良房はこれに加え、もう一つの罠を用意した。
二月八日、伴善男が右少弁(うしょうべん)に任命される。弁官は太政官、いわゆる中央政府のもとで庶務や雑務を行う職務であり、右少弁はその上から六番目の地位に相当する。
中央政府に対して各省庁や地方から上げられる連絡や、中央政府から下される命令はその大部分が弁官を経由するため、弁官を務めるということはその時点の国家最高機密を含む最大級の情報が手に入ることでもある。そのため、弁官になることは出世街道の王道でもあった。
善男がこの役職に就くことに対する批判はあったが、良房は善男をこの役に就けた。何と言っても律令に詳しく有能であることには変わりはない。弁官に求められる律令の知識を考えた場合、地位を考えても善男以上の人材はいなかった。
善男は敵と考えていた良房の期待に応えた。
いかに敵でもその命令を全て無視するわけではない。弁官としての職務において必要とあれば、その命令の起点が良房であっても聞き入れ、実践するだけの度量は善男にあった。
そして、善男はやはり有能であった。
これまでの弁官とは全く違う有能な弁官が誕生したという評判も生まれた。
と同時に、政務が滞った。
善男は何であれ律令に従おうとした。それまでは律令違反であろうと咎められずにいたことが、善男が右少弁になった瞬間から一切の律令違反が認められなくなった。上にいる五人の仕事も率先して、と言えば聞こえは良いが、要は上官の分の仕事にも口出しし、上官が問題なしと判断した書類にも平気で不許可を下した。
書類の書き損じに始まり、書類の提出の手続き、書類の折りかたまでいちいち厳密に定められ、少しでも違反すると突き返す。理屈の上では善男が正しいのだろう。書き方も手続きも律令に定められているのだから、それに違反する書類は書類ではない以上、律令通りの書類になるまで再提出を繰り返させるのはおかしなことではない。理屈の上では。
だが、これでスムーズな政務が成り立つだろうか。特に一刻を争う緊急報告なのに、たった一文字の違い、それも、間違えたところで特に気にするほどでもないどうでもいい間違いを指摘してもう一度やり直せと言う人間を、敬意を持って眺めることができるだろうか。
おまけに善男は、書類を提出するときにプラスアルファを用意した者は、どんなに書類に不備があっても受理した。つまり、賄賂があれば何も言わなかったのである。一分一秒を争うときであればあるほど、賄賂は仕事をスムーズに働かせた。
善男の敵は瞬く間に増えていき、善男は宮中での孤立を深めるようになった。そして、一刻も早く善男を右少弁から解任してもらいたいとの請願が良房の元に届くようになり、また、書類の提出先を、右少弁の善男ではなく、善男の上官たち、特に弁官のトップである左大弁の正躬王に代えるようになっていた。正躬王はいろいろと評判があっても、収賄という評判はない人間であった。
善男のこうした些細なことにこだわり、私財をため込むのに熱心になる性格は喜劇と悲劇を招いた。
承和一一(八四四)年五月一六日、越前国より飢饉の連絡が届いた。善男はこの連絡も表向きは書類の不備を理由に、実際は賄賂のないことを理由に突き返そうとしたが、良房が間に割って入った。良房は書類の不備を無視し、左大弁の正躬王を通じて、直ちに施の実施を決断した。
餓死者が出るかどうかという緊急事態にあってもなお律令を貫こうとし賄賂を求める姿勢はさすがに良房を、そして仁明天皇を考えさせることとなった。
藤原緒嗣の死後空席となっていた左大臣に、右大臣の源常が昇格するという話が現実味を帯びてきた。
となると大納言の誰かが右大臣となり、中納言の誰かが大納言となるといった感じで、人事がスライドする。
善男はこれに期待するようになった。何しろ、善男本人は律令に則って真面目に職務を遂行していると思いこんでいるのだ。右少弁として充分に評価できる結果を残したのだから、より上の官位や官職に上がるのが当然だと考えたのである。
人事刷新の噂が宮中に流れ、承和一一(八四四)年七月二日、人事が発表された。現在の感覚で行くと内閣改造である。
左大臣、想像されていたとおり右大臣の源常がそのまま昇格。異例の若い左大臣だが、すでに右大臣としての経験も豊富であることから、これは誰からも異論が出なかった。
右大臣、大納言の橘氏公(うじきみ)が昇格。大方の予想は今や宮中の最大権力者である良房が右大臣に昇格するというものであっただけに、氏公の昇格は大きな話題となった。もっとも、氏公も大納言であり、かつ、大納言としての経歴も良房より長いため、大納言としての実績のトータルで右大臣を選ぶとした場合、良房ではなく氏公が右大臣に就任するのはおかしな話ではない。
ところが、この日発表された人事はこれだけだった。大納言職に空席ができたまま埋められず、その下の人事は固定された。翌日にその他の人事発表があるのではと思って待っていても、翌七月三日に発表されたのは出羽国の役人の昇進のみ。それも、八位から七位への昇格であり、貴族とは関係ない。
これは善男に少なからぬ絶望を与えた。昇格すると考えていたのに人事が固定されたままだったから。他の者だって人事凍結ではないかという慰めの言葉も善男には通用しなかった。
善男に限ったことではないが、現実ではなく理想を全面に立てて考える人間は、自分を現状以上に尊大に考え、他者より優れているがために他者と違うという意識を持つ。こういった人間は、他人と同列に扱われること自体が苦痛であり屈辱なのだ。
これをきっかけとし、善男は自身の栄誉欲を満たす手段を考え出すようになった。
簡単に言えば、上を追い落とすことである。今は大納言の空席が一つあるだけだから大きな人事異動とはなっていないが、承和の変のように大人数が宮中からいなくなる事態となれば、否応なく下の者を上に引き上げなければならなくなる。
善男はそれまで身につけてきた律令の知識を、律令の精神ではなく自分自身のために使い出すようになった。そして、ターゲットとなるべき人間に目を付けた。
正躬王(まさみおう)。正躬王はこのとき左大弁。弁官のトップであり、善男の上司にあたった。
正躬王は桓武天皇の孫の一人で、一八歳で文章生の試験に合格した早熟の天才として名を馳せていた。ただし、その後の出世は目を見張るものがない。天長六(八二九)年には三一歳で従四位下となるが、一般の貴族と比べれば早いものの早熟の天才に呼応するほどの出世ではない。承和七(八四〇)年に四二歳で参議に就任し、早熟の勢いが失せて一般の貴族並に落ち着く。承和八(八四一)年に大和国司、承和九年(八四二)年に左大弁になる。こうなると出世レースとしてはむしろ遅いものとなる。
正躬王は皇族に身を置いているものの「正躬親王」ではなく単なる「正躬王」という名であることからもわかるとおり、皇族内での地位は低い。だが、良房は立場がどうあれ有能な者は抜擢し相応の地位に就ける人事をしているから、正躬王のこの処遇は地位によるものではない。
では、何が正躬王の出世にブレーキをかけたのであろうか。
この人の人物評伝は乏しい。幼くして優秀であったことと、諸々の地位を歴任したことを伝えるのみで、性格がどうとか、容姿がどうとかという記録はない。また、地方の国司を務めていたときの評判が良かったという記録ならばあるが、中央で働く貴族としての評判を記す記録もない。
ただし、一つだけ性格を推測できる記録がある。承和の変のときの正躬王の行動である。
橘逸勢や伴健岑は逮捕された後に拷問を加えられたという記録があるが、その拷問をした一人が正躬王であるとされている。そもそも拷問があったのかどうかも不明であり、拷問が仮にあったとしても、それが命令によるのか、それとも自発的な意志によるのかといった記録はない。ただ、正躬王らによって拷問が加えられたという記録があるだけである。
命令にしろ、自発的にしろ、暴力を扱う人間は、周囲の人から恐れられても、周囲の人から尊敬はされない。その人個人の周囲に人が満ちている日々だとしても、それは恐怖であって人徳ではない。となると、正躬王の性格が見えてくるようである。
地方の国司としての評価は治安の改善によるものであり、恐怖でもって犯罪者を取り締まったことが評価をもたらした。庶民が国司のことを恐ろしい人とは聞いていても、目の当たりにしていない以上、恐ろしさの実感はないし、犯罪者という目の前の恐怖に対処してくれることは感謝できる。
正躬王の早熟の天才という評価はペーパーテストの成績だけであろう。そして、自分より目上の人に従うことで結果を積み重ねていれば評価の対象となる地位までであれば、出世の問題はなかったであろう。
だが、人を従わせなければならない地位になったとき、正躬王は恐怖以外に従わせる手段を持っていなかったのではないか。自分以外に貴族はおらず、恐怖でも結果を出せる地方の国司ならば問題なくても、数多くの貴族の一人として振る舞わなければならない中央では、評価を下げざるを得ない。
恐怖で君臨する直接の上司に善男が怒りを感じていたとしてもおかしな話ではない。
その上、この上司は自分と同じ一族である伴健岑を拷問にかけたということになっている。
一族の一人である伴健岑の名誉を回復し、恐怖で支配する上司を排除し、自らの地位を向上させる。正躬王の排除というのは、善男にとってこれだけのメリットのある行動だった。
とは言え、問題もある。
いったい何の罪で排除するのか。
