興世王は良かれと思って税を集めたが、待っていたのは領民からの激しい反発であった。国府の前に興世王を非難する匿名の手紙が置かれていたことは、興世王のプライドを大きく傷つけた。そして、武芝の元に多くの領民が詰めかけて一大勢力を築いているだけでなく、武蔵武芝が近頃名を馳せている平将門と接近したという知らせまで届いた。
この状況でなお徴税を進めるほど、興世王は愚かな男ではなかった。興世王は武芝との和睦に応じたのである。
それにしても奇妙な光景である。国司である興世王が、郡司である武蔵武芝と対立して戦闘状態寸前に至ったのみならず、この二者を仲介したのが、無位無冠の一庶民でしかないはずの、しかも、武蔵国の住人ですらない平将門である。
興世王も、武芝も、戦闘をしたくないという思いでは一致している。この状況では和睦も実に簡単に結べるはずであったし、実際、和睦は成立寸前にまで至ったのである。
ところが、この和睦を乱す行動に出た者が一人いた。
武蔵介の源経基であった。武芝が武蔵国のナンバー3として武蔵国の統治をしていたのはすでに記したとおりであるが、ナンバー2である源経基の記録はほとんど残っていない。京都から武蔵国にナンバー2として派遣された直後は活躍する気に満ちていても、先祖代々武蔵国に住み、足立郡司の職務を世襲してきた武蔵武芝が武蔵国を統治しているという現実の前には黙り込むしかなかったのだ。そして発生した興世王の赴任と、興世王と武芝の対立。経基は興世王の側に立って徴税に励んだ、記録によっては興世王以上に徴税に励んだとあるが、気がつけば自分の知らぬところで興世王が武芝と和睦を結ぼうとしている。そこには自分への相談など一言もない。いつでも戦乱に打って出るという準備をしておき、武士を集めて軍陣を敷いていたところで耳にした和睦交渉開始の知らせは、経基を絶望させた。自分はいったい何をしてきたのか、何のために興世王の側に立ったのか、どうして自分だけが軍勢を率いて陣を敷いているのか、と。
源経基は、軍勢を率いて行動を開始した。ただし、戦闘に打って出たのではない。一路京都へと向かったのだ。狙いは一つ。武蔵武芝が平将門と組んで反乱を起こしたと訴え出るためである。これで和睦は破談となった。ただし、興世王も、武蔵武芝も、戦闘どころではない大事態となったと判断したため、和睦宣言は出なかったものの戦闘状態はひとまずの落ち着きを見せた。
前年の平貞盛に加え、源経基も京都に向かった。二人とも将門の反乱を訴えるための上洛である。
偶然が重なった不運であるが、将門にとっての不運はこの他に二つあった。天災と人災の連続である。
以前から悪化している天災も人災も、沈静化どころか前より悪化している。前々年には富士山も噴火したことで、人々は終わることのない絶望が続いていると考えるようになってしまった。このような状況下で将門の反乱の知らせが届いたのである。平時では慎重な吟味がなされる状況であろうが、これでは慎重な吟味など期待するほうがおかしい。
ただ、この情報が伝わった後の行動が不可解である。摂政藤原忠平は、軍勢を指揮するのではなく、神社や仏閣に対し平穏を祈るように命じたのだ。これは京都の軍事力の限界でもあった。各地から京都目指して強盗団が押し寄せている中、検非違使をはじめとする京都の武力は、そうした強盗団から京都を守るために京都の外の関所にかり出され、かえって京都市中から武人の姿が減ったほどである。それでも、強盗団はいつの間にか京都市中に押し入り、各地で強盗を繰り広げるに至った。
強盗が広まったのは京都とその周辺だけではない。天慶二(九三九)年四月一七日に出羽国の秋田で俘囚が反乱を起こし、秋田城の軍と交戦したことが届いたのである。連絡が届いた直後に反乱を鎮圧するよう指令が飛び、そのときの京都で取り得る最大限の軍事行動を展開した。もっとも、京都の治安維持のための軍勢を関所に配置してかえって京都市中の治安を悪化させたぐらいであるから、最大限の軍事行動と言ってもその規模はたかがしれている。なお、史料によれば、このときの反乱には俘囚だけではなく「異類」の一隊がいたという。この「異類」が日本海の向こうからやってきた異民族とする説や北海道のアイヌであるとする説もあるが、その詳細はわからない。
京都で朝廷が自分を反乱軍と規定したことを将門はまだ知らない。しかし、想像は容易に出来る。かなりの可能性で平貞盛と源経基が自分の反乱を訴え、その主張を聞き入れた朝廷が将門を反乱軍と断定し、自分に対する何らかの処罰を下したであろう。
これに対する将門の反応は天慶二(九三九)年五月二日に現れる。常陸、下総、下野、上野、そして武蔵の五ヶ国の解文を入手し、将門の行為は反乱ではないという国司からの報告を送り出すことに成功したのである。その上で、将門自身も今までと同様朝廷への忠誠を誓うことを宣言した。
しかし、この時代の情報の届くスピードは現在と比べものにならない遅さである。五月二日に将門が朝廷への忠誠を誓う書状を発送したとしても、京都に届くのは早くても月末になってから。
将門からの書状が届く前に京都に届いた情報は、平貞盛と源経基からの、将門反乱の情報だけである。しかも、臨時の武蔵守である興世王が、反乱の首謀者である武蔵武芝と和睦を結ぼうとしただけでなく、無位無冠の庶民である平将門を和睦の仲介者としたのである。これは朝廷権力そのものの否定になるのだ。
