日本国だけでなく世界史の流れを振り返ると、新しく誕生した政権はその多くが、これまでの政権に悪事を押しつけ、自分達の政権は庶民の暮らしを軽くするものだと訴えるために減税をする。ただし、減税することで国家財政が立ちゆかなくなって、それほど長い時間を要することなく元の税率に戻る、あるいは政権交代前を超える税率になってしまう。
それは鎌倉幕府も例外ではないが、源頼朝という人はただの政治家ではない。日本史上有数の政治家だ。
源頼朝も財政は理解しているし、その一方で庶民生活の窮乏も、その救済措置としての減税の必要性も理解している。
そこで源頼朝が選んだのは、増税しながら減税するという妙案である。
どういうことか?
鎌倉幕府という組織が誕生して強大な権力を鎌倉の地に創出したとはいえ、日本国から独立した新たな国家が誕生したわけではない。鎌倉幕府はあくまでも正二位という高い位階にある貴族である源頼朝の作り出した個人的な組織であり、他の貴族と比べて規模が桁違いに大きいとはいえ、組織体制そのものは他の貴族と大差ない。
そして、源頼朝はあくまでも朝廷に仕える一人の貴族であり、源頼朝はシビリアンコントロールを脱することのできる征夷大将軍という役職を帯びているために、朝廷から源頼朝に何かしらの命令を出したとしても源頼朝がその命令に従うとは限らない。
ただし、征夷大将軍源頼朝が朝廷からの命令に従わなくても違法ではないというだけで、本来あるべき姿としては、源頼朝はあくまでも朝廷に仕える一人の貴族であり、あるべき姿への回顧を試みる九条兼実の進める政治に対し、貴族としての源頼朝が従うことは何ら不都合なことではない。
ただし、コインの裏表のように源頼朝の選択には裏がある。
それが律令制に基づく納税だ。
律令制に基づく納税だと租庸調であるが、無償強制労働である庸はともかく、コメを納める租と、地域の特産物を納める調については、律令制に基づく税率だけを考えると、さほど重いものとはならない。租については荘園製の拡充とともに税負担が増えてきていたから、律令通りの納税というのは法で定められた税率よりも安い租税額で済ませることを意味していた。そして、調については特に何ら手が加わっていない。手が加わっていないというより有名無実化したとするべきか。
その、有名無実化してきた調の通りに、源頼朝は税を納めたのである。律令は少ない負担での高福祉を基本理念に置き、そのために失敗してきたという過去がある。法の穴が作られ、特例が作られ、その結末として荘園が誕生したのがこれまでの歴史だ。荘園である土地は納税の代わりに荘園領主への年貢が課せられたが、年貢の負担は税よりはるかに軽かった。荘園でない土地に対しては年を経るごとに重い税が課せられるようになり、荘園でない土地の住人は土地を捨てるか、自らの土地をどうにかして荘園にしようとするようになった。
というタイミングで源頼朝に日本全国に守護と地頭を置く権利が与えられ、鎌倉幕府に支える御家人たちが、守護として、あるいは地頭として、各地に配備されるようになった。しかも、彼らの配置された土地は荘園であるか否かなど関係なかった。彼らを支えるために現地ではさらなる税負担が、それも一律に求められることとなったのである。
ここで理想と現実との差の付け入る隙が現れる。
源頼朝は征夷大将軍として、作戦遂行完了までの間の独自の税負担を課すことが認められている。つまり、源頼朝が征夷大将軍である間は日本全土で増税が課されることとなるわけで、これで不満を抱かない人がいたらそのほうがおかしい。かといって、独自の徴税が認められなければ鎌倉幕府が成立できないし、御家人たちも生きていけない。
そこで、源頼朝は律令の隙を突くことを選んだ。先に荘園であれば年貢を納める代わりに免税となっていると記したが、律令に基づいて本来納めるべき税率は、荘園住人が荘園領主に納める年貢より低い率なのである。様々な理由を付けて納税額を増やしてきたために税率が重くなってきたのがこれまでであり、その上で鎌倉幕府が課す独自の税が乗ることとなるのだが、源頼朝は、本来あるべき税率に戻した上で鎌倉幕府の独自の税を課したのである。つまり、現時点で納めている税、さらには荘園領主に納めている年貢より安い負担で鎌倉幕府の税収を増やすことを目論んだのだ。
源頼朝の、そして鎌倉幕府のやろうとしていることは、増税である。それでいて、増税の理由を自分達ではなく既存権力に押しつけることとしたのだ。朝廷や荘園領主に納める負担を減らすことを暗に求めたのである。
荘園領主たる貴族や寺社は猛反発を示したが、この国の日本のどこに、源頼朝に逆らうことのできる人間がいるというのか。死を覚悟しての抵抗までならできても、その抵抗が実を結ぶことはないし、それ以前に源頼朝は何一つ法令違反をしていないのである。抵抗する側のほうが違法となるというのがこのときの状況であった。
九条兼実が摂政となり関白となることができたのは、源平合戦において源氏を選んだことで、近衛家をはじめとする他の藤原氏より上回る勢力を手に入れ、実弟の藤原兼房を太政大臣に据えることに成功したからであり、源頼朝としても九条兼実が摂政や関白である方が都合良かったからである。
時流が平家不利に傾き、およそ一世紀に亘って君臨してきた院政という巨大権力も絶対なものではないという時代を迎えた中で、九条兼実の背後に源頼朝の権勢があると暗に示すことに成功したことは大きかった。無論、九条兼実自身が持つ藤原摂関家主流の血筋であることも大きな意味を持っていたであろうが、藤原北家が念月を経て何度も分裂してきたことの集大成というべきか、藤原忠通の子がそれぞれ九条家、近衛家、松殿家と、半ば独立して藤原氏のトップの地位を争うようになったことを踏まえると、九条兼実の血筋は大きなアドバンテージとはならない。実弟の太政大臣藤原兼房はときに九条兼房と呼ばれるほどであったほど兄の九条兼実の忠実な協力者であったものの、それだけでは弱い。やはり鎌倉の武力が大きいのだ。
それでいて九条兼実と源頼朝は途中まで面識がなかった。書状のやり取りをしていたのであるから相互に認識はしていたであろうが、源頼朝が上洛するまで顔を合わせたわけではなかったのだ。もっとも、平治の乱で敗者となり追放される直前の時点で、源頼朝は末席であるとはいえ貴族の一員に叙せられているから、源頼朝が九条兼実の顔を見たことがあったとしてもおかしくない。しかし、平治の乱の時点に遡ると、九条兼実は藤氏長者である藤原忠通の息子である一方、源頼朝となると、一応は貴族であるものの、父の地位もお世辞にも高いものとは言えず、自身の地位はもっと低い。戦乱のどさくさで会うことはあっても、平時において顔を合わせることなど断じてあり得ない関係性であった。
その二人が源平合戦の途中で邂逅した。互いに互いを利用するという形で、九条兼実は源平合戦において鎌倉方を支援し、源頼朝は源平合戦の最中や壇ノ浦の戦いの後で九条兼実への支持を鮮明に打ち出していた。
それは、九条兼実が打ち出した過去への回帰に対する鎌倉幕府としての支持という形でも表れていた。九条兼実がいかに関白として、また、藤原長者としての権勢を得ていようと、そこまでの独裁権力を振るうことはできない。九条兼実の政策を支持する貴族が数多く、最低でも議政官の過半数はいなければ、九条兼実の考える政治は結実しない。実弟の藤原兼房を太政大臣に据えることに成功したとは言え、また、太政大臣には議政官の議決に対する拒否権が存在しているとは言え、太政大臣の拒否権は伝家の宝刀である、すなわち、行使するというプレッシャーを与えることはできるが、実際に行使するのは現実的ではない大権である。
それでいて、九条兼実の打ち出した政治が実現すると、多くの貴族はこれまで手にしてきた豊かさを減らさねばならなくなる。理屈ならばともかく、本心では受け入れることに躊躇うものがある。
その躊躇いを減らす存在が鎌倉幕府である、はずであった。
しかし、源頼朝から一つの回答が示されたことで、京都の貴族たちはさすがに限界を感じた。
鎌倉幕府が独自の税を徴収する権利はさすがに認めなければならない。それが征夷大将軍というものだ。多くの貴族達は、鎌倉幕府による増税の結果として多くの庶民が増税に直面することとなるであろうと考えていたし、それは気の毒なことだろうとも考えていた。
ところが源頼朝は、鎌倉幕府としては増税するが、庶民にとっては減税をすると表明したのだ。しかも、律令に定められている通りの税を納めるという反論の余地のない方法で減税と増税の両方を実現させることとしたのだ。気の毒な思いをするのは荘園領主のほうであり、庶民ではないのである。
貴族達は悔しさを隠せなかったが、表立って反論することはできなかった。源頼朝の、そして、鎌倉幕府の武力をどうにかできる存在など、日本国内のどこを探しても見つかりはしない。武士勢力に逆らったらどうなるかは、平家政権とその後の木曾義仲の劫掠で嫌というほど知っている。鎌倉幕府はこの時点ではまだ平家や木曾義仲のようなことをしていないというだけで、同じことをする可能性は十分に存在する。それに比べれば鎌倉幕府の武力の前に黙り込む方がまだ賢明であるとするしかなかった。
本心は別として。
何度も記してきたことであるが、吾妻鏡は鎌倉幕府の公的な歴史書である。ただし、吾妻鏡の編纂時点の鎌倉幕府は北条家が実権を掌握するようになっており、鎌倉幕府成立前後の時点の出来事であっても北条家にとって都合良くなるよう取捨選択されている。重要な出来事があっさりとした記述に終わったり、あるいは無視されたりする一方、さして重要ではない出来事でも北条家が絡んでいるなら必要以上の分量を割り当てられている。
建久五(一一九四)年二月二日の北条泰時の元服はそのいい例だ。
後の歴史を振り返るなら北条泰時の人生を詳細に記すこと自体は何ら不可思議ではない。しかし、建久五(一一九四)年時点の北条泰時は断じて重要人物ではない。北条時政の孫であり、北条政子の甥、すなわち源頼朝にとっても甥であるのだから無視できるわけではないのだが、御家人の子が元服を迎えること自体はよくあることであり、わざわざそのときの様子を吾妻鏡に大量の文字数を割り当てて記すほどのことではないはずである。
それなのに、北条泰時の元服の様子は、これ以上なく詳細に吾妻鏡に記されている。
もっとも、おかげで一つの意義が生まれる。
建久五(一一九四)年時点の北条家の立ち位置である。
北条泰時、いや、このときはまだ元服前であるから、幼名である金剛と記すべきであろう、金剛の元服は侍所で開催され、侍所に御家人達が集まって元服の儀に参加した。
御家人は三組に分かれている。
一組目は、大内義信、足利義兼、山名義範、浅利遠義、大内惟義、江間義時、山田重弘、八田知家、葛西清重、加藤景廉、佐々木盛綱。元服する金剛の実父である北条義時も吾妻鏡のこの段階では江間義時の名であり、あくまでも御家人の一人という扱いである。
二組目は、千葉常胤、畠山重忠、千葉胤正、三浦義澄、梶原景時、土屋宗遠、和田義盛、安達盛長、三浦義連、大須賀胤信、梶原朝景。
三組目が北条時政、小山朝政、下河辺行平、結城朝光、宇都宮頼綱、岡崎義実、宇佐美助茂、榛谷重朝、比企能員、足立遠元、江戸重長、比企朝宗。ここで北条時政がトップバッターとして名が記されている。
そして、侍所の上座には源頼朝が鎮座している。
金剛の元服の儀、すなわち鎌倉幕府に仕える御家人の後継者の元服の儀である。普通であれば父親である北条義時の出番であるところだが、吾妻鏡であるにもかかわらず、しかも実子の元服の儀であるにもかかわらず、北条義時ではなく江間義時の名で記されていることからもわかるとおり、金剛の元服の儀における北条義時は参加者の一人という位置づけであり、北条義時の子のデビューではなく北条時政の孫のデビューという扱いでの元服の儀であったのだ。
儀式が始まってすぐに北条時政は孫を源頼朝の前に連れてきて、源頼朝から冠を授かると同時に源頼朝から一文字を拝領して元服後の名が決まった。頼時がそれである。泰時ではないのかと思うかもしれないが、実は正治二(一二〇〇)年二月までは頼時と名乗っていたことが吾妻鏡から読み取れる。さらに言えば、北条泰時ではなく吾妻鏡においては江間頼時という名で記されている。
吾妻鏡は鎌倉幕府の正史である。それも北条家が権勢を握ったあとで成立した正史である。それでも北条泰時ではなく江間頼時と名乗ったことを覆すことはできなかった。
何度も記していることであるが、吾妻鏡は鎌倉幕府の正史である。それも北条家が鎌倉幕府の実権を握った後に編纂された歴史書である。ゆえに、北条家に関連する出来事は詳細に、そうでなければさほど細かくは記されないという特性を持つ。
ただし、吾妻鏡だけがこの時代の歴史書ではない。愚管抄はこの時代のことも書き記した歴史書であるし、この時代の貴族の書き残した日記は文句なしの同時代史料になる。それに、北条家とて、歴史を大袈裟に書くことはあっても無からエピソードを生み出すわけではないし、欠落させることのできないエピソードとあっては吾妻鏡に書き記さないわけにはいかなくなる。
するとどうなるか?
