天下三不如意 3.堀河帝から鳥羽帝へ

 彗星というのは、現在では単なる天体現象である。
 しかし、彗星のメカニズムが知られていない時代において、何の前触れもなく姿を見せる彗星というのは凶兆であった。箒星(ほうきぼし)という別名からもわかるとおり、世の中の汚れを一掃して新しい時代を迎えるときに現れるシンボルとされていたのである。新しくなるならいいではないかと考え、それのどこが凶兆なのかと考える人もいるかもしれないが、そのような人はこのように考えて欲しい。自分がまさに一掃される側の汚れと見なされたらどうなるか、と。収穫量が以前より減ってインフレが高まり、暮らしぶりが悪化していると実感してきているの加え、寺社のデモ集団が平安京にまでやってきて暴れ回っているというだけでも世の中の悪化を感じさせられることであるが、このタイミングで彗星が夜空に現れたとなると、当時の人たちのパニックは推して知るべしである。
 とは言え、彗星が出たら必ずパニックになるわけではない。パニックになるのはパニックなる下地があるからで、下地がなければ彗星が天体に現れたところで、誰も何も言わない。珍しい夜空だと眺めるだけである。そうならずに彗星に恐れおののくのは、彗星そのものではなく、パニックを起こしたいが恐れおののくきっかけがないので沈黙しておくしかないという日常の不安の強さに原因がある。このような場合、天文学的知識を動員して彗星が単なる天体現象であり、夜空に見える彗星が日常生活には何ら支障を生じさせないと説いても通用しない。
 平安時代、彗星に恐怖する人たちを説得させる方法として採用されることが多かったのが改元である。箒星(ほうきぼし)によって世の中が一掃されるのを、元号を変えることで代替するというのは平安時代におけるごく普通の考えであり、堀河天皇の選択として誰もが納得できることであった。それに、いかに白河法皇の権限が強くなっていようと、改元する権利は天皇にしかない。堀河天皇は自らの権勢を示すためにもこの権利を行使した。

 長治三(一一〇六)年四月九日、嘉承への改元が発表された。これにより、彗星に恐れおののく人たちの何割かは鎮静化した。そう、あくまでも何割かは。

 日常の不安が存在し、衰退が実感できているのに、表面上は冷静でいるというのは、民度とか知性とかもあるが、平常心を保つのに苦心しているということでもある。本心で言えば、つらいのだ。平常心を維持することがつらいのだ。だから、平常心を維持しないでいい場面を求める。彗星が現れたことを理由に暴れ回るのは、彗星が恐いからではなく、平常心が維持できなくなっている状態のときに平常心を維持しないでいい理由が現れたということなのだ。
 堀河天皇が改元を命じた。この時代の常識に従えば、堀河天皇のこの行動は世の中の安寧を考えたごく普通のことである。そもそも、前例がある。だが、ただでさえ保つのがつらくなっている平常心を、彗星をきっかけで少しは軽くできると思ったら、再び維持し続けるように命じられたとなればどうなるか。心が折れそうになっていて折れないように維持しているのがつらいとき、折れないように苦心するのはよくある対処法だ。経営学においてレジリエンス(心が折れないように鍛る)というビジネス用語が頻繁に出るようになっているのもその例証と言える。だが、実際には、折れないように鍛えるよりも、あえて折ってしまったほうが良い結果を生む。必ずというわけではないが、結果として、折らずに維持するよい高い結果を出すのである。
 どういうことか?
 心が折れるというのは、ストレスよりも何よりも、疲労に原因がある。生活をするために必要な義務が増え、今までならばする必要のなかった苦労が増えている。それでいて、増やされた義務と苦労に見合うだけの結果は得られない。この状態でがんばって耐えているとしても、それは問題の先延ばしであって解決には至っていない。先延ばしを続けて疲労が延々と重なり、もうどうにもならなくなった瞬間というのが心の折れる瞬間なのだ。心が折れないままである場合、疲労を求める環境はそのまま続き、疲労は良くて現状維持、通常は溜まる一方である状況に変わりはない。しかし、心が折れるとなれば、少なくとも疲労が溜まる一方だという環境を変えろと訴えることとなる。パニックというのは心が折れて起こるものであると同時に、これ以上同じ環境でいられないと宣言し、環境を強引に変えることなのだ。パニックが起こらなかったら何も変わらない。何も起こらなかったのだから何の問題も無いのだと考えられて放置されて終わり。疲労はそのまま残され、疲労状態にある人の境遇もまたそのまま残されている。だが、パニックが起こったら、パニックに至るほど環境に問題があると否応なく気づかされるし、環境を変える必要性もに気づく。中には「ちょっとガマンしていればいいだけじゃないか」と考える人もいるが、今までガマンさせていたのだと考えて環境を改めることを考える人のほうが多い。
 堀河天皇は改元によって彗星によって起こる混迷を力ずくで抑えつけることに成功した。それは、ガマンを強いられて疲労困憊に陥っている人たちに今までが続くことを宣言することを意味してもいた。
 無論、パニックという社会情勢の悪化を事前に抑えることは執政者として当然の行動である。だが、パニックの原因となる環境の改善に目を向けること無く、パニックを強引に押さえ込むと何が起こるか? 堀河天皇は二カ月後に思い知ることとなる。


 パニックについて考えさせられる点がもう一つある。
 その説明をする前に思い浮かべていただきたい現代の日常生活の光景がある。
 平日の夜の、満員の甲子園球場や埼玉スタジアムである。
 この光景を見てこのように考える人はいないだろうか?
 夜とは言え平日なのに甲子園球場や埼玉スタジアムに詰めかけている人は、普段何をしている人なのか、と。定年退職した人ならともかく、働いていなければ、あるいは学校へ通っていなければならないような年齢の人もいるが、そうした人たちは会社や学校に行っていないのだろうか、と。
 答えは簡単で、普段は働いている、あるいは学校へ通っている。職業があり、あるいは学校があり、その日の仕事や授業を終えてから応援に駆けつけ、あるいは、その日の仕事や授業を途中で切り上げてから応援に駆けつけ、愛するチームの勝利に一喜一憂しているのである。
 そうした人たちについてイメージされるのは、一般庶民のうちあまり社会的地位の高くない人が自分の人生を自分とは無関係の他者に託して騒いでいるというものであり、また、金持ちか貧乏かで言えば貧乏に区分され、知的レベルが高いか低いかと考えれば低いほうに区分されるというイメージである。だが、いざ彼らの中に入っていくとそのイメージは一変する。高収入で高学歴なのが当たり前で、社会的地位の高さに加え、知性、教養、一般常識のいずれにおいても平均を遥かに上回っている人たちである。ちなみに、そこは企業のヘッドハンティングの場としても機能しており、愛するチームを通じて知り合った他者に誘われて勤務先を変えるのもよくある話である。さらに一歩踏み込んで、企業の求める学歴や資格を持つ優秀な人をヘッドハンティングしようとする場として観客席を活用することも珍しくない。
 なぜこういう話をしたかというと、嘉承元(一一〇六)年に堀河天皇が直面したのは、まさにこうした人たち、すなわち、現在に生きていれば観客席で熱狂していたであろう人たちなのである。その人達もまたパニックに関わる人になってきていたのだ。それまでであれば、個人的な方法でパニックに陥らないようにすることができていた、さらには、パニックをそもそも起こす必要が無い状況に自分を維持することができていた人たちですら、パニックに直面せざるを得なくなってきたのだ。仕事や学校と離れた生き甲斐を持つことは人としての平穏を保つ方法である。平安時代に学校はないが仕事はある。働かなければ生きていけない社会が存在している。しかし、働くことだけが人生の全てではない。働くこと以外の時間を持っている人たちが堀河天皇の直面する問題となって現れたのである。

 一日中、そして一年中、現在の言い方で表すと二四時間三六五日休むことなく仕事や学校の勉強に没頭するというのは、そしてそれを生き甲斐とするというのは、肝心の仕事や学校における成果を高めるどころかむしろ下げてしまう行動でしかない。前述の疲労がそれである。疲れきって成果が上がらなくなっているし、そのまま放置していては過労死が待っている。それらから多少なりとも逃れうるためには仕事や学校という社会における公的立ち位置とは別の場所に私的立ち位置を築き、その私的立ち位置に生き甲斐を置くことが重要である。民俗学者の柳田國男が提唱したハレ(儀礼、祭、年中行事など)とケ(日常)という概念で言うと、公的立ち位置がケで、私的立ち位置がハレということになろうか。あるいはラッセルの幸福論における趣味の効用について当てはめてみるのも適切とも言えよう。
 この、私的立ち位置に身を置いて没頭している光景だけを眺めれば、知性や教養の高さを感じることができない、もっと言ってしまえば興味の無い人から見れば愚かなことをしていると思われてしまうが、実際には、そのような考えのほうが間違っている。愚かなことをしているという表現はその通りということができても、実際に愚かなわけではない。例として甲子園球場や埼玉スタジアムに詰めかける人たちのことを挙げたのは、そこに詰めかける人の多さが目立つからであり、観客の少ないスタジアムであろうと、他の競技であろうと、スポーツ以外の何か、たとえば音楽や映画を生き甲斐するというのであろうと、そこに優劣は無い。仕事や学校から離れた場所に生き甲斐を持つという点では同じで、その生き甲斐の種類が違うと言うだけである。ついでにいえば、ヘッドハンティングについても同じことが言える。愚かなことと言われるであろうことに生き甲斐を見いだす人間をスカウトするのは、いかにすれば自分たちの成果をより高められるかを考えた場合、仕事や学校以外に生き甲斐を持つ人間と、仕事や学校が生き甲斐になってしまっている人間とでは、前者のほうが結果を残す可能性が高いと判断されるからである。
 そして、この判断は、社会的地位に直結する。私的立ち位置を築くというのは、さらに言えば、私的立ち位置を築けるというのは、なかなかにして難しい話である。考えていただきたい。平日の夜に観客席に座れるというのは、その時間を自分のための時間に注ぎ込んでも生活できるだけの生活基盤が存在しているということなのだということを。豊かな社会というのは、このように私的立ち位置が築けている人が一定数以上いる社会のことを、そして、社会を構成する全ての人が私的立ち位置を築ける社会のことを言う。いくら高い給与が出ると言っても、自分のための時間を犠牲としなければならない社会は豊かな社会とは言えない。ましてや、生きていくために人生の全ての時間を捧げなければならないというのは豊かさとは真逆の社会と言える。常日頃から政治家としての評価は庶民生活の目に見える向上によってだけで決まると主張しているが、庶民生活の目に見える向上の中には、この、生きていくことと直結するわけではない時間が得られるだけの暮らしがあるという点も含まれる。

