京都はきわめて絶妙なタイミングで救われることとなった。
天慶三(九四〇)年二月二二日、追捕使の小野好古から、純友率いる軍勢が京都に向かって進軍しているという情報が届いたのである。純友は自分が従五位下に任じられたことを最大限利用しようとした。自分に地位を与えてくれたことへの感謝の報告をするという名目で軍勢を率いて京都に向かおうとしたのである。
このニュースを聞きつけた藤原忠平は慌てて外に飛び出し神々に祈りを捧げたと記録に残っている。承平天慶の乱そのものには平然を装っていた忠平も、いざ京都が戦場になるかという事態を目の当たりにして冷静さを失ったと見える。
ところが、その三日後である二月二五日、将門の死を伝える連絡が京都に届いた。この知らせに宮中は狂喜乱舞し、一方、京都に向かっていた藤原純友は落胆して日振島に引き返していった。
このとき、純友が以外と簡単に京都に向けて進軍している事実から、純友の勢力は単に瀬戸内の海賊を束ねただけのものではなく、近畿地方の盗賊達にも勢力を伸ばせていたのではないかと考えられている。将門よりも瀬戸内の海賊対策にかなりの時間と労力をつぎ込んでいたのも、瀬戸内の海賊のほうが京都にとってより驚異となる存在であったからだというしかない。
天慶三(九四〇)年三月九日、将門追討の功により、武蔵介の源経基を従五位下、常陸掾の平貞盛を正五位上、押領使の藤原秀郷を従四位下に叙す。
この中に、征東大将軍藤原忠文の名はない。
名はないのは当然で、平将門を打倒すべく関東へ向かっている途中で将門が討ち取られたから。何もしていないのに将門追討の功など得られるわけがない。ただし、この処遇がよほど不満であったらしく、老体に鞭打って行動したのに恩賞もないとは何事かと激怒して辞表をたたきつけたとある。
一方、将門の残党は髪を切り落として寺院に隠れるなど、あの手この手で逃げようとしていた。天慶三(九四〇)年四月八日の記録に、将門の残党狩りをする藤原忠舒らが下総に入り、将門の残党の捜索をはじめたが、将門の弟ら七人から八人は各地を逃げ回ったとある。
史料に不確定部分が多いこの部分にあって、詳細な部分を伝えてくれているのが将門の死を京都に連絡する方法である。天慶三(九四〇)年四月二五日、藤原秀郷が平将門の首を進上したのであった。将門の首はさらし首として数ヶ月に渡って見世物とされた。場所は現在の京都市下京区新釜座町とされており、民家の建ち並ぶ中に「天慶年間平将門ノ首ヲ晒シタ所也」と記した祠が建てられている。
と、正式な記録に残っているのはそこまでなのだが、将門の伝承はかなり尾ひれがついて広まっていて、京都で数ヶ月間さらし首になっている間にも腐ることなく目を見開いていたとか、首が自分の胴を探して関東へ向かって飛んでいったとか、胴に向かう途中で霊力がつきて落ちたとか、首の落ちた地が神社になったとか言い伝えがあるが、言い伝えを全部本当のこととすると平将門の首がいったいいくつ必要になるのかと言いたくなる不整合が起こってしまう。
将門の伝承で著名なのが東京千代田区大手町の平将門の首塚である。ここは将門の首が落ちた地の一つとされており、この首塚に移転などの企画があると事故が起こるとされ、現在でも畏怖の念を集めている。
将門の行動を後先考えない短絡的な行動と一括否定するのが筆者の視点であるが、どうしても認めなければならない点がある。それは、生きていくことに苦労する人たちを助けたこと。遠く離れた京都の権威を維持するために苦痛を強いられている人たちの希望の星となったのが将門であり、少なくとも将門の支配下にあれば生活苦から逃れることができたのだ。
今の日本でもそのような人が出てこないという保証はどこにもない。戦乱に訴え出るのは論外にしても、地方に独自の権威を築き上げ、中央に頼らぬ生活再建を実施する。地方の上前をはねることで生活する縁もゆかりもない赤の他人のために苦労するのと、自分たちが生きていくための日々を過ごすのとどちらを選ぶのか。
将門は最終的に朝廷の敵となったが、途中までは朝廷の権威の一端を担っている気概があった。そこには反乱の意思などなく、偶然が積み重なっての反乱となった。もし偶然が重ならなかったら。
そう考えたときに浮かび上がったのが源平の争乱であり、太平記の時代であり、戦国時代である。中央から離れた独自の権威を地方で築き上げるという考えはこの時代にはもうすでに存在していたのだ。将門はあまりにも速すぎる行動をしたのだ。それも、平安時代という枠組みに縛られて。
大手町にある将門の首塚が単なる伝承であり迷信であると一括するのはたやすい。しかし、それが恐怖の念からスタートした感情であっても、将門の墓とされる場所に祈りを捧げるということは将門に感謝する人が居続けたということである。菅原道真にも言えるが、非業の死を遂げただけでは怨霊と呼ばれることもないし、その死を歴史として語り継ぐこともない。死を悲しむ人が居続けたから歴史として語り継がれるのである。
時代は平将門を悪人と判断した。
そして、将門を悪人と考える庶民は多かった。
だが、将門を認め、敬愛する者も多かったのだ。
そういえば、同時期に同タイミングで同様の行動をしていたはずなのに、藤原純友に将門のような伝承はない。これもまた、この二人の人物をその時代の人たちがどう見たか、そして未来の人たちがどう見つめてきたかということの答えであろう。
将門の反乱が終わったことで、朝廷は軍勢の大部分を西に向けることができるようになった。特に、五月中旬(詳細な日付は不明)に将門追討の軍勢が京都に凱旋してきたことは朝廷に余裕を生み出すこととなった。
天慶三(九四〇)年六月一〇日、朝廷は藤原純友追討を正式に決議。とは言え、藤原純友は従五位下の官職を得ている公人であると認定した以上、純友を直接裁くことはできない。そこで、純友の手下を犯罪者として認定し、指名手配したのである。純友本人がいかに海賊として荒らし回っていると言っても法に従えば純友を裁けないが、犯罪者をかくまっているとなると話は別である。犯罪者を部下として保護するか犯罪者として突き出すか、これは朝廷から仕掛けられた純友への罠であった。
この朝廷の命令に対する純友の判断は二ヶ月後に現れる。単に情報が届くのが遅かったからとは言い切れない。なぜなら、その間に太宰府から連絡が届いているのである。連絡の内容は、中国に群雄割拠する諸国の一つである呉越国から通商の使節がやってきたことを知らせる内容であり、朝廷からも左大臣藤原仲平の名で呉越国へ返信を出している。太宰府との往復の連絡がとれたのに、その間で勢力を伸ばしている藤原純友と連絡が付かないわけはない。おそらく、純友は悩んだであろう。関東では平将門が討ち取られ、その首が京都で晒し者になっている。これは遅くはない未来の自分の姿としか言えない。
悩んだ末の決断であるが、決断した後は素早かった。天慶三(九四〇)年八月一八日、藤原純友率いる四〇〇艘の軍勢が伊予国と讃岐国を襲ったのである。かつて菅原道真が京都に負けぬ大都市を目指して開発した讃岐国府もこの日を最後に歴史から姿を消した。それでも讃岐国府はどこにあったのかはわかるだけまだいい。伊予国府も襲撃を受けたのだが、こちらはどこに存在していたのか未だにわからないのである。それほどまでに純友の襲撃は凄まじく、また、徹底していた。
この藤原純友の回答に対し、朝廷はひるむことなく対抗策を打って出た。
まず、天慶三(九四〇)年八月二二日に、近江国の兵士一〇〇人を集め、阿波国の賊徒を討たせるよう命令。天慶三(九四〇)年八月二七日には、右近衛少将の小野好古を追捕山陽南海両道凶賊使に任命し、山陽道と南海道の諸国の一切の軍事力は小野好古の元にあると宣言された。瀬戸内海沿岸で小野好古に逆らう者は国家反逆者となったのである。いかに朝廷の官職を得ている藤原純友であっても、自分より上職にある者の指揮監督命令が発令されただけでなく、逆らっただけで反逆者として一刀両断される事態となったのだ。
しかし、純友はこの報告を知る前にさらなる攻勢を仕掛けていた。自分に対する朝廷の軍事攻勢を減らすべく、天慶三(九四〇)年八月二八日に備後国と備前国に襲撃をかけたのである。この二カ国では瀬戸内海の海賊平定を目的とした軍船が建造中であり、純友は自分を打倒すべく建造中の軍船に攻撃を仕掛けて一〇〇艘あまりを消失させることに成功した。
そして、山陽からの被害の報告が京都に届く前に、純友は襲撃の矛先を変える。軍船を焼き払った翌日の天慶三(九四〇)年八月二九日、紀伊国に襲撃を加えた。瀬戸内海から離れた紀伊国でも瀬戸内の海賊が跋扈するようになったことは、少なからぬ衝撃をもたらした。
将門は新皇を名乗ってからわずか三ヶ月で自滅した。しかも、その戦闘は朝廷の派遣した軍勢ではなく、関東地方の軍勢同士の対決で決着している。短期間で、しかも自分たちだけで戦乱を解決できたことは、関東地方に意外とも言うべき平和と平穏をもたらした。何しろ、戦乱の被害を受けた地域より被害を受けていない地域のほうが多いのだ。そして、略奪は残虐ではあったが徹底した破壊ではない。ゆえに、復興も比較的早くできる。
しかし、純友はそうではない。戦い自体が長期間であるし、被害も大きい。そして、破壊も徹底している。これでは戦乱が終わってもなかなか復興できないし、この時点ではそもそも戦乱を終わらせることができるかどうか怪しいのである。
朝廷は何よりもまず戦乱を終わらせることを決意したが、結果は藤原純友との全面戦闘になってしまった。規模だけで言えば、独立を宣言した平将門より、朝廷の一官人として行動している藤原純友のほうがより大規模な戦闘をしているのである。
朝廷は純友に妥協するつもりなど無かった。徹底した殲滅を求めたのである。しかし、純友の軍勢は朝廷の軍勢に対抗できてしまうのだ。藤原純友のしていることはテロリストのテロ行為でしかない。ゆえに、法の処罰が下る罪である。だが、解決方法は戦争しかなかった。話し合いを理解する知性はない者でも殴り合いなら理解する。純友に通用するのは殴り合いだけである。
