安殿親王と薬子 1.平城天皇の時代

 女の幸せは、妻となり、母となることだという人がいる。

 しかし、それは否だと私は考える。

 そしてこう考える。

 幸せとは、男であれ、女であれ、誰かに愛されることなのではないのだろうかと。

 そう考えると、藤原薬子(ふじわらのくすこ)は幸せな人生だったと思われる。


 「親王(みこ)は何処へ行かれたのか。」

 「種継殿のもとにございます。」

 「またか。」

 「よろしいではございませぬか。」

 宮中において、皇位継承者候補の一人である安殿親王(あてのみこ)が時として行方をくらませることはもはや恒例となっていた。

 行方をくらますと言ってもそこはまだ十歳の子供。行き先などたかが知れていたし、特に心配するようなところではなかったから、宮中の者は気にも止めていなかった。

 かなりの確率で、そこは藤原種継(たねつぐ)のもとである。

 安殿親王が、父である桓武天皇の信頼も厚く、新都「長岡京」建設の最高責任者である藤原種継のもとを訪問するのは、次代を担う者として歓迎されこそすれ、非難されるようなものではなかった。

 もっとも、安殿親王の目的は、国家に功労のある家臣ではなく、その子供にあった。

 「薬子。」

 「みこーっ!」

 安殿親王の姿を目にとめた少女は一目散に安殿親王のもとに駆け寄って飛びついた。

 安殿親王はこのところほぼ毎日、種継の娘である藤原薬子のもとにやってきていた。

 「薬子ね、薬子ね、みこのお嫁さんになるんだ。」

 さすがに最近はこう言われることが恥ずかしくなってきていたが、安殿親王はそれを当然のことと考えていた。薬子はいずれ安殿親王の妻になることを意識していたし、この屋敷にいる者は誰もがそれを疑っていなかった。

 物心着いた頃から安殿親王のそばには薬子がおり、二人を見守るように薬子の兄の仲成(なかなり)がいた。まるで三人の兄妹であるかのような関係は微笑ましくもあり、また、理想的な子供達の光景と映っていた。

 桓武天皇も自分の息子が自分の一番の忠臣の子と仲良く過ごすのを目を細めてにこやかに微笑みながら眺めていた。

 いずれ、仲成は安殿親王の右腕となり、薬子は安殿親王の后となるであろう。

 これならば世は安泰だと安心した。


 現在の我々は「奈良時代」「平安時代」と一言で片づけるが、この奈良時代という時代区分はわずか七〇年しかないのに対し、平安時代は四〇〇年存在する。

 それでいて、この二つの時代は対等な二つの時代として並立している。つまり、わずか七〇年しかない奈良時代が、四〇〇年続いた平安時代や、二〇〇年続いた室町時代や、二六〇年以上の江戸時代と対等に扱われるのである。

 では、なぜ七〇年しかない奈良時代が独立した時代として扱われるのか。

 この問いに、首都が奈良にあった時代だからという答えでは不充分である。

 では、充分な正解とは?

 正解は政権の交代である。

 中学あたりの教科書では単に桓武天皇による新都建設としか記されていないが、実際にはそんな単純な話ではない。

 奈良時代と平安時代では天皇家が違うのである。

 きっかけは、天武元(六七二)年の壬申の乱にある。

 天智天皇の死後、天智天皇の息子である大友皇子(おおとものみこ)と、天智天皇の弟の大海人皇子(おおあまのみこ)とが皇位を巡って争い、大海人皇子が勝利を収め天武天皇として即位した。

 その結果、皇位は天武天皇の子孫が継承するようになり、天智天皇の子孫は皇族ではあるものの皇位からは遠ざかるようになってしまったのである。

 だが、その天武天皇家の直系の血筋が途絶えてしまった。そこにいたのが天智天皇の孫であり、桓武天皇の父である白壁王である。

 白壁王はすでに六二歳という高齢であったが、天皇家の血筋を最も色濃く残していることや、天武天皇家の女性を妻としているため女系の皇位継承を図れることから皇位に就くこととなり、光仁天皇となった。

 この結果、血筋はつながってはいるものの、天皇家の交替が現実のものとなった。

 これは当時の人にとっては単に奈良から京都へ首都が移るだけの問題ではなく、国家の根幹を覆す大ニュースであった。

 だから、奈良時代は一つの時代として認識されるのである。

 ただし、この当時の人が奈良時代を認識するのはもう少し後になる。


 天武天皇家の断絶により、帝位は天智天皇家へと移った。だが、天武天皇家のもとで勢力を伸ばしていた勢力がなくなったわけではない。

 桓武天皇が新都に固執したのも、天武朝系の貴族や寺院の影響力を抑えるためであり、これからの時代は天智天皇家のものであると宣言するためである。

 その最大の協力者になっていたのが藤原種継である。

 奈良時代、藤原氏は四つに分かれ、内部ではそれぞれが勢力争いをしながら、外部に対しては藤原氏という一枚岩で臨んでいた。言うなれば、派閥同士が争いを見せてはいるが、外に対しては党としての結束を保っている自民党のようなものである。

 種継はその四つの藤原氏のうちの藤原式家の当主であり、藤原家全体のトップに君臨していた。

 桓武天皇の信任も厚く、種継は長岡京の造営の事実上の最高責任者として奮闘していたが、延暦四(七八五)年九月二三日の夜、種継が暗殺されたことが薬子の運命を翻弄させる。

 「父上ーっ!」

 父の死体にすがりついて泣き崩れる幼い兄妹の姿は、周囲にもらい泣きを誘った。

 特に、妹のかわいらしさと泣き顔との対比が見る者の心を打った。

 そして、運命は兄妹に苦悩をもたらす。

 父が全身全霊をかけて造り上げてきた新しい都「長岡京」の放棄と、さらなる新しい都「平安京」の造成である。

 種継暗殺と平安京建設の決定の裏にはドロドロとした政界や宗教界の絡んだ裏事情があると見て良い。表向きは怨霊のたたりとか凶事とかとされているが、実際のところは両天皇家派の貴族の権力争いに奈良の都の諸寺院が絡んでの結果と見るところが妥当であろう。