正躬王は周囲に恐怖を振りまいても、律令に違反することはしていない。国司として地方に君臨すれば不正な手段で一財産築き上げることも珍しくないが、正躬王にはそれもない。
善男はタイミングを計ることにした。
承和一一(八四四)年一〇月三日、畿内の班田使が任命された。校田使の任命から時を経ての班田使の任命というのは班田実施の流れとしては正しいが、校田使から測量終了の報告が寄せられたかどうかは不明。それ以前に、校田使を派遣していない国にも班田使が任命されていることから、校田使は結局その役を果たしていなかったと推測される。
このとき班田使に任命されたのは四名、その四名で五畿を担当する。五畿の外の班田は考慮されず、あくまでも五畿に限られた。
分担は以下の通り。
山城国、参議従四位上正躬王。
大和国、参議従四位上滋野貞主。
河内国、参議従四位上安倍安仁。
摂津国、参議従四位上藤原助為。
和泉国、参議従四位上安倍安仁、河内国と兼任。
何れも朝廷の中枢にいる人間であり、現代の感覚でいくとこれから大臣を目指そうかという政務次官クラスの面々を良房は選んでいる。
善男はこれをチャンスに感じた。二重の意味で。
班田使に正躬王が任命されたということは、弁官としての職務に正躬王が顔を出すことが少なくなるため、弁官という職務を存分に発揮でき、自分の有能さを大いにアピールするチャンスが出てきたということである。その証拠に、善男に言わせれば、書類が自分のもとではなく左大弁である正躬王のもとへと流れて行ってしまっている。これでは自分の有能さを発揮できず、自分の出世が叶わなかったのもそのためだという理屈になる。
そして、班田という律令の根幹を成す事業の責任者となったことは、失敗がそのまま失脚を意味する。これは正躬王を堂々と追放できる何よりの好機。おまけに、山城国には京都が含まれる。首都での失敗は、個人の失脚では済まないより大きな責任問題に発展する。うまくすれば良房一派の破滅へと繋がる。
ところが、彼らは全員良房の期待に応えた。すなわち、善男の期待を裏切ったのである。
畿内各地に派遣された班田使たちはその土地の隠された現状を伝え、班田が行われている農村の疲弊と、具体的な対策案を朝廷に上奏した。その案のどれもが律令の規定に反する、つまり、理想より現実に即した内容である。
本来なら右少弁である善男がそうした上奏文をとりまとめるのであるが、今回は山城国担当に正躬王がいる。正躬王がまとめた上奏文は善男を通す必要のない左大弁を通した正式な上奏文となった。
記録に残っているのは一〇月九日に朝廷に届いた摂津国担当の藤原助為からの摂津国の状況報告のみであるが、この他にも多々届いていたと考えられる。
この上奏文への答えも記録に残っており、一〇月一八日には、仁明天皇の行幸費用を、通常は山城国府負担とすべきところを正躬王が負担し、同様の対処は一一月二九日に山城・摂津・河内の三ヶ国で展開された。地方自治の財源不足を補う私財の投入が行なわれたということである。また、時間は前後するが、一一月一四日には私財を投入しての貧困対策が効果をあげたことが評価され、大和国担当の滋野貞主が勘解由使長官に任じられている。
班田という律令制の根幹に基づく人員の派遣でありながら、還ってきたのは律令に反する対策を求める声であり、その実現のために律令上グレーゾーンとするしかない私財の投入をし、結果を出した。班田のさらなる縮小と私領の増大である。
しかし、これらは藤原家や班田使たちの私財を投じたあくまでも一時的なものであり、国による抜本的な対策となっていない。国が対策をするならば班田ということになってしまうのだ。
これまで良房は反律令を掲げていたが、律令に反することはしてこなかった。班田という制度は残したし、貧困対策はあくまでも私財の投入での新田開発。そうするしか、律令に逆らうことなく現状の問題を解決できなかったからである。
だが、もはや限界と感じた。律令に反してでも、班田を明確に破棄してでも、私有地拡大のために国家予算を投入するしかないと考えたのである。無論、すぐには実行に移しておらず、時間とともに有名無実化するのを待っている。だが、一度律令に反すると決めたら、それ以外の律令の条文に逆らうことも厭わなくなる。その結果、良房はこの頃から明確に律令違反に手を出すようになった。より現実に即した社会の構築のために。
それは同時に、善男のように律令を墨守すべきと考える人たちにとっては、敵対する人たちに対し、律令違反の告発という武器が使える時代が到来したことも意味する。
この状態で翌承和一二(八四五)年を迎える。
承和一二(八四五)年一月七日、前年止まっていた人事刷新が発表された。
右大臣橘氏公は前年、正三位のまま右大臣に就任していたが、このタイミングで従二位に就く。これで位と官職が一致した。
その他に二人の役人が新たに貴族入りを果たし、四八人の貴族が出世を果たす。その中には正五位下から従四位下への出世を果たした小野篁もいた。
しかし、出世した貴族の中に伴善男の名はない。
承和一二(八四五)年一月一一日には、二四人の貴族に新たな役職が命じられる。うち、二二名は国司をはじめとする地方官の任命であり、全国の三分の一の国司が一度に取り替えられることとなった。多くても一〇ヶ国程度の国司交代が通例なのを考えれば異常事態とも言えるが、これは前年の良房の命じた調査の結果によるものである。
地方の状況は決して楽観できるものではなく、不作から来る生活苦が不況感を漂わせていた。不況対策を推し進めようとはしているが、不作が原因である状況下では生活を一瞬にして改善できる妙案など存在しない以上、不況“感”を一掃するには刷新をアピールさせる必要があった。
なお、このとき、左大弁正躬王が、左大弁兼任のまま讃岐国司に任命された。讃岐国司はついこの間まで善男が務めていた職務である。もっとも、任地に赴いたか否か判明していない善男と違い、左大弁兼任ということもあって正躬王は明らかに任地への赴任をしていない。
そして、善男はこのときもまた何の人事異動を受けていない。
出世に値するだけの功績を成せると自負し、実際に出世を望みながらも、出世がなかった。位も上がらず役職も変わらない。これは善男を絶望させるに充分だった。
承和一二(八四五)年一月二七日、右大臣橘氏公から意外な上表文が提出される。
右大臣はその役職に伴い、一千戸の食封、すなわち、収穫を収入とすることが許される田畑を与えられているが、それを返上するというのである。こうした返上は今に始まったことではない。かつて右大臣に就任した直後の藤原緒嗣が返上を宣言したこともあるし、それへの対抗として冬嗣が返上を申し出たこともある。
こうした権利の返上に共通しているのは、痛くも痒くもない負担であるとは言えないが、返上が生活を立ちゆかせなくなるほどの負担ではないということである。
これは謙虚をアピールすることにもなるし、民衆の生活苦への対策を行なっているというアピールをすることにもなる。実際、それまでただ血縁だけを頼りに右大臣にまでなった凡庸な人物と見られていた氏公の評判が急上昇した。
良房もその流れに乗ったか、承和一二(八四五)年二月五日、それまで持っていた三つの役職を一度に返上すると申し出た。
この時点における良房の書類上の正式名称は、「大納言正三位兼行民部卿右近衛大将陸奧出羽按察使藤原朝臣良房」というまるで戒名であるかのような長いものである。これは、「大納言」「民部卿」「右近衛大将」「陸奧出羽按察使」の四つの役職を兼任する「正三位」ということであり、良房はかなりの役職を兼務していたこととなる。
良房がこのとき返上を申し出たのは、戸籍・租税・地方行政を担当する「民部卿」、天皇の周辺の守る右近衛府のトップである「右近衛大将」、そして「陸奧出羽按察使」の三つの職。良房は大納言を除く兼任職の全てを辞任することにより、その分の給与を減らすことができると主張した。
ただし、これらの役職の辞任は許可されず、良房はこの後もこれらの職を兼務し続けることとなる。
世間の人はこのときの良房の行動を右大臣の猿真似と笑いものにした。たしかに、タイミング的にも氏公の給与返上に追随しているだけと捉えられる。ただ、良房が何の考え無しに返上を申し出たとは考えられない。
そこで、返上を申し出た役職と、手放さなかった役職とを考えてみると、奇妙な組合せが見られる。
良房が手放そうとした三つは、良房にとって政治的なメリットを持たぬ職になっているのである。
まず民部卿であるが、この職務は班田執行と戸籍管理と租税徴収の最高責任者となる役職であり、そのため、校田使や班田使の任命権も持っているだけでなく、地方の国司任命にも大きな力を持っている。実際、良房はこの地方の人事権をフルに活用して配下の者に役職を与えている。
だが、律令の廃止を最終目的とする班田の消滅を狙った良房である。班田を担当するがゆえに租税と地方行政の責任者として民部卿が権力を持つという構造を変える必要があると見て、民部卿から納税責任者の役職を剥奪することまで計画した。そして、権力は手放しても権威を持つ者が朝廷中央に君臨することで、民部卿を有名無実の役職にしようと企んだのである。
続く右近衛大将であるが、こちらは以前から有名無実の役職になっている。近衛府の存在価値は左近衛府に移っており、右はもはや名誉職でしかない。その上、近衛府の持つ天皇のボディーガード的な役職もここ数年検非違使に取って代わられている。さらに、良房自身が武力を持っているわけではない。何と言ってもこの時代の武力は良相のものであって、良房は武力を使う意思も能力もなかった。
