貞信公忠平 5.関東大乱

 将門は敗走した。民衆を見捨て、妻子を見捨てた将門であるが、武具は健在である。ゆえに、再度の武装に要する時間は短縮できる。新たな本拠地とした猿島で将門は良兼打倒の軍勢を整え始めた。

 一方、良兼の元に捕らえられた将門の妻子がどのようになっていたかを伝える史料はない。一説によると、このとき捕らえられた将門の妻は良兼の娘であるという。だとすれば、この時代の戦闘で捕らえられた女性の人質に一般に見られたような運命、つまり、レイプの対象とされることはなかったのではないかとする説がある。とはいえ、将門側の史料にはレイプされそうになったときに自死を覚悟したため、貞節を守ることができたとあるから、未遂にしろ似たようなことはあったのであろう。

 実の娘や孫であっても、良兼にとっては将門との決戦に対し重要なカードであるはずだった。ところが、その重要なカードであるはずの将門の妻子は捕らえられてから一ヶ月を経つことなく脱走に成功し、九月一〇日には将門の元に戻っているのである。実の娘と孫のことを思ってわざと逃がしたとする説もあるが、これは将門からの回答とするしかない。

 良兼のことを卑怯千万と罵ったことで、将門は理論を手にした。卑怯千万な良兼は悪であり、その悪のもとに妻と子が捕らえられているので正義を持って救出することに成功したと宣伝したのである。

 承平七(九三七)年九月一九日、良兼のほうが動き出した。状況は良兼有利であったのに、良兼のほうから動き出したというのは不可解である。もしかしたら、有効なカードである将門の妻子の脱走に慌てたのかも知れない。あるいは、過去二回の戦闘で勝利を収めていることから、ここで将門に勝利すれば、良兼は相当な可能性で将門にとどめを刺すことができると考えたのかも知れない。

 だが、このときは将門のほうも軍勢を整えることに成功していたのである。良兼の軍勢は将門を攻めるどころかかえって迎撃され、筑波山に逃げ延びることとなった。逃走し、筑波山に追い込まれた平良兼は筑波山に陣を構え、それを見た将門は筑波山を包囲した。

 ここで四日間の包囲戦が展開された。

 通常、包囲戦というものは数日で終わるものではない。敵の消耗を図るべく、短くても一ヶ月、長いときは数年間に渡って敵陣を囲み、時間をかけて敵陣を兵糧不足に追い込むものである。包囲戦を仕掛けられると事前にわかっている場合は、兵糧不足にならぬよう前もって大量の物資を用意し、完全に孤立しないよう補給路を確保した上で、しばらくは籠城に耐えられるよう準備を整えておくものであるが、戦闘の末に追いつめられ包囲されたとなると、手持ちの物資しか使えないから包囲された場合の消耗度はより厳しいものがある。つまり、意図せず包囲されることとなった平良兼はかなり不利な状況にあった。

 ところが、この包囲戦は四日で終わったのである。四日というのは通常の包囲戦と比べて異常なまでの短さというしかない。

 この「弓袋山の対陣」について、将門側の史料は昼夜を問わず矢を放ち続けたとあるからずっと攻撃し続けていたのであろうが、これは包囲戦でもっともやってはいけない方法である。包囲戦は通常、包囲される側が高地に、包囲する側が低地に陣を構える。そして、攻撃というのは高地であればそれだけで優位になる。逆に言えば、低地からの攻撃は平面での攻撃より劣る結果しか残せない。矢の届く距離だって、高地から低地へは平面より長くなるが、低地から高地へは大した距離にならない。

 だから、包囲戦で包囲する側になった者は、通常であれば攻撃などしない。長時間かけて相手が消耗するのをただ待つだけである。攻撃するのは相手の消耗が確認できたときであり、それまでの間は、包囲された側が包囲から脱出すべく繰り出す攻撃を受け止めるのに専念しなければならない。

