「それがな、落ちたんだってよ」
男は喜々として言った。
「嘘でしょ! 何で道真さまが落ちるの!」
女は信じられないというより、信じたくないという思いで言った。
「落ちたのは道真さんだけじゃねえって。能有さまだって落ちたんだから」
「なんだって!」
貞観三(八六一)年の省試の結果は都中の人を驚愕させるに充分だった。
清和天皇の兄、源能有(みなもとのよしあり)、不合格。
文章博士菅原是善の子、菅原道真(すがわらのみちざね)、不合格。
この、あまりにも強すぎる後ろ盾を持った二人の少年がともに省試に落ちたのだ。
道真が大学に落ちたという知らせを聞きつけた者の反応は真っ二つに分かれる。ムカつく野郎に天罰が下ったという反応と、憧れの道真様に悲劇が起きたという反応である。
では、当の本人達はどうだったのか。
「このまま都にいたくはねえな」
「家出でもするのか?」
「それもいいかもな」
自分に向けられている悪評がわからぬ道真ではない。いくら悲劇と考える人がいようと、自分の不幸を喜ぶ人がいる以上、この屈辱に耐えるのは難しい。
この屈辱を跳ね返すには、自分の不幸を喜ぶ人間に対し、これ以上ない圧倒的勝利を見せつけることである。道真を誉め讃えなければ社会的地位を失うと思わせるぐらいの圧倒があってはじめて、受けた屈辱を晴らすことができる。
とは言え、今はそれが無茶な話。
今年の試験に落ちたのだから、来年受けて合格してやっと試験の落第をなかったことにできるのだが、それとて屈辱を晴らせるほどの圧倒ではない。
試験に落ちた者のできることは二つしかない。この悲しみを忘れようとすることと、この悔しさを忘れないとすることである。
「俺はとりあえず都を離れようと思ってる」
「小町さんを追いかけるのか?」
「ああ、それを考えている。それで、どうだ? カヤさんのところにでも行ってみないか? 行き先は一緒だろ」
「そうだな……」
能有の何気ない一言は、道真を深く考えさせる一言になった。
道真から、好きな女性がいるとのでどうしようかという相談を受けた者はこれまで二人しかいない。うち一人が能有である。物心ついたときから同い年の友人として共に歩んできた気心の知れた相手というだけでなく、能有は道真の悩みを全て吹き飛ばせるだけの境遇にあったから。
一七歳の少年が好きな女性がいること自体はおかしなことではない。だから、本来であれば相談しなければならないほどのことではない。
にも関わらず、道真は相談した。
なぜか。
それは、道真の恋頃の相手は許されざる相手だから。
たしかに道真の恋心は不倫ではある。だが、それは問題ではない。この時点の道真は形式上結婚していることになっていたが、妻ということになっている島田宣来子とはこのときまで一度も会ってない。会ってないのは当然で、宣来子はこのときまだ一二歳の幼女だったから。政略結婚の結果、年端もいかぬ幼女との婚姻を強制された者が、夫婦関係とは別に近い年齢の女性に恋愛感情を抱くことはごく普通で、そうなければむしろおかしいとされていたのがこの時代である。だから、不倫は問題ではない。
ただし、その相手が許される相手ならば、という条件つきで。
道真は、恋心を抱いた相手が山崎の踊り娘だということに苦しんでいた。貴族の子弟たる者、一般庶民ならば黙認されていても、庶民以下と扱われている踊り娘に心苦しむことなどあってはならないことであった。恋心そのものが断じて認められるものではなく、打ち明けでもしたら貴族としての命運が終わってしまう感情。
普通の貴族や貴族の子弟に対して、自分はどうやら踊り娘に恋をしたらしいと伝えたら、良くて嘲笑、下手をすれば一切の縁を断絶されるであろう。
しかし、能有は違った。
この人は他者を見下すということがない。貴族だの庶民だのという概念を持ち合わせていないどころか、道真が恋愛に苦しんでいるのを親身になれる人である。
その上、能有は他の貴族とわけが違う。何しろ清和天皇の母親違いの兄という元皇族の貴族。他の貴族が道真の身分違いの恋愛を笑おうとしても、能有に言わせれば、貴族だろうが庶民だろうが、皇族でないことでは変わらないではないか、となる。つまり、血筋のレベルが違いすぎる。
実際、能有は真剣に道真の相談に乗った。
恋愛に苦しむ親友のために、道真が思いを寄せるその女性がどのような女性なのかをできる限り調べようともした。
それでも、能有に調べることができたのは、その女性は山崎の「河陽(かや)」にいる女性であり、周囲からも「カヤ」と呼ばれていることと、彼女の年齢は二人と同じぐらいだから、出会ったときは一五歳ぐらい、今は一七歳ぐらいだということぐらい。本名もわからないし、素性もわからない。なぜ山崎の踊り娘をしているのかもわからないというものであった。
恋心に苦しむ道真は、懸命になってカヤのことを忘れようとしていた。
でも、忘れることはできなかった。
カヤに逢えるのではないかと、能有と二人、庶民の格好をして京都の市に足を運んでもみた。
カヤを忘れることができるのではないかと、市で出会った女性と一夜限りの関係を持ったこともあった。
新しい趣味を持てば気分転換になるのではないかと、弓矢を手に取り弓道に励んでもみた。忘れるために弓道にのめり込んだおかげで普通の武人には太刀打ちできない腕前を身につけ、射者の素性が文章博士の息子と知らない弓道場の先生から衛士にならないかとスカウトされたこともあった。
酒に頼ろうと考えたこともあるが、酒の匂いを嗅いだだけで拒否反応を示す、アルコールに弱い体質なのだと知ってからは諦めた。
自分には妻がいるのだと考えて妻の実家に足を運ぼうとしても、島田家が道真を歓迎しなかった。島田家が求めているのは官位に就き貴族に就いた者であって、未だ海のものとも山のものともつかない、文章博士の息子というだけの未成年ではなかった。
これまで身につけてきた素養にのめり込もうと漢詩の世界にはまってもみた。だが、詩の世界は恋愛を詠うことも多い。結局はカヤを忘れるどころか、カヤへの思いを募らせるだけであった。
結局は、何もかもが無駄に終わったということ。
似た後ろ姿を見ただけでも動揺してしまい、それだけで学問も弓矢も手につかなくなってしまうのだ。
