剣の形代 1.初代将軍源頼朝

 現在に生きる我々は知っている。鎌倉幕府は源頼朝が作り出したことを知っている。

 現在に生きる我々は知っている。鎌倉幕府が滅ぶ百年以上前に鎌倉幕府の将軍の名から清和源氏が消えたことを知っている。

 源頼朝が自らの身体に流れる血統を利用して永続的な組織として作り上げたはずの鎌倉幕府なのに、鎌倉幕府は永続的でなかっただけでなく、幕府のトップたる征夷大将軍の地位に至っては源氏が独占することもなかった、いや、源氏が継承し続けることすらできなかったのだ。理由を突き詰めると、源頼朝は永遠の命を持つ存在ではなかったし、源頼家は源頼朝の後継者としての資質を有さず、源実朝は後継者を残す前に命を落としてしまったということになるが、もっと突き詰めると、源頼朝の考案したシステムそのものが永続の保証を生み出さなかったからというのが理由だ。法律に限らずどのようなルールでも言えることだが、ルールを考えている間はこうなれば正しくなると考えるし、ルールが始まってから少しの間はルールが正しく機能する。しかし、現実社会から逸脱するようなルールは時間経過とともに守られなくなり、穴が突かれ、空文化する。そのときになってようやく、ルールを守らなくなったのではなく、ルールのほうが間違っていたのだと気づくこととなる。

 政治というものは、どのような社会にするかという大義名分を掲げるとかえっておかしくなる。政治がうまくいくケースというのは、大義名分を掲げて大義名分の通りに行動するのではなく、現在起こっている問題、そして、現時点ではまだ露見化していないがこのままでは発生してしまう問題を、手にしている強大な権力を用いて強引に解決するというケースである。このような政治を執る場合、掲げる大義名分は、無い。掲げる必要が存在しないだけではなく、掲げることがかえってマイナスに働いてしまうのだ。政治の行動指針が現時点で発生している問題の解決と今後発生するであろう問題の解決であり、それが何であるかはその都度決まるというような仕組みを作り上げると、政治はうまくいき、政治家に求められる唯一の指標である国民生活の向上は具現化する。源頼朝の例で行くと、平家政権と源平合戦によって破壊された日本国というのは誰もが認めざるをない問題であった。だが、日本国を復興させるという大義名分があり、その目的を果たすための手段として征夷大将軍の役職を用いた鎌倉幕府という新たな組織を作り出したことは、必ずしも適切ではなかったとするしかない。

 鎌倉幕府の歴史は一世紀半を数えるが、そのうち、源頼朝とその子供達が果たした期間は五分の一しか数えられない。しかも、清和源氏が将軍の職位からいなくなった後も鎌倉幕府は存続した、それこそ、源氏将軍が存在した時代の四倍の長さを記録したのだ。鎌倉幕府の歴史のうちの八割は源氏将軍抜きの鎌倉幕府となったことなど源頼朝も想像すらしなかったであろう。源頼朝は超一流の政治家であった。しかし、永遠の命を有する存在ではなかった。源頼朝の死後、鎌倉幕府は混迷と動乱に突入し、源頼朝と共に鎌倉幕府を打ち立てた御家人たちは、一人、また一人と仲間の手で討ち取られていった。源頼朝は超一流の政治家であったからこそ鎌倉幕府という前代未聞の組織を作り上げることに成功したのだが、その源頼朝を以てしても、死後の混迷を防止することはできなかったのだ。しかも、その混迷の行き着く先に、源頼朝が求めていた結果の成就があったのだ。

 多くの人が考える鎌倉時代の情景とは、鎌倉幕府の将軍の名から清和源氏が消えた後の情景である。それまでは、鎌倉幕府は存在していても時代区分としては平安時代であり、鎌倉幕府が源氏のものでなくなってからようやく鎌倉時代が開始する。鎌倉時代が始まるまでは、鎌倉幕府という源頼朝の考えた画期的な権力が存在してはいるものの時代としては平安時代であり、文化も、文明も、社会制度も、変容はしたものの平安時代が継続している。名実共に平安時代が終わりを迎えたのは鎌倉幕府の征夷大将軍の名に清和源氏が記されなくなってからである。

 本作はこれから鎌倉幕府が日本国において圧倒的な存在となる過程を描いていくのだが、それは、源頼朝の死後の、いや、源頼朝が生前の頃から既に顕在化していた混迷を追う過程の描写でもある。

 前作「覇者の啓蟄」は鎌倉幕府成立に至る過程を描き記した。

 本作は鎌倉時代成立に至る過程の前半を書き記すこととなる。

 


 建久三(一一九二)年八月九日、後に鎌倉幕府第三代将軍源実朝となる男児が誕生した。北条政子が源頼朝の次男である千幡を出産したのである。父の源頼朝は一ヶ月前に念願だった征夷大将軍に任官し、自らの身体に流れる熱田神宮の血統を利用しての永続的な権力を構築したばかりであった。壇ノ浦に沈んだ天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は形代(かたしろ)であり、天叢雲剣そのものは熱田神宮に存在する。失われた天叢雲剣の新たな形代を朝廷から熱田神宮に対して求めても、熱田神宮からの返答は、天叢雲剣の形代は征夷大将軍であり、また、熱田神宮の宮司の娘を母とする源頼朝が征夷大将軍に就任したことで形代は完成したというものだ。こうなると、朝廷としては征夷大将軍に簡単には手出しできなくなる。何しろ征夷大将軍の身に何かあった瞬間に天叢雲剣は再び失われて三種の神器が揃わなくなり、皇位継承ができなくなってしまうのだ。

 とは言え、源頼朝は不死の神ではなく人間である。やがていつかは死を迎えることもある。そのときはどうなるのか?

 その答えも単純明快である。

 源頼朝の子孫が征夷大将軍を世襲するのだ。

 求められるのは三種の神器のうち天叢雲剣にシンボライズされている武の象徴ではなく、熱田神宮に連なる血統の継承だ。源頼朝の子孫であることが重要であり、武力も求められなければ、政治家としての能力が求められることもない。極論すれば、存在しているだけでいい。 


 それでいて、征夷大将軍となると朝廷から距離を置いた独自の行動が可能となる。具体的には、現在が戦時であると宣言するだけで管轄下の地域における徴税権を制御できるようになる。朝廷であろうと、誰かの荘園であろうと、戦時であるためにやむを得ないという理由で税も年貢も停止できるし、納税先を征夷大将軍に変更させることもできる。

 これは荘園領主にとっても朝廷にとっても大打撃とするしかない。何しろ年貢も税も入って来ないのだ。

 かといって、この地位を召し上げることはできない。三種の神器の理念の問題も存在するが、現実問題、建久三(一一九二)年の日本国に鎌倉幕府をどうにかできる武力を持つ集団など存在しないのだ。朝廷にできることがあるとすれば、法に基づいて征夷大将軍の権威権力を認め続けることだけである。

 しかも、正二位の位階を持っている源頼朝が就任したことが異例であるほどに征夷大将軍の位階相当は低い。正二位の位階を持ち、権大納言に就任した経歴のある源頼朝であるから、自分の子を五位以上の貴族にさせることなど造作もないが、それでも自分と同等の位階まで引き上げるのは困難である。何しろ源頼朝の最終官職は権大納言で停まっている。太政大臣や左大臣、妥協しても右大臣に就任していなければ自分の息子を三位以上の位階を持つ貴族とさせることもできないし、参議に就任させて公卿補任に名を残させるほどの貴族とさせることもできない。つまり、源頼朝の朝廷内権力では、自分の息子を貴族とさせるまではできても上流貴族とさせることはできない。

 だが、征夷大将軍はそこまで高位が求められる職掌ではない。それどころか位階の高さはむしろ邪魔になるような官職だ。この官職であれば、源頼朝の意思を反映させることで自分の息子を征夷大将軍に就かせることも不可能ではない。

 朝廷としては悔しさを隠せぬ対応であったろう。求めているのはそこまで重要な官職ではないし、それまで高い位階でもない。それでいて、振るうことのできる権力は絶大なものがある。軍事だけでなく財政面でも朝廷は黙って見ているしかないのだ。 


 生誕時の源実朝は、兄の万寿のバックアップといった捉え方をされていた。元服後に源頼家と名乗ることとなる万寿の身に何か起こったら源実朝が征夷大将軍の地位を継承するが、あくまでも征夷大将軍の地位を継承するのは、後に源頼家と呼ばれることとなる万寿であり、また、成人後の万寿の元に生まれるであろう男児であって、源実朝は将軍位の確約などされていない。

 ただし、源実朝には兄にはない後方支援が存在した。北条一族だ。

 なお、煩雑を防ぐために、以降は元服後の名である源頼家と記す。

 兄の源頼家は比企尼の次女が乳母を務め、比企尼の甥である比企能員が乳母夫に選ばれるなど、比企一族の後方支援が存在していたのに対し、源実朝の後方支援は実母の家系である北条一族である。これは、源頼家と源実朝兄弟の生まれたタイミングに事情がある。

 源頼家が生まれたときは源平合戦の渦中であり、鎌倉方は地方の有力勢力であって日本国に君臨する絶対的軍事組織ではなかった。源頼家の誕生は、鎌倉方のトップである源頼朝の身に何か起こったときに、鎌倉方の全ての武士のシンボルとして担ぎ上げることのできる存在の誕生を意味したのである。

 この時代の貴族は自分で自分の子の養育の全てを一手に引き受けることはない。全く携わらないというわけではないが、養育の大部分は養育専門の者が雇われ、あるいは任命されて養育にあたる。というより、誰かに育児を託さなければ貴族としての日常政務を執るなどできないというのがこの時代の貴族の日常だ。それは源頼朝とて例外ではなく、実の子の養育に全く携わらないというわけではないが、源頼家の養育を誰かに託さなければ源頼朝の日常の政務に支障を生じさせてしまうほどに源頼朝の日常には余裕というものがなかった。

 かといって、源頼家の養育を誰がするのかという問題もある。源頼家の養育に深く関わった者は、源頼家が源頼朝の後を継いで鎌倉方のトップに立ったとき、かなり高い確率で源頼家の側近として名を馳せることとなる。つまり、源頼家の養育というのは誰もがやりたがる将来有望な役目なのだ。当然のことながら、鎌倉方のどの御家人も源頼家の養育に名乗りをあげたし、その中の誰かを指名した場合、他の者を納得させることのできる理由がなければ争いの芽になること間違いないという状況でもあった。

 そこで、比企尼の登場となる。平治の乱で敗れて伊豆での流人生活を余儀なくされた源頼朝の生活を支援したのは比企尼である。これは鎌倉方の武士であれば誰もが知っている話であり、比企尼が、あるいは比企尼の近親者が源頼家の養育にあたるとなったならば、どの御家人も黙り込むしかなくなる。いかに本音では比企一族、特に比企能員に対する不平不満を抱いたとしても、比企尼の先例を持ち出されてしまっては誰もが文句を言えなくなる。

 さらに源頼朝は御家人たちの不平不満を逸らす策を用意していた。それがいつのことかは判明していないが、少なくとも文治四(一一八八)年までに平賀義信を乳母夫に加えている。平賀義信は比企尼の三女の夫であり、また、平治の乱で源義朝に忠誠を尽くしたことでも有名な人物だ。平治の乱まで遡ることのできる源氏の忠臣とあっては、これまた御家人たちも黙り込むしかなくなる。 


 自分の嫡男の背後に比企一族がいて、次男の背後には実母の家系である北条一族がいる。普通に考えれば比企一族と北条一族の対立が見られるところであるが、源頼朝がそのことに目を向けないわけがない。

 古今東西何度も繰り返されてきた、対立を融和に持っていく方法というのが存在する。政略結婚がそれだ。

 建久三(一一九二)年九月二五日、北条義時が比企朝宗の娘である姫の前(正式な名は不明)を正室に迎え入れたのである。北条義時のもとには既に、後に北条泰時と名乗ることとなる長男の金剛がいるが、金剛の実母として記録に残っている阿波局はその素性がよくわかっていない。阿波局は伊東祐親の娘で源頼朝の最初の結婚相手であった八重姫と同一人物であるとの伝承があり、また、大河ドラマでもそのような描写があったが、そのことを裏付ける確実な歴史資料は存在しない。阿波局について判明しているのは、北条時政の娘で北条政子とは姉妹関係にある女性と同じ名が記録に残っているものの実際には別人であるということぐらいであり、生没年すら不明である。そして、建久三(一一九二)年時点で北条義時には実子がいたのであるが、この時の北条義時は誰かを正妻として迎え入れることが許される境遇にあったこと、すなわち、公式には独身であったことも判明している。ここから推測するに、阿波局は建久三(一一九二)年時点で既にこの世の人でなくなっていた可能性がある。

 その北条義時の妻として比企一族の女性を迎え入れることは、北条一族と比企一族との融和を期待できる話であった。しかも仲介者が源頼朝であるから誰も逆らえない。

 なお、吾妻鏡によると姫の前に言い寄ったのは北条義時のほうであるとしており、鎌倉幕府に仕える女官である姫の前の美貌に惚れ込んだ北条義時は彼女に対して二年間に亘って何度も手紙を送り続けてみたものの、姫の前は北条義時のことを全く相手にせず、源頼朝が仲介したことでようやく北条義時は姫の前との結婚に成功したとなっている。交際ではなく結婚である。決して別れないという起請文を北条義時に書かせたのであるから、源頼朝はよほどの覚悟を命じたとするしかない。そのように命じられた北条義時も心の底では自分のことを棚に上げて何を言っているのだと思ったかもしれないし、あるいは、自分の姉と結婚しているのに他の女性に興味を示すとどうなるとわかっている人の反応と感じたかもしれないが、それでも北条義時は起請文を書き記してでも彼女を妻とすることを選んだ。

 起請文(きしょうもん)とは、契約や約束の内容を書き記し、差出者が信仰する神仏の名を列挙し、最後に違反した場合は神仏による罰を受けることを宣告する書状である。それを迷信だといって侮るのは短絡に過ぎる。誰もが見ている前で契約や約束を宣言するのに違反するのは剛胆というより無思慮である。

 まあ、それを言うなら北条義時は無思慮ということになるが。 


 源頼朝が征夷大将軍に就任したことで鎌倉に誕生した勢力が、後に鎌倉幕府と呼ばれることとなる強大な存在になると気づいた人はほとんどいない。注意すべき点として、誰一人いないわけではなく、ほとんどいないという点である。すなわち、気づいている人はいたのである。

 その数少ない人の一人が関白九条兼実である。九条兼実は、鎌倉に誕生した勢力が、日本全土を制圧するとまでは言わないにせよ、国政において無視できぬ存在となっているのは理解できていた。しかも九条兼実は実弟の藤原兼房を太政大臣に据えることに成功しているので、議政官の議決が九条兼実の意に沿わぬ内容であったとしても、実弟の権威を通じて議決を白紙に戻せるまでになっていた。その九条兼実ですら鎌倉幕府は無視できぬまでになっていたのだ。

 後白河法皇が亡くなったことで国政から院政が消えたため、この時代の概念に従えば、国家権力とは、後鳥羽天皇親政と、関白九条兼実による摂関政治のどちらかということになる。そして、後白河法皇没後の国家権力がどうなったかをこの時代の人に訊ねた場合、その答えとして挙がるのは九条兼実による摂関政治となる。ただし、白河院政が始まってから一〇〇年以上を数えているこの時代の人達にとって、摂関政治とは歴史で学ぶ過去であって実体験ではない。しかし、権力そのものは忘れようとしても忘れることのできないこととして実体験している。現在の九条兼実主導の摂関政治と歴史上の摂関政治との差異を訊ねられても、正しく答えることのできる人などいないといってもいいほどだ。