たしかに右近衛大将は大納言に相当する高位の職であり、その権威も給与も充分魅力的ではある。だが、良房が武力の全てを弟に任せきりにしているというのはすでに世間に知れ渡っていることであり、その武力と無縁の良房が武力に関する名誉だけの職を持っているのは、無駄に給与を得ているという評判を作っていた。これを考えれば、給与が減ってでも名目でしかない職務を返上することで得られる世間的な評判のほうがメリットのあることであった。
そして、最後の陸奧出羽按察使だが、これはより現実的である。陸奧出羽按察使の役割である現状の調査の段階はもう終わっており、今は対策を行う段階、つまり、陸奧出羽按察使はその役割を終えた有名無実の役職となったと良房は判断していた。それに、陸奧出羽按察使は民部卿や右近衛大将のように常設の職務ではなく、臨時の役職。通例であれば、役目を果たし終えたら辞任するものであった。良房が陸奧出羽按察使を勤めるのはこれが二回目であり、前回務めたときは大納言就任と同タイミングで辞任しているが、これも慣例に則ってのことであった。
まとめると、右近衛大将や陸奧出羽按察使については有名無実だから返却するというところだが、民部卿については有名無実にしなければいけないという思いから返却する。いずれにせよ持っていることの政治的なメリットがないと判断しての返上であり、メリットの計り知れない大納言職については手放す動きの欠片も見せていない。
無論、役職に伴う給与の増額があるから、役職にしがみつくことは財政的にはメリットがある。
だが、右大臣が給与を返上したのを目の当たりにしては、役に立たない役職にしがみついて評判が上がるなどあり得ない。給与が減ることを受け入れても、役職の返上は良房にとって何らデメリットとならないことであった。
このときの良房の役職返上は仁明天皇によって却下されたが、それによって新たな問題がクローズアップされた。一部の者が役職を独占していることで、役にありつけない者が大量に出ているという事実である。
承和一二(八四五)年二月二七日には九名の、三月五日には三名の貴族に新たな役職が与えられた。これは問題を和らげる効果はあったが、クローズアップされた問題の根本解決にはつながらなかった。
この約二ヶ月間で数多くの貴族が出世を果たし、新たな役職を手に入れたが、出世も、新たな役職も手に入らなかった貴族はたくさんいる。これが原因となり、彼らの不満はかなり高まっていた。
その一人が伴善男。善男はこの年動き始めるのである。
聖徳太子は、日本古代史において、卑弥呼と並んで謎の多い人物である。しかし、藤原良房の時代はそうではなかった。
まず、卑弥呼はほとんど知られていない。ごく一部の人だけが、神功皇后の中国での呼び名としての「卑弥呼」という名を知識として持っていたのみである。
一方、聖徳太子は謎ではなく現実と考えられ、尊敬を集め、信仰の対象とまでなっていた。現在では厩戸皇子と呼ばれることの多い聖徳太子は、この時代、文句無しに誰もが知っている二〇〇年前の偉人であり、聖徳太子の建立させた法隆寺は、寺院としての勢力では東大寺や比叡山に劣るものの、聖徳太子を起源とするその由来から別格の扱いを受けていた。
だから、聖徳太子が謎になることも、また、卑弥呼と並べられることもなかったのがこの時代である。
この聖徳太子、そして法隆寺が承和一二(八四五)年に一躍脚光を帯びることとなった。
寺院や僧に金品を寄付する信者のことを「檀越(だんおつ)」と言う。特定の寺院への寄付を大規模で行なっている檀越の場合、その寺院に対してかなりの発言権を持つようになることが多く、寺院が不特定多数の利益ではなく、その一族の利益のために行動するようになるというのも珍しくないことであった。
この図式を現代に当てはめると、寺院を株式会社、檀越をその株主と捉えれば良い。株式会社がいかに社会のための活動を謳って行動しようとしても、株主の意向には逆らうことができないのと同じ理屈である。
そして、法隆寺の有力檀越となっていたのが、聖徳太子の弟である来目皇子の子孫の登美氏である。法隆寺と聖徳太子の関係からも、この檀越関係は誰も不可解なこととは考えていなかった。
無論、いくら出資者と言っても、法隆寺の財産や奴隷を自由に扱えるわけはない。ところが、登美氏の中心人物であり、このとき少納言であった登美直名(とみのただな)はこれをやった。いや、勝手に使っただけであればまだいい。直名は法隆寺の財産や法隆寺に使える奴隷を、法隆寺の許可無しに売ったのである。
一度であろうと看過できぬ問題であるのに、直名の勝手な売買は一度や二度ではなかった。当然ながら大問題となったが、相手は朝廷の中央に仕える貴族。いくら法隆寺に歴史や伝統があろうと、登美氏に、そして登美直名に勢力で劣る以上、どうにもならない。
おまけに、今回のケースには律令の保護があった。法隆寺がいくら直名の不正を訴えようとしても、律令に引っかかって告訴できないのである。
だが、大納言藤原良房の態度が法隆寺を決意させた。
法隆寺の僧の一人である善愷(ぜんがい)が、登美直名を告訴した。罪状は法隆寺所有の財物の不正な売却と利益の不正取得である。
告訴は弁官局に提出された。そして、この訴状を受け取った左大弁の正躬王は直ちに弁官に勤める者を集め、対策を協議した。
このときの協議の詳細は不明だが、参加した者の氏名と、協議の結論がわかっている。
参加した者、六名。左大弁正躬王。右大弁和気真綱。左中弁伴成益。右中弁藤原豊嗣。左少弁藤原岳雄。そして、右少弁伴善男。
結論、正式な裁判として扱う。ただし、直名には裁判の場で弁明するチャンスを与える。
この結論に記された名前は五名分しかなく、右少弁伴善男の名が抜けている。
理由は容易に想像できる。今回の訴訟が律令上許されないことであり、訴訟として扱うことを最後まで拒否したのであろう。そのため、最後まで周囲の意見に反対し、弁官としての意見発表に自らの名を加えさせなかったと考えられる。
裁判の様子は一つしか伝わっていない。その一つというのは、裁判の場において直名が弁官たちから「奸賊之臣」「貪戻之子」と罵倒されたことである。
一方、裁判の結果ならわかっている。被告人登美直名、有罪。登美直名は遠国への流刑が命ぜられると同時に、法隆寺の資産が取り戻されることとなった。
善男はこの裁判に最後まで反対した。律令を適用すると、一僧侶でしかない善愷は貴族である直名を訴えることができず、ゆえに今回の訴訟は無効であると主張したのである。
だが、どうもそれだけが最後まで反対した理由ではないと考えられる。
確かに今回の告訴は律令違反である。とは言え、寺院の財産や奴隷を勝手に売り払うなど犯罪以外の何物でもない。だから、善男はあくまでも訴訟そのものが律令違反であり、直名の罪状については全く議論に乗せていない。それはまるで何かをひた隠しにしているかのようであり、善男は直名の起こした犯罪については完全に沈黙し続けた。そして、最後まであくまでも訴訟を認めないことだけを主張し続けた。
もし、善男が世間の評判を気にするのであれば、ここは律令違反に目を閉ざしても、直名の犯罪を弾劾し、直名を裁判で有罪とすべきであった。
この裁判の注目度は高く、尊敬する聖徳太子ゆかりの品々が、そして、奴隷たちが、一貴族の私利私欲のために売り払われたことを知った都の人たちの中で、極悪人登美直名の存在が一躍脚光を浴びていたのである。
登美直名が正義の元に断罪されることを都の人たちは願い、それが実現したことで喝采を浴びせた。そして、律令違反を知りながら裁判にまで持っていった正躬王をはじめとする五人の弁官たちの評判が上がり、最後まで律令を盾に裁判に反対した善男の評判は沈む一方であった。
善男は直名のこの評判も知っていたし、律令にこだわることで裁判そのものを否定しようとしていることが悪評を浴びていることも知っていた。
知っていたが気にしなかった。
善男に限ったことではないが、主義主張が現実と離れるにつれて評判は悪化し、支持率は低下する。しかし、そうした人たちに言わせれば、自分の理屈は常に正しく、そうでない現実のほうが誤っているらしい。そして彼らは自分への評判が下がっていることを情報としては知っていても、悪評を浴びせる国民のほうがおかしいと一刀両断する。善男もそうした心境であった。
だが、寺院の財産や奴隷を勝手に売りさばくなどどう考えても犯罪でしかないし、これを無罪放免とするのは政治家としてどうかとも思う。実際、善男が反対したのは裁判を起こすことそのものであって、有罪か無罪かの判決ではない。
そこで、善男が直名への訴訟そのものに反対した理由を掘り下げてみると、律令の精神の遵守といった崇高な理由ではない、もっと腹黒い理由が出てくる。
それは、直名に買収されたか、あるいは、直名と同様の犯罪に手を染めていたか、何れにせよ、善男は明らかに法に触れる方法で利益を得ていたということ。そして、ここで直名が有罪となることが、律令の遵守を壊すことを恐れたというより、自分に飛び火するのではないかと恐れたのではないかということ。
太古から続く名門大伴家の直系の子孫である善男ではあるが、裕福という点では難がある。それほど大した財産を築いているわけではないし、大規模な農園の開発もさほどではない。全くのゼロではないから自領からの収入だという言い訳もできるが、それでも、善男の裕福さとがつり合うと考えるのは難しい。
