応天門燃ゆ 8.応天門炎上事件

 では、この間、良房は何をしていたのか。 

 名目上は咳逆病に罹ったために貴族の邸宅に立ち並ぶ自宅を離れ、比較的閑散としている地域に建つ染殿第で療養していることとなっているが、そんなものは目的のごく一部でしかない。

 一番の目的は権力のスムーズな移行にある。今回の御霊会を取り仕切った基経という人物が良房の後継者であることは、知識としてならば以前から知られていたし、水害対策の実績もあるのだが、それ以後の基経は目立っていない。無論、何もしていないわけではない。蔵人として、また、少納言としての日々の執務の評判は高かった。だが、それが知られているのは大内裏の中だけで、一般庶民の間に基経が広く知れ渡っているわけではなかったのである。

 良房のデビューと比べると基経は目立つ要素が乏しいのだ。

 デビュー間もない良房は、時の権力者に逆らい、時には喧嘩をも売っている。それが偽善であろうと庶民の味方であり若者の意志の代弁者であるというイメージを抱かせ、そのイメージを保ったまま権力を手にした。

 一方、基経は権力に逆らうことが許されない。現時点で権力者である人の後継者としてデビューしたため、若者の意志の代弁者となるところまでは許されても、権力者に逆らうことは自己の存在を全否定することとなるし、メリットもない。

 権力のスムーズな移行のためには基経の名と顔を売る必要があったが、権力者に逆らうという名前を売る絶好の方法が許されない以上、別の方法を考え出さなければならない。

 その答えが、良房の病欠だった。

 このときの基経はあくまでも一少納言でしかない。だが、基経は誰もが考える良房の代理であった。それも病欠という、代理を立てなければならないシチュエーションにおける代理だった。

 この御霊会は基経の顔と名前を売る絶好のチャンスであった。良房の後継者であるとアピールし、同時に、庶民の味方であるとアピールするためには、この大イベントを開催し、身分の差もなく楽しめたという実績が物を言った。

 貞観五(八六三)年六月一七日、越中国から越後国にかけての一帯で大規模な地震が発生。土砂崩れにより交通網が麻痺し、地下水が沸き出した。建物の被害も、そして人の被害も無視できるものではなく、余震も頻発して発生した。

 良房のいない朝廷はこの危機を救う手段を失っていた。いや、このときは良房がいてもどうにもならなかったであろう。

 本来ならば被害の救援物資をただちに送るところであるが、このときは越中や越後にまで運ぶだけの物資の余裕がなかった。御霊会で大奮発したのもあるが、もっと大きな理由はこの年に広がった飢饉である。

 前年から作物の生育が思わしくなかったが、それでも多少ならば蓄えがあった。しかし、六月を迎えるとその蓄えもなくなり、食料を失った者が大勢京都に押し寄せてきた。

 清和天皇はこうした避難民を救おうとし、国の蓄えを放出した。この結果、地方の救援に回す余裕が無くなってしまった。

 その上、台風が京都を襲い、頑丈であるはずの牢獄の建物を破壊した。以前から脱獄の準備を進めていたところにたまたま台風がやってきたのかもしれない。なぜなら、建物で壊れたのは牢獄ぐらいなものだったから。

 牢獄が壊れた結果、牢に閉じこめていた犯罪者のうち三〇名が脱走した。朝廷は直ちに緊急指名手配をしたが簡単には捕まらなかった。


 この時代は奴隷制度があった。

 その身分は法で定められ、ごく一部の例外を除いて奴隷身分から脱出することはできなかった。

 ただし、奴隷として生まれるのは両親ともに奴隷であった場合に限られる。

 奴隷である女性(これを「婢(ひ)」と言う)から産まれた子であっても、父親が奴隷ではないと証明できればその子は奴隷にならずにすんだ。証明と言っても、父親である男性が、この子は自分の子であると認めればそれで良かった。

 こうなると奴隷の絶対数が減る。たとえ奴隷同士のセックスで産まれた子であっても、理解のある雇用主がその子は自分の子であると言ってしまえば奴隷ではなくなるのだから。

 ところが奴隷に対する需要が減らないとなるとどうなるか。

 まずは奴隷の値段が上がる。人権を考えると議論そのものが立ちゆかなくなるので、現在の人権意識を無視してこの当時の考えに従うと、奴隷とは売買可能な商品である。その商品が少なくなったのに需要が変わらないのだから、値段も上がる。

 こうなると奴隷は高値で売買できる商品となる。

 その上で人権意識をもう一度忘れていただき、それを踏まえて、人権意識の乏しい者が奴隷を人間ではなく単なる高額商品と考えたとしたらどうなるかを考えていただきたい。

 高く売れる商品手元になかったらどうにかして入荷するかを考えるのは商売でよく見られるパターンである。そう考えた者が、奴隷ではない人をさらって売り飛ばそうと考えたとしてもおかしな話ではなかった。

 飢饉が村を襲い、病が集落を襲い、強盗が家を襲った結果、生きる手段を失ってしまった者の運命を考えたとき、それは間違えても薔薇色ではない。運が良ければ寺院が養ってくれるが、そうでなければ、京都で路上に座り込むか、遺体となるか、奴隷となるかしか生きる手段がなかった。

 青年男子は労働力と、女性はセックス相手とされ、親や兄弟を失った子どもは奴隷商人の手に渡って安値の奴隷とされた。奴隷になることをどんなに拒否しようとしても、自由を奪われ、生活を奪われている者には、他に選択肢がなかった。

 この現状は問題であると誰もが認識していた。しかし、奴隷を使っている者がいるだけではなく、奴隷売買に手を出している者が内裏におり、問題解決の障害となっていた。

 以前からこの問題に関心のあった基経は、御霊会の興奮のさめやらぬタイミングでこの問題をとりあげた。それまでであれば取り上げても無視されたか握りつぶされたかだが、今の基経には御霊会で獲得した庶民の支持がある。このバックボーンを武器に基経は立ち上がった。

 基経が立ち上がった相手、それは良相だった。

 よりによって叔父が奴隷売買に手を出し莫大な利益を上げているだけでなく、奴隷の供給源として拉致まで行なっていたを知ったのは手古という幼名の頃である。

 それまでにも叔父のその行動に基経は怒りを感じ、何度となく良相に向かい合っていたが、それが家庭内の話であっても、基経は少納言、良相は右大臣。叔父と甥の関係であろうとこの身分差は大きすぎる。その上、良相は道義的に許されないことをしているが法的に許されないことをしているわけではない。その実情がどんなに拉致であっても、名目上は弱者の保護であり、生活の援助である。

 しかも、良相の行動には善男の理論武装があった。問題だからと告発したとしても、裁判を牛耳る善男が良相の側についている以上、良相を処罰することができなかった。

 善男本人が奴隷売買に手を出していたかどうかはわからない。良相の場合は拉致実行犯を操れる立場にあるが、善男にそれはない。しかし、儲け話に首を突っ込んだか、上前をはねようとしたか、善男もまた奴隷の売買に絡んで利益を得ていた。

 基経は、できればしたくはなかった手段をとった。良房を頼ったのである。良房は乗り気ではなかったが、拉致して奴隷として売り飛ばすことが問題であるとは認識していたことに加え、権力者に対抗する若き貴族という構図を作り出す絶好の機会であり、かつ、基経の支持基盤を考えた上でも有効であると考えたことから、基経の要求を受け入れた。

 良房から清和天皇に手紙が送られ、清和天皇の勅令として、貞観五(八六三)年九月二五日、奴隷の売買には、奴隷の両親がともに奴隷である証拠を添付するようにという命令を出した。これがない奴隷の売買は無効となるだけでなく、売買に関わった者が処罰され、奴隷は奴隷身分から解放されると決まった。

 良相は甥のこの行動に怒りを見せた。

 より正確に言えば、以前から抱いていた反感に火がついた。

 太政大臣の養子であることはもはや認めなければならないが、この若造さえいなければ藤原家の権威と権力を我がものとできたのに、という感情は消せる者ではなかった。

 というところで、この一介の少納言でしかない基経は自分が利益を上げていた奴隷売買に大ダメージを与えた。しかも、右大臣藤原良相が奴隷売買の黒幕であると公開し、中納言伴善男がその商売仲間であるとまで公開している。

 これは庶民感情に火を付けるに充分だった。

 庶民にとって奴隷は身近な存在ではない。大きな農園や寺院や屋敷にいるのが奴隷であって、庶民のいる地域に奴隷が姿を見せるとすれば、雇い主に命ぜられて市に買い物に来たときぐらい。彼らがどのような処遇であるのかは知っているが、あくまで自分たちとは関係のない世界での話であった。

 しかし、奴隷の売買が目の前で展開されているのを目の当たりにしてもなお何とも思わないわけではない。問題だと考えて行動を起こしたら命の危険に関わるから見て見ぬふりをしていただけである。

 ただし、それも一人のときだけ。

 集団となると人は強い。相手がいくら凶暴な人間であろうと、集団は簡単にその凶暴な人間を倒す。奴隷を売ろうとした商人も、奴隷を使っていた有力者も、民衆の怒りの前には無力だった。

 善男も良相も自宅に籠もり、外に出ることができなくなった。

 しかし、なぜ良房がここまで奴隷問題を放置していたのか?

 訝しげていた基経がその理由を把握したのは、民衆が立ち上がったあとの経済を目の当たりにしたとき。

 多くの奴隷が売られることから逃れたが、これは同時に、奴隷を前提とした経済が止まったことを意味する。奴隷を酷使することで安く供給できていた商品が値上がりし、食料にしろ衣料にしろ、市に並べられた商品は毎日のように値上がりし、一度は沈静化していたインフレが悪化した。

 奴隷の自由と命を救うことで、それよりはるかに多いかずの一般市民の生活が破壊されてしまったのである。

 これが奴隷制を問題視し行動した結果の現実だった。残酷ではあっても、今の庶民の暮らしは奴隷がいることが前提となって維持されていたのだ。

 良房は基経を叱責した。

 それに対し基経は反論した。自分は正しいことをしたのだ、と。

 だが、良房はさらに反論した。善意がもたらした結果であろうと、庶民生活の悪化は政治家として絶対に許されない失敗であり、そこに善意の有無は関係ないし、失敗を認めることなく善意を前面に立てて反論するなら、それは政治家失格であるとまで言った。

 その上で、良房はここで解放された奴隷を自分の農園に連れて行くように命じた。今の状況を改善するには物資の量を増やすことが欠かせない。その物資を増やす者として彼らを雇うというのである。良房はそこまで見込んで、彼らを養うための借金をしていた。

 奴隷から解放されても生活の手段がなければいつまた元に戻ってしまうかわからない。そこで、彼らに職を与えることで元に戻らないようにした。

 苦しい境遇にある者を境遇から救うだけでは、問題の解決にはならない。救ったあとで二度のその境遇に落ちることのないようにしてはじめて問題は解決する。

 この結果、良房の持つ大農園はさらに拡大された。いや、もはやここも荘園と呼ぶべきか。

 およそ一〇ヶ月もの長きにわたって表に姿を見せなかった良房が表に出たのは貞観五(八六三)年一〇月二一日のこと。

 清和天皇自らが主催する良房還暦の祝いである。

 久しぶりに姿を見せた良房は、かつての若さの失われた白髪の老人となっていた。これを見た貴族たちは、咳逆病の影響がここまで良房を蝕んだのだとも考えた。命を落とした者が続出したこの病で、良房は幸いにして命を保ったが、それでも良房の姿をここまで弱々しいものに変えてしまったことに咳逆病の恐ろしさを改めて痛感した。