 実際、皇位継承者の筆頭と目されて皇太子の地位にあった早良親王(さわらしんのう・桓武天皇の弟)は、自身は天智天皇の子孫でありながら天武天皇家に接近しており、不穏分子と見なされていたため淡路島へ追放され、その途中で死去。暗殺の実行犯とされた大伴継人や佐伯高成ら十数名が死刑、また、五百枝王、藤原雄依、紀白麻呂、大伴永主など、早良親王の側近や天武朝系の貴族ら数十名が流刑となった。

 種継暗殺というテロに対する桓武天皇の毅然とした態度は天武朝系の貴族や寺院に大きな衝撃をもたらした。そして、それまではその権勢をほしいままにし、遷都に頑迷に反対していた東大寺をはじめとする奈良の都の寺院勢力が大きく後退することとなったのである。

 兄妹にとっては、父を失い、父の成してきたことが無に帰し、自分たちの生活に苦痛をもたらす出来事であったが、安殿親王にとってはメリットとなる出来事でもあった。

 すなわち、皇位継承権のライバルの脱落、そして、反対勢力の衰退である。


 藤原薬子が何年の生まれなのかを伝える資料はない。

 ただし、一つだけ言えることがある。

 それは、安殿親王より歳上ではないということ。

 安殿親王、後の平城天皇をたぶらかした悪女というイメージがあるからか、平城天皇より歳上の大人の色気を漂わせた女性とする描写がよく見られるが、それは間違いである。

 なぜなら、薬子の兄の仲成の生まれが宝亀五(七七四)年であり、これは安殿親王と同じ生年。

 つまり、どう考えても安殿親王よりは歳下であったはず。

 しかし、あまりにも歳下だと今度は薬子の妊娠と出産に不整合が生じる。

 となれば、おそらく、安殿親王より一歳か二歳下とするのが妥当であろう。


 この時代の貴族の結婚に恋愛結婚などありえない。

 恋愛という感情はあるが、結婚は恋愛の延長線上に存在するものではなく、家と家との結びつきのための手段である。

 そうなると、どんなに愛し合っているかどうかなど全く考慮されない。考慮されるのは相手の身分と立場である。

 そのとき考慮されるヒエラルキーの頂点は天皇家。それも、将来の天皇となる可能性の高い者であれば最良となる。

 その次が、より身分の高い貴族との結婚。この場合、藤原家がその頂点となる。

 種継の娘である薬子が安殿親王の妻になると主張するのを誰もおかしなことと思わなかったのは、単に幼子の戯言だと見過ごされていたからではない。種継という桓武天皇最大の忠臣の娘だから、それが当然だと見なされたのである。

 だが、もう種継は居ない。

 最も頼りにしていた種継を失った桓武天皇は、政権の安定を図る。

 安殿親王を皇太子に任命し、正式に皇位継承者であることを宣言したのである。

 そして、安殿親王の后として、種継の前に自身の最大の忠臣であった藤原百川の娘、藤原帯子を指定した。

 「何をお考えですか。」

 安殿親王は桓武天皇の言葉に唖然とした。

 藤原帯子は母の妹、すなわち叔母である。年齢的には近いとは言え、許されるようなこととは思えなかった。

 「このようなことが許されるとお思いですか。」

 「朕が許す。」

 「天が許しませぬ。」

 「許さぬのは薬子のためか。」

 父の指摘に安殿親王は何も言えなかった。

 その通りだった。

 自分は薬子を妻とすることを願っている。

 皇太子は庶民と違い、好きな人と結婚するなどできないと生まれる前から聞かされ続けていると言っても良い。だから、頭では理解しているつもりである。

 だが、本心は、自分はそうではないと信じていた。

 薬子が好きで、薬子を后とすることが願いで、それは叶うものと思っていた。


 それが叶わないと知ったのは薬子が結婚したという知らせを受け取ってからである。

 通常であれば、種継ほどの家系に生まれた女性は天皇家に嫁ぐ。だが、それは種継が存命中ならばという条件つきであり、亡き種継の娘という立場となった今ではもう望めないことである。

 故人の娘ということでは藤原百川の娘、帯子も同じではないかとなるが、帯子は父だけでなくは姉の威光もあった。

 一方、薬子にそれは望めない。父種継ただ一人が薬子の威光であり、それが故人となっては威光など期待するだけ無駄であった。

 派閥争いを繰り広げている藤原家の中で、威光を失った年端も行かぬ娘の運命は藤原家の内部に留まるのが普通である。

 その結果選ばれたのが藤原縄主(ふじわらのただぬし)。薬子の父種継とは従弟にあたり、おそらく薬子より一五歳近くは歳上のはずである。

 「そんな……」

 自分が結婚すると知ったときは喜んでいた。相手は安殿親王だと思っていたから。だが、牛車に乗せられて連れて行かれた先が宮中ではないことに驚き、夫として紹介された人物が安殿親王でないことを知って失望した。

 縄主とてそれは理解していた。皇太子妃となるべきだった少女がそうでなくなり、その相手として選ばれたのが自分だと。

 目立った実績も野望もなく、ただ平穏無事な人生を送る独身男である自分なら薬子の押しつけ先に適切なのだろう。そして、運が良ければ藤原家のための歯車になって天寿を全うできるが、運が悪ければトカゲのしっぽよろしく捨てられる。

