清和天皇が即位した後も元号は「天安」のままであったが、前天皇の元号をそのまま使い続けるというのはあまり一般的ではない。もっとも、現在のように天皇の死去と同時に元号が変わるという決まりはないので、天皇が変わってもそれまでの元号をしばらくは使い続けるというのはある。
清和天皇の即位から八ヶ月を迎えた天安三年四月一五日、改元の詔が出された。新しい元号は「貞観」。
この新しい元号を聞いた貴族たちは一様に驚きを隠せなかった。
日本で独自の元号を使うようになってから二〇〇年以上、これまで二六の元号が登場してきたが、その中に一つとして中国で使われた元号はない。
ところが、このとき選ばれた「貞観」は日本オリジナルではない。
貞観は唐の太宗の治世に使われた元号である。他国が使用した元号をそのまま日本でも使うというのは前例のないことであり、強い驚きを持って迎えられた。
唐の貞観年代を西暦に直すと六二七年から六四九年。唐のもっとも華やかであった頃であり、経済的にも豊かで、治安も良く、対外戦争にも勝利し、少ない税で国が経営できた時代であった。この時代は後世の理想とされ、太宗と家臣たちの議論を記した『貞観政要』はこの時代の政治学の教科書となっていた。
当然のことながら良房はこの本を読んでいたし、その他の貴族も読んでいる。むしろ読んでいない貴族を捜すほうが困難なほどであり、清和天皇も一番の愛読書としている。
普通であれば四書五経の一節から元号を採用するところであるのに、清和天皇は迷わず「貞観」の二文字を選んで、新元号であると発表した。
出典は、『易経』の「天地之道貞観者也」であるとしたが、誰もが政治学のベストセラーであり、貴族たるもの誰もが理想とする唐の「貞観の治」からそのまま採用したと考えた。
そして、こう考えた。
貞観の治こそが清和天皇の追い求めている理想であり、良房の理想なのだと。つまり、今まで散々律令を批判し現実主義を標榜してきた良房だって、現実ではなく理想を追い求めること他の者と変わらないのだと。
ところが、この新元号、そう簡単ではない。
九歳の清和天皇が考えて発表したのか、良房の発案なのかはわからない。ただ、清和天皇にとっては一番の愛読書であり、理想の政治の時代であったことは間違いないから、そこには清和天皇の強い意志はあった。
一方、良房は新元号の持つ意味を別の意味で考えていた。
唐の貞観時代がどのような時代であったか。
先例に囚われぬ改革の時代であり、低負担低福祉による経済の成長を生み出した時代である。
唐は隋に取って代わった国であるが、律令については隋の律令である開皇律令を基本的には踏襲し、一部手直しをして運用していた。律令という概念を大切にし守り通そうとするのが当たり前であった時代に、律令より現実に即した政策を展開したのが唐の太宗の時代である。唐の貞観時代の成功は唐代を扱った後世の歴史書でもある『旧唐書』で「犯罪者が減ったため家々は戸締りをしなくなり、旅行先で手に入るので旅人は旅に食料を持たなくなった」と書かれている。
良房はこれを日本で実現しようとしていた。
と同時に、良房のしようとしていることは全くの無茶ではなく、成功した先例のあることであると示した。
貞観という元号には幼き天皇の理想であると同時に、良房のこれからの時代に対する宣言でもあった。
これは純然たる反律令の行動である。良房の言わんとするところを理解した善男は激しい良房批判を展開し、内裏において口角泡を飛ばして良房を罵る光景が展開された。
善男の表向きの理由これまでの先例を破って唐の元号を採用したことに対する反発であるが、実際には、歴史上著名な貞観年代を日本で再現するにあたり、その対立する存在として自分たちを対比させたことにある。これはハラワタが煮えくりかえる所行である。
それでも良房は善男に対し何もしていない。善男の言うがままをそのまま聞き入れていただけである。ただし、善男のこの態度に反発した者がいる。左大臣の源信である。
善男のこれまでの主張と行動が国家に与えたマイナスの大きさを挙げ、今ここでさらにどうでもいいことを掲げて反論する姿勢に怒りを見せた源信は、善男に怒号を浴びせた。これに怯む善男ではなく、二人の論戦、と言えば聞こえは良いが、実際には大人げない罵りあいが内裏で展開された。これを冷ややかな目で見つめる九歳の清和天皇。いったいどちらが大人なのかと第三者は眺めていた。
これのおかげか、貞観元(八五九)年四月一八日に伴善男が従三位から正三位に出世している。普通に考えれば焼け太りということになるが、善男は三日後にマイナスを背負わされる。
貞観元(八五九)年四月二一日、薪山の所属を和泉国にすると決定された。律令派が前面後押しをしていた所属争いで言い分が全否定されたのだ。これでは律令派の権威も台無しである。しかも、律令派一番の騒々しさである善男が、正三位に上がったことで気分を良くしたのか黙り込んでいる。
清和天皇の補佐をすると決意した良房であるが、清和天皇を抑えて政治にあたるということはしなかった。しなかったと言うよりできなかったと言うほうが正しい。
二人の意見が一致するときはいい。
だが、問題は一致しないときである。
特に、清和天皇は政治に関する英才教育を受けており、政治とはかくあるべきかの論戦をさせればこれが九歳の子の発言かと思わせる言葉を口にする。だが、それ以外の分野について言えば歳相応と言うほか無い。
それが経済政策に現れた。
理想とする太宋の政治では低負担低福祉による経済発展を生んでいた。これを理想とするところまでは良房と意見を同じくするからいいが、低負担の結果である国家予算の縮小については問題ありだった。清和天皇は予算の概念が乏しかったのではないかと思われる。
歳入に応じた歳出に留めるべきとする良房の意見に清和天皇は耳を貸さなかった。予算は無限だとでも考えたのか、歳入以上の支出をしようとするのである。この時代は現在のように国債による赤字予算という概念はない。税収だけが予算であり、税収を超える支出ができるのは前年度の予算の余りがあるときだけである。
しかし、清和天皇はそう考えなかった。カネがなければカネを作ればいいではないかというのである。
貞観元(八五九)年四月二八日、良房の反発を押し切り、清和天皇は新通貨「饒益神宝」の鋳造を開始させた。饒益神宝一枚がこれまで流通していた「長年大宝」一〇枚の価値を持つ。清和天皇はこれまでの新通貨発行過程とその結果を目にしてきてはいない。歴史的知識として知ってはいるが、それは新しい貨幣を造ってそれまでの貨幣一〇枚分と交換したという記録だけ。
予算を知った清和天皇が考えたのはこの先例だった。しかも、清和天皇はこの先例のもたらした混乱を知らない。
長年大宝という先例を経験している良房には、新通貨発行だけならまだしも前通貨の一〇倍の価値を持つとする政策がもたらす大インフレを知っている。その上、饒益神宝はそのデザインも稚拙な上に、小さく、軽い。これで長年大宝一〇枚分としたら、偽金がより容易に誕生する。これはどんなに法で律しようと収まることはない。
饒益神宝誕生直後から良房の危惧は現実のものとなった。
市場(しじょう)には偽金が溢れ、市場(いちば)の商品は止まることのない値上げが始まった。
それでいて国からの支払は長年大宝を基準とした饒益神宝だから、これまで長年大宝一〇〇枚で済ませていたところが饒益神宝一〇枚となる。これでは生活に支障が出るなどというレベルでは済まされない。
この饒益神宝は皇朝十二銭の中でも一・二を争う出来の悪さである。本物でも出来が悪く表に何と書いてあるのかわからないことが多いほど。鋳潰されて後の貨幣に作り替えられることも多かったためか現存する実物も少なく、現在の古銭市場ではその希少価値ゆえに一枚二〇万円以上で取り引きされている。ただ、現在では価値がある貨幣でも、当時は価値のかけらもない貨幣であった。
貞観元(八五九)年五月一〇日、加賀国司らが渤海使からの啓牒・進物を進上した。
渤海からの輸入品のトップは何といっても毛皮である。このときも渤海からの毛皮が京都にやってきて、貴族たちの間でもてはやされた。
とは言え、誰もが毛皮に熱中したというわけではなく、冷めた視線で眺める人もいた。その一人が善男で、これから夏を迎えるというのに、あんな暑い着物を喜んで着ているのはどうかしていると苦言を述べている。
一方、その善男ですら感心せざるをえない進物がこのとき渤海からもたらされた。新しい暦、長慶宣明暦である。略称としては宣明暦。太陰暦をベースとするが、太陽暦との誤差を修正するため一九年間に七回の閏月を挿入するのはこれまでと変わらないが、その計算が極めて綿密であり、日食や月食を正確に割り出せた。
順当に行けばここから渤海使が京都にやってきて天皇を表敬訪問するところであるが、その動きは止められた。
天候が極めて悪化していたからである。
貞観元(八五九)年五月一七日、雷雨に加えて雹が降った。
五月二九日から六月一日にかけては集中豪雨が襲った。
六月四日にも豪雨は京都を襲った。
記録にはこの頃、職を失った者の多くがホームレスとなって京都にやってきて路上生活をしているとも記されている。
もはや恒例であるが、何であれ批判の種にする善男はこの状況にも苦言を呈している。渤海からの使者を迎えるために莫大な予算を費やし、渤海からもたらされた品を手に入れるために大金をつぎ込んでいる。その一方で豪雨の対策は何も行われず、路上生活する失業者を救おうともしない。
そして結論は同じだった。これは現在の政治の問題であり、良房とその一派を追放しなければならない。
だが、その良房が私財を投じて被災者を救い失業者を救っているのは今では当たり前すぎてニュースにもならないのに対し、善男が私財を投じて救済にあたっているという話は全くない。それとは反対に、私財をため込んで優雅な暮らしをしているという記録なら嫌というほどある。
