平家物語の時代 13.平家滅亡

 平家物語の記すところの平維盛の死から遡ること一〇日、実際の平維盛の死からは二〇日ほどが経過した寿永三(一一八四)年三月一八日、源頼朝が鹿狩りという名目で伊豆国へと出発した。当然ながらそのような名目を信じる人など誰もいない。源頼朝はあえて鎌倉を離れたのである。より正確に言えば、鎌倉より情勢を優位に働かせることのできる場である伊豆国へ移ったのである。

 源頼朝が伊豆国に向かったのは伊豆国で平重衡を出迎えるためであった。平治の乱で敗れて伊豆国に流されてきた源頼朝が、平家の武将の一人である平重衡と伊豆で会う、それも完全に立場が入れ替わっている状態で会うというのは、平家に対するかなりの意趣返しである。

 それに、もう一つ目的があった。一ヶ月前の二月一八日に源義経に対しては京都の守護を、梶原景時と土肥実平の両名に対しては山陽道五ヶ国の制圧を命じたとき、京都近郊の各国に平家の残党と木曾義仲の残党の追補と兵糧米の確保を命じる必要性を認識しながらも情報の収集と人員の選抜に手間取ったとも記したが、源頼朝が伊豆国にまで移動すれば、伊豆国から鎌倉までの片道一日、往復二日間の時間短縮が可能なのである。源頼朝は伊豆国に移動することで京都からの情報の時間差を少しでも埋めようとしたのだ。

 伊豆国に身を移してから二日後の三月二〇日、大内惟義を伊賀国に派遣することが決まった。一ノ谷の戦いにおける戦功を評価し、伊賀国の制圧を任せることができると把握したからである。

 三月二二日には、大井実春が伊勢国に向けて出発した。伊勢国は伊勢平氏発祥の地であり平家の勢力が未だ強い地域である。なお、吾妻鏡の記述では大井実春だけの名が記されているが、実際には山内首藤経俊も同行している。それにしても、山内首藤経俊は三年半前まで源頼朝に弓矢を向けていた側であり、捕縛されて土肥実平のもとに預けられて処罰を待つ身になっていた人物である。そんな人物が今や源頼朝の送り出す武将の一人となっているのは、源頼朝という人物の政治家としての能力のアピールの一つにもなった。

 平重衡が到着したのはこうした知らせが既に発せられている状態の伊豆国である。伊豆国の北条館で待ち構えていた源頼朝の前に囚われの身となっていた平重衡が到着したときの様子を吾妻鏡はこのように記している。

 源頼朝は本三位中将こと平重衡を北条館に招き、平重衡を廊下に座らせて面会した。

 最初に言葉を発したのは源頼朝の方である。

 自分が平家討伐に起ち上がったのは、後白河法皇の怒りを静めるため、また父の仇討ちためであり、石橋山で挙兵してからこれまで平氏の抵抗を退治できたのは思った通りの結果である。平重衡を捕虜として会うことができるのはたいへんな名誉挽回であり、あとは前内大臣こと平宗盛ともこうして会うことになるであろうというのが源頼朝の言葉だ。

 これに対し平重衡はこう答えた。

 源平はともにこの国を守る立場にあったが、源氏が落ちぶれてしまったおかげで平家だけが二〇年に亘って朝廷を守ることになり、そのおかげで八〇名以上の平家が官職に就くこととなった。しかし、今や我らが平家の命運は縮まり、自分も捕虜となって連れてこられる身となっている。もっとも、武士として囚われの身となることは何ら恥ずべきところはなく、あとは斬首されるのを待つだけだというのが平重衡の言葉だ。

 これが平家物語になると互いの会話がもっと長くなる。吾妻鏡における源頼朝は南都焼討について全く口にしなかったが、平家物語での源頼朝はそれこそが尋問の首題となっている。一方の平重衡もまずは南都焼討については全て自分の責任であると述べてから源頼朝の問いに答えている。ただし、最後のフレーズは同じで、囚われの身となることは恥ではなく、あとは斬首されるのを待つのみという覚悟のほどが平家物語には記されている。

 平重衡の主張するように斬首するのは簡単であろう。だが、源頼朝は平重衡の言葉を受け入れず生かしておくことにした。平重衡は南都焼討の主犯であり、奈良からの恨みの集中している人物でもある。そのため、奈良からは平重衡の引き渡しを求める声、それが受け入れられないならせめて死罪とすべきとする訴えも届いていたが、源頼朝は平重衡を斬首させることなく狩野宗茂に預けることに決めた。狩野宗茂に課せられたのは何としても平重衡を生かし続けることである。特に奈良からどのような要請があろうと全て相手にしないことが厳命された。

 なお、寿永三(一一八四)年三月という時期は鎌倉方における史料の再出ならびに初出の時期でもある。

 まずは再出について記すと、源頼朝が平重衡と面会した場所が伊豆国の北条館であるというところから想像した方も多いかも知れないが、寿永元(一一八二)年を最後に全く史料に登場しなくなってきていた北条時政と北条政子の存在が確認できるのがこのときである。

 次に初出について記すと、後に姓を大江に変え大江広元と呼ばれることになる中原広元が京都を捨てて鎌倉の源頼朝のもとにやってきたのも寿永三(一一八四)年三月である。中原広元の兄の中原親能は治承四(一一八〇)年の年末に平時忠によって捕縛される寸前であったところを脱出することに成功し鎌倉までやってきており、中原広元は兄を頼って鎌倉にやってきたわけであるが、ただちに兄よりも存在感を発揮することとなる。兄の中原親能が京都にいた頃は優秀な実務官僚であり鎌倉方において重要な役割を担う官僚となっていたが、弟の中原広元は現在でいう法学者であり、この時代の日本で手に入れることのできる最高の法学の知識を持っている人であったことから、鎌倉方の法務を一手に引き受けることとなったのである。ちなみに、鎌倉方の人としては珍しく従五位下の位階を持った状態での鎌倉方への参入であったことから、他の御家人よりも常に一段階から二段階は上の位階であり続けた人でもあった。


 位階が従五位下である中原広元が鎌倉に来たことで、実質上はともかく理論上は未だ従五位下である源頼朝と並ぶ位階の人物が鎌倉方にやってきたこととなる。この時代の考えに従えば問題があるのだが、その問題は短期間に解決した。

 寿永三(一一八四)年三月二七日に臨時の除目があり、源頼朝の位階がそれまでの従五位下から一挙に六段階昇進して正四位下へとステップアップしたのだ。過去の例を遡ると、天慶三(九四〇)年に平将門を討ち取った藤原秀郷が同じく六段階のステップアップをして従四位下に昇叙した例があり、かつ、藤原秀郷も源頼朝と同じく東国にいたまま京都に足を運ぶことなく昇叙しているなど共通点が多い、というより源頼朝に対処するのに先例を探したら藤原秀衡まで遡る、すなわち、約二世紀半も遡る必要があったということである。

 もっとも、源頼朝自身は自分の位階にそこまでこだわってはいない。平家によって破壊された日本国民の経済を復旧させるというゴールを考えたとき、自分自身の位階が高いほうが便利であることは認めているが、そこまで貪欲に求めていない。自分が従五位下から正四位下へと昇叙したと知ったのは四月一〇日に源義経から派遣された使者が鎌倉に到着したときであり、それまで源頼朝は自身の位階に無頓着であったようである。

 位階には無頓着であった源頼朝であるが京風文化は体現し続ける人であり、時間を戻して四月一日に伊豆国から鎌倉へと戻った後、一条能保や平時家を招いて京都の貴族の邸宅で開催していてもおかしくない花見の宴を開催している。なお、源頼朝の貴族趣味について鎌倉の御家人たちは特に何の文句も言っていない。なぜなら、鎌倉に戻って最初にやったのが鎌倉の御家人たちを招いてのいかにも東国武士たちの好みそうな酒宴であり、貴族趣味の花見については、自分たちのトップが自分たちのために時間を割いてくれたあとで、自分たちを頼って鎌倉まで来た貴族たちの趣味に自分たちのトップも付き合っているという認識を御家人たちが抱いたからである。

 なお、吾妻鏡に名前が記されている花見の出席者は一条能保と平時家の二名だけであるが、これではあまりにも少ない。源頼朝も加えてもわずかに三人だ。そこで吾妻鏡の記載を見てみると、このときの花見には演奏や歌詠もあったとあるから、この時代では日常生活で体験しえない非日常のお祭り騒ぎだ。こうなると、いかに京風文化の体現と言っても実際にはもっと多くの人が参加したであろうことが推測できる。たとえば平頼盛やその子ら、あるいは、平頼盛が舅で一条能保が甥でもある持明院基家も参加した可能性が高いし、中原親能と中原広元の兄弟も貴族の嗜みとして付き合うぐらいはできたであろう。また、京都の貴族の邸宅であるかのような花見に興味を持つ武士も居たであろうし、興味を持たない御家人がいても、何だかんだ言って源頼朝はやはり上流階級の人間であって、生まれも育ちも上流階級であることを隠しきれないでいる人が普段は無理して自分たち武士に付き合ってくれているのだから、今日ぐらいは源頼朝の思いのままにさせてもいいではないかという感情であったとしても何らおかしくない。

 ここで花見に招かれた一条能保と平時家の両名について記すと、両名とも本来であれば京都で貴族生活を過ごしていてもおかしくなかった人物である。

 まず平時家であるが、この人については既に養和二(一一八二)年一月の箇所でも記した通り、平時忠の息子だ。平時忠は平家の権勢を示すかのような「平家ニ非ズンバ人ニ非ズ」という言葉を言ったとされる人としても有名で、このときは平家都落ちに帯同して四国屋島へと逃れているところであった。父は流浪の身でありながら息子は今をときめく源頼朝の側近の一人だ。平家一門でありながら武士ではなく貴族として生まれた平時忠は息子にも貴族としての教育を受けさせていたが、その息子は継母との折り合いが悪く治承三年の政変で上総国へ追放されている。ところがここで運命は平時家に味方した。追放先の上総国で上総介広常のもとに預けられることになった結果、上総介広常経由で源頼朝と出会い、意気投合し、源頼朝にとっての数少ない京風趣味でわかり合える仲間となったのである。それは上総介広常が殺害された後も変わることなく、平時家は源頼朝のブレインの一人として鎌倉において幕府創設に協力する貴族の一人となったのである。

 次に一条能保であるが、この人は藤原北家中御門流という名門中の名門の出身であり、本名も藤原能保である。一一歳にして丹波国司に就いたというのであるから藤原北家のエリートコースを歩んでいる最中の人であったが、どういうわけか、一条能保のキャリアはそこで止まってしまった。時代は保元の乱から平治の乱を経て平家政権が形作られている過程であり、キャリアが止まってしまった一条能保は太皇太后藤原多子や上西門院統子内親王に仕えることで生計を立てるようになっていた。

 一条能保の立場になったならば、多くの貴族は生計を立てるために現状維持を選んだであろう。ところがここで、一条能保は現状維持ではなく人生を決定づける決断をしたのだ。源頼朝の実の姉、あるいは実の妹とされる坊門姫と結婚したのである。ちなみに、坊門姫と源頼朝とは同じ母から生まれたきょうだいであることは判明しているが、坊門姫の生年が不明であるため、坊門姫と源頼朝との関係が兄妹なのか姉弟なのかは現在も不明である。平治の乱で父が朝敵となったときに坊門姫の存在は秘匿されており、坊門姫が一条能保の目の前に現れたときには北面の武士である後藤実基の娘ということにされていて、その女性の正体が平治の乱で朝敵となった源義朝の実の娘と知ったのは後のことである。

 源義朝の実の娘と結婚したことで、一条能保は京都における源頼朝の出先機関の一つとなることに成功した。表向きはキャリアを失ったうだつの上がらない貴族であるが、清和源氏嫡流の血を引く女性と結婚したことから一条能保は源頼朝と義兄弟となることに成功し、さらに妻の母は熱田神宮の宮司の娘であることから熱田神宮の権勢もそのまま背後に控えさせることが可能となったのだ。あとは無能を演じながら源頼朝に情報を渡し続けていけばいい。どうせ平家政権下で役割を得ないのだから、源頼朝を選んで一発逆転を狙ったところで失うものなど何もない。

 そのままで行けば一条能保は京都における源頼朝のスパイの一人であり続けたはずであったが、木曾義仲の上洛が全てを破壊してしまった。一条能保の存在も坊門姫の存在も木曾義仲は知っていると考えた一条能保は家族共々鎌倉へと脱出することに成功し、義理の兄弟である源頼朝の元に身を寄せることとなったのである。うだつの上がらない貴族と誰もが見ていた一条能保をどうして源頼朝が丁重に匿うのかを鎌倉の御家人たちは訝(いぶか)しげに眺めていたが、源頼朝とは義理の兄弟であると知って多くの御家人たちは納得した。ただし、そうではない理由で丁重に扱ったことに気づいている人たちもいた。この人は能ある鷹は爪を隠すという諺をそのまま示しているような人であったのだ。エリートコースから外れてしまったのはその通りであるが、だからといって無能なのではない。それどころかきわめて有能だったのだ。それに気づいた一人が平家都落ちで平家と袂を分かち、鎌倉へと逃れてきた平頼盛である。ここではじめて、平家の情報がどうしてこれまで源頼朝の元に漏れてきていたのかを半分は把握した。一条能保はスパイであり続けるために無能を演じてきたのだ。鎌倉に逃れたあとは無能を演じる必要も無くなり、京都での政界復帰に向けて動き出せば良くなった。

 ちなみに、鎌倉幕府第四代将軍藤原頼経は一条能保と坊門姫との間に生まれた娘の孫である。

 なお、このときの花見に参加したかも知れない平頼盛については寿永三(一一八四)年四月六日にちょっとした出来事が起こっている。この日に平家の没官領注文が鎌倉へと届いたのだが、そこに記されていたのは平頼盛とその家族の所領についてであったのだ。

 平家の所領の没収は平家都落ちの後の寿永二(一一八三)年八月六日に後白河法皇が実行したことであり、その中には平家都落ちに帯同しなかった平頼盛の保有していた所領も含まれていたのである。ただ、他の平家と違って都落ちに帯同せず源頼朝の庇護下にいることもあって、その扱いをいかにするかが宙に浮いていたのだ。源頼朝は亡き池禅尼こと平宗子の恩情に報いるためとして平頼盛とその家族の保有していた所領を全て平頼盛とその家族に返還することを朝廷に訴え出ていたのである。

 この訴えが受け入れられたことで、平頼盛とその家族はかつての所領を取り戻すことができたが、所領返還に用いた理由が何とも狡猾であった。平治の乱で捕らえられた源頼朝の助命嘆願をしてくれた池禅尼の恩情に報いるとしたのである。源頼朝はこれまで、平治の乱の後の裁判そのものを否定し、そもそも捕らえて殺害しようとしていること自体が問題であるだけでなく、殺されなかったのだから感謝すべしという平家側の主張を傲慢に過ぎると全否定していたのである。もっともそれは源頼朝の視点であって、朝敵である源頼朝の命を助けたのは平家の温情に満ちた処遇であるとするのが平家側の視点からの主張であった。

 その平家側の視点からの主張がこの日を最後に通用しなくなった。亡き池禅尼の恩情に報いるために平頼盛に所領を返還するとなると、もはや平家がいかなる主張をしようと、既に恩情に報いたのだからこれ以上は不要であるとの返答が戻ってくるだけである。


 何度も記しているが、源頼朝は京都との間で月に三度の定期的な情報のやりとりをしていた。名目上は源頼朝の乳母の妹の息子である三善康信との私的な書状のやりとりであったが、実際には三善康信をスパイとする情報連携であった。

 三善康信は目立たぬ役人としか見られなかったが、平清盛の死の前後にどうやらスパイであることが見破られそうになったらしく鎌倉への避難を求める書状を送っている。そのときは鎌倉への避難とせずに出家での隠遁生活という選択をすることで周囲の目をかいくぐることに成功し、それからもしばらくは僧体であったらしい。

 僧体であったらしいと憶測で書くのは、矛盾する二つの記録が併存しているからである。養和元(一一八一)年一一月一八日に五位の蔵人である役人として三善康信の存在が確認できていたと吉田経房はその日記に残しているのに対し、寿永三(一一八四)年四月一四日、中宮大夫のもとで働く僧侶としての三善康信が鎌倉にやってきたという記録も存在しているのである。周囲の目を欺くのがスパイの必須条件であると言えばそれまでであるが、どうにもこの三善康信という人は掴み所が無い。

 三善康信の所在が公表されたのも四月一四日のこの日の記録であり、表向きは中宮大夫のもとで働く僧侶が鎌倉にやってきたということになっているが、そもそも寿永三(一一八四)年四月時点で中宮はいない。しいて挙げれば平徳子が養和元(一一八一)年一一月二五日に建礼門院の院号を受けるまでは中宮であったが、院号を受けた後は中宮でなくなっている。そして何より、そもそも建礼門院平徳子は平家の都落ちに帯同して今は四国屋島にいる。あとは、安徳天皇と後鳥羽天皇の准母である亮子内親王が皇后宮に冊立されており大納言三条実房が皇后宮大夫を、権中納言徳大寺実守が皇后宮権大夫を兼任しているので、中宮ではなく皇后宮にいる僧侶がやってきたならば話はわかるが、それも怪しい。つまり、京都で何をやっていた人が鎌倉にやってきたのかよくわからないが、その人を源頼朝は歓待しただけでなく、鶴岡八幡宮にて対面し、鎌倉に移住して武家の政務の補佐をするよう依頼されたので承諾したとなるとますますわからなくなる。

 表向きは源頼朝の乳母の妹の息子という、本人の資質ではなく源頼朝との縁によって招かれた人が歓待されたということになった。源頼朝が知り合いを京都から招き入れて歓待するのは一条能保で慣れており、多くの御家人は三善康信のことを特に深くは考えなかった。しかし、一条能保がそうであったように、京都においてはうだつの上がらない人物と思われていたのが実はそうではなかったと気づいた人物がいた。平頼盛だ。平頼盛は一条能保が源頼朝につながっているスパイであると鎌倉の地でようやく気づいた。ただ、一条能保から源頼朝のもとまで情報を届けるにしては腑に落ちないところがある。情報を届けているような痕跡がない。しかし、三善康信が絡むと全てが説明できる。筆まめな人であるという評判ならあった。平清盛が亡くなったあとでいきなり出家して身を隠すようになったのも気づいていた。その後も朝廷の末端にいるのも気づいてはいた。ただ、それらはそれぞれ無関係な事柄であり、三善康信という人物には誰もが特に関心を示していなかったのだ。ところが、三善康信の筆まめさと源頼朝との関係とに気づいたとき、全ての疑問が氷解したのだ。どうして源頼朝は京都にいなければ知り得ないような情報を知っているのか、それも、朝廷の中枢にいなければ知ることもできない情報を手に入れているのか、これまではずっと疑問であったのに今は全てが理解可能となったのだ。

 源頼朝のスパイが京都にいた。スパイからの情報が源頼朝のもとに届いていた。だから源頼朝は東国にいながら京都にいるかのような情報収集を可能とさせていたのだ。

 一条能保や三善康信を源頼朝が歓待したのは、彼らが親族や関係者だからではない。京都でスパイとして充分な功績を果たしたから鎌倉において評価したのだ。あくまでも名目は親類縁者の優遇ということにして。

 スパイを鎌倉に呼び戻しても、源頼朝はもう困らなくなっていた。源義経をはじめとする鎌倉方の面々が京都にいる、それも合法的に滞在している。京都から鎌倉まで書状を送るのはスパイが密書を送るのではなく公的文書を送り届けることに変わった。ただし、書状に記される内容に違いはない。定期的な情報のやりとりである。


 寿永三(一一八四)年四月一六日、元暦への改元が発令された。

 ただし、平家は自分たちのもとにいる安徳天皇こそが正統な天皇であるとしているため元暦への改元を否定し、この後も寿永の年号を用い続けることとなる。平家政権を認めなかった鎌倉方が養和や寿永への改元を認めず、寿永二(一一八三)年一〇月一四日まで治承の元号を使い続けたのと対比をなしている。

 それにしてもなぜ改元なのか。

 その前日にヒントがある。

 寿永三(一一八四)年四月一五日、すなわち改元が発令される前日、後鳥羽天皇の名で崇徳上皇と藤原頼長の両者を祭神とする霊社を建てたることが定められたのである。

 誰もが時代の悪化を実感していた。年を経る毎に、月を経る毎に、日を経る毎に悪化している日常を痛感し、最悪期を脱しているとは自覚しても、思い起こすは美化された過去のみである。どうして時代がここまで悪化してしまったのかを突き詰めていった結果、たどり着いたのが保元の乱であった。より正確に言えば保元の乱で崇徳上皇が讃岐国に流され、讃岐国で亡くなり、怨霊となってこの国を苦しめるようになったのだと考える人は多かった。

 参議吉田経房は、四年前に亡くなった藤原教長の言葉として、鹿ヶ谷の陰謀や安元の大火といった大事件が相次いだことに関連して崇徳上皇と藤原頼長の悪霊を神霊として祀るべきと主張しており、四月一五日は藤原教長の言葉を体言化したと言える。

 ただ、市民の目は二つの点から冷ややかなものであった。

 いかに後鳥羽天皇の名によるものであるといっても後鳥羽天皇が何歳であるのかを知らぬ者はいない。摂政近衛基通が後鳥羽天皇の名で発したのであればまだ納得はできるが、近衛基通のすぐ近くには後白河法皇がいるのだ。崇徳上皇を讃岐国に追放した張本人である後白河法皇が被害者ぶって崇徳上皇の怨霊をどうこう言うのは理不尽以外の何物でも無い。祀るまでの経緯のどこにも崇徳上皇に対する罪の言葉も無くただただ怨霊の鎮静化を願うだけであるのだ。

 それでも非業の死を迎えることとなった崇徳上皇についてはまだ理解できた。だが、藤原頼長の怨霊というのは全く理解できないことであった。多くの人を苦しめてきた悪人以外の何物でも無い藤原頼長が悪霊になるなど図々しいというしかなく、祀る意味も無ければ祀る価値も無いというのが多くの人の考える藤原頼長への評価であったのだ。

 怨霊とされるには条件がある。

 同情を集める人であることと非業の死を遂げたことである。

 崇徳上皇は条件の双方ともに合致した。だからこそ非業の死を遂げた崇徳上皇は怨霊となったと誰もが考え、祟りを受けたとしても仕方ないと考えた。

 一方、藤原頼長は同情の片鱗も無いし非業の死でもない。死んだことは認めるが死んだところでどうということは無いというのが藤原頼長であり、藤原頼長が怨霊になったことなど認めたくもないし、そもそも藤原頼長の祟りなど恐れるに値しない。藤原頼長の祟りを恐れて藤原頼長なんかを祀るぐらいなら、どうということのない藤原頼長の祟りを受けている方がまだマシだというのが当時の人たちの思いであったのだ。

 霊社である崇徳院廟を、保元の乱の古戦場跡である白河北殿の北側に建てたのち、日を改めて改元が発令された。人々は改元には従った。時代を改める必要性については感じていたから納得した。だが、崇徳院廟についてはどうしても関心を示すことができなかった。崇徳上皇と藤原頼長とを差別するのかと言われても、苦しめられてきた極悪人に対して追悼の意を示すことはどうしてもできないのがこの時代の人たちの思いであった。


 京都で発令された改元は、当然のことながらその日のうちに鎌倉に届くことなど無い。少なくとも四月中は元暦元年ではなく寿永三年であったはずである。

 捕縛されて鎌倉に連行されてきた平重衡は、監視下の生活ではあったが厚遇を以て迎え入れられていた。

 平重衡が何をしてきたのかを知らぬ人はおらず、奈良からは平重衡の引き渡しを再三のように求められている。奈良からやってきて平重衡を暗殺しようとする者も現れる始末であり、平重盛の住まいとして用意されたのは当時としてはかなり厳重な警備機能を持った邸宅であった。

 それでいて、平重衡は自らが何をしたのか理解している上で自らの斬首を求めている。奈良で自分が何をしたかも知っているからこそ、斬首こそが自分に対する唯一の対処であるともしている。

 その平重衡を鎌倉方は生かしておくことにしたのである。

 特に北条政子が平重衡に強い関心を示し、四月二〇日には千手前(せんじゅのまえ)と呼ばれる北条政子の侍女を平重衡の身の回りの世話をさせるために送り出している。そのとき、工藤祐経が鼓を打って今様を謳い、千手前は琵琶を弾き、平重衡が横笛を吹いたとある。選曲は全て平重衡が行い、その全てが死を覚悟した者をテーマとする曲であった。また、項羽の四面楚歌の句を朗詠するなど平重衡の身につけていた教養の高さが遺憾なく発揮され、京風趣味を隠しきれなかった源頼朝はその場に立ち会えなかったことを悔しがったともある。

 こうした平重衡に対する厚遇や平頼盛の所領を返還したことは鎌倉方にとってこれ以上無い対平家へのアピールであった。

 ところが、その翌日に鎌倉でアピールを帳消しにする大事件が発生してしまったのである。

 元暦元(一一八四)年四月二一日の早朝、亡き木曾義仲の長子である源義高が鎌倉を脱走したのだ、

 源義高の存在は鎌倉において厄介なものがあった。木曾義仲の勢力が壊滅したとは言え、木曾方の者が一人残らずこの世から消え去ったわけではない。木曾方の再興を考える者にとって木曾義仲の長男である源義高は自分たちが担ぎ上げることのできるこれ以上ないシンボルであり、鎌倉方としてはどうにかする必要があった。どうにかするとは、具体的には死へ導くことである。

 しかも、源頼朝が近習の者と源義高の処遇を検討しているという話を聞きつけたのはよりによって源頼朝の娘の大姫である。木曾義仲の挙兵時に人質として木曾義仲の息子の源義高を鎌倉で預かることとなったとき、源義高と大姫とを結婚させるという約束になっていた。政略結婚ではあるし、年齢を考えればママゴトのようなものであるとは言え、それが必ずしも不幸せであるとは限らない。一二歳の源義高と七歳の大姫との関係は鎌倉方の未来を体現しているとすら言えるものであったのだ。

 その源義高を他ならぬ自分の父が殺害しようとしていると知った大姫は、近くに仕える女官たちとともに源義高を逃すことを計画し、源義高と同年齢で体型的にも似ている海野幸氏に源義高の格好をさせ、源義高は女装して侍女であるかのように振る舞わせて鎌倉を脱出させた。

 日中は源義高の脱走に誰も気づかないでいたが、その日の夜に源義高の脱走が露顕。源頼朝は木曾方の残党が鎌倉に攻め込んできていることを告げて鎌倉の防衛を命じ、堀藤次に対して逃亡した源義高を追補するよう指令を出した。

 それにしても、源頼朝がこのようなヘマをしでかすであろうか?