その頑迷なまでの訴訟拒否は、律令遵守よりも自分の財産を考えてのものと言えよう。
だがこうも考える。訴えられたのは登美直名一人であって、善男ではない。ここまで反対するのはかえって怪しまれる結果になったのではないか、と。
それに、頑迷なまでの訴訟拒否は勝ち目のない争いでもある。はたして、国民を敵に回し、宮中での孤立も深め、自分の身も危うくさせてまで、訴訟拒否を唱えるメリットはあったのか。
この問いへの回答だが、結論から言うと、あった。
この善男の行動は若者を熱狂させる効果があったのだ。特に、現状に閉塞を感じ、新しさを求める若者の熱狂が。
その中でも特筆すべきは、皇太子道康親王が熱狂の輪に加わったことであった。道康親王このとき一七歳。立場はともかく、年齢的には良相派の典型ではあった。
この世代の者は現実よりも理想を優先し、理想を実現することこそ正しい道であると信じる者が多いが、道康親王も同じであった。道康親王にとっての理想は律令が機能していた昔であり、今の時代は律令の精神から懸け離れた時代になっていると考えたのである。道康親王は純粋に律令を聖典と考え、律令の精神こそ日本国を正しく導くという確信を持つようになっていた。
その道康親王が、律令派であることを明言する善男のことを好感を持って眺めるようになったとしてもおかしな話ではない。ましてや、皇太子の教育係は小野篁であり、篁は良相の師でもある。つまり、良相を経ることで善男と接点が生じる。
というところまで来れば、善男が敵視している良房、つまり、反律令を掲げる良房と折り合いが悪くなったとしてもおかしな話ではない。良房の一人娘である明子(あきらけいこ)を妻としていることから、道康親王にとっての良房は伯父でもあり義父でもある。だが、その関係は政略結婚の結果であり、一族としての親愛を抱く要素になどなりようがなかった。
そのこともあってか、皇太子道康親王が正式に良相支持を表明したのである。直名の悪事には触れることなく、裁判はあくまでも律令に則って開催されなければならないというのが道康親王の理由であった。
この道康親王の支持も手伝って、善男はあくまでも律令遵守にこだわり、暴力で周囲を支配する正躬王に抵抗しているというアピールができた。これは、律令に萌える血気盛んな若者を自派に引き寄せ繋ぎ止める効果があった。
そして、自分は最後まで律令に違反しなかったということで、律令に逆らってまで訴訟を強行した正躬王をはじめとする五名の上官を一斉に排除できる絶好の口実を手に入れた。これは弁官としてやりやすい仕事を築けるだけではない。上役の一斉排除は自分の地位の相対的向上、単純に言えば出世が待っている。
ただし、善男がこの直後で動いたわけではない。時期を見るためであろうか、それとも都の熱狂が冷めるのを待ったのか、およそ一年に渡って表面上は沈黙を保つのである。
その代わり、表面下で直名が善男との連絡が繋がった。
このときに追放された登美直名に対する評伝は少ない。
延暦一一(七九一)年生まれだから、追放時点で五四歳になる。これまでのキャリアとして名が残っているのは主膳司と大和国司の二つ。その後、少納言に就任していたところで告訴されて追放されている。
緒嗣派であったのか、それとも良房派なのかを示す明確な証拠はないが、可能性ならば緒嗣派の可能性が高い。また、その経歴も、緒嗣派でありながらクーデターに参加せず、かといって抜擢もされなかった緒嗣派の典型、すなわち、五四歳にもなって少納言止まりでは自己の栄達などたかが知れているが、一気に挽回する方法もなく、あとは人生の残された時間をただ不遇を嘆くのみに費やす。こうした典型である。
この自身の不遇が強欲に向かったのは充分考えられる。無論、誉められたものではなく同情の余地などないが、理解だけならできる。出世もなく、一族の栄華もなく、最後の綱であった財産もなくなって追放の身となるとなったら、どんな手段を使ってでも抵抗するであろう。
その結果が善男であった。
無罪放免には失敗したが、自分の無罪のために懸命になった善男のことを恩人と見たか、それとも利用できる奴と見たか、買収できる相手と見たか、直名は追放先から善男への書簡を送り続けた。
善男からすれば直名との関係は結審を期に失われてもよいはずであった。にも関わらず、善男は直名と接点を持ち続ける。弱みでも握られたか、それとも善男のほうも直名を利用価値ありと考えたか、一見するとメリットのない関係を善男は保ち続けた。
承和一二(八四五)年三月二五日、太宰府に飛ばされていた藤原吉野の追放が部分解除された。太宰府から戻ることは許し、山城国に住まいを構える許可も出たが、京都入りは禁止されたのである。
このあたりになると承和の変の後始末が始まるが、それはどうやら、罪を許されてというより、承和の変による追放が祟りを招いていると考えられていたかららしい。
実際、この承和一二(八四五)年という年は前年から続く不作が悪影響をもたらし、祟りがあると考えられる出来事に事欠かない一年であった。一つ一つはごくありふれた毎年の光景なのに、一度怨念の噂が染み着いたら、ありふれた出来事も天変地異と考えられるようになってしまう。
三月上旬、京都郊外の山城国内で謎の昆虫が大量発生。記録にはミツバチに似たアブとあり、この虫に刺された牛が大量に死に絶える惨事を招いた。記録には人間の被害が記されておらず、虫が好んで刺すのが牛や馬であると記されている。この虫の大量発生は五月まで続いた。
三月二九日、仁寿殿の東廂で火災が発生し、数多くの人が亡くなった。
四月二七日、日照りが悪化したため、畿内各地で幣が奉られた。
五月一日、雨乞いのため、三日間限定で大般若経の転読が命じられた。
五月三日、雨が降らなかったため、大般若経の転読が二日間延長された。
五月五日、それでも雨が降らなかったため、大般若経の転読がさらに二日間延長された。そのおかげか翌五月六日には雨が降り出したが、雨は豪雨となって京都の都市機能を麻痺させた。
五月一二日、仁明天皇が体調不良で倒れる。回復したのは五月一六日。体調不良の様子については記録に残っていないので、どう具合が悪かったのかはわからない。
六月一五日、月食。
七月一日、日食。
こうした天変地異に良房がどう対応したのかはわからない。無論、個々の被害の救済にはあたっている。水害を未然に食い止め、仁明天皇の体調不良のときには政務を最小限に抑えることで体調回復を図った。
良房自身は合理的な考えの持ち主で怨念とか祟りとかとは無縁の性格であり、人間の力ではどうにもならないことには人心安定のために神頼みもするが、そうでなければ天変地異への対処でも現実的なものに留まる。
だが、この時代は全日本国民が合理的であったという時代ではない。天変地異は祟りであり、怨念の結果であるというのが当時の人の考えであった。そして、これこそ反良房派にとっての絶好の攻撃材料であった。
皇太子道康親王をはじめとする反良房の面々は、今年の苦境は天下を握る良房の悪政が原因であるとし、解決のためには吉野の追放部分解除などという少々の対応では不充分であり、良房らがこれまでを悔い改め、追放した人たちに許しを請い、自らの主義主張を全て放棄した上で権力から手を引き、自分たちの手で律令に回帰する政治をすることを天が望んでいるのだと声高に主張した。
しかし、天変地異を盾とする攻撃には良房には奥の手があった。皇太子道康親王は除かれるが、その他の者が望んでいるのは何か、そして、それを満たすためには何をすればいいか、それがわからない良房ではない。
承和一二(八四五)年七月三日、四名の貴族に新たな役職が与えられる。伴善男を取り巻く反良房派の中でも過激な面々が、望んでいたこと、すなわち、出世を獲得したことで黙り込むこととなった。
七月一九日には、承和の変のクーデター荷担者のうち、橘逸勢の兄である橘永名をはじめ流刑に処されていた者、少なくとも四名が入京を許される。少なくとも、と記したのは、このときに入京を許された者四名の名と同時に、名前が残っていない他の者もこのタイミングで入京を許したと記しているが、それが何名かわからないからである。
この時期は律令派にとって絶好の攻撃材料のオンパレードであったが、それに加わるかのような天変地異ではない材料が、七月二一日、太宰府より届いた。
内容は完全な人災である。
太宰府管轄の一一ヶ国のうち、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後の五ヶ国は法に定められた医師の数を満たしておらず、薩摩、大隅、日向、壱岐、対馬には医療制度そのものが機能していない状態にあることが伝えられた。つまり、太宰府の膝元である筑前国しか法に基づく医療が機能していないというのである。
医療が機能していない地域では医師に診てもらうために最低でも二日、最長七日の道のりを経なければならず、医師の元へ向かう途中で命を落とす者もいる惨状になっている。
さらに、律令に基づいた医師がいることになっている筑前国でも状況は手放しで喜べるものとはなっていない。医師の職務が過酷であることから、医師としての職務を放棄する者が続出している。その結果、法で定められた医師の数を満たしてはいるものの、法の通りの医療が展開できていない。
その原因の全ては医師不足から来ており、医師不足解消のため、医学を学んだ若者を九州に派遣していたほしいというのが太宰府からの連絡であった。