同時代史料から確認できることが吾妻鏡にも記される。一応は。
ただ、その記述はあっさりとしたものになる。
鎌倉幕府成立直後の吾妻鏡の記述は、出来事の分量が、重要であるか否かではなく北条家が絡んでいるか否かで決まる。
そして痛感する事実が浮かんでくる。
この時点の北条家は、重要ではないとは言わないが、鎌倉幕府の御家人達の中で群を抜いた存在ではないということだ。源頼朝が御家人に何かしらを命じるとき、北条家に対して依頼を出す頻度はそこまで高いとは言えない。北条時政を初代京都守護に命じたのは特筆すべきことと言えるが、それ以外に北条家に対して何かをしたかとなると、その答えは言葉を濁すものとなる。
たとえば源頼朝は建久五(一一九四)年四月に都市鎌倉の整備を命じているが、命じた相手は梶原景時だ。鶴岡八幡宮へと向かう段葛を北条時政が整備させ、その段葛は今もなお残っているのだから、北条家が都市鎌倉を構築するにあたって果たした功績は無視できぬものであったはずであるが、都市内インフラの整備となると、北条家ではなく梶原景時のほうが頼りになったと言えるし、梶原景時も源頼朝の期待に応えたと言えるのだ。
もっとも、このときの梶原景時は侍所の別当、すなわち、侍所のトップの地位にあり、鎌倉幕府に仕える者、それこそ武士であるか否かに関係なく、鎌倉幕府の人事を調整する権限も持っている。なお、当初は和田義盛が別当で梶原景時は二番手である所司であったが、建久三(一一九二)年に役職交替になったという。ただし、具体的にどのタイミングで交替となったのかは不明である。
話を元に戻すと、このときも梶原景時個人だから頼ったというよりは、侍所別当の役職にある者に命じたと言えばそれまでである。発足当初の鎌倉幕府は、各々に役割が与えられた一般的な組織構造であり、北条家が何かしらの特権を持って君臨していたわけではないと捉えるべきであろう。源頼朝はあくまでも当時の一般的な貴族の一人として自分に仕える武士達を組織化した。その構造はマックス・ヴェーバーの言うところの階層型組織構造であり、古今東西見られてきた組織構造である。
そのままであればどんなに平和であったろうというのが、後世に生きる我々が鎌倉幕府を眺めたときの感想である。
マックス・ヴェーバーの言うところの階層型組織構造は、構築が容易であるだけでなく運用にも様々なメリットがあることから、世界中の様々な組織で採用されてきた。特に採用することが多かったのが軍隊である。軍隊というものは誰がどれだけの地位であるのかが一目瞭然となっており、地位に応じて権利と責任、特に部下の管理監督責任が存在する。また、功績によって組織内の地位が上昇することも可能というのも階層型組織構造における大きなメリットだ。功績に対する報償として組織内の地位向上を与えることは組織の構成員にモチベーションを付与することとなり、その判断が公明正大であればあるほど組織のトップに立つ者は高い評価を獲得できるのは大きい。
また、これは軍隊に限ったことではないが、階層型組織構造だとその人に課せられている責任を超える範囲については徹底的に無関心でいることも許される一方、責任が存在することが明瞭である場合は無責任であることが許されざる暴挙となる。マックス・ヴェーバーはこうした責任に対する態度を伴う階層型組織構造を官僚制として揶揄することが多かったが、責任範囲が明瞭になっているという点は、戦場という人命にかかわる事態に身を置くことが宿命づけられている武人にとって無視できる話ではない。
鎌倉幕府は、事実上はともかく、理論上は平安時代の貴族であれば誰もが持っている権利を利用して構築した組織である。しかし、組織を構成する人員の多くは武士であり、武士とは戦場に身を置くことが宿命づけられている面々である点で他の貴族と一線を画している。
その好例が建久五(一一九四)年五月からの宇都宮朝綱に対する処遇で見てとれる。
建久五(一一九四)年五月二〇日の吾妻鏡の記事によると、宇都宮朝綱が伊勢神宮と野呂行房から訴えられたとある。野呂行房は建久五(一一九四)年時点で下野国司であるから、宇都宮朝綱は宗教界と官界の双方から訴えられたこととなる。訴えの内容は公田掠領であるから裁判となってもおかしくない話であるが、問題は、宇都宮朝綱が下野国の公田を私物化したわけではなく、鎌倉幕府の一員として、地頭として赴任先の荘園の統治をしていたという点である。
与えられた職務を遂行したために訴訟を起こされてしまった。このようなとき、組織のトップに立つ人には二つの選択肢が突きつけられる。訴訟を受け入れるか、訴訟を突き放すかである。
前者であれば組織外からの評判、この場合は官界と宗教界からの評判を獲得できる一方、組織内に与えるダメージは大きい。周囲からはトップが組織を正しく統治している、いわゆるガバナンスを正しき発揮させていると判断する一方、組織内の人にとっては自分のところのボスが自分達を守りはしないという評判を生み出してしまう。こうなったら各員に課せられている責務を果たそうとしなくなり、組織は瓦解してしまう。
後者であるとその逆の評価を招いてしまう。組織の内部では、我らがボスは自分達を守ってくれる人であるという評判を獲得するが、組織の外からは犯罪者を匿う集団であると、すなわちガバナンスを機能させていない組織であると判断されてしまう。
つまり、どちらを選んでも鎌倉幕府にとっては大きな損失なのだが、源頼朝はこのような政治的判断に直面したとき、常人には考えつかない決断をする。
建久五(一一九四)年五月二九日、東大寺落慶供養に際して鎌倉幕府から送る布施のとりまとめが決まった。鎌倉幕府の文官である中原広元と三善康信が具体的な布施のための進物をまとめ、京都にいる民部卿吉田経房にまずは目録を送ることにしたのだが、その目録を送る役割を宇都宮朝綱に命じたのである。先に官界と宗教界からの訴えがあったと記したが、源頼朝は、より上位の官界の人物と、伊勢神宮とて無視できるわけではない大寺院との接触を選んだのだ。しかも、接触の理由は平家が破壊した東大寺の再建という国家的事業であるために、鎌倉幕府が何かしらのアクションを起こすこと自体はおかしくなく、鎌倉幕府内の地位としても宇都宮朝綱が京都に派遣されるのは妥当である。それこそ訴訟を後回しにしたとしてもやむをえない話である。それでいて、源頼朝は宇都宮朝綱を京都に派遣するという名目で地頭を交替させているから、訴訟を起こした側にとっても、不満はあっても文句をいうことはできない処罰を下したということにはなる。
これだけでも源頼朝の下した決断は尋常ならざるものがあるが、宇都宮朝綱に持たせたものに視点を向けるとさらなる上積みとなる。
砂金だ。
先に源頼朝が、律令を守るという体裁をとることで、庶民にとっては減税、鎌倉幕府にとっては増税という妙案を実現させたことを記した。これにより、それまで荘園領主として収入を得ていた貴族や寺社、また、律令に定められている以上の税率を課してきた公領からの収入によって運営されてきた朝廷にとっては、収入の著しい減少を招くこととなる。そのタイミングで東大寺の復興支援という名目で鎌倉幕府から砂金が送られてきた。いかに巨大勢力になったとは言え、このときに送り届けた砂金の量は鎌倉幕府が容易に用意できるものではない。しかし、それでも鎌倉幕府から砂金が届いたというのは京都に大きなインパクトをもたらした。自分達は以前より貧しくなっていることを自覚できている一方、鎌倉は目に見えて豊かになっているのだ、と。
それで宇都宮朝綱の罪状が完全に許されたのかとなると、そのようなことはない。法的にいかに問題がないように見えても、難癖を付ける側はあの手この手で別の法的根拠を見いだして新たな難癖を付ける。
建久五(一一九四)年七月二八日、鎌倉に一条能保からの書状が届いた。
七月二〇日に、宇都宮朝綱が土佐国へ流罪とすることが決まった。
さらに、宇都宮朝綱の孫の宇都宮頼綱は豊後国、同じく宇都宮朝綱の孫の宇都宮朝業は周防国へと流罪となることが決まった。これだけでも尋常ならざる事態であるが、判決はさらに続く。検非違使の源基重と右衛門忠の役職を務めていた豊島朝経も京都から追放となった。宇都宮朝綱だけならまだしもその孫まで流罪というのは、現在であれば許されないことであるが、この時代の判決としてはおかしなものではない。しかし、宇都宮朝綱と親しい関係にあるというそれだけの理由で検非違使が一名、京都の武官が一名、この二名が京都から追放されたのである。これは異例とするしかない。
吾妻鏡は京都から伝わった宇都宮朝綱らに対する処遇に驚いたとあるが、実際には怒りを懸命に耐えていたようである。
鎌倉方の御家人が朝廷からの判決で流罪となったのはこれで三度目である。建久元(一一九〇)年に隠岐国に配流となった板垣兼信、建久二(一一九一)年に薩摩国に配流となった佐々木定綱に次ぐ三度目である。なお、佐々木定綱の配流については当人だけでなく、長男の佐々木広綱が隠岐国、三男の佐々木定高が土佐国に配流となっている。また、佐々木定綱の次男である佐々木定重は、配流の原因となった強訴事件で延暦寺の衆徒によって殺害されている。
鎌倉幕府の御家人に対して朝廷が処罰を下すことは、日本国の法制度上おかしなことではない。ただし、その処罰に納得できるかどうかは別の話である。現在の日本国でも三審制として、地裁、高裁、最高裁と三度のチャンスが存在している。宇都宮朝綱らに対する処罰を一度は下したとしても、それは現在の日本でいう地裁判決に相当し、さらに上告して再び審理を求めることは不可能ではないのだ。それをこのときの朝廷はしなかった。一度の審理で処罰を決め、ただちに処罰を遂行したのである。
朝廷としては現地の統治者である伊勢神宮と野呂行房の意向を汲み取った判決を下したことになるのだが、鎌倉幕府の意向とは一致しなかった。
このことは朝廷にとって、特に、時代の執政者である九条兼実にとって痛事であった。この時点の朝廷は鎌倉幕府の意向無しに独自の政務を執ることは確かに可能ではあったが、それが鎌倉幕府の利害と対することとなった場合、鎌倉幕府は朝廷に刃向かうことも考えられるようになっていた。この時点ではあくまでも不満を抱くといった感情に留まっているが、それで十分だった。
九条兼実の権力の源泉の一つに鎌倉幕府の後ろ盾があったことは事実である。しかし、それは相互が相互に相手を利用するためであり、九条兼実が源頼朝を特別に引き立てたわけでも、源頼朝が九条兼実の政治思想に感銘を受けたからでもない。
利害が一致したために成立した協力関係である以上、利害の不一致が見られたら協力関係の継続は期待できなくなる。
このとき、不利となるのは九条兼実である。
源平合戦を終結させ、奥州藤原氏も滅ぼしたことで日本国最大の軍事組織となった源頼朝を味方に引き入れようとする人は多かったが、九条兼実を味方に引き入れようという軍事組織はなかった。当然だ。この時代の独立した軍事組織は、鎌倉幕府以外を探すと、平家の落人か、比叡山をはじめとする僧兵ということになる。前者は鎌倉幕府にとって討伐すべき存在であり、後者は鎌倉幕府とまともにやり合ったら霧散する。
九条兼実が鎌倉幕府以外に後ろ盾を持たないわけではない。何と言っても藤原摂関家の本流で、藤氏長者で、現役の関白で、太政大臣藤原兼房が実弟だ。内部でいかに対立していても外に対しては一枚岩となるのが藤原氏であり、その藤原氏のトップに君臨しているのが九条兼実なのである。一〇〇年前であれば皇室に次ぐ権威と権力の持ち主と扱われたであろう。
しかし、時代は藤原摂関政治の全盛期ではない。中の争いを外に持ち出さない藤原氏はもはや存在せず、藤原氏内部の争いを誰も隠さなくなっている。九条兼実が現時点で藤原氏のトップであることは認めるが、文治二(一一八六)年まで摂政であった近衛基通は健在だ。かつてはその経験の浅さから失態をしでかすことのあった近衛基通も、もう三五歳の貴族となっている。
いや、まだ三五歳とするべきか。
二七歳で摂政の地位を追われた近衛基通は、九条兼実に対して反発する人達にとって絶好の神輿だ。以前は神輿とするにも足りない無能さとさえ扱われたが、今では十分な経験を積んで、神輿たるに問題ない能力を獲得している。すなわち、神輿を担いでいる人達を制御する圧倒的な能力の持ち主ではなく、神輿を担いでいる人達にとって都合良い程度の振る舞いはするという能力である。
自分に取って代わることのできる存在がいて、自分に必ずしも好意的ではない人物が集まろうとしている。権力者自身がこのような状況だと理解したならば、どうにかして自分の代わりとなり得る人物、この場合は近衛基通が自分の脅威となるのを防ごうとするのが普通である。近衛基通に近寄る人を減るように自分の支持を高めようとするなら誰も文句は言わないであろう。近衛基通を、合法的にしろ、非合法にしろ、京都から追放して神輿としての役割を失わせたならば、非難を浴びることになるであろうが九条兼実の地位は安泰であろう。
だが、九条兼実はそのどちらも選ばなかった。自分の地位は安泰だと思ったのか、近衛基通のことを歯牙にもかけていなかったのか。
兆候は建久五(一一九四)年七月に既に見られた。
東大寺復旧工事の完成祝賀式典は翌年の正月に開催することが決まっており、源頼朝も式典に参加する見込みであった。
ここまでであれば特におかしなことではないが、正月に式典を開催するとなると多くの人が駆けつけることとなる。現在の初詣の混雑とはわけが違う。京都をはじめとする奈良から少し距離のあるところから一斉に奈良に集まって東大寺に向かうのである。それも徒歩で。現在のように鉄道や高速道路が整備されている時代ではなく、そもそもホテルをはじめとする宿泊施設という概念も期待できないこの時代であるから、東大寺に向かう人の多くは野宿だ。
おまけに、これは初詣ではない。初詣であれば、元日がダメでも二日なら、あるいは三日ならばという選択肢が考えられるし、たとえば高熱などで動けないとしても、そのときは今年がダメでも来年があるという考えだって受け入れることもできる。だが、今回は東大寺復旧工事の完成祝賀式典なのだ。一年に一回とかの話ではなく一生に一回体験できるかどうかという一大イベントだ。こうなると多少のアクシデントがあろうと無理して足を運ぶことが目に見えている。
その人達の全員を奈良で受け入れるのは正直言うと厳しい。ただ、受け入れないという選択肢は無い。ゆえに、厳しいけれどどうにかするしかないと考え、準備している。忘れてはならないのは、奈良における最大勢力たる興福寺の協力は、この時点ではさほど期待できないという点である。興福寺とて受け入れるのを断固拒否するというわけではなく可能なら受け入れたいのだが、この時点での興福寺は未だ平家の破壊からの復旧が完了しておらず、藤氏長者である九条兼実の全面バックアップのもとで元に戻しつつある過程とあっては、興福寺に東大寺の復旧の手助けをするほどの余裕は無い。
これだけでも困惑しているのに、ここに源頼朝が、そして鎌倉幕府の御家人達がやってこようものなら、混乱はパニックへと発展する。鎌倉幕府による混乱の統制も期待できるが、この時代の人達にとって、特に、来年正月を奈良で迎えようと考えている京都の人達にとっての武士による統治とは、平家であり、木曾義仲なのである。源頼朝がいかに平家や木曾義仲とは違うと訴えようと、武士による統治そのものに対する拒否反応がある以上、京都に自分達の本拠地を構えて京都を武士達が統治するというシステムは利より損が大きい。京都から距離を置いて鎌倉を根拠地としたことのメリットの一つに京都の民心を獲得するというものがあるのだ。ここで源頼朝が軍勢を送り込もうものなら、それがいかに混乱を鎮めるのに効果を発揮しようと、今後の権力遂行に大きな支障を与えること間違いない。
結局、源頼朝は翌年正月の上洛を断念するしかなかった。ただし、来年度の上洛そのものが消えて無くなったのではない。時期はずらして上洛するとは宣告している。その理由をこのときの京都は把握できておらず、鎌倉の新興勢力が京都の権威の前に自らの意思を取り下げたという感覚であった。なお、東大寺のほうは源頼朝に対して妥協を見せており、正月ではなく二月から三月にかけてのどこかのタイミングに落慶法要の実施時期を後ろ倒しすることを表明している。
同じく七月初頭には、後に鎌倉幕府の庇護を受け、多くの鎌倉武士が帰依することとなる禅宗の一つである臨済宗について、京都での布教を禁止する動きが見られた。延暦寺からの圧力による朝廷からの対応なのであるが、鎌倉幕府はこのことについて特に何ら動きを見せていない。これもまた、民心安定のための手段の一つなのである。この頃の禅宗は、新たな仏教の在り方の提示というより怪しげな新興宗教という捉え方をされてきたのであるから、これもまた、鎌倉が京都に対して譲歩したという捉えられ方になるのだ。
それにしても、源頼朝はどうして上洛にこだわったのか?