 七歳の娘が逃亡計画を立てただけでなく、逃亡を実際に実現させてしまったのである。

 これに対し、一枚噛んでいる人物がいたことが確定している。

 中原広元だ。

 中原広元は鎌倉方の今後を考えたとき明らかに源義高が問題になることを考えただけでなく、平家を殲滅して鎌倉方が京都も掌握して天下を握ったとき、源頼朝の娘である大姫は源頼朝の提供できる絶好の人材であると考えた。藤原摂関家が代々そうしてきたように、そして、平家もそうしたように、娘を皇室に嫁がせることで源頼朝も皇室とのつながりを持つことが可能となる。こうなると、源義高と結婚することが決まっていることがマイナス材料になってしまう。また、源頼朝自身は清和源氏の嫡流という申し分ない生まれであるが、母の北条政子はお世辞にもそこまで高い身分の生まれではなく、皇室に嫁がせるのは何かしらのプラスアルファの資質が必要となる。かといって、源義高をこっそりと処分するとなったら源頼朝だけでなく鎌倉方全体に大ダメージとなる。それこそ平家に付け入る隙を与えてしまう。

 そこで、どうしてもジャマになってしまう源義高を処分した上で大姫にプラスアルファを加える策を中原広元は考案した。源頼朝が源義高を処分しようとしている噂を大姫の元に漏れさせるのだ。大姫の周囲にいる女官たちは大姫のために働く女性であると同時に源頼朝の息の掛かった女性でもある。大姫に対して源頼朝の言う通りに行動させるなど雑作もない。

 大姫は中原広元の策略に乗り、源義高を逃すことに成功してしまった。これで大姫には父の源頼朝すら手玉に取る才女という評価が加わる。

 さらに、源義高の逃亡の背後に木曾方がいると発表することで源頼朝は源義高を堂々と処分する口実を獲得する。

 この策略は完全に成功した。最後の一点を除いて。

 元暦元(一一八四)年四月二六日、この日、源義高が鎌倉に帰ってきた。ただし、首だけとなって。

 しかも、源義高を討った堀藤次の郎党である藤内光澄は、自分の手柄を誇りながら謀反人源義高の首として掲げて凱旋してきたのである。

 大姫はその一部始終を見てしまった。

 いかに武門の家であろうと、いかに戦乱の世の中であろうと、七歳の少女が自分の婚約者の変わり果てた姿を目にしたらどうなってしまうか。

 大姫は何も食べることができなくなり、水を飲むのが精一杯になってしまった。こうした娘の姿を目の当たりにし、大姫の側にいることができたただ一人の人物である母の北条政子は、娘が受けた仕打ちに激怒し、その怒りは二ヶ月に亘って消えることはなかった。それでも二ヶ月でどうにかなった北条政子はまだマシであったかも知れない。大姫はこの後、一三年に亘って病床にあり続けることとなった。大姫の人生は事実上ここで終わってしまったのである。


 源義高に対する処遇は、娘との関係を考えれば最低最悪であったと評するしかない。だが、新しい政治体制を構築することを考えると間違いであるとは言い切れないのも事実である。

 このときの鎌倉で厄介な問題であったのが、鎌倉方の一員である武士の中に、木曾方として戦っていた武士がいたことである。木曾義仲と袂を分かって別行動をするようになり、木曾義仲とともに戦っていたのが、気づいたら鎌倉方の一員となって源頼朝の家臣の一人を気取るようになっている。

 源義高の存在は、かつて木曾方であった武士にとっても微妙な存在であった。

 京都における木曾義仲に対する反感は強かったが、木曾義仲だけが反感を浴びていたわけではない。木曾義仲と一緒になって入京して暴れ回っておきながら、木曾義仲のもとを去って範頼らの軍勢に加わり、源氏の一員の体裁を装って一ノ谷の戦いに参戦し、勝者として京都に凱旋してきた者に対する視線は冷ややかなものであった。

 もっと冷ややかな反応を受けることとなるのが、木曾方の一員として京都に入ったのち、平家の所領を獲得するなどして京都を離れた者である。前段の木曾方の武士は少なくとも平家討伐の功績を示すことで京都での乱暴狼藉に対する罪を軽くできる可能性があるが、京都を離れた木曾方の武士となると、京都での乱暴狼藉に対する罪をいかなる理由を以てしても軽くするなどできない。

 その視線に対処するためと考えると、源義高に対する処遇は、同意はできなくとも理解はできるのである。

 遅かれ早かれかつて木曾方であった面々は源氏方における排斥の対象となる。と同時に、そうした面々の中には誰一人として源頼朝を超える正統性(レジティマシー)を得ている者などいない。誰もが野心ではトップに立つことを狙ってはいるが、多少なりとも現実に目を向けることができればそのような野心は無謀な妄想だと気づかされる。かといって源頼朝の家臣を名乗ったところで鎌倉方の一員と見做されるようにしてはもらえず、排斥されるのは目に見えている。ならば個々の野望は捨て置いて一つにまとまって源頼朝に対抗する勢力をもう一度作り上げるしかない。そうすれば自分たちは生きていくことができる。そのときは木曾義仲の長子を旗印として参集するのがもっとも手っ取り早い。

 これを源頼朝の立場から捉えると、源義高を旗印としてかつての木曾方が参集するような事態になろうものなら、鎌倉方にとって大ダメージになるというレベルでは済まず、日本列島全体が今以上の内乱に包まれることとなってしまう。そうなる前にかつての木曾方を排斥し、源氏勢力の全てを源頼朝の元に結集させる必要がある。

 源義高が鎌倉を脱走して木曾方の再結集を図ろうとしていると公表したことで、源頼朝は木曾方を駆逐することで源氏内部の争いを終結させ源氏の全勢力を源頼朝のもとに集中させることを宣言した。そう、ここでいう源氏内部の争いとは木曾方の駆逐となる、はずであった。

 元暦元(一一八四)年五月一日、木曾義仲の嫡子である源義高の残党が甲斐国と信濃国に隠れて謀反を企てているとして、源頼朝の命令のもと、足利義兼と小笠原長清を甲斐国へ、小山朝政、宇都宮朝綱、河越重頼、豊島朝経、足立遠元、吾妻八郎、小林重弘を信濃国へ派遣。また、和田義盛と比企能員に対しては関東の武士を集めて五月一〇日までに信濃国へと出陣することを命じた。ここに中原親能、土肥実平、梶原景時といった面々の名が記されていない理由は後述する。

 そして、ここで信濃国だけではなく甲斐国も対象としていることの意味も後述することとなる。


 前年九月に京都に派遣していた文覚の記録は少ししか出てこないでいたのであるが、源頼朝が源義高を亡きものとさせ、木曾方の残党狩りを命じていたその頃、それまでの記録の少なさを覆すかのように、文覚の記録が頻出するようになるのである。

 それも、一つを除いて同じ行動である。

 最初の記録は元暦元(一一八四)年四月二六日の夕方のことである。この日に文覚が大江公朝らと入浴したという記録である。大江公朝は大江氏であることはわかるのだが、学問に身を投じる者が多かった大江氏と違い、この人は北面の武士であり後白河法皇の周囲の警護も職掌としている。後白河法皇からの使者として法住寺の戦いが起こったことを源義経に伝えたのもこの人であり、その後は京都で後白河法皇の警備を勤務としていた。その人が文覚とともに入浴したことに何か意味があるのかと言われると、四月二六日時点では意味が無いように見える。しいて挙げれば、出家する前は北面の武士であった文覚がかつての同僚と同じ時を過ごしたというぐらいしか特筆すべきことが無い。そう、あくまでも四月二六日の時点では。

 元暦元(一一八四)年四月二八日、文覚が後白河法皇のもとに姿を見せ、従一位右大臣九条兼実を摂政とし藤氏長者にすべしと長演説を打って出たのだ。この人はかつて神護寺の再興を後白河法皇に訴え出たため伊豆国に配流となったという過去がある。その文覚がなぜ自分の前に姿を見せているのかと後白河法皇は驚いたが、どういうわけか自分の警護をするはずの北面の武士たちが全く動かないでいた。明らかに文覚の行動は問題であるが、法を厳密に適用すると違法ではない。一人の僧侶が同じく僧侶である後白河法皇のもとにやってきているだけであり、武器を手にしているわけでもなければ悪態をついているわけでもなく、ただただ長演説を繰り広げているだけである。

 それでも文覚はその日はおとなしく帰ったが、日が改まって四月二九日、文覚はまた後白河法皇の前にやってきた。内容は同じで九条兼実を摂政とし藤氏長者に就けることを求める長演説である。この日もやはり北面の武士は動かず、かといって僧体の人が僧体の人のもとに丸腰でやってきている以上、文覚の行動に違法性は無く、後白河法皇は何もできないでいる。

 後白河法皇は文覚の後ろに源頼朝が控えていることを察知していた。その上で、理論上は問題なくとも実質上は大問題である九条兼実の摂政就任と藤氏長者への任命について拒否し続ける態度であり続けていた。これはかなりのストレスであったろう。と同時に、源頼朝が何かしらの法外な要求を突きつけてくるであろうことも読み取れていた。

 その要求は意外とあっさりとしたものであった。

 平頼盛は鎌倉に逃れたのではなく任務として東国に赴任しているのだという公式見解を要求したのである。この何ともあっさりとした要求を後白河法皇は快諾し、鎌倉にいる平頼盛の中央政界復帰の道が見えてきた。

 かつて平家一門の一人として議政官に君臨していた平頼盛を中央政界に復帰させることの意味は多くの人が理解した。平家内部に裏切りの機運を生み出すと同時に、源頼朝の息の掛かった貴族を、そう遠くない未来に中央政界の中枢に送り込むのである。すでに右大臣九条兼実は源頼朝と接点を持っていることが文覚の行動によって判明している以上、源頼朝は侮ることのできない存在へと昇華している。

 ただ、その後白河法皇も読めていなかった裏の狙いについては読めていなかったようである。

 文覚の二度目の後白河法皇のもとへの参院と同日、鎌倉から平家討伐の準備のための面々が派遣されたのである。送り込まれたのは中原親能、土肥実平、梶原景時らであり、先に信濃国にも甲斐国にも派遣されなかった者の名としてこの三名の名を挙げたのは、月が変わる前に鎌倉を出発していたからである。彼らに命じられたのは軍勢を指揮することではなく軍勢を結集することである。平家討伐のための軍勢は木曾方の残党を制圧した後に鎌倉からも送るが、東国の武士だけでなく西国の武士も平家討伐に加わるよう工作するのが彼らに命じられた役割であった。

 その中には既に京都近郊に派遣していた武士たちも含まれる。元暦元(一一八四)年五月四日に伊勢国刃取山で、鎌倉方の武士である波多野盛通、大井実春、山内首藤経俊らの率いる軍勢が志田義広を討ち破り、志田義広を敗死させたことで彼らの軍勢を平家討伐の軍勢として計算することが可能となった。


 元暦元(一一八四)年五月二一日、源頼朝から後白河法皇の近臣で大蔵卿でもある高階泰経への書状が届いた。名目上は源頼朝から高階泰経への私的な書状であるが、その中に高階泰経から後白河法皇に頼みたいこととして人事の推薦が記されているとなると、私的な書状という名目での国政介入となる。

 これが国政を考える上で許されざる過激な内容であるならば大問題となろうが、穏当な物であるだけに大問題とならない。だから厄介である。仮に源頼朝からの書状が、とてもではないがその職務に相応しくない者、あるいは何ら実績を残していない者を推薦する書状であったならば、源頼朝からの推薦を論外として片付けることができたのだ。しかし、その職務に相応しい実力を持っていると誰もが納得できる上に、その職務に就くのに充分な実績を残してきたと誰もが認める者への人事の付与となると、源頼朝の推薦の有無に関係なく付与するのが正しいとなる。それどころか、どうして今までその職務を付与せずにいたのかというのが問題視されるほどだ。そのタイミングで源頼朝の推薦文が届いたとなると、源頼朝は人事の面での気配りも欠かさぬ公明正大な人物であると言う評判が立ち、職務を得た者は源頼朝への感謝の念を抱くこととなる。

 ではここで源頼朝が人事の推薦を送ったのは誰か?

 まず平頼盛が挙げられる。平頼盛は東国に赴任しているだけという扱いになっており、中央政界復帰は時間の問題であった。平家の都落ちの段階で権大納言の職務を剥奪されたため、中央政界復帰となると権大納言への復帰となる。復帰すると権大納言が五名もいるという体制になってしまうが、平家の都落ちの段階で権大納言は七名いたのであるから五名いるという体制は通例に比べれば多いものの特に不具合は無いこととなる。

 次に源広綱がいる。この人は源頼政の末子で、長兄である源仲綱の養子になった人物だ。以仁王の挙兵時には伊豆国にいたため父の巻き添えを食らうことなく過ごすことができた。伊豆国は源頼政の知行国であり、源頼政が出家したあとは源仲綱が知行国の権利を得ていたのであるが、伊豆国の知行国の権利は以仁王の挙兵が失敗に終わったときに平時忠のもとに移っていた。このまま平家政権が続けば平時忠が伊豆国の知行国主として君臨し続けることになったであろうが、平家の都落ちの後で平時忠がいっさいの公的地位を剥奪されたために伊豆国の知行国の権利が宙に浮いたのである。源頼政と源仲綱の親子も亡くなっているため、源頼政の末子で長兄の源仲綱の養子となった源広綱に知行国の権利を相続させることは、平家政権を否定し、以仁王の挙兵を肯定することにもなったのである。

 三番目に登場するのが平賀義信こと源義信である。平治の乱で源義朝とともに戦ったところまでは記録に残っているもののその後の動静は養和元(一一八一)年まで存在せず、おそらく信濃国に逃亡することに成功して信濃国の佐久の周辺で日々を過ごしていたと考えられている。動静が判明した養和元(一一八一)年には源氏方の一員として木曾義仲らとともに木曾方に立って参戦したものの、その後は木曾義仲と決別して源頼朝と行動を共にし、信濃国における源頼朝の家臣として活躍すると同時に、木曾方の排除に貢献して信濃国の治安安定に尽力し、木曾方の武士の帰郷を食い止め信濃国の平穏を維持する功績を残している。木曾義仲の影響の強い信濃国の統治で実績を残したことは地方官としての平賀義信の評価を残すに充分であり、位階においても申し分なしとして国司に推薦された。

 最後に源範頼の名が登場する。鎌倉方の総指揮を執る人物だ。京都在駐の源義経ではなく源範頼の名を挙げているのは、鎌倉方の指揮権は源範頼のもとにあり源義経は源範頼の指揮下で動く武将の一人であるという意思表示でもある。これを知った源義経は不満を抱いたというが、源頼朝にしてみれば一ノ谷の戦いの前に源義経が何をしたかを振り返ると、とてもではないが源範頼と同じ扱いをさせるわけにはいかないと結論づけるしかない。それに、源頼朝は源範頼を国司とするよう推薦しているのである。国司とするよう求めた理由は、報償としての意味もあるが、法的な意味もあったのだ。国司であれば任地である令制国の治安維持が職務として認められ、その延長上で任意のタイミングで軍事行動を選ぶことが可能となる。鎌倉方の軍勢が木曾義仲討伐のための軍事行動を起こすことが許されたのは後白河法皇から源頼朝の上洛が促されたからであり、源氏の軍勢が一ノ谷の戦いに挑むことができたのも平家討伐の宣旨があったからで、そのどちらも朝廷の公的な権力発動指令があったから官軍として軍勢を動かすことができたのだ。国司となると令制国の治安維持を前提とした軍事活動が朝廷からの命令発動を待つことなしに認められるようになる。一ノ谷の戦いにおいて源範頼が総指揮をとったことからもわかるとおり、源頼朝は源範頼を西国における鎌倉方の軍勢のトップとし、源義経は源範頼の配下の一武将と扱うことを考えていた。源範頼が国司となれば鎌倉方の軍事行動が朝廷の制約を受けることなく可能となるのだが、源義経も源範頼と同様に国司となると源義経が源範頼から離れた独自の行動をとってしまう可能性がある。

 一ノ谷の戦いの前に源義経が何をしたかを考えると、とてもではないが独自の軍事行動をとらせることは認められない。戦闘で勝つかもしれないが、それによって生じる損害が多過ぎ、民心の離反を招いてしまうのだ。後の人はこのときに源義経が源頼朝の推薦から外れたことが命運の暗転の開始であるとするが、この時点の源頼朝の判断について考えればおかしなことは無いとするしかない。

 それにもう一点、源義経に公的地位を与えないことの意味もあった。源義経は文人官僚としてきわめて優秀だったのだ。


 公的地位を有さない源義経は独自の軍事行動を執ることが認められないが、源範頼が鎌倉に戻っている途中における源義経は、源頼朝の指揮下で京都とその近郊で鎌倉方の一員として働いている。それも文人官僚として。

 後述することとなるが、元暦元(一一八四)年五月二四日に鎌倉方の対宗教界政策として高野山の保有している所領からの兵糧米徴収の停止、すなわち事実上の免税をしている。このとき、実際に免税措置の手続きをしたのは源義経である。また、平家勢力が多かった西国にあって早期から源頼朝の側に立つと宣言して実際に一ノ谷の戦いにも参戦した石見国の益田兼高こと藤原兼高を、本領安堵と引き替えに石見国押領使に推薦したのは源頼朝であるが、石見国押領使に任命された後に石見国を中心とする山陰道諸国の武士に対して源氏方に立って平家討伐に加わるようにさせたのは源義経である。源義経の武力で平家討伐に加わるように加えるようにさせたのではない。書状を送って平家討伐に加わるようにさせたのである。

 以前も記したが、源義経という人は、文例集に残るほどの書状を書き記すことのできる人なのだ。何であれ文書を求めるのが朝廷という世界であり、朝廷の貴族や官僚と渡り合えるほどの文書を記すことのできる人物となると極めて限られる。その限られた能力を持っていたのが源義経であった。

 戦場においては何をするかわからないし、民家に平然と火を放つなど源頼朝が激怒するような暴虐をやらかすこともある。源義経の郎従が小槻隆職の邸宅に押し掛けて乱暴を働き小槻隆職を捕縛しようとしたのも忘れることのできない過去である。そして何より大きな欠点として、源義経という人は戦場での勝利を掴むことはできても戦争そのものの勝利を掴むことはできない人である。個々の局面で最良の手段は何であるかはわかるが、日本地図全体を脳裏に置いて誰がどこにいてどのような戦いで勝利を手にすることで目標達成へと近づかせ、平家討伐という最終目標をいかにして達成するかという総指揮官に求められる戦略についての理解が乏しかったのが源義経だ。このような人物に独自の軍事行動を執らせようものなら、局面の勝利を手にすることはあっても戦争全体の勝利を手にすることはおろか、被害を拡大させて戦争の勝利を遠ざけてしまうこととなる。

 だが、源義経の文人としての能力ならば期待できたのだ。

 源頼朝は一三歳まで京都で暮らし、その後は伊豆国での独学だった。源義経は一五歳まで京都で過ごした後、六年間を平泉で過ごしていた人である。この時代の平泉は日本で数少ない平和な都市であり、奥州藤原氏が文化都市へと発展させてきた都市だ。元暦元(一一八四)年時点の源義経を現在の感覚で捉えるなら、中学受験で中高一貫の名門校に合格し、高校を卒業したら世界に名だたる名門大学に進学して大学院の修士号を取得し、他の同級生が国家公務員や名だたる大企業への就職を決めているのを横目に大物政治家となった兄のもとへ行き、兄の秘書として永田町で働くこととなった二五歳の若者を想定していただくのが近いか。

 源頼朝が、源義経を京都の警護に残して源範頼を鎌倉に戻したのはたしかに源範頼が総大将であったからというのが理由であり、かつ、軍勢派遣の経緯を考えたならば源範頼を鎌倉に戻すことは正しい選択なのであるが、源義経ならば京都で貴族たちと渡り合える素養を持ち合わせていたという点も無視できない点であった。平家物語での木曾義仲の記載は大袈裟に過ぎるものの、木曾義仲は粗野で文化的な素養を全く持ち合わせていなかった人であったことは隠しようのない事実であっただけに、木曾義仲と対を成すかのような文人としての素養を持った源義経を京都に常駐させるのは、源頼朝にとって合理的な判断であった。

 また、源義経を京都に在駐させたことのメリットはもう一つあった。文覚が京都に戻ってはいたものの、それまでずっと源頼朝の情報源であった三善康信が鎌倉に行ってしまったことは、本来であれば源頼朝が京都からの情報を収集できていた手段を失ってしまうことを意味する。しかし、源義経が京都にいれば三善康信の代わりが務まるのだ。もっとも、源義経は三善康信より忙しい。三善康信が暇人であったというわけではなく、表向きは官僚としての職務に専念していた三善康信と違って、源義経は京都における源頼朝の代官になっているのである。

 公的地位を保有していないために朝廷の政務に縛られる心配は無いが、それでも京都での源義経は文人としての書類仕事に加え武士としての治安維持活動も含まれる。それも業務が定型化されているわけではないため一つ一つが試行錯誤だ。何であれ前例踏襲を要求される時代にあって前例を頼れないまま試行錯誤を繰り返さねばならないのであるが、それを源義経は難なくこなしている。戦場において前例の無いことを見せ続けることとなる源義経は、文人官僚としても前例が無ければ前例を自分で作ってしまえばいいとばかりに行動した。その結果、書いた書状が文例集に載るという栄誉を得ることとなったとも言える。源義経は源頼朝の代わりに京都に在駐して貴族たちと渡り合い、源範頼の代わりに西国の御家人たちを統率し、三善康信の代わりに京都から情報を送るのだから相当な激務であったろう。

 もっとも、その激務は六月に終わりを迎える。元暦元(一一八四)年六月一日に鎌倉では京都に戻る平頼盛とその家族のための盛大な送別の宴が開催され、その場で平頼盛とともに京都に向かうこととなる御家人として小山朝政、三浦義澄、結城朝光、下河辺行平、畠山重忠、橘公長、足立遠元、八田知家、後藤基清といった面々が選抜されたが、その選抜基準を吾妻鏡は「是皆馴京都之輩也」、すなわち、京都でやっていける御家人たちと記している。つまり、源義経に集中しすぎている京都における鎌倉方の現状を改善するために人員を送り込むわけである。選抜基準は京都でやっていけること。ただし、何も源義経の代わりに文人としての職責を果たす必要はない。中原親能、土肥実平、梶原景時の三名を既に京都に派遣しており、文人としての職務は中原親能、武人としては土肥実平と梶原景時が受け持つことが可能なので、源義経とともに先行して京都に向かっている三名と協力して京都から山陽道にかけての地域で鎌倉方の勢力を形作ることができればそれで良い、はずであった。


 それが起こったのは元暦元(一一八四)年六月初頭であることはわかるが、詳細な日付は不明である。

 何が起こったのか?

 山陽道で平家が巻き返してきたのだ。

 平家の軍勢が備後国にいた土肥実平の軍勢を追い散らし、播磨国にいた梶原景時が備前国に移動した際に室泊を襲撃して焼き払うという事態が起こった。突然の奇襲で全く身動きできなかったというのもあるが、鎌倉方の作戦ミスであり、また、情報収集能力の低下を示す出来事でもあった。

 先に、四月二八日のこととして、中原親能、土肥実平、梶原景時の三名を鎌倉から京都に派遣したと書いた。そのうちの土肥実平と梶原景時の両名については二月一八日に、播磨国、美作国、備前国、備中国、備後国の五ヶ国の制圧するよう指令が出されていた。平重衡の鎌倉への護送があったためでもあるが、山陽道制圧を途中で止めた上で京都と鎌倉とを往復したわけであり、鎌倉から京都に戻ったあとは山陽道制圧の続きをすることになっていた。

 世の中そう簡単に行くわけない。

 制圧されているとわかっているのを黙って受け入れるほど平家はお人好しでもなければ愚かでもないし、鎌倉方の総司令である源範頼も不在である。一旦中断してから再度侵攻しようなどというのであるから、相手は警戒していることは充分に想定されている。ゆえに、事前の準備も、作戦も、相手よりさらに一歩上に進んでいなければならないのだが、それらが全く無く、ただただ前回の続きとなっただけであった。これは完全に鎌倉方の失態だ。

 ただし、情報収集能力の低下は懸念されても情報連携能力の低下は見られなかった。

 現地に源義経がいたのに何もしなかったのかと思うかもしれないが、前述のとおり源義経という人は総指揮官の器ではない。自分が戦場に出向いたならどうやって戦場で勝利を手にするかという視点ならば持っていても、他の者を戦場に派遣することも、自分のいない戦場で他者がどのような奮闘を見せているかも、自発的に知ろうとしない人ではある。兄に言われたから定期的に京都で手にした情報を送り届けているものの、自分から情報を集めることはなく、源義経が情報を知るのは全て事後である。その代わり、事後であろうと情報を知るまでのスピードは兄と変わらない。より正確に言えば兄の構築した情報連携システムを弟も踏襲している。

 それでも事後であるために、報告すべき内容は負けたという連絡だけとなる。鎌倉の源頼朝にとっては痛手であったとするしかないのも確かだ。ただ、致命的な打撃ではなくリカバリー可能な範囲でもある。痛手であると嘆いたところで山陽道制圧が頓挫してしまったことを否定できないが、山陽道制圧頓挫のダメージを少なくする方法ならばあったかのである。

 一連の流れを平家の立場から捉えると、鎌倉方の山陽道制圧に対して反撃して勢力挽回の動きを見せてきたところであるため、ここで勢いに乗って自らの勢力を拡大させ四国屋島の対岸である山陽道の平家勢力を確固たるものとさせて京都奪還の足掛かりとするところである。その様子は九条兼実の日記にも残っており、九条兼実の日記によれば平家の反撃の知らせが京都に伝わってきたのは六月一六日のことであるという。同日の九条兼実の日記には、これもまた毎回恒例であるが、平家の勢力は強大であるのに対し京都を守る源氏の勢力は少なく、京都が平家の軍勢の前に陥落するのではないかという危機感を募らせた記事となっている。六月二一日の日記となると源頼朝が八月にならないと鎌倉から上洛してこないという、絶望の滲(にじ)んだ記事になっている。ここまでは平家の思惑通りであり京都の貴族たちは平家の手のひらの上で踊らされていたとすら言える。

 しかし、結論から記すと山陽道の反撃については平家が成功させたが、その後は源頼朝に軍配が上がったのだ。たしかに京都に情報が伝わったのはかなり遅かったし、京都の源義経らの元に情報が届いたのも事後であるが、源義経や中原親能のもとには正式な報告よりももっと早い段階で情報が届いていたのである。それも、源頼朝の立てていた事前計画の範囲内に収まる内容であったために、何も知らぬ人はまるで源頼朝が未来予知をできたのではないか、あるいは源頼朝が鎌倉ではなく京都近郊にいるのではないかと錯覚させるほどであった。たしかに情報収集能力の低下は見られたが、情報連携能力については変わっていなかったのだ。

 元暦元(一一八四)年六月五日、すなわち、九条兼実が日記に記したよりも一一日も前、源頼朝の推薦が反映される形で平頼盛が権大納言に復帰。河内守に平頼盛の子の平保業が就任、それまで平氏の知行国であった三河国、駿河国、武蔵国の知行国の権利が源頼朝の下に移されると公表された上で三河守には源範頼、駿河守には源広綱、武蔵守には平賀義信が就任した。

 これだけであれば源氏が勢力を延ばしてきたのかという感想にとどまるが、そこから先が平家の想定を超えていた。讃岐守に一条能保が就任したのである。讃岐国といえば平家が本拠地としている屋島のある令制国だ。その国の国司に鎌倉の源頼朝のもとにいる一条能保が就任したことで、屋島の平家に対する源氏方の攻撃は全て合法になったのである。国司が自分の統治する令制国で犯罪が繰り広げられているときに犯罪を鎮圧するのは正当な職務であり、職務遂行にあたって朝廷の許可を得る必要はなく事後報告のみで問題ない。源氏としては、形式的には一条能保の要請を受けての行動ということになるが、実質的には朝廷の許可なしにいつでも平家を攻撃することが許されるようになったのである。しかも、本拠地が讃岐国屋島である犯罪集団を討伐するという名目なのだから、国境を越えた警察権の行使も可能だ。その権利の行使が事実上の軍事行動であったとしても、それは何ら違法ではないのだ。

 この図式の構築が意味するところに気づいている人は多くなかった。少なくとも九条兼実は全く気づいておらず、除目より一一日も経ってから届いた平家反撃の知らせを受けてただただ危機に恐怖しているだけであった。

 この図式の構築の意味するところがわかったのは平家である。平家は反転攻勢作成の見直しを余儀なくされたのである。事前通告無しに本拠地である屋島への奇襲攻撃が合法となったとあれば、どんな軍事組織であろうと作戦の全面見直しは余儀なくされる。


 なお、元暦元(一一八四)年六月五日の除目において源義経の名は挙がっていない。源義経はこのときに何かしらの役職を、それも兄の源範頼と同等の役職を要求したというが、朝廷からは源義経の要求を満たす回答は無く、この時点の源義経は無位無冠の一人の武士という扱いになっていた。

 ただし、この段階で源頼朝は源義経を検非違使に推挙することを考えていたようである。検非違使と言っても検非違使のトップである検非違使別当ではなくそれより下の職務の検非違使であったようだが、それでも検非違使となれば司法権と検察権と警察権を保有し、警察権の発動という名目で独自の軍事行動を起こすことも可能となる。また、独自の軍事行動ではなくとも朝廷や国司が治安維持目的で検非違使の出動を要請することもマニュアル化されているのでスムーズに行く。京都とその近郊に送り込んだ御家人たちを検非違使たる源義経の配下に置くことで、検非違使に対する複数箇所からの出動要請があったとしても流動的に対応可能となる。

 ところが元暦元(一一八四)年六月時点で源義経が検非違使になったという記録も無ければ、その他の何かしらの公的地位を手にしたという記録も無い。源義経自身は公的地位を求めていたにもかかわらず朝廷からは何のアクションも示されていないのである。

 この時点で無位無冠であるのは源義経だけではなく京都とその近郊に派遣された鎌倉の御家人たちも同じである。ただし、源義経には一つだけ御家人たちと違うところがある。その役割があるから無位無冠であることを要求されたとしてもよいであろう。

 その違いとは何か?