 それなのに、将門は圧倒的優位の局面を活かすことなく、低地からの攻撃を展開した。それも連続して展開した。これでは包囲している側が消耗するだけになってしまう。

 将門側の史料は、この年が豊作であったために平良兼の陣に大量の物資があり、包囲戦を諦めざるを得なかったとある。だが、これも言い訳でしかない。この戦闘は明らかに将門の作戦ミスであり、先の二連敗も含めると、平将門の武人としての能力に疑問を抱かざるを得ない。もしかしたら、このあたりが、一〇年以上も藤原忠平に仕えながら最後まで位階を獲得できなかった理由かもしれない。

 わずか四日で包囲戦を諦めた将門は、猿島へと戻る途中、平良兼の領地の農村に襲いかかって家や田畑に火を放ったとある。

 戦闘を諦めた将門は朝廷の権威を頼ることとした。

 かつての主君である藤原忠平に書状を送り、平良兼と源護、そして、その周囲の者が朝廷に対して反抗していると訴えたのである。

 将門からの書状に対する朝廷内の議論の記録は残っていない。だが、朝廷が出した公式の通達ならば記録に残っている。

 承平七(九三七)年一一月五日、平良兼と源護に加え、平貞盛をはじめとする合計六人が常陸国で内乱を起こしているという公式通達が出され、武蔵、上総、常陸、下野、安房などの国々に対して内乱の首謀者拿捕を命じたのである。そして、将門の軍勢は内乱を鎮圧する軍勢であるという了承も出された。将門の軍勢は朝廷のオフィシャルな武力ではないが、その行動は朝廷の意に合うものであるという宣言である。何とも中途半端なものであるが、このときの朝廷にとっての最優先課題は戦乱の沈静化であり、そのためには将門に御墨付きを与えるのが最も手っ取り早いと考えたのであろう。

 だが、朝廷のこの宣言は完全に失敗であった。関東地方の各国の国司の元には確かに「反乱を起こした平良兼らを逮捕せよ」という朝廷からの命令が届いたが、一ヶ国としてその命令に従った国はなかったのである。

 さらに、自分のほうが反乱者であると認定された平良兼もその命令にひるむ素振りすら見せなかった。

 将門を打倒すれば全ては解決すると考え、次なる戦闘に向けて軍勢を整え始めた平良兼は、将門の新たな本拠地である猿島に向けてスパイを送り込んだ。

 このときのスパイの名が子春丸であることは記録に残っている。子春丸はもともと将門の領地に住む農民であったともされ、猿島に出入りすることを誰も気に止めなかった。このときも、子春丸は炭を運び込んできた農民の一人であるとして将門の屋敷に入り、屋敷の周囲と内部構造、勤めている使用人の数、武具の置き場や馬の飼育場の位置とその規模、さらに、将門の寝室の位置も確認した。

平安時代の一般的な武士の館

(国立歴史民俗博物館)



 この頃、朝廷では関東地方の戦乱を完全に忘れさせる大ニュースの対応に追われていた。

 承平七(九三七)年一一月一七日、富士山が噴火したのだ。甲斐国から、富士山が噴火し溶岩が海にまで届いたと連絡が京都に届いたのである。

 現在の富士山の北側には本栖湖、精進湖、西湖、河口湖、山中湖の五つの湖があり、この五つを総称して「富士五湖」と言うが、この富士五湖の名称は昭和二(一九二七)年に決まったもので、平安時代にはその呼び名がない。呼び名がないのは当然で、富士山の北部には複数の湖があること自体は知られていたが、その数は噴火の都度、さらには雨が降るか降らないかでも増減するから、総称に「五湖」と統一できるわけはなかったのである。

 承平七(九三七)年の噴火で溶岩が海に届いたという連絡が京都には届いたが、駿河湾にも相模湾も溶岩は届いていない。溶岩が届いたのは「御船湖」である。だが、この御船湖は山梨県や静岡県の地図をどんなに探しても出てこない。出てこないのは当然で、このときの噴火で湖そのものが埋没してしまったからである。