 そして、かつては若者の意志の代弁者であった良房も老いからは逃れられないのだと感じ、良房の命もそう長くはないと考えた。

 良房の後継者である基経は名と顔を売ったが、所詮はまだ少納言の一人。良房に何かあった場合、後を継ぐのは、左大臣の源信か、右大臣の良相か、ついこの間は大同団結した二人の対立がここにきて以前以上に激しくなった。

 源信であれば現在の良房の政治が継承される。良相であれば良房の進めた反律令政策は捨てられ、再び律令遵守の政治に戻る。

 この二人のどちらが良房の次の次代を担うか。これは貴族たちに選択を迫るものであった。無論、勝つと思われる側に所属することがそれである。

 この時点で優勢だったのは源信のほうである。良房の派閥のナンバー2であり、良房の後継者である基経も所属している。

 しかし、司法権は良相の側が握っている。特に、律令を前面に立てて自派の構築を図っている善男の存在が大きかった。


 貞観五(八六三)年一一月一七日、丹後国に五四人の、因幡国に五七人の新羅人が漂着した。

 彼らがどのような目的で日本にやってきたかはわからない。なぜなら彼らは素性を隠したからである。彼らは、自分たちは新羅人ではなく新羅東方の別島に住む細羅人であると主張。しかし、そのような島などないという地元の商人や漁民の声が出て怪しさが増す。

 一説によればこのときの別島というのは現在の鬱陸島ではないかとも言われている。この時代の鬱陸島は新羅の領地であり、鬱陸島の南東にある竹島が日本領であることを認める代わりに、鬱陸島とその島民を新羅が支配したのがこの時代だが、その新羅の支配から逃れるために日本に亡命してきたのではないかというのがその説である。

 ただし、彼らの言葉が正しければ、未知の島に住む未知の島民が、新羅の言葉を話し新羅の服装で船に乗って日本にやってきたのである。これは怪しくないわけがない。

 彼らの言葉を信じるとすれば、島で話されている言葉も新羅語であり、島民も新羅人であるという、漁師も商人も知らない島が日本海のどこかにあって、その島からなぜか男ばかりが船に乗って日本へやってきたということとなる。

 これを信用するのはよほどのお人好しか、一部のプロ市民のみである。とは言え、侵略ではない以上、敵として取り扱うわけにもいかない。

 京都からは、食料と水を与えて国外退去させるようにとの命令が出た。

 亡命と言わない以上、遭難したのであって、遭難者を救って故国に返すことはおかしな話ではない。

 それまでずっと中止されていた朝賀が復活したのは翌貞観六(八六四)年の一月一日のこと。

 この時期は毎年のように天候が良くなく貞観六年の元日ももその例に違わぬ大雪であったが、にも関わらず開催されたのは、清和天皇の元服の儀も併せて行われたから。

 清和天皇の元服の儀をどのようにするかはいろいろともめた。何しろ前例がないのである。前例がないのは当然で、元服もしていない若者が皇位に就いたという事例は清和天皇が史上初なのだから。

 天皇の元服という前例のない事態に慌てたのは良相であった。律令派に所属することもあり、この人自身も、善男をはじめとするブレインも、前例については詳しくても、前例のない出来事に対してゼロから思考する能力を欠いている。

 その清和天皇が一四歳となり元服してもおかしくない年齢となった。元服の儀そのものは皇族としてどのように執り行われるべきかという決まりがあるが、天皇の元服に対する明確な答えを出せなかったのである。

 一方、良房の答えは明確だった。

 これまでずっと中断されてきた朝賀を復活させると同時に元服を行うとしたのである。朝賀であれば京都中の貴族という貴族は漏れなく出席するし、新年という慶事に元服という慶事を重ねることで、さらなる国家的イベントとなる。

 良房のこの提案が受け入れられ、清和天皇の元服は国家的イベントとなった。あまりにも大きな国家的イベントとなりすぎて、肝心の朝賀が一月三日に順延されることとなったが、これなどは笑い話として京都中に広まった。

 だが、同時に良房が出した誓願は笑い話ではないことを思い知ることとなった。貴族の子弟の中にまだ元服を迎えていない者が何名かいるので、併せて元服の儀に参加させていただきたいという誓願である。

 清和天皇はその誓願を受け入れ、自分とともに元服する若者たちを、一月一日の内裏に招いた。

 このとき内裏に招かれた若者は一三名。人数だけみれば特におかしな数字ではないが、彼らの名、そして、彼らの受けた教育を知った者は、良房の誓願が全く違う意味を持ったものであることを目の当たりにした。

 一三人全員が藤原氏、それも、全員が藤原家の私塾である歓学院の在校生なのである。そして、彼らを内裏において先導して歩いているのは少納言藤原基経。

 これは、良房個人の後継を基経が引き受けるだけでなく、良房派全体の後継を清和天皇とともに元服したこの若者らがつとめるというアピールになった。

 貞観六(八六四)年一月七日、清和天皇の元服を祝うため、重犯罪者を除く罪人に恩赦を、高齢者と身体障害者、母子家庭、そして孤児へは穀物の支給を行なった。

 これは前例のあったことなので、良相も何ら戸惑うことなく主催できた。その内容は、そこまで徹底して前例に従う必要があるのかと言いたくなるほど、恩赦の基準も、支給する穀物の量も、前例と全く同じだった。

 同時に、四九名の皇族と貴族が昇格し、二名の役人が貴族に加わった。もっとも、これは一月七日の恒例でもあるので、元服の有無はあまり関係もなかったとも言える。

 だが、元服があったがゆえに明らかとなったこともある。

 上級貴族の間の序列である。

 元服を祝すためとして上級貴族からの上表文が届けられたが、その順番でもめたのである。

 トップは太政大臣の藤原良房。第二位が左大臣の源信で、第三位が右大臣の藤原良相。ここまでは明確だからいいが、問題はその下。

 咳逆病の影響もあって大納言職が空席になっていた。そのため、右大臣の下が中納言となる。このとき中納言は伴善男、平高棟、藤原氏宗の三名。さらに、中納言ではないが、正三位であるため位では彼らと肩を並べる源融がいる。

 この四人の中の誰が第四位に来るか、それは、この四人の中で誰が大納言となるかという争いでもあった。正確に言えば、伴善男一人が第四位を争っていた。

 これに対しどのような論争があったかわからないが、第四位は平高棟と決まった。善男は第五位である。

 平高棟が第四位となったのは、ついこの間まで皇族であったという要素もさることながら、この人は善男と違って、京都に留まるのではなく各地を転々とする任務をこなしてきていたという要素もある。

 つまり、これまでの貢献に対する評価としての第四位であった。平高棟にとっては、これまでの生涯がやっと認めてもらえた感激の瞬間であったろう。

 ところが、これが善男の立場となるとそうではなくなる。中央で頑張っていたのは自分であって平高棟ではない。これまでどれだけ転々としていたかは知らないが、善男に言わせれば自分のこれまでが正しく評価されていないということとなる。

 目立つ者ばかりを集めた組織は成功しない。また、スターを陰で支える人材を目立たないからと正当に評価しない組織も成功しない。スターはスターで存在するのがおかしくはないし、活躍に応じた評価も欠かすことはできないが、だからといって、スター以外を目立たないからと冷遇することは組織を破綻させる。

 縁の下の力持ちにスター以上の評価を与えるのはごく当たり前のことであり、このときの平高棟への評価も正しいものとしか言いようがない。

 貞観六(八六四)年一月一六日、大規模な人事発表があり、このとき善男が大納言に昇格した。伴家の前身である大伴家の大伴旅人が天平二(七三〇)年にが大納言に任ぜられて以来のことである。

 しかし、このときの大納言は二人の大納言の格下のほうで、格上は、同時に大納言になった平高棟だった。

 善男は人生の集大成を土足で踏みにじられたような感覚におそわれた。

 同日、清和天皇の兄である惟喬親王が常陸太守に任じられる。

 清和天皇が元服したことで、これで堂々と結婚できることとなる。とは言え、清和天皇の妻の地位はかなり前から良房の養女である藤原高子と決まっていた。そこに割って入ろうとする者は誰もおらず、この二人の関係は固まったと誰もが考えていたのである。

 とこが、ここに良相が割って入ってきた。貞観六(八六四)年一月二七日、良相が娘の藤原多美子(たみこ)を清和天皇の女御にさせた。多美子が何歳なのかは記録に残っていない。また、多美子の母が誰なのかの記録も残っていない。ある日突然記録に登場し、清和天皇の女御として姿を現した。ちなみにこのときの高子はまだ女御ではない。

 恋愛の三角関係であれば青春の一ページとなるであろうが、政略結婚の三角関係、それも朝廷の真ん中で繰り広げられる三角関係は国家の命運を左右する。

 それは、誰を清和天皇の皇后とするかであり、また、誰が皇太子の母となるかでもあった。

 そして、皇太子の母の父、つまり祖父に誰がなるかという争いでもあった。

 この争いが決着したのは貞観六(八六四)年二月二五日のこと。清和天皇が藤原良房の住まう染殿第(そめどのてい)に行幸し、桜花を見たのである。

 天皇が家臣の邸宅に足を運ぶなどあり得ないことであった。しかし、妻の父の元に足を運ぶとなると話は別である。


 貞観六(八六四)年五月二五日、駿河国から驚愕のニュースが飛び込んできた。

 富士山噴火。

 突然の轟音とともに地震が三回起こり、その直後、噴火が始まった。流れ出した溶岩は四方へと流れ北は甲斐国へ、南は太平洋へ到達。溶岩は本栖湖にも流れ込んだ。そしてこの情報が送られた時点でも富士山からの噴煙は続き、火砕流が周辺の集落に襲いかかっている。ここまでが第一報である。

 京都に情報が届いたのが五月二五日であるから、実際の噴火はそれよりも前。史料によっては五月五日に噴火が起こったとするものもあり、噴火が実際にその日であったという確証はないものの、当時の連絡システムを考えれば京都まで二〇日はかかるであろうから、五月五日というのはあながち間違いではない。

 富士山からの噴煙が途切れることなく、その流れは太平洋にまで達しているのだから、これは東海道を遮断してしまったことを意味する。

 にも関わらず、朝廷からは何のアクションもない。

 噴火が一度では完了せず延々と続いており、自然が暴れている最中に動けるほどの技術力はこの時代にはまだ無いからだが、もう一つ理由がある。

 富士山の噴火に対する対策を後回しにしてでもしていたこと、それは、恒例ともなっていた善男と源信の論争であった。

 この頃、善男が公然と、源信が謀反を企んでいるという告発を繰り返すようになった。

 謀反人扱いされた源信も黙ってはいなかった。いかなる理由で自分を謀反人と扱うのかを明確にするように訴えた。

 これに対する善男の主張はいつも同じだった。

 幼き天皇を陰で操り、私利私欲をむさぼって自分たち一族だけの隆盛しか考えず、おかげで民は苦しみ、天罰たる天災が起こった。

 一つ一つはまるっきりの嘘ではない。

 清和天皇が幼いのは事実だし、左大臣とは言え、太政大臣もいる以上、人臣のトップではなく、陰で支えるナンバー2を役割としなければならない。元々が皇族である上に左大臣としての報酬を得ているから貧乏ではないし、源氏のトップとしての役割を負っているから一族の面倒を見るのも当然といえば当然。それに、源氏はついこの間まで皇族であった者ばかりなので、貴族デビュー時のスタートラインが高く、その結果、地位の高い者が数多くいる。