 文人官僚としての事務処理能力である。

 御家人たちはその武力を行使することを求められていたのに対し、源義経は文人としての能力も買われて京都に滞在し続けることを求められたのだ。

 文人としての源義経の能力が発揮された例として、前にも述べた鎌倉方の対宗教界政策である高野山についての対処が挙げられる。このときの高野山に対する対処を正確に記すと高野山領の紀州阿弖河(あてがわ)荘の処置となる。

 源義経は無位無冠の身であるが、多くの人にとっては一ノ谷の戦いで勝利を掴んだ鎌倉方が京都に残した人物であり、鎌倉方に対する何かしらの請願をするとなれば京都に滞在している源義経の元を訪ねるというのが共通理解として成立していた。高野山からの請願もその例の一つであった。

 高野山からの請願は、弘法大師以来の所領である紀伊国の阿弖河荘が寂楽寺の押領されてしまっているので、ぜひともどちらの言い分が正しいか調査してほしいというものであった。高野山にしてみればこの請願が源頼朝の元に届いて源頼朝から何かしらの回答があることを期待したものであったが、源義経は単純に鎌倉の兄のもとに請願文を送り届けたのではなく、自らが調査した結果を踏まえた鎌倉に書状を送り兄の返答を待ったのである。このときに源義経が記した書状とされる文書は現在でも高野山金剛峯寺に残っており、その文面は吾妻鏡に記した源義経の文面の内容と合致している。源義経の文字はお世辞にも達筆とは言えないが文面そのものは簡潔であり、記載している内容は官僚の手本となる文書となっている。この文書を鎌倉で受け取った源頼朝も遠距離の事務手続きはこのようなものとなる手本のような返信を送り届けている。結果として、高野山は被った損害を帳消しにするに見合うだけの兵糧米徴収の停止、すなわち事実上の免税措置を受けることとなった。

 しかし、こうした文人官僚としての能力の発揮によって厄介な問題が現れてしまった。源義経は文人として計算できると同時に武人としても計算できる人物なのだ。このときの源頼朝は、源義経を京都に残しておいて文人としての政務に当たらせつつ、平家討伐の軍勢を京都に送り込んだら文人としての源義経を終わらせて武人としての源義経を復活させるという構想を描いており、その一環として源義経を検非違使とするよう推挙していたのであるが、文人としての源義経の能力が発揮されてしまうと武官ではなく文官としてカウントされるようになり戦場に源義経を連れて行くことができなくなってしまうのである。そうでなくとも鞍馬寺で学問を修めたあと、平泉で六年間も学んできた人物である。治承三年の政変以後の混乱、特に平家の都落ちと木曾義仲らの暴虐の影響で優秀な人材を多く失っている京都において、源頼朝と深く結びついていることを抜きにしても充分に優秀な官僚となり得る人物である源義経に対する需要は高かった。しかもその人物は軍勢を率いて戦場に向かうこともできるというのだから二重の意味で得がたい人材であった。

 源頼朝は京都でやっていけると判断した御家人たちを京都に派遣したのは既に記した通りであるが、その目的の中には源頼朝は京都における源義経の負担を軽減させるという点も存在していたのだ。京都に派遣された面々の名を比べてみると、五月一日に木曾方の残党狩りとして信濃国と甲斐国への派遣が命じられた足立遠元が含まれてはいるものの、実質的に両者は別行動で足立遠元だけが重複しているという図式である。つまり、平家討伐のために京都に派遣された御家人と、木曾方の残党狩りのために信濃国と甲斐国に派遣された御家人とは別々の作戦に従事しており、そのうちの足立遠元だけが呼び戻されて京都へと向かうことになったと考えるべきである。


 何度も記しているが、木曾方の残党狩りとして源頼朝が派遣した先は信濃国だけではなく甲斐国も存在しており、派遣された御家人たちは各地で木曾方の残党を討伐することに成功していたものの、ここに一点問題があった。信濃国はいい。木曾義仲の根拠地であり、木曾義仲亡き後も木曾方の武士がいる。しかし、甲斐国は武田信義が事実上制圧しているため木曾方の入り込む余地はほとんどない。ゼロとは言えないがわざわざ鎌倉から御家人を派遣しなければならないほどではない。

 武田信義は木曾方の残党狩りの意味するところがわかっていた。木曾義仲の残党を狩るという名目で甲斐源氏を鎌倉方が制圧しようというのである。甲斐源氏は源氏方の一大勢力ではあるが鎌倉とは一線を画しており独自の勢力となっていた。治承四(一一八〇)年に源頼朝が挙兵したという情報が朝廷に入ってきたとき、源頼朝と並んで甲斐源氏の武田信義も討伐の対象として併記され、治承五(一一八一)年には逆に武田信義に対して源頼朝を討伐するよう命じられたという噂が流れたほどだ。そのときは甲斐源氏全体が源頼朝とともに行動することを記した起請文を書き記している。

 とは言え、甲斐源氏の立場は微妙なもとのとなっていた。何より、甲斐源氏で圧倒的存在感を示してきた武田信義が甲斐源氏を一つにまとめきれなくなってきていた。武田信義の弟とも叔父とも言われる安田義定は遠江国に別個の勢力を築き上げるようになり、木曾方の一員として木曾義仲とともに上洛しながら木曾義仲とは袂を分かち、源範頼の指揮下に入って一ノ谷の戦いで軍勢の一部を率いる立場になっていた。武田信義の弟の加賀美遠光とその次男の小笠原長清、武田信義の子の石和信光といった武士たちは武田信義のもとを離れて源頼朝の元に仕える御家人の一人となっていた。特に小笠原長清に至っては、木曾方の討伐のために甲斐国に派遣される側になっていたほどだ。

 一ノ谷の戦いに参戦したとは言えかつて木曾方の一員として上洛し乱暴狼藉を働いた遠江国の安田義定が討伐の対象となったなら、まさにその乱暴狼藉を理由として処罰も理解できよう。しかし、源頼朝は甲斐国に御家人を派遣した。その中には武田信義の甥である小笠原長清もいた。

 元暦元(一一八四)年六月一六日、武田信義は嫡男である一条忠頼を大倉御所に向かわせた。治承五(一一八一)年に成功したように、鎌倉に足を運ぶことによって怪しまれる芽を摘むためである。源頼朝も一条忠頼を大倉御所で歓待し、これで甲斐源氏は今まで通り、独自の勢力を構成しながらも源氏方の一員として源頼朝のもとで行動する武士団であり続けることとなる、はずであった。

 この歓待の場が一条忠頼殺害の場となったのだ。

 歓待の場ではまず、工藤祐経が銚子を持って源頼朝の前に進んだ。一条忠頼へ酒を注ぐためであるが、そこで何かしらの躊躇があったのか、後ろで待機していた小山田有重が立ち上がって、このような酌は年寄りである自分のほうが相応しいとして工藤祐経の持っている銚子を取り上げると同時に、息子の稲毛重成と榛谷重朝に杯と肴を持たせて、一条忠頼の前へ歩み寄った。二人の息子を連れてきたのはこのような場における礼儀を教える絶好の機会でもあったからで、手にしていた銚子をいったん下に置いて給仕のときに指貫を膝の下で結ぶのが正しいと示して教えはじめた。一条忠頼も、滅多にない機会を教育の機会にしている小山田有重の様子を眺めるために後ろを向いた。

 その隙に天野遠景が太刀を手に一条忠頼の左側へ進み、一条忠頼を殺害。混乱を尻目に源頼朝は自席の後ろの障子を開けて別室へと避難した。

 酒宴の場が殺人現場になった、それも殺害されたのは一条忠頼であると知った一条忠頼の家臣や親族が庭から歓待の場へ駆け寄るも、彼らもまたに小山田重成、榛谷重朝、結城朝光らの前に倒れ、ただ一人逃走を図ろうとした者も天野遠景の家来の手によって首を落とされることとなった。

 表向きは木曾方の残党の処罰である。しかし、ここで一条忠頼を失ったことでもっともダメージを受けることとなったのは木曾方の残党ではなく甲斐源氏だ。甲斐源氏は今までのように鎌倉と一線を画した独自の組織でありながら源氏方の一翼を担うという選択が許されなくなり、個々の武士がそれぞれ御家人として源頼朝の指揮下に入る以外に自分たちが生き残る方法を無くしてしまったのである。実際、早々に御家人となった加賀美遠光は甲斐源氏であるものの武田信義のもとからいち早く離脱したために、武田信義に仕えるままであったら手にできなかったはずの栄誉を鎌倉方の一員として手にすることに成功している。この選択は他ならぬ武田信義自身も選ばなければならなくなり、武田信義はこの後も源氏方の武士として名を残すことになるが、甲斐源氏の頭領としてではなく、源頼朝に仕える御家人として名前を残すこととなる。かつて源頼朝と並列で記されることもあったなど誰も信じられないというごく普通の御家人になったのだ。息子を殺害した相手に付き従わねばならないのは釈然としない思いがあったろうが、それが生き残るための唯一の方法であると悟らざるを得ないのがこのときの甲斐源氏の状況でもあったのだ。

 それにしても源頼朝はなぜ一条忠頼を暗殺したのか。

 この問いに対する回答は朝廷側の動きにヒントがある。

 朝廷はたしかに源頼朝を待ち望んでいた。源頼朝の謙虚な姿勢には感服させられることも多かった。しかし、源頼朝が必要以上に強大な存在になるのは避けたかったのだ。源頼朝の牽制役として甲斐源氏を、特に甲斐源氏の頭領である武田信義とその嫡子の一条忠頼の両名を引き立てることで、朝廷側で操作できる東国の武人として抱え込み、源頼朝に対する牽制を図ることで鎌倉方の勢力を制御しようとしていたことは尊卑分脈の記述から推測できる。実際に就任した記録は無いが、尊卑分脈では一条忠頼のことを武蔵守と記しており、源頼朝の事実上の支配下にある地域の国司に甲斐源氏である一条忠頼を指名することで、鎌倉方に対する独自の行動と、国司としての令制国の治安安定を名目とした無制限の武力発動が許容されるようになっていたのである。それは、源頼朝の推薦によって讃岐国司に一条能保が任命され、讃岐守一条能保からの要請という名目で讃岐国屋島に対する全ての軍事行動が合法化されるのと同じ理屈だ。ただし、朝廷のその思惑は暗殺によって消失し、後に残っていたのはバラバラになって鎌倉に対抗しうる勢力としての価値を喪失した甲斐源氏であった。

 ちなみに、殺害された一条忠頼と讃岐国司に任命された一条能保とは同じ苗字であるが、たまたま同じ苗字になっただけで親族関係には無い。そもそも一条忠頼の本名は源忠頼であるのに対し、一条能保の本名は藤原能保である。一条忠頼の場合は甲斐国山梨郡一条郷を本拠地としていたために一条が苗字となったのに対し、一条能保の場合は平安京にいた頃に住まいとしていた平安京の一条室町第が苗字の由来であるという、由来となる地名が離れていても同じ地名であっただけのことである。


 ここで京都に視線を移すと、東国の勢力が徐々に西国に浸透してきていることを痛感させられる事態がだんだんと起こってきていたことが読み取れる。

 まず、元暦元(一一八四)年六月二〇日に鎌倉から京都へと戻ってきた平頼盛が早々に権大納言としての職務に取り掛かりはじめた。京都を離れる前の平頼盛は平家一門の一員であったのに対し、今の平頼盛は源頼朝の強い影響下にある人物である。政権内における平頼盛が源頼朝の意向に従って行動していることに気づくのには一日を必要としなかった。たしかに源頼朝は京都から半月は要する場所である鎌倉に滞在していているが、中原親能と源義経が京都に滞在しており、この両者を通じて源頼朝の意向が平頼盛の元に届くようになっているシステムが構築されているのは誰の目にも明らかであった。

 ただし、京都を離れる前の平頼盛が朝廷内で権力を発揮できた理由の中には平家一門の数の力も存在していた。今の平頼盛にそのようなものはない。さらに言えば平家そのものに対する庶民の怒りが消えているわけではなく、平家都落ちに対応しなかったとは言え、また、治承三年の政変では平家の一員であったどころかクーデタによって討伐される側であったとは言え、平頼盛は平家の一員と見られ続けていたのである。おまけに平家都落ちに帯同しなかったことは平家に対する裏切りとして評価もできたが、平家を裏切ったことへの不信感は拭い切れるものでもなかった。ここに一ノ谷の戦いでの平家の大敗と、討ち取られた平家の面々が晒し首となったことが加わる。仲間が晒し首となり、捕縛された身となり、流浪の身となったのに、ただ一人平頼盛だけが何事もなかったかのように議政官の一員として復帰していることは平頼盛に対する評価を必ずしも高めたりはしなかった。

 人は、自分を利する裏切りは好んでも、裏切り者を好むわけではない。

 平頼盛がもっと無神経な人であったならば平然として朝廷における源頼朝の代弁者となったであろう。

 平頼盛がもっと無責任な人であったならば自分の孤独感に打ち勝つことができずに権大納言の職務を放棄して朝廷から出ていってしまったであろう。

 平頼盛は無神経でも無責任でもなかった。自分がどのような視線で眺められているかを理解しつつ、自分に課せられた責務とこれから一年近く向かい合い続けるのである。せめてもの救いは、参議の吉田経房が平頼盛と同様に鎌倉方の代弁者であったという点である。少なくとも孤独とは無縁でいることはできたのだ。

 平頼盛の決意の背景には、平頼盛の京都復帰の三日後に京都中の話題を独占したニュースも存在していた。

 六月二三日、鎌倉の源頼朝から金一〇〇〇両、平泉の藤原秀衡から金五〇〇〇両が、平家の南都焼討によって消失した東大寺の復興資金として献納されたというのだ。現在の貨幣価値にすると源頼朝は三億円、藤原秀衡は一五億円を献納したこととなる。いかに有力者であると言ってもそう簡単に捻出できる金額ではない。しかも何の前触れもなしに。

 源頼朝からの献納は藤原秀衡からの五分の一ではないかというと仮に思いついたとしても、それを口にする者はいなかった。すぐにあることに気づいたからだ。一月に木曾方を討ち取ってからこれまで、京都市民に食糧を提供してくれているのは鎌倉の源頼朝なのである。東国からの支援物資が平安京にまで届き、京都周辺に行き届くようになったことで、養和の飢饉と称されるこの時代の飢饉はようやく小康状態を見せることができるようになったのである。東国からの支援物資がどれだけの量であるのかを考えれば、ここで藤原秀衡の五分の一ではないかという難癖など、仮に思いついても口にすることは許されないと実感するはずだ。それに、藤原秀衡が源頼朝の五倍の献納をしたのは、これまで東北地方からの物資の支援ができなかったことの埋め合わせも存在している。源頼朝が五ヶ月間に渡って京都を支援し続けてきたことを考えると、一度に五倍の献納とでもしなければ世情の評価を得ることはできなかったであろう。


 京都における源頼朝は希望を与えてくれる聖人君子であったが、鎌倉では完全無欠のリーダーから転落し始めていた。木曾方の残党狩りという名目で源義高を処罰し甲斐源氏を壊滅に追い込んだことで鎌倉方の勢力の安定は図ることができたが、安定を図るための生存競争で勝者となるのは既に御家人となっている武士であり、これから源頼朝に仕えることとなる武士は勝者とならないこととなる。おまけに、源頼朝に仕えていれば安泰かというとそのようなことはない。上総介広常の例もあるが、元暦元(一一八四)年六月二七日にさらに一例、源頼朝に仕えてきた一人の武士に死が命じられるという例が加わったのである。源義高を討ち取った藤内光澄がその武士で、婚約者が討ち取られてからずっと衰弱したままでいる娘を嘆いた北条政子に責められ続けた源頼朝が、妻の訴えを受け入れて死を命じたとするのが吾妻鏡での記述だ。

 このままいくと、鎌倉方は世の中に数多くある新興勢力の衰退パターンに堕するところであった。発足当初は誰も彼も受け入れる、それこそ敵であった者も受け入れる懐の深い集団であるとアピールしておきながら、勢力が増えてくると受け入れる者の選別をするようになり、さらには勢力内での争いを繰り広げるようになるという、人類史上何度となく繰り広げられることとなったパターンだ。

 鎌倉方の一員を構成する当事者であれば自分たちの勢力が拡大しつつあると自覚しながらも以前より居心地が悪くなったと感じるとなるが、敵からすればこれは実にわかりやすい衰退突入のサインであり、反転攻勢の絶好の機会である。これまでであれば誰であろうと受け入れて勢力を拡大させてきた鎌倉方が今後はなかなか受け入れなくなるということは、平家を見限った者が鎌倉方に移るという可能性が減ること、すなわち、これまでは平家からの離脱が鎌倉方の勢力拡張と同一の意味を持っていたのに対し、今後は平家からの離脱があったとしても鎌倉方の勢力拡張とは必ずしも一致しなくなることを意味する。おまけに、鎌倉方の内部で勝手に争って鎌倉方の勢力を減らしてくれるのであるから、平家側の視点に立つとこんなにありがたいことはない。

 山陽道での平家の巻き返しがあったのは元暦元(一一八四)年六月初頭であるが、そのことについての記載は吾妻鏡にはない。記録があるのは貴族の日記である。六月五日に平頼盛が権大納言に復帰したことや、源頼朝の推薦した面々が各国の国司に就任したことの記録を吾妻鏡で探しても、同日の日付ではなく六月二〇日にそのような人事があったという情報が届いたことを伝える記事が残されているだけである。京都と離れているためにどうしても生じてしまうタイムラグを考えれば妥当なところであるとするしかないが、吾妻鏡という歴史書は、鎌倉に情報が届いたのがいつであるのかを書くケースと、現地の日時で出来事を書くケースとが混在している歴史書であり、重要な出来事であればあるほど後者である可能性が高くなる。なお、源義経が自分にも源範頼と同程度の待遇を求めていながらも源頼朝が認めなかったために、源義経が国司に就任することは無かったと記しているのがこの翌日の六月二一日の記事である。

 その後の吾妻鏡の記録を追いかけると七月三日に源義経を西国に派遣するよう後白河法皇に要請したことがわかる。六月初頭に平家の反転攻勢のあったことを鎌倉で知り、ただちに指令をまとめて京都に送り返すと、七月三日の要請はタイミング的に合致する。ただし、想定としては讃岐国司である一条能保の要請に基づいて源義経を四国へと出動させるというものであったがこの試みは失敗している。一条能保が要請を出さなかったからではなく、一条能保の要請よりも前に動き出さなければならない局面に突入してしまっていたからである。これはさすがに源頼朝も想定外であった。

 何が起こったのか?

 伊賀国と伊勢国で平家が反乱を起こしたのだ。

 これは朝廷にとっても、鎌倉にとっても寝耳に水であった。

 さらに言えば、平家にとっても完全に悪手であった。

 源氏方が勢力を減らしてきているのだから平家としては何もせずに源氏の衰退を待てば良かったのである。それなのに行動を起こしてしまったせいで源氏の勢力衰退を止めてしまっただけでなく、勢力衰退から勢力増幅へと復活してしまったのだ。

 しかし、いかに悪手であるとは言え反乱は反乱。ただちに対処する必要が生じた。


 伊賀国も伊勢国も以前から平家の権勢が強く、平家の都落ちに帯同できなかった多くの武士が隠れるように生活していた。彼らのことは源頼朝も把握しており、大内惟義を伊賀国に、大井実春と山内首藤経俊を伊勢国に派遣して平家の残党を捜索し制圧することを命じていた。

 しかし、平家の残党の捜索は上手くいかないどころか紀伊半島の平家勢力の結集を図らせることとなってしまった。散発的な反乱勃発ではなく計画的な反乱勃発を招いたのである。ただし、彼らは屋島の平家と連携を取ることはできていなかったのか、それとも屋島からの命令であったかはわからない。もしかしたら山陽道の平家と連動したのかもしれないが、だとしたらタイミングが遅すぎる。山陽道で平家が立ち上がったことを知って慌てて反乱を起こしたというのならまだわかるが、それはただの憶測である。

 わかっているのは、彼らの行動が源氏方の勢力衰退の動きを止め、逆に源氏の勢力を盛り返す結果を読んだことである。

 まず、平家の家人として名の知られていた平家貞の子である平家継が伊賀国で蜂起し、大内惟義のもとを襲撃。大内惟義自身は無事であったが多くの郎等が殺害された。伊賀国と平家との関係は平正盛にまで遡ることができる。平正盛が白河上皇に伊賀国鞆田荘を寄進してから伊賀国は平家の重要な経済基盤となっており、平家貞は鞆田荘の管理を担当する沙汰人の役職を務めていた人である。その人の息子である平家継は伊賀国山田郡平田を根拠地としていたことから平田家継とも呼ばれる人物であり、伊賀国に在住し続けていたために伊賀国の地形を知り尽くしていることから、源氏の軍勢から身を隠すことは無論、源氏の軍勢にゲリラ的に抵抗することも可能とさせていた。

 さらに、伊勢国では平信兼と伊藤忠清が反乱を起こして鈴鹿山を塞いだという話も飛び込んできた。鈴鹿を封鎖したということは東海道を閉鎖してしまったことを意味する。このままだと京都は再び物資を失って飢饉に舞い戻る。

 伊勢国は伊賀国以上に平家とつながりの強い土地である。つながりが強いどころか平家の本拠地とまで称しても良い土地であり、そもそも平治の乱より前は平清盛らのことをまとめて呼ぶのに伊勢平氏と呼んでいたほどだ。それは平家が天下を取ってからも変わらず、平家の経済の中心が海外交易に移ってからも伊勢国は伊賀国以上に平家の経済基盤の大きな比重を占めており、伊勢国の各地に代々伊勢平氏に仕えてきた武士が点在していたのである。平信兼もそうした武士の一人であった。

 平信兼は桓武平氏の一員であるものの家系的には平家とは一線を画していた一族の出身であるが、平家が興隆するに伴い平家の一員として行動するようになり、平家政権下で検非違使や各国の国司を歴任するなど自身が伊勢国の平氏であることを活かして順調にキャリアアップを果たしていた。ただし、その途中で息子の山木兼隆こと平兼隆を訴え息子を伊豆国に追放させている。治承三年の政変の結果、伊豆にいたという理由で息子は配流の身から伊豆国の目代へと転身を遂げたが、源頼朝の挙兵ののち、息子は源頼朝の最初のターゲットとなって鎌倉方に討ち取られた。その後も平信兼は平家政権の一員であり続け最終的には河内守になったものの、ここで平家の都落ちがあり、平信兼は河内守の地位のまま都落ちに帯同せず伊勢国に身を隠す道を選んだ。そこで手を組むことになったのが、都落ちに帯同せずに出家することを選んだ伊藤忠清である。伊藤忠清は出家して平家とともに行動する人生を終えると決めたのだが、出家しても待っていたのは逃亡生活であり、伊藤忠清は結局、自分の人生を出家で終えることはできなかった。

 伊賀国と伊勢国で平家の残党が反乱を起こしたという知らせが京都に届いたとき、京都で湧き凝ったのは混乱である。特に問題となったのが東国からの陸路の一つが閉鎖されてしまったことである。飢饉からどうにか持ち直してきているのは東国からの支援物資が、特に鎌倉方からの支援物資が供給されるようになったからで、平家の残党が供給ルートを遮断してしまうことは、思い出したくもない養和の大飢饉の再現を招いてしまう可能性が高いことを意味するのだ。

 さらに悪いことに、元暦元(一一八四)年七月一二日には京都で巨大な地震が発生し、特に法住寺とその周辺で多くの建物が損傷を受けたことは時代の暗転を予期させるに充分であった。


 元暦元(一一八四)年七月一八日、鎌倉の源頼朝のもとに伊賀国と伊勢国で平家が反乱を起こしたことの情報が届き、源頼朝は伊賀国に派遣していた大内惟義と伊勢国に派遣していた山内首藤経俊の両名に対して平家討伐についての指令書を発した。吾妻鏡によれば隠れている平家を討ち滅ぼせという指令書であったとのことであるが断定口調で書いてはいない。すなわち、指令書が送られたとは記していても指令書の内容そのものは不正確な記述である。また、既に派遣していた人物に対する指令であり新たな人員の派遣はしていない。しいて挙げれば伝令のために派遣した人物ぐらいしか派遣していない。これは何も源頼朝がケチなのではない。いかに問題だと感じても簡単に軍勢を派遣できるほど鎌倉に余裕はないのだ。

 現実問題として伊賀国と伊勢国をどうにかしなければならない。反乱そのものも問題だが、物流の遮断も問題である。後述するが、源頼朝はおよそ半月後に源範頼に命じて軍勢を派遣することとなる。それも御家人オールスターズという面々を取りそろえた軍勢だ。派遣する軍勢の規模を大きくすればするほど戦争で勝てる可能性が上がるが、同時に軍勢を用意する時間が限られる。既に伊賀国と伊勢国に派遣していた面々に対して源頼朝がどうにかできるのは、鎌倉からの軍勢が到着するまでの指令だけである。

 一方で反乱を起こした平家の側に視点を向けると、彼らの側も京都や鎌倉に反乱の知らせが届いたことは理解できていた。さらに、伊賀国と伊勢国で発生した反乱を近江国にも飛び火させることで、かつて自分たちが苦しめられていたのと同じ戦術を、自分たちが攻撃する側になって仕掛けるのだとして盛り上がってもいた。彼らにとっては、自分たちの起こした平安京の東方での反乱と、平安京西方の山陽道での反乱とを結合させることで、平安京をまずは兵糧責めにしたのち、挟み撃ちにして平安京を奪還するという構想を描いていたのである。自分たちの反乱の知らせが京都に届くことは問題ない。と言うより、反乱の知らせが京都に届かなければ意味が無い。しかし、鎌倉に知らせが届いてしまうのはマズイ。京都が派遣する軍勢に対してならば立ち向かえる自信はあるが、鎌倉から派遣されるはずの軍勢と対決して勝てるかというと、厳しいものがある。ゆえに、鎌倉から派遣される軍勢が紀伊半島に到着する前に京都からの軍勢を制圧し、軍勢のいなくなった京都を降伏させて平安京を制圧する必要がある。

