村上天皇の妻は太政大臣藤原忠平の次男、藤原師輔の娘である。その上、忠平の長男である藤原実頼は四八歳の左大臣、そして、義父でもある藤原師輔は四〇歳の右大臣。さらに、忠平の四男の藤原師氏が三五歳の参議、五男の藤原師尹が二八歳の参議である。これらに加え、彼ら藤原兄弟の上に関白太政大臣である藤原忠平が君臨するという藤原独裁の真っ直中なのが、「天暦の治」のスタートである天暦元(九四七)年四月二六日の政治情勢であった。しかも、村上天皇はこのときまだ二一歳の若者であり、関白を置いていることからも明らかなとおり、村上天皇に与えられた権限は乏しいとしか言いようがない。これはどう考えても、村上天皇はこれからの治世として、藤原忠平の構築した藤原独裁の政治に従う運命を受け入れなければならないはずであった。
それなのに、村上天皇の治世は、後世から理想的な天皇親政の時代と誉め称えられることとなる。そう、村上天皇は藤原良房以後一〇〇年近く続いていた藤原独裁を脱することに成功したのだ。
この常識的に考えて起こりえないことをどのようにして村上天皇は実現したのか。
研究者は「天暦の治」そのものが、後に武士によって権力を奪われた中下級の貴族たちが、過去の出来事を実際以上に賛美した空想の産物であり、評価すべきものではないという。だが、藤原独裁を抑えた天皇親政の時代であり、かつ、先帝である朱雀天皇の時代に吹き荒れた内乱の嵐、すなわち、平将門に代表される地方の反乱も、藤原純友に代表される海賊の跋扈も、全ては過去の出来事となったのは事実である。
その代わりにあったのは、自由で豊かで平和な日々。現代の人が、そして当時の人も至上のことと考える、自由も、豊かさも、平和も、全て村上天皇の時代には存在したのだ。そしてそれが、後に源氏物語を生み出すきっかけとなる文化の発展へとつながったのだ。それは一部の貴族だけではなく、その日暮らしであるはずの一般庶民ですら落ち着いた暮らしを味わい、レジャーにまで参加できるという平和の構築であった。
庶民の生活の向上を政治家の評価と考えるとき、天暦の治は評価に値する時代であったと言わざるを得ないのである。
村上天皇即位時の権力の中心は、何と言っても関白太政大臣の藤原忠平であった。既に六八歳と高齢であったが、兄時平の死後三八年間に渡って権力を独占し続け、忠平はこの国の全てを操る存在であると言っても過言ではなく、村上天皇は忠平の操り人形と見られてもおかしくなかった。
その上、忠平に対する世間の評判も高いものがあった。国内では道真の怨霊伝説に、平将門や藤原純友の反乱、国外に目を向ければ国家存亡の連続という事態であったにも関わらず、最終的には平穏を取り戻し、平和を構築したことが評価されていたのである。それは誰一人として忠平を批判するような言葉を残していないことからもわかる。忠平自身が言論の自由を認めていたにも関わらず、その忠平は、言論の自由あるところ避けて通れることの許されない権力者批判から無縁でいられたのだ。
この忠平を支えていたのが忠平の子供たち、特に、左大臣の実頼と、右大臣の師輔の二人である。後に名を大きくする師氏と師尹はこのとき、まだ参議になったばかりの若者という位置づけであり、一般の貴族から見れば大きな権力でも、藤原独裁の一翼を担うにはまだ小さな権力しかなかった。
本来ならばここに、忠平の三男である藤原師保も加わっていなければならないが、この人はなぜか歴史の表舞台から姿を消している。従五位下に叙された後に出家して仏門に入ったという記録しかなく、その後の足取りを追う史料はどこにもない。考えるところがあったのか、政争がいやになったのかはわからない。そのため、忠平の子供たちと記すとき、通常、三男の藤原師保はカウントしない。
さて、忠平の子供たちの名前を見ると、一人を除いて共通点が見られる。それは「師」の文字。師輔、師氏、師尹、そして史料から名を消した師保と、兄弟たちはことごとく「師」の文字を一文字目にしており、この文字がついていないのは長男の実頼だけである。では、実頼は弟たちと何が違うところがあったのか?
答えはYES。実頼だけ母が違うのである。実頼の母は宇多天皇の娘である源傾子であり、弟たちの母は宇多天皇時代の名左大臣として名を馳せた源能有の娘である源昭子。この時代、子供は母親の実家で育てられることが普通なので、実頼と、他の弟たちとは、父が同じであるという知識はあっても、一つ屋根の下で暮らした兄弟であるという意識はなかった。
とは言え、ともに藤原氏の政治を勧学院で学んだ者同士であり、また、藤原良房の先例もある。誰かが藤原長良の役割を引き受けなければならないと考えたとき、藤原実頼が長良の役割を引き受けることは自然な選択であったろうし、実頼も自分は長良の立場であると認識していた。
この状態で忠平が亡くなった。
すでに盤石な布陣を用意していたこともあり、後継者争いも起こらなかったし、混乱も、権力の空白も起こらなかった。あとは左大臣の藤原実頼か、あるいは、右大臣の藤原師輔か、二人のうちどちらかが太政大臣となり関白となれば、忠平の政策は継承され、政治は連続するはずであった。
しかし、村上天皇の答えはそのどちらでもなかった。太政大臣も置かず、関白も置かない、天皇親政を宣言したのである。そして、真っ先に異論を出すと思われた左大臣藤原実頼が、予想に反し真っ先に賛成した。
この天皇親政というアイデアは、村上天皇が独断で決めたアイデアではない。実頼も師輔も加わった場で行なわれた話し合いで決まったアイデアであり、それが各人の利害の一致点でもあった。
太政大臣というのは律令に定められている職務であるが常設である必要はない。また、関白にいたってはそもそも律令に定められてすらいない。つまり、関白も太政大臣もいない政権は、法制度に従えば何らおかしなことではない。
実頼と師輔は、外に対しては藤原北家という一枚岩の関係ではあるが、内にあってはライバル関係にある。より正確に言えば、実頼と、その他の弟たちとの関係がライバル関係となっている。ここでどちらか一方を関白に、そして太政大臣に任命することは、ライバル関係の勝敗を早々に決着させることとなる。こうなると、敗者の方が政権打倒を目指す強力な派閥として君臨し、国政からスムーズさを消してしまう。いや、スムーズさを消すだけならばまだいい。最悪のケースとして、平将門や藤原純友のような反乱の芽となってしまうのだ。
忠平の定めた藤原独裁のシステムは、忠平抜きで稼働するほど強固なものでなかった。非常にもろくデリケートなシステムであるとしても良い。そして、このデリケートなシステムを壊してしまったら、待っているのは内乱であり、内乱の後に待っているのは国家消滅である。唐が、渤海が、新羅が迎えたような運命を日本が迎えてしまうことだけは避けねばならないというのが、この時点の藤原北家の面々の、そして村上天皇にも共通した認識であった。
そこで、内乱を抑えるために選んだのが天皇親政である。村上天皇が頂点に存在し、その他の貴族は左大臣以下の常設の役職に留まる。権威はあっても、誰かが突出した権力を持つことなく、チャンスを広げたままにしておけば、かなりの可能性で内乱を抑えることができるのだ。
ここで重要なのは、村上天皇の若さである。若さは、不安定さというデメリットの反面、新鮮さというメリットをもたらす要素でもある。
村上天皇の兄である朱雀上皇が皇位にあった時代を評価する人は誰もいなかった。将門や純友といった相次ぐ内乱に誰もが恐怖していた時代は、語り継ぐことはあっても、再現を望むものではない。その時代からの決別、そして、新しい時代の到来を実感させるのに、即位四年目を迎える村上天皇の二四歳という若さは、不安定さよりも新しさを意識させる意味があった。
これからの時代をイメージさせる若き天皇を軸とし、突出した貴族のいない新たな天皇親政の時代を広くアピールすることで、未来に対する希望を生み出すことができたのである。
古今東西内乱は数知れず存在するが、なぜ内乱を起こしたのかを考えたとき、それぞれの内乱に諸々の理由があっても、突き詰めていくと、時代に対する不満という一点に集約できる。
時代に対する不満というのは、「世の中がおかしいのは時代が間違っているからだ」という表向きの理由の裏に「俺が評価されない時代はおかしい」という本音がある。現在でも社会運動をしている人は、酔った勢いで天下国家を論じさせてみると実に見事な天下国家論を展開するが、見事だとは思えども、同意する要素は皆無という天下国家論となる。とてもではないがそんなものを実現させてしまったら、この国は滅亡してしまうという内容である。
このような考えを持つ人間は、正当な社会的評価を下されると、どうあがいても権力など握れなくなる。それを彼らは不満に思い、反体制の行動を起こす。デモならば平和的と言えなくもないが、権力をつかめない現在の社会を悪と考え、自らの勢力を誇示し、自らの権利を手にしようとする事に違いはない。そして、デモを沈静化させるのに失敗した後で待っているのは、暴動である。平将門も藤原純友も、所詮は暴れまくって収拾のつかなくなった社会的地位の低い社会運動家のデモにすぎない。
太政大臣も関白も置かない政治体制とすることは、デモの首謀者にチャンスを与えることでもあったのだ。
「俺が評価されない」という不満を突き詰めていったとき、「そもそもポストがないのだ」と結論づけてしまうと社会を変革しようという運動になってしまう。しかし、「ポストは空いているしチャンスもある」と考えることができるようになると、社会を変革させようとするのではなく、自分を出世させようという動きに転換することができる。
デモを沈静化させる最も効率のいい方法は、デモの主導者を権力側に引き入れてしまうことである。権力側の一員として適当な役職を与えてしまえば、そもそものデモのきっかけが「俺が評価されない社会がおかしい」なのだから沈静化する。元々デモを主導するような人間は、組織の一員となってもやっぱり口やかましく上役に楯突くようになるが、そうなったら、上司も部下もいない一人きりの職場、それも、本部とは遠く離れた僻地に追いやれば解決する。実際、「何でこの人が国司になれたのだ?」という人の経歴を調べてみると、それまでの実績の評価と言うより、平安京からの追放を企画したとしか思えない人が出てくる。
ポストに空席を常に用意しておくというのは、組織をスムーズに動かす実に簡単な方法である。
藤原北家の理想であるこの時代から一〇〇年前の藤原良房の時代を再現するために、藤原実頼が良房の兄の藤原長良の役割を引き受け、師輔が藤原良房の役割を果たす。
そして、二人ともが太政大臣にも関白にもならず、実状はどうあれ、理論上の競争を実現させる。
ここまでは藤原北家の共通認識である。
問題は、実頼の方が上の位であることと、実頼には、長良と違って自分が権力を操る気概に満ちていることであった。
