左大臣時平 3.道真は“追放”されたのか?

 歴史書の編集は面白さをもって眺められたが、その数日後、とてもではないが笑えない事態が見つかった。

 「主上は防人を復活なさるおつもりですか。」

 いつも通りの思いつきかと思い、宇多天皇に拝謁するとやはりその通りであった。

 だが、源能有がそこにいたのはいつもと違っていた。

 源能有は、史書編纂のため資料を集めた結果、現状を目の当たりにしたのである。

 「本朝の軍事力の停滞を新羅に悟られた可能性があります。」

 それを聞いた宇多天皇による緊急招集である。

 「出羽の反乱に新羅人が参加していました。」

 「何ですと!」

 「これをご覧ください!」

 源能有が示したのは、ここ数十年の新羅からの亡命者の動向である。

 年間百人単位で新羅から日本に亡命者がやってきていた。それ自体はずっと前から続いていることであり何ら珍しいことではない。日本側はそうした亡命新羅人を優遇し、永続ではないにせよ租税を安くしたり、時には免除したりといった優遇措置を施している。

 問題は、そうした亡命者の動向であった。単なる経済難民ではなく、どうやら新羅本国と連絡を取っているのがいるらしいのである。そして、その動きの中の一端が出羽や上総における反乱と推測された。反乱に参加したのは地元民やアイヌの人たちであるとされているが、反乱のトップはどうやら亡命新羅人らしいのである。

 さらに、唐の勢力が衰退し、混乱が深まっているであろうという推測も立てられていた。これは唐との交易を行う商人達からの情報をまとめた結果である。この情報が正式に日本に届くのはもう少し先であるが、手持ちの情報の分析でそれは可能であった。

 そして、それを聞いたときに思い浮かべたのが現在の軍事力であり、それを聞いた宇多天皇が考えたのが防人の復活であった。

 言いたいことはわかる。

 この当時の朝廷が駆使できる軍事力は惨めとしか形容できないものであった。兵力は乏しく、武具も古く、戦争を仕掛けられたらその瞬間に国家は終わりを迎えるというのが共通認識であった。

 だから、軍事力を再興することの必要性を感じ、それにはかつての防人の制度が一番であると宇多天皇は考えた。

 これに時平は反対した。

 「今の本朝にそのような余裕などありません。」

 まず、防人の費用がない。いくら徴兵とは言え、全くの無給で兵士をさせられ続けるわけはないし、兵である間の維持費や、勤務地までの旅費だってかかる。

 「そのようなもの防人自身に負担させれば良かろう。」

 「ふざけないでいただきたい!」

 費用を全て兵士の自己負担にすればよいというのが宇多天皇の考えであったが、時平にはタチの悪い冗談にしか思えなかった。

 「農地と比べて人は足りない状況にあります。そこから人を奪ったら、田畑は荒れ果て、元の原野へと戻ってしまいます。」

 「隣人に耕させればよい。」

 「自分の田畑で手一杯なのに、どうして隣人の田畑まで耕せましょう。」

 「だがな、時平。攻め込まれたらそれで終わりではないか。防人抜きでこの国を如何に守るのというのか。」

 「武士(つはもの)に任せれば良いのです。」

 時平は明確に武士という新たな存在を認識していた。しかし、それは宮中において明らかに少数派。宇多天皇も都の警護にそうした者がいることを知ってはいるが、明確な認識とはなっていなかった。

 「主上、ここは時平殿の言うとおりです。武士(つはもの)の存在を認め、彼らを取り立てることは、彼らの暮らしだけでなく、田畑を耕す民の暮らしも、そして国の安全も図れることとなります。」

 源能有は時平の意見に賛成した。

 都の警護役に武士を取り立てるのはすでに行っていた。しかし、メインはあくまでも検非違使(けびいし・現在の警察)であり、武士の存在はイレギュラーなものであった。

 その考えを一歩進め、時平は武士の存在をレギュラーなものとし、その存在を国家組織の中に組み込むことを考えたのである。まずは都の警備であるが、ゆくゆくは全国規模の武士集団を組織し、それを国が中央で束ねるという組織的軍隊の創設を狙ったのであった。

 「いずれも武芸に秀でた者にございます。武具を知らぬ者を防人として無理矢理連れ出すより、遙かに役に立ちます。」

 さらに、道真も時平の意見に同調した。

 宇多天皇は彼らの言葉を受け入れ、自らのアイデアを取り下げた。

 寛平四(八九二)年五月四日、宇多天皇は時平を検非違使別当に任命し、時平の掲げた武士の採用を進めさせた。

 このとき採用された武士たちは、清涼殿東庭北東の「滝口」と呼ばれる御溝水(みかわみず)の落ち口近くにある渡り廊を詰め所にして宿直したことから、「滝口の武士」と呼ばれるようになった。

 しかし、時平ができたのはそこまで。各地域の武士団の編成も、中央からのトップダウンによる軍の創設も立ち消えとなっている。

 もっとも、これが後に国家存亡の危機を救うことになる。

 武士の登用を主張した時平に検非違使の別当の地位を与えたように、地方の活性化を訴えた道真にも宇多天皇は権力を与えた。


 寛平五(八九三)年三月一五日、菅原道真が勘解由長官(かげゆのかみ)を兼任することとなった。

 勘解由使(かげゆし)は地方行政の監査を行なう業務であり、勘解由長官(かげゆのかみ)はそのトップである。

 宇多天皇は適材適所と自負したであろうが、これが道真に新たな情報を伝えることとなる。

 勘解由長官となったことで、道真はこれまでの地方の行政・経済・そして暮らしの移り変わりを知ることとなった。

 そして感じた。

 年々悪化していると。

 「悪化ですか。」

 「左様。これは年々悪くなるばかりで良くなる兆候が見られませぬ。」

 道真が持ってきた紙は、各地の経済の移り変わりを示していた。年を追う毎に小さくなり、楽観的な希望を抱かせる要素はなかった。

 まず、収穫自体が落ちている。これは、税を逃れるためのものと考えられたがどうもそうではないらしい。

 当初は荘園の拡大が原因ではないかと道真は考えたが、同じ人が、同じ条件で、同じ田畑を耕しているのに、獲れる作物の量が年々減っているのである。

 道真は、農業という産業そのものが大きな問題を抱えているのではと感じた。だが、それが何なのかはわからなかった。

 現在考えられているのが、気候の急激な変動である。

 屋久島には樹齢二〇〇〇年を数える巨大な杉があり、これを利用することで、過去二〇〇〇年間の気温の変動を調べることができる。

 それによると、西暦八六五年頃からの三〇年間、毎年気温が上がっているのである。それは単に暑い日が続いたり、冬に雪が降ることが少なくなったと感じるだけの問題ではない。それは不作という形で食料生産に直結するのである。

 そして、記録から推測するに、それは屋久島や日本だけの問題ではなく、東アジア全域での作物不良という結果を招く気候変動であった。

 しかし、道真が掴めているのは、そうした気候変動ではなく、収穫量の減少という現象が、日本だけでなく、海外でも起こっているという事実だけであった。

 「それはいつ頃からですか。」

 「黄巣の乱からです。」

 「唐の情勢が我が国に影響を与えているのですか!」

 「いかにも。海に住む者の中には、田畑を耕す代わりに外国(とつくに)と交易を為すことで暮らしを成り立たせている者もいる。今月、唐より来朝した商人が持ち帰りました情報に寄りますと、唐の衰退は著しく、その唐が交易できぬ有様となってしまっている以上、暮らしを成り立たせることができなくなっておるのです。」

 道真は黄巣の乱をスタートと見、それが全ての悪の元凶であると判断したが、実際には、気候変動による収穫量の減少が生活苦を生み、それが反乱のきっかけになったと考えるほうが正しい。

 しかし、黄巣の乱の頃から収穫量の減少が東アジアの各地で民衆を直撃していることは事実であり、いつから現在の問題が起こっているのかという質問に対する回答の出発点を、黄巣の乱の時期にすることは間違いではない。

 「道真、交易できぬとはどういう事だ?」

 「唐の海に住む者が生活できなくなってしまっているのです。田畑の収穫は乏しく、その上、戦乱で土地が荒れ果て、本朝と交易しようにも交易する物がなくなってしまい、かの地の者はその日を生きるために汲々している有様です。」

 「それは唐だけのことか?」

 「いえ、主上。新羅もまた混乱を生じさせています。甄萱(キョンフォン)の主導する反乱が新羅南部を混乱に招いており、このままいきますと、かつての国家分裂を生じさせかねません。」

 「新羅南部と言うと、かつての百済の復活か。」

 「その可能性は大いにあります。実際、太宰府からの報告ですと、博多津(はかたのつ)に立ち寄る新羅商人の数が近年目に見えて減っているとのこと。場合によりますと、また新羅賊が来襲することもあり得ます。」

 『新羅賊(しらぎのぞく)』とは新羅が幾度となく繰り返してきた日本への侵略計画のことである。この七〇年間で三度、日本は新羅からの侵略を受けていた。

 弘仁四(八一三)年二月二九日、新羅から来襲してきた船が対馬に来襲し、百名以上の対馬島民を拉致。軍勢はその後九州上陸を試みるが撃退される。(弘仁の韓寇)

 弘仁十一(八二〇)年二月二六日、新羅からの不法入国者が相次いでいたため、朝廷は居留地を用意して彼らの生活を保障したが、新羅との密貿易が取り締まられたことに対して反発し、反乱を起こす。この背後には新羅本国からの援助があった。(弘仁新羅の乱)

 貞観十一(八六九)年六月一五日、新羅の軍船が博多に入港し、博多周辺の民家を襲って略奪と拉致、殺人を繰り返した。太宰府はただちに軍勢を組織して対抗し、それに直面した新羅軍はいったん引き上げる。新羅は拉致した日本人の命と引き替えに対馬の割譲を要求するが、朝廷はその要求を拒否。日本側は報復として新羅人に対し、国外追放か、新羅から離れた陸奥への移住の二択を迫る。新羅人は一人残らず陸奥への移住を選択した。その後も新羅からの侵略と日本側の抵抗という図式が続くが、事態は日本に優勢となり、貞観十八(八七六)年六月一五日、新羅側がこれまでの侵略を謝罪し、拉致した日本人のうち生存者を全員解放、また、侵略に対する賠償金を支払うことで事態は収束した。(貞観の韓寇)

 新羅が対外侵略を何度も試みていたのは、それが国内を安定させる手っ取り早い方法だからである。どんな国でもそうだが、国内問題から目をそらす最も簡単な方法は、国外に敵を作り、そこに視線を向けさせることである。