善男という男は、現在の感覚で言うと、格差社会を批判する政党の政治家である。自身は高給に恵まれた安定した暮らしをしながら、その高給を他者のために使うことなくため込んでおいて政権を批判する。自身や政党でその失業者を正規職員として雇って安定した暮らしを提供しようとは考えず、ただただ政権批判に終始する。
この善男の批判を受けて立つのが、これもまた恒例となっている左大臣源信だった。源信も良房と同様、源氏の私財を投入して失業者や被災者の救済にあたっているだけに、自身では何もせず、ただただ批判するのみの善男に怒りを覚えていた。
貞観元(八五九)年六月二三日、渤海国王からの勅書が京都に届けられた。
ところが渤海からの使者本人は京都に来なかった。
貞観元(八五九)年七月二一日、苅田安雄が京都に帰還。加賀国でのいきさつを語った。
語ったのは次のような内容である。渤海使は今月六日に帰国したこと。自分とともに歓待役に選ばれていた安倍清行の父が天然痘で亡くなり、安倍清行自身も辞任してしまったため、一人で渤海使の供応に当たらねばならなくなったこと。
天災だけではなく、日本国内で天然痘が流行していることも知った渤海使からは、今回は京都行きを断念し二年ないし三年後にまた改めて使者を派遣するほうがよいという意見が出され、国書を預けた上で渤海使は帰国した。これは通常の流れではないが、天災を前にしてはやむを得ぬ処置であった。
清和天皇は渤海使が帰国してしまったことに落胆したが、渤海客使を責めることはせず、天然痘を考えて帰国することに同意したことを誉め称えた。
渤海からの使者の危惧した天災と天然痘について、後者は記録がほとんどないが、前者ははこの年の記録に頻繁に登場する。この年の天災は長雨だった。
来る日も来る日も雨天が続き、清和天皇は父を見習ったかのように神仏への祈りを捧げた。もっとも、文徳天皇ほど熱心ではなく、神仏祈願を求める国民が多いから、その声に応えたというところであろう。
その祈りが効き目のないこともまた、文徳天皇の頃から変わらなかった。とは言え、清和天皇は冷めた少年である。祈りが通じなかったといって落胆することはなかった。
貞観元(八五九)年の九月になると、台風が連日姿を見せるようになった。
九月九日には暴風雨が吹き荒れ、京都市内の家屋や樹木を破壊した。
九月一八日にも同様の嵐がまき起こり、多くの路上生活者が命を失った。
それでも清和天皇は動揺を見せなかった。冷淡だったのではない。恐ろしく冷めた少年であったのだ。被災者の救援は積極的に乗り出すが、父文徳天皇のように神仏の力を頼ろうとはしない。神仏の力を求める声が大きくなったら応えるが、自ら積極的に祈ることはなかった。
だが、祈るとなったら徹底していた。
僧侶を呼んで祈らせたり、有名な神社に使者を派遣して祈らせたりといったことはせずに、日本全国一律で祈りを捧げるとしたのである。これでは、祈りと言うより、国民全員参加の国家行事である。貞観元(八五九)年一〇月七日、五畿七道の諸国に向かって、九月からの断続的な嵐が止むように祈れという命令が出されたのである。
その命令が功績を残したのか、それとも単に時期が終わったのか、この日より後で天候不順の記録は消える。
研究者によっては、良房がこの頃にはもう摂政に就任していたとする論文もある。教科書の中には、清和天皇の即位と同時に良房が摂政となったとする記事まである。
だが、これは二つの意味で正解ではない。
一つ目は、この時代はまだ皇族でない者が摂政に就くという概念がなかったということ。
二つ目は、清和天皇が摂政を必要としない天皇であったことである。
摂政とは天皇が幼かったり、病気で倒れたり、国事行為により不在である場合に天皇の代行を勤める職務であり、摂政の署名は天皇の署名と同じ扱いを受ける。
ならばこのときも該当するではないか、となるが、清和天皇の場合そう簡単には行かない。確かにまだ幼い。だが、年齢は確かに九歳でも、この人は実に真面目に職務に取り組んでいた。天皇が参加する必要のない些事を良房に任せることならばあったが、天皇を必要とする案件では律儀に顔を出し、律儀に署名している。
良房は、血筋でいけば確かに清和天皇の祖父にあたるが、政務においては清和天皇の一番の側近であるということ以上の立場には出なかった。いや、清和天皇がそれを許さなかった。
もっとも、いくら冷静で大人びていようと、清和天皇には一つ問題があった。
その問題とは結婚のこと。
いくら何でもまだ九歳で結婚とは、と考えるのは一般庶民の世界で、この時代の上流階級では、結婚とまでは行かなくても婚約者が決まっていることは珍しくない。むしろ、清和天皇がこれまでの九年間の人生で婚約が全くないというのは、この時代の上流階級としては珍しいケースである。
おまけに、天皇が結婚の様子もないまま独身者であることはいろいろと問題があった。結婚を利用した勢力拡大を企む者が続出するとか、宮廷内の女官の冷たい関係が展開されるとかもあるが、最大の問題は後継者問題である。皇太子となるべき子をいかに誕生させるかは、未だ子のない人物を帝位に擁立するときの最大の難問であった。これは九歳の少年であろうと例外ではなかった。
良房の出そうとしていた答えは、養女にした藤原高子である。このとき既に一八歳になっていたから、誰かの嫁になったとしてもおかしな年齢ではない。しかし、いくら何でも九歳の少年と結婚させるわけにはいかないため、このときは清和天皇を引き合わせただけで、正式な妻とさせたわけではない。
清和天皇も複雑な心境ではあったろう。結婚問題が自身に課された問題であることは理解していたが、今すぐに解決しなければならない問題だと考えてもいなかった。だいいち、未だ元服もしていないのである。また、嫁を差し出そうとする貴族の多さにも辟易していたようで、太政大臣までその流れに乗ったことは、驚きよりも呆れだった。
それに、高子と、当時国内ナンバー1の美男子として京都中の女性の熱狂を集めていた在原業平との関係は公然の秘密であった。
清和天皇にとって高子は母の従妹になるが、感覚的には姉のような女性であった。美男子として名を轟かせる業平に熱を上げ、その美男子が熱愛に応える姿を、まるで姉の恋愛話のように眺めていたのである。
そこに自分が割り込むなど考えもつかなかった。
良房は人生でただ一人の女性しか愛さなかった人である。それも政略結婚で幼くして嫁入りしてきた女性とのままごとのような暮らしから始まる結婚生活しか体験していない。だからか、恋愛話に関しては無頓着とするしかない。
ただ、恋愛話には無頓着な良房も、娘を心配する父親としては人並みであった。
業平との関係が公然の秘密であるとは言え、業平にとっての高子は数多くの恋人の一人に過ぎない。
業平は確かに平城天皇の孫である。だから、時代が時代なら天皇となっていてもおかしくない血筋の人でもある。並の父親なら娘の恋人が尊い血筋の者と考えるであろうが、このときの業平は三二歳でありながら従五位下のごく一般の貴族に過ぎない。
大学を出て役人となった後に貴族となった者ならば位と比べても若いと言えるが、平城天皇の孫という血筋で生まれながら、そして、二四歳で貴族デビューを果たしたことを考えれば、三二歳になってもなお従五位下というのは、業平の貴族としての将来に不安を感じざるを得ない。
歌人としては有名で有名な和歌を残しているし、小野篁亡きこのとき、国内最高の美男子の称号を得ているのも業平である。おかげで女性からの人気が高く、恋愛に不自由していない。と書けば格好はつくが、要は名うてのプレイボーイだということ。女性関係が甚だしく、その評判はお世辞にも良いものとは言えない。今は高子との関係が名を馳せているが、高子の前につきあっていた女性がいかに手ひどくフラれて捨てられたかを知っているだけに、高子が業平に恋愛感情を抱いていることが心配で他ならなかった。
その高子を業平の元から引き離して清和天皇の元に嫁がせようと言うのだから、恋人を引き裂くことは問題でも、父親としては、同意できるかどうかは別として理解できない話ではない。
業平から引き離されて清和天皇の元に連れて行かれると知った高子は必死の抵抗を見せるが、無駄であった。強制的に内裏に連れてこられた高子は、養父の良房、そして、兄でもある良房の後継者の基経に、生涯憎しみを抱くこととなる。
高子本人の反発はともかく、太政大臣の養女が清和天皇の妻となることが決まったことは、他の貴族に諦めと憎しみをもたらすことにもなった。
特に、善男の怒りはすさまじいものがあった。本音で言えば、善男には娘がいないために良房のように娘を天皇の妻として差し出すことができないことが理由であるが、それを表立っては言わない。
善男の言い分は、ただでさえ幼い天皇を操り人形であるかのように扱っているのに、幸せな恋愛を展開している娘を恋人の元から引き裂いて、幼い少年のもとに嫁入りさせるというのは許されざる暴挙であるという内容である。
これに対し、これもいつものことであるが左大臣の源信が反論する。この国の安寧を考えてのことであり、さすがは太政大臣と賞賛するならまだしも批判される謂われはない。その上で、天皇家を断絶させぬためにも高位高官の者は娘を嫁として内裏に連れてくるべきであるとした。娘がいない太政大臣も兄の娘を養女にしたのだから、他の娘のいない者もできない話ではないというのである。
親族にも娘がいない者はどうすべきかという善男の反論にも、源信は、街に溢れる失業者を救うのは貴族の責務であり、その中から血筋ではなく能力で人材を見いだし、将来の皇后にふさわしい教育を施した女性を育て上げるのは貴族ならば当然のことであるとした。その上で、そのための費用は国からとっくに支給されており、女性を育てていない貴族は貴族失格であるとまで言い切った。つまり、善男が貴族失格であるということである。
これは善男の逆鱗に触れたが、源信も黙っていない。