 いまの自分は藤原家の中の負け組だと悟った。

 それでも、未だ初潮も迎えていない幼女を押しつけられた縄主はできる限りのことをしたのである。

 安殿親王を思って泣き続ける日々に潤いをもたらそうと優しく接し、貴族ですら手に入れることの難しい高価な品々を買い求め、豪華な食事を用意してなんとか薬子を喜ばそうとした。

 「薬子、唐の着物だよ。」

 「薬子、甘いお菓子だよ。」

 「薬子、きれいな絵だよ。」

 それはまるで娘をなだめる父のようであった。

 縄主は藤原一族の一員ではあるため出世レースには参加しているが、どうにもうだつの上がらぬ日々を過ごしている凡人というのが世間での評判である。

 貴族ではあっても目を見張るほどの裕福さなどなく、薬子のための浪費は決して軽くなかったはずである。

 それを知ったからか、それとも初潮を迎えたからか、それとも安殿親王と連絡が付かなくなったからか、薬子はいつしか優しき夫に惹かれるようになっていった。

 必死になって安殿親王のことを忘れようとし、歳の離れた夫のことを好きであろうと努力した。

 その結果、三人の息子と二人の娘に恵まれた。

 平凡ではあるが優しい夫と、可愛い子供達に囲まれた、慎ましやかでも幸せな暮らしを送ることを薬子は考えるようになった。

 それでも薬子はどうしても安殿親王を完全に忘れることができずにいた。

 そして、それは夫の縄主も理解していることだった。


 元はと言えば縄主の優しさが原因である。

 きっかけは、安殿親王の后、帯子妃が亡くなったことである。

 その理由は現在でもはっきりしないが、病死である可能性が高い。

 皇太子妃が空席となったという知らせを聞いたその場で、縄主は自分の娘を推すことを決めたのである。

 「宮中に入れるのでございますか。」

 「うむ。」

 薬子は夫の相談に驚きを見せた。

 嫁がせると言っても今すぐに結婚するわけではなく、その地位も正妻ではない。それも当然で、正確な記録がないためはっきりとは言えないが、このときの薬子はまだ二〇代、どんなに歳を上に考えても三十歳になったかならないかという年齢である。

 いかに結婚年齢が若いとはいえ、その年齢の女性の長女が何歳かと考えたとき、セックスに耐えうる年齢ではないことは容易に想像できる。

 それに、縄主は種継とは比べものにならない低い地位。天皇の側近でもなければ高位の大臣でもなく、自分の娘を后に差し出すのは差し出がましいとしか言いようのない地位である。自分の夫を客観的に見て、薬子はそれが不安になった。

 「まだ早すぎませんか。」

 「早いに越したことはない。それに、宮中ならいつでも会いに行けるじゃないか。」

 「そうですけど。」

 「このくらいの歳で宮中に入るのは珍しくないぞ。」

 薬子は純粋に自分の娘を心配していた。いや、安殿親王のことを忘れるために必死になってそのことを考えていたというほうが正しい。

 「実はな、はっきりしたことは言えないし、どこになるかもわからないのだが、国司として赴任することになりそうなんだ。そうなると、この家で、薬子と子供たちだけで暮らしていかなければならない。でも、宮中に入れば、近い歳の子もたくさんいるし、薬子だって宮中に入れる。」

 たしかに縄主はいつ国司になってもおかしくない地位ではあった。毎年どこの国司になるだろうかという期待と不安が脳裏を支配し、どこの国司にもなれなかったという知らせを耳にしては、安堵と失望におそわれていた。

 ただ、夫の口から国司云々といった言葉が出るのは結婚して初めてだった。

 それが本当だとすれば、縄主は生まれて初めて都を離れることとなる。遷都にあわせた移住なら経験があるが、地方への赴任はない。

 夫の赴任先に家族全員で出掛ける者も多いが、自分の子供達はそんな長旅に耐えられるような年齢ではない。

 だとすると、夫は単身赴任となる。

 「薬子や子供達を安心させるためにも、宮中がいちばんじゃないかなって思うんだ。」

 夫のその考えに、薬子はためらいながらではあるが賛成した。

 家族思いの良い夫。薬子は素直にそう思うことにした。

 無論、夫の本音は別にあることも見抜いていた。

 自分がどんなに薬子のためを思っても、薬子は自分を好きではない。薬子が好きなのは安殿親王ただ一人。

 薬子に尽くそうと、薬子に真心こめて接しようと、それはどうにもならぬこと。

 そういうとき、夫として、妻の願いを叶えてやるのは最後の優しさなのかもしれない。


 延暦二三(八〇四)年、薬子は娘とともに宮中に入った。

 藤原縄主が誰よりも先んじて自分の娘を宮中に差し出した、それも、妻と一緒に差し出したという知らせはそれなりに評判を呼んだ。良くない意味で。

 薬子に与えられた役職名は東宮宣旨。皇太子に仕える女官というのが名目であり、その職務は皇太子妃とやがてはなるであろう幼女、すなわち自分の娘の世話をすることである。

 東宮宣旨とは種継存命中ならばあり得ないような低い身分であるが、縄主の権力ではそれが限界であった。

 それでも薬子は夫の配慮に感謝した。遠くから眺めるぐらいしかできないが、少なくとも、東宮宣旨なら安殿親王の側にいられる職務である。

 一方、縄主の評判は確実に落ちていた。

 それまでの縄主は、平凡で目立たず、藤原家の一人ではあっても出世もせず、美人の嫁と可愛い子供達に囲まれた家庭人というイメージしか持たれていなかったのである。

 ところが、その嫁が宮中に入った。

 それが妻を思ってのことと考える人はおらず、自らの出世のために美人の妻を差し出したと考えるようになったのである。

 だが、それならば縄主は出世していなければならない。

 そころが、このときの縄主は何の職にも就いていない。いや、就けていなかった。

 どこの国司にもなれず、中央の役職にも就けず、位だけは貰っているが事実上の無職である。それは貴族としての縄主の限界だと考えられた。

 そして世間は縄主を笑いものにした。出世したくて妻を売ったのに出世できなかった愚か者と。

 そのため、薬子と娘一人だけが宮中に入ることとなり、縄主、そして、その他の子供たちは自宅に留まって宮中に通うようになった。いかに宮中のすぐそばに家を構える貴族であっても、これでは別居も同然である。