 戦術としてはあまりにも浅慮にすぎるが、浅慮とあざ笑うことが許されるほど悠長なことは言っていられない。いよいよ物資供給路の完全封鎖が現実味を帯びてきていたのだ。

 立ち上がった平家の残党の武士たちは、平家の都落ちに帯同しなかったとは言え、かつての平家の武力の主軸を担ってきた面々である。捜索していた源氏の面々にとっては探していた相手が自分たちの目前に現れたことを意味するのだが、見つけて終わりというわけではない。捕縛するにせよ、討ち取るにせよ、平家の都落ちの後も平家の勢力が強く残る伊賀国や伊勢国を制圧することが最終的なゴールである。それなのに源氏が体験することとなった結末は大損害であった。ここまでは平家の勝利である。

 ところが、伊賀国や伊勢国に留まっていれば平家が有利であったのに平家は軍勢を近江国にまで拡大させてしまっている。立ち上がった平家の残党にしてみれば急ぐ必要があったからだが、伊賀国や伊勢国における平家は本拠地であり土地を守ってきてくれてきた人たちであって源氏は民衆の敵であったからこそ立ち上がって間もない頃の勝利を手にできたのに対し、近江国における平家は各地で略奪を繰り返してきた憎むべき存在であって源氏のほうが民衆の味方であるとなると、反乱冒頭時の勢いは完全に喪失する。

 九条兼実の日記によると近江国大原荘の付近で源平双方が衝突し、源氏方では佐々木秀義が戦死、平家方では平家継が戦死したとある。軍勢が全面に展開するという戦闘を伴う反乱はここで終わった。

 しかし、平信兼や伊藤忠清は戦場から逃走することに成功していた。平家継の戦死は平家にとって痛事であったが、反乱前の状態、すなわち、平家の残党が身をくらませる状況に戻ったことを意味したのである。元に戻ってしまったのはその通りであるが、平家の残党にはもう一度やり直すという選択肢も存在することとなる。それを源氏が許すかどうかは別として。


 近江国での戦勝の報告を受けた京都では、安堵の声とともに、まだ脅威が収まっていないことを意味した。とりあえず東国からの物資供給路を確保し直すことには成功したが、根本的な解決、すなわち、姿を消した平家の残党を引きずり出して処罰し、伊賀国と伊勢国から平家を駆逐するという最終的な解決はまだまだ先であった。

 平家の残党がまさに暴れていた最中の元暦元(一一八四)年七月二八日、後鳥羽天皇が正式に即位した。前年の皇位継承は三種の神器の無いままの帝位であったが、正式な即位の儀については三種の神器を取り戻してから執り行うという算段となっており、当初は前年一〇月に開催予定であった即位の儀は延期に次ぐ延期の末にここまで伸ばされることとなった。結果として、前年八月二〇日に後白河法皇の院宣によって帝位に就いてから一年近く即位の儀については延期となっていたのであるが、帝位に就いてから即位の儀の開催まで一年以上経過することも前例としては存在しているため、後鳥羽天皇はこの意味で言うと前例のない帝位であったわけではない。

 しかし、神武天皇からずっと続いてきたとされてきたことが、この日の即位の儀で止まった。三種の神器の無いままに即位の儀が太政官庁にて開催されたのである。三種の神器が無いという一点以外は従来通りの即位の儀であったのは京都の後白河院と朝廷の貴族たちの維持の発露としてもよく、右大臣九条兼実の日記には伊勢国や伊賀国での平家の反乱に対する恐怖を記す以外は即位の儀の開催についての記載がびっしりと書き込まれている。あるいは、平家が再び京都にやって来ることに対する恐怖を後鳥羽天皇の即位に専念することで紛らわせていたのかも知れない。

 ここで後鳥羽天皇の生涯、生涯と言っても即位の儀の時点ではまだ数え年で五歳であるから振り返るのも五年未満になるが、その後鳥羽天皇の五年間を振り返ってみるとこのようになる。

 後鳥羽天皇は治承四(一一八〇)年七月一四日に、高倉院の第四皇子として京都で生まれた。諱(いみな)尊成であるが、尊成という諱は後鳥羽天皇の即位の直前の立皇時に後白河法皇によって名付けられた諱であり、生誕から三年間の名はそうではなかったことがわかっているものの詳細は不明である。なお、後鳥羽天皇が生誕したその頃はまさに福原が都であった時期であり、高倉上皇も福原に滞在中であったため高倉上皇は後鳥羽天皇の生誕に立ち会っていない。平安京に還都した後も高倉上皇は病に伏せたままの日々が続いており、おそらく後鳥羽上皇は生涯で一度も実父の顔を見たことがなかったのではないかとさえ考えられている。

 後鳥羽天皇の母は藤原殖子で、平家政権下で勢力を伸ばしていった藤原信隆の娘である。藤原殖子は後鳥羽上皇の生誕する前年に守貞親王を出産しており、後鳥羽天皇は高倉院から見れば第四皇子であるが、藤原殖子から見れば第二子ということになる。ただし、守貞親王は生まれてすぐに母の元から引き離され、乳母父である平知盛のもとで養育されていた。後述するように守貞親王が平家の都落ちに帯同させられてしまったのは、母のもとではなく平家のもとに養育されていたためである。

 後鳥羽天皇の乳母となったのは藤原範子で、藤原範子の父は藤原範季である。藤原範季は源範頼を養育してきた人で、安元二(一一七六)年に陸奥国司に任命されると実際に陸奥国に赴任した人である。確たる証拠はないが、自分の養育していた源範頼と、奥州平泉で生活するようになっていた源義経との接点を持つようになったのもこの人を介してであろう。こうして見ると、後鳥羽天皇は鎌倉方と浅からぬつながりを持った人生を歩んできた人であることがわかる。

 既に記したように後鳥羽天皇は高倉上皇の第四皇子であり、本来であれば帝位に就くことなど考えられなかった。しかし、異母兄で高倉院の第一皇子である安徳天皇だけでなく、同母兄で第二皇子である守貞親王も皇太子に擬された上で平家の都落ちに帯同させられてしまったために京都に残る第三皇子の惟明親王と第四皇子の尊成親王とで帝位が検討された結果、第四皇子の尊成親王が新帝に即位することとなった。何度も記しているように、後鳥羽天皇が帝位に就いた寿永二(一一八三)年八月二〇日時点で三種の神器は平家のもとにあるため、後鳥羽天皇は史上初めて三種の神器無しに帝位に就いたこととなる。それでも正式な即位の儀までの間に三種の神器を取り戻せたならどうにかなったが、後鳥羽天皇は即位の儀においても三種の神器の無いままとなった。

 このことは後鳥羽天皇の生涯悩ませ続けるコンプレックスとなった。


 元暦元(一一八四)年八月二日、大内惟義からの伝令が鎌倉に到着した。

 平家の反乱軍に対する勝利を伝える報告である。ただし、源頼朝はその勝利に対する喜びを見せていない。喜びを見せないのは当然で、戦闘には勝ったものの平家方の多くの武士を取り逃がしているのである。特に平信兼と伊藤忠清を取り逃がしているのは大問題であった。また、佐々木秀義が戦場に散ったのも源頼朝にとっては痛事であった。平治の乱で源義朝の側に立って戦ったため所領を失い、相模国の渋谷重国のもとに身を寄せること二〇年。源頼朝の挙兵に呼応して息子たちとともに起ち上がって序盤の鎌倉方の主力を担ってくれたのが佐々木秀義である。平家によって没収された近江国蒲生郡佐々木荘を取り戻し、焦土作戦のために荒廃してしまっていたのを復旧させている途中で迎えてしまった七三歳での死であった。

 翌八月三日、大内惟義の伝令に対して源頼朝が返信を託した。恩賞は考えているから、まずは逃走した平家の残党を見つけ出して処罰せよという内容である。また、京都にいる源義経に対して、平信兼の子供たちが京都にいるはずなので見つけ出して殺害するようにという指令を出している。

 ところがこのあたりから京都と鎌倉との間の離れていることの問題が起こってくる。たしかに源頼朝は源義経を検非違使とするよう要請をし、源頼朝の要請は八月六日に実現した。後白河法皇が源義経を御所に招いて検非違使左衛門少尉に任官するとしたのである。この知らせはただちに鎌倉へと送られることとなったが、何度も繰り返すようにこの時代の情報連携速度では、陸路を選んだならば京都から鎌倉まで急いでも半月を要するし、海路を選べば早くなるというのも黒潮に乗ることが成功できたときに限られる。つまり、八月六日時点ではまだ鎌倉でどのような決断がなされたかを源義経は知らないし、源頼朝も八月六日に源義経が検非違使に選ばれたことを知らないでいる。なお、位階としては決して高いものではないが、それでも位階相当だけを見れば源義経は兄の源範頼とほぼ肩を並べたこととなる。

 ところが、この半月の間に源頼朝の構想が変わってしまっていた。それは何も心変わりをしたのではなく、構想を変えなければならない事態になってしまったのだ。

 全ては平家の反乱である。一ノ谷の戦いは平家にとって大ダメージとなる敗戦であり、源頼朝はそう簡単に平家が再び起ち上がるとは考えていなかったのだ。平家にはそこまでの時間も人員もいないはずであり、まともに計略を立てるならば時間を掛けて人員を集めて再度軍勢を結集させて攻撃するはずである。それまでの間は源義経らに京都を担当させて最低限の防御とし、平家の軍勢が動き出してから鎌倉からも軍勢を派遣することで平家への対処するのが当初の源頼朝の構想であった。そのためには源義経が検非違使であるほうがありがたかった。何と言っても検非違使の持つ警察権が重要だった。ちょっとした案件であれば検非違使としての源義経が対処できるし、讃岐国司となった一条能保からの出動要請があれば検非違使としての源義経を平家の本拠地である讃岐国屋島に派遣できる。源義経だけでは戦力が乏しいとなれば鎌倉から援軍を呼び寄せることも可能だ。時間は要するが、現実的な対処となるとこれしかない。

 なぜか?

 兵糧の問題があるのだ。

 未だ養和の大飢饉からのダメージから立ち直っていない状況で大軍を京都に配備しておくことはできない。最低限の防御としたのは京都で養うことのできる兵の数をギリギリまで絞る必要があったからだ。収穫は西よりも東の方がマシで、物資の支援という点では鎌倉から京都に物資を運ぶことは可能であるし、それが京都市民を救う物資供給にもなる。ただし、その物資の量は京都市中の庶民と源義経らの鎌倉方の武士たちを養うのが限界で、平家を討伐できるだけの軍勢を養うのは不可能だ。

 間違いなく源頼朝は長期戦を見込んでいた。長期戦となるなら源義経を京都に検非違使として留め置くのは理に適った戦略であった。

 しかし、平家は早々に起ち上がった。

 これで大前提が崩れたのだ。

 平家が起ち上がった以上、鎌倉としても軍勢を派遣しなければならない。季節はもう夏を迎えているから秋の収穫を期待すれば物資についてはどうにかなる可能性がある。あくまでも可能性があるというだけで物資を確実に確保できる保証はどこにもない。それでも軍勢を派遣しなければ、平安京が平家に陥落させられてしまう可能性がある。どちらの可能性を選ぶか。答えは軍勢派遣しかない。

 こうなると、源義経が検非違使に選ばれるのはかえって問題になる。源頼朝にしてみれば、現地に派遣した源範頼が源氏の総大将となり、源義経は源範頼の指揮下に置かれることとなる一武将とならねばならない。既に源範頼は三河国司の地位を得ているから軍勢を指揮する権限を有している。しかし、源義経が検非違使になってしまうと源範頼の指揮下ではなく朝廷の指揮下に置かれることになってしまうのだ。鎌倉と直結している軍勢の指揮系統に朝廷からの指揮系統まで入ってくると軍勢は二つの指揮系統が存在することとなる。これでは軍勢が二分されてしまう。

 後白河法皇はかなりの可能性で、源義経が検非違使に選ばれたら鎌倉方の軍勢がどうなるかを理解している。後白河法皇の求めているのは逃走した平家の残党を捕らえることであり、その点については後白河法皇と源頼朝との間で意見の一致を見ているのであるが、これまで検非違使とすべきタイミングで検非違使としてこないまま放置していた後白河法皇が、こんなタイミングで源義経を検非違使にしているのである。このあたりが後白河法皇の陰険さの表出であるとも言えよう。鎌倉方に過剰な権力を持たせないためとでも考えたのであれば理解できる考えではあるが、今のこのタイミングでやる話ではない。ちなみに、源義経のことを判官(はんがん)や判官(ほうがん)と呼ぶことが多いのは、このときの源義経が検非違使と兼職として任命された左衛門少尉の通称である。


 源頼朝は源範頼を総大将とする平家討伐の軍勢を組織した。それも、鎌倉方の御家人オールスターズと言うべき豪華な面々を取りそろえての軍勢派遣である。送別の宴まで開催した上で、八月八日には源範頼を総大将とする平家追討軍を出発させた。

 以下がその面々である。なお、記載は吾妻鏡での記載順である。

 北条小四郎(北条義時)。北条時政の息子で北条政子の弟であることから、源頼朝にとっては義弟にあたる。なお、吾妻鏡での北条義時はこれまで江間の苗字で記されるのが通例であったが、このときは北条の苗字が記されている。

 足利蔵人義兼(足利義兼)。後に足利幕府を創設する足利尊氏の直系の先祖。源頼朝が伊豆で挙兵して間もない段階から源頼朝に仕えていた。

 武田兵衛尉有義(武田有義)。武田信義の四男で以仁王の挙兵時は京都に滞在していたが、富士川の戦いに敗れたことの復讐のために平清盛に妻子を殺され、父とともに平家と戦うこととした。

 千葉介常胤(千葉常胤)。この人については説明不要であろう。石橋山の戦いに敗れて房総半島へと逃れた源頼朝が勢力を盛り返したのは、この人と上総介広常の両名の軍隊が存在したからである。

 境平次常秀(境常秀)。千葉常秀とも呼ばれる武士で、千葉常胤の孫。文献資料における初出はこのときである。

 三浦介義澄(三浦義澄)。元は相模国の在庁官人であったが、源頼朝の挙兵時から源頼朝とともに戦ってきた御家人である。

 男平太義村(三浦義村)。三浦義澄の次男で三浦家の嫡男。父とともに源頼朝の挙兵時から源頼朝とともに戦ってきた経歴を持つ。

 八田四郎武者朝家(八田知家)。保元の乱で源義朝とともに戦っていた経歴もある源氏方の有力武人であり、源頼朝の挙兵時から源頼朝とともに戦ってきた経歴を持っている。

 同男太郎朝重(八田朝重)。八田知家の息子で、父とともに源頼朝のもとで戦った経歴を持っている。

 葛西三郎清重(葛西清重)。房総半島を制圧した源頼朝が自派に招き入れた武士で、以後は源頼朝とともに行動するようになっていた。

 長沼五郎宗政(長沼宗政)。寿永二(一一八三)年の志田義広の討伐に功績を残し、以後は源頼朝と行動をともにするようになっていた。

 結城七郎朝光(結城朝光)。下野国の小山氏が源頼朝のもとに加わる際に源頼朝が烏帽子親となった人物で、以後は源頼朝とともに戦う武士となった。なお、当初は源頼朝より名付けられた名である小山宗朝と名乗っていたが、このときの吾妻鏡では結城朝光と記されている。

 籐内所朝宗(比企朝宗)。比企氏の一員で早い段階から源頼朝のもとに仕えていた武士。木曾義仲滅亡後に北陸道に派遣され北陸道各地の荘園の管理監督に当たった経歴を持っている。

 比企籐四郎能員(比企能員)。前述の比企朝宗の弟で比企家の家督を継いだ武士。妻が源頼家の乳母に選ばれるなど源頼朝の信任の厚い武士である。

 阿曾沼四郎廣綱(阿曾沼広綱)。藤姓足利氏の一員である武士。藤姓足利氏の本流が平家方についたのに対し早期から源頼朝に仕えて御家人となった。

 和田太郎義盛(和田義盛)。この人についても説明は不要であろうが、意外にも、侍所別当に就任して以降は遠江国までしか進軍しておらず、京都へ向かうのはこれが初めてである。

 同三郎宗實(和田宗実)。和田義盛の弟。兄とともに早期から源頼朝に従い、主として源範頼の補佐を務めてきた経歴を持っている。

 同四郎義胤(和田義胤)。同じく和田義盛の弟で、兄とともに源頼朝に従ってきた武士。なお、吾妻鏡では和田宗実を和田義胤の兄としているが、実際には和田義胤のほうが兄で、和田宗実は和田義盛の末弟である。

 大多和次郎義成(大多和義成)。三浦氏の一族で三浦義澄の甥。三浦一族の一員として早期から源頼朝のもとに仕えてきた。

 安西三郎景益(安西景益)。安房国の武士で幼少時から源頼朝と親しく、源頼朝の安房国上陸時に早々に源頼朝の元を訪れて源頼朝の軍勢の一員に加わっている。

 同太郎明景(安西明景)。安西景益の弟で、兄と同じく源頼朝が安房国に上陸してすぐに源頼朝の軍勢の一員に加わっている。

 大河戸太郎廣行(大河戸広行)。武蔵国の武士で治承五(一一八一)年一月まで平家側について源頼朝に反抗する意思を見せていたが、治承五(一一八一)年二月に源頼朝の麾下に加わった。

 同三郎(高柳行元)。大河戸広行で同じく武蔵国の武士。兄とともに平家側に立っていたが、治承五(一一八一)年二月に源頼朝の麾下に加わった。

 中條籐次家長(中条家長)。八田知家の養子となった武士。祖先を辿ると藤原道兼にまで遡ることができ、武芸の才に加え文官としての素養も備えていた。

 工藤一臈祐経(工藤祐経)。もとは伊豆国の武士で平重盛に仕えていたが、伊東祐親に所領を奪われたことから平家を見限って源頼朝のもとに加わった。

 同三郎祐茂(宇佐美祐茂)。工藤祐経の弟で、兄と同じく平家に仕える武士であったが所領争いの結果、兄とともに源頼朝のもとに加わるようになった。

 天野籐内遠景(天野遠景)。工藤氏の一族の武士で、かつては平家の家人であったが石橋山の戦いの前には既に源頼朝に仕える身となっていた武士。なお、一条忠頼を斬ったのはこの人物である。

 小野寺太郎道綱(小野寺道綱)。もとは平家に仕える武士で、以仁王の挙兵時は源頼政を討伐する立場にあったが、後に平家を見限って源頼朝のもとに仕えるようになり寿永二(一一八三)年二月には源範頼の初陣と行動をともにする武士の一人に選ばれている。

 一品房昌寛(昌寛)。名から推定できるように僧侶であって武士ではない。このときの遠征時に選ばれたのは事務方として支えるためである。

 土左房昌俊(土佐坊昌俊)。昌寛と同様にこの人も僧侶であるが、もとは興福寺の僧兵であり源頼朝の御家人の一員である武士にもなっている。

 以上が吾妻鏡の伝えるところの面々である。錚々たる面々であり、ここに源義経ら既に京都と京都周辺にいる鎌倉方の面々が加わるのである。鎌倉方が派遣することのできる軍勢となるとこれ以上の規模は考えられないであろう。

 源頼朝の想定では、ここに源義経が加わって伊賀国と伊勢国の平家の反乱を鎮圧し、返す刀で西方にまで軍勢を進めて一気に平家を壊滅させるというものであった。なお、軍勢に加わる源義経は三河国司である源範頼の指揮下に入る無位無冠の一人の武士であるはずであった。


 軍勢が鎌倉から京都に向けて出発した二日後の元暦元(一一八四)年八月一〇日、検非違使左衛門少尉源義経の名で平信兼の子である平兼衡、平信衡、平兼時の三名に出頭を命じた。三名とも父が反乱を起こしたことは知っているが自分とは無関係であると考えていたし、自分は反乱に荷担しないと表明してもいた。ただし、長男の平兼衡は職務停止の指令を受けている。平兼衡のこの時点の職務は左衛門少尉であり、平兼衡が職務停止となった空席を源義経が検非違使と兼職となることで埋めていたのである。

 新しい検非違使が就任した、それも今や京都中の人がその名を知ることとなった源義経が検非違使となり、父のせいで停止となった職務にも兼職となって就いたのだから、ここで源義経のもとに出向き、我々兄弟は父の起こした反乱と無関係であると挨拶するのも筋を通すというものだ。

 ところが、筋は通らなかった。

 源義経は三兄弟に対して死を命じたのである。

 さらに検非違使としての権限を発動して軍勢を組織して伊勢国に向かい、伊勢国の城塞に立て籠もった平信兼を攻め込み平信兼を討ち取ったのである。ただし、このあたりの記述は吾妻鏡にも平家物語にもなく、源平盛衰記が記しているのみである。実際に源義経が平信兼を討ち取ったという証拠は無いが、平信兼の三人の子を京都に招き寄せて死に追いやったこと、平信兼はこれ以後、歴史から姿を消すこととなったのは事実である。

 平信兼についての記録を他の資料に求めると、八月一一日に平信兼がそれまで有していた公職を剥奪されたこと、権大納言中山忠親の日記によると八月二六日の時点で既に平信兼は故人となっていたことが判明している。

 後鳥羽天皇の即位の儀は紀伊半島東部でまさに平家が暴れ回っているというニュースの最中に挙行された。すなわち、官軍が平家の前に敗れ去り、平家の軍勢が京都へとやって来るのではないかという恐怖が渦巻く中で開催された。

 ところが、返ってきた知らせは官軍勝利。平家の軍勢は敗れ去り、伊藤忠清は逃亡したものの平家の主な者はことごとく討ち取られるという結末を迎えたことで、京都では官軍の、特に中心を担った新しい検非違使である源義経に対する人気が上がり、平家に対する嘲笑も生まれていた。このときの戦いを「三日平氏の乱」と呼ぶ者すら現れた。実際に三日で終わったわけではないが、反乱を起こしたと思ったらすぐに源氏に対峙されたという嘲笑の意味を込めての呼び名である。さらに、京都ではこの頃、一つの噂が広まっていた。鎌倉からついに源頼朝が上洛してくるというのである。既に伊豆国と駿河国の間を流れる木瀬川を源頼朝が越えたという現実的にありそうな噂まで広まって、源頼朝への期待と源義経の人気とが重なって、長く苦しい戦乱の時代がついに終わりを迎えるのだという期待感が生まれていた。

 その一方で冷めた目をしている人もいた。前述の権大納言中山忠親がその人で、この人のもとには平家が西国で展開している軍勢の様子が届いていたのである。中山忠親の日記によると八月時点で既に讃岐国屋島だけでなく九州にも平家の勢力が伸び西日本の多くが平家の勢力下に入ったことを書き記している。特に平家の海軍力は群を抜いており、平家の抱えている七〇〇艘からなる艦隊は朝廷が動員できる全ての海軍力を合計しても太刀打ちできぬ規模であった。本州ならば陸路を行けばどうにかなるが、四国や九州へはいったいどうやれば行くことができるのか。鎌倉方はその答えを提示してはいない。

 なお、吾妻鏡によるとこの間に源義経が検非違使に就任したことの連絡が鎌倉に届き、源頼朝がかなり不機嫌になったという。一般には、源頼朝の許可無しに朝廷の官職を得てはならないとする決まりがあったにもかかわらず源義経が勝手に検非違使に就任したことへの不機嫌であったと解釈されるが、源頼朝の不機嫌の本質はそこではない。源義経が朝廷の官職を得たために源範頼の配下の軍勢に源義経を加えることができなくなってしまったのだ。これで源氏の軍勢の勢いは弱まることが決定した。実際の武力が減ることもさることながら、京都における源義経の人気向上を軍勢に対する指示へと返還させ、民衆からの支持による軍事活動ができなくなってしまったのだ。

 源頼朝はただちに京都へ使者を送った。それも可能な限り早く京都に到着せよという命令とともに。

 その書状にあったのは、平家討伐軍から源義経を外し京都に滞在させることである。武人としての源義経と文人官僚としての源義経のどちらを選ぶかという選択で、軍勢出発時には前者を選んでいた源頼朝は、源義経の検非違使就任を契機として文人官僚としての源義経を選ぶように変更したのである。検非違使も、左衛門少尉も、本来は武官としての職務であるが、実際の勤務内容は武門も必要とする文人官僚である。あるいは文武両道でなければできない職務であるとするべきか。


 本作はこれまで、源頼朝らの勢力のことを、鎌倉、あるいは鎌倉方と記してきた。鎌倉を中心とする勢力としての呼称である。研究者の中にはこの段階で鎌倉幕府がもう成立していたとしている研究者もいるが、私はその考えに与しない。しかし、源頼朝はこの段階で一つの構想を練っていたこと、それが後の鎌倉幕府の土台となる構想であることは明瞭なものとなっており、その点は否定しない。ゆえに、鎌倉、あるいは鎌倉方という表記は本作においてなおも続くが、その名称は単なる勢力名から、システム化された組織体を示す名称を示すことに変更となる。

 元暦元(一一八四)年八月時点での鎌倉は、源頼朝が住まいを構え、源頼朝に仕える武士たちが邸宅を構える都市であると同時に、源頼朝を中心とする武装勢力のことも意味した。ここで留意すべきは源頼朝個人に寄っていることである。武士たちは源頼朝に対して忠誠を誓って戦場に挑み、源頼朝は忠誠を誓ってくれている武士たちを保護する。いわゆる御恩と奉公の関係が鎌倉における武士たちの関係である。

 つまり、どこまでも源頼朝という個人に由来している仕組みである。組織体として考えた場合、源頼朝という一個人に由来するシステムは極めて脆弱である。源頼朝がいかに優秀であろうと永遠の命があるわけではない。源頼朝がいなくなっても組織体として存続し続けるシステムを作り上げる必要があるのだ。現在の企業で考えるとコーポレートガバナンスの構築というところか。源頼朝は鎌倉方の組織体におけるコーポレートガバナンスの構築を、源頼朝ではなく清和源氏嫡流を中心とする仕組みになるように昇華させることと考えたのだ。

 鎌倉には既に侍所が存在している。源頼朝に仕える武士の誰もが侍所に所属し、武士を戦場に派遣するときは侍所別当である和田義盛を通じて源頼朝から各々の武士に対して指令が送られる。侍所のシステム自体は京都の貴族の邸宅にも存在しているものであり、源頼朝は鎌倉の地で京都の貴族の邸宅よりも大規模なシステムに発展させて運用している。

 ただ、それは武士だけにしか通用しないでいる。厳密に言えば公的な位階を持っていないか持っていたとしても低い位階の者だけにしか適用できないでいる。

 源頼朝に求められるのは戦争ではなく政治なのだ。政治に求められるのは国民生活の向上、源頼朝の場合は源頼朝の実行支配下にある土地に住む人たちの生活の向上である。生活の向上に対する取り組み自体は源頼朝も念頭に起き続けてきたし、実際に展開もしているが、あくまで源頼朝個人の考えの発露であって、具体的なシステムとはなっていなかったのだ。

 この問題は以前から指摘されており、京都の貴族の邸宅にもあるような公文所(くもんじょ)を鎌倉にも設置するという提案は多くの人から寄せられていた。中原親能やその弟の中原広元、また、かつて京都から月に三度の定期連絡を寄こしていた三善康信といった鎌倉での文人官僚たちがその提案者である。公文所とは貴族や寺院に設置されていた文書管理、訴訟、財務管理などの実務管理をする部署のことであり、侍所と職掌が重なるところが多いが、侍所は六位相当の位階の者が働く場であるのに対し、公文所の場合は五位以上の貴族としてカウントされる者が働く場である。位階の高さに比例して扱う事務もより中央官僚的になっており、公文所で働くことのできる者が侍所での職務をこなすことはできても、侍所で働いている者が公文所で働くには難しいという、公文所が侍所の上位互換の構成となっている。