善男は源信を、家柄以外に取り柄のない史上最低の左大臣と罵れば、源信も善男を賄賂まみれのケチな小男と罵る。
この二人の関係が滅茶苦茶なのは立場に関係するものではない。どうしても許すことのできない宿敵だと、互いが互いを考えているのだ。
貞観元(八五九)年一一月一七日からの三日間、大規模な祭が内裏で開催されたが、この場の設営に関わる者がもっとも苦慮したのは、いかに素晴らしい会にするかではなく、この二人をいかに会わせないようにするかであった。何しろ天皇が臨席する上に、京都在住の全貴族が揃うのである。会わせないようにするのは相当な苦労があったと思われる。
理論上、律令派のトップたる良相が実権を失いだしたことは既に述べた。
その良相であるが、この時点でもただ一つであるが良相の影響力が及んでいる部分があった。地方官である。
地方の治安回復を推し進めるため、良相は数多くの人材を地方の国司に就けていた。そうした地方官は武人としての良相が選んだ人材であり、必ずしも律令派とは限らない。しかし、彼らにとっての良相は恩人であり、言わば良相派という概念で捉えることはできた。
良房はこの地方官に注目した。
その判断基準はその地域の治安回復にいかに貢献できるか、つまり、軍勢を指揮する能力を基準に選んでいた。ただ、軍勢を指揮する能力と地域を良く治めることとは全くの別物である。治安回復に功績を残しても、その地域の庶民の暮らしを疲弊させてしまったら元も子もない。
そのため、良房はその地域の統治が過酷な者を罷免するよう清和天皇に進言。清和天皇もそれには意見を同じくしたため、国司召還は政策として発表された。
これに対する律令派の不満を抑えるため、良房は二つの交換条件を提示した。
一つは良相を従二位から正二位へと昇格させること。これで良相は理論上は左大臣の源信と肩を並べたこととなるため、良相をしばらくは黙らせておくことができる。これを良相は受け入れた。
もう一つは、罷免する地方官の処罰基準を完全に律令に則ることである。不正蓄財、法を超える高額な税の徴収、徴収した税の国庫納入の怠慢など、律令派には文句の言いようがない案件による処罰としたため、いつもなら何でも反対する善男ですらこの政策には黙り込まざるを得なかった。
貞観元(八五九)年一二月一五日、国司の罷免と京都召還が決定。一二月二一日からは召還される国司の後任人事が断続的に行われた。なお、このタイミングで、源信の二人の弟、源定と源弘の二人が大納言に昇格している。
貞観二(八六〇)年一月一日、新年早々の豪雨で朝賀が中止されるが、もはや誰も驚かない。大晦日から大雨が続いていたので、今回もやはり中止だろうと考えた者が多かったし、そもそも開催されるほうが珍しい行事となってしまっている以上、たとえ快晴であったとしても中止されない方が驚きであったろう。
新年の驚きは一月一六日にあった。
伴善男が中納言に就任したのである。批判ばかりで何もせぬのにここまで出世するとは誰も想像だにしていなかった。しかも、あれだけ批判していた良房が推挙しての中納言である。このときは良房の度量の広さを示すいい宣伝になった。一方、良房が推挙してくれたおかげで中納言になれた善男なのに、ここで苦言を述べている。遅すぎる、と。これには呆れて二の句も告げぬ者が多かった。
同時に前年末から続けられてきた国司の交替がこの日完了した。その数実に三〇名。国司の半分近くが交替するという大規模な刷新であった。
善男が中納言になったことを注目する者が多かったが、内裏における基本的な光景が変わると考えた者は少なかった。
中納言になる前から善男は批判を繰り返している。中納言になってもそれは変わらないであろうし、仮にそれ以上の出世があってもやはり善男は批判を繰り返すだけで何も生まないであろうというのが多くの人の考えである。
ところが、中納言になったと同時に善男の批判精神が弱まるのである。これには多くの市民が驚いた。
だが、少し考えればそれも当然のことであった。
まず、それまでの善男は参議であった。参議というのは会議に参加する資格があるだけで、そこに何らかの実務が伴うわけではない。会議の場での発言が周囲に賛意を呼んで国政を動かすことならばあるが、その権力で国を操ることはないのが参議である。一方、中納言となると実務も伴う。請願も届くし、書類と向かい合わなければならない。国務として様々な行事に派遣させられることもあるし、内裏の中を駆け巡らなければならないこともある。
これらは全て決まりきった日々の業務である。決まった業務を決まり通りにこなすことならば善男は有能であった。そこに新たな創造はないが、新たな創造は善男の得意とするところではない。
参議ならば畳に座って他人のやることなすことを貶していれば給与が貰えたが、中納言にそんな贅沢は許されない。日々の業務を果たすことが最低限課せられたノルマである。
この最低限のノルマをこなすだけで良しとするか、あくまでも最低水準であってそこからの上澄みが必須と考えるか、善男は前者であり、良房は後者である。
良房は中納言としての決まった業務を全てこなした上で時代を創造していったが、善男はそうしなかった。決まった業務をこなせばそれで充分だと考えていたのである。例えるならば、一〇〇点満点で六〇点以上が合格だという試験が何度も課される状況で、毎回六〇点以上なのだからそれでで充分と考える善男と、九〇点台をとり続けながらまだ一〇〇点ではないと考える良房という違いがそこにはある。
例えば、貞観二(八六〇)年四月八日、東大寺の大仏の修復が七割方完了したことに合わせ、釈迦の誕生日であるこの日に特別行事が開催された。主催は大仏修理の総責任者である賀陽親王であり、工事開始からこれまでずっと奈良に常駐していた。賀陽親王は桓武天皇の第一〇皇子で、延暦一三(七九八)年生まれだからこの年で六二歳。この時代の感覚で行けば老人である。
一方、この行事に派遣されたのが大納言の源弘と、中納言の伴善男の二人。当然のことながら賀陽親王より若くて体力もある。
ところが、イベントのために骨折っている賀陽親王を助けたのは源弘だけで、善男は何もせず眺め、イベントが終わるとさっさと京都に帰ってしまった。派遣されたことで中納言の役割を果たしたとういうのが善男の言い分である。
清和天皇の政権が安定を見せてきた貞観二(八六〇)年という年は、これと言って大きなニュースのない平穏な一年であった。
諸手を挙げて幸せな日々であったというわけではない。台風上陸や地震もあるし、強盗が街を跋扈する光景も相変わらず続いている。貞観二(八六〇)年八月二七日の夜には神祇官西院の齋戸神殿に泥棒が入って逮捕されるという事件まで起こっている。
それでも社会がこの後も続くという確証が得られれば、社会は安定成長を見せる。
京都の街から失業者が減り、全体的な治安が向上してきた。
気候が安定していたこともあり収穫も増えている。その結果、毎年一定程度で発生していた餓死者が激減し、市で売られる穀物の価格も安くなり、インフレが沈静化した、
ただし、収穫の増加とそれと税収増とはつながっていない。もともとが少ない税率であったこともあるが、それよりも大きな問題は税そのものを納めようとする動きが減ったことにある。
大農園で働く農民は、所有者や農園を守る武人に税を納めている。問題はその税がどこに行くか。
どこにも行かなかったのである。
農民の納めたコメをはじめとする農作物は、土地の所有者の蔵に収まったまま外に出なかった。
特に、所有者が高位の貴族や大寺院である場合にそれは顕著であった。国司というのはだいたいが五位の貴族であり、例外的に四位の貴族が国司になることがあるぐらい。土地の所有者は三位の貴族、取り立てる側は五位の貴族。これでは手出しができない。
先に国司を大幅に交替したと書いた。その理由として挙げたのは、不正蓄財、法を超える高額な税の徴収、徴収した税の国庫納入の怠慢であるが、不正蓄財は論外として、残る二点については国司だけを責めるわけにはいかない要素もある。
各国毎にどれだけの税を国庫に納めるべきかは決まっている。だが、そもそも国司が税を徴収できていないのに税を国庫に納めるのは無理がある。そのため、国庫へ納めるために税のとれるところに高率の税を課したり、法に定められた率の税率としたために国庫に納められなかったりといった問題だってあったのである。
こうなると、問題は国司ではなく、国司の手出しできない農園を展開する有力者の側となる。だが、そっちは処罰される側ではなく処罰する側である。これは正しいこととは言い切れない。
荘園という名称がいつから登場するのかは明確ではない。
だが、これは紛れもない荘園の誕生である。
そして、いつもならこうした社会問題を痛烈に批判する善男も、この問題については一言の批判も口にしていない。口にしないのは当然で、自分の所領からは一粒の税も納めていないだけでなく、善男や律令派の貴族自身が不正蓄財に手を出しているからである。
この仕組みは以下の通りである。
善男は良房と違って自分の財をつぎ込んで新たな田畑を開墾し、人を移住させるということがほとんどなかった。その代わりに善男がしたのは、他人が開発した田畑の所有権の名義を自分のものとすることである。
土地の開墾者は土地を自分のものとすることができるが、それと免税とは全く関係がない。むしろ、土地の所有者として税の義務が課されるため、班田にこだわるより負担が増えることだってある。しかし、所有者が三位の貴族である善男だとどうなるか。それが名目上でも善男の所領としてしまえば、国司は五位、土地の所有者は三位と歴然たる差が存在するため、国司は簡単に手出しできなくなる。
単純に言えば脱税できる。
本来の所有者は上納金を善男に納めなければならないが、それでも国に納めるより安くて済む。