東大寺は源平合戦における平家方の破壊の象徴であり、その破壊の象徴である東大寺が復活したというのは、源頼朝が、そして鎌倉幕府が源平合戦の勝者であることを知らしめるこれ以上ないアピールの場となる。奈良の内外から、特に京都から数多くの観光客が詰めかけている中に源頼朝自身が姿を見せれば、アピールの場としての効果をさらに強くすることとなる。
だが、それは主目的ではない。源頼朝が東大寺復活のその瞬間にいるといないとではアピールの場としての効果に大きな違いをもたらすが、その違いも、源頼朝の主目的に比べれば些事とするしかない。
源頼朝の主目的、それは、娘の大姫の入内である。藤原摂関家が繰り返してきたように、そして、平清盛がそうしたように、源頼朝も自分の娘を皇室へと嫁がせる、それも、後鳥羽天皇のもとへと入内させることを企んでいたのだ。翌年元日に東大寺のもとに向かえないというのは痛事ではあるがまだ耐えられる。しかし、京都へ行かないというのは選択肢として存在しないのだ。
寿永二(一一八三)年時点の大姫は、木曾義仲の息子であり、この時点で一一歳の源義高のもとに嫁ぐ未来が定められていた六歳の女児であった。誰がどう見ても政略結婚であるが、政略結婚だからといって不幸とは限らない。実際、このときの大姫は幸福な未来が約束されていた女児であった。
その幸福は翌年に終わった。源義高が討ち取られたのだ。七歳であった大姫はこのときに人生が終わってしまったと言える。想像していただきたい。大切な人が殺された、それもよりによって父親の命令で殺されたのだ。そのような七歳の女児がどうして平然としていられるというのか。ふさぎこみ、病に伏せ、人との関わり合いを断とうとするほうが正常で、平然としていられるほうが明らかに異常だ。大姫は正常であるために人生を失ったのだ。
源頼朝はその大姫を後鳥羽天皇のもとへ入内させることを目論むようになったのだ。源頼朝にとっての大姫は、本人の人生や精神状態など関係なく、源頼朝の切ることのできる最高のカードであった。源義高亡き後の嫁ぎ先として、元暦元(一一八四)年八月には後白河法皇の意向もあって摂政近衛基通との婚姻が計画されたこともあった。しかし、源頼朝自身が藤原摂関家の当主として近衛基通ではなく九条兼実を選んだこともあって破談となっている。
それから一〇年、大姫は一七歳となっている。後鳥羽天皇は一五歳であるから、年齢的に不釣り合いとは言えない。また、建久五(一一九四)年時点の源頼朝自身の役職は征夷大将軍のみであるが、公卿補任に従えばこの時点の源頼朝の正式な地位は、正二位前権大納言である。征夷大将軍であることよりも、かつて権大納言という役職を務め、位階にもついてもこの時点の全貴族の中で上から三番目である正二位という高い位階である。正二位の貴族の娘が天皇のもとに入内すること自体は特におかしな話ではない。理論上は。
実際には源頼朝が手にしている征夷大将軍という役職が皇位継承に必要な三種の神器の一つである天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)の生きた形代(かたしろ)であるために、そう簡単に手出しできるものではない。
なお、ある意味では源頼朝以上の権勢を手にしていた北条政子は、娘の入内については消極的ではあるものの誰かの元に嫁入りさせる必要はあると考えており、源頼朝の義弟である一条能保の息子の一条高能のもとに嫁がせようとしたことが記録に残っている。一九歳の一条高能と一七歳の大姫であるから年齢的にはおかしくないが、大姫自身がこの婚姻を激しく拒絶し、吾妻鏡の記載に従うと、無理に結婚させるぐらいなら入水するとまで主張して反対したことから、その話を聞いた一条高能自身が北条政子に断りを入れたことで話は白紙撤回された。建久五(一一九四)年八月のことである。
建久五(一一九四)年九月時点で、翌年正月に東大寺復旧工事の完成祝賀式典を開催することは決まっていたが、奈良の地で平家によって焼かれた寺院は東大寺だけではない。奈良における最大勢力の寺院である興福寺も平家によって灰燼に帰していた。興福寺は藤原氏の氏寺であり、藤氏長者である九条兼実は総力を挙げて興福寺を復興させていた。それも、東大寺より先に完成させるという意気込みであった。
建久五(一一九四)年九月二二日、興福寺の中心をなす中金堂が完成し、九条兼実の主導する供養が盛大に開催された。
興福寺中金堂の本尊は釈迦如来像であり、大きさは一丈六尺、メートル法にすると四メートル八〇センチのいわゆる丈六像であり、この大きさの仏像は寺院における仏像の基本的なサイズである。しかし、一点だけ他の寺院に安置されている仏像と違いがある。
興福寺中金堂の本尊は藤原氏の始祖である藤原鎌足の姿を模して作られたとされているのだ。
しかも、その釈迦如来像は治承四(一一八〇)年一二月の平家の南都焼討によって消失し、仏像の眉間に納められていた銀仏(ぎんぼとけ)だけが発見され、中金堂の復活に際しては九条兼実自身が京都から奈良まで慎重に銀仏を運んで九条兼実自身が奉納したのである。一説によると、釈迦如来像の眉間には藤原鎌足が持仏(じぶつ)としていた銀仏(ぎんぼとけ)がはめ込まれていたとあるから、このときの九条兼実の行動は自分が藤原氏始祖の藤原鎌足の正当な後継者であることをアピールする目的も存在した。
京都を出発した九条兼実が奈良に到着したのは九月二二日であり、同日、九条兼実は春日大社への参詣もしている。九条兼実が一人で参詣したのではなく数多くの貴族を引き連れての参詣であり、そのこと自体は過去に先例もあることだが、中納言の以下の貴族達が騎馬で九条兼実に付き従うという、天皇の行幸や上皇の御幸に倣ったものであったのは異例だ。
さらに翌日の九月二三日には悪天候にもかかわらず二六名もの公卿が参加しての供養が開催された。九条兼実の後ろを貴族達が付き従うのであるから、参加する貴族の誰もが、そして、このときの様子を眺めた全ての人が九条兼実の意向を目の当たりにしたであろう。
そのことを九条兼実以外の貴族がどのように感じるかなど、九条兼実は考えもしなかったのか? 後述することになるが、考えもしなかったのだろう。
愚管抄を書き記した慈円は九条兼実の政治家としての功績の先頭に寺社仏閣の復旧を挙げているが、その愚管抄ですらこのときの九条兼実の行動については度が越したことであると非難している。
建久五(一一九四)年一〇月一七日、誰もが予想しなかった行動を源頼朝が見せた。
征夷大将軍の辞職を申し出たのである。
征夷大将軍の辞職については一一月一七日に再度申し出ており、源頼朝はこの二度の申し出によって征夷大将軍を辞すことが決まったと考えたようである。なお、朝廷は閏一二月に申し出を却下している。
それにしても源頼朝はどのような理由で征夷大将軍を辞すと申し出たのか? 渇望していたこの職に就き、朝廷の制約を受けない権利と権力を手にしたのに、わずか二年での放棄宣言である。一見すると不可解極まりない行動だ。
だが、少し考えると理屈にあった行動になる。
現在に生きる我々は江戸時代までの歴史を知っている。江戸時代までの歴史を知る者であれば征夷大将軍という役職を持つことの意味を理解している。しかし、この時代の人は征夷大将軍の意味など知らない。知らないと言うより、この後の時代における征夷大将軍という役職が持つ権威や権力について把握できる人などいない。未来を見通せる人などいない。
現代でこそ征夷大将軍と幕府とは密接につながっている関係性を有しているが、源頼朝が幕府として築いた権力の源泉は、征夷大将軍としてのものではなく、正二位という高位の位階を有している貴族であることに由来している。極論すれば、この時点で源頼朝が征夷大将軍を辞したとしても、鎌倉幕府は存在し続ける。征夷大将軍は天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)の新たな形代(かたしろ)であるが、皇位継承のための三種の神器の一つである天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を生きて体現するのは、征夷大将軍の官職にあることよりも、熱田神宮につながる源頼朝の血筋のほうが重要なのである。極論すれば、源頼朝やその子孫がいる限り、三種神器は揃って皇位継承も可能となるのだ。
また、征夷大将軍は朝廷から独立した軍事行動を執ることが許される存在であるが、それは同時に、朝廷からある程度の距離を起き続けなければならない宿命を持つ。源頼朝が企んでいることを考えた場合、この段階で征夷大将軍を辞すというのは、朝廷との接近を考えるとあながち間違った判断とは言えない。特に、既に述べたように九条兼実が権勢の頂点を極めている一方で下り坂にさしかかっていることも見えてしまっているとあっては、九条兼実を介在させた上での朝廷との関係ではなく、源頼朝自身が朝廷と関係を構築する方が高いメリットを有する。
結論から言うと、既に述べたように朝廷は源頼朝の征夷大将軍の辞表を却下しており、今後も源頼朝を征夷大将軍として遇している。ただし、尊卑分脈には源頼朝が建久五(一一九四)年一〇月一〇日に源頼朝が征夷大将軍を辞したとの記載があり、また、この頃から鎌倉幕府の政所の発給する正式な文書が「将軍家政所下文」から「前右大将家所下文」に変わっており、源頼朝自身は征夷大将軍の辞意を受け付けられたと考えたか、あるいは、征夷大将軍であることは認めたとしても、かつて右近衛大将であったことのほうを優先させるようになったかのどちらかである。
何度か述べているが、源頼朝自身は武士の集団のトップとして鎌倉幕府を成立させたのではなく、上級貴族の一員として、上級貴族であれば保持することが許されている権利を用いて鎌倉幕府という組織を成立させた。
ただし、他の上級貴族と異なる点が一つ存在する。上級貴族となると通常は京都に住むのが当たり前であるが、源頼朝はあくまでも相模国鎌倉に滞在し、平治の乱で敗れて流罪となってから建久五(一一九四)年末時点までの間で、源頼朝が京都に姿を見せたのはたった一度だけである。
だからといって、源頼朝は京都とのつながりを断絶させたわけではない。もともと伊豆国での流人生活をしていた頃から京都の情報を定期的に手に入れ続けていたのが源頼朝だ。それは源頼朝が反平家で立ち上がってからも代わることはなく、あるいは、源氏の頭領として立ち上がってからはさらに頻度を増して京都からの情報を手に入れるようになっていた。その結果、それまで往路半月、復路半月の合計一ヶ月を要していた鎌倉と京都との連絡が、源頼朝以降は往復が半年にまで縮まった。
これはあくまでも情報だけに着目した時間経過であるが、現在のように離れていても電話やネットでリアルタイムで情報のやりとりのできる時代と違い、この時代は、いくら情報のやりとりがメインだと言っても人の移動を必要とする。江戸時代になると大阪の、江戸時代の表記だと大坂の相場が、その日のうちに江戸にまで到達できるだけの情報路が構築されたし、過去に遡ると狼煙を用いた緊急連絡網も存在したが、前者はあくまでも相場情報、後者の場合は敵国侵略といった重大危機に限定した情報網であり、源頼朝の求めていたような詳細な情報を定期的に受け取るというものではない。
つまり、どんなに情報の収集と発信がメインであっても、鎌倉が必要とする情報を得るためにも、鎌倉から情報から発信するためにも人の移動が必要であり、人の移動をスムーズにさせるためには交通路の整備も必要となる。主目的は騎馬の移動を素早くすることであっても、整備すればするほど人の移動の質が上がる。鎌倉そのものは街道としての東海道に面した都市ではないが、東海道まではすぐにたどり着ける都市であり、街道としての東海道に出れば西へ西へと進むと京都に出るし、京都からは東へ東へと進めば鎌倉までたどり着く。
ただし、これは東海道に限ったことではないが、この時代の日本国の街道のほとんどは飛鳥時代から奈良時代にかけて敷設された街道であり、敷設当時は街道としてかなり高いレベルの道路と宿駅が用意されていたのであるが、時代とともに道路は整備が行き届かなくなり、宿駅もその機能を果たさなくなってきていた。
源頼朝は東海道に限った話ではあるが、東海道を復活させることにした。吾妻鏡によると、早馬伝令の馬を常備させると同時に、年貢納入などの輸送用人夫を大きな宿駅には八名、小さな宿駅には二名、それぞれ常備させることにしたとある。なお、この常備自体は従来から続いていたことであるが、源頼朝は東海道に新たな宿駅を設置したので、新しい宿駅についても馬と人夫をさせることとしたのである。
効果は現れた。これまでの日本経済は京都が圧倒的大都市として突出しており、京都と地方とを結ぶ交易路は存在していたが、その規模は需要対応ギリギリで需要喚起までは至っていなかった。しかし、源頼朝以降の東海道は、需要を満たすというレベルを超えて、新たな需要を創造するレベルの街道へと発展したのだ。
源頼朝は当初、建久六(一一九五)年の正月を奈良の東大寺で迎えることを想定していたが、それを断念せざるを得なくなっていた。ゆえに、建久六(一一九五)年の新年を迎えた時点で京都における鎌倉幕府の権勢を実感することはない。このときの京都において権勢を示していたのは九条兼実である。
九条兼実は東大寺に赴くことなく自邸で新年を迎えたが、一人で新年を迎えたのではなく、九条兼実の元には数多くの貴族や殿上人が正月拝礼として足を運んでいた。その中には太政大臣藤原兼房もいた。ただし、この人は九条兼実の実弟であるため、事実はともかく理論上は弟が兄のもとを訪問したということになる。
ここまでは摂政や関白である藤氏長者が迎える元日としてごく普通の光景である。
また、拝礼のあとで参列した面々に対し後鳥羽天皇の実母である七条院藤原殖子の拝礼に参るよう促してもいる。これもごく普通の元日である。
だが、促しておきながら九条兼実の自身は七条院藤原殖子に拝礼しなかったとなると異例なこととなる。
九条兼実にも言い分はある。実父の藤原忠通は近衛天皇の実母である美福門院藤原得子の拝礼に参列しなかったという先例に基づいているといいうのだ。その上で、美福門院藤原得子も、七条院藤原殖子も、ともに諸大夫身分出身であるために自分は拝礼するのに相応しくないというのが九条兼実の言い分であった。
なるほど、言っていることは理解できなくもない。
しかし、言っていることに同意できる要素はどこにもない。
無礼に過ぎる。
貴族達や殿上人達にとっても無礼だが、後鳥羽天皇にとっても無礼だ。
なぜ九条兼実はこのような無礼なことをして平然としていたのか?