 この時代の感覚で行けば、天災とは時の統治者に対して天から下したサインである。良くない統治者であるから新しい統治者に変えよというサインであり、天災をきっかけとした政権交代は珍しくもない。

 それ以前に、関東での戦乱と瀬戸内での海賊の跋扈は、これ以上無い政権交代の材料なのだが、この時代の京都では誰一人そのような行動を起こしていない。

 考えてみれば、忠平にはライバルと呼べる人材がいない。強いて挙げれば兄の仲平ということになるが、時平の死の直後こそ忠平に対抗しうる存在であったものの、今では忠平政権を支える人間の一人になってしまっている。

 忠平の政権はこれ以上無く盤石だった。より正確に言えば、忠平に対抗しうる存在が誰一人おらず、また、現代の選挙のように政権交代を実現するシステムもなかった。政権安定が全てにおいて優先され、人材も政権安定を前提として配置する。優秀な人間も政権安定に関係ないとなれば放逐されるし、優秀でない人間はもっと放逐される。こうなると京都内部で自浄作用は働かない。

 自浄作用のシステムがないのに政権が変わるとすれば、ゼロから新しい勢力が生まれるしかないが、その新しい勢力を生み出す土壌もなかった。全国規模で組織化された集団などなく、中央からの支配を受け入れない自分たちの生活を守るための地方勢力を築くことはできても、その勢力を拡大させて中央にまで影響を与える勢力となることは無かったのである。自分たちの生活を守るために武士団を形作ることはあったが、あくまでも自分たちの生活を守るのが大前提で、いかに名を馳せようと所詮は地方の小さな勢力。国全体を動かすような勢力にはなれなかった。


 承平七(九三七)年一二月一四日、平良兼が、将門の新本拠地である常陸国猿島郡石井に夜襲をかけた。大規模な軍勢で襲いかかるのではなく、およそ八〇騎の兵士を厳選しての襲撃であった。

 将門はこれまでの戦闘で何度か、相手の襲撃を事前に察知して迎え撃っている。迎え撃っているということは、攻め込む側からすれば、自分たちの行動が事前に読まれただけでなく、行動に時間をかけてしまっているため迎え撃つための準備の時間を将門に与えてしまっているということである。

 ゆえに、将門への襲撃をするならば、事前に軍事行動を察知される可能性のない少人数での行動とし、同時に、計画立案から遂行まで、さらに遂行そのものにかける時間も短くする必要がある。その結果が、少人数での将門の邸宅の襲撃であった。

 しかも、事前にスパイを放って将門の屋敷の様子を把握している。普通に考えれば平良兼はかなりの可能性で夜襲に成功していなければならない。

 ところが、この夜襲は失敗したのである。しかも、このとき将門の屋敷にいたのは多く見積もってもせいぜい二〇人、うち、武器を持って戦える者となると一〇名が精一杯という状況であった。

 失敗した理由は二つ。一つは、将門のほうも良兼の軍勢の中にスパイを紛れ込ませるのに成功していたことである。同じスパイでも、良兼は将門の邸宅の内情視察に留まったのに対し、将門は良兼の軍勢そのものの情報を掴めていたのである。実際、夜襲の情報を聞きつけた将門は夜襲への対処を命令している。しかも、このスパイは良兼の軍勢の行動を意図して遅くすることに成功していた。夜襲そのものの中止はできなかったが、軍勢の歩みを遅らせ、良兼の軍勢が将門の屋敷に着いたときには朝日が射し込む時刻となるまでになっていたのである。

 もう一つの失敗の理由は、将門が自分の情報をスパイに盗まれたと知ったことである。スパイが屋敷の情報を掴んだことを知った将門は、屋敷の内外の改造を行い、容易に攻め込ませないよう要塞化させたのである。