これらの土地で働く者は本来の土地所有者に税を納めているから、取り立てに行ったところで払ってもらうわけにはいかないし、その取り立ては禁止されている。それを無視して取り立てた国司は律令違反に問われ免職されているし、取り立てに失敗しても、取り立てを試みた国司はその土地の名目上の所有者である善男の逆鱗に触れ、公式の場で罵倒され、律令違反であると告発されている。善男の律令に対する知識量だけは他の追随を許さない。
善男によって告発された貴族が待ち受ける運命は二種類しかない。貴族としての地位とそれまで手にしてきた財産を全て失い、遙か彼方の島に流されるか、三年間生きられるかどうかと言う牢獄に閉じこめられるかのどちらかである。
善男のこの裁判を盾にとった国司への圧力は国司を萎縮させるに充分だった。
善男の蓄財は明確に律令違反であるが、これを国司が批判したら最後、その国司は自分の政治人生どころか人生そのものが終わってしまう。
良房ですら善男のこの動きを制することはできなかった。善男は上司であろうと告発し内裏から追放した過去を持っている。良房もまたスネにキズを持つ身であることに違いはない。良房がいくら自費で開墾し、上げた収益をそのまま社会に還元したと主張しようと、それで罪が無くなるわけではない。
平穏無事な一年が終わり、翌貞観三(八六一)年は雨のせいでやっぱり朝賀の中止で始まった。
この年の一月一三日、善男に目をつけられた者がどうなるかを目の当たりにする人事があった。この日、四五名の貴族が新たに役職を手にしたが、その中に一人に新たに参議に任命された者がいた。位は正四位下だから参議でもおかしくはないのだが、その名を聞いて誰もが善男の過去を思い出した。
正躬王である。善愷訴訟事件で降格し、はじめは丹波へ、次いで太宰府へ転出させられ、前年末やっと京都に戻って来ることができた。この間、実に一三年。この長期に渡って京都から離れさせられた正躬王は、戻ってきたときには六一歳の高齢者になっていた。かつての恐怖感を抱かせた人の面影は既になく、かつての部下であった善男に追い抜かれた老人となっていた。
丹波国司として、さらに太宰大弐として民政に大きな貢献をした正躬王でも、一三年間という長期に渡って戻ることができなかった。これは、処罰されるようなことを一切しなかったからであり、不正蓄財をしようものなら善男に絶好の口実を与えることとなる。律令派の国司がしても無罪放免となるが、正躬王がやったとしたら、その結果はさらなる追放、もしくは入牢。
正躬王が京都に戻れたのは任期を超えても民政に心を砕き続け、善男に追求の口実を与えなかったからである。その上で還暦を過ぎたことでやっと戻れた。これが善男に目をつけられた結果である。
一方善男は自分の子である伴中庸を従五位上の少納言にまで出世させている。良房の後継者である基経も少納言であるがこちらは正五位下。位で言うと一つしか違わない。
口やかましい善男に対する貴族たちの感情は良好なものではなかったが、権勢を広めていることは紛れもない事実であり、逆らうとどうなるかが目の前で展開されたことで多くの貴族が黙り込まざるを得なくなっていった。
清和天皇はこの善男の権勢を抑えることを考えたようであるが、中納言としては有能である上に、排除する理由も存在しない以上、単に反感を集めているという理由だけで善男を抑えることはできないと判断せざるを得なかった。
できることがあるとすれば、善男に批判させる暇を与えないことと、善男の批判にただ一人対抗している左大臣の源信を後ろで支えることぐらいであった。
貞観三(八六一)年一月二〇日、出雲国から李居正を大使とする渤海使ら一〇五名が来着したとの報告があった。
これを聞いた善男はさっそく反論した。前回の渤海使から二年しか経っていないではないかというのである。そして、渤海使の派遣は一二年に一回と決まっているのだから、ただちに追い返すべきであるとした。
一方、源信の意見は違った。前回の渤海使は疫病と天災のために京都に出向くことができずに帰国せざるを得なかった。ゆえに、貞観元(八五九)年の渤海使はカウントするべきではなく、嘉祥元(八四八)年からの間で計算すべしとしたのである。
善男が中納言となって以後は少なくなったが、それでもこのふたりの口論は相変わらずであった。一見すると何であれ反対する善男にさらに反対する源信という構図であるが、実情はそう簡単ではない。源信は左大臣であり日々の業務を遂行している。善男はそれを難癖つけて邪魔しているのであり、源信はその善男を食い止めることで業務を停滞させないようにしているのである。
今回の例で行くと、渤海使を受け入れるというのが現時点の日本の国益を考えた上での最良の選択である。律令派の貴族の中でも少なくない者が国益より感情を優先させ、日本は他国を必要としない神の国であると考えているが、それはあまりにも危険であった。実際、ついこの間も対馬に新羅が侵略してきたのである。海の向こうからの侵略は統治者であれば当然危惧しなければならないことであり、渤海との友好関係の継続は日本が侵略されないために必要不可欠な要素である。
これは渤海にとっても同じことであり、新羅からの侵略が断続的に続いている現状では海の向こうの日本と友好関係を維持することが国の平和にとって必要不可欠であった。
それを、自己の妄想を優先させて対外関係を拒絶しますと言われて、はいそうですか、と答えられるわけがない。だいいち、それが実現したらこの国の平和はどうやって守るというのか。
律令派の面々からの明確な回答はない。あるとすれば、日本は神の国だから攻め込まれたって勝つというアテにならない答えである。
鎌倉時代の元寇のときに有名となる「神国」であるが、この言葉は鎌倉時代に誕生したのではない。この時代の律令派の残した文書の中にはもう登場しており、王朝が頻繁に変わる諸外国と違い日本は万世一系の歴史が続いているのもこの国には無数の神がいるからだとする論拠である。
百歩譲ってその論拠を展開し続けることが許され、渤海との交渉の一切を打ち切ったとしたら、後には一般庶民の生活という問題が残る。
日本は国内だけで全ての需要を満たせる国ではない。これは渤海も同じ事であり、互いが相手の国からの輸入を渇望しているのである。貿易商人が海を越えて行き来するのが当たり前の光景であり、貿易ならば敵国であるはずの新羅も海運という需要がある。日本の製品を新羅の船が渤海まで運び、渤海や唐の製品を新羅の船が日本に運んで、最後は平安京の市に並ぶ。唐の製品であるがゆえのブランド価値は失われていたが、輸入品が市に並ぶ光景は日常となっていた。
渤海との交渉を維持することは、この日常の暮らしを維持することにもなるのである。これは政治家たる者ならば無視できない要素であった。
貞観三(八六一)年一月二八日、正六位上の藤原春景と正七位下の葛井善宗を渤海客使に任命するとの決定が出された。また、二年前に通訳に抜擢された春日宅成も通訳として再び任命された。前回の功績があったため一応は出世していたが、渤海使が途中で帰ってしまったためその評価も中途半端なものとなってしまっていた。このときの地位は大初位上、つまり、一つしか出世していない。
しかし、春日宅成が渤海使を迎え入れるときの通訳として選ばれたことを知った渤海からは感謝の声があがっている。藤原春景と葛井善宗については無名の役人であるが、春日宅成の場合は渤海語を自由自在に操れるということで、すでに渤海でも有名人になっていた。
この渤海語がどのような言語であったのかという記録は残っていない。現在に残されている資料も漢字による漢文表記のみで、一部の固有名詞が漢字表記で残されているだけである。しかし、渤海国内で話されている言葉が唐の言葉とも新羅の言葉とも、そして日本語とも大きく違っており、相互は話し言葉で意思の疎通が図れなかったこと、そして、渤海国内ではどこでも渤海語が使用されていたことは判明している。
渤海語はおそらく、満洲語の系統につながるツングース系の、現在は消滅してしまった言語であっただろうとされている。
貞観三(八六一)年三月一三日、清和天皇が全ての皇族、貴族、役人に対し、三日間の魚肉食禁止の命令を出す。東大寺の大仏修復記念式典に向けてである。
翌三月一四日、東大寺で大仏修復記念式典が開催された。前年と同様、主催者は賀陽親王。行事のための派遣の最高位が中納言なのは前年と同じであるが、前回は中納言が二名派遣されたのに対し今回は一名だけ。それも前回は用が済んだらさっさと京都に帰ってしまった伴善男一人の派遣となった。ただし、右中弁の藤原冬緒と左京大夫の在原行平に加え、菅原是善、紀春枝、布瑠清貞、三善清江、御室安常といった面々が奈良に派遣された。何れも善男の監視役である。何しろ国家行事。用が済めばそれで終わりというわけではない。
復旧なった大仏の目を描き入れるための僧侶が籠に乗せられ、ロープを使って引き上げられる。僧侶は大きな筆を持ち、筆の先からは紐がぶら下がっていてその紐を行事に参加した者や実際の復旧工事に参加した者が綱引きの綱を持つときのような体勢で持っているので、理論上、大仏復旧工事に関わった全ての人と筆がつながっていることとなる。
次いで、文章博士である菅原是善によって祝辞が読み上げられた。この祝辞は菅原是善が書いたもので、同じ文章が日本中に配られ、式典が行われているのと同じ時間にその文が各地で読み上げられたので、式典は東大寺だけではなく日本全国で一斉に行われたこととなる。
平安京では清和天皇が自ら祝辞を読み上げ、内裏の貴族や役人もその祝辞を拝聴していた。応天門の外には多くの民衆が詰めかけ、少年天皇の読み上げる祝辞を聞き入った。
ただし、静かであったわけではない。
奈良では長い間の工事がこの日全て終わるのだという感慨深い面持ちで工事に参加した者らが神妙に聞き入っていたが、京都ではまだ工事していたのかといったあまり深くはない感情でこの日を迎えていた。退屈な日々の日常に訪れた突発的な行事であり、単なる祭りの一つとして騒ぐネタになったに過ぎなかった。