 不況と不作で民衆が苦しんでいるのも事実であるし、富士山の噴火も事実である。

 だが、それと謀反とがどうつながるのか、善男は明らかにしなかった。善男の意見によればこれで謀反たるに充分な証拠ということであるが、源信にとっては言いがかりも甚だしい。

 おまけに、富士山の噴火の対策に乗り出さなければならないというのに、毎日々々、左大臣の謀反を訴えて議論をそれだけにしてしまう。

 善男は自分が正しいことをしていると確信していたが、噴火の被害者にとっては、一刻を争う事態にも関わらず下らないことに議論を集中させる、とんでもない税金泥棒にしか思えなかった。

 貞観六(八六四)年七月一七日、甲斐国から富士山噴火に関する第二報が届いた。

 溶岩が富士山から北に流れ、富士山の北にあった湖のうち本栖湖と、セ湖(せのうみ。「セ」は「戈」を二つ縦に並べ、右に「リ」(りっとう)と記す。)の二つの湖に流入し、湖の大部分を埋めてしまった。湖の残された部分も流れ込んだ溶岩のせいで熱湯となり、湖の生き物が死滅してしまった。

 また、数多くの家屋が溶岩の下敷きとなってしまい、その被害者の数は推し量ることもできない。

 溶岩の別の流れは富士の東の河口湖へと向かっており、河口湖が溶岩で埋まってしまうのも時間の問題である。

 貞観六(八六四)年八月五日には、甲斐国の国司から、富士山の噴火は自らの不敬のいたすところであり、富士山を祀っている浅間神社への奉納をしたという連絡も来たが、それでどうこうなる問題ではなかった。

 朝廷からは、現在もなお続いている噴火に対する情報を送るようにという命令と、被災者の救援だけではなく、現在被害を受けていなくてもこれから先被害を受ける可能性のある地域に住む者も非難させよという命令が出された。

 なお、このときの噴火でセ湖の七割は埋まってしまったため、セ湖という湖は残っていない。その代わりに残っているのは、埋まらなかった残る三割である西湖と精進湖。

 山にしろ川にしろ湖にしろ、自然の光景は人類誕生以前から存在するのが普通であり、唐代の詩人である杜甫も「國破山河在(国破れて山河あり)」と、人の作ったものは壊れても自然のものは残り続けることを詠っている。だが、西湖と精進湖の二つの湖は人類の歴史より新しい。それも、何年何月に誕生したかの記録が残っている珍しい例である。

 ちなみに、この二つの湖は元が同じ一つの湖であっただけでなく、間を埋めたのが溶岩、つまり密集していないスカスカな岩石であるため、水がつながっている。そのため、西湖と精進湖の水位は常に等しい。


 貞観六(八六四)年一一月七日、この日、奈良の現状を伝える連絡が大和国から伝わってきた。

 首都でなくなってから七七年、平城上皇の起こした奈良の反乱からもすでに半世紀を経ており、平城京は平城京跡地となっていた。奈良に住む者は東大寺を最後の誇りとする生活を送っていたが、都市としての崩壊はすさまじく、空虚となった家屋は取り壊され、計画されて敷かれた道路は道路ではなくなっていた。

 では、道路が道路ではなく何になっていたのか。そして、壊された家屋はどうなったのか。

 田畑にされたのである。

 墾田永年私財法により、新たに開墾した土地は自分のものとできる。その拡大解釈が展開され、無人の家屋が取り壊され、朱雀大路をはじめとする整備された道路が田畑へと変貌してしまった。

 かつての国内最大都市の現状を憂う者は多かったが、奈良を救おうと考える者は居なかった。それまでは首都であったがゆえに交通が集中し国の中心であった都市から首都機能が失われ、数多くの寺院の門前町である以外に特色の無くなった奈良では、首都機能を持てるだけの施設が帰って負担となっていた。

 生活の苦しくなった庶民にとって、横幅の広い道路は壮麗ではあっても無意味な存在だった。その上、首都であったということは三〇万人もの市民が生活できるだけの上下水が確保できるということである。これは田畑が必要とする水量としても充分だった。

 かつての首都の破壊を取り締まるべきと主張する意見は少数に留まった。もう使わない都市を維持することのメリットはないと考えた貴族は多く、ここで田畑を増やせばそれだけ国全体の収穫も増す。

 既に首都ではなくなった都市の維持を公式に停止し、廃墟の利用に関しては治安維持を前提として黙認するとした。

 貞観六(八六四)年一二月一〇日、富士山噴火の犠牲の大きかった駿河国からの第二報が届いた。第一報を届けて以後駿河国からの報告は一切無く、被害状況は全て甲斐国からの報告のみであったため、噴火後半年を経たこの時の報告がやっと第二報となる。

 駿河国からの報告は、富士山の噴火により東海道が埋まってしまったという内容であった。京都から東国に向かう最も一般的なルートは東海道。今回の噴火は駿河に多大な被害が出ただけでなく、その途中が噴火で埋まってしまったために京都と関東の交通が遮断されてしまった。

 この当時、街道には約三〇里(当時の一里は約五四〇メートル。三〇里はおよそ一六キロメートル)毎に、旅人の宿舎として、また、馬の乗り継ぎ施設としての「駅」が設けられていた。徒歩の旅人にとっては駅で一晩過ごすのが普通であり、急ぎの使者である場合は駅から駅まで馬で移動し、駅に着いたら新しい馬に乗り換えて次の駅まで移動する。本人が行くこともあるし、書状だけを次の人に渡して移動することもある。ちなみに、リレー形式で行われる長距離走を「駅伝」というのはここから来ている。

 この駅伝の語源となった「駅」のうち、駿河国内の、横走駅、永倉駅、柏原駅の三ヶ所が機能しなくなったのである。溶岩に埋まってしまったわけではない。駅を維持するだけの人と資産が失われてしまった。駅に関係する者だけでも四〇〇名もの命がこの噴火で失われてしまったのだ。

 駅の維持管理はその地域の人の責任とされた。駅にやってきた旅人の宿泊はその人が国命による旅をしている人ならば無料であり、旅人の食事も駅が負担する。馬の飼育も、馬の貸し出しも国命ならば無料で、隣の駅まで移動した馬を引き取るのも駅の役割であった。

 その代わり、駅の維持のための田畑が支給されており、その田畑からの収穫は無税とされていた。田畑の収穫を駅の維持管理のために使ったあとで残った余りは耕した者の役得とされただけでなく、国命による移動となるとその大部分が役人であり、それ以外の利用者は貴族と皇族に限られる。特権階級に接することの少ない地方の一般庶民にとって、その数少ない例外である駅の周辺住民は、一般庶民の身分から脱するチャンスにも恵まれていた。

 駅での気配りから貴族の側用人に引き立てられた者や、このときに一晩を過ごして旅人の子を宿したり、宿すことがなくても妻や愛人としてそれまでの庶民の暮らしから脱したりということもあった。

 ただし、それらは全て田畑が無事に耕され無事に収穫を上げることが前提であった。

 噴火はその前提の両方を台無しにした。田畑が火山灰で埋まり、田畑を耕す人が噴火で亡くなってしまったのである。

 駿河国からは、早急な駅の復旧が不可能であると伝えてきた、四〇〇名の命が失われたことは看過できるものではなく、駅の復旧以前に被災者とその家族の生活再建が最優先されることであった。

 駿河国からの申し出は、機能しなくなった三つの駅のうち、最も被害の激しかった柏原駅を廃止し、比較的被害の少なかった蒲原に新たな駅を設置するというものであった。なお、残る横走駅と永倉駅に関しては復旧するまでの一時休止とし、復旧次第再開するとしている。

 朝廷はこの申し出を許可した。

 貞観六(八六四)年一二月二六日、富士山の噴火を思い出させるような連絡が太宰府から届いた。

 遡る一〇月三日の夜、肥後国の阿蘇山が火山活動を起こし、噴火口である「神霊池」から轟音が鳴り響いて、噴火口の溶岩が空中に吹き出た。富士山で起きたのと同じような噴火である。

 吹き出した溶岩は東南へ流れ、およそ一〇町(約一キロメートル)四方に渡って壊滅的なダメージを与えた。ただし、人的被害については記録に残っていない。現在もそうであるが、阿蘇山の火口付近はこの当時から聖域とされており、最も火口に近いところでも一〇町(約一キロメートル)は離れないと人家がない。人家がないというのは、聖域であるからというのはあくまでも名目で、火山噴火に対する安全策の意味が大きいのだろう。

 結局、太宰府から届いたのは肥後国で噴火があったという記録だけであり、被害の様子がどれだけあったのかということが全くわからない。

 それでもこの事態は緊急事態であると朝廷は判断。富士山の噴火と合わせ、この二つの自然災害への鎮魂のため、復活させたばかりの朝賀を自粛し、貞観七年度は中止するとの布告が早々になされた。

 そして、この二つの災害の慰霊のため、貞観七(八六五)年一月四日から一七日間にわたって、京都と奈良の一五の寺院、および、日本全国の国分寺と国分尼寺で大般若経の転読をするよう命じた。オカルトには興味のない清和天皇であっても、ここで何らアクションを起こさないのは執政者としてあり得ない。

 そして、一切の政務が自粛となり、朝廷内では新年恒例の行事が自粛された。その影響で、いつもなら一月七日に行われる昇格発表がこの年は延期となった。

 この自粛は、それまで決して手をつけられることのなかった聖域にも及んだ。

 貞観七(八六五)年一月二五日、親王の支給金の削減に乗り出したのである。

 男性の皇族には二種類ある。

 名前の後ろに「親王(しんのう)」とつく皇族と、「王」しかつかない皇族である。

 この二種の皇族のうち格上なのは「親王」で、親王を名乗ることができるのは、皇族のうち親王宣下(しんのうせんげ)を受けた者のみである。たとえ天皇の子であっても親王宣下を受けなければただの「王」であり、皇族として一段下に見られる。

 そして、この「王」の称号は国外の「王」と同等とみなされる。

 中国とその周辺では、中国のトップが「皇帝」で、その他の国では最高位者でも「王」に留まるが、日本のトップはあくまでも「天皇」であり、天皇は皇帝と同格である。中国の歴代王朝は日本のこの制度を苦々しく思っていたが、中国との関係を考慮しなければ国家存亡に関わる国ならともかく、日本は中国を必要としない国であるということになっている。つまり、中国の支配を受け入れない。

 この当時の日本の公式見解によれば、日本とその周辺の地域の関係は、天皇がトップであり、親王がその下に来て、王が三番目。すなわち、新羅にしろ渤海にしろ、トップの称号が「王」である地域というのは、国内では最高権力者であっても日本との関係ではトップの下の下である臣下の一人に過ぎない。

 人臣はその「王」の下にある存在であり、「王」や「親王」が人臣に降りることはあっても、人臣が上に昇ることは許されない。だから、人臣である貴族は他国の王を目上としては扱う。ただし、天皇よりは格下の存在と見なすので最高敬意を示すことはしない。