 この二つの理由のうちの後者は将門の軍勢の現状を考えた末の結果でもあった。

 繰り返すが、この時代の武士は職業軍人ではない。本業はあくまでも農民であり、武装して戦場に出るのはあくまでも緊急時のみ。将門の元に集って戦闘に参加する武士たちも、平時は将門の領地に住む領民であり、領民にはそれぞれの生活がある。平良兼らとの戦闘が続いていて、いつ攻めこまれるかわからないのは事実であるが、領地の人々を住まいから切り離し、常に武装させて将門の屋敷内に留め置くことは、領民の生活を破壊することとなるのだ。

 事前に攻め込まれることがわかっている上に、夜襲かと思っていたら攻め込んできた側の行動が遅れ、朝を迎えたおかげで攻撃を目視できる明るさになっている。歴史家はこの戦いを「石井の迎撃戦」と呼ぶが、ここで展開されたのは、戦闘と言うには憚られるほどの小競り合い、あるいは、将門側からの一方的な攻撃であった。

 将門側の被害の様子は伝わっていないが、平良兼はこの戦闘でおよそ四〇名の部下を失っている。少数精鋭で臨んだら、その精鋭の半分が命を落としたのだ。また、残りの兵士たちも隊を整えての退却ではなくバラバラな敗走になった。

 平良兼が送り込んだスパイの子春丸は、この戦闘に参加し命を取り留めて敗走したものの、翌年の一月三日に捕らえられた。捕らえるときに殺されたか、それとも、引き出されて殺されたかはわからない。史料には天罰が下り、捕らえられて殺されたとだけ記されている。

 夜襲失敗は平良兼にとって大誤算だったが、良兼の元に身を置く平貞盛にとっても大誤算であった。

 朝廷から敵と扱われ、失地を挽回すべく将門に戦闘を挑むも敗れ、多くの精鋭を失っている。自分たちは、正当性もなければ人望もなく、未来への希望も乏しい集団になってしまったのだ。

 貞盛がこの状況を打開すべく選んだのは、京都に向かうことであった。京都に向かって関東地方における混乱を述べ、将門の書状だけから判断された現在の状況、すなわち、将門の行動のほうが朝廷の行動であり、将門に対抗する自分たちは朝廷の敵であるという状況を逆転させれば、立場は好転する。

 それに、将門がいかに太政大臣藤原忠平とつながりを持っていようと、理論上、将門は無位無冠の一庶民に過ぎない。一方、貞盛には朝廷の公的な地位がある。地方の状況を自ら伝えるのは職務として何ら不都合はないどころか、それを妨害することのほうが律令違反となるのだ。

 これは将門の立場からすれば大問題であった。将門は朝廷の権威を利用して領地と領民を増やしていたのである。今までの生活を捨てて将門の元に向かうことにためらいがある者も、今までの生活のほうが朝廷に逆らう生活であり、朝廷に従う生活にするためには将門の元に向かうことだというお墨付きがあればためらいも薄らぐのだ。

 将門が利用してきたこの法的根拠を全否定する貞盛の行動は、将門にとって許せるものではなかった。そのため妨害に打って出ることとした。

 通常、常陸国から京都に向かうには東海道を通る。ゆえに、将門も東海道で貞盛を待ち構えて京都行きを阻止することにした。

 しかし、将門の思惑は失敗した。その道は二つの点で問題があったのである。

 第一に、貞盛の方も将門が東海道で待ち構えているぐらいわかっている。戦闘で自分を負かせた相手が待ち構えているのに誰が好きこのんでその道を選ぶか。

 第二に、前年末の富士山の噴火があり東海道は通行止めになっている。これではますます東海道を選びようがない。将門はもしかしたら富士山噴火が東海道を通行止めとさせたことを知らなかったのかも知れない。

 東海道で待ち構えているのに貞盛がやってこないので、調べてみたら貞盛は東海道ではなく東山道を選んでいたのだ。上野国から碓氷峠を経て信濃国へ向かうルートを選んでいたのである。