これに対し、善男をはじめとする律令派は、律令を守らなくなったから医療崩壊が起きたのだと主張した。律令は人々の命を守るための指針も記されているのに、それを無視したことが医療崩壊を招いたとするのである。
だが、良房の考えは違った。この報告を受けた良房は、律令を無視してでも有料の医療を開始すべきと主張したのである。医師不足は九州に限った問題ではなく全国的な問題であり、医師を増やすことでしかこの問題を解決できない以上、医師の待遇改善なくして医療崩壊は止まらないとした。そのためには有料で診療を引き受ける闇医者を処罰の対象とはせず、公に認める必要があるともした。
この時代、法に従えば医療は全て無料であり、貧富の差も身分の差も関係なく、誰もが充分な治療が受けられるはずであったが、現実は違った。
まず、国が認める医師の絶対数が少なくなる一方だった。充分な報酬も得られない、日々の業務は激務、充分な治療を施しても患者が亡くなった場合は激しく罰せられ、逮捕されなかった場合でも遺族が起こす民事裁判からは逃れられない。
医療崩壊はすでに冬嗣の頃から顕著になっていたことであるが、朝廷としては具体的な対策を打てず、民間の需要による闇医者が誕するようになっていた。
律令派の意見はこの現実を無視したものであった。医療は無料であることが大前提であり、医師はどのような状況でも患者を全力で救う義務があるとした。そして、医師の数が少ないわけはなく、律令で決まっているとおりの医師が日本国内にいるともした。報酬の少なさや勤務の過酷さについても、それらは全て医師ならば律令に従って堪え忍ばなければならないとした。医療崩壊は律令を守っていないためであり、律令に従えば問題は解決するという見解を示した。
が、律令派のこの見解を快く受け入れる医師はいなかった。
その間も天変地異は続いていた。ついこの間までの日照りが嘘であるかのような雨天の日々である。
承和一二(八四五)年七月二七日、ついに伊勢神宮に天候回復を願う使者を派遣するにいたる。京都市内の神仏では御利益がないと考えたからか、天皇家の祖先に祈るまでになったのである。
その祈りの効き目があったかどうかは記録に残っていないが、効き目がなかったことは容易に推定できる。承和の変で追放された者の怨念が天変地異の原因であるとの風説はしぶとく残ったことからか、八月二日には追放のさらなる解除が行われていることからもそれは推定できる。
このときの追放解除対象者として九人の名が残っているが、その他にも追放解除になった者もいるという記録もあるので、全体で何名が追放解除となったのかはわからない。また、このときの追放者が承和の変での追放者に限られたという証拠もない。追放された理由の記録が残っていない者もおり、別の犯罪による追放が解除された可能性もある。
理屈の上ではここまで追放解除したのだから怨念が消え失せ、自然も回復されなければならない。それがダメでも、少なくとも、怨念の噂が消えなければならない。ところが、これだけの追放解除も、今は承和の変の怨念による天変地異が繰り返されている日々であるという噂を取り消すことはできなかった。それどころか、噂はさらに増幅されるのである。
八月四日の夜に京都を地震が襲う。地震の被害は残っていないことから揺れは大きくなかったとも思われるが、噂はさらに尾鰭がついた。なぜなら、この日の日中に仁明天皇が大学博士や学生を招いて講義を聴いたが、その場所は宮殿内の紫宸殿。昼に紫宸殿で講義を開催したら、夜に地震が起きたということである。
ここまでくるとこじつけにしかならないが、人々の迷信に関する思いは切実であった。そして、その思いが誤りであることを説くより、思いを満たすほうが簡単であった。
まずは出世である。やかましく騒ぎ立てる者に適当な職を与えれば黙ったし、もっとやかましく騒ぎ立てる者には地方の職を与えることで京都からの追放もできた。
出世は貴族や役人に限ったことではない。九月一日には地方の神々にも位が与えられている。これはその地域の民衆の動揺を抑える効果があった。
ただし、これらの対策には黙らせたり人心を安定させたりする効果はあっても、天候を安定させたり、健康を回復したりする効果はない。
九月二一日、京都に暴風雨が吹き荒れ、木々が倒れ、家々が壊れる被害を生んだ。
一〇月一日、仁明天皇が再び倒れる。これを聞きつけた皇族や貴族がこぞって見舞いに足を運んだ。
それにしても、良房はなぜ追放の大幅な解除と、出世の大盤振る舞いをしたのか。
それまでの良房であれば、敵は敵として扱っていたはずなのに、この年の良房は敵を赦し、敵に出世と役職を与えている。それは黙らせるために有効であったことは間違いないが、彼らはこの年になって急に騒ぎだしたのではない。追放された先でも騒ぎ続けていたのである。
そこで注目すべきは、皇太子道康親王の意志と民衆の態度の二点にある。
緒嗣政権下における良房は民衆の高い支持を集めており、政権を握ることができたのもこの市民の声を最大限に利用してのことであった。また、当時は皇太子であった仁明天皇の信頼を得ていたことで、次世代の権力は良房のものであると知らしめることができていた。つまり、未来に期待を寄せる者の意志を一身に集めていたのが良房である。
ところが今や、自分の敵のほうが皇太子を味方につけ民衆の声を利用している。良房が権力を握るきっかけとなった承和の変が現在の苦しみの原因であり、その原因を取り除くには承和の変を清算しなければならない。それはすなわち、時代を次世代のものとすること、そして、良房に敵と扱われた自分たちが再び権力を握ることである。
もはや皇太子道康親王を味方とすることは不可能であり、これは諦めるしかない。しかし、民衆の支持について諦めるのはまだ早い。こうなると、良房は二者択一を迫られることとなる。敵を赦すことで敵と民衆の接点を絶つか、敵と手を結んだ民衆を見捨てるかという選択である。
前者を選べば民衆の支持は得続けるが敵が増え、後者を選ぶと民衆の支持が減って今の敵はそのまま残る。この二者択一なら、誰もが敵を赦すほうを選ぶだろう。前者を選ぶということは、状況の改善にはならないが悪化もしない。しかし、後者を選ぶ、すなわち民衆を見捨てるということは、既にいる敵に加えて民衆も敵に回るということである。これは状況の悪化としか言いようがない。
とは言え、手放しで喜べるようなことではない。状況が良くなっていないのだ。いつもの年ならごく普通の天候不順と片付けられるような出来事の全てが、承和の変の怨念による天変地異と考えられている状況は良房にとって苦境である。
こういうとき、国外に共通の敵を作って国内の不満を逸らすというのは執政者の常套手段である。
承和一二(八四五)年一二月五日、新羅人が約五〇名の日本人を伴って太宰府に来着した。漂流していた日本人を救出し太宰府に連れ帰ったのだから、このたびの日本人救出の何らかの功績をいただきたいということである。
良房はこの出来事を大々的に宣伝した。
何しろ、新羅の連れてきた日本人というのは、遭難しで漂流した日本人を救出した結果ではなく、船を襲い、沿岸を襲って拉致した結果なのだ。新羅は日本人救出の功績としてコメをはじめとする謝礼の支払いを要求したが、これは気軽に見逃せることではない。
良房は新羅の連れてきた日本人全員を保護すると同時に、新羅に対し正式に抗議した上で、拉致した日本人全員の即時解放と、日本への全面謝罪を要求した。しかし、これに対する新羅からのアクションはなかった。新羅国内の混乱はもはや国家としての体裁を成していなかったからである。
ただ少なくとも、新羅という共通の敵を前に国内世論は統一を見せ、天変地異に関する記録は姿を消すこととなる。
天変地異に関する記録が消えた理由はもう一つある。国内をにぎわせる大事件が起こったからである。
ついに善男が動き出したのだ。
根拠はかの裁判である。資格なき訴訟はやはり問題であるとするのは以前から主張していたとおりであるが、善男は五つの理由を挙げて訴訟が無効であることを示し、その訴訟を受理した当時の弁官局の者こそ裁かれなければならないと主張したのである。
およそ一年の月日を費やしてきただけあって、その主張は完全に律令に則っている。
まず、訴えを起こすときの僧侶は僧装を脱いで一般人の格好をしなければならないと定められているのに、訴訟を起こした法隆寺の僧侶である善愷は僧の服装のまま訴訟を起こしている。これは律令のうちの僧尼令に違反している。
次に、僧侶である善愷が訴えを起こすには、僧綱か、あるいは治部省を経由した後でなければ弁官局に訴状を出せないのに、このときは直接弁官局に告訴している。これもまた定められた手続きに違反している。
三番目に、訴訟が起こされた直後、直名は一時的に拘束されている。刑が確定するまでの被告人を拘置所に留め置くことがあるのはこの時代も現在も同じであるが、この時代は一定以上の身分であれば拘置所入りを免れていた。直名はその身分に該当するので、直名を拘束したこともまた違反になる。
四番目に、有罪が確定するまでの被告人は無罪と扱われ、裁判官は先入観無しに事実と法に基づく判決を下さねばならないのも現在と同じであるが、直名は法廷で弁官たちから「奸賊之臣」「貪戻之子」と罵倒されている。これは、裁判の公正に違反しており、裁判そのものの正当性が否定される。
最後に、善愷が提出した訴状には、直名が犯罪を起こした日付も時刻も記されていない。日時の記載のない訴訟は無効であることが闘訟律に定められており、その訴状をもとに裁判を開催したのも律令に違反している。