 九条兼実の背後に源頼朝がいる。その上で九条兼実により摂関政治が繰り広げられている。九条兼実に刃向かうならば鎌倉が何をするかわからないが、刃向かわなければどうということのない暮らしを実感できる。これが後白河法皇亡き後の政治システムであり、善か悪かはともかく、これまでの権力との優劣を問われれば、明らかに優れていると実感できる政治システムである。何より、平家時代と比べて生活水準が向上している。あの頃の飢えを繰り返さなくても良くなっているというだけでも、過去との優劣を問われれば、優だ。その優が摂関政治なのだという認識を生み出せたのは九条兼実にとって幸運なことであった。

 無視できぬ勢力となっていた鎌倉幕府とのやりとりは往復半月にまで短縮されている。源頼朝が整備するまでは京都と鎌倉との間を陸路で行くのに片道半月を要していたのだから、片道七日、往復半月というのはこれまでにない迅速さである。源頼朝という人は情報の重要性を理解していた人である。その人が京都の状況を、現在のようにリアルタイムでないにしても、この時代の人の感覚にとっては異常なまでのスピードで把握できているのは、脅威であると同時に、それこそが源頼朝であるという認識を醸成させてもいた。京都に住む人は、その人が庶民であろうと貴族であろうと、そして、皇族であろうと、遠く離れた鎌倉に住む源頼朝の目が京都にも届いているという認識を生み出していた。

 つまり、九条兼実の発する言葉は、日本国を武力で制圧した源頼朝が、そして、後の人が鎌倉幕府と呼ぶことになる勢力が、背後に控えている上で発せられた言葉であるという共通認識を呼び起こしたのである。その上で、それこそがかつての栄光の時代である藤原摂関政治の復活なのだという認識を創生させることに成功した。

 この流れの中で、九条兼実は宗教界に楔(くさび)を打ち込むことに成功した。建久三(一一九二)年一一月一四日に天台座主の顕真(けんしん)が亡くなると、弟の慈円を天台座主とともに護持僧に任命したのである。白河法皇が天下三不如意に一つに挙げた山法師こと比叡山延暦寺の勢力を九条兼実が制することに成功したのだ。現在は歴史書である「愚管抄」の作者として名の残る慈円であるが、この時代の慈円は申し分ない護持僧であった。天台座主に任命されてから一ヶ月も経ていない一二月六日、疱瘡、すなわち天然痘に罹患した後鳥羽天皇のために禁裏にやってきて七仏薬師法を修し、その甲斐もあって後鳥羽天皇は無事に回復していることも大きい。 


 源頼朝は、後に源頼家と名乗ることとなる万寿を自分の後継者と明言している。ところが、建久三(一一九二)年の年末の記録を紐解くと、源頼家ではなく源実朝の姿が度々登場する。無論、生後まだ一年も経ていない乳児が何かしらの実績を残したというわけではなく、源頼朝が幼き千幡、後の源実朝を抱き抱えてさまざまな場所に姿を見せる様子が記録に残されているのである。

 建久三(一一九二)年一一月二五日に、奥州合戦の死者を祀るため建立させた永福寺の本堂が完成し、落慶式を迎え、式典の場に源頼朝も臨席し、数多くの御家人も詰め掛けた。これだけであればどうということのない当たり前の光景である。そして、その後家人たちが本領に戻らずしばらく鎌倉に滞在し続けたことも、特に不可思議な光景ではない。

 しかし、一二月五日に侍所に源頼朝が姿を見せた、それも、幼き千幡を抱き抱えた姿で姿を見せたとあっては、当たり前の光景とは言えなくなる。吾妻鏡のこの日の記事によると、後の源実朝こと千幡に向けられた源頼朝からの愛情はかなり深く、侍所の御家人達に、心を一つにして将来を守護せよと命じたとある。繰り返すが、この時点での源頼朝の後継者は、後の二代将軍源頼家こと万寿であり、源実朝はまだ生後一年も迎えていない乳児だ。その乳児を守れと命じるのは親心と言ってしまえばそれまでだが、それにしても源頼朝らしからぬ浅慮とするしかない。未だ元服を迎えていない兄の源頼家と同じく守護するように命じるならわかるが、兄を差し置いて弟だけを特別扱いしたのだ。

 そのときの源頼朝の心情を吾妻鏡は伝えていない。源頼朝の言葉を聞いた御家人達、吾妻鏡に従えば、大内義信、加々美遠光、大内惟義、山名義範、足利義兼、千葉常胤、小山朝政、下河辺行平、小山朝光、三浦義澄、佐原義連、和田義盛といった御家人達がどのような思いを抱いたかも記録にない。吾妻鏡にはそのときに源頼朝が発した言葉を書いているだけである。


 ただ、ヒントとなる記録がその六日後に存在する。

 熊谷直実の出家だ。

 一ノ谷の戦いにおいて、そのときわずかに一七歳であった平敦盛を一騎打ちの末に討ち取ったのち、世を儚(はかな)んで出家したことは、今でも中学や高校の古典の教科書に載っている話である。そして、大まかな流れとしてはその通りであるし、熊谷直実の出家についての記録は建久三(一一九二)年一二月一一日のこととして吾妻鏡に載っている。

 ただ、実情は古典の教科書に記されている内容と少し違う。所領争いに敗れて自暴自棄になって出家したのだ。

 永福寺の本堂が完成し、多くの御家人が集まっていた一一月二五日に、以前より所領争いを繰り広げていた熊谷直実と久下直光の両者が源頼朝の前で双方の訴えを繰り広げられ、現在でいうところの民事訴訟における口頭弁論が繰り広げられ、熊谷直実は敗れた。この時代は弁護士など存在せず、基本的には自分が論争に打って出なければならない。つまり、内容の正確さではなく話し上手であるか否かが問われる。熊谷直実は、武人としては優秀でも、お世辞にも話し上手とは言えず、口頭弁論の場は熊谷直実に対する糾弾の場へとなってしまったのだ。この状況に怒った熊谷直実は、梶原景時が久下直光を依怙贔屓して自分は最初から敗訴になることが決まっている茶番だと憤慨し、証拠書類を投げ捨てて座を立ち、刀を抜いて髷を切り、私邸に帰ることなく行方をくらましてしまったのである。その熊谷直実の様子が判明したのが一二月一一日のことで、出家したという連絡が届いたのだ。

 しかも、熊谷直実ただ一人が出家したのではない。この頃、複数の御家人が出家という形で鎌倉幕府から離脱することが相次いでいたのである。鎌倉方が鎌倉幕府として成立するまでは協力しあっていた御家人達が、今や敵対する関係になってきている。そのことに気づかぬ源頼朝ではないが、根本的な対応は極めて難しいことは理解している。その難しいことをいかに対処するかを考えたとき、幼き我が子を抱き抱え、未来を託すという訴えを見せることは、一瞬にして抜本的に解決するアイデアではないにせよ、対立を多少は和らげる効果を持つ。

 それならば、源頼朝の行動は浅慮ではなくなる。


 建久三(一一九二)年一二月の京都に目を向けると、二つの出来事に着目できる。

 一つはこの頃をピークとする疱瘡、すなわち天然痘の流行とその対策。

 もう一つは、朝廷の名で発せられた銭貨利用禁止である。

 前者についてであるが、人口の三分の一を死に至らしめたとまで言われる奈良時代の天平年間の大流行は別格として、天然痘の流行そのものは日本史上何度も繰り返されてきたことであり、天然痘に罹患することそのものは珍しい話ではなかった。無論、天然痘は死を覚悟しなければならない病気であり、命を取り留めたとしても天然痘の痕跡は死ぬまで身体に残るのであるから軽々しく考えていいものではない。しかし、現在の医療水準には遠く及ばないにせよ、天然痘の流行そのものは日本史上において何度も繰り返されてきたことであり、この時代でも選ぶことのできる感染対策ならば選べた。

 罹患者を隔離するのだ。

 しかも、単に隔離するのではない。何しろ、この年の天然痘の罹患者の中には後鳥羽天皇もいたのである。天皇が罹患したほどの伝染病を放置するなど断じて許されないし、隔離して放置するのはもっと許されないことである。

 天然痘という病気は、一度罹患したら免疫がついて二度目の罹患はほとんどない、ゼロではないが人生で二度の罹患をしたらそれだけでも極めて特別なこととして医学雑誌に論文が掲載されるレベルの珍しさだ。そして、天然痘流行の歴史は過去に何度も繰り返されてきた。つまり、天然痘が流行しても、かつて一度でも天然痘に罹患したことがある人であれば、隔離されている天然痘患者のもとに食事を運ぶこともできるし身の回りの世話をすることもできる。その人たちに依頼することで、隔離はするが見捨てることなく保護することが可能となる。こうして九条兼実を軸として繰り広げた天然痘対策は、この時代の医療水準を考えれば感染対策としてよくやったとするしかない。

 しかし、もう一つの対策、すなわち、銭貨の禁止は合格点をつけられない。

 銭貨の禁止とは宋銭の利用禁止を意味する。

 実は、宋銭利用禁止自体は治承三(一一七九)年七月に議論されたことがある。当時蔵人頭であった土御門通親こと源通親が提案し、それから何度か土御門通親が宋銭利用禁止を提案しては議論されてきた。まだ蔵人頭であった頃の土御門通親のことを、九条兼実はその日記の中で、過去の法にも精通している優秀な人物であるが、古くさい人物であるとも述べている。この頃の九条兼実は土御門通親が自分の敵対者になるとは夢にも思っていなかったであろう。

 九条兼実は土御門通親を古くさい人物と評し、土御門通親が何度も主張してきた宋銭利用禁止も古くさい考えであるとしてきたが、ここに来て九条兼実は土御門通親の長年の主張である宋銭利用禁止を打ち出した。


 皇朝十二銭で日本国独自の貨幣は終わりを迎え、しばらくの間、日本国内で貨幣が流通することはほとんどなかった。コメや布といった財貨、あるいは金や銀といった貴金属が事実上の貨幣となり、国外との貿易でもバーター取引となっている。だが、日宋貿易は単純なバーター取引といかなくなっていた。特に宋の北半分が金帝国に制圧され国土が南半分のみとなり、数多くの宋国民が南へと逃れた後の時代、現在の歴史用語でいう南宋時代になると、急激な人口密度の増加に伴う需要に南宋国内の供給が追いつかず、国外からの輸入を渇望していた。その相手の一つに選ばれていたのが日本なのであるが、南宋は日本の物資を必要とする一方、日本は南宋の物資を必要とはしない。こうなると、南宋は物々交換で日本の物資を手に入れるのではなく、南宋の資産で日本の物資を買うこととなる。その時に選ばれたのが宋銭だ。銭貨で日本の物資を買うことで、南宋は国内需要を満たそうとしていたのである。また、宋銭を用いることは海上交易そのものに大きなメリットを生んだ。日本から南宋に渡る船は日本国の物資を積んだ船であるが、南宋から日本へ向かう船は輸送する物資を持たない船となってしまう。つまり、空っぽの船になってしまい、航行に支障が出る。そこで、宋銭を大量に積み込む。すると大量に積み込んだ宋銭が船の航行を安定させるのに必要なバラストとなる。バラストとなった宋銭は船が日本の港に到着した後で日本国内に降ろされ、日本国内の市場で、さらには国外とのやり取りにも利用できる貨幣となる。

 宋銭は現在で言うところのドル紙幣と言えよう。経済において、貨幣の便利さに直面した人は現物交換ではなく貨幣を仲介することを選ぶようになる。だったらなんで我が国の祖先は和同開珎にはじまる皇朝十二銭を捨ててしまったのかという疑念も抱くが、貨幣には貨幣に紐付く信用、すなわち、貨幣と商品、貨幣とサービスとを確実に交換できる信用が存在していなければならない。皇朝十二銭には物品やサービスと確実に交換できるだけの信用が無かった。貨幣一枚とコメ一升とを交換できると法で定めたが、そのような交換が保証されてはいなかった。貨幣を市場に持っていってもコメと交換できるわけでなく、交換できたとしても法で定められた分量より少ないコメとしか交換できない。そのために貨幣価値が下がってしまい、コメ一升との交換のために必要な貨幣はスタート時こそ一枚であったのだが、時代とともに二枚になり、三枚になり、四枚、五枚へと増えていった。要はインフレだ。朝廷とて無策ではなく、今までの貨幣の一〇倍の価値を有する新たな貨幣を鋳造して普及させようとしたものの、流通開始直後こそ高い価値の貨幣と見做されるものの、コメをはじめとする物品との交換がうまくいかなくなるまでにそう長い時間を要することはなく、気が付けば誰も貨幣とものとを交換することは無くなった。


 一方、宋銭はモノやサービスと交換できる高い信用を持っていた。何しろ日本国内だけではなく国外でも流通しているのだ。日本国内で手に入れた宋銭を持って国外に行き、宋銭とモノとを交換してくれと頼むと交換してくれる。こうなると、貨幣に対する信用は国家に紐付くことなく、さらに言えば、国がどうなろうと貨幣を持っていればどうにかなるという安心も獲得できる。この時代の人もさすがに、宋が金帝国に侵略されて国土の半分を失ったこと、契丹も金帝国に滅ぼされたこと、高麗が金帝国の属国となったことは知っているが、ここに挙げた国々はそのどこでも宋銭が通用している。国が変わっても、それこそ国家そのものが侵略者の手に落ちたとしても、宋銭を持っていればどうにかなるというのは最高の安心材料だ。おまけに、この時代の人達にとっては、源平合戦で国土がズタズタになったことも、養和の飢饉で数多くの人が餓死したことも、忘れることのできないついこの前の出来事であり、日本という国家が消えて無くなってしまうかもしれないというのは、妄想ではなく、現実にあり得る話であった。その現実にあり得る話への対抗手段として宋銭は有効であったのだ。

 この安心のための手段としても普及しつつあった宋銭を利用禁止するとなると、経済の流れが冷え切ってしまう。完全に停まってしまうわけではないが、宋銭を前提とすることで湧き上がってきた経済成長に冷や水を掛けてしまうことになるのだ。源平合戦終結と奥州合戦終結はさすがにこの時代の人達も知っている。しかし、戦乱終結が永久平和の構築の始まりであるという認識は無い。戦乱が少なくなってきたことで、戦乱にジャマされることなく、農作業に、手工業に、商売に専念できる可能性が高くなって経済は停滞から成長へと向かい始めていたし、成長の裏付けとなる信頼も宋銭によって構築されてきてはいたが、平和が確信できるほどではなかったのである。

 しかし、宋銭が絡めば安心は増す。安心が増せば経済は蘇る。

 裏を返せば、ここで銭貨流通を禁止すると、簡単に経済は破綻する。

 九条兼実はそれを理解していなかったのか?