静かに聞き入るようにと命令されてはいたが、庶民がそういう命令を聞くわけはない。静かにしなければ命に関わるという局面でもない限り、静かにする必要もない場面で静まりかえるわけはなかった。
貞観三(八六一)年四月七日の夜、九州で地震が観測された。この地震による被害はなかったが、このときの揺れは世界史上初の出来事を伴っていた。
地面が揺れたことによる地震ではなかったのである。
筑前国で夜に突然空が真っ赤に光った。空から火の玉が降ってきたのである。その火の玉による明かりはまるで昼のようで、夜中の突然の光に驚いた周辺住民は一様に飛び起きた。火の玉は須賀神社(福岡県直方市)に向かって落ちた。
墜落の瞬間の衝撃は大きく、周囲に地震となって広がった。
神社に何かがあったと考えた住民は夜にもかかわらず神社に集結。暗くてよくわからないが境内に大きな穴が空いていたことはわかり、ただちに太宰府に使者を派遣すると同時に、日が出てから詳しく調べることとした。
翌朝、天から降ってきた火の玉の落ちた穴の先を調べた宮司によって、ハンドボールほどの大きさの黒い石が見つかった。
全くの奇妙な出来事に周囲の人は言葉を失ったが、須賀神社の宮司によってこの石は天が我らに与えた祝福の印であるとして、神社に保管すると発表された。数多くの住民が不吉な知らせと考えていたところを宮司のとっさの機転で吉兆としたおかげで、住民の動揺は収まった。
天から石が降ってきたという知らせと、それこそ天からの祝福の証であるとする知らせは、太宰府を経た後に京都に届けられ、内裏で話題となった。
石が空から降ってくるなどということがあるのかという意見があった一方で、要するに流れ星なのだろうからおかしなことではないとする意見もあり、たかが黒い石なのだし神社に落ちたのだから、ご神体としたいと上奏してきた須賀神社の意見をそのまま採用し、天から降ってきた石を神社で保管して良いという許しが出た。
さて、この黒い石が世界史上初となった出来事なのだが、実は、隕石が落ちた瞬間が記録に残った世界最古の例となるのである。
この時代は特に大騒ぎとならなかったこともあり、記録に小さく残されているに過ぎない。だが、昭和五六(一九八一)年に国立科学博物館の理化学研究部長村山定男氏をリーダーとする鑑定が行われ、ご神体となっている黒い石が紛れもなく隕石であること、その落ちた日付と落ちたときの様子が記録に残っていることから、それまでの世界記録を六三〇年も遡る「目撃記録を伴う世界最古の隕石」と認定された。
さて、藤原氏の始祖は大化の改新の藤原鎌足であることは小学生向けの歴史の教科書にも載っていることである。そして、大化の改新の当時の鎌足は、「藤原」姓ではなく「中臣(なかとみ)」姓であったことも歴史の教科書に載っているとおりである。
ただ、まれに勘違いする人がいるのだが、中臣鎌足が藤原鎌足になったとき、姓を変えたのは鎌足とその子たちだけであり、その他の中臣氏は姓を変えていない。つまり、藤原氏誕生後も中臣氏は続いていたこととなる。理論上は。
ところが、この頃その中臣氏が問題となっていた。
藤原氏の勢力が増すのに反比例するかのように、中臣氏が歴史から消えていっていた。栄枯盛衰は歴史の必然とは言え、中臣氏の衰退は急であり、気づいたときには名だたる貴族から中臣性の者が消滅していたのである。例外は各地の神社で、特に伊勢順宮などの有名神社では神官や宮司が中臣姓を名乗ることが多かった。
これが常態であったのに、ここに来て中臣を名乗る役人や、大中臣を名乗る役人が続出した。大中臣(おおなかとみ)というのは奈良時代に中臣氏の一部に与えられた姓であり、一時期は、藤原氏ほどではないにせよなかなかの有力貴族となっていた。ただし、落ちぶれるペースは中臣氏と連動していた。
かつて名門であった一族が落ちぶれるとどうなるか。
血筋がないが、特に秀でたところはないので、実力主義とされると困ってしまう者にとっては絶好のチャンスである。
自分はこの一族の人間であり、素性不明ではないと主張すれば、役人世界において、さらにはその上の貴族世界においても有効に働く。うまくすれば下駄を履いて評価のときのプラスアルファとなって働く。
本来ならば今をときめく藤原氏を名乗りたいのだが、藤原氏となると人数も多いが家系図も厳密に管理されているため、勝手に藤原氏を名乗ることなどできない。だが、その藤原氏につながる中臣氏なら違う。
本当に中臣氏や大中臣氏の出身なのかという証明を求められても、落ちぶれたおかげで記録が大切に保管されていないため、どうとでも捏造できる。存在しない人物を家系図に書き加えるぐらい簡単にできるし、自分の父や祖父の姓を中臣や大中臣に書き換えるぐらい容易である。
その結果、自称中臣氏や自称大中臣氏が続出した。
貞観三(八六一)年六月一日、増えすぎた自称中臣氏や自称大中臣氏の素性を正すため、大中臣氏と中臣氏の家系図を再整理し、家系図に載っていない血筋を両家から除外するとする声明が出された。これで少しは自称が減ったらしい。しかし、元々残っていない家系図を作るのだから、このドサクサに紛れて姓を変えた者が数多くいた。
貞観三(八六一)年六月一六日、長慶宣明暦の正式採用が決まった。二年間の検討の結果、これまで使われていた大衍暦や五紀暦と比べて精度が高いことに加え、渤海使が来日しているため、渤海よりもたらされた新しいカレンダー計算システムを採用することが両国の友好に役立つことが理由である。
ただし、この計算はかなり難しい。大学にカレンダー計算のための専門の学部が置かれ、卒業生は朝廷内でカレンダー計算だけをする専門の役人となった程である。
難しい反面、精度は極めて高い。宣明暦が廃止されるのは貞享二(一六八五)年。なんと八二四年間に渡って使われ続けたこととなる。宣明暦が廃止され新しい暦である貞享暦が採用されたときの理由は実際の季節とカレンダーとのズレが出てきたことが理由であるが、そのズレはわずかに二日。八〇〇年以上使用されておいて二日しかズレがなかったというのは当時の技術としてはかなり異例である。
しかも、宣明暦をうみだした唐ではわずか七一年間の使用に留まったのである。システムとしては優れているのだが、計算が複雑でその計算をこなせる人材を継続的に生み出すことに失敗したため、精度は下がるが計算も簡単で済むカレンダーに切り替えなければならなかったのが唐をはじめとする宣明暦採用国の状況であった。
日本が宣明暦を使用し続けていることは驚きの目で見られた。あの複雑怪奇な計算をし続けられる人がいること、そして、その人材を生み出す教育システムが存在することに対する驚きであった。
このとき以後、日本国内での日食や月食は、単なる自然現象でしかなくなる。何年の何月何日にどこで日食や月食が起こるかが事前にわかるようになり、それまでの不吉の前兆から、単なる物珍しい自然現象に変わった。
ある日突然太陽や月が欠けるならば驚きもするが、何月何日に月が欠けるという知らせが前もって判明していれば、日食がちょっとしたお祭りになったり、月食の夜には恋人同士で事前に弁当を用意して野山で月が欠けるのを眺めたりといったデートが生まれるまでになった。
貞観三(八六一)年七月一四日、反善男の初の動きがはじめて登場した。
場所は伊勢国安濃郡。この地に住む農民が伊勢国司の清原長統を始め、国衙に務める役人や郡司ら合計二七人を脱税で告発したのである。
この地には班田ではない自営農地が広がっており、合計二一八名の土地所有者が存在していた。これだけならごく普通の光景だが、問題はその後。
土地所有者たちは真面目に税を納めていたにも関わらず、税の滞納分をただちに支払うようにという通知があったのである。不可解に感じて調べた結果、判明したのは、納めた税が国司たちの手に丸々着服されていたということだった。
真面目に田畑を耕し真面目に納税していた者からすれば、税を払っていたことが無かったこととされ、払っていた税を着服された上に再度の税の支払いを要請されたのである。これで怒りを覚えないほうがおかしい。
そこで国司や郡司を告発することとなった。
地方官のこうした税の着服は日常のことであり、ここで有罪になってしまうとその他の地方官もことごとく有罪となってしまう。その上、伊勢国に派遣されているのは律令派の面々であり、善男とつながっている。彼らが有罪になるということは善男にも波及する可能性があるということであり、善男にとっては何としても避けなければならないことだった。
今までであれば、善男に反意を示そうとしても、善男から訴訟を起こされるという圧力があるため黙り込まざるを得なかった。なぜなら、善男に反意を示すのは貴族や役人たちであり、訴訟となると役人や貴族としての地位を失うこととなるからである。しかし、今回は農民が相手。役人でもなければ貴族でもなく、当然ながら役職はない。つまり、善男に目を付けられたところで失うものは何もない。
これは想像以上に手強いこととなると考えた善男は、ありとあらゆる手を使ってこの訴訟を握りつぶそうとした。
まず、これまで納めてきていた税を国司や郡司が共謀して脱税しているというのが農民の訴えの内容であるが、逆に、農民のほうが税を納めていないと主張した。税が国に届いていないのは国司や郡司の怠慢ではなく、農民が税を納めていないからであるとしたのである。しかも、二一八人からの納税記録が抜け落ちているという証拠を示している。その上で再度、未納の税を納めるようにとの通告を出した。
これで怒りさらに膨らませないわけはない。農民たちの怒りは爆発寸前となり、国司たちは身の危険を感じるまでになった。
そこで善男は、まずは手下を無罪とさせることを優先させることとする。中納言の慈悲により、今回の訴訟を取り下げれば訴訟を起こした二一八名の脱税を無罪とするとしたのである。これもまた人をバカにした話である。