藤原長良は弟を助ける頼れる兄であった。周囲からの評判も高く、派閥の対立も、世代間の対立も、長良ならば収束できたのである。
一方、実頼にこうした人望はない。人望で言えば師輔の方が高かったほどである。
そのきっかけとなったのが平将門の乱。朝廷は藤原忠文を征東大将軍に任命して関東へと派遣したのだが、乱そのものは、藤原忠文が関東に赴いて平将門と交戦する前に平定されてしまったのである。朝廷では藤原忠文への功章に対しての議論が沸き起こり、実頼と師輔がここで対立したのであった。実頼は、功績を果たしていない以上功章に値しないと主張し、師輔は、功績がなくても命を懸けて出発したのだから功章を与えるべきであると主張したのである。このときの師輔の主張である「罪の疑わしきは罰せず、賞の疑わしさは賞すべき」という言葉は、現在でも法の精神として通じるものがあるし、当時の人たちも、師輔こそが長者の発言であると絶賛し、それが人望につながった。
また、人望の評価要素には外見も含まれる。
実頼は背が低く、醜男であったという。一方、師輔はすらりとした長身でなかなかのハンサムでもあった。これだけでも世間の評価は決まりそうなものなのに、これにケチな実頼と気前のいい師輔という評価が加わったのである。実頼はよりいっそう苦しい立場に立たされることとなった。
それでも藤氏長者は実頼である。他の者も、長良の役を引き受けているが故に実頼が長者であるのが当然のことと考えている。ただし、世間の評価は「一苦しき二」、つまり、無能な実頼がいるが、その実権は二番手である師輔のものであるという判断をしている。
この評価に対し実頼は何の反応も示していない。言論の自由には必ずつきまとう執政者への批判として、そのままにしておいたのである。
忠平の亡くなった天暦三(九四九)年は各地で火災が相次ぐ年であった。雨が少なく乾燥していたのである。九月に元慶寺が焼失したのを始め、一一月一〇日には大安寺の西塔が落雷により焼失、一一月一四日には冷然院焼失、一二月一五日には忠平の邸宅であった小一条殿にまで火災が発生した。
この相次ぐ火災、特に落雷による火災を目の当たりにして、多くの貴族が道真の祟りを訴え、怨霊沈静化のための何らかの対策をとることを求めたが、村上天皇の判断は「何もしない」であった。怨霊であると認めず、火災からの復旧だけが指令として飛んだのである。
村上天皇のこの指令を後押ししたのが左大臣藤原実頼である。左大臣もまた、火災からの復旧は行うが、道真の怨霊を認めなかった。
道真の怨霊を認めない左大臣の、そして村上天皇の姿勢は周囲に驚きを持って迎え入れられた。醍醐天皇、朱雀天皇の治世は道真の怨霊を利用すると同時に、怨霊に苦しめられた時代である。いや、それ以前からも怨霊は当たり前の存在であり、怨霊を沈静化することは政治家に課せられた使命であると考えられていたのである。
怨霊が常識である時代に、怨霊伝説自体を否定した天皇と左大臣は神をも恐れぬ大胆さと考えられた。
もっとも、実頼にしてみれば、統治者としての最重要課題は火災からの復旧であり、これ以上火災を起こさせないことである。怨霊は最重要事項と何の関係も無い迷信と一刀両断しただけでなく、怨霊を鎮めるのであれば年中行事となりつつある祇園祭がすでにあるし、それで不充分ならば臨時の御霊会を開けばいいと考えたのだ。
オカルティズムは、人心の安寧には効果があるが、際限なく予算をつぎ込まなければならない宿命を持っている。ただ祈るだけなのに予算がかかるのかという疑問もあるだろうが、これはかかるのだ。祈れと命じても無償で祈らせることはできない。国家行事の祈祷となると寺院なり神社なりに予算を与えた上で祈らせる必要があるが、平将門以後、その費用が激増していた。祈らせても戦乱が沈静化しないことに対する寺社からの反応は「費用が足らなくて不充分な祈りしかできないから戦乱が沈静化しない。戦乱の沈静化のためにはもっとたくさんの予算が必要だ」というものである。このような言い訳をされたら、いくら予算があっても充分とはならない。
忠平のこの前例を知っている実頼は、祈りそのものを拒否することで、寺社勢力を黙らせることとしたのである。
政治家としての実頼は、選択を求められるようになったとき、「そのまま何もしない」という決断をすることが多かった。ただ単に先送りするのではない。現実的ではない助言や無意味な施策を拒否し、理想を押しつけなかったのである。そして、「何もしない」という点で意見の一致を見た村上天皇の忠実な手足となったのである。
と同時に、自らの手にしている左大臣という地位、そして、藤氏長者という地位を全面的に生かすこととした。世間の評価が師輔に向かっている。そして、誰も関白に、誰も太政大臣に就いていないという現状をそのまま活かすことこそ、現在の日本を向上させると考えたのだ。
天暦の治に関する年表を見たとき、大事件はどこにもない。ただただ平穏な日々が流れているだけである。火災、それも人為的な火災や、寺院の行うデモは年表の中に残っているが、それらとて平将門や藤原純友の反乱に比べれば些細なことにすぎない。
実頼は、「何もしない」ことを徹底したのだ。国がどうあるべきとか、国外関係をどのようにするかとか言った高尚な議論は相手にせず、目の前の雑務を日々淡々とこなすことに徹したのである。古来より、「正義」の名のもとに繰り返された悲劇は数知れず。正義の戦いや正義の改革がどれだけ繰り返され、そして、その正義がどれだけの命と文化を奪ってきたことか。そして、正義とはいかに主観的な存在であるか。「何をするか」ではなく「誰がするか」で正義が決まってしまうのが現実なのだ。
既に悪評を受けている藤原実頼が何をしようとそれは正義とならない。そして、忠平のシステム構築により社会の安定がだんだんと進んでいる。となれば、何もわざわざ正義を題目に掲げて社会に大きな衝撃を与える必要はどこにもない。
政治というのは庶民の暮らしを強引な方法を使ってでも向上させることである。そして、その多くは「こうすれば向上するはずだ」という善意により実行される。だが、善意は必ずしも幸福を招かない。善意によって始まったことが取り返しのつかない大惨事を招いたことなど珍しくもない。
実頼は、区分するとすれば平和主義者である。ただし、闇雲に平和を主張するのでなく、そのほうが得だと考える冷めた平和主義者である。平和というのは、高尚な理念で考えるから素晴らしいものという概念になるのであって、経済で考えればより儲けやすい環境というだけである。何が儲かると言って、戦争をしないことほど儲かるものはない。
実頼は、「正義」だとか「向上するはず」だとかいう考えを捨て、争いの芽を積むことに専念した。そして、向上するための必要な現実の情報を募った。それも庶民自身から。
実頼の住まいは小野宮第という。そのため、実頼の子孫のことを「藤原北家小野宮流」とも言う。
小野宮第はもともと文徳天皇の皇子である惟喬親王の邸宅であったが、どういうわけか実頼が住まいとして手に入れていた。「古今著聞集」によればギャンブルで双六を繰り返したあげく、借金が返せなくなったために、借金のカタとして手に入れた邸宅であるともいう。実際にそんなことをやったら政界追放となる大スキャンダルであり、実頼の性格からして、そんなスキャンダルを起こす人間には思えない。何しろこの人には浮いた噂の一つもないのだ。
よって、小野宮第は正当な手続きによって実頼が手に入れた邸宅であるとしか考えられないが、真意のほどはともかく、小野宮第をギャンブルのカタで手に入れたという風潮が立ったのには理由がある。それは、実頼が自分の邸宅の一部を庶民の憩いの場として一般開放していたからである。
実頼の命令によって集められた菓子が軒先に並び、一角では双六も繰り広げられる。この時代にコーヒーなどはないし、お茶も極めて特殊な飲み物であったから振る舞われるわけはなかったが、もしその時代にあれば、お茶やコーヒーを振る舞ってもいたであろう。
この庶民の憩いの場となった小野宮第が、庶民の声を聞く直接の舞台となったのである。
現在の日本には請願はあるし、署名活動だってある。そして何より選挙という世論を示す最大のシステムがある。だが、この時代にそんなものはない。だから、自分たちの意見を通そうとすると実力行使に出るしかない。
忠平は言論の自由を保障したが、実頼は一歩先に進んだのだ。老若男女問わず、貧富の差も問わず、誰もが自分の意見を述べることができるようになったのである。実頼は、庶民が意見を表明し、庶民の意見を聞く方法を持ち続けることこそが、庶民の現実を把握し、庶民の生活を向上させ、庶民の不満を解消することであると考えていたのだ。
貴族が庶民と触れあうのは何たることかと憤慨する意見もあったようだが、実頼はこの反発に対し、「和歌を聞き集めているのみ」と答えた。これに反発は黙り込んだ。和歌の前での平等は神話の世界までに遡る日本の伝統である。
和歌は単なる文学の一表現方法ではない。
和歌の前には誰であろうと平等になる。皇族であろうと、その日の暮らしに困る貧しい庶民であろうと関係ない。いや、和歌を記せれば民族だろうと人種だろうと関係ない。この伝統は二一世紀の現在にも残っており、現在でも歌会始には毎年何名かの外国人がエントリーをしている。こののちコンピュータが発達したら、コンピュータの詠んだ和歌であろうと平等に扱われるであろう。
しかも、和歌は特別な教養などいらない。思いを三十一文字にまとめればそれでいいのである。生まれ育った環境で手にした言語だけを使って三十一文字に表現するのが和歌であり、漢字を一文字も読めないような人でも、ひらがな三十一文字にまとめる能力さえあれば和歌を作ることができる。
この時代の人は和歌をいとも簡単に作れていた。ラブレターも和歌なら、親しい友人とのやりとりも和歌、ちょっと出かけた先の風景を記録するのも和歌、天下国家を論じるのも和歌、激しい政権批判をするのも和歌である。イメージとしては、現代人がスマートフォンでやりとりするような内容の全てが和歌なのである。
しかも、忠平の始めた政策により、誰がどのような和歌を作ろうと罰せられることはない上に、和歌をいかに詠むかが貴族の素養となっているだけでなく、より広く和歌を愛することが貴族として賞賛される趣味と見られるようになっていた。
こうなると、和歌のために庶民を自分の邸宅に呼び寄せ、庶民の詠む和歌を聞き集めているという実頼の行動は批判のしようがなくなる。庶民に触れあうことをスキャンダル視しようとしても、和歌となると話は全て覆り、称賛を受けるようになるのだから。
財政問題は忠平の残した負の遺産であった。もっとも、あれだけ内乱が続けば、財政問題を解決できたとすればその方がおかしい話ではあるが。
すでに律令制における税制は崩壊していた。