 結論から言うと、理解はしていた。理解していたからこそ治承年間の土御門通親の宋銭利用禁止に対して異を唱え続けてきたのである。しかし、格差増大という大問題に目を向けなければならなくなってきたのだ。経済の破綻よりも格差拡大を食い止めることを選んだ末に、土御門通親の古くさい考えを受け入れることを選んだのである。

 人が集まれば社会が生まれ、社会を円滑に進めるためには経済が生まれる。貨幣は経済を円滑化させる仕組みであり、貨幣なき経済はあり得ない。貨幣経済を否定したポルポトですら貨幣なき経済を作り上げることはできなかったし、自由など無いはずの第二次大戦中のナチスドイツの収容所の中でも貨幣経済が誕生していた。ちなみに、収容所の中で貨幣として使われていたのは、ドル紙幣でもポンド紙幣でもなく、捕虜への差し入れに用いられていたタバコである。


 源頼朝は平家政権で破壊された日本国を建て直すという目標を掲げて、鎌倉幕府という組織を構築した。源頼朝のこの思いは鎌倉幕府の御家人達にとっても同意できる話であった。それが御家人個人の私欲のためであろうと、御家人の保有する所領に住む人の生活水準が向上するのであれば問題ない。

 ただし、それは御家人が所領を確実に自分のものとしたときに限られる。

 誰にも奪われる心配のない土地となったならば、御家人は総力を挙げて土地の生産性を上げようとする。二毛作や二期作といった土地の利用法が広まったのも、二毛作や二期作に適したコメの品種改良が進んだのもこの頃からだ。なお、人糞を肥料として利用すると確実に言えるのは鎌倉時代に入ってからであり、この頃はまだ誕生していないか、あるいは誕生して間もなくというタイミングで、まだ一般化していない。ただし、家畜の糞を肥料として利用するという考えは既に普及している。

 しかし、経済成長という視点で捉えるとバラ色ではない。

 名古屋大学より刊行された「経済成長の日本史」によると、平将門の乱から二〇〇年間は毎年六パーセントの農業生産量の増大と八パーセントの人口増加があったとあるが、それからの一三〇年間、すなわち、保元の乱から元寇までの一三〇年間の農業生産性はむしろマイナスに転じ、人口増加は一パーセントであったことを示している。それだけの人口を抱えていられるだけの産業が誕生し、生きていけたとも言えるが、農業生産性が低下しているのに人口が増えているのであるから、人口一人あたりの農業生産量となると、かなりの減少と答えるしかない。その意味でも、藤原道長の時代は豊かな時代であったという後世からの歴史的慕情は間違っていない。人口は少ないが農業生産量はさほど変わらない、すなわち、一人あたりの農業生産量はこの時代よりも大きな数字を記録し、それが一人あたりの生活の豊かさの源泉となっていたのが藤原道長の時代であるとも言えるのだ。

 それから時代を経て、気候問題もあって土地からの収穫が減り、人口が微増となったことで、生活水準が下がっていった。前掲書によると、藤原道長の頃だと一〇〇名の農民で一五三名分の農作物を生み出せていたが、この頃になるとその数字が一三九名分の農作物へと減ってしまっていた。余剰人口が五三名から三九名に減ったわけであるが、その余剰人口にはまだ労働に適さない年齢の年少者や、高齢化社会の現在と違って数は少なかったとは言え勤労に適さない年齢の高齢者も含まれるし、商工業関係者、都市住人、貴族、役人、僧侶、そして武士も含まれる。もっとも、御家人として源頼朝と顔を合わせることのできる武士はともかく、一般の武士は武士を専業としているわけでなく、戦(いくさ)となったら武器を手にして戦場に赴くものの、通常は農業をはじめとする何かしらの産業に従事しているので一概に余剰人口であるとは言い切れないが。


 所領を確実に自分のものとした御家人は、手に入れた所領の産業育成を試みるようになった。とは言え、戦場で文句なしの活躍を見せた人物が必ずしもビジネスセンスを有しているとは限らず、単にノルマを課すだけで産業育成に携わらない御家人もいたが、まともな御家人は荘園に生きる人達をジャマせずにいた。

 問題は、保有権があやふやな所領だ。

 荘園は現在の株式会社と考えると近い。保有権はその荘園の株主だ。

 ただ、現在の株主は株式市場で株式を買うことで欲しい企業の株式を手に入れるが、この時代の御家人が所領を手に入れる方法は、裁判もしくは実力行使だ。熊谷直実が出家したのも自らの手にしていた所領の保有権を失ったからであり、現在の感覚で行くと持ち株が紙屑に化した投資家が自暴自棄になったあとで冷静になった結果だ。

 熊谷直実の場合は自分の所領を失った結果であるが、多くの御家人は自分が保有権を持っていると主張する所領を維持できるか失うかの争いをしている。その争いは現状維持か敗北のどちらかであり、所領を新たに手に入れようという思考はない。あるのは現時点で自分の所領が他の御家人に奪われていて取り戻そうという思考である。それまで何のゆかりも無かった所領を手に入れたとしても、それが法的に認められた方法で得られた報償であったならば新たな所領の保有権を堂々と主張できる。その争いの繰り返しが地方武士の争いであった。

 争いにおいて最良なのは相手が完全屈服して自分が保有権を主張している所領の保有権を確固たるものにすることであり、武力に訴えて相手を完膚なきまでに叩きのめしたとしても最良の結果と言えばその通りである。これでは武力で勝利を手に入れることが当たり前という環境になってしまうし、その環境は続いてきたのが地方の武士だ。しかし、ここに源頼朝が誕生し、源頼朝による裁判という、全ての武士が納得できる手段が誕生した。源頼朝もそのことは理解していて、政所や侍所といった貴族であれば自邸内に保有する機関を利用して鎌倉幕府という組織を構築したが、他の貴族は持っていない、あるいは、持っていたとしても鎌倉とは比べものにならない小規模なものである司法専門の機関である問注所を、源頼朝はかなりの大規模な機関として鎌倉幕府の内部に設置している。

 問注所に訴え出ることで、戦乱を必要とせず、しかも誰もが認める最終決定を得られる。

 ただし、その最終決定を納得して受け入れるかどうかは別である。

 熊谷直実は裁判で負けた。裁判で負けて、判決を受け入れることなく、現世を捨てて出家した。

 そして、裁判で負けた御家人は熊谷直実一人ではない。他にも数多くの御家人が所領争いの裁判で敗れている。さらに言えば、大人しく裁判での敗北を受け入れる武士だけとは限らない。建久四(一一九三)年二月九日のことになるが、源頼朝は畠山重忠に対し、武蔵七党の丹党・児玉党の争いを鎮めることを命じ、畠山重忠は一八日に争いを鎮めたことを報告している。やっていることは源頼朝が登場する前の地方武士の争いと同じであるが、源頼朝以前と違い、鎌倉幕府成立以後は司法判断に基づく行政処分である。


 建久四(一一九三)年二月二五日、京都で一人の武士が命を落とした。北条時定である。北条時定を北条時政の弟とするのが研究者の野口実氏であるが、その他にも北条時政の甥とする説や北条時政の従兄弟とする説もあるなど、北条時定の出生は不明なところがある。ただし、源頼朝が計算できる人物の一人であったことは間違いなく、北条時政が京都に上るときは共に上洛して京中の警護を担当し、六波羅を拠点として京都内外に鎌倉方の武力が発動できる仕組みの礎を築いたのもこの人である。

 北条時定の功績は組織構築だけでなく、潜伏した源義経を捜索し、源行家を討ち取り、源有綱を打ち取るといった、机上だけではない現場での活躍を見せたのもこの人だ。北条時定はこれらの功績から左兵衛尉に任命され、朝廷の正式な武官として京都における鎌倉方の武力発動の指揮を担うまでになり、鎌倉方における京都での必要不可欠な人材とまでなっていた。

 ただし、建久元(一一九〇)年までは。

 建久元(一一九〇)年七月に突然の官職辞任。その翌月に河内国の国衙領違法占拠が明るみに出る。それまでの鎌倉方の有力武人から違法簒奪者へと評価が真逆の変わり、それからは完全に過去の人へとなっていた。

 過去の人となった人物が人々の話題に上るのは、名誉挽回を果たしたときか、死を迎えたときのどちらかである。北条時定の場合は後者である。死を迎えたという知らせが伝わってはじめて話題に上がるようになり、そこではじめて故人の功績が思い出されることとなる。

 それにしても、数え年で四九歳、満年齢にすると四七歳か四八歳での死である。現在の感覚でなく当時の感覚でも働き盛りに迎えた死であると捉えられたし、本人も家族もそうであったろう。さらに特筆すべきは、この年齢ですでに過去の人となっていた、すなわち、四〇代前半までに、人生のうち記録に残ることの全てを消化し、後は余生となってしまっていたのだ。


 これは残酷な話とするしかないが、同時に、人類の歴史において少なくない人が痛感することである。老いてなお老いを感じさせない活躍を見せる人もいれば、早くして老いを感じさせる人もいる。後者の場合は、本人が老いを感じるのではなく、周囲がその人を過去の人と扱うようになった結果である。よく、中高年が極端に失敗を恐れてイノベーションを受け入れず、無難に過ごすことを選ぶというシーンが見られるが、それは、失敗イコール現役からの退場と余生への突入を余儀なくされるからである。余生となることの恐怖は自らの存在を確立できないことへの恐怖だ。定年退職を迎えて年金生活に入り、十分な年金も貰えるのだから何も余計な口出しなどしなくてもいいではないかと思う人もいるが、当事者にとってはそのような慰めなど何の意味もない。生活の安定を得られることは自らの存在を否定されることと等価交換できる話ではないのだ。かといって、本人はまだまだ活躍できると思っていても周囲はそう扱うことはない。本音を言えばその人が必要とする局面はもうとっくに終わり、後は次の世代にバトンタッチして早々に退場してもらいたいと考えている。北条時定のようなスキャンダルは絶好の失脚材料であり、次世代の人達が抱く感想を正直に言えば、絶好のタイミングで退場してくれてありがたいというものである。

 スキャンダルゆえに退場せざるを得ないと考えても、そう遠くない未来に復活できると本人は考えるが、本人にとっては不本意なことに、自分が必要不可欠な存在であると自負していても、自分がいなくなっても特に何の影響も発生しないが通例だ。下手すれば、いなくなったことでかえって組織がスムーズに運営でき、より高い功績を残すことすらある。北条時定のいなくなった後の京都における鎌倉方の武力は実にわかりやすい例だ。

 こうなると、自分は必要不可欠な存在ではないと痛感させられ、過去の人として余生を過ごすしかなくなり、人々の記憶から消え去ってしまう。思い出されるのは、復活を果たしたときか命を終えたときであり、多くの人は復活を果たしながら果たすことはできず、命の終焉を以て自らの余生を知らしめすこととなる。この宿命から逃れることのできる人は多くない。


 建久四(一一九三)年二月五日に畠山重忠に命じた武蔵七党の争いの沈静化は、鎌倉幕府からの正式な行政処分である。朝廷から征夷大将軍に任命された源頼朝が出す命令は国家の認めた正式な行政命令であり、征夷大将軍、すなわち戦争中という名目でシビリアンコントロールの枠外で命令を出すことが許されている身である。従わなければ国家反逆者扱いとなるのだから、普通ならば従う以外の選択肢は無い。

 そう、普通ならば。

 忘れてはならないのは、源頼朝が権力を手にした理由は源平合戦の勝者になったからであり、平家は壇ノ浦の戦いで滅亡したということになっているが、源平合戦において平家方の一員として戦った人の全てが壇ノ浦で命を落としたのではないという点である。平家の落人狩りは続いていたが、それでも源氏に対抗しようという平家はゼロではなく、ゲリラ的抵抗であるものの、源氏の命令に従うことを良しとしない平家の残党はまだまだ存在していた。

 無論、平家都落ちに帯同せずに鎌倉に降った平頼盛の子孫は、かつての平家一門の栄光の再来とまではいかなくとも、それなりの地位を回復はしている。たとえば平頼盛の三男は建久四(一一九三)年時点で、二二歳の若き右近衛少将として朝廷内に名を刻んでいる。

 一方、平家の軍勢の一翼を担って戦場に赴き、敗れ、野に逃れた者の運命は過酷であった。平家一門の一員として貴族に列せられていた者は、その所在がわかったならば捕らえられ、所在がわからなければ行方不明として捜索の対象となる。しかし、平家一門の一人としてみなされることもなく平家方の一員として戦場に赴き、敗れ去った後で待ち構えているのは、無関心なのだ。源平合戦で所在がわからなくなった名もなき一庶民というのが彼らに課せられた運命であり、彼らが話題を集めることがあるとすれば、平家の落人としてではなく、暴れ回るテロリストとしてである。しかし、彼らはそうは考えない。あくまでも国権の正当性は平家政権であり、後鳥羽天皇は皇位僭称者、鎌倉幕府は大規模テロ組織であると考え、自分たちの行動もテロリズムではなく、むしろテロと戦っている正しい権力であると考える。それは非現実的な考えであろう。だが、そのように考えること以外に彼らの自尊心、あるいは、彼らの自己存在規定を維持する方法はないのだ。

 自分で自分のことをテロと考えていない組織であろうと、テロの被害者が自らの被った被害を許諾することなどありえない。許されざる蛮行であると憤り、正当な権力である朝廷や鎌倉幕府にその取り締まりを訴え出る。建久四(一一九三)年三月一六日、鎌倉幕府はテロの被害者の訴えを受け入れて、但馬国で暴れ回っている越中次郎兵衛盛嗣こと平盛嗣の討伐命令を出している。

 平盛嗣は平清盛の側近である平盛国の孫であり、水島の戦いでは木曾義仲の軍勢相手に立ち回り、屋島の戦いでは源義経の郎党である伊勢義盛との詞戦の逸話を残し、壇ノ浦の戦いにも参陣した記録を残している。源平合戦で平家の一員として源氏と戦い続けてきた自負があるからこそ、同時代の人達から疎まれ、後世の人達からテロと扱われることになろうと源氏権力に対抗し続けてきたし、但馬国城崎郡気比庄を所領とする日下部道弘の下男に身をやつして京都に比較的近い但馬国に潜伏し続けることを選んだのである。全ては京都に舞い戻って再び平家政権を打ち立てるために。


 後白河法皇の死から一年を迎えた頃、京都と鎌倉でそれぞれの執政者となっている人物の、人心掌握を兼ねたイベントが開催された。

 まずは京都であるが、建久四(一一九三)年四月一〇日に、九条兼実が主催者となって、中宮御所において管絃の会が開催され、多くの貴族や僧侶、また、彼らの近臣のうち文化芸術方面への造詣がある者が招かれた。九条兼実が主催者となったことは、単に時代の権勢者が文化芸術方面に手を伸ばしたことを意味するのではない。太古から続いてきた文化芸術を九条家が守るという意思を示したことになるのだ。

 保元の乱以前の権力者であった藤原頼長は、自分でも文化芸術方面への造詣がないことを認めていた。いや、認めていただけでなく不要なものであると扱い何の敬意も見せていなかった。その結果、文化の断絶、芸術の断絶が現実のものとして危惧されるようになっていた。保元の乱、平治の乱を経て平家政権が樹立されたのちも、文化の継承や芸術の継承という意味で合格点をつけられなかった。平家は経済成長ならば政策として念頭に置くことはあっても、文化的な発展や芸術的な成隆を政策として捉えることはなかった。何しろ、文化や芸術を後世に引き継ぐ側面も持っていた貴族の地位を平家一門へ大盤振舞することはあっても、大盤振舞を受けた平家の公達が、文化や芸術を学んだか否か、後世へと伝えたか否かとなると、零点では無いにしても合格点には程遠かったとするしかないのだ。文化や芸術の守護者として君臨することも可能であった後白河法皇も、今様や白拍子といった最新の流行は熱心でも、昔から続いてきた文化や芸能の存続はさしたる関心を示すことはなかった。

 ここに源平合戦の混乱と養和の飢饉が加わる。その日の暮らしも心許ないという日常を過ごしている状況下で、文化や芸術を守り、伝え、発展させることは極めて難しい。

 そのわかりやすい例が和歌である。平安時代の人たちは現代人がネットに書き込むぐらいの気軽さで和歌を詠み、和歌を披露してきたが、和歌に対する興味や関心は薄れてきていた。技能として心情を三十一文字にまとめることのできる人は多かったが、受け継がれてきた和歌を後世に残すことも、三十一文字にまとめた和歌を披露することも、ほとんどなかった。

 九条兼実はその断絶を終わらせ、文化と芸術の継承と発展を試みたのだ。しかも、その中心に九条家がいると宣言した上で。九条兼実という一個人が継承と発展を受け持つのではない。九条家という家系が継承と発展に寄与すると宣言したのである。

 九条兼実が開催したイベントは管絃の会だけではない。スタートは前年、それから一年を経た建久四(一一九三)年の秋にようやくゴールするという大規模イベントの歌合も開催した。それも、九条家の継続と伝統の継承を前面に掲げるために、実質的には九条兼実の主催であるが、名目上は九条兼実の息子の九条良経の主催であるとした。

 額面通りに捉えるならばそれでもいい。だが、九条家を存続させることが歴史の継承であるという裏面にも目を向けると綺麗事では済まなくなる。


 この歌合に接した人たちは、知識としては知っていても、実体験することはほとんどなかった歌合を目の当たりにした。

 歌合(うたあわせ)とは、和歌を詠む人達が集められ、二つのチームに分かれて和歌を詠んで披露しあい、その優劣を競うイベントである。この場に集められたのは上流貴族達と著名な僧侶達であるが、本来であれば身分の差も、性別の差もなく、誰もが参加できるイベントである。ちなみに、現在でも新年一月に皇居で開催される歌会始(うたかいはじめ)は、年齢も性別もさらには国籍も関係なく誰もが応募でき、応募した和歌のうち優秀な和歌を投稿した人が皇居に呼ばれて和歌を披露するという、和歌の本来の姿を現在に伝えるイベントであり続けている。

 イベントにおいて全体を二つに分けて競うイベントでは、運動会の組み分けや年末の紅白歌合戦などに見られるように紅組と白組に分かれて競うことが多い。また、日本を東西に分けての東西対抗やというのも珍しくない光景だ。

 では、平安時代はどうだったのか?