「道真」という名は元服時に名付けられたものである。元服前は「阿古(あこ)」という名であった。幼名が「~古」となるのはこの当時の流行で、例えば藤原基経は幼名を「手古」という。
菅原阿古はあどけなさの残る男児であったが、元服し、菅原道真となった後は女性を魅了する美少年に成長した。
平安時代の美男子を三人挙げろと言われれば、小野篁、在原業平、そして菅原道真の三人が挙がる。日本史上の美男子を一〇名挙げろと言われても道真は間違いなく一〇人の中の一人に入る。
五〇代に受けた悲劇のせいで哀れな中高年というイメージがつきまとう道真だが、一〇代の道真は京都中の女性の注目を集める美少年であった。漢詩を詠ませれば一流の出来映え、弓を引かせれば武人と思わせる腕前、文章博士の御曹司で、その上とびきりの美少年とくれば、これで女性にモテないわけがない。
ナンパをしようと声を掛けることの必死さを味わうことなく、道真の素性を知る者も知らない者も、道真に向かって女性から声を掛け、道行く女性が道真を見つめ、女店主が売り物をタダで譲り、勝ち気な女性が道真を誘い込もうとする。
これが男性には面白くなかった。
おかげで、道真の素性を知らぬ者からも、そして、知る者からも、何度となくケンカを売られた。
市に出かけたかと思えば、顔に青あざを作って帰ってくることもあった。
検非違使に取り押さえられて親を呼び出す羽目になったこともあった。
両親や弟たちは道真のこうした素行に頭を悩ませるようになったし、妻の実家からは事実上絶縁状態になったが、能有だけは、親友のこうした苦悩や行動に文句一つ言わずにつきあっていた。
自分が清和天皇の兄であるという一点は死ぬまでついて回る宿命であり、皇族から離れ「源」という姓を与えられた一臣下になったとは言え、この血筋ゆえに一部を除いて誰もが特別扱いする。
その除かれる一部に含まれる一人が道真だった。
皇室とは何か、貴族とは何かといった概念の身につく前から一緒にいる同い年の親友が、自分とは比べ物にならない高貴な家の出身だと知っても、道真はそれが当たり前かのように普通に接した。
それが能有にはありがたかった。
カヤへの恋心を聞いた代わりに、能有も自分の恋の悩みを道真に打ち明けた。能有の恋心もまた奇異に見られる女性に向けてであったが、道真は何も疑問に感じることなく、カヤのために骨を折ってくれたことへの恩返しとして、能有がその女性と会話をする場面を用意した。彼女は文人の一人でもあることから、当代最高の文人ということになっている文章博士、つまり父の名を出せばセッティングの場を設けることも可能だった。このときばかりは父親の力を最大限に利用した。
周囲が奇異の目で眺めるような相手であっても道真は親友のために努力し、能有は親友の心遣いに感謝した。
そして、これからの人生で最も頼りになるのは、親族や派閥ではなく、この親友になるだろうと二人とも確信した。
能有は弓矢も下手だし、漢詩の才能もないが、懸命に親友につきあった。道真が飲めないということで、能有もまた酒に手を出さないでもいた。
大学生になるという人生の目標を忘れそうになっている道真を思いとどまらせるべく、天皇の兄であることから大学に通うことなく貴族になれるのを拒否してまで、能有も文章生になるべく努力をした。
この一年はカヤのことを忘れて懸命になって文章生になろうとした。こうした親友の心遣いは、合格し、文章生になることで全てが解決するはずと考えたから。
だが、その全ては無駄だった。
当初、今回の省試は出来レースと思われていた。だいたい、これ以上ない強力な後ろ盾がある受験生が二人いて合格枠が二名なのだから、これは出来レースとしか思えない。
そして誰もがこう考えた。
腐敗だと。
ところが、合格したのはこの二人ではなかった。おかげで、それまでの腐敗という評価から一転して公明正大な試験という評価になり、特に、試験担当官でもありながら、天皇の兄のみならず我が子をも不合格にさせた菅原是善に対する評価が急上昇した。
が、それは落とされた当人たちにとってみれば苦痛でしかない。
「俺らが特別扱いだっていうから、見せつけるためにわざと落としたんだろ?」
道真は、ただ一人、自分の心情を理解できるであろう能有に秘めたる怒りを打ち明けた。
「ボヤくな。文章生になろうとしての一度や二度の失敗など珍しくもなかろう」
能有の言うとおり、文章生になるべく何年も何年も受験し続け、三〇歳を越えてもなお挑戦し続ける、人生の半分を不合格者として過ごしている者もいる。それから見れば一七歳の初挑戦での失敗はまだ軽いのは事実。
「半年先まで待たなきゃならんのだぞ」
「俺らが今更何を言おうと試験結果が変わるわきゃないんだ。ごちゃごちゃ言ってる暇があるなら来年に向けて準備した方がいいだろ。競争相手は半年後も来年も多いぞ」
能有は現実を受け入れていたが、道真は現実がなかなか受け入れられずにいた。
何のバックボーンも持たないごく普通の少年が文章生となろうとして失敗したとしても、それは、チャレンジしたことを誉め讃えられ、落ちたとしても何も言われないであろう。しかし、権勢を頼って文章生になろうとした、たとえ本人にその意志がなかったとしても、そう考えられる境遇にあった者が不合格となった。これは、格好の嘲笑のターゲットになる。
道真の亡き祖父である菅原清公は文章博士だった。
道真の父の菅原是善は現役の文章博士である。
こうした血筋に生まれた我が子に対し、道真の母は多大なる期待をかけていたようで、二年前、道真が元服を迎えたときに
『ひさかたの月の桂(かつら)も折るばかり 家の風をも吹かせてしがな』
の歌を送った。
意味するところは、文章生として大学に入り、文章得業生となり、方略試に合格し、祖父や父と同様の、いや、祖父や父を越える出世をして、この菅原家をもり立ててもらいたいとの内容である。
折桂(せっけい)とは、中国において科挙に合格することを意味する言葉であり、転じて、日本では試験の合格全般を指す言葉となった。そして、月には桂の木が生えているとこの時代は考えられていた。つまり、ただ単に合格するのではなく、夜空に輝く月となるほどの出世をし続けろという、教育ママ、さらにはモンスターペアレントの感情を丸出しにした和歌であった。