何れも律令に違反することは間違いではないが、これで裁判を無効とし、当時の弁官たちを裁こうとするには無理がある。
まず、訴訟時の格好が僧侶の格好のままであったのも、弁官局までの訴えの手順も、律令に違反はしているものの当時の慣例には則っている。つまり、善愷は当時としては当たり前の手順で裁判を起こしたに過ぎない。
また、直名が拘束されたこと、そして、裁判の場で罵倒されたことも、律令には違反していても、そのときの京都の一般市民の感情を考えると当然であったとするしかない。直名への市民の怒りはすさまじく、一時的に拘束することで周囲との接点を絶たなければ命に関わるほどであったし、裁判の場でも法を盾に無罪扱いすると今度は無罪扱いした側に怒りの矛先が向かいかねない状況であった。
そして、訴状の日時についても、直名が頻繁に犯罪を起こしていることを考えるとその全てを記すには無茶であったとするしかない。常日頃から暴力を受けていたと訴えを起こした人に、何年何月何日の何時何分に暴力を受けたのかと記せと命じる法があったとすれば、それは法律のほうが間違っている。
いわば、善男はこじつけだけで裁判の無効と、当時の上官の有罪を主張したのである。しかも、肝心な内容、すなわち、直名の犯罪そのものについては何ら主張されず、一僧侶が貴族を訴えたという訴訟の内容も主張していない。あくまでも手続きが違反であるという主張である。
だが、いくらこじつけであっても、善男は正式に告訴した。当然と言うべきか訴状の内容に不備はない以上、これは正式な告訴として受理しなければならない。
これは騒然となった。
特に、正義が成されたと考え喝采を送っていた庶民たちには仰天の内容であった。
法に従えば善男の言い分は正しい。それは理解できた。だが、それと直名の有罪とは無関係であるし、直名の犯罪は有罪以外の何物でもないとするのは誰しもが抱いた感情であった。
善男の訴状を見た良房は、善男の内容が正しいか否かを判断させるために、大学に出向いてこの時代の法律学のトップと目されていた讃岐永直(さぬきのながなお)に審査させた。
讃岐永直の回答は、弁官の行為は無罪であるとするものであった。問題とすべきは直名の犯罪に対する処罰であり、手続きに多少の不備があってもその訴訟を無効とするほどの不備ではないとしたのである。
讃岐永直の略歴を追うと、この人は徹底した法律家であったという感情が残る。貴族としての実績も法律に偏ったものとなっており、この時点では明法博士(今で言う法学部教授)と、勘解由次官(今で言う内閣法制局の事務次官)と、大判事(今で言う最高裁長官)を兼ねるという、文字通りの法律の第一人者であった。
その上、この人は、現存はしていないが法律に関する書物も残しており、かなりの内容が清原夏野の編纂した『令義解』に引用されている。つまり、法律の解説という点でも第一人者である者に良房は問い合わせたことになる。
その第一人者が問題なしと判断したことで善男の告訴は無駄に終わったかと思われた。
だが、善男はこれにも抵抗する。
善男は一人でこの告訴をしたのではない。善男を取り巻く律令派の過激派とともに行動をしたし、名言はしていないが皇太子道康親王の支持と、藤原良相の黙認を得ている。そして、告訴状には善男の名とともに、伴家の一員でこのとき左大史を勤めていた伴(ともの)宗(むね)の名も連なっている。
さらに、善男と連なる過激な律令派に属する二人が、当時の弁官たちの行動は有罪のうちの「公罪」、すなわち職務を行なう上で犯したミスであるとし、律令に合わせて罰金刑を適用し贖銅五〇斤の処分を下すべきとの意見を出した。この二人のうち一人は後に明法博士となる御輔長道であり、もう一人はこのとき勘解由主典をつとめていた川枯勝成である。二人とも律令を大学で学んだ法の専門家であり、律令を何ら疑いなく信奉することで善男派に入った経緯を持っている。
第一人者が無罪とし、それに対抗する罰金刑という主張が登場しただけでは済まなかった。
善男がもっと激しい内容を主張したのである。その主張とは、訴状を受け入れた五人の元弁官全員の公職追放であった。
律令の一字一句を金科玉条と考え律令に違反したら誰であれ罰せられるべきと考える者が律令に照らし合わせて下した判断は、公職追放など片鱗もない罰金刑である。つまり、それが律令の限界であると言わざるを得ない。ところが善男の主張はそれよりもはるかに重いものであり、律令派を名乗る善男でありながら、律令を超える刑罰を要求したのである。
根拠となったのは、弾正大疏であった漢部松長の意見である。漢部松長は、五人全員を同時に扱うのではなく、その審理の状況にあわせて罪を分けるべきとした。そして、左中弁の伴成益と、左少弁の藤原岳雄の二名については御輔長道と川枯勝成の出した結論の通りの「公罪」であるが、残る三名、左大弁の正躬王、右大弁の和気真綱、そして右中弁の藤原豊嗣は職務を外れたところで犯罪を起こした「私罪」に該当するとし、その「私罪」を食い止めることができなかったがゆえに「公罪」の二名も公職追放の対象となると主張した。
では、何が「私罪」に該当するのか。
善男が問題点と主張したのは、裁判自体がはじめから直名を有罪とするように仕組まれた裁判であったという点である。弁官たちが律令を無視し、直名を有罪にするために律令を「私曲」したことが何よりも問題であり、中でも正躬王、和気真綱、藤原豊嗣の三名は「私曲」の度合いが激しく、公務の域を超えているとした。
そして、当初掲げた訴訟手続きの不備について善男が語ることはなくなり、善男は元弁官たちへの攻撃だけを執拗に繰り返すようになった。
この状態のまま結論がつかずに年を越す。
善男の起こした論争のせいで民衆の口から天変地異の話題が消え、対新羅を掲げたことで朝廷の内外の世論をまとめることに成功したが、その代償も大きかった。挙国一致ということで、敵味方関係ない、律令派も反律令派も関係ない、新たな国家体制を作らなければならなくなったのである。
と書くと格好は付くが、要は出世のオンパレードである。
もっとも、その規模は前年と大差ない。異例なのは、通常ならば大規模な人事刷新の翌年は穏やかなものとなるのに、この年も前年と変わらぬ出世大盤振る舞いがあったということである。
承和一三(八四六)年一月七日、四名の役人が新たに貴族入りし、一名の皇族と四〇名の貴族が出世を果たす。その中には正五位下から従四位下へと二階級特進を果たした良相もいた。なお、このときも伴善男の名はない。
位の数日後に役職付与があるのも前年と同じである。一月一三日、三七名の皇族や貴族が新たな役職を手にした。ただし、前年と違って中央の役職のほうが多く、地方は一六名に留まる。もっとも、平均が一〇名であることを踏まえれば、一六名は充分に多い数字ではある。
そして、この中央の役職の交替のとき、善男の上官のうち二名が交替になった。左大弁が正躬王から源弘へ、右大弁が和気真綱から安倍安仁へと替わった。ただし、専任ではない。源弘は尾張国司との兼任であり、安倍安仁は騨正大弼と春宮大夫と下野国司の三つを兼任している上に加わる四つ目の役職である。
何れにしても、上官二名が居なくなり、右少弁としての善男にとっては仕事がしやすい環境が整ったこととなる。それは前年から続く主張、すなわち、直名を有罪とした裁判が無効であり、無効である裁判を行なった者こそ有罪であるとする主張を妨害する存在が減ったことを意味する。
これ以後、善男の記録は二つしかなくなる。しかも、うち一つは自己の推し進める告発についてであるから、ゼロではないがほとんど無いと言っても良い。善男が右小弁であったことは間違いないのだが、善男が右小弁としてどれだけの仕事をしていたのか、あるいはしていなかったのかの記録が、ごく限られた例外を除いて全く見えない。つまり、それ以後の善男は、一つを除いてあくまでも自己の主張を続けるだけの口やかましい存在であったと言っても良い。
二月一一日には七名の貴族に新たな役職が与えられ、うち三名が地方赴任となったが、そこにも善男の名は出てこない。
二月二九日にも五名の貴族に役職が与えられてうち三名が地方に赴任するが、そこでも善男は出てこない。
やかましい者を黙らせ、もっとやかましい者を地方に飛ばした良房なのに、太宰府からやってきた緊急連絡を律令を盾に平然とあしらい、今や自己主張だけを延々と展開するだけの、やかましくて目障りな存在である善男を何もせずに放っておいたのは気になるところではある。
承和一三(八四六)年三月九日、畿内で大規模な戸籍調査が行なわれることが決まった。ただ、これまでの戸籍調査は税の基礎資料作成が主目的であるのに対し、今回の調査は各家庭の出自、特に天皇家との関わりを調べる目的があった。
自分の祖先を著名人や名門家系につなげようとする人が多いのは今に始まったことではない。ただ、自分の先祖を偉い人にさせることは自己満悦に浸るだけでは済まないのがこの時代であった。
家系の正当性は自己の地位に直結するのである。特に、役人や貴族として生きることを志した者にとっては、無位無冠の一般庶民の出身であるより、名門家系、できれば皇族に連なる家系と主張するほうが有利であった。