 ところが、世の中にはそうした生き甲斐を持たない人たちというのがいる。仕事や学校の勉強に没頭するというならまだマシで、公的立ち位置の他に自らの立ち位置を築くこと自体を忌避し、ましてや公的立ち位置以外の場所に生き甲斐を持つことそのものすら忌避するような人たちである。イメージとしては、他に生き甲斐を持たずに一つのことに専念する人のほうが優秀で、馬鹿なことをしているように見えることを生き甲斐とする人のほうが無能という感覚があるが、実際は逆で、日常と切り離された空間と環境に身を投じて馬鹿なことができるからこそ、仕事においても、学業においても、優秀な結果を出すことができるものであるのだが。
 近代になって興業としてのスポーツが成立したのは、数万人レベル、さらには数十万人レベルで私的立ち位置を築けるハレの日を作り出しやすくなるというメリットがあったからで、突き詰めれば古代ローマの剣闘士競技に、もっと遡れば古代ギリシアのオリンピックやアテナイの劇場までルーツを遡らせることができる。数百人から数千人、多いときは数万人や数十万人が一斉に熱狂することでハレの日を作り出し、日常から離れた空間を生み出すことで日常を過ごすことで対面せざるを得ない疲労から多少なりとも逃れさせる効果を生みだせるのだ。一〇〇年以上の歴史のあるスタジアムを本拠地とするサッカークラブの歴史を調べてみればわかるが、観客動員の最多記録を世界大恐慌直後の一九三〇年代に達成し、現時点に至るまで塗り替えることのできないままであるクラブは非常に多い。また、共産主義体制が確立された東ヨーロッパにおいてもサッカーやアイスホッケーといったスポーツは健在であり続け、冷戦の終結後よりも冷戦中のほうが観客を多く集めていたクラブというのも旧共産圏では珍しくもない。世界大恐慌直後の失業率四〇パーセントという混乱の時代や、死因の最多理由が餓死という共産主義時代にあって、スポーツの存在は世情の鎮静化の一役を担っていたのである。
 こうした役割を担ったのはスポーツだけではない。映画も担っていたし、コンサートも担っていた。コンサートに足を運び、映画館に足を運ぶというのは、公的立ち位置に人生の全てを掛けている人にとって絶対にあり得ない選択である。裏を返せば、スポーツも含めたこうしたことに共通しているのは、社会における私的立ち位置を築ける人たちの存在である。誰もが公的立ち位置しか有していない社会を計画した者もいるし、それを実践した者もいるが、そこに成功例はない。人類史上何度も計画され実行されてきたにもかかわらず一度として成功していないというのは、計画そのものが間違っているという証拠である。
 では、平安時代にそれはあったのか?
 答えは、ある。

 私的立ち位置という存在は現代になって突然現れたものでもなければ、古代ローマの剣闘士競技や古代ギリシアのオリンピックや劇場が太古における例外として存在していたわけでもない。どの世界でもどの時代でも存在している。平安時代で言うと、非日常の場である祭り、柳田國男の言うところのハレがそれだ。大人数で集まってプロスポーツに一喜一憂するわけではないが、いつもと違う非日常を見つけ出して、仕事を休むことはよくあった。今から考えれば面白いとは言えない仮装行列やパレードであっても、さらには貴族が牛車に乗って祭りに参加する光景であっても、それらは貴重な非日常の光景であったのだ。
 ただ、その頻度は減ってきていた。寺社の面々が頻繁に京都にやってきてデモを繰り返していては、非日常を愉しむどころか、日常に支障すら生じる。デモをしている集団は、自分たちが非日常を壊していることに気づいていないだけでなく、非日常に私的立ち位置を求める者の存在そのものを認識してすらいない。現在の日本国においては、観客席に詰めかけて熱狂の声を挙げている人たちと、首相官邸前に押し寄せて罵声を浴びせている人たちとの間の親和性はきわめて低い。真逆の存在としてもいい。特に、後者は前者のことをはっきりと愚者として扱い、ときにはネトウヨと、ときには低学歴と言ってあからさまに見下す。だが、現在の日本で首相官邸前に押し寄せてデモを繰り広げている者と、観客席で熱狂している者と、どちらほうが高い知性を有しているかは一目瞭然で、観客席の側である。知性の度合いが違う、教養の度合いが違う、身につけている一般常識の度合いが違う、そして、社会的地位が絶望的なまでに違う。観客席で熱狂している者が首相官邸前のデモに参加するまでに落ちぶれることはあっても、首相官邸前のデモに参加するような者が知性を身につけ、教養を身につけ、一般常識を何とかして叩き込んだところで、観客席で熱狂するまでにレベルアップすることはない。仮に観客席に足を運んで熱狂したとしても、知性と教養と一般常識の乏しさから、浮く。この現実はデモ集団にとって何よりも受け入れがたい現実である。自らがどんなに懸命に振る舞おうと、観客席で熱狂する面々よりはるかに低い自分の社会的地位、はるかに乏しい自分の知性、絶望的に劣っている自分の教養、それらが生み出す自分の人望の無さが突きつけられているのだ。こうした現実から逃れるただ一つの方法が、自分たちより優れた存在であることを認めず、自分たちのようなデモ参加者よりはるかに劣った存在と見なして上から目線で接することなのだ。しかも、それで自らの支持者が増えると考えている。なぜなら、自分たちデモ参加者は優秀だから、優秀な自分に劣った一般大衆が従うはずだから、というのが彼らの本音である。
 堀河天皇は彗星の出現を契機として改元をした。これは世情の鎮静化を狙ってのことであるし、その判断は平安時代の常識に照らせば普通のことである。しかし、タイミングが悪かった。私的立ち位置を築ける余裕のある人が目に見えて減ってきていたのだ。後三条天皇の荘園整理に始まる経済の縮小は貧しい人をより貧しくし、白河法皇の荘園拡充は比較的豊かであった人を貧しくさせる効果を招いた。そして、頻繁に繰り返される寺社のデモ活動は非日常を収縮させた。そのどれもが堀河天皇の成した政策ではないが、堀河天皇にとって無視することのできない現実でもあった。

 社会に対する不満が溜まり、それまで非日常に身を置くことで安寧を得ていた人たちから非日常が奪われるようになる。その結果何が待っているか? パニックだ。いつ起こるかわからないパニックは当初、彗星を契機として発生するはずであった。だが、改元がパニックを強引に鎮静化させた。パニックの鎮静化と裏腹に、パニックに対する需要が激増していたのだ。それまでであれば、社会の断絶が存在した。パニックしか残されていない者だけであれば生まれるパニックは小さなもので済む。しかし、私的立ち位置を築ける余裕のある人からまでも私的立ち位置を奪うと、断絶を乗り越えた強大なパニックを生みだしてしまうのだ。
 嘉承元(一一〇六)年六月の中旬に平安京で巻き起こったのは、田楽の大流行であった。ちょうど一〇年前の嘉保三(一〇九六)年六月に大ブームの頂点を迎え、嘉保三(一〇九六)年八月七日の郁芳門院媞子内親王の逝去によって一瞬でブームを終えた田楽が、その後も何度か官製のブームとさせようとしながら上手くいかなかった田楽ブームが、一〇年前以上のブームとなって突如、京都で巻き起こったのである。
 スマートフォンで気軽に音楽を聴くことができ、能動的に音楽を選ばなくても店に入れば受動的に音楽が耳に届く現在と違い、この時代、音楽を聴くというのは滅多に遭遇しない特別な光景であった。音楽そのものがまさに非日常を彩る代名詞でもあった。その非日常の代名詞である音楽が鳴り止むことなく街中に響き渡り、誰もが音楽にあわせて踊り回った。それも、昼だけではなく夜も続いたのである。
 一〇年前は貴族も田楽の一大ブームに参加した。多くの貴族が田楽に参加し、田楽の様子を日記に留めた。だが、嘉承元(一一〇六)年六月の田楽ブームは、恐怖を伴ったブームとなった。何かに追われるように、あるいは、何かを忘れ去ろうとして、昼夜を問わず踊り続けるのである。
 田楽の大ブームは京都に留まらず、この当時としては異例の全国展開となった。田楽そのものは神道の祭典である御霊会の一環である。この時代の最大の御霊会と言えば祇園祭であるが、祇園祭だけでなく日本全国各地で御霊会が存在していた。祭そのものが非日常の光景であるが、御霊会は数多くの祭の中でもっとも親しみを伴って迎え入れられる祭であり、その御霊会に伴うイベントの一つである田楽が、それまでの祭の付随イベントから祭のメインイベントへと昇格したのである。しかも、終わることのないパニックとなるまでに至ったのである。
 田楽の大ブームの意味を誰もが理解した。堀河天皇も、白河法皇も理解した。
 答えは一つだった。
 下手に取り締まるよりも、自然消滅するのを待つというものである。

 このブームの中、一人の武将が命を落とした。
 嘉承元(一一〇六)年六月二九日に発生した京都大火も田楽の大ブームを終わらせるには不充分であった。そして、この武将は、火災にあっても終わることのない田楽の一大ブームが目の前で展開されていることを知りながら生涯を終えたのである。
 嘉承元(一一〇六)年七月一日、源義家死去。六八歳での死である。最後のオフィシャルな活動記録は長治元(一一〇四)年の比叡山延暦寺悪僧追補であるから、二年に渡ってオフィシャルな活動を見せていなかったこととなる。また、行動を伴わない記録としては、田楽ブームがそろそろ起ころうかというタイミングである嘉承元(一一〇六)年六月一〇日に出撃命令が下ったという記録がある。源義家の息子の源義国が、源義国から見れば叔父の、源義家から見れば弟の源義光と常陸国で合戦に及んでいるので、常陸国にまで出向いて逮捕しろとという命令が源義家に下ったことが残っている。ただし、出向いていない。源義家の死因については不明であるが、七月一日に亡くなった人間が、その二〇日前に健康な状態で常陸国に出向くなどできなかったと考えるのは普通である。
 現代人は武将としての源義家が命を落としたと考える。のちの幕府の流れとなる清和源氏の頭領の死なのだからその考えは正しい。しかし、当時の人はそう考えなかった。武力を扱うことのある下級貴族の死というのが捉えられかたであったのだ。実際、源義家が亡くなったときの公的な肩書きは前陸奥守の死去であり、武人としての死去でもない。また、源義家の死によって家督を継ぐことになったのは三男の源義忠であるが、この時点で二三歳の源義忠は、自身のことを貴族であると考え、武人であるとは考えなかった。周囲の人たちも、源義忠の兄の源義親が武人としての源義家の資質を継承した一方で、源義忠は貴族としての源氏の資質を継承したと考え、源義忠が検非違使を務めてはいるものの、家督の当主で二三歳である下級貴族が検非違使を務めるのは当時の文人貴族のキャリアとしてごく普通のことであり、父が源義家であるという一点を除いて、源義忠に特筆することはなかった。

 その除かれる一点である源義家の死に対して貴族たちが突きつけた態度は冷淡極まりないものがあった。
 曰く、屋敷から鬼が出てきて源義家を連れて行った、と。
 曰く、あれだけ戦いで人を殺したのだから地獄に落ちるであろう、と。
 こうした貴族たちの言葉を耳にして、誰が新しく貴族に対して尊敬の念を抱くことになるであろうか? それを貴族たちは全く認識していなかった。
 源義忠自身、自分を貴族であると考えると同時に、父や兄のような武士統率力が無いと早々に判断していた。ただ、社会の移り変わりにおける武士の重要性については認識していた。問題は、自分が所属している清和源氏の武力が頼れないことであった。戦場を駆け巡る武士たちにとって、自分と共に戦い、朝廷からの恩賞がないのに心を痛めて自身の持つ所領を分け与えた源義家は尊敬できるトップであったが、京都で貴族としてのキャリアを積んでいるだけの源義忠は尊敬できるトップではなかった。いや、トップであると認めてすらいなかった。
 源義忠に武人としての才覚がなくとも、兄の源義親にはそれがある。だから、武力は兄に任せて自分は貴族としてのキャリアを積むという決断も選べなくはなかったが、その決断を源義忠は選んでいない。源義忠が選んだのは伊勢平氏である。それは二つの点から考えうる選択であった。なぜか?
 一つは、兄の源義親が今まさに謀反人として追われる身であるということ。対馬で反旗を翻し隠岐への配流を命じられたが、隠岐への船に乗らずに出雲国にとどまっていたのである。配流の処分が下ったのは康和四(一一〇二)年だから、実に四年に渡って出雲に留まっていたこととなるしかも、この源義親の勢力は拡大もしなかったが衰えもしなかったのだ。戦闘に打って出て亡くなる兵士がでても、源義親のもとに駆けつけて一緒に戦おうとする者も出てきていたのである。父の源義家の命令にも従わなくなっていた源義親が、自分より武力の劣った存在と考える弟の命令に従うであろうか?