 また、略奪による生活手段の獲得という側面もある。経済が破綻し、貧困にさいなまれる新羅にとって、食べていくための物資の獲得は急務であった。

 分かりやすく言えば、北朝鮮はこの時代にも存在していたということである。

 新羅の侵略の矛先は日本だけに向いていたわけではない。渤海にも向かっていたし、唐にも向かっていた。

 日本が渤海と同盟を結び、唐とも良好な関係を築いていたのも、こうした貧困の大地へと落ちぶれた新羅の予測不可能な行動があったからである。

 現在の感覚で行くと集団的自衛権と言うことになろうか。日本、唐、渤海の三国のうち、どこか一つでも新羅からの侵略を受けたら残る二ヶ国が新羅に対抗するという。

 ところが、その唐が衰退し、しかも、新羅国内に内乱が起こっている。

 新羅が行動を起こす要素が揃ってしまっている。

 「時平殿、太宰府近辺の武士(つはもの)を集結させることは可能でしょうか。」

 時平は首を横に振った。

 「なぜです! そなたは検非違使の別当ではないか。」

 「検非違使の別当としてできることは都に武士を集めることのみ。九州の武士を太宰府に集めることは太宰帥(太宰府のトップ)にしか認められておりません。主上、ただちに武士を太宰府に集めるよう太宰帥にご命令ください。必要とあらば、滝口を九州に派遣いたします。」

 「左様か。主上、ただちにご命令を。」

 「主上!」

 時平と道真は宇多天皇にただちに命令を出すよう迫った。

 だが、宇多天皇はそれに対し何のアクションも起こさなかった。

 「二人とも、そこまで主上を責め立てるな。まずは、各人が知り得たことを持ち帰り、熟考の上、再度日を改めて対策を立てようではないか。」

 源能有がこの場を取りなすことで混乱は未然に防いだ。

 この日を境に、宇多天皇の中で源能有の存在が大きくなってくる。


 「定省は意気地無しだな。戦を恐れたか。伯父君が取りなさなかったらどうなっていたことか。」

 陽成上皇は宇多天皇のノーリアクションを鼻で笑った。

 「しかし、道真殿の言葉が正しいとすれば、九州は、いえ、この国は新羅との全面戦争に陥ります。」

 「全面戦争になるかどうかは何とも言えんが、一滴の血も流れることなく事が終わるとは思えん。ときに、道真はどうした。」

 「あらゆるツテを頼り、国外の情報を手に入れようと躍起になっています。」

 「とは言うが、道真は既に勘解由長官。これ以上に情報の手に入る地位は無かろう。」

 「満足のいく情報でない以上、これ以上の情報はないと他の者が口にしても、聞き入れませぬ。道真殿はいま、国家存亡の危機に立ち向かおうとしているのです。」

 「それに対しても定省は何もせぬままか。」

 「はい。声をかけるでなく、協力するでなく、黙り込んだままです。」

 「そうか。定省は統治者の器ではないな。」

 「それよりも気がかりなのは道真殿です。満足いく情報が手に入らず、どうすればよいか悩み続けております。」

 「情報は待っていれば手に入るものではない。欲しければ自分から動くのみだ。」

 「とおっしゃいますと。」

 「新羅の情報が欲しければ新羅へと、唐の情報が欲しければ唐へと、使者を使わし情報を手に入れさせることだ。何とかして太宰府を動かす手段はないか。」

 「それは帝にしかできぬ事にございます。でなければ、太宰帥(だざいのそち)になるか。」

 「いずれにしても定省でなければできぬことか。」

 「はい。」

 「とにかく、朕のできることは、この陽成院で手に入る情報の全てを道真に渡すことだけか。だが、その情報も近年は乏しくなってきておる。」

 時平は陽成上皇の言葉を道真に伝えた。

 それを聞いた道真はしばらく考え、一つの結論を出した。

 「遣唐使ですと!」

 時平は道真から相談を受けた。

 「時平殿も賛成してくれぬか。唐がいかになっているのか、新羅がいかになっているのか、それがわからぬとどうにも動けぬのだ。」

 時平は賛成しかねた。

 遣唐使の派遣自体は問題ないと感じた。

 だが、道真の主張はそれだけではなかった。遣唐大使に自分が就き、自ら唐に渡るというのである。

 これは危険すぎた。

 今のこの時点で道真以上に遣唐大使にふさわしい人間は居ないというのは紛れもない事実である。しかし、道真は現在の政局において必要不可欠な人材となっているのである。

 それは宇多天皇の態度からも読み取れた。宇多天皇は道真を頼りにし、時平を排除しようとしているのである。

 実際、寛平五(八九三)年四月二日に、宇多天皇は自分の子の敦仁親王を東宮(とうぐう)(次期天皇)に任命している。敦仁親王は藤原氏と何ら血縁関係が無く、基経がそうであったような血縁を利用しての勢力拡張ができなくなる。

 このタイミングでの皇位継承確定は対外的な危機を考えれば納得できる。だが、敦仁親王はこのときわずか八歳。何かあったときの対処としては不可解な部分もあった。

 無論、宇多天皇は何の考えも無しに、八歳の少年を責任ある地位に就けたわけではない。道真に春宮亮を、時平には春宮大夫を兼任させることで、敦仁親王の地位を保証させたのである。

 ちなみに、「とうぐう」という言葉には「東宮」と「春宮」の二つの漢字があてられるが、「東~」のほうは特定個人に関係しない皇位継承者の政治的な地位の名称を差し、「春~」のほうは皇位継承者個人の名称として使用される。つまり、春宮亮や春宮大夫という地位は、敦仁親王個人のサポート役であって、仮に敦仁親王以外の人間が皇位継承者となったら道真や時平はその地位を失うこととなる。

 その名称だけでも当時の人は宇多天皇の皇位継承に対する考えを理解した。ただ一人敦仁親王だけが後継者であり、道真も時平も敦仁親王個人に仕える身となったということである。そして、春宮亮と春宮大夫の位の違いで、形の上で子と時平のほうが位は上だが、敦仁親王の第一の側近は道真であるということを宣言したのである。

 このタイミングで唐に行きたいと打ち明けた道真の言葉を宇多天皇はしばらく理解できなかった。


 理解したのは太宰府から緊急の使者がやってきてからである。

 寛平五(八九三)年五月一一日、太宰府は新羅賊の第一報を伝えた。

 「『新羅賊、肥後国飽田郡に於いて人宅を焼亡す。又、肥前国松浦郡に於いて逃げ去る』。以上です!」

 時平も道真もとうとうその時が来たかという思いでその一報を聞いたが、宇多天皇は狼狽を隠せなかった。

 そして、ここではじめて道真の唐行きを理解したのである。

 「ならぬ、ならぬ、ならぬ!」

 なぜ駄目なのかの理由はなく、ただ否定する言葉を連ねるだけであった。

 「主上! 事態は一刻を争うのです! ただちに対処を!」

 時平の言葉も宇多天皇の落ち着きを取り戻すことはなかった。

 「とにかく、九州に軍勢を集め、新羅に抵抗することだ。問題は、山陰や北陸に分散して攻撃を仕掛けられた場合だが、今のところその情報は伝わっていない。」

 源能有の脳裏には現時点で動員可能な軍勢があった。

 結論は、九州に集めるだけなら可能だが、日本海沿岸全体に行き渡らせるのは不可能だということである。

 「時平殿、滝口を九州に派遣することは可能ですかな。」

 「主上の命令があれば。」

 「そんなことは聞いてはおりませぬ。可能かどうかだけを聞いているのです。」

 「可能です。」

 「ならば許可など気にせず今すぐ派遣なさい。責任問題だと言うなら、私に全責任を押しつけなさい。」

 「能有殿、そこまで言わなくとも。」

 道真は能有を諫めるように言った。

 「事は一刻を争うのです。今出せる軍勢は滝口しか有りません。そして、時平殿は滝口に命令を出せるのです。」

 能有のその口調は穏やかではあったが、しかし、力強くもあった。

 時平は宇多天皇の許可を受けぬまま、ただちに滝口の武士に九州への出動を命じ、伯父の藤原国経(くにつね)をその指揮官に任命した。

 「伯父を九州に行かせたのはあくまでも家庭内のことです。滝口の武士を派遣したのも私の出しゃばりです。私の越権を懲罰なさるなら一刻も早く! 私を九州に追放していただきたい!」

 宇多天皇が時平の対処を聞いたのは全てが動き出した後である。時平の確固とした態度に宇多天皇は何もできなかった。

 その間も太宰府からの使者は次々と到着していた。

 今のところは新羅の軍勢を追い返せてはいるものの、次々と軍勢が押し寄せているためいつ破られるかわからない。

 対馬に対する侵略も起こっており、対馬では必死の抵抗で何とか上陸を防いでいる。

 時平の派遣した武士の活躍はめざましく、新羅軍で恐れられる存在となっている。

 その指揮を執る藤原国経は老体に鞭打って奮闘しているが、武士達の指揮を完全に執っているわけではなく、所々混乱が見られる。

 新羅本国からの正式な使者は到着していない。また、唐からの連絡もない。渤海は新羅に対し抗議しているが、軍勢の集結とまでは行かずにいる。

 寛平六(八九四)年四月、新羅軍、対馬上陸。地上戦となり、数多くの死傷者が生じていることを伝える使者が到着した。

 「対馬の民の必死の抵抗が続いておりますが、陥落することは時間の問題です。また、壱岐に対する侵略も時間の問題であり、一刻も早い対処が必要です。」

 「主上! ご命令を!」

 「主上!」

 宇多天皇は顔面蒼白のまま狼狽えていた。

 「こうなったら自分が九州に向かいます。藤原の財と人を全て動員して。」

 「なりませぬ。いかに時平殿が尽力しようと、その程度で撃退できるほど簡単ではございませぬ。それに、そなたは軍事経験を有してはおらぬではないですか。ここは国としてどのような行動をとるかです。主上、ご命令を!」

 「た、ただちに、善処を。」

 「だからそれはどのようなことですか!」

 道真は一喝した。

 「私を唐に向かわせてください! 本朝の軍を出さぬというなら、唐を動かし、唐の軍勢を新羅に向かわせます!」

 時平も宇多天皇も道真のこの言葉に驚きを見せた。

 ただ一人、能有だけは平然としてこの状況を見ていた。

 「み、道真を、遣唐使に任ずる。」

 「御意。」

 その意志を伝えてから一年以上経過して、やっと遣唐使が実現した。

 しかし、ここに問題があった。舟がないのである。

 国が用意できる舟の全てを対新羅戦に動員しているため、ただちに唐へ派遣するわけにはいかなくなった。

 「これで良かったのですかな。」

 「完璧です。主上は他者の恫喝を極度に恐れる。基経殿しかり、私しかり、時平殿しかり。その中で道真殿だけが温厚をかこっておりましたが、その道真殿も感情を示したとあれば、主上も動かざるを得ないでしょう。」

