平家物語の時代 11.木曾義仲破滅

 寿永二(一一八三)年七月二五日、平家一門、京都を脱出。平家の都落ちである。

 各地に派遣していた平家はただちに呼び戻され、安徳天皇、三種の神器、後白河法皇とともに西へ脱出することが発令された。

 ところが後白河法皇が行方不明になった。前日に安徳天皇は法住寺に行幸しており、少なくとも七月二四日の夜までは安徳天皇が後白河法皇とともに法住寺にいたことが判明している。ところが、未明に法住寺に駆けつけてみると後白河法皇がいない。安徳天皇はいるのだからどこかにいるだろうと思って探してみても、やはり見つからない。しかし、刻一刻と猶予は消えていく。やむなしとして、平家は安徳天皇だけを保護し、三種の神器とともに法住寺を脱出した。なお、後白河法皇はこのとき、いったん鞍馬寺に非難した後、比叡山東塔円融坊に移ったという。

 後白河法皇の所在が不明になったが、それでも平宗盛は西への脱出を選んだ。なお、この時点での平家の向かう先は福原である。

 早朝から正午にかけて六波羅や西八条など平家一門の邸宅に火を放って使い物にならなくさせた上で、平宗盛の指揮のもと、安徳天皇と建礼門院平徳子を奉じて、平家一門を引き連れて福原へと逃れていった。また、安徳天皇の弟でまだ数えで五歳、満年齢で三歳である高倉天皇の第二皇子の守貞親王が皇太子に擬され、兄とともに西へ連れて行かれることとなった。

 このときの様子を九条兼実は日記にこのように記している。昨日までは官軍と称して反乱軍を討伐すると言っていたのに、今は辺境へと逃れ去っている。盛衰の理(ことはり)悲しきかな、と。

 九条兼実は盛者必衰への哀しさを日記に記しただけであったが、京都市民は時代の虚ろ意の悲しみになど浸っていられない。源氏と平家が京中で戦闘になる、平家が都落ちするときに福原遷都時のように貴族をことごとく連行していく、京都中を焼き払うといった噂が広まったのだ。その中には真実を掴んでいる噂もあり、後白河法皇が行方不明になったという噂は真実を伝える噂であった。しかも、六波羅も、西八条も燃えている。昨日まで平家の権勢をこれでもかと見せつけていたシンボルがたった一日で炎に包まれて京都から現在進行形でまさに消えている。これで冷静でいられる者などいるはずがない。

 噂では貴族がことごとく平家とともに連行されるとなっていたが、平家が連行しようとした貴族は一人だけである。摂政近衛基通だ。ところが、近衛基通はもう平家に従う意思も意欲も失い、平家都落ちの直前になって脱出して京都に留まることに成功したのである。近衛基通の京都残留は、平家とともに京都を脱出しようかどうか迷っていた貴族たちの間に一つの結論を生んだ。京都に留まるという結論である。平家とともに福原へ向かうことを選んだ貴族は平時忠などのように平家の一員と見なされている貴族だけであったという。平親宗のように平家の貴族であっても京都に留まることを選んだ者もおり、かつては平清盛のもとで強固な一枚岩であったはずの平家が今や誰の目にも一枚岩ではない集団になったことが誰の目にも読み取れた。

 自分たちに従う貴族の少なさを知った平家であるが、この時点での平家はあくまでも一時的な京都からの脱出であり、また、一時的に福原に滞在するだけであると考えており、平家自身の間にも家族を京都に残していった者は多く、貴族たちの選択に苛立ちを感じるもののやむなしともしていた。戦乱の起こる可能性を考えたとき、自分とともに西へ逃れるよりも京都に留まっている方が安全である可能性が高いと感じたからである。

 ここまでは平家も妥協できたところであったろう。

 しかし、まさか一門の中から裏切り者が出るとは夢に思わなかった。

 平頼盛が行動を共にしなかったのである。

 これは明らかに平宗盛の失態であった。どういうわけか、山科に出陣していた平頼盛に対して平家が京都を脱出することの報告が届いていなかったのだ。報告が届く前に平家が京都を脱出したらしいという情報が届き、平頼盛の次男の平為盛を平宗盛のもとに差し向けてみたところ要領を得る回答は返ってこなかった。もしかしたら、平宗盛は、山科で源氏の軍勢を食い止めておいてくれという願望込みで、平頼盛を捨て石として利用したのかも知れない。山科で命を落としたとしたらそれはそれ、命を落とさなかったとしたら後で追いかけてくるだろう程度の感覚だ。平家が京都を脱出したと知った平頼盛は慌てて京都に戻るも、六波羅での自邸としていた池殿はとっくに炎に包まれて焼け落ちていた。それでも一度は平家の一員として福原へ脱出しようとしたが、ここで思い直した。それまでの平頼盛が受けてきた境遇を。既に一度、治承三年の政変において平頼盛は捨てられていた。その後で復帰したとは言えその後の平頼盛に対する評価は正当なものとは言えなかった。それでも平家の危機と奮闘したものの、気が付けば山科に捨てられるところだった。平家がいかに慌ただしく京都を脱出しなければならなかったとは言え、忘れていたにしても、捨て石にするつもりであったにしても、山科に見捨てられた理由は言い訳のできる話ではない。ここで仮に福原に脱出したところで平頼盛はもう一度捨て石にされるのがオチだ。

 平頼盛にはもはや平家への義理を果たす必要などなくなっていた。

 かつては一枚岩であった平家の結束が、今や分裂を隠せなくなってきているのだ。

 平頼盛は都に戻り、八条院暲子内親王のもとに向かうことにした。妻が八条院暲子内親王の乳母子であったからである。

 平頼盛の離脱は、京都から離れていたために福原へ向かうべきか否か逡巡していた者に結論をもたらすに充分な出来事であった。たとえば河内守であった平信兼は、福原に向かうことはせずに伊勢国に身を隠す道を選んだ。


 平宗盛が呼び戻さなかった平家があと二人いた。宇治で源行家率いる軍勢に行く手を阻まれていた平資盛と平貞能の二人である。この二人のもとにも平家の京都脱出の知らせは届いたが、実際に京都に戻ってみると平家は京都からいなくなっており、風の噂で平頼盛が妻の縁で八条院暲子内親王を頼ったらしいことを知って、自分たちにはそのような頼れるツテがないことから蓮華王院を頼ろうとしたが、蓮華王院からの回答は全くなかった。それどころか、蓮華王院の事実上の主である法住寺にいるはずの後白河法皇と全く連絡がつかなくなっているとして門前払いを喰らってしまった。結局、二人の率いる軍勢は焼け野原となった六波羅で一晩を過ごすこととなる。

 翌朝、平資盛と平貞能の二人は、ともに宇治に派遣されていた兵士たちとともに西へ向かうことを告げるが、何名かはこのまま京都に留まることを選んだ。その中の一人が伊藤忠清である。伊藤忠清はここで出家することを選び、平家とともに行動することはここで終了するとした。

 平資盛は平重盛の次男、すなわち平清盛の孫であるが、平貞能は平家に仕えてきた家人である。このあたりの違いが平資盛と平貞能との間の行動の違いとなった。平資盛はそのまま西に逃れたのに対し、平貞能は平重盛の墓を掘り起こし、平重盛の遺骨を取り出してから京都を退去したのである。これにはどんなに平家を憎く思う者であっても行動を誉めるしかなかった。

 平重盛は福原遷都の前に亡くなっているから、当然ながら首都福原を知らない。

 平貞能にしてみれば、首都でなくなったとは言え、平重盛の存命中の頃とは比べものにならない大都市へと発展した福原を平重盛の遺体に見せるつもりもあったのかも知れない。しかし、福原に実際に到着してみると、福原は大都市どころか廃墟となっていた。たしかにかつてよりは大都市である。それはその通りである。また、日本有数の港湾都市でもある。それもその通りである。それでも、一時は首都となったはずの都市としては明らかに寂れ、首都機能を担っていた建物は三年間に亘って放置されてきたことから廃墟となり、草が生い茂り、傾いている建物もあった。

 平家は当初、福原をもう一度本拠地として活用しようとしていた。福原であればかつて首都であった都市であるから内裏機能も持った建物もあり、兵馬を収容する設備も整っていると睨んでいたのだが、内裏機能どころか安徳天皇の寝所として必要なすだれすら無くなっている有様であった。兵士たちの多くはかつての首都福原を知っている。批判されることも多かったがそれでも未来への希望溢れる新都市であったのが福原だ。

 その福原が今や、天井に穴が開いて月の光が差し込み、壁が壊れて虫の声が容赦なく部屋の中まで聞こえてくる建物ばかりになっている。どうにか都市機能を保っているのは港近くの一部の建物だけだが、その建物とてかつての首都であった頃の面影など形も無く、国内有数の港湾都市であることまでは認めても、思い出の福原とは全く違う都市になってしまっていることに物悲しさを感じさせた。

 翌寿永二(一一八三)年七月二七日、福原に逃れた平家は、福原を捨てて太宰府へと向かうこととした。福原からの船旅である。福原には火が放たれ、平清盛が心血を注いで築き上げ、一度は首都にまでなった都市福原は、ここに終わりを迎えた。


 さて、平家が同行させようと企図するも、行方不明となったために不在もやむなしと考えた後白河法皇であるが、後白河法皇は黙って逃げただけではなかった。平家が福原に到着したまさに同日の寿永二(一一八三)年七月二六日に、自分は比叡山にいることを宣言した上で京都に残った貴族に対して比叡山延暦寺東塔の円融坊に集結するように指令を出したのである。この結果、円融坊はさながら院御所の様相を呈したという。

 後白河法皇が平家と行動を共にしなかったことは、京都に残った貴族たちの中において、また、京都市民にとって、後白河法皇が最後の心の拠り所になったことを意味する。

 とは言え、後白河法皇にできることは二つに限られている。一つはいかにして木曾方を迎え入れるか、もう一つは西に連れて行かれた安徳天皇の安全と三種の神器をいかに確保するかである。

 安徳天皇と三種の神器については、平家の一員である貴族でありながら京都に留まることを選んだ参議平親宗を多田行綱のもとに派遣することでひとまずはどうにかなった。多田行綱には朝廷からの命令として安徳天皇と三種の神器の安全のために平家を追討しないことが命じられたのである。

 問題はもう一点のほう。いかにして木曾方を迎え入れるかである。九条兼実はここで、事態はもはや決した以上、源氏の軍勢の乱暴を止めさせた上で早々に入京を許すとともに、後白河法皇も比叡山から下りて院の御所に戻るべきと奏上した。かなりの割合で京都は荒れるであろうし、京都の庶民の多くは乱暴狼藉の被害を受けるであろうと考えられ、後白河法皇が比叡山を降りて京都に戻る以外に源氏方の武士の暴虐を止める方法は無いというのが九条兼実の主張だ。右大臣九条兼実の主張は右大臣一人だけが強固に主張したわけではない。九条兼実は多くの貴族の意見を代弁したのだ。後白河法皇はもしかしたら情勢不穏な京都に戻るよりも安全な比叡山に留まりたいと思っていたかもしれないが、後白河法皇には京都に戻らないなどという選択肢など許されなかった。

 七月二七日、後白河法皇が蓮華王院に遷御した。この時代、三十三間堂こと蓮華王院は後白河法皇の住まいとする法住寺に従属する施設であった。後白河法皇の京都還御に木曾方も付き従うという形式にすれば木曾方は後白河法皇の支配下の軍勢ということになるのだ。

 勝者となった木曾方の軍勢は一刻も早く京都に入りたかった。後白河法皇の支配下に入ることになるというのが京都に入るための必要条件であるというのであれば受け入れることも吝(やぶさ)かではなかった。それに、木曾方にしてみれば、単に京都に侵攻したのではなく、自分たちが戦乱の勝利者であり平家の横暴から京都を解放する軍勢であることを示しつつ京都に入るのは誇示として意味のあることだった。

 このとき、後白河法皇の還御は近江源氏の錦織義高が先頭となり、平家物語の伝えるところによるとおよそ五万騎の軍勢が後白河法皇の興を護って京都に入城してきたという。その中には、木曽義仲自身を含め、樋口兼光と今井兼平の兄弟や、兄弟の妹で木曾義仲の愛妾でもあった巴御前など木曾義仲とともに戦ってきた武士たち、また、志田義広や安田義定といった木曾方に加わった武士たちも混ざっていたとするのが平家物語の記述である。宇治橋を超えて南から行軍してきた源行家率いる軍勢と、丹波路を進んできた矢田義清率いる軍勢も七月二七日中に京都入りを果たしたとしているが、貴族の日記によれば、たしかに七月二七日に源氏の軍勢が入ってきたものの、木曾義仲と源行家の両名が京都に入ってきたのは翌二八日のこととなっている。

 なお、二〇年に亘って京都で禁止されてきた源氏の白旗が七月二七日に蘇ったとするのが平家物語の記述である。たしかにこの頃にはもう平家が自分たちを官軍とすべく朝廷から下賜される赤旗を自身のシンボルとするようになっていたものの、白旗が二〇年に亘って禁止されてきたわけではない。だいいち、それでは源頼政という存在を無視することとなる。


 木曾義仲と源行家が京都入りを果たしたのは寿永二(一一八三)年七月二八日である。

 その前日である七月二七日、京都は地獄を見た。

 木曾方の軍勢が一斉に押し寄せてきた。

 彼らは解放軍では無い。強盗集団だったのだ。

 平家は自分たちの関わり合いのある建物を燃やしてから京都を脱出したが、木曾方は、目についた建物を平家のゆかりのある家と称して火をつけ、目についた市民を盗賊と扱って逮捕し、抵抗する者は容赦なく殺害した。

 火をつけられることが免れた家もあったが、それは、家の中のありとあらゆるモノを持ち出される前の家であるか、あるいは、家の中で今まさに犯行が繰り広げられている途中である家であった。男たちは、妻が夫の前で、母が子の前で、妹が兄の前で、木曾方の兵士たちに犯されているのを黙っているしかなかった。いや、犯されたのは女性だけではない。男性もまた木曾方の性欲の捌け口にされた。

 抵抗する者も多かったがその全員が殺害された。殺されたくなければ黙って耐えているしかなかった。男も女も強引に脱がされ、犯されただけなく、服も、下着も略奪された。焼かれなかった家の中は、食糧はもちろん、着るものも、鍋や釜と言った日用品もなく、裸にされたままの人と、抵抗したために殺された遺体があるだけだった。

 こうした被害は庶民だけの話ではない。いや、庶民の方がまだマシだったと言えるかも知れない。強盗集団は庶民の家ならば見逃してくれる可能性があったが、貴族の家は見逃される可能性がゼロだったのだ。強盗集団の襲撃を受け、建物に攻め込まれ、家族を犯され、食糧も日用品も奪われ、財産という財産を奪われ、書物はその価値を理解しない武士の手によって焼かれた。

 貴族の血を引く女性たちは、皇族に嫁ぐか、他の上流階級の貴族に嫁ぐかという未来が待っているはずだったのに、木曾方の軍勢という強盗集団に襲い掛かられ、運が良ければ命は助けてもらえたが、それでも貞操を守ることは不可能であった。

 さらに強盗の魔の手は民家だけでなく田畑にまで及んだ。平安京は西半分の右京が捨てられた都市であり、その右京には田畑が点在するようになっていた。右京の田畑は平安京の区画を越えて広がるようになっており、京都市民の食糧事情を満たすには不充分であるにせよ、最悪からの脱却は期待できるだけの収穫は見込めていた。特に寿永二(一一八三)年という年は気候だけで言えばここ数年でもっともマシな気候であり、今は飢えに苦しんでいても秋になれば収穫が見込まれるという期待があった。その田畑の作物を、強盗集団はまだ青いうちに刈り取って馬の飼料とした。

 木曾方の武士たちは自分たちが何をやっているのか理解していた。すなわち、勝者の権利の行使であり、自分たちがされたことの復讐である。木曾方に加わって京都まで来たのはこのためだった。雲の上の存在であるはずの京都の貴族のもとに攻め込んで財産を奪い取り、人生で絶対に出会うはずの無い高貴な女性、あるいは男性も含め、自分のものとして好き勝手に扱うことを夢見ていたからこそ、苦労に耐えてここまで来たのだ。

 自分たちのしていることが善か悪かと聞かれれば確実に悪だが、それでも強盗集団と化した彼らには言い分があった。

 北陸でやられたことの復讐だ。いや、今までやられてきたことの復讐だ。

 略奪されたから取り戻す。

 見下されてきたから見下し返す。

 それまで苦しい生活をさせられ続けてきたことの恨みを晴らす。

 自分を被害者と考える者のなす行動は全て復讐であり、復讐を果たすためであるのだから自身の行動は全て許されると考えている者に、それが犯罪であるから止めるように命じても聞く耳など持たない。

 京都の人はついこの間まで、誰でもいいから平家を討伐してくれと願っていた。

 その思いはわずか一日で消えてしまった。

 平家のほうがはるかにマシだった。


 京都で何が起こっているかを知らない貴族などいない。当然だ。まさにその貴族自身が被害者なのである。京都のどこを探しても、強盗集団と化してしまった木曾方の損害を被っていない貴族などいない。しいてあげれば源頼朝と接点があったため身の危険を感じた一条能保こと藤原能保が家族共々脱出していたぐらいである。一条能保は源頼朝の同母姉、あるいは資料によっては同母妹とされている女性と結婚していたことから源頼朝とは義兄弟であった。ちなみに、鎌倉幕府第四代将軍藤原頼経は一条能保の曾孫である。

 寿永二(一一八三)年七月二八日、後白河法皇は貴族を招集した。議題はもちろん、京都で起こっている強盗集団の乱暴狼藉をいかにして止めるかである。とは言え、京都にはもはや、警察力も無ければ軍事力も無い。存在する武力は木曾方だけである。

 木曾義仲と源行家が入城してきたのはこのときである。木曾義仲も源行家もこのときは無位無冠であり、本来であれば後白河法皇の前に姿を見せることは許されないはずであるが、もはやそのようなことは言っていられない状況だ。

 七月二八日の正午近く、蓮華王院に木曾義仲と源行家が姿を見せた。さすがに後白河法皇の隣に座ったわけではないが、蓮華王院の南門から人って御所の東庭へと進み、階(きざはし)のすぐ近くという、本来であれば左大臣や右大臣でなければ許されないポジションでありながら、右に木曾義仲、左に源行家が並んで跪(ひざまず)いているのである。この光景を左大臣藤原経宗も、右大臣九条兼実も、そして他の貴族も、黙って見ていなければならなかったのである。

 このときの様子を参議吉田経房は日記に以下のように書き記している。

 木曽義仲、推定三〇歳。亡き源義賢の子。錦の直垂(ひたたれ)と黒革威(くろかわおどし)の鎧を着け、石打の箭(や)を負い、折鳥帽子をかぶっている。

 源行家、推定四〇歳。亡き源為義の子。紺の直垂を着て、宇須部の箭を負い、黒糸威(くろいとおどし)の鎧を着け、立鳥帽子をかぶっている。

 平家物語はこの二人が京都に入ってきたときの様子を絢爛豪華な格好をした武士が入城したと描いているが、実際に立ち会った貴族によると、良く言えば地味な、本音を言えばみすぼらしい格好をしていることがわかる。そのみすぼらしさから「夢か、夢にあらざるか」と吉田経房と日記に記したほどだ。

 なお、吉田経房の日記だけを読むと木曾義仲と源行家とが協力し合っているように見えるが、九条兼実の日記にはそのような記載など無い。九条兼実が記しているのは院御所に入ったときに二人が先を争っており、二人の間の確執をもはや隠そうともしなかったことである。それがかえって、このような格好の武士たちが、しかも、確執も隠せないでいる武士たちが自分たちの上に立つことになったのかという複雑な思いを貴族たちに抱かせることにもつながった。

 ついこの間まで木曾義仲という人間のことなど何も知られていなかった。多くの人は源頼朝が北陸方面で展開している部下の一人としか考えておらず、源頼朝とは別の独立した存在であると全く考えていなかったのである。九条兼実にいたっては七月二日の日記に源頼朝の代官がやってきたが源頼朝本人は上洛しないでいるとまで書き記したほどだ。

 その人物が今や京都の支配者となった。

 木曾義仲のことを知らなかったのは九条兼実だけではない。朝廷をはじめとする京都内外のほとんどの人は、事前知識無しで木曾義仲と接することになったわけである。そのため、平家に代わって京都を守ってくれる存在になったならばまだ許容できたし、今のこの略奪が繰り広げられている惨事の渦中にあっても、軍勢のトップとして部下たちの暴虐を止めるのであればまだ木曾義仲に信頼を置けたのである。

 しかし、木曾義仲が放った言葉は貴族たちを、いや、京都に住む全ての人を絶望に追いやるに充分であった。戦に略奪は付き物であり、名も無き雑兵が命を賭けて戦うのはこの見返りがあるからだと宣言し、今もなお京都市内外で繰り広げられている乱暴狼藉をそのまま放置することを明言したのである。

 源平盛衰記によると、このときの木曾義仲の言葉は以下のようなものであったという。

 後白河法皇を守るための兵糧として豊かな者から余分のコメを少しばかり取り上げたからといって何も悪いことはない。武士というものは馬を大切にするから敵を倒すことができるのであり、馬の飼料用にまだ青い田畑の作物を刈り取るのも何の問題も無い。そもそも院も貴族も兵糧米を全く用意していないというのはどういうことか。自分たちは五万を超える大軍であり、兵たちが少々物を奪ったとて仕方がないことだ。身分に高い低いはあっても腹が減っては戦もできぬというのは武士だろうと貴族だろうと同じだ、と。

 軍勢のトップである木曾義仲が部下の武士たち、いや、強盗たちを取り締まろうとしないどころか、その行動の全ては許されるべきとしたのだ。

 これでどうして、木曾義仲に親しみを感じる者が現れようか。


 どうにかして木曾義仲を京都から追い出す必要が生じた朝廷は、寿永二(一一八三)年七月二八日に二つの方法をスタートさせた。

 一つは、平家討伐の院宣という名目での木曾義仲の追い出しである。字面だけ見れば木曾義仲に対してただちに全軍を率いて西に向かうよう命令したということであり、この命令が遂行されれば、少なくとも京都から木曾方は消えることとなる。ただしこれは危険な賭けでもあった。平家の都落ちは、平家だけが都落ちをしたのではなく、安徳天皇も連れ出しての都落ちであり、三種の神器も持ち出しての都落ちである。安徳天皇と三種の神器にもしものことがあろうものなら、木曾義仲だけでなく、院宣を出した後白河法皇の責任問題も発生する。それに、今の京都に天皇はおらず、国法を発令することができるのは京都ではなく西に向かっている途中の平家のほうなのだ。せめてもの救いは摂政近衛基通が京都に残っていて安徳天皇の名で国法を発令することが事実上できなくなっていることだが、それでも平宗盛が自分のことを摂政とさせることに成功したら平宗盛の意思で国法を自由自在に発することが可能となってしまう。