 現在だと危険だが、当時は別にどうということのない分割である。

 左と右との対決だ。

 現代社会で右と左の対決だなどと言ったら政治的に危険な分断であるが、この時代の左や右にそのような政治的な意味合いはなく、ただ単に二つに分かれて競うときのチーム名なだけである。

 実質的には九条兼実が、名目としては九条兼実の息子の九条良経の主催したこのときの歌合は、伝統に則って右と左にチームを分けて和歌を詠みあっている。このときの左方は、主催者でもある九条良経、蔵人頭中山兼宗、後に新古今和歌集の撰者となる藤原定家、藤原頼長の前の時代に歌合に参加した経験も持つ僧侶の顕昭、従三位の位階を得て公卿に列せられている藤原季経、藤原定家とともに新古今和歌集を撰集する藤原有家の六名、対する右方は、九条兼実の実弟で後に歴史書「愚管抄」を書き記すこととなる天台座主慈円、松殿基房の子であるが傍流であったため松殿の苗字を名乗ることの無かった藤原家房、後に後鳥羽天皇の和歌の師の一人となる僧侶の寂蓮、八歳にして蔵人を経験した経験を持ち後に後鳥羽天皇に仕えることとなる藤原隆信、後に百人一首に残る和歌を詠むこととなる藤原家隆、非参議として長期間を過ごしていた従三位の藤原経家の六名、計一二名が名を連ねている。

 この一二名が一首ずつを詠むのであれば一首一首を推敲に推敲を重ねて披露するところであるが、このときの歌合はそのような余裕など与えられなかった。

 何しろこのときの歌合は後に「六百番歌合」と呼ばれる大規模な歌合なのだ。

 「春」「恋」などの和歌のテーマが示され、テーマに沿った和歌をチームでそれぞれ複数詠み、最上の歌を選んで披露しあう。これを六〇〇回繰り返すのだ。詠むだけでなく披露するにもかなりの時間がかかるし、披露した和歌の優劣を判定するのもかなりの時間を要する。時間を要するが評判は高く、後に歌合の最高峰と評されることとなる。もっとも、鴨長明はこの六百番歌合をみっともないと非難している。まあ、鴨長明という人は何であれ悲観的に物事を捉える人であるが。


 一方の源頼朝の人心掌握であるが、これはやはり武士を相手にしてのものである。

 鎌倉には中原広元や三善康信などの文人官僚もいるし、他ならぬ源頼朝自身が京都の貴族世界に生まれた人間である。さすがに一三歳から伊豆国で過ごし、人生の四分の三を武士社会で生きていたこともあって武士達のトップに立てるほどに武士社会に溶け込んではいるものの、本質的に源頼朝という人は貴族なのである。趣味も、そして生き方も、京都に過ごす貴族のうちの一人としても違和感を生じさせないものがあった。

 とは言え、貴族としての自分であり続けていたら鎌倉幕府の運営はできない。鎌倉幕府の御家人達は源頼朝に仕えている身であり、貴族としての源頼朝に付き従っている。征夷大将軍は貴族としての源頼朝の持つ一つの称号であり、後に征夷大将軍が武士達を束ねる役職になるが、この時点の御家人達の認識としては武士のトップたる源頼朝個人に仕えているという認識であった。

 もっとも、征夷大将軍という官職は特別なものであることは誰もが知っていた。壇ノ浦の戦いで海中に沈んだ天叢雲剣は熱田神宮に奉納されており、海中に沈んだのは形代、すなわちレプリカである。三種の神器の一つである天叢雲剣の形代をもう一度作るように求めても、熱田神宮からの返答は、天叢雲剣の形代は征夷大将軍であるというものである。

 熱田神宮の宮司の娘を母とする源頼朝であるからこそ生きた人間が天叢雲剣の形代となりえ、かつ、征夷大将軍が存在することで皇位継承に必要な三種の神器が揃うというのがこの時代に誕生した概念であった。

 その認識が存続する概念が続く限り、御家人達が掲げるシンボルとして最高の存在が源頼朝とその子孫であり続けなければならなくなる。単に源氏であるというだけでなく、熱田神宮とも繋がっていることが重要なのだ。

 源頼朝と御家人達との間に距離が生じてしまったら武士達が幕府から離れてしまう。単に離れるのではなく、幕府の統率から離れる新たな武力集団が誕生してしまうのだ。そしてその武力集団は、日本国に対する国家反逆集団となってしまう。

 京都で九条兼実が繰り広げていたような管絃や和歌は、鎌倉武士の得意とするところではない。万葉集の時代から和歌の前の平等という原則があるし、管弦を嗜む武士もいるにはいるが、鎌倉武士が和歌を詠むのを、あるいは管弦に励むのを趣味とするかどうかとなると、趣味としている武士は多くない。ゼロではないが和歌に現(うつつ)を抜かす姿を嘲(あざけ)る武士のほうが多い。つまり、九条兼実と同じことを源頼朝がやっても、それを鎌倉での人心掌握とすることはできない。


 しかし、貴族の趣味の中には武士にも受け入れられる趣味もある。あるいは、貴族と武士とは対立存在ではなく連綿として続いている存在であるとも言える。二一世紀に住む我々は、平安貴族が嗜んだ趣味としてインドアとアウトドアとどちらを思い浮かべるかと訊ねられたときインドアを思い浮かべるであろう。しかし、平安貴族は現在の人が考えているよりアウトドアの趣味を持っていた。

 狩猟だ。

 現代人の感覚からすると野生動物を弓矢で射殺するのであるから野蛮に感じるところもあるが、この時代は、いや、それこそ二〇世紀までは狩猟を嗜むことに対する非難は起こらなかったどころか、多くの人に受け入れられる趣味として受け入れられていたのである。

 実際、狩猟に興じる皇族や貴族は多かった。いや、多いというレベルでは無い。記録を遡れば日本書紀での仁徳天皇の鷹狩りの逸話も登場するほどに、皇族や貴族が狩猟に興じるのは当たり前のことという認識が成立していたほどだ。

 この狩猟趣味は武士の間にも広く受け入れられていた。狩猟は趣味として愉しめるだけでなく武芸鍛錬の一環としてもかなり有効だという認識が存在していたのである。源頼朝が御家人達に「一緒に和歌を詠もう」と言われて素直に応じる武士はそう多くはないであろうが、「一緒に狩りをしよう」と呼びかければ武士はたくさん集まる。狩猟について、源頼朝は貴族らしい趣味と考え、武士達は武士らしい趣味と考えるので、思いは違っても結果は同じとなる。

 特にこの時代の狩猟で頻繁に行われていたのが巻狩である。巻狩(まきがり)とは鹿や猪の生息する地域を大人数で囲み、囲みをだんだんと縮小していくことで獲物を追い詰めた後に射止める狩猟方法である。このときの指令は戦場における指令、このときの行動は戦場における行動の訓練として優れていると見做されており、多くの武士が巻狩を趣味として嗜んでいた。

 さらに巻狩には大きなメリットがある。巻狩は都市部ではなく少し離れた場所で繰り広げられる。現在で言うと、ゴルフのために住宅地から離れたゴルフ場に行くと考えれば近いであろう。ただし、ゴルフ場に行ってゴルフを楽しむだけでなく、巻狩のできる場所までの交通と、巻狩の場所の自然環境を熟知することもイベントに含まれるという点で現在のゴルフと違うところがある。後述することになるが、建久四(一一九三)年二月に後白河法皇の一周忌が開けたのを契機として源頼朝が狩猟を主催した際、源頼朝が狩猟の場所に選んだのは、鎌倉からの往復の交通事情と現地の情勢を実際に目にして把握し、狩猟に集った御家人達の人心掌握と同時に御家人達の個人的な実力を見定めることもできると睨んだ複数の場所である。


 吾妻鏡はさすがに源頼朝の主催した巻狩のことを詳しく書いてある。

 まず建久四(一一九三)年三月二一日に信濃国三原野、現在の長野県須坂市に二二名の御家人を率いて巻狩に興じた。北条義時、武田信光、加々美長清、里見義成、小山朝光、下河辺行平、三浦義連、和田義盛、千葉成胤、榛谷重朝、諏方盛澄、藤沢清親、佐々木盛綱、渋谷高重、葛西清重、望月重義、梶原景季、工藤行光、新田忠常、狩野宗茂、宇佐美助茂、土屋義清の二二名である。それぞれが自分達の郎従を率いて巻狩に参加したので、ちょっとした軍勢の行軍になった。

 このときの巻狩の面々は四日後に場所を変えて武蔵国入間野、現在の埼玉県入間市へと移り、同所で巻狩を開催した。吾妻鏡には具体的な参加者を記していないが前述の二二名がそのまま参加したことであろう。なお吾妻鏡によれば、入間野での藤沢清親の弓矢の腕前が素晴らしく、源頼朝は一頭の馬を報奨として藤沢清親に与えたとある。

 月が変わって四月二日には下野国那須野での巻狩である。吾妻鏡でここに名前が挙がっているのは小山朝政、宇都宮朝綱、八田知家の三名である。彼らが巻狩に参加したというよりも新たに巻狩に加わったとすべきであろう。この三名がそれぞれ、巻狩においてサポート役となる「勢子(せこ)」をそれぞれ一〇〇〇名ずつ参加させたというのが吾妻鏡での記載だ。

 先に巻狩とゴルフとの類似性を記したが、源頼朝の主催する巻狩と現代のゴルフとの類似性はもう一つ存在する。クラブハウスだ。と言っても現在のゴルフ場に存在するクラブハウスは常設であるが、源頼朝が下野国那須野で主催した巻狩のクラブハウス、通称「藍沢の屋形」は仮設である。巻狩は戦場を前提とした武芸の訓練という側面もあるが、戦場と違ってスケジューリングされている。攻め込んでくるかもしれない敵に備えるわけでもなく、基本的に陽が沈んだら夜は寝る。戦場を駆け巡るときは地面に直接寝転がって寝るときもあるが、巻狩でそれはない。仮設ではあるが宿泊の場を設ける。宿泊できればそれだけで良しとするのではなく、自宅ほどではないにせよ、あるいは自宅と変わらぬレベルでのくつろぎの場を用意するのが通常であり、ゴルフ場でのクラブハウスに似ていると言ったのはその点だ。

 そして、下野国那須野で主催した巻狩のクラブハウスである「藍沢の屋形」は仮設であるために、イベントとしての巻狩が終われば御役御免となる。と言っても壊すのではなく次の巻狩の場に向けて運び出すか、あるいは、元に戻すこととなる。下野国那須野での巻狩を終えた後に源頼朝が選んだのはその両方だ。次回は駿河国藍沢原での巻狩とするので下野国から駿河国への移動となる。クラブハウスの名が「藍沢の屋形」と呼ばれていることから想像できるとおり、源頼朝が下野国那須野に仮設で建てさせたのは、普段は駿河国藍沢原に常設している建物である。その上で、建物を元に戻すと同時に、次回は駿河国藍沢原での巻狩をするということを明言した。駿河国藍沢原は少なくとも一〇世紀に既に巻狩場として名を残しており、源頼朝は少なくとも文治元(一一八五)年二月一六日時点で駿河国藍沢原を自らの所領として組み込んでいる。

 そして、このあたりの吾妻鏡の記載が一見すると整合性がとれていない、それでいて、合理的な記載となっている。下野国から駿河国へと運び出すように命じた記録は建久四(一一九三)年四月二三日、一方、源頼朝が鎌倉に帰還したのは四月二八日。日付だけを見ればおかしなところはないが、源頼朝が下野国ではなく上野国から戻ってきたのである。源頼朝の主催する巻狩は、巻狩そのものだけでなく、巻狩場までの往復も目的としている。人心掌握だけでなく現地の視察も目的と考えると、往復というよりは、大回りの一筆書きルートとするべきか。実際、このときに源頼朝が立ち寄ったのは式部大夫人道上西新田館である。新田という名から想像が付くかもしれないが、上西入道とは新田義貞の祖先である新田義重の出家後の名である。 


 建久四(一一九三)年五月二日、源頼朝の人生で最大規模の巻狩の準備が始まった。場所は富士山麓の藍沢である。

 これだけを記せば、後白河法皇の一周忌を契機として、それまで自粛してきた巻狩を大規模に開催することにしたのだなという感想しか出てこないであろう。

 しかし、建久四(一一九三)年五月の巻狩こそ、後に「曾我兄弟の仇討ち」として有名になる出来事の舞台となるのである。なお、この事件を源頼朝暗殺未遂事件であるとする説はあるが、残された記録だけを追いかけると源頼朝暗殺を意図したものではないという結論になる。

 まず、記録を追いかけてみる。

 スタートは安元二(一一七六)年閏一〇月、すなわち、源平合戦で源頼朝が立ち上がる前、伊豆国奥野での狩りの場で河津祐泰が工藤祐経の郎従に暗殺されたところからはじまる。

 それではなぜ、河津祐泰が工藤祐経の郎従に暗殺されたのか?

 河津祐泰は伊東祐親の長男である。親子で苗字が違うことに疑念を感じたかもしれないが、もともと伊東祐親は河津祐親と名乗っていた。この河津祐親が伊東祐親と名乗るようになったのは、伊豆国伊東荘の所領を手に入れたからである。もともとは工藤祐継が伊東荘の保有権を手にしていたが、工藤祐継が亡くなったことで相続権は息子の工藤祐経のもとに渡ることとなり、相続の後見人として工藤祐経の義理の叔父である河津祐親が指名された。しかし、河津祐親は平家の権勢を背景として、伊東荘を工藤祐経に相続させるのではなく自分の所領としてしまった。

 これは親族内でもかなり紛糾したようで、河津祐親は伊東荘を手に入れたのを機に伊東の苗字を名乗るようになり、伊東荘の保有権を認める親族も揃って伊東の苗字を名乗るようになったが、河津祐親の長男の河津祐泰は父の伊東荘保有を認めず、河津の苗字を名乗り続けたのである。なお、河津祐親、いや、苗字を変更した後であることを考えると伊東祐親は、伊東荘の保有権については手放さなかったものの自らの身の危険については感じたようで、一時的な避難の意味もあって出家している。息子の河津祐泰は、伊東荘の保有権にこだわる姿勢については苦言を呈したものの、出家したという父の覚悟を目の当たりにして父子間の関係を修復させ、ともに狩猟に出かける関係となるまでになっていた。

 不満を隠せないのが自分のものであるはずの所領を奪われた工藤祐経である。この時点ではまだ鎌倉幕府が成立していないどころか、源頼朝はまだ伊豆国の流人である。源頼朝以前の関東武士間の所領争いは、裁判ではなく武力での勝負だ。そして、安元二(一一七六)年時点の武力では伊東祐親が圧倒していて工藤祐経にはどうにもできなかった。とは言え、どうにもできないという理由で黙り込むようでは関東武士ではない。卑怯と言われようが、物騒と言われようが、どうにかする方法はあった。暗殺がそれだ。伊東祐親が親族を集めて狩猟に出かけることを知った工藤祐経は、家臣である大見小藤太と八幡三郎の二人に命じて狩りの場で伊東祐親を殺害するよう命じたのである。


 二人が選んだ方法は弓矢での射殺であった。

 だが、この暗殺は失敗した。伊東祐親ではなく、息子の河津祐泰が殺されてしまったのだ。

 伊東荘を巡る争いは有名であり、殺害の主犯であるはずの工藤祐経への同情は強く、伊東荘を奪われたことに対する正当な抵抗であると見做された一方、息子を殺された伊東祐親は、気の毒なことではあるものの当然の報いであるという扱いを受けていた。