 碓氷峠は大和時代にはすでに交通の要衝として存在しており、東海道の足柄峠とともに、これより東を「板東」とし、太宰府を中心とする西国の警備に当たる防人の供給地として定義されていた。この時代の碓井関の周辺は、豊かな農民が武装して一大勢力を築いていたという記録もあり、それらの勢力の中には京都へ送り届ける税を着服し、あるいは奪いに来る集団も発生していたため、昌泰二(八九九)年には碓氷峠に関所を設置したほどである。

 軍勢の移動スピードの早さで何度も戦闘を優位に勧めてきていた将門はこのとき、碓氷峠に先回りをし、難攻不落の要塞とも言われていた碓井関に陣を構えて平貞盛を迎え撃つことを計画した。だが、いかにスピードに定評があろうと、山岳地帯の移動は容易ではなく、碓氷峠に着いたときにはすでに貞盛が碓井関を通過して信濃国に入った後だったのである。将門のプランはこれで大きく崩れた。

 それでも将門は信濃国内に軍勢を進め貞盛を追撃したのである。それも、一〇〇騎の騎馬を厳選しての、スピード優先の追撃であった。

 承平八(九三八)年二月二九日、将門の軍勢はついに貞盛に追いついた。場所は信濃国小県郡の国分寺付近である。ここで貞盛の一行と将門の軍勢との戦闘が起こった。これを「信濃千曲川の戦い」と歴史書は記している。将門側の軍勢は一〇〇騎ほど、貞盛はもう少し少ない軍勢であるから、大軍が入り乱れての戦闘というわけではない。だが、人数は少なくとも、戦闘は激しいものがあった。

 この戦いで、貞盛の側近の一人で、貞盛とともに京都に向かっていた他田(おさだ)真樹が戦死。一方、将門側も文屋好立が重傷を負った。

 戦況は一進一退となったが、気づけば貞盛がいなくなっていた。戦闘の激しさから数名の者が戦地に倒れ、何人かの武士が馬で戦場を離脱したが、その中の一人が貞盛だったのである。

 これは貞盛のプランでもあった。真正面から将門とぶつかって勝てる見込みは少ない。そして、現時点で優先すべきは京都に向かうことであり、将門と戦闘することではない。ゆえに、将門の追撃から逃れるために戦闘に打っては出るが、自分は敵前逃亡する脱走兵のふりをして一路京都に向かうというのが貞盛のプランであった。

 戦闘を優位に進めながらも、気がつけば戦闘の目的である貞盛が姿を消しており、本拠地を遠く離れた信濃国内では孤立無援も同然。もはや追撃も不可能という事態になったことを悟った将門は大いに悔しがったという。


 その頃の朝廷はどういう状況であったか。

 先に藤原忠平には政治上のライバルがおらず、その政権は安定を保っていたと記したが、もしライバルがいたとしても、現状の問題を見ると政権交代は得策ではない。

 何しろ問題がこれ以上なく山積みなのだ。

 一つは、天災が連なっていたこと。前年の富士山噴火に加え、承平八(九三八)年四月一五日、京都でマグニチュード七の大地震が発生した。地震は京都をはじめとする各地で大勢の死者を生じ、特に高野山では多くの建物が損壊する被害を生んだ。その後も余震が多発し、市民の間に動揺が広がっていた。

 二つ目は、人災が連なっていたこと。その中でも最たるものは瀬戸内海を荒らし回っている藤原純友である。以前から純友の暴れまわる様子は京都に伝わっていたが、この年は純友だけでなく、各地で反朝廷の報告が上がるようになっていたのだ。朝廷に対する反発は税収の不足となって現れ、京都市中に出回るコメの量が激減した。