 清和源氏の武力が負のスパイラルに陥っているのを一人で押しとどめていたのが源義家であったのだが、源義家はもういない。この現状を誰よりも先に見通したのが白河法皇であった。白河法皇は清和源氏に取って代わる存在として伊勢平氏を重用するようにした。白河法皇自身や白河法皇の寵愛する祇園女御に擦り寄って権勢を掴もうとする者は多かったが、白河法皇という人は有能な者でないならばそのような擦り寄りを排除した人である。伊勢平氏が排除されなかったということは、伊勢平氏が白河法皇の期待に適う存在になっていたという証拠である。これが二つ目の理由である。時代の流れは間違いなく白河法皇に向かっている。これまで清和源氏は藤原摂関家とのつながりを利用して朝廷内の地位を築いてきていたが、藤原摂関家にこれまでの権威と権勢が存在しないことが誰の目にも明らかとなっている現在、相対的にトップの権威と権勢を持つ存在となった白河法皇のもとに近寄るのは選択として間違ってはいなかった。その選択を清和源氏の武士たちがどう思うのかというポイントを除いては。
 父の死を嘲笑の対象とされながらも、清和源氏のトップでありながらも、伊勢平氏への接近を図る源義忠を快く思わない者は多かった。少なくとも清和源氏の武士たちは源義忠を完全否定した。源義忠が気付いたときには、源義忠が清和源氏のトップであるとは言えないまでになっていた。このような結末を迎えたとき、多くの人はこれまでの自分の行動を肯定しようとする。これまでの自分の判断が間違っていると心のどこかで思ってはいても、それを認めることは今までの自分の人生を全否定するに等しい。それをするぐらいなら、間違っていると心の何処かで気づいていたとしても自分の選択を肯定し続けるしかなかった。
 後戻りはできないと、前に進むしかないと考えた源義忠に対し、伊勢平氏の側から答えがあった。伊勢平氏のトップである平正盛の娘を源義忠の妻とさせただけでなく、平正盛の息子、源義忠から見れば妻の弟の名を平忠盛と改めさせたのである。この平忠盛こそ、平清盛の父となる人物である。


 田楽の流行は、沈静化はしたが消滅はしなかった。田楽は現実の不満に対する叫びの声であり、これを禁止することはさらなる暴動を生むだけであったのだから。
 しかし、もっと物騒な流行が現れるとなると、さすがに取り締まりをしなければならなくなる。
 この文を読まれている方の中には雪合戦を経験したことがある人は多いだろうし、経験はなくても、雪の日に雪玉を投げ合っている光景をテレビや映画で観たことのある人はもっと多いだろう。その上で、こう想像していただきたい。
 投げ合うのが雪ではなく石だったらどうなるか、と。
 この物騒極まりない流行が平安京の各地で繰り広げられるようになったのだ。これを「飛礫(つぶて)」という。石を投げ合うなど子供の悪ふざけですら許されないが、いい年齢の大人が石を投げ合うとなると悪ふざけで片付けていい話ではなくなる。実際、石に当たって怪我をした人も現れただけでなく、当たりどころが悪く命を落とした人も現れた。さらに、石の投げ合いから殴り合いの結果に発展し、そこで殴り殺される人も出た上に、刃物まで登場したとなると、取り締まりをせずに放置するほうがおかしい。
 この取り締まりを命じられたのが検非違使に任じられた源義忠であった。自分のことを貴族と考え、検非違使を貴族としてのステップアップとしか考えていなかった源義忠にとってはキャリアアップのためのチャンスが訪れたこととなるが、それがよりによって、検非違使という武力が求められる局面だったのである。おまけに、源義忠のもとに軍勢はなかった。役人としての検非違使である者はいる。検非違使に仕えて実務にあたる放免、すなわち、元犯罪者で、釈放されたのちに検非違使に仕えて警察官としての役割を果たす者もいる。ただ、その手勢だけで飛礫の流行の全てを抑えることはできなかった。
 この現実に対する世間からの反応は一つ。「あの源義家の息子なのに……」というものである。本人も、周囲の人も、源義忠は貴族としてのキャリアを歩んでいると思っているが、その前に源義家の役割を、それも、既に亡くなってしまっているために思い出の世界にしか存在しない完璧な人間としての源義家の役割を源義忠に求めていたのだ。


 この現状を堀河天皇はどう眺めていたのか?
 資料には残っていないが、推測するとすれば、諦め、だろう。
 天皇という日本国の最高権力者でありながら、その命令に従わないでデモが続くし、庶民は石を投げ合っている。力ずく止めさせようとしてもその力が無い。
 それは権力というものの根幹に関わる話である。
 権力のトップに立つのは殴り合いで勝った者ではない。殴り合いに頼らなくとも従わせることのできる能力を持った者である。マックス・ヴェーバーはこれを合法的支配、伝統的支配、カリスマ的支配の三種類の支配に分類したが、皇室は一見すると伝統的支配に見えて、その内容は合法的支配も包含した仕組みである上に、カリスマ的支配を生み出しやすい土壌も兼ね揃えているのである。
 どういうことか?
 伝統的支配は想像つくであろう。伝統的支配を単純に言うと、「昔からこうだった。だから今もこうだし、これからもこうであり続ける」となる。ところが、日本国における皇室は単に昔から存在していたという理由だけで権威と権力を持ち続けたのではない。法が皇室の権威と権力を保障し、そして、利用していたのである。ヴェーバーの言うところの合法的支配である。正一位を頂点とする位階のピラミッド、太政大臣をトップとする役職のピラミッドはともに皇室から与えられたものであり、その権力の行使も皇室に由来する。その一方で、法は皇室をも支配する。天皇に与えられた権力が何であるか、権威はどのようなものであるかは明確に記されており、その範囲を逸脱することはない。天皇の意思が法となって国政の最終決定となるが、そこに至るまでは奏上された議案が議政官で審議され可決されなければならない。天皇の元に法案が届いたときには事実上正式な法であり、御名御璽があれば正式な法として日本中に公布される。緊急事態のときは議政官を通さずに天皇が直接命令を下すことがあるが、憲法に緊急事態条項を設けている国や、憲法に明記していなくても緊急事態対策法を設けている国を念頭に考えれば特におかしなことではない。そして、議政官の議論を経た結果であっても、緊急事態による命令であっても、御名御璽が無いというのはありえない。それどころか、議政官が可決した法案への御名御璽は、法令公布のための儀式とさえなっていたのである。これでは、憲法として明文されているわけではないが、立憲主義そのものではないか。

 もう一つのカリスマ的支配であるが、カリスマというのは超自然的、超人間的資質を持って支配をする人のことであるが、要は凡人ではないと感じさせる何かを持つ人のことである。そして、皇室というのはこれ以上無いカリスマを持ちうる仕組みである。何しろ、積み上げてきた歴史が違う。どんなに能力のある人であろうと、皇室が築き上げてきた歴史には勝てない、勝ちようがない。だからこそ、日本国の権力者は皇室を利用しようとしてきた。幕府を滅ぼすことはあっても皇室を滅ぼすことは断じて無かった。皇室を滅ぼして新たな権力組織を作り上げたとしても、その組織はどうあがいても皇室を上回ることなどできない。皇室を上回ると宣言したところで失笑を買うだけである。摂関政治という仕組みも、藤氏長者が事実上の権力者であろうと、その権力の由来は皇室に紐付く。天皇の祖父、天皇の妻の父、天皇の義理の兄弟、こうした皇室由来の権力を利用してカリスマ的資質を身につけるというのは日本国における権力の常道である。
 ところが、天皇自身が日本国における圧倒的支配者となるわけではない。法の上では最高権力者であるが、天皇自身が最高権力を発揮するのではなく、人臣の中で最高位にある者が天皇の持つ最高権力者としての権威と権力を利用するのである。日本国の歴史を振り返ると、天皇自身が最高権力者として全権を振るったことはあるが、それはあくまでも例外で、多くは天皇がトップに立つ仕組みを構築するものの天皇自身がトップとして権力を行使することを法で抑えている。
 以上を振り返って嘉承元(一一〇六)年時点の堀河天皇が直面したのは、奏上される法が有効性を持たず、法を実現させるだけの実行力も無いという現状であった。それまでの天皇では考えられなかった事態である。とは言え、一つを除いて社会体制は変わっていないのである。天皇がいて、天皇の周囲に関白藤原忠実をはじめとする貴族たちがいる。貴族たちの審議の結果を堀河天皇が認めることで法となる。構成する人員は違うが構成そのものは変わっていない。一つを除いては。
 そう、そのたった一つの違いが堀河天皇にとって大問題だったのだ。
 実父である白河法皇の存在が。

 上皇、そして法皇という、皇室の持つ伝統的支配とカリスマ的支配の双方を有し、その上で法を超越した存在が君臨しているのだ。しかも、白河法皇自身が荘園所有者となることで資産を獲得し、伊勢平氏を招き入れることで武力も掴んでいる。こうなると、朝廷に由来しながら朝廷を超える権力組織だ。
 しかも、この権力組織は強大というわけではない。朝廷を超える権力組織ではあるが、統治能力そのものだけをみれば、時代のトップではあっても相対評価であって絶対評価ではない。統治者としての能力だけで見れば、朝廷と離れた権力組織を作り上げた白河法皇より、既存の仕組みに完全に由来した藤原道長のほうがはるかに上である。政治家としての評価は庶民生活の目に見えた向上だけで決まると従来から主張しているが、その観点から見ても白河法皇より藤原道長のほうが政治家としてはるかに上である。
 ただ、藤原道長だから上なのである。
 藤原摂関政治という仕組みが優れているから政治家としての結果を残したのではなく、藤原道長という政治家が藤原摂関政治を最大限利用することができたから政治の結果を残すことができたのだ。何しろ藤原摂関政治というシステムは残っているのである。そして、藤氏長者である藤原忠実が関白を務めているのである。しかしながら、藤原忠実はそれを活かしきれていない。命令を出すわけでもなければ命令を実行するわけでもない。それ以前に、藤原忠実に従う者が少ない。かつての藤原摂関家ならば清和源氏の武力を自由に操ることができたが、今や清和源氏に命令するどころか清和源氏の武力構造そのものが崩壊しているという有様だ。
 白河法皇の抱えている伊勢平氏はどうかと言えば、この時点で清和源氏と全面対決すれば伊勢平氏のほうが勝ったであろう。ただし、これもまた清和源氏の武力構造が崩壊しているからであって、伊勢平氏そのものの持つ武力は相対的にはトップでも絶対的には劣るのだ。少し前の清和源氏であれば武力でねじ伏せることができたであろう相手、たとえば比叡山延暦寺のデモ集団に対し、伊勢平氏は挑んでいない。護衛に留まり、こちらから打って出るなどしていないのである。打って出ないのは当然で、全面対決となったら、負ける。相対的にはトップでも絶対的には劣っていることの宿命である。