戸籍により人を管理し、個人に納税義務を課すのが律令制での税制であるが、これだと、個人の責任が明確になるメリットの裏で、戸籍管理の煩雑さと、戸籍から離れる個人を管理しきれないという二つのデメリットがある。簡単なところでは、男性なのに女性と偽って納税義務を軽くしようとしたり、年齢を偽って納税義務を軽くしようとしたりする手段が日常となっていた。また、逃亡することで納税義務から逃れる者も多数現れた。
荘園の草創期には、荘園領主が荘園内に住む者の税を肩代わりすることが頻繁に見られた。これもまた、律令制の税制の崩壊の一端である。
荘園の初期の頃は、税の総量は変わらず、税の責任が個人ではなくなったというだけであった。朝廷としては、税収はそのままで戸籍管理の労が減るから、特に問題視することもなかったと考えられる。徴兵制である防人が廃止されたこともあり、個人管理の必要性も薄くなっていたのも、朝廷が荘園領主による税の肩代わりを問題視しなかった理由として加えることができる。
しかし、個人ではなく荘園単位の納税となると、荘園領主の思い一つでどうとでもなる。自分より位階の低い国司相手ならば、納税しないという態度を示してもどうにかなってしまう。それでいて、荘園に住む者からは税としての年貢を納めさせるから、荘園領主はますます豊かになる一方で、荘園ではない土地にはさらなる税が課せられることとなる。何しろ、国司に求められている納税額は決まっており、その納税額を朝廷に治めさせるノルマを果たさないと国司が自腹を切らなければならないのだ。この結果、特定の土地に税負担が集中し、土地による貧富の差が広がることとなる。
貧富の差の拡大をくい止めるには国家権力による富の再分配が必要だが、その国家権力を握っているのが豊かな荘園領主なのだから、貧富の差の拡大を荘園領主への税負担にすることはできない。
これが忠平の死の時点での財政問題の根幹である。
翌天暦四(九五〇)年二月一〇日、村上天皇は一つの指令を出した。
国司の評価基準を、税収の多少で定めるとする指令である。
国司の評価基準を税収に置くということは、どのような手段で税を納めさせるかというアイデアを国司たちに出させなければならないということである。
これまでのように人を基準とする税制だと、人が少なくなれば税も減る。戸籍を操作して税から逃れようとする者が多いと税そのものが少なくなるが、それは戸籍に示された通りであり、やむを得ないことであるという言い逃れができるし、戸籍通りの税収でノルマを果たしたということになる。
しかし、戸籍など関係なく、税を国単位でノルマとすると決定されたら、今までのやり方が通用しないこととなる。戸籍上では女となっている者、戸籍上では高齢者となっている者、そもそも戸籍に記されていない者、こうした税逃れの者であろうと、働いて税を納めてもらわねば困ることとなるのだ。
また、有力者の荘園であるという理由での税逃れも、村上天皇自らの指令で税を出すように命じる以上、税から逃れることが許されなくなる。こうなると、いかに有力な荘園領主であろうと、相応の税負担は引き受けなければならなくなる。「荘園Aの所有者であるBが納税を拒否した」となったら、それまでは目をつぶってもらえていたが、これからは天皇の命令に逆らう国家反逆者となるのだ。
ただ、これがどこまで有効であったかという問題は残る。というのも、この年の七月二六日に、期限を過ぎて任国に赴かない受領の処罰を厳重に行なわせるという命令が下っているのである。このような命令が出るということは、任国に向かわない国司が珍しくなくなっているということであり、これは国司としての職務を果たすことの困難さを考えてのストライキであったろう。国司にノルマを課して荘園領主から税を取り立てようとしても、荘園領主はその権力で国司の徴税を拒否し続けていたと考えられる。国司にとっては、国司の地位を得て一生分の財を築くチャンスを手にしたことより、ノルマを果たしたあとで待っている身の危険の方が切実な問題であったろう。
動乱の時代が終わって平和な時代がやってきたことを当時の人たちは実感していた。
それは外交政策にも見て取れる。忠平の政策の継承でもあるが、村上天皇は正式な対外折衝を全く行なっていない。
一見すると逆に思えるが、歴史が証明していることとして、友好とか平和とか正義とかの旗印を掲げると友好も平和も正義もなくなってしまうということが挙げられる。戦争をしないためにすべきことは、戦闘に打って出ないことではなく、戦闘に打って出てこられる口実を消すと同時に、戦闘に打って出る相手をいつでも叩きのめすという姿勢を崩さないことである。
歴史上何度となく繰り返された戦争のうち、侵略することを旗印に掲げた戦争はない。それがどんなに侵略戦争であっても、戦闘開始の名目は、自衛のためであり、友好関係の強化のためであり、正義の実現のためであり、平和の構築のためである。その名目を掲げられてしまうと、攻め込まれてくる側は、いかに友好を深めようと、いかに平和に苦心しようと、いかに正義に邁進しようと、食い止めない限り攻め込まれてしまう。
忠平が行なったのは一種の鎖国である。もっとも、完全に外交関係を遮断するのではなく、呉越国へは書簡を送っているのだから純然たる鎖国ではない。忠平は、日本に攻め込んでくる可能性のある国とは全ての外交関係を絶ち、攻め込んでこない国とだけ外交関係を、それも国の正式な外交ではなく一臣下が書状を出すという形式の外交を結んだのである。
天皇の名を出しての外交を結ばないということは、理論上、いつ戦闘状態に突入してもおかしくないということになる。これは攻め込もうとしている側にとってはありがたい話とするしかない。何しろ、有効関係を壊してしまうのではないかという懸念も不要なのである。現状のまま軍隊を差し向けても、道義的にはともかく、法的には何ら問題ない。
ただし、攻め込まれる側が侵略を易々と受け入れるわけではない。攻め込まれたら向かい合うし、何かあればこちらから攻め込んでいくという姿勢を見せていると、侵略しようとする側はその動きを止めるものである。これもまた歴史が証明していることであるが、平和を前面に掲げると戦争に巻き込まれるのに、いつでも戦争に打って出るという態度でいると戦争から逃れることができるという現実がある。例えば第一次大戦以前のイギリスは何かあればいつでも戦争に打って出ると宣言し、また実際に当時世界随一の軍事力を誇っていたが、イギリス本土が戦争に巻き込まれることはなかった。しかし、第一次大戦以後のイギリスは平和主義が台頭し、いかなる戦争にも荷担しないとする社会風潮となり、また実際に軍事力を減らす動きを見せたために、ナチスドイツの台頭を制御できず、英国本土に空爆を受けるまでになった。
平安時代の日本に時間を戻すと、国の定める軍事力は乏しくなってきていたが、その代わりに武士という武装集団が台頭してきていた。大陸の国々でも起こっていたのと同じような反乱を起こした武士もいるが、その反乱を鎮圧する武士もあり、その時点の東アジアでは極めて例外的に国内の平和を構築しているのである。これは他国からすると脅威とするしかない。反乱を鎮圧し国内の平和を維持できる軍事力があるということは、国外からの侵略を食い止める軍事力があるということでもあるのだ。
この時代の日本の対外関係にもっとも近い姿勢は、第一次世界大戦以前のイギリスの展開していた「栄誉ある孤立」。他国と関係を結ばず、他国からの侵略を受けぬ軍事力を維持し、結果として国内の発展と平和を実現するという政策である。
天暦四(九五〇)年五月五日、朱雀上皇女御の煕子女王が娘を出産した直後に死去した。
かの藤原時平の孫でもある煕子女王の死を道真の祟りであると噂する者は多く、また、煕子女王自身も死の縁にあってその噂を恐れていた。
しかし、村上天皇も、左大臣藤原実頼も、この噂に対するアクションを何ら起こしていない。不幸な死であることは認めるものの、現代と比べてはるかに多かった出産時の死であると片づけたのである。いわば「特別ではないよくあること」で片づけたのだ。道真が生きていた時代にも、いや、道真が生まれる前にから頻繁に見られたことであり、それを今回に限り道真の祟りとするのは理に適ってないとしたのである。
その代わり、このとき生まれた娘である昌子内親王に対する庇護を村上天皇は約束した。母を亡くして生まれた少女の人生を、叔父として全力で保証するとしたのである。村上天皇はこの誓いを守り、彼女は後に冷泉天皇の中宮となることとなる。
そして、後の冷泉天皇こと憲平親王もまたこの年に生まれている。憲平親王は五月二四日の生まれであるから、後の夫婦は全くの同い年としてもよい。
この憲平親王であるが、生まれてから二ヶ月という異例の幼さで皇太子に就任している。この時代は現在と違い、天皇の第一皇子が自動的に皇太子になるという決まりは無い。確かに第一皇子が皇太子となるケースは多かったが、母親の身分の高さや本人の能力などが加味されて、第一皇子以外の者が皇太子になるというケースもある。何れにせよ、ある程度の年齢になった者を皇太子とするのが通例であり、生後二ヶ月で皇太子となっている憲平親王はかなり異例であった。
しかも、憲平親王は村上天皇の第一皇子ではない。第一皇子は広平親王である。同年生まれであるから差異などないと言えるが、それだったら広平親王が皇太子となったとしてもおかしくはない。ではなぜ、広平親王は皇太子となれず、憲平親王が皇太子となったのか。それも生後二ヶ月で。
理由は単純で、母親の違いである。広平親王の母親は大納言藤原元方の娘の更衣藤原祐姫、一方、憲平親王の母は右大臣藤原師輔の娘の中宮藤原安子。広平親王の祖父は大納言なのに対し、憲平親王の祖父は右大臣であり、祖父の兄は左大臣にして藤氏長者。この差があっては憲平親王が皇太子となるのも既定路線であるとするしかない。
ただし、この皇太子の決定は、村上天皇はまだ気づいていなかったが、安定と混乱をもたらす要素にもなった。
藤原忠平が固めたデリケートなシステムは、何よりも政治システムの安定を第一としている。天皇家が続くことは何よりも優先して考慮しなければならないことであると同時に、天皇家の周囲を固める藤原北家も続くことが明確になっていなければならないのが、忠平の作った藤原独裁の仕組みであった。
天暦四(九五〇)年の時点で、藤原北家の継続は問題なかったが、村上天皇以後の皇統の継続は不明瞭であった。先に村上天皇の第一皇子は広平親王であると記したが、実はこの四年前の天慶九(九四六)年に皇子が生まれ、すぐに亡くなっている。その後、皇女は生まれているが皇子は生まれていないという状態が続いていたのである。つまり、村上天皇はまだ若いとはいうものの、後継者のいない天皇だったのだ。この状況下で誕生した皇子。何よりも最優先課題としなければならない皇統の継続を考えれば、生後二ヶ月で皇太子となるのはやむを得ない状況であった。
もっとも、これは表向きの理由。
では、本音とは?