 それらの結果、地震からの復興のために各地から義援金を求めるようなシチュエーションであったにもかかわらず、義援金どころか京都から資産が減っていったのである。

 富士山噴火からの復旧はまだ進んでいない。

 京都には東西から反乱の知らせが届いてきている。関東は武士団同士の争い、瀬戸内海は海賊の跋扈。

 その上、この年は不作で、餓死するという知らせも届いたし、収穫できなかった田畑を捨てて、生きていくために京都に数多くの失業者が流れ込んできているという知らせも届いていた。

 平和とは縁遠く、豊かな暮らしともかけ離れている。国家財政はとっくの昔に底をついたが、財政を立て直そうと税を集めようとすると、豊かな荘園からは徴税できず、徴税できる田畑に対しては法外な税率となってしまう。

 誰もが現実の政治に絶望していたが、少なくとも京都では、新たな権力者を求めた者はいなかった。それは何も忠平を支持したからではない。忠平にとって替わる勢力が無かったのだ。多少成りとも国政に携われる人間は、忠平の元で働く一人となるしか国を指揮するという使命を果たせないと考えていた。誰もが政権交代など考えなかったのである。その政権の生み出した人災でもありながら、その政権を倒す方法がない。政権交代に対する規定もなければ慣習もなく、政権交代可能な受け皿もないのがこの時代である。

 政権の安定を求め、長期政権を築き上げる。それは政策の連続というメリットがあるが、現実のほうが政策に合致しないときに政策を改めさせる要素を持ち合わせていないままの長期政権は、ボロボロの状態で立ち続けなければならないという宿命がある。倒れた後で交代する新たな政権がない以上、いかにボロボロであろうと、今の政権が維持し続けるのは宿命とするしかない。

 色々言われようと二大政党制で国政を成り立たせている国が多いのも、選挙での焦点として、新しい政策ではなく、これまでの政策の継続にYESがNOかを突きつけられるところにある。YESならば政権は続くし、NOならば政権は交代する。民主党に政権を担う能力がないことが露呈した以上、これからの日本で二大政党制が成り立つかは怪しいところがあるが、少なくとも制度としては政権交代が可能である仕組みが存在している。

 一方、この時代の藤原独裁には二大政党制の欠片も見えない。権力を握るのは藤原氏とその周辺だけであり、藤原氏に抵抗する勢力がないのだ。かつて一大勢力を築いていた律令派は今や影も形もなく対抗勢力とはなりえない。対抗勢力をあえて探すとすれば反乱をしている関東の平将門や瀬戸内の藤原純友ということになるのだが、この時代の京都の人たちにとって、後者は無論、瀬戸内で暴れ回っているただの海賊。そして前者は、関東で暴れ回っている山賊である。ここに期待など抱けない。

 朝廷はどうにかしようとしたのだ。だが、朝廷にはもはやどうこうできる余力もなくなっていた。

 承平八(九三八)年五月五日、右大臣の藤原恒佐が死去。六〇歳での死である。

 承平八(九三八)年五月二二日には改元を実施。新元号は「天慶(てんぎょう)」。どうにもならない混乱を抑えるために残された数少ない手段であったが、これもまた、混乱を抑える効果はなかった。それどころか改元の情報も届かず、地方ではかなり長い間「承平」の元号が使われ続けたほどである。ちなみに、このときの改元を挟んでいるため、平将門や藤原純友の起こしたことを「承平・天慶の乱」という。

 人々は現実に嫌悪感を抱き、精神世界へと逃げ出すようになった。天慶元(九三八)年八月六日には京都で大きな余震が起こり、復旧中の工事現場で倒壊が相次いで再び多くの死者を生じさせている。このときの京都の人たちの救いとなっていたのが、神仏とは寺院や神社だけのものではなく、この世の全てを救う存在であると説き、念仏を唱えれば救われるとの教えを広めた空也である。空也の存在が京都市内で確認できるようになったのも天慶元(九三八)年のことであった。

国衙の復元模型

(国立歴史民俗博物館)