 それでも院宣は強力だ。後白河法皇の院宣の出た瞬間に、平家は官軍を僭称する賊軍となり源氏が官軍になったのである。平家としては安徳天皇の名で何かしらの法を出さない限り賊軍という立場は変わらないこととなった。なお、本来であれば平家の軍勢は官軍の証である赤旗を捨てる必要があったのだが、平家は赤旗を使い続けている。平家一門の面々には、いかに自分たちを討伐せよとの院宣が出ていようと、天皇を擁している自分たちはなおも官軍であるという意識が残っていた。一方の源氏は官軍の証明たる赤旗を自らのシンボルとはせず、今まで通り白旗を自らのシンボルとして使用し続けることを選んでいる。官軍となったことは認めるが、自分たちの白旗は招代(おきしろ)であり、八幡神とともに戦うのが源氏であるというアイデンティティは既に構築されていた。

 白旗をシンボルとして使用し続けることを選んだのは木曾義仲だけでなく源頼朝も同じである。そしてこの源頼朝こそ朝廷の進める二番目の手であった。

 木曾義仲のことをついこの間まで誰も知らなかった。ほとんどの人は少し前まで源頼朝の送り出した武将のうちの一人と考えていた。ところが実際に京都にやってきたのは源頼朝と一線を画している武人であり、部下の制御に失敗して京都に地獄絵図を展開させている人間だ。一方、源頼朝がどのような人間であるかは、おぼろげながらも京都に情報として伝わってきている。少なくとも木曾義仲よりマシであろうという風聞は広まっており、後白河法皇は自身の私的な使者として、七月二八日に中原康定を関東に派遣することに決めた。目的は一つ、源頼朝に上洛してもらって木曾義仲と源行家をどうにかしてもらうことである。


 平家物語は木曾義仲のことを無知な無礼者として描いている。京都の貴族であれば誰もが身につけているはずの有職故実を身につけていなかったのはそのとおりである。しかし、実際の木曾義仲個人について言えば、平家物語が描いたような無知な無礼者ではなく、平家討伐の院宣が木曾義仲に出されたことの意味を理解できない人でもなかった。

 それでも無知な無礼者のように見えてしまったのは木曾義仲の置かれている状況に一つの大問題があったからである。

 木曾義仲が率いている軍勢は木曾義仲自身の魅力によって集め寄せた軍勢ではない。反平家で起ち上がったときにたまたま木曾義仲がいたから木曾方に加わったのであり、木曾方の一員であれば夢と欲望を果たせると考えたからこそ行動を共にしてきたのである。夢にまで見た京都で、食いたいだけ食い、飲みたいだけ飲み、好きなだけ暴れ回っても全て許され、雲の上の存在であった女性であろうと好き勝手にできるという、普通に考えれば極悪犯罪者以外の何物でもない生活を捨てて戦場に戻れと命じられたとして、黙って木曾義仲に従ってついてくる可能性は少ない。

 木曾義仲は駆け引きに出た。

 木曾義仲に対して院宣の出た翌日の寿永二(一一八三)年七月二九日、祇園中路五条坊門に火災が発生し、六波羅蜜寺や常光院などが焼け落ちたのだ。特に六波羅蜜寺の諸堂が焼け落ち本堂だけが焼失を免れたという大損害だ。ただでさえ京都の各地で略奪、暴行、放火が相次いでいる、しかもその犯人はほぼ例外なく木曾方によるものだ。七月二七日から始まった蛮行はまだ続いている。しかも、日に日に悪化する形で続いているというアピールが法住寺の目と鼻の先で展開されたのである。木曾義仲に対する京都内外の市民からの非難の声は多々あるが、非難の声を受け入れておとなしくさせることはできないし、ましてや院宣に従って京都から出て行くつもりもない。

 こうした状況を九条兼実は日記の中で嘆いている。

 近頃の世の中は武士でなければ一日たりとも生きていけなくなっている。身分の高い者も低い者も京都から人目につかぬ片田舎へ逃げてしまった。今や京都は完全にふさがってしまっている。四国全土と山陽道の安芸国から西、それと九州には平家が陣取っている。北陸道と山陰道は木曾義仲の支配地になっている。東山道と東海道は源頼朝が上洛してくるまでどうにもならない。京都に残されているのは畿内とその近辺だけになってしまったが、田畑の作物はことごとく刈り取られ、神社も寺院も、そして民家も全て荒らされてし、まった。荘園や公領から京都へ運ばれるはずの租税は多かろうと少なかろうと京都へ運ばれる途中で盗まれてしまう。おかげで京都の人たちは生きていけなくなってしまった。このような災難は後白河法皇と木曾義仲に責任がある。

 堂々たる政権批判と思うかも知れないが、これは九条兼実が私的な日記に記したこと、すなわち、公表されることはなく、仮に公表されるとすればそれは自分の死後であることがわかっているから書き記すことのできたのであり、そうでなければここまであからさまな政権批判など文章にできないのがこの時代の言論事情だ。それに、九条兼実自身が右大臣なのだから、後白河法皇を非難するだけでなく政治家としてしかるべき対処をとることも考えなければならない話である。

 結論から言うと、そうした対処はとられた。暴徒の存在を公的に認めたのだ。

 どういうことか?

 暴徒が暴れ回ったのは平家討伐の一環であったため問題なしとし、以後も引き続き平家討伐に当たるよう命じるのである。これで暴虐が本当に鎮静化するのか?

 結論から言うと鎮静化する。正確に言えば鎮静化したということにされる。これまでは木曾方が強盗と化して不法に暴れていたのが、これからは木曾方が合法的に暴れることとなる。どんなに暴れ回っていてもそれは合法なのだから、鎮静化したということになる。名目としては、既に平家討伐は一段落ついており、現在の京都は木曾方のおかげで平家を恐れずに済むようになったものの、平家はまだ京都の内外に潜んでいるので京都の警護を引き続き担当して欲しいと頼み込む。こうなると、木曾方は強盗集団ではなく、京都の治安維持を担当する武力集団になるのだ。七月三〇日、後白河法皇は木曾義仲ら一二名の木曾方の武士に対して京都の守護を命令した。これにより木曾方の武士の京都在駐が認められたこととなる。なお、京都守護職ということになった木曾方のやっていることはそれまでと全く変わっていない。

 これだけでは何ら対処になっていないと思うかも知れないが、同時に出された指令が前段の効力を弱める効果を持っていた。

 同日、北陸平定の後始末として寺社や諸人はそれぞれの北陸の荘園に使者を派遣して支配するよう定めたのである。たしかに京都に攻め込んで好き勝手暴れているが、彼らの多くは京都に永遠に住み続けるわけではなく、近い未来に故郷である北陸に帰るのが前提である。北陸が戦乱で荒廃したことは誰もが知るところであり、今ここで北陸に戻らなければ自分の所領を保持し続けることができなくなるというのだ。この命令により、多くの者が北陸へと戻り、別の者は自分の代理を北陸に派遣していった。

 京都守護職となった以上、京都に留まる義務を有する。しかし、全軍で京都に留まっていては所領の維持はできない。その結果、軍勢が分断して北陸と京都の両方に軍勢を配置するか、京都守護を放棄して北陸に帰るしかなくなる。そのどちらも京都在住の木曾義仲の勢力を弱める効果を有していたのだ。

 とは言え、それで万事休すとはなっていない。まず、北陸帰還時に京都で略奪した宝物も北陸に持って行ってしまうケースが多発したが、略奪したものを返すよう命令することはできなくなっていた。何しろそれは合法になってしまったのである。

 さらに厄介なことに、木曾方の乱暴狼藉は相変わらず続いていた。平家の頃はただ恐ろしいだけであったが、木曾義仲がやってきてからは、家の中に土足で入り込んで奪っていくわ、うっかり道で出くわそうものなら身ぐるみ剥がされるわ、女性にいたっては家の外だけでなく中でも安心できなくなってしまっているわというのが、このときの京都の庶民の言葉として残っている。


 さて、平家は賊軍とされたわけであるが、寿永二(一一八三)年七月末時点ではまだ公職を持つ身でもあった。

 朝廷とて平家が西へと逃げ延びていくのを黙っていたわけではない。平家が落ち延びるのは勝手だが、安徳天皇と三種の神器を京都に戻すよう再三書状を送り届けている。これに対し、平家からの回答は拒否。安徳天皇と三種の神器を返すことは平家の滅亡を意味するに等しく、とてもではないが受け入れるなどできない話であった。

 後白河法皇はここで最後通牒を出す。

 寿永二(一一八三)年八月六日、平家の面々に対する解官処分と、平家の所領没収を宣言したのである。ただし、安徳天皇と三種の神器を返せばこの解官処分と所領没収処分は無かったこととするという条件もつけている。

 この日判明しているだけでも、従二位中納言平教盛、従二位権中納言平知盛、正三位参議平経盛、正四位下参議平親宗、正三位左権中将平重衡、従三位右権中将平維盛、従三位平通盛、従三位平資盛らがこの日を最後に無位無冠となり所領が没収されている。この中には正二位権大納言平頼盛も含まれており、平家都落ちに帯同しなかったものの無位無冠の対象となった上で所領没収となっている。

 ただし、議政官における平家の最高地位者である正二位権大納言平時忠については解官が一時的に保留となっている。他の者はいったん解官となったが安徳天皇と三種の神器を戻せば元に戻すとする者であるのに対し、平時忠については解官そのものが一時保留である、これは、朝廷と平家との書状のやりとりに公的地位を持つ者が必要であるからで、いかに平家のトップが平宗盛であっても、朝廷としては二月に内大臣を辞任している平宗盛よりも現役の議政官である平時忠を相手とするほうが筋の通った話であったからという側面もある。

 さらに、同日後白河法皇は重要な決定をした。新帝即位である。安徳天皇が京都に戻ってこないのであれば、安徳天皇の二人と弟のうちのどちらかを新しく帝位に就けることを目指したのである。この時点ではまだアイデアの発露であり実際にはまだ新帝即位に向けて動き出しているわけではない。しかし、九条兼実の日記には八月六日中に既に新帝即位のアイデアが後白河法皇から九条兼実をはじめとする各貴族に向けて発せられたことが記されている。

 なお、九条兼実の日記によると、このときに後白河法皇が安徳天皇の還御と新帝即位のどちらにすべきか占わせたところ、一度目は安徳天皇の還御という結果が出て、もう一度占わせたら吉凶半分という結果になったという。後白河法皇は新帝即位という結論を出していたので、結論に合うような占いの結果を求めたというところか。

 平家からの回答が京都に到着したのは八月一〇日のこと。書状の差し出し主は平時忠である。内容は、安徳天皇も三種の神器も京都も返さないとするもので、これにより、平家の解官と所領没収は決定した。先に記したのは三位以上の位階を持つ者だけであり、四位以下の位階の者も含むと、平家一門の面々を含め平家都落ちに帯同した二〇〇名以上の者が解官となり、五〇〇箇所以上の所領が没収対象となった。

 同日、木曾義仲は従五位下左馬頭兼越後守に、源行家従五位下備後守に、また、安田義定は従五位下遠江守に任命された。

 本来は平家討伐の勲功の順番に応じた恩賞の予定であった。ところが、ここで勲功第一とされたのは源頼朝であった。上洛していないどころか、そもそも北陸で戦ってすらいない源頼朝が第一で、木曾義仲が第二、源行家が第三とされたのだ。さすがに京都の貴族の間にようやく源頼朝と木曾義仲が別個の勢力であることが知られるようになったが、それでもまだ、源氏が一つの存在であり、源頼朝が源氏のトップであるという認識が強かった。木曾義仲は源頼朝の家臣の一人であるが源頼朝の命令に従わない単独行動をしており、そのせいで京都での乱暴狼藉が繰り広げられているのだとの認識も広まっていた。ここで源頼朝を勲功第一とすることで木曾義仲を制御してもらおうという考えもあったのだ。さらに言えば、源頼朝は平治の乱の直前まで朝廷に務めている官人であったのに対し、木曾義仲も源行家も無位無冠である。源頼朝ならばまだ許せるが、無位無冠の木曾義仲や源行家をまともに相手にすること自体が貴族のプライドを砕く話であった。

 このときは木曾義仲の猛反発もあって源頼朝に対する勲功は白紙撤回となり、代わりに安田義定が勲功の対象に挙げられた。

 このあたりは後白河法皇や貴族たちの、良く言えば絶妙な、悪く言えば陰湿な行動が見てとれる。後白河法皇も、貴族たちも、これまで何度も木曾義仲を呼び出している。しかし、呼び出されたときに木曾義仲が一人きりでやって来ることはない。必ず源行家がやって来る。木曾義仲だけでいいと言っているのに源行家が勝手にやってくるのだ。有職故実だけで言えば源行家は木曾義仲よりも通じてはいるので、貴族たちの相手をすることだけを考えれば源行家がいるほうが源行家不在時よりも話が通じやすいのはその通りであるが、実際のところは源行家がやたらと出しゃばってきているというところが実情だ。木曾方の多くの武士が源行家ではなく木曾義仲をトップと認めてはいるものの、源行家は自分がトップの座に就く野心を隠すこともなく、何となれば自分が木曾義仲よりも上だという自負すら抱いてもいたのである。

 ここで木曾義仲と源行家の両名がともに従五位下の位階を獲得し、国司にも就くことができた。国司としてのクラスでもともに上から二番目の上国だ。ここであえて公平に扱うことは木曾義仲と源行家との間の軋轢を生み出しやすくなる。しかも、安田義定まで同じ位階で同じレベルの国の国司に任命されている。これで安田義定の野心に火もつくこととなった。

 なお、平家物語では木曾義仲が越後守に就任したと同時に「朝日将軍」という称号が与えられたという記録があるが、同時代の記録にそのような記録は無い。


 寿永二(一一八三)年八月一四日、安徳天皇に変わる新たな帝位を選定しているという話が木曾義仲の元に届き、木曾義仲はただちに後白河法皇のもとにむかって、以仁王の遺児である北陸宮を推薦して天皇即位を主張した。

 ここではじめて後白河法皇は激怒した。たしかに京都はいま木曾方によって制圧されている。しかし、従五位下の一国司でしかない人物が院の前にしゃしゃり出て次期帝位の地位に誰かを推すなど許されない話であった。

 この頃にはもう京都にいる木曾方の構成が明らかになっていた。彼らは木曾義仲の家臣ではなく、自分の都合で木曾義仲と行動を共にしているだけなのだ。そのため木曾義仲の命令に従うかどうかは自分にとって都合が良いか悪いかで決める。しかも、源行家がいつでも木曾義仲に取って代わる意欲を見せている。いっそのこと木曾義仲を失脚させて源行家に任せてしまおうかという話すら挙がる始末であった。

 寿永二(一一八三)年八月一六日、平時忠の解官が正式に決定。これにより議政官から完全に平家が消滅しただけでなく、朝廷機能から平家が完全に消えた。できあがった空席は後白河法皇の院近臣が占めるようになり後白河法皇院政の強化が図られることとなった。また、この日に木曾義仲が越後守から伊予守へ、源行家が備後守から備前守に変更になった。なお、この変更は無意味な変更ではない。後白河法皇から実際に現地に行けという指令が飛んだのである。京都を制圧しているのは木曾義仲の股肱の家臣ではなく自らの利益に従ってやってきただけの武士であり、木曾義仲個人でどうこうできる武士は数少ないことがもう判明していた。しかも、北陸の所領保全のために人を派遣するよう指令を出したら多くの武士が帰るか、あるいは誰かを帰させることを選んだ、すなわち、京都市中に展開している武士の絶対数が減ったのである。

 ただし、京都入城時と比べて木曾義仲の勢力が衰えてきたとは言え、まだまだ京都を恐怖に陥れている人物であることに違いは無い。それに、木曾義仲におとなしく従わない武士はたしかにいても、木曾義仲に対して表立って反抗している武士はいない。

 木曾義仲は、思っていたような権勢を掴めずにいることを焦っていた。京都を制圧すれば何であれ自分の思い通りになると考えていたのに、実際には後白河法皇や朝廷の貴族の権謀術数の前に翻弄されるようになり、まさにその翻弄されている様子が京都市民の失笑と、ともに戦ってくれた武士たちの落胆を招くようになっていた。

 起死回生の手段として八月一八日に木曾義仲が再び新たな天皇として北陸宮を推薦したが、もはや木曾義仲に耳を傾ける者などいなかった。後白河法皇は、安徳天皇の異母弟である四歳の尊成親王を次期帝位と定め公表したのである。

 さらに、木曾義仲らを京都から遠ざけるために、没収した平氏の所領のうち一四〇箇所を木曾義仲に、九〇箇所を源行家に与えることが決まった。所領を手に入れた以上、木曾義仲も、源行家も、自分自身かあるいは代理の者を誰か現地に赴任させなければならなくなる。それも、一つの所領に一人や二人で済む話ではなく、最低でも家族単位で送り込む必要がある。こうなるとただでさえ少ない木曾義仲股肱の家臣も、もっと少ない源行家股肱の家臣も、京都から出て行かなければならないこととなる。


 福原を出発した平家がどこにいるのかの情報は京都でも把握できていた。当然だ。平家のもとには安徳天皇と三種の神器がある。安徳天皇を還御させ、盗み出した三種の神器も戻すように平時忠のもとに書状を送ることができたのも、平時忠からの拒否の書状が返ってきたことも、その結果として平家一門の面々は公的地位が喪失したと伝えたことも、平家は都落ちをしても行方知れずになったわけではなく、互いにやりとりできていたことを意味する。

 無論、現在のように電話やネットでただちに情報のやりとりのできる時代と違ってタイムラグは存在する。寿永二(一一八三)年八月一七日に平家が大宰府に到着したことの情報が京都に届くのはもう少し後になってからのことである。

 平家一門が太宰府に到着したときの様子は平家物語にしかなく、その情景は詩的ではあってもどこまで事実であるかはわからない。

 平家物語によると、太宰府に到着した直後、平家の都落ちに帯同してきた菊池高直から、大津山の関、すなわち、肥後国と筑後国との間を開いてくるとの申し出があり、申し出を認めて肥後国へ向かうのを見届けたのち戻らなくなったという。都落ちに帯同したのではなく、ただ単に自分の所領である肥後国に帰っただけだったのだ。

 平家都落ちに帯同してきた貴族は数少ないが、位階を下げれば帯同してきた者は多く見つかる。八月一〇日に二〇〇名以上解官になったという点でもそのあたりは推し量ることができる。しかし、太宰府に到着した後は、一人、また一人と欠けていくことになった。菊池高直は特異な例ではなく、ただ単に最初に平家と袂を分かったから記録に挙げられたに過ぎない。

 それでも九州一一ヶ国を統括する太宰府を平家が占拠したことに違いは無い。平家は太宰府を制圧したことで対馬国から薩摩国までの西海道全域に対して半ば独立した統治権を獲得したこととなり、京都にいた頃のように広範囲ではなくとも、九州一一ヶ国に対する兵と兵糧の供出を命じることはできた。そして、九州一一ヶ国の各地から兵を率い太宰府に参上するとの返答もあった。何しろ太宰府には安徳天皇がいるのだ。幼帝であることは誰もが知っているし、摂政が側にいるわけではないことも誰もが知っている。それでも天皇を奉じている平家の命令だ。平家の命令に背くことは天皇の命令に背くことになる。天皇に弓引くなど考えることも許されない暴虐だ。

 ただ、誰一人として太宰府にやってこなかった。平家の命令に背いたといえばその通りになるのだが、その直後に平家の命令に従うことそのものが不可能になったのだ。

 朝廷から九州各地に対し、新たな天皇が即位したことが宣言され、新天皇の命令により平家の命令に従うことは叛逆であると告げられたのだ。既に後白河法皇から平家討伐の院宣が出ていることは平家自身も知っていたが、平家のもとには何と言っても安徳天皇がいる。天皇がいる限り、いかに院宣が出ていようが平家は官軍であるというのが平家自身の戦略であったのだが、京都に天皇がいるという事態になると戦略の大前提に乱れが生じる。平家としてはあくまでも安徳天皇が正式な天皇であり、京都で即位したという新しい天皇は認められないとする姿勢を貫くしかなくなっていた。


 九州各地に届けられた新帝即位の知らせは平家を動転させた。平家の考えによれば京都が新たな天皇を即位させることなどあり得ないことであった。安徳天皇は退位などしておらず、強引に退位させようとしたところで三種の神器も京都にはない。新たな天皇を即位させるためには前例にないこと、すなわち、既に天皇がいるにもかかわらず、三種の神器無しに帝位を僭称させるしかないのだ。

 それを京都はやった。

 新天皇即位の知らせを受けた平家の動転と九州での情景は別途記すとして、ここでは新天皇即位の情景を描くこととする。

 そもそもなぜ、新帝即位となったのか?