こうした家庭環境に育った道真について、両親は、最年少受験可能年齢である一七歳で文章生となり、その後も大学に身を置き、ゆくゆくは文章博士になることが決まっているかのように考えていた。そして、そのための教育も完璧に用意していた。
何しろ一一歳で漢詩を作って残しているのである。和歌と違い、漢詩は作るために学ばなければならないことが格段に多い、とされている。そして、漢詩を作れるかどうかがこの時代における教養の物差しである、とされていて、それをわずか一一歳で作ったことは親に過度の期待を抱かせることにつながった。
月耀如晴雪(月の光は晴れた日の雪のようで、)
梅花似照星(月明かりに照らされた梅の花は星のよう。)
可憐金鏡転(ああ、夜空をめぐる月は金色の鏡のようで、)庭上玉房馨(庭では梅の花の香りが漂っている。)
中身はごく普通の漢詩なのだが、重要なのはこれが一一歳の少年の作った漢詩だということ。この五言絶句は平仄も完璧に整っており、大人の考えるような純朴な子どもをイメージさせる漢詩である。道真は親の求める子供らしさを演じで親の期待に応えたのだ。
さらに、一四歳では七言律詩を作った。これまた親の期待に応える作品である。
そして、元服。予定ではここで菅原家は跡継ぎを手にしたはずである。
ところが、そうならなかった。元服したあたりから道真が反抗期を迎えてしまったのだ。
親の期待に応える早熟な少年を演じ続けてきたことへの反発もあるが、最も大きな理由は、道真がこれまで経験することの無かった甘い感情にあった。
元服直後、道真は恋をしたのだ。
相手は京都郊外の山崎から招かれた女性たちの一人、いわゆる山崎の踊り娘だった。
宴を彩るために山崎から女性たちを招くのは珍しいことではない。山崎では踊り娘を京都に派遣することがビジネスとして成立し、それを重要な収入としている女性が数多くいるぐらいである。
宴を開催するときに彼女たちをどれだけ招くことができるかというのも貴族としてのステータスであるため、一人も全く招くことなく宴を開催すると、よくて珍妙、普通はドケチという評判が立つ。
ゆえに、息子の元服を祝う祝宴で菅原家でも山崎から踊り娘たちを招いたのだが、道真はその中の一人に本気で恋をしてしまったのである。
道真という人は、実は生涯で一度しか酒を口にしたことがない。その一度というのもこの元服の儀においてであり、自分がメインの祝宴だから無理して口に含んだというものであって、決して酒を飲むというたぐいのものではなかった。
自分は酒が飲めない人間だということを知ったのはこのときだった。道真は口に入れた酒をそのまま吐き出したのだ。
そして、酒ぐらい飲めないでどうすると剣幕を立てて怒る父是善に対し、踊り娘の一人が猛然と立ちはだかった。無理矢理酒を飲ませた父親のほうがおかしいと言い放ったのである。無礼を咎める是善に彼女はひるむことなく、逆に親の態度を咎めた。
「踊り子のくせに何を言うか!」
「命に関わる問題だ。貴様はそれでも親か!」
「踊り娘ふぜいに言われる筋合いはない!」
「我が子を省みない親に言われる筋合いもない!」
このせいで彼女は菅原家から追い払われるのだが、これは親の権威というものが絶対的なものではなく、逆らっても構わないと教える出来事でもあった。
今までは漠然と、親は常に正しく、自分の考えと親の意見とが相容れないときは自分が間違っていると考えていたのが道真である。しかし、親が間違っていると考えた瞬間、道真は目覚めた。
元服を終えて残っていたのは、親の言うことを素直にきく『よい子』ではなく、親に平然と逆らう『問題児』だった。
それでも、道真は親の言うことのうち一つだけは守っていた。
大学生になろうとすることである。
律令に基づき大学が設置されたのは大化の改新の頃と推測される。その後、壬申の乱の後に役人養成の教育機関として正式に史料に登場するようになり、奈良時代には現在の大学の学部に相当する「道(どう)」の設置により、それまでの画一的な教育から専門知識習得を目指す教育へと発展し、文章道(文学)・明経道(哲学)・明法道(法律)の三道からなる教育機関として形作られた。
その後、学部の新設や統合があり、また、学部間の盛衰もあって、この頃は、従来から存在していた明経道と明法道に加え、文学と歴史を学ぶ紀伝道、そして数学を学ぶ算道の四道体制となった。
このうち、突出した存在となったのが紀伝道である。
なぜか。
他の学部の場合、卒業しても役人になれる可能性があるというだけで、将来の出世を保証するものではない。また、卒業せずに大学に残って得業生(現在でいう大学院生)になったところでやはり将来が保証されるものでもない。大学に残り続けて博士(現在でいう大学教授)になった場合はとりあえず役人の一人となれるが、その地位は高いものではない。しかも、博士は一学部に一人しか存在できず、博士に出世すると一〇年以上はその地位にあるのが普通であり、死去による空席ができてやっと次の人物が博士になれるという図式ができあがっていた。
しかし、紀伝道だけは違う。
紀伝道はもともと、歴史を学ぶ紀伝道と、文学を学ぶ文章道(もんじょうどう)とが合併してできた学部であり、学部名こそ「紀伝道」だが、そこに所属する学生は文章生(もんじょうせい)と呼ばれ、そこで教鞭をとる者は文章博士(もんじょうはかせ)と呼ばれる。
この「文章~」という地位が他の大学生と明らかに違っていた。
文章生として大学を卒業すると、よほどのことがない限り役人になれる。また、卒業せずに大学に残って文章得業生になり方略試(文章得業生のみが受験することの許される試験)に合格すると役人の地位を飛び越えて、いきなり貴族の一員に列せられる。また、大学に残り続けて文章博士となると、他の学部の博士とは比べものにならない高い地位の貴族として扱われることとなる。おまけに、元々二つの学部であったのが一つになったために、博士の枠が二人となっている。そして、文章博士は他の学部の博士と違ってかなりの可能性でさらに上へと出世することが多い。つまり、死去だけでなく出世による空席が頻出するので、博士になる確率は他の学部よりかなり高い。