この情報を耳にした藤原忠平は、五月一七日、武蔵守に百済王貞連を任命した。久しぶりに公式記録に百済王の名が記された例でもある。
百済王貞連と興世王は全くの見ず知らずの関係ではない。婚姻関係により親族であったと記録に残っているから、お互いがお互いのことをわかっている間柄ではあったろう。その百済王貞連が新しく正式な武蔵守として武蔵国に赴任することを知った興世王は動揺を見せた。
六月に入り、新しく武蔵守となった百済王貞連から、武蔵守に対する指令が飛び込んできた。興世王を罷免し、武蔵国内の全ての者は興世王との関係を絶つようにという指令である。これで興世王の動揺はさらに高まった。百済王貞連が自分のことを知っているといっても、それは和気藹々とする関係ではなく、緊張をみなぎらせる関係であった。百済王氏は貴族としての地位こそ低いが、対外的な名目では、百済王と、親王ではない皇族とは同列である。普通の者であればただただ黙り込むしかない皇族であっても、百済王だけは対等の関係となりうる。ただし、それはあくまでも名目上であり、実際の百済王は三流貴族とするしかない。つまり、対等であるはずの興世王が自分より目上であるという鬱屈した感情が百済王貞連にはあったのだ。
それが今や、自分が正式な国司で、興世王は反乱者と手を結んだ朝廷の敵である。これは百済王貞連にとって、これまでの鬱屈した感情を一気に爆発させ解消できるチャンスを手にしたということである。実際、百済王貞連からの命令の第二報は、犯罪者興世王に対する出頭命令である。
これで興世王の決意は決まった。京都の敵と見なされてしまった以上、その汚名を晴らすまで何らかの手を打たなければならない。それが平将門の元に身を寄せることであった。それまで武蔵国に対する影響をほとんど持っていなかった将門であるが、評判は高かったのだ。常陸の猿島の平将門こそ、関東随一の武将であるという評判が。それにしても、ついこの間までの平将門は、興世王にとって敵の味方であるがゆえに敵であったのだ。その敵に身を寄せるというのだから、興世王の決意は相当なものがあったであろう。
一方、頼られた将門のほうは困惑した。ついこの間、朝廷への忠誠を誓う書状を送ったばかりである。それなのに、朝廷の敵とされた興世王が自分を頼ってきたのだから、ここで受け入れてしまうと朝廷への忠誠のほうが偽りになってしまう。ところが、世論を考えると興世王を突き放つなどできなかった。一触即発であったはずの武蔵国の平和を維持したことに加え、武蔵国の生活再建に成功したことで、興世王はそれなりの支持を獲得したからである。
強引なまでの徴税も、その税を朝廷に向けて送るのではなく、ましてや興世王の私財としてため込むのでもなく、武蔵国の領民の生活支援に使ったことで、徴税に対する理解も獲得できたのだ。親を失った子も、夫を失った妻も、それまでは自己責任の名の下に突き放されていたのに、今では興世王からの援助で人間らしい暮らしを送れるようになっている。この現実を目の前にしたら、厳しすぎる徴税ではあったが、その徴税に耐えたことも無駄ではなかったと、そして、自分の納めた税が役に立っていると実感できる。平和も維持できたし、和睦は成立しなかったがそれは武蔵介の源経基のせいであり、興世王も武蔵武芝も、そして平将門も世論の支持を獲得できていたのだ。
その興世王を朝廷の敵として召還するという命令を受け入れるなど世論が許さなかった。
将門は板挟みになっていた。このまま朝廷の敵であるという状況を受け入れた場合、待っているのは身の破滅である。現状のまま放置しても問題を先送りにするだけで何の解決も見ない。かといって、朝廷の命令を受け入れるのでは自分の存在理由が失われる。藤原忠平に仕えていた名も無き武人の平将門はもういない。ここにいるのは、領地を支配し、領民の平和と暮らしを守る地方の荘園領主である。
しかも、領地こそ常陸国の猿島とその周辺に留まるが、自分を頼る者は下総からも、下野からも、そして武蔵からもやってくる。現状を打破する希望の存在として将門は存在するようになってしまっているのに、その全てを断ち切って朝廷に仕える一官人となるのは、単なる裏切りではなく自己の存在理由を否定することになってしまう。
この苦悩にさらに拍車をかけたのが、天慶二(九三九)年六月の平良兼の死去である。
六月に入り自らの体調不良を感じた平良兼は、髪を切り落とし、僧籍に入って時を迎え、そして、死を迎えた。夜襲の失敗を最後に直接的な行動を起こさなくなったとは言え、死の直前まで良兼は将門の敵であり続けた。死に臨んでも将門打倒を訴え続け、臨終を看取った息子たちに将門を討ち滅ぼすよう遺言を残したのである。
本来ならば平良兼の死で将門に対抗する平氏の勢力はいなくなるはずであった。色々と評判はあろうと良兼は集団をまとめるリーダーとしての能力を持っており、良兼の元に武士たちは結集していたのである。単なる将門打倒だけで武士たちがまとまるわけはない。良兼が集団として武士たちをまとめ上げ、武士たちの日々を保証し、領地を保証したからこそ集団として維持できたのである。その良兼が亡くなったのだから軍勢は瓦解すると考えるのが通常である。しかし、良兼側の平氏たちにとって、将門の元に下るという選択肢はあり得なかった。これまで将門に対して抵抗し続けてきて、今になって主君を裏切って将門の元に下るなどあり得ない話である。それに、将門が領地と領民をいかに良く統治していようと、将門はこれまでの戦闘で数多くの人を殺し、家を焼き、田畑を荒れさせている。そうした人たちにとっての将門は不倶戴天の敵であり、将門に逆らう良兼のほうこそ正義であった。