 さて、その親王であるが、格上だからと言って必ずしも誰もが親王になることを望んだわけではなかった。桓武天皇以後、親王は政治の実権から遠ざけられたからである。例外は皇位継承権を持つ者で、皇太子などの一部の者は政治権力を持つと同時に親王の地位を取得できた。

 それ以外の親王は政治から遠ざけられていた。つまり、下手に親王になってしまうと権力から遠ざけられてしまい、親王として与えられる支給金だけが生活費となる。これを考えるのであれば、親王にならずに王のままに留まり、貴族と地位を争うことで役職を手にするほうが良い暮らしとなる可能性が高い。

 ところが良房は、親王の支給金の削減を提唱した。

 これは権力だけでなく生活も奪われてしまうことを意味する。

 当然のことながら親王たちは反発する。しかし、二つの山の噴火という自粛やむなしの事態に加え、復旧費用捻出が急務であるという現実を前にしては、親王達の反発も小さなものとならざるを得なかった。

 自粛期間の明けた貞観七(八六五)年一月二七日、大幅な人事異動があった。

 目玉は噴火の被災地域である。

 富士山噴火が今なお続く駿河国には従五位下の布勢冬雄が、阿蘇山噴火から間もない肥後国には従五位上の紀夏井(きのなつい)が選ばれた。

 布勢冬雄の詳伝は伝わっていない。しかし、紀夏井であれば詳伝が残っている。

 生年は不明だが、紀夏井にとってこのときの肥後国司就任は自身三ヶ国目の赴任地であるから、従五位上とはいえそれなりの年齢ではあったはずである。

 特に二番目の赴任地である讃岐国での紀夏井の活躍は都にも名をとどろかせるものであった。善政を心がけることは国司であれば当然であるが、紀夏井のそれは他の追随を許さない。収穫に恵まれたこともあったが、法に定められよりも税率を抑えることで農家は潤い、穀物を蓄える倉庫を競うように増築したほどである。

 紀夏井が国司であった頃は盗賊の心配も海賊の心配もない平和で豊かな日々であり、任期満了を迎えたため都へ帰ろうとした紀夏井を引き留めるために農民が国衙に殺到し収拾がつかなくなったため、朝廷は紀夏井の任期を二年延長したほどである。

 さらに、他の国司が自分の財産を殖やしてから都に帰ったのに対し、紀夏井が任地で手にした物のうち都に持ち帰ったのは、愛用していた筆と、事務上必要な記録を記した紙だけ。そのほかは、着るものも、食器も、全て赴任するときに都から持ち込んだものをそのまま持ち帰っただけであった。

 清廉潔白をそのまま絵にしたような人物であり、結果も出し、人気もあった。

 その紀夏井を国司として肥後に送り込むということは、阿蘇山噴火に苦しむ肥後国に最高の人材を送り込むこととなる。

 紀夏井だけが評伝を残し、布勢冬雄はこのとき駿河国司に任命されて駿河に派遣されたというだけであるが、今のこの時期に選ぶ国司がただ者であるとは考えられない。

 史料に残っている記録を見る限りでは、このときの駿河国司が貴族としての初の官職である。ゆえに、貴族としてどれだけの功績を残してきた人物なのかが全くわからない。だが、この緊急事態に駿河国に派遣されるのである。位は低いが地方自治に抜群の才能を示すと考えたが故の派遣であろう。

 災害のあった二ヶ国については新たな国司を派遣することに対して誰も何も文句を言わなかった。

 しかし、その他の国司に対しては善男が苦言を延べている。思い切って若者を抜擢するのはよいが、それらの若者の中には国司としての資質にいささかな不安を持たなければならない者もいる。ゆえに、国司の勤務は厳密に測らねばならず、特に国庫への租税を怠った場合はただちに処罰すべきであるとの意見を示した。

 これには異論の出るところもなく、貞観七(八六五)年三月二日、税の国庫納入に不備があった場合は国司を厳罰に処すとの結論が出された。

 ただし、三月七日、良房はここで一つの罠を仕掛けている。

 国司を含む貴族の犯した罪を裁く権限は刑部省にあるとしたのである。本来ならば、逮捕、裁判、刑の執行を司る役職であるが、その全ての役職が事実上検非違使に奪われてしまっており、刑部省が名誉職となって久しい。

 しかし、律令制においてはあくまでも刑部省が裁判権を持つのであって、検非違使が犯罪者を逮捕したとしてもその裁判は刑部省に委ねられる。

 つまり、検非違使に影響力を及ぼせる善男がその権力を良房派の国司追放のために利用しようとしたとしても、貴族である国司は刑部省の裁判を待たなければならない。そして、良房は刑部省に対してならば睨みを利かすことができた。

 正躬王の死去に伴い刑部省のトップである刑部卿が空席となっていたのである。この地位に良房の息のかかった者を就けるなど簡単なことであった。

 貞観七(八六五)年五月一三日、承和の変で隠岐に追放されていた伴健岑が京都に呼び戻されることとなった。

 追放されてから二十三年、隠岐で流人として暮らしていた伴健岑のことが突然思い出されたのか、京都では伴健岑がまだ存命であることがちょっとしたニュースとなった。

 同じ一族の者が受けている悲劇ということもあり、伴善男は伴健岑の追放を解除し、ただちに京都に呼び戻すよう上奏する。

 ただ、一年しか隠岐にいなかった小野篁が隠岐で数多くの伝説を残していたのに対し、二十三年もいたにも関わらず伴健岑は隠岐で何の伝説も残していない。

 隠岐に滞在していたことの記録だけならば残っている。ただ、滞在していたという記録だけで隠岐で何をしていたのかという記録はない。隠岐に設営された牢獄に閉じこめられていたのか、国司に勤める役人となったのか、農村に住む一市民となったのか、全くわからない。

 隠岐で生きていた伴健岑の追放が解除され京都に呼び戻されると決まったとき、京都では特に反対する者はいなかった。

 ところが、肝心の同行者が反対したのである。手続きに従えば、いくら追放解除となったと言っても京都に戻されるまでは罪人であり、京都に戻ってはじめて無罪放免となる。だから、京都に着くまでは罪人として扱われ、連行される罪人の周囲を固める役人達が最後まで同行する。

 その役人が伴健岑を京都に連れて行くことを拒否したのである。その代わりに届いたのは、出雲で伴健岑が留め置かれることとなったという事後報告だけ。この知らせを聞いた善男は複雑な思いを示した。

 本来であれば出雲に留めるのではなく京都に帰還させるべきところなのだから、その薬務を果たすよう命じるところである。しかし、京都に帰還させるのに相応しくないと現場が判断した以上、未だ罪人である伴健岑に対する現場判断に京都から指図することは難しかった。

 隠岐に追放されてから二十三年間、全く消息が掴めなかった伴健岑が隠岐でどのような暮らしを送っていたのかわからないというのは先に記した通りだが、隠岐にいる誰もが伴健岑のことを知らないでいたというわけではない。

 相当な可能性で同行した役人達は伴健岑のことを知っている。

 彼らは考えたのだろう。伴健岑をこのまま京都に戻したらどうなるか。

 まず、猛烈な良房批判を展開するだろう。そして、承和の変自体が良房の捏造であり、自分はその被害者であると主張するであろう。承和の変を否定するということは、文徳天皇、さらには清和天皇を否定するということでもある。

 その上、伴健岑は隠岐にプラスになることを何もしていない。小野篁は隠岐に追放された後、自らに課された罪を受け入れはしても政権批判は欠かさなかった。しかし、隠岐の人のために力を尽くしたこともあって、隠岐の人々は小野篁のことを恩人と見た。

 一方、伴健岑はその動きが全くない。まるで伴健岑など居なかったかのように隠岐の歴史から抹殺されており、滞在していたという記録しか残っていない。

 島流しにあった者は国から一定量の食料が支給される。つまり、働かないで生きていける。一方、役人は働かなければ生きていけない。下級役人ともなると、役人としてだけでは生きていけないので自分で田畑を耕し、船に乗って海産物を獲ってくる暮らしを平行しなければならなず、隠岐の暮らしの現実を身をもって体験することにもなる。

 伴健岑が隠岐に来て二十三年。病死した者もいる。餓死した者もいる。生きていてもゆとりのある暮らしではない者ばかりである。

 役人たちは、この現実の前に何もしないでいる伴健岑を許せなかったのではないであろうか。

 同じ追放者であっても、篁は自分への支給を隠岐の貧しい孤児達に全て寄付し、自らの住まいまで提供した。しかし、伴健岑にはその記録もない。ないということは、支給された食料と家で安穏とした暮らしをしていたということである。

 その隠岐での暮らしが終わって京都に戻れるとなったとき、伴健岑は貴族に戻れる。それは役人達からすれば永遠に手の届くことのない暮らしであろう。同じ京都帰還でも、隠岐のために骨を折った篁の帰還は純粋に感激できたのに、何もしなかった伴健岑の帰還は納得できなかった。


 貞観元(八五九)年に発行された新通貨「饒益神宝」はそこそこ流通していたが、その流通はあまり進んでいなかった。品質が余りにも悪く、表面に記されている「饒益神宝」の印字も読み取れないものが多かった。

 となると、偽物が大量に出回ることとなる。本物の品質が悪いのだから、偽物の品質が悪くてもそれが偽物と見破られることはない。

 その上、新通貨は旧通貨の一〇枚分の価値がある。これは新通貨が流通するたびに行われたデノミの結果であり、饒益神宝一枚は長年大宝一〇枚、長年大宝一枚は承和昌宝一〇枚、承和昌宝一枚は富寿神宝一〇枚だから、饒益神宝一枚は富寿神宝一〇〇〇枚となる。にも関わらず、それぞれの貨幣の素材は大して変わらない。

 つまり、富寿神宝を富寿神宝として持っていたら大損となってしまうが、石などで表面を潰して読めなくしてしまえばたちまち一〇〇〇倍の価値を持つ饒益神宝として通用してしまう。

 が、それを掴まされた側はたまったものではない。偽金を偽金と知らずに受け取って商品を渡し、その受け取った貨幣を持って別の店で買おうとしたら偽金だと扱われて売ってくれなくなるのだから。

 貨幣は商品と交換できるから価値があるので、何物とも交換できなければただの金属の固まりでしかない。

 その結果、店では貨幣を受け取るときの検査が厳しくなり、さらには穀物や布などの現物との交換のほうがスムーズになるようになってしまった。

 この結果訪れたのは経済の停滞である。

 朝廷もこの問題は重要視していたが、施策は有効ではなかった。貞観七(八六五)年六月一〇日、五畿と近江国の売買で悪銭を選んで捨てることを禁じたのである。文字が読み取れなかったり模様が不鮮明であったりと、本物か偽物か区別がつかないときは本物の貨幣として扱えと言うのだからこれは無茶な要求である。

 とは言え、朝廷の言い分も全く理解できないわけではない。朝から晩まで懸命に働いて手にした給金が何の役にも立たない金属片として扱われてしまい、泣き寝入りさせられるケースや、貨幣として認める認めないで殴り合いのケンカに発展するケースが頻発していたのである。貨幣を貨幣として扱わせることは庶民の生活を維持するのに欠かせないことであった。