 私の作品では一貫して「国司」という書き方をしているし、当時の人もそう考えていたのだが、「国司」には二種類ある。

 一つは「守(かみ)」。本来の意味での国司はこちらで、その人の役職が武蔵守なら武蔵の国のトップはその人であるし、その国に対する全責任もその人のところに行き着く。

 しかし、国が大きいときは一人で統治しきれない。そのため、大きな国であると判断される国に、「守」のサポート役として派遣されるのが「介(すけ)」で、その日本語の読みからもわかるとおり、本来は「守」の補佐をすることが職務である。本来の意味で行けば「介」は国司でなく副国司となるところだが、その国の「守」が名誉職のため「介」が事実上のトップである国や、「守」が京都からやってこない、あるいは体調の問題などで動けないなど、「介」が国の統治を引き受けなければならないときは「介」が国司となる。

 武蔵国は「守」と「介」の二人の国司がいる国であった。

 そして、年の明けた天慶二(九三九)年一月には武蔵国特有の問題が起こっていたのである。

 武蔵国というのは、現在の東京都と埼玉県、そして、神奈川県の川崎市と横浜市の大部分を占めており、現在ではこの地域だけで日本の人口の四分の一を占めるという都市部中の都市部である。この時代はさすがにそこまでの人口などなかったし、そもそも東京という都市など無かったから都市部ですらなかったのだが、それでも有数の面積と人口を有する国ではあった。そして、武蔵国の国府は現在の東京都府中市に存在していた。

 地図だけで見れば府中は確かに武蔵国の中央あたりである。だが、人口を考えれば西に寄りすぎている。これは、武蔵国東部に住む人々にとって見れば、自分の知らぬ土地に住む二人の国司が自分たちの税金を吸い上げているという感覚を生むのに充分であった。

 この反発感情を押しとどめていたのが、武蔵国で最大の人口と経済力を有する足立郡の郡司である武蔵武芝(むさしのたけしば)であった。正式な武蔵守は空席であり、武蔵介源経基とともに武蔵国の統治も引き受けていたのが、この武蔵武芝なのである。「守」がトップで、「介」が次席とするなら、武芝の地位は武蔵国のナンバー3というところか。

 足立郡は現在の東京都足立区だけでなく、埼玉県鴻巣市から東京都中央区に至る南北に細長い地域の郡である。現在の感覚で行けば高崎線や京浜東北線沿線の一帯と考えればいい。この足立郡の郡司が国司代行として武蔵国全体の統治をすることは、それまで遠く離れた国司に一方的に税を奪われるだけと考えていた人たちにとって、自分の意を受けてくれる人が統治するようになったことを意味する。さらに、隣国の戦乱の影響を最小限に押しとどめ、公平な税の徴収と治安安定で実績を残していることもあり、足立郡の住民からだけでなく、武蔵国全体で武蔵武芝は高い支持を受けていた。

 ただし、郡司の身分で国司としての職務を果たしているというのはイレギュラーな事態であり、朝廷としては、正式な武蔵守を任命する前の臨時の武蔵守を任命する必要があった。そこで、皇族でもある興世王が武蔵権守として武蔵国に赴任することとなった。

 ここまでは問題なかった。

 ところが、武蔵権守興世王から武蔵国に指令が飛んだのである。自分宛への税を納めよという指令である。武芝はこれを拒否。これまでの高率の税に対し、脱税をしてでも生活を守ってきた武芝にとって、税を納めさせよという命令は受け入れがたいものがあった。ただし、興世王の側にも言い分はある。法は法であり、その法に則っての税を納めていないのが武蔵国である。法に基づいた税を納めなければ武蔵国の財政、ひいては国家財政にも大きな影響を与えてしまう。

 興世王の出自はよくわからないが、興世親王ではなく興世王であることからも、皇族ではあるのだが皇族としてのランクは高くないことが読みとれる。つまり、自動的に記録に名を残せる身ではなく、自分から行動を起こさないと記録に名を残せない立場であり、名を残せない程度の活躍に留まっていたがゆえに出自がよくわからないという結果になっている。