 結論から言うと、京都は一刻も早く新たな天皇を即位させる必要が二つの理由からあったからだということになる。

 一つは事実上の天皇空位を一刻も早く終わらせること。天皇が京都にいない現状では、議政官がいかなる決議をしてもそれが正式な法とはならないでいる。摂政近衛基通が京都にいるから、御名御璽の代わりに摂政としての権限で署名捺印すれば一応は法として公布できることとなるが、誰もが京都に天皇がいないことを知っている状況で摂政の独断で署名捺印したところでその正統性は疑いの念を持たれるものとなる。

 そしてもう一つ。木曾義仲の推す北陸宮の存在だ。木曾義仲が推しているという一点で歯牙にも掛けられずにいるが、皇位継承だけを考えれば全くの無資格ではないのだ。父の以仁王は親王ではなく王であった、さらには臣籍降下させられて皇室から離脱させられたという経緯があったが、北陸宮は父の以仁王の臣籍降下の連座を受ける前に僧籍に入り越前国に逃亡することに成功したため出家した皇族という扱いになっていた。その後、木曾義仲の手で越中国宮崎に建造された御所で還俗し元服したことで皇室に復帰している。親王ではなく王の子であるというのは皇位継承権から外される理由の一つにはなったが、そんなものは親王宣下すればただちに解決する。実際問題、統治の安定を考えた上でこの時点で元服を迎えている皇族男子を探すとすれば、寿永二(一一八三)年時点で一八歳を迎えている北陸宮は、筆頭とまでは言えないにせよかなり高い優先順位に挙がる人であった。

 だが、北陸宮では困るのだ。木曾義仲の影響があまりにも強すぎるのだ。血縁関係が存在しないために実現不可能であるが、北陸宮が帝位に就こうものなら木曾義仲が事実上の摂政になってしまうのである。

 このまま無駄に時間を経過させてしまうと北陸宮の即位が実現してしまう。それを食い止めるためには、北陸宮以外の誰かを帝位に就けるしかない。事情が事情であるから幼帝でも構わない。幸いなことに摂政近衛基通が京都にいる。平家は都落ちのときに安徳天皇だけでなく高倉天皇の第二皇子の守貞親王も連れて行っているが、高倉天皇にはその他に二人の皇子がいる。このうちのどちらかを新たな天皇とすれば、帝位空位問題は解決する。一応は。


 平家物語では、高倉天皇の第三皇子である惟明親王と第四皇子である尊成親王のどちらを新たな天皇とすべきかで、後白河法皇はまず、第三皇子である惟明親王を連れてこさせ、後白河法皇のもとに惟明親王を招き寄せると惟明親王はその場で鳴きはじめてしまったという。そのあとで第四皇子である尊成親王を招き寄せると、特に躊躇(ためら)うことなく後白河法皇の膝の上に座ったという。

 これにより次期天皇は尊成親王に決まったというのが平家物語の記述だ。

 なお、平家物語に記載は無いものの、九条兼実の日記ではこのときに北陸宮の帝位継承も含めた占いをさせたという。占いの結果は、尊成親王が帝位に就けば最吉、惟明親王が帝位に就くのは半吉、北陸宮は始終不快というものであったという。これに怒った木曾義仲が、平家討伐に功績のあった北陸宮ではなく、最初に尊成親王を占わせたのは問題ではないかというクレームがあったというが、そのクレームで結果をひっくり返すことはできなかった。

 後白河法皇の膝の上に座ったからとか、あるいは占いの結果だとか、現在の感覚では反論が噴出すること間違いない基準で帝位に就くことが決まった尊成親王であるが、それでも尊成親王の帝位就任はやむなしという同意は得られた。というより、ここで同意しないと北陸宮、より正確に言えば木曾義仲に付け入る隙を与えることとなるから同意する必要が生じた。

 木曾義仲の付け入る隙を消したあとは平家からの反論の余地を消す必要に向かわなければならなくなった。既に知れ渡っていることであるが、三種の神器がない。三種の神器無しで即位するなど前例が無い。

 これに対し、九条兼実は継体天皇の先例を持ち出して対応することを主張した。継体天皇は即位前から天皇と称し、三種の神器はあとになって受けたという先例があったというのである。なお、九条兼実はその先例が日本書紀にあるとしたが、日本書紀にそのような記載は無い。それでも九条兼実は先例があると言い張った。その後も様々な形で三種の神器無しでの即位の正統性に対する検討が続き、最終的には、三種の神器はそもそも神なので正当な持ち主のところに必ず帰るということになって新帝即位が決まった。

 寿永二(一一八三)年八月二〇日、後白河法皇の院宣により安徳天皇の退位と尊成親王の即位が決まり、正式な即位の儀は寿永二(一一八三)年一〇月二七日に開催することが決まった。

 後鳥羽天皇の治世の始まりである。

 数えで三歳の幼帝の治世の始まりであるが、もはや幼帝など珍しくない時代であり、そのことについては特に誰も何も言わないでいた。

 同日、安徳天皇画退位したことで安徳天皇の摂政であった近衛基通はいったん摂政を辞任し、改めて近衛基通が後鳥羽天皇の摂政に就任した。


 平家が太宰府に到着したことは九州の多くの武士が知っている。そして、平家の太宰府到着を多くの武士は歓待しつつ、迷惑にも感じている。平家を歓待するか平家に反発するかの二択があり、平家が勝つか負けるかの二種類の結果があるというのがこのときの九州の武士たちに突きつけられている現実であった、ベストは、平家を歓待して平家が源氏に勝つこと、あるいは、平家に反発して平家が源氏に負けることである。それ以外の手、平家を歓待するが平家が負ける、あるいは、平家に反発するが平家が勝つという組み合わせは、自らの破滅を招く最悪な結末である。

 この時代の情報伝達速度を考えると、後鳥羽上皇が即位したことの知らせがただちに九州に届くなどあり得ない。そして、九州は一つの島であるが大きな島である。瀬戸内海を航行した船が最初に到着する豊後国、現在の大分県は、九州の他の地域よりも先に京都からの情報が届く。特に寿永二(一一八三)年八月時点の豊後国は難波頼輔こと藤原頼輔が知行国としており、難波頼輔は息子の難波頼経を目代として現地に赴任させていたため、父として息子に対し早々に情報を伝える必要があった。

 難波頼輔のもとには、息子が太宰府の平家を歓待しているらしいとの情報が届いていた。それに対する返答として、平家は神々に見放され、後白河法皇にも見放された末に平安京から脱出して波の上に漂う落人(おちうど)となったことを伝え、既に京都では新しい天皇が即位していることを伝えた。

 選択に悩んでいた難波頼経は、ここで父からの知らせに従って反平家で起ち上がることを決めた。もっとも、難波頼経は武人ではない。しかし、豊後国の武士である緒方惟栄とは連絡の取れる関係である。難波頼経は緒方惟栄を呼び出し、平家討伐の院宣が後白河法皇より発せられたこと、安徳天皇は退位し京都で安徳天皇の弟が新たな天皇として即位したことを告げ、大宰府から平家を駆逐するよう要請したのである。緒方惟栄にしてみればこれは絶好のチャンスだ。以仁王の令旨のあとでの全国各地での挙兵は九州でも例外ではなく、治承五(一一八一)年二月に挙兵して豊後国目代を追い出したのが緒方惟栄である。そのあとで九州での反乱は平家の手によって鎮静化させられ、豊後国目代として新たに赴任してきたのが難波頼経だ。

 二年半前、緒方惟栄は反平家で豊後国目代を追い出した。いかに反平家であると主張しても、その行動は国家反逆罪に問われる行動であった。

 今回の緒方惟栄は、豊後国目代の許可を得た上で反平家に起ち上がることが許されるだけでなく、その行動が国家反逆罪に問われるような内容にならない。それどころか、日本国の敵である平家に朝廷の一員として戦うという図式になるのである。しかも、二年半前の自分の行動をこれでチャラにできるのだ。

 もっとも、いかに緒方惟栄が豊後国の強力な武士団のトップであると言っても自分の力だけで太宰府の平家に打ち勝つなどできない。しかし、緒方惟栄と同じ境遇に置かれてきた武士は多く、ここで平家に対して牙を剥けることが朝廷の一員としての正しい行動になるのだとなると説明すれば賛同する武士は九州各地にいる。緒方惟栄は九州一一ヶ国の各地に院宣発令と新帝即位、そして反平家に起ち上がることを訴える使者を出し、使者に応える形で、二〇〇騎、三〇〇騎と賛同する武士が集い、一大勢力となるに至った。


 豊後国で太宰府を討伐する一大勢力が結集されていることを知った平家は、平資盛を緒方惟栄のもとに派遣することにした。緒方惟栄はかつて平重盛の家臣をしており、平資盛は平重盛の子である。二人は知らぬ間柄ではない。

 平資盛は緒方惟栄と面会し、平資盛から緒方惟栄に対して平家を攻めに来るのかと訊ねると、緒方惟栄からは、本来であれば平家に仕えてきた身であるため攻め込むつもりにはなれないが、後白河法皇から院宣が出ている以上、太宰府に向けて侵攻しなければならないと告げた上で、平家に対し太宰府から立ち去ってもらうことを訴えた。そうしなければ自分たちは太宰府に攻め込んでいかなければならないのだから、と。

 たしかに戦闘とならぬようにするにはそれしかない。

 しかし、それは平家のプライドに関わる話である。

 見せしめのために平家の総力を結集させて緒方惟栄を攻め滅ぼそうとし、平家は三〇〇〇の兵を派遣して緒方惟栄の邸宅に押し寄せ、迎え撃つ緒方惟栄の軍勢と一昼夜に及ぶ戦闘となった。

 まさにその戦闘中に緒方惟栄を支援するための軍勢が各地から駆けつけ、平家の軍勢は包囲されることが確実になってきた。このまま包囲されると緒方惟栄討伐どころか部隊全滅もあり得るとして平家軍は揃って太宰府へ撤退。さらに合流する軍勢が次々と増えてくるのを目の当たりにし、このままでは太宰府陥落も時間の問題であるとして、寿永二(一一八三)年八月二六日、平家は太宰府からの脱出も決意した。

 九州中の武士が太宰府に向けて押し寄せてきているのである。時間の猶予などはなく太宰府から一刻も早く博多港まで逃れて船に乗り込まなければならなくなった。

 通常、貴族やその子女は自分の足で歩くことはなく牛車や輿で移動する。しかし、このときの平家が用意できた輿は安徳天皇のための輿だけで、女院も女官も徒歩で博多へと逃げなければならなくなった。太宰府から博多までおよそ一〇キロメートル。歩き慣れている人であればさほどの困難ではないかもしれないが、普段から歩くのに慣れていない人には苦難な逃避行である。しかも、整備された道を歩くのではなく敵からの襲撃の目をかいくぐっての逃避行であるから、御笠川沿いに出て、現在の国道三号線に相当する平坦な道に出て博多へと向かうのではなく、太宰府から直接大野城跡のあたりを通る山あり谷ありの逃避行になる。

 さらに悪条件が重なったのがこの日の雨だ。いや、ここは豪雨と現すべきであろう。ただでさえ足は血まみれになっているところに加え、豪雨のせいで全身ずぶ濡れになっての逃避行になってしまったのだ。それでも苦労の末にようやく博多に到着し、船に乗り込むことができるようになった。

 どうにか平家の赤旗をなびかせる船団が出港した。

 それは宛てのない旅の始まりであった。

 どこに寄港しようと、寄港先を探ってみればそこにはもう後白河法皇からの平家討伐の院宣が届いていた。寄港するのは認めるが、それは安徳天皇と三種の神器を差し出すのが条件というのが、探っている寄港先の全てで突きつけられた現実であった。


 吾妻鏡から寿永二(一一八三)年の記述が欠落し、残っているのは編集ミスで他の年に記されている箇所のみである。一方、平家物語は情報の正確性ではなく物語性を求められる文学作品であるため、どのような出来事が起こったかを情緒的に知ることはできても、史料としては正確な日付を知るには疑問符が付く史料となっている。そのため、寿永二(一一八三)年についての正確な記録を求めるとすれば貴族の日記が主軸となる。

 ただ、日記である。紙の上に記されている文章は機械で自動生成される文章ではなく、日記を記した本人の立場、事情、感情が交ざっている文章である。だからこそ同時代性が高いと言えるが、だからこそ正確性と客観性に欠けることもある。

 特に九条兼実の日記である「玉葉」は内容の正確性と情報量、特に右大臣という朝廷の中枢の一員である人物が記しているという点から源平合戦期の史料として重宝されるが、まさに九条兼実がこのとき右大臣であるということ、そして、摂政関白に就く資格を有している藤原摂関家の嫡流でもあるということが史料としてのマイナスポイントになってしまうこともある。

 たとえば、近衛基通が摂政であり続けることができたのは、近衛基通が後白河法皇と男色関係を結んで後白河法皇の寵愛を受けることに成功したからだとまで日記に書いてある。政治的ライバルにあるとはいえ甥でもある人物のことをよくもまあそこまで悪く書けたものだとも感じるが、九条兼実は後世の歴史資料となるべく日記を書き記したのではなく、読んだとしても自分の子孫だけであるという前提で自分の思いを日記に書き記したのである。を、九条兼実の子孫でも何でもない二一世紀の一庶民が勝手に読んでいるだけなので文句をどうこう言えた義理ではないというところか。

 さて、九条兼実のこのときの立場の話に戻すと、自身の藤原摂関家としての命運にかかわる問題に直面していたのが寿永二(一一八三)年九月時点での藤原兼実こと九条兼実である。九条兼実は摂政や関白に就く資格を持っている右大臣であり摂政や関白の有力候補ではあるものの、実際に摂政や関白に就くことが可能であるかどうかとなると、そこには疑問符が付くのがこのときの九条兼実であった。

 寿永二(一一八三)年九月時点での摂政は九条兼実の甥の近衛基通である。治承三年の政変で関白松殿基房が追放され、その後釜として平家によって高倉天皇の関白に据えられたのが近衛基通だ。言わば平家の傀儡であったはずなのだが、そして実際に安徳天皇即位と同時に安徳天皇の摂政へとシフトすることによってより強固な平家の傀儡へと成長したのだが、最後の最後でこの人は平家を裏切ったのだ。平家の都落ちに帯同することなかっただけでなく、平家の都落ちについて計画段階で後白河法皇に伝えることで後白河法皇を逃亡させることに成功していた。京都で新たに後鳥羽天皇を即位させることができたのも、摂政近衛基通が京都に健在であったからだ。

 しかしここで、前任の関白である松殿基房が追放された後釜として、近衛基通が摂政関白の地位に就いたことの問題が発生した。松殿基房が追放解除となったあとも平家が京都に陣取っていたために政界復帰は夢の話となっていたが、平家の都落ちとともに松殿基房に自由が生まれた。そして要求するようになった。自らの摂政の地位を。

 ここで厄介になるのが右大臣でもある九条兼実だ。仮に近衛基通がかつて平家の傀儡であったという理由で摂政として不適格であるとの判断が下った場合、前関白である松殿基房より、現役の右大臣である九条兼実のほうが摂政に相応しいという判断が下ってもおかしくないのだ。

 九条兼実は寿永二(一一八三)年九月一日の時点で右大臣の辞任を奏上したものの受け入れられなかったことを日記に書き記している。このときの京都では九条兼実摂政待望論が広まってきたのか、木曾義仲が九条兼実を摂政に登用しないのは不当であるという落書が記されるという事件も起こっており、後白河法皇も、木曾義仲も、九条兼実の摂政を検討したようである。

 これに対し、松殿基房は源行家と手を組み、自らを摂政とさせるようにさせるよう動き始めた。ただし、松殿基房の主張は乏しいものがあった。経験や実績について松殿基房と九条兼実とを比較した場合、松殿基房のほうが圧倒的に優れているとは言いがたい。そこで、家嫡でなくても次男までは摂関になったことがあるが、三男までが摂関になったという例はなく、世間では九条兼実が摂関に相応しいという意見であるが、これはきわめて不当なことだと主張したのである。どうやら松殿基房は、多くの藤原氏が手本としてきた藤原道長が、長兄の藤原道隆、次兄の藤原道兼に次いで藤氏長者に登り詰め摂政となった事例を失念していたようである。

 右大臣辞任を申し出たことからもわかる通り、九条兼実はこのとき一つの失望感にさいなまれていた。

 寿永二(一一八三)年九月三日には、北陸道と山陰道は木曾義仲が押領し、院分国をはじめ国司の支配が全く及ばなくなっていることを書き記している。その一方で横領した本人である木曾義仲が混乱を全く鎮圧できずにいることに、京都内外の全ての人が失望感を隠せなくなっている。この失望感は何かと木曾義仲と張り合ってきている源行家についても当てはまり、失望に次ぐ失望から、九月五日の日記には、僧侶も貴族も庶民もただ悲しむばかりで、ただ一つの希望は源頼朝の上洛だけであると日記に書き記している。ただし、源頼朝が木曾義仲と同様の暗愚な人物ならこの国は滅亡してしまうであろうというのが九条兼実の言葉だ。


 先にも記したが、吾妻鏡は寿永二(一一八三)年の巻が欠落しているものの、偶然が重なって寿永二(一一八三)年の記事が存在している箇所がある。どういうことかというと、編集のミスの結果、養和元(一一八一)年に間違えて差し込まれているために、寿永二(一一八三)年の巻が欠落しても寿永二(一一八三)年の鎌倉方の出来事が残っているという箇所があるのだ。

 それが寿永二(一一八三)年九月七日よりはじまる足利俊綱の討伐である。足利というと後の室町幕府の将軍となる足利氏を思い浮かべるかも知れないが、足利俊綱はその足利氏とは関係ない別の足利氏である。下野国足利を所領としたことから苗字は足利だが、足利俊綱の本名は藤原俊綱であり、足利俊綱の一族のことを藤姓足利氏と称す。足利俊綱は保元の乱では源義朝のもとで戦ったという過去があるが、平治の乱のあとは平家のもとに降り、二〇年近くに渡って関東地方における平家方の武士の一人というスタイルであった。以仁王の令旨のあとも当然ながら平家方であり続けていたが、治承四(一一八〇)年に同じく平家方であるはずの新田氏と争いになり、敗れ、破滅へと向かっていた。

 それでも寿永二(一一八三)年二月に常陸国で挙兵した志田義広と呼応したものの、ここでも討伐され、行方不明となっていた。

 その足利俊綱の所在が半年を経てようやく確認できるようになったのである。

 寿永二(一一八三)年九月七日、源頼朝は和田義茂に対し、足利俊綱討伐を指令。援軍として、三浦義連、葛西清重、宇佐美実政が同行することとなった。ただし、いきなり全軍で動いたのではなく和田義茂のみが下野国へと先行することとなった。

 和田義茂が下野国へたどりついたとき、下野国足利では想定しなかった事態が起こっていた。

 寿永二(一一八三)年九月一三日、下野国の和田義茂からの書状を携えた早馬が鎌倉にやってきた。書状によると、和田義茂が現地へ入る前に、足利俊綱の家臣である桐生六郎が足利俊綱を殺害したというのである。その上で、桐生六郎が足利俊綱の首を鎌倉に持参したいというのが書状に記されていた内容だ。源頼朝は桐生六郎の申し出を承諾し、桐生六郎に対して足利俊綱の首を鎌倉へ持参することを命じた。

 桐生六郎は源頼朝からの返書が届く前から既に下野国から出発していたと思われる。というのも、返書を送り出したのは九月一三日、それが九月一六日にはもう桐生六郎が鎌倉に到着しているのだ。おそらく、桐生六郎が源頼朝からの返書を受け取ったのは、下野国ではなく下野国から鎌倉に向かう途中のことであったろう。

 源頼朝は足利俊綱の首を携えた桐生六郎を鎌倉に招き入れず、鎌倉の市街地を通さずに深沢経由で腰越に向かわせ、その上で首実検をした。多くの御家人が足利俊綱の顔をよく知らないと答え、一応は知っているはずの下河辺政義に向かわせたところ、首を切られてからかなり日数が経過しており顔がすっかり変わってしまっているが、足利俊綱の首で間違いないであろうとの返答があった。

 九月一八日。桐生六郎から梶原景時を通じた申し入れがあった。足利俊綱を殺害した手柄で自分を御家人に加えてもらいたいという申し入れである。しかし、源頼朝はこの申し入れを拒否。代々使えている主君を殺害するというのは不当な計画的犯行であり、称賛に値しないとした上で、梶原景時に対して桐生六郎の殺害を指示。腰越で待っていた桐生六郎は、自分が持参した足利俊綱のさらし首の脇で斬首となった。

 足利俊綱の保有していた所領については没収となったが、源頼朝から和田義茂に厳命が飛んだ。足利俊綱の家族の邸宅と私財はいっさい手を触れてはならず、投降してくる者を殺害してはならず、投降してきた本人やその家族、また郎従の家屋に至るまでいっさい破壊してはならないというものである。

 寿永二(一一八三)年九月二八日。和田義茂が下野国より帰還。これにより足利俊綱討伐は完了した。


 寿永二(一一八三)年九月、すなわち足利俊綱の討伐の頃、源頼朝がどのようなことをしていたのかの記録が吾妻鏡に残っていないのは悔やまれるところであるが、時系列を追う限りでは、足利俊綱の討伐が終わるまでの間に源頼朝に向けて派遣されてきた中原康貞と面会しているはずである。源頼朝を基準に考えてしまうと、七月二八日に京都を出発した中原康貞が源頼朝と面会して京都に帰還したのは一〇月一日のことなので中原康貞はずいぶんとゆっくりとした旅程であったかのように感じるが、京都の情報を半月もあれば取得できるだけの情報のルートを獲得していた源頼朝のほうがこの時代としては異常なまでの早さであり、この時代の交通事情を考えれば中原康貞のほうが普通、あるいはむしろ早い方である。

 この、源頼朝の情報連携速度の速さを見せつけることとなったのが中原康貞との交渉である。既に述べたように中原康貞が京都を出発したのは七月二八日のことである。つまり、七月二九日以降のことを中原康貞は知りようがない。早馬を差し出して最新の情報を中原康貞の元に届けたとしても、その早馬は例外的な情報連携であり、基本的に中原康貞は七月二八日時点の情報で源頼朝と接することとなる。ところが、源頼朝のもとには八月上旬までの京都での出来事が届いていたのである。そこには木曾義仲や源行家が何をしているかも、そして何をしないでいるかも含まれていた。当然ながら、木曾方が京都に居座って略奪と暴行を繰り返し、乱暴狼藉を繰り返していることも知っていた。

 さらに、源頼朝は月に三度の定期連絡を、この時点でもまだ続けていた。単に情報を受け取るのではなく、源頼朝から京都に向けて書状を送ることもしていたのである。その中には京都における情報戦略も含まれていた。

 基本戦略は、とにかく木曾義仲を戦場に引きずり出すことだ。木曾義仲に対する不平不満を充満させ、平家討伐を命じられながら西国に向かうことなく京都で安穏とし、部下の略奪を全く制御しようとしないでいる木曾義仲に対し、部下を率いさせて西国へと向かわせることだ。ここで重要なのは木曾義仲に平家を討伐させるのではなく、一時的にせよ京都から木曾義仲を引き離すことである。源頼朝がやろうとしているのはその隙を突くことなのだ。

 京都ではにわかに木曾義仲への不平不満が渦巻き始めていた。寿永二(一一八三)年九月一八日、木曾義仲が庇護してきた北陸宮が、後白河法皇の招きではじめて入京した。北陸宮に対する周囲の目は冷ややかなものであった。厳密には北陸宮という一人の皇族に対する関心ではなく、その背後にいる木曾義仲への不平不満が生みだした冷笑であった。

 木曾義仲への不平不満は、その翌日の九月一九日に一つの結末を迎えた。後白河法皇が木曾義仲の出頭を命じ、ただちに西国に赴いて平家を討伐するよう指令を出したのである。既に民衆の怒りは爆発寸前であった。相変わらず京中で好き勝手暴れている木曾方に対する怒りはいつ爆発してもおかしくなく、このまま時間が経過しようものなら民衆蜂起に始まる京都市中の内乱になるところであった。

 木曾義仲もそれを察知したのか、九月二〇日、一ヶ月前に出された命令を遂行するために軍勢を指揮してようやく播磨国へ向けて出発することとなった。これでようやく京都から木曾方がいなくなったのである。

 木曾方がいなくなったまさにその九月二〇日、源頼朝からの第一報が、大量の引出物とともに京都に届いた。その引出物の量は関東の豊かさと源頼朝の権勢を示すに充分であったが、その中に源頼朝自身の姿は無かった。

 さらに、引出物と一緒に源頼朝からの返答が示された。

 源頼朝からの返答は、三年前の治承四(一一八〇)年一一月に出された、東海道、東山道、北陸道に対する、源頼朝ならびに源信義の両名を追討せよとの宣旨、および、二年前の治承五(一一八一)年三月に出された源頼朝討伐の院宣がまだ有効であるために自分は上洛することできないでいるが、源頼朝自身は朝廷に逆らうつもりも後白河法皇に逆らうつもりもなく、また、木曾義仲らの乱暴狼藉を認めるつもりも全くないとした上で、源氏がこれまで支配下に治めてきた東海道、東山道、北陸道の全ての国衙領を国司に返還し、その代わりに年貢の取り立てを管理する権限を自分に与えてほしいというものであった。

 何ら官職を求めるわけでないばかりか、奪った所領を全て朝廷に返還するというのは京都の貴族たちに衝撃を与えた。平家とも、木曾義仲とも、何たる違いであることか。いったいこの謙虚さは何なのか。ついこの間の日記には源頼朝次第ではこの国が滅亡するとまで書いていた九条兼実であるが、これ以降は源頼朝がいかに立派で公明正大でありながら、なんと謙虚な人物であるかを手放しで称賛する記載に満ちるようになる。