 この時期に禁止されたのがもう一つある。

 貞観七(八六五)年六月一四日、御霊会を勝手に開催することが禁止された。

 前年開催された御霊会(ごりょうえ)が大盛況に終わったことをビッグビジネスのチャンスと考える者が多かった。読経まではいいにしても、歌があり、踊りがあり、相撲に熱狂し、弓矢に殺到する。多くの人々が動けばその人々を相手にする商売が登場するため、多くのイベンターが御霊会を企画し、京都内外のあちこちで勝手に御霊会が開催されるまでになった。

 本来は霊を鎮めるための御霊会なのに、踊りが拡大解釈されてストリップショーと言いたくなる露出になり、御霊会につきものとということで弓矢を用意するまではいいが、安全への配慮が欠けているため矢が人混みへと飛んでいくことも起こった。さらに、こうしたイベントはエスカレートする性格を持っている。同じ弓矢を射るのでも、立ったまま射るより馬に乗って矢を放つほうが、さらに馬を走らせて射るほうが、これが発展して暴れ馬に乗ったままアクロバティックに弓矢を射るほうが人々の関心を集めるため、御霊会の会場で馬が暴れ回ることとなった。

 これは危険である上に、御霊会を名乗りながら読経もなければ歌も踊りもなく、金だけ集めて主催者が行方をくらますというサギまがいの御霊会が開催されるとなると、これは放っておくわけにはいかなくなる。

 とは言え、御霊会は庶民の数少ない娯楽である。御霊会そのものを廃止にすると反発も大きい。そのため、朝廷は御霊会の存続を試行錯誤し、この四年後、祇園祭として成立することとなる。

 遣唐使の正式廃止はまだだが、もう四半世紀以上遣唐使の派遣が途絶えている。新羅への使節派遣はとっくに廃止されており、新羅から日本に使節を送ってくることもない。唯一存在する正式な国交は渤海だけだが、渤海から貞観三(八六一)年に使節を送ってきたばかりなので次の使節派遣まではまだまだ先。

 つまり、この時期は日本の正式な対外交渉がゼロという時期である。

 正式な国交がゼロでも民間交流ならあるのが普通だが、この時期は記録に残る民間交流も減ってきていた。理由は単純で、記録に残る交易をすると儲からなかったから。

 渤海使は日本海沿岸のどこに着くかわからなかったし、どこに着いても正式な使節として扱われたから問題ない。問題は、その他の国からやってきた商人。

 律令に従えば、民間交易による輸入品には税がかけられることとなっている。関税という言葉はまだ無かったが、発想としては現在の関税と同じ。

 だが、関税を払ってもなお正式な交易としたほうが利益になる商品はそう多くない。普通は、関税がかかる正式な通商より関税のかからない闇の通商のほうが利益になる。

 その結果、対外交渉が国にも把握できない交易ばかりとなってしまった。

 関税が減ってしまうということもあるが、正式な通商でないと、商人と海賊が紙一重になってしまう。朝廷はこの状況に対処するため、貞観七(八六五)年七月二七日に正式な手続きを経て来日した唐の商人の李延孝ら六三人の日本滞在に太宰府の鴻臚館があてがうという厚遇を用意し、それを大々的に発表した。

 鴻臚館とは現在で言う迎賓館であり、また、日本から国外に使節が派遣されるとき、使節に任命されてから出航するまでの宿泊施設として利用されていた。鴻臚館は京都と太宰府の二ヶ所にあり、太宰府の鴻臚館は、唐や新羅からやってきた使節の最初の宿泊施設であり、これから唐へ向かう日本からの使節の出航前の最後の宿泊施設である。

 この、本来ならば国の正式使節が泊まる建物に一介の商人が泊まるというのは極めて異例であった。

 しかし、この厚遇は大々的に宣伝されたが、闇取引が減ることはなかった。

 朝廷もそれを認めねばならなかった。ただし、闇取引が増えるということは犯罪が増えるということである。そして、その圧倒的大多数が新羅からの“商人”の行なう海賊行為であった。

 朝廷は日本海沿岸の能登、因幡、伯耆、出雲、隠岐、石見、長門の各国と、太宰府に沿岸警備の強化を命令した。海賊の被害が多かった地域だからである。

 およそ一年半アクションのなかった富士山の噴火についての続報が貞観七(八六五)年一二月九日になってやっと登場する。

 この日、富士山頂の所有権を浅間明神に移し、浅間明神を国の直轄管理とすると発表された。これにより、神社の格式として、富士山頂は伊勢神宮や出雲大社と肩を並べることとなった。

 このときの布告文に、前年五月の初回の噴火以後断続的に噴火が続き、その被害のため数多くの民衆の命が失われていることが記されている。

 また、この地域を襲ったのは噴火だけではなかった。噴火をきっかけとする地震が起こり、台風が襲来し、この二つが重なって地滑りが起こり、溶岩ではなく山肌で生き埋めになった者が続出したことも記されている。

 さらに、そのあとで伝染病が待ち構えていたことも記されている。

 災害のあとの恒例と言ってしまえばそれまでだが、一人一人の人生にとっては恒例だなどと言えない。噴火で田畑を奪われ、地震で住まいを奪われ、伝染病で命を奪われてしまったのだ。

 語り尽くすことのできない悲劇が富士山の周囲を襲い、甲斐国からも駿河国からも喜べる要素の全くない連絡しか来なかった。

 この報告に応えることができたのは、税の減免と神頼みだけだった。

 と同時に、富士山山頂の帰属が曖昧になった。

 現在、富士山が静岡県のものか山梨県のものかははっきりしていない。県境は山の途中の八合目で終わっており、それより上はどちらの県のものか判明していない。

 だが、この時代ははっきりしていた。富士山は駿河国にある山で、富士山より北が甲斐国という認識だったのである。この時代の記録にも甲斐国から「駿河国富士山噴火」という連絡があったことが記されており、甲斐国の住民の意識の中には自分たちの住まいの南にある駿河国の山という思いしかなかった。

 ところが、その富士山が噴火し自分たちの生活を破壊した。これに対処するため富士山を祀っている浅間神社を富士山頂の管理者にし、浅間神社を国の直轄とすると決まった。

 その浅間明神は甲斐国の神社である。これにより、富士山頂の帰属が駿河国から甲斐国へと移動となった。

 結果、富士山がどちらの国のものなのかわからなくなった。


 この年の暮れ、一つのニュースが内裏に渡った。

 貞観七(八六五)年一二月二七日、藤原高子が正式な清和天皇女御となった。清和天皇の妻となることを定められながら、二四歳になったこの年まで正式な妻ではなかったのである。

 しかも、養父である良房の娘としてではなく、あくまでも亡き藤原長良の娘として入内した。高子が在原業平と浮き名を流していたことは既に記した。業平にとっては数多くの恋愛の一つでも、高子にとっては人生最大の恋愛であり、このときまでは唯一人の恋愛対象であった。

 さすがに二四歳ともなれば、業平が自分に求めていたのは何だったのか理解する。また、清和天皇の側に仕えて七年になる。いくら清和天皇が歳下であってももう大人になったし、その清和天皇が自分を愛してくれる人だと知るには充分な時間であった。

 それでも高子は躊躇した。養父の権勢のために人生を狂わされ、恋愛を破壊されたのである。嫁がされた先は九歳も年下の元服もしていない少年のところというのがどうしても納得できなかった。

 その抵抗の結果が女御としての入内だった。養父の権勢を見ても、実父の経歴を見ても、女御ではなく一段上の中宮として入内してもおかしくはなかった。だが、高子は女御として入内した。

 この時代の天皇の妻の位は以下の通りとなっている。

 まず、皇后が一人だけいる。

 次いで、中宮が複数名いる。人数制限はないが、二桁に達することはまずない。

 女御は中宮の下だから、多美子も高子も、天皇の妻としては三番目の地位にいることとなる。ただし、この時点の清和天皇には皇后も中宮もいないので、事実上のトップではある。なお、女御にも人数制限はない。

 女御の下には更衣がいる。更衣は人数制限があり最高一二名。

 更衣から下は、天皇の妻というより女官となる。その中のトップ、つまり更衣の下に就くのが御息所(みやすんどころ)と御匣殿(みくしげどの)。どちらもその勤務する部屋の名前がそのまま地位となったものであり、ある程度の期間を経ると更衣に昇格できた。

 こうした役の下で完全な事務方となるのが尚侍(ないしのかみ)である。しかし、それでも希望がないわけではない。平城天皇の尚侍であった藤原薬子という例が存在するからである。尚侍までは天皇の寵愛を受ける可能性があった。

 貞観八(八六六)年一月一日、朝賀中止。前年に続く自粛ムードが行事を中止に追い込んだ。

 しかし、前年中断されていた昇格がこの年は発表になっている。

 貞観八(八六六)年一月七日、二四名の皇族と貴族が昇格し、二七名の役人が新たに貴族に加わった。このとき、基経が参議となり従四位上の位が与えられた。

 貞観八(八六六)年一月一三日、三九名の皇族と貴族に新たな役職が与えられた。このとき、後に基経の右腕となる源能有が加賀守国司に任命される。また、後に光孝天皇となる時康親王がこのとき太宰師に任命された。ただし、実際に太宰府に赴くわけではなく、京都市内に留まっている。政治に携わることのできない親王向けの名誉職として太宰師が利用された例である。

 この時期、律令派と良房派の関係は、良房派がリードしているものの、律令派も完全な劣勢ではなかった。

 清和天皇の二人の女御は両派から一人ずつ出している。

 太政大臣という絶大な存在を持つ人物がいるが、左大臣と右大臣という二人は両派で一名ずつ分け合っている。

 大納言も中納言も参議も両派が入り乱れており、相互に争う光景が日常化している。

 その中でも特に左大臣源信と大納言伴善男の論争は日常の光景となっており、同時に、源信が率いる嵯峨源氏と、善男が率いる伴氏の争いとしても展開されている。なお、藤原家は一族内が二分されているが、良房の存在もあって良房派の勢力のほうが強い。

 ちなみに、藤原家という言い方をするが、良房と良相が同じ家に住んでいるわけではない。良相の邸宅は他の貴族があまり建てなかった右京に存在しており、建物の名は西三条第と呼ばれている。ただし、右京にあり、西三条にあったことまではわかるのだが、三条というのは平安京を東西に走る道の名の一つであり、南北ではどのあたりにあったのかが判明しているものの、東西の位置がわからない。おそらくであるが、現在のJR二条駅の南端あたりではないかと言われているがはっきりとはしない。

 一方、良房の住まいも実はよくわかっていない。藤原家の住まいとして名高い東三条殿(現在の釜座通のあたり)を建てたのは良房と言われているが、良房が東三条殿に住んでいたという記録はない。かつての左大臣源常が東三条殿に住んでいたとする記録もあり、また、その住まいは良房の住まいのすぐ近くであったという記録もあるので、おそらくこのあたりなのであろうという推測が立つのみである。

 その代わりに存在するのが、咳逆病で倒れてからの良房がそれまで住んでいた邸宅を出て、娘の明子の住む染殿第に移ったという記録である。


東三条院址。今は普通の住宅地となっている。

平成二二年八月撮影。


 貞観八(八六六)年三月二三日、清和天皇が右大臣藤原良相の住まいである西三条第に行幸した。女御の父の家であり、婿が義父の家に足を運んだと言うことになる。

 清和天皇に限ったことではないが、天皇が家臣の邸宅に足を運ぶことは決して珍しくはない。良房はこれまでに何度か自宅に清和天皇を招いており、この日も清和天皇にとっては特別な一日ではなかった。強いて挙げれば、良相の邸宅に足を運ぶのがはじめてということぐらいである。