 「能有殿もお人が悪い。」

 「事は一刻を争うのです。主上に動いていただくにはこれしか方法がございません。」

 「しかし、時平殿にも一言有っても良かったのではなかったのですか。」

 「時平は主上を諫めるのが仕事。その時平ですら驚くという場面が必要なのです。それに、奴にもいい薬になったでしょう。」

 「時平殿も諫めるのですか。」

 「今回が国家の危機ということは理解しているが、自分が九州に行けばどうにかなると思い上がっている。基経殿と違って、若さが暴走しているようです。まあ、あと十年も経てば変わるでしょうが。」

 能有はこのころにはもう宮中第一の権力者になりつつあった。

 そして、能有の下に道真と時平が位置し、その他の貴族がさらにその下に位置するという政治体制が確立されていた。

 しかし、この三人とも位は高くないのである。

 左大臣はあくまで源融であり、右大臣は藤原良世である。本来ならこの二人がトップでなければならないが、そうではなかった。

 源能有は正三位で大納言、時平が従三位の中納言、道真に至っては四位の参議であり三位に届いていない。

 しかも、大納言は四人、中納言と参議は八人が定員であって、法制上は数多くの臣下の一部に過ぎない。

 道真が大使として唐に向かうという知らせはただちに九州に伝わった。

 それは、宇多天皇が確固たる意志で新羅の侵略に対抗するというメッセージとして、九州を守る武士達に伝えられた。

 その知らせは対馬にも伝えられ、間もなく侵略が終わるという希望をもたらした。

 寛平六(八九四)年八月二一日、舟の完成の連絡が朝廷にもたらされる。


 道真の邸宅では、道真の唐行きに向けての準備に追われていた。

 その邸宅を訪問した時平は、ある覚悟をしていた。これが道真との最後になるのではないかとの思いである。

 「唐の国情の乱れ、海原を渡ることの危険、万が一、道真殿に何か起こったらと考えますと、二人目の父を失うと同じ苦痛です。」

 「何を大それたことを。今は国家危急のとき、一個人の感情でどうこうなるものではありませぬ。それに、私は時平殿を信頼しているから安心して唐へと向かえるのですよ。」

 「それこそ大それた言葉。自分はまだ年若く、道真殿ほどの経験もございません。道真殿の居なくなった宮中でどうすればよいのかなど全く想像できぬのです。やはり、私が唐に向かうべきではなかったのか、そう思うのです。」

 「私は唐の言葉を話せます。時平殿は話せませぬ。私と時平殿とどちらかが唐に渡らねばならぬとすれば、その答えは私に決まっております。それは全て、この時代に生まれ、この時代で役を担う者の運命。それで命を失うとしても、私はそれを受け入れます。ですから、時平殿もその運命を受けていただきたい。」

 しかし、道真のその決意は中断されることとなる。

 九月一九日、太宰府から至急の連絡が届いた。

 新羅撤退。

 九月五日の朝、対馬守文屋善友が指揮する軍勢が対馬から新羅軍を一掃し、新羅軍船四五艘を追撃し、うち一一艘を拿捕した。

 新羅軍の死者、二二〇名。新羅軍大将三名、副将一一名、兵士およそ三〇〇名が捕虜となり、大将のうちの一名は都へと連れて行かれた。

 尋問は道真が筆談で行った。

 その結果判明したのは以下の通りである。

 新羅は不作が続き、民衆の餓死者が頻発している上、内乱による国土の荒廃が激しく、王朝がいつ倒れてもおかしくない状況であること。

 それを打開しようにも王朝の財政が厳しい状況であり、この局面を打破するため日本侵攻を計画したが、その目的は日本の領土ではなく、日本のコメや絹の略奪であること。

 しかし、抵抗が激しくて略奪もままならず、さらに日本が唐に働きかけを行うとの知らせを聞き、新羅軍の内部に動揺が拡がっていること。

 三人の将軍が一〇〇艘の軍船を待機させていていつでも出航できる準備にあるということ。

 この知らせを受けた朝廷は、遣唐使派遣の一時中断を宣言する。

 理由は、道真の対外折衝能力である。

 今のこの段階で道真を失うことは新羅との折衝に対しあまりにも大きな損失である。道真だからこそ尋問可能だったのであり、他の者には不可能であった。

 この時点ではあくまでも遣唐使の一時中断であり、廃止ではなかった。

 だが、時平は廃止を考えていた。

 「遣唐使を廃止せよと申すか。」

 「唐への働きかけという圧力を新羅に与えることに成功しました。今は戦乱のあとをどう対処するかという段階であり、道真殿を失った上での対外折衝は非常に困難です。」

 「漢語を解する者は数多くおりますが、彼らでは駄目なのですか。」

 「はい。」

 時平は即答した。

 「主上のすぐ側に仕える者が接することが重要なのです。いかに漢語を話されようと、そうではない者はふさわしくありません。」

 道真はしばらく考えた。

 「一度決めた遣唐使を取りやめるならまだしも、遣唐使そのものを廃止するというのは大それた決断ではないでしょうか。」

 「遣唐使は唐に派遣して意味があるからこそ価値があるのです。かつての勢力を見せず、衰退する一方の唐に派遣することに意味がありますでしょうか。」

 「これは手厳しいことを。」

 「今の我が国は唐を必要としておりません。まず必要なのは国の安全です。」

 道真は時平の意見に同調した。

 本心からの同調ではなかったが、遣唐使を派遣するわけにはいかないという事情は理解できていたし、そうした理由でもない限り、遣唐使を取りやめることの格好はつかなかった。

 寛平六(八九四)年九月三〇日、菅原道真、遣唐使停止を進言。

 宇多天皇はその進言を受け入れ、同日、遣唐使の廃止が正式に決定した。

 対馬攻略失敗に加え、唐への働きかけを知った新羅は、日本侵略の断念を公表する。

 ただし、貞観の韓寇の時とは違い、単に侵略しないと宣言しただけで、謝罪もなければ賠償金もない。つまり、日本に対し正式な外交をとらなかった。

 これには新羅側の思惑もあった。

 遣唐使を廃止したということは唐との正式な国交を断ったということでもある。

 そのため、これを受けた唐が何らかのアクションを日本に対して起こしてもらえるとの判断があった。

 だが、時平の考えは正しかった。


 唐は日本からの通告に対する遺憾を表明したものの、何ら具体的なアクションは起こさなかったのである。厳密には、起こしたくても起こせなかった。

 道真は唐を動かして新羅との局面を打開することを考えていた。しかし、もはや唐にはその能力がなかった。事実上首都とその周辺にしか権力を及ぼすことができず、長安から離れた地域は唐の権力の影響を受けない独立国も同然となっていた。

 その代わりに勢力を伸ばしてきたのが、黄巣の乱鎮定に功績を挙げた、朱全忠や李克用といった藩鎮(はんちん)である。

 「数多くの藩鎮(はんちん)のうち、天下を取る可能性があるのは李克用と朱全忠の二人。戦乱となると李克用のほうが上ですが、統治となると朱全忠のほうが上のようです。ただ、現時点では両者とも一長一短で、どちらが天下を取るかは未確定です。」

 「道真はこの二人と接触を持とうというのだな。」

 「はい。ただし、あくまでも私個人の接触であり、主上の名は一切出さぬ接触です。」

 「その二人以外が天下を取ったらどうするのだ?」

 「私を罷免くださいませ。」

 道真はそうした藩鎮との接触を提案した。やがて天下を取るのは彼らのうちの誰かと睨んでのことである。

 これは賭であった。

 誰が天下を取るかはわからない。

 うまく接することのできたのが天下人となれば問題はないが、そうではない人間が相手となると大きな損害をもたらす。

 そこで、道真はあくまでも民間人の商用としての接触に留めることを主張した。

 「それは道真殿にとって大きな賭でございましょう。」

 「誰かがこの賭をせねばならぬのです。唐への渡航の覚悟に比べればどうということありません。」

 道真の決意に時平は何も言えなかった。

 新羅の侵攻に始まる危機に際し、宇多天皇は全くの無力であった。

 自分の知らないところで事が動き、いつの間にか解決している。

 国内は時平が、国外は道真が矢面に立ち、その二人の上に源能有が立って指揮をし、自分は事後承諾しか求められない。

 これが宇多天皇の評判を形作った。国家の危機に対しても何もせず、狼狽えるばかりの無能な君主という評判である。

 屈辱としか言いようがなかったが、反論はできても言い負かすことはできなかった。

 一方、新羅の侵攻を食い止めたことによる道真の評価は鰻登りであった。自らの命をかけて動いたことに対する評価である。

 宇多天皇はこのとき、退位と、敦仁親王の即位を真剣に考えていたようである。

 これを聞いた時平は猛反発を示し、それには道真も同調した。

 「国家存亡の最中、国政を投げ出すとはなんたることですか!」

 「主上、敦仁親王のお年をお考えくださいませ!」

 宇多天皇の脳裏には、退位してなお一定の権威を持ち、時平を通じて一定の権力さえ行使している陽成上皇の存在があった。

 あのような立場になれば何と気楽なことかと。

 さらに一歩進んで、天皇の義務から自由になれればどれほど便利かと。

 これは後の院政と同じアイデアである。

 だが、それを道真も時平も批判した。

 退位そのものではなく、退位のタイミング、そして後継者の問題である。

 いかにサポート役が確立されていようと、対外戦争の危機にある現状で、未だ元服を迎えていない年少の者に天皇の職務を遂行させるのは難しい。

 まして、宇多天皇には悪評こそあるものの、健康状態が悪いわけでも、国内に争乱を招いているわけでもない。確かに新羅の侵略はあったが、道真の働きがあったにせよ撃退に成功している。これは退位の理由にはならない。

 だが、宇多天皇の真意は退位にあったと思える。

 この後の宇多天皇の行動を考えると、早期の退位を狙っていたとしか考えられないのである。

 まず、第一の理由として、後継者の権威を確立させるために、新羅撃退の第一の功労者として人気を独占していた道真が、後継者の第一の側近であることをアピールし続けたことが挙げられる。