 宮中に入った薬子には職務に応じた部屋が用意されていた。それは特別ではなく、薬子と同じ職務にある女性ならば誰もが同じ待遇である。その部屋の大きさは貴族の娘に与えられる部屋とは思えない狭さであった。

 こうした個室が単に生活の場であるというなら何の問題もないのだが、この個室が逢い引きの場として利用されることは珍しくなく、桓武天皇はそれに頭を悩ませていたと伝えられている。

 この当時、女性が男性の前に姿を見せることなどまずあり得ないことであった。とくに、貴族の令嬢が姿を見せることは夢のまた夢であり、男性にとってその夢を叶える限られた手段が宮中に仕える女性であった。

 薬子は男性が抱く夢の全てを叶えさせてくれる女性に見えた。種継の娘という血筋、二十代でありながらそれを感じさせぬ若さ、そして、周囲の男を見とれさせる美貌。

 ある者は薬子に恋文をしたため、ある者はプレゼントを贈り、またある者は禁を犯してまで薬子の部屋に何とかして忍び込もうとして捕まった。

 とにかく、薬子は宮中のアイドルになったのである。

 そして、薬子の住まいにいかに行くかが宮中の男性にとっての関心事になった。


 安殿親王が薬子に気づくのにさほど時間はかからなかった。

 しかし、薬子のもとを安殿親王が訪ねるのは不可能だった。いつ、誰が、どのように薬子に接したかは全て監視されていた。そして、禁を犯した者には相応の制裁が待ちかまえていた。

 東宮宣旨としての薬子の役目は、数年後に皇太子妃となる娘の世話をすることである。その娘に男を近づけることは許されず、その側に仕える女官もそれは同じであった。許されている男はただ一人、安殿親王だけである。それも正式に婚姻の儀を終えた後の話であり、いかに皇太子であろうと今の安殿親王にそれは許されなかった。

 薬子が安殿親王のもとを訪ねるのはもっと不可能であった。東宮宣旨に許された行動範囲では近づくことはできても接することは許されなかった。

 ただ一つ二人が出会う方法。それは、法を犯すことである。

 月明かりに照らされた夜に、人目を忍んで。

 「お会いしとうございました。」

 「薬子。やっと……」

 夕闇に浮かぶ二つの人影が一つになるのには一日で充分だった。

 すでに安殿親王は三十路を迎え、薬子も間もなく三〇歳になろうとしている。

 だが、このときの二人はまだ十代の心のままだった。

 別の人を抱き、別の人に抱かれたことはあっても、好きな人が相手というのは初めてであった。

 これは許されざる恋だと二人とも理解していた。

 理解はしていたが、それよりも、相手を好きだと思う気持ちのほうが強かった。

 「そなたを后としたい。」

 「それはなりませぬ。それは許されぬ定めにございます。」

 「構わぬ! 薬子のためなら何であろうと!」

 「みこ……」

 これはただ一度の過ちではなかった。

 過ちは二度、三度と繰り返され、宮廷の誰もが知るものとなった。


 こともあろうに皇太子が将来妻となるべき娘の母に手を出した。

 これは大スキャンダルである。

 これを知った桓武天皇は急遽安殿親王を呼び出すが、安殿親王はこの呼び出しを拒否。それどころか、薬子との関係を公のものとして認めてもらいたいとの願いを届け出る。

 桓武天皇はこれに激怒する。

 それまでは、自分の忠臣であった種継の娘と甘く見ていたが、今となっては皇太子をたぶらかす悪女としか思えなくなっていた。

 桓武天皇は、薬子の宮廷追放を決定する。

 安殿親王は必死の抵抗を見せるが薬子の追放を覆すことはできなかった。

 このとき、追放された薬子がどこへ行ったのかを伝える資料はない。縄主のところに戻ったのかも知れないし、どこか別のところに幽閉されていたのかも知れない。

 何れにせよ、安殿親王と薬子の仲はこのとき一度途切れる。

 薬子との仲を裂かれた安殿親王は自室に閉じこもるようになり、皇太子としての職務を遂行しなくなった。

 これは桓武天皇にとって予想外であったとするしかない。

 少なくとも、薬子と逢瀬を重ねることと皇太子としての職務遂行とは何の関連性もなかった。真面目に皇太子としての職務を遂行しているし、皇太子としての安殿親王に不満を挙げる者など誰もいなかったのである。

 薬子と会っている時間は夜。これは完全なプライベートタイムであり、睡眠を削っているだけであって、政務に支障を来すような事などしていない。

 桓武天皇の考えは、薬子と引き離すことで安殿親王はよりいっそうまじめに皇太子としての職務に励むようになるであろうというものであったが、現実は真逆であった。

 薬子への思いを募らせたあげくうつろな表情が続き、睡眠時間を削らなくなった代わりに不眠に悩まされるようになった。

 原因が薬子と会えないことにあるのは誰の目にも明らかであった。にもかかわらず、桓武天皇は薬子追放に固執した。

 男をたぶらかす悪女。

 男を惑わす美貌。

 男を虜にする女心。

 薬子という女性を知れば知るほど、薬子という女性が恐ろしくなる。

 桓武天皇はそれを感じていた。


 しかし、どうして桓武天皇はそこまで薬子を憎んだのだろうか。

 現代の評価からすればこの桓武天皇の感情も理解できるが、この時点ではたかが男女関係のことに過ぎない。そこまで目くじらを立てる必要があったのだろうか。

 こう考えたときに思い浮かんだのは、種継暗殺直後の桓武天皇の態度である。

 テロに対する毅然とした態度は問題ない。問題は、テロに関係あるとされた人たちに対する処罰である。多少怪しいというだけで問答無用に追放され、ときには死刑にされた。当時の人からも現在の人からも名君とされる桓武天皇であるが、こうした行動を考えると桓武天皇の政治は恐怖政治だったのではないかと考えてしまうのである。