だが、裁判に関しては善男のほうが百戦錬磨である。農民たちが何を言おうと法律を盾に反論し、訴えられた面々は無罪であるとの主張を最後まで崩さなかった。
訴訟は結局、訴えられた二七人を無罪とするという内容だけで終結。農民たちの税の未納についてはあやふやなままであり、未納であるとも納税済みであるとも宣告されなかった。
貞観三(八六一)年八月、京都で赤痢が流行した。特に子どもの被害者が多く、まだ元服していない清和天皇も罹患する恐れがあるとして隔離された。
赤痢の集団感染は通常、下水道の水準が悪くなると起こる。糞便を始末した後の手洗いが充分でなかったり、糞尿が流れ込んだ川や井戸の水を飲んだりすると感染する。また、ハエを媒介として感染することもある。何れにせよ、この時代の平安京の都市インフラではいつ起こってもおかしくないものであった。
幸いにして清和天皇は赤痢に罹らなかったが、この流行を鎮め、治療にあたるようにとの命令はたびたび出された。ただし、成功していない。
赤痢が赤痢菌による病気だということが確認されたのは一九世紀も終わりになってから。それまでにも流行する病気であるという知識はあったが、流行のメカニズムも発症に至るシステムもわからない状況で、治療や流行の鎮静化をせよというのは無理な要求であった。
民衆から赤痢の鎮静化を祈るよう要請が出されたため、八月一二日には六〇名の僧侶を内殿に招いて、大般若経を三日間に渡って転読させた。
さらに、八月一七日には、赤痢の鎮静化を祈るよう五畿七道の諸国に命令が出された。
ただし、明らかにやる気がない。
清和天皇は神頼みに対する感情が薄かった。請願が来たらするが、自分からはしないし、しても意味がないと考えている。父が何度も神仏に頼っては、その都度願いが叶わなかった姿を見てきただけに、神仏頼みそのものに対する反発もあった。
現在で言うと東京都と埼玉県に加え、神奈川県の横浜市と川崎市を合わせた地域が武蔵国である。二一世紀の現在、この地域全体で二五〇〇万人が住み、GDPで言えば日本経済の四〇パーセントが集中している。
もし、東京都知事と埼玉県知事、それに横浜市長と川崎市長を一人の人物が兼ね、かつ、この地域の警察権と裁判権と徴税権を一手に握ったとすれば、その権威と権力は内閣総理大臣ですら手出しでいない強烈なものとなるであろう。
ただし、これは現在の話。
平安時代初期の武蔵国は後進地域であると同時に、日本でもっとも治安の悪い地域であった。
武蔵国司は他国よりも高い報酬が得られる職務であったが、治安の悪さからか人気の無い職であり、念願の国司になれたと思ったら武蔵国司で、これからの任地赴任に憂鬱な思いになったという記録も残っている。
これは放置できる状況ではない。武蔵国は関東の中心に位置するだけでなく、東北地方への陸路でもある。この地域の治安が悪いとなると、東日本全域の治安悪化につながってしまう。
ではなぜ、武蔵国の治安が著しく悪かったのか。すぐ南の相模や東の下総、北の上野ではそのような記録も無く、飛び抜けて治安が悪いのは武蔵国だけ。つまり、関東地方全体の問題ではなく、武蔵国だけの問題なのである。
この問題を調べていくと、武蔵国内に点在する亡命人コミュニティーが出てくる。生活苦から日本へ逃れてきた新羅人や、国が滅ぼされたため日本へ逃れてきた高句麗人の子孫が武蔵国に集まって住んでいた。これは何も彼らの意志で武蔵国の住人となったのではなく、日本の政策である。
朝鮮半島からも京都からも遠い地域に住まわせることで彼らが祖国と結託しないようにさせるのがこの時代の日本の政策である。実際、日本に亡命してきた新羅人が新羅と結託して反乱を起こしたこともあり、朝廷は亡命者の処遇に頭を悩ませていた。
武蔵国はその頭を悩ませていた結果の答えだったのである。ただし、反乱そのものが無くなったわけではない。反乱と呼ばれなくても、強盗と呼ばれる集団は誕生していたのだから。
強盗集団は主張する。自分たちは日本人より目上の者であり、日本人は我々にひれ伏し従わなければならない。収穫であろうと身体であろうと我々の求めるがままに差し出さなければならず、命も我々の求めに応じて差し出さなければならない。我々は強盗ではない。不逞な日本人どもを成敗する正義の軍勢である、と。
これを喜んで迎え入れる者がいるだろうか。反乱と呼ぼうが強盗と呼ぼうが、一般庶民にとっては同じこと。村に襲いかかっては収穫や貞操や命を奪い去っていく集団のことを喜んで迎え入れるものなどいない。
武蔵国の治安回復を考えた良房は、良相ですら考えなかったアイデアを上奏する。
武蔵国は他国と比べて郡の数が多い。実に二一もの郡に分かれている。それは、国としての面積も広かったからに加え、亡命者の保護を最優先とする特別地域を設置して、こちらもまた郡としたからでもある。そのため、一つ一つの郡の面積は他国より狭い。
この一つ一つの郡に、治安維持のみを担当する役人を派遣するというのが良房のアイデアであった。
武蔵国の治安問題は一刻を争う事態であるのに、改善されるどころか、新羅人や高句麗人からなる強盗集団が我が物顔で歩き回る状態となっている。
その上、今の京都には大学を出てもなかなか任官できずにいる若者が多いことや、失業したが田畑を耕す意志はなく、日々街中で暇を潰す者が多いこと。そうした者の中にはかなり荒くれた者も多く、京都の治安を悪くさせる要素となっていること。こうした者の中には、自分のしていることは棚に上げて、地方で暴れ回っているという強盗団への怒りを持つ者も多い。つまり、田畑を耕すつもりはないが、強盗団相手に暴れるつもりならばある者が数多くいた。
任官できぬ若者を検非違使とし、失業者は兵士とし、彼らのナショナリズムを刺激した上で武蔵国に派遣して強盗団を退治させるというのが良房のアイデアであった。これには治安回復と失業問題解決の両方を一度に行うというメリットがあった。治安回復の中には武蔵国だけではなく京都の治安回復も含まれる。荒くれ者を京都から堂々追い出せるのだから。
この七〇年後、関東地方で平将門の乱が起こるが、その乱に参加した兵の少なくない数が、このときに武蔵に派遣された兵士の子孫である。同時に、平将門の乱を鎮圧した兵士のうちの少なくない数もまた、このときの兵士の子孫でもある。
貞観四(八六二)年一月一日、毎年恒例の朝賀中止。誰も驚かない。一〇年連続の中止となるかどうかという賭けをする者もいたが、大晦日からずっと雨が降り続いたため、賭けが成立しなかった。
貞観四(八六二)年一月七日、毎年恒例の昇格発表。これも順当すぎる昇格で誰も驚かない。このとき新たに貴族に加わった若者の中に、後に基経の右腕として、さらに宇多天皇の参謀として辣腕を振るうこととなる源能有がいるが、このときは数多くの若手貴族の一人でしかない。
貞観四(八六二)年一月一三日、新たな役職が発表される。注目されたのは前年末に兵士派遣の発表があった武蔵国司。選ばれたのは藤原忠雄。これといって取り柄のない凡庸な人物で、特筆すべき事項があるとすれば良房の従弟であることぐらい。貴族生活は長いがこの段階でもまだ従五位下という貴族としてもかなり低い地位の者である。ただし、忠雄の父、すなわち良房から見て叔父にあたる藤原長岡は生前、武芸に秀でているという評判に恵まれ、陸奥や出羽で俘囚と向かい合う日々を過ごしている。忠雄はその三男であった。
忠雄に課されたのは武蔵国内の各郡に派遣された検非違使やその配下の兵士たちを率いること。それ以外のことは課されなかったとしても良い。
ただし、通常ならば六年間というのが国司の任期だが、忠雄は二年間と限定されている。それだけの激務だからということもあるが、それよりも大きな理由は、これから辛くなること間違いない武蔵国司を積極的にやりたいと考えた者が居なかっため。人材選出に苦悩した良房が頼み込んでやっと引き受けてくれたのが、無職である上に従弟ということで仕方なく了承した忠雄。それも武蔵国司としての報酬に加えて、二年限定としないとやってくれなかったからである。
その上、失業者を兵士に仕立てて送り込むだけでは、単に気が荒い者を京都から追い出すだけで武蔵国の治安回復には直結しない。武蔵国の治安を悪化させる強盗集団の退治には京都の正規軍の派遣も必要だった。
平安京を守るための正規軍を武蔵国に連れて行くことは、京都の治安維持能力を低下させることともつながる。
減った軍勢で京都を守るわけだから効率的な運営が求められる、と言えば聞こえは良いが、言い換えると長時間労働と無償強制ボランティアとなってしまう。終わりが見えているならそれでも良いが、終わりがいつなのか明示されないまま頑張り続けろと強制するのは無謀であるし、早々に破綻する。
人を減らして効率化を追求することは必ずしも良い結果をもたらすわけではない。現在の過剰なリストラがかえって売り上げを落としているように、人を減らした状態で京都の治安を守るにはどうすべきかを考えるよりも、無駄な人員が増えようと治安を守る者を増やすほうが賢明であるし、より良い結果をもたらす。
貞観四(八六二)年三月八日、左右京職に対し、朱雀大路の各坊門を守らせる兵士を出すように命令が下った。京職というのは平安京の行政運営を司る職業であり、現在の感覚で行くと市役所のような仕事である。朱雀大路は平安京のメインストリートであり、そのメインストリートの各ポイントを守る兵士を新たに採用せよという命令が下った。これにより、少なくともメインストリートの治安維持が二四時間態勢で整い、かつ、失業者を多少ではあるが減らすことができた。
三月一五日には五保の制度が拡充された。五保というのは平安京の庶民の住居五軒を単位とする単位で、五件の住まいを束ねる責任者一名を選んで地域の庶務を行わせるという制度である。現在の感覚だと町内会というところ。ただし、京職と密接につながった公的組織であり、現在のように加入しなくても罰せられないというわけにはいかない。