 それまでは全ての文書が源頼朝の元に届き、文書は多くの武士が見つめている中で開かれ、武士たちの意見も反映された結果が源頼朝の結論となって新たな返信用文書を作成するという流れであったが、これではいくら何でも非合理に過ぎる上に、源頼朝のもとに届く文書は増える一方であった。源頼朝にあまりにも実務作業が集中しているために、源頼朝の負担軽減のための組織を鎌倉に設置する必要はぜひともあった。

 なお、同様の組織として政所(まんどころ)があるが、政所を設置できるのは、親王、もしくは従三位以上の位階を持つ貴族に限定されており、この時点の源頼朝に政所を設置する資格はなく、政所よりも小規模な組織とするしかない公文所の設置ということとなる。公文所であればこの時点の源頼朝でも設置可能だ。

 元暦元(一一八四)年八月二四日、公文所の上棟式が執り行われた。正式な業務開始はまだ先であるが、鎌倉における行政の拠点を建設することが内外に示されたことで、鎌倉はまた一歩、政治体制として形作られることとなる。


 元暦元(一一八四)年八月二六日、左衛門少尉検非違使源義経の名で、平信兼が解官となったこと、また、平信兼の三人の子を誅戮したことを伝える知らせが鎌倉に届いた。誅戮(ちゅうりく)とは罪ある者を殺すことを意味する語であり、源義経は平信兼の三人の子の殺害をこのように称している。父が反乱を起こしたのは事実でも当人は反乱を起こしたわけではないのに検非違使の権限で呼び寄せて問答無用で殺害したのだから、源義経は自己の行為を誅戮(ちゅうりく)とすることで自己正当化したのであろう。なお、当然ながら、この書状を発した段階の源義経は自分が検非違使に就任したことに対して源頼朝が不機嫌になったことを知らないでいる。

 その翌日の八月二七日、源範頼を大将とする平家追討軍が京都に到着した。源義経が平家討伐軍に参加できないことを知ったのがこのときであるのか、それとも事前に知っていたのかはわからない。源頼朝から派遣された使者は可能な限り急いで京都に向かうようにという指令を受けているが、いかに急いだとしても源範頼の軍勢を追い抜くことができたかどうかギリギリである。ただし、源義経は平家追討軍に加わらないことに対して何ら抵抗を見せておらず、源範頼の側も源義経が検非違使の役職を得たために軍勢に加わることが許されなくなったのはやむをえぬこととして受け入れており、その際の混乱は見られない。

 混乱が見られたのはその後である。

 九月一日に源範頼らは出発した。源頼朝からの指令は一日として京都に留まること無くただちに四国へ向かうことというものであったが、実際には四日間を京都で過ごしたこととなる。さすがに鎌倉から京都まで歩いてきたのであるから四日ぐらい休むのはおかしくなかろうし、今後の進軍路を考えるとこれぐらいの休憩は仕方ないことと言える。しかし、その後の源範頼の命令は源頼朝の指令を裏切るものとなるのだ。

 源範頼は四国ではなく山陽道を西に進むことを選んだのである。平家物語には九月一二日の出発とあるだけでなく、行く先々でその土地の高級遊女を集めて毎夜遊びながら行軍したとあるが、さすがに平家物語の記載は大袈裟に過ぎる。直接四国に向かうべきとする意見を封じ込めてまで源頼朝の指令を守らなかったのはその通りでも、源範頼はそこまで堕落することはしていない。

 源範頼が山陽道を進んだのは、船が用意できないからである。ただでさえ平家の海軍力が朝廷の用意できる全ての海軍力の合計を上回っているのに加え、鎌倉方の軍勢は海戦になれているわけではない。平家とて鎌倉方の軍勢が自分たちのもとに攻めてきているのは理解しているし、黙って四国に上陸するのを許すつもりもない。四国に向かって源氏方が軍勢を進めるというなら、四国に上陸させる前に瀬戸内海の海上で戦いを挑むというのが平家方の作戦である。そして、平家の作戦は源氏方にも漏れている。いかに錚々たる御家人を集めていようと、平家が有利な戦場にわざわざ飛び込んで、勝てる戦いを負け戦にしようと考える者などいない。山陽道を進むのは、平家を四国で孤立させつつ平家の勢力をまずは本州から駆逐し、次いで九州から平家の勢力を駆逐し、四国を三方から囲むようにしてバラバラに上陸して四国での陸戦を挑むという計略を立てていたからである。そのため 源範頼は、全軍が一丸となって行動するのではなく、山陽道各地に軍勢を少しずつ残して行軍した。たしかに残った軍勢は色恋沙汰や贅沢には目もくれずに訓練に明け暮れたわけではないが、平家物語に記しているような源範頼の堕落ではない。謹厳実直でなければ堕落と見なすという態度であれば話は別だが。

 この計略で鍵を握るのが京都に留まる源義経だ。より正確に言えば、源義経のもとにいったん情報が集められて、源義経と源頼朝との間の情報連携が成立することだ。検非違使という京都在駐が前提となる公職を手に入れた源義経は基本的に京都から離れることが許されない。しかし、京都で文人官僚としてやっていけるだけの能力を持つ源義経であれば、朝廷の国家予算を利用して軍船を用意させることができる。源義経だけではどうにかならなくても、鎌倉の源頼朝との情報連携と、権大納言に復帰した平頼盛の勢力を利用すれば、官軍の軍備増強という名目で渡海用の軍船を建造させることは不可能ではない。

 さらに鍵を握るのが山陽道各国の国司だ。軍船建造命令は京都で発せられるが、軍船建造そのものは京都ではなく瀬戸内海沿岸諸国に委ねられる。時期を定めてそれまでに軍船を建造させて納品させる。問題は軍船建造に要する負担と税負担との兼ね合いだ。最良は国家予算を投じて軍船を建造させることであるが、現実問題としてそこまでの国家予算の余裕はない。ただでさえ養和の大飢饉の被害からの脱却に懸命になっているところだ。しかし、山陽道各地からの納税を減免あるいは全免するならばどうにかなる。まさにこれから収穫の季節を迎えるところであり、収穫を税では無く軍船建造予算に回せばどうにかなる。

 この時代の税は、金銭ではなくコメや布地での貢納だ。山陽道各地からのコメが納められてこないということは京都市中に出回るコメの量が減ることを意味するが、その不足は東国からの支援で補うことができる。源頼朝が鎌倉から支援をするという前提で山陽道各国の税の減免を図るのが源義経に課せられる使命となった。


 源義経はよくやっていたとするしかない。元暦元(一一八四)年九月の源義経の記録を追いかけると、源義経は検非違使として武芸を見せることはあったが、基本的には朝廷に仕える文人官僚であり続けているのである。

 なお、後に源義経と対立することとなる梶原景時は、文人としてならば源義経の代わりを務めることのできる能力ある人物であったが、この時点の源義経は梶原景時と接していない。接していないのは当然で、梶原景時は土肥実平とともに元暦元(一一八四)年九月中にはもう周防国にまで至っていたという記録が存在する。当初は山陽道五ヶ国の制圧を命じられていた二人が山陽道を進む源範頼の軍勢よりも先行して山陽道を進軍することで、源範頼の立てた制圧計画はスムーズに展開していたと言える。

 元暦元(一一八四)年九月二日、源頼朝が小山朝政を源範頼の軍勢に加わるように命じて派遣した。これだけを書くと源範頼に対して援軍を派遣したとしか思われないであろうが、小山朝政は単なる援軍として命じられたのではない。たしかに援軍としての側面もあったが、源義経の代役として派遣されることとなったのである。源義経が文人官僚として京都に在駐するとなった以上、軍勢において源義経の代役を果たせる人物が必要となる。寿永二(一一八三)年二月に志田義広の軍勢を野木宮、現在の栃木県下都賀郡野木町で討ち破った経歴のある小山朝政であれば戦場における源義経の代役は果たせる。また、この人には源義経に匹敵するとは言えないまでも文人としての資質も持ち合わせている。

 このあたりがややこしくなるのだが、源義経がそうであるように、文人としての資質を持ち合わせているからこそ検非違使としての職務を遂行できるし、左衛門少尉としての職務も遂行できる。双方とも武官なのであるが、その内容は文人官僚としての職務の割合も多く、戦場で武器を手に暴れるしかできない人につとまるような職務ではない。源頼朝は小山朝政を源範頼のもとに派遣する際に、小山朝政に武官職を付与するよう朝廷に向けて要請を出している。源義経が無位無冠であったならば何の問題も無く源範頼の軍勢に参加させることができたのだが、源義経が公職を得てしまった以上、源義経は源範頼の軍勢に参加させることができなくなった。そこで小山朝政を派遣するのであるが、源義経であればたとえ無位無冠であっても一ノ谷の戦い以後の実績によって軍勢と京都との間の公的な情報連絡の窓口となることが可能であったのに対し、小山朝政は源義経のような京都における実績が存在しない。そこで、小山朝政に対して武官職を付与することによって、朝廷から派遣された武官が軍勢に加わっており、武官としての職務として軍勢と京都との間の公的な情報連絡路を構築することを図ったのである。

 自分の代役として小山朝政が派遣されたことを源義経が知るのはもう少し後のことであるが、自分は京都に滞在して軍勢を指揮する源範頼と連絡を取りつつ、鎌倉の源頼朝とも情報連携をしつつ、文人官僚として書類に向かい合いつつ、検非違使として朝廷の指揮下にあって京都の治安維持を担当することに専念している。これだけ兼職するのは苦労するであろうが、源義経はこなしている。

 例を挙げると、元暦元(一一八四)年九月五日に源頼朝からの要請に基づいて安倍季弘を陰陽頭から解官することに成功している。朝廷内における木曾方の協力者への排除が目的であり、安倍季弘は安倍晴明の子孫で先祖代々の職務である陰陽師であるが、安倍氏内部の家督争いのために木曾義仲に接近したためにその職を失った。なお、安倍季弘の父は陰陽師として極めて優秀で九条兼実も安倍季弘の父の能力の高さを日記に書き記しているが、その息子については特に何も記していない。

 さらに九月九日には、京都における平信兼の没官地の処分を源義経に対応させている。本来であれば検非違使としての職務ではないが、平信兼を討ち取った本人であるために対応する権利がある。厳密に言えば源義経では無く後白河法皇の院宣に寄るのだが、源義経に限らず討伐した人の提出した対応策を院庁が一字一句変えることなく院宣として発するのが通例であるために、源義経の対応文書がそのまま院宣となって適用される。

 そして源頼朝はもう一つ、源義経のサポートをするための方策を練っている。元暦元(一一八四)年九月一四日、河越重頼の娘である郷御前(さとごぜん)を源義経のもとに向かわせている。ちなみに、彼女一人を京都に向かわせるわけではなく、河越重頼の家子(いえのこ)が二名、郎従(ろうじゅう)にいたっては三〇名ほどが同行するという、間違えても盗賊が襲い掛かってくることはないであろうという厳重警備での京都行きである。彼女がなぜ京都に行くのかと言えば源義経と結婚するためで、源義経の結婚自体は前もって決まっていたのだが、源義経を京都に向けて派遣したら、木曾義仲討伐、一ノ谷の戦い、検非違使任官という流れで鎌倉に戻ってくることができなくなったため、婚約者を京都まで送り届けることとなったのである。

 なお、家子と郎従との違いであるが、武士団のトップと血縁関係にある、あるいは武士団の配下で別個の武士団を構成しているのが家子、武士団のトップや家子に仕える武士が郎従である。郎従が戦場において功績を残すと家子に出世できる可能性があるというシステムであり、その基準が相手をどれだけ討ち取ったかであるから、この時代の戦闘で敵将の首をとるのに血眼(ちまなこ)になっていたのも、こうした裏付けがあったからである。


 元暦元(一一八四)年九月一八日、後白河法皇の意向に加え鎌倉の意向も反映された除目が執り行われ、多くの貴族が新たな官職を手にした。

 木曾義仲によって解職となっていた藤原朝方を復帰させ、参議の藤原定能と吉田経房の両名を昇格させた。除目の前まで中納言は一人もいなかったが権中納言は八名おり、「中納言十人の例は不吉」という言葉があることを後白河法皇は意に介さなかったのか、それとも意に介したのか、一〇名が不吉なら一一名ならば良かろうとでもいう感じで三名の新たな権中納言を誕生させた。

 その中でもっとも着目を集めたのが吉田経房である。

 鎌倉から送り込まれた貴族となると権大納言平頼盛ということになるが、何と言ってもこの人は平家の一員であった人だ。その人が鎌倉方の一員として議政官で振る舞うのには限界があった。本人のストレスもさることながら、周囲からの視線もあるし、庶民からの評判もある。ところが吉田経房にはそのどちらもない。それでいて堂々たる鎌倉方の代弁者となることに成功していたのである。

 吉田経房は九歳にして従五位下の位階を獲得して政界デビューするなど藤原北家の典型的なキャリアを歩んできた人である。上西門院統子内親王や建春門院平滋子の側近を務めつつ、六条天皇や高倉天皇の蔵人を務めてきたことから平家の知遇を得ることに成功し、平家政権下で順調にキャリアを重ね伊豆守や左少弁、蔵人頭などを歴任していた。

 ところが、吉田経房という人は上西門院統子内親王のもとに仕えていた頃は源頼朝と同僚であり、伊豆守であった頃は北条時政の上司であった人である。その上、安房国を知行国としている。ここまで揃うと源頼朝が起ち上がり、石橋山で敗れた後も無事に安房国に到着でき、関東地方を制圧できた理由の一つに吉田経房という人物を関連づけるのは容易だ。しかも、キャリアのスタートは久安六(一一五〇)年であるから平家によってキャリアをスタートさせたわけではない、すなわち、平家の知遇を得たのは事実でも平家によって引き立てられた人物ではない。吉田経房が源氏のために働いたとしても平頼盛と違って裏切りにはならないのである。

 このあと、吉田経房は平頼盛に代わる鎌倉方の代弁者となり、鎌倉幕府における関東申次のスタートとなっている。ただし、後世の関東申次と違って朝廷が鎌倉と連絡をとるときの窓口となったのではなく、吉田経房は鎌倉から朝廷に対して意見を述べるときの窓口である。

 この日の除目は議政官の面々だけで無く、各地の国司や京都内外の貴族も新たな位階と役職を獲得することとなった。たとえば中原広元はこの日に因幡守に任官している。実際に因幡国に赴任したわけではなく中原広元自身は鎌倉にいるが、山陰道の動脈である因幡国を鎌倉にいる文官が統治するという仕組みを構築したことは、山陰道における平家勢力の監視を効かせることが可能となると同時に、山陰道からの物資搬入による平安京内外の生活支援の意味でも大きな意味があった。中原広元は血も涙も無い人間であるが、人心掌握の必要性に気づかない人間ではない。

 そして、そのときは京都の誰もが当然と考えながら、後に大きな問題であると判明することとなったのが、源義経の従五位下の付与と検非違使大夫尉への昇格である。このとき、多くの人はまだ位階を得ていなかったのかという思いであったが、鎌倉の源頼朝にしてみれば論外な話であった。源義経が鎌倉方の一員ではなく独自の勢力を築き上げることが可能となってしまうのである。これでは木曾義仲の再現ではないか。

 その後も源義経は摂津国で発生した強盗を捕縛するなど多くの人から喝采を浴びる頼れる検非違使であり続け、源義経の位階の意味を理解しなかったのは源義経だけでなく京都内外の全ての人が無理解であった。


 カレンダーで言うと除目の翌日である元暦元(一一八四)年九月一九日に源頼朝は一通の書状を西国へ発送した。なお、何度も繰り返しているように京都から鎌倉へはどんなに急いでも陸路で半月は要する。海路ならば三〇時間だというのも紀伊半島から相模湾までの最短時間の話であり、いかに情報収集能力に長けた源頼朝とは言え、前日に除目があったことを源頼朝は知らない。カレンダーで記すと鎌倉での源頼朝の行動が京都での除目の翌日となったのは単なる偶然である。

 源頼朝の記した書状の送り先は讃岐国、現在の香川県である。讃岐国は屋島を抱えていることからわかる通り、平家の都落ちからこれまでずっと平家の勢力の強い国であり続けていた。しかし、国内全体が平家一色に染まっているわけではなく、平家を見限ったか、あるいは以前から源氏側であったのか、讃岐国にも源頼朝を選んだ武士たちはいたのである。場所が場所であるだけに平家の圧力が強く源頼朝に対して自らの救援を求めていたのであるが、場所が場所であるだけに簡単に救援を送ることはできない。

 しかし、彼らは鎌倉方が渇望する物を持っていた。

 軍船だ。

 源頼朝は讃岐国の隣国である伊予国、現在の愛媛県の武士である橘公成のもとに海路で向かい、橘公成とともに海路で九州に向かうように命じたのである。所領を捨てるのかという思いもあるが、彼らとて現実問題として源氏の軍勢が船に乗って瀬戸内海を渡って四国にやってきてくれる可能性が高くないことぐらい知っている。一時的に所領が奪われることとなるが軍勢が軍船に乗って航海するのであれば、彼ら自身も、彼らの家族も、彼らの仲間も助かる可能性が高いのだ。それに、自分たちの持っている軍船が鎌倉方で活躍を見せたならば勲功として本領安堵だけでなく新恩給与も期待できる。これは悪い条件ではない。

 橘公成は橘公長の次男である。橘公長はもともと平知盛の家人であり伊予国に所領を保有するという典型的な平家方の武士であったが、治承四(一一八〇)年一二月に平家を見限って源頼朝に仕える御家人となった。橘公成も父とともに平家のもとを離れて鎌倉に赴いたが、そのあとでかつての所領であった伊予国に戻り、西国における源氏方の拠点の一つを形成していた。瀬戸内海における海軍力は平家が圧倒的に優位にあったが、源氏方の海軍力はゼロでは無い。そのゼロではない海軍力の一翼を担っていたのが橘公成である。

 吾妻鏡にはこのときに源頼朝に臣従することを誓い橘公成のもとに赴いた武士たちの名前が列挙されており、彼らの所領がどこにあったのかを調べてみると、綺麗なまでに瀬戸内海沿岸に分散している。彼らは、橘公成に比べれば勢力は弱いものの、源氏方という視点では貴重な海軍力を提供できる環境の所領を保有していたのだ。

 軍船を渇望する源頼朝は、山陽道各国に対して税の減免や全免と引き替えの軍船建造を求めていたが、その他の方法も模索していた。おそらく源義経も絡んでいたと思われるが、京都で源義経に仕えていた豊島有経を紀伊国に派遣して紀伊国で軍船を建造させていることがわかる。ただし、紀伊国にある根来寺の荘園に対して強引に軍船建造を命じたため豊島有経はこのあと根来寺から訴えを起こされている。もっとも豊島有経の子孫はこの後、一族全体で紀伊国に留まり鎌倉幕府の海上戦力で重要な位置を占めることとなる。


 三権分立とは、政治権力を立法、行政、司法の三権に分け、三つの権力が互いに抑制しあって均衡を保つ政治システムであり、現在の日本国をはじめとするほとんどの民主主義国が採用しているシステムである。ただし、三権分立という概念の誕生は一八世紀のモンテスキューに始まり、それまで現在の意味での三権分立は存在しなかった。

 とは言え、権力を分散させることで特定の権力が暴走するのを制御するという概念自体は紀元前から存在しており、有名な例では古代ローマの元老院と執政官と民会との三権分立という例がある。

 現在の意味での三権分立は元暦元(一一八四)年の日本国にはまだ存在しない。しかし、元暦元(一一八四)年一〇月、鎌倉で画期的な政治システムが誕生した。現在の三権分立と比較可能なシステムとも言える。

 鎌倉には既に侍所が存在し、八月二四日には政務組織である公文所(くもんじょ)の上棟式も執り行われていた。本来は公文所と侍所の職掌については重なるところがあり、公文所は侍所の上位互換の組織となっていたが、鎌倉においては、政務は公文所、軍務は侍所という権力分散となっていた。鎌倉における武士の数の多さと、武士の管理統括を考えると侍所の権力強化と公文所からの分離を念頭に置いた権力分散は必然と言えよう。

 これだけでも画期的な権力分散システムであるが、鎌倉では、ここにもう一つの権力を設けることとしたのである。

 それが問注所(もんちゅうじょ)である。現在で言う司法だ。

 現在のように地裁、高裁、最高裁という構図に比べれば未熟であるとするしかないし、弁護士もいないので訴えを起こした側も起こされた側も自分で弁論の場に立たねばならないという構造であり、問注所が担当するのは民事訴訟に限られ刑事訴訟は侍所が担当するという司法システムの未熟もあるが、それでも司法を既存権力から独立させて一つの権力として機能させることにしたのは画期的であった。

 平安京のどこを探しても問注所は存在しなかったが、問注という概念自体は昔から存在していた。「問注」とは訴訟などの当事者の原告と被告の双方から訴えと証拠を審理すること、また、審理結果の文書記録のことであり、問注所となると問注専用の常設の設備となる。

 鎌倉が画期的であったのは、問注所として一つの組織として独立させたことである。平安京での問注は他の政務組織の一部業務でしかなく、問注所、すなわち民事訴訟の審判については既存の建物の一部を一時的に流用していたのに対し、鎌倉は問注所として個別の建物を用意し、既存権力から独立した新しい権力とさせたのである。

 平安京では民事訴訟が起こるたびに設置してきた問注のための施設を鎌倉では問注所として常設することとなったのは、単純明快な理由がある。

 訴訟が多いのだ。

 鎌倉の御家人の所領をめぐる争いが頻繁に起こっており、源頼朝の日常の政務の大部分が所領争いの整理に追われていたのである。揉めたならば源頼朝の裁決を仰ぐが、そうでないならば鎌倉における民事訴訟の専門部署で解決できるようにすれば、源頼朝の日常業務を軽くすることができるし、訴訟から結審に至る期間の短縮を図ることもできる。

 元暦元(一一八四)年一〇月六日、中原広元を別当とする公文所の業務開始。中原広元の兄で京都と鎌倉を頻繁に往復している中原親能のほか、藤原南家の出身であり朝廷で租税管理担当の主計允を務めていた二階堂行政こと藤原行政、京都でキャリアを積むことも可能な文人としての才覚を持ちながら高齢ゆえに鎌倉に留まった足立遠元、有職故実に通じていながら各地を流浪していたところを源頼朝にヘッドハンティングされた藤原邦通、そして、誅殺された一条忠頼の家臣である中原秋家の五名が公文所創設時の実務担当者である寄人(よりうど)に選ばれた。

 元暦元(一一八四)年一〇月二〇日、三善康信を執事とする問注所の業務開始。なお、公文所や侍所と異なり問注所はトップの役職名称を別当では無く執事としている。三善康信の補佐として、源頼朝の右筆である藤原俊兼と平盛時の両名が任じられた。


 鎌倉方が自分たちの組織体を後の鎌倉幕府につながる政治システムとして拡充させていた頃、西国はキナ臭くなってきていた。

 元暦元(一一八四)年一〇月のいつ頃かは不明であるが、平教盛の率いる軍勢が長門国の源氏を追い落としたことが判明している。一方、日付は判明しているが実際には存在しなかった出来事として、一〇月一三日に平家の軍勢が淡路国に到着したというデマが京都にまで届いている。この噂の影響によるのか、それとも先に行動があったために噂が広まったのかは不明だが、梶原景時率いる軍勢が淡路国に到着したのは記録に残っている。

 京都における唯一の希望となっていたのが源義経だ。ついこの間までその名を知られることすら無かった源義経は、今や京都中から判官殿と呼ばれ喝采を浴びる身となっていたのである。たしかに一ノ谷での戦いや伊勢国の平家の反乱を鎮圧したこと、現時点で検非違使として治安安定を一手に取り仕切っていることなど、源義経を頼りたくなる気持ちは理解できる。

 しかし、調子に乗りすぎた。淡路国に平家の軍勢が上陸してきたというデマの広まる二日前、源義経が院御所と内裏の昇殿を許されたことに対する壮麗な拝賀の式を挙げたのだ。義経は直衣を着て公家としての化粧をし、八葉の紋をつけた牛車に乗り、近衛府の三名の武官と二〇名の騎馬武者を供に従え参内し、宮廷の庭で拝舞の礼をし、殿上に昇り、後白河法皇に拝謁したのである。一つ一つの所作は京都における礼儀に則ったものであるが、これでは源義経が鎌倉の勢力から離れて後白河法皇の勢力に飲み込まれてしまう。

 さらに一〇月二五日には源義経が後鳥羽天皇の大嘗祭に供奉することが公表された。京都における武門の最上位者は源義経であることが内外に公表されたのだ。なお、源義経が後白河法皇に拝謁したときの様子が鎌倉に届いたときの源頼朝の様子を吾妻鏡は書き記していない。この後で源頼朝が源義経に送ることとなる書状を考えると、京都在駐であるためにやむをえぬこととして目を閉じたのだろう。

 一方で吾妻鏡の書き記しているのは、進軍している源範頼に向けての指令である。また日時を遡ることとなるが、元暦元(一一八四)年一〇月一二日に源範頼が源頼朝の命令で安芸国において殊勲のあった武将らに恩賞を与えたことの記録がある。安芸国で恩賞を与えたという報告が一〇月一二日に鎌倉に届いたのではなく、一〇月一二日に安芸国で恩賞を与えたという報告が日時は不明であるが鎌倉に届いたのである。ここまではいい。しかし、そこから先の情報が乏しくなっているのだ。鎌倉の源頼朝から山陽道に向かっているはずの源範頼への情報は送られる。京都の源義経からの鎌倉の源頼朝からの情報も送られる。つまり、山陽道の源範頼と京都の源義経との間の情報が閉ざされてしまっている。

 源義経が情報を意図的に遮断しているなどということはない。その証拠に、源義経にとっては失態としか言えないこと、鎌倉に情報として届けられては困ることも、京都から鎌倉へ情報として届けられている。ちなみに情報の送り主は源義経ではなく別の者である。

 一般に、源義経の勝手な任官に対して源頼朝は怒って源義経を突き放すようになったのだと思われているが、元暦元(一一八四)年の記録を見る限り、たしかに不機嫌にはなっても京都における源義経を源頼朝は頼っているし、源義経も調子に乗ってはいるが基本的に源頼朝の命令に従っている。

 月が変わっても情勢は変わらず、平家がどうやら盛り返しているらしい、源範頼とは連絡が取れない、源頼朝の元に届くのは京都より東の情勢のみで京都より西は何が起こっているかわからない。唯一の例外は梶原景時の郎従が淡路国に上陸して平家討伐名目で荘園の年貢を略奪したらしいという知らせのみ。事実かどうかもわからないが、源頼朝は淡路国に向けて書状を送り事実関係を確認させている。事実だとすれば取り返しのつかない失態だ。


 元暦元(一一八四)年一一月中旬、ようやく源範頼から書状が届いた。

 兵糧不足のためこれ以上の行軍は困難であり、和田義盛をはじめとする何名かの御家人が戦線離脱もやむなしとまで訴えているというのである。前述の梶原景時の年貢略奪は兵糧不足のもたらした結末だったのだ。