結論から言うと、自分のしていることが無礼なことだと考えていないどころか何の問題もないことと考えていたからである。何しろ自分は前例を踏襲しており、藤氏長者である自分はその前例を踏襲する義務があると考えていたのだ。それがたとえ周囲から後鳥羽天皇への無礼になると咎められようと、自分としては先例に基づいて正しいことをしているという認識は崩さなかったのだ。
ただし、九条兼実の認識は必ずしも現実に則っているものではなかった。九条兼実は伝統ある藤氏長者の正統な継承者であり、摂政として、関白として、国政の全権を握るのは自分であるという自負があった。一〇〇年間に亘って国政を握ってきた院政が終わったことで権力は藤原摂関家に戻り、藤原摂関家のトップである自分は何者にも邪魔されない存在であるという自負があった。何しろ実弟の藤原兼房を太政大臣に据えたことで、太政大臣ですら自分の意に沿う存在とすることに成功させたのだから、議政官が何を言おうと九条兼実はビクともしないという自負があった。
その自負には、軍事的な最高権力者でもある鎌倉幕府と親しい関係にあることも手伝っていた。権威だけでなく武力の面でも九条兼実に逆らうのは得策ではなかったのだ。かつてであれば自分のところの従者である武士だけでなく、平家や、危険な相手ではあるものの木曾義仲、あるいは遠く離れた奥州藤原氏も利用可能な武力として計算できていたが、今の日本国で計算できる武力は鎌倉幕府しかない。そして、その鎌倉幕府との接点を持っているのは九条兼実だけであるとなると、九条兼実に逆らうのは身の危険を危惧する話にもなってしまう。
そのままであったなら、九条兼実の傲慢も続くことになっていたであろう。
だが、建久六(一一九五)年二月に鎌倉から信じられない知らせが届いたのだ。九条兼実の権勢の半分を失わせる重要な知らせが。
源頼朝が建久六(一一九五)年に上洛することは周知の事実である。
しかし、何月何日に上洛し、何日間ほど京都に滞在するのかは未定である。
源頼朝の前回の上洛は建久元(一一九〇)年一一月から一二月にかけて、およそ一ヶ月間の京都滞在期間であった。それから五年を経た建久六(一一九五)年の上洛も、実質上はともかく名目上は東大寺への参詣を前提とする上洛である、いや、目的地はあくまでも奈良であり、京都に滞在するのは奈良へ向かう途上の一時的なものであるはずだった。
しかし、源頼朝の上洛計画が京都に伝わったことで前提が全て崩れることとなった。
まず規模が違う。源頼朝だけでなく、妻の北条政子も、長男で後に源頼家と名乗ることとなる万寿も、そして娘の大姫も帯同するという文字通りの一家総出での上洛だ。ただし、文治二(一一八六)年生まれであることが判明している大姫の妹の三幡と、後に源実朝と呼ばれることとなる末っ子の千幡については京都に向かわなかったことが推測される。吾妻鏡にこの二人の子が同行した記録は無く、迎え入れた京都の側でも万寿と大姫についての記録ならばあるものの、三幡と千幡についての記録は存在しない。
当然ながら源頼朝一家だけが京都や奈良に向かうわけはなく、鎌倉幕府の主立った面々が五年前と同様に、いや、五年前以上の規模で京都にやって来る。それだけでも京都にとっては戦慄であるが、さらに五年前を超える戦慄が存在した。このときは、源頼朝の家族だけでなく、御家人達の妻や子も軍勢に加わっていたのである。いや、軍勢ではなくあくまでも参詣の旅程である。一見すると女性や子供も加わる家族和気藹々とした情景に思えるかもしれないが、これを軍勢の行軍と考えると、これこそが恐ろしい情景になる。鍛え抜かれた武人だけの移動であるならば体力面でも多少の無茶ができる。だが、女性や子供も加わっているとなると、移動において考えなければならない体力はかなり低く考えねばならない。要は、無茶をさせることができない。
無茶をさせないためには一日当たりの移動距離と移動時間を短くすると同時に、毎日の宿泊場所についてもそれなりの環境で用意しなければならない。
このときの鎌倉幕府も面々はそれを実現させた。
それは、鎌倉と京都までの交通インフラをこれ以上ない形で源頼朝が整備したことを、そして、今後も何かあったらただちに鎌倉から軍勢がただちに押し寄せてくることを意味するのだ。
五年前の源頼朝は九条兼実の全面的に協力する人であったが、今の源頼朝は必ずしも九条兼実の完全なる協力者とは呼びきれなくなっている。朝廷権力とのつながりを考えるならば九条兼実と協力関係を維持することがもっとも容易な手段であるが、九条兼実と他の貴族との乖離を考えると、鎌倉幕府としてもこれまでのように九条兼実との接点を維持し続けることは必ずしも得策ではなくなる。これまでは九条兼実とその他の貴族との関係が一〇対〇から九対一ぐらいであったのが、このときから六対四ないしは五対五といった関係になるのである。
迎え入れる側となるはずの九条兼実の日記は、このときの上洛を詳しく書き記していない。それでも九条兼実のように日記に書いていればまだマシで、藤原定家に至っては完全無視である。藤原定家の日記をどんなに読んでも、鎌倉幕府の上洛については何も書いていない。詳しいのは吾妻鏡であり、また、同時代史料と呼べなくもない愚管抄となる。
これらの史料に基づくと、二度目の上洛行は以下の通りとなる。
鎌倉幕府の一行が鎌倉を出発したのは、吾妻鏡によると建久六(一一九五)年二月一四日の、巳刻というから現在の時制に直すと午前一〇時頃である。
鎌倉幕府の一行が京都に到着したのは、吾妻鏡によると建久六(一一九五)年三月四日の夜である。
以上、これが源頼朝の五年ぶりの上洛行である。
出発と到着の日付しか書いていないではないかと思うかもしれないが、これ以上は書けない。妙と形容するしかないところだが、吾妻鏡をどんなに追いかけても、鎌倉幕府の一行が二月一四日に出発したという記録の次がいきなり、三月四日に到着したという記事になるのだ。三月四日の記事によると、この日に近江国鏡宿、現在の滋賀県蒲生郡竜王町を出発し、その日のうちに六波羅に到着したという記事になっているのである。五年前と違って途中の旅程の記録が全く無いのが建久六(一一九五)年の上洛行である。
ただし、他の記録から推測できることが多々ある。
源頼朝はこの時代の通例に従って、突然姿を見せるのではなく常に先遣隊を派遣し、これからやって来る源頼朝らの一行がどれぐらいの規模で、何月何日頃に途中地点に到着するかを連絡している。これを京都の立場で捉えると、毎日のように源頼朝ら一行がやって来る情報が伝わってくるのだが、毎日毎日、鎌倉幕府の規模がより詳しく、より膨らんで京都に到着することが見えてくるのである。これを驚異に感じないとすればそのほうがおかしい。
その様子を描いているのが慈円の愚管抄で、源頼朝らは源義経の残党や平家の残党が源頼朝を襲撃してくる可能性があるということで、大雨にもかかわらず多くの武士達に周囲を警護させていたとある。また、このときの上洛はあくまでも東大寺再建供養への参列が目的なのだが、その名目を信じる人など誰もいない。何しろかつての平家政権下の頃のように六波羅に巨大武装勢力ができあがったのだから。
ちなみに、残した記録からいかほどに驚異に感じたかを残してくれている人が慈円の他にもう一人いる。藤原定家がその人だ。藤原定家も日記を残してくれているのだが、不自然なほどに源頼朝の上洛についての記載を避けている。藤原定家の日記しかこの時代の記録が残らなかったならば、不自然な日記の記述の連続であるがためにかえって何かがあったのだろうと勘ぐられることとなったであろう。
藤原定家の日記の上では無視されていた鎌倉幕府の上洛も、同時代の人達にとっては断じて無視できる話ではなく、吾妻鏡によれば六波羅を訪問する貴族達の牛車が列を成して身動きが取れない混雑であったという。
それからも貴族達が六波羅まで連日詰めかけ、源頼朝はそうした貴族達を六波羅で受け入れている。
建久六(一一九五)年の正月に予定していた東大寺再建供養は三月へと延期になっており、正式な再建供養は三月一二日に開催することが決まった。
現在だと京都から奈良は通勤圏内であるが、この時代はさすがに通勤圏内とは言えない。しかし、通常でも一日あれば京都から奈良まで歩いて行けるし、余裕を持ったスケジュールでも途中で一泊すれば問題ない距離だ。
三月一二日に開催するということは決まっているので、どのタイミングで奈良に向けて向かうかはそれぞれの思惑に則ることとなる。
具体的に言えば、いかにして源頼朝と歩調を合わせるかという問題である。
無論、源頼朝に関係なく行動する人もいる。七条院藤原殖子がその人で、彼女は鎌倉幕府に関係なく一足先に京都を発っている。ただし、七条院藤原殖子が京都を発ったのは三月九日であるから、東大寺再建供養の開催が三月一二日であることを考えると、一足先といってもそこまで余裕のあるスケジュールではない。
源頼朝の選択は、七条院藤原殖子が京都を発った同日に京都を発つというものであったが、奈良までのルートは大きく異なる。鎌倉幕府の一行はその途中で石清水八幡宮へと参詣しているのである。京都から真南に移動すると奈良に着くが、石清水八幡宮を経由するとなると、京都を出発していったん南西に移動して石清水八幡宮、それから南東に移動して奈良へ向かうことになる。少し遠回りにはなるが、京都から奈良へ向かうルートとしては珍しくない選択だ。
鎌倉の中心を成すよう計画された鶴岡八幡宮は石清水八幡宮から分祀されて建立された神社であることからもわかる通り、源氏は八幡神を氏神として信仰している。上洛した源頼朝が参詣しても何らおかしくない。それに、どんなに信仰心の欠落している人でも、ビジネスとしての宿泊施設が存在していないこの時代、寺院や神社は信仰の地であると同時に宿泊施設でもあった。京都から奈良に向かう旅程のどこかで一泊することを考えると、石清水八幡宮は絶好の位置にあたる。既に記したように、今回の鎌倉幕府の面々の一行は、武人だけでなく御家人達の家族、特に女性や子供も含まれている集団である。移動に無茶はできないし、途中の宿泊場所も無茶はできない。無茶をさせないことを考えれば、石清水八幡宮というのは京都から奈良の途中で迎える宿泊地点として悪い選択肢では無い。
なお、実際には辞表受理となっていないために現役の征夷大将軍であり続けているが、源頼朝自身は前年に征夷大将軍を辞したと考えていることもあってか、武士としての移動ではなく、上級貴族の移動という体裁であり続けている。後に源頼家と呼ばれることとなる万寿は、貴族の子弟であるとして網代車で移動し、北条政子は貴族の妻であるとして牛車に乗って移動している。
また、鎌倉幕府と同調する貴族達も一行の移動に合わせて移動しており、上流貴族である源頼朝とその家族、また、源頼朝とともに奈良に向かうことにした貴族達を警護するためとして、吾妻鏡に従うと一二騎の武士が付き従ったとある。何度も記しているが、武士を数えるときの騎は、馬の頭数でも、武士の人数でもなく、武士団を指揮する武人の数である。つまり、軍勢を指揮する武士集団のトップが一二名いるということになる。
彼らはあくまでも貴族の周囲を守るための武人であり、その格好も儀仗兵の儀礼的なそれである。ただし、その面々の名を列挙すると、断じて儀礼的な護衛とは言えなくなる。
一行の前を守るのが、畠山重忠、稲毛重成、千葉胤正、葛西清重、小山朝政、北条時連の六騎、一行の後ろを守るのは、下河辺行平、佐々木定綱、結城朝光、梶原景季、三浦義澄、和田義盛。これだけの面々が一行を守って石清水八幡宮に向かっただけでなく、石清水八幡宮の周囲の警護にあたったのである。
この時代、これだけの警護を用意できるのは源頼朝しかおらず、その規模に当時の京都とその周辺の人達は目を見張ったが、それでも鎌倉幕府の一行の移動というにはむしろ少ない。実際、このときに石清水八幡宮まで同行した御家人の数は少ないのであるが、その答えは石清水八幡宮に宿泊した翌日に判明する。
建久六(一一九五)年三月一〇日、鎌倉幕府の一行が石清水八幡宮を出発し、奈良の東南院に到着。ここを鎌倉幕府の一行における奈良での滞在地とし、東大寺の落慶供養に備えることとした。
これだけであれば石清水八幡宮から奈良への人の移動であるが、吾妻鏡に記されている行列の構成を見るとそのような悠長なことは言っていられない。
行列の先頭にはまず、畠山重忠と和田義盛が来る。
その後で、軍装の儀仗兵が三騎ずつ来る。すなわち、これより記す武士達だけが来るのではなく、これより記す武士達の家臣や従者がそれぞれ軍装をして行列を構成するだけでなく、街道の両脇を固めているのだ。街頭に繰り出す群衆からパレードを守る警備員を思い浮かべていただければイメージできると思うが、それが石清水八幡宮から奈良までずっと続いているのだ。
これだけの面々が並んだ後、北条義時と小山朝光の両名が続き、その後で牛車に乗った源頼朝が続く。
源頼朝の後ろには狩装束で並ぶ面々として、
と続き、前方と同じく三列の儀仗兵がその後を行く。構成は以下の通り。
その後ろに梶原景時と千葉胤正が続く。この二人はそれぞれ数百騎を率いている。
行列のラストに水干を着た面々が続いている。
これを、行列を眺める側から捉えると、行けども行けども途切れることの無い、そして終わることの無い鎌倉幕府の面々の行列が続くことを意味する。しかも、その行列には武人だけではなく彼らの妻や子もいる。あくまでも家族での参詣という体裁であるが、その実態は紛れもなく武装した軍勢の行軍である。
源頼朝は五年前にも石清水八幡宮に参詣しているから、この行列を五年前に見た人もいる。しかし、五年前は京都と石清水八幡宮との往復であり、奈良まで出向いているわけではない。五年前の上洛時に密かに源頼朝が東大寺を参詣したという史料もあるが、その史料の信憑性は高いとは言えない。確実視できる史料に従えば、源頼朝が石清水八幡宮と奈良との間を、軍勢を率いて行軍するのはこれが初めてであり、街道に詰めかける人達にとっても人生初の出来事であったと言えよう。
鎌倉幕府の一行が石清水八幡宮を出発したのと同じ建久六(一一九五)年三月一〇日、後鳥羽天皇が京都を出発して奈良に向かった。
陰陽道に従えば行幸の吉日ではないが、東大寺再建供養に合わせて移動するためにはこの日がタイムリミットである。その日の夜の移動としたのも、陰陽道の隙間を狙ってのことであったとも言えよう。
また、奈良での光景も考えなければならない。貴族達が天皇を迎えることはあっても、天皇が貴族達をはじめとする庶民を迎えることなどあり得ない。日本国は、皇族以外はみな庶民。いったん臣籍降下で民間人となったのち皇籍復帰で皇族となったか、皇族と結婚したかのどちらかのケースでもない限り、藤原氏だろうと、源氏だろうと、皇室の前では庶民である。ましてや、源頼朝は娘の入内を目論んでいるのだ。ここで後鳥羽天皇の気分を害(そこな)わせるなどあってはならない。鎌倉幕府の総力を挙げて、奈良の地で後鳥羽天皇を迎え入れるという図式にしなければならないのだ。そのために行幸の吉日ではない日に京都を出発させるようなこととなっても、目的は東大寺再建供養なのだからやむを得ないこととして受け入れることのできる話になる。
建久六(一一九五)年三月一一日、源頼朝が東大寺に対して千頭の馬を寄付した。この時代の馬の資産価値は現在の乗用車に等しく、現在の感覚で行くと一〇〇〇台の乗用車を寄付したようなものだ。平家の放火からの復旧を進めている途中である東大寺としては、馬そのものに乗り回すだけでなく、馬の持つ資産価値を考えても有り難い申し出とするしかない。
それだけでもありがたいのに、源頼朝はここに一万石のコメと千両の黄金、さらに上質の絹を二千反も寄付したのであるから、現在の貨幣価値にすると合計で数十億円規模の寄付をしたこととなる。
これを知った当時の人は、鎌倉幕府の持つ権勢を否応なく理解することとなったし、その巨大勢力が後鳥羽天皇らを奈良で迎え入れるという構図は、この時代の最大勢力は何なのかを周囲にアピールするに十分であった。
これだけでもアピールとして十分なのに、鎌倉幕府はさらに東大寺を和田義盛と梶原景時の両名が各々率いる軍勢に警備させることで、軍事力というよりわかりやすいアピールを示すことに成功した。
吾妻鏡によると東大寺再建供養の開催日である建久六(一一九五)年三月一二日は、早朝の雨が朝のうちにあがったものの、昼過ぎには再び降り始め、さらには豪雨となったとある。これだけでも厄介な情景であるが、この日はここに地震まで加わったのであるから、これを吉兆と考えるのは難しいはずである。普通ならば。
しかし、吾妻鏡はこれらの出来事を吉兆であるとしている。その上で、この吉兆をさらに強化させているのが、和田義盛と梶原景時の両名が率いる軍勢であるとしている。後鳥羽天皇をはじめ、七条院藤原殖子や関白九条兼実といった京都からやってきた面々は、鎌倉幕府の軍勢に守られながら東大寺へとやってきたこととなる。ちなみに、牛車に乗っての東大寺参詣であるため、牛車の中から外を見ることはできても周囲から牛車の中は見えない。
そして、源頼朝もこのときばかりはあくまでも一人の貴族として、すなわち、前権大納言として東大寺に参詣しており、周囲をかためる武士達が鎌倉幕府の御家人であるという違いはあるものの、この一瞬だけを切り取れば、牛車の周囲を守る武士の数が多いという以外は他の貴族と変わらないように見える。
ただし、一点だけ無視できないポイントがある。源頼朝の周囲を固める武士達は、東大寺再建供養の警備を務める武士達の一部であるという点だ。さらに言えば、後鳥羽天皇の周囲を固める武士達も、その他の皇族や貴族の周囲を固める武士達も、直接にしろ、間接にしろ、鎌倉幕府と少なからず関係を持っている。つまり、ここにいる全ての人は源頼朝の命令一つでただちに動く武士達に囲まれていることになるのだ。
さて、これを東大寺の立場で捉えるとどうなるか?