 嘉承二(一一〇七)年になると、堀河天皇の心身の調子が目に見えて悪化した。
 堀河天皇のことをこの時代の人は「末代の賢王」と評した。後世の人が評したのではなく同時代人がそのように評したのである。堀河天皇が真面目に政務に取り組んでいることは誰もが知っていたのだ。ただ、真面目であることと結果とが繋がらなかった。
 現在でも真面目な人ほど思い苦しみ、眠れぬ夜を過ごす。夜も眠らずに働くというのもあるが、より大きな問題として、本当に眠れないのだ。夜になっても目が冴えてしまい全く眠れなくなってしまう。その一方で、昼間は眠くて仕方なくなる。疲労から来るストレスだ。疲労に悩まされるのはパニックにまで追い詰められていた庶民だけではなかった。
 疲れている人にさせなければならないのは、休むこと。現在の職務を離れて休息することが何よりも必要である。次に、仕事量を減らすこと。いくら休んでも休み明けでまた疲れる日々が続くとあれば、休みが終わることが苦しくなる。そして三つ目が、疲れているのだということを周囲が認識することである。本人が疲労困憊なのに第三者がそのようなことを全く考えずにまだまだできると言い出すことがあるが、これは最低最悪の対応である。
 堀河天皇の場合、三番目は問題なかった。誰もが堀河天皇の疲労困憊を知っていた。だからこそ、「末代の賢王」と呼ばれるようになったのだ。しかし、残る二つは堀河天皇に与えられなかった。休みがなかったし、仕事が減ることもなかった。堀河天皇の職務を多少なりとも代行できるとすればそれは関白藤原忠実しかいなかったが、藤原忠実には天皇の職務の一部を代行する能力など無かった。仕事が溜まりに溜まっているがために休みも無くなり、堀河天皇は日々を過ごすだけで限界を突破するようになってしまったのだ。
 真面目な人は、仕事に手を抜くなどしないし、遅れるなんてこともしない。しかし、遅れないで万全な結果を出すというわけではない。万全な結果を出すには時間が必要であるし、時間が限られているなら結果のほうを妥協するしかないのであるが、真面目な人はそれができない。限られた時間内で妥協しない結果を求めようとしてしまう。このときの堀河天皇はまさにその状態だった。もっと正確に言えば、藤原師通が亡くなってからずっとそうだった。不真面目な人であったら選ばないであろう選択を、堀河天皇は選び続けるようになったのだ。

 嘉承二(一一〇七)年六月二一日、京都内外に落雷が多発し火災が各地で発生した。その中には京極殿も含まれていた。
 それでも受け入れられるレベルの災害だと誰もが考えた。火災は悲劇であるし落雷も恐怖であるが、耐えられる災害であるとは考えたのだ。
 ただし、その直後に駆け巡った知らせは誰もが驚愕するものであった。
 堀河天皇倒れる。
 堀河天皇はまだ二九歳の若さである。疲労感を隠せずにはいたが、何かあるような年齢と考える者はいない。
 そう甘く考えていた者に冷や水を浴びせたのは、堀河天皇の容態の悪さである。堀河天皇自身も当初は単なる風邪と考えていたのだが、次第に自分の容態が冗談では済まない段階になっていることを実感せざるを得なくなってきた。
 堀河天皇は最後の抵抗を見せることとした。僧侶を集め、病床に伏せる自分の周囲に配置して祈祷をさせたのである。現代医学からすると不可解極まりないように見えるが、この時代の医療システムとしてはごく普通のことである。ただし、効き目があるかどうかは別の話であり、僧侶に合わせて念仏を唱える堀河天皇の声は次第に小さくなってきた。
 堀河天皇の周囲に呼び寄せられ、念仏を唱えていた僧侶たちは、詠唱をやめて堀河天皇を北枕に寝かせた。ここに、堀河天皇の死が宣告された。
 堀河天皇に仕える讃岐内侍こと藤原長子は日記にこのときの様子を記している。北枕で寝かせられた堀河天皇は目覚めるのではないかと期待して枕元に駆け寄るが、彼女が目にしたのは、身体が硬くなり、冷たくなった遺体であった。
 堀河天皇逝去。享年二九。
 同時に宗仁親王が践祚した。鳥羽天皇の治世の開始である。鳥羽天皇はこのときわずかに五歳。さすがに幼児とあっては摂政を置かざるを得ない。
 これまでの藤原摂関家であれば、このようなときに惑いを見せることなどなく政権の維持を図ったであろう。しかし、藤原摂関家には間違いなく衰えが見えてきていた。


 鳥羽天皇は五歳である。ゆえに、誰かが摂政にならざるをえない。
 問題は、摂政という役職の意味である。
 摂政とは、病気やケガなどで天皇が執務をとれない、あるいは天皇がまだ幼いために天皇としての政務をとれないときに、天皇の近親者が天皇の代理を務める職務である。本来は。
 この、摂政という職務の本来の意味が問題となった。
 天皇の近親者として摂政を務めるとき、筆頭となるのは天皇の母の父、つまり外祖父であり、次いで母の兄弟、つまり伯父や叔父となる。そして、鳥羽天皇の外祖父はいない。こうなると、鳥羽天皇の母の兄、つまり伯父である正二位大納言の藤原公実が血縁における最優先者となる。
 一方、それまで堀河天皇の関白であった右大臣藤原忠実はどうか?
 本人の資質はともかく、政権の連続性を考えれば右大臣藤原忠実がそのまま鳥羽天皇の摂政となるのがもっともスムーズな方法である。実際、藤原忠実自身も自分が摂政になるつもりであったし、周囲の人もそう思っていた。ただし、血縁関係だけを考えれば藤原公実よりも劣る。
 本来の意味での摂政の職務を優先するか、政権の連続性を考えるかは議論のあるところではあったが、誰もが政権の連続性を選ぶと思われていたのである。冷静に考えればそれがもっともスムーズな政権移行であったろう。だが、当の大納言藤原公実が猛反発を示したのだ。自分が摂政になるべきだと主張したのである。表向きの理由は自分が伯父であるということがあるが、もっと重要な理由は藤原忠実の資質である。関白たるに相応しいとはお世辞にも言えないが、それでも関白であればただの相談役であるから摂政と比べれば与えられている権力はまだ小さい。しかし、摂政はそうはいかない。端的に言えば、サインしようが印鑑を押そうが、事実上はともかく理論上は何の効果も無い関白と違い、摂政のサインと印鑑は御名御璽の効果を持つのだ。
 また、政治家としてのキャリアだけを考えると、右大臣藤原忠実より大納言藤原公実のほうが上だとも言える。後冷泉天皇の元に仕え、後三条天皇の即位から三カ月後の治暦四(一〇六八)年七月に貴族としてデビューし、白河天皇、堀河天皇と代々の天皇の元で働くと同時に、白河法皇の側近の一人としてこれまで政務にあたってきたという実績もある。それに、比べる相手が藤原忠実だからということもあるが、政治家としての資質、決断力にしろ、説得力にしろ、法令に対する認識にしろ、政治家として求められるこうした資質の全てにおいて藤原忠実よりは優れていると自負していたのだ。

 大納言藤原公実は、自分の政治家としての能力が藤原忠実よりは上だと考えていた。それはその通りであろう。そして、藤原忠実が堀河天皇の関白になれたのは父が藤原師通で祖父が藤原師実であるという血筋のおかげであり、それがなければ関白になるどころか議政官の一人としてカウントされることも無かったであろう人物であるとも考えていた。その思いを抱いていても今まで表面化させてこなかったのは、藤原師通が堀河天皇の関白であり、藤原師通の死によって空席となっていた関白の地位を息子が受け継いだと考えるところまでは納得できることでもあったからである。
 しかし、大納言藤原公実は、鳥羽天皇の時代になって全てがリセットされたと考えたのだ。そして、摂政は鳥羽天皇の伯父である自分こそが相応しいと考えるようになったのだ。しかも、藤原公実はその思いを抱くだけでなく公表した上で、白河法皇への陳情に出向いたのである。この瞬間、藤原公実の行動は平安京内外に人に広く知れ渡ることとなった。
 これに困ったのは白河法皇である。実の祖父である自分の“強い要望”があれば鳥羽天皇の伯父である藤原公実を摂政とさせることも可能であろう。大納言という職務であることは引っかかるが、それなら左大臣源俊房、右大臣藤原忠実、内大臣源雅実の誰か一人を太政大臣に祭り上げてしまえばいい、あるいは、藤原公実を太政大臣に昇格させればいい。嘉承二(一一〇七)年時点で太政大臣の職務は空席である。大臣の誰か一人を太政大臣に祭り上げて藤原公実を左大臣、右大臣、内大臣のどれかに就任させれば摂政との兼職に相応しい職務となる。
 白河法皇の立場に立つと、新しい摂政を藤原公実とさせるのが不可能というわけではないだけでなく、藤原忠実と比べれば政治家としての質も高いし、キャリアについても申し分ないという点が厄介だったのだ。ただ、白河法皇は藤原公実に対してこのように厳しい評価も残していた。「鳥羽天皇の伯父であることは事実だが、それ意外な何ら特筆すべき事の無い凡人」と。公的に記せるのはここまでであるが、白河法皇の寵愛する祇園女御の養女は藤原公実の実娘であるという点を合わせて踏まえると、情実人事で摂政を決めたとなってしまう。
 とは言え、迷ってもいた。凡人と評そうと、情実人事と記そうと、右大臣藤原忠実よりはマシなのだ。仮に堀河天皇の関白であった藤原忠実をそのまま鳥羽天皇の摂政にシフトした場合、最低でも五歳の鳥羽天皇が成人するまでの一〇年は藤原忠実が政務を担わなければならなくなる。これが不安だったのだ。一〇年耐えることを考えるなら藤原公実のほうがマシと言えばその通りなのである。ただし、世間に与えるインパクトがあまりにも大きすぎる。
 白河法皇は自室へ向かう通路を三重の警備で封鎖した。迷っているという意思表示であると同時に、自分の近臣でもある藤原公実が近づかないようにさせたのだ。

