に対する配慮を示す。

 三番目は鎌倉幕府に頼らぬ道を探る。

 この三つは併存できる。

 ただし、三つのうち一つは検討の段階で止まっていたはずである。一番目の鎌倉幕府からの要望、すなわち、源頼朝の娘である三幡の入内である。なお、建久九(一一九八)年時点では入内に対する朝廷からのアクションは確認できず、次年度の記録から、検討の段階で止まっていると推測できる。つまり、この時点では断言できない。

 残る二つは断言できることである。建久九(一一九八)年一一月二一日、鎌倉幕府に対する配慮として、源頼家が従五位上から正五位下へと昇叙したのである。なお、このときに源頼家を左近衛中将へ昇進させるという案も出たようであるが、右近衛権少将留任となっている。

 そして三つ目であるが、これは悪手であった。土御門天皇の大賞会も終わった一一月二七日、摂政近衛基通が興福寺の僧綱以下三〇名を御所に集め、和泉守平宗信に対して播磨への配流と命じると同時に、大衆の強訴を煽った僧である玄俊も佐渡への配流とするという処分を示したのである。なおこの段階では朝廷の正式な処分ではなく後鳥羽上皇の示す院宣であり、正式な朝廷からの裁決は一二月にまでずれ込んだ。もっとも、時期がずれ込んだだけで院宣の内容が覆されるようなことはなく、一二月一六日に平宗信が配流、さらに一二月二〇日には興福寺の別当を雅縁に交替するという策に出た。ちなみに、雅縁は土御門通親の兄であり、後鳥羽上皇の近臣の僧侶の一人でもある。

 こうして色々とあった建久九(一一九八)年も、何だかんだ言って平穏に終わる、そう誰もが考えていた。

 関東でのビッグニュースさえなければ文字通り平穏であったろう。

 建久九(一一九八)年一二月二七日、源頼朝、落馬。意識不明の重体となる。


 鎌倉幕府の御家人の一人である稲毛重成は、北条政子の亡き妹を妻としていたことから源頼朝とは義兄弟の関係にあたる。その稲毛重成が、亡き妻を供養するために相模川に橋を架け、その落成記念の供養を開催したのが建久九(一一九八)年一二月二七日のこと。相模川への架橋によって交通の利便性が増すことが期待されるため、落成記念の供養に源頼朝も参列することで源頼朝が直々に来るほどに重要な建設なのだとアピールすることにつながり、供養もイベントとして盛大に執り行われた。

 問題はその帰路で起こった。

 馬に乗って鎌倉へと戻る途中、源頼朝が突然、馬上から崩れ落ちた。

 あまりにも突然の出来事であるために、源頼朝のこのときの様子は様々な人が様々な説を述べている。中にはそもそも落馬などなく、源頼朝が浮気相手の女性のもとに向かい、浮気相手の女性の夫に手を掛けられたという説まである。

 また、吾妻鏡に建久七(一一九六)年から建久九(一一九八)年までの記事が全く無いこともあり、源頼朝のこのときの出来事について吾妻鏡から知ることはできない。厳密に言えば吾妻鏡にこのときの源頼朝の記録もあると言えばあるのだが、それは一三年後の建暦二(一二一二)年のことであり、三代将軍源実朝のもとに相模川への架橋を求める請願が届いたこと、その場所はまさに源頼朝が落馬した場所であり縁起の悪い場所ということで橋を求める人は多いものの橋を架けることができずにいることを記している。さらに記すと、吾妻鏡にあるのは源頼朝が落馬したという記録のみで、その後の源頼朝についての記録は存在しない。吾妻鏡の次の記録は建久一〇(一一九九)年二月であるため、源頼朝の落馬から翌年一月までの様子を吾妻鏡から追いかけることはできない。

 その代わりに記録を見つけることができるのが、京都の貴族の日記である。

 藤原定家の日記によると、源頼朝が亡くなった日付と急死であろうという憶測が記されているだけで死因の詳細は記していない。

 摂政近衛基通の息子である権大納言近衛家実の日記だと、源頼朝は重度の飲水病、すなわち糖尿病になり命を落としたとある。ただし、あくまでも噂であるとして断定はしていない。

 吾妻鏡の三年間の欠落があるため源頼朝の動静は乏しいものとなるが、その乏しい記録から追いかける限りでは、誰一人として建久九(一一九八)年の年末まで源頼朝が亡くなるなど考えていなかったことが読み取れる。ゆえに、源頼朝の死は突然のことであったというのは確実に言える。

 当時の記録から確認できるのは、以下の三点。

 建久九(一一九八)年一二月二七日に源頼朝が落馬し、同時に意識不明の重体となる。

 建久一〇(一一九九)年一月一一日に源頼朝が出家。この時点で鎌倉幕府では源頼朝の死がそう遠くない未来に起こることであるとの共通認識ができあがる。

 建久一〇(一一九九)年一月一三日、源頼朝、死去。享年五三。

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

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