誰かが言い出したわけではない。だが、良兼の臨終を目の当たりにした誰もが、京都にいる平貞盛をリーダーとする集団としてこれからも自分たちを存続させることを誓い合った。
良兼の死を聞いた将門に安堵の表情などなかった。敵は敵で存在し続けていると感じ、これからもなお争いが続くことを改めて実感した。
天慶二(九三九)年六月二一日、陸奥国に兵士を移送するよう解状が奏せられる。秋田での反乱に対する朝廷からの指令である。
天慶二(九三九)年七月一八日には出羽国あての官符が二枚発せられ、国庫の武器や防具を軍士に与えること、正税穀を兵糧とすること、兵士を鍛え上げ反乱軍を殲滅すること、練兵し賊徒を追討すること、秋田城介源嘉生は今回の責任をとるために譴責処分を下すことが指示された。
この二つの命令は、このときの朝廷の優先事項が見て取れる。
最優先は明確な反乱となっている秋田の俘囚であり、瀬戸内の海賊も、関東地方の争乱も、優先順位は低い。
これは、戦争か、犯罪かという違いである。
平将門も、藤原純友も、所詮は犯罪者なのである。今もなお名の残る人物であり、その影響も決して小さなものではないが、やっていることは犯罪なのだ。戦争を名乗るから人殺しも放火も略奪もあるが、戦争ではなくただ単に強盗集団が暴れているだけと考えれば、それは迷惑千万であっても優先度の高い案件ではなくなる。何しろ秋田で起こっていることは国家に対する反逆なのに対し、関東や瀬戸内で起こっていることは武士同士の争い。民間人の被害者もいるが、今の感覚で行けばヤクザ同士が銃や刀を持って暴れ回っているのと同じである。
ただ、藤原純友も平将門も、自分をそのように考えてはいない。純友は国家に対する対抗であると考えていたし、将門は自分のほうこそ朝廷の意に基づく行動をする者であって、自分に敵対する者のほうが朝廷の敵だと考えている。どちらも自分を単なる犯罪者であると客観的に考えるわけはなかった。
藤原純友のこのときの行動は史料の不備が多く不明なところが多い。しかし、将門のほうはある程度記録が残っている。
将門自身は認めたくなかったが、周囲は将門のほうを反朝廷の勢力と考えるようになり、朝廷に睨まれた者が将門を頼るようになったのだ。図式は単純化したのである。平貞盛を中心とする勢力は朝廷側の勢力であり、平将門を中心とする勢力は朝廷の敵である、と。
一方、貞盛は厳しい状況にあった。いかに自分の勢力が関東にあり、それが朝廷の信任を得た勢力であるといっても、一大勢力となりつつある将門の軍勢の前には歯が立たないと実感していたのだ。
平貞盛がいつ領地に戻ったのかの記録はないが、天慶二(九三九)年六月の平良兼の死には立ち会っていないから、戻ったのは早くても天慶二(九三九)年六月末、普通に考えれば七月ぐらいと推定される。
そして、貞盛はそれから四ヶ月間に渡って姿を消すのである。将門は貞盛を捕らえようと常陸国内に何度も手勢を派遣しているが、その全てから逃れるのに成功している。かといって、一カ所に留まっていたわけではない。貞盛が次に記録に登場するのは天慶二(九三九)年一〇月になってからだが、その場所は何と下野国府。新たに陸奥国司に任命された平維扶(たいらのこれすけ)とともに陸奥へと向かう集団の中に平貞盛がいたのである。将門の情報収集能力は、下野国府を出て陸奥へと向かう平維扶の集団の中にも延びたが、将門の元に返ってきたのは、平貞盛が集団を離脱し、その所在が不明になったという記録である。このあたりの将門と貞盛の行動は下手なスパイアクション映画の上を行っている。
朝廷の敵と断定された将門と手を結ぶこととなったのが、常陸国で広大な荘園を経営していた藤原玄明(ふじわらのはるあきら)である。朝廷側の史料には、朝廷の命にも、常陸国司にも従わず、広大な領地に住む領民から高い税を徴収して私財を肥やした極悪犯罪者と記されているが、本当のところはわからない。また、常陸国に広大な荘園を所有していたという記録はあるが、それが常陸国のどこなのかもわからない。
藤原玄明が将門を頼ることにしたのは、常陸国でも武蔵国で興世王が行ったのと同じことが起きていたからであった。新しく常陸介に任命された藤原維幾(ふじわらのこれちか)は法に基づく税を納めさせようとし、それまで納税を拒否してきた藤原玄明は武力でもって徴税しようとする藤原維幾の軍勢の前に戦闘を諦め、手勢を率いて将門の元にやってきたのである。なお、将門の元にやってくる途中で郡の倉庫を襲ってコメをはじめとする物資を略奪してきており、朝廷の記録にある極悪犯罪者という記述はあながち嘘とは思えない。
将門は、深く考えてこのときの行動を起こしたとは考えられない。この人の人生を追いかけていくと、行き当たりばったりで短絡的、長期的なビジョンもなくただただ現状だけを考えて行動しているとしか言えない。ゆえに、このとき、将門が藤原玄明の側に立って軍勢を動かしたのも、単に頼られたからであり、それがどのような意味を持つのか間ではわかっていなかったのではないかと思われる。
天慶二(九三九)年一一月二一日、将門、常陸国府を攻める。