 これに驚愕したのが大納言源俊明である。白河法皇が凡人と評した藤原公実と違い、源俊明は白河法皇の有能な側近として名を馳せていた。有能な側近というのは、トップの命令をそのまま遂行する者のことでも、トップが何かを述べる前に物事をスタートさせておく者のことでもない。トップがしようとすることにブレーキをかけ、トップを叱りつけてでもトップに失敗させない者のことである。源俊明はこの意味でも有能な側近であった。
 源俊明が驚愕したのは、鳥羽天皇の政務開始に伴う摂政の任命が必要なのに白河法皇が扉を閉ざしていることであった。悩むのは仕方ない。藤原忠実ではない誰かを摂政とするとなると国家の一大事だ。そして、鳥羽天皇の祖父という、事実上、このタイミングで摂政を任命できる資格のある人物の一人である白河法皇の悩みなのだから、そこまでは理解できる話であった。しかし、有能な人材とするかこれまでの関白を摂政とするかどうかで悩んでいるならともかく、凡人としか評しようのない藤原公実にするかどうかなど悩むに値することではないと考えたのだ。
 源俊明は礼装である衣冠束帯を身にまとい、封鎖された通路を強引にこじ開け、院別当として藤原公実の訴えを却下するよう迫った。藤原公実は藤原道長政権において内大臣として藤原道長を支えた藤原公季の子孫であり、藤原公季、藤原実成、藤原公成、藤原実季、そして藤原公実と五代に渡って一般の貴族として朝廷に勤めてきた家系である。一人一人の貴族はそれなりの実績を残してきたし、無能か有能かで区分するなら有能に区分できる人でもあったが、その中の誰一人として摂政も関白も務めていないし、努めようとした者もいない。つまり、摂政や関白としての家庭教育を受けているわけではない。それでも飛び抜けて優秀であるなら摂政たるに相応しいであろうが藤原公実はそこまで優秀な人物ではない。特筆すべきは鳥羽天皇との血縁関係の近さだけであり、それだけで摂政の地位を要求するなど許されないというのが源俊明の主張であった。藤原忠実はお世辞にも優秀とは言えなかったが、それでも内覧になり、関白になり、いちおうの結果を残してはいた。この時点での摂政となると藤原忠実を越える人材はいなかったのである。
 警備に守られているはずなのに扉の外までやってきた源俊明に驚いた白河法皇は、率直に、扉越しに摂政を誰にすべきかと源俊明に相談した。
 源俊明の回答は単純明快で、藤原忠実をそのまま摂政とすべきというものである。即答であった。
 源俊明の回答を白河法皇が認めたことで、正式に藤原忠実が摂政に決まった。


 さて、白河法皇の逡巡の一因となった祇園女御であるが、この女性の素性はよくわかっていない。村上源氏の一員であろうという想像はなされているのだが、確たる証拠がないのである。ただし、嘉承二(一一〇七)年時点において白河法皇ともっとも親しい女性の一人であったことは間違いない。また、子のいなかった祇園女御が養女を受け入れたという一点だけを見ても、それはごく普通のことである。ただ、そうして迎え入れた養女が藤原公実の娘である藤原璋子となると話は変わる。
 話は変わるとはどういうことか?
 白河法皇が愛した女性は生涯にただ一人、皇位にあった頃に死別してしまった中宮藤原賢子のみであったという。藤原賢子の生んだ子であるという理由で後三条天皇の定めた皇位継承順を無視して堀河天皇を即位させたほどであるから、その思いのほどは知れよう。その一方で、白河天皇の艶聞については後世の史料だけでなく当時の史料にも残されている。そのどれもが本当であるとは言えないにせよ、全てがウソだと断言できるほどでもない。そして、このような結論が出てくる。白河法皇は亡き中宮藤原賢子を追い求め続けていたのではないか、そして、その答えが祇園女御であり、その養女である藤原璋子だったのではないかと想像されるのだ。
 古今東西、女性が権力者になったという例は数多く存在するし、女性に権力者になる資格など無いなどと言ったら発言者の知性が疑われるレベルである。しかし、自らの政治家としての資質ではなく、有力者との恋愛関係を利用して権力を握った者となると、執政者としての能力はかなりの可能性で劣っていると言うしかない。絶無と言いたくなる者も珍しくない。恋愛感情を用いて権力者に近づく能力と執政者として求められる能力とは全く違うというだけでなく、他に能力が無いから恋愛感情を利用して、本人に言わせれば相応の、第三者が言うには分不相応な社会的地位を獲得しようとするのだ。しかも、その者は自分の取り入る能力の高さを自覚することはあっても執政者としての能力の低さを自覚することは断じて無い。江青しかり、エレナ・チャウシェスクしかり、虐殺を繰り返しても顔色一つ変えることなく平然としている。要は、自分がバカだという自覚がない。
 祇園女御はそこまで愚かではないにしても、白河法皇に取り入ることを最終目的として自分に擦り寄る者を厚遇するよう促すことはした。その一例が伊勢平氏である。白河法皇にしてみれば、伊勢平氏の武人としての有能さは理解できるものであったので、かつての清和源氏に匹敵するだけの権勢を与えはした。ただし、そこまでである。白河法皇は毛沢東やニコライ・チャウシェスクのような愚人ではない。祇園女御や幼い藤原璋子に亡き中宮賢子の面影を見つめ、また、若くして亡くなった実娘の面影を見つめていたが、その思いを利用して、能力が無いのに自分に擦り寄る者にはついては納得できなかったのだ。伊勢平氏のように能力がある個人や集団が白河法皇にアピールするための手段として祇園女御や藤原璋子に擦り寄るのは構わない。しかし、無能な者が、いや、無能だからこそ、無能さのカバーのための擦り寄りを受け入れることができなかったのだ。
 藤原公実は藤原璋子の実の父である。それを理由に藤原公実を摂政とするのは逡巡することであったのだ。

 嘉承二(一一〇七)年七月二四日、堀河天皇の葬儀が高隆寺西南の野で執り行なわれた。荼毘に付されたのち、一夜明けて拾骨が行なわれたのである。
 式次第はこの時代の天皇の葬儀に則ったものであったが、ここでも藤原摂関家の衰退は表面化していた。天皇の葬儀は国家的行事であるが、近親者であればあるほど葬儀において中心を担うというのは変わらない。そして、これまでの天皇の葬儀は藤原摂関家が葬儀の中心を担ってきた。ところが、堀河天皇の葬儀で中心を担ったのは藤原摂関家ではなかった。事情は単純で、皇室との血縁関係が薄くなってきていたのである。
 現在、火葬後の遺骨は火葬当日に遺族の手で拾い上げられるが、この時代は火葬から一夜を経た朝に拾い上げられていた。そして、この拾骨を独占してきたのは藤原摂関家であったのが、堀河天皇の時代になると藤原摂関家の独占ではなくなっていたのだ。繰り返すが、葬儀の制度そのものは変わっていない。変わったのは皇室と藤原摂関家のつながりの方である。
 藤原摂関家に衰えが見られたが、藤原氏に次ぐ第二勢力となっていた村上源氏の勢力が藤原摂関家を凌駕することはなかった。左大臣と内大臣を輩出し、議政官の過半数を占めるまでになっていたが、この一族が藤原摂関家に取って代わることはなかったのである。個々人ならば村上源氏の貴族と藤原摂関家の貴族とで能力的に大きな差はない。ときに藤原摂関家の貴族以上に頼れる存在を輩出することもある。しかし、藤原氏には村上源氏にはない大きなメリットを二つ持っていた。それは、藤原摂関家に衰えが見られるようになった時代においても、いや、そうした時代だからこそ、より高い価値を持ったのである。
 一つは帝王学。
 摂政として、関白として、どのように政務をこなせば良いかがマニュアル化されていたのである。御堂関白記といえば藤原道長の直筆が今でも残っている日記であるが、当時の人が日記を残したのは日々の記録を残したからではなく、後世のマニュアルとなるように残したのである。そのマニュアルを藤原忠実は目にすることができた。実践できていなかったではないかと言ってしまえばそれまでであるが、それでも関白としてのそれなりの政務はこなせていたのである。
 もう一つは藤原氏限定の教育機関である勧学院。勧学院での教育と帝王学と何が違うのかであるが、帝王学は摂政や関白に就くことを前提としているのに対し、勧学院は、大臣とまではいかなくとも、貴族として、さらには議政官の一人として国政に携わるのに必要な素養を身につけさせることを目的としている。
 この二種類の教育の結果、藤原氏は平均的な人材を定期的に輩出することには成功していたのである。つまり、現時点では衰えを隠せなくとも、そう遠くない未来、藤原氏は再び勢力を築き上げると多くの人が考えていたのである。


 亡き源義家の子の源義親が出雲国で暴れている。
 この情報は届いていたが、詳細は掴めないままでいた。
 もともとからして、源義親は九州で暴れているとされ隠岐に追放された、ということになっている人物である。九州にいた頃に本当に暴れているのかどうかわからないからと調査員を派遣された前歴があり、隠岐に追放になったという記録は残っていても本当に隠岐に渡ったかどうかわからないのが実情である。
 確実に言えるのは、嘉承二(一一〇七)年六月時点で出雲にいたことである。出雲にいて暴れ回り、「蜘戸の岩屋」と称される場所に城を築いたことが記録に残っているのだ。現在、本州から隠岐まで船で行く方法は二種類あり、一つは鳥取県境港市のフェリーターミナルから隠岐へ行く方法、もう一つは島根県松江市の美保関にある七類港フェリーターミナルから隠岐へ行く方法である。県が違うので大きくかけ離れた場所にあるように感じるかもしれないが、この二つのフェリーターミナルの間の距離は直線距離で二キロも離れておらず、バスに乗って一五分で移動できる距離である。この二ヶ所は古代から本州と隠岐とを結ぶ航路として指定されていた。
 ところが、非公式の航路も存在したのだ。七類港は島根半島の東端なわけではなく、さらに東へと半島が突き出ている。その途中に雲津浦という港があり、その港を押さえるように源義親は城を築いたのである。雲津浦は七類と比べて小規模ではあるが隠岐と本州とを結ぶ通商には便利であり、また、船の安全という点でも充分な港である。狭いために多くの船を抱えておくことはできないが、狭いために籠もって堅牢な陣地を築くにはもってこいの場所である。


 その上、この時代の日本海沿岸航路は瀬戸内海航路と並ぶ物流の大動脈である。九州から京都に向かうときも、瀬戸内海を通って難波津から東に進むのと、山陰の海沿いを通って敦賀まで行って琵琶湖を縦断して京都に行くというルートが併存していた。この、併存しているルートの途中に反乱を起こしている者が構えている城があり、城は港を所有しているとなると、何が起こるか?
 海賊だ。源義親は出雲国の海賊となったのだ。
 朝廷と九州とを結ぶ航路を走る船は、納税であったり、あるいは通商であったりと、様々な理由で荷物を積み込んでいる船と相場が決まっている。その上、航路の途中である山陰各国の物資を船に積んだり、船から物資を降ろして売ったりするのも日常の光景だ。海賊からすれば絶好の獲物である。