テロとの戦いと戦争がどう違うかなどという論争は平和なところで安全かつ快適な生活をしている者の暇つぶしでしかない。現実に被害を被っている者からすれば、テロリストであろうが、戦争を仕掛けてきた敵であろうが、力ずくでねじ伏せてくれればそれでいいのである。この当時の市民感情も同じで、平将門には多少なりとも親和感を抱いていた者は多かったが、藤原純友は明確な敵である。憎むべき敵であり、殲滅すべき敵であり、同情できない敵なのだ。
朝廷の軍勢派遣とともに、寺院や神社に詰めかける市民の姿が数多く見られるようになった。神や仏の力で藤原純友を討ち滅ぼしてくれることを願うのである。
この市民感情を一瞬ではあるが満たしてくれる報告が来たのは天慶三(九四〇)年九月二日。讃岐国から、藤原純友の手下で讃岐攻撃の指揮を執っていた紀文度を捕え京へ送るとの連絡がきたのである。この報告に京都の市民は狂喜乱舞した。
しかし、一ヶ月後、京都の市民を落胆させる報告が届く。
天慶三(九四〇)年一〇月二二日、太宰府の派遣した軍勢が純友軍の前に完全に敗れ去ったという連絡が届いたのだ。しかも、情報源は太宰府ではなく安芸国と周防国からの緊急連絡である。
九州最大の、そして、日本第三の大都市である太宰府が危機に立っているという認識は京都の市民を狼狽させるのに充分であった。そして、ただちに瀬戸内に軍勢を派遣するよう声を挙げるようになった。
平安京の市民の声を朝廷は無視したわけではない。しかし、朝廷ができることはもう限界までやっているのだ。財源もないし、物資もないし、指揮する人もいないのである。関東から武士を呼び寄せて瀬戸内に派遣するというアイデアも出たが、これまで陸戦しか経験してこなかった関東の武士は、船を操る純友の軍勢と対決できないとの判断から見送られた。
その後も純友の軍勢の情報は届いていた。
天慶三(九四〇)年一一月七日、純友の軍勢が周防国の鋳銭司を襲撃。建物を焼き払い、流通前の多額の現金を奪いとっている。
天慶三(九四〇)年一二月一九日、純友の軍勢はターゲットを土佐国八多郡に切り替え、突如として襲撃。このときは国府の軍勢と地域の武士の抵抗で純友の軍勢を押し返すことに成功するが、双方とも数多くの死者を生んだ。
年が変わっても純友の襲撃は変わることなく、一月になっても各地から被害の様子が届いてくる。しかし、ただ単に攻められるのではなく、攻め込まれても抵抗する様子が届いている。
天慶四(九四一)年一月二一日には、純友の軍勢の伊予国攻撃の指揮を執っていた前山城掾の藤原三辰の首が京都に届いた。
純友の軍勢は大胆な攻撃を仕掛けていたし、大きな戦果を残してもいたが、次第に朝廷の圧力の前に押し込まれ得るようになっていた。
天慶四(九四一)年二月九日には、純友軍の次将で讃岐国を攻めていた藤原恒利が朝廷軍に降伏した。これだけでも純友にとって痛手であったのだが、さらに痛手であったのが、藤原恒利の率いる軍勢がそのまま朝廷軍に編入されたことである。純友の本拠地の間取り図まで頭に入っている者が、手勢をそのままに朝廷軍に加わったのだ。
これを知った純友は手持ちの軍勢を率いて純友が本拠地としていた日振島に陣を敷くが、大した抵抗もすることなく西へと脱出。主のいなくなった日振島は朝廷軍の手に落ちることとなった。
ところが、本拠地を失ってもなお純友は強大であった。その上、前年一〇月には太宰府の軍勢を打ち破っているのである。藤原純友率いる軍勢は二月末に太宰府に攻撃を仕掛け、太宰府を占領することに成功したのだ。
それから三ヶ月間、日本第三の都市でもある太宰府の受けた惨状は筆舌に尽くせぬものがあった。ありとあらゆる破壊が行われ、ありとあらゆる略奪が行われ、ありとあらゆる暴行が行われた。あまりにも破壊しすぎて、このときを最後に太宰府の都市機能が終わってしまったほどである。
ただし、純友は太宰府にこもった状態でありその周囲には出ていない。より正確に言えば出ていけない状態にあったのである。純友は勢力を伸ばすべく弟の藤原純乗に軍勢を渡して柳川に侵攻させようとしたが、大宰権帥の橘公頼の軍の前に敗れ去ったのである。
太宰府は手に入れた純友も、太宰府を一歩出たらその勢力は保証されないと悟ったのである。しかも、太宰府は海から離れている。海の上で船を操って各地に襲撃していた藤原純友にとって、得意ではない陸戦を強要される現状では動くに動けないとするしかない。弟の藤原純乗を柳川に派遣したのも海を手に入れるためであるのだが、それは失敗している。
太宰府から最も近い港町の博多は考えるだけでも無理であった。博多港は朝廷軍によって制圧されているのだ。のこのこ出かけていったら得意の海戦を展開する前に海陸両方から挟み撃ちにあい純友は討ち取られる。それでも純友は博多港の近くまで自分の軍船を呼び寄せることに成功はしていた。あとは、自分たちの軍勢がどうやって包囲網をかいくぐって軍船に乗り込むかであった。
純友の太宰府略奪の知らせが京都に届いたのは天慶四(九四一)年五月一五日。朝廷は直ちに神仏への祈りを捧げ、凶賊の討滅を改めて宣言した。
その四日後の天慶四(九四一)年五月一九日、参議藤原忠文を征西大将軍とすることが決まった。参議を派遣するというのはその軍勢指揮力を考えてのことではない。軍事的に優位に進んでいる以上、九州に着いた頃には純友の軍勢が鎮圧されているか、あるいは、九州に着いて間もなく純友は討ち取られるであろう。だが、受けた被害が大きすぎる。純友の軍勢の鎮圧だけで万事OKというわけではなく、その後の復興が重要である。そこで参議の権限を持った貴族の派遣となる。現場に残って九州を復興させるために。
藤原忠文の派遣が純友鎮圧を前提としたものであるという朝廷の計画に狂いはなかった。派遣を決めた翌日である天慶四(九四一)年五月二〇日、小野好古率いる官軍が九州に到着し、ただちに藤原純友攻略を始めたのである。小野好古は陸路から、副将の大蔵春実は海路から攻撃した。太宰府に陣を敷いていた藤原純友も太宰府に留まっての抵抗は諦め、挟み撃ちになったとしても得意とする海戦しか活路はないと考え博多まで北上。そこで大蔵春実率いる朝廷軍と向かい合った。
戦闘は激戦となり純友軍は大敗。また、藤原純友が呼び寄せることに成功していた軍船八〇〇艘あまりが朝廷軍に奪われた。それでも純友は小舟に乗って伊予に逃れることに成功したが、それは軍勢の退却ではなく犯罪者の逃亡の姿であった。
「藤原純友敗れる」の知らせは瞬く間に瀬戸内海中に広まり、純友の派遣していた軍船の少なくない数が退却していき、それより多く数の軍船がその地で朝廷軍に降伏していった。
と同時に、藤原純友追撃の動きが瀬戸内海中に展開し、伊予国に逃れたとの知らせを聞きつけた朝廷軍が大挙して伊予国に押し寄せた。
そして、天慶四(九四一)年六月二〇日、息子の重太丸とともに潜伏していた藤原純友は、警固使として伊予国に派遣されていた橘遠保に捕らえられ、親子ともども獄中で斬首された。
天慶四(九四一)年六月二九日、伊予国から藤原純友の部下の一人である、藤原三辰の首が京都に届いた。と同時に警固使の橘遠保が藤原純友を捕らえ、斬首したとの連絡も京都に届いた。
天慶四(九四一)年七月七日、小野好古率いる軍勢が京都に凱旋。その中には、藤原純友を捕らえ首を切り落とした橘遠保の姿と、藤原純友の首、そして、純友の子である重太丸の首もあった。
ただし、いわゆる藤原純友の乱はこれで終わりではない。瀬戸内海各地に送っていた藤原純友の軍勢の残党が残っていたからである。とは言え、これもまた時間の問題ではあった。
天慶四(九四一)年八月一八日、日向国から、純友軍の残党である佐伯是基を捕らえたとの連絡が届いた。
天慶四(九四一)年九月六日、源経基が豊後国の佐伯院で残党の一人である桑原生行と戦い捕らえたとの連絡が届いた。
天慶四(九四一)年九月二二日、播磨国から石窟山(いわややま)で残党の一人である三善文公と戦い殺害したとの連絡が届いた。
天慶四(九四一)年一〇月一九日、残党の一人である藤原文元らが但馬国で殺されたとの連絡が届き、一〇月二六日には、但馬国から藤原文元と、もう一人の残党である藤原文用の首が届けられた。
天慶四(九四一)年一一月二九日、太宰府から、純友の残党の一人で、純友の次将の地位にあった佐伯基是の身柄が左衛門府に送られてきた。
これで藤原純友の乱は完全に終わった。
藤原純友の残党狩りのさなか、朝廷内で一つの動きがあった。
天慶四(九四一)年一一月八日、藤原忠平が摂政でなくなったのである。とは言え、それは罷免とか、戦乱の責任をとらせたとかではない。朱雀天皇が元服したため、改めて関白に任命されたのである。
関白となった忠平が最初に行ったのは「何も無かったことにする」という決定であった。海賊も、平将門の反乱も、東北地方の反乱も、全て無かったことになった。鎮圧はなされたが過剰な制裁は行わず、戦乱の起こる前の状態に何もかもを戻すと決めたのである。
この時代の人たちは、各地で起こった戦乱に戦慄を覚え、その戦乱が終わったことに心の底から安心していた。だが、何も無かったことにするとできるほど温厚ではいられなかった。
猛然たる反発が巻き起こり、京都市民たちは、最低でも反乱首謀者を死刑にするよう内裏に向かって殺到したのである。現実には平将門も藤原純友も亡くなっている。つまり、死刑にするよう求められていても死刑にすることは当然ながらできない。だが、それで民衆は満足することはなかった。首謀者が死んだように、海賊も、関東の反乱参加者も、残さず死刑になるよう要請したのだ。
しかし、忠平は庶民のこの要請を拒否。その上で、天慶四(九四一)年一二月二九日、天下に大赦が行なった。名目は朱雀天皇の元服だが、誰もが戦乱を「無かったこととする」という忠平の意思なのだと理解した。
藤原独裁はもはや揺るがしようのない事実であり、それに対する叛旗を翻そうとしても鎮圧されるという結果が待っている。反感を抱いている人間が出来るのは陰で不満を口にしながらも、藤原独裁に食い込んで我が身の未来を形作ることのみ。
これをわかりやすく言えば、一党独裁の政治体制である。それも、複数政党制が形式的にしか認められていない国家での一党独裁。政権を握る政党のみが権力であり、それ以外は権力自体が認められない。法でいくら認められていても政権与党以外は何の価値もないのだ。
とは言え、藤原氏を政党として考えた場合、藤原良房以後連綿と権力を握り続けている。それがなぜ、忠平の代になっていきなり一党独裁となったのか?