 ところが、これを良相は特別な一日と考えてしまうのである。

 この一日は、自分が次の時代を掴むことの決まった一日だと。

 兄がやったように娘を天皇の妻とすることで未来の権力を握ったと考えた良相は、自身の所属する律令派へのさらなる接近を図る。

 藤原家の貧困者の救援に当たったこともあり、一族内での評価も上がってきてはいる。だが、藤原家のトップは良房であり、藤原家の若者は基経に率いられて内裏に行き清和天皇と一緒に元服をした。藤原家のために尽くしても、良相は藤原家を味方にすることができなかったのだ。

 だが、律令派は違う。

 現状を批判するが具体的な策はなく、社会的評価が低いので権力も手に入らない。頭が良いか悪いかと言われれば、知識はある、とは言える。ただし、智慧はない。理想があって、今は理想どおりではないと考えるところまではいいが、できるとすれば良房ら実権を握っている者の批判だけ。

 敵とするには恐ろしいが味方としては頼りない。それでも一応の数はいるので派閥としての勢力も持っている。

 この律令派に深く接触することが自身の権威と権力を固めるのに欠かせないと考えた良相は、清和天皇の行幸に併せ、善男をはじめとする律令派の面々を自宅に招いた。

 ここで清和天皇と接することのできた貴族の中には律令派に加わったことを間違ってはいなかったと考えた者もいた。そこまでは問題ないが、それが反律令派の貴族に対する差別感情となると問題になる。

 優越感をむき出しにして他者を貶す律令派の貴族たち、そして、その態度への反感を強める良房派の貴族たちという対立が深まった。

 これに対する良房の反応は早かった。

 貞観八(八六六)年閏三月一日に清和天皇を染殿第に招いたのである。

 染殿第というのは平安京の北東にあった邸宅で、文徳天皇亡き後、皇太后となった良房の娘である藤原明子が居を構えていた。位置で言うと現在の京都御苑の敷地内、京都迎賓館の位置になる。このあたりは政界をリタイアして隠居生活を送った人のセカンドライフを過ごすための邸宅が並ぶ地域であり、一つ一つの家が大きい代わりに人口密度は高くない。夫である文徳天皇を亡くした明子がこの染殿第に居を構えることは特におかしなことではなかった。

 そして、清和天皇にとっては母の暮らす邸宅を訪問するのであるから訪問することもまたおかしなことではない。

 ところが、咳逆病に倒れた良房が流行病を周囲に広げないようにとこの染殿第に移り住んでいたことを踏まえると簡単に済む話ではなくなる。

 名目上は母の訪問であっても事実上は太政大臣の住まいへの訪問であり、染殿第に詰めかけていたのは良房派の貴族たち、そして、事前に予告していただけあって数多くの市民が押し寄せた。

 染殿第は桜が有名で、清和天皇は母を訪ねるときの名目として染殿第の桜を見に行くとなっていたし、以前から桜を見に来る市民も多かった。

 奈良時代は「花=梅」であった。しかし、「花=梅」であったのは中国文化をそのままマネただけであり日本人の感覚には合わなかった。実際、古事記や日本書紀に残されている和歌は「花=桜」で、「花=梅」となっていたのは天武朝の時期に限定される。

 桜が日本の花であり民衆に広く受け入れられる花であるというのは、右近衛府の建物に植える樹木の選択でも見て取れる。元々は中国に倣って梅を植えていたのだが、枯れてしまったので次の樹木を植えなければならないという上奏文が出されたとき、それまでの慣例に倣って梅とすべきところを、仁明天皇の鶴の一声で桜となり、それまで近づき難く見られていた右近衛府が一転して桜の名所として民衆の集まる場所となったという記録がある。

 染殿第に桜が植えられていたのも同じ理由。人通りの少ない閑静な住宅街であるが、桜の時期は桜目当てで数多くの市民が集い、桜目当ての市民とのふれあいが夫亡き後の明子の数少ない愉しみとなっていた。

 このときの清和天皇の行幸は良相の邸宅に足を運んだときとは大違いであった。律令派の貴族しかいなかった良相の邸宅と、数多くの市民が詰めかけた染殿第。この対比は、二つの派閥に対する市民感情を大いに左右した。


 この状況下で京都中を揺るがせる大事件が起こる。

 貞観八(八六六)年閏三月一〇日夜、何の前触れもなく応天門が燃えだした。出火場所は応天門の二階。それから一階へと広がり、応天門から外に流れる二本の廊下、東に走る棲鳳楼と西に走る翔鸞楼の両方が激しく燃えた。

 突然の大火災に驚いた京都市民は夜中にも関わらず応天門に集結。しかし、火災の激しさから消火にあたることは適わず、誰もが野次馬とならざるを得なかった。ただ、幸いにして、消失したのは応天門の設備だけで、その周辺に広がるのは阻止できた。

 翌朝、焼け落ちた応天門を呆然と眺める者がいるばかりで、火災の真相が誰にもわからなかった。



応天門のあったとされる場所。

現在の二条駅の北、出世稲荷神社のあたり。

平成二二年八月撮影。


 清和天皇は焼け落ちた応天門を見て愕然とした。 

 そして、なぜ火災が起こったのかの真相を突き止めるよう命じた。この時点では放火という話が全く出てきていない。

 ところが、ここで善男が宣言したのである。

 この火災は、左大臣源信の手によるものである、と。

 誰もが善男のこの宣言に慌てふためいたが、全く慌てなかった者が一人だけいる。右大臣の藤原良相。良相はかつて当代随一の武将と呼ばれていた頃を彷彿させる素早さで軍勢を率い、左大臣源信の邸宅を包囲した。

 源信にとっては寝耳に水の言葉である。

 しかも、気づいたときには自宅が兵士達に包囲されていた。

 応天門放火の犯人とされたことを知った源信は自分が犯人ではないことを訴えようとしたが、家の外との連絡手段は全くなく、このまま兵士たちに包囲されて時を過ごすしかなかった。

 包囲を解くただ一つの手段は、応天門放火の罪を認め出頭することだが、それは人生の終わりを意味する。

 源信の家の中では絶望に恐れおののく鳴き声が響いていた。

 この事態を知った参議の基経は慌てて良房の元に駆けつけた。

 善男が源信を応天門放火の犯人として訴えたことを知った良房はただちに清和天皇の元に駆けつけ、清和天皇の勅命により源信逮捕のための軍勢を解散させた。

 源信は無事に開放されたが、これで全てが解決したわけではない。

 善男は、今回の応天門炎上が放火であり、その犯人は左大臣の源信であると主張し続けた。

 ただ、その理由がおそろしくいい加減だった。よくもこんな理由で告発できたものだと言いたくなる内容である。

 応天門という門が大和朝廷の頃から存在し続けてきた門であり、伴家の前身である大伴家は代々この応天門を守ることを職務としてきた。つまり、応天門とは伴家のシンボルであり、伴家を憎む源信が応天門を放火したというのである。

 この理由を知った者はあきれかえった。こんな言いがかりを放つのが大納言なのかと。

 貞観八(八六六)年閏三月二二日、清和天皇は招集可能な全貴族を集め、応天門火災に対しての真相究明を命じた。この場でも善男は応天門が左大臣源信の放火であり、源信を処罰すればそれで今回の火災事件は解決すると声高に主張したが、清和天皇は義男のこの主張を否定した。

 そして、この火災の真相が判明するように神への祈りを捧げるよう命じた。


平安神宮に復元されている応天門。

ただし、実際の応天門より少し小さい。

平成二二年八月撮影。


 応天門の火災が一段落ついた貞観八(八六六)年四月一七日、朝廷は前年の鴻臚館と真逆の対応を見せた。

 唐からの商人が許可なく入国しただけでなく、関を通り入京したという事件が起きたのである。無許可の上陸であっただけでなく京都までやってきて市で商売をしたということが問題となり、この責任をとらせるために豊前国と長門国の両国の国司を叱責し、以後関の通交を厳しく管理させることとなった。ただし、この責任は左大臣にもあるとし、応天門放火の責任と併せて直ちに左大臣を罷免すべしという善男の意見は即座に却下されている。

 この商人がどのような方法で京都までやってきたのかの詳細はわからない。陸路なのか海路なのかが不明である。しかし、その道中はその商人が唐人であるとは誰も気づかなかった。日本の服を着て黙って移動していれば唐の人間だとばれる心配はなかったであろう。そして、京都に着いてから唐人として市で商売を繰り広げたのである。

 唐人自体が平安京にいなかったわけではない。正規な手続きを踏んで京都までやってきた商人が割といるので唐人自体は珍しくない。ただ、遠くはインドやペルシアからの商人も街中を歩いていた平城京と比べると国際色は薄い。

 それでも、密輸目的の商人が日本人のフリをして京都までやってきたというのは問題だった。現在だってパスポートなしでやってきた外国人は、難民でなければ不法入国として扱われる。この時代もそれは同じで、不法入国者が国境を越えて首都までやってきて闇で商売をすると、普通は逮捕される。

 貞観八(八六六)年四月二六日、東寺、西寺の両寺院と五畿七道各国の国分寺に対し、応天門の火災の真相が判明するように祈るよう指令が飛んだ。

 善男は相変わらず左大臣源信こそ応天門を放火した犯人であると主張し続けたが、もはやだれも善男の意見を聞こうとはしなかった。

 だが、善男の意見を却下したところで、実施するのは神仏頼みである。祈りで真相が判明するほど簡単にはいかない。推理小説ならば名探偵が登場して鮮やかに事件を解決するところであるが、現実は甘くはない。

 その上、現実には日々の政務が存在する。

 応天門炎上という国家の一大事を前にして様々な行事が中止となり、貞観八(八六六)年五月八日には伊賀国で発生した飢饉への対策に追われている。

 飢饉の連絡はその他の地域からも起こった。五月一七日には紀伊国から飢饉の知らせが届き、その翌日には京都とでも飢饉が深刻となったため施を行なった。

 さらに、京都の都市計画の前提を見直すこととなった。貞観八(八六六)年五月二一日、京都市中の空閑地を願い出た人に給付すると定められたのである。

 それまでにも何度か給付はあったが、それは住宅地を前提としたものであった。しかし、今回は違う。建設の進まぬまま、住む人も少なくなってしまっている京都西部を耕作地とすることを前提として払い出すのである。

 それでも田畑として開墾しても直ちに収穫があるわけではない。

 京都市内の食糧不足は深刻となり、六月二八日には東堀河に放流されている鮎を食料として捕獲してよいという許可が出ている。

 この年は日本国内に物騒な空気が流れていた。

 貞観八(八六六)年七月九日、尾張国を流れる広野川の河口開掘工事が行われた。この結果、広野川の川の流れが変わることとなった。

 ところが、この川の流れの変更、尾張国にとっては都合が良い変更でも、尾張の北の美濃国にとっては耕作に大打撃を与える変更だったのである。

 工事を進める尾張国と工事に反対する美濃国の争いは衝突となり、美濃国の郡司ら七〇〇名が武器を持って工事現場に襲いかかり、工事の役夫らを射殺するまでに発展。

 それでも国内の争乱ならまだいい。

 貞観八(八六六)年七月一五日には、肥前国の郡司から命ぜられた五名が新羅に渡って造弩術を教え、新羅の対馬侵略計画に協力したことが判明したのである。

 どのような理由で対馬侵略に協力したのかはわからない。おそらく新羅から何かしらの見返りがあったか、あるいは造弩術を教えることが新羅海賊のターゲットから外すことの条件だったのだろう。