さて、他の学部は卒業しても役人になれるかどうかわからず、なれたとしても大した出世はできないが、紀伝道だけは卒業イコール役人入り、出世の道も幅広く開かれ、貴族入りも夢ではないというとき、大学入りを目指す若者がどこを目指すであろうか。
同じ大学生でも法律を学ぶ明法生や哲学を学ぶ明経生は定員割れも珍しくなく、入学試験の会場も閑散としているのに、文章生だけは受験者が殺到し、大学の建物だけでは収容しきれなくなったほど。本来なら大学寮で行なわれるべき文章生選抜試験である省試が、貞観三(八六一)年については式部省で開催されたのも深い理由はなく、単に受験者が多すぎて大学の建物に収容しきれなくなったからに過ぎない。
ただし、文章生の定員は二〇名と決まっている上、合格する枠は二〇名に満たない欠員分のみ。権力や財力といった裏口を使おうとする者は後を絶たなかったが、この定員の少なさもあって、裏口は簡単にはいかなかった。それがどんなに難しいことかを文章博士である菅原是善が我が子を利用して証明したとおりである。
二人の若者は気分転換を図り、都を出ることを考えた。目的地は山崎である。
能有の思い人は山崎に向かったとの情報がある。道真の思い人は山崎の人である。向こうは忘れているかも知れないが、道真はカヤのことを忘れたことはなかった。懸命になって考えないようにしたことはあるが、夢に出てくることまでは食い止められなかった。
山崎に行く。
それしか今の自分たちを救うことはできないと能有は考えたし、道真自身も今の苦しみを救えるのは山崎に行くことだけだと考えた。
とは言え、二人とも貴族にカウントされる家の人間、特に能有は清和天皇の腹違いの兄である。公務でも何でもない気分転換を図るための移動がそう易々と認められるわけはなかった。
それでも能有はどうにかなったのである。
このときの能有は、父である文徳天皇を亡くし、母の生まれの身分の低さゆえに皇室から除外され、今では自分で住まいを構える身である。使用人を雇ってはいるが、家の外から口やかましく干渉してくる者はいても、家の中に入り込んでまで干渉してくる者はいない。
問題は道真。
「だめに決まっておろうが」
息子から出かけたいという相談を受けた是善は、大学博士としてではなく、一人の父親として反対した。
父から見て、元服後の道真は断じて「よい子」ではない。それどころか不良の世界に片足を突っ込んでいると考えている。
貴族の人間だというのに、化粧もせず、眉を剃り落としもせず、妻もいるくせに庶民の格好をしては市に出かけて女性をナンパし、弓矢に励んでは貴族ではなく衛士としてスカウトされ、たまに漢詩に精を出すかと思えばすぐに我を忘れる。
その上、市に出かけても平穏無事に帰ってくるとは限らない。時に同じ世代の若者と諍いを起こし、時に青あざを顔にもうけ、時に検非違使に捕まったという連絡を持って帰ってくる息子が、試験に落ちた気分転換と称して都を出ようというのである。
我が子の血の気の多さを知っているだけに、是善は反対するしかなかった。でなければ、旅先で何をしでかすかわかったものではない。
「オヤジが落としたせいで俺は傷ついたんだ。だから出かける」
「試験に親も子も関係あるか」
「あるに決まっているだろうが。それじゃなきゃオヤジだって大学博士なんかになれないだろ」
「それはどういう意味だ」
「賢かったらもっと出世してるだろうってことだよ。何年経っても大学博士のままだなんて、爺ちゃんの力で大学に入れてもらった結果じゃないのか?」
「親をバカにするのもいい加減にしろ」
「息子をバカにしたのはそっちだろうが」
いつ殴り合いに発展するかわからない口論は菅原家を沈黙に導くに充分であったが、使用人達にこの場を離れることは許されなかった。
ただ一人この場を離れるのが許されていたのは、菅原家にやってきた能有の歓待役を務めることになった四〇代の男性使用人だけである。
菅原家の別室で待たされていた能有には菅原家の親子ゲンカの一部始終が聞こえていたものの、特に動揺は見せなかった。菅原家の場合、少なくともこの二年は父と子の口論の絶えないことのほうが日常であって、親子仲睦まじい会話が聞こえたとすればそのほうが異常なのである。
ほぼ毎日菅原家に足を運んでいるだけあって、能有は菅原家の使用人とも面識がある。
「坊っちゃまが出かけるというのがご主人様は心配なのでございます」
「とは言いますが、このまま都にいては傷つくだけではないですか。試験に落ちたときの気持ちはそれを体験した者にしかわかりません」
道真も能有も同じ一七歳である。しかし、二人を知る者は能有のほうを大人に感じる。能有が天皇の子としての教育を受けてきたということもあるが、いちばんの理由は、既に独立して家を構え、数多くの使用人を雇う身である能有と、父の元で暮らす扶養家族の一人でしかない道真との違いであろう。
「それで、能有殿は坊っちゃまとどちらにお出かけになるおつもりなのでございましょうか」
「山崎です」
「山崎ですと!」
「何か不都合でもございますかな?」
「気晴らしならば山崎でなくてもよろしいでしょう」
「小町さんは山崎に向かって発ったという話ですし、道真の求めている人は山崎にいるのです。道真を救えるのは山崎しかありません」
「私がこう申し上げるのは無礼と存じておりますが、出かけるならばまだしも、山崎に出かけるというのは賛成しかねます」
山崎は、現在では京都府大山崎町と呼ばれている。もっとも、大山崎町は明治時代以後の市町村合併の結果できあがった行政区画であり、この時代の山崎は今の大山崎町より狭い地域を指す。
桂川、宇治川、木津川の三つの川の交わる交通の要衝であるものの、奈良時代まではそれ以外に何ら特色もないごく平凡な街であったのが奈良時代までの山崎であったが、七〇年前の平安遷都がこの街の運命を変えた。山崎が都と難波津(現在の大阪港)を結ぶ幹線の中間地点になったのである。
京都に向かう者にとっては、山崎に着いた瞬間、これで京都に着いたと感じる。
京都より西へ発つ者は、山崎に着くと、これから先の長い旅路に思いを寄せる。
京都であって京都でない、山崎はそんな特別な街であった、というのが、山崎が特別である表向きの理由。
山崎が特別であった真の理由とは、この地に平安時代最大の歓楽街があったからである。