 皇族には三つのランクがある。最上位に来るのは天皇と天皇に準ずる皇后、皇太后、太皇太后、そして、上皇。次に来るのは、天皇になる資格を持つ親王。皇太子は正式な地位ではあるが天皇ではないと判断されるので、あくまでも皇族のランクとしては上から二番目の親王に留まる。これは男性に限らず、女性であっても天皇になる資格があれば、内親王として上から二番目に叙せられる。そして、天皇になる資格を持たないただの「王」が来る。「親王」ではなく「王」となると、皇族といっても一般の貴族と同様の扱いを受けることが多く、その運命も皇族としての特別扱いではなく朝廷に仕える一個人としての才能に寄ることとなる。

 ちなみに、外国の最高権力者も「王」として認識されており、国外から日本に使節が派遣された際も、天皇と同等の者からの使者ではなく、天皇より2ランク低い者からの使者として扱われる。

 話が逸れたので元に戻すと、興世王にとっての武蔵国赴任は、自分の人生に転がり込んできた一世一代のビッグチャンスであった。武蔵国からの税収の乏しさは以前から知られており、ここで、法に基づく徴税ができれば、興世王はその他大勢の皇族から、目を向けられる皇族へ、さらには一つ上のランクの親王になれるチャンスなのである。仮に皇族から離脱しなければならなくなったとしても、王のままでは「平」の姓を名乗らなければならなくなるが、親王になれば「源」の姓を名乗れるのだ。

 このビッグチャンスに興世王は全力で向かった、いや、向かいすぎてしまったのだ。武力を用いての強制的な徴税が始まったのである。

 武蔵国の人たちは武芝に支援を求めたが、武芝は迎え撃たなかった。武芝が武人であったという記録はないが、この時代の常として、自領を守る軍勢はいつでも組織できているはずである。そして、武芝のもとには興世王に対してならばいつでも戦えると意気込む、強制徴税の被害者たちがいたのだ。

 しかし、ここで迎え撃つのは最悪の結果をもたらすことになる。武蔵国は隣国の常陸や下総で起きている争乱から逃れることに成功していたのである。それはひとえに武芝が戦乱の芽をかなり早い段階で摘んでいたからであり、おかげで、隣国では血なまぐさい戦闘が日常の光景となっていても、武蔵国では平和な日常を展開できたのだ。今の武芝の集めることのできる軍勢は興世王の軍勢とほぼ等しい。これでは戦闘に打って出た場合、膠着状態となり、武蔵国を下総や常陸と同様の終わることのない戦乱の大地にしてしまう。

 平和というのは、経済を発展させる最重要要素である。もっと言えば、他の国が戦争をやっているのを後目に平和を満喫する環境というのは、経済をめまぐるしく発展させる。このときの武蔵国はまさにその状態であった。隣国が戦争をしていて生活が困窮している。そして、武蔵国は脱税をしているおかげで生産に余裕があり、物が余る。つまり、武蔵国で生産した物品を、戦乱に明け暮れる下総や常陸に売れば相当に儲かるのだ。それが、武蔵国のさらなる経済的発展を呼び、武蔵国の人たちはこの一〇年、目に見えて自分の暮らしが良くなってきたことを実感できたのである。これが武芝の功績であった。

 それが、興世王によって瓦解した。興世王は法に基づく税を求め、払えないと言う者は、家財道具も、着ているものも、さらには家そのものも情け容赦なく没収したのである。無論、倉に蓄えたコメなどは真っ先に没収している。武芝にとっては、正義の名を盾に税を取りまくる興世王がこれ以上なく目障りな存在であったろう。そして、自分の元に逃げてくる者が日に日に増えているという現実もあった。

 武芝はなんとしても戦乱をくい止める必要があった。そのために将門への接近を図ったのである。

 貞盛を捕らえることができず、本拠地へと戻っていく将門の元に武蔵武芝からの書状が届いた。

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

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