 そして、断言に足りる歴史資料はまだないが、この頃に文覚が京都にやってきて源頼朝と九条兼実との間の連携窓口となったはずである。そうでないとこのあとの文覚の行動が理解できなくなる。吉田経房の日記によると九月二五日に鎌倉からやってきた文覚が一人の僧侶として木曾方の武士の乱暴狼藉に抗議している。伊豆国に配流となったはずの文覚が配流を解除となったか、あるいは配流の判決を無視して戻ってきたかはわからないが、少なくとも文覚が京都にいることを問題視する言葉は挙がっていない。もっとも、暴徒が荒れ狂って誰も抵抗できずにいる京都の中にあって、一人の僧侶として多くの人を守ろうとしている文覚に文句を言える人がいれば見てみたいものであるが。


 寿永二(一一八三)年一〇月一日、関東に派遣されていた中原康定が帰京し、源頼朝からの要望を伝えた。既に第一報で述べていたのと同じように、東海道、東山道、北陸道の全ての国衙領の返還に加え寺社領と院宮諸家領の復旧を約束し、京都で乱暴狼藉を働いた木曾方の武士たちを一人残らず処罰するというものであった。

 第一報では官職を全く求めていなかった源頼朝であったが、このときは官職を求めている。と言っても、ここで求めたのは平治の乱で没官となった自身の名誉回復のためでの官職復帰であり、平家討伐の功績を求めたのではない。

 源頼朝からの返答は京都内外の人に希望をもたらした。待ち望んでいた正義は、遠く相模国鎌倉に存在していたのだと知ったのだ。ただ、源頼朝の宣言で一点だけ問題となることがあった。源頼朝は東海道、東山道、北陸道の全てと言ったが、東海道と東山道はともかく、北陸道は事実上木曾義仲の制圧下にある。北陸道についても木曾義仲の頭越しに決定することはできなかった。

 また、源頼朝の書状は届いたが、源頼朝自身が上洛してきたわけではない。ほとんどの人は源頼朝に上洛してもらうことを、より正確に言えば木曾義仲らに取って代わってもらうことを願っていたのだが、一〇月九日に届いた源頼朝からの第三報はその拒否であった。理由は既に述べたように源頼朝討伐の院宣がまだ有効であることに加え、奥州藤原氏や、未だ完全に帰順したわけではない佐竹氏が鎌倉に侵略する動きがあるため鎌倉を離れることができないというものである。ただし、源頼朝の代弁者であることが知られつつある文覚は京都に滞在しており、京都において庶民が身の安全をどうにかできるほぼ唯一の存在になっている。

 源頼朝の第三報を受け、後白河法皇は寿永二(一一八三)年一〇月九日に源頼朝討伐の院宣の白紙撤回を宣言し、併せて平治の乱で剥奪された源頼朝の官職を復帰させ従五位下右兵衛佐に復帰させた。これで晴れて源頼朝は朝敵から外れたこととなる。

 さらに、寿永二(一一八三)年一〇月一四日、源頼朝に対し、東海道と東山道の各国のうち朝廷が指定する令制国についての行政権を付与することが決まった。これらの地域における荘園や公領の領有権は本来あるべき姿として荘園領主や国衙に戻すことが決まった一方、これらの国々の統治機能回復と年貢徴収は源頼朝が責任を持って遂行するというものである。なお、佐藤進一氏や石井進氏は東海道と東山道の全ての国に対する権利であったとする説を提唱しているのに対し、上横手雅敬氏は、東海道は遠江国より東、東山道は信濃国より東に限定されていたとする説を提唱しており、具体的にどこからどこまでを源頼朝の支配権として認めたのかは不明である。東山道全域も権利の範囲であったと主張している研究者も東北地方二ヶ国は外されていたはずという点については意見の一致を見ており、確実に断言できるのは、関八州、すなわち相模国、武蔵国、安房国、上総国、下総国、常陸国、上野国、下野国の八ヶ国と、伊豆国、甲斐国、信濃国、遠江国、駿河国の合計一三ヶ国について源頼朝の行政権を認めたこととなる。

 なお、これまで頑なに「治承」の元号を使い続けてきた鎌倉方が、このときより最後に「寿水」の元号を利用するようになっている。

 同日、中原康定が再び源頼朝の許に遣わされることが決まった。朝廷の決定を鎌倉に伝えるためである。


 寿永二(一一八三)年一〇月、京都で源頼朝が希望の存在になっていた頃、平家は海上を漂流していた。

 好きで漂流していたのではない。どこにも上陸できなかったのだ。平家に対してあからさまな敵意を向けられたこともあったし、平家に対する同情を見せはしたものの、平家が上陸されようものなら源氏方の軍勢を名乗る勢力が押し寄せてくるとの懸念を示されることもあった。

 一度や二度なら耐えられよう。だが、次なる目的地を探してみたら、そこでも同じ回答が返ってくるが恒例となると絶望の度合いが増す一方になる。

 この絶望にさいなまれたのが平重盛の三男の平清経であった。左近衛中将であったことから左中将清経と呼ばれる平清経は、月明かりに照らされる海の上で「都を源氏に攻め落とされ、九州からは緒方惟栄に追い出された。網に掛かった魚のようだ。どこへ行けば逃れることができるのか。無事に生きていられる身ではなくなった」と嘆き、船の上に立って横笛を吹き始めた。

 夜闇に聞こえる美しく、しかしもの悲しい横笛の音色は平家の面々に一時の安らぎをもたらしたが、次の瞬間、平家の面々は信じられない光景に直面した。

 平清経、入水自殺。

 あわてて平清経を救い出そうとするも暗い海上では平清経の姿を見つけ出すことができず、平清経は二一歳でのあまりにも早すぎる死を迎えることとなった。

 大分県宇佐市を流れる駅館川(やっかんがわ)の最も河口に近い橋の名前は小松橋という。駅館川の河口付近は南から北へという流れになっており、小松橋は駅館川を東西に結ぶ橋となっている。この小松橋の西岸のすぐ近くに小松塚と呼ばれる五輪塔と平清経の慰霊碑が建てられている。伝承によると、平清経が入水自殺をしたのは駅館川の沖合であると言い、小松橋の名、そして、小松塚の名は平清経の父親である平重盛が小松殿と呼ばれていたことに由来している。

 平清経の死は平家に一つの決断をさせるに至った。現状まま海の上を航海するよりも、たとえ寄港地の反対があろうと強引に陸上に拠点を築き上げ失地回復の起爆剤とさせる決意を固めたのである。また、いかに情勢が平家不利に傾いていても平家方の武士はまだ西国に点在していた。平家は彼らの協力を獲得することにしたのである。

 平家物語によると、特に早い段階で動きを見せたのが長門国の目代である紀伊刑部大夫道資という者である。長門国は平知盛が知行国としており、平知盛が目代として派遣したのが紀伊刑部大夫道資だ。平家が小舟で航海しているのを知って心を痛めた紀伊刑部大夫道資はただちに一〇〇艘を超える大船を建造させて平家に献上し、平家は献上された大船に乗って四国に渡ったというのが平家物語の記載だ。ただし、この紀伊刑部大夫道資という人物の素性は詳しくわかっていない。平家物語の異本の中には橘道資と記しているものもあるが、橘氏の系図に橘道資という名の者は確認されない。また、そもそも平知盛が長門国の知行国主であったという記録は無い。ただし、この頃から平家方の武士が集うようになってきていたこと、四国に向かった平家が讃岐国屋島、現在の香川県高松市屋島に根拠地を構築するようになったことは判明している。なお、現在の高松市屋島は高松市の一地域をなす住宅地が麓に広がっている小高い地形の一帯になっているが、これは江戸時代以降の塩田開発と干拓事業の結果であり、この時代の屋島は文字通り島であり、四国とつながってもいなかった。

 屋島に到着した平家は、船を安徳天皇の御所とし、貴族たちは漁師の家を仮の住まいとした。


 寿永二(一一八三)年一〇月一九日、一人の貴族が姿をくらましたことで京都は騒然となった。平家都落ちに帯同しなかった平頼盛が姿を消したのだ。

 都落ちに帯同しなかった平頼盛が八条院暲子内親王の庇護を求めたことは誰もが知っている。問題はその後だ。

 一〇月二〇日になって平頼盛がどこに向かったのか判明した。関東の源頼朝の元に向かったのである。三ヶ月前まで平家の一員として軍勢を率い、権大納言として議政官で存在感を発揮させていた人が、単身とまでは言えないにせよ、我が子とごく一部の部下だけを連れて鎌倉に向かうのだ。たった三ヶ月でここまで境遇が変わってしまうことに多くの人が世の移ろいを感じ、未だ京都に姿を見せぬ源頼朝の恐ろしさを痛感させられた。平家の都落ちからまだ三ヶ月しか、厳密に言えば三ヶ月未満しか経過していない、しかも、片道半月、往復一ヶ月を要する京都と鎌倉との距離を踏まえなければならない源頼朝が、京都の情勢を把握し、平頼盛に接触して平頼盛を鎌倉に呼び出すのに成功したのである。これを脅威に感じない人がいるであろうか。

 源頼朝の見えざる手が京都にまで伸びていることを木曾義仲は把握した。一応は。

 京都から離れて西に向かった、すなわち京都にいないのは木曾義仲も源頼朝と一緒なのだが、距離が全く違う。このとき木曾義仲のいたのは播磨国だ。京都と目と鼻の先とは言えないにせよ源頼朝よりは京都に近いところにいたはずである。それなのに、木曾義仲の対応は遅い。いや、木曾義仲にしてみれば順当な対応なのであろうが、京都の人はどうやっても源頼朝と比べてしまうのだ。木曾義仲が後白河法皇と貴族たちを連れて北陸に向かうというデマが広まったのが一〇月一九日、このデマが事実無根であるという木曾義仲からの回答があったのが一〇月二三日である。木曾義仲はこれを順当と考えたであろうが、比べられる相手は源頼朝である。それも、上洛してこないためにかえって伝説となりつつある源頼朝との比較である。木曾義仲のリアルを京都市民の多くが見ているだけに、想像上の存在となっている源頼朝と何かと比較されてしまう。

 木曾義仲という人は、これから自分が向かおうとしている場所と現時点で自分がいる場所との情報連絡の重要性を理解している点においては平清盛より情報の重要性を理解していた人であるが、京都との間の情報連携の重要性を理解していなかったという点でも源頼朝に差を付けられている人であったとするしかない。

 なお、この混乱の影響を受けて、寿永二(一一八三)年一〇月二七日に執り行うことが予定されていた後鳥羽天皇の即位の儀の延期が決まった。もはや後鳥羽天皇の即位の儀も開催できないほどに混乱していたとするべきか、それとも、やはり三種の神器を取り戻してからでないと正式な即位とすることはできないという意見が続出したのか。そのどちらをとっても即位の儀の演技はやむなしである。


 木曾義仲が播磨国に留まっている間、平家は讃岐国屋島を本拠地として徐々に勢力を盛り返しつつあった。これは木曾義仲にも責任がある。いや、ここは木曾方の責任と言うべきか。

 何と言っても京都で繰り返した強盗、略奪、暴行、放火がこれ以上ない悪印象を生みだしていた。どんなに平家を嫌っている人であっても、木曾方の武士たちが京都でやったことを知ってなお木曾義仲を支持するなどありえない。

 しかも、舞台は瀬戸内海沿岸だ。強盗や暴行はともかく略奪なら平家もやったではないかという反論も、平家の略奪は遠くの北陸や東海道でのことであり瀬戸内海沿岸は平家の略奪の損害を被っていない。それどころか、平家が居場所を求めて船であちこちを航海してくれてきたおかげで、瀬戸内海沿岸ではそれまで苦しんでいた海賊の被害が減っているという現象も起こっていた。こうなると、平家の軍勢のほうが京都で乱暴狼藉を繰り返している木曾方を退治する正義の軍隊になってくる。

 木曾義仲は播磨国に留まったのではない。播磨国から先に進めなくなってしまっていたのだ。しかも、木曾義仲にはハンデが重なっていた。これから先はいかにして海戦をこなしていくかが求められる。要はいかに船を操って敵の船と戦うかだ。木曾義仲は海戦の経験が無い上に、木曾方の中に海上戦力も無い。そして何より、海そのものに対する知識が無い。北陸道を移動しているときに日本海を眺めることはあっても、木曾方の軍勢が水を意識するのは渡河のときぐらいであり、基本的には陸の移動だ。

 さらに大きなハンデが、兵力。

 まず、源行家が参加していなかった。

 安田義定とともに木曾方に参加していた甲斐源氏が悉く故郷に帰っていた。

 多田行綱らの摂津源氏らも既に木曾義仲と別行動をとるようになっておりこの頃にはもう京都を離れていた。

 さらに、北陸道を通ってくるときに木曾義仲とともに行動するようになった武士たちの多くが、本人、ないしは家臣を所領に帰すようになっていた。所領の保有権を維持するためである。

 また、木曾義仲が信頼していた樋口兼光は京都に残さなければならなかった。全軍を進軍させようものなら源行家に京都を奪われてしまう。また、出発当時は源頼朝が上洛するという噂も広まっていた。この両名の対策として、信頼できる樋口兼光を京都に残しておく必要があった。

 その結果、このときの木曾方の軍勢は京都上洛時の半分程度に減っていたとみられている。


 先に木曾義仲は、自分が向かおうとしている場所と現時点で自分がいる場所との情報連絡の重要性を理解している人だと述べた。これから向かおうとしている西国は木曾義仲にとって地理不案内なところであり、現地の情勢を把握するために適宜先遣隊を派遣させては進軍先の情勢を把握させ続けていたのである。先遣隊の派遣自体はどの時代のどんな軍隊でもすることだ。

 また、進軍先の情勢把握に備中国の武士である妹尾兼康を連れてきたこと自体は正しい判断であったと言える。現地を知る人がいるといないとでは先遣隊の成果が大きく違う。しかし、妹尾兼康が木曾方にいたのは妹尾兼康が木曾方に加わったからではない。倶利伽羅峠の戦いで加賀国の武士である倉光成澄に捕らえられ、これまでずっと捕縛され続けてきたのである。このような人を先遣隊の一員に加えるのは危険すぎる話であった。

 妹尾兼康は言葉巧みに木曾義仲にこれから先の先遣隊派遣に自分を同行させて欲しいと頼み込んだ。木曾義仲にしてみれば現地を知っている者である。倶利伽羅峠の戦いで妹尾兼康を捕縛した倉光成澄を先遣隊のリーダーとして派遣するならば備中国の情報も手に入るであろうという妹尾兼康の言葉に乗って、木曾義仲は倉光成澄を先遣隊として向かわせることに決めた。

 しかし、妹尾兼康の本音はそこにはなかった。備前国三石宿、現在のJR山陽本線三石駅のあたりで倉光成澄を殺害し、急いで備中国に戻って知り合いに声を駆け回って兵を集めて木曾義仲の進出を食い止めようとした。

 一方、木曾義仲はこの頃、ようやく源頼朝の上洛はないことを知り、兵を西に向けて進めることにした。まずは備前国、次いで備中国である。ところが、播磨国と備前国の境を為している舟坂峠にかかったとき、備前国三石宿で倉光成澄が殺害され妹尾兼康は故郷の備中国に戻って木曾義仲打倒の兵を集めているという知らせが飛び込んできた。これに激怒した木曾義仲はただちに今井兼平らに備中国への急進を命じ、想定外のスピードで福輪寺畷に到着して妹尾兼康の軍勢を襲撃。さらに板倉へと逃走した妹尾兼康の軍勢の残党を追いかけてほぼ皆殺しにしてしまったのである。福輪寺とは現在の岡山市北部あった寺院のことであり、畷とはまっすぐ伸びた道のことである。現在でも岡山大学にはキャンパスを東西に横切る直線の道路が存在するが、これが福輪寺畷の名残だ。板倉は現在のJR山陽本線吉備津駅のあたりで、現在も吉備津駅の近くに旧山陽道板倉宿があったことを示す史跡が残っている。

 先に挙げた舟坂峠は現在の兵庫県と岡山県の県境にもなっている峠であるため、木曾方は、兵庫県との県境から岡山市まで六〇キロメートル以上の道のりを一気に行軍してきたのだ。この時代の山陽道は現在のJR山陽本線とほぼ同じ経路を通っている。鉄道なら各駅停車でも一時間を要さずに移動できる距離であるが、この時代の移動手段は、鉄道ではなく自らの足だ。しかも、平地ではなく山道も頻繁にある移動である。それにもかかわらず六〇キロメートルもの道のりを難なく移動させた。このあたりは情勢を悪くさせていたとは言えさすがは木曾義仲とすべきであろう。

 ところが、さすがに木曾義仲と言えるのはここまでであった。

 平家の本隊が海を渡った四国にあると知った木曾義仲は、妹尾兼康らを殲滅させた勢いのまま、とって返す刀で海を渡って讃岐国屋島の平家の本隊を攻撃しようとし、船を確保するため、矢田義清と海野幸広の両名に指揮を命じて七〇〇〇騎の兵力を備中国水島、現在の岡山県倉敷市に先発させた。なお、現在でも倉敷市に水島コンビナートをはじめとする水島臨海工業地帯があるが、そのほとんどは大正時代以降の埋め立て地であり、この時代の水島はもっと内陸である。

 木曾方が屋島へ向けて出港するための準備を整えていることを知った平家は、屋島で待ち構えるのではなく水島に出向いて木曾方と海戦を挑むこととした。平家は自分たちのほうが軍船を操作するのに長けており、勝算を考えると海戦ないしは上陸戦に持って行くべきだと考えたのである。

 平知盛と平教経の率いる船団が四国から水島に向けて出港し、寿永二(一一八三)年閏一〇月一日、水島の沖合に平家の船団が姿を見せた。水島の軍勢は突如現れた船団に驚き、慌てて出港し迎え撃とうとするが、海の上では平家のほうが一日の長があった。また、平家物語の記載によると船の数そのものも平家のほうが倍近くあり、木曾方は二重に苦境にあった。操船技術の乏しさに加えて劣勢とあれば尻込みする。それでも船を出港させて船に乗り込んでの戦闘に打って出ようとしたが、その点でも平家方のほうが優勢であった。さらに、閏一〇月一日という日付にも意味があった。その日であることが平家方の戦局をさらに優位に働かせる理由であったからである。

 平家物語の伝えるところによると、平知盛は平家の軍船の間に板を這わせて海上に陣を敷いたとある。その上で、上陸戦を展開した。木曾方にしてみれば相手の船に打って出ようというところであり、これから船を出港させようというタイミングで船から馬に乗って次々と浜に上陸してくる平家の軍勢と対決することとなったのだ。

 さらにここに自然現象も加わった。日食だ。平家が閏一〇月一日という日付を狙っていたのはこのタイミングを計ったからである。源平盛衰記には、天がにわかに曇って日の光も見えず真っ暗になってしまったこと、木曾方のほとんどの者がこの天変地異に恐懼して取り乱したこと、一方で平家はあらかじめ日食が起こることを知っていたために予定通りに行動したことが記されている。

 そこから先は平家の軍勢の一方的な展開であった。

 軍勢の指揮を命じられていた矢田義清と海野幸広の両名ともに戦死。矢田義清の弟の足利義長も戦死。信濃国で木曾義仲が挙兵したときから木曾方の一員であり続けていた高梨高信と仁科盛家の両名も戦死。

 もはや屋島に渡って平家と戦うどころか軍勢そのものの存続すら危うくなった木曾義仲は、生まれてはじめて敗北の末の退却を体験することとなった。しかも、忠実な家臣、いや、友と呼ぶべき仲間たちの多くを失った上で。


 寿永二(一一八三)年閏一〇月一四日、備中国水島で木曾方が平家の前に大敗したとの報告が京都に届き、京都は騒然となった。後白河法皇は損害が大きくとも平家討伐は継続せよと木曾義仲に向けて使者を送り出したが、使者は想像より早く京都へ戻ってきてしまった。木曾義仲はもう京都の目と鼻の先まで戻ってきているというのである。

 略奪と暴行の痛手から立ち直りつつあったところで木曾方の軍勢が再び京都にやって来ることを知った京都市民は反木曾方で世論がまとまっていたものの、具体的に木曾方に対抗する手段を持っていない。庶民に残されていた方法は逃走だった。持てるモノを持ち、家族とともに京都を脱出する者が相次ぎ、京都は混迷に陥った。

 逃走したのは庶民だけではなかった。木曾方と別行動を取るようになっていた源行家は、平家討伐の院宣を実行するという名目で自分の率いることのできる軍勢を率いて西へ向かってしまった。木曾義仲との直接対決を避けるためである。

 閏一〇月一五日の夜、木曾義仲帰京。出発時とは比べものにならない少数の兵力となっていた木曾義仲の帰還は冷ややかな目で見られた。木曾義仲はただちに後白河法皇のもとへ参内しようとしたが、後白河法皇からの回答は、面会拒否。

 翌日一六日にも木曾義仲は再び後白河法皇のもとを訪ねたものの後白河法皇からの回答は同じである。それどころか、後白河法皇は信任の厚い平知康に命じて法住寺に武士を集め始めたのである。

 そして寿永二(一一八三)年閏一〇月一七日、後白河法皇は最後通告を発した。木曾義仲に対して京都からの追放を通告したのである。後白河法皇の強固な姿勢は京都市民の支持を集め、木曾義仲は京都で孤立するようになっていた。

 さらにこの頃の京都には一つの噂が広まっていた。鎌倉の源頼朝が、木曾義仲討伐のために自分の弟を代官として京都に派遣したというのである。この噂が広まったときはまだ源頼朝の代官の名が知られておらず、源頼朝の末弟、あるいは源義朝の九男が軍を率いて京都にやってくるという噂であった。この頃はまだ源義経の名が京都では知られていなかったのである。

 源義経についての記録が京都の貴族の日記に最初に登場したのもこのときである。九条兼実日記である「玉葉」の寿永二(一一八三)年閏一〇月一七日の記事に、水島で平家に敗れて京都に逃げ帰った木曾義仲が後白河法皇と対面した際に、木曾義仲はけっして敗走したのではなく、源頼朝が「頼朝弟九郎」を大将軍として数万の軍勢を率いて上洛することを企てたので、源頼朝らの軍勢から京都を守るために上洛したのだと苦しい言い訳をしたと記している。と同時に、頼朝弟九郎については「実名を知らず」とも記している。

 木曾義仲は源義経が京都にやってきていることを知ったのは間違いなく京都に戻ってきてからである。源頼朝の代官として源義経が京都に向かってきているという噂が広まったのは木曾義仲が京都に戻ってきてからであり、木曾義仲は京都に広まった源義経の噂を利用して自己弁明を図ったのだ。

 源義経が上洛する見込みだという噂は全くの嘘では無かった。源頼朝は実際に源義経を自分の代官として京都に送り込むことを決め、実際に準備を整えさせていたのである。何度も繰り返すが源頼朝という人は京都と鎌倉との間の月に三回の定期連絡のコネクションを持っている人だ。情報を受け取るだけでなく、鎌倉の情報を京都に届けることも源頼朝には可能であった。源頼朝からの第一報が京都に届き、弟を京都に派遣する予定だという話が広まった結果、源頼朝が京都を救いにやって来るという希望の噂となって広まったのだ。ただし、この段階ではまだ出発を決めたというだけで、源義経は鎌倉を出発していない。