もっとも単純な本音は、藤原北家の血を引く者が皇太子となることを画策したという本音である。何しろ憲平親王は右大臣藤原師輔の孫なのだ。天皇の祖父である人臣が太政大臣となり、摂政となり、関白となって政権を行使するという先例は、藤原良房、基経、忠平と連綿と続いている。現在は村上天皇親政であり、太政大臣も摂政も関白もいないが、村上天皇の次はわからない。
だが、理由はそれだけではない。
もう一つの、そして、より重要な理由は、政治の継続である。特に、この時代は過激な主張と見なされるようになっていた律令派に権力を渡さないことにある。いつの時代もどの社会でもそうだが、現実離れした主張をする集団は、規模が小さくなれば小さくなるほど、主張が過激に、行動がより過激になる。この時代の日本では、律令を信奉する律令派がそうであった。藤原忠平の時代、およそ四〇年に渡って骨抜きになり姿を潜めてきていた律令派が、忠平の死を契機として再び勢力を見せつけるようになったのである。
広平親王の祖父である藤原元方は、大納言まで出世し、藤原独裁に協力する藤原氏の一員ではあったが、藤原北家の一員ではなく藤原南家の者である。菅原道真と同様に学者として名を馳せ、出世し、大納言まで進んだ、つまり、藤原北家の権力独占によって自動的に出世したのではなく、実力で出世した者である。
藤原元方は、この時代に残る数少ない律令派のホープでもあった。若かりし頃は陽成上皇のサロンに顔を見せ、藤原時平が権力を握ってからはその学識で時平を支えていた。もっとも、律令派の一員であり、時平がいかに律令に則った政務を実行しようと、良房、基経と反律令の政策が続いている中にあっては立場も弱いものとなる。
そして時平の死によって誕生した忠平政権。国外の混迷や国家滅亡という現状を示した上で、国の安定を何よりも最優先するために反律令を題目に掲げる政権が誕生したら、律令派の出番など無くなってしまう。それでも藤原元方は、ゆっくりではあるが出世している。時平の死後は勢力の乏しくなった律令派を率いる立場となり、忠平政権下で出世を続け、藤原氏の一員ではあるが藤原北家ではない者としては珍しく大納言にまでなったのだ。
律令派を全否定しながらも律令派にそれなりの出世を与えているところが、藤原忠平という人間の人心掌握術の一つとも言えよう。しかし、忠平も実頼も師輔も、律令派の一人である藤原元方を太政官の一人に加えることはしても、律令派に権力を渡すことはなかったし、考えたこともなかった。複数人いる大納言の一人が律令派であることも、その大納言の娘が村上天皇の后の一人となったことも認めたが、一人しか就けない大臣に律令派の人間を就かせることも、律令派の影響下にある皇子を皇太子とすることも、絶対に考えられることではなかったのである。
藤原元方自身は律令派の中でも穏健的律令派と言うべきか、現状とある程度は妥協するスタンスであった。だからこそ大納言にまで進むことができ、大納言にまで出世したという事実を以て、律令派に対して「我々のトップが大納言にまで進んだ」という安心感を持たせて朝廷を眺めさせることに成功していた。
この状態で広平親王が誕生した。律令派にとっては、かつての文徳天皇のように律令派の天皇が誕生する絶好のチャンスが、反律令にとってはその恐れが生じたことを意味する。当然ながら律令派はただ一人の皇子である広平親王を皇太子にするよう運動を起こす。だが、あまりにも幼すぎるとして却下されている。
ところが、それからすぐに師輔の孫である憲平親王が誕生した。憲平親王は律令派に属す恐れなどない。そこで生後二ヶ月という幼さでの皇太子就任となった。
これは藤原元方を、そして律令派を激怒させるのに充分な出来事であった。ついこの前は幼すぎるとして却下された皇太子就任を、村上天皇は右大臣の血を引く生後二ヶ月の皇子に対して行なったのだ。
このときから、藤原忠平の時代には四〇年近く姿を潜めていた律令派が、再び息を吹き返すようになったのであった。
天暦四(九五〇)年という年は凶作であった。天災による凶作に加え人災による凶作も発生していたのである。
天災は何と言ってもイナゴである。丹波国、播磨国からイナゴの害の知らせが届くようになっていた。イナゴの襲撃対象は、荘園であろうと、荘園でない土地であろうと関係ない。田畑という田畑は穀物が食い荒らされ収穫できなくなったのである。
朝廷からイナゴの被害を受けた国に対し支援をしたとか、あるいは税の減免を命じたとかいう記録はない。ただ、前例に従えば、出来うる限りの支援と、免税処置が施されていたであろう。ただし、かつてのように、国土全てを班田収受として国有地化していた時代ではない。多くの土地が貴族や寺社の私有地、すなわち荘園となっていた時代である。国有地であれば国の政策による復興もできたであろうが、私有地となると国の手が及ばなくなる。国の支援の手をさしのべても、末端に届くまでに消えてしまうのだ。
心ある荘園領主は年貢の減免や生活の支援をしたが、そうでない者はイナゴの害など関係なく、これまで通りの年貢を要求した。この結果、田畑を捨て逃亡する者や、生活のために盗賊に身を落とす者が続出した。経済に寄与する生産者が、経済に寄生する非生産者となってしまったのである。
ついこの間まで大問題であった平将門や藤原純友ほどではないにせよ、国のコントロールの効かない集団が新たに生まれたことに対し、村上天皇は直ちに対処するよう検討させた。だが、どうにもならなかった。朝廷には軍事力がないのだ。
かつて一世を風靡した段階発展史観に従えば、一〇世紀半ばのこの時代は、九世紀前半より発展していなければならない。しかし、朝廷の扱える軍事力は、九世紀前半、嵯峨天皇による東北地方平定の頃と比べ段違いに劣化している。朝廷が役人に対し武官の位を与えることや、武士でもある者に位階を与えること、武士団の中のトップクラスには貴族の位を与えることは出来ても、国の命令で軍勢を結集させ、紛争地域に軍勢を送り込むなど夢の世界の話になってしまった。
武士という存在が日本を他国からの侵略から守ったことは認めねばならない。一〇〇年間に四回も日本への侵略を試みた新羅は、四回とも武士の前に惨敗を喫し無条件降伏に追い込まれている。その新羅が滅んだ後に成立した高麗は日本への侵略をそもそも検討していない。戦ったら負けるとわかっていたからである。それは渤海を滅ぼした契丹も同じことで、海を隔てた日本への侵略は、この時点では全く計画していない。それもこれも全て武士の存在あってのことである。
だが、日本を守る存在である武士が、同時に日本を混乱に導く存在ともなっていた。その筆頭は何と言っても平将門と藤原純友であるが、それ以外にも小粒の武士が暴れ、互いに荘園の奪い合いをする姿は日常と化している。そして多くの民間人が被害に遭い、ある者は武士の庇護を求め、ある者は盗賊となり、ある者は各地を逃れ平安京へとたどり着く。
村上天皇は桓武天皇をはじめとする平安時代初期の歴代天皇へのノスタルジーが強かったという。だが、この現実を目の当たりにしてはノスタルジーを感じない方が無理と言うものであろう。
「ノスタルジー」をただ単に「懐古趣味」と訳しては、このときの村上天皇の真意は理解できない。
村上天皇の真意は、古き良き時代を懐かしむと同時に、その時代への思いを国民共通の理解として昇華させることにある。
軍事的にも優れていた過去は、同時に、文化的にも優れていた過去でもある、と村上天皇は認識していた。現在の感覚からすると、九世紀には九世紀の、一〇世紀には一〇世紀の文化があり、そこに違いはあっても優劣はないのだが、村上天皇は九世紀、当時の感覚で行くと桓武天皇から醍醐天皇の時代が理想であり、兄でもあり先帝でもある朱雀天皇の時代に文化が壊れたと認識していたのである。そして、朱雀天皇の時代に壊れたこの国の文化を復活させようとしたのであった。
かつて、文化の憧れは唐であった。唐の書物、唐の絵画、唐の物品こそが最高級品であり、それに近づけることが文化であった。実際、村上天皇の理想とした桓武天皇から醍醐天皇にかけての時代の作品は、いかに唐の文化を模倣できるかという一点に集約できる。
ところが、その唐が滅んだ。滅んだだけでなく、今や影も形もなくなった。海の向こうから聞こえてくるのは、華々しい文化ではなく、国が滅び、人が殺される、阿鼻叫喚の生き地獄である。こうなると唐を理想にするなどどうあってもあり得ない話となる。
現在の我々はかの国のことを「中国」と呼び、紀元前から存在するかの地域の言語を「中国語」、歴史を「中国史」と称するが、この時代の人たちにそのような感覚は無い。国名はあくまでも「唐」や「漢」といったそれぞれの国であり、言葉の名も、それぞれの国の歴史に対する名称も、それぞれの国の国号である。国が変わったら歴史も言語名も新たになり、国の変更に関わらず連綿と続く歴史と文化の概念を示す言葉はない。
平安時代中期のこの時代に強いて挙げるとすれば、圧倒的な国力を持ったかの大唐帝国の「唐」。国が入れ替わり立ち替わり成立しては滅んでも、言語を「唐語」、輸入品を「唐物」と称するのはよくあることであった。ただし、かつての漢帝国との歴史のつながりは知識としてなら知っていても意識にはない。文字のことを「漢字」と称しても、言語を示す「漢語」とは漢字のみで書かれた文章のことであって話し言葉のことではない。
その概念を示す言葉として二一世紀の現在は「中国」を使っているが、これは二〇世紀になってかの国が使い出した国号に過ぎず、清朝以前のかの国の言語や歴史、文化について示すのは正しくない。
本来ならば、かの地域のことを「シナ」と呼ぶのが最善なのである。「唐」や「漢」といった国号に関係なく、地域名はシナ、言語はシナ語、歴史はシナ史と称するなら紀元前から続く言語や歴史と文化の概念をひとまとめにできるのだ。ただ、それを差別用語だと糾弾する者が多いのと、今の日本で使われているのが「中国」「中国語」「中国史」であることを考えると、やむを得ず「中国」という名称を使わざるを得ない。なので「中国」と記すが、当作品に登場する「中国」というのは現在の国家の国号である「中国」ではなく、連綿と続く概念としてのシナのことであることをご理解いただきたい。
天暦五(九五一)年五月、その中国で漢(後漢)が滅亡し、郭威が皇帝に即位して周(後周)を建国したとの情報が届いたが、この時代の日本人にとって、この情報は驚きでも何でもなかった。唐にしろ、漢にしろ、そして新たに誕生した周にしろ、かつての中華帝国の名称をそのまま継承してはいるが、その実体は群雄割拠する中国の真ん中あたりにある地域勢力の一つでしかない。皇帝を名乗り、かつての大帝国の名を持つ国を作ろうと、その実体は理想とほど遠い存在なのである。
村上天皇が醍醐天皇までの時代の日本文化に理想を求めたのも、この現実を目の当たりにしているからである。醍醐天皇以前の日本が唐の模倣をしていたことは知っている。だが、模倣の結果、新たな日本文化が生まれた。その新たな日本文化を村上天皇は理想としたのだ。そして、全ての日本人が醍醐天皇以前の時代に戻り、秩序を取り戻すことを願ったのだ。
少し前まで、国粋主義は律令派の中でも過激的な考えを持つ者だけのものであった。
それが今では、愛国が文化の寄って立つ唯一の柱となったのである。政治的には律令派に権力を渡さなかった村上天皇であるが、文化としては律令派に親しい感情を持っていたとしてもよい。政治的には藤原独裁を利用し、文化的には律令派を利用する。藤原独裁からの脱却のためには律令派を利用することも厭わない。それも、藤原実頼や藤原師輔の文句の付けられない形で実現する。これが村上天皇の「ノスタルジー」であった。
この村上天皇のノスタルジーからも明らかなとおり、村上天皇は、兄でもあり先帝でもある朱雀上皇の存在を完全に無視している。
確かに朱雀天皇の時代は誉められたものではない。平将門と藤原純友の反乱、不作、富士山噴火、東北地方でも反乱発生と、日本という国そのものがグチャグチャになってしまった時代である。
だが、これらの全てを朱雀天皇の責任に処すことはできない。
富士山噴火をはじめ、人々に災いをもたらすような自然現象は、この時代の感覚でいけば、天が示した執政者失格の証拠である。それ以外は人災であるからこれは現在の感覚でも完全に執政者失格の証拠である。
だが、朱雀天皇の時代の執政者は誰か?