古今東西、歓楽街のない街は少ない。街の中心部に歓楽街を設けず、真面目な施設だけを集めて中心を形成している街ならば確かに存在するが、歓楽街のない都市はない。街の中心に歓楽街がなくても、そういったところでは街の中心を離れた場所に歓楽街が存在する。
歓楽街では酒が振る舞われ、性風俗が産業として成立する。イメージでいくと、少し前の新宿歌舞伎町のような役割を担っていたのが平安時代における山崎だった。
平安京の内部にはこうした施設を作らせなかった桓武天皇も、平安京を離れた山崎の地に歓楽街ができあがることは黙認していた。
京都を離れる者にとっては、山崎で旅に出る前の最後の享楽を。
京都に戻ってきた者にとっては、山崎で旅の疲れを癒す享楽を。
桓武天皇は、これらがあるだけでも旅には大きな違いが出ることを知らぬ統治者ではなかった。
「山崎……。って、貴様、本気で言ってるのか?」
使用人から息子の出かけようとしている場所を聞かされた是善は激怒した。
「本気だ」
「許さん!」
「許しなどいらん」
「親子の縁を切るぞ!」
「だったら息子に頼らないで生きてみろ。オヤジの人生はもう終わってんだよ」
「親に向かってその口の利き方は何だ!」
「相応の礼儀だろ。それともオヤジは息子に尊敬されるような生き方をしてきたとでも思ってるのかよ」
「もう一度言ってみろ」
「『おっしゃっていただけませんか』だろうが」
互いが互いに折れることのない口論を終える方法は一つしかない。決裂し、退場することである。
その唯一の方法を実践した道真は、いつものように自分を訪ねてきた能有の元に向かった。
「それでは行くか」
「いいのか?」
「いちいち親の許可を貰わなきゃならない理由はないだろう」
「それもそうだな」
二人はともに山崎に行くつもりに満ちていたが、この時点まで、額面通りの山崎しか行ったことがない。つまり、交通の一大ターミナルとしての山崎ならば行ったことがあっても、その周囲に広がる歓楽街としての山崎には行ったことはない。
この時代の若者にとっての山崎の歓楽街とは、自分たちと一線を画した大人の社交場であり、立ち寄るのに強い勇気のいる場所だった。
現在の感覚で行けば、鉄道のために新宿駅を利用したことならあっても、歌舞伎町に行ったことはないといったところか。
一方、我が子が出かけると言うだけならまだしも、その行き先が山崎の歓楽街であると知った是善の激怒は収まるところがなかった。
山崎に向かう準備をしている道真の元にやってきて、口論を再開させたのだ。
「何を考えているか! 道真!」
「省試に落ちたこと。省試に落ちた悔しさを晴らすにはどうすべきか、それ以外に考えることがあるわけ無い」
「そういうこと言っているのではない! 山崎に出かけるなど認めるわけにはいかないと言っているのだ!」
「落第させておいて、その悔しさを晴らすのも許さないって、どんな拷問よ。いくら親でもそれはないだろ」
「来年こそは合格するとか、そういう勤勉な態度を見せる気はないのか」
「来年こそは合格させるとか、そういう勤勉な態度を見せる気の無い親に、どんなやる気を見せろと」
ああ言えばこう言い返す道真は、少なくとも頭が悪いわけではないと、是善は親の贔屓目なしで考えている。問題は、その知性が賞賛される方角に向かっていないことにある。
今回もそうだった。
毎日々々何するわけではなく京都の市に出かけては騒動を繰り広げているのに、ここで公務でも何でもない気分転換のための山崎まで行くとあっては親として認めるわけにはいかない。
理屈の上では元服を迎えたのだから大人の仲間入りはしている。それに、結婚までしているのだから子どもではない以上、大人の社交場に出向いたところで問題ないはずである。
だが、このときの道真の地位は全くの無。文章生になることを目指す一七歳の若者の一人というだけであり、公的な地位は何もない。元服を迎えた貴族の子弟ならば普通は何かしらの公的な地位があるものだが、道真にはそうした地位が何もない、完全なる扶養家族なのである。
文章生を目指す者が何ら地位を持たないままでいること自体はよくあることだとは言え、それは恐ろしく世間体の悪いことでもあった。元服を迎えた若者が、何の職にも就かず、大学にも通わず、親元で日々を過ごすというのは現在よりもはるかに恥ずかしいこととされていたのがこの時代である。
こうした世間の目に対するために、朝廷は一つの制度を用意していた。「擬文章生(ぎもんじょうせい)」である。これは、文章生ではないが文章生と同じ教育を大学で受けることが許され、その成績如何では次年度の文章生選抜試験にプラスアルファが用意されるというものである。これならば世間体を保てた。
しかし、道真はこれにもなっていない。
能有が独立した家屋を構えて大勢の使用人を雇う身になっているのと比べ、肝心の息子がこの有り様では、親として気がかりになるに決まっている。
もっともこれにはカラクリがある。
能有が清和天皇の兄であることは既に記したとおりである。文徳天皇の三男である能有親王として生まれながら、母親の身分の低さから皇族から除外された結果、能有には「親王」の称号が外され、その代わりに「源」という名字が与えられた。
だが、元皇族の特権として、普通ならば手に入れることのできない資産を持っていた。
皇族を離れる代償として、山城国宇治郡の荒廃地一町三三八歩の農地が与えられ、その収益で生活できていたのである。元々は荒廃地であり大した収穫のある土地ではなかったのだが、藤原氏からの資金援助もあって農地として復活し、今では元皇族として生活するには困らないだけの収益を上げる土地となった。この安定した収入があるため、能有自身が文章生受験に失敗したところで、使用人たちを解雇して路頭に彷徨わせなければならなくなるということはない。極論すれば、能有に何かがあったところで、農地からの収入が継続されれば生活はできる。
一方、道真にはそんなものなどない。元々菅原家の資産などたかが知れたものであり、是善が文章博士という地位にあることで得られる給与以外の収入など無いに等しい。道真個人の資産など考えるだけでも無駄であり、親が援助してくれなければ道真はどうにもできないのである。