 京都に着いてから知ったはずの源義経を言い訳に用いるほどに苦境に追い込まれていた木曾義仲について、このあと、二つのデマが京都を席巻した。

 一つは木曾義仲が平泉の奥州藤原氏と手を組んで鎌倉に攻め込むつもりだという噂。

 もう一つは木曾義仲が後白河法皇と貴族たちを連れて北陸に向かうつもりだという噂。

 その両方とも、このときに置かれていた木曾義仲の苦境を捉えつつ、木曾義仲がこのままでは終わるはずがないという恐怖心が生み出した噂である。

 さらに、これは噂ではなく実際の情報として、平家の軍勢が水島に上陸して備中国を制圧したのち、備前国にまで軍勢を進めてきているという情報が届いた。

 後白河法皇は改めて木曾義仲に対して平家討伐を命じ、改めて京都から出て行くように厳命。木曾義仲は源頼朝追討の宣旨ないし御教書の発給を要求し、受け入れられない限り京都から出て行かないと宣言した。

 木曾義仲と後白河法皇との間の妥協点の探り合いは続いていた。木曾義仲は何としても京都に留まった上で源頼朝討伐の法的根拠を獲得しようとし、後白河法皇は木曾義仲を京都から追い出した上で平家討伐を求めたのである。

 九条兼実の日記によると、寿永二(一一八三)年閏一〇月二〇日に後白河法皇から木曾義仲に向けて派遣された使者と対面したとき、木曾義仲から後白河法皇に向けて、源頼朝の上洛を促したこと、また、後白河法皇の院宣の中に東海道、東山道、北陸道に下した宣旨に従わない者は源頼朝に追討させるとの文言があったことは生涯の遺恨と述べたとある。木曾義仲の敵は平家だけではない。もはや偶像になりつつある源頼朝も木曾義仲の敵なのだ。


 時間を追う毎に源頼朝が京都に送り込む代官の様子が明瞭になってきていた。当初は末弟の源義経だけの名が挙がっていたのが、時間とともに源範頼も代官として京都にやって来るという話になり、兄弟の率いる軍勢は決して大軍ではないが、それまで滞っていた東国からの年貢を京都に送り届けるために大量の物資を携えてきているという噂になったのだ。平家の統治下では飢饉に苦しみ、木曾義仲のもとに降ってからは強盗と暴行と略奪が繰り広げられてきたのが京都である。その京都に大量の物資を送り届けるというのは、寿永二(一一八三)年九月二〇日に、源頼朝から引出物として大量の物資が届けられたことがあったきりである。それが、今回はそのときをはるかに超える量だというのだ。これで源頼朝の偶像化にさらに拍車が掛かった。

 源頼朝のさらなる偶像化に直面した木曾義仲は、閏一〇月二四日に一つの対案を示した。志田義広に備後国を賜う前提で志田義広を平家追討使に指名することを求めたのである。軍略を考えると木曾義仲の主張はあながち間違っていない。何と言っても備前国にまで侵攻してきている平家を挟み撃ちにできるのである。ただし、軍略には意味があっても政略には問題があった。そもそも、志田義広にそこまでの指揮命令能力は無いし、志田義広に臣従する部下はきわめて少ない。ただでさえ減ってしまった木曾方の一部を与えたにしても、彼らは木曾義仲のもとで戦うのは納得しても志田義広のもとで戦うのは納得していない。そんなことをするぐらいなら時流に乗って源頼朝のほうに降る方がマシだという声が公然と聞こえるようになったのである。

 木曾義仲はともに源頼朝を討伐しようと南都の興福寺に声を掛けることもしたが、南都焼討からの復旧途上である興福寺はそれどころではない。仮に南都焼討が無かったとしても、平家相手ならばともかく、何の関係もない源頼朝の討伐になど応じるつもりはない。

 その間も刻一刻と鎌倉方の軍勢は京都に近づいてきており、寿永二(一一八三)年一一月四日、源義経をはじめとする源頼朝の派遣した代官らが美濃国の不破関に到着したという連絡が届いた。もう美濃国にまで来ているという知らせに京都は期待感に満ちあふれるようになり、反比例するように木曾義仲の周囲から人がどんどんと減ってきていた。

 どこへ行くのか?

 後白河法皇のもとである。

 後白河法皇の周辺では以前から、源頼朝の指揮下に木曾義仲を置かせることで清和源氏の勢力を統一させて平家と対抗させようという融和派と、源頼朝に木曾義仲を駆逐させて源頼朝に平家と対抗させようという強硬派に分かれるようになっていたが、鎌倉から源頼朝の派遣した軍勢がやってきているという知らせを契機に強硬派が大勢を占めるに至り、木曾義仲の駆逐のために木曾義仲以外の清和源氏を院御所に集めて警護をさせること、すなわち、いったん後白河法皇の指揮下に軍勢を集めることで木曾義仲を孤立させ、木曾義仲を駆逐させやすくする動きが見られるようになったのである。

 寿永二(一一八三)年一一月七日、源義経らが近江国に到着したという知らせが届くと、源行家をはじめとする木曾義仲以外の清和源氏の諸将が後白河法皇の命令下に入り院御所の警護を始めるようになった。

 ところがここで計算違いが起こった。木曾義仲も後白河法皇の命令下に入り院御所の警護に加わるようになったのである。木曾義仲とて自らの状況を理解していないわけではない。このまま孤立してしまったら自分の身の破滅も現実の物となることぐらいわかる。そうさせない方法の一つが、自分自身が後白河法皇の命令下に入ることで、後白河法皇をはじめとする院御所の軍勢全体が一つの軍団となり、鎌倉から派遣された軍勢と対抗ないしは融合することであった。


 木曾義仲の行動に危機感を覚えたのが源行家である。このままでは院御所全体が鎌倉方の襲撃を受けかねないとして、寿永二(一一八三)年一一月九日に、既に発令されていた平家追討の院宣に従うとして軍勢を率いて西へ向かったのである。この人が京都から離れては何もせずに京都に舞い戻ってくるのは珍しい話ではなくなっていたが、その全てで明確な意思表示があった。平家と戦うかどうかは関係なく、このままでは戦乱に巻き込まれる可能性が高いから脱出するのである。源行家には本心から平家の軍勢と戦う意欲などなく、ほとぼりが冷めたら京都に戻ろうという魂胆を隠しはしなかった。元から源行家という人は多くの家臣を付き従わせるような魅力そのものを持っていない人であったこともあるが、さすがに今回の源行家の行動は下品と見られたのか、ただでさえ少なかった源行家と行動をともにする武士はさらに減り、わずかに二七〇騎ほどであったという。

 この二七〇騎のほとんどは源行家と同じことを考えていたであろう。一時的に混迷となる京都を自分たちは脱出し、一段落ついたところで安定を取り戻した京都に帰還する。後ろ指をさされることはあろうが、何と言われようと生きて戻ること以上の正しい選択はない、と。

 ところが、この二七〇騎は全く想像もしていなかった相手と直面することとなった。平重衡率いる軍勢が備前国を行軍しており備前国で合戦となってしまったのだ。源行家らが平重衡率いる軍勢と衝突したという知らせを受けた京都では、いち早く京都を脱出したはずの卑怯者であったはずの源行家らが、誰よりも先に平家討伐に向けて動き出した勇気ある部隊という評価に一変した。

 源行家の評価が一変したことは木曾義仲の立場をより一層悪化させることにつながった。既に平家を討伐せよとの命令が出ており、源行家は二七〇騎というわずかな手勢しか用意できなかったのに平家のもとに向かっていったのである。木曾義仲も出向くべきという圧力が強くなっていったのだ。

 木曾義仲に対する圧力は、寿永二(一一八三)年一一月一二日に平資盛から京都へ戻るつもりであることを告げる知らせが後白河法皇の側近である平知康のもとに届いたことでさらに強まった。平家からの知らせが届いたのは、平家が平和裏に京都に戻ってくることを意味するのではない。平家としては木曾方と真正面から向かい合うことも厭わない、それも京都を舞台とする戦争となることも厭わないという意思表示であったのだ。また、源行家が平家の軍勢と対峙したという知らせは届いていたが、その後の知らせは届いていなかった。その状況下で平家からの上洛予告が届いたことが意味するところは一つだった。水島での勝利に引き続いて平家は源行家も倒し、山陽道を進んでいる最中なのだ。実際のところ源行家は無事であったのだが、その知らせを京都に届ける手段はなかった。源行家の無事が京都に届いたのは一一月二八日になってからである。

 源行家の無事の知らせをまだ受けぬまま平家が京都に攻め込んで来るという知らせのみを受けた後白河法皇は京都全体を守ることは不可能と判断。延暦寺の僧兵を招聘し、園城寺の僧兵であった者も雇い、失業者も石投げ兵として雇い入れ、法住寺殿の周囲に堀や柵をめぐらせて要塞化しはじめた。なお、堀と言っても現在の皇居周辺で思い浮かべるような水を張った堀ではなく、水は張られていない。水を張ったほうが防御性を高めることができることは知られていたが、そこまでの時間的余裕はないのと、馬での侵攻を食い止めることが第一義であることから掘削するだけで最低限の要件を満たせたからである。


 寿永二(一一八三)年一一月一七日、多田行綱や源光長といった清和源氏の武士が木曾義仲との決別を宣言し、木曾義仲と後白河法皇との関係がこれ以上悪化するならば後白河法皇の側につくと通告した。その上で木曾義仲に対して木曾義仲に臣従する兵だけを率いて平家討伐に向かうように求めた。

 さらに後白河法皇は木曾義仲に対してただちに西方に出陣しない場合は謀反と見なして処罰するという最後通告を発した。

 自分に向けられた平家討伐を求める姿勢に対し、木曾義仲は鎌倉からの源頼朝の軍勢が入京しないと確約されない限り西方に向かわないと返答したものの、後白河法皇からは源頼朝は正当な理由があって京都へ軍勢を派遣しているのであって、木曾義仲が合戦に訴えてでも源頼朝の軍勢の上洛を拒否するならば京都から離れて自分一人で勝手にやってくれという、突き放しとしか形容できない応対を見せた。九条兼実は後白河法皇に対し、木曾方は当初の上洛時よりかなり減ってはいても個々の戦闘能力は高いことを主張して後白河法皇の軽挙を諫めたが、後白河法皇は九条兼実の言葉に耳を傾けなかった。なお、この頃にはどうやら文覚は平安京を離れて神護寺にいたであろうことが推測される。

 木曾義仲に残されている選択肢は二つしか無かった。軍勢を率いて西方に向かい平家と戦うか、軍勢を率いて後白河法皇と戦うかである。後者の場合、これまで自分たちとともに行動してきた武士の多くが後白河法皇の側に立って木曾義仲と戦うこととなるが、自分が生き残ることのできる確率は後者のほうが高い。今の木曾義仲に平家は倒せないが、いかに法住寺が武装を固めてきているとは言え、木曾義仲が本気を出せば法住寺を攻め落とすことは可能だ。

 一一月一七日の夜に八条院暲子内親王が法住寺を去り、翌一一月一八日には北陸宮、上西門院統子内親王、後白河天皇第一皇女の亮子内親王も法住寺殿を去った。

 後白河法皇は法住寺を脱した人たちと入れ替えるかのように、後鳥羽天皇、後白河天皇第二皇子の守覚法親王、後白河天皇の第四皇子の八条宮円恵法親王、天台座主明雲を呼び寄せた。名目上はここならば安全だからというものであったが、どう考えてもこれは人間の盾である。

 これで木曾義仲の腹は決まった。平家が京都に襲い掛かってこようが知ったことではない。法住寺に攻撃を仕掛ける。これは木曾義仲の決断だ。

 この時点で木曾義仲と行動を共にしている武士とは、木曾義仲の挙兵からずっと木曾義仲と行動を共にしてきた武士、あるいは、北陸での戦いにおいて木曾義仲に心酔するようになった武士である。双方とも木曾義仲への忠誠心という点では全く問題が無かった。

 法住寺で何が起こったのかを伝える同時代史料は何と言っても右大臣九条兼実の日記である。ただし、九条兼実は現地におらず、戦乱に巻き込まれる可能性が高いとして息子の九条良通の邸宅へと避難しており、避難の途中、法住寺のあたりから黒い煙が立ち上っているのを目撃している。法住寺は鴨川の東にあり、平安京の区画でいうと七条大路から八条大路に掛けての一帯と鴨川を挟んで向かい合っている。川沿いには多くの民家がひしめいており、その民家もまた火災に巻き込まれていたのを九条兼実は目にして、日記にその様子を書き記している。息子の邸宅のもとに避難した後も法住寺で起こっていることの情報を受け続け、その内容を日記に書き記してくれている。ゆえに、法住寺で起こっていることを少し離れた人がどのように眺めたのかの同時代の記録ならばある。

 ただし、それは法住寺の中にいた人たちが実際に体験した当事者の記録ではない。

 一方、平家物語は法住寺で起こったことをドラマティックに、しかし、過大な脚色も加えて書いている。誰がどのような運命を迎えたのかについて同時代史料と比較すると全体的には間違っていないことがわかるものの、本当に平家物語に記されている通りであったとは言い切れない。


 寿永二(一一八三)年一一月一九日、法住寺の戦いの幕が開けた。これより書き記すのは、平家物語が寿永二(一一八三)年一一月一九日に法住寺で起こったこととして書き記していることのうち、同時代史料から法住寺の戦いにおける事実、ないしは事実である可能性が高いと判断できる事柄である。

 法住寺の戦いの始まりは、木曾義仲が法住寺への突撃を命令した一一月一九日の朝である。木曾義仲はこれから源氏同士の戦いになること、すなわち、平家を相手とするのと違って双方とも白旗をシンボルカラーとしている者同士の戦いになることを見据え、木曾方にある者は全員、松の葉を目印として兜や烏帽子につけるように命じた。

 木曾義仲は、今井兼平、樋口兼光、楯親忠、根井行親の、後世の人が義仲四天王と呼ぶこととなる四名の武士に指揮を執らせ法住寺への突撃を開始させた。

 攻撃開始とともに戦況は木曾義仲優位に働いていった。法住寺の中には武士もたくさんいたが、それよりもっと多かったのが僧兵たちである。僧兵というものは長刀や太刀を武器とすることが多く、弓矢を武器とすることはほとんど無い。これに対し、この時代の武士はそのほとんどが弓矢を主力の武器としている。遠距離戦と接近戦との対決は遠距離攻撃できる側が矢の雨で圧倒させることに成功すれば圧倒的優位に働く。それは法住寺でも言えた。

 法住寺がいかに防御を固め、堀を巡らせ、人間の盾まで用意して襲撃に備えたとしても、これからどうなろうと法住寺を焼き尽くしたって構わないと考えるような相手を敵にしては襲撃に勝てはしない。木曾方から放たれる矢は、相手に突き刺さる矢だけでなく、建物を燃やすための火矢も含まれていた。火矢によって法住寺は炎に包まれ、法住寺の中で待機していた僧兵や武士たちは混乱した。九条兼実が目撃した黒い煙とは、火矢によって法住寺が炎に包まれたときに発生した煙である。

 法住寺の火災からどうにか脱出できた武士も京都市民の復讐のターゲットになった。戦いの前、後白河法皇から京都市民に対して、戦闘で落人が出るであろうから、可能に限り屋根の上に立って、戸を盾にして矢を防ぐと同時に遠慮せず屋根の上から石を投げつけて落人を打ち殺してしまえという周知がなされていた。ここでいう落人とは本来であれば木曾方のことだったのであるが、実際にターゲットになったのは法住寺の炎から真っ先に脱出することに成功した多田行綱ら摂津源氏の面々であった。摂津源氏たちは、自分らは後白河法皇を守ってきた武士であることを告げたが、その言葉に耳を傾ける者はいなかった。木曾方でなくとも、木曾義仲と一緒に上洛して京都で強盗をし暴行をし放火しまくってきた武士たちである。後白河法皇の赦しを得たという正々堂々と復讐できる機会など滅多にあるものではない。多田行綱自身はどうにか脱出に成功したものの、摂津源氏の多くが容赦なく石をぶつけられ大ケガをし、中には命を落とす者もいた。この時代の庶民の家の屋根は、台風などで屋根が吹き飛ばないように板葺きの上に石を置いて重しとすることが珍しくなかった。屋根が吹き飛ばないように置いてある重めの石である。野球のボールほどの大きさの石であってもぶつけられたら怪我するが、投げつけられる石は野球のボールで済むような小ささではなく、通常はサッカーボールほどの大きさがある。それを屋根の上から人間の頭めがけて投げ落とすのだ。命を落とす武士が出てもおかしくない。ついでに言えば、板葺きの上に石を置く構造の家の場合、年に一度の屋根のメンテナンスが必須であったため、武士にめがけて石を投げ落とすのは、復讐に加えて、屋根のメンテナンスのついでという意味合いもあった。武士に対する人権が完全に欠落しているが、木曾方がやってきたことに対する復讐心の前には人権意識が働かなくなる。

 京都市中に逃れることは命の危機に直面すると知れ渡ったことで、敗走先の選択肢から平安京内を通過する敗走という選択肢は消えた。攻め込む木曾方にとっては敵兵の敗走先を絞り込みやすくなったことを意味するため、敗走先に軍勢を集中して配備することで、木曾方にしてみればより鮮やかな勝利が、それ以外の人にとっては容赦ない大量殺戮が展開されることとなった。たとえば、比叡山延暦寺の僧兵たちも多くは法住寺の外に出て長刀や太刀で奮闘したが、弓矢に対処できず次々と討ち取られ死体の山を築いていき、一部の僧兵が逃走するに成功するだけであった。主水正(もんどのかみ)である清原親業は馬に乗って逃走しようとしたところ今井兼平に追いかけられ、首を射られて亡くなった。清原親業は明経道の直講、現在でいう大学の哲学科の常勤講師であると同時に宮内省の主水司(もんどのつかさ)、すなわち、皇室の上下水や氷室の管理をする部署の最高責任者であるという、およそ戦闘とは縁遠い人生を過ごしてきた文人であったが、このときは軍事未経験の文人も武装していたのである。このような事態になっただけでも当時の人は京都が迎えている危機の深刻さを理解し、そして、嘆いた。

 武装とは無縁であったはずの人生を過ごしてきた者まで射殺されたのであるのだから、武士や武官に至ってはどうなるか、また、法住寺に集っていた貴族もどうなるか。運命は一つである。

 まず、木曾義仲と同じ信濃国出身の清和源氏である村上基国が討たれた。

 村上基国の戦死にはじまり、治承三年の政変時に近江守に就任した高階為清も、過去に越前守を務めた経験もある藤原信行も射殺されて首をとられた。木曾義仲とともに上洛してきた源光長も、源光長の次男の源光経もともに討たれ首を刎ねられた。

 播磨守をもつとめた源雅賢は、姓だけを見ると清和源氏に見えるが武門とは無縁である宇多源氏出身の貴族である。それでも自分は源氏であるからと鎧に立烏帽子の姿で戦陣に赴き、命を落とさずには済んだものの樋口兼光に生けどりにされてしまわれた。

 天台座主明雲も後白河法皇の皇子である円恵法親王も馬に乗って避難しようとしたが、武士の弓矢のターゲットとなり、命を落とし、首を切られた。守覚法親王が無事であったのは奇跡とするしかなかった。

 命を落とさずに脱出することに成功した人は少なく、舅が平頼盛で一条能保が甥である持明院基家こと藤原基家のように親族のツテを頼って鎌倉まで逃れることのできた貴族は極めて乏しい例外であった。ただし、絶対に殺害してはならぬと厳命されていた二人については無事に保護された。後鳥羽天皇と後白河法皇である。さすがに木曾義仲もこの二人に何かあったらこの国はどうなってしまうのかを理解している。ゆえに何があろうと身柄を確保すること、間違えても命を落とすなどさせないことを厳命していた。ただし、後鳥羽天皇も、後白河法皇も、身柄拘束のあとで幽閉が待ち構えていた。後鳥羽天皇は閑院へ、後白河法皇は五条内裏へ、御幸という名目で護送されることとなった。

 摂政近衛基通は木曾方が攻め込んでくる前に脱出することに成功していた。宇治方面へと逃走したのだという。木曾義仲は追いかけることを命じはしなかった。放っておいたというのが正解であろう。

 寿永二(一一八三)年一一月二〇日、前日の戦勝の誇示のため五条河原で討ち取った者の首を並べた。なお、平家物語ではここに並べた首の中に天台座主明雲と後白河法皇の皇子である円恵法親王の首をはじめとする六三〇もの首が並べられたとあるが、九条兼実の日記には源光長をはじめとする一〇〇もの首が晒されたとあるものの天台座主明雲と円恵法親王の首が並べられたことの記載は無い。

 ここに法住寺の戦いは終わった。


 平家物語では法住寺の戦いの後、木曾義仲が、自分は天皇になろうか法皇になろうかと悩み、天皇となるには元服前に姿をしなければならず、法皇になるには出家しなければならないとして、だったら関白にでもなろうかと相談したところ、木曾義仲から相談を受けた覚明(かくみょう)から、関白は藤原氏しか就くことができないとして木曾義仲は関白就任を断念したという逸話が挿入されている。

 平家物語は木曾義仲を無知者として様々な逸話を挿入しており、このときの逸話が木曽義仲の無知の発露の極地であるが、これは完全に虚構である。

 なぜこれが虚構と断言できるとかというと、この時代の人に天皇とはどのような存在で、法皇がどのような存在であるかを知らない人はいないと断言できるからである。それでも木曾義仲が例外的に天皇と法皇とがどのような存在であるか知らない人であったかも知れないという反論についても、法住寺への襲撃時に後鳥羽天皇と後白河法皇については絶対に殺害してはならないという命令を飛ばしており、最終的に幽閉とはなっても安全な場所に護送させていることからわかる。

 さらに、木曾義仲が天皇になろうか法皇になろうかと相談した相手として覚明(かくみょう)の名が出ているが、既に述べたように覚明(かくみょう)はもう木曾義仲のもとから姿を消している。覚明(かくみょう)は姿を消したのではなく目立たなくなっただけで実際には木曾義仲の側にいたのかと思って探してみても、木曾義仲の近くに覚明(かくみょう)とおぼしき人がいたという記録が全く無い。そもそも覚明(かくみょう)がいるなら木曾方がここまでメチャクチャになっていたとも考えられない。

 また、平家物語では自分が関白になろうかと言うも藤原氏ではないので断念したとなっているが、後鳥羽天皇の年齢を考えればそもそも関白はあり得ない。あり得るとすれば摂政だ。摂政となると後鳥羽天皇の近親者であることが求められるので、後鳥羽天皇と血縁関係の無い木曾義仲に摂政となる資格は無い。ただし、平清盛がしたように摂政を自らの傀儡とすることはできる。

 平家物語によると木曾義仲はこのとき、松殿基房の娘を強引に自分の正室として迎え入れたという。これで木曾義仲は藤原摂関家とつながりを手にしたこととなる。木曾義仲の女性関係でいうと巴御前を思い浮かべるのであろう人もいるが、巴御前は木曾義仲の愛妾であり正式な婚姻関係にはない。また、源頼朝の元に我が子の源義高を人質として差し出したではないかと思うであろうが、源義高の母は不明である。中原兼遠の娘が源義高の母であると推測されているがはっきりとはしていない。はっきりしているのは寿永二(一一八三)年一一月時点の木曾義仲は松殿基房の娘を正室として迎え入れても問題ない婚姻状況であったということである。なお、平家物語によれば強引な結婚であったというが、実際には松殿基房のほうから娘を木曾義仲に向けて差し出したという。ただし、その記録を残しているのは九条兼実なので、平家物語も色々と差し引いて考えなければならない書物だが、九条兼実の日記である玉葉も、この点については差し引いて考えなければならない。