 兵糧の現地調達を可能な限り避けてきていた鎌倉方ではあるが、収穫の時期を考えれば正当な対価を用意した上での兵糧の現地調達までであればやむを得ないと考えていた。しかし、略奪は論外である。源頼朝はここで、源範頼の軍勢指揮官としての能力を見限ったとするしかない。兵糧不足まではやむを得ないにしても、兵糧不足を伝えるまでの連絡が遅く、不足した食料を現地での略奪で補おうなどというのは論外にすぎる。源頼朝はここで源範頼から源義経への指揮官交代を検討したようである。位階も得ているため源義経にも総指揮の権限はあるのだ。

 もっとも源範頼の権限をいきなり全て剥奪するのではなく、チャンスを与えている。

 元暦元(一一八四)年一一月一四日、源頼朝から源義経に対して、宇都宮朝綱と小野成綱の両名をはじめとする、平家追討の功績として新たに与えられた所領が西国の所領であるために実効支配できずにいることに対する措置を命じる書状を出した。

 ずいぶんとややこしい話であるが、構図を調べてみれば単純である。

 一ノ谷の戦い以降の平家追討の功績として、御家人たちに平家の持つ所領を分け与えた。ここまではいい。平家の所領は没収であり、没収した平家の所領をどうするのかは源氏で決めることが許されているというのが公的見解だ。

 問題は、与えられた所領が西国であり、今なお平家の実行支配下にある地域であるために、所領を手にしながら所領までたどり着けないでいる武士が多くいることである。宇都宮朝綱と小野成綱はその代表だが、その他にも多くいた。その処遇を源義経に任せるわけであるが、言うは易し行うは難しである。平家の所領を分捕って約束通り土地を渡すか、あるいは他の土地を渡すかという選択肢があり、その選択肢を源義経が決定するわけだ。そして、後者の選択肢を現時点での源義経は行使できない。

 これがおよそ一〇〇年前の後三年の役における源義家であったら自らの所領を分けて与えるところであるが、忘れてはならないのは、このときの源義経には自前の所領が全く無いことである。たしかに公的地位は手にしたが、武士としてはあくまでも源頼朝に仕える一人であって源義経個人の裁量でどうにかなる所領はない。

 ゆえに、方法は一つ、平家を討ち破って平家が実効支配している所領を渡すこと。

 ただし、源義経に京都を出て平家を討ち破れと言っているわけではない。既に平家討伐軍は源範頼が指揮して西国に向かっており、彼らが平家を討ち破ればそれで問題なし。あとは所領を予定通り渡せば済む。

 これは源義経に課されたミッションであると同時に、源範頼に与えられたラストチャンスでもあるのだ。

 行軍路の兵糧の略奪については源範頼に責任を負ってもらうことになるが、それでも平家討伐の完了とプラスマイナスすることで負うべき責任を軽くすることもできるし、源頼朝が全ての損害を弁済することで民心掌握も可能となる。そのためには源範頼がいかにして早々に平家を討伐するかが問われる。源義経に課されたミッションは源範頼の補佐をいかにするかである。

 現時点の役職を考えると源義経に京都を出るという選択肢は存在せず、あるとすれば朝廷が検非違使としての源義経に出動命令を下したときに限られる。こう書くと讃岐国司に任命した一条能保が令制国内の治安維持を名目として検非違使である源義経に出動命令を出せるのではないかとの疑念が浮かぶであろうが、数多くの検非違使の一人であったならばまだしも、京都における唯一の希望となり、後鳥羽天皇の大嘗祭に供奉するまでに名を上げた源義経を京都から連れ出すとしたら、国司の請願ではどうにもならず、最低でも院宣が発せられないと通用しない。そして、源義経の出発を命じる院宣が出される気配は全くない。ゆえに、源義経は京都に留まりつつ源範頼と連絡を取り、源範頼が戦場で勝利を手にできるよう京都から協力することが求められることとなる。

 源義経が無理難題を言いつけられていることを京都の人は知った。しかし、その無理難題は源範頼が平家を討ち破ることによって解決することも知った。平家に対する反感を強めることで京都における平家への同情者を減らし反平家の世論を喚起するのである。

 源頼朝はさらに世論の喚起を生みだした。

 後鳥羽上皇の大嘗会の興奮も覚めやらぬ元暦元(一一八四)年一一月二八日、源頼朝が平家没官領である若狭国遠敷郡玉置領を園城寺に寄進すると表明。さらに月が変わった一二月一日には近江国横山を園城寺へ寄進することが発表になった。こうした突然の園城寺復興計画は、園城寺が平家によってどのように破壊されたかを思い出させるのに充分であり、京都における平家への憎しみを醸成させる効果も生み出した。

 こうした園城寺を利用した世論喚起は元暦元(一一八四)年一二月三日に一つのピークを迎える。この日、京都に上った北条時政から源頼朝が園城寺に帰依したことが公表されたのである。これには長年に亘って園城寺と対立してきた延暦寺にとって寝耳に水の話であるが、これには裏がある。帰依するのは平家によって破壊された寺院だからであり、復興も平家による破壊からの復興のためであると伝えられたのだ。いかに延暦寺が園城寺と対立してきた歴史を持っていても、平家によって灰燼に帰した園城寺を見て平然としていられる人はそうはいない。源頼朝が平家による破壊に心を痛めているという姿勢を示すことの意味を理解し、延暦寺は動きを見せなかった。


 元暦元(一一八四)年一二月七日、ついに山陽道で源平双方が全面衝突した。これまでにも小競り合いはあったし、平家方のゲリラ的な攻撃もあった。しかし、詳細な記録の残る軍勢と軍勢の正面衝突となると一ノ谷の戦い以来である。いわゆる三日平氏の乱、すなわち、伊賀国や伊勢国で平家が反乱を起こして源氏と全面対決したではないかと考える人もいるであろうが、平家の残党が立ち上がったものであり、平宗盛や平知盛ら平家の本隊が源氏の軍勢と正面衝突した戦いではない。極論すれば、平宗盛は伊勢国や伊賀国での反乱勃発を知っていたであろうが、それと平家方の戦略とは全く無関係であったとすら言えるのだ。

 ところが、一二月七日の全面衝突は違う。平清盛の次男である平基盛の長男、すなわち、平清盛の孫で平宗盛や平知盛の甥である平行盛が率いる軍勢の話だ。源範頼の率いる鎌倉方の軍勢が山陽道を進んでいるのは平家側も理解しており、山陽道は以前から平家の家人が荘園を手にしていたこともあって源氏と平家が戦うとなったら平家側として戦う武士の数多くいる土地である。平家にしてみれば自分たちの勢力範囲を源氏方が土足で踏み込んできたことになるため、いかに四国屋島に本拠地を構えていようと山陽道を放置するなど許されない話であった。

 源氏の軍勢は山陽道各地に武士を残すように行軍している。進軍した経路の各地を通過ではなく占領中のままとするというのは王道と言えば王道であるが、戦力と物資に余裕があるときに限られる上に、残していた戦力がどこまで機能し続けることができるかという問題に加え、残した個々の戦力が孤立ではなく連携となる必要がある。残した個々の戦力の間で連携することで情報の適切なやりとりと物資の融通、そして、作戦に則った軍事行動を起こすことが可能となる。

 源範頼は失敗した。

 戦力の機能という点ではギリギリでどうにかなったにしても、個々の戦力の間の連携の構築に失敗したのである。それが源範頼からの連絡の遅延であり、兵糧不足である。

 平家物語に従えば、占領地の各所に軍勢を残したとしても源範頼のもとには三万騎からなる軍勢がいたという。また、この三万騎という数字は吾妻鏡も記している。もっとも、平家物語の人数の誇張はいつもの通りであるし、吾妻鏡の記述も完全無欠ではない。ただ、三万騎は誇張でも源氏の軍勢は多かったのは事実である。だから兵糧不足が起こったのだ。

 源氏の軍勢が山陽道の各所に点在し、かつ、相互の連携が取れていないことを見逃すほど平家は甘くない。富士川の戦いでは戦闘前に平家側の兵糧不足が起こったが今回は源氏方に兵糧不足が起こっている。しかも、場所は平家側の勢力圏であり、平家側に現地の情勢を知る者の多い山陽道だ。こうなれば平家は極めて簡単に源氏を追い詰めることができる。

 兵糧攻めだ。

 地元を熟知しているからこそ、どこを封鎖すれば源氏の軍勢への物資搬入が閉ざされるかをわかっている。しかも源氏軍は大軍だ。大軍となればなるほど必要とする物資も多くなり、物資搬入が閉ざされたときのダメージも大きくなる。

 平家が狙ったのは備前国藤戸、現在の岡山県倉敷市藤戸である。二一世紀の現地を眺めてもイメージは湧かないが、地形を眺めると当時の地形の痕跡は読み取れる。この時代の藤戸は海沿いで島が点在している地形であり、平家は平行盛に五〇〇騎ほどの兵を率いさせて備前国児島の篝地蔵(かがりじぞう)に城郭を構えさせたのである。篝地蔵のあたりは今でこそ多少の高台である地形なだけだが、この当時は海の中に浮かぶ島々の中の要塞であった。この要塞から軍船を出して源氏の物資供給路を封鎖して源氏軍を兵糧攻めにするのが平家の作戦であった。

 この作戦に対して立ち向かったのが佐々木盛綱である。

 以下は吾妻鏡における記載である。

 佐々木盛綱は波が激しく船もないために平家が海上を制圧しているが、海は深くなく、浅瀬を辿れば藤戸から篝地蔵まで船に頼らず移動できることに気づき馬に乗ったまま五〇〇メートルほど浅瀬を進んで篝地蔵に到着し、篝地蔵を攻略したという。なお、吾妻鏡にはこのときに平行盛を追い落としたとはあっても討ち取ったとは書いていない。城郭を陥落させて兵糧攻めの危機を脱したのはその通りでも、篝地蔵の平家の軍勢は海に出て四国屋島へと逃れていったため、平家の人的被害はさほど大きくなかったと推定される。

 ところが平家物語になると残酷なエピソードとなる。

 先に記しておくが、平家物語の以下のシーンは事実ではない可能性が高い。なぜ断言できないのかといえば、このシーンを記しているのが平家物語の、それも全てのバージョンの平家物語ではなくごく高野本をはじめとする一部のバージョンのみの記載であり、かつ、吾妻鏡によると元暦元(一一八四)年一二月七日の出来事とされているのが平家物語の高野本版だと九月のことにされているからである。しかし、残酷ゆえにカットしたのを平家物語の高野本だけが消さずに残していた可能性もある以上、断言はできない

 どのようなエピソードか?

 源範頼の軍勢が藤戸に陣を敷き、平家軍は五〇〇艘ほどの兵船を備前国の児島に配備した。源平両方の間には二キロから三キロほどの距離で海が拡がり、平家の軍勢から小舟がやってきては海上で扇を掲げ源氏軍を挑発してくる。この扇を打ち落としてみろというのだ。

 そんな中、佐々木盛綱が地元の漁師の一人を呼び寄せ、当時としては高級品である衣服を報奨として与える代わりに、馬が渡れる場所を聞き出した。漁師は、深くても肩口までの深さしかない浅瀬があることを佐々木盛綱に教え、佐々木盛綱は漁師とともに夜闇の中を実際に泳いで渡ることができることを確認した。

 漁師と二人で浅瀬までたどり着いた後、遠回りになるがこれよりさらに南にもっと浅い箇所があると聞き、これならば馬で渡ることができると確信した佐々木盛綱は、この秘密が他者に漏れてはならないと案内してくれた漁師をその場で刺し殺して首を切って捨ててしまった。

 日が昇った後、佐々木盛綱らが馬に乗って浅瀬を進んだのを見た源氏の軍勢は佐々木盛綱らの後を進んで馬を走らせて平家のもとへと突入。平家は海に船を浮かべて弓矢で対戦しようとするも多勢に無勢の状況となり四国屋島への敗走を選んだ。

 これが平家物語の一部の版のみに存在しているエピソードである。

 なお、地元の漁師を殺害した佐々木盛綱に対する憎しみから、漁師の母が佐々木盛綱の名に通じる「笹」を山から全て引き抜いたため、以後、この山には笹が生えず、笹無山と呼ぶようになったという言い伝えがある。現在も笹無山とされる山は岡山県倉敷市に存在するが、実際に訪れてみても山と言うよりは数メートルの盛り土としか見えない。ただし、その盛り土のそばにある伝承を記した看板は、息子を殺された母の怒りが今なお残り、その内容は残酷な内容である。

 この戦いを藤戸の戦いという。数字だけを見れば源氏が数の力で平家を圧倒した戦いということになり、平家物語の伝えるエピソードによると残酷極まりない場面となるのだが、もう一点、着目すべきポイントがある。

 藤戸の戦いは源平合戦における本州最後の戦いなのだ。

 これで山陽道の完全性圧となったわけでも、平家の本州からの駆逐となったわけでもないが、源頼朝は佐々木盛綱の功績を称えるとして、一二月二六日に報奨として児島を領地として与えている。


 藤戸の戦いから功績を挙げた佐々木盛綱への報奨までの間に、京都で一人の政治家が引退を決めた。

 権大納言平頼盛である。

 元暦元(一一八四)年一二月一六日、後白河法皇が八条室町にある平頼盛の邸宅に御幸して、摂政近衛基通の春日詣での行列を見物した。娯楽が現在と比べてはるかに乏しいこの時代、祭礼のために貴族が行列を作って出かけるときの様子を眺めるのも立派に娯楽として成立していた。貴族としても自分の移動が娯楽の素材とされているのは理解しているので、できる限り行列に鮮やかな装いをする。最高の馬を用意して最高の装飾を施した行列を作るのが通例だ。そして、後白河法皇という人はこうした庶民の娯楽を率先して楽しむ人であり、行列を眺めるのに最適な邸宅を選んで御幸することは珍しくない。

 しかし、このときは二つのポイントがあった。

 一つは春日詣であること。春日詣そのものは藤原摂関家の人間が、特に摂政や関白、あるいは藤氏長者である人間が京都を出発して奈良の春日大社へと参詣をすることであり、摂政である近衛基通が春日詣でをすること自体は何らおかしくはない。しかし、南都焼討から三年、奈良は災害からの復旧から生活の復興へと軸足を移しつつある局面であったことを考えるとこのときの春日詣が古式に則った行列であるだけに、ここ近年の戦乱から平穏を取り戻すという余計に強いアピールを生み出す。

 そして、後白河法皇が平頼盛の邸宅に赴いたことは平頼盛に一つの決心をさせる契機にもなる。平頼盛の政治家引退だ。五三歳で第一線から退くのはこの時代でも早いが、平頼盛に向けられている視線を考えるとこれ以上権大納言として議政官の一員であり続けるのは無謀であった。鎌倉方の代弁者としての役割は吉田経房が果たしてくれることはもう証明できていた。平頼盛の子のうち長男の平保盛と次男の平為盛は治承三年の政変の前から官職に就いている。ここで三男の平光盛の官界デビューが確約できるなら平頼盛としては政治家を辞すことも何ら不都合は無い。厳密に言えば平光盛の場合は二人との兄と違って平家の権勢下で官職と位階を獲得していたのを平家都落ちで失っていたのを父の政界引退と引き替えに取り戻すこととなるが、平頼盛の視点に立てば、それまで懸命にこなしていたのを終えるときの口実として受け入れることが可能な理由となる。

 また、平頼盛の政界引退については源頼朝からの書状も来ていた。既に平頼盛が心身ともに限界であることは鎌倉の源頼朝のもとにも届いていた。五三歳での政界引退は早すぎるが、吉田経房が後の業務を引き受けることができると判明したならば、ここで無理して平頼盛を議政官に留めさせる必要はない。

 それに、源頼朝は新しく官職復帰することとなる平光盛も計算できた。源頼朝はこの頃にはもう源義経を源範頼の軍勢のもとに派遣することを考えていた。こうなると源義経の代わりに京都の治安維持と、京都と鎌倉の間の情報連携の窓口を引き受ける人材が必要となる。その人材として平光盛は計算できた。

 元暦元(一一八四)年一二月二〇日、平頼盛、権大納言を辞任。同日、平光盛が右近衛少将に就任した。源義経が軍勢を率いて源範頼の軍勢の元へ向かったのちに空白となる京都の治安維持の任務、そして、公的地位にある者による京都と鎌倉との間の情報連携の窓口の確保はこれで目処が立った。

 ただし、一点極めて大きな難点がある。年齢だ。

 平光盛は元暦元(一一八四)年時点でまだ一四歳である。いかに元服を迎えているとは言え、また、キャリアを積んでいるとは言え、それまでのキャリアは平家の権勢下での平家の幼児への過剰な厚遇であり、事実上はこれからのキャリアスタートである。


 年が明けた元暦二(一一八五)年一月六日、鎌倉の源頼朝から西国の源範頼への書状を送る使者が出発した。既に前年一一月から源範頼の軍勢から個々に窮状を訴える連絡が届いており、その実情を把握させて源範頼から送らせた結果が届いたからである。

 すでに兵糧不足の件については確定事項であるとして源頼朝は船便で東国の兵糧を源頼朝の元に届けようとしていたのであるが、現地からの報告は源頼朝の予想をはるかに超えた悪状況であったのだ。戦線離脱を訴える声が挙がっていることは情報として届いていたが、もはや軍勢として成立しなくなっているというレベルで混乱しているというのである。以前から源範頼の総指揮官としての能力に疑念を持っていた源頼朝は、これで完全に源範頼の罷免を検討するようになった。とは言え、源頼朝の弟であるという一点を考えると、現時点の軍勢で源範頼以上に軍勢指揮の正統性(レジティマシー)を持っている人物はいない。軍勢指揮の正統性(レジティマシー)を血縁に頼るとすれば源義経が候補者として挙がることとなるが、源義経を京都から離して軍勢に向かわせるには時間を要する。最終的には源義経を送り込む必要があるが、それまでの間の対処については何としても検討する必要があり、その検討の結果がこの日に鎌倉を発つこととなった書状だ。

 源範頼からの訴えは兵糧が不足していることと戦線離脱を訴える御家人が出ていること、そして、馬の不足であった。

 これに対する源頼朝からの返答は一〇個存在し、その上での作戦指示を出している。

 まず、九州の武士たちにしてみれば源氏方に立つと宣言したとしても面識の無い軍勢がやってくるのだからそう簡単に従うわけにはいかないのだから、あれこれ騒がず落ち着いて行動し、現地の人に憎まれないよう行動せよと注意している。

 次に源範頼の訴えた馬の不足については、途中で平家に奪われる可能性が高いとして拒否するとした。兵糧が奪われるなら周囲の人たちの生活苦が改善されることになるので、源氏の軍勢のダメージはあるものの、政治家として捉えるなら最終的なダメージにはならない。しかし、馬が奪われたとあっては源氏の総大将の失態となるだけでなく、平家の軍勢強化につながってしまう。

 三番目に、足利盛家が周防国遠石、現在の山口県周南市遠石でやらかした略奪については論外であると断じている。なお、足利盛家のことも周防国での略奪のことも源頼朝の手紙においてはじめて登場しており、何月何日頃に起こったのかは不明である。なお、略奪について源頼朝が激怒したことは容易に想像できる。それが源範頼や源義経の身の破滅を招くきっかけとなったのであるから。

 四番目に挙げているのが安徳天皇や二位尼平時子を絶対に傷つけず保護することである。そうでないと二位尼平時子などは安徳天皇を道連れに死を選んでしまう可能性が高いとしている。残念ながら源頼朝が手紙に記した内容は当たってしまう。

 五番目に記したのは四番目との対比をなしている、平宗盛への処遇である。平宗盛は臆病者なので自ら死を選ぶなどしないだろうから、生け捕りにして京都へ連れてきて見せしめにせよとしている。そうしたほうが平家の評判をさらに下げるというのが源頼朝のアイデアだ。

 六番目に九州の武士たちを屋島攻撃に参加させるように命じている。鎌倉から派遣した武士だけで平家を討ち取るのではなく、全国から集まった反平家の武士が協力して平家を討ち破るのだという図式を源頼朝は求めている。

 七番目に、情勢はたしかに平家が不利になっているが、敵を侮ってはならないと釘を刺している。以仁王の令旨以降の戦闘を振り返ってみても、多勢に無勢とされながら多勢であるほうが敗北を喫した例は数多い。そして、多勢に無勢というシチュエーションで言うと今は源氏のほうが多勢である。

 八番目に朝廷への対応である。朝廷を揺るがすような大問題は起こすなという厳命であるものの、これについては抽象的な書きぶりになっている。

 九番目に千葉常胤を述べている。より正確に言えば千葉常胤を派遣するほどの重要な任務なのだと述べ、源範頼の奮起を促している。

 最後に、現地の人たちが源氏の軍勢に降伏してくるようなことがあれば大切な客人としてもてなすように命じている。

 以上の一〇点の回答を述べた上で、源範頼には豊後国の船を調達できれば九州から四国に向かって軍を進めるよう命じている。同時に、二月一〇日頃には関東から派遣した船を到着させられる見込みだとも伝えている。

 しかし、源頼朝はもう一つの命令も遂行させていたのだ。


 元暦二(一一八五)年一月八日、源義経が平家討伐のために京都を出発することを後白河法皇に奏上した。出発を願うのでは無い。出発すると報告するのである。

 二日後の一月一〇日、源義経が平家討伐に向けて出発した。ただし、その数はわずかに一五〇騎である。この少なさに多くの人は源義経が平家討伐に向かったことを信じることができず、平家討伐を口実として京都近郊の平家の残党を討伐するのだろうと考えた。実際、源義経が京都を出て西へ向かって進んだという知らせは届いたが、その次の知らせは和泉国から届いた、現地で暴れている武士を検非違使として源義経が討伐したという知らせである。京都から讃岐国屋島に行くのに摂津国に向かったというならわかるが、和泉国に向かったというのは意味不明である。さらに意味不明なのは、この後の源義経の動静が全く不明になることである。

 この意味不明さは平家の側にとっても同じであった。一ノ谷の戦いの前を思い出せば源義経という人が武人としては行方をくらます人であるというのは知識としてならば理解できるが、讃岐国屋島の平家を討伐するとして京都を出発しながら和泉国に向かい、そこから先の消息が失われた。

 一方、消息が掴めるようになったのが源範頼である。もっとも、消息が掴めてはいても順調というわけではない。

 元暦二(一一八五)年一月一二日、源範頼が周防国から長門国赤間関、現在の山口県下関市の下関港付近へと軍勢を進めて、関門海峡を渡って九州へ渡海しようとしたが、その途中で止められてしまった。

 彦島に平知盛が軍勢を構えていたのだ。源範頼の軍勢は平知盛らの軍勢に行く手を阻まれて船と食料の調達がままならず、軍勢を九州に向けるどころか赤間関から身動きできないまでになり、以前から軍勢離脱を公言していた和田義盛にいたっては脱走して鎌倉へ向かうことまで考えた。

 彦島は現在の山口県下関市の最西端に浮かぶ島であるが、この島への定期航路は無い。しかし、最盛期には三万人以上の人口を擁し、現在も二万人を超える人口を持つ島である。定期航路がないのにこれだけの人口を抱えることができるのはどういうことかというと、本州と橋でつながっているのである。現在でも関門トンネルは下関駅から鉄橋で彦島に渡った後に、彦島で地下に潜って北九州市の門司区で地上に出るという構造になっている。地図で見れば彦島は間違いなく島であり九州と本州との間に海峡が存在するのだが、現在は事実上、一つにつながった経済圏を構成している。ただしこれは現在の建築技術がもたらした地図であり、この当時は、本州と四国と彦島との間にあるのは海で、船に乗らなければ移動できない位置関係にあった。この位置関係にあるからこそ、関門海峡の出口を封鎖している彦島を平家が占拠していることは本州と九州との間の連携を平家が封鎖できることを意味する。

 源範頼にしてみれば九州まで目と鼻の先なのにもかかわらず平家のせいで身動きできなっている状態である。かといって軍勢を組織して彦島に渡って平知盛を討ち取ることはできない。船が無いのだ。現在のように橋が架かっているわけではなく、海も深いので馬で一気に渡るのも無謀だ。つまり、船を操ることのできる平家が小舟に乗って徴発して弓矢を放って地味にダメージを与えるのに源氏としては弓矢で応戦するより他に対策はとれず、兵糧不足もあってただただ不快な思いにさせられるだけであった。

 このまま地味に攻撃を受け続け消耗させられるまま源範頼らが赤間関から身動きでできなくなってからおよそ半月を経た一月二六日、情勢が一気に源氏方に流れた。豊後国の武士団を率いる臼杵惟隆と緒方惟栄の兄弟が八二艘からなる船団を率いて源範頼のもとを訪問し、同日、周防国宇佐郡から宇奈木遠隆が兵糧米を献上したため源範頼の軍勢は一息つくことができ、いったん周防国へ退却した後で彦島の平家の軍勢を避けるような航路をとって豊後国へと船出した。

 吾妻鏡はこのときに源範頼とともに九州へ上陸した面々の名を例の如く列挙している。以下は吾妻鏡に帰されている御家人たちの名で、記載順は吾妻鏡での記載順そのままである。

 北条義時、足利義兼、小山朝政、小山宗政、小山朝光、武田有義、中原親能、千葉常胤、千葉常秀、下河辺行平、下河辺政義、浅沼広綱、三浦義澄、三浦義村、八田知家、八田知重、葛西清重、渋谷重国、渋谷高重、比企朝宗、比企能員、和田義盛、和田宗実、和田義胤、大多和義成、安西景益、安西明景、大河戸広行、大河戸行元、中条家長、加藤景廉、工藤祐経、工藤祐茂、天野遠景、一品坊昌寛、土佐坊昌俊、小野寺道綱らである。


 源範頼の軍勢は豊後国、現在の大分県に向かって船を進めたはずである。ところがその次の記録が不可解である。元暦二(一一八五)年二月一日、源範頼の軍勢から北条義時、下河辺行平、渋谷重国、ならびに、吾妻鏡には名前が記されていない品河清実らが最初に上陸して平家方の原田種直と賀摩種益との親子の率いる軍勢と対戦したのであるが、その場所が筑前国葦屋浦、現在の福岡県遠賀郡芦屋町だ。

 戦略としてならわかる。現在の福岡県遠賀郡芦屋町は北九州市の西隣にある港町で玄界灘に面している。彦島を制圧している平家が関門海峡を制圧したために源氏の九州上陸を阻んでいたのが、今や立場が逆転して彦島の平家を源氏が包囲する形になったのだ。無論、いかに豊後国の臼杵惟隆と緒方惟栄の兄弟が船を用意してくれたと言え海上戦力だけで言えばこれで五分だ。平家方の妨害を受けることなく兵力を輸送することができるが、海戦を挑んで平家を殲滅させることができるかというと、断言はできない。それに、彦島は平家の一部が陣を敷いている基地であり、本拠地では無い。無理して彦島に攻め込む必要はないのだ。

 それでも、これで長門国、豊前国、筑前国が源氏の手に落ち、関門トンネルの無いこの時代は海路で移動するしかなかった本州と九州の間も、源氏自身の保有する船で自由自在に移動できるようになったことは大きく、平家はさらに自らの勢力圏が狭まったことを自覚させられることとなった。

 ただし、源氏方も九州に上陸して平家勢力から九州北部を奪取し、彦島を逆に包囲する体制を構築できたといっても、それより前に存在する大問題の前にはどうにもならなかった。

 兵糧不足だ。

 兵糧不足の中で無理して軍勢を西国へと進めて九州上陸を果たしたところで、九州だけが豊作で兵糧不足とは無縁の土地であるなどという甘い話はなく、九州もやはり食糧問題が存在し続けていたのだ。いや、情勢としては本州よりも九州のほうが深刻かもしれない。山陽道は源範頼の軍勢が通過するだけであるし、残存部隊がいると言ってもその軍勢はさほど多くない。攻め込まれようと防衛はできるというぐらいの軍勢であり前年の収穫や今年度の収穫見込みが厳しくてもどうにかなるぐらいの数だ。一般に地域の総人口の二パーセントまでであれば職業軍人として地域で抱え込むことが可能と言われており、源範頼が残存させた兵力もこの規模であったろうと推測される。