将門率いる一〇〇〇名の軍勢の前に常陸国司藤原維幾の軍勢は退却をし、国衙に戻った。将門側の史料には将門側の兵士一〇〇〇名に対し藤原維幾の軍勢は三〇〇〇名であると記しているが、これは、将門の武勇を脚色するための数字の改竄であろう。多くても将門の軍勢と同数、おそらくは将門より少ない軍勢しか集められなかったと思われる。三〇〇〇名の兵士が国衙に戻り、国衙に陣取ったと記録にあるが、いくら大きな建物と言え、国衙に三〇〇〇名の兵士を収容できるような空間はない。
人数は不明だが、藤原維幾が将門に抵抗しようとし、将門のほうも藤原維幾に対する包囲を敷いたのであるが、これは軍事的にはともかく政治的には大きな失敗であった。常陸国司藤原維幾は朝廷の任命した国司であり、その周囲の軍勢も国と国司を守る軍勢である。その軍勢に対して攻撃を仕掛けたのみならず、国府を包囲した。その上、藤原維幾を降伏に追い込んだのみならず国府の印璽を差し出させたのである。印璽とは単なる印鑑ではない。常陸国の統治を示すシンボルであり、この印璽を差し出すということは、一個人として平将門に降伏するのでなく、常陸国全体が平将門の軍勢に降伏することを意味するのだ。
この瞬間、将門は正式に反乱軍となった。
藤原維幾を降伏に追い込んだことに気を良くした将門も、その結果の大きさに愕然とし、将門を常陸国府周辺の略奪へと走らせた。もはや取り返しのつかないところまできたとの諦めか、それとも、それが平将門という男の本性なのか。
この常陸国衙攻略には、被害者側の記録も残っている。要は朝廷側の記録である。
常陸国衙を包囲するとき、将門は国衙の建物だけでなく、国衙周辺に展開していた街そのものを包囲している。現在の感覚で行けば地方の小さな街だが、この時代の感覚で行けば、地域の大都会である。その街そのものを、将門は包囲した。
藤原維幾の降伏の後、将門の軍勢は常陸国府の街で略奪を働いた。国衙の倉庫だけが略奪の対象となったのではない。国衙周辺に展開している街の一軒々々が略奪の対象となったのだ。貨幣経済の破綻したこの時代、略奪の最初のターゲットとなるのは何と言っても穀物と布地、特に、コメと絹である。当然のことながらコメも絹も将門の軍勢の手に落ち、将門の配下の武士の所有物となった。
金銀や宝石は無論、皿や壷など、どの民家にもある日用品もまた略奪の対象となった。
奪われるものが何もない貧乏な者も安心はできなかった。女性はことごとくレイプされ、男性はただ楽しみのためだけに殺された。殺されたのは民間人だけではない。僧侶もまた、男性ならば殺害の、女性ならばレイプの対象になった。常陸国衙に勤務する役人のうち何人かは泥の上に膝を屈して命乞いをしたが、少なくない役人が辱めを受けたとある。
そして、将門の軍勢が去った後、常陸国衙とその周辺は灰燼に帰していた。
これまでの日本の歴史で、蝦夷との戦闘で前線の城が敵の手に落ちたことはあるが、国衙が反乱軍の手に落ちたことはない。その歴史にないことが、異民族どころか、天皇の血を引く高貴な者の手によって実現してしまったのだ。将門は理論上こそ無位無冠の一般庶民ではあるが、その姓は「平」であり、その血筋は名君の誉れ高い桓武天皇につながる。その桓武天皇の子孫が反乱を起こし国衙を攻め落としたのだから、当時の人たちに大きなショックとなって広まった。
将門はいくら自らを反乱軍と認めないとしても、朝廷は将門を反乱軍と見ているし、世間もそのように見ている。自分の手で常陸国衙を攻め落としたというのは隠しようのない事実であり、反乱としか呼びようのない自らの所行に大きなショックを受けていた。常陸国衙を落としたのは天慶二(九三九)年一一月二一日。それから一一月二九日までの間、将門がどこで何をしていたのかの詳しい記録はない。
しかし、その間に、将門が身の振り方を考えたということは記録に残っている。常陸国府を攻め落とした以上、自分たちはどうあっても反乱軍である。しかも、これまでの歴史で誰も実行したことのない国衙攻め落としを実現し、国府の印璽まで手にしてしまった以上、朝廷から反逆者として討伐される運命が待っている。
将門は人生の終わりを感じていたのだ。
この将門の相談相手となったのが興世王である。興世王もまた、取り返しのつかないところまで来てしまったという認識を持っていた。そして、考えを重ねた末の結論であったであろう、興世王のアドバイスは、将門の思いを越えた、そして、日本建国からこれまで誰一人として考えもしなかった内容であった。
すでに一国の国衙を攻め落とした以上、もはや朝廷の敵であることを否定することなどできない。だが、秋田の反乱に加えて瀬戸内の海賊の横行に追われる朝廷に、関東地方を統治する能力はない。であるならば、関東地方全域に勢力を広げて事実上の独立勢力を築くのもありではないか、朝廷からの反逆者となったのなら、朝廷に対して最後まで徹底的に抵抗するのもありではないか、というのが興世王のアイデアである。
常陸国府の印璽を手にした以上、常陸国の統治権は将門のもとにある。関東地方の残りの国府にも攻め込み、印璽を入手し、関東平野一帯を将門の統治する一帯にしてしまう。関東地方の生産性の高さを考えれば、関東地方だけで独立した地域として自給自足で存続することも不可能ではない。
海の向こうでは、唐も、新羅も、渤海も無くなり新たな国が生まれている。新たな国の創設者となったのは必ずしも高位高官の者ではない。それどころか、それまでであれば無位無冠の一般庶民でしかなかった者が、混乱のどさくさに紛れて国家元首となって国を統べる身になるのも珍しくない。その珍しくないことを日本で起こそうというのだ。