これは戦後日本の自民党政権を考えるとわかりやすい。自民党は鳩山一郎以後連続して権力を握り続け、自民党総裁イコール内閣総理大臣という体制を作り上げていた。しかし、それは法により規定されているわけではない。法で定めているのは国民の意思によって選ばれた議会に基づいて内閣総理大臣を指名することであり、自民党は法に基づき国民の支持を獲得し続けて権力を握り続けてきた。国民が自民党を拒否しようと思えばできたのである。それをしなかったのは、自民党以外の政党が権力者として相応しくないと国民が考えたからである。
一方、忠平の代になると藤原氏以外の選択肢がなくなっている。身近な例で探すと共産主義諸国における共産党のようなもの。共産党だけが国家を指揮し、共産党以外の政党は存在しないか、あっても形だけのもの。選挙で民意を示そうにも選挙での選択肢は共産党しかなく、権力者になろうとしたら共産党に入る以外に方法はない。こんなことは自民党でも行わなかった。
同じ一党独裁でも、時平までは自民党の一党独裁、忠平からは共産党の一党独裁。一つの政党が連綿として政権を握り続けることでは同じでも、その中身は完全に真逆とするしかない。
天慶五(九四二)年三月一〇日、意見封事を提出させる。意見封事自体は藤原政権がよく行っていた政策であり、忠平がこのタイミングで実施するのもおかしな話ではない。名目はあくまでも幅広い意見を求めて政治に反映させることであるが、実際には役人や若手貴族に与えられた人生逆転のチャンスである。意見封事として提出した政策の内容次第では無名の役人や若手貴族が抜擢されることもあるし、抜擢とまではいかなくても後ろ盾のない若者が出世街道を歩むきっかけになることもある。
しかし、このときは意見封事を出させただけに留まり、その後はなかった。
これもまた、忠平の藤原独裁の弊害であった。
時平の頃までは、生まれに関係なく、より優れた教育を受け、より優れた実力を示した者が、中央で出世街道を歩むことができた。その道は確かに狭いが、名も無き一般市民が教育を受けて大学に入り、大学を出て役人となり、実績を示して貴族入りすることだって可能だったのである。名門貴族の子弟が出世するのでも、その者自身は充分な教育を受け充分な実力を示しているから、そこに文句はなかった。
だが、忠平の頃になるとその道は事実上閉ざされる。庶民が大学に入ること自体が珍しくなっただけでなく、大学を出て役人になっても出世することも難しくなったのだ。藤原氏の勧学院をはじめとする大学に相当する貴族専用の教育機関出身者が宮中にひしめき、大学を出た程度では見向きもされない。役に就けたとしてもその地位は低く給与も安い。何しろ上には自分と同様に大学を出た者がひしめいているのだ。
現在でも似たような問題は起こっていて、かつては大学そのものが超エリートであり、大学卒業は自動的に将来の安定を約束するものであったのに、現在では二人に一人が大学を出ている。そして、大学生の質はかつてと変わらないかむしろ上がっているが、かつての大学生が体感できたような将来の安定などどこにも約束されていない。大学生に相応する職業が少なく、数少ない職種をめぐって大学生たちが激しい争いを繰り広げ、争いに敗れた者は大学生としての素養を積みながら、大学を出たという記録だけ残して大学生に相応しくない未来を過ごさねばならないのが現状であり、それと同じ事が起きていたのが忠平の時代であった。
これで不満を感じないとすればそのほうがおかしい。
意見封事はその不満を解消する手段であった。ただし、不満の元凶である「出世できないこと」については解決していない。解決しようにも枠がないのだからどうしようもない。だから、「意見封事というチャンスを与えたのに活かさなかったのは君たちだ」という体裁を整えたのである。
もっともこれは以前からの流れがより鮮明化した結果であり、忠平個人の責任とはできない。貴族全体の数が増えたのに、対応するポストの数は以前のままなのである。増えた貴族全員に地位相応の待遇を与えるにはポストも予算も少ないが、かといって、貴族を減らすこともできない。
天慶五(九四二)年四月二九日、朱雀天皇、兵乱平定を謝し、加茂社に行幸した。これで平将門の乱も藤原純友の乱も正式に終了した。
もっとも、根本解決には至っていない。
増えすぎた貴族が地方にあふれ、より良い生活を求めて独自の権力を作り上げるのはもはや日常の光景となった。そして、中央の統制は地方に届かなくなった。
地方に派遣された国司は、その地域の統治で権力を持つことが減った。朝廷が国司に求めたのは予定分の納税を果たすことであり、予定以上の税を集め、国に納める分を除いた余りが国司の収入になるという図式になった。中には真面目にその国の統治を実施する国司もいたが、多くの国司はその国の統治に関心を示さなかった。
これが端的に現れたのは、道路行政。飛鳥時代に建設された道路は意外なほど広い。それも、かなり設備の整った道路である。両脇に側溝を構えた道幅一一メートルが標準で、目的地と目的地を最短距離で結んでいるため徹底した直線で敷かれており、舗装されていないから雨が降ればぬかるむぐらいはするが、地面を深く掘って排水をよくするなど、表面を舗装すればそのままローマ街道としてもおかしくないだけの道路を建設していたのである。それは奈良時代になっても残っていたが、平安時代になると道路は痕跡を消していく。
平城京が耕地となっていったように、道路もまた田畑へと変わっていったのだ。最高の場所にあり、滅多に人も通らず、メンテナンスもされなくなったから荒れ果てるようになった。そんな土地を田畑に組み込むなと命令するほうが無茶な話であった。それがいかに重要なインフラであると認識していても、自分の暮らしのほうが優先する。人通りの多い道であれば切り崩すなど全く考えなかったであろうが、今やほとんど人も通らず、通るとすれば武装した強盗集団のみ。そんな無益どころか有害しかなくなっただだっ広い道路より、作物を生み出す農地のほうが重要と考えたのだ。
全体の利益を考えず自分の権利だけを強く求める者は、店にとってはクレーマーであり、国にとってはプロ市民であり、一般庶民にとっては犯罪者である。そのいずれも迷惑千万であることに変わりはないが、そういう者のいない社会はあり得ない。もしそういう社会があるとすれば、それは二四時間三六五日監視し続けられる自由無き刑務所としか形容できない社会である。
迷惑千万が起こらないようにするために必要なのは、監視し続けることではなく、自分の権利を求めることと全体の利益とがつながるような社会を作ることであるが、それは理想であって現実ではない。社会が一度ガタガタになった後で再興しようというときは、自分の利益と全体の利益が合致するので自分の利益の追求は特に問題ないし、社会不安にもつながらない。だが、社会の発展が止まって下降線を迎えるようになると、全体の利益と個人の利益が相反するようになり、個人の利益を求める動きが犯罪へとつながってしまう。なぜなら、真面目に働けば豊かな生活をおくれるようになる時代ではなくなるから。上昇しているときは仕事もたくさんあるし、働けば働いただけの見返りが得られるが、下降すると仕事の数が減り、働いても得られる見返りが乏しくなる。これは現在の日本を見ればわかる。
この時代も現在の日本と同様、間違いなく下降線を歩んでいた。藤原良房の手によって始められたばかりの頃はどこかの荘園に参加すれば豊かな未来が待っていたが、今や荘園に参加すること自体も困難になってしまった。かといってその他に豊かになるチャンス方法などなく、同じだけ努力しても同じ成果は得られなくなり、未来に対する希望は減っていった。
その結果が治安の悪化である。後のことを考えず、今だけを考えて行動する者が続出したのだ。将門も、純友も、突き詰めていけば大規模な犯罪とするしかないが、それは社会問題が露見した結果でもあったのだ。将門や純友の反乱は鎮圧されたが社会問題の根本は解決していない以上、治安の悪化が食い止められるわけはない。このようなとき、通常であれば、犯罪を取り締まる公共の力が求められる。軍隊とか警察とかは弾圧や侵略のために存在するのではなく、暮らしの安全を守るために存在しているのだから、本来ならばここを強化するべきなのだ。
だが、この時代はこれらの公共の力が目に見えて弱まっていた。軍隊も、警察も、まともに機能しなくなってしまったのだ。
この状況で藤原忠平が目を付けたのは武士である。天慶五(九四二)年六月二九日、京都で多発する強盗に対抗するため、滝口の武士を中心とし、そこに諸衛府の文官や検非違使を混在させた一団を組織させ、二四時間体制の警察組織を作ったのである。忠平はさらに、この新しい警察組織のデモンストレーションとして、翌六月三〇日に、貢上調物を奪った罪により駿河国掾橘近保を捜索させることとした。ただし、それで成功したという記録はない。歴史的意義を探すとすれば、私的権力である武士が公的権力である検非違使の上に立ったという一点のみである。
中国が五代十国の混乱にあること、渤海国が滅亡したことは既に記した。と同時に、三分裂していた朝鮮半島は王建の手で高麗国としてまとまったことも既に記した。