それどころか、是善一人に背負わされている菅原家の生活は是善に何かあった瞬間に瓦解するようになっている。跡継ぎである道真は元服を迎えたというのに何の役職にも就かず、文章生になろうという気は見せているものの、普段の日々でやっていることは、何するでもなくブラブラしては女とケンケの繰り返しだけ。弓矢とか漢詩とか貴族らしい趣味を見せることがあっても、それは収入と何の関係もないことである。
菅原家は、是善の後を継ぐべき道真が親に匹敵する結果を出さないと現状維持もできず、使用人たちは揃って失業してしまうという状況なのだから、これでは是善でなくても息子に文句を言いたくもなろう。
「宛もなく出歩いては、どこぞの女に手を出しただの、どこぞの男とケンカしただの、そんなことしか聞かされない親の立場を考えろ。これで山崎にまで行ったら悪事が増えるだけだ!」
「文章生に合格させておけば毎日大学行ってたんだ。謝るならまだしも、文句言われる筋合いなんか無い。何と言おうと山崎に行く」
「絶対に行かせぬ!」
「行くかどうかは自分で決めること。親だろうとどうのこうの言う資格など無い」
理屈ではそうだろうが、そういう仕組みになっていなかったのがこの時代である。
道真に残されている手段は一つしかなかった。
翌朝。
「お子さまにも困りものですな」
「全くもって面目ない」
是善が訪ねたのは在原業平。是善と比べ一三歳も歳下であり、地位も業平のほうが低いのだが、是善は業平に頭が上がらなかった。
不良の世界に片足を突っ込むのみならず親への反抗も隠さない道真であるが、業平には逆らったことがない。
親や教師には逆らっても尊敬する先達者には逆らわないで従うというケースは多いが、道真の場合もそれは同じで、親であり教師でもある是善に逆らうことは全く気に止めないが、自分の生き方の先輩であり、また尊敬できる人でもある業平となると話は変わる。
道真を従わせることのできる業平に、是善は頭が上がらなくなってしまったのである。
「能有も夜明け前に出発したとのことですから、これはいよいよもって家出ですな」
業平も能有と同様に元皇族である。ただし、元皇族に与えられる姓である「源」でも「平」でもなく、「在原」という皇族と完全に断絶させられた姓を名乗らざるを得なくなっているのは、業平が平城天皇の孫だから。この時代は反乱を起こした人の孫まで皇族であり続けられる時代ではなかった。
とはいえ、元皇族という一点では能有と同格であり、また、生活の上でも道真や能有の兄貴分として君臨しているだけに、天皇の兄である能有を呼び捨てにすることを、誰も何とも思わなくなっている。
「家出とあっては末代までの恥。ここは、何とか業平殿の力で道真を京に呼び戻してはいただけませぬか」
「無理でしょうね。だいたい、京都で笑い物になっているのがいやなんですよ。山崎に行って女遊びとなれば格はむしろ上がりますが、親に怒られて京都に帰ってきたなんて言ったら恥の上塗りですな」
「そこを何とかなりませぬか」
「ま、格好つけるぐらいはできますけどね」
「できますか!」
「私も山崎に行けば良いのです」
「はい?」
「ふざけた意味で言っているわけではありません。山崎の国衙に出向くのは何らおかしなことではないでしょう」
平安京はこの時代の日本の首都である。
そして、平安京は山城国にある。
だが、山城国を統治する役所、今で言う都庁は平安京の中にはない。
このあたりも現在と同じである。国会議事堂がある永田町や各種の省庁の庁舎のある霞ヶ関に東京都を統べる役所はない。東京都を統べるのは永田町や霞ヶ関から少し離れた新宿の都庁であるのと同様、この時代、山城国を統べる役所は平安京から少し離れたところにあり、それは時代とともに転々としていた。
国を統べる役所のことを「国衙(こくが)」と言うが、それまで転々としていた山城国衙の再移転が検討され、候補地が見つかり、工事が始まっていたのがこの時期である。
その場所が山崎だった。
「山城国衙の工事の進捗を見てきますよ。どうせヒマですから。で、二人を連れ戻してきます」
「かたじけない」
京都から山崎まで歩いていく者も多いが、能有と道真が選んだのは船であった。
京都の市で売るための品を積んで運んでくる船は、だいたい、朝日の昇る前に山崎を発ち、日の暮れる頃に山崎へと戻っていく。商人自らが船を操って京都に向かって品を売るなら問題ないが、船を操ることだけが職業であり、市に行って売るものを特に持たない船の持ち主や乗組員は夕方まで結構ヒマがある。
そのため、夕方になるまで、船で京都と郊外を往復することを選んだ者も多かった。言うなればちょっとしたバスのようなもので、荷物や人を乗せて京都と山崎との間を船で定期的に往復するのである。
この船に二人は乗り込んだ。
同乗するのは一般庶民とこの船の船員たち。彼らは、船に乗り込んだ二人が普通の者でないことぐらいはわかったが、高貴な家の者とは考えなかった。
何より、二人とも顔を白く化粧していない。
天然痘の流行からおよそ一〇年。太政大臣藤原良房の圧力もあって、貴族たる者、眉を剃り落として化粧すべしというのが不文律になっている。顔を白く塗り、眉を描いて紅を引くのは、自分自身が貴族でなくても貴族の家の者ならば当然のたしなみであったし、裕福な家の者は貴族をマネして化粧をするのが当たり前になっている。
ところが、この二人は化粧をしていない。普段は眉を剃っているらしく、本来ならば眉毛があるべきところに墨で眉を描いているが、これは貴族を夢見ながら貧しさゆえに貴族と同じ格好のできない若者が、せめて眉だけはとする格好でもあるから、おかしなことではない。
「兄ちゃんたち、どこ行くね」
京都から一緒に乗り込んできた商人の一人が能有に声を掛けてきた。
「山崎です」
「山崎ってことは、あれか? そこからどこか行くんかね? 難波とか?」
「いえ、山崎に留まります」
「山崎に留まると。するてえと、こちらの兄ちゃんも一緒け?」
その商人はにやけた顔をした。
このぐらいの年齢の少年が二人、山崎に行く理由は一つしかない。
「いやらしか」
「真面目な理由ですよ」
と道真は反論したが、この船にいる誰もが同じ事を考えていた。