東大寺は比叡山延暦寺や興福寺と比べれば規模は少ないものの、僧兵勢力を構えている。僧兵に関する不平不満は多々あれども、参詣目的で寺院に足を運んだ方々を守るのは僧兵だ。この時代の治安は内裏ですら盗賊が入り込むほどに劣悪なものがあったが、それでも寺社に盗賊が忍び込むというケースはそう多くない。当然だ。誰が僧兵の詰めかけている場所に忍び込もうというのか。
僧兵は自分達の治安維持の役割を信じていた。誇りを抱いていた。
それを鎌倉幕府は踏みにじった。
僧兵達の踏みにじられたプライドは鎌倉幕府の御家人達と対面することとなったが、僧兵と向かい合ったところで怯むようでは鎌倉武士ではない。一触即発の事態に至ってもおかしくなかった。
以下は、吾妻鏡に記されたこのときの情景である。
源頼朝は牛車に乗って東大寺大仏殿へと向かっていた。前述の通り源頼朝の周囲を武士達が囲んでいるだけでなく、東大寺そのものを鎌倉幕府の御家人達が取り囲んでいる。もはや恒例と言うべきか、吾妻鏡は源頼朝の周囲を固め東大寺の護衛をする武士達の名を列挙している。まず源頼朝の周囲を固めている武士の名として挙がっているのが、刀持ちの小山宗政と、鎧持ちの佐々木経高、そして、弓箭を担いでいる愛甲季隆の三名。刀と鎧と弓箭という組み合わせの三名が周囲を固めるのは、儀礼に臨む上級貴族の儀礼的な護衛としてごく普通の光景である。さらに、先に述べたとおり源頼朝は征夷大将軍としてではなく上級貴族として東大寺に赴いており、源頼朝は同僚でもある上流貴族達とともに東大寺に参詣している、ということになっている。吾妻鏡によると、左馬頭源隆保と越後守藤原頼房の二名の貴族の名が挙がっていると同時に、その他にも源頼朝と行動を共にした貴族がいるとも記している。ただし、その貴族の名は吾妻鏡には無い。
また、鎌倉幕府の御家人である武士の中には位階こそ低いものの貴族の一員として列せられている者もおり、彼らは武士ではなく貴族としてこの場に集っている。田村仲教、源頼兼、藤原重頼、大内惟義、足利義兼、山名義範、毛呂季光が吾妻鏡に記載されている者の名であるが、これも先ほどと同様、その他にもいたことが吾妻鏡に記されている者の具体的な名は残されていない。
その前後を、貴族の一員ではない鎌倉幕府の御家人達の中から選抜された者が務める。
前を進むのは以下の面々。
後ろを務めるのは以下の面々。
なお、先頭を務める和田義盛と、最後尾を務める梶原景時の両名は、儀仗兵を務める直前まで警備に専念しており、儀仗兵の列を作る直前になって警備から離れている。つまり、列を作ったときの鎌倉幕府の御家人達の軍勢は、和田義盛も梶原景時もいない指揮官無しの軍勢となっている。無論、和田義盛も梶原景時もそのあたりのことは考えている。海野幸氏や藤沢清親といった弓の名手を厳選して門の左右の脇に座らせることで威圧感を与えることで警備の強化をしていたのだ。
このときの様子を慈円は愚管抄で、東大寺を警護する武士たちは自分が雨に濡れても何ら苦にする様子も見せずに居住まいを正して控え、貴族達がこれまで見てきた武士達や僧兵達とは違う強靭さと主従関係の強固さに圧倒されたことを書き記している。
ただならぬ威圧感の前に僧兵達もたじろぐところが見られたものの、隙が無いわけではなかった。それが、源頼朝が大仏殿前の庇(ひさし)に座ったときである。このとき一瞬ではあるが、警備の隙が生まれた。僧兵達はそのタイミングを狙って襲撃を掛けようとした。僧兵としてはうちひしがれたプライドを取り戻すことが先決であって必ずしも源頼朝がターゲットというわけではなかったが、タイミングを探っていたら源頼朝に隙が生まれたのだから、絶好のチャンスだ。
ただし、僧兵達が選んだのは強行突破であり、それを許さないのが鎌倉武士である。梶原景時がただちに引き返して御家人達に応戦を指示したこともあって、実際の武力衝突とはならなかったものの緊張感はさらに増した。双方とも手は出さないものの、怒号が飛び交うようになったのである。
源頼朝も自分達に対して東大寺の僧兵達が突撃しているのを目の当たりにしたが、守られていて余裕もあるのはただちに察知できた。
源頼朝は小山朝光を呼び出し、何かを伝えた後に僧兵達の前に小山朝光を派遣した。
僧兵の前に小山朝光が現れ、小山朝光は僧兵達の前に跪(ひざまず)いて「前右大将家の使いである」と述べたのち、「東大寺は平清盛のために火事に遭い、礎石だけを残して全て灰になってしまった。それはあなた方のもっとも悲しむところである。源氏は檀越(だんおつ)として復旧工事の最初から完成の今に至るまで尽力してきただけでなく、邪魔者を排除して仏のための式典を遂行するために鎌倉からここまで数百里の道のりを歩んで乗り越えて大仏殿に参詣しているのである。これを何故あなた方は喜ばないのか。我々は戦場で多くの人を殺すという大罪に手を染めている武士であるが、それでも仏との縁を結ぼうと、この大事業の基礎に携われたのを喜んだ。知恵も学問もある僧侶が、どうして騒ぎを好んで、自分達の寺の再興を邪魔するか。その思惑はきわめて不穏当なことであり、その理由を承ろう」と口上を述べた。
これを聞いて僧兵達は静かになった。原理原則に従えばその通りなのだ。
武士は殺すか殺されるかの日常を過ごす者である。それでも、自分達のしていることが残虐なことをしているという自覚はあり、その罪を多少なりとも償おうと寺院に参詣して仏に手を合わそうというのに、僧侶でもある僧兵が邪魔するのは許される話ではない。それにこの時点では、僧兵達のプライドを傷つけはしたものの、天皇臨席の場の警護であることを踏まえると鎌倉幕府の御家人達は何らマナー違反をしていないのである。
これで僧兵達は怒りをぶつける口実を失った。
僧兵と鎌倉武士との間で諍いが起こる寸前に至ってから時間が少し経過してから、後鳥羽天皇や九条兼実をはじめとする貴族達も大仏殿に到着し、未刻というから現在の時制に直すと午後二時頃に式典が始まった。
そこには数多くの僧侶も詰めかけていた。東大寺復旧の式典であるとは言え、東大寺は他の寺院と違って半ば国営の寺院であることも手伝って、興福寺や仁和寺といった他の寺院からもその時代の著名な僧侶達が集結し、その数は一千名を数えたというのが吾妻鏡の記載だ。
ところが、吾妻鏡には肝心な記録が無い。
式典に誰が参加したのかの記録はあるのだが、式典の内容そのものは書き記していないのだ。聖武天皇の命令によって建立されたときも、後白河法皇による復旧後の大仏開眼の儀についても式典の詳細は伝えられているのに、このときの吾妻鏡は誰が参加したのかの記録はあっても式典そのものの記録は無いのである。
ただし、そのあたりのヒントとなる記載ならばある。源平合戦によって焼け落ちた後に、東大寺をどのように復旧させてきたのかの記録ならばあるのだ。後白河法皇に命じられて復旧の総責任者となったのが重源上人であり、大仏復旧のための鋳造責任者となったのが宋人の陳和卿である。どうやらこの二人は源頼朝と顔を合わせなかったようなのである。
重源上人についての記録は五月になって登場するのでそのときに記載するとして、このタイミングで記すべきは陳和卿である。
外国人に工事を任せたのかと思うかも知れないが、現実問題、大仏復旧という難工事をこなせる技術力を持った人間などそうはいない。一刻も早く復旧させるなら、国外に目を転じて技術力を持った人間を招聘するのはおかしな話では無い。それに、奈良時代の大仏建立時にも多くの外国人が参加しているのだから、外国人の招聘は先例踏襲でもある。
このことは源頼朝も当然ながら知っている。
式典の翌日である建久六(一一九五)年三月一三日、源頼朝は復旧工事に尽力した陳和卿への面会を求めたが、陳和卿はそれを拒否した。仏門に関係する人間として、源平合戦で数多くの人を殺害した人とは会えないというのがその理由だ。源頼朝としても実際に数多くの血を流させたことは否定できず、会えない代わりということで、奥州合戦に使用した甲冑、鞍、三頭の馬、金銀を贈った。これはこの時代の感覚で行くと個人相手への最上級の贈答品だ。
しかし陳和卿は、甲冑については大仏殿建立の釘代として東大寺に納め、鞍のうちの一つを祭典用の乗り換え馬の鞍として東大寺に寄付し、それ以外はすべて源頼朝に返却した。
この物欲の無さに感心したというのが吾妻鏡における源頼朝の態度の記載であるが、表向きは感心であっても実際には不満であったとするしかない。
既に記した通り、東大寺の復旧記念式典はこれが二度目である。東大寺の再建を祝う式典は本来であれば建久六(一一九五)年であって建久元(一一九〇)年ではなかったのだが、後白河法皇は大仏再建のタイミングで強引に式典を開催させた。ただ、強引ではあっても法皇が直々に筆を手にして大仏に目を描き込むという特別なイベントであったこともあり、その時代の主立った面々が集った壮大なイベントになった。
一方、建久六(一一九五)年の式典は本来あるべきタイミングで開催する式典なのであるが、参加した人はどうしても五年前と比べてしまう。そして、どうしてもイベントの中心を担っている人物が誰なのかを比べてしまう。すなわち、後白河法皇と源頼朝との比較だ。
後白河法皇に対する評判は多々あるが、皇位に就いてから退位して院政を取り仕切った皇族であることは疑いようのない事実である。本心はどうあれ、誰もが皇族として敬意を払っている。
一方、源頼朝は上流貴族ではあっても皇族ではない。それに、源頼朝のような上流貴族など数多くいる。九条兼実のように藤氏長者として圧倒的権威を持った貴族ですら、他の貴族からの絶対的敬意を払われるコンセンサスなど存在しない。おまけに、源頼朝自身がどんなに否定しようと京都の貴族達は源頼朝を武士として扱う。武士は貴族より格下の存在であるというのはこの時代の共通認識だ。
その人物が五年前の後白河法皇のポジションに居座ってイベントを取り仕切っていると考えたとき、このことを愉快に感じる人は、特に自分のことを源頼朝よりも格上と自負する人達の中にこのことを愉快に感じると人は、そうはいない。
源頼朝とて、京都の貴族達から向けられている視線を理解していないわけはない。とは言え、そのまま放置することを良しとするほど無神経ではない。
人間、脳内に作り上げている序列を崩すのは容易なことではない。テストの点数のように明瞭な数値で序列を示すことが可能な場面であっても、自らの脳内で抱いている序列に反するような結果については簡単に受け入れることができないし、一生受け入れることができないことも珍しくない。
建久六(一一九五)年三月時点の源頼朝の立場で考えると、京都の貴族達が自分に向けている蔑視の視線である。蔑視だけならばまだいいが、それが今後の社会構築を考える上での不都合となると、放置するなど許されなくなる。
では、どのように放置せずに対処するのか?
源頼朝の前には先例が存在した。
平清盛だ。
平清盛の権力の源泉は多々あるが、その中の一つに安徳天皇の実の祖父であるという点がある。藤原摂関政治が理想形としたのと同じく、天皇の祖父となることで皇室とつながった権力を手に入れることで、平清盛は他の貴族には手出しできない権力を手に入れることに成功した。平家に対する貴族達の不平不満は多々あるが、それでも天皇の実の祖父である人物に誰が真正面から向かい合うことができようか。源平合戦で平清盛に対して刃向かうことができたのは歴史的には異例事態とするしかなく、それも、平清盛を、そして平家をどうにかできる武力を持つと考えた結果である。
この武力がキーポイントだ。
建久六(一一九五)年時点に置き換えると、天皇の祖父という点以外は、平清盛の立場に源頼朝が来る。平清盛の時代だと、源氏の武力は消えているように見えていたものの実際には燻っており、また、奥州藤原氏も存在していた、すなわち、平清盛に刃向かう手段として武力でどうにかするという選択肢が残っていたのに対し、平家滅亡から一〇年を経た建久六(一一九五)年となると、鎌倉幕府以外の武力は、無い。ゆえに、武力で源頼朝に立ち向かう存在そのものがない。それこそ国家の持つ武力ですら例外ではない。こうなると、表向きは源頼朝に逆らう人間はいないこととなるが、それと源頼朝に対する蔑視は話が別だ。源頼朝に対する反発心を隠さない者は多く、その感情は東大寺再建供養で如実になっていた。
だが、源頼朝が天皇の祖父となったらどうか?