高麗国は理論上、かつての高句麗の継承国家であり、かつ、かつての統一新羅から禅譲を受けた国家であるということになっている。つまり、朝鮮半島の正当な権力は高麗にのみ存在するという理論である。しかし、それならば新羅から正当性だけではなく、ヒトも制度も引き継ぐべきであった。新羅である程度の権力を握っている者を高麗でもそのまま権力の側に就けさせれば、新しい国家のスタートはよりスムーズに展開できたのである。だが、高麗国王の王建はそれをしなかった。その代わりにしたのが、新羅色の一掃である。国家の正当性を除き、新羅は全てが否定された。新羅で権力を握っていた者は再底辺に落とされ、新羅の文化は否定され、新羅の制度は消滅させられたのである。それまでとは異なる新たな政権を樹立するときによくある現象であるとは言え、王建の指令は徹底した破壊であり、破壊に抵抗する者は命の危険に追いやられた。
その結果が、亡命である。
しかし、単に自分と家族の命を守るために逃げてきたというのであれば何の問題もなかった。問題は、亡命者が新羅の軍船で日本にやってきたことである。天慶五(九四二)年一一月一五日、隠岐から新羅軍の残党が漂着したとの連絡が届いた。
要望は日本への亡命であるが、相手は軍船である。現にこのときの軍船は、一瞬ではあるが竹島に上陸している。新羅と日本との間は、鬱領島と竹島の間を海の上の国境線とすることで合意していたし、それは高麗との間でも有効であった。ほとんど岩礁である竹島はともかく、人が住めるだけの広さのある鬱領島も無人島としてきたのも、それが日本海の洋上における安定を図るための、両国の暗黙の了解となっていた政策であったのである。それは新羅が一〇〇年に渡って侵略を続けていた間も守られており、高麗が朝鮮半島を統一してもやはり有効であった。
その取り決めを破って竹島に上陸しただけでなく、軍船を連れて隠岐にやってきた。これは対策を一歩間違えれば亡命どころか戦乱になるところであり、忠平は難しい決断を迫られていた。
討議を重ねた末ではあるが、忠平からの回答は、受け入れ拒否。
理由は、竹島に日本の許可なく不法に上陸したこと。これは宣戦布告に等しい行為であるとし、国境の外へ直ちに退去するよう命じたのであった。と同時に、新羅人の残党と称する一派が軍船を操って日本領である竹島に上陸し、隠岐にまでやってきたことを高麗に厳重に抗議した。この抗議に対する高麗の返答はなかったが、竹島が日本領であり、鬱領島が高麗領であり、その両方を無人島とすることは従来通りであるとの返答はあった。
誰の目にも藤原独裁は盤石なものに見えていた。
天慶五(九四二)年時点では以下の通りである。
関白にして太政大臣である藤原忠平がトップに君臨。
左大臣は忠平の実兄の藤原仲平で、右大臣は空席。
大納言は二人とも藤原氏。
中納言は四人中三人が藤原氏。
参議は五人中二人が藤原氏。
つまり、太政官一三人中九人が藤原氏であり、残る四人のうち三人は源氏だから、藤原氏でも源氏でもない一般の貴族は一人しか太政官に入れていないのである。
しかも、その一人である参議の伴保平はこのとき七六歳になっている。つまり、長期間の勤務に対する特別恩賞的な意味で、太政官の一番下の参議に加えてもらえているという状況である。
これで一般の貴族が意欲を見せるだろうか? 懸命に働いたことの評価が全くと言っていいほどないのだ。いくら藤原氏以外の者が太政官に入っていると言っても、皇室から分かれ出たばかりである源氏以外は、長年の功績に対する特別恩賞の高齢者が一人いるだけ。これでは意欲を減退させるに充分である。
その上、天慶五(九四二)年三月一〇日に提出を命じた意見封事は何の結果ももたらしていない。中には意欲的な書面を出した者もいたが、書類を出せと命じられたので儀礼的な内容を返信したか、そもそも意見封事を出さないかのどちらかの者が多かった。そして、結果から見れば意欲的な書面を出した方が負け組で、意欲を見せない儀礼的なもので済ませたか、あるいは、無視した者のほうが勝ち組になった。無駄な労力を費やさなかったという点で。
提出の程度があまりにも低いので、天慶六(九四三)年一二月一七日に意見封事を再度出すように命じたが、その回答も空回りだった。一年八ヶ月を経ての提出の督促だから、そもそも意見封事自体が意味をなしていたとは考えづらいものがある。
忠平も、意見封事そのものが全くの儀礼的なものであり、内容は伴っていないと認めていた。天慶七(九四四)年一月四日に、朱雀天皇の名で、意見封事は関白藤原忠平が全て目を通していると宣言する事態となったのも、命じる側と命じられる側の双方が、全くの儀礼的なもので実体を伴っていないと考えていたからである。
太政官に入るのをゴールに考えても、そのゴールははるかに遠く、また、現実的でもない。
この状況下で貴族たちが選んだのは、太政官に入る出世ではなく、自らの財を増やすことであった。出世は程々に済ませる代わりに、より豊かな暮らしを手に入れることに執着するようになったのだ。
こうなると、出世させることをエサとして一所懸命にさせるようにしてきた業務は、財に関係ないと判断したら手を抜く対象となる。出世を程々で済ませることを考えるようになった貴族たちが渇望するようになったのは地方官だが、その統治は手を抜くこととなったのだ。地方での善政が出世に関わる評価基準であったが、それが財を増やすのに関係ないとあれば、善政なんか放っておいて、ノルマぎりぎりを果たすことを考えるようになってしまった。
中には財に関心を持たず、誠心誠意、地方官としての職務を果たすことを考える者もいたが、そのような者が地方官になれるのは稀であった。貴族の数は増えているのにポストの数は増えていない。しかも、世の中は藤原氏であることが重要視され、それ以外の貴族はよほどのことがない限り抜擢されない。地方官のポストの空きが出そうだと聞きつければ、経験も実績も申し分ない貴族が大挙して自己推薦文を持参してやってくる。その地域の統治が困難なときは経験ある貴族が選ばれ、容易であるときは経験の乏しい若手貴族が選ばれるのが通常であるが、そのスタートの経験を積めるのが一部の有力貴族の子弟に独占されることとなった。無名の貴族の意欲ではなく、有力貴族の財を増やし続けることが優先されるようになったのだ。
財の有無が貴族としての評価を定めるとなれば、誰しも財を増やすことに執着するようになる。地方官に与えられたノルマとはその地方からの税収を中央に届けることであるが、その額を徹底的に削り、削った結果を自分の財としてため込むことを考えるようになった。さらに、あれこれと理由を付けて臨時の税を課し、その結果を自分の蔵へと届けさせるようにもなった。
名門貴族でない者が地方官の地位を手にするためには、それ相応のプレゼントが必要になった。良房も、基経も、叩けばホコリぐらいは出る。だが、忠平の元には良房や基経が聞いたら卒倒するであろう量のプレゼントが届いていた。贈るなと命じても無駄であった。財をはたいて忠平へのプレゼントを用意し、地方官の地位を手に入れ、はたいた以上の財を獲得することが、無名貴族の成功の最短ルートとなってしまったのだ。
さすがにこの現状は問題であると考え、天慶七(九四四)年一月六日には、地方官の評価基準の改定を打ち出したが、それで貴族たちの意欲を呼び起こすことはなかった。ノルマを変えただけでは何の意味もなさなかったのだ。
それが安定した政治体制としての藤原独裁の結果であった。
国境の外で起こっているような国家存亡の危機は乗り越えた。反乱はあっても鎮圧し、日本という国家は以前と同様に続いている。こんな現象は大陸のどこを見渡しても存在しない。そして、将門や純友の反乱による被害者はいるが、五代十国の動乱にある中国や、三国分裂の争いが繰り広げられた朝鮮半島、そして、国家そのものが地図から消えてしまった渤海国に比べれば、失われた命は少ない。
自浄作用の働かない政治。
腐りきった政治。
賄賂が横行する政治。
ボロボロとしか形容できない治安。
だが、犯罪で命の危機を感じることはあっても戦争で殺されることはない。
これが、海の向こうで起こっているような国家存亡の危機とは無縁の暮らしを手にした代償である。
よく、「政治家が『正義』という言葉を口に出したら終わり」と言われる。権力を握った者が、正義とは何か、悪とは何かを定義し、正義のために悪を滅ぼす事を言い出すと、いっさいの妥協も許さない重苦しい雰囲気に包まれるのだ。
忠平にこういう感覚はない。重苦しい雰囲気もなければ、正義だの悪だの定義することもない。もしかしたら自分がやっていることが悪であると考えたのかもしれない。腐りきった政治、自浄作用の働かない政治、能力ではなく家柄が全てを決める政治。これはどう考えても正義ではないが、その代わり、人間らしい暮らしは手にできる可能性がある。