高貴かどうかはともかく、格好や体型を見れば、この二人が全くの庶民でないことぐらいはわかる。いくら化粧をせず、眉だけを描いた庶民っぽい格好をしていようと、服は小綺麗だし、食べているものが違うのか体型がいい。
そんな恵まれた人間が山崎に行く理由は、踊り娘が目当てと相場が決まっている。
決まっていると言えば、この時代の川舟の大きさもだいたい決まっている。長さ九〇尺(約二七メートル)、幅八尺(約二メートル半)、深さ三尺(約一メートル)というのが規定だった。
荷物を運ぶ船や庶民が乗る船だと、これを四人から六人で漕ぐ。船には屋根は一応あるが、全員が屋根の下に入れるほどではなく、屋根の下に入れなかった者は日の光にさらされる。もっとも、屋根の下と言ってもまともな壁はないので、風雨にはさらされる。
船の大きさは貴族の乗る船だろうと庶民の乗る船だろうと大きな違いはない。しかし、貴族の乗る船となると屋根はおろか、個室が船尾に設置される。つまり、風雨を気にすることなく快適な船旅が楽しめる。
そして、漕ぐ人数も少ない場合ですら八人、多いときには一六人にもなる。これは、船のスピードが最大で四倍になるということ。
こうなると庶民の乗る船は太刀打ちできない。
道真たちの乗った船のすぐ後ろにやってきたのは、豪華絢爛な貴族の船だった。
「突き放せーーっ!」
商人の一人が叫び、他の乗客にも同調したのが多かったが、能有と道真は同調しなかった。
既に懸命に漕いでいる漕ぎ手にそれは無茶な注文だったし、それに、能有も、道真も、見慣れた船に背筋を凍らせていたのだから。
「能有。業平さんの船だ」
「ああ、わかってる」
二人とも貴族の船に背を向けて座り直した。
「オヤジが連れ戻すように頼んだんか?」
「ありえるな」
普段の業平は頼れる人生の先輩だが、今はこれ以上なく手強い敵である。
二人とも正体を隠して家出をしている身。業平と接したら、仮に業平に何もされなかったとしても、かなりの確率で正体がバレてしまう。
今の二人にとって正体がバレることは、さらなる笑い物への転落を意味する。だいたい、権勢を盾に大学を受験して落第した愚か者二人というのが世間の評判で、それから逃れるために正体を隠して家出したというのに、何で家出の途中で正体をバラしてより立場をより悪化させなければならないのか。
そんな二人の思いをよそに、貴族の船は庶民の船の右横にやってきた。
『道真ーっ! 能有ーっ! いるんだろーっ!』
障子窓を開けて顔を見せた貴族が、庶民の船に向かって叫んだ。
これに庶民の船に乗る者は、二人を除いてざわめきだった。
「ふりむくな、絶対振り向くなよ」
「ああ、わかってる」
二人は不自然に横を向いてささやかな抵抗を見せた。
しかし、二人の抵抗も、同乗者の好奇心の前には台無しになった。
「呼んでますよ」
商人の一人が二人に声を掛けた。
このときにはもう、同乗している二人が、最近京都で話題となっている道真と能有の二人だと知れ渡った。
「知りません。あの人なんか知りません」
「でも、道真さまと能有さまではございませぬか?」
「人違いです」
このやりとりは貴族の船からも見えた。
『そこの後ろ向いてる二人。』
聞き慣れた声で呼びかけられて二人とも動揺し、覚悟を決めて振り返った。
振り返った二人が見たのは、豪華な船に乗り、貴族らしい化粧をして、周囲に女性たちを侍らせている業平だった。
「おまえら、山崎に行くってか」
「はい」
能有の声は小さく、業平には届かなかった。
「聞こえないぞ、能有」
「山崎に行くんです!」
聞こえるような大声で能有は叫んだ。
「目当ては何だ? 酒か? 女か?」
業平の大声は二艘の船に乗っている全員に届いた。
「そうか、道真がいるのに酒飲むわけないか。ってことは女か。そういや小町も山崎に行くって言ってたな」
つきあいが長いだけに、業平も道真が下戸だと知っているし、能有の片思いの相手も知っている。ただし、道真が恋をしていて、その相手が山崎の踊り娘だということは知らない。そのことを知っているのは、能有ともう一人だけ。
「いい女に出会えるといいな、おまえら」
見せつけるようにスピードを上げて、業平の乗った船は山崎へと疾走していった。
「最悪だ……」
道真は、気分転換が気分転換にならないと感じ取った。
山崎に着いた二人は建設中の山城国府へと向かっていった。
この建設中の山城国府の建物の名前を「河陽離宮(かやりきゅう)」という。道真の思い人が「カヤ」という名であるのと無関係なわけではない。
彼女が「カヤ」と名乗るようになったのは住まいが「河陽」にあるからで、それはあくまでも自分で自分に名付けたアダ名でしかない。
二人が建設中の山城国府に向かったのも、カヤの住むのがこのあたりだと聞いているのが主たる理由であり、別に工事の様子を見に行くわけでも、国府に用事があるわけでもない。
とはいえ、女に会いに行くのと、国府に向かうのとでは体裁が全然違う。船を降りた二人がその直後に山城国府への道を訊ね、案内に沿って山城国府に向かうのを見せつけることで、同じ船に乗っていた者たちを二人をからかったことが申し訳なく思わせることには成功した。
「割とにぎわってるな」
山崎には港町の活気があり、能有はその活気を感じとっていた。
「でも、なんだか寂しい気はするな」
その港町の活気も、道真を満足させるものではなかった。
二人とも京都の活気を知っている。だが、道真は京都の活気しか知らない。道真はこれまで京都を出たことがないわけではないが、どんな場所も『京都以外』と一括りする感覚に留まっている。京都以外をそれぞれ把握している能有にとっては京都を離れても感じる充分な活気であっても、京都しか知らない道真にとっては不充分な活気にしか感じられない。
「これで寂しいなんて言ったら地方に赴任できんぞ。道真だっていつかは国司になるかもしれんじゃないか」
「そうなんだよな……。俺が国司ね……」
道真は自分が国司になったときのことを想像できなかった。
「俺らみたいなのは国司になれなかったら人生終わりだぞ。上に行きたかったら競って一歩ずつ出世しなきゃならないし、それが嫌ならうだつの上がらぬ三流役人に留まるんだ。まあ、大学に落ちた俺らは三流役人にも届いてないがな」
「そうだな。まずは役人になることか」