 寛平六(八九四)年一二月一五日、菅原道真、侍従を兼任。

 寛平七(八九五)年五月一五日、渤海使来日。菅原道真、渤海客使に就任し饗応の任を果たす。

 寛平七(八九五)年一〇月二六日、菅原道真、従三位に昇叙し、権中納言に転任。

 寛平七(八九五)年一一月一三日、菅原道真、春宮権大夫を兼任。

 寛平八(八九六)年八月二八日、菅原道真、民部卿を兼任。

 寛平九(八九七)年六月一九日、菅原道真、権大納言に転任し、右近衛大将を兼任。

 これは、これからは道真の時代とすると宣言しているようなものである。

 そして、もう一つの理由。このもう一つの理由のほうが重要であるが、源能有の体調不良の問題があった。

 意図していなかったにせよ、自身の第一の側近は源能有である。

 ところが、敦仁親王の側近にその源能有を指名していない。

 これは敦仁親王の時代にはもう源能有が居なくなっていると宣告しているに等しい。

 ここから先は推測でしかないが、能有が居なくなったら自分の帝位も維持できなくなると考えたのではないであろうか。

 その状況下でとりうる方策として考えたのが、早いうちに敦仁親王に帝位を譲り、道真を中心とする政権を確立させることだったのではないであろうか。それが政権を安定させる唯一の方策と考えて。

 新羅撃退に成功したあたりから、源能有の体調は目に見えて悪化してきた。

 健康をそのまま絵にしたような道真と同い年とは思えないほどに衰弱が激しくなり、みるみる痩せていった。

 宇多天皇はその源能有に名誉職を与える代わりに実権を奪っていった。

 それに対し、能有は何ら不平を述べていない。なぜなら自分の死期を悟ったのではないかと思われるからである。

 それまでの時平や道真をこき使うような人間はもう居なかった。

 そこにいたのは病床にあって命消える瞬間まで引き継ぎを続ける人間であった。それは自分から何かをするのではなく、誰かに命じて何かをさせようという姿勢である。

 まず、寛平七(八九五)年には人事案を宇多天皇に対して提出している。そこに記されているのは名目と実権の乖離を解消する人事案であり、位だけは高いが何もしていない人材を排除する人事案であった。

 次に、寛平八(八九六)年には平季長(たいらのすえなが)を問民苦使(もみくし)(国民生活を調査し、役人の不正を摘発する職務)に指名し、都周辺の農民の実情を調査させた。そこで郡司の財務状況を調査させ、不正があった郡司を摘発し、時には罷免し、さらには財産没収までした。

 この功績が認められ、源能有に右大臣の地位が与えられる。

 これに激怒した勢力がある。

 激怒の理由は、自分たちから地位を奪い、財産まで奪ったことであるが、それば表だって宣言できない理由である。

 その代わりの表向きの理由として、専横があった。

 かつての学者派や藤原派といった派閥は勢力を失っていた。その代わりに生じたのが世代間の対立である。

 宇多天皇のそばにあって権力を握った若年層と、それに反発する高齢層である。

 もっとも、若年層である道真より、高齢層に属する三善清行のほうが年下であるという逆転現象を伴っているので、一概に年齢によって分断することはできない。単に、平均年齢の高いほうがつまはじきにされ、若いほうが重用されているという状況である。

 これは宇多天皇にも言い分がある。高齢層にチャンスを与えていないわけではなく、若年層のほうがチャンスを生かしただけのこと。また、事態は対外戦争の危機である。無駄に議論を繰り返すだけの高齢層より、即座に行動に移す若年層のほうが役に立つのは事実であった。

 彼らとて道真の決意と行動に感服したことに違いはない。

 だが、危機を過ぎた後もなお感服が続くほどお人好しではなかった。


 その中の急先鋒となったのが三善清行である。

 「このまま能有の専横が続くことが、本朝のためになろうか。」

 「否!」

 「君側の奸と堕した道真をこのままにして良いのか。」

 「否!」

 「奴らはいかに処すべきか。」

 「打倒せよ!」

 彼らの思いはやがて実現することとなる。

 寛平九(八九七)年六月八日、源能有死亡。

 時平はその知らせを聞き慌てて屋敷に駆け寄った。

 ただ、時平が目の前にしたのは遺体となった源能有であり、その横で涙をこらえている道真であった。

 この知らせに、専横を怒っていた勢力は喜びを爆発させたが、宇多天皇はそういうわけにはいかなかった。

 宇多天皇はこれ以上の猶予などないと判断した。時平の猛反発はあったが、それよりも自分の意志を優先させることにした。

 寛平九(八九七)年七月三日、敦仁親王、元服。

 時平はそれだけを聞いていた。

 元服には若すぎるが、源能有が居なくなった現在、後継者を元服させて体勢を強固にすることはおかしな事ではない。

 そのため、皇位継承者の元服ということでの特別な思いはあったが、それ以外は何も変わらぬ一日だと思っていた。

 だが、宇多天皇はその席上で、自身が退位し、敦仁親王が次期天皇となることを唐突に宣言した。

 「春宮大夫藤原朝臣(=時平)、権大夫菅原朝臣(=道真)、少主未だ長ぜざるの間、一日万機の政(まつりごと)奏すべき、請うべきのこと、宣すべし、行ふべし」

 しかも、時平と道真を引き続き重用するよう強く敦仁親王に求め、この二名にのみ官奏執奏の特権を許したのである。これが「内覧」の始まりである。

 時平は戸惑いを隠せなかった。

 これまで誰も受けたことのない特権であることは嬉しくもあるが、退位を宇多天皇が決断したことは混乱である。

 自分に相談することなく退位したことは、宇多天皇、いや、もう退位したのだから宇多上皇にとっての自分の存在価値はその程度まで下がったのだということであって、それ自体は驚きでもない。

 そのことはもうとっくに理解していた。口うるさい側近を務めてはいるが、それが自分の職務であるし、その権威の出所も亡き父基経の威光であって自分が底辺からはい上がって手にした地位ではない。

 つまり、宇多上皇にとっての自分は親の七光りだけを頼りにした目障りな存在なのである。それが人生最大の決断をしようとしているときに頼ることはありえない。あるとすれば、既に自分の中で結論を決めていた相談にyesと答えると明らかなときだけである。

 今回はそうではなかった。

 天皇退位は決めていた。しかし、時平はそれに猛反対を示していた。

 理由は一つ。対外的な危機である。

 新羅との関係は軍勢を追い返したというだけで、正式な講和を結んだわけではなく、いつ日本に対する侵略を再開するかわからない。

 唐の混乱は年々悪化し、滅亡は時間の問題である。

 渤海との関係は良好を築いているものの、渤海もまた衰亡の道を歩んでいることは交易品から見て容易に推測できた。

 これまでの新羅を包囲する外交関係は成り立たないと判断してもおかしくはない。

 その状況で、いかに元服を迎えていても、年少の天皇で国難を乗り越えられるであろうか。


 「逃げた定省を追いかけることもあるまい。それに、奴は新羅の侵略に対し何もしてはおらぬではないか。実際に動いたのは伯父君であり、道真であり、時平であろう。」

 「帝はまだ一三歳。心許ないのです。」

 「心許ないのは伯父君が居なくなったからではないのか。」

 それに対し時平は何も答えなかった。

 「時平が一三歳の時にはもう橘広相の教えを受けていたではないか。時平の歳から見れば年若いかもしれないが、当の本人はそんなこと考えてはいないものだ。」

 陽成上皇は新に帝位に就くことになった敦仁親王、いや、これからは天皇となった以上醍醐天皇と呼ぶべき天皇の気持ちがわかった。

 自分も何もわからぬまま帝位に就き、何かをしようとして失敗し、帝位を追われた。

 ただ、自分が帝位に就いたのは父である清和天皇の死という事情があったのに対し、醍醐天皇は父が存命であるという違いがある。

 「帝として定省より優れた才を持っているのなら、これはむしろ願ったり叶ったりではないか。」

 醍醐天皇の政権作りは着々と進められた。時平と道真の二名を側近とし、摂政も関白も太政大臣も置かない天皇親政という路線は継承するのが大前提である。

 寛平九(八九七)年七月七日、藤原時平、蔵人所別当を兼任。

 寛平九(八九七)年七月一三日、醍醐天皇即位。宇多天皇は宇多上皇となる。

 同日、菅原道真、正三位に昇叙し、権大納言・右近衛大将如元。

 同日、藤原時平、正三位に昇格。

 さて、時平と道真の二人を正三位にしたのであるが、貴族のピラミッドで言うとそれは頂点ではない。

 頂点は正一位であり、太政大臣を務めるのが習わしである。ただし、これは常設ではなく、臨時の職務という意味合いが強い。

 そのため、常設のトップとなると左大臣であり、それに次ぐのが右大臣となる。

 ところが、この地位は空席であった。

 寛平七(八九五)年八月二五日、左大臣源融死去。左大臣が空位となる。

 寛平八(八九六)年、藤原良世が左大臣に任命されるが、同日、高齢を理由に辞退。

 結果、左大臣が誰もいないという状態となる。

 左大臣が空席の場合は右大臣がトップと言うことになるが、その右大臣も源能有の死により空席となっていた。

 つまり、左右大臣が空席という異常事態が放置されていたのである。

 さて、新天皇の即位には人事刷新がつきものである。しかも、側近とされた時平や道真の地位は未だ三位であり、それより高位の者はいる。

 つまり、大臣になるチャンスと彼らは見たのである。

 だが、それはなかった。

 いつまで経っても大臣は空席のまま、何ら新しい人事が出てこない。

 彼らはついにしびれを切らした。

 「奸臣基経は政務を拒否し、おそれおおくも帝を恫喝することで地位を築いた。今度は我々が奴ら奸臣どもにしでかしてやるのです!」

 「おおーっ!」

 寛平九(八九七)年八月、権大納言源光(みなもとのひかる)、中納言藤原国経(くにつね)、中納言藤原高藤(たかふじ)の三名が政務をボイコットすると宣言。年齢は順に、五三歳、七〇歳、六三歳と高齢である。

 ボイコットの嵐はさらに下級貴族にもおよび、ピーク時には総員の三分の一が欠勤するという有様となった。

 世間は彼らの行動を支持しなかった。基経の猿真似と笑ったのである。

 政務ボイコットは迷惑ではあったが、国政に支障を与えることはなかった。

 だが、新羅からもたらされた一つの知らせは国政に支障を与えるに等しかった。

 「甄萱(キョンフォン)が、武珍州(現在の光州(クワンジュ))、完山州(現在の全州(チョンジュ))を完全に制圧したようです。新羅の南西部はもはや新羅の統治の及ばぬ地域となったようで、場合によっては、新羅という国家が真二つに分かれかねません。」

 「百済の復活は間近ですか。」

 「復活なだけならまだいいですが、両国が戦乱となって、戦乱を逃れた民衆が日本にやってくることはあり得ます。それがただの避難民ならまだ良いのですが、四年前のように軍勢となると、本朝創始以来最大の被災となるおそれがあります。」