 というタイミングで源平合戦が起こった。伊東祐親は平家方の武士の一人として軍勢の一部を担っていたが、富士川の戦いで鎌倉方の軍勢に捕らえられ、自害。一方、工藤祐経の動静についてはそれから七年間に亘って詳しい記録が残っておらず、おそらく早い段階で源頼朝の御家人の一人になっていたと推測される。次に工藤祐経の名が登場するのは、一ノ谷の戦いで源氏方の捕虜となり鎌倉に護送された平重衡を慰める宴席の場面である。平重衡をもてなす武士の一人として工藤祐経の名が登場していることと、おそらくこの少し前の段階で伊東荘の保有権が工藤祐経のもとに戻っていたであろうことから、工藤祐経は源氏の勢力を利用して本懐を遂げたというところであろう。

 平家の権勢を利用して伊東荘を手に入れようとした伊東祐親は、荘園を奪われた工藤祐経の家臣の手で長男を殺害され、源平合戦の過程で本人も源氏の軍勢の前に散った。これで伊東荘を巡る争いについては解決した、はずであった。

 だが、河津祐泰には子がいた。

 父が殺害されたとき、長男は五歳、次男は三歳であった。当時はまだ幼名であり、長男は一万、次男は箱王という名であったという。河津祐泰の妻の名は正式な記録として残っているわけではないが、後世の説話では河津祐泰の妻の名を満功御前としている。夫が殺害されたのを知った満功御前は絶望の末に出家することも考えたが、義父の伊東祐親の勧めもあり、河津祐泰とは従兄弟同士の関係にあたる曾我祐信のもとへ再婚することを選び、曾我祐信も自分の妻の連れ子を我が子として育てることとした。曾我祐信は現在の神奈川県小田原市のあたりを所領としている武士であり、伊東祐親の息子とは従兄弟同士であるところからも想像できるように、関東地方における平家方の一翼を担う人物であった。

 安元二(一一七六)年時点で五歳と三歳の幼児も、それから一六年の歳月を経れば二一歳と一九歳になる。曾我祐信は少なくとも石橋山の戦いまでは平家方の一員であったが、その後に情勢が不利になったことを悟って源頼朝のもとへ投降し、一ノ谷の戦いでは一族揃って源氏方として参戦している。その中には曾我祐成と曾我時致の兄弟もいた。実父が亡くなったとき五歳であった兄が曾我祐成、三歳であった弟が曾我時致である。建久四(一一九三)年時点で曾我祐成は二二歳、曾我時致は二〇歳になっていた。説話では曾我十郎と曾我五郎と呼ばれることが多いのは、曾我十郎祐成、曾我五郎時致を通名としていたからである。

 片や早々に源氏の一員として行動するようになっていた工藤祐経。

 片や途中から鎌倉幕府の御家人となった曾我祐信の息子達。

 この両者が巻狩の場で邂逅した末に起こったのが「曾我兄弟の仇討ち」である。


 出来事の推移を時系列で追いかけてみる。

 建久四(一一九三)年五月二日、源頼朝の命令により北条時政が駿河国藍沢、現在の静岡県の御殿場に出向いた。この巻狩は後に「富士の巻狩」と呼ばれることとなる。富士の巻狩は源頼朝の関わった巻狩の中でも、いや、鎌倉幕府の全歴史を通じて最大規模の巻狩であり、同時に「曾我兄弟の仇討ち」の舞台として後世に語り継がれることとなる。

 富士の巻狩の根拠地となる藍沢は頻繁に巻狩が行われてきた土地であるが、何しろ、これからやろうとしているのは狩猟である。獲物となる動物がいなければ話にならない。また、巻狩のクラブハウスである「藍沢の屋形」が正しく設営しなおされているかどうかの確認も必要である。北条時政はこのようなイベントにおける先遣者としてうってつけの人材であった。北条時政個人の資質もさることながら、数多くの御家人の中から誰か一人を選び出さなければならないという場面で源頼朝の義父という点を利用できることが大きいのだ。

 五月八日、源頼朝が源頼家、いや、この時点ではまだ元服を迎えていないから、吾妻鏡の記載に従って記すと「万寿」とともに駿河国藍沢に向けて鎌倉を出発。源頼朝に同行した御家人の名として吾妻鏡は、北条義時、足利義兼、山名義範、小山朝政、長沼宗政、里見義成、佐貫広綱、畠山重忠、三浦義澄、三浦義村、佐原義連、千葉成胤、稲毛重成、和田義盛、工藤祐経、工藤景光、工藤行光、土屋義清、梶原景時、梶原景季、梶原景高、梶原景茂、梶原朝景、梶原景定、糟屋有季、土岐光衡、宍戸家政、波多野義景、愛甲季隆、海野幸氏、藤沢清親、望月重隆、小野寺道綱、市河行房、禰津宗直、佐々木盛綱、佐々木義清、渋谷重国、小笠原長清、武田信光、狩野宗茂、大友能直、御所五郎丸、曾我祐信、曾我祐成、曾我時致、平子有長、吉川友兼、仁田忠常、毛呂季光、加藤光員、宇都宮頼綱、結城朝光、王藤内、下河辺行平、榛谷重朝、土屋義清、岡部好澄、河村義秀、沼田太郎、中野助光、岡辺弥三郎、岡部清益、堀藤太、臼杵八郎、宇田五郎、大見小平次、新開実重、伊東祐時といった面々を書き記している一方、まだまだたくさんいて全体を書き切れないとしている。「曾我兄弟の仇討ち」の登場人物である工藤祐経、曾我祐成、曾我時致の名はここに登場している一方、北条時政はここに名が載っていない。当然だ。北条時政は既に現地に到着して設営に取りかかっている。 


 源頼朝らが現地に到着したのは五月一五日。源頼朝にしてはゆっくりとしたペースであるが、源頼朝らは戦争をしに行くのではない。レジャーとしての巻狩に赴いているのである。巻狩の舞台は弓矢を駆使する場面でもあるものの、基本的には戦場より安全であるし、そもそも急ぐ必要が無い。それに、鎌倉から御殿場への往路の巡視も源頼朝は意図している。早急な軍勢の移動のための現地視察ではなく、生産地である御殿場と消費地である鎌倉とを結ぶ通商路の確認だ。時間を掛けることはむしろ称賛されるべき話である。

 また、巻狩は享楽の一つとなってはいても、基本的には生きものを殺害するイベントである。どんなに血に飢えた考えの人でも自分達がこれからしようとしていることが何であるかは理解している。そして、この時代には六斎日といって、毎年八日、一四日、一五日、二三日、二九日、三〇日の六日間は特に厳しく殺生を禁止すべきという仏教的概念が多くの人の生活に存在していた。つまり、巻狩の場に到着し、準備を整えてこれから巻狩を始めようとしても、六斎日に重なってしまったら巻狩はできないこととなる。一五日に現地に到着するというのは、六斎日の間にある殺生厳禁の日を外す意味も存在したのである。

 もっとも、打算的な考えもある。源頼朝に率いられた鎌倉幕府の御家人達が大挙して押し寄せてくるのである。これは受け入れる側、また、その周囲の人達にとって大きなビジネスチャンスであった。吾妻鏡では手越や黄瀬川のあたりの遊女が大挙して押し寄せ源頼朝に挨拶してきたとある。黄瀬川は現在の静岡県沼津市、手越は同じく静岡市だ。彼女たちのようにビジネスチャンスを狙って駿河国藍沢にやってくる人たちのことを考えると、急いでしまうのはかえって不利益を生み出してしまう。忘れてはならないのは、源頼朝は鎌倉幕府の将軍として執政者の一人にカウントされる身にもなっていたということだ。現在の感覚からすれば買春のために時間を掛けたのかとなるが、この時代は売買春の是非を問うという概念そのものが存在しないだけでなく違法でもない。さすがに堂々と公言できるわけではなかったが、必要悪とはされていた。


 さて、このときの巻狩の前に記しておかなければならない出来事がある。

 まさに巻狩に出かけているために源頼朝が不在となっていた鎌倉で、一人の文人が命を落としたのである。

 死因を吾妻鏡は記さない。その文人が建久四(一一九三)年五月一〇日に亡くなったと記しているだけである。

 その文人の名を平信家という。姓から想像できる通りこの人は平家の一員だ。平氏の一員ではなく平家の一員、すなわち、平清盛の関係者の一人である。

 何度も繰り返すことになるが、平氏と平家とは同じではない。平氏とは皇室から与えられた姓が「平」である人のことである。特に多いのが桓武天皇の子孫である桓武平氏で、平氏イコール桓武平氏という式が成立するほどである。平氏は中央や地方で貴族として君臨することもあったが、武士となった者も多かった。武士となった平氏の中には苗字として「平」を使い続けたケースもあるが、その多くは本拠地とする土地の名を苗字とした。

 鎌倉幕府の御家人を見渡しても、千葉常胤、三浦義明、畠山重忠、江戸重長、梶原景時、そして北条時政や北条義時といった面々の正式な姓は平である。

 しかし、彼らは平家ではない。

 平家とは、平清盛とその周囲に集う人たちのことなのである。平清盛という人は仲間を手厚く守る人であった一方で、新たな仲間を迎え入れるのは苦手としてきた人であった。平清盛の父親の平忠盛は新たな仲間を迎え入れるのを得意としてきた人であり、平忠盛に仕えてきた人の多くは、平忠盛の後継者であるために平清盛にも仕えるのだという意識を持っていた。そのため、平清盛は古参の家臣ならば不自由しなかったが、平清盛自身が新たな仲間を加えることは極めて稀であったのだ。このような閉鎖的な人がトップに立つ組織は、年月を経ると人材が固定化し、組織を老朽化させる。組織を維持するためには新たな人材を常に確保し続けなければならないが、平清盛はそれを苦手としている。そこで平清盛が選んだ次世代の仲間こそ、身内であった。弟や息子や甥、さらには近親者を取り立てることで組織の世代交代を図り、その目論見は途中まで成功していた。


 先に平氏の多くが桓武天皇の子孫である桓武平氏であると記したが、桓武平氏の全員が武士なわけではない。地方に降った桓武平氏のうちの一部は伊勢国を根拠地とする武家集団である伊勢平氏を構成してきた一方で、京都に残った桓武平氏は文人官僚であることを選び、藤原氏に大きな差をつけられてはいたものの、朝廷内での貴族勢力の一部を担うことには成功していた。平清盛は伊勢平氏を構成している平氏の武士達と、京都に残った文人官僚である桓武平氏とを合わせて、平家という勢力を作り上げていたのである。

 平家を構成する文人官僚の中でもっとも有名なのは「平家ニ非ズンバ人ニ非ズ」と豪語したという言い伝えが残されている平時忠であろう。平時忠は驕れる平家の頂点ともいうべき人として語り継がれてきた人であるが、平時忠という人は伊勢平氏ではない。京都に残って文人官僚であり続けた家系の人である。武芸の鍛錬を積んできてはいなかったが文人としての経験は積み重ねてきており、暴言癖さえ我慢すれば、その実務能力は無視できないものがあった。

 平信家とはその平時忠の次男である。平信家は父の継母である藤原領子と折り合いが悪く、また、父子関係もお世辞にも良好とは言えなかった。父の忠実な後継者たらんとした兄の平時実との関係も良いものとは言えず、家庭の中で孤立していたとも言えよう。その影響もあってか、平信家は治承三年の政変時に反平家の一員とみなされて上総国へと流刑になっている。

 上総国に流刑となった平信家は上総介広常を頼るようになり、上総介広常も自分の娘を平信家と結婚させるなど厚遇した。この時点での平信家は、流刑の身であるとはいえ、関東地方では珍しい従四位下の位階を持った貴族であるため特別な存在となる。平清盛に睨まれたため上総国に流刑になったが、仲間を新たに生み出すことを苦手としている平清盛がトップに立っている時代であることを考えると、平信家は、関東地方にいながらにして平清盛との接点を持つ数少ない若き貴族だ。上総介広常の立場で考えると、ここで平信家と縁戚関係を結ぶことは決して悪い話ではなかった。

 というタイミングで源頼朝が挙兵した。平信家は平家一門の一人であるが平清盛から処罰を命じられた人間である。このまま平家政権が続くならば平清盛の許しを得て中央政界への復帰を目指すという選択肢も選べたが、今や平家政権の永続性に疑念が生じる時代となった。そしてここで、平信家は賭けに出た。平家とのつながりを捨て、父や兄との関係も捨てて源頼朝の元に降り、源頼朝に仕える文人官僚の一人となったのである。源頼朝の信頼を獲得した平信家は、岳父である上総介広常の粛清後も源頼朝に使える忠実な文人官僚の一人であり続けていた。

 その平信家が亡くなったのである。平信家は平家滅亡時に名を平信時と改めているので、吾妻鏡での記載は平信時の死去となっている。死因は不明であるが、その最期は穏やかなものであったと伝えられている。


 巻狩の始まりは六斎日のうちの一日である一五日が過ぎた翌建久四(一一九三)年五月一六日である。

 吾妻鏡が伝えるところによると、源頼朝の後継者であり、後に源頼家と名乗ることとなる万寿が一二歳の若さで鹿を射止めたことの記載がある。以降は煩雑を防ぐために元服後の名である源頼家と記すが、公的には武人としての源頼家の力量の発揮となってはいるものの、実際のところは周囲の強力な手助けがあったからで、源頼家が鹿を射止めたことの記載はあっても具体的にどのように射止めたのかの記載はない。その代わり、相模国在住の御家人である愛甲季隆が源頼家のもとに近侍し、愛甲季隆が鹿を巧みに追い込んでくれたおかげで源頼家が鹿を射ることに成功したとある。現代の接待ゴルフと似たようなものと言えよう、吾妻鏡の記載に従えば。

 ただ、後述するように吾妻鏡は何かと源頼家を冷たく書き記すところがある。もしかしたら本当に源頼家が鹿を射止めたのにそのことをあっさりと書き記すだけにとどめ、手柄の多くを近侍していた愛甲季隆のおかげであるとしたとも捉えられる。

 なお、源頼家が鹿を射止めたのを慶事として、五月一六日の巻狩は一旦ここで終わりとなっている。といっても、イベントそのものが終わったわけではない。その日の夕方以降に一見すると堅苦しくて儀礼的な、実際のところは多くの御家人が楽しみとしているイベントが待っているのだ。そのイベントのことを矢口祭(やぐちのまつり)という。矢口とは、武家に生まれた男児が生まれて初めて狩猟で獲物を仕留めたときに、仕留めた獲物の肉を調理すると同時に、餅をついて祝うことである。一般の武家だと家庭内でのささやかなイベントか、大きく捉えても親戚を集めてのイベントとなるレベルであるが、このときは源頼家だ。単なる矢口ではなく、矢口祭として規模が大きくなり、何もかもが一ランク上になる。餅も上級のものになる上、この時代では貴重品である酒も振る舞われる。 


 五月一六日の矢口祭はまず、北条義時が三つの餅を献上した。大きさはタテ八寸、横三寸、厚さ一寸という大きなもので、かつ、そのうちの一つは黒、一つが赤色をしているため、黒、赤、白の三色に施された餅が献上されたこととなる。これは矢口祭における餅の最上級品である。基本的には山の神に供える餅であるが、供えたままということはなく皆に振る舞われる。吾妻鏡には餅を切って配ったという記述はなく、この日の巻狩で目覚ましい働きを見せた工藤景光、愛甲季隆、曾我祐信の三名が一名ずつ呼び出されて各々が餅を齧ったとあるだけである。なお、吾妻鏡のこの記述はのちの曾我兄弟の仇討ちに関連して意図的に挿入された逸話である可能性、また、後に鎌倉幕府第三代執権北条泰時となる、北条義時の息子の金剛の矢口のときとの対比を意図して挿入した可能性もある。何しろ吾妻鏡は鎌倉幕府の正史、すなわち、鎌倉幕府の実質的支配者となった北条家を際立たせるために、源頼家を卑下して北条泰時を称揚するところがある歴史書だ。五月一六日の矢口祭は壮大であるが、お世辞にも上品さを感じされる内容ではない。一方、北条泰時の矢口はかなり洗練されたものとなっている。