 こうした粛正を伴う恐怖政治は何も政治のトップに限らない。組織のトップに立つ者や、ときには組織そのものが恐怖政治を行なうというケースは歴史上いたるところに存在したし、現在でも存在する。

 そこに共通しているのは、そうした粛正を行なっている個人は悪人ではないこと。悪人どころか、善と悪で言えば善に荷担する人がこうした粛正を容赦なく行なっている。そして、人間の価値判断で善と考えられる行為や行動を行なっている人であればあるほど、粛正を容赦なく行えるようになる。

 自らを正義と考える人が許さないのは悪である。だから悪とは滅ぼさなければならない存在とする考えである。その行き着く先が、一点の曇りもない善以外は全て悪とする考え方である。

 桓武天皇はそこまでは行かなかったが、それでも、自分を善とし、自分に逆らう者は悪とすること、そして、自分が悪と考える者を排除することには躊躇しなかった。

 桓武天皇は庶民の暮らしを悪化させるようなことはしなかった。恐怖政治のターゲットはあくまでも、皇族や貴族、そして寺院勢力といったいわば特権階級だけに向けられており、その判断基準も善悪でいけば善である。

 これがもし、スターリンや毛沢東のように一般庶民の善悪をも正すようになっていたら、それは本人がいかに善人であっても大悪人と一括されて終わりであるし、後世の歴史家もできもしない空想を押しつけたと判断して終わりであるが、桓武天皇が偉いのは自分の善悪のターゲットを特権階級だけに絞ったことにある。

 警察権力の整備に心を砕いたのも治安維持のためであって言論統制のためではない。そのため、一般庶民は負担が軽くなり、安全で快適な暮らしをおくれるようになっていた。

 庶民というものは、自由と安心が保証され、生活水準が良くなれば、特権階級の間で恐怖政治が繰り広げられていても気にしないもの。だから桓武天皇は恐怖政治を行いながらも名君として賞賛されるという栄誉を手にしたと言える。

 もし、安殿親王や薬子が一般庶民であったら、例えそれが宮中のすぐそばで行なわれている情事であろうと桓武天皇は気にしなかったであろうし、気にしたとしてもその恋に苦しむ二人の若者を助けようとしたはずである。

 だが、安殿親王も薬子も庶民ではなかった。

 だから恐怖政治のターゲットになった。私はそう考える。


 延暦二四(八〇五)年七月、遣唐大使であった藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)が帰国し、大使を無事に務めた功績により従三位に叙せられた。

 帰国した葛野麻呂は宮中の様子が張りつめているのを不可解に感じ、それが天皇と皇太子の対立によるものだと知って、原因となっている薬子の元を訪れた。

 葛野麻呂がどうやって薬子の元を突き止めたのかは現在でも不明であり、また、薬子がどこにいたのかもわからない。

 しかし、この葛野麻呂が安殿親王と薬子の間を取り持つことに成功したことで、少なくとも宮中の張りつめた空気を和らげることになったのである。

 葛野麻呂がこのような行動に出た理由はわからない。

 ただ、唐に渡っていた葛野麻呂は、五〇年前、唐を混乱に導いた揚貴妃のことを良く知っていたはずである。

 そして、揚貴妃の登場以後、皇帝とその周辺の勢力が激変したことも知っていたはずである。

 遣唐大使としての役割を果たし、三位の地位を手にした葛野麻呂であるが、今のままではそれ以上の出世など厳しいものであった。

 しかし、安殿親王が皇位に就いた瞬間という希望ならある。その瞬間、安殿親王は天皇としての権威をもって薬子を手に入れるであろう。そのとき、間を取り持った恩人として自分が存在していればどうか。

 揚貴妃の周囲にいることで出世を手にした者と同じ結果を得られるのではないか。

 無論、揚貴妃の最期も、揚貴妃に取り入って出世した者の末路も葛野麻呂は知っている。しかし、知っていることと繰り返すことは同じではない。過去を知っている者は、現実の結果はともかく、過去と同じ結果を自分は繰り返さないという自信を持っていることが多く、葛野麻呂もそれは例外ではなかった。


 桓武天皇は葛野麻呂に安殿親王と薬子との連絡の仲立ちをするのをやめるよう命令したが、葛野麻呂はその命令を拒否したばかりか、薬子を自分の秘書ということにして宮中に入れたのである。

 これは三位であることの特権を利用しての行動であった。

 皇太子が一女官の元を訪れるのは問題であるが、三位の貴族の元を訪れるのは何ら問題ないことである。

 その貴族のもとに秘書としての役割を担っている女性がいることもまたおかしなことではない。特に三位としての地位のある貴族となると数十人から百人を越える部下を宮中に待機させておくこととが普通であり、その中に女性がいることは、当たり前どころか、置かなければならないと定められていること。

 藤原家の女性としては常識の範疇を越えた格下げの待遇であるが、薬子は安殿親王と堂々と逢えるということでこれを喜んで受け入れたようである。

 葛野麻呂が天皇に反旗を翻したことは桓武天皇を激怒させたが、葛野麻呂はそれを平然と聞き流した。

 それは、他の貴族の反発を招く行為ではあったが、理解される行動でもあった。

 桓武天皇は、年齢からも、体調からも、いつ何があってもおかしくない状況にあった。一方、薬子との連絡を手にした安殿親王は目に見えて体調が回復し、皇太子として申し分ない若者に戻っていた。