朱雀天皇ではない。
関白太政大臣藤原忠平である。
仮に朱雀天皇自身に統治者として優れた能力があり、関白太政大臣の失敗を食い止める能力があれば人災は起きなかったであろう。だが、それを許すようなシステムを忠平は用意していない。国外で見られる国家崩壊を日本で起こさないために採用した安定第一の政治システムがまずあり、朱雀天皇はそのシステムに乗っただけなのだ。
八歳で即位したこともあり、朱雀天皇の治世は、忠平が権力を握り続け、朱雀天皇は飾りとして存在していたにすぎない。そして、天皇親政を実現するタイミングを得られないまま退位し、弟に皇位を譲った。それから四年の歳月を経て弟は天皇親政を実現させた。しかも、自分の時代を完全に無視している。
朱雀上皇の立場に立てば怒り心頭であろう。
もし日本国の政治システムを覆し、藤原北家打倒を計画する者がいれば、朱雀上皇以上に相応しいシンボルはいない。退位がいかに自発的な意志によるものであっても、退位させられた上皇を再び皇位に就けるというのは反乱の絶好の大義名分となるのだ。これは平城上皇という例がある。
朱雀上皇は、かつて宇多法皇が身を寄せていた仁和寺(にんなじ)に身を寄せていた。ただし、宇多法皇の場合は自身が出家して僧籍にあるために仁和寺の門跡(もんせき・その寺院の住職が皇族や貴族である場合の名称)であったが、朱雀上皇は出家しておらず、仁和寺に滞在している客人という扱いになっている。
それがいつからかはわからないが、仁和寺に律令派の面々が毎日のように集っているという噂が広まった。また、仁和寺の朱雀上皇が、再び皇位に就けるよう毎日呪詛を唱えているという噂も届いていた。
噂であろうと、これは国家転覆をたくらむ大事件となる可能性がある。
この噂に対する朝廷の貴族たちの反応は様々であったが、その全てが消極的な意見であった。そのまま黙認して放置することを貴族たちは進言したのである。
だが、村上天皇はただちに仁和寺の監視を命令した。これは事実上の朱雀上皇の幽閉である。朱雀上皇は弟のこの措置を強く非難したが、村上天皇は統治者として、反乱につながる可能性のある芽は大規模になる前に摘まねばならないとして自らの措置を正当づけた。律令派は、文化政策で利用できる存在とは認めても、政治権力を行使できる存在としては認めないというのが村上天皇のスタンスであった。
この行動を目の当たりにし、左大臣藤原実頼も、右大臣藤原師輔も、自分たちの手によってコントロール可能であると考えていた村上天皇が、自分たちの想像していた以上に果断な決断をする執政者だと認識するようになった。
天皇親政は国家安定のための必要な措置としてスタートしたはずなのに、気がつけば、大臣として権力を振るえる局面が狭まっていると感じるようになっていたのである。かといって、村上天皇は藤原忠平の作り上げた統治システムを壊してはいない、つまり、藤原北家独裁の構造を崩していない以上、現状がベストであるとするしかない。
父忠平が亡くなったとき、実頼も、師輔も、村上天皇が「君臨すれども統治せず」を実践し、権力は自分たちが発揮することを望んでいたのであるが、実際はその逆、最高執政者である村上天皇の前に大臣たちが黙り込むのが政務の日常となったのだ。
おまけに、唯一村上天皇に代わりうる存在である朱雀上皇は、律令派と一緒に国家反逆集団にまとめられ、幽閉され監視される対象となった。後継者である皇太子憲平親王がまだ幼児であることを考えれば、村上天皇が退位させられることも考えられず、村上天皇の治世は盤石とするしかない。
村上天皇の執政する「天暦の治」は、制度上は太政大臣藤原忠平の死によって始まったが、実状は何年何月何日に始まったと言い切ることはできない。気がついたら、大臣である藤原北家の方が飾りで、実権が村上天皇の手にあるという統治システムとなっていたのである。
この時点では律令派の勢力などとるに足らないものとなっている。文化的には律令派が認められてはいても、政治的には小さなものである。これは反旗の炎が大きくなる前に村上天皇が動いたからでもあるが、同時に、律令派のトップと見なされている藤原元方が穏健的律令派としてもよい人物で、律令派の若き過激派の動きをコントロールできていたことも見逃せない。
自分をインテリであると認識している者は、現状における社会的地位が低ければ低いほど、行動が過激的になる。まあ、過激に行動するかどうかはその者の知性と連動するものではあるから、本当にインテリジェンスがあるかどうかは別の話であるが。
この時代も現代と同様、インテリたることを自負する若者たちは大学に通い、大学を出て地位を掴むことを、この時代でいうならば朝廷に仕える役人となり、出世して貴族となることを狙っている。
しかし、藤原独裁は彼ら大学生たちの就職の機会を奪っていた。それまでは大学を卒業すればある程度の地位の役人になれたのに、今は一部の者しか役人になれず、貴族になれるのはかなり厳しい。そして、その一部の者というのが第三者の評価で知性が優れているとされた者である。
地位を掴めずにいる者にとっては、「インテリ」を自負しながら「インテリではない」と判断されたということである。これは、自らの寄って立つ唯一のプライドが全否定されたと同じことである。
大学という組織は学生たちに律令を教えており、国家の理想型を教育している。
そして、現在は大学の教える律令制と異なる国家体制となっている。
ここまでくれば、大学で教える律令制が反国家運動となるのは目に見えている。
彼らの本音は自分たちを出世させないことへの怒りだが、名目は律令を守ろうとしない藤原独裁政治への怒りであった。「頭が悪いから任官できない」とは絶対に考えない。「藤原氏の独裁政権が律令制を否定しているから『優秀な自分が』任官できない」と考える。
藤原忠平は彼らの怒りを無視していた。忠平にはそれだけの権力もあったし、人望もあった。それに、平将門や藤原純友の反乱や、国外で起こっている国家滅亡という現実の危機の前には、理想を掲げて現在を否定するなどという贅沢で無意味なことはできなかった。
だが、その忠平がいなくなった。しかも平和になった。
こうなれば、贅沢で無意味なことだってできるようになる。
現在であれば、デモなり、集団暴動なりを起こすところであるが、この時代にそんな考えはない。何より、現在は「人民のため」と自惚れて「自分たちの行動を大衆は支持するから、暴力的な行動も許される」という言い分があるが、この時代は「律令のため」であって「人民のため」ではない。つまり、現在の反体制運動と違い、最初から一般市民の支持を期待していない。支配者として一般市民の上に立とうとする意識では現在と同じだが、一般市民を仲間として利用できると考える現在と違い、この時代の律令派にとっての一般市民とは、意識の対象にものぼらない「風景」であり、利用できると考え得る対象ではない。
となれば、デモや集団暴動などは考えられなくなる。
唯一危惧されるのは武士と手を組んでの反乱であるが、これは平将門や藤原純友の反乱鎮圧とともに、厳しく監視される対象となっている。しかも、律令派は武士という存在を認識していない。武装して暴れている者がいるとは考えるが、彼らにとってはあくまでも、地方の貴族、地方の役人、地方の一般市民であり、そのどれもが律令派の者たちにとって対等に接するような相手ではなく、自分につき従うべき存在である。
しかも、武士はその存在そのものが律令派と相容れない。律令に従えば、国の操る軍事力ならば存在しても、国でコントロールできない地方の軍事勢力は存在そのものが許されない。さらに、その武士が生活できているのも、これまた、律令制では存在自体許されない荘園によってである。
こうなると、武士は律令派と真逆の存在となるより他は無くなる。
つまり、この時点の律令派に武力はなく、迷惑でやっかいな存在ではあるが、律令派については血の惨劇を危惧しなくていいのである。
ただし、勢力が弱くなっているとは言え、存在はしているのだ。しかも、ノイジーマイノリティーよろしく口やかましい集団として存在しているのだ。おまけに、言論の自由があるだけでなく、仮に言論の自由がなかったとしても、律令派が語るのは国が定めている法令についてであるから、反国家的言論として取り締まることもできない。反国家集団であると扱うことはできても、強引に潰すことは許されないのである。
村上天皇が実行したのはそのノイジーマイノリティーの拡大防止である。存在そのものを否定したわけではない。実際、文化事業には利用している。ただ、彼らが現時点以上の勢力を持たないようにすることを村上天皇は企画したのである。
これには大納言藤原元方の存在も役立った。藤原元方は藤原氏の一員として藤原独裁に関わる人間の一人ではあるが、先に記したように、藤原氏の本流と見なされるようになった藤原北家ではなく、亜流と見られるようになった藤原南家の人間であり、また、大学を出たのちに学者として実績を残し、学者として出世していくという、律令派の面々の目標とする人生を歩んできた人間である。
学者として出世するということは、知性が優れているだけでなく、現状を認識する能力にも長けていなければならないということ、つまり、律令派の掲げる理想と現実とにズレがあった場合、そのズレを許容できるだけの知力を持っているということである。
律令派の面々は、自分たちのリーダーである藤原元方が大納言として朝廷に君臨し、律令派の代弁者となってくれていると考えていた。無論、現実が律令の掲げる理想と大きく違っていることを非難する過激な考えの者もいたが、多くの者は自らの代表者が朝廷である程度の地位に就いていることで、過激な行動を起こさずにいたのである。
これを現在に考えると、共産党や社民党は支持率一パーセントに満たない弱小政党であり、衆議院を見ても参議院を見ても国政に何の影響も与えていない。しかし、やかましく、そして迷惑である。だが、やかましくて迷惑であり、国民の九〇パーセント以上がその存在を疎ましく感じ、さらには反国家的主張まで遠慮なくする面々であるからといって、取り締まりの対象とはなっていないし、選挙の結果、数名程度ではあるが議員を国会に送り込んでもいる。
この時代の律令派も同じであった。支持する者は少ないし、やかましいし、迷惑であるが、彼らの代表が大納言であることは、彼らの意見を表明する場が与えられることであり、過激な活動を食い止める効果も存在する。しかも、その大納言藤原元方は現状を受け入れる穏健派であるから、国政に大きな支障を与えることもない。これがもし、代表者たる藤原元方を追放して彼らの発言の窓口を消し、圧力でもって律令派の存在そのものを消滅させようとしたら、かえって過激なテロ行為に発展してしまうのだ。戦前の共産党や昭和四〇年代の連合赤軍のように。
村上天皇のノスタルジーは、日本的文化を、それがいかに国内発祥のものではなく海の向こうから越えてやってきた文化であろうと日本人の根に深く浸透した文化を、こよなく愛好するという形になって現れていた。
その代表が和歌と漢詩である。御存知のように、和歌という文化はいつどこで我が国に出現したのかわからない。そして、朝鮮半島にも中国大陸にも存在しない日本独自の文化である。一方、漢詩は日本国の内外に共通して存在する文化である。漢詩を詠めることが文化人の証とされており、まだ渤海国が存在し、渤海からの使者を出迎えるのが通例であった頃は、漢詩を詠むのに長けた者を供応役に任命していたほどである。
国外から使者がやってくること自体なくなったこの時代にあっても漢詩は貴族に求められる必須の文化であるとされていた。と同時に、いかに漢詩が詠めても和歌も作れなければ文化人扱いされなかった。いや、漢詩は一部の貴族だけの文化とされていたのに対し、和歌は身分の差も性別も越えた日本人共通の文化となっていたのだから、和歌が詠めないというのは日本人失格を意味するぐらい大きな意味を持っていた。