 郡司は国司と違って国から派遣される役人ではなく、地域に昔から住み続ける家系の者が就く。だから、自らの帰属意識が国より地域に寄ることが多く、国の利益と地域の利益とが対立するようなとき、平然と地域の利益を優先する。

 これらの史料に登場する郡司たちの名前であるが、実はあまり残っていない。残っていたとしても下の名前のみで名字が記されていない。当時の人にとっては○○国××郡の△△と書くだけで名字がなくとも通用したのだろうが、現代の人間にとってはそれだけでは誰かわからないのが実状である。

 さて、この二つの争乱のうち、尾張と美濃の対立は、相互に歩み寄りが見られ解決した。まず、貞観八(八六六)年七月二〇日には、尾張国広野川の河口開掘工事の中断を決定。七月二六日には手勢を率いて殺害にまで及んだ郡司らに有罪判決が下り、この事件の責任をとらせるため美濃国司に戒告処分が下った。


 貞観八(八六六)年八月三日、およそ五ヶ月間進展のなかった応天門炎上事件が急展開を見せる。

 この日、備中権史生の大宅鷹取が応天門の放火の犯人は伴善男とその子伴中庸であると訴えたのである。鷹取は応天門の前から善男と中庸、雑色の豊清の三人が走り去ったのを見た直後に応天門が炎上したと申し出たのであった。

 このときの経緯は伴大納言絵巻や宇治拾遺物語の第一〇巻に記されている。ただし、脚色が加わっており全てが事実とは言い切れないし、伴大納言絵巻は事件から三〇〇年を経た後白河法皇の時代、宇治拾遺物語は事件から三五〇年を経た鎌倉時代に成立した図書である。

 一方、日本三代実録には宇治拾遺物語ほどの量ではないがこのあたりの顛末が載っている。

 これらの記録によると、鷹取の証言とは以下のようなものであった。

 その日、役所で夜遅くまで働いた鷹取が帰宅する途中、応天門の前を通りかかると、応天門の柱を擦り降りる人影が見えたという。人影は三人で、先頭は善男、二人目が善男の子の中庸、三人目は善男の家臣である豊清であった。平均身長が現在より一〇センチは低いこの時代にあっても善男の背の低さは際立っていた。そのため、闇夜でも善男であることはすぐに判別できたのだろう。

 一役人でしかない鷹取にとっては今をときめく大納言とその子である。下手に見つかってしまうと何をされるかわからない。何しろ、善男は裁判を自身の権力増強の強力な武器としているのである。たとえ無実の罪であろうと牢屋に放り込むぐらい簡単にできる人を目の前にして、鷹取は動揺を隠せず、身を隠すのに精一杯であった。

 三人が慌てて走り去っていったのを確認した後、何も見なかったことにしてこの場を立ち去った鷹取は、自宅に向かう途中で応天門が燃えていることを知った。

 慌てて応天門に走り戻ると応天門が激しく燃えている。これで鷹取は悟った。大納言たちは応天門に火をつけたのだと。

 ただし、この時点で鷹取は何も言っていない。あまりにも突拍子のない話だからである。

 その直後から善男がしきりに応天門の火災は放火であり、放火の犯人が左大臣の源信であると主張するようになった。

 源信と善男の仲の悪さは京都に住む者なら知らぬ者はない有名な話である。鷹取も例外ではないが、鷹取には他の人が知らないもう一つの情報がある。あの日、応天門で見かけた大納言伴善男の姿である。そのため、応天門の火災は善男が源信を追い落とすために行なった放火なのだと考えるようになった。

 それでも鷹取はまだ口に出していない。

 鷹取が沈黙を破ったのはそれから五ヶ月を経てのことである。

 きっかけは子供のことだった。善男の家に勤める生江恒山の子が鷹取の息子を一方的に殴り続けたのである。宇治拾遺物語によれば男の子同士の子供のケンカということになっているが、日本三大実録ではケンカなどでは済まない一方的な暴行になっている。

 子供の喧嘩に親が口を出すものではないと言うが、息子が言われなき暴力を受け続けたのだから、いかに相手が権力者の関係者であろうと、これを黙って見過ごすようでは親ではない。

 鷹取は加害者の親である生江恒山に文句を言いに行った。

 善男ら律令派の貴族は自己のことを他者より優れた特別な存在であると主張し、民衆を全く省みないという態度に終始していたが、それは貴族本人だけではなくその家の使用人の態度にも現れ、さらにはその使用人の子にも広まっていた。

 律令派の関係者の横暴は目に余るものがあった。

 子供の喧嘩という言い方で済ませるのは軽すぎる執拗なイジメもあったし、やんちゃと言ってしまうには軽すぎる街中を我が物顔で歩き回るチンピラから受けた言われなき暴行も頻発していた。

 鷹取の息子が暴行されたことについてもそこに理由はない。ただ歩いていたというだけであり、殴りつけたのは欲望を満たすため。鷹取の子は全く責任のない被害者であり、生江恒山の子は責任から逃れられない加害者であった。

 それまでどれだけの親が泣き寝入りを強要されたかわからない。それだけに、ついに立ち上がった鷹取は勇気ある行動と讃えられ、数多くの市民が鷹取の勇気に裏付けされて行動を共にしたのである。

 そして、出てきた生江恒山の子を殴り倒し、地面に組み伏せその顔を蹴り飛ばした。

 自分の息子が見ず知らずの大人に暴行を受けていることを知った生江恒山は慌てて家の外に出たが、家を取り囲む群衆に恐れをなし、家を出た直後の威勢の良さは消え失せていた。

 それでも、今回の出来事はあくまでも子供のケンカであり、息子が罪を犯したかかどうかはともかく、鷹取が息子に加えている暴力は断じて許されないとし、息子の不祥事は一切認めなかった。その上で、自分は隆盛極める伴善男の家に勤める者であり、自分の子が何をしようと全て大納言の手によって守られると主張。自分はたかが一役人の口出しできる身分ではないと突き放した。

 息子が受けた被害を泣き寝入りしろというのである。

 だが、鷹取はひるまなかった。その大納言が隆盛を極めていられるのは自分が黙っているからだと言い放った。

 これを聞いた生江恒山はそれまでの威勢が消え顔面蒼白となり、何かを悟ったように黙り込んで家の中に戻り、傷だらけになった息子を家の中に引き戻して、戸を閉めて鍵を掛けてしまった。

 この二人は何か重要な秘密を握っており、鷹取がそれをちらつかせたために生江恒山は黙り込んだのだろうと誰もが悟った。

 鷹取はその秘密について黙っているつもりでいたが、この一部始終を見ていた検非違使に出頭を命じられてしまった。理由はどうあれ鷹取は暴行を働いたのだから相応の処分を受けなければならないのだが、それともう一つ鷹取は罪を犯していた。

 一介の役人が大納言の命運を自分が握っていると発言したのである。現在では政権批判も権利として認められているし、役人が上司である大臣を批判しようと、その言動だけで罰せられるわけではない。だが、この時代はそうではない。役人が政権を批判し、大納言などの上級貴族を批判することは認められていなかった。鷹取はこれに引っかかったのだ。

 検非違使に出頭した鷹取はここで、自分の息子が受けた暴行だけではなく、応天門で見たことを話した。

 鷹取がその日は遅くまで働いていたことは出勤記録からも明らかであったため、証言の整合性はとれた。その上、その日の遅くに善男が内裏にいたとする別の証言まで得られた。

 こうなるとただ事ではなくなる。

 訴えを受けた検非違使はまず、今回のきっかけであった生江恒山の尋問を開始した。ただし、この時点ではあくまでも恒山の子が鷹取の子に与えた被害についての尋問であり、応天門についての調べはない。

 だが、生江恒山は事件の一部始終を話したのである。あの日、自分の雇い主が自ら応天門に出向いて放火をしたことも、それは左大臣源信を貶めるために練られた計略だということも、生江恒山は口にした。検非違使たちはその証言に慌てふためいた。

 伴善男の家臣が逮捕され尋問が始まったという知らせ、そして、伴善男こそ放火事件の犯人であるという話は瞬く間に京都中に広まった。そして、悪の権化である善男と、その息子である中庸の二人が間もなく逮捕されるという話になった。息子の中庸はともかく、善男への市民の憎しみは激しく、検非違使たちは、ここで市民の意向に逆らって法に従うことは得策ではないと判断した。

 それが真実かどうかはわからないが、伴善男と中庸の二人が応天門を立ち去ってから間もなく応天門が燃えたという証言がある以上、名を挙げられた二人は検非違使の手によって取り調べを受けなければならない。

 無論、善男はこれに抗議する。一切は全くの言いがかりであり、真犯人は左大臣の源信であるとこれまでと同じ主張を繰り返した。

 しかし、世間はもう、善男こそ真犯人であるという論調で固まっていた。

 あくまで自分は無罪であると主張し続ける善男はいつものように内裏に出向いて政務にあたろうとするが、それまで善男のすぐ側に侍っていた律令派の貴族ですら善男から遠ざかるようになり、誰も善男のもとに近寄ろうとしなくなった。

 貞観八(八六六)年八月七日、大納言伴善男の事情聴取を行うと正式に発表された。

 調者は参議であり左大弁と勘解由長官を兼ねていた南淵年名と、同じく参議で右衛門督の藤原良縄。

 善男はあくまでも無罪を主張し、その上で改めて左大臣源信こそ真犯人であるとの持論を展開した。さらに、今回の噂話は真犯人である源信の企んだ謀略であり、このような謀略に騙されることなく、共に大悪人源信と立ち向かおうとまで言った。

 ただし、その日に内裏にいたことは記録に残っている以上否定しようがなく、応天門にいたのかという問いについてもノーコメントで通している。

 この時点では証拠不充分であるが、かといって、善男を無罪放免とするわけにはいかなかった。応天門を放火した極悪人である善男を処罰するよう数多くの民衆が詰めかけていたからである。

 主の戻らぬ善男の家を取り囲む民衆からはさらに激しい抗議がわき起こっていた。これは、善男個人に対する怒りもあるが、それまで律令派の貴族やその使用人たちが民衆に対して行なってきたことへの反発であった。


 有罪とすることも無罪とすることもできないまま一二日が経過する。

 貞観八(八六六)年八月一九日、この状況を打破するため、清和天皇は太政大臣藤原良房に「摂行天下之政」の勅令を下した。

 いわゆる摂政である。

 これは前例のない大権であった。天皇が病気になって動けないときなどに摂政を置くことはあったが、そのときでも摂政となるのは皇太子をはじめとする皇族に限られており、良房のように皇族ではない人臣でありながら摂政に就くことはこれまでならばあり得なかった。