 さらに言えば、源義親のもとに集った者がどこまで自分のことを海賊と認識していたかどうか怪しい。このように想像するとどうであろうか? 「税を集め、税を京都まで運んでいるときに海賊に遭遇し、税を奪われてしまいました」と証言したらどうなるか、と。納税者に対してもう一度税を聴取しろと命じるとは考えづらい。納税者は真面目に税を納めたのであり、納めた税を京都まで運べなかったとしても、それは納税者の責任ではない。無論これは憶測の域を出ない。しかし、荘園の激増により荘園ではなくなった地域に課せられる税負担はますます増えていた。その負担を軽減させる方法として、海賊ということにして税を集めて運ぶ船を襲ったら堂々と納税をごまかせるのである。
 どうしてそのような憶測をするかというと、嘉承二(一一〇七)年の源義親の軍勢があまりにも多くの地域から集っていたからである。出雲国の納税だけをターゲットとするなら出雲国の住人だけ、広く見ても、隠岐国や伯耆国までだろう。ところが、源義親とともに暴れ回っている面々の出身地がバラバラなのだ。
 海賊が暴れ回っているが、取り締まることができないでいる。何しろ、その地に住む者の支持を受けているのは統治者側ではなく海賊のほう。源義親は暴れ回る海賊の頭領と言うより、庶民の怒りの代弁者という立ち位置を得るようになった。その結果、朝廷に届くのは海賊に襲われたために税を納められないという情報だけで、海賊の暴れ回る土地であれば例外なく届くはずの、海賊の被害に遭っている地域の庶民からの悲痛な叫びが全く京都まで届いてこないのだ。


 嘉承二(一一〇七)年一〇月一四日、京都を火災が襲う。
 火災そのものは悲劇ではあるが、何度となく繰り返されてきたことである。火災の被害を以下に抑えるか、起きてしまった火災からどのように復興するかというのは、時代の執政者を推し量る指標の一つとしてもよい。
 その意味で、このときの執政者になっているはずの摂政藤原忠実は庶民の期待に全く応えられなかった。何もしなかったのだ。藤原道長のように全財産はたいて被災者を一人残らず助け出せと言っているのではない。そこまで言わなくとも、朝廷として災害からの復興支援に当たって欲しかったのに、摂政藤原忠実は何もしなかった。
 いや、藤原忠実は何かをしようとする気が起きなかったのではなく、何もできなかったのだ。何かをするには予算がいる。そして、この時点の朝廷に予算はない。納税を拒否できる荘園があまりにも増えすぎてしまい、朝廷に税を納める土地が激減してしまっていたのに加え、荘園ではない土地からの納税も、合法にしろ、非合法にしろ、滞るようになっていたのである。
 ならば、この時代から百年ほど前に藤原道長がしたように藤原氏の私的な資産を切り崩して被災者の支援に当たればいいではないかとなるが、藤原忠実にはそれもできなかった。より正確にいえば、そのような資産などなかった。いかに藤原忠実が藤氏長者であると言っても、藤原道長の頃のような圧倒的権威を持った藤氏長者なわけではない。それは藤原道長と藤原忠実の個人的な資質の違いよりもむしろ、この百年間での藤原氏の拡大に原因がある。藤原氏の中でも藤原北家が特別、藤原北家の中でも藤原忠平の子孫が特別、藤原忠平の子孫の中でも藤原道長の子孫が特別、というように藤原氏の主流をなす条件が狭められるのと反比例するように藤原氏の絶対数は増えてきていた。それでいて、藤原氏の持つ荘園の規模そのものは、増えていないとはいえないにせよ微増というレベルなのである。つまり、藤原忠実個人がどうこうできる資産が減ってきているだけでなく、藤原氏の主流を成す条件が狭まった結果、主流以外の藤原氏に対して私的に行使できる藤氏長者の権力が減り、藤氏長者がどうこうできる資産も減ってきていたのだ。
 藤氏長者になれない家系に生まれた藤原氏は、自身が摂政や関白に就くことを断念した代わりに、藤氏長者からの私的な指揮命令を拒否するようになった。それは被災者支援のための寄付の要請も含まれる。もっとも、被災者支援のための寄付そのものを拒否したわけではない。彼らは彼らで支援の寄付をしてはいた。してはいたが、藤原氏の拡大に伴う藤原氏一人当たりの資産の縮小で、支援に回せる額が減っていたのだ。
 藤原氏が小粒になり、藤氏長者ですら絶対的な権勢を示すことができないというのを目の当たりにして、改めて思い出させられることとなった。藤原摂関家の衰退を。しかも、新天皇はわずか五歳。摂政は藤原摂関家の藤氏長者がつとめるが、その藤氏長者である藤原忠実が個人的に頼りない資質である上に、藤原忠実が有能であったとしても藤原氏はかつての権勢を持っていないのが現実なのだ。

 嘉承二(一一〇七)年一二月一日、鳥羽天皇が正式に即位すると同時に、令子内親王が母儀に準じて皇后となると発表になった。ここまでは新天皇の即位を吉日に合わせるというこの時代の当然の風習である。問題は一二月九日に起こった。
 白河法皇の強い要請により、鳥羽天皇が新造六条内裏に遷ることとなったのだ。かつて白河天皇が内裏とした六条内裏に鳥羽天皇を遷したことで、鳥羽天皇は平安京の中の庶民街の一角にできた内裏で日々を過ごすようになっただけでなく、白河法皇の影響下に置かれることとなったのだ。平安京内の「条」は北から南へと数字が増えて行き、住まいの住所を示す数字が小さければ、つまり、北に住んでいるなら、そこは貴族の邸宅街であり、数字が大きければ、すなわち、南に住んでいるなら庶民街に住んでいることとなる。六条ともなればそれは庶民街だ。


 摂政もいる。議政官も存在する。しかし、鳥羽天皇の住まいとなった六条内裏は摂政や議政官たちの住まいとは離れた庶民街にあり、彼らは自宅から南へと出勤することを求められる。出勤と言っても現代日本のサラリーマンのように乗用車や電車に乗って通勤するわけではなく、歩くスピードと大して変わらない牛車に乗っての通勤だ。牛車の戸を締め切ったとしても、庶民街から聞こえてくる庶民の声は牛車の中まで届いてくる。
 平安時代の貴族は、現代人が思っているよりも庶民と多く接している。貴族の邸宅を公園として利用する庶民も珍しくなかったし、庶民が詰めかける祭りに貴族も詰めかけることはよくあった。ただ、接していると言っても、貴族と庶民との間には見えない壁があった。邸宅において貴族は周囲をボディーガードである武士たちに武装させて立たせていたし、出かけるにしても貴族は牛車から降りたりはしなかった。貴族が庶民との接点を持っていると言っても、貴族が庶民のことを脅威に感じることはなかったのである。
 ところが、これからは庶民の声が脅威になる。何しろ毎日庶民街を通って通勤しなければならないのだ。庶民の声の中には貴族に対する容赦ない罵詈雑言も含まれるし、そこまでいかなくとも不平不満の声は当たり前のように存在する。この時代の法を厳密に適用すれば庶民から貴族に向けてのそうした言葉は全て有罪なのであるが、声をぶつける庶民の数が多すぎるとそれらの言葉の主の全員を逮捕するなどできなくなる。貴族のボディーガードたる武士たちや、取り締まりに当たるはずの検非違使たちにできたのは、貴族の身の安全を守ることだけであった。

 摂政藤原忠実は摂政としての政務を一応はこなせていたが、最低限のノルマをこなすのに手いっぱいで、現状の問題を解決するなど夢のまた夢という状況であった。これは他の貴族たちも例外ではなく、日々の政務をこなすのに汲々とし、現状の改善まではとてもではないが手が回らなかった。問題が山積しているというのは理解していたのだが、問題を解決するの必要な決断力もなければ、命令一つで動く人員もおらず、そして何より、予算が無かった。どうにかしなければならないのではないかという使命感に訴えて行動させるように促しても無駄であった。役人がいなくなったわけではないが、この時点の朝廷が動かすことのできた役人たちにできるのは現状の任務を続けることだけで、新しい職務を命令してもそれは無理であった。寺社からやってくるデモ集団は相変わらず健在であるし、朝廷の税収は落ち込んでいるし、それまでは庶民の生活を向上させていた荘園が、荘園そのものの絶対数が増えたことで庶民生活をかえって苦しくさせるようになっていた。出雲国では源義親が海賊となって暴れまわっているし、平安京内外の治安も目に見えて悪化していた。こうした問題を貴族も把握していたし、役人も把握していた。ただ、その問題に直面できるだけの余裕はどこにもなかった。
 怠慢ではないかと考える人もいるであろうが、断じて怠慢ではない。過労死寸前まで追い詰められている人に働きが足りないと文句を言っているのと同じである。仕事が増えているのに人が増えていないのだ。人を増やそうにも給与の支払いに充てられるだけの予算がない。だから現状の人手でどうにかするしかない。しかも、予算がないということは、働きに応じた評価を下せないことを意味してもいる。平安時代の役人や貴族の給与体系は位階と役職に基づいて綿密に定められており、成果に基づいて出世させることで役人や貴族のモチベーションとさせていたのであるが、出世させたら払わねばならない給与が増えてしまうために、成果を出しても評価されずに現状維持という状態に陥ってしまったのである。
 生活が苦しくなっているという不満を毎日容赦なくぶつけられ続けていた貴族たちを尻目に、庶民の声をぶつけられる心配をすることなく泰然自若としていられたのが白河法皇である。庶民が仮に白河法皇に怒りの声をぶつけたとしても、待っているのは北面の武士たちからの無言、あるいは有言の圧力。貴族を個人的に守る武士たちと、北面の武士と、私的な関係のボディーガードであるという点で違いはないが、規模が違う。何しろ北面の武士は平安京内外も守れるだけの規模がある。それだけの規模の人たちに守られている人に面を向かって怒りをぶつける命知らずはそうはいない。
 しかも、白河法皇自身はかなり豊かである。それこそ、白河法皇の命令一つで、朝廷ではできないことを実現させることが可能なほど豊かである。白河法皇個人の持つ資産、そして、法皇にして天皇の実の祖父であるという権威、この二つが重なれば権勢を生むに充分である。

 白河法皇の権勢を示す出来事となったのが、嘉承二(一一〇七)年一二月一九日に公表された一つのニュースである。平正盛が源義親追討のため出雲に向かったのだ。白河法皇に近寄って権勢を掴み出してきており、北面の武士の中心を担ってきっある伊勢平氏、その中心人物である平正盛が海賊追討のために出雲国に派遣されることとなったのであるが、実は、朝廷が命令を下したのではない。あったのは白河法皇の“熱心な推薦”である。
 源義親が出雲で暴れまわっているというのはニュースとして京都にも届いていたがその実態は不明瞭なものがあった。そもそも出雲国やその隣の伯耆国、また、海を渡った隠岐国からの海賊被害に対する報告が全く届いていないのである。税を運ぶ船を襲撃しているのは事実なので、朝廷としては海賊追討の命令を出さねばならない。命令を出さねばならないのであるが、命令を受け入れることのできる武力を持った者がいないのだ。
 自らを関白に比肩する存在とすべく院政を企画した白河法皇であるが、この時点ではまだ上皇や法皇に対する公的権力は与えられていない。重要人物ゆえに無視することは許されないが、白河法皇の命令を天皇や貴族たちが無視したり、白河法皇の命令を覆す決定を議政官で議決して天皇の名で公布したりしても、法の上では何の問題もないのである。それは白河法皇も承知のことであり、平正盛を出雲に派遣するのに法的にギリギリのところを綱渡りしている。
 白河法皇はまず、平正盛を因幡国司に推薦した。因幡国司である藤原長実の任期が間も無く終わる頃でもあったので、タイミング的には早いが新しい因幡国司を推薦すること自体はおかしなことではない。国司の空席ができた、あるいはできそうであるという情報が来たら、自己推薦をはじめとする数多くの推薦状が殺到するのが通例であり、白河法皇直筆であるという一点を除けば通常通りの推薦文である。
 この推薦文が功を奏した、ということになって、平正盛は因幡国司となった。因幡国は、現在では伯耆国と一つになって鳥取県という一つの県を構成しているが、現在の鳥取県西部にあたる伯耆国は、現在の鳥取県東部にあたる因幡国よりも、現在の島根県東部にあたる出雲国との結びつきの方が強い。つまり、出雲国で海賊となって税を運ぶ船を襲撃したとしても伯耆国の庶民が声援を送るのは海賊側の方で、税を搾り取って運ぶ側の方が憎むべき悪だったのだ。ちなみに、現在でも米子市を中心とする鳥取県西部は、同じ県内である鳥取市よりも、西隣である島根県松江市を中心とする島根県東部との結びつきの方が強く、東は米子市から西は出雲市までの雲伯と総称される人口六八万人の一つの経済圏を構成している。