源頼朝は後鳥羽天皇の元に自分の娘を嫁がせようとした。娘である大姫が入内し、大姫が後鳥羽天皇の息子を産み、その男児が新たな天皇に就いた場合、源頼朝は天皇の祖父となる。こうなれば、裏ではともかく表立っての反発は許されなくなる。源頼朝は単なる上級貴族ではなく、天皇の祖父というアンタッチャブルな存在となる未来が誕生するのだ。
天皇の祖父となったならば源頼朝は日本国の国政に対して巨大な権力を持つようになるであろう。ただし、これが平家との大きな違いであるが、源氏は平家のように議政官に人材を送り込んでいるわけではない。立法権と行政権を持つ議政官に人材を送り込むことができないでいる源頼朝は、議政官の面々、すなわち現時点で源頼朝に反発心を抱いている貴族達の協力を得なければ政務を遂行することができない。つまり、平家独裁政権と違い、既存の貴族勢力の協力を得ることが前提の政治体制ができあがる。
さて、その大前提となるのが大姫を後鳥羽天皇のもとに嫁がせることであるが、結論から言うと難航した。
入内といっても大姫が皇后や中宮に立后されることは難しい。そもそも後鳥羽天皇の元には九条兼実の娘である任子が嫁いでおり、文治六(一一九〇)年四月には中宮となっている。なお、後に中宮任子が妊娠していることが判明するが、建久六(一一九五)年三月時点ではまだ判明していない。それでも正式な中宮がいる天皇のもとに入内させるのは難しく、源頼朝の権力でもどうこうなるレベルではないのが実情だ。
そのあたりのことを理解していない源頼朝ではない。あるいは、源頼朝だからこそ難航するもののチャレンジすることが許されるのであり、そうでなければそもそもチャレンジすることすら許されないとするべきか。
では、どのようにチャレンジし、難航に立ち向かったのか?
建久六(一一九五)年三月一四日、源頼朝らが京都へと到着。それから中一日を挟んだ三月一六日の夜、源頼朝が宣陽門院覲子内親王を拝謁した。覲子内親王は後白河法皇と高階栄子との間に生まれた女児であり、後に後白河法皇から長講堂領を相続したことから百八十箇所の荘園領主となったという文句なしの有力者であったが、経済的には有力者であっても政治的権力はお世辞にも大きなものではなかった。何しろこのときまだ数えで一五歳、現在の学齢で行くと中学二年生だ。その年齢で、資産だけはあるものの世の中から無視される人生を過ごしてきたのである。
そんな宣陽門院を源頼朝は拝謁したのだ。
後述することになるが、宣陽門院は長講堂領を相続したものの、九条兼実の圧力もあってその全てを漏れなく相続できているわけではなく、この時点でも最低七箇所の荘園が、事実上の非荘園となってしまっていた。かと言って、相手は九条兼実だ。未だ一五歳の少女にできることなどたかが知れている。宣陽門院は抵抗らしい抵抗もできずに黙っているしかなかったのが現状であった。
というタイミングで源頼朝がやってきた。宣陽門院としては、源頼朝のことを好ましく捉えたであろう。
なお、拝謁したのは源頼朝一人ではなく、妻の北条政子も一緒である。源頼朝の女癖の悪さを危惧した可能性もあるが、北条政子が娘を後鳥羽天皇のもとに嫁がせようと考えたとき、源頼朝の持つ権力よりも、娘を持つ母の懇願のほうが効力を発揮することもある。
鎌倉幕府の面々が御所を訪問することができたのは、それから一三日を経た三月二七日になってからのことである。上級貴族でもある源頼朝であるのに、それも宣陽門院覲子内親王への拝謁を経たにもかかわらず、一三日を要したのだ。しかも吾妻鏡にあるのは誰が源頼朝とともに参内したのかという記録であり、源頼朝が内裏でどのような行動を執り、どのような成果を得たのかという記録は無い。
三月二九日、宣陽門院の母である丹後局こと高階栄子を六波羅に招くことに成功し、大姫を紹介することにも成功した。プレゼントを贈ることで高階栄子の関心を引くことにも成功した。もっとも、高階栄子自身は中原広元を通じて鎌倉方と連絡を取り合う関係であったため、もともと好意的であった関係をさらに好意的にすることに成功したともいえよう。
ただし、源頼朝にしてみれば高階栄子に対する接近は必ずしも最良とは言い切れない。高階栄子は九条兼実に対抗する勢力の中心である土御門通親こと源通親と親しく、この頃には既に高階栄子が九条兼実に対抗する勢力の一員と見られるようになっていた。土御門通親の妻は後鳥羽天皇の乳母である藤原範子であるため、後鳥羽天皇に自分の娘を紹介することを考えたときの選択肢として不合理には一見すると感じられないが、土御門通親は既に義理の娘を後鳥羽天皇の後宮に送り込んでいたのである。藤原範子は土御門通親のもとに嫁ぐ前は僧侶である能円の妻であり、娘をもうけていた。その娘が後鳥羽天皇の後宮に入った娘である。藤原範子が前夫と別れたのは能円が平家の都落ちのときに平家と行動を共にすることを選んだからであるから、藤原範子にしてみれば土御門通親と再婚することは国家反逆者とされる人生を脱するチャンスであり、娘が後鳥羽天皇の後宮に入ったのもまた人生一発逆転のチャンスである。
ゆえに、高階栄子と接近することは土御門通親を通じて後鳥羽天皇の後宮に対する口利きを得る筋道を獲得できることであるものの、肝心の土御門通親が問題なのだ。土御門通親に対しては同じ源氏であるという接近方法など通用しない。土御門通親こと源通親は源氏の中でも名門中の名門と自負する村上源氏、源頼朝は村上源氏がそもそも同格とは考えていない清和源氏。土御門通親にとっての源頼朝は、源平合戦に勝利し、奥州藤原氏も滅ぼし、正二位の位階を獲得し、鎌倉幕府を構築したことは知識としては知っているものの、鎌倉幕府のことを、平家と同様にいきなり現れた、そして、すぐに消滅するであろう新興勢力としか捉えていない。土御門通親にとっては、その源頼朝が自分のライバルになるなどおぞましいとする感情なのが正直なところであった。しかし、その一方で土御門通親にとっての最大の敵とすべき九条兼実の最大の協力者と見做されていたのも源頼朝だ。その源頼朝を自派に取り込めるのであれば、九条兼実に大打撃を与えられると同時に自派の権勢を強大化できるというメリットも無視できるものではない。
後白河法皇亡き後も組織としての後白河院は存続しており、後白河院の持つ所領の管理監督の最高責任者となっていたのが高階栄子である。その権勢を土御門通親も源頼朝も認めている。高階栄子個人にしてみれば、土御門通親の娘であろうと、源頼朝の娘であろうと、大きな違いはないし、極論すればどちらでもいい。要は九条兼実の権勢を弱める入内が実現すればそれでいい。
土御門通親にしてみれば、自分の娘のライバルの登場であると同時に、それまで九条兼実と協力的であった源頼朝が九条兼実を捨てて自分を選んだことになるのだから、好意的とまでは言い切れないものの、否定的な感情を生むものとは言い切れない。
そして、高階栄子は大姫の入内に何ら異議を唱えることはない。
つまり、源頼朝としてはここではじめて朝廷関係者に大姫を顔合わせすることができたこととなったが、残念ながらそれで大姫の入内に話が進行することはなかった。
その答えと言えるのか、三月三〇日に源頼朝が内裏にて九条兼実と会ったことの記録がある。ところが、九条兼実は日記に源頼朝と会ったことは「雑事を談ず」としか書いていないのだ。本当に雑談だけで終わった可能性もあるが、少し穿った考えをすると、九条兼実にしてみれば会ったこと自体は認めるもののその内容は日記に書き記すまでもないこと、あるいは書き記してはならないこととでも考えたと言える。
そのあたりの答えは建久六(一一九五)年四月一日の九条兼実の日記にある。九条兼実はこの日も源頼朝と面会したことは書いているが、そこにあるのはかつてのような友好的なムードではなく、源頼朝が九条兼実に対して段々と冷淡になってしていることへの嘆きである。
源頼朝が丹後局高階栄子を六波羅に招いたこと、そして、大盤振舞と言えるだけのプレゼントを用意したことも知っている。
源頼朝は丹後局高階栄子だけでなく九条兼実にもプレゼントを贈っているのだが、「源頼朝卿、馬二疋を送る、甚だ乏少」というのが九条兼実の日記の記述だ。この時代の馬は現在でいう乗用車に相当する価値のある資産であり、奥州藤原氏を制圧した源頼朝のもとにはこの時代で最高の馬が手に入る環境にあった。つまり、源頼朝は九条兼実に対して高級車を二台贈呈したこととなる。普通に考えれば破格の扱いであるが、こうしたものは絶対的価値ではなく相対的価値で決まる。自分のもとには馬二頭だが、丹後局高階栄子のもとには何が贈られたかを考えると、逡巡するところがある。
もっとも、この逡巡も源頼朝の立場に立つと合理的な判断である。
源頼朝は九条兼実の政治家としての資質を見込んで九条兼実に接近したのではない。京都の貴族の中で源頼朝にとって最良の選択肢を選んだ結果が九条兼実であり、九条兼実よりも都合の良い選択肢が京都に登場するならば乗り換えることはおかしな話ではない。
源頼朝が九条兼実を選んだことは九条兼実にとってありがたいことであり、九条兼実はこれまでの政治家人生で少なくない局面で源頼朝の持つ武力を暗に示すことで自らの政治的意思と意見を表明するなど、九条兼実も源頼朝を利用していた。
しかし、この時点の源頼朝が求めているのは娘の入内であり、娘の入内については九条兼実が障壁となるならば、娘の入内に多少なりとも協力できる人に接近し、障壁となる人とは離れるというのはおかしな話ではない。特に、九条兼実は娘を中宮として後鳥羽天皇の元に送り込んでおり、この時点で皇嗣出産というレースで先陣を切っているのが九条兼実だ。源頼朝にしてみれば、いかに九条兼実がこれまで源頼朝の協力者であったとしても、その人が皇嗣出産のライバルでもある人物とあっては逡巡するところがある。
それに、もっと重要なこととして、源頼朝は九条兼実の政治家としての資質に疑いを持つようになっていたのだ。かつての藤原道長のような立場に自らを持って行くべく、独裁というより独善へと向かっている。このような人物との接近は利益よりもむしろ損害のほうが大きい。
源頼朝がこのときの九条兼実との面会をどのように捉えていたかは吾妻鏡である程度知ることはできる。すなわち、吾妻鏡をどれだけ探しても、建久六(一一九五)年四月一日に源頼朝が九条兼実と会ったという記録が無い。あるのは、結城朝光、三浦義村、梶原景時の三名が、勘解由小路京極、現在で言う京都御所のあたりで、平氏の残党である平宗資とその子を捕らえたという記録だけである。平家の残党の拿捕なのだから九条兼実との面会よりも大きなニュースだと言えばそれまでだが、九条兼実との面会を記録から消滅させるほどのニュースではない。歴史書は新聞やテレビと違って紙面や時間の制限など無い、書きたいことを全て書くことの許される環境なのが歴史書というものなのだから、書いていないということは、書いていないだけの理由があるとするしかない。
源頼朝が狙っていたのは娘の入内である。
とは言え、仮に九条兼実が政治的ミスをやらかしていなかったならば、源頼朝は九条兼実との離反を考えはしなかったであろう。京都の政情安定と国民経済の向上に役割を果たしているならば、後鳥羽天皇のもとへ入内させるか否かについては議論が分かれても、政治的見解の一致から源頼朝はこれまで通り九条兼実と接近していなければならない。
しかし、入内問題についての意見が分かれるだけでなく九条兼実の政治的失態が加わるとあれば、源頼朝は九条兼実と離れることとなる。鎌倉幕府は荘園に直接食い込んでいる組織であるために、国民経済の把握という点でも朝廷の中で異質な組織になっている。要は、鎌倉幕府の元には朝廷よりもはるかに強い形で庶民の声が届いている。九条兼実の政策によって荘園住民の生活水準が向上しているか否かという根源的な問題が横たわっている以上、合格点をつけるわけにはいかない九条兼実と手を結び続けることは、鎌倉幕府のトップである源頼朝として得策ではない。
かといって、いかに源頼朝が圧倒的武力を持つ実力集団のトップであろうと、九条兼実は藤氏長者であり、この時点の貴族の中での最大権力者である。貴族としての序列を考えても九条兼実と源頼朝との関係は上司と部下との関係にあたり、そうそう失礼なことはできない。
そのことを熟知している超一流の政治家が京都でどのような振る舞いをしたかは複数の史料から明らかとなっている。
長講堂領荘園の復活がそれだ。
建久二(一一九一)年に後白河法皇は莫大な規模の荘園群を長講堂に寄進し、ここに長講堂領荘園が誕生した。後白河法皇は死を迎える前に長講堂領荘園を宣陽門院覲子内親王に相続させ、土御門通親を別当に任命した。だが、少なくとも七箇所の荘園が荘園として機能しなくなってしまっていたのである。
もともと九条兼実は長講堂領荘園によって丹後局や宣陽門院の権勢が強まることを快く思っていなかった。それでも合計一八〇箇所に及ぶという強大荘園領主となっていることは認めなければならなくなっていたが、藤原道長の時代への回帰を狙っている九条兼実にとっては、荘園の削減を図ることが権勢を弱めることにもつながるという一石二鳥のメリットのあることとなっていたのである。その結果が長講堂領荘園の事実上の削減であり、名目上は宣陽門院の所有する荘園ではあっても、事実上は宣陽門院の元から離れるようになっていた荘園が最低でも七箇所は現れるようになっていたのだ。九条兼実は何も長講堂領荘園だけをターゲットにしたわけではなかったが、長講堂領荘園は九条兼実の力でどうにかなる荘園であるだけにターゲットにされやすくなっていた。
それを源頼朝は正そうとした。
丹後局も、土御門通親も、単にプレゼントだけで源頼朝の求める大姫の入内に賛同するほどお人好しでは無い。九条兼実の手によって削減されつつある長講堂領荘園を源頼朝の圧力で復活させる、すなわち、資産を取り戻すだけでなく九条兼実の政治家としての権勢を削減できるとあれば、大姫の入内は取引材料として何ら不都合無い話である。
九条兼実にとっては、長講堂領荘園の権利確認そのものが政治的に痛い話であった。私有財産への侵害だけでも問題であるのに、後白河法皇の保有する資産の相続に口出ししているとなっては政治的に大きな失態だ。
建久六(一一九五)年四月一〇日に御所に参内した源頼朝は、朝廷内で貴族達と議論を交わしただけでなく、その日の夜には九条兼実と一対一で面会したことが記録に残っている。ただし、そのときの成果は思い通りの結果ではなかったようである。
普通の政治家であればここで九条兼実に丸め込まれてしまうところであるが、源頼朝は良い意味で普通ではない。
源頼朝は、九条兼実との交渉が決裂に向かっていることを悟って世論を創り出すことにした。東大寺の供養で鎌倉幕府の武力を見せつけることに成功して世論を黙らせることに成功していた源頼朝であるが、黙らせることと支持を得ることとは別の話である。もっとも、それを放置して平然としているほど源頼朝は政治家として劣ってはいない。
九条兼実が長講堂領荘園の権利を侵害していること、その被害者が後白河法皇の娘であり、数え年でまだ一五歳、現在の学齢で言うと中学生である宣陽門院覲子内親王であることを謳ったのである。丹後局高階栄子も、荘園の監督をする土御門通親も、源頼朝の味方であることは謳ったものの、私的な利権があることは敢えて触れずにいる。隠すのではなく触れないのであるから、嘘をついているわけではない。