前と比べれば明らかに暮らしぶりは悪いし、希望もない。治安の悪さがそれに輪をかける。自らが武器を手にして自分たちを守るか、あるいは武士に守ってもらわなければ命の保証はできない。だが、それでも海の向こうに比べればマシだった。言葉も通じない異民族に攻め込まれて、その地に住む者であるというだけで家族も住まいも田畑も命も奪われるのに比べれば。
藤原氏でなければ未来がない。
では、未来ある藤原氏にはどのような未来が待っているのか。
わかりやすいのが忠平の子である藤原実頼と藤原師輔の兄弟である。兄の実頼はこのとき四五歳、弟の師輔は三七歳。元服と同時に貴族入りし、天慶七(九四四)年一月時点では、実頼が大納言に、師輔が権中納言に出世している。
ここで兄弟のプロフィールをおさらいすると以下の通りとなる。
延喜一五(九一五)年一月二一日、藤原実頼が貴族デビュー。
延長元(九二三)年九月五日、藤原師輔が貴族デビュー。
延長八(九三〇)年八月二五日、藤原実頼が蔵人頭に就任。
延長九(九三一)年三月一三日、藤原実頼が参議に就任。太政官入りを果たす。
延長九(九三一)年閏五月一一日、藤原師輔が蔵人頭に就任。
承平四(九三四)年一二月二一日、藤原実頼が中納言に就任。
承平五(九三五)年二月二三日、藤原師輔が参議に就任。太政官入りを果たす。
天慶元(九三八)年六月二三日、藤原実頼が右近衛大将に就任。同日、藤原師輔が権中納言に就任。藤原師輔は七人抜きの出世。
天慶二(九三九)年八月二七日、藤原実頼が大納言に就任。
この兄弟の出世は藤原氏の典型的な出世パターンと同じである。
元服と同時に貴族デビューし、名目上の地方官の職務を経て財を築き、三〇歳になるかならないかで蔵人頭に就任して天皇の側近となり、参議に空きができたと同時に参議になって太政官の一翼を担う。蔵人頭を経験すれば自動的に参議になれるから手順としては律令違反ではないが、他の貴族にとっては異例な出世スピードで太政官入りするようにしか見えない。太政官というのは現在で言う内閣のようなものだから、当選五回から六回のベテラン議員に混じって、当選回数の少ない世襲議員が内閣の一員になるのと同じである。
あとは太政官の中での出世だが、それも他の貴族は苦労に苦労を重ねて地位を積み上げるのに対し、藤原氏の、それも藤原北家の本流と見なされた者は、苦労することなく簡単に地位を積み重ねる。
ただし、良房が基経を、基経が時平をそうであると指名したように、兄弟で誰か一人を後継者であると指名することはない。生年の違いによる差はあれど、兄弟は同じルートを歩ませる。そして、兄弟で切磋琢磨しあう。兄弟の中で誰が前任者の権威を継承するかは、その時点でもっとも政治力のある者とする。
このようにしたのは時平が若くして亡くなったのが理由であろう。若くして亡くなった時平は後継者を用意できなかった。つまり、藤原氏の権力継承に問題を残したまま世を去った。このときは時平の弟二人が立つことで問題を解決できたが、仲平も忠平も基経の後継者として考えられていなかったために、二人とも数多くの貴族のうちの一人にすぎず、それまでの政権の継続を保証する貴族ではなかったのである。
政権継続を保証するには、後継者一人では心細すぎる。時平のように何かあったらそのときに瓦解してしまうかもしれないのだ。これを解決するには、後継者を複数立てることである。その上、複数の後継者相互を争わせれば、結果として最も政治力の高い者が権力を手にすることとなり、執政者の質の確保も可能となる。
かつては全ての貴族が同一線上に並び、争いを繰り広げて大臣の地位を掴んだ。そして、それらの貴族は主義主張が雑多に分かれ、人が変われば政策も変わるのが通常であった。だが、藤原独裁の結果、政策は連綿とすることとなった。執政者の教育は勧学院が行い、勧学院で政策を学んだ後に貴族となり、政権に就き、勧学院の教育に基づく政策を行う。これが連綿とする。
これでは政策がブレない。長期的な政策であっても続くし、人が変わっても政策は続く。発展に欠かせない政策の連続はここに実現する。
ただし、政策に対するチェックは入らない。政策が誤りであると主張したところでその者は権力を掴み取ることなどできないし、広く訴えることで自らの政策を受け入れさせることもできない。政策は藤原氏が連綿として受け継ぐものであり、その枠から外れたら、太政官の一人になる可能性はあっても、権力者となる可能性はなくなるのだ。
いかに優秀な者であっても、藤原氏でないというだけで権力から外される。逆に、藤原氏であれば多少能力の劣る者であっても権力の一翼を担える。実力主義は兄弟や従兄弟の間で繰り広げられる狭いものとなり、あとは家系によって職業が決まるようになった。
世襲にはメリットとデメリットがある。メリットは変わらないで受け継がれること。デメリットは変われないまま受け継がれてしまうこと。ある程度の能力がなければ受け継げないが、受け継ぐ対象が能力の劣る者であるとき、必要とする能力の水準を下げるか、他の者に受け継ぐ対象を切り替えるかで、世襲の価値は大きく変わることとなる。
わかりやすい例で言えば平家物語がある。平家物語と言っても物語そのものではなく、平家物語を語り継ぐ琵琶法師のほう。琵琶法師の語る平家物語は非常にゆっくりとしており、当時の人はこんなゆっくりとした語りを聞いていたのかと考える人がいるが、実はそうではない。誕生当時はもっと早く、語り終えるのに現在の三分の二ぐらいの時間で済んでいた。それがだんだんとゆっくりとなっていったのは、時間を長くすれば語り継ぐ者が劣っていてもどうにかなるから。能力の劣る者が途中に入ってしまったために作品のスピードが悪化し、それを「厳粛」とか「古風あふれる」とかと評価してしまっている人がいるために、元の品質に戻れずにいるのである。
平家物語に限らず伝統芸能に非常にゆっくりとしたものが多いのも、本来のスピードでは受け継げない者が途中にいたためにレベルを落としたからで、かつての人が非常にゆっくりしていたのではない。政治の世襲にも同じ事が言え、失政者に求められる要素が劣っている者が権力を受け継ぐ場合、すでに存在するマニュアルに基づいて政治を執り行うしかできないために政治の劣化が起こる。現状の問題に対応できなくなるし、生活水準の向上も図れなくなる。
世襲は必ずしも悪ではないのは、受け継いだ者が能力の高い者であれば、マニュアルに頼らず現状の問題に対処できる点にある。しかも、若くして権力を受け継げるために長期的なスパンで物事を考えることができる。世襲制をとっている国は時として大隆盛を見せることがあるが、そういうときは世襲で権力を掴んだ者が若く有能であることが多い。つまり、権力者自身がチェックの入れることのできる者である上に、現在の問題を解決できる権威と権力と能力を併せ持ち、かつ、長期的なスパンで物事を考えることができるという恵まれた環境がそこには存在するのである。
藤原独裁はもはや誰の目にも明らかな形で進行していった。
意見封事による人材の抜擢は空文に終わり、天慶七(九四四)年四月九日、藤原実頼が空席であった右大臣に就任したことで、忠平の後継者筆頭は長子の藤原実頼であり、その次に藤原師輔が来ると誰もが考えたのだ。
これは天慶七(九四四)年四月二二日に、朱雀天皇の弟である成明親王が皇太弟となったことでさらに固まった。成明親王が皇太弟となったことイコール、成明親王の教育係である藤原師輔の権力強化となる。それは、同日に藤原師輔が大納言となったことでより明確となった。
藤原忠平に対抗しうる可能性があるとすれば、それはただ一人、左大臣藤原仲平しかいない。だが、すでに七〇歳を迎えている仲平に忠平打倒を促す者など誰もいなかった。仲平と忠平の関係は、藤原長良と良房の関係に等しい。権威と権力を身につけている弟を影となって支え続ける兄という関係である。長良のように自ら進んで影になることを選んだわけではなかったが、藤原独裁による権力の安定という点では弟と意見を同じくする藤原仲平に、藤原独裁の安定を覆すような行動を促しても無駄であった。弟に先を越され続ける運命を屈辱と考えないのかと訴えても、自分は藤原長良の役割を担うのだと考えている者には届かなかった。本心から言えば悔しいに決まっているが、それとてプライドの寄って立つ最後の一点は崩せない。
当時の人も、停滞と衰退の時代に入っていることは感覚として悟れていたであろう。しかし、停滞を覆す方法も、衰退を反転させる方法も存在しない。全ての問題は現状で対処するしかないと考えた。
天慶七(九四四)年九月一日、左近衛府で火災が発生した。
天慶七(九四四)年九月二日、台風が吹き荒れ、京都市内の数多くの建物が損壊し、信濃国では信濃国司の紀文幹(きのふみもと)が国府の庁舎の下敷きとなり圧死した。
少し前であればこうした天変地異は天が指し示した執政者失格の烙印であり、反対勢力にとっては絶好の攻撃材料であったが、今やそのような攻撃をする者もおらず、執政者たる忠平をはじめとする藤原氏の面々は淡々と災害に対処できるようになった。
動乱の東アジア情勢にあって唯一安定を保っている日本は一目置かれる存在となっていた。特に、一つの統一国家ではなく様々な国家が三分五裂している中国では、日本と手を結ぶことが他の勢力より優位に立つ指標の一つであった。