 「そうですか。」

 「それともう一つよろしくない知らせが。」

 「とおっしゃいますと。」

 「一方で、唐の様子は全く伝わってこない有様。朱全忠と李克用との争いは朱全忠が優勢なようですがいずれの勢力も朱全忠と李克用という個人の能力に立脚している。つまり、この二人の命に何かあるとすればその瞬間に軍勢は瓦解します。極端なことを言えば一度の暗殺で全てが反転するということです。」

 「もしそれが実現したらどうなりますか。」

 「残党狩りでしょう。それを逃れるために舟に乗って日本にやってくることもあり得ます。もし、この二つが同時に起こったら、この国は……」

 道真はその後の言葉を濁した。

 「では、いかにすればよろしいのでしょうか。」

 「太宰府に権力を集めることです。太宰府から都まで早くても十日、そして都からの指令が届くのにもやはり十日。往復二十日の時間を節約できるかどうかは国家の命運を左右するでしょう。その節約に成功し、太宰府独自の軍事力を作り出せば素早い対処が可能です。そうすればとりあえず九州で軍勢を抑えることはできる。あとは、その知らせを受けた都の指揮する軍勢が第二陣として渡り合うことができれば勝機はあります。可能なら、私が太宰府に行くのが最良でしょうが。」

 「道真殿がですか?」

 「私は唐の言葉を話せます。新羅の者とも筆で会話できます。それに、こう言うと自尊になりますが、どうやら私は新羅追討を成功させた武人と見られているようです。その人間が太宰府に降り立ったとなれば、与える影響は軽くはないはずです。」

 それは何か覚悟を決めたかのような表情であった。


 「時に、定省はどうした?」

 「帝位を退いても影響力を持とうと、さかんに道真殿と接触しようとしているようですが、どうやら国内の危機という認識に欠けているようです。」

 「天皇でなくなればという幻影に惑わされたようだな。上皇になることと、自分の空想の実現とが一致するわけではないと悟ってくれればいいのだが。」

 上皇になった宇多上皇は陽成上皇と違った。

 陽成上皇のように影響力を与える要素を持ち合わせていなかった。

 宇多上皇は当初、道真を通じて影響力を行使できると考えていたようであるが、道真の前に立ちはだかっている現実、すなわち、緊張を漂わせる対外関係という現実の前には無力であった。

 宇多上皇は次第に政務に対する意欲を失っていった。

 その代わりに意欲を見せるようになったのが心の世界、すなわち、宗教である。

 宇多上皇は亡き父光孝天皇が建立を命じ、仁和四(八八八)年に完成した仁和寺(にんなじ)に足を運ぶことが多くなった。

 「政から離れ、仏門に専念するということか。」

 「事はそう簡単に運ぶでしょうか。」

 「何か気になるところでもあるのか?」

 「寺院の勢力を身につけようとしているのではないでしょうか。寺院の財を全て集めれば藤原を凌駕します。」

 「それを望むなら東大寺か延暦寺だろう。いかに自身の父の造営とはいえ、野望のために無名の新興寺院に身を寄せるのは納得がいかない。」

 時平はこのとき漠然とした不安を抱いていた。

 寺院の財力への不安をタイトルに掲げて陽成上皇に打ち明けたが、そうではないもっと違った不安である。

 ただ、言葉にするのはうまくいかず、そのため、漠然とした不安ということは伝えられても、その内容は陽成上皇に伝えられずにいた。

 現在、元号というものは天皇の死去で終わり、新天皇の即位で新しく始まるものとなっている。

 だが、それは明治以後の決まりであり、この時代はそうではなかった。

 天皇が変わらなくても縁起を担ぐために元号を変えることがあったし、天皇が変わっても元号が変わらないことも珍しくなかった。

 宇多天皇の定めた元号である「寛平」は、醍醐天皇の即位後もそのまま継承され、元号が変わったのは醍醐天皇即位の一年後、寛平十(八九八)年四月二六日である。ただし、これには異説があるため断言はできない。確かなのは、寛平十年の途中で新元号である「昌泰(しょうたい)」に改元されたため、西暦八九八年は、寛平十年と昌泰元年の二つに該当するということである。


 さて、この昌泰元年であるが、表面上は穏やかな一年となっていた。

 ボイコットしていた貴族達は、ボイコットの成果が得られないことを悟ってか、それとも、いち早く裏切って政務に携わったほうが出世に近いと判断したからか、一人、また一人と、何事もなかったかのように宮中に戻ってきた。

 そして、彼らの期待は裏切られた。人事が全く動かなかったのである。ボイコットは全くの無駄であった。

 この年の人事発表は一つしかない。一〇月八日に布告された、時平の東大寺俗別当就任である。

 東大寺というのは単なる寺院ではない。全国に散らばる国分寺を束ねる寺院であり、この時代、僧になろうとする者は東大寺で式を挙げるのが習わしであった。

 時平はその東大寺の、出家しない俗世間の立場でのトップに立ったということである。

 これは時平が望んでのものであった。

 時平の抱いた漠然とした不安。

 これを解消する方法はいくつかあるが、不安の根本を押さえ込むことは解消方法としてかなり優れたものである。

 と同時に、東大寺の権力を時平が握ったことで、僧侶の数をコントロールする意図もあった。

 この時代、税を課されることがなかったのは、有力者、亡命者、僧侶の三者である。

 亡命者は別として、有力者の庇護を受けらなかった者が、税を逃れるために僧侶になることを選ぶのはよく見られた。

 時平はその制御を意図していたのである。

 しかし、これは寺院勢力を敵に回すことになる。

 自分たちの勢力を弱めさせられるのであるからそれは当然であろう。だが、このときはまだ表だった不満の噴出とはなっていなかった。

 左右の大臣が空席であることは高齢層に期待を抱かせるものではあったが、その期待は奪われた。

 昌泰二(八九九)年二月一四日。

 菅原道真、右大臣に就任。

 藤原時平、左大臣に就任。

 名実ともにこの二人が貴族の頂点に立った

 三位の人間が二位に昇進しないまま二位に相応する役職に就く。これは頻繁に観られる人事であり何ら珍しいことではない。

 だが、二人の三位の人間が、左右の大臣に同時に就くというのは異例であり、世間はその人事を大抜擢と見た。

 この知らせを受けた貴族の動きは真っ二つに分かれた。一つは時平や道真のもとに参じる者、もう一つはあくまでも対立姿勢を崩さない者である。

 後者は二人のうち道真にターゲットを絞った攻撃を始めた。時平は父や祖父の後継者として認識されている以上、若すぎるところはあったが遅かれ早かれここまで上り詰めるのは当然と思われていたのに対し、道真は有名な学者家系ではあっても、そこまで出世した者はいないという家柄である。

 嫉妬というのは、自分にはどうにもならないことに対しては湧き出てこない。

 どんなに努力をしようと、太政大臣の後継者は実の子である時平であって自分ではなく、その血筋は変えることができない。つまり、諦めである。

 しかし、道真は違う。学問の成績は抜群でも、家柄としては自分たちと大差ない。

 その大差ない道真が絶大な権力を手にし、自分たちの上に立っている。

 上手くすれば自分がそこにいるはずだったのに。

 これが嫉妬の理由である。

 だが、嫉妬をそのまま攻撃に出すには弱すぎた。

 世間は彼らを、単に不平不満を騒ぎ立てるだけの集団としか見なかったのである。

 また、攻撃しようにも攻撃すべき場所がなかった。収賄とか、スキャンダルとか、そういった攻撃材料が道真には見あたらなかったのである。

 これで醍醐天皇の政体は完成したと見た人は多かった。

 宇多上皇もその一人である。

 東大寺俗別当である時平の仕事の中には、出家を希望する者の許可の付与も含まれる。その出家が脱税のためでは無いという審査の最終決定権は時平にあった。

 その時平の元に舞い込んできた知らせ、それが宇多上皇からの出家の願いである。

 時平は我が目を疑い、普段は書類の上でしかしない審査を、対面で行うこととした。

 「誠にございますか。」

 時平のこの問いに宇多上皇は無言で頷いた。

 「仏門に入られるとの知らせを帝がお聞きなさりますと、いかほどの衝撃を受けましょうか。」

 「並の親子なら出家する父への問いもあろうが、帝ともあろう者にそれは無用。」

 「しかし……」

 「時平、いや、左大臣殿。拙僧のわがままを聞いてくれぬか。」

 「そ、そのような言葉は困ります。一国の君子たるもの……」

 「目の前にいるのは一人の僧。俗世間のことなど意味はない。」

 そこにいるのは、ついこの間まで天皇として国のトップに立っていた存在ではなく、出家を願う一人の人間だった。

 一個人としてならば宇多上皇の審査に問題となるようなところはなかった。だが、上皇であるという一点が問題となった。

 時平は判断を保留し、道真を交えての議論となった。

 結論には時間を要したが、最後は宇多上皇の意志が受け入れられた。

 一一月、東大寺で宇多上皇は受戒(僧侶になること)。

 上皇の出家は過去にも例があるが、「法皇」の誕生はこのときである。

 あくまでも個人の意志とするか、それとも、策略が裏にあるのかはわからない。ただし、宇多法皇の出家はかなりの波紋を投げかけたことは事実である。

 そして、この波紋をもっとも強く受けたのが道真であった。

 道真が右大臣辞任を示唆したのである。

 「なぜそのようなことを。」

 時平は慌てて道真の元に駆けつけた。

 「新羅や唐の情勢は時平殿もご存じであろう。」

 「それは無論。しかし、ここ数年は平穏ではございませんか。」

 「中の争いが続く間、外からは平穏だと感じるものです。その平穏は、中の争いが片づいた瞬間に破られるもの。」

 「ですが、道真殿が九州へ赴く義務はございません。」

 「九州に赴く義務はなくても、私にはこの国を守る義務がある。それが漢籍を学んだ者の定め。単に唐の書を読むことだけが漢籍を学ぶことではなく、それによって得た他国と渡り合う力をもって国に奉仕するのが私の仕事です。」

 「……、それはその通りです。しかし、それと右大臣辞任とは関係ございません。どうしても九州に行くというなら右大臣のまま行けばよいのではないですか。」

 「太宰府を指揮できるのは、右大臣ではなく太宰帥(だざいのそち)。私が右大臣でいる間は太宰帥(だざいのそち)にはなれぬのです。時平殿、私は他の貴族に嫌われています。そして、私を助けてくれていた方は出家し寺院に入られました。今まではその方のことを考えて留まることを決心していましたが、もはや、それはございません。ならば、嫌われている私が右大臣を辞すのは、国の喜びではないでしょうか。」