天慶二(九三九)年一二月一一日、将門は正式に関東地方制圧のための行動を開始した。隣国である下野国府へと軍勢を進め国衙を包囲。下野国司の藤原弘雅は将門の軍勢の前に抵抗することなく、国司自ら将門の前に跪いて印鎰を頭上に捧げた。下野国府の無条件降伏である。将門は降伏の意を示した藤原弘雅を京都への追放に処すとした。
京都から着任してまもなくのうちに将門に攻め込まれ、京都へと戻らなければならなくなった藤原弘雅は、嬉々として京都に戻っていったわけではない。当然だ。ただでさえ国司という職務は任官希望者が多く、藤原弘雅も待って待って待ち続けてやっと手にした国司の地位である。道真の怨霊の噂が下火になったこの時期、満期まで迎えれば一生分の財産も稼げたし、下野国司としての実績次第では中央での出世も夢ではない希望に満ちた職に戻っていた。その希望を将門は奪い取ったのである。
京都から下野に向かうときは、藤原弘雅自身だけでなく、妻も子も、高官の者の移動として豪華絢爛な旅路となるのが普通。ゆえに、下野への往路は豪華絢爛なものであったと考えられる。そして、任期を終えて京に戻るときもまた、国司に見合った豪華絢爛であるべきところでなければならない。だが、藤原弘雅の京都帰還は、冬の雪の吹きすさぶ山道を歩いての移動になるしかなかった。この惨めな帰還は屈辱としか形容できなかった。
一方、下野を落とした将門の軍勢は、勢いそのままに上野国へ向かった。
四日後の天慶二(九三九)年一二月一五日、将門の軍勢は上野国府の前にあった。
上野国司であった藤原尚範に与えられた未来も同じであった。将門の前に跪き、印璽を捧げて無条件降伏したのである。降伏に対する将門からの命令は、こちらもまた京都への追放だけである。
同日、将門から朝廷に対して書状が送られている。宛先はかつての主君である藤原忠平。内容を見る限り、このときには既に、将門の決意は決まっていたことが読みとれる。ただし、妥協点を見いだそうとする姿勢は見せており、朝廷との交渉を探ってもいることもまた読みとれる。
書状ではまず、将門が源護に訴えられて上京したことを述べている。その後、故郷に帰ることができ、平和な日々を過ごしていたところで平良兼が将門を攻め込んできたこと、そして、平良兼のために受けた被害の大きさを述べている。平良兼を捕らえよと言う命令が出たので安心していたら、今度は平貞盛が将門を召喚するという官符を手に常陸国にやってきたことを記す。さらに、武蔵介である源経基の訴えが通って将門を裁くべきとの意見が出たことについて述べ、それでもなお平和裏に解決しようとしたところ、常陸介の藤原維幾の子である藤原為憲が平貞盛と手を組んで将門を攻め立て、庶民の命を守るためにやむなく戦闘に訴え出て、常陸介の藤原維幾が謝罪のために降伏したとしている。
書状に記したこれまでの経緯の一つ一つは嘘ではない。だが、自らの攻撃については全く記していないし、与えた被害についても沈黙を保っている。
書状ではその後に、本意ではないが一国を攻め落としてしまった以上、自らに課せられた罪科は軽くないとした上で、自らは桓武天皇の血を引いており、また、日本書紀から日本後紀にかけての時代には天皇家が武力で国土を統一したことを記し、自分には天より授けられた武力の才能があり、かつ、自分以上の武力の才能のある者はいないとした上で、関東地方の制圧を述べている。
そして、書状の末尾には、かつての主君である藤原忠平に対する感謝の言葉が述べられている。
この書状が京都に届く前に、将門は大胆な行為に出た。
天慶二(九三九)年一二月一九日、平将門、新皇(しんのう)就任を宣言。関東地方は日本から独立した地域であると宣言し、京都の朝廷の権威の及ばぬ地域であると正式に宣言した。歴史上唯一の、日本からの独立運動である。
史料によれば、巫女の託宣が将門に対してあり、将門はその託宣に乗ったのだという。後先考えずに突っ走るところのある将門だから、このときの託宣に気を良くして先のことも考えずに帝位を称したとも考えられるが、新たな天皇を名乗るという、それまでの歴史にも、そして、それからの歴史にも存在しない大胆な行為を、将門の弟の平将平や、将門の側に仕えている伊和員経らは止めようとしたが、結局、周囲の者はつき従ったという。
おそらく、彼らもまた、引き返すことのできないところにまで来てしまったのだと考えていたのであろう。また、海の向こうでは、それまで無位無冠の一般庶民であった者がいきなり王座に就き、さらには帝位に登るという光景が日常化している。かつては存在するのが当たり前であった、唐も、渤海も、新羅も、今や地図のどこを探しても見つからなくなっている。どうして日本だけが例外であろうか。
それに、京都の朝廷の権威は過去の話とするしかない。東北では反乱が起こり、瀬戸内では海賊が暴れ回っているというのに、朝廷は何もできずにいるのだ。
遠く離れた京都の朝廷など頼ることもできないが、恐れるほどの存在でもない。
そう考えた結果の大胆な行動であった。
その上、平将門の反乱は亡き菅原道真の意思でもあるという託宣まであった。そして、平将門は菅原道真の生まれ変わりであり、非業の死を遂げた菅原道真の怨念を晴らすべく行動するのであって、妨害する者には道真の怨霊がつきまとうとの宣言まで出た。ついこの間まで日本中を席巻していた道真の怨霊の噂を利用できたことは大きく、将門はこれ以後、「右大臣正二位菅原朝臣霊魂」を旗印に戦場に姿を見せるようになった。