 ましてや、清和天皇は幼いわけでもなければ病気なわけでもない。つまり摂政を置く必要性がない。

 にも関わらず、清和天皇は、祖父ではあるが皇族ではない良房に天皇に匹敵する権力を与えたのである。

 これが清和天皇なりの応天門事件に対する回答であった。摂関政治の開始とされるのはこのときであるが、その目的はあくまでも応天門炎上事件解決のために良房に与えられた例外処置である。

 もはや応天門が放火であるというのは共通認識になっていた。自然発火だとしても納得する者はおらず、放火犯を処罰すべしという民衆の声が大きく広まっていたのである。無論、この時点で、放火の容疑者となるのは伴善男であった。いや、善男を容疑者としないという選択肢はあり得なかった。

 しかし、善男を有罪にするとしても政局が平然としていられるわけはなく、どんな結果になろうとも後々禍根を残す。

 さらに、善男の犯行が単独犯ならばまだしも複数犯であった場合、政局から出て行かなければならないのは一人や二人では済まなくなる。

 それがいかに犯した罪に対する処分だとしても実状は粛正であり、自身のこれからの天皇としての日々に大きなキズとなって残ってしまう。このキズは清和天皇自らの判断であろうと、あるいは、誰か別の貴族の手による追放であろうと変わらない。

 だが、キズが付かないわけではないが、深手とはならない人が一人だけいる。太政大臣として絶大な権力を持つ良房である。自分が生まれる前の承和の変という前例がある良房なら、ここでもう一つキズが増えたところで大きな違いはなかった。

 いわば、清和天皇は良房を人身御供に捧げることにしたのだ。

 しかし、いくら太政大臣の良房でも貴族を追放するだけの権限などない。そこで考え出したのが摂政であった。天皇に匹敵する大権があれば貴族の粛正は可能である。そのためには、前例のない人臣摂政も厭わなかった。

 ただし、良房はこの摂政就任を断っている。

 八月二二日、自身が高齢であり、また咳逆病に罹ってからの体調が万全ではないということで、摂政就任を辞退した。なお、清和天皇はこの辞退を却下している。

 八月二四日にはさらに、同じ理由で良房は摂政就任を拒否したが、このときもまた、清和天皇はこの辞退を却下した。

 結局、自然成立という形で良房の摂政就任が決まった。役割はただ一つ。大納言伴善男に応天門放火の責任をとらせることである。

 一方、今回の告発のきっかけとなった鷹取はどうなったのか。どうやら、このころにはもう釈放されていたようである。

 ただし、平穏無事な生活が戻ってきたわけではなかった。貞観八(八六六)年八月二九日、鷹取の家に何者かが集団で押し寄せ、娘が殺害されたのである。捕らえてみれば犯人の一人は生江恒山であった。

 これは人生を破壊されたと感じた生江恒山ら律令派からの復讐であった。捕らえられた生江恒山は律令派を怒らせるとどうなるか見せつけるためにしたのだと強弁したが、これはあまりにも短絡すぎる。変わり果てた娘の死体に泣き叫ぶ親の姿は、同情心と、善男等に対するさらなる怒りを募らせるだけであり、律令派の考えた結果、すなわち、律令派の権威を恐れて民衆が黙り込むという事態は起こらなかった。

 殺人の現行犯として生江恒山とその息子が逮捕されると同時に、善男の子である伴中庸も出頭を命じられた。生江恒山の直接の雇用主であったからである。

 さらに、翌八月三〇日には、生江恒山らによる鷹取の娘の殺害を命じたのが伴清縄であったことが判明する。清縄は善男と同じ伴家の人間で、このときは善男の家臣であったことから善男の監督責任にまで波及した。この状況下では、善男がいくら伴清縄を使用人の地位から解雇しようと意味を持たなかった。

 九月、摂政良房の命により応天門放火事件の真相究明が展開される。

 その結果、放火の全容が判明した。

 主犯は五名。大納言伴善男のほか、善男の息子である伴中庸、律令派の貴族であった紀豊城、そして、善男の従者である伴秋実と伴清縄の五人で共謀し左大臣源信の放逐を企画したのがスタートである。

 主犯となったはこの五名だが、応天門の放火事件に関与したのはその五人プラス豊清の六名だけではない。これに八名の共犯者が加わる。紀夏井、伴河男、伴影越、伴冬滿、紀春道、伴高吉、紀武城、伴春範の八名である。全くの意外だったのは、名国司として名を馳せていた紀夏井が共犯者に加わっていることであった。

 良房が突き止めることができたのはこの一四名だけだが、どうやらかなりの数の人間がこの計画を事前に知りながら黙り込み、善男が放火犯だという話になってもやはり黙り込んだままであったようである。たとえば、良相は異様に手早く軍勢を整えて源信の家を急襲している。これなど、計画を事前に知った上で行動を起こしたとしか考えられない。だが、あくまでも理論上は左大臣の犯行の知らせを聞いたためにそれに対処すべく動いたということになっているため、処分には該当しない。

 ここで注目すべきは、主犯者と共犯者が伴家と紀家に集中していることである。このことを理由として、応天門事件自体が藤原氏の謀略であり、藤原以外の氏族を排斥するために行なったでっち上げだとする説もある。

 しかし、実状はその逆ではないかと思われる。藤原家に大きく水を開けられたかつての名門貴族が、それまでの一族の不遇を脱して、栄光を呼び戻すために律令というイデオロギーに身を託した結果だと。

 彼らの考えはあくまでも左大臣源信の失脚にある。だが、これは現時点での目標にすぎない。最終目標は権勢をほしいままにする良房の失脚にある。良房を失脚させて藤原氏全体の地盤沈下を引き起こし、名門貴族として復活する。その第一歩として、まずは左大臣に目を向けたのだ。何しろ、左大臣源信は良房の重要な副官であると同時に善男の最大の敵であり、打倒すべしとなったときは真っ先にターゲットになる存在だったのだから。

 ところが、計画はあまりにも杜撰すぎる。

 源信打倒の口実として応天門の放火を選んだのは、源信の犯行に見せかけると同時に伴家は被害者であることを装うためであった。伴家と関連の深い応天門ならば、応天門が焼け落ちて嘆き悲しむ姿を見せることで誰も伴家の者が犯行に手を染めているとは考えないであろうという計画であり、ここまでは問題ない。

 だが、大納言伴善男が自ら応天門に出向いて火をつけたのだから、その計画性はあきれてしまう。

 闇夜に乗じて外から応天門に行くのは難しい。そこで、遅くまで内裏に残っていても怪しまれず、また、応天門の建物の中に入る権限の持った者が必要となる。となるとかなりの高級貴族しかいない。

 主犯を見ても共犯を見ても、それができるのは善男自身しかいなかった。大納言となれば応天門の出入りがどんな時間でも自由になる。上級貴族は夜中の突然の呼び出しなど珍しくはないし、遅くまで働いた帰りということで夜中に応天門から外に出る光景も珍しくなかった。

 しかし、さすがに大納言ともあろう人間が自ら火をつけるわけにはいかない。そのため、善男の家臣である豊清を放火役に任命した。だから、善男は最後まで自分は放火をしていないと弁明できた。だが、善男がいなければ応天門に忍び込むこともできなかった。

 門を守る衛士たちをどうやって応天門から離したのかはわからないが、大納言の職権を利用して応天門まで来た善男たちは、隠れるように応天門の二階へ上がり、火を点けた。

 律令派にはこの計画における大きな誤算が五つあった。誤算というより計画の杜撰さと言ったほうが正解か。

 第一の誤算は伴善男の姿を見られたこと。人並み外れて背の低い善男の姿は月明かりでも目立ち、他人であると言い繕うことのできないものがあった。

 次に、荷担する者が想像以上に増えたこと。計画に荷担し、貢献し、成功すれば、その後に手にする権勢は計り知れない。応天門を放火するという大それた計画はごく一部の者だけで行なうことはできず、配下の者を荷担させざるを得なくなった。報酬は成功後の出世である。この結果、秘密の共有をする者が必要以上に増えてしまい、秘密が漏れる可能性が増えることとなった。

 三番目に、基経の動きが想像以上に素早かったこと。計画では放火と同時に作戦が始まり、源信を真犯人とするために良相に軍勢を派遣させるとなっていた。派遣させるところまではうまくいったのだが、源信を逮捕する前に全くノーマークであった基経が素早く動いてしまい、軍勢派遣が解散させられた。これにより源信逮捕の可能性が消滅してしまった。後に残ったのは応天門が炎上したという事件だけである。

 それでも、律令派は黙り込むことで少なくとも放火犯であることを隠すという選択肢はあったのである。ところが、よりによって善男が当初の計画通り源信を放火犯とするよう延々と主張したのである。これが第四の誤算である。善男一人が執拗に源信を放火犯と攻撃し続けることはかえって善男を怪しくさせる。鷹取の証言が出るまでは、善男自身が放火犯だとは誰も思っていなかったが源信が放火犯だと考える者とはいなかった。そして、善男は何かを隠していると誰もが考えた。

 そして、最後の誤算。鷹取の告発への反発への復讐である。生江恒山らが鷹取の娘を殺害したことは、律令派に対する恐怖より、律令派に対する憎しみを募らせただけだった。

 誤算に次ぐ誤算が律令派を狂わせ、彼らは絶望から黙り込んだ。

 ただ一人声を挙げて騒ぎまくっていたのは尋問を受けていた善男だけである。相変わらず善男は源信こそが放火犯であると主張し続けた。

 貞観八(八六六)年九月二二日、応天門炎上事件にかかりきりとなっていた摂政藤原良房の名でついに結論が出された。

 主犯、大納言伴善男、右衛門佐伴中庸、紀豊城、伴秋実、伴清縄の五名。

 判決は五名とも死刑。ただし、死刑の五人に対しては温情措置として一階級の減刑が行なわれ、五人とも追放刑となっている。

 伴善男、伊豆国。

 伴中庸、隱岐国。

 紀豊城、安房国。

 伴秋実、壱岐国。

 伴淨縄、佐渡国。

 共犯の八名についても同様に追放刑となった。こちらの判決は死刑を減刑しての追放刑ではなく元々が追放刑なため、追放先も比較的軽い追放先として用いられた場所となっている。

 紀夏井、土佐国。

 伴河男、能登国。

 伴夏影、越後国。

 伴冬滿、常陸国。

 紀春道、上総国。

 伴高吉、下総国。

 紀武城、日向国。

 伴春範、薩摩国。

 応天門の放火は伴善男らの犯行であると正式に宣告されてから七日間、善男はなおも無罪であると主張し続けていた。

 しかし、九月二九日、善男の主張は通ることなく追放が実行された。

 自分は無罪だと叫びながら連行されていく善男を、京都市民は嘲笑を浴びせながら見送った。

 この事件の顛末が絵巻物にまとめられたのは、事件から三〇〇年を経た平安時代末期の後白河法皇の時代である。それからさらに五〇年を経た後に宇治拾遺物語が成立した。現在の感覚で行くと二一世紀初頭の現在で島原の乱や忠臣蔵を語るようなものである。

 この頃になると応天門炎上事件より伴善男の追放のほうが注目を集めるようになっていた。しかし、左大臣源信を追い落とそうとした善男が犯人であるということは一般常識として定着していた。

 律令派は自ら望んだのは真逆の政治体制である摂関政治が構築されるのを黙って見つめるしかできなかった。


- 応天門燃ゆ 完 -

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

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