その和歌の復権を考えたのが菅原道真である。村上天皇は、道真の祟りは否定しても、道真の事業の継承は宣言した。天暦五(九五一)年一〇月三〇日、撰和歌所を梨壺に置き、清原元輔ら五人に万葉集の訓点をつけさせ、「後撰和歌集」を撰集させたのである。万葉集の登場からおよそ三〇〇年を経ている。しかも、万葉集は万葉仮名という独自の文字表記方法を利用している。こうなると、時代とともに万葉集が読めなくなってしまうが、それを読めるように再構築させたのである。
現在でも国語の教科書に万葉集が載り、あるいは書店に行けば万葉集が並んでいるのも、このときに村上天皇がその時代から三〇〇年前の文化の見直しを国家事業として行なったからである。そうでなければ、二一世紀に住む我々は、万葉集を和歌の楽しむために読むことはできなかったであろう。
一方、村上天皇の文化事業以外の政治であるが、これという真新しさはない。
藤原忠平の構築した藤原独裁の構図は崩していないから藤原氏からの妨害はない。
律令派の貴族にも道を用意しているから律令派からの激しい非難もない。
問題は律令派でも藤原氏でもない貴族だが、後撰和歌集にもあるようにそれなりの役割を用意している。
となると村上天皇の政治に文句を言う勢力そのものがなくなる。
その上、一般庶民の間からも現状を批判するような声は聞こえてこない。貧困に不満を抱く声は広く聞こえているが、少し前の平将門や藤原純友の戦乱を考えると、「あの時代に戻りたい」など考える者など現れるわけはない。高齢者がそれよりさらに前の時代に望郷を見いだすこともあるだろうが、村上天皇はまさにその時代への回顧を提唱し、そして実践している。これではますます不満の声など挙がらない。
どんな時代でも、どんな社会でも、不満の声は現実の暮らしの不満から生まれる。
税の値上げに対する不満であったり、努力が報われないことに対する不満であったり、安全が脅かされることへの不満であったりと、その全てを突き詰めていくと、自分よりいい思いをしている者がいる(あるいは過去形で「いた」)ことに対する不満に行き着く。
税の値上げだから不満になるが、自分が生まれる前から連綿と存在し続けている税を、全ての人が平等に今までと同じように納めるのであれば誰も文句は言わない。
自分より少ない努力で地位を手にする者がいれば不満を感じるが、同じ努力で同じ結果を得たならば納得するし、自分よりはるかに努力している者が自分より良い結果を手にしたとしても文句を言う者はいない。
安全が脅かされる不満はあるが、この世の全ての者が同様に危険であるならば、危険に対する対処はするものの、安全ではないことへの不満を言う者はいない。
全ては相対的な不満なのである。同時代に生きる他者との比較でもあるし、過去の者との比較でもある。「自分はこんなに苦労しているのに、前の世代の者は苦労しないでいい暮らしをしている」と考えるようになったら年長者を敬う気持ちなど失せるし、「自分は税を払っているのにあいつは払ってない」となったら誰もまともに税を納めようとしなくなる。
その意味で、村上天皇は恵まれていたと言える。過去が絶望である以上「昔は良かった」などという声を無視できるし、税が重いと言ってもすでに固定化した税であるために新たな反発は生まない。それに、税が重いという不満が湧いたとしても「過去の戦乱からの復興」を旗印に掲げれば文句の芽を摘み取れる。
村上天皇は税制を変えてはいない。重い税ではあるが、新たに重い税を課したわけではないのである。天暦五(九五一)年一二月二七日に、丹波・近江両国の無主位田の地子稲を穀倉院に納めさせるよう命令が出た。これもまた、「過去の戦乱からの復興」を旗印に掲げた財政対策であり、戦乱のどさくさでうやむやになっていた納税を元に戻しただけである。この増税無き国家財政の増収は誰も文句の言えないことであった。
貧富の差の拡大と固定は対処しなければならない問題であると認識してはいた。
古今東西、貧富の差の拡大を問題とするときに対処すべきは、富める者の財を奪って貧者に分け与えることではなく、貧者が貧困から脱出できるチャンスを用意することである。
この時代で言うと、苦労して大学に入り、役人を経て中央政界で貴族になる道は残されていたのである。その道は全盛期と比べて極めて細くなっていたが、ゼロではなかったのが大きかった。
大学に入った者が多く罹患する律令派の洗礼であるが、これでもまた中央政界で名を残す道は残っていた。大納言藤原元方の存在が道を残していることを証明していたのである。
また、中央政界の道が細いことに不満を抱いたとしても、地方で富者となる道ならば手広く存在していた。特に戦乱の後始末の必要もあって、地方官の需要は底知れなかった。中央政界を諦めた者でも、京都を離れる決意さえすればどの国でもどの郡でも任官できたし、荘園に任官することも容易であった。そして、地位を掴めば財も掴めるのがこの時代である。ある程度の期間を地方で過ごして財を貯めて京都に戻ってくるもよし、そのまま地方に留まってさらなる富者となるもよし、それは個人の自由とされた。
地方に下った者が新たに武士となることも珍しくなかった。トップエリートの貴族にとっての武士は嫌悪すべき存在であったが、そうではない貴族や役人にとっては、武士となることが自らの栄達の近道でもあった。これといった特色のない京都の貴族であるより、地方で勢力を築く武士である方が、位階も、財も、名声も集めやすくなったのである。
律令派の面々からすればそのどれもが律令に背く現実の政治なのである。しかし、律令そのものを理論でしか知らない世代は、律令違反を批判することならばできても、律令に基づく政治の構築などできない話である。強いて挙げれば、大納言藤原元方のように中央政界に上って権力を握り自分たちの手に権力を振るうという内容しかない。
藤原独裁を手玉に取り、藤原独裁を批判する律令派も黙らせ、そのどちらでもない貴族をも操る村上天皇の政治はまさに盤石であった。
律令派をさらに沈黙させることに成功する要因となったのが、朱雀上皇の健康状態である。退位させられた元君主ほど、反乱を起こすときの旗印として最適な人材はいない。ポル・ポトですら、追放されたシアヌークを利用してカンボジアの権力を握ったほどである。
反乱の旗印として最適であった朱雀上皇であるが、天暦六(九五二)年を迎えたとほぼ同時に目に見えて体調悪化を見せるようになった。つまり、反乱の旗印に相応しい状態ではなくなった。
医療制度はともかく、医療技術は現在と比較にならないほど低いこの時代、いかに三〇歳という若さであろうと、病気に罹れば運命は自ずと決まってしまう。
朱雀上皇は律令派とともに行動することも考えなくなったのか、天暦六(九五二)年三月一四日、頭髪を剃り落とし仏門へと入った。
朱雀上皇の動静が落ち着いたのを確認した村上天皇は、この時期、一つの外交政策を展開する。
朝鮮半島の戦乱は高麗によって統一したことは前作「貞信公忠平」にて既に記した通りである。そして、日本は高麗と外交関係を結んでいないことも同作で記した通りである。
高麗との間には民間の商取引ならばあったが、日本国内に残る反新羅感情は新羅が滅亡したこの時期となってもなお残っており、新羅を滅ぼして朝鮮半島の統一国家となった高麗は、日本のこの反新羅感情も手伝って、日本と外交関係を結べなかったのである。高麗は忠平が健在だった頃に国交成立のきっかけを掴もうとしたが、そのアクションは日本領への不法侵入とされてしまい、きっかけどころか、国交断絶となっていたのがこの時代であった。
日本にとっては、高麗と正式な外交関係を結んで得られるものなど何も無い。それは高麗だからではなく、朝鮮半島の国だからである。何しろ、日本は朝鮮半島を必要としていないどころか拒絶の対象としているのである。亡命新羅人が日本で海賊となり各地を荒らし回っている現状を見れば、いくら高麗が新羅と違う国だと言おうと、日本の拒絶を受け入れざるを得ない事態であることは認めねばならなかった。
これは高麗にとって、やむを得ない事態であったが、喜べる事態ではなかった。朝鮮半島に残る新羅の残滓を徹底的に排除し、新羅的な建物も、新羅的な文化も、新羅時代に関わる全てを否定した国である高麗であったが、国外との関係まで新羅時代を否定するわけにはいかなかったのであるから。
何しろ、高麗の北方には、契丹から名を変えた遼が大国として君臨しており、高麗は遼から何度も襲撃を受けていたのだ。助けを求めようにも、黄海の向こうは、かつて大唐帝国が君臨していた頃とは思えぬ小国乱立の状況であり、これではどうあろうと頼れる状況ではない以上、あとは日本海の向こうの日本しか頼れないと考えたのである。
この時代、国交交渉というものは、格下の国が格上の国に使節を派遣するのが習わしになっている。高麗は本音で言えば日本を格下として扱いたかったのであるが、日本もまた高麗を格下に考えているのみならず、高麗が日本を必要としているのと真逆で、日本は高麗を全く必要としていない。その日本がわざわざ高麗に使者を派遣するわけなどない以上、高麗からアクションを起こさない限り日本との国交交渉などあり得ない。
しかし、高麗から使者を派遣するのは国のメンツの問題になる。この問題を、高麗国王の光宗は妙案で解決しようとした。王妃の大穆王后が、あくまでも私的な信仰として宝物を長谷寺に寄進するとしたのである。国交が無くても宗教のやりとりは珍しくない。僧侶が商船に乗って移動することもあるし、国外の寺院に経典や宝物を寄進することもある。高麗国王の王妃が日本の寺院に寄進するというのはかなり珍しい事態であるが、前例の無いことではない。実際、日本の寺院の中に新羅や百済、高句麗などの国々から奉納された品々が残っていることがあるが、これらは外交政策の結果である。
高麗国王の光宗は、王妃のこのアクションで日本側が何らかの行動を起こすことを期待した。つまり、日本からの返信の使者の派遣である。これならば高麗国のメンツも成り立つのだ。
しかし、村上天皇は高麗国王のアクションに乗らなかった。高麗国王の王妃が日本の寺院に寄進したことは記録に残したが、その返信を送ることはなかったのである。たとえ高麗国王王妃からの寄進であろうと、一個人が信仰の自由を示したに過ぎず、国家としてアクションを起こすのはおかしな話だというのがその理由であった。
これは高麗のメンツを潰すに充分であった。
律令派の旗印になる可能性の減った朱雀上皇の体調は目に見えて悪化していた。
これを、村上天皇や、左大臣藤原実頼や右大臣藤原師輔による陰謀であるとする声も挙がっていた。実際、朱雀上皇は僧籍となっても、幽閉され監視対象に置かれたままである。
また、菅原道真の怨霊のせいであるとする噂もささやかれていた。これは、天暦六(九五二)年六月に雷火によって高野山奥院が焼亡したことも噂を手伝う要素となっていた。
もっとも、村上天皇はそうした噂を完全に無視している。兄である朱雀上皇のことを幽閉し監視対象に置いているのではなく、体調を悪くしている兄を守っているのだとした。さらに、高野山奥院の焼亡も、道真存命時から、いや、それ以前から存在し続けている単なる自然災害だとしたのである。
また、朱雀上皇の境遇に同情する者は多かったが、朱雀上皇の復位を考える者はいなかった。
なんと言っても、朱雀天皇の時代というのは日本全国各地で反乱が相次いだ時代であり、貴族も、役人も、京都の市民たちも、反乱の戦火を喰らう怖れを抱き続けていた時代なのである。この時代の回帰を願う者など誰もいなかった。
髪を剃り落とし仏門に入った朱雀上皇であるが、自身は何度も復位を狙っていたとされている。仏門に入ったのも、自身の体調不良だけでなく、皇位復帰を加持祈祷させるためであったとされており、自ら加持祈祷を行なっていたとの記録も残っている。
だが、それらの加持祈祷は全く無意味であった。
天暦六(九五二)年八月一五日、朱雀上皇逝去。三〇歳の若さでの死であった。