この頃は良房の推し進めた教育改革、すなわち、生まれに関係なく、能力のある者は誰もが大学に入ることが許可され、役人へ、そして貴族へと続く道が開けていた。おかげで、才能ある者が続々と大学に入ったために以前と比べ優秀な役人の数が増えたが、例えばそれまでは八割の正解率で就けた役職が、満点でなければ門前払いを食らうまでになってしまった。
それで役職に就けたとしても、そして真面目に職務を果たしても、飛び抜けて優秀でなければ見向きもされなかった。なぜなら、同じだけ優秀で真面目な者など掃いて捨てるほど続々と誕生したからである。
懸命になって成果を出しても、周囲も同じだけ懸命になると、高得点をあげた上での些細な差で人生が決まることとなる。そのとき、家系が些細な差をつける要素となる。
生まれに関係なくその能力と才能で人材を確保しようとする良房の政策が、それまで以上に各人の出自を重要視することとなってしまったのである。
歴史が浅くても不可解に思われない百済王氏を名乗る者が続出したが、百済王氏ならまだかわいい。中には藤原氏や皇族を名乗る者まで登場したのである。
真偽のほどは不明だが、善男がこの戸籍整備にかり出されていたという記録もある。これがこの時期の善男の記録のうちのもう一つのほうである。些細なことにもこだわる性格の善男であれば、嘘を追及し、家系の捏造にも対処できたであろう。ただし、この善男という男は有能で真面目ではあるが、賄賂には弱い。どこまで正確さを心がけたかは怪しいものがある。
それから五月までの二ヶ月間は記録そのものが少なくなる。取りたててニュースとなることもない平穏な日々だったというところか。強いて挙げれば雨が少ないので雨乞いをさせたという記録ならあるものの、前年ほどのひどさはなかったのか、それとも承和の変の怨念という噂が消えてきたのか、どちらかと言えばのんびりとした雰囲気が漂っている。
しかし、承和一三(八四六)年五月二三日に大ニュースが飛び交った。
小野篁が権右中弁を兼任するというニュースである。
時代最高の知識人、それも皇太子の教育係を勤める知識人が、権右中弁を兼任する。これは三つの意味を有していた。
まず、権右中弁という職務である。単なる右中弁であれば律令にあるとおりの職務であるが、「権」の字が付くと二つの意味のどちらかになる。定員オーバーなところに加えられるか、より上の地位にある者が降りてくるかのどちらかであるが、篁の場合は後者であった。何しろこのときの篁の地位にふさわしい地位となると、弁官局のトップである左大弁でなければならない。にも関わらず、篁が任命されたのは弁官局のナンバー4である右中弁。これは篁の実務能力を買ってのことであり、弁官局の実務を篁に集中させることを意味した。
次に、篁が弁官局の一人になるということは、善男の右少弁としての職務を、よく言えば軽くする、悪く言えば無視することに繋がる。善男はこれまで通り右少弁であり続けるが、事実上、左遷されることとなる。
そして、皇太子の教育係である篁がこの地位に就くことで、仁明天皇の次の代の権力構築が始まることにもなる。とは言え、仁明天皇はまだ三〇代、病気一つしない健康とは言わないが、何かあることを考える年齢でもない。
しかし、時代が動き出してきたことを誰もが理解した。仁明天皇の次の時代の主軸はやはり良房であり、皇太子と良房の対立も、善男と良房の対立も、最後は良房の勝利に終わると誰もが考えた。対立する派閥と見られていた良相や、良相の師匠である小野篁も、結局は良房の指示に基づいた人事によって動くのだと誰もが確信したのである。
そして、律令を墨守する者は冷遇され、そのメインである善男は時代に取り残されたのだということも誰もが理解した。
七月二日、三九名の皇族に清原性が与えられ、新たに貴族に加えられた。七月一〇日には六名の貴族に、七月二七日には一一名の貴族に新たな役職が与えられた。しかし、ここでも善男は何も取り上げられていない。
そんな中、承和の変の追放者の一人、藤原吉野が八月一二日に死去する。享年六一歳。
承和一三(八四六)年九月一三日、藤原長良が讃岐国司に就任。翌一四日には、小野篁が左中弁に出世し、後任の右中弁には藤原嗣宗が就任する。また、藤原松影が左少弁に就き、弁官局の面々が大幅に入れ替わることとなった。
この二日間で、その他に九名の貴族に新たな役職が与えられたがやはり善男の地位は全く変化なしのままであった。
その状態で二ヶ月を経た。
前年のような怨念の噂もいつの間にか消え失せ、誰もが平穏無事な二ヶ月と考えていた一一月一四日、善男の主張に動きがあった。
何と、善男の主張が全面的に認められたのである。
善男が主張したのは主に弁官局においてである。善男の現在の職務を考えればおかしな話ではない。そして、上役がことごとく転身したことで、気がつけば善男は弁官局の最古参になっていた。
さらに、自分に標的が向けられていると知った正躬王の苦悩も伝わっていた。今回がいくら無罪になったとしても、これから先、善男は自分のことを執拗に攻撃し続けるに違いない。これは迷惑この上ない話であるが、かといって無視すれば済む話でもない。善男は正式な裁判を起こして自分を訴えているのである。それも無茶苦茶な論理を盾にして訴えている。これが止むことがあるとすれば、善男が死ぬか、自分が死ぬかのどちらかしかない。
この状況ではどうすれば良いのか。
正躬王が下した決断は善男の主張を全面的に受け入れることであった。
これは正躬王が相談した相手の影響もあった。
正躬王が相談した相手は小野篁であった。弁官局の一人である篁であれば何とかしてくれるのではないかという思いもあったし、篁はかつて一切の官職を剥奪され、財産も奪われ、家族も失った上で隠岐に追放された経験も持っている。だから、篁ならば何とかしてくれるだろうと考えたのである。
その篁が勧めたのが、自分も経験した地方暮らしであった。無論、勝算無き推薦ではない。
篁の出した勝算は三点からなっている。
一つは、軽い有罪と重い有罪の罰金額の違いである。軽い有罪は罰金刑のみであり公職はそのままであるのに対し、善男の求めた重い有罪は公職剥奪と罰金刑の両方である。しかし、罰金の額だけを見ると、善男の主張する刑罰のほうが軽く、軽い有罪の五分の一でしかない。財産だけを考えれば、善男の主張を受け入れるほうが軽くて済む。
二番目は、このときの善男の主張である。繰り返すが善男の主張は律令の限界を超えている。律令の定めている以上の刑罰を要求するということは、今度は善男のほうが律令違反になり、善男のほうが訴えられる可能性を持つことになる。
そして三番目、これが一番大きな理由であるが、民衆の評判があった。尊敬する聖徳太子の財産に手をつけ、奴隷の命を軽んじた直名への怒りは激しく、直名を養護する善男もまた民衆の怒りを買っていた。その善男が、途切れることなく訴訟の手続きを延々と攻撃し続けていることを快く思う者は少なかった。つまり、善男の主張を受け入れたとしても民衆の意見に折れるをえず、結果として短期に終わると考えたのである。
だが、第三の理由は篁の完全なる誤算であった。善男は民衆の意見を無視し続けたのである。わかっていて無視したのではなく、わかっていないから無視をした。善男の脳内には民衆の意見など無く、それが政治に影響を与える要素であるという認識もなかったのである。
このときの判断の中心となったのは篁であり、文書の起草も篁が行なっている。
まず、「私曲」はないとされた。裁判の手順は律令に則っておいる以上、その件に関しては問題がないというのが篁の判断である。
しかし、今回のケースでは弁官局に裁判を開催する権限が無いため裁判そのものが無効であり、当時の弁官五名は権限が無い裁判を開催したこととなる。そのため、そのための行為の一切は公務ではないとされた。
結果、当時の弁官五名全員が「私罪」となり、官職剥奪の上、罰金として贖銅一〇斤がかされることとなった。ただし、既に死去している和気真綱については刑が科されない。
この刑罰の文面に伴善男の名はどこにもない。だから、文面だけを見たらこの中身と善男の関連性は無いように感じる。しかし、世間の誰もがこれは伴善男の考えた内容であることを理解していたし、善男の願望はこれで全て満たされたであろうと感じた。
ところが、善男はこれで満足することがなかった。善男はかつての上官五名全員を弾劾しただけでは済まず、無罪を主張した讃岐永直、罰金刑のみを主張した御輔長道と川枯勝成の二名、合計三名の法学者の解任を要求したのである。理由としては誤った法解釈をしたためというものであった。
さらに、それまで話題に出なかった今回の告発者である法隆寺の僧善愷に対しては、罰金刑ではなく四〇回のムチ打ちとするよう要求した。
法学者の解任については善男の要求通りとなったことが確認されているが、善愷のムチ打ちについては実行されたかどうか不明である。
まったく、何もかもが善男の要求通りになったことになる。それは同時に、善男派の若者にとっても勝利であり、自分たちの時代の第一歩が踏み出されたと同じであることも意味した。
これを敵であるはずの良房はどう思っていたのか。
全ては些細なことと見たか、それとも、諦めを見せたのか、篁の記した上奏文に最初に賛成したのは良房である。いつもであれば善男のこうした要望など門前払いし、善男のほうを追放するための行動を起こしたであろうが、このときは何のアクションも起こしていない。
しかし、良房の過去の例、すなわち承和の変のときの良房の行動を考えると、アクションを起こしたくても起こせなかったのではないかという推測は立つ。