 話を平安時代に戻すと、因幡国の国司が隣国で暴れている海賊を取り締まるために軍勢を率いて出撃することはおかしなことではない。本来であれば国司が任国の国境を超えて軍勢を派遣するのは国司としての権限を超えることであるが、九州から山陰を経て京都に向かう日本海沿岸航路が脅かされている上に、税を運ぶ船が襲撃されたとなると、任国防衛という名目で国司の独断で軍勢を派遣することは可能である。
 さて、平正盛を派遣して源義親追討をさせるという経緯において白河法皇が行なったのは、空席になる因幡国の国司に平正盛を推薦するという書状をしたためたことだけである。国司任官の推薦状が法皇を書くというのは珍しいことではあるが前例は存在する。ここまでは法に規定されている許容範囲であり何の問題も無い。とは言え、相対的に圧倒的存在となった法皇の推薦文である。無視されるなどあり得ない。
 平正盛の源義親追討に関し、白河法皇は要望を述べたに過ぎず何ら法に反することをしてはいないのである。ただ、その要望は事実上の命令であり、摂政藤原忠実も、議政官たちも、事実上の命令を受け入れるしかなかったのだ。間もなく空席になる因幡国の国司に白河法皇の意に反する人物を据えることも理論上は可能であったが、すぐ近くで海賊となった源義親が暴れているために有能な武人を派遣するのだという、明言してはいないが誰にでもわかることを白河法皇は訴えている以上、白河法皇の推薦文を握りつぶすには平正盛以上の武人の派遣としなければならない。そして、朝廷から送り出せるそのような人材などいない。


 嘉承三(一一〇八)年一月中旬、京都にあまりにも早すぎるニュースが届いた。
 一月六日、因幡国司平正盛、源義親を討つ。
 その知らせを耳にした白河法皇は、平正盛をただちに但馬国司に推薦した。現在の兵庫県北部に位置する但馬国は因幡国の隣国であると同時に、こちらも但馬国と同様に国司交替の時期を迎えていた国でもある。一つの国の国司に任命されたばかりの人物を、たとえそれがすぐ隣の国であるからと言って別の国の国司に任命しなおすというのは珍しい話とするしかない。とは言え、これもまた過去に例が無いというわけではない。
 この時代の人たちは、白河法皇が平正盛を但馬国司へ推薦したことを源義親追討の功績によるものと考えたが、当の白河法皇にとっては、功績の要素はゼロではないものの、より現実的な理由による推薦であった。出雲国を根拠地として源義親率いる海賊が暴れていたということは、源義親追討だけではなく、それまで寸断されていた山陰道全体の安全の立て直しが必要となっていたのだ。因幡国の国司としてまずは源義親を討ち取ったあとで但馬国の国司とさせ、山陰道のうち京都により近い地点の再整備を担当させるというのは統治者として当然の判断だったのである。
 おまけに、比叡山延暦寺をはじめとする各地の寺社が、京都まで来て、あるいは京都の周辺まで出向いてデモを繰り返しているという現実も重なって存在していた。白河法皇は意に沿わぬものの一つとして山法師こと比叡山延暦寺を挙げていたが、全く対策を考えていなかったわけではないのである。
 どういうことか?
 日本海沿岸の山陰道を航行する船が但馬国の海岸を西から東へと航行して敦賀まで行ったのち、琵琶湖を経由して京都に東から入るというルートはこの時代の主要航路であったが、琵琶湖から京都に向かうまさにその中間地点を山門こと比叡山延暦寺と寺門こと園城寺が制圧してしまっているのがこの時代であった。一方、陸路としての山陰道を西から東に進むと、現在の兵庫県北部の但馬国までは日本海沿岸を歩くこととなるが但馬国からは陸路となる。特に、現在でも多くの観光客を集める城崎温泉はこの時代でも多くの人が足を運ぶリゾート地であり、京都から城崎温泉までの山陰道は平安時代にしてはかなり高いレベルの道路が敷かれていたのだ。
 つまり、但馬国の日本海沿岸の諸々の港から城崎温泉までのルートを整備すれば、比叡山延暦寺や園城寺が京都の東からどんなに圧力を掛けたとしても、山陰道を用いた流通が止まらなくて済むのである。無論、海路と陸路とでは運ぶことのできる物資の量が大きく違うし、多くの日数も要する。それに、トラックも鉄道も無い時代の陸路となると人間が運んでこなければならないから人件費も要するし、京都に着いたときにはそれだけ高値になるが、流通が閉鎖されるよりははるかにマシだ。


 源義親追討の功績だけで国司の任国替えを意図したわけではない白河法皇も、平正盛の功績をアピールする場面は用意していた。それが、嘉承三(一一〇八)年一月二九日の平正盛の上洛である。
 平正盛の上洛と言っても、平正盛一人が京都にやってくるのでは無い。平正盛とともに源義親率いる海賊達と争った武士達の凱旋パレードを用意したのだ。平正盛が軍勢を率いてパレードをするというニュースは平安京の庶民達に瞬く間に広まっており、一月二九日のパレードは平安京の内外から多くの庶民が詰めかける騒ぎとなった。
 前日から泊まり込む者まで現れた中で始まった平正盛のパレードは、始まる前こそ楽しみを伴うものであったが、始まった瞬間に詰めかけた群衆の表情を青ざめさせることとなった。
 パレードの最大の見世物が、討ち取られた源義親の首だったのだ。
 戦場において敵の首を切り落とすことは、残酷な光景であるが、歴史上頻繁に見られることである。そして、その首がパレードを飾る見世物とされることも、パレードの見世物とされた後に戦勝を記念する見世物とされることもまた、歴史上頻繁に見られることである。しかし、それを実体験するとなると話は別だ。
 首を切り落として意気揚々と行進する平正盛の軍勢に対して平安京の庶民達が感じたのは、頼もしさではなく恐怖であった。と同時に、平正盛の過小評価にもつながったのだ。こんな残酷な人物を頼もしく思いたくないという感情が、こんな残酷な人物は許されないという感情になり、こんな許されない人物が武士として優れているわけないという感情へとつながっていったのである。
 その結果何が生まれたか?
 源義親生存説である。平正盛は源義親を討ちとってなどおらず、パレードの見世物とされた首は源義親のものではないとする噂話が、あたかも事実であるかのように広まっていったのだ。

 白河法皇としては想定外の反応であったとするしかない。
 白河法皇が想定していたのは、幼い鳥羽天皇を支えるはずの摂政藤原忠実と議政官たちの能力の低さと対比する白河法皇の存在感の向上であり、白河法皇は統治者としてだけでなく軍事の指揮命令責任者としても卓越した才能を見せていると庶民達が考えることであったのだ。さらに、白河法皇の周囲を固める北面の武士は日本国最高の軍勢であり、日本国のどこで何があろうと、北面の武士を派遣すれば短期間で全て解決するという評判を確立することであった。
 それなのに、返ってきた答えは恐怖と過小評価。さらに言えば、白河法皇自身の支持率も上がっているわけではない。現在の感覚でいくと、それまでの政権与党が支持率を落とし、政党別支持率で野党第一党の政党支持率が政権与党の政党支持率を上回ったが、肝心のパーセンテージのほうはいっこうに伸びておらず、代わりに支持政党は無いと答えた割合が激増したというというものであった。
 この支持率低下は白河法皇に一つの決断をさせた。但馬国司平正盛の任国赴任延期である。任国に赴任しない国司は珍しくない。ただし、その場合でも誰かしらを代理として送り込む。ところが、このときは代理を送り込むこともできないでいた。
 藤原摂関家はこの流れを利用しようとした。白河法皇の側近の一人であり、最大のブレインでもある大江匡房を非難するキャンペーンを始めたのである。大江匡房は権中納言として議政官の一員でもあったのだが、長治三(一一〇六)年に大宰権帥に任命されたことで権中納言の職を外れることとなり、自動的に議政官からも外れていた。
 ここまでは、藤原氏も含めた上流貴族におけるこの時代の典型的な出世街道である。
 問題は、大江匡房が九州に渡っていないことであった。
 嘉承三(一一〇八)年三月五日、九州各地で放火や殺人が相次いでいるという太宰府から上申書が届いたことを契機として、大宰権帥に任命されてから三年に渡って赴任しないでいる大江匡房に対する批判を展開したのである。平正盛が任国に赴任しないことに対する批判が思っていたよりも少ないものであったのは、大江匡房の三年というとんでもない長期間があったためである。任国に赴任しないのは問題であるが、大江匡房の三年間という長さに比べればマシという扱いであったのだ。

 大江匡房は過去に一度大宰権帥を経験している。永長二(一〇九七)年に任命され、翌承徳二(一〇九八)年から康和四(一一〇二)年までは実際に太宰府に赴いている。任命されたのが永長二(一〇九七)年三月一一日で、太宰府に実際に向かったのは承徳二(一〇九八)年になってからと言うのだから、任命されてからもしばらく太宰府に向かうことなく京都で日々を過ごすというのは、これはもう大江匡房という人物はそういう人物なのだとするしかない。また、密貿易の取り締まりと高麗からの海賊対策を理由に源義親を連れて行ったら、最前線で実際に戦う源義親と、後方の安全な場所で命令するだけの大江匡房という組み合わせになってしまい、最終的には源義親のほうが海賊になってしまったという一連の流れを生みだした人物でもあるのだから、そもそも大江匡房という人物は大宰権帥にもっとも相応しくない人物なのだとするしかないのだが、それでも内政能力はあったのだ。実際、一度目の大宰権帥就任時に太宰府管内の公教育の立て直しをしており、こちらは効果を残している。
 九州の治安悪化はもっともな理由である。大江正房を非難する理由としても充分である。ただ、それは建前でしかない。本音は白河法皇への牽制である。ただ、支持率一位を失った政党によく見られることであるが、どのようにして支持を取り戻すかという状況に陥ったときに他者への批判で取り戻そうとしたのはまずかった。批判は、批判のターゲットとなった者の支持を下げることもあるが、批判の内容次第では批判のターゲットとされた側の支持はむしろ上がる。そして、批判をしている側となると、批判で得られるのは既に支持をしている人のより強固な、しかし、絶対数は減ってしまっている支持であり、批判で新しい支持を得ることはないだけでなく、これまで支持者であった人は支持しなくなるということも起こるのだ。選挙による民主主義が確立されている時代ではより如実な形で現れるが、民主主義でない時代においても批判を繰り返す人に対する支持がどういう形で現れるかという点では現在と変わらない。大江匡房を前面に出した白河法皇批判は白河法皇への支持率を下げるには多少の効果をもたらしたが、藤原摂関家を中心とする朝廷の支持率も同時に下げてしまったのだ。
 それでも一つだけ思い出させることに成功した。源義親の父親である源義家のことである。前九年の役、後三年の役と戦い抜いた武人の末期がどのようなものであったか、彼の子孫がどのような運命を迎えたのか、そして、彼の子孫が現在進行形でどのように迎えているのかを。