この瞬間、律令派の反旗のシンボルが一つ消えた。
しかし、朱雀上皇の死によって律令派による反旗のシンボルの全てが消えたわけではない。
律令派は新たなシンボルを見いだすことに成功したのである。
それは、醍醐天皇の皇子であり、このときは臣籍降下で源氏となっていた大納言源高明である。このとき三八歳。村上天皇や、亡き朱雀天皇にとっては母親違いの兄にあたるが、早くから皇位継承者として目されていた弟たちと違い、七歳という幼さで臣籍降下の対象となり、以後これまで、一貴族として朝廷に仕える身となっていた。
源高明は右大臣藤原師輔の娘を妻としており、この時点において、源高明は藤原独裁に協力する源氏の一人とみなされていた。その出世も、藤原独裁の一翼を担う者として、また、朱雀天皇や村上天皇の兄として順当な出世であり、それは清和天皇から宇多天皇の時代にかけての源能有の再現と見られていた。
その源高明に律令派が接近したのである。
今は源氏であるが、醍醐天皇の実子でもある以上、再び皇族に戻って天皇となる可能性がある。実際、宇多天皇は源氏となった後に皇族に復帰して天皇となっているし、醍醐天皇にいたっては、源氏として生まれながら父である宇多天皇の皇族復帰に伴って皇族の一員となり帝位に就いている。父や祖父の先例を見れば、源高明が天皇となることも何らおかしな話ではない。
もっとも、源高明自身はその政治信条を律令に置いているわけではない。藤原師輔との接近の例にもあるように、政治信条は反律令にある。ただ、藤原良房や基経の頃の反律令とは律令制と現状とで乖離が起きているために現状に沿った政務を遂行するべく作り出された政治信条であるのに対し、この時代の反律令は、先例として遵守すべき政治信条であって、必ずしも現実に即した政治信条となっていたわけではなかった。藤原独裁のためのイデオロギーとして反律令が打ち立てられていたとしても良い。
自身優れた実務家である源高明にとって、現状の政治が律令と反していることはともかく、現実と離れていることは、それは明確な何であるかまでは理解できなかったにせよ、漠然とした不安を感じる状況でもあったのである。
律令派はその漠然とした不安に注力することとなった。
独裁政治には二パターン存在する。一人の人間がトップに君臨する独裁政治と、集団がトップに君臨する独裁政治の二パターンである。現在の感覚で言うと、前者は独裁者、後者は一党独裁となる。
村上天皇の政治は藤原独裁の上に立つ天皇親政である。親政というのは、日本の場合は天皇、その他の国では皇帝もしくは国王自らが最高執政者となって政務を執り行う政治システムである。名目は多々あれ、一人の人間を頂点とするトップダウンの政治であることに違いはなく、これもまた独裁政治の一種である。とはいえ、これは日本という国が誕生してから現在まで続くシステムでもある。
一方、藤原忠平によって確立されたシステムは、藤原氏という党派の一党独裁である。しかし、法で規定された一党独裁ではない。
藤原北家の展開してきた政治システムは、藤原冬嗣から藤原時平の場合は実質的な独裁者が世襲で交替するものの、前任者の子息であるというだけでは自動的に権力者とはなれない仕組みであった。後継者と目された者は、ポールポジションからのスタートであるにせよ、貴族のピラミッドクライミングに挑んでからでないと権力者となれない仕組みである。これでは、独裁者と言うより大統領制と言うほうが近いほどである。藤原北家が連続しているのも名目上は実力による権力奪取であり、藤原氏だけが権力を独占する一党独裁の政治システムではない。
藤原忠平は、実際上は藤原氏の権力継承をシステム化したが、名目上は冬嗣から続いてきた仕組みを変えてはいない。
こうなると、名目の上にさらに名目が乗る仕組みとなる。まず、反律令とは言え律令が死んだわけではない。それどころか、役職にせよ、統治システムにせよ、政務に関する全てが律令に準拠しており、ただ律令と現実とで乖離がある部分においてのみ「律令の手直しをしている」のが反律令の政治システムである。
しかも、藤原氏が連続で上位の官職を占めてはいても、一つ一つは律令に裏付けられた上での官職就任であり、藤原氏の権力継承のシステムとなってはいても、それは先例であって律令に基づく決定事項ではない。実際、律令の条文のどこを見ても藤原氏の名はどこにもない。共産主義諸国においては憲法で共産党にその国の権力があることを明記する名実ともの一党独裁であったが、この時代は、結果としては藤原氏の一党独裁であっても、名目上、藤原氏は数多く存在する役人の一部にすぎないのである。
左大臣藤原実頼も、右大臣藤原師輔も、その他の藤原氏の面々も、藤原氏による上位官職独占は当然のこととして考えていたが、それが法の裏付けによるものではないことも知っていた。そして、時代は村上天皇という一人の独裁者が頂点に君臨し、藤原氏はその下で村上天皇を支える以外に権力を手にできないことも悟っていた。それが名目を残したことの現実である。
藤原氏が本気を出せば村上天皇を退位させることも可能であったろう。だが、その後に就ける天皇がいない。皇統の不連続はいかに藤原独裁維持のためであろうと決して犯してはならないアンタッチャブルな領域なのである。それがわかっているからこそ、村上天皇の親政を受け入れ、藤原氏は左右の大臣を独占するまでにとどめてそれ以上の権威と権力を求めないこととしたのだ。
村上天皇は藤原氏一党独裁のさらに上に立つ独裁者として君臨することとなった。
ただ一人の独裁者による独裁政治もまた二種類ある。一つは、何もかも白紙にした状態で全てを組み立て直そうとする独裁政治であり、日本史で考えれば後醍醐天皇の建武の親政がそれにあたる。もう一つは、既存の政治体制を保持したまま権力を行使する独裁政治であり、村上天皇はこちらに該当する。
後者の独裁政治が展開されると何が起こるか?
まず、既存の政治体制をそのまま利用するから大規模な改革が行なわれない。既存の政治体制を残したまま役職者を交替させるか、あるいは、以前からその役職にある者をそのまま残存させるかだが、そのどちらもよくある人の入れ替えとして小さく記録されるにすぎない。
次に、権力のトップダウンは存在するものの、独裁者が些事にまで口を出すことはない。司法・立法・行政の全てに目を光らせはするが、独裁者自身が判断を下すことはほとんどない。
こうなると、独裁者として絶大な権力を行使できるとなっても、細かなところでは既存のまま運営されることとなる。つまり、真新しくならない代わりに、安定が保たれる。
この結果、独裁者として権力を行使する必要が無い場合は、独裁者の姿が見えないこととなる。
無論、政務に関する情報は村上天皇の者に届けられるし、村上天皇の決済が必要とあれば村上天皇の判断を仰ぐが、その判断が藤原忠平存命中の判断と大きく変わらない場合、村上天皇が権力を行使したという記録も残らなくなるのである。
村上天皇の権力行使が記録に残るのは、それまでに無いことを始めた場合や、それまで存在していたことを取りやめたときに限られることとなる。例えば和歌や漢詩の興隆がその例であるが、それは単に、藤原忠平が文化事業を不干渉とした代わりに助成もしなかったからで、村上天皇は助成されずに放っておかれていた文化事業に助成したに過ぎないのである。文化事業だけに精力をつぎ込んだと評される村上天皇であるが、無論、そのようなことはない。
例えば、税に目を光らせたり、治安維持に注力したりと、執政者としてなすべき行為は文句なしに行なっている。実例を挙げると、天暦六(九五二)年九月二三日に、武蔵・甲斐・上野・信濃の各国の国司に対して、貢馬の期や員数を違えた場合は国司や牧監を処罰することを命じているが、これなどは税のごまかしに対して目を光らせていた証である。また、治安不安定を訴えてきた出雲国に対しては、天暦六(九五二)年一一月九日、清滝静平(きよたきのしずひら)を押領使として派遣して盗賊追捕を命じている。
源高明をシンボルとし勢力を回復しつつあった律令派であるが、その実質上のトップは大納言藤原元方であることは既に記した。そして、藤原元方は藤原南家の人間であるため、藤原独裁の一翼を担ってはいても藤原北家独裁には荷担していないことも既に記した。
藤原北家ではない穏健的な律令派であるため、藤原独裁や律令派冷遇に対する批判を抑える意味でも藤原元方の存在は大きかった。
その藤原元方が天暦七(九五三)年三月三一日に亡くなった。これは藤原氏と律令派の間に立つ繋がりが絶たれたことを意味することでもあった。
その上、同じ村上天皇の子であるのに、藤原元方の孫である広平親王は皇太子になれず、右大臣藤原師輔の孫の憲平親王が皇太子となったという出来事があった。律令派にしてみれば、藤原独裁にも協力してあげていた自分たちのトップが、あと一歩で大臣となれたのに大臣になれず、我が孫を皇太子にすることもできなかったまま不遇の最期を迎えたとなる。これは律令派にとって絶好の偶像ができあがったことを意味する。
律令派は、藤原元方の死とほぼ同時に、藤原元方の怨霊伝説を流布し始めたのである。もっとも、菅原道真の怨霊伝説でさえ一笑に付していた村上天皇である。律令派の挙げる怨霊伝説については見向きもしていない。
また、この噂に関しては、既に参議に昇っている他の律令派の貴族たちからも不評であった。忠平政権下にあって大学卒業後役人となり、貴族へと上り詰めるという典型的な律令派の成功者のルートを歩むことで共通していた、参議の大江朝綱、同じく参議の大江維時の両名が不快感を示したのである。ちなみに、大江朝綱と大江維時とは従兄弟同士の関係にあたる。
大江朝綱も大江維時も穏健的な律令派、つまり、藤原元方と考えの近い者であったため、急進的な律令派とは一線を画していた。急進的な律令派も、この二人のことを律令派の者と考えてはいても自分たちの代表者とは考えていなかった。
なお、この天暦七(九五三)年にはちょっとした事件が起こっている。
太政官をはじめとする上位の役職には貴族だけでなく皇族が叙任されることがある。そして、皇族のうち誰が叙任されるのかを最終決定するのは村上天皇自身であるが、推薦自体は他の皇族が行なえる。
問題は、このときに式部卿である元平親王が、源経忠を皇族として推薦したことであった。
式部省というのは役人の人事を決定する省庁であり、式部卿はそのトップである。ただし、式部卿は皇族が形式的に就任することが定められており、事実上のトップは組織図上ナンバー2であるところの式部大輔(しぶのすけ)となっていた。この式部大輔がいかに大権を持っているかは、「北家起つ」でも記したように、奈良の反乱の鎮圧後、藤原冬嗣が最初に就任した職種であることからもわかる。
しかし、事実上のトップがいかに式部大輔であっても形式上のトップは皇族である式部卿であり、式部省のトップである式部卿が皇族を推薦するとなると気軽に扱える問題ではなくなる。
さて、皇族として推薦された源経忠であるが、名を見ればわかる通りこの人は皇族ではない。皇統に連なる源氏であることは間違いないのだが、皇族にカウントされる人ではないはずの人なのである。
ところが、源経忠は自分が陽成天皇の実子だと名乗ったのだ。そして、自分には皇族としての地位があるはずだと主張したのである。
天皇の実子となると、源氏として臣籍降下されていても皇族に復帰することがまれに見られる。何しろ、他ならぬ村上天皇の父である醍醐天皇がその皇族復帰を果たした例の一人でもあるのだ。
実父の例を持ち出された以上、陽成天皇の実子を名乗る源経忠も皇族復帰の検討対象とされなければならないし、皇族復帰が実現したら皇族としての地位も用意しなければならない。何しろ、式部卿元平親王が直々に推薦したのだから無視は出来ない話なのである。