このときの拡充は、保長、現在で言うところの町内会長に皇族や貴族の使用人を任命して、その者に治安維持の役割を与えたことである。そのための費用はその使用人を雇っている皇族や貴族の負担であり、この負担は決して軽いものではなかった。使用人を保長にするということになっているが、実際には保長に就けるための使用人を新たに雇うことが求められた。
当然と言うか善男はこの決定に猛反対している。経験の浅い者を保長にするのは好ましくないなどといろいろとそれらしい理由を述べているが、行き着くところはケチだから。中納言にして正三位という要職にあたるため相応の負担が求められたが、善男は最後まで抵抗し、人を出すのも徹底的にケチっただけでなく、仕方なく人を雇ったものの、その者に払う給与も限界まで削った。善男という男、現在に生きていたら給食費も国民年金も受信料も払わなかったであろう。
貞観四(八六二)年三月二六日、出挙の廃止が正式に決まった。
事実上機能しなくなっていた出挙であるが、制度としては残っていた。ただ、貸す者も借りる者もいなくなったということである。
史料には「良い制度であったが廃れてしまった」と記されているが、本当に良い制度であったらもっと長期間残っていなければならない。全ての農民に対して必要不可欠な制度であり、良房が破壊するまでは未来永劫続くと思われていたのに、いざ無くなってみれば無くても困らないものであった。出挙で儲けていた者が破産したが、それまで苦しんでいた者はザマアミロと思っただけであるし、出挙とは関係ない平安京の都市住民も誰も同情しなかった。
制度とか決まりとかというのは意外とこういうものだったりする。
貞観四(八六二)年四月二日、正躬王をはじめとする一五名の皇族に「平朝臣」の姓が与えられ、臣籍降下すると決まった。通常、皇族が臣籍降下するときに与えられる姓は「源朝臣」であるが、このときに与えられたのは「平朝臣」である。
感覚として「源」のほうが「平」より格上と考えられていたらしく、源氏は二一名の天皇から派生しているのに対し、平氏は四名の天皇からしか派生していない。また、平氏の始祖とされる人が「平」姓を名乗っていたという記録もない。
このときに「平」の姓を与えられた一五名の他にも以前に「平」の姓を与えられた者がいるが、その全員が桓武天皇とつながりがあるため、この面々はまとめて「桓武平氏」と呼ばれる。そして、後の平氏はこのときに「平」の姓を与えられた「高見王」こと「平高見」を一族の始祖であるとした。
ところが、この一五名の中に「高見王」という人物はいない。「高蹈王」や「高居王」といった名前はあり、この二人は桓武天皇の子である葛原親王の子、つまり、桓武天皇の孫であったことが確認できているので、この二人の弟、あるいは、この二人の名を誤って記したとする説があるが、現在でも判明していない。
なお、このときに姓を与えられた正躬王であるが、この処遇に猛然と抗議している。地方に飛ばされやっと戻って来ることができたと思ったら、今度は源氏よりも一段下の平氏になれという命令である。
正躬王と同じ思いになった者は多く抗議が相次いだが、増え続ける皇族をこれ以上抱えることは国家財政にも影響を与える以上、皇位継承権から遠い皇族を臣下に下ろさなければならなかった。
清和天皇は妥協案として、臣籍降下させるが当人はこれまでのように皇族と同じ名、すなわち、漢字二文字の名の後ろに「王」を付した名、例えば正躬王の場合は「平正躬」ではなく、名である「正躬」の後ろに「王」を付した「正躬王」をそのまま使用しても良いという宣言をしている。ただし、子孫についてはそれを許さず、平氏を名乗ることが命じられている。
武蔵国の強盗団追討は芳しくなかった。従五位の安倍比高を忠雄の副官として派遣すると決まり、併せて援軍の派遣も決まった。
しかし、軍勢を必要としたのは武蔵国だけではなかった。瀬戸内海に海賊が続出したのである。
貞観四(八六二)年五月二〇日、海賊横行への対策として、播磨、備前、備中、備後、安芸、周防、長門、紀伊、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐の一三ヶ国に海賊追捕を命じた。
瀬戸内海はこの時代最大の大動脈であり、公的な使節だけではなく民間交流においても瀬戸内海を船で行き来することが普通に見られた。交通量が多く、数多くの物資が行き来するということは、これを狙う者も多いということ。特に、船は一度の輸送で大量の荷物を運ぶことから、一度の襲撃で大量の荷物を奪える。
それが地方から中央へ運ばれる税の船であっても関係なく海賊は襲いかかる。
しかも、農地を襲う強盗団と違って、海賊船が襲うのは船のみ。自警が行き届いている農地を襲っても得られる成果はたかが知れているし、襲った側の損害だって大きなものとなるが、船の場合は損害以上の利益を獲得できる。
そして、このときの朝廷には海賊を鎮めるだけの力がなかった。農地の自警ならばできても船を守るまでの力は失われていたのである。ついこの間まで良相の指揮する船が海賊から国際貿易船を守って安全な航海をしていたのが嘘であるかのように、瀬戸内海は危険な海域となってしまったのである。
かといって、瀬戸内海を通らないことはできなかった。何と言っても京都と太宰府を結ぶ最短距離であるし、海賊を除けば最も安全な海域なのである。海賊を避けるために日本海や太平洋を通ることを試みる船はあったが、それらの船は海賊よりも危険な海の荒れに襲われることとなった。
結局、瀬戸内海を通る船ができたことは、海賊に通行料を払って船を襲わないよう頼むことだけだった。
ケチという評判が確立されていた善男であるが、貞観四(八六二)年一〇月七日、突如として大盤振る舞いをした。山城国紀伊郡にあった別荘を寺院に改造し、報恩寺として開いたのである。
ケチな人によるある行動パターンであるが、普段は一円単位で節約しておきながら、使うとなったら思い切り使う。一円単位でケチをする人なのに数万円単位ですら誤差として扱う。つまり、数万回のケチでたまったカネが一度の散財で失われる。守銭奴でありながらカネが貯まらない人が割といるが、善男はそういう人だった。
それでも、報恩寺が霊験あらたかで参拝者を数多く集める寺院になったのならばまだいいが、より悲しいのは、この報恩寺がとにかく無視され続ける寺院になってしまったことである。
何しろ、建立者が善男である。善男の人気の無さに加え、あのケチな善男の建てた寺なのだから、行ったら最後身ぐるみ剥がされるという噂が広まったのである。
その上、元々は善男の別荘だということは先に記したが、別荘とした場所は桓武天皇陵の近く。平安京創設者の陵墓ということで国の厳重な管理が成されており、貴族である善男ならば問題なく通えても、一般庶民がそう易々と通える場所ではない。
この評判の良くない寺院に関するさらなる悪評が広まったのは貞観四(八六二)年一二月になってから。
当時の記録には「咳逆病」と記されている、おそらくインフルエンザと考えられる病気が流行したのである。突然の咳と高熱が人々を襲い、命を失う者まで登場した。
そして、この病気は善男が報恩寺に籠もって呪いをかけているから流行しているのだという噂まで広まった。
なぜなら、この咳逆病で倒れた最初の人物が良房だったからである。良房は自宅からただちに娘の暮らしている染殿第に移された。
良房ももう五八歳となっている。人生五〇歳とされる時代での五八歳は、いつどこで何があってもおかしくない年齢である。
後継者もいるし、孫までいる。
しかし、清和天皇がいかに大人びていようと、また、後継者が定められていようと、今の政局は太政大臣藤原良房がいることで成立しているのは誰もが認める現実であり、太政大臣の代わりを務める人材はいないというのが共通認識であった。
良房が倒れたまま動けずにいる中で頭角を見せたのが、左大臣の源信と右大臣の藤原良相である。
二人とも良房ほどの政治家としての能力がないことは自覚していた。だからといって、倒れている良房に無茶をさせるわけにはいかないという認識でも一致していた。
源信も良相もそれぞれの立場がある。だが、良房が倒れたという現実を目の当たりにして、立場の違いを前面に押し出してどうのこうの言っている余裕はないと判断。ここに左右の大臣が協力する体制ができあがった。
良房の太政大臣就任からこれまで冷遇されていた良相であったが、そのおかげで現在の政局を遠目から眺める余裕もできた。そして、良房はたしかに優れた政治家であるが、太政大臣になってしまったがために有能な若手と接する機会を失ってしまっていると気づいた。良房が抜擢したのは渤海語が話せるとかいった特別な才能を持った者、言わばスペシャリストのみであり、全てにおいてそつなくこなせるゼネラリストの若手を見逃してしまっていたのである。
貞観四(八六二)年一二月二七日、良相の見いだした若き才能を内裏に招いた。右大弁の南淵年名、山城国司の紀今守、伊予国司の豊前王、大宰大弐の藤原冬緒の四名である。京都やその近郊にいる者はまだしも、四国や太宰府にいる者はわざわざこのために呼び出されたこととなる。もっとも、彼らにしてみれば一世一代の大チャンスなので、迷惑に感じるどころか、喜び勇んで京都に戻ってきている。
彼らが内裏に招かれて左右の大臣と清和天皇と向かいあって行なったのは、現在の政治を語らせることである。清和天皇はまだ幼いが、その他の大臣や貴族は既に高齢になっている。
このときの若手からの意見、そして解決策としてのアイデアは斬新なものであった。
この一部始終において、善男は全く参加していない。知ったときにはもう内裏に全員が集っており、中納言といえど内裏には立入禁止となった後であった。
善男はこのとき、自分の権力が徐々に周囲から浮き出していると実感した。