将門はこの日、関東地方のうち八ヶ国の国司を独自に任命している。
下野守、平将門の弟である平将頼(まさより)。
上野守、多治経明(たじのつねあきら)。
常陸介、藤原玄茂(はるもち)。
上総介、興世王。武蔵権守と兼任。
安房守、文屋好立(ぶんやのよしたち)。
相模守、平将文(まさふみ)。
伊豆守、平将武(まさたけ)。
下総守、平将為(まさため)。
武蔵国に関しては興世王が元々武蔵権守であるため、改めて誰かを任命してはいない。ただ、朝廷の権威に替わる新たな権威であることを示すために、上総国司との兼任としている。
ここで注目すべきは上総、常陸、上野の三ヶ国である。この三ヶ国の守は親王が就任することが定められており、実際には赴任しない守に替わって介が任命されて現地に赴任するのが慣習となっている。しかし、将門は三ヶ国のうち上野国だけに関しては介ではなく守を任命している。
将門が朝廷からの独立を宣言するならば、朝廷の権威を前提とする上総守や常陸守を任命したって構わない。朝廷と接点を持ちたいのなら三ヶ国とも介でなければならない。慣例を守るか慣例を破るか、このあたりは中途半端である。
また、将門の任命はあくまでも関東地方のうち八ヶ国に限定しており、その外の国に対しては何も任命していない。このときの国司任命は、今までであれば国司になるなど夢でしかなかった者に希望を与えるものであったが、同時に、関東地方だけが将門の領国であり、将門の独立国はその外に手を出さないというアピールにもなった。
こうした急増の独立国に見られることであるが、制度の一切を旧統治国のマネすることが多い。将門の国家も同様で、「新皇」という天皇に相当する新しい称号の国家元首をアピールをしたが、その他の制度はそっくりそのまま京都の朝廷の制度のままである。新皇を支える臣下として左大臣と右大臣がおり、その下に大納言がいて中納言がいて、参議がいて文武の官僚がいる。さらに、首都として下総国の亭南に都を築くことを宣言し、南西に橋のある地を「山崎」、東の港のある地を「大津」と名付けるなど、徹底した京都の模倣が展開された。
将門のこうした発案の全てが将門自身によるものか、それとも、周囲の者と協議を重ねた末のものであるのかだが、これはおそらく後者であろう。
新たな国を作り上げたが、その制度は旧来の国の制度をそのまま適用する。そして、周囲の者を新たな国の重職に任命する。するとどういうことが起こるか。これまでの人生では到底望むことのできなかった大臣の地位や貴族の位を手にできるのだ。中央に上って大臣となるには遠く及ばない者だって大臣を名乗ることができるし、役人になるにも一苦労で公的な地位を手に入れられなかった者だって貴族になれるのだ。
学生運動やオウム真理教にも言えるが、自分たちだけの国を作り、自分たちの国に閉じこもって満足する者は、自分たちの国の中で分不相応な壮大な名をつける。書記長だの大臣だの長官だのと名乗り、自分たちのトップは現実世界のトップと等しいか、あるいは自分たちの小さな国のほうが正当な国家で外の世界のほうが打倒すべき敵であるという認識を持つ。
将門の独立宣言は確かに驚天動地の宣言であったろう。だが、やっていることは現在でもよく見られることである。武力を持って暴れているから大問題になるし、軍事力で鎮圧しなければならない大事態であるが、結局は反政府テロなだけなのだ。しかも、最初から熟慮なんかしないからか、すでに存在する制度を利用して国家ごっこをする。
やっている本人は真剣なのだろうが、後世から評価すると幼稚とするしかない。
将門からの書状はまだ京都に届いていない。しかし、噂話のスピードというものは正式な書状よりも速い。そのためか、将門が関東で朝廷からの独立を宣言したというのは噂話となって京都に届いていた。
この噂は、普通ならば笑い飛ばすか、悪質なデマであると考えるであろう。だが、このときは誰もが悪質なデマと考えることも、笑い飛ばすこともできなかった。
平将門が反乱を起こしたとの噂話が伝わったとほぼ同時に、摂津国の須岐駅に藤原純友の部下である部下の藤原文元の率いる軍勢が襲いかかり、備前介藤原子高(さねたか)と播磨介島田惟幹、そして、彼らの妻や子らを拉致したという知らせである。第一報によると藤原子高は鼻が削がれ、妻たちは海賊達にレイプされ、子供達は殺されたという。
備前介藤原子高は藤原文元と、播磨介島田惟幹は三善文公と以前より対立していた。そして、藤原文元も三善文公も、中央での出世を断念して地方に流れてきて海賊化し、藤原純友の家臣の一人となった者であった。海賊集団であると言っても藤原純友は平将門と同様に地域の紛争に首を突っ込んでいたのである。
対立の理由についての詳細な記録は残っていないが、おそらく、国司が徴税をしようとしたのが理由であろう。中央での出世を諦めて地方に進出し、地方で荘園を展開し、合法・非合法を含めて財産を築き上げたところ、徴税しようとする国司がやってきた。税を納めさせようとすること自体は国司としての本来あるべき業務なのであるが、納めさせられる側にとっては不当な略奪になる。不当な略奪に抵抗する手段の一つとして藤原純友を頼るようになり、彼らは次第に海賊の一員となり純友の部下となっていった。そして、藤原純友は部下の要請を受け入れて軍勢を率い攻めるようになった。備前介の藤原子高も播磨介の島田惟幹も純友の軍勢が攻めて来るという知らせを聞きつけて慌てて京都に戻ろうとし、その途中に襲撃されたのであった。