さらなる好材料をもたらしてくれたのが四月一二日の吉田経房の六波羅訪問である。民部卿兼権中納言である吉田経房はここで、後白河法皇逝去後の朝廷財政を源頼朝に伝えた。現在の日本国は国家予算が公表されるものであるというコンセンサスが成立しているだけでなく、予算案そのものが国会での重要な審議内容になるのが通例であるが、この時代の国家予算とは公表する対象の情報ではない。朝廷に頻繁に顔を出す議政官の一員であれば国家予算を知りうることができるが、そうでなければ上級貴族であっても国家予算を知ることができない。源頼朝は上級貴族の一員ではあっても議政官の一員ではないため国家予算を知ることができないでいた。それは九条兼実にとって源頼朝に優位に立てる貴重な情報であったが、この瞬間に九条兼実の優位性は失われた。
建久六(一一九五)年四月一七日、丹後局高階栄子が六波羅を訪問し、北条政子と大姫と面会。公表はされていないものの、この段階で大姫の入内について高階栄子は了承したと見られる。
世論の高まりと、高階栄子の支持を獲得した源頼朝は四月二一日に内裏に参内し、ここで明確に長講堂領である荘園のうちの七箇所について、亡き後白河法皇の遺言の通りに荘園として宣陽門院のもとに引き継ぐべき主張。九条兼実はこの時点で同意を見せなかったものの、時代の趨勢はもう決まっていた。
建久六(一一九五)年四月二四日、九条兼実の意思を無視する形で、亡き後白河法皇の残した長講堂の七箇所の荘園について宣陽門院に所有権があることが確認され、この問題は片付いた。
この瞬間、それまで協力関係にあった九条兼実と源頼朝の関係は断絶となった。源頼朝は九条兼実を必要としなくなり、九条兼実は源頼朝を頼れなくなった。
娘を入内させることを目論む源頼朝にとって障壁となっていた九条兼実が障壁で無くなり、宣陽門院に協力したことで丹後局高階栄子のバックアップも得ることに成功したことで、あとは娘である大姫を入内させるのみとなった、はずであった。
ところがここで九条兼実に大きなプラスが働いていることが判明した。後鳥羽天皇の中宮である九条任子の懐妊が判明したのである。
九条任子こと藤原任子は九条兼実の娘であり、文治六(一一九〇)年に後鳥羽天皇の元に入内している。同年四月には中宮に立后しており、ここまでの流れは藤原摂関家に生まれた女性としてごく普通の人生である。入内したのも現在の満年齢で言うと一七歳であるが、それから五年を経ている。二二歳ともなれば妊娠しても出産してもおかしくない年齢だ。後鳥羽天皇は満年齢で言うと一五歳であるが、このぐらいの年齢で子をもうけることは、この時代としては普通である。
こうなると、いかに大姫を入内させることに成功したとしても、入内の後で男児を出産したとしても、中宮が男児を先に産んだとあっては大姫の地位が急上昇することなどあり得ない話になる。後鳥羽天皇の男児として重宝されることはあるだろうが、大姫が中宮任子から中宮位を奪うことも、乗り越えて皇后位に就くことも考えられないし、大姫が産んだ男児が皇位を継承する可能性も下がるから源頼朝が天皇の祖父となる可能性も減る。
ただし、希望はある。
中宮任子の産んだ子が女児であることだ。
そうすれば男児出産を巡るレースは振り出しに戻る。いや、妊娠と出産の期間が加わっているだけ中宮任子は妊娠するタイミングが遅くなることとなる。
源頼朝はどうにかして娘を後鳥羽天皇の元に入内させようと、建久六(一一九五)年五月になると、源頼朝らしからぬ慌てぶりを見せるようになる。頻繁に宮中に顔を出し、後鳥羽天皇への拝謁にも成功し、丹後局への接近を強めていった。さらに、後に源頼家と呼ばれることとなる若君も帯同させることで、名目上は自分の後継者のアピール、主目的は後鳥羽天皇と義兄弟になる予定の男児の紹介をしている。
なお、この男児が元服を迎え源頼家と名乗るようになったのはこの頃であったとする説もあるがはっきりとは言えない。後述するように吾妻鏡は一部が失われているため、源頼家の元服の記録は現存していない。公卿補任を読む限りでは少なくとも建久八(一一九七)年の年末には源頼家と名乗るようになっていたことが確実視されることから、源頼家と名乗るようになったのは建久六(一一九五)年から建久八(一一九七)年の間のどこかであると推測される。
先に、東大寺再建供養の場に大仏鋳造責任者となった宋人の陳和卿も、そして、東大寺復旧工事の総責任者である重源上人もいなかったことは記した。
陳和卿についてはそのあとで源頼朝が面会を求めるも断られ、ならばとこの時代で最上級の贈答品を贈ったもののその態度は素っ気ないものであったことを記した。
東大寺再建供養における貢献度でランク付けすると二番目に挙がる人物と面会できずにいる。これは源頼朝にとって痛事であったが、この痛事ですら微々たるものと感じられる痛事が源頼朝には存在していた。
重源上人と連絡が取れなくなっていたのだ。
東大寺再建供養に総責任者である重源上人がいないというだけでも異常事態であったのだが、その異常事態をさらに悪化させたのが、重源上人の逐電である。行方不明になって連絡が付かないどころか、どこにいるかわからないというのだ。
その重源上人の所在が判明したのが建久六(一一九五)年五月である。
僧侶には僧侶のネットワークが存在する。どの僧侶がどの寺院にいるか、あるいは寺院を離れてどこで修業をしているか、あるいはどこで行脚をしているかは、確実ではないものの、寺院内であればある程度は情報として入ってくる。
その嚆矢が五月一〇日にあった。熊野別当湛増が甲(かぶと)を贈答したのだ。送り先は後に源頼家と呼ばれることとなる若君である。
熊野別当湛増は以仁王の令旨後の最初の衝突の中心人物である。ただし、治承四(一一八〇)年五月時点の湛増は平家側の一員としての挙兵である。その湛増は同年九月になると今度は反平家で立ち上がるようになり、熊野水軍を組み込むことに成功していた。一時期平家方によって源氏方からの離反を促されたものの源氏方と行動をともにすることを選び、熊野水軍を引き連れることで源氏方の貴重な海軍力を提供する身になっていた。その後も平家の落人の討伐で功績を残した。
湛増は源平合戦においてその武力で名を残したものの、本職は僧侶である。源平合戦で果たした功績により鎌倉幕府の地頭に任命された一方、文治三年(一一八七)年には僧侶としての最高位である法印の僧位を獲得していた。武人としても、僧侶としても、熊野三山の勢力を一手に握る存在になっていたといっても過言ではない。
その湛増が、源頼朝の息子に甲(かぶと)を贈った。
これが意味するところは誰もが理解した。
武人としてだけでなく宗教界においても高位にある人物が完全に源頼朝と源頼朝の次の世代を選んだのだ。陳和卿は源頼朝ら鎌倉幕府の面々が戦場において数多くの血を流してきたことを理由として面会を拒絶した。重源上人も顔を合わせない表向きの理由は陳和卿と同じであったが、宗教界の重鎮となった熊野別当湛増が明白に鎌倉幕府の側に立つと宣言したことで、宗教上の理由から重源上人が源頼朝と距離を置くことが難しくなっただけでなく、行方をくらませ続けること自体が困難となった。
建久六(一一九五)年五月一八日、鎌倉幕府の一行は四天王寺へ向けて出発することを決めた。それも、鎌倉武士達にとっては珍しく、水路での移動であった。淀川に船を浮かべて南西へと進むのである。
吾妻鏡はそのことについて、四天王寺にまで陸路で進むと、途中経路になってしまった荘園は鎌倉幕府の行列を歓待しなければならず、その負担はかなり大きな物となってしまう。このことを考えると水路で一気に南西に向かった方が途中の負担が小さくて済むという配慮であったとしている。
その側面は無視できぬものがあったであろうし、源頼朝のことだから負担軽減を前面に打ち出した自分達の行動を広く喧伝するであろう。
しかし、もっと大きな理由がある。
規模とスピードだ。
五月一八日というのは源頼朝が四天王寺に参詣すると表明した日付である。
そして、実際に出発したのは五月二〇日。
鎌倉幕府の御家人達が源平合戦でどれだけの軍勢を組織して行軍したか、奥州合戦に向けてどれだけの軍勢を組織して行軍したか、その両方とも話としては聞いている。また、東大寺再建供養へ向かうのにどれだけの規模の軍勢が京都から奈良に向かったかも目の前で見ている。
ただ、そのどれもが事前に通知している上での軍勢であり、今回のように発表した翌々日に出発するというのは信じられない話である。しかも、徒歩や騎馬ではなく船だ。海ではなく河川であり、また、この時代の河川交通の中でもっとも発達していた淀川水系であることも差し引いても、僅か二日で軍勢を移動できるだけの船を揃えることができるというのは、その財力と権勢を見せつけるに十分であった。
おまけに、五月二〇日の卯刻、現在の時制に直して午前六時頃に京都を出発し、その日の正午には四天王寺に到着している。現在なら京都駅から天王寺駅まで鉄道で一時間ほどあれば到着するが、この時代の感覚で行けば一日がかりの旅程なのが普通だ。それがわずか六時間で到着した、それも一人や二人ではなくそのまま戦場に向かうと言われても通用するレベルの軍勢が京都を出発してから六時間で到着したというのは、脅威というレベルを超えて恐怖である。
以下がそのときの鎌倉幕府の面々の軍勢だ。
ここに名の挙がった人物だけで軍勢を構成したわけではない。各々が軍勢を引き連れているだけでなく、ここには名が挙がっていないがここには北条政子をはじめとする源頼朝の家族に加え、御家人達の家族もいる。それだけの人数が、しかも、武人だけではなく女性も子供も交ざった人達の集団が、わずか六時間で京都から四天王寺までやってきたのだ。
その恐怖は京都内外の全ての人に伝わる恐怖であったが、その中でも群を抜いて恐怖に感じたのは受け入れる側だ。
最初に鎌倉幕府の面々がやって来ると聞いて身構えていたら、出発したという話が来るか来ないかというタイミングで鎌倉幕府の面々が到着したのだ。
四天王寺としては、名目としては参詣しに来た人を迎え入れるだけなのであるし、寺院における源頼朝らの振る舞いもごく普通の参詣者と代わらぬものがあったが、その規模とスピードは恐怖でしかない。
記録だけを追いかければ、鎌倉幕府の面々は四天王寺に一泊して翌日には京都に到着したとある。
そう、記録だけを追いかければ……
京都を発って四天王寺に向かい一泊二日で戻ってきた、それも、どんなに少なく見積もっても一万人を超える人数が一泊二日で戻ってきたとあって、京都内外に鎌倉幕府の実力は否応なく広まることとなった。
その上で、以下の記録を読んでいただきたい。
建久六(一一九五)年五月二二日、源頼朝、参内。九条兼実と面会をする。
建久六(一一九五)年五月二三日、源頼朝、六条殿に向かった後、後白河法皇が住まいとして構えていた法住寺へ参詣。
二日連続で参内と参詣をしただけと考えるかもしれないが、源頼朝は五月二〇日に京都を出発して当日中に四天王寺に到着し、翌日の二一日には京都に戻っている。その後で休むことなくスケジュールを詰め込んで平然としているのだ。
そのことについて源頼朝は何も言わない。
何も言わないでいるが、これだけのプレッシャーを与えれば効果は万全だ。
五月二四日、重源上人が高野山にいることが判明し、源頼朝は中原親能を高野山に派遣することとした。
これは単に重源上人ただ一人の問題ではない。もはや日本国の誰であろうと、鎌倉幕府の、そして源頼朝の元から逃れることなどできないと判明したのだ。
しかも、源頼朝は重源上人との面会が終わらぬ限り鎌倉に戻らないとしたのだ。京都内外の多くの人にとって鎌倉幕府の面々は厄介な存在と映るようになっていたが、一つだけ希望があった。京都での用が済めば鎌倉に戻るのは間違いないのだから、こうなるとどんなに重源上人の行動を支持する人であっても重源上人に一刻も早く高野山から戻ってきてもらって源頼朝と面会してもらうことを願うようになる。
それまで源頼朝と会うことを避けていた重源上人も、このような権勢者の捜索を受けていると理解したら面会せざるを得なくなる。五月二九日癸丑。重源上人が修行を途中で打ち切って京都に現れ、源頼朝との面会を果たした。このときの面会の内容を吾妻鏡は伝えていないが、一つだけ、嫌味ともとれる記載も残している。
来月の祇園御霊会の厄払いが大変なことになるだろうと。
何しろ重源上人が源頼朝と会わないでやり過ごそうとした理由が、源平合戦をはじめとする戦乱で源頼朝をはじめとする鎌倉武士の面々が多くの血を流してきたからというものなのだから。
鎌倉幕府の面々が上洛したのは、主目的は源頼朝の娘を入内させることであったものの、表向きは東大寺再建供養への参列である。東大寺再建供養が終わっても京都に留まり続けたのも、主目的は源頼朝の娘を後鳥羽天皇のもとに入内させることであっても、名目としては東大寺再建に尽力した方々にまだ会えていないことが鎌倉へと戻らない理由になっている。
つまり、重源上人と会った瞬間に源頼朝の京都滞在の理由は無くなるので、鎌倉幕府の一行はただちに京都を発って鎌倉に戻ってもおかしな話ではないのだが、現実問題としてそのようなことはできない。
建久六(一一九五)年六月三日、源頼朝は、後に源頼家と呼ばれることとなる若君を連れて御所に参内した。牛車の一種である網代車に乗っての参内であり、徹頭徹尾、貴族の一人が自分の後継者を連れて行ったという体裁である。この親子の周囲を固めている武士達は鎌倉幕府の御家人達であり、誰が見ても武家の頭領の移動の情景なのであるが、源頼朝はあくまでも貴族の一員であろうとしている。なお、吾妻鏡によるとこのときに後鳥羽天皇より剣を与えられたとある。といっても、後鳥羽天皇から直接剣を受け取ったのではなく参議兼左近衛中将の花山院忠経から手渡されたものであり、また、受け取る場所も本来は射技を観覧するための場所である弓場殿であったという、必ずしも最上級の対応というわけではなかった。
その後、源頼朝は六月八日に再び六条殿に参り、六月一三日に亡き後白河法皇の法華堂に参った。なお、このときの参詣について名が残っているのは源頼朝のみであり、妻や娘の名は確認できない。参詣で源頼朝以外の名が確認できるのは六月一八日になってからで、この日の記録として北条政子が娘の大姫とともに極秘裏に清水寺をはじめとする京都内外の古刹の霊地を巡礼したとある。
宗教関係で言うと六月二一日に、向かうのではなく招き入れたことの記録も存在する。伊勢神宮の神祇大副、すなわち、伊勢神宮のナンバー2である大中臣能隆が六波羅の源頼朝のもとを訪問し、源頼朝は中臣能隆が祭主として文治元(一一八五)年から一〇年に亘って源氏の安泰を祈願したことに感謝して剣を与えたとある。
そして、六月二三日に鎌倉幕府の面々は京都を出発して鎌倉に戻ることを公表したのであるが、ここで気になる点が出てくる。六月に入ってからというもの、どこに行ったとか、誰と会ったとかの記録はあるものの、どんな話をしたのかの記録が吾妻鏡から完全に消えているのである。
記録が消えているのは六月二三日を過ぎてからも変わることなく、六月二四日に源頼朝は息子を連れて参内し、これから揃って鎌倉に帰ることを報告しているのであるが、参内して報告したことしか書いておらず、肝心な中身、すなわち、この上洛の最大目的である大姫入内について何の記録も残っていないのである。