 この状況で、今の絶望と将来の希望を持つ者が桓武天皇と安殿親王のどちらにつくのか、答えは一つである。


 もはや桓武天皇はいつ命を亡くしてもおかしくないほど衰えていた。病が全身をむしばみ、痩せこけたその姿は見る者を悲しくさせた。

 逆に、安殿親王のもとを訪ねる貴族は日に日に増えていた。目的は一つ、安殿親王即位後の出世である。

 そして、そのときは突然訪れた。ただ、それに驚く人はいなかった。来るべき時が来たかといった感覚である。

 延暦二五(八〇六)年、五月一八日、桓武天皇崩御。

 同日、安殿親王が皇位に就く。平城天皇である。このとき、平城天皇三二歳。

 元号は延暦から大同へと改められた。

 平城天皇は即位から一時間と経たずに薬子の追放を解除する。これは誰も驚かなかった。むしろ、それを歓迎する空気も漂い、薬子は桓武天皇の恐怖政治の犠牲者であり、平城天皇はその被害者を救ったといった感覚が宮中を支配していた。

 しかし、いかに平城天皇の権力をもってしても薬子を后とすることは許されなかった。薬子はあくまでも縄主の妻であり、平城天皇の后となるのは薬子の娘なのである。

 「もう、薬子を離しとうない。」

 「主上……」

 法は許さなくても、二人の間を裂く障害はなくなった。

 平城天皇即位の夜にはもう薬子が平城天皇と一晩を過ごしている。

 これを知った貴族の中には、平城天皇が統治に大した興味を示さぬ暗愚な天皇となると考えた者もいた。

 そしてこう考えた。

 謹厳実直な桓武天皇の時代と違い、平城天皇の時代は良く言えば緩やかな、悪く言えば好き勝手なことのできる時代になると。

 しかし、それは一晩しかもたない幻想であった。


 即位の翌日、全ての貴族は耳を疑う知らせを耳にした。

 中流から下流の役人を抜擢する一方、薬子や仲成など、自分とプライベートのつきあいのある者と接触しようとした者を閑職に回すとしたのである。

 さらに、父である桓武天皇の末期、出世のために安殿親王にすり寄り、桓武天皇をないがしろにした者については、閑職では済まされず、宮中から追放するとした。

 それとは逆に、桓武天皇に忠誠を尽くし自分にすり寄らなかった貴族もいる。そして彼らこそ自分の頼りとする貴族であると平城天皇は考えた。平城天皇は彼らの地位をそのままとしたのである。

 そのため、新帝即位に伴う人事異動は目立ったものとなっていない。

 これは桓武天皇の政策の継承を宣言しただけでなく、より徹底させるということである。

 平城天皇が先帝桓武天皇に逆らったのはただ一つ、薬子の地位だけである。それ以外は何もかもが桓武天皇の政策の継承であった。

 その宣言は、新帝即位に伴う地位向上を狙っていた者を失望させたが、その代わり、平城天皇は能力の高い者の支持を獲得した。

 桓武天皇は人材を見極める力が高かった。だからこそ名君と呼ばれ信頼も厚かったのである。

 その桓武天皇が見定めた人材は、桓武天皇にすり寄って出世した人材ではなく、その能力の高さで地位をつかんだ人材である。その証拠に、桓武天皇の政策に堂々と反論しようとその地位が奪われることがなかったばかりか、むしろ桓武天皇から高い評価を受けるようになっていたのである。ただし、これには条件がある。桓武天皇が悪と判断しないことと、天武朝系ではないこと。

 天武朝系の貴族は元々追放されているか、追放されていなくても冷遇されている。平城天皇は彼らの地位をそのままにした。

 問題は、天智朝系でありながら桓武天皇の元を去り、安殿親王、すなわち平城天皇に接近しようとした者である。こうした者に共通しているのは、派閥の選択は正解でも、能力に問題有りと言わざるを得ない点である。つまり、能力が低いゆえに桓武天皇の眼鏡に適わなかった人材ということになり、平城天皇は彼らを冷たく突き放した。


 これとは少し異なるが、薬子の夫である縄主はこのとき初めて正式な職を手にした。太宰少弐、つまり、大宰府のナンバー2である。地位も権力も、このときの縄主の位からすれば順当なものであるが、これを額面通りに受け取る人はいなかった。

 ある人は薬子を手に入れるために平城天皇が邪魔になった夫を九州に追いやったのだろうと考えた。

 またある人は、縄主が妻を利用して出世したと考えた。

 このどちらも不正解とは言えないが、それだけが正解とも思えない。

 ここは、そうした個人的な感情は捨て置いて、縄主個人の能力に目を向けるべきであろう。太宰少弐になってからの縄主はこれまでの凡庸の人物といった評判を一掃する有能な官僚に変貌したのだから。

 それはおそらく、縄主の外交センスによるものであったろう。

 ここから先は空想でしかないが、これは葛野麻呂が縄主を推薦したからだという可能性が高い。無論、薬子の夫という要素があるから縄主に目をつけたのであろうが、そこで葛野麻呂は縄主の才能に気づいたのではないだろうか。