このニュースと将門反乱の噂話が同時に京都に届いたのだ。
以前からゴタゴタしていた関東と瀬戸内が同タイミングでさらに悪化したという知らせを聞いた京都の人たちは、将門と純友が共謀して反乱を起こしたと考えた。実際にはただの偶然なのだが、そう考える人はいない。
純友が摂津国の須岐駅を襲撃したという第一報が届いたのが天慶二(九三九)年一二月二〇日、その翌日には摂津など七ヶ国に藤原純友召還の官符が出されたというのだから、これは異例のスピードとするしかない。ただし、命令を出すスピードは速かったが、命令を実現するための方策となると、具体策がない。捕らえよという命令だけで、捕らえるための人員派遣もなければ、物資の支援もない。
さすがにそれでは問題だと感じたのか、翌天慶三(九四〇)年一月一日、小野好古(おのよしふる)を山陽道の追捕凶賊使に任命し、藤原純友を捕らえるよう命令した。
小野好古は小野篁の孫で、三蹟の一人でもある小野道風の兄にあたる。弟が書の達人として名をはせていたのに対し、小野好古は順当な貴族として中央と地方を行き来する生涯を歩んでいる。ただ、このタイミングで海賊討伐に任命された理由は不明。後に武人として名を馳せることになる以上このときの選択として間違ってはいなかったのだが、これまでの小野好古のキャリアは文人としてのもののみであり、武力を発揮する局面はどこにもなかった。
将門反乱の噂は届いていたが、正式な情報として届いていたわけではない。ただし、誰もがその情報を事実として受け入れており、反乱鎮圧を祈るための祈祷が年明け早々に展開された。
将門が反乱を起こしたという正式な情報が京都に届いたのは天慶三(九四〇)年一月九日。すでに届いていた藤原純友の襲撃の情報と合わさり、さらに秋田の反乱の情報も加わって、少なくない数の者が、唐や新羅や渤海が迎えたのと同じことが日本でも起こると考えた。そんな中、将門謀反の報告を最初に告げた源経基が、情報の第一報を伝えたことの報償として従五位下に叙されるという場面もあった。
天慶三(九四〇)年一月一一日、東海道と東山道に将門を捕らえるよう命令が下る。
翌一月一二日、兵士を京都市中に配備。平安京に住む人は、いつ、東から、あるいは西から反乱軍がやってきて京都を破壊するかわからないという恐怖感情があった。その感情を沈静化するためにも、武装した兵士が京都市内の各地に配備されている光景を展開し続ける必要があった。
天慶三(九四〇)年一月一九日、参議の藤原忠文を征東大将軍に任じ、反乱の首謀者である平将門を拿捕するよう命令が下った。
同日、藤原純友の軍勢が備中国に侵攻。国府に配備されている軍勢はなすすべなく撤退し、備中国府は灰燼に帰した。備中国府はこのときを最後に歴史の闇に消えてしまい、現在では遺跡すら発掘されていない。国府が賀夜郡にあったことは記録に残っており、現在の総社市金井戸付近が国府のあった場所らしいこと、総社市金井戸周辺に住む人の苗字や周辺の地名にかつて国府があったことを忍ばせる名が残っていることまでしかわからず、備中国府がどこにあったのかを断定する記録はどこにもない有様である。
一月二〇日、比叡山延暦寺で大火。惣持院が焼け落ちる。反乱鎮圧を祈祷しているさなかに起こったこの惨事に京都の人たちは茫然自失とした。
比叡山延暦寺の大火があった翌日である天慶三(九四〇)年一月二一日、藤原純友が一つの行動を起こした。自分と異なる海賊集団のトップである藤原三辰を捕らえただけでなく、その首を朝廷に献上したのだ。
犯罪者の首を献上すること自体は普通に見られる行為ではある。だが、藤原仲成の死刑が大同五(八一〇)年に執行されてから一三〇年、一度も死刑の執行が行われたことがない。つまり、人の死を目の当たりにすることはあっても、誰かの手で殺され、その首が送り届けられるという光景などあり得ないことであった。
そのあり得ないことが起こった。
藤原三辰は朝廷から拿捕命令の出ていた海賊である。そして、その海賊が捕らえられた。首を朝廷に送り届けるというセンセーショナルな対応であったが、海賊拿捕は海賊拿捕。だが、その海賊の首を持ってきたのが今まさに瀬戸内で暴れ回っている藤原純友である。これはとても難しい判断に迫られることとなった。
朝廷の命令に従って海賊を拿捕したのが、まさにその海賊の一人である藤原純友である。この処遇をいかにすべきかで議論は噴出したが、純友の懐柔は不可能ではないと察知した朝廷は、天慶三(九四〇)年一月三〇日、藤原純友に従五位下の位を与えると決めた。ただし、純友は従五位下の位を手にしたものの、それで海賊行為を止めようという意思を示さなかった。
瀬戸内の、そして関東の争乱は各地にも飛び火し、天慶三(九四〇)年一月末には駿河国で「群賊」「凶党」が騒擾を起こしているとの情報が飛び込んできている。
京都で自分に対する処罰命令が出たという連絡は将門のもとに届いていない。
ただし、関東地方を自らの領国とする決意はしたものの関東全域を実効支配しているわけではない。特に問題なのは、平将門への反旗を平然と称する平貞盛であった。