 「大きな損失です。」

 「いえ、損失ではありません。私ではない者でも右大臣はできます。しかし、太宰府を指揮することで他国に圧力を与えられるのは私だけです。これは傲慢ととっていただいて構いません。」

 「……」

 時平は道真の右大臣辞任の意志は固いと察した。

 だが、今ここで道真を欠いたときの政権はイメージできなかった。

 時平にできることは、決意を崩すことはできないにしても、何とかして先延ばしすることだけであった。


 翌々年、昌泰四(九〇一)年は辛酉(しんゆう)の年に当たる。

 辛酉の年は、昔から波乱の起こる年とされていた。

 そこにつけいったのが三善清行である。

 「能有亡き後、逆賊道真は専横を恣にし、藤原に取って代わって栄華を極めようとしている。これは許されることか!」

 「否!」

 「来年は辛酉年に当たり、古来より、内外大いに乱れるとの謂われ。この乱れを生むのは誰か!」

 「逆賊道真なり!」

 「我らのなし得ることは何か!」

 「逆賊道真を追放せよ!」

 三善清行がそうした反道真の首謀者となりつつあることは時平にも察知できていたし、道真本人の耳にも届いていた。

 ただ、目障りではあるが、特に何かするではなく、国政に与える影響は皆無。

 言論の自由が保障されている現在に限らず、自由が制限されている時代であろうと、国家元首ではない人間に対する反感を募らせているだけでは取り締まりの対象とならない。

 時平はそうした三善清行の態度を持て余していた。

 「三善清行は何をしたいのかわかりません。」

 それに明確な答えを示したのが陽成上皇である。

 「奴は広相の生まれ変わりだ。文句ばかりで何もせず、他人を批判している自分を偉いと思いこんでいる。百済も復活したが、学者派も復活したということだ。」

 「厄介ですね。」

 「それでも、奴らは本朝のために何かしようとしている。方法は間違っているがな。」

 「それは手厳しい言葉。」

 「では言うが、何かの役に立っているか? 同じ学者出身でも、身を挺して国を救おうとしている道真と、他人を貶していい気になっている三善清行と、どちらに価値がある。」

 時平は宮中で三善清行と顔を合わせることがあるが、特に挨拶するでなく、陰気な面持ちを漂わせながら独り言をつぶやいているだけの老け顔の老人、老人と言っても道真より二歳年下なのであるが、その陰気な学者のことを時平は特に意識していなかった。

 宮中に毎日足を運んでいる時平ですらその程度の面識しかない。ましてや、宮中に足を運ぶなど許されない立場である陽成上皇は三善清行とほとんど面識がなかった。

 学者が陽成院を頼り、陽成院に足を運ぶことは珍しくなかったが、そこに三善清行の姿はなかった。

 おそらくではあるが、道真に対し個人的な恨みを持っている三善清行にとって、道真と接点のある人物は接触すること自体考えられないものなのであろう。

 昌泰三(九〇〇)年一〇月一一日、三善清行から道真に一枚の書状が送られた。

 『伏して見るに明年辛酉運変革に当り、凶に遭ひ禍に衡たる。伏して惟るに尊閤は翰林より挺して槐位まで超昇せらる。伏して冀ふらくはその止足を知り……』

 難しく書いてあるが、要するに、

 『来年は縁起でもない一年だし、あんたは大した身分でもないのに出世しすぎたから、辞めてしまえ』

 という内容である。

 現在も、政治家に向けて送られる手紙やEメールの中には、その人の存在価値の全てを否定するような内容のものがあるが、それと同じである。

 ただ、三善清行の手紙は,差出人が明確に示されている上で公表されている。

 このときの三善清行の肩書きは従五位上の文章博士(もんじょうはかせ)という歴とした公人である。

 その公人が右大臣を堂々と批判しその辞職を要求したことは大問題であった。

 「何たることか!」

 その手紙を知った時平は激怒し、三善清行を逮捕しようとさえした。

 だが、無礼ではあるものの法を逸脱しているわけではなかった。しかも、内容自体は文章博士という職務によって知り得た知識に基づく提案であった。

 つまり、民事裁判に掛けることは可能でも、刑事裁判は不可能な内容であった。

 一方、手紙を突きつけられた当の本人である道真は涼しげな顔をしていた。

 「道真殿は悔しくないのですか!」

 「それが三善清行という人間なのです。知性は書により得ることはできても、品性は得ることができません。それに、三善清行は私の弟子にも当たるのです。弟子の不始末は師の責任。私の不徳ですよ。」

 「しかし……」

 「それに私は喜んでいるのですよ。これで正々堂々と右大臣を辞職できるのです。」

 「!」

 「何という顔をなさる。私は前から太宰府に行くべきだと考えていました。ですが、この右大臣という職務が邪魔をしてできませんでした。今は幸いにして外国(とつくに)との関係が安定しておりますが、いつその関係が崩れるかわかりません。崩れたとあってはこのような貶しあいなどで遊んでいる余裕はなくなります。」

 時平はそこに道真の誇りと強烈な自信を感じ取った。

 昌泰四(九〇一)年一月七日、菅原道真、従二位に昇格。

 同日、藤原時平、従二位に昇格。

 そして……


 昌泰四(九〇一)年一月二五日、菅原道真の右大臣辞任を受理。同時に、太宰権帥への就任を発表。

 空席となる右大臣には源光(みなもとのひかる)が就任すると発表された。

 この知らせを聞いた宇多方法は裸足で宮中に駆けつけた。

 「なぜだ! なぜ道真が!」

 だが、宇多法王は宮中に入ることを許されなかった。

 「なぜだめなのか!」

 「ここより先は、上皇であろうと神であろうと、帝の認めた者しか立ち入ることができません!」

 宇多法皇は思い出した。

 かつて陽成上皇に同じことを言って突き放したことを。

 入り口に立ちはだかった藤原菅根(すがね)は道真によって取り立てられて蔵人頭になっている。その藤原菅根が宇多法皇の前に立ちはだかっていることに宇多法皇は困惑を見せた。

 「この恩知らずが!」

 「どのように仰られても、こればかりはなりませぬ。私を罵倒して気が済むなら心行くまで罵倒ください。」

 「くっ……」

 その宇多法皇の困惑に対処したのは、宇多法皇の駆け寄りを知った時平であった。

 時平は走って宇多法皇の元へとやってきた。

 「時平、貴様何をしたのかわかっておるのか。」

 宇多法皇は時平の胸ぐらを掴んだ。

 藤原菅根が間に割って入らなければ暴力沙汰になるところであった。

 「法皇様こそわかっていただけないのですか! 道真殿がどのような思いで太宰府に赴くか。」

 「赴くだ? これでは追放ではないか!」

 時平から引き離されたものの、宇多法皇は思いつくまま時平を罵倒し続けた。

 時平は涙を浮かべていた。

 「あなたは、あなたという人は、どこまで逃げ回れば気が済むのですか……、外国(とつくに)から攻められ、何もできずにいた法皇様に代わり、この国を守ったのはどなたであったか。いま、いつ攻め込まれるかわからない今、道真殿がどのような決意で太宰府に赴くか……」

 それを聞いた宇多法皇は、何も言わずその場に立ち尽くした。

 「道真殿は命を懸けるのです。この国を守るために。ところが、その国にいるのが、他人を貶していれば偉い気持ちになれる人たちと、そして、逃げ回っているあなたと……。道真殿が守ろうとしているのがこんな人たちだなんて、道真殿が不憫すぎます……」

 道真の太宰府行きを聞いた三善清行は、右大臣辞任という願いを叶えたにも関わらず、怒り心頭に達していた。

 三善清行とて無能ではない。

 道真が右大臣を辞任する代わりに得たものに怒ったのである。

 太宰権帥(だざいごんのそち)。

 太宰府のトップは本来太宰帥(だざいのそち)であり、その地位は中納言、下手をすれば大納言に匹敵する、かなりの高位である。

 ところが、道真が就任したのは太宰権帥。単なる太宰帥ではなく、「権」の字が加わっている。

 これは、本来ならもっと地位の高い人間なのだが、あえてその地位の職務に就くということを示す。つまり、ただでさえ大納言に匹敵する職務である太宰帥(だざいのそち)のさらに上となる。

 大納言より上の職務は右大臣と左大臣しかない。

 何のことはない。

 右大臣を辞職しながら、右大臣の権威は手放さずに太宰府のトップに就いたということである。

 それを知ったから三善清行は怒ったのである。

 三善清行の願いは道真の失脚であったのに、失脚どころか出世と考えられなくもない栄誉の獲得であった。

 この頃から三善清行は醍醐天皇に働きかけを行うことが多くなった。文章博士として醍醐天皇に学問を教えるという立場を利用してである。

 もっともこれは道真が太宰府に行くこととなったからという理由もある。それまでは道真が醍醐天皇の教師役であったのだが、九州へ行くとなるとそれは続けられない。

 その後任に三善清行が就いたのである。

 時平はそれに反対したが、道真の学者としての経歴を踏襲しているのは三善清行一人しかいないという実状を目の当たりにしてはどうにもならなかった。

 三善清行は学問を教える場でさかんに道真の九州行きは左遷であり追放であることを宣言するよう醍醐天皇に迫ったが、時平はそれに最後まで反発した。

 そこで、三善清行は公文書改竄まで実行した。

 道真は帝位纂奪の企みを抱いたため追放することとしたという布告である。

 時平は即時にこれを否定。道真の太宰権帥就任は本人の意思であり、同時に、海外との戦争を未然に防ぐための国家的戦略であるとした。

 ところが、世間は道真が追放されたと思いこんでしまったのである。

 そしてそれは、藤原氏が勢力を広げるのに道真が障害となったから、藤原時平が菅原道真を追放したというようにイメージされてしまった。

 そして、道真は悲劇のヒーローと見られるようになった。

 三善清行の野望は、半分は達成され、半分は失敗した。

 道真が追放されたというイメージの構築には成功したが、悪が倒されたというイメージの構築には失敗したのである。

 そして、反発を隠せずにいる時平と三善清行が、世間の噂の中ではヒーロー道真を追放した悪の首領とその幹部という役割にさせられたのである。

 道真が太宰府に向かったのは二月一日。その当時はまだ噂が誕生していない。

 しかし、道真が太宰府に着いたときにはもう、その噂が九州にまで飛んでいた。

 キャリアの一歩であると同時に、南方からの侵略に対処するためとして土佐に渡った、道真の息子の菅原高視(たかみ)は、父と一緒に追放されたと噂された。実際、太宰府では道真だけではなく高視の来訪に向けた準備をしていたほどである。