五代十国の中で、領土こそ狭かったが、十国の盟主と位置付けられていたのが、現在の上海から杭州にかけての一帯を支配していた呉越国である。もっともこの時代の上海は東シナ海沿岸の一村にすぎず、呉越国の中心であったのは現在の杭州である西府。西府は混迷極める中国にあって数少ない発展を見せていた都市であった。
呉越国は承平六(九三六)年と天慶三(九四〇)年の二回、日本に通航を求める使者を派遣しており、日本も一回目は太政大臣藤原忠平の名で、二回目は左大臣藤原中平の名で返信を出している。また、西府と日本を往復する貿易商人も多く、西府に常駐する日本人もいた。
天慶八(九四五)年六月四日、呉越の船が肥前国松浦に到着。その報告が朝廷に届いたのは天慶八(九四五)年七月二六日になってからであり、すでに壊滅状態にあった太宰府の行政機能では、これだけの時間を経ることもやむを得ないことであった。
前回の例で行けば、左大臣藤原仲平が返礼を出すところである。だが、仲平はこのとき返礼を出さなかった。いや、出せなかった。
このとき七一歳になっていた左大臣藤原仲平が病に倒れ身動きできなくなっていたのである。
このときの日本の公的な見解では、呉越国は中国の一部を構成する一地域であり、国王が君臨してはいても、正式な国家ではないとするものである。ゆえに、天皇や天皇に匹敵する摂政関白の書状は出せない。太政大臣という妥協点もあるが、前回は左大臣藤原仲平を署名者とすることで回答としていた。
だが、今回はその手を使えない。
病状の仲平に署名させようかとする意見もあったが、最終的には却下された。
天慶八(九四五)年九月五日に左大臣藤原仲平が亡くなったからである。七一歳という享年は、この時代としては異例の長寿であった。
仲平がいなくなり左大臣が空席になったことで、呉越国への正式な返信が出せなくなった。そのため、天慶八(九四五)年一〇月二〇日に、呉越国を担当させる専門職である唐物交易使を定め、摂政を専門的にあたらせることとした。これは渤海国との折衝にも採用していたという先例があった。
この天慶八(九四五)年、何とも奇妙な流行が発生した。志多羅神(しだらじん)である。
記録の最初は天慶八(九四五)年七月二五日。摂津国河辺郡で「志多羅神」というそれまで全く聞いたことのない神を祭る神輿が三基、数百人の民衆によって担がれてきた。志多羅(しだら)とは「手拍子」のことで、神輿の周りを群衆が取り囲み、手拍子をたたいて騒いで踊りまくるという、何とも奇妙な人のうねりとなった。
このとき群衆の歌っていた歌は、これより二〇〇年後に編集の始まった歴史書である「本朝世紀」に残っている。
月は笠着る 八幡は種蒔 いざ我等は荒田開かむ
しだら打てと 神は宣まふ 打つ我等が命千歳
しだら米 早買はば 酒盛れば その酒 富める始めぞ
しだら打てば、牛は湧ききぬ 鞍打ち敷け 佐米を負わせむ
朝より 蔭は陰れど 雨やは降る 佐米こそ降れ
富は揺み来ぬ 富は鎖懸け 宅儲けよ さて我等は 千年栄えて
人の流れは時間とともに増していき、神輿もいつの間にか六基に増えていた。群衆の出身は摂津国に限らず、五畿諸国やその周囲の国々からも参加するに至り、七月二八日に摂津国河辺郡の昆陽寺でついに統制の効かない群衆となった。
群衆は昼夜徹して淀川沿いをさかのぼり、七月二九日は山城国山崎に到達。そのまま群衆は平安京に向かうかと思われた。しかし、群衆は平安京ではなく、歌にも残っているように山崎のそばにある石清水八幡宮に向かった。
石清水八幡宮は将門・純友の叛乱鎮圧を祈祷した実績があり、平安京から近いこともあり、身分に関係なく誰もが気軽に参詣できるお社(やしろ)として平安京だけでなく五畿一帯に名を馳せる身近な存在であった。その身近な存在に志多羅神の神輿を奉納したのである。この奉納で騒ぎはピークとなったが、ピークを過ぎたら群衆は自主的に解散した。
この事件の首謀者はわからない。そもそも首謀者がいるかどうかもわからない。
何とも奇妙な事件である。
天慶九(九四六)年四月二〇日、朱雀天皇が退位を表明した。皇太弟である成明親王が受禅し、臨時の天皇位に就く。同時に、朱雀天皇の側に侍る意味で関白であった藤原忠平はその地位を終えた。
この日が理論上の村上天皇の治世の始まりである。
七歳で即位してから一七年間の在位の間に、地震、洪水、富士山噴火、平将門の反乱、藤原純友の反乱と、ろくでもない日常が展開していた。その上、藤原実頼の娘を妻としていたが子宝に恵まれず、このままでは皇位継承も危ぶまれた。
朱雀天皇は自らの意思で帝位を降りたが、そこに忠平の意思が絡んだとも考えられる。天皇が藤原氏の女性を妻に迎え入れることは珍しくも何ともない。そして、藤原氏の血を引く皇子を設け、帝位に就くことも今や日常の出来事である。だが、朱雀天皇にそれはない。
政権の安定を目指して藤原独裁を構築した忠平が、政権を不安定にさせる要素である皇位継承に無頓着であるわけがない。
成明親王は夭折したとは言え、藤原師輔の娘との間に男児をもうけている。これは皇位継承権に期待できるということである。
天慶九(九四六)年四月二八日、村上天皇が正式に即位。同日、藤原忠平が関白に復帰することとなった。後に「天暦の治」と呼ばれることとなる村上天皇の治世も、そのスタートは関白を擁する通常の摂関政治であった。
前年に来着した呉越国からの使者に対する返信はまだ出せずにいた。ただし、これを呉越国からの使者が訝しがることはなかった。それどころではないと納得していたからである。
その理由というのは契丹情勢。
契丹が南に攻め込み、晋(後晋)を滅ぼしたのである。後継国家として漢(後漢)が成立するが、それは、契丹の影響を強く受けていた晋と、契丹への対抗を隠さないでいる漢の違いであり、同時に、民族アイデンティティをかけての争いの始まりであった。
唐の滅亡で梁が誕生し、梁の滅亡で唐が復活し、唐の滅亡で晋が誕生し、晋の滅亡で漢が誕生した。中国全土を統一する強大な国家というわけではないが、かつての唐の継承国家はこの時点では漢である。呉越国は継承国家の周辺に存在する地方勢力の一つであり、日本国として対等に接すべき国家ではない。
中国の正当な継承国家が混迷にあることは、理論上では漢の冊封体制下にある呉越国も外交を動かしづらい状況でもある。結果、待ちぼうけを食らうこととなったのもやむを得ないこととされた。
なお、この頃、日本文化に一つの息吹が生まれていた。
伊勢物語がこの頃に成立したのである。
藤原独裁とは言うが、独裁政治によく見られるような言論弾圧はない。それどころか、この時代としては意外なまでの言論の自由がある。
社会が安定し、ある程度の言論の自由もあり、そして、文を書くだけの時間があれば文学作品は創作される。伊勢物語はその嚆矢だが、誰もが自分の意思を表せるかな文字の誕生もあり、文学作品が次々と生まれていくこととなる。
文学作品の登場という新たな時代の息吹もあるが、動乱あふれる時代というそれまでの時代の名残も見える。
天慶一〇(九四七)年二月一四日、伯耆国で藤原是助が兵卒を率い、百姓物部高茂を襲ったことを報告した。百姓というのは農民に限らず公的な役職に就いていない一般庶民全体を指す語で、物部高茂は農民ではなく、公的な繋がりを持たない地元の武士団のトップである可能性が高い。
さらに天慶一〇(九四七)年二月一八日、には鎮守府将軍平貞盛の使いが蝦夷の坂丸らに殺されたため、蝦夷を討伐するかを陸奥国に調査させるという報告が届いた。
そして、天慶一〇(九四七)年二月二六日には賀茂斎院に強盗が入った。
治安問題はどうにもならない現実であるが、将門や純友と比べると小物に感じる。小物に感じるのは現代の感覚だけではなく、当時の感覚でも同じであった。国を揺るがすような反乱ではなく、モノを奪い去っていくだけの強盗集団。しかも、その強盗集団に対処する武士という存在が確立されている。
ゆえに、現状存在する対処手段である武士を活用すれば治安問題の最後はどうにかなる。根本的な解決とはならないが、対処療法にはなる。
天慶一〇(九四七)年三月二八日、朱雀上皇が東西兵乱(東・平将門の乱 西・藤原純友の乱)による官軍賊軍戦没者を供養するため、延暦寺で法会を行うと同時に、五位以上の封禄を減らす事を表明。ここで貴族の給与を減らしたのは、五位以上の者、つまり、貴族の絶対数が増えてしまったためで、貴族への給与だけでも国家財政にとってかなりの負担になっていたからである。
藤原独裁に対する不満を抑えると同時に、社会的不安を抑える方法として、無意味な出世が用いられることが多かった。
インフレという言葉は、経済における物価上昇だけを意味するのではない。要件を満たす者が増えすぎてしまうために、モノの価値が相対的に上がってしまうこともまたインフレである。
ここで問題となっていたのは貴族のインフレであった。勤務実績に基づいて位階が上がるのが律令制における決まりであり、律令制批判を金科玉条とする藤原忠平でもこの一点は守っている。ただし、ここで問題なのは、勤務実績を正当に評価すると、想定している以上の出世の大盤振る舞いをしなければならないということ。