 源義親が隠岐に追放になるまでは、源義家の次の清和源氏のトップは源義親になるはずであった。源義親が反乱を起こし、海賊となり、討ち取られたことで源義親がトップになる可能性はゼロになった。かといって、源義家の後継者として清和源氏のトップになった源義忠には、兄である源義親が持っていたような武人としての資質など無かった。これは自他ともに認めるところであり、源義忠は自分を貴族と考え、日本国の武のトップを伊勢平氏に受け渡すことも厭わなかったのである。
 しかし、それを清和源氏の武士達がすんなりと受け入れるわけはなかった。
 清和源氏の武士達は一人の若者に注目するようになったのである。
 源義親の四男の源為義。この年時点でなんと一三歳である。一三歳の若者に注目するというのは普通に考えれば無茶な話であるが、よくよく見ると無茶な話ではない。
 どういうことか?
 前述の通り、源為義は源義親の四男である。つまり、上には三人の兄がいる。その三人の兄と違い、源為義だけが親の行動を支持したのだ。一三歳というのは世の大人が思っているほど子供ではない。世の中がどうなっているかを理解しているし、世の中に不平不満を持つぐらいする。天下国家を論じる者だって普通だ。それに、家庭環境がゴタゴタしていることぐらい充分理解している。その上で、源為義だけが兄たちと違って実父の行動を支持したのだ。
 海賊となって朝廷に叛旗を翻したというのは普通に考えれば大問題だ。それを兄たちは批判し、自分は実父と違うと訴えて朝廷に身を寄せた。藤原摂関家にとっても、犯罪者の息子ではあるが実際に犯罪に手を染めたわけではない者まで処罰するわけにはいかないと訴え、親の責任まで背負わせないというアピールは寛大さを示す絶好の機会だ。特別扱いするわけではないが、父のことは無かったとした上で貴族としてのスタートラインに立たせ、貴族社会の競争への参加を許したのである。
 ところが、源為義は親の行動を正しかったと考えただけでなく、それを清和源氏の武士達に訴えたのである。源義忠や、源義親の息子達が、武士であることを捨てて貴族社会に身を投じようとしているのに対し、源為義だけが武士の社会に残ったのである。トップに見捨てられたと感じていた清和源氏の武士達にとって、一三歳の若者の決断は目を覚ますものがあった。
 源義家が亡くなったときにどのような言葉を投げつけられたかを知っている彼らは、貴族達に自分達がいくら擦り寄ったところで納得いく待遇を得られないと考えていたし、そもそも貴族達に好意を持つことも無かった。それに、源義家の子の源義親の行動は許されないものだと考えてはいても、源義親を気軽に断罪する気にはなれなかった。源義親は、対馬の最前線で朝鮮半島からの海賊の襲撃に向かい合い、九州各地の人たちの暮らしを目の当たりにして叛旗を翻し、出雲を経て隠岐に追放されたら追放先で税を運ぶ船への襲撃を繰り返した。叛旗も、襲撃も、許されざる犯罪であるとは理屈の上では理解しているが、その行動は九州の、出雲の、隠岐の、伯耆の人たちの生活の苦しさの代弁だったのだ。そして、各地の庶民の生活苦の訴えは、貴族の元には届いていなくても武士の元には届いていたのだ。
 その源義親の行動を支持すると言えない雰囲気が形成されていたところで、一三歳の若者が父の行動を支持すると訴えた。
 清和源氏の再結集はそれで充分だった。

 この源為義に手をさしのべたのは全く意外な人物であった。いち早く武士であることを捨てたはずの源義忠である。源義忠は甥の源為義を養子としたのだ。父を亡くした少年を養子に迎え入れるというのは何らおかしなことではない。父が成した犯罪を考えたときには、また、父の成した叛旗や襲撃を支持するという主張を耳にしたときには一瞬の躊躇を生むにしても、普通に考えれば見捨てるなどできない話であるし、ましてや叔父と甥なのであるから、むしろ家族愛を感じさせる感動話にすらなる。
 感動話ではなくビジネスライクに考えても、これは全くの不合理ではない。この少年の後ろには父の源義家が結成した清和源氏の武士団がまるまる存在するのだ。源義忠自身には武人としての才能が無くとも、清和源氏の武士団の再結成が何を意味するのかはわかる。一三歳の少年を見捨てようものなら清和源氏の武士団が敵になり、迎え入れれば味方になる。これで見捨てるという決断をする者はいない。
 源義親の四男の元に清和源氏が再結集し、かつての源義家の軍団が蘇ったことを誰よりも先に察知したのは白河法皇であった。白河法皇は自身の構える北面の武士に加え、清和源氏という巨大武士団が登場したことで念願を一つ果たせる時期が来たと考えた。三不如意の一つ、山法師こと比叡山延暦寺をはじめとする、寺社が繰り出すデモ集団の完全鎮圧である。
 白河法皇は、検非違使、北面の武士、そして源義忠に対して寺社のデモの鎮圧を命じた。白河法皇自身のボディーガードである北面の武士に対しては白河法皇が命令を出すことができる。一方、法を厳密に適用すると白河法皇は検非違使に対して命令を出すことができない。しかし、一僧侶ということになっている白河法皇が、個人的な犯罪被害を訴えて自身の安全を訴えることはおかしな話では無く、警察権力である検非違使に犯罪の取り締まりを求めるのも認められる話である。さらに言えば、源義忠に対してデモの鎮圧を命じるとしても、公的には検非違使である源義忠に対して治安維持を要請したということになるのだ。

 白河法皇のこの判断に、鎮圧のターゲットとなった側はどう思うだろうか?
 その答えは嘉承三(一一〇八)年三月二三日に出た。
 それも、考えられる最低最悪な形で現れた。比叡山延暦寺と園城寺の僧徒が手を組んだのだ。名目は尊勝寺灌頂阿闍梨の人事の白紙撤回である。尊勝時は白河の地に堀河天皇の命令によって建設された寺院であり、後世、白河天皇が建立させた法勝寺らとともに鴨川東岸の六勝寺の一つとなる寺院である。位置づけとしては、平安京から鴨川を渡って法勝寺へと至る二条大路の途中にあることから想像つくと思うが、白河天皇の建立させた法勝寺との繋がりは強く、仏教寺院として比叡山延暦寺や園城寺とは一線を画している。
 延暦寺や園城寺としてみれば、白河天皇、いや、退位して出家した後の呼び名で言うべきであろう白河法皇の完全な支配下にある法勝寺はともかく、強い影響下にあると言っても法勝寺からは独立した寺院のトップの地位が空席となったのだ。いかに強い影響下にあると言っても白河法皇が人事権を発動させるのは本来許されるものではない、という理屈は成り立つ。
 さらに言えば、尊勝寺のトップに自分のところの僧侶を就かせれば、法勝寺に対して楔を打つことが可能となるだけでなく、平安京と目と鼻の先に自らの寺院の勢力を築き上げることも可能となるのだ。最終的な利害としては対立するが、東寺の僧侶が尊勝寺のトップに就任することに対する反発であれば、天台宗という括りでは共通している延暦寺と園城寺が手を結ぶことは可能だ。
 その上、比叡山はここで譲歩を見せていた。東寺の僧侶に代わって阿闍梨に就任するのは園城寺の僧侶とするというのに賛成したのである。この理由としては白河法皇のターゲットが園城寺よりも比叡山延暦寺のほうに向いていたことも存在していた。
 延暦寺と園城寺が手を結んでデモ集団を京都に差し向けたというニュースを白河法皇が耳にしたのは鳥羽離宮においてである。ただし、第一報は園城寺の結成したデモ集団のみであり、デモ集団のターゲットは六条内裏であるということであった。このニュースは朝廷にも届いており、貴族たちには六条内裏への集結が命じられ、白河法皇は北面の武士に出動を命じるとともに、改めて検非違使の派遣を要請した。
 主軸を担ったのは、まだ任国に赴任していなかった但馬国司の平正盛。平正盛は北面の武士を指揮する。
 そして、源義忠の代理として検非違使の指揮を執ったのは、なんと一三歳の源為義である。平正盛は、一三歳に指揮させるなど清和源氏の面々は正気なのかと疑ったようであるが、実際に鴨川西岸に敷かれた清和源氏の軍勢を目の当たりにしてその思いを捨てた。源義家こそいないが、集った面々は後三年の役を戦い抜いた武士達であり、源為義の展開した軍勢も祖父の指揮を思い出させるものであったのだ。
 鴨川の東岸には武装した僧侶が数千人という規模で集結していた。

 今までであればそれだけのデモ集団がいればたいていの要求を突きつけることができたであろう。だが、北面の武士と検非違使の連合軍、すなわち源平連合軍は、少なく見積もっても一万人、当時の史料には数万人レベルの軍勢であったとまで記載するものまである。
 数千人と数万人とでは結果は目に見えている。かといって、デモ集団が取り締まる側の圧力で自主的に解散するというのはそうそうあるものではない。
 さらに、デモ集団側にも突きつけることのできる攻撃材料は存在した。想像していただきたい。いかに首都平安京とは言え、目と鼻の先で数万人の軍勢がにらみ合いを続けることが可能だろうかということを。そもそも食べ物をどうするのか、また、汚い話になるが大小便の後始末をどうするのかという問題もある。また、北面の武士と検非違使とを一ヶ所に集結させたと言うことは、平安京の治安維持がかなり手薄になっていると言うことでもある。こうなると早々に決着を付ける必要があるのは源平連合軍側になる。
 だったら、一気呵成に川を渡って相手方に攻め込めばいいではないかとなるかもしれないが、そうはいかない。水量が少ない時期ならいざ知らず、このときの鴨川の水位はかなり高くなっており、泳いで渡ろうものならかなりの死者が出る。かと言って、橋を渡るのは、橋を渡っている最中や、渡り終えたところを攻め込まれることを意味する。新しい橋を架けたとしても攻撃を受けることに違いは無い。増水している川を挟んで睨み合うというのは、相手がこちらに攻め込んできたときは圧倒的勝率となる、つまり、こちらが相手に攻め込んだ場合はかなりの被害を伴うものである。
 このままでは夥しい数の死者を生むことになるという点で、デモ集団も、源平連合軍も意見の一致を見て、にらみ合いの末の嘉承三(一一〇八)年四月二日、真言宗と天台宗が交替で阿闍梨を務めるという妥協案を受け入れてデモは解散。しかし、デモによって荒らされた田畑の被害は甚大なものがあった。また、検非違使に加え、源氏と平氏を一斉に招集したため京都市中の治安維持能力が低下し、京都市中に強盗が多発することとなった。それでも、デモ集団に対してどうにか対応することはできたのである。

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

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