 平家物語において差し引いて考えなければならないのは、寿永二(一一八三)年一一月二一日に木曾義仲の指令のもと、法住寺の戦いの後始末としての大幅な人事改定があったという点で、平家は四三名であったのに対し、木曾義仲は四九名を数え、木曾義仲は人事において平家以上の悪逆をなしたと記しているが、吉田経房は四四名と人員だけを書き記し、九条兼実は実名で記すこと一七名のほかに、その他として二六名が対象となったとしている。ちなみに、平家物語は一一月二三日のこととしているが、公卿補任では一一月二一日以降のこととなっている。吉田経房の日記には一一月二八日のこととあり、九条兼実の日記だと一一月二〇日と一一月二九日に分けて書いている。

 考えられる時系列としては、右大臣である九条兼実が人事に関する最初の話を知ったのが一一月二〇日。その翌日の一一月二一日より上位の役職より人事改定がはじまり、一一月二八日までに完了させたというところであろう。九条兼実の日記が一一月二〇日と一一月二九日に分かれて記しているのは、二〇日は第一報、二九日は全体が終了した後のまとめとして記したとあれば辻褄が合う。


 法住寺の戦いに関わる人事改定として確認できるのは以下の通りである。

 近衛基通こと藤原基通、摂政を解任。

 徳大寺実定こと藤原実定、内大臣を解任。

 新たに摂政内大臣として、松殿基房の子で、木曾義仲の義弟となった松殿師家こと権大納言藤原師家が昇格した。権大納言から大納言を飛ばしていきなり内大臣に昇格することはよくある話であったし、内大臣が摂政を兼ねることは珍しくなかったが、位階が正三位である貴族が摂政となるのは異例のことである。さらにここにもう一つ異例が加わる。その異例なこととは、松殿師家の年齢。なんと一二歳だ。しかもこれは数え年での一二歳であるから現在で言うと小学五年生である。まだランドセルを背負って小学校に通っているような年齢の男児が摂政内大臣となったというだけで、木曾義仲の権勢がどうこうという以前に、木曾義仲に対する不信感と同時に、木曾義仲と手を組んだ松殿基房に対する不信感が強固なものとなる。

 役職をもう少し下に見ていくと、花山院兼雅こと権大納言藤原兼雅、出仕停止。解職となったわけではないが、職務を停止させられている。花山院兼雅が出仕停止となったのは公卿補任では一一月八日のこととなっているが、これは公卿補任の誤記であろう。

 藤原朝方、中納言を解任。

 持明院基家こと、参議藤原基家、参議を解任。

 議政官に身を置かない者を挙げても、太宰大弐藤原実清、大蔵卿高階泰経、右近衛中将播磨守源雅賢、右馬頭源資時、肥前守源康綱、伊豆守源光遠、兵庫頭藤原章綱、越中守平親家、出雲守藤原朝経、壱岐守平知親、能登守高階隆経、若狭守源政家、備中守源資定が解任の対象となった。なお、九条兼実はここに参議右大弁平親宗も解任された対象として挙げているが、平親宗が参議を辞任したのは一二月末に入ってからであり、木曾義仲が全く絡んでいないとは言えないが、寿永二(一一八三)年一一月の関連であるとは考えづらい。

 合わせて、本来であれば検非違使のための役職であるが武士に与えられることが多くなっていた官職については大規模な解任となった。

 左衛門尉。平知康、中原知親、藤原信盛、橘貞康、源清忠、清原信貞、藤原資定、藤原信景、卜部康仲が解任。

 右衛門尉。源季国、藤原友実、安倍資成が解任。

 左兵衛尉。藤原時成、藤原定経、藤原実久、平重貞、藤原家兼が解任。

 右兵衛尉。大江基兼、平盛茂、藤原基重が解任。

 左馬允。藤原重能、藤原道貞、藤原基景、藤原遠明、中原親仲、中原親盛、平盛久が解任。

 ただでさえ瓦解していた警察権力はここに消滅した。後に残ったのは、何をしても許されると考えている木曾方だけである。彼らが警察権力を保有していることは誰もが認めることであったが、彼らが警察権力を発動させることは、皆無とは言えないがほとんど無かった。

 おまけに、上記に挙げられた人は漏れなく所領を没収されている。その代わりに木曾方、あるいは、木曾義仲に近しい人に与えられることとなった。

 木曾義仲一人でここまでやったわけでも、松殿基房が木曾義仲を介してここまでやったのでもない。木曾義仲個人の怨念と松殿基房の怨念が合わさってしまった結果がこうだったのだ。もはや政権がまともに機能しなくなったのである。

 それでも一度完全に壊してから構築するという社会変革方法はゼロではない。ただし、そこには壊した後で立て直す人が必要となる。その多くはまさに壊されたことの損害を被った人だ。壊れてしまった社会を立て直すために、本心からか、あるいは義務感からか、背面服従であろうと壊した本人に臣従することで社会を立て直そうという気概が生まれるところから社会の建て直しは始まる。貴族界や官界に身を置いてきた人にとっては解任からの復帰がその第一歩であり、復帰のために手のひらを返すことも珍しくない。それはプライドを捨てたからではなく、社会が破壊されたままでも構わないというプライドを持ち合わせていないからである。

 ただ、木曾義仲も松殿基房も全く理解していなかったことがあった。今までの貴族は解任されることが人生の破滅を意味する痛事であり、背面服従を決意して自分を解任した相手に全面降伏することも珍しくなかったのに対し、この時点の貴族たちにとっての解任とは、たしかに痛手であるものの、それと政界復帰を目標として手のひらを返し全面降伏するようになるのとは全くつながっていなかったのだ。

 今までであれば解任されたときの選択肢は時代の権力者に全面降伏し許しを請うことだけであったのだが、寿永二(一一八三)年一一月時点で考えるとその他に選択肢が二つ存在した。一つは西に降って平家の庇護を受けようとすること、もう一つは東に降って鎌倉の庇護を受けようとすることである。前者の場合は平家に対する反発が平家の都落ちと木曽義仲を招いたので、平家に対して手のひらを返すこと、すなわち、プライドに関わる問題になる上にあまり得策ではない選択肢となる。しかし、源頼朝の庇護を受けることは充分に理解できる選択肢であった。そもそも源頼朝が源氏を率いて平家を追い出すと考えていたところに、源頼朝とは別の源氏勢力としてやってきたのが木曾義仲だ。源頼朝が平家を打倒して新しい日本国を作り出すという本来あるべき姿に協力すると示せば、木曾義仲と松殿基房の傀儡政権下での解任など、悲劇どころか、未来における自身の権力基盤の構築にすらなる。

 特に彼らの希望となったのが、鎌倉へと向かった平頼盛に対する処遇だ。文句なしの平家一門である平頼盛が都落ちに付き従わずに離脱し、八条院暲子内親王のもとに身を寄せた後で源頼朝のもとに向かったことは、この時代であれば知らぬ者はいない。それでも父や兄の敵(かたき)でもある平頼盛が源頼朝のもとで安全あると考えた者はいなかった。良くても捕縛、普通に考えれば鎌倉の地で斬首されるであろうというのがこの時代の人のほとんどの思いであったのだ。

 その思いを源頼朝は完全に覆した。平頼盛は単身鎌倉に乗り込んだのではない。息子たちと郎等二人とともに源頼朝と面会したのである。つまり、平頼盛一人の命ではなく、平頼盛の一族全体の命を賭けての面会であったのだ。一方、源頼朝も一人ではなく五〇人を超える御家人とともに平頼盛と面会した。こうなると個人的な面会ではなく鎌倉方の意思が公表される面会となる。そして、この面会の結果、平頼盛は鎌倉から一日の行程にある相模国の国府が平頼盛の宿所として充てられ、相模目代が平頼盛の世話役に任命されたのだ。このときの平頼盛は、理論上こそ無位無冠であるが、直前まで正二位権大納言であった人であり、源頼朝は、父の敵(かたき)でも兄の敵(かたき)でもある平頼盛を、自分を頼ってきた貴族として遇したのだ。その代わりに源頼朝は、新しい日本国を作るための協力を平頼盛に求めた。平頼盛は源頼朝の協力に応じたのである。

 平家一門の平頼盛ですらこのような待遇を得られたのであるから、平家を打倒してきたものの木曾義仲と対立して京都にいられなくなった貴族にとっては、鎌倉に行く、いや、鎌倉に頼るというそれだけで、平頼盛が得た待遇と安全を獲得できるようになったことを意味する。

 木曾義仲はこうした源頼朝と比較される、それも京都に姿を見せていないために偶像化がますます増幅している源頼朝と比較されるのである。憤懣(ふんまん)遣(や)る方(かた)無(な)いという語はまさにこのときの木曾義仲の心境を示すための言葉である。法住寺の戦いだけに焦点を当てれば木曾義仲は勝者である。しかし、戦乱全体では木曾義仲が敗者となる運命が刻一刻と近づいてきていた。


 寿永二(一一八三)年一一月二九日、京都に源行家の動静が伝わった。源行家は播磨国室山、現在の兵庫県たつの市に陣を構える平家の軍勢に対して攻撃を仕掛けるものの、平重衡に加え、平知盛も指揮に加わった平家の軍勢の前に敗れ去り、半数近く兵が戦死し、源行家はいったん高砂まで退いたのち、海路で和泉国に到着し、河内国に入り、現在の大阪府河内長野市にあった長野城に籠もったというのである。

 木曾義仲は平家討伐を命じられたはずなのに京都からは動かず、京都から平家討伐に向かった源行家は京都に戻らずに河内長野に籠もる道を選んだ。

 平家が播磨国にまで進んでいることは判明しており、その東隣は摂津国、かつて平家が首都に選んだ福原だ。脱出時に燃やしたはずの福原に戻って平家が一大勢力を築き上げることが現実味を帯びてきたのである。

 さらに一二月一日には鎌倉から派遣されてきた源義経らの軍勢が伊勢国にまで到達しており、既に和泉守平信兼が伊勢国の鎌倉方側で立つことを宣言したという情報も届いていた。平信兼は平家一門として河内守に就任していたが木曾義仲の上洛時に姿を隠すことに成功し、その甲斐があったのか法住寺の戦いの後も河内守から解任されることなく一二月一日時点でも河内守であり続けることができていた。

 普通に考えれば平信兼が鎌倉方を選ぶことはありえない。何しろ平信兼にとって源頼朝は息子の敵(かたき)なのだ。平信兼の息子の名前は山木兼隆、そう、源頼朝の挙兵における最初のターゲットとされた人物の実の父が平信兼なのである。その平信兼が木曾義仲打倒という目的のために私怨を捨てて源頼朝のもとに降ったという知らせは木曾義仲をさらなる絶望の淵に追いやるニュースであった。

 これを木曾義仲の立場で捉えると、西から平家が、東から鎌倉方がやってきているという挟み撃ちになっていることに加え、もはや反発は隠せなくなっていたがそれでもともに行動してきた源行家が、今となっては戦力としても期待できなくなってしまっていることを意味する。

 さらに大問題となったのが法住寺の戦いで所領を没収して部下たちに分け与えたことだった。所領を新たに手にしてもなお京都に残っている者は多かったが、新たに手にした所領のもとに向かっていく者も少なくはなかったのだ。自分自身が向かうケースもあれば、自分の信頼できる部下を代官として派遣するケースもあった。そのどちらも木曾方の総力を減らすことにつながったのである。

 二方面作戦を強いられることとなった木曾義仲は、伊勢国まで来ている源義経ら鎌倉方の軍勢と、播磨国まで来ている平家の軍勢とを比較し、自分の現在の戦力で倒せる側を選んだ。一二月二日、木曾義仲から播磨国の平家に起請文が送られた上で和平交渉に乗り出したのである。平清盛の遺言は源頼朝の打倒であるのだからその点では目的は同じであるとし、木曾義仲は平家と手を組む用意があるとしたのだ。

 結論から言うと、交渉に長引いた。平家にしてみれば悪い話ではない。源氏の内部で勝手に争ってくれて兵力をすり減らしてくれるのだからありがたい話である。一方で、木曾義仲が上洛してから何をしてきたか、法住寺の戦いで何をしたかを平家は知っている。京都の破壊の度合いの甚だしさを考えたとき、ここで木曾義仲と手を組と言うことは京都を破壊したことの怒りの矛先を平家まで浴びることになってしまう。京都中に平家憎しの感情が渦巻いていたのは過去の話であり、今は平家の方がマシだったという感情が広まっている。ここで木曾義仲と手を組むというのは、ようやく手にし始めた世論をそのまま失うことになってしまうのだ。

 平家視点でゴールを考えると、源氏を打倒してもう一度天下を手にすることがゴールである。そのために源氏同士で疲弊することは歓迎するが、そのために木曾義仲と手を組むことはあり得ないのだ。


 木曾義仲が貴族としての教育を全く受けてこなかったことは木曾義仲自身も認めざるをえないことであった。だからこそ、文武のうちの武については木曾義仲自身が引き受け、文については覚明(かくみょう)に任せるという選択をしたのだが、覚明(かくみょう)の姿は木曾義仲の上洛と合わさるように消えている。ゆえに、上洛前は木曾義仲個人について文的素養を感じ取れなくとも軍勢そのものを捉えるならば文的素養はどうにかなっていたのに対し、上洛後は木曾方全体から文的素養を感じることができなくなったのだ。

 木曾方全体に見られるのが、京都の文化に対する嫌悪感である。平家物語はエピソードを羅列して木曾義仲の無知を嗤っているが、エピソードに記されているのは、木曾義仲の無知ではなく京都の文化に対する無関心である。こうした無関心は木曾義仲個人に限ったことではなく、木曾方全体に共通していることであった。

 根底には京都の上流階級に対する憎しみがあった。京都から地方にやってきた人は地方に住む人たちのことをあからさまに見下し続けてきており、地方に住む人にとっての京都陣からの視線と言葉は黙って耐えてはいたものの喜んで受け入れることではなかったのだ。

 木曾方の武士たちが上洛して京都を制圧したことは、都会人ぶって田舎者を見下してきた京都の人たち、特に京都に住む貴族をはじめとする上流階級が今や敗者として跪(ひざまず)いて許しを乞うている姿を繰り広げるようになったことを意味する。もとからして憎しみの対象でしかなかった人たちの文化など、木曾方の武士たちにとっては染まる以前に尊重するに値することでもなかったのだ。

 その結果、今までの暮らしを京都で続けることとなった。

 京都の人にとっては粗野な田舎の暮らしを木曾方が京都で繰り広げていることとなる。強盗も、放火も、暴行も到底許されることではなかったのだが、一通り暴れ回った後の木曾方の京都の暮らしもまた、自分たちの文化を破壊する到底許されざる暮らしであったのだ。それを世人は木曾義仲の無知に帰結させた。それが木曾義仲個人の愚かさを示すと考えてのことであり、同時に、木曾方全体に対する当時の人の感情の発露であるとも言える。それがたとえ事実ではなかったとしても、木曾方に対する感情と評価をそのまま現したのが木曾義仲に対するエピソードであるとすべきであろう。

 木曾義仲が牛車の乗り方を知らなかったというのはエピソードの嚆矢だ。

 平家物語の創作である可能性もあるが、平家物語における木曾義仲と牛車との関係は以下のようなものであった。

 木曾義仲は官位を得たため狩衣を着て牛車に乗った。それも平宗盛が京都に残していった牛車だ。内大臣が乗っていたような牛車であるから牛車としてのランクは相当に高く、京都を事実上制圧している木曾義仲が乗るという一点に焦点を当てれば誰もが納得いく牛車の選択になる。ただし、木曾義仲は牛車に乗るのが生まれてはじめてのことである。ついでに言えば直垂ではなく狩衣を着たのもこれが最初である。その結果、服装も不格好なら牛車に乗るのも不格好になった。牛車への乗り方も知らなかった木曾義仲は牛車に後ろから乗ったはいいものの牛車の中で座っていることもできず転がりまわり、到着したら今度は後ろから降りようとした。木曾義仲は牛車というものが後ろから乗って前から降りる構造であることを知らなかったと言えばそれまでなのだが、牛車であろうと素通りすることは許されないとして木曾義仲は牛車の乗降ルールを無視して後ろから降りてしまったのである。現在の感覚で行くと、全く似合っていないタキシードを着て、リムジンに乗ったはいいものの中でじっとしてはいられず、現地に到着したらしたで出迎えの人がいるのを無視して反対方向から降りたことになる。牛車の中で転がり回ったというから、牛車から降りてきた木曾義仲は、そういうコントでも演じたコメディアンのような風体であったろう。


 平家物語から他の有名な例を探すと、木曾義仲と猫間中納言のエピソードが挙げられる。平安京を東西に走る七条大路と南北に走る壬生大路の交わるあたりの地名は「猫間」と呼ばれており、かつて権中納言を務めていた藤原光隆は屋敷が猫間にあったことから猫間中納言と呼ばれていた。藤原光隆は自分が猫間中納言と呼ばれていることについては当然と考えていたどころか、それこそが礼儀に従った呼ばれ方であると自負していた。

 名の呼び方や記し方についてもう少し補足すると、本作では可能な限り、個人を特定する際にはその人物の姓名、ないしは苗字と名とで記すようにしている。たとえば、姓名で記すときは源義仲、苗字と名で記すときは木曾義仲というようにしているのが本作だ。このように記しているのは筆者の信念ではなく、そのような記し方をしないと二一世紀に住む我々には個人が特定できなくなってしまうからであり、筆者も二一世紀の研究者の方々と記し方を合わせているにすぎない。

 しかし、当時の人が個人を特定するのに姓名を用いるのは朝廷の発する正式な書状ぐらいなもので、日常生活では職名や住所、あるいは苗字で人物を特定させている。ちなみに、苗字もその多くは住所に由来していて、木曾義仲の「木曾」も育った場所の地名がそのまま苗字になったケースである。みだりに姓名を口にしないというのは当時のマナーであり、自分のことが職名や住所、あるいはその組み合わせで呼ばれているならば相手がマナーを守っていると認めるだけで特にどうということはなく、本名を呼ばれることのほうが許されざるマナー違反であった。ちなみに、官職を辞職した場合は最後に務めていた職務が呼ばれるのに用いられる職務になる。また、呼称においては権中納言ではなく中納言、権大納言ではなく大納言となるため、藤原光隆が自分のことを誰かが猫間中納言と呼んだというのを知ったならば、自分の住まいのある猫間と、自分が最後に務めていた職務である権中納言に由来する職名とを合わせて呼ぶという、この時代におけるマナーに従った正しい呼び方をされているだけだとしか考えず、どうということはない。

 話を猫間中納言と木曾義仲との関係に戻すと、要件があって木曾義仲のもとを訪ねた藤原光隆は、取り次いだ根井行親が、猫間中納言の訪問であることを木曾義仲に告げたという。ここまでは問題ない。取り次いだ根井行親は義仲四天王の一人とされる木曾義仲の重臣だ。重臣がわざわざ応対しただけでなく、自分のことを猫間中納言というこの時代のマナーに従った呼び方で木曾義仲に取り次いだのだから、訪問客を迎え入れる最大級の礼節で応じたこととなる。ここまではいい。

 ところが木曾義仲から返ってきた答えは「猫が人間に面会に来たのか」という、明らかにからかいの言葉であった。今でも下品な育ちをしてきた人や頭の悪い人は他人の外見や名前をからかって笑うことがあるが、木曾義仲もそれだった。当時の木曾はそうした無知な下品さを許す文化であったのかも知れないが、それを言われた側が愉快になるわけない。それでも藤原光隆には要件があったのだし、そもそも相手は京都を事実上制圧している木曾義仲だ。藤原光隆にとっては下品な冗談であっても耐えているしかない。

 時間は食事時であったという。この時代は一日三食という概念は無く、朝食が午前一〇時頃、夕食が夕方四時頃の一日二食である。なお、日の出前におかゆなどの軽食を食べて正午頃に朝食をずらすこともあり、その場合は一日三食となる。無論、このぐらいの時間であることが多いというだけで、全ての家庭で同時刻に食事となるわけではない。また、電話やネットがある時代ではないため、不意な来客がたまたま食事の時間に重なることもある。このときの木曾義仲もたまたま食事の時間だった。アポ無しの訪問はどうかと思うのはこの時代の人には通用しない。事前に連絡があった後に人がやって来るほうがむしろ例外なのがこの時代である。

 最初こそ相手の呼ばれ名をからかう下品な応対であったが、食事の時間の来客ということで木曾義仲は藤原光隆を食事でもてなした。地方の食糧事情はお世辞にも豊かとは言えない。さすがに木曾義仲自身が飢饉に苦しむ暮らしをしてきたわけではないが、飢えに苦しむ暮らしをしてきた人のことをこれまでたくさん見てきたのが木曾義仲をはじめとする木曾方の人たちだ。おまけに時代は、最悪期を脱したとは言え飢饉がまだ鎮静化したわけではないという頃である。食事を最高のもてなしと考えるのは木曾義仲に限ったことではなく寿永二(一一八三)年においては京都のどこでも見られたことであった。藤原光隆も、下品な応対を受けたとは言え、食事というこの時代最高の饗応をしてくれたのであるからそこは感謝したのである。

 ただ、木曾義仲の食事というのが一汁三菜の食事であった。この時代の貴族の食事は、一つ一つの皿に載っている料理は少ないものの、その種類は多く、一度の食事でたくさんの味を楽しめるようになっていた。たしかにこの時代には出汁も醤油も味噌もないので味のレパートリーはさほど多くはないが、素材の味という点に的を絞れば種類を多くすることで多くの味を楽しめたのである。ところが、木曾義仲の料理は、高く盛りつけた御飯に、大きめの椀に入った汁物、そして皿に盛られた料理が三皿。皿に盛られた料理が何であるかはわからないが、汁物はヒラタケの汁であることがわかっている。

 木曾義仲にしてみれば、普段の食事であるものの、藤原光隆をないがしろにしているわけではない。何と言ってもヒラタケの汁は木曾方の面々にとっては最高級の御馳走だ。おまけに、藤原光隆のために用意してくれた食器は木曾義仲が来客用に使っているという食器なのだ。最高級の御馳走を来客用の食器でもてなしたのだから木曾義仲を悪く言う人はいないであろうと考えるのが普通だ。だが、このときの藤原光隆はそのようには考えなかった、いや、理屈ではわかっているのだが、どうしても感情的に受け付けられないのだ。

 汚いのだ。

 食器も料理も汚いのだ。

 木曾方の面々に京都の文化を尊重する意思がなかったからと言って、京都の者が木曾方の文化を尊重しなくていいという理由にはならない。しかし、生まれてからずっと育ってきた文化の中で汚いとされ続けてきたことを目の前で示されたら、それが相手の饗応だと頭では理解しても受け入れることはできない。

 木曾義仲は旨い旨いともりもりと食べていく。一方、藤原光隆はそっと箸をとって食べるまねをするのが精一杯でどうしても口に持っていくことができない。瞬く間に食事を平らげていく木曾義仲は、なかなか食事が進まないでいる藤原光隆のほうを見ては「猫殿は小食だ」とまたもやからかいの言葉で藤原光隆を責めていく。せめて「猫殿」ではなく「猫間殿」であるならわかるが、これではもうどうにもならない。