 確かに貶され見下されている。しかし、温厚な性格と敵を作らない姿勢はこのときの新羅との外交に最も必要な要素だった。

 薬子が追放されている間、縄主は薬子に何らかの形で接していた可能性が高い。妻からの愛が無くなったとはいえ、夫である以上それは当然である。

 葛野麻呂も薬子に接したのは先に記した通りである。

 このとき、葛野麻呂は縄主に接したのではないのだろうか。

 葛野麻呂は遣唐大使をつとめたほどの外交能力を持った人材である。だからというわけか、年々貧弱化していく外交に危機を持っていた。

 実際、外交力は奈良時代をピークに減少する一方であった。経済的な交流も少なくなったが、それ以上に政治的な交流が乏しくなってきていたのである。

 葛野麻呂はそれを回復する人材として縄主に目をつけたのではなかろうか。


 縄主が九州に派遣されたときの新羅との状況は次のようなものであった。

 日本と新羅との関係は奈良時代中期から険悪化していたが、宝亀一一(七八〇)年にはついに国交断絶となり、戦争の一歩手前にまで至っていた。

 その新羅との国交が回復したのがおよそ四半世紀を経た延暦二三(八〇四)年の七月、つまり、ついこの間のことである。

 この断絶期間は、桓武天皇が皇太子となり、皇位に就き、全権力を一手に握っていた時代と一致する。

 国内で絶賛されていた人物が他国との間に強硬姿勢を打ち出していたというのは珍しいことではない。なぜなら、外に敵を作ることは、国内世論を一本化し、自身の支持を強めるのに有効な手段だからである。高支持率というものはそうした結果であることも良くある話である。

 桓武天皇の時代は王朝交替から間もなくであり、国内の統一を早急に進める必要があった。そのための手段の一つとして新羅に対し強硬姿勢をとることは桓武天皇にとってメリットがあることだった。

 そのために桓武天皇は歴史の書き換えまでした。自分の母は百済王族の子孫であり、自分は百済王家の血を引いているというのである。

 この意味は、単なる家系図の創造ではない。

 自分には百済国王の王位継承権があると言っているのである。

 それは百済を滅亡させたことで統一国家として成立した新羅の存在を全否定するに等しかった。

 その上、桓武天皇は約六〇〇年前の三韓討伐まで持ち出し、新羅は百済とともに日本の属国であると主張した。これは、現状のような対立する対等な関係ではなく、新羅との関係は新羅を屈服させることによってのみ成立するという理論である。

 しかも、それを「続日本紀」に記した。

 こうなると、桓武天皇の考えは一個人の考えではなく国の公式見解となる。


 新羅にしてみれば言いがかりも甚だしい。だいいち、桓武天皇の母方の先祖が百済王族どころか百済人である証拠すらどこにもないのである。桓武天皇の母方の家系は六代前までさかのぼることが出来るが、その間に現れた全ての人物が日本の外との関連性を持っていない。それに、仮にその前に百済からやってきた人がいるとしても、六代も経てば完全に日本人である。

 ところが、桓武天皇はその言いがかりをもって新羅に強硬に接したのである。それも、言葉だけではなく軍備増強までし、その軍勢を九州に派遣していた。これはいつでも新羅を侵略できるというメッセージを発しているのと同じである。

 これを受けた新羅が日本に従うわけはなかった。

 結果は、戦争の一歩手前。

 桓武天皇は日本の国内世論をまとめることに成功したが、新羅を完全に敵に回すことにもなった。

 もっとも、これは日本だけが対立の原因ではない。新羅は、北の渤海、海を隔てた唐、そして日本、この三ヶ国に対し何れも強硬路線をとっていた。それも、ここ数十年といったレベルではない。この新羅の態度に対する反発は東アジアの至る所で起こっており、新羅は対外的孤立を深めていた。

 ところが、その新羅から日本へ毎年百人規模が渡航していたのである。また、国境を接する渤海にも新羅人の難民は多数押し寄せており、その対処は頭を悩ますものであった。これは現在の感覚で行くと経済難民であり、貧しい新羅から豊かな国外へという人の流れは、増えこそすれ止むことがなかった。

 それでも日本国内で日本人にとけ込んで普通に暮らすならばまだいい。問題は彼らが起こす犯罪にある。この時代の日本では亡命新羅人による犯罪が多発していた。窃盗、強盗、放火、そして殺人。それは個人の犯罪のときもあるが、集団で暴れ回り軍隊の出動を必要とすることすらあった。


 彼らとて最初から暴れ回ろうとして日本にやってくるのではない。しかし、これは現在でもそうだが、いかに人道的に振る舞おうと、彼らの全員を高等遊民として養える余裕がある国などない。だから、受け入れはしても何らかの形で彼ら自身が生活する手段を用意しなければならないのである。日本がとった政策は田畑を与えるからそこで生活せよというものである。ただ、それがうまくいくならいいが、不慣れな土地での耕作がスムーズに行かず、失敗する者が多かった。

 また、彼ら新羅人特有の感情もあった。日本人に対する蔑視である。自分たちは文化的にも歴史的にも優れており日本人は劣っている。だから、優れた我々は劣った日本人の上に立つ存在であり、日本では特権階級として生活できるはずという思いがあった。それなのに、日本の行なった政策は一般庶民として生活せよというもの。それは思い上がりでしかないが、彼らのプライドを傷つけるには充分であった。

 結果、農地は荒れ果て捨てられる。耕さないのだから当然である。しかし、それで生活できるほどの資産などない。だから生活するためにより安易な方法に手を出す。

 犯罪である。

 奈良時代の朝廷は新羅人が日本に逃れてくることが仁政のたまものであると盛んに宣伝していたが、庶民にとっての新羅人とは自分たちの生活を脅かす目に見える脅威であり、同情ではなく怨嗟の対象になっていた。

 桓武天皇はその日本国内の世論をそのまま外交政策として打ち出したのであり、桓武天皇は、新羅以外の国、唐や渤海との国交は行なっている。そして、唐と渤海との間の関係も良好であり、東アジアの中で唯一、新羅だけが孤立するという状況であった。

 新羅にとっては、国のメンツがかかっているから対抗するが、国民が次々と国外へ脱出しているという現状がある。それも、働き盛りの世代が率先して脱出している。それが産業の空洞化を招き、産業の空洞化が経済不振を呼び起こし、経済不振が人口の流出を生み出す。しかも、外交の孤立が軍事予算の増大を招き、経済不振にも関わらず増税せざるを得なくなっている。