「そうそう。だいたい、大学に落ちた身で貴族になれるって考えるの図々しいぜ。そんなこと考えるのは、来年挑戦して大学生になってからだ」
建設中の山城国府に近づくと建設労働者たちの宿舎が増えてくる。これらの宿舎がことごとく粗末で簡単な作りなのも、完成したら不要になるので取り壊しやすく作られているから。
こうした宿舎が軒を連ねると彼らをターゲットとするビジネスが登場する。彼らの大部分は独身か単身赴任の一人暮らしの男性なので、ビジネスターゲットは絞りやすい。
とは言え、工事は永遠に続くわけではない。山城国府が完成したら労働者たちは山崎を離れてまた別のところへ流れていってしまうので、これらのビジネスも役割を終える。そのため、建設労働者をターゲットとする店もまた、宿舎同様に簡素な作りになっている。
「おいしそうだな」
その簡素な作りの店の軒先で、数人が右手に箸を、左手に丼を持って何かを食べていた。
能有は見たことのないその食べ物に興味を奪われた。
「うまいぞ」
「食ったことあるのか?」
「索餅(さくべい)だろ。京で一回だけ食ったことがある。あれはうまかったな」
この時代は朝と晩の二食なのが普通。これは貴族だろうと庶民だろうと同じで、一日三食となるのは室町時代になってから。
もっとも、一日二食だと昼にはお腹が空いてくるので、軽めの食事を昼にとることは割とあった。特に、肉体労働の人は朝からずっと動き続けていることが多く、朝食後に何も食べずにいると正午頃にはバテてしまうので、昼の休憩時に軽食をとらせるようにするのは工事責任者の責務でもあった。
大規模な工事の中には工事現場の中に軽食をとれる食堂を用意して、無料、もしくは安値で軽食にありつけるよう環境を整えることもあったが、山城国府の工事はそこまでは至っていない。しかし、周囲に労働者向けの店舗が集まり、軽食をとりやすくするのを奨励していた。
「兄ちゃんたちも食って行くかい?」
店主は、興味を持ってこちらを眺めている二人に声を掛けた。
「おいくらですか?」
「一杯で四文。大盛りなら五文だ」
現在の感覚でいくと、並盛りで四〇〇円、大盛りで五〇〇円というところ。労働者は一日働けば三〇文ぐらいは稼げたので、特に大きな出費ではない。
「じゃあ、大盛り二杯」
「あいよ」
注文を受けた店主は大きな鍋に麺を入れて茹ではじめた。
能有は何を鍋に入れたのか理解できなかった。白くて長い奇妙な物体を熱湯の中に入れたというのが何ともミステリアスな光景に映ったのだ。
「紐? 縄か?」
「麺だよ」
「何だそりゃ?」
「麦を粉にして、水で練って細く伸ばしたものだ」
「麦か。へぇ……」
索餅は今のうどんのルーツとなった食べ物で、日本には奈良時代に遣唐使の手で伝えられた。唐では練った小麦粉を麺状にしたあと、縄のように編んでからて油で揚げてそのまま食べていたが、日本に伝わると、茹で上げてから酢や魚醤をかけて食べたり、茹でたあとでスープをかけてから食べたりと、日本独自の発展を見せた。
ただし、現在のうどんが一食に値する料理となっているのに対し、この時点での索餅はあくまでも軽食、あるいはおやつという位置づけである。
道真は細く伸ばしたと言ったが、索餅の麺をどのように作ったのかの記録はない。道真の言うように伸ばして作ったとする説もあるが、現在の日本蕎麦のように切って作ったとする説もあるのではっきりしない。
しかし、細くて長い形状であったことは判明しており、それは、これまでの日本の食事には存在しない形状であった。
実際、不可思議なものを眺めるような視線で能有は鍋を見つめていた。
店主は手際よく鍋から麺をすくい上げ、丼に移し、具の入った薄茶色の汁をかけた。
「あいよ。さくべえ大盛り二人前、おまたせ」
店主から丼と箸を受け取った能有は、索餅の入った丼が熱いのに驚いた。
「熱っ!」
能有は驚いて丼を落としそうになった。
「横を持つからだ。こうやって、縁と底を持てばいいんだよ」
能有は左手で丼を持って平然としている道真に倣って、親指で縁を、その他の指で底を持った。
丼の中を見ると、茹であがったばかりの索餅が薄茶色の汁の中に入っている。具材としてカブとサトイモとミョウガが入っているが具の量はあまり多くない。
二人に渡されたのは丼と箸のみ。もう一つ、能有の考えでは汁物を食べるときにあるべきものが見つからなかった。
「匙(さじ)(=スプーン)はないのか?」
「あるわけなかろう」
日本食の文化にスプーンはない。普通であればスプーンを使うような料理であっても箸を用い、味噌汁のようなスープ料理では器を直接手に持って口に付けてすするのが日本食である。だが、このようにして食べるようになったのはせいぜいここ一〇〇〇年のことであり、旧石器時代から平安時代まではスプーンを使用するのが当たり前であった。
貴族の世界に属する能有が、スープの入った料理を見てスプーンを求めたのはおかしなことではない。それが貴族の世界では常識だったから。
それどころか、器を手に持つということも能有にはこれが生まれてはじめての経験だった。器を手に持って食べるのは庶民の行う下品な行為であり、ましてや器を手に持って汁をそのまますするというのは考えたこともないことだった。
自分たちは今、庶民に扮している。
だから、庶民と同じように食べるべきだというのも脳内では理解している。
しかし、庶民と同じように平然と汁をすする道真と違い、能有は覚悟が必要だった。
一口目はおそるおそるだった能有も、一度口に運んでからはかなりの勢いで食べ出していった。
「うまいな~」
貴族の食事はあまり温かではなく、冷めてしまっていることが多い。そのため、湯気の立っている食事自体が珍しい。それに、懸命に働いた人の疲れをいやすような味付けにされている。これまでの船旅で疲れていた能有には、この一般庶民のための食べ物が、これまで食べてきたどんな料理よりも格上の料理に感じられた。
「山崎じゃこんなうまいもん毎日食えるんか」
「都にもあるけどな。でも、都のよりこっちのほうがうまいや」
慣れた様子で食べ続けている道真もまた、素朴でありながらこれまでに体験したことのない味の索餅に心奪われていた。
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