かつては、その人の能力に基づいて位階を授けていたし、ポストの空きを考えての昇格も考慮されていた。懸命に職務をこなしても出世しないことに不満が起こらなかったわけではないが、相対評価による実力主義に加え、律令派と藤原派という二大政党制による政権争いであったために、不満を吸い上げる存在が機能していた。しかし、今や藤原派の一党独裁になっており、不満を吸い上げる仕組みが存在しない。不満を放置したままではどうなるかは平将門や藤原純友という前例を見れば誰の目にも明らかであった。そのため、実力主義による相対評価ではなく、実績による絶対評価としなければならなくなった。これならば、どれだけの職務を果たせば上の位に行けるかが一目瞭然である。同じ位階の者が何人いようと、あるいは、上の位階の者が何人いようと、自分の実績に合わせた位階が手に入るのである。
律令制否定が金科玉条にも関わらず、律令制に基づいた正当な評価をしてしまったために貴族が増えすぎてしまうという問題が起こった。本来であれば従五位下であれば就ける職務に従四位上の貴族が就任するというのも、増えすぎた貴族全体に割り振れるだけのポストがないからである。ポストに空席ができたときより優先されるのはより位階が高い者。位だけあって職がない貴族が位階相応よりも低いポストに就くために自己推薦することなど珍しくもなかったのも、貴族の絶対数が増えてしまったからである。
その上、治安問題への対処として、武士に貴族の位を授けることも珍しくはなくなった。武士と言っても、源氏であったり、平氏であったり、藤原氏であったりと、血統だけ見ればごくごく普通の貴族であり、名目も血統による貴族任官である。だが、その実状は武士に対する報償であった。治安を守るために戦う武士を現行の制度に組み込み、その権力は私的な武力でなく公的な権威に基づくものであるとするために五位以上の位階を与えたのである。
武士にとっても位階を授けられることはメリットの多いことであった。まず、自らの権力のバックボーンができあがる。殴り合いで勝ったから権力を持っているのではなく、朝廷から認められた権威を持っているから権力を持っているのだとアピールできた。
さらに、位階には相応の給与が支払われる。位階だけあって役職のない立場であっても、五位以上の貴族となればそれだけで相応の報酬が得られるのだ。
この結果、貴族の数がやたらと増えてしまい、貴族に支払う給与が国家財政の大きなウェイトを占めるようになってしまったのだ。
増えすぎた貴族の数を整理する必要はあると誰もが考えていたが、それと藤原独裁を崩すこととは思考がつながらなかった。
天慶一〇(九四七)年四月二二日、天暦に改元。その四日後の天暦元(九四七)年四月二六日、右大臣の藤原実頼が左大臣に昇格し、空席となった右大臣に実頼の弟の藤原師輔が昇格した。兄弟が揃って左大臣・右大臣に昇進し、父の関白太政大臣である藤原忠平と共に太政官のトップを占めるようになった。これで、藤原独裁はより強固なものとなった。
藤原氏だけが権力の中枢にいられる。権力の中枢に至るまでに藤原氏内部での切磋琢磨はあるものの、必ずしも能力の高い者が権力を掴むとは限らない。
藤原氏に近ければ権力の中枢に近づくチャンスがあるが、そこでの評価基準も個人の能力とは限らない。
そうでない者はノルマに基づいて評価され、位階を手にできる。手にする位階については公正であり、文句の付けようはない。だが、位階に見合ったポストが手に入る保証はどこにもない。
安定と引き替えに何かが壊れ始めた、少なくとも非正義の社会になったと考えた者は多かったが、壊れていない正義の社会の実現を考えた者はいなかった。壊れていることも非正義であることも安定と引き替えなのだ。安定を崩してしまったときに待っているのは、朝鮮半島で起こったような、あるいは中国で起きているような動乱。いや、それならばまだいい。渤海のように国も民族も消えて無くなることだってあるのだ。
律令を否定したが安定は求めるというスタンスの結果、前例は率先して守るべきものとなった。そして、マニュアル化が進み、全ての政務は誰もがこなせるものになり、能力を発揮する局面そのものが減った。全ての判断基準は安定第一となった。安定を崩す者は否定され、安定を崩す出来事は、それがどんな些細なものであろうと芽のうちに摘まれることとなったのである。
天暦元(九四七)年六月、天然痘の流行が見られた。伝染病の発症については前例があるが、治癒した記録はどこにもない。だから、このような大事件に関しては前例にとらわれない政策が必要だったのに、忠平は前例に走った。伝染病対策の前例はなくても天災を押しつける絶好のターゲットならあったからである。天暦元(九四七)年六月九日、菅原道真の祠を北野に建立するとした。天然痘の流行は菅原道真の祟りというわけである。天災は失政者に対する天の裁きであるとする考えであったこの時代にあって、最近聞かなかった菅原道真の祟りの噂を流すことは、天然痘流行が天の裁きであるという声を消すのに有効であった。
藤原実頼が左大臣になったのは、前例の踏襲を前面に考える者にとってありがたい話であった。返事を出せずにいた呉越国への対応である。
この年、契丹が国号を遼としたが、それはただ単に国の名前を変えただけではない。契丹国のままであれば渤海国の継承である日本海沿岸の王国に過ぎなかったが、国号を変えたことで中国全土の支配を視野に含めた帝国へと発展させると宣言したのである。五代十国の混乱にある中国にとって、圧倒的軍事力を持つ契丹=遼は恐怖の存在であった。それは日本海の対岸の日本でも同じで、遼の存在はプレッシャーとなっていたのである。
使節訪問から二年を経た天暦元(九四七)年閏七月二七日に、左大臣藤原実頼が呉越王に書を送ることとなった。前回は左大臣藤原仲平からの返信であったから、新しい左大臣の藤原実頼からの返信にすれば、呉越国との国交は左大臣が行うという前例に則った政務となる。これで日本は、中国大陸にどうにか友好関係を築ける地域を持ったこととなる。
しかし、呉越国は渤海国ではない。かつて新羅を包囲するように強い同盟関係を結んでいた渤海国と違い、呉越国はただ友好関係にあるという国である。また、渤海国は日本との友好関係が国の死活問題となる国であったが、呉越国にとって日本は特別な国であるものの、死活問題とまではなっていない。呉越国は建国間もない高麗とも通好を結んでいたし、国号を変えたばかりの遼とも関係を持っていた。東アジアで特例的に安定している日本との関係は大きなアドバンテージであるものの、日本との友好関係が絶たれても国はやっていけるのである。そのため、使者の派遣は儀礼的なものになり、日本の回答も儀礼的なものとなった。
儀礼的なものとなったのは呉越国に対する日本の回答だけではない。高麗とも、遼とも、日本は正式な国交を結んでいない。
もっとも、これは日本だけの問題ではない。
高麗は国是として鎖国を掲げており、特に、旧渤海国の領土を巡って一触即発の状態にある遼との通商を徹底的に取り締まっていた。海外交易も首都開城から西へと向かう航路が黙認されていたのみであり、北の遼や南の日本へ向かう航路は取り締まりの対象となっていた。かつて日本海を荒らし回った新羅の海賊の姿もいまや風前の灯火であり、新羅海賊の残党が日本に逃れ瀬戸内の海賊になっていたほどである。
遼はもともと海に積極的に出る民族ではない。海運の伝統もないし、海に兵士を乗せて攻め込むという伝統もない。自分たちが攻め落とした渤海国が海の向こうの日本国と同盟関係を結んでいたのは知っていても、その関係を継承する意志は示していなかったし、外交関係を新たに結ぼうともしなかった。
そして、この時代は、格下の国が格上の国に使節を派遣するのが外交であるとなっている。軍事力は恐ろしくても海を出てこない遼も、地理的に近い高麗も、日本からすれば、呉越国のように使者を派遣するのであれば受け入れはするが、日本から使者を派遣する考えなど毛頭ない。
これでは日本が積極的に外交関係を結ぼうという動きをしない限り、外交などあり得ない。
呉越国との書簡のやりとりはあるし、民間交易も存在するが、この時代の日本は事実上の鎖国であった。
前例を大前提とすると、一見すると前例のないことでも、他の前例を探し出して考え出さなければならなくなる。そして、前例の積み重なりで政務は硬直する。
硬直するのは政務だけではなく経済も同じ。
天暦元(九四七)年一一月一日、倹約の命令を出す。
天暦元(九四七)年一一月一一日、雑物の価格を減定する。
天暦元(九四七)年一一月一三日、衣服の奢侈や諸祭使の饗禄を禁じる。
この半月の間に立て続けに出た経済政策は、「以前はそうではなかった」という前例が経済に適用された結果でしかない。需要と供給のバランスという感覚はなく、ただ単に、前例にないという一点を経済に適用し、収穫が悪かったため穀物量が減っていることから起こる物価高は禁止されたのみならず、持てる者の消費まで抑えられることとなった。