 もう一点、源頼家を下げる記載になっているのが、吾妻鏡の五月二二日の記載だ。源頼家が鹿を射止めた報告を鎌倉まで届けたところ、北条政子は息子の快挙を喜ぶどころか、武人の跡取りが鹿や鳥を射止めたところで珍しくもないし、そんなことをわざわざ報告しに来なくてもいいと言い放ったとある。確かに北条政子の言いそうな内容であるが、息子の快挙に冷淡であると捉えるも、北条政子のもとを離れて富士の裾野で、周囲から集めた遊女達と楽しくやっているであろう夫への怒りも存在していると捉えるべきであろう。北条政子にとっては、息子の快挙よりも、夫が巻狩を名目にして好き勝手やっていることへの怒りが強いとするべきか。まあ、現在でも結婚相手が出張を繰り返し、出張先で自分を忘れて好き勝手やっている配偶者がいたならば憤りはするだろう。それでも、出張そのものが嘘だったら憤りは正当な怒りとなるが、出張そのものが嘘ではなく、また、出張先で好き勝手にやっているという証拠がない、あるいは、法的にも時代の倫理的にも許されている内容にとどまっているならば、憤りを正当な怒りとさせることはできない。


 先に巻狩を現在のゴルフに準(なぞら)えたが、無論、現在のゴルフと大きな違いが多数存在する。その中でも最たるものは、一日で終わるとは限らないというものだろう。記録を探れば一日で終わった巻狩も見つかるが、多くの場合は短くても数日、長いと十数日に亘って巻狩が続くこともある。

 これらの先例を、富士の巻狩は軽々と越えた。何しろ開始から終了まで一ヶ月を記録することとなるのだ。

 そして、その途中で曾我兄弟の仇討ち事件が発生する。

 その経緯を吾妻鏡は次のように記す。

 六斎日である二三日の狩りの自粛期間を終え、さらに四日を経た建久四(一一九三)年五月二七日、今回の巻狩で最大規模の鹿が源頼朝の前に現れた。巻狩というのは大勢の勢子が獲物を追いかけ、偉い人、あるいは接待を受ける人の近くに獲物を向かわせ、獲物を仕留めさせるというものだ。このときも源頼朝のもとに巨大な鹿が向かったのは偶然では無い。

 もっとも、源頼朝は武人たる心得を持った人物であるものの、実際に武人としての成績を残してきた人ではない。単純に言えば、弓矢は下手くそである。巨大な鹿を向かわせるところまでは正しい接待の光景であっても、源頼朝に仕留めさせるのは現実的では無い。それに、源頼朝は自身の武人としての能力の現実を理解していたが、自分の代わりに誰かに手柄を取らせることの重要さは理解していた。

 つまり、源頼朝の近くに表彰させたい人物にいてもらい、勢子に獲物を追い立ててもらって源頼朝のもとに獲物が逃げてきたときに、源頼朝ではなく源頼朝の近くにいる人に手柄を取らせるという手筈を整えている。五月二七日の場合は工藤景光が源頼朝の側にいた。

 工藤景光は甲斐源氏の一員として安田義定のもとで挙兵し、波志太山の戦いにおける甲斐源氏の一員として名が残っている。その後は源頼朝に仕える御家人の一人となり、治承五(一一八一)年一月六日に模国蓑毛付近で平井久重を捕らえたという記録がある。平井久重とは石橋山の戦いで北条義時の兄の北条宗時を討ち取った武人であるため、北条時政にとっては息子の敵討ちをしてくれた人となる。それから工藤景光の名前はしばらく登場しないが鎌倉方の武人の一人であったことは間違いなく、文治元(一一八五)年一〇月二四日の勝長寿院の完成式典にその名が記されている。

 吾妻鏡の記載に従えばこのときの工藤景光は七〇歳を過ぎている。その工藤景光が巨大な鹿を仕留めた、と書き記せば格好が付いたかもしれないが、実際には外している。一の矢が鹿に当たらず、鹿は弓矢に驚いてUターンして山の中へと逃れていった。二の矢、三の矢も鹿に当たらなかったため、狩猟としては失敗だ。

 その上で工藤景光はこのように語った。十一歳からずっと狩猟の技を誇っていた。それは七〇歳を過ぎても衰えていないと確信していた。それなのに今回は狙いを外してしまった。ここまでであれば自らの老いを痛感した者の言葉であるが、その後の記載はそのような感想とはならない。あの鹿は山の神の乗る馬であり、その馬を狙ってしまったために自分の寿命は縮んでしまっただろうと述べたのだ。その上で、この日の夕方に工藤景光は発病してしまったというのが吾妻鏡の記載だ。

 源頼朝は工藤景光の発病を凶事と考えて巻狩を中止しようと訴えたが、周囲の御家人達は巻狩の継続を求めた。

 この出来事を吾妻鏡はこの後に続く事件の序章として扱っている。


 建久四(一一九三)年五月二八日は朝から雨天だったが午後になって雨が上がったとある。ただし、雨は夜になると再び降るようになり、真夜中には雷雨へと変わった。

 朝から雨が降っていたことと、翌二九日、三〇日と六斎日による狩猟自粛となることが決まっていたこともあり、狩猟はしなかったであろうと推測できる。少なくともその日に狩猟をしたことを記す記録はない。二日連続で狩猟自粛となることが決まっていることもあり、また、雷雨の中ということもあって、夜になると宿泊小屋に籠もっての飲めや歌えやの大騒ぎとなる。飲み会が好きな人なら、あるいはそういう人のことを思い浮かべていれば、このときの鎌倉武士達の様子は理解いただけるであろう。

 真夜中、現在の時制で言うと夜中の一二時頃、その事件は突然起こった。

 工藤祐経と大森隆盛の二人が殺害されたのだ。

 富士の巻狩のために設営された宿泊施設は多々ある。仮設の建物ではあるがテントと違って十分な宿泊機能を持っており、中で宴会を開くぐらいできる。この日は工藤祐経のために建てられた宿泊小屋に大森隆盛が招かれていた。大森隆盛は工藤祐経と楽しく酒を呑んでいたところで、いきなり襲撃を受け、たまたまその場にいたというだけで巻き添えを食らって命を落としたのである。

 最期に聞いた言葉は「父の敵(かたき)を討ち取ったぞ」というものであったという。

 建物は防音が施されているわけではない。また、二人で酒を呑んでいたと言っても酒や料理の用意を自分で済ませているわけではなく、建物の中には多くの人がいる。突然の惨劇を目の当たりにして悲鳴を上げた人もいるし、その悲鳴は建物の外にも聞こえる。さらにここに父の敵(かたき)を討ち取ったという声が加わる。とんでもないことが起こったことは間違いない。

 周囲の者は慌てて駆けつけ、工藤祐経のもとで殺人事件が発生したことを知った。この時点では誰が犯人か不明であったが、どうやら曾我祐成と曾我時致の兄弟が犯人らしいと知り、ここではじめて曾我祐成と曾我時致の兄弟の父が工藤祐経の郎従に殺されていたことを思い出した。

 仇討ちであるとして事情は理解できたものの、同意できるものではない。何しろ殺人事件なのだ。また、曾我祐成と曾我時致の兄弟にしても自分達のしたことが何であるかは理解していた。ただし、黙って取り締まりを受けるつもりもなかった。自分達を捕らえにきた周囲の御家人達と一戦交えるつもりでいたのだ。

 曾我祐成と曾我時致の抵抗による死傷者の名を伝えている。平子有長、愛甲季隆、吉香小次郎、加藤光員、海野幸氏、岡部弥三郎、原清益、堀藤太、臼杵八郎、以上九名が負傷。また、宇田五郎が曾我祐成に殺害され命を落とした。


 その後、兄の曾我祐成が仁田忠常に討ち取られると、弟の曾我時致は源頼朝めがけて突進していったが、大友能直にとって取り押さえられ、捕縛されて翌朝を迎えることとなった。

 その間、この問題は侍所の管轄であるとして、和田義盛と梶原景時が工藤祐経の死を確認した。

 翌朝、曾我時致が源頼朝の前に連れ出され、鎌倉幕府の御家人達の見守る中で尋問が始まった。既にこの段階で父の仇討ちであることは判明しているが、最後に源頼朝のもとに向かったことから、源頼朝の暗殺を謀った可能性があるとも見られていた。

 その場に詰めかけた御家人の名を吾妻鏡は列挙する。御家人達は左右の二列に別れて座り、一方には北条時政、山名義範、足利義兼、北条義時、毛呂季光、里見義成、三浦義澄、畠山重忠、三浦義連、武田信光、小笠原長清が、もう一方には、小山朝政、下河辺行平、稲毛重成、長沼宗政、榛谷重朝、千葉胤正、宇都宮頼綱といった面々が陣取った。また、結城朝光と大友能直は源頼朝の護衛として源頼朝の左右に配置された。

 尋問の中心は和田義盛と梶原景時が行う。その間、曾我時致の身柄は狩野介宗茂、新開荒次郎といった武士達が取り押さえている。

 曾我時致はこのときの犯行の理由を述べる前に、祖父の伊東祐親が殺害されてからというもの、自分ら子孫達は落ちぶれてしまい、源頼朝のもとに近づくことすらできなくなったこと、せめて最後は源頼朝に直接伝えたいことを訴えて、源頼朝のもとに近づくことを求め、源頼朝はその願いに応えた。

 源頼朝に近づいて曾我時致が述べたのは、工藤祐経を討ったのは父の仇討ちのためであること、自分達兄弟は父が殺されてからずっと仇討ちを考えていたこと、昨日の夜に源頼朝のもとに近寄ったのは自分達の訴えを直接聞いてもらうためであるということであった。


 その後、夜半に仁田忠常に討ち取られた曾我祐成の首が運ばれ、曾我時致は間違いなく兄であることを確認した。

 曾我時致に同情する者も多く、助命を求める者も現れてきたが、その空気を一変させたのは工藤祐経の息子の伊東祐時、いや、この当時はまだ元服を迎える前の幼名である犬房丸の訴えである。このとき僅かに九歳であった犬房丸は、自分の父が何の前触れもなく殺されたことに強いショックを受け、犯人を殺すよう求めたのである。曾我兄弟が父の仇討ちをするなら、自分だって父の仇討ちを資格があるというのが、涙ながらに訴えた犬房丸の主張であった。また、その主張のときには工藤祐経の妻の訴えも伴っていた。

 工藤祐経の妻子の主張が受け入れられ、曾我時致の死を命じる判決が下った。

 同日、曾我時致、梟首。

 建久四(一一九三)年六月一日、曾我祐成の愛人である大磯の遊女が呼び出されたが、彼女は恋人が殺人計画を練っていたことを知らないと答え、その供述に不審な点はないとして釈放された。

 同日、曾我兄弟の曾我兄弟の母と弟、さらに曾我兄弟の母の再婚相手で曾我兄弟の義理の父である曾我助信への取り調べも始まった。

 曾我兄弟は曾我祐成と曾我時致の二人だけではなくもう一人弟がいる。三男は父が殺害されたときはまだ母の胎内におり、父を知らずに生まれ、どのタイミングで出家したのかは不明であるが少なくとも富士の巻狩のときは出家していたことが判明している。この時代、兄弟の多い武士の家庭では相続を計算できない男児を寺院に預けることが珍しくなく、彼も相続問題から僧籍を選ばされたのであろう。吾妻鏡によると、曾我兄弟の起こした事件のとき、曾我兄弟の弟は母とともに武蔵国にいたという。工藤祐経の妻子は曾我時致だけでなく曾我兄弟の母と弟、さらに曾我兄弟の母の再婚相手で曾我兄弟の義理の父である曾我助信も処罰すべきだと訴え、実際に使者を曾我助信のもとに派遣したが、三名とも曾我兄弟の殺害計画に荷担していないことが判明し、無罪放免となった。

 これが曾我兄弟の仇討ちの流れである。


 さて、この曾我兄弟の仇討ち事件については工藤祐経への殺害を主としたものではなく、源頼朝の暗殺を狙った犯行であるとの説もある。

 二一世紀に生きる我々は鎌倉幕府のことを一世紀半に亘って存続する組織と知っているが、源頼朝が征夷大将軍に就任してから一年ほどしか迎えていないこの段階の鎌倉幕府という組織、いや、治承四(一一八〇)年に源頼朝が挙兵してから一三年を数えたこの段階においても、鎌倉方という組織そのものは源頼朝という一個人に仕えて行動する武士達という構造になっている。

 ここで源頼朝がいなくなるとどうなるか?

 源頼朝は既に自分の後継者として息子の万寿、後の源頼家を指名している。ここで源頼朝の身に何かあったとしても、後継者として源頼家がトップに立つことで組織そのものが存続することは判明している。ただし、源頼家に源頼朝と同じだけのトップとしての能力発揮を期待することはできない。この時点でまだ一二歳であり、未だ元服を迎えていない源頼家に父と同じだけのリーダーシップを期待するのは難しいのだ。もしかしたら父と同じ、あるいは父を超えるリーダーシップを有しているかも知れないが、リーダーシップ有無以前に、そもそも元服前の一二歳という若さでは源頼朝と同じだけのリーダーシップを発揮できる場面など無い。

 こうなると、源頼朝がこのタイミングで亡くなったら誰が利益を得るかという視点での推測となる。

 利益を得るのは北条時政、北条義時、比企能員、そして源範頼の四人の名前が挙がる。ただし、四人が共謀してのことではなく、四人の中の誰か一人、あるいは、北条時政と北条義時の親子の共謀となる。

 まずは源範頼であるが、源頼朝の身に何かあり、かつ、後継者に定めた源頼家の身にも同時に何かあったとしたら、源氏の血脈という一点で源範頼は着目を集める存在となる。もともとこの人は源平合戦における鎌倉方の総大将を務めたほどの人物であるし、何と言っても源頼朝の弟であるため、緊急時に鎌倉方のトップを務めるとなったときに御家人達からの、積極的支持とまでは言えないにせよ、消極的支持は獲得できる。ただし、源頼朝の身に何かあったが源頼家は健在であった場合、源範頼は新たなトップの叔父という立場に留まり、自身がトップに立つという選択は困難となる。それに、後述することになるが、源範頼に仕える武士の中には曾我兄弟と異父兄弟の関係にあたる人物がいる点も不審と言えば不審である。

 ただし、源範頼は源氏の血脈についてならば無視できなくても、源頼朝と母親が違うために鎌倉幕府のトップに立つ権利を失う。後には征夷大将軍が幕府のトップであることを意味するようになるが、この時点では征夷大将軍であることよりも、熱田神宮の宮司の娘を母とする、すなわち、壇ノ浦に沈んだ天叢雲剣を本尊とする熱田神宮から、天叢雲剣の形代を体現している存在であると認定された源頼朝の血を引いていることが求められる。源範頼は源頼朝と母が違うため、仮に征夷大将軍に就任できたとしても、この時点での鎌倉幕府のトップである資格を有さない。 


 残る三人は源頼家が健在であるという前提が必要となる。

 まず比企能員であるが、源頼家には比企一族の後方支援が存在している。源頼家の養育は比企尼をはじめとする比企一族が引き受けており、源頼家の乳母父を比企能員が務めているなど、源頼家が鎌倉幕府のトップに立ったならばかなりの可能性で比企一族が鎌倉幕府の主導権を握ることが可能となる。

 比企能員と同様のことは北条時政や北条義時にも言える。源頼家が鎌倉幕府のトップに立った場合、北条時政は母方の祖父、北条義時は叔父となり、血縁関係によって源頼家に強い影響を与えることが可能となる。