 木曾義仲に限らず、木曾方は一事が万事この有様だというのが平家物語における描写だ。木曾義仲をはじめとする木曾方の面々は京都の文化を受け入れずに木曾での暮らしをそのまま京都で繰り広げただけでなく、木曾での文化のまま京都の文化のもとに生まれ育った人と接したのである。しかも、互いが互いの文化を尊重すること無しに。

 何も、京都の文化が良くて木曾の文化が悪いといっているわけではない。文化にはそれぞれ違いがある。ただ、自分と異なる文化のもとに飛び込むのであるから、飛び込む側には飛び込む地の文化を学んで受け入れることが絶対に必要である。木曾方には京都の文化を受け入れる必要性に対する認識が完全に欠けていた。

 それを平家物語は木曾義仲の無知として描いたのだ。


 木曾義仲は明らかに焦っていた。寿永二(一一八三)年一二月三日に後白河法皇に対して、伊勢国にまで侵略してきた源頼朝の勢力を討伐することの院宣を求めたのである。合わせて、木曾義仲は院中の警護を厳重にするように命じた。ただし、外からの襲撃から後白河法皇を守るために警護を厳重にするよう命じたのではない。後白河法皇が逃亡しないように後白河法皇への監視を強めたのである。後白河法皇は平家の都落ちの直前に逃亡に成功した過去がある。ここでもう一度後白河法皇が脱走しようものなら木曾義仲は完全に朝敵となって、平家からも、源頼朝からも、討伐の対象となってしまう。現時点の兵力では木曾義仲が負けてしまうだけではない。打倒木曾義仲を目的として源頼朝と平宗盛とが同盟を結ぶ危険さえあったのだ。

 既に源頼朝は源平両立による和平を提案した過去がある。平家に対する怨念が渦巻いていた頃に出された提案であったために無視されたが、現在は木曾義仲という、源頼朝にとっても、平家にとっても、そして京都内外の全ての人にとっても、敵と断じるしかできない存在がある。その存在を源氏と平家が手を組んで討伐することで、現代風の言い方をすれば源平並立の挙国一致内閣を成立させることも不可能ではなくなるのだ。

 既に打倒木曾義仲の動きは見られるようになっていた。

 寿永二(一一八三)年一二月八日に比叡山延暦寺の僧兵が木曾義仲打倒を掲げて武装蜂起したという知らせが届いた。法住寺の戦いで天台宗のトップである天台座主明雲が殺害されたことも延暦寺の僧兵たちにとっては打倒を掲げるに値する暴挙であった。

 木曾義仲という人は、戦場においては即断即決の上で適材適所に軍勢を動かしてきた人であるが、政治となると、判断も遅く行動も遅く、その中身も適材適所とは言えないものになってしまうなってしまう人でもある。延暦寺の蜂起の知らせを受けてから二日経った一二月一〇日にようやく延暦寺対策に動き出すという遅さの、しかも、延暦寺と交渉するのではなく相手の言い分を完全に封じるという悪手としか呼べぬ対策で動き出したのである。

 明雲亡き後、天台座主には右大臣九条兼実の実弟である慈円が有力視されていた。後に歴史書「愚管抄」を記すことになる人である。しかし、木曾義仲は天台座主の地位に強引に俊堯を就けたのである。自分の実弟が絡んでいるという点も差し引かねばならないが、九条兼実の記す俊堯についての評判はきわめて低い。僧侶として出世して法印になったときは「こんなふざけたのはこの世ではじめて」、さらに出世して僧正になったときは「天変地異の前触れ」とまで酷評している。そんな僧侶が天台座主に就くことができたのは木曾方が上洛した後で真っ先に木曾義仲のもとに接近したからであり、木曾義仲にしてみれば、自分がどうにかできる僧侶の中で唯一、天台座主の地位に就く資格を有している僧侶であったからである。ただし、この人を酷評してきたのは九条兼実ただ一人ではなく延暦寺のほぼ全ての僧侶も該当する。

 とてもではないが天台座主に相応しいとは言えない僧侶がいきなり天台座主に任命されて比叡山に派遣されたらどうなるか?

 延暦寺は内部分裂などせず、天台座主への反発を契機として、さらなる木曾方への敵意として一致団結することとなってしまうのだ。


 木曾義仲が新たな天台座主を任命したのは寿永二(一一八三)年一二月一〇日のことである。このとき、木曾義仲によって任命されたのは新たな天台座主だけではなく、新たな参議もいた。藤原俊経、藤原隆房、藤原兼光の三名である。その中でも特に藤原隆房が参議になれたのは、木曾義仲と特別なつながりがあったからではなく、藤原隆房が平清盛の娘を妻としていたのと、後白河法皇の寵臣としても有名であったからだ。藤原隆房の参議就任は木曾義仲にとって平家に対する和睦の投げかけであると同時に、後白河法皇への接近の材料にもなっていた。

 さらに木曾義仲はもう一つ妥協を示した。後白河法皇の幽閉を緩和したのである。ただしこれには条件があった。後白河法皇が源頼朝追討の院宣を出すことである。

 木曾義仲は何としても挟み撃ちにされるのを食い止める必要があった。そのためには平家と和睦をして西方の安全を確保した上で、東から進軍してきている鎌倉方の軍勢を打破する必要があった。源頼朝を討伐するという院宣を確保すれば、木曾義仲は官軍として軍勢を組織し出陣することが可能となるのである。また、ともに上洛しながら今となっては木曾義仲と別行動をするようになっている者も、院宣に従うために木曾方の軍勢、いや、木曾義仲に言わせれば官軍に加わるようになるはずであった。さらに一二月一五日には院宣が木曾義仲だけでなく奥州藤原氏第三代当主藤原秀衡に向けても出された。内容は木曾義仲に向けて出された院宣と一緒である。

 軍勢結集のために木曾義仲はさらなる妥協を示した。近江国の清和源氏であり、焦土作戦によってボロボロにされた近江国を立て直している途中の山本義経を若狭守に推挙したのである。後白河法皇の院宣が出ている以上、国家防御のためという名目であるならば木曾義仲の推挙した者を任意の官職に就けることも可能だ。山本義経は木曾義仲とともに上洛した武士でもあるが、本拠地が隣国の近江国ということもあって木曾義仲と別行動をとることはほとんどなく、別行動をするときでも一時的な離脱となっている。木曾義仲としてみれば股肱の家臣ではない者の中では木曾義仲に臣従してくれている数少ない存在でもあり、また、家格で人生が決まるならば国司に就くなどあり得なかったはずの人物を国司にするというのは、木曾義仲が仲間を見捨てていないというアピールにもなった。

 もっとも、こうしたアピールがどこまで有効であったかわからない。仲間を見捨てないというアピールをするのは結構だが、木曾方が京都で何をしたのかという大問題に立ち返ることなく、自らの生き残りのために平家と和議を結ぼうとしている上に源頼朝の討伐に執念を見せているのは無意味であったとするしかない。

 平家が都落ちしたときのように、木曾義仲もそう遠くない未来に京都から都落ちする未来が見えるようになっていたのだ。議論の対象となっているのは木曾方が都落ちするかしないかではなく、いつ都落ちするか、そして、どのようにして都落ちするかという点であり、その中で数多くの噂が広まるようになった。その中でも最も広まったものとして、木曾義仲が平家に全面降伏する形で和平が結ばれ、平家が京都に戻ってくるという噂がまことしやかに語られるようになっていた。


 ここで鎌倉に目を移すと、鎌倉方でこの頃、一つの大問題が発生していた。

 上総介広常が殺害されたのだ。

 京都と鎌倉との月に三度の定期連絡を受ける仕組みを設けていた源頼朝のことだ。法住寺の戦いについての情報も寿永二(一一八三)年一一月中に受けていたはずである。また、京都からの情報は源頼朝一人だけが受け取るのではなく、御家人たちの多くが京都からの情報に接していた。何しろ書状を皆が見ている前で開いて読むのである。これでは極秘になどできない。

 木曾義仲が法住寺の戦いで勝利し、後白河法皇と後鳥羽天皇を幽閉したこと、その一方で木曾義仲の軍勢の勢力は弱まっていることは鎌倉方でも把握できた。また、平家の軍勢が徐々に京都に戻ってきていることも把握できていた。これが鎌倉方における意見の対立を招いた。京都に進軍すべきという意見と、このまま東国の守りを固めるべきという意見でとの対立であり、京都進軍を強く主張したのが梶原景時と、東国の守りを固めるべきという意見を強硬に主張した上総介広常の対立が、上総介広常の殺害という最悪な結果を招いたのだ。

 何度か記しているが、寿永二(一一八三)年は吾妻鏡の記載が抜け落ちている。しかも、このときの上総介広常殺害についての記事は他の年に誤って編集されてしまったために結果として現存しているという運命も迎えていない。

 このときの上総介広常殺害についての記録を残してくれているのは愚管抄である。先にも記したが、後世の歴史書であるとは言え愚管抄の作者の慈円はこの時代の出来事を実体験している。同時代史料とは言えなくとも信憑性は高いと言えよう。

 愚管抄によると、上総介広常は東国の守りを固めるべきという意見をさらに発展させ、東国の独立を画策したという。独立と言っても別の国家となることを目指すのではなく、奥州藤原氏のように京都の朝廷から距離を置いた、しかし京都の朝廷の支配下に組み込まれているという地域の有力勢力となることを訴えたというのだ。これに対して梶原景時が上総介広常の謀反を源頼朝に進言し、源頼朝の命令によって上総介広常が殺害されたのだという。

 梶原景時は、上総介広常が東国の独自勢力たることを主張する理由は、上総介広常が平家と通じている、あるいは上総介広常が木曾義仲と通じているからであり、鎌倉方を鎌倉から動かさないための方便として東国の守りを主張しているというものであった。しかもそこには、一見すると証拠に見える、しかし実際には証拠と呼べるものではない裏付けがあった。上総介広常が上総一ノ宮に鎧一領を願書とともに奉納したのは多くの人が目にしたことである。問題は、その願書に記されている内容だ。梶原景時はその願書の中に平家かあるいは木曾義仲の記した謀叛計画が記されているというのである。しかも、既に奉納して神仏に帰するものとなった以上、人間が目にすることはできなくなっているというのが梶原景時の述べた証拠である。

 梶原景時は源頼朝から京都に行くよう命じられた。目的は源義経の参謀として軍勢指揮の補助をさせるためである。寿永二(一一八三)年一二月二二日、梶原景時はこれから京都に向かうために留守となるため、留守中の侍所所司としての自分の職務を委任できるのは、意見の対立はあってもこの人しかいないとして上総介広常を呼びだすことに成功し、梶原景時は自分がこれから命懸けの任務を受け持つので最後の娯楽として双六を楽しもうと上総介広常を誘い出し、熱中している途中で梶原景時は上総介広常を殺害。そのまま何食わぬ顔で馬に飛び乗り梶原景時は京都へと向かっていった。

 源頼朝は上総介広常が梶原景時によって殺害されたことを公表するとともに、上総介広常の謀叛計画について梶原景時からの進言があったこと、既に梶原景時は鎌倉方の上洛に向けて京都に向かっていることを告げた。さらに、父の突然の死に失望した、ということで上総介広常の長男である上総介能常が自害したとの公的発表もなされた。

 上総介広常は鎌倉方の軍勢の中で最大級の兵力を持つ御家人であり、本当に謀叛計画があったならば間違いなく鎌倉方は激しい内戦を繰り広げることとなっていたであろう。しかし、その兵力を指揮する者はもういなくなり軍勢全体がそのまま源頼朝直属の兵となった。

 公的には梶原景時の独断での犯行である。御家人たちの憎しみも梶原景時に集中し、源頼朝はむしろ大切な御家人が殺害された被害者ですらある。しかし、誰も口にしなかったがこのときの上総介広常殺害は源頼朝が絡んでいる。梶原景時はこのような役目を引き受けただけだ。

 この事件を知ったならば、木曾義仲は絶好の攻撃材料を見つけたとして喜々としたことであろう。しかし、この事件が木曾義仲の耳に届くことはなかった。

 寿永二(一一八三)年一二月二五日、源頼朝が軍勢を指揮して木曾義仲討伐のため京都に出発させたのである。軍勢の指揮は既に出発している源範頼と源義経、さらに参謀として派遣した梶原景時が受け持つ。そのため、このときに派遣された軍勢にはこれという明瞭な指揮官がおらず軍勢と物資を西に向けて出発させただけである。それで問題ないのかと思うかも知れないが、結論から記すと問題ない。途中までであるが源頼朝は京都への道のりを整えてきていたのである。


 年が明けた寿永三(一一八四)年一月六日、源頼朝の代官である源義経ら鎌倉方の武士たちが、墨俣を越えて美濃国にまで入ってきたという風聞が届いた。この風聞に最初に反応したのが木曾義仲である。この頃にはもう木曾義仲は自分の運命を覚悟していた。前年の平家と同じように自分も都落ちをしなければならなくなるという覚悟である。ただし、京都から出て行くことは最終的な敗北を意味するのではない。鎌倉方の軍勢を返り討ちにすれば権勢を取り戻して京都に帰還することも不可能ではない。

 そう考えた木曾義仲は自らの軍勢を強化する方法を模索していたが、何をしても無駄であった。摂政松殿師家の位階を上げることで摂政を通じた自身の権勢を構築しようとしたが無駄であった。木曾義仲自身の位階を上げることで権勢を構築しようとしたが無駄であった。自らの位階を上げ、前年八月に従五位下となって貴族入りし、その二ヶ月後に従五位上、年末に正五位下、新年一月には従四位下まで位階を上げることまではできたが無駄であった。寿永三(一一八四)年一月時点の木曾義仲の公的な肩書きを記すと従四位下伊予守である。京都を事実上の支配下に置き、後鳥羽天皇と後白河法皇を幽閉したほどの人なのに、平家物語では天皇になろうか法皇になろうか関白になろうかなどと言ったとされる人なのに、実際の木曾義仲はこうであった。

 そのため、公卿補任を隅から隅まで読んでみたところで、木曾義仲の名前はまともに出てこない。寿永三年の出来事を五行でまとめた一年間の事件の当事者として名前が出てくるだけであり、議政官の一員になる、あるいは従三位以上の位階を得ると貴族として名が記されることとなる公卿補任に、貴族としての木曾義仲の名前は、無い。

 それでも木曾義仲にはどうにかして自分の立場を強化させる必要を感じていた。

 そこで木曾義仲が目をつけたのが、天慶三(九四〇)年の藤原忠文を最後に二四四年の長きに渡って空席となっていた征東大将軍である。一般に、木曾義仲は先例に基づいて征夷大将軍に任じられることを求めたと言われているが、実際に求めたのは征東大将軍であって征夷大将軍ではない。と言うより、寿永三(一一八四)年一月時点で征夷大将軍と征東大将軍との間には称号以外に明瞭な差異はない。称号以外に明瞭な差異はないというのは、征夷大将軍に相当する職掌そのものは和銅二(七〇九)年の巨勢麻呂から一五例に渡って任命されてきた職掌であるものの、呼称に統一性がない職掌でもあったからである。

 ただし、呼称の統一性の無さは職掌の統一性有無に波及する話ではない。東国での戦乱における朝廷軍の最高指揮官であり、特に、最新の例である藤原忠文は平将門の反乱を鎮圧するために任じられたという、これから鎌倉の源頼朝を討伐しようと企んでいる木曾義仲にとっては絶好の先例である。

 朝廷軍の最高指揮官になりたいのであれば左近衛大将や検非違使別当に就けばいいと思うかも知れないが、木曾義仲にはそもそも左近衛大将にも検非違使別当にも就く資格がない。木曾義仲の位階が低すぎるのだ。

 現時点の木曾義仲の位階でも就くことができ、かつ、軍事的なフリーハンドを手にできる職掌となると征東大将軍ということになる。位階が高い者はそもそも征東大将軍という職掌を選ばない。左近衛大将や検非違使別当のほうが位階と今後のキャリアを考えると現実的な選択肢となる、行使できる権限においても遜色ない。征東大将軍に類する職掌の先例の中には藤原宇合や藤原麻呂がいるでは無いかと思うかも知れないが、藤原麻呂はともかく、藤原宇合が就任したときは正四位上の位階であった。また、この職掌において理想とされる坂上田村麻呂の一度目の就任は寿永三(一一八四)年一月時点の木曾義仲と同じ従四位下の位階での就任であったし、最後の先例である征東大将軍藤原忠文も正四位下での就任である。

 ただし、左近衛大将や検非違使別当には存在しない権限が一つだけ征東大将軍に存在している。正確に言えば過去一五回のうち七回に付随していた権限があり、木曾義仲はそのポイントに目をつけたとしてもいい。

 大将軍だ。

 大使や将軍だとシビリアンコントロールが働くことを意味する。軍事行動の開始前から軍事行動の終了まで、さらには軍事行動終了後も、朝廷は軍勢の動きに口出しすることが許される。このシビリアンコントロールは左近衛大将に対しても検非違使別当に対しても存在する話だ。しかし、大将軍となるとシビリアンコントロールの制限から外れる。いつ軍勢を出動するかも、どのように軍勢を進めるかも、そして、どのように戦争を終わらせるかも、全て大将軍が独自に決めることが許されるようになるし、戦争開始以前に軍勢の編成に関する裁量権についても高レベルの権限が与えられる。戦争開始から戦争終了までの間に限られるが、従四位下の位階であろうと左近衛大将を含む全ての武官の官職よりも高レベルの権限が大将軍には付与されるのだ。おまけに、先例を見ると寿永三(一一八四)年一月時点の木曾義仲の位階でも就任可能だ。


 寿永三(一一八四)年一月八日、平家が摂津国福原に到着し京都帰還を伺っているという知らせが京都に飛び込んできた。しかも福原の東西を封鎖して要塞化しているという知らせとともに。

 摂津国福原は摂津国の中でも西方にあり、播磨国との国境に近い都市である。令制国の国境はその多くが自然国境で、山や川が国境をなしていることが多い。それは摂津国と播磨国の国境も例外ではなく、現在の神戸市にある鉢伏山がそれである。今は同じ神戸市であるが、令制国でいうと鉢伏山より東が摂津国、鉢伏山より西が播磨国である。神戸市内を東から西に海沿いに移動するとき須磨から塩谷に向かう途中で六甲山系の最西端にある鉢伏山が海に迫っている箇所を通過することとなる。ここが摂津国と播磨国の国境で、律令制における最重要街道である山陽道での最初の隘路でもある。つまり、山が海に迫っていて平地の幅が極端に狭くなっているこの地点を封鎖すると、街道沿いに西から攻め込むことが不可能となる。この地点に街道を施設することは西方から進軍してくる軍勢から五畿を守るという視点では有効に働いたが、五畿の内部での争いとなると、五畿の最西端に近い摂津国福原に拠点を置いた軍勢が西方の守りを固めてしまうことにもなったのだ。

 この、山陽道の最初の封鎖可能地点のことを一ノ谷という。山陽道を進んでいるときに最初に出会う谷だから一ノ谷だ。寿永三(一一八四)年一月時点での一ノ谷とは、福原に本拠地を築いた平家の軍勢が西方に敷いた封鎖地点以外の意味を持っていない。

 神戸の地形を思い浮かべていただくと想像できると思うが、西の一ノ谷を封鎖したところで東は開けている。いかに北方に山地が広がっているとは言え、行軍するに苦労しない地形だ。つまり、平家の立場に立つと一ノ谷さえ封鎖してしまえば、一ノ谷を守備する軍勢を除く全軍を東への防御に固めることで福原は要塞とすることができるし、一ノ谷を封鎖し続けることで福原から一気に京都へ向かうことも可能となる。しかも、陸路と海路の双方ともに可能となる。

 このとき平家の軍勢は生田に前線を築いていたという。三宮は現在でこそ神戸市の中心をなす土地であり、生田神社は三宮においてビルの建ち並ぶ中にぽつりと現れる神社という位置づけであるが、この当時は生田の森と言って、六甲山から海岸に至る一帯の全域が生田神社の管轄下にある森林地帯であった。

 平家が福原を拠点として再興しようとしているという知らせは、その翌日、木曾義仲が平家と和睦したという知らせとなって京都中にとどろいた。以前から木曾義仲が平家に降伏する形での和睦の噂は広まっていたが一月九日になるとこれまでより現実味を伴う噂へと発展していった。さらに翌一〇日になると木曾義仲に関する噂はさらに拡大した。平家が都落ちしたときに安徳天皇を連れて行ったのと同様に、木曾義仲が後白河法皇を連れて北陸へと都落ちするという噂が誕生したのである。なお、この噂における後鳥羽天皇の位置づけはない。

 噂は言及された日付が確実に判明しているのに、史実となると詳細な日付がわからなくなるのも、この頃の木曾義仲の置かれていた状況を示しているとも言える。この頃、木曾義仲は征東大将軍に任じられたという。吾妻鏡には正式に任じられたのが一月一〇日のことであるというが、吾妻鏡の同箇所の記事では征東大将軍ではなく征夷大将軍となっているほか、職掌としては一六例目となる木曾義仲が三例目であるとされ、征夷大将軍の称号だとたしかに木曾義仲で三例目であるが、大伴弟麻呂を無視して坂上田村麻呂を初例とし、二例目の征夷大将軍を藤原忠文としているなど、記事としてあやふやなところがあるのがこのときの吾妻鏡の記載である。


 鎌倉に目を移すと、この頃の鎌倉では一つの出来事が起こっていた。

 前年末に梶原景時が上総介広常のことを謀叛計画ありとして殺害した事件の影響で、正月に源頼朝が鶴岡八幡宮に参拝するのを取りやめた上で、そもそも本当に上総介広常が謀叛計画を立てていたのかを検証し始めたのである。

 謀叛計画の根拠となっているのは上総介広常が上総一ノ宮に鎧一領を奉納した際にともに奉納した願書である。現代の日本で願書と聞いて真っ先に思いつくのは入学の申し込みをして入試に挑む第一段階のことであるが、本来の意味は神仏に対する願いを記した文書のことであり、本来であれば梶原景時が述べたように神仏に託された後で人間が読むことは許されない。

 しかし、裏技がある。

 上総介広常は鎧一領を上総一ノ宮に奉納したのである。そこで、鎧二領を奉納する代わりに上総介広常の奉納した鎧一領を願書とともに返還してほしいと上総一ノ宮に申し出るのである。これならば問題ない。寿永三(一一八四)年一月八日、鎧二領を奉納させるために藤原邦道と一品坊昌寛を上総一ノ宮へと出発させた。

 出発した二人が戻ってきたのは一月一六日のことである。本来の目的は願書を取り戻すことであるが、名目としては上総介広常の奉納した鎧を返還してもらうことなので、藤原邦道と一品坊昌寛、そして、上総一ノ宮の神主兼重らが上総権介広常の奉納した鎧を携えて鎌倉へと戻ってきた。