 一方、九州に乗り込んだ源範頼の軍勢は、平家物語や吾妻鏡の数字の誇張をそのまま信じるならばという条件がつくが、当時の九州の人口と比しても過剰である。平家討伐完了までの一時的な措置であると言っても地域の人口で抱え込むことのできる人数を超える軍隊が常駐するとなったら、常駐そのものが困難な話となる。端的に言えば軍隊が食べていくことのできるだけの食糧を確保できなくなる。

 源範頼からの兵糧不足を訴える知らせが鎌倉の源頼朝のもとに届いたのは、吾妻鏡によると元暦二(一一八五)年二月一四日のことである。九州上陸の日付から逆算すると尋常ならざる早さであるが、源範頼が比較的早い段階で九州の食糧事情を把握して早期に使者を鎌倉に向けて派遣したとすれば納得はできる。その前日には武田信義の五男である武田信光から源頼朝の元に書状が送られてきており、そこには現地の飢饉と船舶不足から九州上陸は困難であり、安芸国に一旦引き返す予定であることが記されている。実際には九州に上陸しているので九州上陸が困難というのは豊後国からの船舶支援が届く前の話であり、武田信光からの書状も長門国赤間関に閉じ込められている間に記された書状であろう。

 さらに鎌倉と京都と西国の前線との間の情報連携速度の問題が起こって源頼朝が情報を発したときにはもう現地の情勢が激変しているという現象が珍しくなくなる。

 源頼朝は源範頼に対して、九州での戦線維持が不可能であれば、九州から四国に出向いて四国屋島の平家を攻撃するよう指令を送ったと同時に、源義経に対しても讃岐国屋島を攻撃するよう命令を下した。特に源範頼に対しては、平家の面々が、それも武士だけではなく女子供に至るまで長きに亘って都を離れて流浪生活を過ごしているのに対し、源氏の武士はこんな短期間の陣中生活も耐えられないのかと苦言を述べている。ただし、食料が無くてもどうにかするようになどというふざけた精神論などは語っておらず、兵糧は確実に届けるからそれまで待つようにとは伝えている。

 ところが、源頼朝からの指令が届く前に源範頼は兵糧不足を理由として九州から離脱して周防国に撤退し、源義経に至っては平家攻撃のために京都をとっくに出発しており消息不明となっていたのだ。

 後白河法皇のもとに源義経の所在が判明したのですら二月中旬に入ってからと思われ、後白河法皇からの使者が源義経のもとに到着したのは二月一六日に入ってからである。

 この所在不明の間に源義経が何をしていたのか。これが判明するのが二月一九日のことである。


 元暦二(一一八五)年二月一六日、源義経率いる軍勢が、摂津国渡辺、現在の大阪市の京橋のあたりに到着。平家物語によると、このとき後白河法皇からの使者である高階泰経が源義経の元にやってきたという。高階泰経が源義経に求めたのはただ一つ、京都への帰還だ。前年の三日平氏の乱で行方不明となっている伊藤忠清が再び軍勢を組織して京都に攻め込んでくる可能性があることを嘆き、京都とその周辺から武力が喪失してしまっているので源義経に戻ってもらわなければ治安維持が図ることができないというのが後白河法皇からの通達であった。なお、後白河法皇からの通達について権中納言吉田経房は、伊藤忠清の脅威は否定しないながらも後白河法皇が抱いているほどの脅威ではないことを日記に記している。その代わりに、源範頼の軍勢のもとにある兵糧が尽きるのが目に見えていること、長くても三月まで、下手すれば二月中に兵糧が尽きてしまうことへの懸念を記しており、早期に平家討伐を完了させなければならないことを認めている。

 源義経は後白河法皇からの通達を拒否して四国屋島に船で渡ることを決めていた。自分の後任には右近衛少将に就任している平光盛がいる。都落ちに帯同しなかったとはいえ平家の一員であることが気になるのかもしれないが、治安維持を念頭に考えるならば平家の武力は信頼を置くことができる。讃岐国屋島に攻撃を仕掛けるのは国家反逆者となった面々への対処であり、その多くは平家の者であることは認めても平家の全てが国家反逆者となったわけではない。平家の一員であっても平家都落ちに帯同せずに都に留まった者、あるいは鎌倉に赴いた者は討伐の対象ではなく、そうした平家の武力は信頼を置けるという理屈は成り立つ。たとえそれが空虚な建前であろうと。

 平家物語は源義経の出港時における一つのエピソードを挿入している。

 一つは、四国に向けて出港する前、自分たちには海戦経験がないことから梶原景時が船に逆櫓(さかろ)を設置するべきだとしたエピソードである。源義経が逆櫓とは何かを梶原景時に尋ねると、梶原景時から帰ってきた答えは船を右へも左への後ろへも進ませることのできる櫓(ろ)であるという。これに源義経は激怒した。戦いというものは最初から逃げ支度をするものではなく、そのようなものを設置したければ梶原景時の船にだけ設置すればいいとし、源義経の船にはそのようなもの不要だとしたのである。これに対する梶原景時の答えは、良い大将軍とは駆けるべきところは駆け、退くべきところは退いて身の安全を守って敵を滅ぼすものであり、ただ攻めるしか考えないのは猪武者(いのししむしゃ)といって褒められたものではないというものであった。これを源義経は鼻で笑った。猪(いのしし)だか鹿(かのしし)だか知らないが、戦いとは、攻めて、攻めて、攻め抜いて勝つものが最高なのだというのが源義経の意見だ。このあとで二人はいつ殴り合いになるかわからない対立となり畠山重忠が梶原景時を抑え込んで争いを止めたとするのが平家物語に挿入されている逸話である。

 ただし、このエピソードは完全に嘘である。なぜ嘘と言い切ることができるのかというと、このとき梶原景時は源範頼の軍勢に加わって行動していたからで、この頃は九州から脱出したかどうか、どんなに急いだとしても現在の広島市のあたりに到達できていたかどうかであり、源義経の出港時に現在の大阪市にいたのはありえないからである。大阪市福島区にはこのエピソードがあったことを示す石碑があるが、その石碑のあたりから源義経が出港したであろうことまでは同意できても、源義経と梶原景時との言い争いがあったとは同意できない。

 ただし、もう一つのエピソードは源義経であればやりかねないエピソードである。

 暴風が吹き荒れている夜中に強引に出港させたというエピソードである。

 源義経は地元の漁師から船を調達し、武器を積み、武具を積み、兵糧を積み、馬を乗せた。こう書くとどうと言うことのないエピソード、せいぜい勇猛果敢さを示すエピソードに思えるが、源義経は地元の漁師の舟を奪い、漁師を無理矢理船に乗せて出港させたのだ。対価を払って船を借りるどころか、船を奪い、漁師を拉致したも同然の有様で出港したのである。

 地元の漁師たちである。このときに吹いている風がいかに危険かは熟知しているし、出向に全く向いていないことも理解している。熟知も理解もせず、対価を用意することもなく強引に出港させたのは源義経の方である。出港して死んだとしても前世の報いであり宿命である。おまけに強風が吹き荒れているといっても向かい風ではなく追い風だ。暴風だろうとなんだというのが源義経の主張だ。しかも、出航に反対する者は弓矢で一人残らず射殺せというのだから、これでは軍事行動だとか以前に強盗団のやり口だ。

 地元の漁師たちは、海に出て死ぬのか、それとも弓矢で殺されるのかという最低最悪な選択を迫られ、だったらまだ生き残ることのできる可能性がある出港を選ばざるを得なくなった。

 ただし、源義経は一つだけ合理的なことをしている。船の上で炎を灯すことができる箇所の全てで篝火(かがりび)を灯させたのである。どうしても少数になってしまう船の数を少しでも多く見せるためであるが、結果として、他の船との目印になって航海できるようになった。そのおかげもあってか、通常は三日を要する海路をわずか一日と四時間で航海。

 なお、平家物語には三時(みとき)、すなわち六時間ほどとあるが、吾妻鏡では丑刻に出発して卯刻に到着したとあり、現在の時制に換算すると夜中の二時頃に出港して早朝六時頃に到着したこととなる。つまり、わずかに四時間だ。いかに追い風でスピードが出せたとしても通常は三日を要する航行距離を四時間で到着できた、あるいは六時間で到着できたというのはあり得ない。そこで九条兼実の日記を見ると、二月一六日に出港し、二月一七日に阿波国に到着したと書いてある。つまり、二月一六日の丑刻に出港して二月一七日の卯刻に到着したとすればおかしくない。


 さて、平家物語によると航海に適さないタイミングでありながら源義経が航海を強行させたことになっているが、これは否とするべきである。というより、綿密に日付を決めた上での行動であったと考えるべきである。そうしないと辻褄が合わないのだ。さらに言えば、失踪していた間に源義経が何をしていたのかの答えもここにある。

 平家の本拠地である屋島は現在の香川県高松市にある。

 一方、源義経の到着したのは阿波国の勝浦、現在の徳島県小松島市である。平家物語によると源義経はどこに到着したのかわかっておらず、到着してみると平家の赤旗がはためいていたので早速攻撃し、生け捕りにした敵兵の中から一人選んで土地の名前を聞くと、土地の名前が勝浦だと答えたというエピソードになっている。そしてこう付け加えている。これからの戦いを考えると縁起の良い地名であると。

 平家物語には源義経が阿波国を目指して出港したとは書いておらず、漂着したら阿波国であったと書いてある。しかし、源義経がどこから出港したのかを考えると源義経は最初から阿波国を目指して出港したと、それも元暦二(一一八五)年二月一七日に到着するという前提で航海したとしか考えられないのである。紀伊半島から出港したのなら阿波国に到着するのはわかるが、淀川河口から出港して阿波国に到着したのであるから、大阪湾を出港して南西へと進み、淡路島と紀伊半島との間にある紀淡海峡を越えた後に船の針路を西南西に変更して小松島湾に到着したと考えるべきである。これは偶然に偶然が重なった結果ではなく、最初から計算した結果とすべきである。

 どういうことか。

 平家とて讃岐国屋島の自分たちのもとに攻め込んでくる源氏の軍勢があることはわかっている。そして、海軍力では平家のほうが上回っている以上、源氏の軍勢はいきなり四国屋島に船で襲い掛かってくるのではなく、讃岐国のうち屋島から離れた場所、あるいは伊予国や阿波国に上陸し、陸上で戦列を整えてから陸路で讃岐国屋島に攻め込んでくることは考えられる。特に阿波国は京都から四国へやって来るルートとして最初に考えられるルートだ。

 そもそも淡路島の「あわじ」の語源は「阿波国への道」である。

 畿内から阿波国に行くには陸路で明石まで行き、明石海峡を渡って淡路島北部に到着したのちに陸路で淡路島を縦断し、淡路島の南部から鳴門海峡を渡って上陸するのが通例である。本来の南海道として定義されているルートは畿内から紀伊国の加太まで行き、淡路国由良まで海路で横断した後に淡路島を陸路で横断してから阿波国に船で渡るというルートであったが、平安遷都によって都から紀伊国に出るまでのルートが長くなってからは、陸路で明石に向かうルートが一般的になっていた。

 現在でこそ明石海峡大橋や鳴門海峡大橋が架かったことから陸路のみで移動できるようになっているが、この時代は本州と淡路島、淡路島と四国との間は海で離れていてどうしても船に乗らなければならず、瀬戸内海の航行や大阪湾の航行、あるいは渦潮に直面する可能性のある鳴門海峡の航行は琵琶湖の航行より航海の危険性が高い以上、物資ではなく人間が京都から阿波国に行くにはできる限り陸路で行くのが通例であった。そして、この時代における淡路島を経由するルートは京都から阿波国へ行く最も使われるルートであるだけで無く、京都から四国へ行くのに最も使われるルートでもあった。

 つまり、平家にしてみれば源氏の軍勢が淡路島を経由して阿波国にやって来ることは充分に考えられるのだ。

 源義経がこれを理解しないわけはない。淡路島を通ろうものなら平家に自分たちの手の内が読まれてしまう。ゆえに、淡路島に渡るという選択肢は外される。

 となると、淡路島に寄港しないで航海することとなるのはおかしな話では無い。それも、暴風であるために航海に適していないタイミングにあえて出港するのであるから二重の意味で平家の裏を狙うこととなる。暴風については偶然であるが時期については計算通りであり、源義経が到着した土地の名を勝浦と知らなかったことは考えられても、到着したのが徳島平野であることは知っていたはずである。


 平家物語にも吾妻鏡にも四国に渡った源義経の軍勢は一五〇騎であったと記している。普通に考えると少なすぎる数字であるし、平家物語も吾妻鏡も数字の誇張はいつものことであるから実際にはもっと多い数字であったろうとも思えるが、平家物語や吾妻鏡の記す一五〇騎という兵力は決して勝算の無い数字では無い。

 これは平家の防備状況を考えればわかる。

 平家がいかに讃岐国屋島に本拠地を構えているといっても、屋島に籠城しているわけではない。屋島はたしかに守るに適した土地であるが、屋島にいるのは安徳天皇と三種の神器であり、平家は安徳天皇と三種の神器を守る存在であると自負している。ゆえに、安徳天皇と三種の神器を危険にさらしてまで屋島に籠城するのではなく、屋島に向かって進撃してくるはずの源氏の軍勢を途中で迎え撃つ責務がある。特に、四国に向かって船を進めている源氏の軍船に対して瀬戸内海の海の上で迎え撃つことができれば海軍力で勝る平家に充分に勝機がある。

 ただし、海上で迎え撃つには難点がある。監視しなければならない範囲があまりにも広くなり、個々の拠点に配備できる兵力が乏しくなる。源義経が阿波国に上陸した段階で、平家の兵力の七割以上が屋島から離れて行動しており、讃岐国と阿波国に展開している平家の軍勢を合わせると一〇〇〇騎に達するかどうかであったという。しかも、個々の拠点ごとに一〇〇騎から一五〇騎を分散して配備していた。無論、拠点間の情報連携は取れるようになっているので、源氏の軍勢が上陸したという知らせが届いたならば近隣の部隊を援軍として派遣するぐらいの仕組みは作ってある。

 源義経が上陸した勝浦は平家の軍勢が配備している箇所の最南端であり、かつ、平家は城を構築していた。城と言っても江戸時代や戦国時代の城と比べると稚拙に感じるが、それでも三方を沼に囲まれ、残る一方には堀が設営されている堅牢な要塞になっており、防備の最南端として申し分ない陣容である。しかも、阿波国勝浦にあった城を守っていたのは田口良遠であり、兄の田口成良は平家の有力家人で平家が都落ちをする前は四国における最大の武士団を組織し、平家の都落ちのあとは讃岐国屋島に内裏を造営するなど四国における平家の有力武人であった。田口良遠は何かと兄と比べられる宿命を持っていたが、兄を支える有力武士であり、平家からの信頼も厚いものがあった。ここまでを考えると源義経の上陸地点としては相応しくないように思える。

 だが、大軍を率いることができていた兄と違い、田口良遠が守ることとなっていたのは源氏の到着する可能性などまず無いと考えられていた徳島平野、しかも、それでも堅牢な城を築いたものの、城で守っているのは一〇〇騎ほどの軍勢である。それがこの時点の平家の用意できる阿波国勝浦の防衛の人数の限界であったのだ。

 おまけに田口良遠の脳裏に自分が平家の前線に立って源氏の進軍に備えている意識は無かったとも言ってよく、知識としては知っていても事実上は無関係と思っていたと考えられる。そもそも上陸地点に選ばれるとは思っていなかった上に、航海に適した天候ではなかったからだ。その裏を突いて登場した源義経の軍勢の前に田口良遠は抵抗を見せたものの、源義経の軍勢の前に劣勢となったことで城を捨てて逃走した。

 逃走と言っても、味方の軍勢のいる場所に向かっての逃走である。源義経が上陸したと喧伝しながらの逃走は四国各地に配備された平家の軍勢に途中で迎え撃つ準備をさせることを可能とさせることを意味するのであるが、源義経はここでも裏を突くのだ。

 源義経はまず阿波国府を制圧したのち、軍勢を北に向け、現在のJR高徳線沿いに北上していった。ここまでは平家側の想像の範囲内であるが、そこから先は平家の想像を超えていた。阿波国と讃岐国との国境でもある大坂峠、現在のJR高徳線板野駅から阿波大宮駅を経て讃岐相生駅に至るルートを越えるには普通、まずは南の麓である板野駅のあたりで一泊して朝を迎え、一日がかりで大坂峠を越えてその日の夕方に讃岐相生駅のあたりに到着できるかどうかというのが当たり前であり、源義経もそれぐらいのペースでやって来るだろうと睨んでいたのである。

 ところが源義経は、夕方に板野駅のあたりに到着したら休むことなく徹夜で大坂峠を越えて夜が明ける前にはもう峠を越えていたのである。平家物語によると二月一八日の寅刻、現在の時制に直して午前四時頃に讃岐国引田、現在の香川県東かがわ市引田に到着して人馬を休息させたとある。最短距離で屋島に向かうことだけを考えれば、阿波国勝浦から讃岐国引田までの最短ルートである。源義経は讃岐国引田で三時間ほどの仮眠と軽めの朝食をとっただけでさらに馬を走らせて讃岐国を進軍。昼間はともかく夜もずっと進軍し続け、これもまた徹夜で二月一九日に屋島の目前まで到着したというのが源義経の屋島への行軍路だ。

 ただし、陸路だけでなかった可能性もある。阿波国勝浦に到着したのは二月一七日でその日のうちに阿波国府を制圧し、峠を越えて讃岐国引田に到着したのが二月一八日の午前四時頃である。ここまではいい。しかし、讃岐国引田から讃岐国屋島に至るまでに経由した地点として判明しているのは、丹生屋(にふのや)と白鳥(しろとり)の二箇所のみ。他の記載からの推測でも志度を経由したであろうことが推測されるのみで、何れもこの時代の海岸線における港町だ。讃岐国引田から讃岐国屋島はおよそ四〇キロメートルあり陸路で移動できない距離ではないが、海路のほうが時間を稼ぐことができる。

 おそらくであるが、源義経は陸路を主としながらも海路でも軍勢を移動させたのであろう。源義経のこの後の戦い方が、陸路だけで移動してきた軍勢が繰り広げることのできる内容の戦いではないのだ。その内容については後述する。

 なお、源義経はこのとき、一ノ谷の戦いの前でもやらかしたことを四国でもやらかしている。悪辣と評するしかないが、夜の進軍において源義経は通り道にある民家を燃やしながら移動したのである。特に屋島の付近に到着したら屋島の周辺の民家に平然と火を放ち、夜闇に乗じて平家が大軍で押し寄せてきたと思わせ、屋島近辺の平家の武士たちは源氏の軍勢が陸路でやってきた、それも大軍でやってきたことと考えてしまい、我先に船に乗って避難をはじめるまでになってしまったのである。

 さらに源氏の軍勢は浅瀬を通って屋島に攻め寄せ、屋島に築いていた内裏に火を放った。

 ここに屋島の戦いが始まった。


 先に田口良遠が逃走するに際し、源氏の軍勢がやってきたと喧伝しながら逃走したと記したが、逃走した先々にはもう源義経がやってきていた。しかも、屋島まで到着したときにはもう屋島に源義経の軍勢がいて、屋島の内裏が燃えていたのである。源義経のスピードの前には平家が構築していた拠点間の情報連絡網など無意味であった。

 それに源義経が来ていることを喧伝することは、平家の軍勢にとって行動を起こすきっかけになると同時に、平家に従っていない軍勢についても行動を起こすきっかけになる。源義経は自らを消息不明とさせている間に四国在駐の武士に書状を送っていたのだ。この人は自らの軍勢を、自らの書状で現地において集めることのできる人だ。書状を記す能力もあったからというのは理由の半分でしか無い。源義経には検非違使大夫尉という公的地位が存在し、源義経の軍勢は官軍として行動している。源義経に従えば官軍の一員としての恩賞が期待でき、逆らえば国家反逆者として処罰される対象となる。そうでなくとも戦況そのものが平家不利で源氏有利となっている。ここで官軍たる源氏の一員となり勝ち馬に乗るのはおかしくない選択だ。

 一方、慌てて船に乗り込んだ平家の軍勢が目の当たりにしたのは燃えさかる屋島の内裏、そして、源義経のあまりにも少ない軍勢だった。その、あまりにも少ない軍勢が屋島に築いていた内裏を燃やしたことに平家の武士たちは我に返り、兵力差で圧倒できることに気づいた。

 屋島を守っているのは平宗盛であり、平知盛は関門海峡の彦島にいるため不在である。平家物語では無能と扱われることの多い平宗盛でも、自分たちの軍勢のほうが多いこと、ここで慌てて逃げなくとも源氏の軍勢を打ち負かすことはできる兵力差であることはわかる。平宗盛は全軍に対し引き返して源氏の軍勢に挑むように命令した。

 なお、このときにかなり下品な言い争いをしている。

 今日の源氏の大将は誰であるかという平家方からの問いに対し源氏方からは源義経が大将であると伝えたら、こうなった。

 平家の郎等である平盛嗣は「平治の乱で父親が殺されて孤児になって、鞍馬で稚児をやって、金商人の荷物運びをやって東北に逃げていった小物ではないか」と源義経のことを嘲笑。これに対し源氏方の伊勢義盛からは「そういうお前等は砺波山で無様に負けて物乞いをしながら京都に逃げてった奴らじゃないか」と返す。これに怒った平盛嗣は「俺らみたいな金持ちが物乞いなどするわけなかろう。そういうお前は鈴鹿山の山賊じゃないか」と言い返し、この悪口の奥州に嫌気を抱いたか金子親範が「根拠も無い悪口を言い合ってどうする。一ノ谷で武蔵や相模の武勇を思い出せ」と弓を引き絞って矢を放ち、平盛嗣の鎧を打ち抜いて倒したという。

 これが始まりとなり悪口の応酬から弓矢での応酬がはじまった。

 源義経にしてみれば明らかに多勢に無勢であるが、源氏は渡り合うことができた。多勢に無勢であっても奮闘したからではなく、消息不明の段階で源義経が展開し、行軍路を陸路だけとしなかった結果の策が実行されたからである。

 源義経は四国にいる武士たちに、元暦二(一一八五)年二月一九日に屋島に到着するように伝え、源義経の軍勢が間違いなく進んでいることを示すために陸路だけでなく海路でも軍勢を移動させたのである。さらに、山陽道に展開している源範頼の軍勢からも二月一九日に到着するよう伝えていた。ちなみに、このときに源範頼の軍勢から派遣されて船に乗ってやってきたのが梶原景時である。おそらく、逆櫓のエピソードを生んだのも屋島において梶原景時がいたことがきっかけとなって発生したものであろう。なお、梶原景時が屋島に到着したのはもう少し後とする記録もあるが、そうなると兵力差を埋めることとなった理由が説明できなくなる。

 これにより兵力差は源氏方が逆転した。ただし、源氏の軍勢には弱点があった。たしかに屋島まで船でやってきたが、海軍力そのもので言えばまだ平家のほうが上回っている。そこで、源氏の軍勢は海戦を最初から検討せずにいち早く上陸して陸戦に持っていこうとし、実際に陸上に展開する源氏の軍勢を増やしている。

 海上であれば平家有利であるが、海上からの上陸戦で陸上での戦闘となると平家が不利となる。平家は上陸戦を諦めて再び船に乗って海上で源氏と対峙することを選んだ。

 陸上戦に持っていきたい源氏と海上戦を挑みたい平家との間で膠着状態となり、二月一九日の戦闘は夕刻を迎えたことで一時休戦となった。


 このとき、屋島の戦いでもっとも有名なエピソードとして那須与一が登場する。

 平家から女性を載せた船がやってきて、船には赤地金丸の平家の日の丸があしらわれた扇が掲げられていた。この扇を射貫いてみよというのである。平家の誘いに対し源義経は弓の名手である那須与一を指名し、那須与一の放った矢が見事に扇を射落としたというエピソードだ。

 那須与一のエピソードが本当にあったのかとなると、実際のところは怪しい。そもそも那須与一のエピソードについて記しているのが平家物語と源平盛衰記だけであり、吾妻鏡をはじめとする他の資料に那須与一のエピソードは存在しないのである。それに、史実であったとしても、なぜ平家はこのようなことをしたのかという疑念が生じる。全くの無意味ではないかと。

 ところが、平家の立場に立つと無意味ではないのだ。

 まず、平家にはまだ余裕があることを見せつけるための挑発としての意味がある。陸上戦では劣っているが海上での戦いなら平家が有利であるというアピールは、源氏を悔しがらせると同時に平家を鼓舞できる。屋島の戦いそのものだけを見れば、平家はたしかに押され気味ではあるが一ノ谷の戦いのように負けているわけではない。翌日以後の戦闘で勝てる見込みはわりと高いのだ。

 また、扇を射落とすことができるかどうかが占いにもなっている。射落とすことができれば源氏の勝ち、失敗したら平家の勝ちという占いであり、ただでさえ波で上下に揺れている船の上に掲げられている扇だ。那須与一からの距離はおよそ七〇メートルあったとされており、射落とすとなるとかなりの技能が要求される。この時代の弓矢での殺傷能力は一五メートルほどの距離が限度だが、このときは殺傷までは求められていない。扇に矢を当てれば良いのであるから七〇メートルという距離は無茶を要求されているわけではない。理論上は。

 現実的に考えると極めて難しいことを平家は要求しているのである。遠距離に扇を掲げて射落としてみよというのは平家圧倒的有利で、源氏は失敗するだろうという挑発が含まれた上での占いであり、それでいて完全に無理であるわけではないので源氏にも成功の可能性が少しはあるのがキモだ。源氏が挑まなければ源氏の臆病を笑い、源氏が失敗したら源氏の失敗を笑い、成功したら互いに見事と誉め称え合うという、どう転んでも平家有利の挑発であり、平家にしてみれば平家の勝利となると平家の軍勢に対してアピールできるのだ。

 ここで一つのヒントとなるのが前年一二月の藤戸の戦いである。このときも平家軍は海上に船を並べて陣を敷き、小舟を差し向けては海上で扇を掲げ源氏軍を挑発した。たしかに藤戸の戦いは浅瀬を狙って攻めてきた源氏の軍勢に敗れたが、ここ屋島は平家の本拠地であり、陸についても海についても平家は熟知している。挑発に源氏が乗って失敗したら儲けもの、成功したらそのときは相手を誉めでもすればそれで済む話だ。

 つまり藤戸の戦いのときにも示した平家が圧倒的優位にある挑発を屋島でも繰り返したのである。

 これに対して源氏からは那須与一が弓矢の名手として推され、那須与一はみごとに扇を射落とすことに成功した。藤戸の戦いでは扇を掲げる挑発に源氏は乗らなかった、あるいは、挑発に乗ろうとしても挑発に乗った場合のリスクが大きすぎた。成功すればいいが失敗したら大恥だ。しかし、屋島の戦いでは平家から言われた源義経への罵詈雑言があり、その上での挑発だ。その挑発を那須与一が見事に打ち砕いたというのが、人口に膾炙されるところの那須与一のエピソードである。

 ところが、平家物語にも源平盛衰記にもその後がある。那須与一が扇を射落とした後、平家の側から一人の中年が船に乗って扇の掲げられていた場所まで船を走らせ船の上で踊ったところを、伊勢義盛が弓矢で射殺したのだ。船の上で踊るところまでは那須与一の弓矢の技芸を平家が褒め称えたという武士道精神の発露であったのだが、その人物を射殺したとなると大問題となる。これに源平双方とも騒然となり、本来であれば夕方になったことでの休戦どころか再び戦闘になってしまったのだ。