 また、日本海沿岸の警備強化のため出雲権守に就任した源善(みなもとのよし)は、道真の一派だったから出雲へ追放されたと噂された。

 だが、道真はそうした噂に左右されることなく自らの使命を果たし続けた。

 新羅や唐に使者や商人を派遣し、現地の様子を調べさせた。

 渤海との交流も一手に引き受け、関係が途絶えないようにした。

 太宰府のトップなのだから太宰府のすぐ近くに邸宅を建てても誰も文句は言わなかったであろうに、道真は雨漏りのする既設の宿舎に寝泊まりした。道真が新たに用意させたのは、弓道のための的ぐらいなものである。太宰府の武士達は、自分たちよりも弓矢に長けた道真の腕前に感心した。

 食べるものも用意された物を食すのみで、それまでの太宰帥なら間違いなく用意させた九州ならではの山海の珍味とは無縁であった。

 都との連絡は欠かさず、醍醐天皇や時平との手紙のやりとりはほぼ毎日行なわれた。そこには九州の地でつかんだ最新の情報が常に記されていた。

 都から離れたために手に入れられない書物は、陽成上皇に頼んで送ってもらっていた。だが、何よりも楽しみであった読書の時間を削って政務にあたるため、読まずにいる本がたまる一方になった。

 ただ、道真から宇多法皇に宛てられた手紙は一通もなかった。宇多法皇も太宰府に渡った道真とは連絡を取ろうとしなくなった。

 太宰府につとめる役人達は昼も夜もなく働き続け、ほんの少し休みがあれば、戦うために弓矢を扱って自身を鍛える道真を信頼するようになっていた。ついこの間まで右大臣として都の中心にいた人物が、自らの意志で太宰府にやってきて、それまでは自分たちが誰からも評価されずにやってきた他国との交流を率先してやっていること、そして、それまでのトップと違って、自分自身が前線に立つ覚悟を絶やさずにいることに感激した。


 道真の居なくなった都では、左大臣時平が中心となった政権が確立された。

 それまでにも政治に力を及ぼしたことはあるが、オフィシャルな権力を手にしての執政はこれが始めてである。

 時平が最初に行なったこと、それは、奴隷解放宣言である。

 律令には奴婢(ぬひ)という存在が規定されている。つまり、奴隷である。

 時平はその規定を廃止した。その代わりに、一般人と同じ義務を課し、同じ権利を与えたのである。

 これは画期的なことであった。

 なぜ時平が奴隷解放宣言をしたのかははっきりとはわからない。

 奴婢(ぬひ)に対しては少しの税しか課されないため、税収を増やす手段として奴婢(ぬひ)にも同じ義務を課したのではないかという考えもある。それはそれで納得感がある。

 また、これでは商売にならないと奴隷商人は猛反発したのを受け、時平はそうした奴隷商人を遠慮せずに逮捕しただけでなく、財産没収まで行なっている。これは国家財政を少しは潤している。

 つまり、奴隷解放宣言は、徹頭徹尾、財政再建のための収入アップのための手段とも考えられる。

 だが、もっと崇高な理由なのではないかとも思う。

 若かりし頃の時平が、都や、都周辺の村々を巡ったことを忘れてはいけない。そして、そこで現状を目の当たりにしたことは容易に推測できる。

 そのときに思い浮かべたアイデアが奴隷制の否定ではなかったのであろうか。

 どんなに堪え忍んでも未来に希望がないことの空しさ。

 ただ生まれが不幸であったというだけで未来を奪われることの理不尽さ。

 時平は奴隷制度を亡くしたが、かつて奴婢と呼ばれていた人たちに特権を与えてはいない。あくまでも、一般人と同じに扱うと言うだけである。

 奴隷制を亡くしたところで、ついこの間まで差別されていた人がこれからは差別されなくなるということはない。しかし、法の上での差別はなくなった。後は自分の力次第である。これは、完璧ではないにせよ、機会の平等であり、希望の創造である。

 次に時平が手をつけたのは、自身も大量に所有している荘園問題である。

 これを整理させると発表した。

 まず、税は土地所有者に対して課せられることが確認された。これは貴族であろうと例外ではなかった。実際、時平は自分の所有する荘園の大きさに応じた税を払っている。左大臣でさえ払ったという事実を目の当たりにしては、それより格下の貴族も払わざるを得ない。

 ただし、課税対象外の存在はある。皇族と寺社である。

 だが、それに対しても時平は動いた。

 皇族と寺社は課税対象外であることが確認されたが、内膳司(律令で定められた皇室や寺社の日々の暮らしを司るところ。転じて、最低限の暮らしの基盤)の所有地以外の土地(これを御厨(みくりや)と言う)を全て没収すると宣言し、それは実行に移された。

 また、皇族や貴族がその権力を利用して新たな土地開発を行なうことと、地方豪族や有力農民が自分の所有する土地を貴族や寺社に寄付することが禁止され、違反者は厳罰に処されることとなった。これは逮捕された奴隷商人の処遇という前例が役に立った。

 さらに、田畑以外の土地、山林や河川の占有を禁止した。これも違反者には厳罰が待ちかまえていた。

 これはあくまでも荘園の整理であり、荘園制度を否定するものではない。

 しかし、二択を迫ったのである。税を払うか土地を手放すかという。

 貴族に対しては、新たに荘園を獲得することが禁止されたのであり、土地に応じた税を払うという条件で、現時点の荘園が田畑であれば所有は認められ、田畑以外の土地を手放せば罪は問われないとした。

 一方、皇族や寺社の荘園所有は禁止された。皇族は国費で養われるべき存在であり、寺社も法で認められた範囲の土地しか所有できなくなったのである。

 現在の日本では宗教法人に対し税をかけられてはいないが、時平はここに手をつけたということになる。あくまでも非課税という建前でありながら。

 これでは怒りを買わないほうがどうかしている。

 しかし、時平はその怒りを無視した。まともに対することもせず、型どおりに納税をせまり、逆らう者は遠慮せず取り締まった。

 荘園整理令のターゲットは例外なく有力者である。有力者でない者は自分たちには関係ないこととしてこの騒動を楽しんでいたが、有力者はそうはいかない。ありとあらゆる手段を利用して時平に抵抗した。

 よく使われたのが迷信である。

 ついこの間まで逆賊と呼ばれていた道真を評価し、その道真を追放したとして時平に天罰が下ると脅しをかけた。

 だが、時平はそれを笑い飛ばした。天罰が下るならとっくに死んでいなければならないのに自分はまだ生きていると言って。

 また、それに近い抵抗に呪いがあった。

 土地を奪われた寺社は時平への呪いをかけた。ときには数百人が集まって一斉に呪詛を唱えるという、傍目には不気味きわまりない光景があちこちで展開された。

 だが、これも、東大寺俗別当という時平の地位が有効に働いた。抵抗する寺社に平然と圧力をかけ、ときには出家を一切停止するという強硬手段に打って出た。

 時平は次第に宮中で孤立していったが、時平はそれを楽しんでいるかのようであった。父もそうだったのだという思いが、現在の自分の状況に対する心の支えになったのであろう。

 日々届く太宰府の道真からの報告は、ときには楽観を、またあるときには危機を抱かせるものであった。

 新羅の勢力は日々衰退し、百済だけではなく、高句麗も復活した。

 唐はもはや名目にしかすぎぬ存在となり、各地の豪族が血で血を争う内乱状態に突入した。

 渤海の衰退はこの二カ国ほどではなかったが、全盛期の勢いは乏しく、北方や西方からの侵略を受けている。

 しかし、こうした国々からの亡命者は日本にやってきてはいるものの、武装はしておらず、現在のところ戦闘状態とはなっていない。

 九州から山陰にかけての警備は向上しており、その財政基盤は時平の改革によって得られるようになったため、現在のところは問題となっていない。

 対外関係は太宰府の道真が主導しているため、対外問題については時平が頭を悩ますことはなく、太宰府のサポートを続けていれば良かった。


 ところが、こうした安心を突如乱す報告が太宰府から届いたのである。

 道真倒れる。

 全く想像していない事態であり、時平はどうすればよいかわからなくなった。

 外交を道真に任せているからこそ時平は国内問題に専念できるのである。

 その道真の命が危ういということは、単に親しい人がいなくなるというだけでは済まない、国政の危機なのである。

 時平は直ちに都中の医師を集め太宰府に派遣するよう計画したが、その間にも太宰府から届く知らせは悪化する一方であった。

 食事をとることもままならなくなっている。

 死を悟ったのが遺言をしたためた。

 意識不明になった。

 そして、

 延喜三(九〇三)年二月二五日、菅原道真、死去。

 その知らせを聞いた時平は自宅に閉じこもり、一晩中泣き続けた。

 だが、時平は国政を統べる者としていつまでも泣き崩れているわけにはいかなかった。

 直ちに太宰府に使者を派遣し、道真の外交の継続を指令する。

 だが、太宰府からの返事はNo。

 道真の外交は道真だから可能だったのであり、残された者だけでは不可能だという理由である。ただし、沿岸警備は可能であり、対馬以南の防衛に支障はないとも伝えた。

 時平はその後、出雲の源善(みなもとのよし)に命じ、可能な限りの軍船を日本海沿岸に配備するよう伝える。

 指令は直ちに実行され、山陰から玄界灘にかけての海域に日本の軍船が集結することとなった。

 道真の死を知った新羅は直ちに日本への略奪行を計画したが、復活した百済や高句麗との戦乱に加え、日本海での日本軍の配備を知り、日本への攻撃を断念した。

 これにより対外危機は一段落ついた。

 だが、これは兵士達に常の緊張を強いるものである。遅かれ早かれ破綻すると見た時平は、新たな新羅包囲網を模索する。

 復活した百済と高句麗との接触である。

 商人に扮した太宰府の役人の往来が始まった。

 状況は良くも悪くもなかった。

 少なくとも、日本に攻撃を仕掛ける可能性は見られなかったが、それは半島内で争っているからであり、朝鮮半島の平定が終わっても対日関係が平和だという保証はどこにもなかった。

 やはり道真がいないというのは外交に大きなマイナスとなる。三善清行のように漢籍を読める者はいるが、道真のように意志疎通が自由自在という者がいない。

 時平は、一寸先は闇という国際関係の中ではよくやったとするしかない。だが、道真にはかなわない。

 結果は、一応の平和である。ただし、それは緊張感の立ちこめる平和であった。

 時平は緊張の綱渡りを強いられていた。

 しかも、味方のほとんどいない状況である。

 孤独を楽しむなどもうできなくなっていた。やはり時平は道真を頼りにしていたのであり、いざとなったら道真が復帰してくれるという思いがあったから孤独を楽しめたのであるが、その道真はもう居ない。