 また、北条親子について言えば曾我兄弟の弟である曾我時致の両者の名も着目すべきポイントとなる。「時」の文字だ。実は、曾我時致の烏帽子親は北条時政なのである。烏帽子親とは元服において大人を迎える男児に加冠する者のことであり、元服時に自らの名の一文字を与えることもよく見られた。なお、名を与えるにはランクがあり、通字(とおりじ)、すなわち一族で受け継ぐ字を与える場合と、個人で得ている字を与えるのとでは、前者のほうが重要視される。北条時政と北条義時、さらにその他の北条家の面々を思い浮かべていただければわかると思うが、北条家は代々「時」の文字を継承している。元服した者に烏帽子親として代々継承している通字(とおりじ)を与えたのであるから、北条時政としては曾我時致を特別視していたと考えられるし、その兄の曾我祐成についても何かしらの特別な感情を抱いていたとしてもおかしくない。

 また、曾我兄弟の後ろには誰もおらず、兄弟が揃って源頼朝の殺害を計画したというあらすじを立てることも不可能ではない。たしかに曾我兄弟は二人とも鎌倉幕府の御家人であったが、曾我兄弟の祖父である伊東祐親、いや、河津祐親は平家の権勢を背景に伊東荘を手にして、手にした荘園の名から伊東の苗字を名乗るようになった人物だ。その人物の孫である曾我兄弟は、身の置き場こそ源氏であるものの、その心情は平家にあったとしてもおかしくない。

 曾我兄弟の実父である河津祐泰は、河津祐泰の父である伊東祐親が平家の権勢を背景にして伊東荘を手に入れたことを非難し、河津ではなく伊東を苗字とするようになった父に逆らってあくまで河津の苗字を名乗り続けたが、それでも本質的には平家の一員という意識はあった。平家政権が盤石であり、この後の源平合戦で平家が滅亡するとは誰も予想していなかった時代である。時代の流れのせいで、これまで平家を背景にしてそれまで伊豆国とその周辺で築いていた権勢が失われた。曾我兄弟は自分達が生き残るために鎌倉方の一員として生きることを選んだが、平家の一員としての本懐を遂げるために源頼朝の殺害を狙ったとしてもおかしくない。

 ただ、何れの説も短絡に過ぎる。理由として成立はするが、源頼朝を殺害したあとでどうするのかという考えがまるっきり抜け落ちている。平家の一員として源頼朝を殺害する、あるいは、背後にいる誰かの圧力や入れ知恵で源頼朝を殺害するとしても、そこに出てくるのは源頼朝を殺害するだけで全てが上手くいくと考える都合の良すぎる思考だ。世界の歴史を振り返ってみても有力者の暗殺というのは何度も出てくる。ただ、暗殺した者が暗殺実行後の覇権を握ることはない。覇権を握るのは暗殺実行犯でもなければその黒幕でもなく、それまで想定していなかった第三者、あるいは、暗殺された者に近い人物である。仮に源頼朝の殺害まで曾我兄弟が考えていたとしても、源頼朝を殺害したあとをどうするのかを考えていたのかは怪しいのである。

 確実に言えるのは、富士の巻狩の場において父の仇討ちとして工藤祐経らを殺害したこと、兄の曾我祐成が仁田忠常に討ち取られたこと、弟の曾我時致が殺害の理由を源頼朝に報告したこと、突然殺害された工藤祐経の息子の言葉を受け入れて曾我時致も殺害されたこと、以上である。

 ただし、この後の源頼朝、そして、鎌倉幕府の御家人達の行動の変化については注意すべきところがある。

 その上で、このように考えるべきである。曾我兄弟が仇討ちと称して源頼朝をターゲットとしていたかどうかはわからないが、曾我兄弟が単独犯であったとは考えにくい。状況証拠でしかないが、曾我兄弟の仇討ちを契機とする粛清が始まるのだ。


 巻狩の舞台と鎌倉との間は距離がある。そして、センセーショナルな情報というのは真実よりも早く届いてしまう。リアルタイムで情報伝達ができる現在であっても、情報というものは、正しいかどうかでは無く、興味深いか否かで伝達スピードが変わってしまうものなのだ。いかに源頼朝という人物が情報の重要性を理解している人であっても、情報伝達というものは、事件発生地点からの距離があればあるほど、興味深さのほうが正しさより先に届いてしまうものだ。ましてや現在のように情報のリアルタイム伝達が不可能なこの時代、興味深い情報の到着から正しい情報の到着までの間のタイムラグは距離があればあるほど空いてしまう宿命を持つ。

 吾妻鏡の建久四(一一九三)年六月三日付の記事に奇妙な記録が残っている。常陸国久慈郡、現在の茨城県常陸太田市あたりを根拠地とする武士達が、曾我祐成らの夜襲を恐れて恐れて逃亡したというのである。曾我兄弟の仇討ちは五月二八日から五月二九日にかけてであり、兄の曾我祐成は仇討ちの過程で、弟の曾我時致は仇討ちのあとで殺害されているから、ここに来て曾我兄弟の夜襲というのはありえない。なお、吾妻鏡はこのときに逃亡した武士の名を記していない。源頼朝がこの武士の所領を没収したと記しているだけである。

 しかし、この慌てふためきの様相の理由は、六月五日の記事によると理解できるのだ。

 六月五日の吾妻鏡の記載に直接書いているわけではないが、その前後を読み解いてみると、曾我兄弟の仇討ちの第一報が鎌倉に届いたとき、鎌蔵に広まったのは源頼朝が暗殺されたという情報だと思われるのである。

 六月五日の記事によると、曾我兄弟の仇討ちに恐懼した面々が鎌倉まで急いでやってきて事件を伝えたために鎌倉は騒然となったという。このときに伝えた内容を吾妻鏡は具体的に記さないが、室町時代に成立した歴史書である保暦間記によると、源頼朝が殺害されたと聞きつけて嘆き悲しむ北条政子に対し、源範頼が「後にはそれがしが控えておりまする」と述べたという記録がある。この逸話については保暦間記以外には存在しないことから、後世の創作であるとの説も強いが、何かしらの狼狽が鎌倉で起こっていたことは容易に推測できる。

 吾妻鏡には源範頼の動静は記していないが、二人の常陸国の有力御家人についての動静ならば記している。一人は八田知家、もう一人は多気義幹。この二人はともに鎌倉幕府の御家人として源頼朝に仕える身になっているが、ともに常陸国を本拠とし、根拠地が隣接していることもあって所領争いを繰り広げている関係でもある。

 この二人が富士の巻狩の場からの情報を聞きつけて全く逆の行動を見せた。

 八田知家は軍勢を集めて富士の巻狩の場に行こうとした。

 多気義幹は八田知家が軍勢を集めていることを知り、その矛先は自分に向かっていると考えて根拠地に籠もって八田知家からの攻撃に備えることにした。八田知家から多気義幹に対して、富士の巻狩の場で乱暴狼藉があったのでともに軍勢を向けて不届き者を処罰しに行こうと誘われても断り、防戦に努めた。

 以上が吾妻鏡の記載である。

 六月三日から六月五日の記事を踏まえると、富士の巻狩の場から急いで逃亡して領地を没収された武士は常陸国の武士である。そして、同じく常陸国の武士である多気義幹は根拠地に籠もって防戦に努めている。

 多気義幹についての記録を追いかけると、源平合戦勃発時から治承四(一一八〇)年一一月までは、常陸国の多くの武士と同様に平家方の一員であったことが確認できる。その後の鎌倉方による常陸国の制圧時を契機に鎌倉方の一員になったことが考えられ、少なくとも元暦元(一一八四)年一一月までには源頼朝に臣従するようになっていたことが吾妻鏡から確認できる。奥州合戦においては鎌倉方の武士の一人としても姿を見せている。その多気義幹の行動に目を向けると、断言はできないが怪しいと言える。


 富士の巻狩の始まりは建久四(一一九三)年五月八日、そして、終了は六月七日。文字通り一ヶ月間に亘る壮大な規模の巻狩が終わりを迎えた。ただし、曾我兄弟の仇討ち以降、巻狩についての記録は消え、混乱が繰り広げられたことの記録が林立するようになる。巻狩の終わりを伝える六月七日の記事も、源頼朝が鎌倉に無事に帰還したこと、源頼朝の隊列の中に曾我兄弟の義父である曾我助信もいたこと、曾我助信に対する本領安堵と納税免除を引き換えに曾我兄弟の菩提を弔うように命じたことが記されている。

 また、曾我兄弟の仇討ちから三七日(みなのか)の忌日では、曾我祐成の愛人である女性が出家をし、多くの引き出物を受け取った後に信濃国の善光寺へと向かって旅立っていった。彼女が受け取った引き出物は馬などの高価なものもあったが、何よりも大切な引き出物は曾我祐成の直筆の、それも、平仮名で書かれた手紙であった。現在が性差別のない時代とは言わないが、この時代の差別は現在の比ではない。かなり高い身分に生まれたのではない限り、女性はまともな教育を受ける機会などなく、全く文字を読めないか、文字を読めるとしたら平仮名ならどうにか読めるかといったところである。一方、男性が平仮名で文字を書くのは恥ずべきこととされていた時代でもある。そんな時代に、女性でも読めるであろう平仮名で手紙を書き記したというのは、それだけで特別な手紙になるのだ。また、彼女が受け取った馬は曾我祐成が個人的に所有していた馬であり、この時代の馬は現代社会における乗用車ほどの価値がある。つまり、曾我兄弟の親族の誰かが相続し、自分で乗るか、あるいは誰かに高値で売ったとしても、それは何ら咎められることではなかったし、誰も曾我祐成の馬を彼女が手にすることについて文句を言わないでいた。一九歳という若さで最愛の人と別れて出家を選んだ女性に対し、誰もが涙を隠し得なかったと、吾妻鏡には記されている。

 ここだけを見れば源頼朝の、そして鎌倉幕府の面々の温情あふれる配慮となる。あるいは、実父の仇討ちを称賛する武士の気概が源頼朝の元にも届いたというところか。

 ただ、情勢はそのような穏当な代物ではなくなってきていた。

 まず、建久四(一一九三)年六月一二日に八田知家が多気義幹を訴えでたのである。源頼朝は八田知家の訴えを受け入れ、多気義幹に出頭を命じた。

 多気義幹が出頭したのは一〇日後の六月二二日。三善康信と藤原俊兼が裁判官となり、原告が八田知家、被告に多気義幹という裁判がはじまった。

 もっとも、この裁判の結果は見えていた。多気義幹が自領に引き籠もって防戦準備に当たっていたのは周知の事実であり、弁明の余地は無かった。八田知家からの侵略に対処するためだったという言い逃れも通用しなかった。八田知家は富士の巻狩で何かしらの不祥事を起こした不届き者に対処するため、そして源頼朝らを守るために軍勢を組織したのであり、それを侵略だなどと言われたら心外にも程がある。曾我兄弟の仇討ちでの混乱がもたらした誤情報に踊らされたのだというのは言い訳にもならない。

 判決は単純明快で、多気義幹が常陸国筑波郡とその周囲に保有していた所領は全て没収となり馬場資幹のもとへと移され、多気義幹の身柄は岡辺泰綱に預けられることとなった。一連の手続きには中原広元が処理したこともあって、多気義幹にとっては不幸なことに、きわめてスムーズに完了した。

 ここで多気義幹だけが処罰されたのであれば、根拠の無い状況証拠であるとは言え、曾我兄弟の仇討ちはここでひとまずの終わりを迎えたことになったであろう。

 だが、事態は八月に大きなうねりを見せることとなる。


 建久四(一一九三)年八月二日、源範頼は源頼朝への忠誠を誓う起請文を源頼朝に送りながら、逆に源頼朝の怒りを買い、鎌倉からの追放となったのである。

 吾妻鏡に記載されている起請文の内容は、自分が源頼朝の代理として戦場に赴き何度も結果を残したこと、今後も源頼朝とその子孫のために忠義を尽くすと誓い、誓いに背くことがあれば神罰を受けると宣言するものであった。しかも、起請文を目の前で記したのではなく、神仏への誓いを捧げるために既に記していた文書を、封印を解いて源頼朝に送り届けたのである。

 普通なら源頼朝の怒りを買うような内容では無い。だが、吾妻鏡には起請文に「源範頼」という署名をしてあったこと、すなわち、源姓を名乗った事が分不相応であるとして源頼朝の怒りに触れてしまったとある。しかし、それでどうして怒りを買うことになるのか。

 源氏なのだから源範頼が起請文に源姓を書き記したとしてもいいではないかというのが普通の感想であろうし、正式な文書では実際に源姓を使っている。だが、源頼朝にしてみれば、鎌倉幕府の人間の中で、公的文書ならばともかく私的な文書で源の姓を使えるのは源頼朝のその子だけであり、その他の者はいかに源が姓であろうと使うべきではないとしたのである。

 ただ、源姓の利用制限という考えは以前から存在していた考えではない。源頼朝が鎌倉幕府のトップであり、鎌倉幕府のトップの地位は源頼朝の子孫が受け継ぐというのは決まっているが、源姓を鎌倉幕府のトップのみが使用できる姓であるとし、源範頼を含む源頼朝とその子孫以外の源氏は使用禁止というのはこのときが初見である。もっとも、源姓の利用可否が問われるのは起請文をはじめとする私的な文書に限られ、朝廷の発する正式な文書、また、鎌倉幕府の発給する正式な文書に記されている姓名については本名が記される。源範頼が問われたのは起請文に自分の名を記すときに源姓を記載したからである。

 源範頼にしてみれば、兄から突然突きつけられた難癖とするしか無い。

 起請文に源姓を記したことは問題ではないと主張することはできない。難癖が間違いであると証明したところで意味はない。兄は自分を鎌倉幕府から追放しようとしているのだ。元暦元(一一八四)年の秋に後白河法皇から平家討伐の指令を受けたときから一〇年間に亘って源姓を書状に使い続けてきたのに、起請文という、重要ではあっても必ずしも公的文書とは言えない書状について、今ここになって否定されてはどうにもならない。

 さらにここに八月一〇日の事件が加わる。寅刻というから現在の時制に午前四時頃、鎌倉中を騒がせる大事件が発生したのだ。源範頼の家臣の一人である當麻太郎が源頼朝の寝室の床下に潜んでいたのが見つかったのである。吾妻鏡の記載によると、寝室に入った源頼朝が何やら怪しさを感じ、結城朝光、宇佐美助茂、梶原景季らを呼び寄せて周囲を捜索すると、床下から當麻太郎が見つかったという。この知らせはただちに鎌倉市中に広まり、数多くの武士が武装をして御所へと詰めかけていった。

 夜が明けてからの尋問で、當麻太郎は源範頼が苦悩しているので、せめてどのような処遇を受けるのかを源範頼へ伝えるために様子を見に来たというのである。

 表向きはこのような主張である。


 だが、いったい誰がこんなものを信じるのか?

 當麻太郎は源範頼の家臣として有名であるだけでなく、その武芸においても有名な人物であった。その人物が源頼朝の寝室の床下に侵入したのである。

 普通に考えればこれは暗殺未遂事件だ。

 ただし、証拠は無い。

 源範頼に問い合わせてみても、自分の知らぬところで當麻太郎が源頼朝の寝室の床下に勝手に忍び込んだという返答が返ってくるだけである。

 當麻太郎は尋問に対し同じことしか答えず、源頼朝の暗殺計画があったのかなど全く口にせず、あとはひたすら黙秘を続けている。

 現在の日本国の法律で當麻太郎を処罰するとしたら家宅不法侵入だけであろう。だけという書き方だと家宅不法侵入が大したことない犯罪のように思えてしまうが、刑法に基づく処罰でも三年以下の懲役が上限である家宅不法侵入と、最高刑が死刑である殺人とを同列に並べることはできない。

 一方、創設直後の鎌倉幕府の場合は明確な法が存在しない。一応は律令のうちの律が日本全国において犯罪に対する処罰を規定し適用されることになってはいるものの、明確に定まっているわけではない。つまり、その時々によって犯罪に対する処罰が決まるわけである。

 建久四(一一九三)年八月一七日、源範頼を伊豆国へ追放し、當麻太郎を薩摩国へ流罪にするという判決が下った。吾妻鏡によると當麻太郎については本来であれば死罪となるべきところを、罪一等を減じて流罪にすることになったとある。

 翌八月一八日、源範頼の家臣である家来の橘太左衛門尉、江瀧口、梓刑部丞といった面々が武器の手入れをして、現在の静岡県伊豆市に立て籠もっているという知らせが届いたため、鎌倉幕府は結城朝光、梶原景時、仁田忠常らを派遣した。源範頼の家臣達の名は吾妻鏡に記しているとおりであり本名は不明である。また、吾妻鏡のこのあたりの記載はあっさりしていて、源範頼の家臣達はあっけなく負けたとある。おそらく討ち死にとなったであろう。


 そして、建久四(一一九三)年八月二〇日、ここで明確に曾我兄弟の仇討ちと源範頼とをつなぐ記述が吾妻鏡に登場する。吾妻鏡のこのあたりの記載は源範頼が曾我兄弟の仇討ちの黒幕であるとでも言いたげな素振りだ。もっとも、曾我兄弟の仇討ちを利用して鎌倉幕府のほうが源範頼を粛正したとも言えるが。

 何が起こったのか?