 礼儀を考えれば明らかに源氏の無礼である。だが、挑発したのは平家のほうだ。それも罵詈雑言を繰り返した上で平家圧倒的有利の挑発をしておいて、成功したらしたで相手を誉めたらそれで済むと考えたのはさすがに浅慮というものだ。しかも、船の上での舞は都の上流階級の嗜みであって粗野な東国の武士にはできないであろうという揶揄の意味もある。相手を誉めるのに自らが上流階級で相手が粗野だというアピールも込めたのであるから、称賛を装った挑発なのだ。弓矢を手にしたのは源義経ではなく伊勢義盛だと考えるかも知れないが、伊勢義盛は源義経の指示で矢を放っているのである。つまり、挑発という無礼に対して源氏も無礼で返したというところだ。

 無礼の応酬で再発してしまった戦闘は完全に日が暮れるまで続き、夜になったことでようやく戦闘は収まった。なお、源義経が海に弓を落としたので戦闘そっちのけで慌てて海に浮かぶ弓を拾い上げたというエピソードはこのときのものである。源氏の武士は屈強でなければならないのに、源義経は自分の弓がさほど強力ではないことが平家方に知られたくなかったので戦闘よりも弓を拾い上げることを優先させたのだという。


 源義経の四国上陸からの行動を考えると、ここまでまともに眠っていないことが読み取れる。そのためか、この日の戦闘が終わり、日が暮れた後で多くの兵士たちが眠りについた。ところが、源義経と伊勢義盛の二人は眠ることなく敵襲に待ち構えていた。実際に平家は夜襲を仕掛けようとしていたのであるが、夜襲計画そのものを立案できず夜襲をする前に朝を迎えたため夜襲は失敗に終わっている。

 平家はここで屋島からの完全撤退を考えた。既に屋島の内裏は焼かれた上に、源氏の軍勢が続々と増えてきていることから屋島に籠城することは自滅を意味する。籠城戦で勝機を掴むことができるのは包囲をしている側のほうが補給を断たれて包囲を解くというケースであり、海上戦力だけで見れば平家側はなおも有利であるが、源氏の軍勢が陸路でやってきているということは四国の陸路を源氏が制していること、すなわち、海上補給を平家の軍勢で封じても源氏の軍勢に対する補給路を封じることにはならないことを意味する。それならば海上戦力が有利であることを活かして屋島から脱出し、平知盛らが陣を構えている関門海峡の彦島に向けて出港し、平家の軍勢をより強固な物として源氏と渡り合うほうがまだ勝算はある。

 特に重要なのは安徳天皇と三種の神器を避難させることである。このまま屋島に留まって源氏の手にかかって安徳天皇の命にかかわる話になったら、あるいは三種の神器が失われるような話になったら、源氏の失態でもあるが、安徳天皇と三種の神器を守っているという平家の建前が崩れてしまうのである。

 ただし、撤退を見抜かれてはならない。あくまでも屋島に留まって源氏と対戦しているという構図を崩さないまま安徳天皇と三種の神器を関門海峡まで避難させなければならないのだ。

 平家は一部の軍勢を源氏に攻撃させるために四国に留め、残る軍勢を関門海峡に向けて出発させた。

 ただし、平家の軍勢は一目散に関門海峡の彦島に向かったわけではない。九条兼実の日記を追いかけると平宗盛が安芸国厳島に到着したという報告が京都に届いていること、備前国小島や伊予国五々島などに分散していること、周防大島などに援軍を要請していることが窺えることから、平家の逃走ルート上で天皇と三種の神器の滞在が可能な場所を考えると、安徳天皇と三種の神器、ならびに平家の女性たちは平宗盛とともに厳島に一時的に滞在し、平家は安徳天皇と三種の神器を守るための軍勢を厳島に残しつつ、他の武士を瀬戸内海沿岸各所に派遣して援軍を要請していたというのが自然なところであろう。

 そしてもう一つ、絶望を命じられる平家の武士たちもいた。

 二月二一日、屋島を脱出した平家の軍勢が屋島の東南にある讃岐国の志度にいるとの情報が源義経の元に届き、源義経は全軍から八〇騎を選抜して源義経自身とともに志度に向かわせた。これは完全に源義経にも漏れている計画であった。平家の軍勢の本隊は関門海峡に向かって航海しているが、一部の軍勢が讃岐国志度に移動しているというのが源義経の掴んでいた平家の作戦だ。

 屋島から志度へ海路で移動するのは現在であればかなり遠回りになるが、この時代の海がどこにあったかを考えるとさほど困難では無い。

 源義経にしてみれば、屋島から関門海峡方面へと向かっている平家の軍勢を追いかける必要がありながらも目の前に平家の軍勢の一部が残存していることとなる。一部だけであるとは言え平家の軍勢を放置することは許される話では無いが、かといって全軍で志度に向かってしまっては陥落させた屋島をもう一度平家に奪い返されてしまう可能性もある。

 源義経はかなり警戒して志度へと向かった。志度に残っているのは平家からの選りすぐりの、命を賭して平家のために残る勇者たちである、はずであったのだ。

 ところが実際にはそうではなかった。志度に着いた源義経が目の当たりにしたのは死を命令されて志度に放置された人たちであったのだ。九州に連れて行ってもらうこともできず、志度に放置されたままあとは死を迎えるだけになっている人たちの目はただ虚空を見つめるだけであり、源義経の到着にはついに自分たちが死ぬ時を迎えてしまったのかという思いであったのだ。もはや抵抗する意思も意欲も失った彼らに対して源義経は自軍に加わることを条件に命を奪わぬことを約束し、志度に残されていた平家の軍勢のトップであった田口教能をはじめとする志度の武士たちは源義経の元へと降ることとなった。このときに田口教能が源義経の元に降ったことが一ヶ月後に大きな意味を持つこととなる。

 同日、伊予国で水軍を率いる河野通信(かわのみちのぶ)も源義経の元に降り、源義経は軍船と兵力を手に入れた。

 ここに屋島の戦いは完全に終わり、四国は源氏の支配下に置かれることとなった。なお、二月一九日の戦いのみを屋島の戦いとし、二月二一日については志度の浦の戦いと称すこともある。


 屋島の戦いの結末が京都に届いたのは九条兼実の日記によると元暦二(一一八五)年二月二七日のこと、鎌倉まで届いたのは吾妻鏡によると三月八日のことである。なお、源義経からの連絡にあるのは平家を取り逃したことであり、安徳天皇や三種の神器についての記載は無い。

 翌三月九日、今度は源範頼からの書状が京都に届いた。兵糧不足を訴える内容と、和田義盛らが鎌倉に戻ろうとするのを無理に引き留めていること、また、熊野別当の湛増が朝廷から追討使に任命された上に源義経とともに讃岐国へ進軍し、さらには九州へ向かうという噂が広まっていることの嘆きである。四国を源義経が制圧したのはまだいい。自分が九州、弟が四国という役割分担だ。熊野別当の湛増がやって来るとなると面目丸つぶれであるという嘆きの手紙であった。

 ここで熊野別当の湛増について記しておかなければならないことがある。

 熊野別当の湛増が四国に向かうという噂の初出は元暦二(一一八五)年二月二一日で、この日に源義経と熊野別当の湛増が阿波国へと渡海したという噂が京都に広まった。この噂を源頼朝は否定した上で源範頼に対して事実無根の噂であるとの返書を出したが、実際には既に官軍の一員として熊野水軍を派遣することを決めていたと思われる。というのも、この後の源義経の軍勢の中に熊野水軍が存在しているのである。

 湛増が熊野別当に就任したのは前年一〇月のことで、熊野別当に就任した直後から源平双方より自軍に加わるよう誘いがあった末、紅白二羽のニワトリを戦わせて白いニワトリが勝ったので熊野として源氏方に味方することを選んだというのが平家物語におけるエピソードであるが、このエピソードの信憑性は薄い。そもそも熊野そのものの存亡に関係する話を闘鶏で決めるなど無責任にも程があるし、元暦元(一一八四)年一〇月の時点では既に情勢が源氏有利になっていることは誰の目にも明らかとなっていたのである。ここで平家に味方するなど組織のトップに立つ人間として許される決断ではない。

 平家物語の数字の誇張はいつものことだが、ここで熊野別当湛増が熊野水軍を率いて源氏に加わったことで源義経は三〇〇〇艘を超える海軍力を手に入れたこととなる。ただし、熊野水軍が二〇〇艘で、河野通信(かわのみちのぶ)が一五〇艘なのに合計三〇〇〇艘というのだからこれは計算に合わない。熊野水軍と河野通信(かわのみちのぶ)とを合わせて合計五〇〇艘がどうにか捻出できた海軍力であろう。

 一方の平家側の海軍力を平家物語は一〇〇〇艘ほどであるとしているが、九条兼実はその日記に、四国屋島から関門海峡へと逃れていった船が一〇〇艘ほど、さらに彦島にいる平家の海軍力が三〇〇艘ほどであるとしている。右大臣九条兼実は現地にいたわけではなく伝聞での数字を書き記しただけなので実数ではない可能性が極めて高いが、それでも実際の海軍力となるとこれぐらいであろう。

 源頼朝はこれから間もなく最終決戦を迎えることを理解していたが、如何せん鎌倉と関門海峡との間の距離は長すぎるし、情報連携速度も当時としては異例のスピードであってもリアルタイムではないという問題がある。

 元暦二(一一八五)年三月一二日に兵糧米を積んだ船を九州に向けて出港させたのである。出港地は伊豆半島であるから、太平洋沿岸を航海する長距離航行となる。源範頼の兵糧不足を嘆く言葉を捉えると、源頼朝の命令による兵糧搬出は妥当なものと言える。

 さらにその二日後には、源氏軍の総大将である源範頼に対して、平家討伐は慎重を期して安徳天皇の身の安全と三種の神器の奪還を最優先とするように命じた書状を鎌倉から出発させている。

 しかし、現地では大きく情勢が動いていた。

 源範頼も源義経も平家討伐の最終決戦は間もなくであることを理解していたのだ。


 讃岐国屋島を陥落させた後で源義経は平家の最後の根拠地である関門海峡に向かった航海をスタートさせている。ただし、源義経のいつものことであるが、この人は途中で行方をくらませる。いや、この場合は途中ではなく最初からとするべきか、二月一九日に四国屋島を陥落させ、二月二一日に讃岐国志度で平家の残党を味方に引き入れたところまでは判明しているのであるが、そこから先の消息が喪失し、次に源義経の消息が判明するのがおよそ一ヶ月後の三月二一日なのだ。ここではじめて、源義経が周防国大津島に到着していること、源範頼との共同戦線を張っていることが判明したのである。

 三月二一日の記録も、周防国から出港しようとしたが大雨のため出港できないで延期となったこと、また、周防国で船の管理をしている在庁官人の五郎正利が数十艘の船を献上したため、源義経は五郎正利を鎌倉の御家人にするという文書を与えたという記録である。

 同じ頃、源範頼は現在の下関市にあたる赤間関と、関門海峡を渡った門司の双方に陣を構え彦島を包囲していた。さらに、大津島から目と鼻の先にある周防国府には三浦義澄が滞在しており、関門海峡への入り口への監視役にもなっていた。ただし、彦島の監視には成功していても、また、関門海峡の入り口への監視も可能とさせていても、平家の海軍力を止めることはできなかった。せいぜい関門海峡を通る船に対して弓矢を仕掛けることができるかどうかである。そのため讃岐国屋島から逃れてきた平家の艦隊の彦島入港を許してしまっている。

 というタイミングで源義経が艦隊を率いて周防国までやってきた。さらに大津島に寄港して現地でさらに船団を構成する船を増やしている。源氏の作戦はこれで決まった。源義経が艦隊を率いて関門海峡へと進んで彦島の平家の軍勢を閉じ込め、陸地で陣を構えている源範頼の軍勢が彦島に一気に襲い掛かって平家との最終決戦に挑むというものだ。ただし、関門海峡の情勢は陸だけを見ると源氏が圧倒的に優勢であるが海に視点を移すと平家も負けてはいない。船の数だけを見れば源氏のほうが上回るようになったが海上戦の経験となると源氏は完全に欠けている。源義経のもとに熊野水軍をはじめとする経験ある海上戦力が加わったとはいえ、海上戦闘経験を考えると源氏としては海での戦闘は避けたいところであり、源義経はあくまで平家の軍船を封鎖することが求められた。

 源範頼と源義経との間で使者が行き交い、陸と海とで協力し合う形での関門海峡封鎖に向けて動き出した。元暦二(一一八五)年三月二二日、周防国より出発した艦隊が関門海峡入り口の奥津に入港。最終決戦への準備が着々と進んでいった。ただし、この段階で到着してきているのは三浦義澄の率いる先遣隊であり、源義経率いる艦隊の本隊はまだ到着していない。


 陸海双方での関門海峡封鎖を狙う源氏の動きは平家の側にも読み取れていた。そして、平家の側がそこまで自軍にとって不利になる状況を唯々諾々と受け入れるわけはない。これから封鎖されようというのに抵抗しないほうがおかしい。そして、兵力の優劣を考えると陸上戦力で劣っている平家の軍勢が活路を見いだすとすれば海上だ。動員できる艦隊を全て動員して関門海峡を埋め、封鎖しようとしている源氏方の艦隊を突破して瀬戸内海に戻るというのが平家側の選択肢である。

 平家は源氏がかなり無理して艦隊を編成したことを理解している。ここで源氏の艦隊を打ち破って瀬戸内海に戻ることができれば、安芸国厳島をはじめとして今も残る平家の勢力のどこかを陸上の根拠地として京都への復帰を目指すことも可能となる。何と言っても平家には安徳天皇がいて三種の神器もあるのだ。

 平家は源氏の艦隊を壊滅させ瀬戸内海へと戻るために艦隊を出動させ、関門海峡東部の瀬戸内海側、いわゆる「壇ノ浦」に向けて動き出した。元暦二(一一八五)年三月二三日の夕刻、平家の艦隊が壇ノ浦を埋めるように配備を終えた。

 同日、源義経の率いる艦隊も関門海峡入り口に到着。平家物語の中にはここで源義経と梶原景時との間で合戦の先陣について互いに自分が立つと言い争い、梶原景時が源義経に対して大将自らが先陣に立つなどとは、源義経は大将の器ではないと言えば、源義経は我らが大将は源頼朝であり自分は配下の一武人でしかないと言い返し、殴り合いどころか刀を抜いての一触即発の事態になったというエピソードを掲載している版もあるが、多くの版はそのようなエピソードを掲載していない。平家物語は何かと梶原景時を悪役とするところがある。

 この時代の戦闘は、不意打ちもあるが、事前に戦闘開始を告げてから開始することもある。相互に陣形を敷いて向かい合っているときというのは戦闘開始を告げてから開始する典型的なケースだ。このようなときは、鏑矢を放つことでこれから戦闘を開始すると告げることとなる。このルールは陸上であろうと海上であろうと関係ない。

 もっとも鏑矢を放って戦闘開始を告げてから攻撃を開始するのがルールであろうと、源義経が特に顕著であるが、鏑矢など関係無しに夜闇に乗じて攻撃を仕掛けることは珍しくなく、壇ノ浦に船を浮かべて向かい合っていても相手がいつ攻撃をわからない状態のまま時間だけを経過させていた。壇ノ浦に浮かぶ船の上の人たちは船に乗ったまま、相手がいつ夜闇に乗じて攻撃を仕掛けてくるかわからないまま夜を過ごして朝を迎えたこととなる。双方の船の距離は三町、メートル法にすると三〇〇メートルほどしかなく、強めの弓を引き絞ることができる者ならば火矢を放って相手方にダメージを与えることも不可能ではない距離だ。

 また、平家軍にとっては正面に船を並べている源氏の艦船だけでなく、関門海峡の両岸に陣取っている源氏の軍勢も気になるところである。特に門司には源範頼が陣を敷いていることが船の上から確認でき、こちらもまた火矢を放てば船に届きそうな距離である。

 一ノ谷の戦い、屋島の戦いと、源義経はルール無視の攻撃や、ルールの範囲内ではあっても想定を越える奇襲攻撃を仕掛けてきた人物である。その人物が夜闇に乗じて何かしでかしてくるかも知れないという恐怖は平家の軍勢に広がっており、朝を迎えたときは寝不足よりもむしろ安堵の声が挙がったほどである。

 ただし、安堵の声はすぐに現実に引き戻された。

 日付が変わって元暦二(一一八五)年三月二四日の朝、現在の時制にして午前六時頃、源平双方から鏑矢が放たれ戦闘開始が告げられたのだ。

 源平合戦の最後を飾る壇ノ浦の戦いの始まりである。


 平家は関門海峡の潮の流れを熟知していた。また、平家の作戦は源氏の艦隊を突破して瀬戸内海に出ることなので、平家の攻撃にとって重要なのは源氏を倒すことではない。瀬戸内海へ向かって航海しようとする源氏の艦隊がいるなら倒すが、倒すことなく突破できればそれでよい。

 平知盛が中心となって立てた平家の作戦は、潮の流れが南西から北東、すなわち関門海峡から瀬戸内海へと向かう流れになる時間帯に平家の全船に進軍命令を出し、弓矢で源氏方に攻撃を仕掛けつつ中央突破を図るというものである。そのため平家は全軍の半分を山鹿秀遠に率いさせて前線に突入させ、九州の水軍である松浦党が全軍の三割を率いて第二陣を構成して安徳天皇と三種の神器の乗っている、ということになっている船の前に立ちはだかって防御する。その後ろを平知盛の率いる全軍の二割の艦隊が最後尾を守るという構成であった。

 一方、源氏にとってはこれが最初の海戦である。海戦に限定すると経験の差で源氏が不利となるのは源義経も源範頼も理解しているが、海の上だけで戦いを終わらせなければならないという決まりは無い。それに、平家の艦隊が源氏の艦隊を突破して瀬戸内海に出るのを目論んでいることは源氏方も理解している。また、源氏はここで安徳天皇を救出して三種の神器を無事に取り戻し、平家を完全に討ち取ることを最終目的としている。ゆえに、源氏の艦隊を突破させずに関門海峡に平家の艦隊を釘付けにさせない状態にするほうが最終目的を果たしやすい状況となる。

 潮の流れは関門海峡から瀬戸内海に向かっている。源氏の艦隊にしてみれば船の進行方向と真逆の流れであるため、船を操りにくい。そうでなくとも平家の艦隊の半分が一気に突っ込んできており、平家の艦隊からは弓矢による攻撃が容赦なく仕掛けてきているのである。源氏方もここまでは想定通りであり、陸上から平家の艦船に向けて矢が放たれている。

 この段階で平家の損害はゼロではないが、損害でいうと源氏のほうがはるかに損害を被っていた。情勢は明らかに平家優位であった。

 ところが正午頃になると情勢は逆転する。平家物語によるとこの頃になって潮の流れが変わったとしている。潮の流れが逆転し、瀬戸内海から関門海峡へと流れるように変わったというのが平家物語の伝える話であり、大正時代に黒板勝美氏が提唱して以降、多くの研究者が潮の流れの変化を源氏の起死回生の契機としている。しかし、この説に反対する研究者もいる。たとえば細川重男氏は、潮の流れではなく源義経が採用した作戦が源氏の起死回生の契機であったとしている。

 源義経はどんな作戦を採用したのか?

 卑怯千万と言うしかない作戦である。

 船を操る水手(かこ)に向けて矢を放つように命令したのだ。

 武士同士の戦いが海の上や湖の上で繰り広げられることはこれまでにあった。そして、そのときはマナーとして、船を操る水手(かこ)は攻撃から免れていたのである。矢を放ちあうわけであるから流れ矢が当たってしまう水手(かこ)ならばいた。しかし、水手(かこ)を狙って矢を放つなどあり得なかった。

 そのあり得ないことを源義経は命令した。


 水手(かこ)を失った平家の艦船は動きを止められてしまった。

 動きを失った船は源氏からの攻撃を受けるだけの存在になってしまったのだ。

 源義経の作戦を卑怯千万と貶そうと、平家の艦船の動きは既に止まってしまった。

 それでも平家には奥の手が存在していた。

 源氏の最終目的は安徳天皇と三種の神器である。ならば、源氏のもとに安徳天皇と三種の神器が渡らないようにし、生き残った水手(かこ)を集めて安徳天皇と三種の神器を乗せた船に戦線を離脱させれば源氏は最終目的を果たせないこととなる。

 平家の艦隊の中には皇室の方でなければ乗ることが許されないであろうという豪勢な御座船(ござぶね)があった。誰もが御座船に安徳天皇と三種の神器が乗っていると考え、源氏の船は御座船(ござぶね)に向けて船を進めていたのである。

 平知盛は源氏のこの動きを読んでおり、安徳天皇と三種の神器、それに二位尼平時子と建礼門院平徳子を普通の武士が乗る平凡な船に乗せ、御座船(ござぶね)には屈強な武士たちを乗せていたのである。普通に考えれば源氏は安徳天皇と三種の神器を見つけることができず、その間に安徳天皇と三種の神器は戦線を離脱できるはずである。

 自分たちは安徳天皇と三種の神器が逃走できるまでの時間をいかにして稼ぐかというのがこのときの平家に課せられていた課題であったのだが、そのとき平家を絶望させる情報が飛び込んできた。

 田口成良が平家を裏切って源氏についたというのだ。

 田口成良はかつて四国で最大の武士団を組織していた武士であった。それが、源義経が阿波国勝浦に到着したときに弟が敗れ、屋島の戦いの後では平家を関門海峡に逃すために讃岐国志度に放置された平家の軍の中に息子である田口教能も加えさせられた。しかも、田口教能に命じられたのは志度の平家の軍を指揮した上で死ねという命令だ。平家の本隊が逃れるための時間稼ぎをするのも武士としての務めであると頭では理解していても、見捨てられただけでなく死ねと命じられて平然としていられるわけはない。本人もそうだが、親も平然としていられる話ではない。

 源義経は平然としていられないであろう田口成良に対し、息子の田口教能が無事であり源義経の元に降ったことを伝えたのである。その上で壇ノ浦の戦いにおいて源氏方に寝返るように求めたのだ。

 田口成良は源義経の誘いに乗る形で平家を裏切り源氏についただけでなく、平家が安徳天皇と三種の神器をどの船に乗せているのかを源義経に伝えたのである。

 平知盛はもはや全てが終わったと理解した。

 平家はここで滅びるのだ。

 しかし、源氏の目的を全て果たすのを黙って認めるつもりはなかった。

 平知盛は安徳天皇と三種の神器の乗る船に赴き、これから源氏の武士たちがこの船に押し寄せてくること、平家の女性たちは源氏の武士たちに捕らわれることになることを伝え、暗に自害を促した。

 最初に行動を起こしたのは二位尼平時子である。彼女は三種の神器のうち天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を腰に差して八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を持ち、安徳天皇には波の下にも都があると告げて、安徳天皇とともに入水した。ただし、吾妻鏡によると安徳天皇は二位尼平時子ではなく、建礼門院平徳子に仕えていた按察使局伊勢(あぜのつぼねいせ)が安徳天皇を抱きかかえて入水したとある。ただし、按察使局伊勢(あぜのつぼねいせ)は入水後に源氏によって救出されて

 三種の神器の残る八咫鏡(やたのかがみ)は平重衡の妻で大納言佐(だいなごんのすけ)と呼ばれる女性が持ち、建礼門院平徳子は大納言佐(だいなごんのすけ)に対して自分の後追うように命じた後、息子を追うように海に飛び込んだ。

 しかし、建礼門院平徳子はただちに源氏の軍勢に引き上げられ源氏の船に乗せられた。

 この様子を見ていた大納言佐(だいなごんのすけ)は、自分はともかく八咫鏡(やたのかがみ)については源氏の手に渡してはならぬと考え、八咫鏡(やたのかがみ)の入った唐櫃(からびつ)を持って飛び込もうとした。しかし、源氏の武士たちは大切なものを持って高貴な女性が海に飛び込もうとしているのを見て矢を彼女の裾に打ち込むことで彼女を船から動かせなくさせた上で唐櫃(からびつ)を奪い取った。この瞬間、三種の神器のうちの一つが平家の手から源氏の手に渡った。

 入水したのは女性たちだけではない。平家の武士たちもここで終わりであることを悟り、せめて最後の抵抗だけはしようとする者、諦めて海へ飛び込む者、飛び込むこともできず右往左往する者が出ている。

 最後の抵抗をしようとした者として平家物語が取り上げているのが平教盛である。平知盛から無駄な殺生をするなと言われた平教盛は、ならばせめて源義経を道連れにしてくれると源義経を追いかけ、ここで源義経は八艘もの船を飛び越えて逃げたという。この八艘飛びはさすがに現実離れしている話であるが、実際に隣の船へと飛び越えたことは考えられる。このときのエピソードに尾鰭がついて八艘飛びというエピソードが生まれたのであろう。なお、平家物語によると平教盛は源義経をどうしても捕らえることができないので、せめて道連れを増やすとして源氏の武士を二人抱えて入水したという。

 諦めて海に飛び込んだのは平知盛である。もはや平家はどうにもならない。しかし、安徳天皇と三種の神器を三つとも源氏の手に渡すという源氏の最終目的は妨害できたとして、鎧の上に鎧を重ねて着ることで重りとして海に飛び込み、平知盛が飛び込んだのを見た平家の多くの者が錨(いかり)をはじめとする重りとなるものを身に括り付けて海に飛び込んだ。

 平家物語の記す右往左往した者が平宗盛である。平知盛だけでなく他の武士が飛び込み、女性が飛び込み、さらには幼い安徳天皇まで飛び込んだというのに、飛び込むことを促されていることを理解してはいても怖じ気づいて動けないでいる平宗盛に対し、平家の大将が晒し首になるのは許される話ではないとして海に向かって突き落とされた。だが、平宗盛は何ら重しをつけていなかったので海に浮かんでしまい源氏に捕らえられることとなった。

 その他、平宗盛の長男の平清宗、平時忠、平時忠の長男の平時実、安徳天皇の弟で高倉院の第二子である守貞親王、そして建礼門院徳子が源氏の軍勢に生け捕りとなった。また、平家とともに都落ちに帯同してきた二人の元検非違使が入水前に源氏に降伏した。

 一方、平教盛と平知盛のほかに、平家一門だけでも平資盛、平有盛、平行盛、平教経、そして平経盛がこの戦いで命を落とした。亡くなったことに名を記されることもない武士や、身の安全が守られるべき水手(かこ)であったはずなのに弓矢で殺されることになった人がどれだけいたのか、記す史料は何もない。

 確実に言えるのはただ一つ、元暦二(一一八五)年三月二四日に平家が滅亡したということである。

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。

 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。

 奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。

 猛き者も遂にはほろびぬ、 偏(ひとへ)に風の前の塵におなじ。

 治承三(一一七九)年一一月にいったい誰が想像したであろうか。

 権力者となった平家がこのような最期を迎えることとなることを。

 京都が無名の武士によって蹂躙されることを。

 平治の乱で配流となった少年が四半世紀の歳月を経て戦乱の勝利者となることを。

 治承三年の政変から五年半、日数を計算すると一九五六日目で源平合戦、歴史用語で言う治承・寿永の乱が、平家の完全消滅という形で終わりを迎えることを。

 しかし、戦いはまだ終わっていない。

 治承・寿永の乱の勝者となった鎌倉方の中で争う時代が始まるのである。

 それは鎌倉幕府という新しい権力組織が誕生した後も続く争いである。

――平家物語の時代 完――

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

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