 誰からも評価されず、しかし、結果は出し続けなければならない。

 耐えても耐えても尽きることのないプレッシャーとストレスが時平を襲った。

 ただ一人、時平の支えとなれたのが陽成上皇である。だが、二〇年近いつきあいの陽成上皇でもこのときの時平の全てを受け止めることはできなかった。

 「本来なら少しは休めと言いたいが、すまない、今のこの国は時平だけが支えなのだ。」

 二十歳を過ぎてからの陽成上皇はこの時代の日本が必要とした人材そのものであった。

 情報を集め、分析し、助言する。一時の感情に流されるのではなく、また、権威や権勢に流されるのでもなく、第三者の立場での判断は正しいものだった。そこには行動という要素がないが、行動はしたくてもできなかったという立場であり、仮に行動できるとしたらかなりの成果を上げたのではないかと思われる。

 しかし、上皇であるというその一点が陽成上皇の動きを阻んだ。

 結局、陽成上皇にできたのは、時平という無二の親友の相談役を買って出ることだけであった。時平の為した行動には時平自身の才能もあったが、陽成上皇の意向を受けてのものも決して少なくなかった。

 その結果が好転である。

 景気も良くなり、平和も実現した。

 貧しさに苦しむ人はいるが、その人達に希望を与えることはできた。

 ただ、それと時平の評判とは反比例した。

 一度築かれた悪のイメージは払拭できなかった。

 そこに訪れた道真の死。

 時平は自分の代わりがいないと考えたのではなかろうか。

 世間からのバッシングに耐えながらも日々を送ることができたのは、時平にこの責任感があったからとしか思えない。

 だが、それは時平の命をむしばむものであった。

 そのアイデアはそれを見かねた陽成上皇のサポートであった。

 これといった趣味もなく、日々政務に埋没している時平にせめてもの安らぎにでもなればと、自分が愉しみとしている和歌の世界に時平を導いた。

 和歌の世界は道真との思い出の世界でもあり、時平は陽成上皇の心遣いに感謝した。

 ただ、時平は詩歌に深い造詣を示したことがない。詠めなければ貴族失格と思われるところがあったので詠んで詠めないことはなかったが、陽成上皇のように風流の世界を愉しみとするほどのめり込むことはなかった。

 時平は道真が途中まで編纂した「新撰万葉集」のことを忘れてはいなかった。何とか完成させようと考えたのだが、編纂を進めれば進めるほど和歌が次々に出てくる。

 そこで、時平は考えた。史上初の国家事業としての和歌集編纂をするべきではないかと。これまで、国家事業として漢詩集を編纂したことはあった。しかし、和歌集が国家事業として編纂されたことはなかった。国家事業に近い和歌集としては万葉集があったが、厳密には国家事業ではない。

 時平は、著名な四名の歌人、紀貫之(きのつらゆき)、紀友則(きのとものり)、壬生忠岑(みぶのただみね)、凡河内躬恒(おおこうちのみつね)の四名に、全く新しい和歌集の編集を命じた。四人とも官位は低いが能力は高く、そして、陽成上皇のサロンに出入りすることで陽成上皇や時平に見いだされた才能であることが共通していた。

 結局、時平が和歌を愉しむというのは存在せず、和歌を愉しむ人のための事業をするということに興味が向かったのである。

 延喜五(九〇五)年四月一八日、「古今和歌集」成立。

 これはただちに当時のベストセラーとり、古今和歌集に載った和歌を暗唱できるかどうかが貴族のたしなみとなった。

 もっとも、編纂を命じた時平本人は、本としての古今和歌集を読んだものの、暗唱するほどのめり込むことはなかった。

 古今和歌集が話題になっている最中、時平は律令の改定を計画した。

 格式の制定である。

 「格」とは律令の補足をまとめたものであり、「式」とは律令の詳細を定めたものである。というと、時平が律令を尊重したかのように思われるが、実際にはその逆。律令制定以降に出された命令を整理し、律令と異なる命令があればそちらを正とし、律令のほうを死文化させるのが狙いである。

 そして、この事業の総指揮を三善清行、藤原定国(さだくに)、紀長谷雄(きのはせお)らに命じた。

 特に注目を浴びたのが三善清行である。文句ばかり言って何もしない者の代表と見られていたが、文章編集能力ならあった。

 これは時平による抜擢であると同時に、律令を金科玉条とする者への最後の一撃であった。三善清行自身は学者派と同調してはいても、橘広相のように律令を後生大事に抱え込む人間ではない。だが、三善清行の周辺には未だ律令を信奉する者が多くいた。

 その中心にいる三善清行が律令を書き換えるのである。

 これは痛手であったが、必要とされる国家事業であると認識されたか、それとも時平の権勢に黙り込んだのか、反対運動は全く現れていない。

 もっとも、編纂を命ぜられた方はたまったものではない。

 探せば探すほど新しい資料が出てくる。

 その中には死文化した資料もあったが、格はともかく式となると些細な資料であっても捨てることは許されなかった。

 格については比較的早く編纂が終わったが、それでも完成までに二年を要している。

 式にいたっては完成までに二二年を要し、さらに施行までに四〇年を要するという大事業となった。

 このとき編纂された「延喜格」は断片でしか残っておらず、それも他の資料の転記だけが頼りである。だが、「延喜式」は完全に残っている。そして、現在の我々が律令について知ることができるのも、この「延喜式」が残っているからである。

 その延喜格の成立と同年、海の向こうでは唐が滅亡した。

 朝鮮半島では新羅の衰退と、復活した高句麗、百済との三国が鼎立して争い、戦乱が続いていた。戦乱を逃れた者が年間数百人のペースで日本に亡命するのも日常の光景になっていた。

 渤海は存続していたが、西方に誕生した契丹による侵略が始まり、日本との外交が細いものになっていった。

 戦乱あふれる東アジアにあって、ただ一ヶ国、日本だけが平和を維持していた。

 道真が敷き、時平が固めた平和路線が軌道に乗りだしていた。

 ただ、その時平の寿命は残りわずかなものになっていた。

 「兄上!」

 弟の忠平がその知らせを聞いたとき、時平は既に横になっていた。

 忠平が真剣に道真の怨霊を心配したかどうかはわからない。

 「忠平か。よく来たな。」

 時平はそう話すだけでも苦労していることを忠平は悟った。

 そして、兄の命が間もなく尽きることも悟った。

 時平の最期は道真の怨霊の噂と混在して確かなものがない。

 遺言がどのようなものであったかを伝える資料もあるにはあるが、それも後世の道真の怨霊伝説に脚色されているので本当のところはどうなのかわからない。

 ひょっとしたら遺言など何も言わなかったのかも知れない。その証拠に、後継者を明確にしたわけでもなく、政権をどのように為すべきなのかも全く伝えていない。

 延喜九(九〇九)年四月四日、左大臣、藤原時平死去。享年三九歳。

 この知らせを聞いた陽成上皇は、一ヶ月以上陽成院に閉じこもり、誰とも会わなかった。

 「焼けーっ! 焼き尽くせーっ!」

 「いやーっ……」

 海からやってきたその男たちは、道真の痕跡を全て焼き回った。

 「たたりじゃ、たたりが起こるぞ!」

 「たかが虫けら一匹のたたりなど、何の恐れがあるか。」

 「何を言うか、ここはあの道真公……」

 最後まで抵抗を続けた老人も串刺しにされた。

 「道真のたたりだから焼いているのだ。」

 男は労働力となり、女は性欲処理対象となり、老人と子供、そして抵抗した者は死体となった。

 道真が都市を築いた讃岐国衙も、道真が最期を過ごした太宰府も、藤原純友(すみとも)の手によって灰となり、今は遺跡としかなっていない。

 時平の死後三〇年、関東では平将門が、瀬戸内では藤原純友(すみとも)が反乱を起こした。

 時平が認めた勢力、武士。

 単に武力を持った勢力としか認識されていなかった彼らは、中央での躍進を諦め地方へと流れてきた下流貴族と手を結ぶことで、勢力を拡大した。

 それは、国を守る武力の枠を越え、讃岐国司時代の道真が危惧していたことが現実のものとなった事を意味していた。彼らが守るもの、それは、この国ではなく、彼らの支配下にある人たちだからである。その障害になるものは何であれ、武力で排除した。

 力のある者が勢力を伸ばし、そうでない者は組み込まれるか滅ぼされる。

 この弱肉強食が都から離れた地方では日常の光景になった。

 そして、目に見えて判断できる治安の悪化と安全保障の低下。国外からの侵略に対する不安はいつの間にか消えていたが、国内の武装勢力による恐怖が民衆の心を支配するようになった。

 時代の変化が起きていること、それも良くない方向への変化が起きていると誰もが感じるようになったが、この時代の人は、社会の衰退を目の当たりにはしても、現実に立ち向かおうとはしなかった。その代わりに選んだ行動、それが現実逃避である。

 その時代の要請に応える形で宗教が、特に仏教が能力を発揮するようになる。彼らは、今の社会の混迷が道真の怨霊であることをあらゆる方法を使って宣伝した。自分たちに弾圧を加えた時平の死は道真の怨霊が原因であり、その他の良くないことも道真の怨霊のせいにした。

 救いを求めながら寺院に足を運んだ人に対しても、それが叶ったら我らが宗教の力によるものであるとし、叶わなかったら道真の怨霊のせいにした。

 そして、民衆はそれを信じた。

 この民衆の思いを武士は利用した。

 平将門は『右大臣正二位菅原朝臣霊魂』を旗印にして自分には道真の怨霊が取り憑いていると宣言し、藤原純友(すみとも)はわざと道真の痕跡を荒らし回って道真は成仏できずに暴れ回る霊と化したと言い広めた。

 それがさらに道真信仰を強いものとする。

 一度生まれた道真信仰は内乱終息後も生き残った。

 不作や雷雨、時には高齢者の老衰死ですら道真の祟りとなった。

 とにかく、良くないことは全て道真の怨霊のせいにされたのである。

 道真信仰がピークに達するのは実に死後九〇年。正暦四(九九三)年五月二〇日に道真に正一位左大臣の位が与えられ、同年一〇月二〇日には太政大臣の位が与えられる。

 もっとも、これは当時権勢をふるうようになった藤原道長を牽制するための一条天皇の策略であった可能性もある。

 時代は、外国との折衝を失って国際的に孤立しながら、独自の国風文化を花咲かせる源氏物語の時代になっていた。


- 左大臣時平 完 -

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

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