貞観五(八六三)年一月一日、雨のため一一年連続の朝賀中止。ただし、今年もどうせ中止だろうと考えて参内しなかった貴族が多かった中、規則に従って参内してきた貴族たちは清和天皇の用意した朝賀用の御馳走を自宅に持ち帰ることができたのがいつもの年と違った。
このときまではまだのんびりとした正月気分でいられたが、一月二日には緊急の連絡が清和天皇の元に届いた。咳逆病の猛威が年末から激しくなり、正月早々、今度は大納言の源定に襲いかかったという連絡である。
前年一二月に罹患した良房が一ヶ月経った今もなお復帰しないとは言え、命に関わるという知らせも出ておらず、次第に快方に向かっているという知らせがあっただけに、源定も時間はかかるが復帰するであろうと誰もが考えていた。
源定はまだ四七歳。間もなく還暦の良房と比べてもまだまだ若く、少し休めばすぐに戻るだろう、と。
だが、倒れたという知らせを聞いた翌一月三日、源定が死去したという連絡が入った。あまりに突然な死に、兄の源信も驚きを隠せなかった。
さらに一月五日には従四位下で内蔵権頭の藤原興邦まで咳逆病で亡くなった。祖父は藤原葛野麻呂、父は藤原常嗣と、連続で遣唐大使を輩出した家系に生まれながら、遣唐使の事実上の停止により、その活躍の場を失っていた。それでも一歩一歩出世の階段は歩んでおり、もうすぐ内裏の中枢に入れるかというところまでは来ていた。このとき四二歳。
そして、源定と同様に大納言で源信の弟である源弘と、かつての右大臣清原夏野の子である清原瀧雄まで倒れたという知らせが飛び込んできた。源弘は命に関わるところまでは至っていないが倒れたまま動けずにおり、病状は良房に似ているとの連絡。清原瀧雄はより病状が重く命に関わる恐れがあるとのことであった。
内裏ではこのとき、真剣に良房の死を考えたようである。四〇代の働き盛りの貴族が二名も亡くなりさらに二名が倒れたということは、五〇代の大臣に時が来てもおかしくない。
貞観五(八六三)年一月七日、昇格発表。前年末に召集された四名のうち、紀今守が従四位上に昇格したがその他の三名については変更がなかった。
清和天皇はあくまでも平年通りであろうとした。しかし、咳逆病がそれを許さなかった。
一月一一日、清原瀧雄死去。
一月一九日、平城天皇の皇女で、伊勢神宮の斎宮でもあった大原内親王が死去したとの連絡が届く。神に仕える者も咳逆病から逃れられないと知った京都市民はパニックを引き起こした。
パニックとなったのは京都の庶民だけではない。内裏に勤める者もパニックを呼び寄せた。大原内親王の死去の知らせが届いたを聞きつけたその日、侍従所の庭に鬼の足跡が見つかったというのである。正体が何なのかはわからないが、どこの地面にあってもおかしくない影やへこみを鬼の足跡とでも考えたのだろう。
一月二一日、嵯峨天皇皇女の純子内親王も死去。
ここに来てついに清和天皇も動いた。
同日、咳逆病の鎮静化を狙い七日間の祈祷を命じたのである。それまでオカルティックに走ったことのなかった清和天皇がはじめて見せた行動だった。
しかし、この祈祷も意味はなかった。
一月二二日、棟氏王死去。
一月二五日、大納言源弘死去。
一人、また一人と咳逆病で死んでいく。死んでいったのは皇族や貴族だけではない。平安京の路地という路地には死体が放置され、家族の者が全員亡くなったため空き家となってしまった家屋が続出した。親の死を目の当たりにした子ども達が路上にあふれ、生きる術を失って餓死する子も現れた。
一月二七日、咳逆病の流行に対処するため、京都市中の飢病者に施を実施した。
そのすぐ後の二月二日、朱雀門より中に咳逆病に罹った者が入るのを禁止した。
いつもであれば一月に新たな役職が発表されるのであるが、咳逆病の影響で二月一六日にまで延びた。これに文句を言う者は居なかった。咳逆病の流行は天然痘以上の被害をもたらしていると誰もが感じていたからである。
咳逆病の被害は京都だけではなく、京都周辺でも見られた。大和国と和泉国の両国で咳逆病の被害が深刻化しており、京都と同様飢饉にあえぐ子が続出。清和天皇の命令により至急の食料配布が行われた。
ただし、この病が日本全国で広がっていたわけではない。京都を中心とする五畿の一帯が最流行地帯であるが、京都から遠いところはさほどの被害となっていない。それでも、こういった伝染病は首都から同心円状に広がるのは昔からの定説であり、清和天皇は京都で咳逆病が流行していることを通知し、流行を抑えるように各地で祈りを捧げるように命令を出した。
この命令に対する地方からの答えの中に、清和天皇を喜ばせるようなものはなかった。
命令に対する返信として最初に届いたのは四月三日。伯耆国に住む僧侶からの上奏文であった。その寺院の周辺でも咳逆病が流行っており、田畑を耕す者が次々と倒れてしまったためにその他の農民に負担がしわ寄せとなり過労で倒れる者も出た。その結果、田畑が荒れてしまい、そのままでは飢饉となること明確であるとの陳情であった。
咳逆病が労働力を奪ってしまっていたのである。
この時代の考えでは、流行病というのはオカルティックな存在の仕業であり、悪霊とか鬼とかが暴れているのでこれを何とかして収めないと病はまだまだ続く、朝廷はこれをする義務があるとするものであった。
このときは何が原因なのかが朝廷で真剣に討論された。それも、一ヶ月以上に渡って真剣に討論された。
咳逆病対策だから誰も文句は言わなかったし、誰もが真剣に議論していたのだが、この雰囲気に染まらなかった者が一人いる。このとき二七歳の少納言、藤原基経である。
養父の教育をモロに受けていたこともあり、この人は本質的にオカルティックなものを信じない。そんなことをやる暇があるならまともな対策をしたらどうかと考えた。
当初は考えただけであったが、次第にその考えを口に出すようになった。
一介の少納言が何を言うかという反感を持った貴族は多く、特に善男は面を向かってこの若者を罵倒した。もっとも、良房の後継者だけあって、基経は目上であろうと平然としている。
善男だけでなく、良相もまた甥の言葉に怒りを感じた者の一人であった。良相は他の者と比べればオカルティックに対する認識が軽いが、みなが懸命になって討論しいるのを全否定する態度が許せなかった。
その間も咳逆病の流行は続き、貞観五(八六三)年五月一日、正躬王が亡くなった。
何ら対策もできぬまままた命が失われたことに対し、基経は貴族たちを前に暴論を吐いた。役に立たない議論をするだけで助かる人の命を救おうとしないばかりか省みることもしないと批判したのである。
これは内裏に波紋を招いた。
源信は基経を弁護し、良相は甥を怒鳴るように非難した。
咳逆病を前に手を結んだかに見えた良房と源信との間がこれで完全に引き裂かれた。
何が原因なのかを語り尽くさなければ祈りが利かないではないかという良相の意見に対し、適当に五人から六人ぐらい選んで祈ればいいとまで言い放った。国民が求めているのは怨霊が原因となって起こっていると考えられる問題が消滅することであるが、そんなものは人間が祈ったところでどうこうなるものではないとまで言い放った。流行病を怨霊のせいとは全く考えていない基経は、大規模なイベントを開いて、民衆の見ている前で祈ればそれで良いとまでしたのである。
それでは怨霊対策にならないではないかという問いに対しても、怨霊ということで萎縮してしまい、咳逆病の被害者が大勢誕生していることもあって、経済が停滞している。つまり不景気になっている。現在真っ先に行わなければならないのは景気対策であって、怨霊対策は名目でしかない。何よりも大切なのは、景気回復につながる大規模なイベントを開催して不景気を振り払うことにあるしたのである。
貞観五(八六三)年五月二〇日に神泉苑にて御霊会(ごりょうえ)を開催すると発表。主催は国だが、司会進行は二七歳の藤原基経。参加は自由であり、身分に関係なく誰もが参加できるとした。
悪霊とされたのは六名。
桓武天皇の子で、藤原種継暗殺に連座して追放された早良親王。
大同二(八〇七)年に反乱未遂の罪で自殺に追い込まれた伊予親王。
子の伊予親王に連座して自害に追い込まれた藤原吉子。
承和の変で追放された橘逸勢。
謀反計画で追放された文室宮田麻呂。
奈良時代に反乱を越して処刑された藤原広嗣。
何れもその時々の大事件で有罪となって処罰された者であり、かつ、その最期の様子も有名であることを重要視した。そのためには養父良房の追放した橘逸勢や文室宮田麻呂も例外とはしなかった。
御霊会当日は盛況だった。怨霊への祈りはあくまでも名目であって、メインは祭りそのもの。
高名な僧侶が読経している様子を眺める庶民は多かったが静かに聞いているわけではなく、良く言えば賑わいを見せていた。
読経が終わると音楽に合わせた歌と踊りである。一応は怨霊を鎮めるためであるが、誰もが聞きほれるミュージックに熱狂し、アクロバティックなダンスに参加者は酔いしれて感嘆の念をあげた。
さらに、別会場では相撲も行われた。これも神に捧げる儀式ではあるが、この当時の相撲は現在のように土俵の外に出たら負け、あるいは、足の裏以外が地面に着いたら負けというルールではなく、現在の総合格闘技にも似た競技である。血が出るのは当たり前で、残酷ではあるが貴族も庶民も熱狂し、勝敗に関係なくその出場者は英雄となった。
相撲を残酷だと考え拒否する者も多かったが、同時に開催されたもう一つの競技である弓道は拒否者が少なかった。武人たちがその鍛え抜かれた弓矢の技術を争う一方で、弓矢など一度も触ったことのない人が遊びとして弓を手にし矢を放つ。老若男女に関係なく、素人ゆえに起こる珍プレーに笑いも起こり、会場は終始和やかな雰囲気に包まれた。
なお、この弓道場で女性の注目を集める一人の若者がデビューし、並みいる武人を押し退けて好成績を残している。大学一の美少年との呼び声も高い菅原道真、このとき一七歳。
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