 この悪循環からの脱出を新羅は模索していた。

 外交の孤立と経済不振という二重苦に苦しんだ新羅はまず、日本と渤海の国交回復を模索する。

 結果、とりあえずの国交の回復には成功。ただし、それでも緊張感は続いていた。

 縄主はこの状況で新羅との折衝の最前線にあたる大宰府にナンバー2として派遣されるのである。左遷とか、追放とかで大宰府にやってきた人間がつとまる業務ではない。


 強硬に過ぎた桓武天皇時代の外交と異なり、平城天皇の外交姿勢はやや軟化している。これは対外緊張とこの時点の軍事力をふまえれば正しかったとするしかない。

 ただし、これが平城天皇の支持率を下げるきっかけともなった。

 いつの時代もそうだが、軟弱外交と見なされる外交に国民の支持が集まることは極めて少ない。

 平城天皇にとって救いだったのは、桓武天皇の残した忠臣達の結果を重視する姿勢を期待できるということである。そのため、庶民からの反発はともかく、平城天皇の外交についての朝廷内からの反発は生じていない。

 しかし、平城天皇の理想の政治とは、桓武天皇を支えた有力貴族と協力することではなかった。

 平城天皇の理想の政治、それは、天皇親政である。

 六月(一説には五月)、平城天皇は勘解由使(かげゆし)を廃止し、新たに観察使を置くと定め、この観察使に桓武天皇に忠誠を尽くした貴族を任命した。

 勘解由使は地方に派遣させた国司の業務を監督する職務であったが、さほど地位の高いものではない。

 しかし、観察使は違う。

 地方の状況をチェックし中央に報告するという役割は勘解由使と同じだが、観察使には参議と同等の権威と権力を与えるとしたのである。そのため、複数の国司を束ねる権限を持ち、観察使には坂上田村麻呂など実績も能力も申し分のない有力貴族が名を連ねることとなった。

 観察使は当初、東山道を除く六つの道、すなわち、東海道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道といった単位に設置され、そのことから「六道観察使」とも呼ばれた。

 平均すると十カ国近くの国司の上に立つ存在となり、国司は朝廷との間に観察使というワンクッションを挟むこととなった。

 これは、平城天皇にとっては二つの効果をもたらすものであった。

 一つは地方行政の円滑化。

 観察使と国司と勘解由使の三者を貴族としての力関係で見ると、

  観察使 > 国司 > 勘解由使

 となる。


 つまり、国司は勘解由使を遙かに上回る有力貴族であるため、不正があってもその権力で勘解由使を押さえ込むことができたが、観察使はその国司をも上回る権力の貴族であるため、押さえ込むことはできない。

 それだけでなく、このとき任命された観察使は桓武天皇の忠臣という不正とは無縁の存在である。これまでは見過ごされていた不正も見逃されず取り締まられることになった結果、国司として地方に派遣される貴族は見違えるほど清廉潔白になった。いや、ならざるをえなくなった。

 そして、もう一つの理由。それは、桓武天皇に忠誠を誓ってきた有力貴族を堂々と宮中から排除できたことである。

 彼らは平城天皇が認めなければならない有能な人材であった。だが、有能な人材と自分と意見の合う人材とが一致するとは限らない。いや、理想に燃えれば燃えるほど、現実を知り尽くしている有能な人材と衝突するのは宿命である。

 その有能な人材を、活かしながらも排除したのである。

 平城天皇の計略は見事と言わざるを得ない。

 少なくとも、結果も出た上に反発も招いておらず、観察使に任命されることをこれ以上ない名誉とやりがいして歓迎したのであるのだから。

 無能な貴族は追放または蚊帳の外となり、有能な貴族は排除し、あとに残ったのは平城天皇に従う貴族と中下級の役人たちである。

 葛野麻呂の期待していた出世はさほどでもなかった。参議に就くが、葛野麻呂の位からすれば順当な地位であり、特別扱いではない。これは葛野麻呂に限らなかった。平城天皇はいかに自分の味方と判明していようと、何ら特別扱いはせずに、順当な地位を与えることに徹底していた。

 それでも葛野麻呂は何ら拒否を示さずそれに従っている。


 しかし、葛野麻呂のようにあっさりと従ったのは少数である。ほとんどの貴族はこれに反発、要するに、さらなる出世を願っていたのだが、平城天皇はそれを無視した。

 結果、宮中は殺伐とした雰囲気に覆われることとなった。

 もっとも、いくら反発を示そうと、道理は平城天皇にある。

 若造にしてやられたという意識が貴族の間に広まった。

 「主上は敵を増やしてしまわれました。」

 「敵とは相対する者。逆らうだけの存在は敵ですらない。」

 平城天皇は不敵な笑みを浮かべていた。

 薬子は平城天皇の自信に身を任せていた。

 「(私はこの方についていく、それは間違いじゃない)」

 薬子は自分で自分に言い聞かせていた。

 このときまでの平城天皇の人生を眺めて感じるのは、その強烈な自負心である。自分の行動は正しく、邪魔する者は容赦せぬという態度で終始している。この点は父に似ている。

 平城天皇の強烈な自信を構成する要素に、想い続けていた薬子をついに手に入れたからという要素はない。仮に薬子を手に入れられなかったとしても平城天皇の強烈な自負心は変わらなかったと思われる。

 もはやこれは生来のものと考えるべきであろう。

 そして、その強烈な自負心こそ、薬子を平城天皇の虜にした理由ではないかと思われる。そうでなければ、夫も子供も捨てて自分の欲望を満たすために平城天皇のもとに足を運ぶなどしなかったであろう。

 ただし、一生その自負心が続くわけではなかったが。

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

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