天慶三(九四〇)年一月中旬。将門は五〇〇〇名の兵を率いて常陸国へ出陣し、平貞盛と維幾の子為憲の行方を捜索している。ここでも平貞盛は自らの姿を隠すことに成功しており、将門の捜索の手を離れることに成功している。しかし、貞盛の妻と源扶の妻は捕らえられ、将門の兵士達の慰みものとなった。将門は兵に陵辱された彼女らを哀れみ着物を与えて元の住まいに戻し、レイプに参加した兵士達は解雇して住まいに強制送還した。この部下の蛮行にショックを受けたのか将門自身も下総の本拠へ帰っている。
これが独立国としたことへの現状であった。将門に仕えていた兵たちは、将門の一員である自分はこの国の支配者であり、敵に対しては何をしてもいいと考えるようになったのだ。権力を握った過激派は、必要以上に自分の権力を誇示する。これは将門に大きな失望を与えた。
これではいったい何のために新皇となったのか? 国を作るどころか国を壊しているのが現状だった。それも、将門が信頼する兵士達が国を壊す存在となっていた。将門の兵により殺された者も、レイプされた者も続出した。将門は彼らを処罰したが、その処罰は国の軍事力を弱めることにもつながった。
関東地方の制圧を宣言するも、関東地方の全域が将門の支配地となったわけではない。将門に反発する者もいるし、朝廷に忠誠を誓い将門を敵視する者もいる。そうした面々を一つ一つ従えていくのがこのときの将門の実施していたことなのであるが、絨毯爆撃は思いのような成果を残せずにいた。
天慶三(九四〇)年二月一日には、平貞盛が下野国の押領使である藤原秀郷と力をあわせて四〇〇〇の兵士を集めているとの報告が入った。一方の将門の手許には一〇〇〇人足らずの軍勢しか残っていない。将門には犯罪者となった兵士を再び自分の兵士として呼び戻すという考えがなかった。いや、それは許されなかった。以前の将門であればそれも考えたであろうが、今の将門は統治者である。いかに我が身を守るためであろうと犯罪者の刑罰を中断して軍勢に組み入れることは許されないことであった。
その結果が一〇〇〇名しか集められないという現実だった。それでも将門はこの人数で勝機があると見て出陣した。だが、将門の軍勢の先陣を率いていた藤原玄茂の軍勢は貞盛と秀郷の率いる軍勢の前に撃破され、先陣の敗北を見た将門は狼狽した。しかも、平貞盛は自分の妻が将門の兵士達にレイプされており、その復讐心に燃えてもいる。実際にレイプした兵士本人は将門の命令によって解雇されているため参加していないが、そんなことはどうでも良かった。ただ将門の兵士であるというだけで貞盛にとっては復讐の対象となり、最後まで戦う者は戦死し、命乞いをする者は無慈悲に殺された。
この勢いに乗って、貞盛と秀郷は下総国川口へと進撃するまでになった。将門は戦闘になっても敗北となると考え、総退却を決断した。
従五位下となり貴族の一員となれた藤原純友であるが、それで海賊行為を止めようという気はしなかった。天慶三(九四〇)年二月五日、純友は淡路国の武器庫を襲撃して兵器を奪っている。公的な地位を手に入れた以上、公的な武具や食料も自由に扱えるというのが純友の理屈である。
一方、この頃は京都の各所で放火が頻発しており、さらなる政情不安を募らせている。純友を拿捕すべき立場にある小野好古からも、「純友は舟に乗り、京都に向かって船を漕ぎ上りつつある」と報告している。
天慶三(九四〇)年二月九日、太神宮に奉幣し、東賊平将門、西賊純友の余党の追討祈願。朝廷としては派遣した者が無事に反乱を鎮圧してくれることを願うのみであった。
天慶三(九四〇)年二月一三日、貞盛と秀郷はさらに兵を集めて、将門の本拠地である猿島郡石井に攻め寄せ火を放った。将門は兵を召集するが形勢が悪くて兵が集まらず、このとき集めることができた兵士はわずか四〇〇名である。この少なさでは敵軍と向かい合うどころか、将門一人の命を守るだけでも困難とするしかない。
将門は屋敷も捨てて退却。将門は王城完成前の仮の住まいとした屋敷が灰に消えるのを眺めるしかなかった。
将門が屋敷を捨てて逃走し、将門の屋敷が炎上したという知らせは瞬く間に広まり、翌天慶三(九四〇)年二月一四日、貞盛と秀郷の軍に藤原為憲も加わった連合軍が将門に挑んできだ。
荒れ狂った天候は当初こそ将門に味方していたが、風向きが変わった瞬間、将門軍は瓦解した。連合軍から打ち込まれた一本の矢が将門の額に命中したのである。
馬に乗って前線で奮闘していた将門が馬から崩れ落ちるのを見た誰もが沈黙し、しばしの静寂の後、将門の遺体はそのまま放置され、将門の兵士達は四方八方へと逃走した。
前年一二月に独立国を立ち上げてから三ヶ月を経ることもなく全てが終わったのだ。
将門の死で、将門とともに行動をしていた全て者がその地位を失った。将門の任命した国司たちはその地位を失い、てんでばらばらに逃走を始めた。
一方、将門によって地位を奪われていた者たちは次々と地位を取り戻していった。
将門が亡くなった翌日の二月一五日には、常陸介の藤原維幾がはやくも常陸国府に戻っている。
一方、藤原玄茂と、将門の兄の平将頼の二人は相模国まで逃亡したところで発見され、その場で殺害される。また、将門を新皇にするよう勧めた興世王は上総国で発見され殺害される。坂上遂高、藤原玄明といった将門の部下たちも常陸国で斬られる。
藤原仲成の死刑を最後に死刑は中止になっているが、ここでは死刑ではないものの明白な死が展開されたのであった。
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