 この日、源範頼の家臣の一人である原小次郎が処刑されたのだ。吾妻鏡にはハッキリと源範頼の連座として処刑されたと書かれている一方、曾我兄弟とは異父兄弟の関係にある人物であるとは記していても、曾我兄弟の仇討ちの延長上での処罰ではないということになっている。

 原小次郎とは史料によっては京小次郎と名が記されている人物であり、本名は不明。また、確実な証拠は無いが、曾我兄弟とかなり年齢差のある兄弟で、建久四(一一九三)年時点で四〇台に突入していたとの説もある。京小次郎という通称は、父が次男である人物で、かつ、本人もしくは父が京都に勤務していたことを意味する通称である。源範頼のキャリアを考えると、京都在駐時に京小次郎が源範頼の家臣に加わったとしてもおかしくない。

 その人物が源範頼の連座として処刑された。

 話を遡ると、源範頼の罪とされているのは起請文に源姓を使ったことのみであり、家臣の一人が源頼朝の寝室の床下に忍び込んだことも問題と言えば問題だが、忍び込んだ當麻太郎本人はともかく、源範頼への責任問題としても流罪は重いか、あるいはやむをえぬ判決である。それがここに来て、源範頼の家臣の一人であるという理由での連座で死を命じられたのだ。さらにここに曾我兄弟、すなわち、あくまでも自分の父の仇討ちを果たした兄弟の異父兄弟であるという情報を書き添えての死の命令である。

 これは異常とするしかない。

 また、建久四(一一九三)年八月二四日には大庭景義と岡崎義実の両名が老齢を理由に出家したという記録もある。吾妻鏡には特にこれといった理由もないが老齢となったため役職を退くことを願い出て出家したとあり、年齢的に出家はおかしなことではないが、大庭景義はこの二年後に謹慎を解いて貰いたいという願い出を源頼朝に出しているので、理由無しの出家というわけではないことは容易に推測される。

 源範頼についての動静は建久四(一一九三)年八月一七日の伊豆国への追放以降、全く記録に残っていない。室町時代に記された歴史書によると伊豆国の修善寺で殺害されたという記録はあるが伝承の域を出ない。また、武蔵国や越前国、伊予国へと逃れ余生を過ごしたとする伝承もある。


 源頼朝が征夷大将軍となって鎌倉幕府が成立してから一年、源頼朝が鎌倉に入ってから一三年が経過し、都市としての鎌倉はかなり整備されていた。

 源頼朝による都市鎌倉の構築については寿永元(一一八二)年より本格的に始まり、建久二(一一九一)年三月の大火を経て、都市鎌倉は再建を進めてきていた。

 ところが、二一世紀の現在から都市鎌倉の建設の歴史を振り返ると、建物にしても、生活インフラにしても、もう少し後の時代の工事が始まったという記録が登場してくる。つまり、建久四(一一九三)年時点では、鎌倉に存在している都市機能がまだ存在していなかったと推測されるのである。

 鎌倉という都市は源頼朝によって始まった都市ではない。規模は小さいが都市鎌倉は源頼朝どころか五代前の源頼義の時代に清和源氏が獲得して以来、この時点で一六〇年以上の歴史を持っているし、もっと遡れば奈良時代には既に相模国鎌倉郡の郡衙所在地が鎌倉に置かれていたことが確認されている。通常であれば郡衙のある土地は郡内最大の、令制国内有数の都市である。都市と言っても現在では当たり前の数万人レベルの巨大都市なわけではなく、多くても四桁に届くかどうかという規模の人口であるが、それでもこの時代の基準では有数の都市である。

 つまり、相模国の中では有数の都市であることには違いは無いのだが、この時点の都市鎌倉が鎌倉幕府を支えるのに必要な都市機能を備えているわけではなかった。

 そのあたりのヒントとなる記述が建久四(一一九三)年一〇月二九日の記述にある。幕府の倉に収める予定のコメ一〇〇石と大豆一〇〇石を、遠くから鎌倉に来ている御家人達に分け与えたとある。

 これだけであれば食糧の現物支給、もう少し考えれば市場(しじょう)において貨幣的役割を持つ物資を配給したこととなる。

 しかし、もう少し考えなければならないところがある。

 それは、都市鎌倉に常設の市がこの時点ではまだ無かったのではないかという点である。

 現在のショッピングモールやコンビニエンスストアのように気軽にモノを買える環境は、この時代、京都にしかない。かといって、ショッピングそのものができないわけではない。常設ではないが定期的に市が開かれており、五日に一度、もしくは一〇日に一度の割合で市が開催されており、数日に一度の楽しみではあるが、市に出向いてショッピングでモノを買えていた。


 さて、問題は鎌倉である。

 人口のさほど多くない土地では一〇日に一度、ある程度の人口規模だと五日に一度の市の開催となるが、かつての鎌倉であれば数日に一度の市の開催であっても需要に応えられていたものの、人口急増となっている鎌倉では常に市場が開催されていなければ需要に応えられなっている。

 ゆえに、さすがにこの頃には、正式な常設の市ではないにしても、何かしらの形で常設の市が存在していたと推測できる。たとえば、名越の長勝寺の境内からは常設の市場であったろう遺構が発掘されている。ただし、長勝寺の建立は建長五(一二五二)年なので、長勝寺の一部、あるいはその周辺に常設の市が存在していたのではなく、常設の市がある都市鎌倉の人口集中地域に寺院を建立したのであろうと推測できる。

 ここまで記したところでコメと大豆を分け与えたことの話につながる。

 コメにしろ、大豆を含むコメ以外の穀物にしろ、この時代の市場では貨幣として通用する。つまり、御家人に対して現金で臨時ボーナスを支給したのと同じなのである。鎌倉で現金相当の物品を支給するということは、鎌倉に常設、あるいは非常設にしてもある程度の規模で開催されている市で買い物ができるようになったということでもある。もっとも、コメや大豆を自分の領地に持ち帰る、あるいは鎌倉市内にある自分の邸宅で食べることもあったろうから一概にはいえないが、それでも御家人達へのコメや穀物の支給は、都市鎌倉における市場(いちば)の興隆を生み出す効果もあったと捉えることもできるのである。

 また、コメや大豆の支給についてはこの時代の朝廷の経済政策とも合致していた。すなわち、貨幣の利用停止である。平清盛やその父の平忠盛によって日本国内に大量の宋銭が流入するようになり、貨幣経済が広まりつつあった。その宋銭流通の禁止を訴えたのが九条兼実であり、九条兼実の政策に源頼朝は賛同していたのである。

 鎌倉幕府の歴史を振り返ると、後期こそ貨幣経済が前提となった経済政策運営をしていたことが明らかになっているが、発足して間もなくの頃は明確に貨幣経済を否定していた。市場経済における貨幣そのものを否定していたのではない、というより、人類市場のどのような経済であっても、それこそ原始共産主義であろうと、何かしらの貨幣は存在していた。それは日本国も例外ではない。古代日本の貨幣が皇朝十二銭を以て終了したあとも、何かしらの貨幣は存在していた。それが、コメであり、その他の穀物であり、麻や絹といった布地であった。ただ、穀物や布地は銭貨に比べると、いや、比べることのできないレベルの不便さがあった。キャッシュレス経済が浸透している現在は現金決済ですら不便さを痛感するが、現金決済と、穀物や布地を用いた物々交換とでは、それとは逆に現金決済の便利さを否応なく痛感する。

 しかも日本国内に流通するようになっていた宋銭は、この試合の国際通貨だ。日本国内だけでなく、発行元の南宋は無論、中国大陸の金帝国や高麗でも貨幣として通用するという信頼を伴った貨幣だ。コメを食べることはできても貨幣を食べることはできないというのは兵糧攻めを喰らう状況下なら通用する話であるが、飢饉の恐れは感じないでいられる状況下であれば、穀物や布地よりも、国際貨幣である宋銭のほうが強い価値を持つ。日本国内だけでなく国境の外でも使えるし、コメと違って自宅に溜め込んでいたところで腐るわけでもないし、そして何より、コメより買える範囲が広い。市場で皿を売る人がいて、皿を買いたいという人がいて、一人はコメとの交換を、もう一人は宋銭との交換を持ちかけてきたとき、皇朝十二銭の頃であれば、皿を売る商人は銭貨ではなくコメとの交換を選んだが、宋銭が流通するようになってからは、皿を売る商人が選ぶのはコメではなく宋銭のほうになっていた。


 経済には一つの鉄則がある。先行者利益である。新たな経済情勢を迎えたときに成功者となるのは一足先に新たな経済に対応した人であり、従来の経済情勢に留まっていた人は新たな経済情勢の時代での敗北者になる。土地の保有権を持ち、土地からの年貢を受け取ることのできる御家人は、従来の経済情勢であれば金持ちの部類に含まれていた。しかし、宋銭が導入されたことによってそれまでの優位性が失われた。いち早く宋銭を手に入れることに成功した者が富裕者となり、従来通り土地を経済基盤としている人の相対的な豊かさは失われるようになっていった。そして、土地を経済基盤とする人の多くは国家権力たる朝廷や、誕生間もない鎌倉幕府と深く結びついている。

 さらに、先行者利益が生み出す負の側面はどの時代においても強く注目を集めることとなる。先行者利益を手にできた人と手にできなかった人との間で広まる格差だ。それまで圧倒的な優越性を手にしていた人の心の奥底には、新興富裕層が自分と肩を並べる存在となり、さらには自分を追い抜く豊かさを手に入れることに対する憤懣があるが、格差が拡大しているという一点は無視できない事実であり、拡大する格差に対処するというのは絶好の攻撃材料となる。

 この攻撃は、新たな経済情勢に乗ることで豊かさを手に入れ、それによって新たな富裕層へと加わった者が近くにいることから火がついた。それこそついこの間まで自分と同じ暮らしをしていたのに、新たな経済情勢に乗った、この時代で言うといち早く宋銭を手に入れることに成功した者が周囲よりも一歩先に豊かな者となり、自分の絶対的な豊かさではなく相対的な豊かさが下がってしまったと感じて格差の拡大を訴えるようになる。ここで以前から豊かであった者と、新たな経済情勢に乗れなかった者とで同じ感情が誕生する。新たに豊かな者へとなった者への不満である。

 九条兼実は宋銭流通を禁止させた。それはそれで一つの経済政策であると捉えることはできるが、時代の移り変わりは食い止めようが無い。源頼朝は九条兼実の発した宋銭流通禁止の流れに乗り、従来通りに穀物を貨幣とする経済を維持しようとした。御家人の豊かさを維持し、経済格差に憤る庶民の民意に従うという点では正しい選択と言えるが、それで経済情勢の移り変わりに諍(あらが)うことはできなかったとするしかない。それは他ならぬ鎌倉幕府自身が、このあとの一五〇年間に亘る歴史において証明することとなる。すなわち、土地売買の証文に記されている通貨は、鎌倉時代初期は穀物であることが通例で銭貨を用いた証文は異例であったのに対し、鎌倉時代末期では銭貨を記す証文が通例となっていったのである。


 建久四(一一九三)年一一月二八日、何の前触れもなく一人の御家人が殺害された。甲斐源氏の安田義定の息子である安田義資が、女性問題を理由に斬首となったのである。父の安田義定については連座の適用とはならなかったが息子が犯罪者となったがために立場を失うこととなった。

 前日の一一月二七日に永福寺薬師堂の着工式に源頼朝らが参加した。例によって吾妻鏡は源頼朝とともに参詣した者の名を列挙している。

 源頼朝の先導をするのは畠山重忠、葛西清重、源頼兼、村上頼時、氏家公頼、八田知重、三浦義澄、和田義盛、下河辺行平、後藤基清。源頼朝の後ろには、北条時連、小山朝光、梶原景季、梶原定景、相馬師常、佐々木定綱、工藤行光、仁田忠常。源頼朝は弟である源範頼が源姓を使うのを罰したのに源頼政の次男である源頼兼は許されるのかと疑問を感じる人もいるだろうが、このときは起請文ではない公的行事であり、それ以前に源頼兼自身が源姓を記したのでなく鎌倉幕府が記したのである。

 源姓の使用有無について言うと、斬首となった安田義資も源姓である。安田義資だけでなく甲斐源氏全員が源姓であり、安田の苗字を名乗るのは私的なときに限られる。甲斐国山梨郡安田郷を根拠地とすることが安田の苗字を名乗る理由であり、苗字の由来として珍しいものではない。

 源平合戦が始まった頃、甲斐源氏は源頼朝と同等の勢力を持つ軍事集団であった。何しろ甲斐源氏のトップである武田信義が、源平合戦初年度に出された源氏追討の宣旨において源頼朝に並んで併記されたほどである。しかし、年月を経るごとに甲斐源氏の勢力は鎌倉に飲み込まれていき、今や甲斐源氏は鎌倉幕府を構成する一部へとなっていた。甲斐源氏のトップの地位こそ武田家が継いでいるが、甲斐源氏は各地に勢力を分裂させていき、甲斐国とその周辺に甲斐源氏の勢力が点在し、その中の一つとして安田家が存在するという様相となっていた。

 そして注目していただきたいのが、一一月二七日の御家人達の中に安田義資の名が無いことである。安田義資が鎌倉幕府において重要視されていなかったわけではない。それどころか、この時点の安田義資は、それが形式的なものとなっていたとはいえ越後守を拝命し、父の安田義定も遠江守であったほどの、すなわち朝廷からも一目置かれている人物であったということである。

 吾妻鏡の記すところに寄ると、永福寺薬師堂供養の最中に、お経を聞いている女官のもとに安田義資が恋文を投げ込んだのが露顕したとある。恋文が投げ込まれたのを梶原景季の妻が見て、彼女が夫の梶原景季に告げ、梶原景季が父の梶原景時に告げた結果、安田義資は打ち首となったとある。

 ラブレターを投げ込んだだけで打ち首とはさすがに理不尽にも程がある。安田義資が恋文を送った相手が源頼朝の愛人の一人であったから打ち首となったとすれば説明が付くし、この時代の鎌倉武士の道徳観念はお世辞にも誉められたものでないが、それ以前にそもそもラブレターを投げ込んだのかという懸念もある。まず安田義資を亡きものとし、その父にもダメージを与えることで、源頼朝に代わって清和源氏のトップの地位を手にする可能性のある者を減らそうとしたとも考えられるのだ。

 曾我兄弟の仇討ち以降の粛清の嵐、いや、それ以前の上総介広常殺害の話にも遡ることのできる鎌倉方内部での粛清の嵐が、年月を経るごとに大きくなっていった、そして、その流れに安田義資も巻き込まれたとするのが正解であろう。

 さらに同年一二月にはもう一人粛正されている。建久四(一一九三)年一二月一三日、多気義幹の弟である下妻弘幹が、北条時政の命を狙ったという理由で源頼朝から処罰が下り、八田知家の手で誅殺されたのである。

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

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