前例第一で新しいことを認めず、現実を無視して理論を押し進め、失敗に対するチェックも入らず政権は無駄に安定している。人々は貧困に苦しみ、その日の生活を求めてさまよう。全ては生まれで決まり、能力を発揮する局面もなく、努力に対する成果もなく、未来に対する希望もない。
これで経済が好転したらその方がおかしい。これではまるで共産主義ではないか。
ただし、共産主義より一つだけマシなことが一点だけあった。それは表現の自由があったこと。
伊勢物語の登場にもあるように、文学が隆盛を極め始めるのは忠平の時代からである。表現者はその表現を認められ公開できたし、それを推奨されもした。文学の中では藤原氏を批判しようと完全に自由なのである。現実の停滞と反比例するかのように文学は隆盛し、同時代の他国では類を見ない文芸の隆盛が起こったのだ。散文を記すことのできるのは紙を手に入れることのできる裕福な者に限定されるとは言え、差別されることはなかった。特に男女間で差別されることなく、女性でも表現者となりうるのは、それまでの時代では考えられないことであった。
文芸は散文だけではない。和歌は完全に復権し、漢詩よりも格上に考えられるようになった。そして、和歌に身分はないという伝統は生きていた。この世の栄華を極める者も、その日の暮らしに苦しむ者も、和歌の世界では完全に同格に扱われる。そして、和歌の出来は作品としての素晴らしさだけが評価基準であり、詠み人の身分は関係ない。生活の苦しさを込めた歌であろうと、政権を批判する歌であろうと、和歌を詠む自由は認められていた。この時代より一〇〇年前の小野篁は、時の嵯峨上皇と藤原緒嗣を批判する漢詩を作ったために隠岐に追放されることとなったが、藤原忠平を批判する和歌を作った者が何かしらの刑罰を受けたということはない。
経済の原理原則を無視して、贅沢を禁止し、物価を定めたのも、藤原忠平が庶民の生活苦を認めたからであろう。それが自らの経済政策の失敗を理由とするものであるとは認めなかったが、経済が苦しいことは認めなければならなかったし、その不満を口にする自由を侵害することもなかった。ただし、不満を口にする自由は認めるが反乱は認めない。
藤原忠平を執政者としてみたとき、その政策に合格点を付けることはできない。だが、言論の自由を認めたという一点は評価しなければならない。
藤原忠平を執政者と見たときに合格点を付けることのできない最大の理由は、生活の苦しさである。
政治家の評価はただ一つ、庶民の暮らしが豊かになったかそうでないかだけで決まる。どんなに悪評を受けた政治家であろうと、どんなに無能と酷評された政治家であろうと、その政治家が権力を持っているときの庶民の暮らしが以前より良くなったら、政治家として合格である。それは独裁者であろうと、民主主義によって選ばれた権力者であろうと代わりはない。
藤原独裁は安定していたし、海の向こうのように国が滅びるかどうかという戦乱もなかった。
ただし、戦乱はないと言っても平和ではなかった。平将門や藤原純友の反乱はその代表であるが、大規模な反乱以外にも、治安を悪化させたのは数限りなく存在した。
日本の歴史を振り返ってみたとき、平安時代は最も治安が悪い時代である。その中でも、藤原忠平の時代は最も治安の悪い時代であったと言える。強盗が街中をうろつき、夜闇に乗じる盗賊は後を絶たず、平地では山賊が、沿岸部では海賊が跋扈している。それは最も治安の守られていなければならない場所においても例外ではなかった。
天暦二(九四八)年三月二七日、群盗が右近衛府曹司に進入。今や検非違使や武士にその地位を奪われたとは言え、近衛府と言えば国の武力を司る役所、今で言う防衛省の庁舎である。そこに強盗が忍び込んだというのだから尋常ではない。
さらに強盗はターゲットを移す。そのターゲットは、藤原氏専門の教育機関である勧学院。天暦二(九四八)年六月一日に群盗が勧学院に侵入したのだ。藤原氏ですら強盗のターゲットになるという事実に、首都京都の市民は愕然とした。
その九日後の天暦二(九四八)年六月九日には、右大臣藤原師輔の邸宅である桃園第で火災が発生した。自然発火なのか、それとも放火なのかはわからない。だが、当時の人は、犯行に失敗した強盗が放火したのだと噂した。
藤原氏をターゲットとする強盗にさすがに怒り心頭に達したのか、天暦二(九四八)年六月一六日、賑給を行う際の狼藉を防ぐためという名目で、武人を総動員しての盗賊捜索命令が出た。ただし、命令は出たが、結果がどうであったかの記録は残っていない。
人災だけではなく、天災もまた、生活を悪化させる要素である。
天暦二(九四八)年七月末、台風が上陸し日本列島各地に大ダメージを残した。京都市中の建物が大きく損壊したが、損壊は建物だけではない。最も問題になったのが田畑である。
台風によって田畑が破壊されて収穫を生まず、天暦二(九四八)年一一月九日、二五ヶ国で不作であることを認め、税の徴収を減免するとの布告を出さざるを得ないほどであった。
食べ物が少なく、生きていくために流浪する。流浪しても食べていけないから、食べていくために犯行に走る。犯行の被害にあって食べ物が奪われ、食べ物を探して流浪する。流浪しても食べていけないから、食べていくために犯行に走る。この負のスパイラルに対し、藤原独裁は無力であった。良房の頃であれば前例など関係なしに藤原の私財を開放して被害者の支援に当たっていたであろうが、そのような記録もない。ただただ治安悪化を嘆き、前例に基づく支援策を探して、万策尽きて何もしないで終わった。
人を救うための宗教も、一部の僧侶を除いては私欲に走ることに変わりなかった。年が変わった天暦三(九四九)年一月一六日、東大寺の法師らが別当寛救を訴えて入京したが、寄宿した賀陽真正邸で乱闘を起こし殺人事件に発展するという失態を生んだ。国家最大級の寺院の起こしたこの不祥事に、神仏の救いも今の世の中には存在しないのだと誰もが考え、そして絶望した。少し前、京都で絶大な支持を集めた空也も、今は比叡山にこもってしまっている。それは純粋に仏教を学ぶためであったのだが、あの空也ですら救いに来てくれないというのは絶望を生むこととなった。
安定の他には何もなかった。安定しているから国外よりはマシだというのは最後の希望であったが、その最後の拠り所である太政大臣藤原忠平も、すでに七〇歳になっている。息子二人を左大臣と右大臣とすることで権力の後継にも成功しているし、いつどこで何があってもおかしくない年齢なのにも関わらず、かつての良房のように隠居することもなくトップに君臨し続けているのも、忠平がただ一つの希望であったからである。
だが、その最後の希望は何の前触れもなく消えた。
江戸時代の百人一首に記された藤原忠平
藤原忠平の肖像画は残っている。ただし、同時代の史料ではなく後世の想像画である。その肖像画の載っているのは、小倉百人一首の第二六番の「貞信公」。この絵札の若者が藤原忠平の最も有名な肖像画である。
小倉山峰のもみぢ葉心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ</EM>
小倉山の峰の紅葉よ。君に人の思いのわかる心があるならば、もう一度、天皇(醍醐天皇)がおいでになるまで、葉を散らさずに散らずに待っていてくれないか。
百人一首に載っている忠平の肖像画は若い。二〇代か三〇代の若さである。また、百人一首に残る和歌も、大鏡に残された忠平の逸話も、いずれも若き忠平の話である。
だが、この人は七〇歳まで生きたのである。しかも、ただの高齢者ではない。藤原時平の死から四〇年国政を一手に引き受け、右大臣就任後三五年に渡って大臣であり続けた高齢者である。数年前より体調を悪くし、政務を息子達に任せて自分は参内しないこともあった。理論上、太政大臣がいなくても、左大臣と右大臣が出席していれば政務は成立する。一説によると関白辞任を申し出たが村上天皇に却下されたとの逸話もあり、晩年の忠平は自分の年齢と体力を実感していたようである。
七〇歳を迎えた忠平は参内しない日が増えていった。良房のように隠居したわけではなく、あくまでも病欠だというだけであり、回復すれば直ちに政務に復帰するつもりであった。だが、病は回復ではなく終焉へと向かっていった。
天暦三(九四九)年八月一四日、藤原忠平死去。四〇年の長きに渡って政権を握り続けてきた独裁者の死にしては、その死の記録はあまりにも乏しい。その日に、邸宅である小一条第で亡くなったという記録があるだけである。死因も、死の前の姿も記録に残っていない。
天暦三(九四九)年八月一八日、亡き藤原忠平に正一位の位と「貞信公」の名が贈られた。
江戸時代の百人一首に記された陽成上皇
源能有も、菅原道真も、藤原時平も、宇多法王も、藤原仲平も、藤原忠平も亡くなった。宇多天皇の時代を彩った者は皆亡くなった。ただ一人を除いて。
そのただ一人である陽成上皇が亡くなったのは、忠平の死の翌月である天暦三(九四九)年九月二九日。上皇歴は実に六五年という長期間に及び、現在でもなお、二位の冷泉天皇を大きく凌ぐ第一位である。
- 貞信公忠平 完-
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