 源頼朝が上総介広常の奉納した鎧を検分すると、一通の手紙が鎧の肩の紐に結び付けてあった。源頼朝は鎧から手紙を取り外して皆の前で手紙を開いた。

 そこには謀叛計画の片鱗も無かった。源頼朝による関東地方の平和構築を願うとして、上総一ノ宮への二〇町の田畑の寄進と、神社の造営修復、また武芸鍛錬としての流鏑馬(やぶさめ)を三年間欠かさぬことが記されているだけであった。

 上総介広常は冤罪であったことが判明し、亡き上総介広常を弔うこと、上総介広常の一族を赦免することを源頼朝は命じた。

 しかし、上総介広常の真の願いが叶うことはなかった。上総介広常は源頼朝を中心とする鎌倉方が関東地方において京都から距離を置いた独自の勢力を築き上げることを願っていたが、鎌倉方としては既に京都に向かっていたのである。前年末に上総介広常を殺害した直後に西に向かっていた梶原景時は、源義経と源範頼の両名の率いる軍勢のもとに到着し、さらに鎌倉を出発した軍勢も着々と到着し始めていたのである。

 さらに源頼朝は軍勢だけでなく情報戦も始めていた。九条兼実の日記には寿永三(一一八四)年一月一三日の記事として源義経の軍勢はわずかに一〇〇〇騎ほどと木曾方の当初描いていた軍勢よりはるかに少ない数であることが記されており、翌一月一四日の記事には関東地方で飢饉となっているために軍勢を派遣することができないという情報が流れてきたとある。木曾義仲は関東地方から派遣されてくる軍勢の規模を考えるとこちらから出向くのではなく京都の守備を固めるのを優先すべきと考え、兵を京都に集めて京都の防備を固めることとした。噂通りに後白河法皇をつれて北陸に逃れるとしたらこのタイミングであったろうが、木曾義仲はそのタイミングを捨ててしまったこととなる。

 上総介広常の冤罪が晴れたのと同日の寿永三(一一八四)年一月一六日、鎌倉方の軍勢が数万という規模で近江国に到着したことの知らせが京都に届いた。しかも、この数万という軍勢は鎌倉方の総力ではない。大手、すなわち本隊であるとは言え源範頼が指揮する二方面作戦の一方に過ぎず、搦手(からめて)、すなわち別働隊として源義経が率いる軍勢は近江国ではなく伊勢国に向かい、伊賀国を経て大和国から京都へと向かっていたことが判明したのである。

 木曾義仲は鎌倉方の軍勢が自分の率いることのできる軍勢をはるかに超える人数であることを悟り、同じ源氏として対立するのではなく共同して平家に立ち向かおうではないかとの呼びかけを試み、源行家が敗走したあとで取り残された軍勢を自分の指揮下に加えようとし、獲得した征東大将軍の地位を利用して軍勢を組織しようとしたが、その全てが無駄であった。


 木曾義仲が後白河法皇を連れて北陸に都落ちすることを考えているという噂は広まっていたものの、既に鎌倉方の軍勢が近江国まで進出していることは木曾義仲の北陸への都落ちを断念させるに充分であった。

 それでも源範頼が制圧しているのは琵琶湖東岸であり、琵琶湖西岸を進めば、あるいは琵琶湖を水上で北上すれば北陸に逃げ延びることのできる可能性があったかもしれないが、これも木曾義仲は自らの手で塞いでしまっていた。新しく天台座主に就任した俊堯が、自身の背後にいる木曾義仲の勢力を前面に掲げ比叡山延暦寺を我が物にしようとしていることに対して延暦寺が反発し、琵琶湖西岸の陸路だけでなく琵琶湖そのものの水運も完全に延暦寺が塞いでしまったのである。

 さらにここで平家から木曾義仲に対して和睦は受け入れないことの通告が寄せられた。木曾義仲の劣勢は既に福原にも情報として届いていた。木曾方が鎌倉方と争って互いに戦力を弱めるのは勝手だが、平家がここで木曾義仲と手を結ぶことは、今後の京都奪還を考えたときに大きなマイナスポイントになってしまう。また、木曾義仲が後白河法皇を連れて北陸に脱出するという噂も平家にとっては大問題であった。平家は必ずしも後白河法皇を必要としているのではないが、平家は院政ならば必要としている。幼い安徳天皇を奉じている平家は後鳥羽天皇を認めるわけにはいかない上に、後鳥羽天皇の摂政は数え年で一三歳になったばかりの松殿師家で、その背後にいるのは治承三年の政変で平家が追放した松殿基房である以上、後鳥羽天皇のもとでの藤原摂関政治を平家としては受け入れることができない。かといって、後鳥羽天皇の即位も松殿師家の摂政就任も無かったことにして、安徳天皇の復位と安徳天皇の摂政として近衛基通の復帰を画策しても、今や近衛基通は反平家の人間になっていることは周知の事実であるから、近衛基通を復帰させた藤原摂関政治の上に平家が立つという構図も創り上げることはできない。現在の京都の政治情勢で平家が京都に戻ることを選ぶとすれば、院宣であれば平家でもどうにかなるという政治情勢が必要条件となる。そして、後白河法皇以外に院政を敷く資格がある皇族はおらず、寿永三(一一八四)年一月の時点で院政を敷く資格があるのは後白河法皇だけである。木曾義仲が後白河方法を連れて北陸に脱出するというのは、たとえそれが噂であろうと、平家には到底受け入れることのできない話であった。

 源範頼率いる大手が琵琶湖東岸を進んでいること、源義経が率いる搦手(からめて)が大和国に向かって進んでいることは木曾義仲にも把握できていた。木曾義仲にとってはさらに悪材料が重なる。まず、寿永三(一一八四)年一月一九日に河内国に逃げ延びていた源行家が木曾義仲に対して叛旗を翻して挙兵したことを受け、木曾義仲は義仲四天王の一人である樋口兼光に命じて河内国へと出陣させなければならなくなった。ただでさえ少なくなっている戦力をここで割かねばならなくなったのである。さらに、前年の上洛時は木曾義仲と行動を共にしていた多田行綱ら摂津源氏や安田義定ら甲斐源氏だけでなく、井上光盛をはじめとする信濃源氏までもが木曾義仲を見限って鎌倉方の軍勢に参加したという知らせも届いた。特に信濃国の源氏が鎌倉方の軍勢に加わったというのは、木曾義仲が故郷の仲間と考えていた源氏までもが鎌倉方に降ったことを意味する。

 木曾義仲が指揮することのできる軍勢は、前年の上洛時のときの軍勢の三割もいるかどうかであった。しかも、その一部を源行家討伐のために樋口兼光に割いている。

 樋口兼光の出陣を見届けた後、木曾義仲自身は京都に留まりながら、自分に残された数少ない軍勢を出発させた。京都の東、近江国から攻め込む源範頼に対しては今井兼平率いる八〇〇騎ほどを、南の大和国から向かってきている源義経に対しては志田義広を大将とした上で、根井行親や楯親忠をはじめとする股肱の家臣たちを出撃させた。


 源頼朝が梶原景時を派遣したことの効果の一つに戦場からの報告の詳細さがある。既に記している通り、鎌倉方の軍勢の本隊たる大手は源範頼率いる近江国の軍勢のほうであり、源義経率いる大和国の軍勢は別働隊たる搦手(からめて)である。ところが、その搦手(からめて)の中に梶原景時がいたために、大手である源範頼ではなく、搦手(からめて)である源義経がどのような戦い方をしたのかのほうがより詳細な記録として現在にも残されたのである。

 平家物語によると、源範頼率いる大手の軍勢は三万五〇〇〇であるのに対し、源義経率いる搦手(からめて)のほうは二万五〇〇〇と少ない。ただし、源頼朝の派遣した面々がどちらに割り振られたかを見渡すと、人数差があまり意味をなさなくなる。

 源範頼の率いる鎌倉方の大手には、武田信義、加賀美遠光、一条忠頼、板垣兼信、榛谷重朝、熊谷直実、猪俣則綱といった面々が顔を並べている。源頼朝の股肱の御家人もいるが、軍勢の主力となっているのは甲斐源氏だ。源範頼が大将となっているものの甲斐源氏のトップである武田信義が君臨して補佐するという構図になっているのが本隊の構成である。

 一方、源義経が率いる搦手(からめて)のほうは、河越重頼、河越重房、佐々木高綱、畠山重忠、梶原景時、梶原景季、糟屋有季、渋谷重助、平山重季、渋谷重国といった御家人たちが顔を並べている。また、安田義定も加わっているのも搦手(からめて)のほうだ。源義経は当初から軍勢を指揮することを命じられたわけではなかった。源義経は当初、源頼朝から派遣された代官として五〇〇騎ほどの軍勢とともに京都に物資を運んでいるだけであったのだが、今や鎌倉方の御家人を従える軍勢の指揮官になっていたのである。

 源義経にとってはこれが初陣であるが、ここまでの面々が付き従っているとなると経験不足も不安要素ではなくなる。もっとも、源義経の場合は初陣だという不安要素自体感じる必要も無いことであった。伊勢国から伊賀国を経由して大和国に至り、軍勢を北上させた鎌倉方の搦手(からめて)の指揮は源義経のもとで完璧に遂行されていたのである。さらに言えば、宇治川の南岸に到着して木曾方の軍勢と向かい合って陣を敷くところまでも申し分ない指揮であった。

 源義経率いる搦手(からめて)が南からやってきていることを知った木曾義仲は、志田義広に軍勢を率いさせて迎え撃つことにさせた。奇しくも、源平合戦の始まりとも言うべき治承四(一一八〇)年の源頼政と同じく宇治川での戦いである。

 両軍が宇治川の両岸に向かい合うこととなったのは寿永三(一一八四)年一月二〇日の早朝のこと。先に宇治川に到着していた木曾方の軍勢によって宇治橋の橋板は外され、宇治川には乱杭や逆茂本が打ちつけられていた。さらにここに雪解け水も加わり宇治川の水量は増していた。ここまで来ると宇治川そのものが天然の城壁となる。その上で、宇治川北岸の木曾方からは弓矢での容赦ない攻撃が続き、矢が雨のように注がれるのである。普通なら、いかに戦力差があろうと宇治川を渡ろうなど考えたりはせず、せいぜい弓矢での応戦を考えるだけである。

 源義経に従った御家人たちも木曾方の防備の前にどうするべきかと考えていた。さすがに堅牢にすぎる。

 ところが、源義経は誰もが想像しなかった命令を出したのである。全軍出撃命令だ。

 たしかに防御は堅牢であるし、このまま突撃したら多くの戦友が命を落とすこととなるのだが、源義経はそのようなことを考えない。源義経という人が人生で繰り広げてきた戦略のほうが既にこの頃には芽生えていたとするしかない。すなわち、人命軽視と引き替えに常識が通用しない戦術を繰り広げるのが戦場における源義経という人である。

 普通なら宇治川を渡るはずがないと思っているところで、源義経は全軍に対し宇治川を渡っての総攻撃を命じたのである。いかに宇治川の水量があろうと、いかに乱杭や逆茂本が打ちつけられていようと、大軍で一気に渡ればどうということないというのが源義経の戦略だ。そこで何名かが命を落とそうと最終的に勝てばそれでいいという戦略である。

 佐々木高綱と梶原景季の両者の激しい先陣争いのあとに続く総攻撃は木曾方の武士たちを慌てふためかせ、宇治川を天然の城壁として抵抗するという木曾方の計略は早々に瓦解した。木曾方の総指揮を執っていたはずの志田義広は逃走し、根井行親と楯親忠の両名はどうにかして木曾義仲のもとに合流しようと北上していった。誰が見てもこれは木曾方の惨敗である。


 寿永三(一一八四)年一月二〇日、後白河法皇のもとを木曾義仲が訪問した。宇治川での敗走に加え、東方では勢多で源範頼率いる本隊に敗れ去ったことを知り、もはやこれまでと後白河法皇のもとに足を運んだのである。後白河法皇を連れて北陸に逃れようとしているのではないかという懸念はあったが、もはやそのような懸念など無意味であった。後白河法皇を連れて京都を脱出するところまではできてもそこから先に行くところはない。行くとすればそこは戦場だ。ここでの木曾義仲の後白河法皇への訪問は最期の挨拶とすべきであろう。最後、ではなく、最期、の。

 平家物語によると、宇治川で敗れたことを知った後でいったん後白河法皇に最期の挨拶に出向いた後、自分が正妻として迎え入れた松殿基房の娘の元へ向かい、最後の別れを惜しんで数時間を浪費したとある。既に鎌倉方の軍勢は鴨川の河原にまで到着しているのに何をしているのかと激怒した郎党の越後能景が、自分は先にあの世で待っているとして木曾義仲の見ている前で自害したとあり、これで木曾義仲は覚悟を決めて出陣したとある。

 木曾義仲は自分の周囲に付き従っていた一〇〇騎ほどの軍勢で六条河原に打って出て、ここで宇治川の戦いで敗走した根井行親と楯親忠に合流。軍勢はおよそ三〇〇騎となったものの、それでも多勢に無勢である。

 六条河原の東岸には鎌倉方の兵が次々と集っていた。木曾義仲を中心とした木曾方の武士たちは鎌倉方の武士たちに勝負を挑むも、一人、また一人と討ち取られていき、三〇〇騎に増えたはずの木曾義仲の軍勢は完全に壊滅状態に陥った。

 それでも木曾義仲には最後の手段が残されていた。最期の挨拶を済ませたはずの後白河法皇と後鳥羽天皇を連れて京都を脱出することである。しかし、木曾義仲の元に届いてきたのは後鳥羽天皇の内裏と後白河法皇の院御所に鎌倉方の軍勢が到着しており、平家物語の数字に従えば、およそ一万の軍勢で警護に当たっているという知らせであった。これでは後鳥羽天皇や後白河法皇を連れての脱出どころか討ち取られて終わりだ。

 なお、平家物語によると源義経、河越重頼、河越重房、佐々木高綱、畠山重忠、渋谷重国、梶原景季らが後白河法皇の院御所に到着したとあるが、吾妻鏡には源範頼も院御所に到着しており、兄弟で協力して警護していたことが記されている。一方、九条兼実の日記を読むと鎌倉方の武士の到着そのものが記されていない。伝えるところによると、このとき京都市民の多くは鎌倉方が京都に来たことは理解しても源頼朝の弟が来ているとは理解せず、さらには源義経の名を知る者もおらず、中原親能が総大将だと思ったとのことである。このあたりが源義経のこの時点における現実の知名度とすべきか。

 木曾義仲はここで六条河原の軍勢を回避しつつ東に向かうことを決めた。回避とは言うもののその被害は甚大で、楯親忠は河越重房によって討ちとられ、高梨忠直は佐々木高綱に討ち取られ、根井行親の姿も鎌倉方の軍勢の中に飲み込まれて消えてしまった。木曾義仲は激戦の末に鎌倉方の軍勢を突破して巴御前をはじめとする数十名の手勢で六条河原を後にし、山科を経て近江国に向かった。太陽は既に夕焼けとなっていた。

 近江国では今井兼平が奮闘していたが、いかに奮闘していようと源範頼率いる鎌倉方の軍勢の本隊を食い止めることはできずにいた。このあたりの記述が史料によってあやふやである。源範頼は近江国にいたのか、それとも後白河法皇のもとにいたのかはっきりとしない。しかし、判明していることはある。近江国の鎌倉方の軍勢は全軍ではなく一部であるという点である。その、一部でしかない鎌倉方の軍勢だけで今井兼平の軍勢と向かい合っていた、しかも、軍勢の一部と言っておきながら軍勢の兵力差でいうと鎌倉方のほうが五倍を超えていたのである。

 木曾義仲らは今井兼平との合流に成功するも、ともに脱出することは不可能であった。

 樋口兼光と今井兼平の兄弟は木曾義仲とは木曾義仲が二歳の時からのつきあいであり、兄弟の妹である巴御前も兄たちと同様に木曾義仲とは長いつきあいである。木曾義仲が挙兵したときも、木曾義仲が源頼朝に利用されて上野国に進軍したときも、木曾義仲が越後の城一族と対戦したときも、木曾義仲が北陸を進軍したときも、木曾義仲が倶利伽羅峠で平家を討ち破ったときも、木曾義仲が五万人と評される軍勢で上洛したときも、彼らは常に木曾義仲とともにあった。樋口兼光と今井兼平の兄弟が木曾義仲から離れるのは木曾義仲から軍勢を託されて別個に行動するときだけで、それ以外は常に木曾義仲とともにあったのが樋口兼光と今井兼平の兄弟である。兄の樋口兼光は源行家討伐のため河内国に昨日向かったばかりであり、兄とはもう二度と逢えないことを悟った今井兼平は、最期のときを木曾義仲とともにあることを選んだ。

 平家物語ではこのとき、木曾義仲は巴御前に対して、最期の戦(いくさ)に女を連れていたと言われるのは心外であるから早く戦線を離脱するように言ったとある。木曾義仲の言葉を受けて巴御前は敵陣の中へ馬を走らせ、次々と鎌倉方の武士たちを倒してどこかへと去って行った。巴御前の消息はここで終わる。

 最後に残ったのは、木曾義仲と今井兼平のただ二騎である。

 今井兼平は自分がここを防ぐからと木曾義仲に対して逃げるように訴え、木曾義仲は馬を走らせて東へと向かったものの、その途中で馬が薄氷に乗り上げてしまい身動きできなくなったところを、鎌倉方の石田為久によって討ち取られ首を取られた。

 一人で防戦していた今井兼平は木曾義仲が討ち取られたと知ると、もはやこれまでと、刀を口に含んで馬から飛び降り自ら刀を突き刺すという壮絶な方法で自害した。

 前年七月に京都を陥落させてからわずか半年、法住寺の戦いで権力を手にしてからわずか二ヶ月という短さで木曾方はここに終わったのである。


 木曾方の壊滅は復讐を生みだした。

 その嚆矢は、寿永三(一一八四)年一月二一日に既に始まっている。木曾義仲の死が公表され、残っていた木曾方の兵士たちが、ある者は自ら死を選び、ある者は捕縛された。捕らえられた者の中には樋口兼光もいた。捕縛されただけならマシで、中には住人からの集団リンチに遭った武士もいた。武士同士の戦いよりもこの方が恐ろしかった。ついこの間までは何をしても許されていた、それこそ、強盗しようが暴行しようが放火しようが許されていた武士が、まさに強盗の被害者から、まさに暴行の被害者から、まさに放火の被害者から、したことに比べればはるかに軽い、しかし、これ以上残虐な殺され方はないという方法で殺された。

 復讐は朝廷内でも見られた。既に前日の段階で摂政松殿師家が内裏から追放されていた。数えでまだ一三歳の少年であるとは言え、木曾義仲の義弟でもあり、木曾義仲の傀儡でもあったことから政界追放となったのだ。その追放は一月二〇日の段階では単なる嫌がらせであったが、一月二一日に摂政松殿師家のいなくなった朝廷で松殿師家の摂政解職と内大臣解職が決まり、摂政には近衛基通が復帰し、内大臣には徳大寺実定が復帰した瞬間、松殿師家は一三歳にして隠居生活を送ることを余儀なくされることとなり、以後半世紀近くに渡って、かつて摂政内大臣であった無官の貴族として扱われ続けることとなった。ある意味、存在が抹消されるよりも恐ろしい刑罰かも知れない。

 同日、公卿議定で平家討伐が再確認され、源頼朝に対する平家追討の宣旨を下すことが決まった。

 公卿議定では、左大臣藤原経宗と内大臣に復帰した徳大寺実定の両者が平家追討を強く主張したものの、出席者の多くは三種の神器の安全のため使者を派遣すべきという意見であり、議定の場は紛糾。しかし、院近臣である藤原朝方、藤原親信、平親宗といった面々が後白河法皇の意思であることを匂わせたことで議定の場は平家討伐に傾くこととなった。ただし、正式な宣旨の発令は一月二六日まで伸ばされる。

 寿永三(一一八四)年一月二六日、それまで逃亡していた樋口兼光が捕縛された。斬首となることは決まったがこの時点ではまだ斬首となっていない。いや、斬首よりも厳しい対処とするべきか、木曾方の晒し首を目の当たりにさせられた。木曾義仲が、弟の今井兼平が、そして、ついこの間まで一緒にいた仲間たちが今や変わり果てた姿になっているのを目の当たりにさせられた。その中には明らかに戦場での死ではなく、集団暴行を受けた末の遺体もあった。自分たちが京都でやったことの復讐がこうした痛ましい遺体となったことは一目で見てとれた。斬首となるのはむしろ幸運とすら感じたほどだ。樋口兼光は斬首の直前に一つだけ要望を伝えた。自分の晒し首を、木曾義仲と今井兼平の隣に並べてほしいというものである。

 同日、源頼朝に対して正式に平家追討の宣旨が下り、源範頼と源義経の両名に対して源氏の軍勢を率いて西へ向かうよう命令が出た。源氏の軍勢はただちに軍勢出発に向けて準備を整え始めた。とは言え、さすがに指令が出てただちに動けるわけはない。まず、兵の疲労困憊が無視できぬものになっている。また、兵糧の確認や武器の手入れも必要だ。木曾方が京都でやったことを繰り返すわけにはいかないと鎌倉方の武士たちは関東から兵糧や武器を持ち込んで戦っていたが、残りの食糧がどれだけあるか、武器の手入れにそれだけ必要かの確認は簡単に行く話ではない。現地調達は許されないのだ。

 木曾義仲を討伐したのが一月二〇日であり、平家討伐の宣旨が下ったのが二六日。電話やネットがある現代と違って、この時代の情報インフラではいくら何でもこのスピードで源頼朝のもとに情報が届くはずがないと思うのが普通だが、源頼朝はなんと一月二七日にはもう事態を把握している。事態を把握できたのは現地報告書を書いて鎌倉に届けるよう命令していたからで、源義経も、源範頼も、また、安田義定や一条忠頼も報告書を鎌倉に届けている。現地からのスピーディーな対応自体は何の問題も無かったのだが、源頼朝はこの四名からの報告書に大いに不満であった。源頼朝という人は流人生活にあっても月に三度の京都からの定期連絡を求めていた人である。情報を定期的に、かつ、自発的に手に入れている人というのは情報の内容にもこだわる。木曾義仲を倒したとか報告書の差出主がどのような活躍をしたとかの情報はとっくに手に入っているどうでもいい情報なのだ。

 源頼朝の不満を完全に解消する書状を届けたのが五通目の梶原景時であった。詳細な日時、場所、戦闘の様子、討ち取った敵方武将の名などの情報を徹底的に網羅していたのである。上総介広常の件もあって梶原景時に対する反感を隠せない者は多かったが、それでも梶原景時から送られてきた報告書の詳細さは誰であろうと納得せざるを得ない内容であった。その上、書状を鎌倉に向けて発送した時点ではまだ正式な宣旨が降りていなかったのだが、この段階で平家討伐の指令が降りることを予想して源氏の軍勢が平家討伐のために西に向かうことも記してあった。

 なお、現地報告書を送ったのは前述の五名だけでなく、翌一月二八日には小山朝政、土肥実平、渋谷重国からの報告書も鎌倉に届いている。報告書の内容としては前日の四名よりは細かな内容であったのだが、いかんせん、前日の梶原景時の報告書があまりにも精緻であったがために、一月二八日に届いた報告書は、受け取って吟味しただけで特に内容が重視されることは無かった。何しろ梶原景時が書いて送ってきた内容に書かれていない独自の記載が何一つ無かったのだ。

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

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