また、吾妻鏡には記録が残っていないが、この後の記録から推測すると、土御門通親こと源通親の義理の娘である在子が後鳥羽天皇との間の子を妊娠していることがこの頃には判明しているはずである。
ゆえに、こう結論づけるしかない。
中宮である女性が妊娠しており、すでに入内している別の女性もやはり妊娠している。この二人の有力者が自分の娘を後鳥羽天皇のもとに入内させ、後鳥羽天皇との間の子を妊娠させることに成功させている以上、大姫の入内計画は頓挫した、と。
建久六(一一九五)年六月二五日、鎌倉幕府の面々が鎌倉へと出発した。
表向きの目的である東大寺再建供養への参列は果たしたが、真の目的である大姫入内は果たせなかったこともあって、吾妻鏡における京都から鎌倉への帰路の記録は、統治者として、また、組織のトップにあるものとしては相応しい内容であるものの、大姫についての記録は不自然な形で抜け落ちている。
とはいえ、全くの失敗であったわけではない。
京都の政界でそれまでの絶対的な権勢が空洞化しつつあった九条兼実との関係を薄くし、その代わりに丹後局と土御門通親との接近は果たすことができたのである。
ここで着目すべきは完全に関係を切ったわけではないという点である。
九条兼実も、土御門通親も、自分の娘が後鳥羽天皇との間の子を妊娠したという点で違いはない。しかし、出生前診断など存在しないこの時代、お腹の中の子が男児なのか女児なのかわからないのだ。男女差別と扱われることを覚悟で書くと、男児を産まなければ意味がない。奈良時代までは女性天皇の例があるものの、この時代は、天皇とは男性であり、天皇の子を出産したとしてもその子が男児でなければ無価値と扱われていた時代なのだ。
つまり、九条兼実の産んだ子が女児であった場合、九条兼実は次期天皇の祖父という地位が手からこぼれ落ちることとなる。同じことは土御門通親にも言え、土御門通親の義理の娘が産んだ子が女児であったとき、土御門通親は天皇の祖父になる資格を手にできないこととなる。
そして問われるのは、誰が一番先に後鳥羽天皇との間の男児を産むかである。より早い方が次期天皇の祖父になることができるため、九条兼実の娘も、土御門通親の義理の娘も、女児を産んだとなったら次期天皇出産というレースはまた振り出しに戻り、そこに大姫の入る余地も生まれる。
それからの吾妻鏡の記載は、京都から鎌倉に向かうまで、何月何日にどこに到着し、その土地その土地で起こっている問題を仲裁して解決させているだけである。
列挙すると、六月二五日に京都を出発して六月二八日に美濃国青波賀、現在の岐阜県大垣市に到着したのち、翌二九日に尾張国萱津、現在の愛知県あま市に到着。月が変わって七月一日に熱田神宮に参詣したのち、七月二日に遠江国橋下、現在の静岡県の新居浜で、安田義定亡き後の遠江国の統治と裁判状況について確認。七月六日に黄瀬川、現在の静岡県沼津市に到着して駿河国と伊豆国の裁判のうち源頼朝の判断が必要なものについて処理をして、七月八日に鎌倉に到着した。その間、源頼朝の名は出てくるが、北条政子の名も大姫の名も吾妻鏡には登場しない。
ただし、女性の名が全く出て来ないというわけでなく、美濃国青波賀に到着したときに稲毛重成の妻が武蔵国で重病に苦しんでいるという知らせを受けたため、源頼朝は自分の持つ馬の中でもっともスピードの出る馬を稲毛重成に与えて武蔵国に直行させている。稲毛重成の妻の名は稲毛女房という名で語られることが多いがその本名は不明。ただし、出自ははっきりとしている。北条時政の娘であり、北条政子や江間義時は異母姉であり異母兄である。
吾妻鏡には稲毛重成の妻が七月四日に亡くなったという記録があるものの、稲毛重成が自分の妻の死の瞬間までに間に合ったかどうかの記載はない。あるのは、妻の死に悲しんで稲毛重成が出家したという記録と、娘の死を知った北条時政、異母妹の死を知った北条政子、江間義時の姉弟が喪に服したという記録のみである。
鎌倉幕府の面々が去り、京都は平穏を取り戻していた。
本来ならばその平穏の様子を当時の記録から推し量りたいところであるが、非常に残念なことに、九条兼実の日記は建久六(一一九五)年五月から八月の記事が現存していない。ゆえに他の史料からこの頃の京都の様子を推し量るしかない。
ただし、九条兼実という権力の中枢中の中枢にいる人物の残した記録ではないため、この頃の九条兼実の様子について、本人の心情を把握することなしに客観的に知ることができるというメリットもある。
さて、建久六(一一九五)年五月から八月という期間の九条兼実の日記が残っていないことであるが、まさにこのタイミングこそが九条兼実の人生を左右する出来事の起こったタイミングである。すなわち、建久六(一一九五)年八月三日に、九条兼実の娘である中宮任子が後鳥羽天皇の子を出産したのだ。このときの九条兼実の様子は、まさに現存していないために九条兼実の日記から知ることはできない。
代わりに、そのときの九条兼実の様子として現存している記録として、九条兼実の家司であった三条長兼の日記がある。
三条長兼によると、男児誕生のお告げもあったし、男児誕生の夢も見たし、男児を無事に出産するよう祈りも捧げていたし修法も繰り返していたということで、もうすぐ自分の娘が後鳥羽天皇の男児を産む、そして、自分が次期天皇の祖父になることを確信していたという。
ところが、中宮任子が産んだのは女児であった。
三条長兼の日記によると、九条兼実は女児出産ということでこれ以上なく落胆したとある。
欠落している九条兼実の日記が復活するのが九月一一日のことである。この日の記事として九条兼実は「皇女降誕、頗る御本意にあらざるか」と、自分の感情ではなく後鳥羽天皇の心情を代弁するという体裁で一ヶ月前の女児生誕を書いている。
なお、愚管抄には、前例のない規模の祈祷を繰り返したのに生まれたのは皇女であったために九条兼実がかなり落胆した様子が記されている。
当事者の記録がないにしても吾妻鏡の記事ならばあるのではないかと考える人もいるかも知れないが、その期待はするだけ無駄である。京都の情報を常に手に入れることを考え、京都から鎌倉まで片道七日、往復半月の情報通信網を築いた源頼朝のことであるから、八月三日の中宮任子の出産については遅くとも八月中旬には知っていたはずである。しかし、吾妻鏡の建久六(一一九五)年八月から九月の記事を見ても、京都での中宮任子の出産の様子を書き記した記事もなければ、その知らせを知った源頼朝がどのような感情を抱いたかという記事もない。後に鎌倉新仏教のトップバッター務めることとなる法然を九条兼実が招いて中宮任子の出産に立ち会わせて受戒を行わせたという記録はあるが、その記録は吾妻鏡によるものではない。
吾妻鏡にあるのは、京都から鎌倉に戻ってきた源頼朝が、そして鎌倉幕府の面々がどのように過ごしていたかという記事であり、そこにあるのは統治者としての源頼朝、権力としての鎌倉幕府、そして、親族を亡くして喪に服している北条一族といった情景である。吾妻鏡の記録を追いかけると、京都からの情報は届くし、それに対して源頼朝が何かしらのアクションを起こすのは今まで通り変わらずにいることも見えてくる。
例えば八月六日の記事として、丹波国志楽庄と伊祢保について、荘園領主から地頭の振る舞いが横暴にすぎるという連絡を受けたため、まずは地頭の持つ荘園からの年貢徴収権を停止し、最終的には地頭を交代するよう中原親能に命じたことがある。丹波国は現在の京都府の一部であり、この時代の考えでいくと京都のある山城国の北にある令制国である。つまり、京都からの情報連絡網は健在であったことがわかる。
さて、この時期の吾妻鏡の記事の中には古典の授業でも出てくる有名な話が出てくる。記事が記されているのが建久六(一一九五)年八月一〇日のことなので、ここで記しておくべきであろう。
その話とは、熊谷直実。平家物語の平敦盛の最期の場面に登場する武士である。いや、武士であった。平家物語では、わずか一七歳の少年を自分の手で殺めなければならなかった現実に悲観して出家したという。そして、吾妻鏡の八月一〇日の記事も出家した身である熊谷直実が、この日、鎌倉を訪れて源頼朝と面会したとある。源頼朝はもう少し鎌倉でゆっくりして行けと引き留めたとあるが、熊谷直実は武蔵国の実家へ向かうために直ちに立ち去ったというのがこの日の記事だ。
これだけであれば美しい情景であったろう。古典の名作として取り上げられるのも何らおかしなことではないと感じる情景だ。
しかし、熊谷直実の出家は源平合戦の直後ではなく、既に述べたように建久三(一一九二)年のことである。出家した理由も、一七歳の少年を戦場で殺めなければならなかったことの虚しさではなく、所領争いに敗れた末の自暴自棄になった結果での出家なのだ。さらに言えば、熊谷直実一人が出家をしたのではない。日付の前後は存在するもののその頃に複数の御家人が出家という形で鎌倉幕府から離脱することが相次いでいたのである。このことに気づかない源頼朝ではない。源頼朝は未来を指し示すことで組織の結束を図り、鎌倉幕府から離脱する御家人の数を抑えることに成功してはいたものの、それも所詮は一時凌ぎである。
熊谷直実の話は美しい。戦場の虚しさを訴え、人命の尊さを訴える古典の名作である。しかし、熊谷直実はそのことだけで出家したのではない。所領をめぐる争いに敗れた末に自暴自棄となって出家したのだ。その熊谷直実が鎌倉にやってきて源頼朝と面会した。しかも、面会して話した内容というのが仏法だけでなく兵法も含まれていたのだ。
源頼朝が熊谷直実の出家後を把握していなかった可能性は低い。それどころか、熊谷直実をどうにかしなければならないと考えていた可能性が高い。さらにいえば、熊谷直実は利用できると考えていたフシがある。
どういうことか?
熊谷直実が八月一〇日に鎌倉を訪れたのは吾妻鏡に記載されているとおりであろう。仮に吾妻鏡の記載が捏造であったとしても、東海道藤枝宿に熊谷山蓮生寺をこの頃に建立したことの記録が残っていることから、この時期に熊谷直実が鎌倉方面に向かったのはおかしな話ではない。つまり、鎌倉幕府の御家人たちはかつての同僚が僧侶となって鎌倉方面に向かっていることを知っていたし、その前に熊谷直実のことを思い出させる出来事も起こっていたことは間違いない。
忘れてはならないのは、この時期の鎌倉幕府の御家人達は京都から戻ってきたばかりであること、ついこの間まで京都とその周辺におよそ三ヶ月に亘って滞在していたこと、そして、出家した後の熊谷直実は各地を転々としていたものの、鎌倉幕府の面々が京都にいた頃に、熊谷直実もまた京都にいたことである。
上洛していた源頼朝が、あるいは鎌倉幕府の御家人たちが、僧侶となった熊谷直実と京都内外で会っていたことの記録はない。記録はないが、会っていたとしてもおかしくない。これは、かつての所領争いの末の御家人大量離脱を思い出させるに十分であり、しかも所領争いそのものは現時点でもなお続いていることを思い出させるに十分であったということだ。
熊谷直実は、鎌倉を訪れたのではなく、鎌倉に呼び出されたと考えたらどうなるか?
鎌倉幕府の御家人達に思い出させてしまった所領争いを、完全とは言えないものの、多少は和らげる効果を持ったであろう。
それだけではなく、八月二八日には職務怠慢を理由に陸奥国や出羽国の地頭の複数名を罷免しているのである。緩んだ綱紀を正したと言えばそれまでだが、いかに情報の重要性を理解している源頼朝とは言え、誰が、どのように、どのタイミングで情報を送り届けているのかとなると、不明瞭なところがある。
その不明瞭さが、漠然としたものであっても垣間見えたらどうなるか?
恐ろしいと感じるしかない。何しろ源頼朝の目が鎌倉から遠く離れた地にも届いているのだから。
その上でもう一つ、考えなければならないポイントがある。
熊谷直実は出家して僧侶となったし、僧侶として各地の寺院を転々とする日常を過ごすようにもなった。熊谷直実の記録は日本各地に残り、今もなお、熊谷直実は語り継がれる存在となっている。
もしそれが、源頼朝の策略だとしたら?
各地を転々としていてもおかしくない僧侶が実は源頼朝とつながっていたらと考えると、冷静でいられる話ではなくなるだろう。
そしてこうも考えるはずだ。
熊谷直実ただ一人だけではない、と。
自分の娘が産んだのが女児であったことを悔やんだという九条兼実であるが、表面上はこれまで通りであろうとしていた。
しかし、周囲はもう九条兼実から離れだしていた。
藤氏長者にして関白である九条兼実の肩書きには誰一人として否定できないものがあるが、九条兼実に未来があるかどうかを考えると、無いという結論に至る。後鳥羽天皇との間に生まれた子が女児であったことは九条兼実を落胆させたが、後鳥羽天皇の年齢を、また、九条兼実の娘でもある中宮任子の年齢を考えても、そう遠くない未来に中宮任子が男児を産むことは期待できるはずだが、土御門通親こと源通親の義理の娘である在子も後鳥羽天皇との間の子を妊娠しており、源在子が仮に後鳥羽天皇の間に男児を産んだなら時代は土御門通親のもとに流れていく。
藤原摂関家に対する世情の視線も、藤原道長の時代とは比べものにならないほど小さくなっている。かつてであれば藤原摂関家の、そしてそのトップである藤氏長者の権威は誰であろうと無視できるものではなかったが、院政が一〇〇年続き、平家政権も成立し、全国規模の内戦を経て鎌倉幕府という巨大権力が誕生した現在、藤原摂関家の当主であることを全面に打ち立てた九条兼実には、九条兼実自身の思っているような権勢など存在しなくなっていた。
それでも藤原氏の人間であれば九条兼実にある程度の敬意を払うが、土御門通親は藤原氏ではない。土御門通親の養女が後鳥羽天皇の男児を産んだならば、次期天皇の摂政となるのは、藤原摂関家の人間ではなく土御門通親になる。
おまけに、この時代の藤原氏はかつてと違って一枚岩とはほど遠くなっている。藤原忠通の三人の息子がそれぞれ、近衛家、松殿家、そして九条家と分裂し、互いに協力ではなく反目するようになっているとなると、藤原氏ではない土御門通親が摂政として権力を握ることになろうと、近衛家も松殿家も厭わなくなる。
九条兼実に対する叛旗の兆候は建久六(一一九五)年九月二二日に確認できる。九条兼実が参内した際に、五節について奏聞し、勅定によって三条公房こと藤原公房らに負担を命じたところ、三条公房は了承したものの、中納言土御門通親が了承しなかったのだ。このときの三条公房は従三位の位階を持つものの参議ではなく、中宮権亮である。それに、まだ一七歳の若者だ。一方、土御門通親は正二位中納言の四七歳であり、位階において、役職においても、そして経験においても三条公房は足下にも及ばないはるかに格上の人だ。その土御門通親が拒否したとあっては、三条公房としても簡単に拒否の理由を問い合わせるなどできない。この瞬間、九条兼実は自分に逆らう勢力が誕生したことを知ることとなった。
ただし、土御門通親は九条兼実に対する叛意を見せたものの、それが権力を握ることにつながらないことも悟ることとなった。
このタイミングでもう一人、九条兼実に叛意を見せる人物が現れたのだ。
後鳥羽天皇が。
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