この問題をさらに複雑にさせたのは式部卿の元平親王自身が陽成天皇の実子というこれであった。元平親王の素性に関しては明白であり、天皇の実子である皇族としてそれまで職務を果たしていた。その元平親王が自分の弟に皇族としての地位を用意しようとしたというのが今回の事件の表向きの実情である。ゆえに、諸手を挙げて賛成できる案件ではなくても理解はできる案件となったのだ。
表向きと書いたには理由がある。それは、元平親王の境遇がかなり劣悪な状態であったと推測されており、ただ単に弟に皇族としての地位を用意しようとしたのではなく、経済的な見返りに基づいて行動したと考えられるからである。
右大臣藤原師輔はその日記『九暦』において元平親王のことを「垣下の親王」と記している。
「垣下(かいもと)」というのは饗宴に招いた賓客に対して盃を勧めて相伴にあずかる者の席のことであり、転じて、その席に座して賓客を接待する者を意味する言葉である。
「垣下の親王」は皇族でありながら賓客を接待する席に座らされる境遇にある者を意味し、平安時代中期には珍しくない現象となっていたが、式部省のトップである式部卿が「垣下の親王」というのは異常事態とするしかない。藤原師輔は右大臣であるから律令の組織図上は藤原師輔のほうが目上になると言えばなるが、式部卿にして陽成天皇の実子である元平親王を「垣下の親王」とするのは普通では考えられない事態なのである。
このことから、元平親王は、血筋こそ高いが、生活はかなり困窮していたのではないかと推測されるのである。いや、困窮していたのは元平親王だけではない。文徳天皇、清和天皇、陽成天皇と続く皇統に連なる人たち全てが困窮していたのではないかと推測されるのだ。後述するが、武士としての清和源氏が姿を見せるようになるのも村上天皇の時代なのである。清和天皇の血を引く源氏ですら武士にならなければならないほどに追い詰められていたのだ。
結論を記すと、元平親王の推薦、そして、源経忠のもくろみは失敗に終わった。源経忠は陽成天皇の子ではないと証明されてしまったからである。とはいえ、皇統に連なる源氏であることは証明されたのだ。源氏の一員ではあることは認められたが皇族に戻る資格は存在せず、皇族としての叙任は認められないというのがこのときの結論であった。その上で、源経忠は皇族を詐称したとして罰せられることとなった。
この源経忠という人物がどのような人物なのかは諸説入り乱れており、明確な素性は明かとなってはいない。現時点で最も有力な説は、陽成天皇の子ではなく陽成天皇の甥、つまり、陽成天皇の兄弟の子の一人とする説である。
清和天皇から始まる源氏の一人なのだから源経忠は清和源氏の一員である。その清和源氏の一員の起こした大規模詐称事件というのがこの時の結論となった。
それにしても、後に日本の天下を握ることとなる清和源氏なのに、この時代は、ある者は武士となり、ある者は経歴詐称で皇族になろうとしている。家運の栄枯盛衰というものはわからない。
これまでの村上天皇の治世はそれより前の時代と比べて恵まれている点が一つある。
それは、餓死者が続出するような凶作とは無縁であったという一点である。
毎年豊作続きであったかどうかはわからない。実際、凶作のニュースならば記録に残っている。ただ、餓死者が出たというような凶作という記録は無い。餓死者の出るような凶作はニュースだが、そうでなければニュースではないから記録にも残らないのである。
餓死者の出るような凶作ではなかったということは飢饉に対処する必要がなかったということでもあるから、貧富の差の解消に躍起になる必要もない。餓死者が続出するようであれば無茶をしてでもコメを配給しなければならないし、そのためには国家財政の持ち出しや、藤原氏をはじめとする上流貴族の自発的な寄付も求めなければならなくなるが、餓死者が続出するような事態でなければそれらの対処は不要である。
その結果、豊かな者はますます豊かになり、貧しい者は相対的に貧しいままである。平将門や藤原純友の反乱の頃と比べれば生活が豊かになったではないかという説得は通用しない。今現在、自分より恵まれた暮らしをしている者がいれば、それは貧富の差を感じる要素となるのである。
誰もが思いつき、時に実行し、そして全て失敗に終わる貧富の差の解消方法は、豊かな者から財産を巻き上げて貧しい者に分配することである。
豊かな者に高い税を課すとか、あるいは強引に奪うというのがその手段であるが、これらは例外なく失敗する。豊かな者が貧しくなるだけで貧しい者は貧しいままというのがこうした手段を実行した結果なのだ。
ではどうすべきか?
豊かな者に、自発的な寄付にしろ、あるいは大散財にしろ、ため込んだ資産を使わせることである。資産が倉にため込まれて使われなければ、市場に流れる資産の絶対量は減る一方で、貧しい者の元に資産は届かなくなり、貧しさから逃れるチャンスは失われ、貧富の差は固定化する。市場に流れる資産の絶対量を増やし、貧しい者が豊かになるチャンスを用意することが、貧富の差を解消する唯一の手段である。
執政者が提供できる豊かになるチャンスは、国家財政の大盤振る舞いしかない。「無駄な税を使うな」とよく言われるのとは真逆の発想である。
村上天皇自身、朝廷の資産の大盤振る舞いをしている。国家財政を投入して寺院の修理に当たらせているのもその例で、戦乱からの復興という名分もあるが、最大の目的は公共事業を展開することでの失業の解消である。農地を捨てて都市に流れてきた者を失業者とせずにするには、農村に戻れと命令するのではなく、都市内で就業できるようにしなければならないのは、今も昔も変わらない。
また、豊かになるチャンスとして海外に目を向けるのも今と同じである。
ついこの間までは船を操って対馬海峡や日本海を往き来するのは新羅人の操る船と相場が決まっていたが、新羅が滅亡し、その残党が藤原純友の軍勢に加わって暴れ回り、最終的にその反乱が鎮圧されると、船を操るのは日本人になった。博多港を出て、対馬を経て、高麗へと向かう航路や、九州から沖縄を伝って台湾を経て呉越国へ向かう航路でひと稼ぎたくらむ者が多く現れたのである。
ただし、正式な外交を結んでいる国との交易ではない。右大臣藤原師輔の名義で書状のやりとりをしている呉越国を除き、国の関わらない私的な交易である。
この時代の主な交易は、日本からの輸出は銅や硫黄などの鉱産物、木材、あるいは刀剣をはじめとする金属加工品など、日本が輸入したのは陶磁器、絹織物、書物、文具、医薬品などである。輸入品はかつて唐の領域であった国々の品が「唐物(からもの)」として最上級の扱われ方をした一方で、遼や高麗からの輸入品は一ランク下の扱われ方をしていたが、それでも輸入品は貴重であり、国産の商品より高値をつけることが普通であった。
ただし、遣唐使の頃は遣唐使の持ち帰った品々が国宝級の扱われ方をしていたのに対し、この時代は輸入品の絶対量が多く、一般庶民でも買えるまでに値が落ち着いていた。
これは、見かけ上の貧富の差の解消にも役立った。極めて限られた一部の人しか手に入れられなかった品々が、今では市場で買えるのである。気軽に買える額ではないものの、生まれついての身分の差ではなく、庶民であろうと努力次第で何とか買えるというのは心理的な平等につながる。
商人の往来があれば、商船に乗って海の向こうへ行く者や、海の向こうからやってくる者も現れる。藤原純友によって廃墟と化した太宰府に替わり、博多が都市として発展するようになったのもこの時代である。博多には外国人が姿を見せるようになり、博多で商取引をする者が数多く現れた。律令に従えば博多ではなく太宰府で商取引しなければならないのだが、博多港から遠く離れただけでなく、都市としてももう終わってしまった太宰府にまでわざわざ足を運ぶ者はいなくなっており、太宰府離れを罰することもなくなっていた。
それでも村上天皇は太宰府の復興を計画したようである。だが、いかに太宰府の復興計画を立てようと、藤原純友による破壊は簡単な復興計画でどうこうなるほど軽いものではなかった。そうでなくとも太宰府は人工的な都市である。自然立地によって生まれたわけではない都市は、一度破壊され、都市機能が他の都市に持って行かれてしまったら、そう簡単に復活することはない。
村上天皇は全く意図していなかったのに、後の日本の歴史を大きく動かす存在がこの時期誕生していた。
平将門の乱のとき、武蔵国に一人の源氏がいたことを覚えている者は多いであろう。
武蔵介として武蔵国に派遣された源経基である。派遣された後、武蔵守である興世王、そして、国司不在であった武蔵国を事実上統治していた足立郡司武蔵武芝と対立し、平将門の謀反を京都に訴え出た源経基は、平将門の乱が収束した後、藤原純友の乱の鎮圧のために西国に派遣されていた。ただし、これと言った戦果を残せなかった。要は足手まといとなったようなのである。
それなのに、源基経はその後順調に出世しており、この時期は各国の国司を歴任するようになっていた。
戦果を残せなかった源経基がどうして順調に出世していったのかというと、これは出生に秘密がある。何しろ、父は清和天皇の息子、母は源能有の娘、そして、本人も今でこそ源氏であるが出生時は皇族であり、臣籍降下で源氏となった身なのである。皇族の血を引くだけではなく、左大臣藤原実頼と従兄弟でもあるというのは、村上天皇にとっても藤原氏にとっても特別な存在となる。
血筋だけでも特別であるが、この人には未来を見る目もあった。より正確に言えば、その未来を見る目があるだけの知性があったからこそ出世を果たしたとも言える。
記録によれば臣籍降下された身を嘆いたともいうが、一度臣籍降下の対象となった者が再び皇族に戻るというのは、全く無いわけではないがかなり珍しい出来事である。皇族に人がいなくなり、やむを得ず誰かを皇族に戻さねばならないという事態が起きたとしても、いかに高貴な血を引いている源経基とて特別扱いはされない。貴族ならば特別扱いされたとしても、同じレベルの血筋の者など見渡せばかなりの数存在するのである。
おまけに、いくら自分が清和天皇の血筋を引く身であると主張しようと、清和天皇の持った皇統はその子の陽成天皇でいったん途切れ、皇統は別血統と言えなくもない宇多天皇・醍醐天皇・朱雀天皇、そして村上天皇の血統に移っている。そして、宇多天皇からも、醍醐天皇からも新たな源氏が誕生している。実際、この時点で源氏のトップとして君臨している源高明は醍醐天皇の血を引く醍醐源氏であり、源経基の清和源氏は醍醐源氏と大きく差を開けられているとしか形容できない。
現時点の自分と自分の属する清和源氏の境遇、そして、これからの時代を考えたとき、自分は、そして、自分の子孫はいかにあるべきかを源経基は考えた。
その結果が武士である。
源経基は、自分の子を武士にすることとしたのであった。武芸を学ばせ、軍勢を率いる術を学ばせ、兵法を学ばせたのだ。そして、武士として皇族と藤原氏に接点を持ち続ければ我が身も子孫の繁栄も図れると考えたのである。
その結果、同じ源氏でも、源高明らの醍醐源氏と違い、清和源氏は武の一門であると考えられるようになった。何年何月何日に清和源氏が武士となったのかはわからない。しかし、武士としての清和源氏の誕生は村上天皇の時代の話である。
その中で最も評判を集めるようになっていたのが、源経基の子の源満仲である。この時点で何歳なのかはわからない。なぜなら、源経基の子であるという記録があるのに、何年生まれなのかを記した記録はない。厳密に言えばあるのだが、源経基より先に生まれたという、父子関係が成り立たない記録である以上信頼できない。はっきりしているのは源経基の子であるという点のほうで、生年については不詳、ゆえに、この時点の年齢についても不詳とするしかない。
この源満仲をはじめとする清和源氏が村上天皇の時代の京都の治安維持を担うようになっていた。
そして、父である源基経は、子供たちの治安維持に対する貢献の報償として出世を果たしていたのである。
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