前回は何と言っても、武力を握る良相がこちらにいたのである。そして、良相の武力を実際に使ったことが承和の変において良房を勝利者とさせる重要な要素ともなったのである。しかし、今回は良相が動いていない。善男が自分の派閥の人間であると考えているからか、良房は自分の武力を動かすという意志を全く示していない。
ただし、裁判に関する発言も行動も全くない。完全なる第三者に徹している。
だが、注意すべき点はある。それは小野篁が善男の意見に同意し、善男の主張を全面的に認める、と考えられる上奏文を提出したこと。
正躬王が篁に相談をもちかけたことは知っている。しかし、篁が善男の要望を全面的に受け入れる上奏文を書くとは想像もしていなかったに違いない。
そして感じたのではないだろうか。篁が良相の師であることは自分から頼んだことゆえ当然知っているが、ここに来て篁が自分を裏切り良相の派閥に入ったのだと。そして、善男もまた良相の派閥を利用したのだと。
今回の騒ぎは単なる裁判の有効無効の問題ではなく、律令を守るか守らないかといった話でもない。これは新しい派閥の手による新しい時代の誕生である。ただし、ついこの間まで考えられていたような仁明天皇の次の天皇の時代ではなく、良房の次の時代の萌芽なのである。
皇太子道康親王を味方に引き入れることに成功した良相派が自分の次の時代を築くであろうと考えた良房は、ここに来て人生を左右する大きな決断をする。
良房が男子に恵まれず、妻との間に生まれたのは娘一人だけであることは既に記した。
それまでは明確な後継者を考えていなかった良房であるが、ここにきて明確に後継者を考えるようになった。年齢からいってもこれから妻の妊娠を期待するのは厳しい以上、今居る誰かを後継者に任命しなければならない。
単純に考えれば弟の良相が後継者ということになるだろう。だが、良相の政治力は贔屓目に見ても高いとは言えない。皇太子を仲間に引き入れたことは誉められたとしても、理想を優先させて現実を無視する派閥を形成していることはマイナス要素にしかならない。そして、良相はの事実上のブレインとなっている善男の政治家としての能力は、右少弁としての職務を見る限り、とてもではないが合格点を付けるわけにはいかない。
自分の後継者は単に自分の後を継ぐのではない。この国を操る権力を継ぐのである。その者が必ずしも自分の政治を継承する必要はないが、政治家としての能力は高くなければならなかった。
そう考えた良房の選択は、政治家の才能のある者を選ぶのではなく、政治家を育てることであった。兄長良の三男である藤原手古を養子とし、自身の後継者として育てることとしたのである。
無論、全くの無才能の者を選んだのではない。手古はこのときわずか一〇歳であるが、これぐらいの年齢になればリーダーシップの有無も把握できるし、知性も把握できる。手古はこの点でも合格であった。
また、二人の兄と比べて血筋も申し分ない。二人の兄は藤原氏ではない難波渕子を母とするのに対し、手古の母は藤原北家に属する藤原乙春である。藤原家の血筋を純粋に継承する身としても合格であり、自身の権力だけではなく、兄長良が持つ藤原家全体のトップの地位を継承する身としても申し分なかった。
とは言え、わずか一〇歳の、それも実子ではない子を後継者とすると宣言したらそれは尋常ではない。現実はともかく、良房の示した建前は、実力で這い上がった者を相応の地位に就けるというものである。その良房が、実力ではなく血縁で後継者を選ぶならまだしも、まだ一〇歳の少年を後継者に任命するとしたら、前言無視どころかあまりにも無責任な決断である。
ゆえに、良房は手古を養子にしたことも、後継者に任命したことも極秘にした上で、あくまでも甥への教育という体裁をとった。もっとも、教育のスペシャリストと目されていた良房が家庭内の教育にあたることは誰も不可解とは考えなかったからか、身内の教育に熱心になった大納言という評判は立っても、後継者教育に乗り出したという評判は立たなかった。
良相派が勢力を伸ばしたことを理解した者は多かったが、良房派へのダメージではあっても、良房派の壊滅であると考えた者は少なかった。
まず、主立った役職は良房派の面々が占めていた。
例えば、承和一三(八四六)年一二月八日に、畿内の班田使の任命が行なわれたが、山城国担当に任命された源弘をはじめ、その面々はことごとく良房の教え子たちに占められている。
ところが、その翌年に、国内を仰天させる人事が行われた。
承和一四(八四七)年一月七日、一名の皇族と一四名の貴族に新たな位が与えられ、二五名の役人が新たに貴族入りを果たした。そして、一四名の貴族の一人に善男がおり、二五名の役人の一人に善男と一緒に告発をした伴宗がいた。ここまでは普通である。
だが、それと同時に発表されたことが普通ではない。
伴善男が蔵人頭と右中弁の二職を兼任すると発表されたのである。
右少弁であった善男が右中弁に昇進するというのは弁官局内での出世であり、左少弁を飛び越えての二階級特進ではあっても、弁官として最古参である善男が昇進するのはおかしな話ではない。
問題は蔵人頭。この天皇の側近を勤める職務は未来の出世の第一歩とされ、無事に勤め終えた者は参議入りも約束されたも同然であった。
蔵人頭は天皇の側近として実務を数多くこなさなければならない職務であり、政治家としてはともかく役人としての能力ならば低くはない善男であれば不適格とは言えない職務ではある。だから、善男の実務能力を買ったという考えもある。ただ、善男と同等の能力を持つ役人なら掃いて捨てるほどいるだけに無理して善男を選ぶ必要はなかった。
ここで仁明天皇が善男を選んだ理由は一つしかない。
自分の次の時代を考えたのである。それも、自分の次の時代は皇太子道康親王のものであると考えただけではなく、その時代の側近は良房派から良相派になると考え、その一人である善男を蔵人頭に選んで箔をつけ、権力の交替がスムーズに進むと考えてのことであった。
つまり、良房を見限ったのである。
その根拠は何と言っても良房自身の後継者不在にある。いくら良房の能力が高くても、良房が永遠に生き続けられるわけではない。まだ四〇代の良房がいきなり死ぬとは考えづらいが、それが仮に起こった場合、藤原家の血縁を考えて藤原良相が兄の地位を継ぐのは当然のことと思われた。
そして、そのときは良房がいるがゆえに成り立っている自分の帝位も終わりを告げ、帝位は道康親王のものとなるであろう。それを考えると、今のうちから道康親王の属する良相派の権力構築を図ったほうが時代の委譲は平穏としたものになるであろうとの思惑があった。
また、良房が五体満足でも、自分の天皇としての期間のほうが終わりを迎えるのではないかという思いもあった。
前任者二名、嵯峨天皇と淳和天皇はともに一〇年あまりで退位しており、その後は政務を離れた静かな暮らしを送った。それを考えれば既に即位後一〇年を超えている仁明天皇も、自分の天皇としての役目はもう果たした、そして、皇太子に帝位を譲り、自分は退位を考える時期になったと考えたとしてもおかしくない。
それに、仁明天皇はあまり健康ではない。体調を壊すことが多かったし、数少ない趣味の一つも薬の調合である。天皇という職務の過酷さを考えるとこのまま身体に無茶をさせ続けても限界はあると考えたのではないか。
その思いは上級貴族の人事にも現れた。
承和一四(八四七)年一月一二日、新たに二名の者が参議入りを果たす。源定と小野篁である。前者は仁明天皇にとっては弟にあたり、後者は自身の後継者である皇太子の教育係である。
ともに良房に関わる人物ではあったが、この人事に対する良房の思惑は感じられない。
そして、二月初頭に行われた政策にも良房の思惑は感じられない。
承和一四(八四七)年二月一〇日、五名の貴族を含む六七名の流人がその罪を赦されて入京した。それまでにも複数名の流人がその罪を赦されて入京することはあったが、六七名という数字は多すぎる。そのため、当時の民衆は、この帰京許可をもって承和の変の追放者の全員が名誉を回復し、生存者は公職復帰を果たしたと考えた。
そして、仁明天皇が良房の影響から脱し、親政を開始するのだと考えるようにもなった。時代は次第に良房の元を離れ、仁明天皇とその後継者でもある道康親王の、さらには道康親王の側近である藤原良相や小野篁、そして伴善男の時代が始まるのだと考えるようになったのである。
しかし、六七人全員が承和の変による追放者だとは考えづらい。この時代は死刑が事実上の廃止になっており、国家反逆罪ですら流刑に留まった。だが、もともと流刑が相応しい犯罪が軽くなることはなく、それはやっぱり流刑なのである。
良房はやはり良房だった。
治安の悪化を訴えただけではなく、犯罪者に対抗するための自衛を促した。といえば聞こえは良いが、犯罪者の処罰を公権力の手から離そうとしたのである。
流刑になった犯罪者が罪を赦され戻ってくるということは、犯罪者がまた市中に戻ってくるということでもある。収賄とか横領とかならまだマシだが、殺人犯や強盗犯まで戻ってくるというのは治安を悪くする要素にしかならない。何しろ、犯罪者たちは罪の意識にさいなまれ二度と犯罪をしないと誓って戻ってくるのではないのだ。
こうした犯罪者を解放したらどうなるか。
日々の暮らしが危険になる。
この時代は、武士という存在が明確に意識された時代ではない。だが、自分たちの日々の暮らしを公権力に頼るのではなく自分たちで守るという意識が誕生したのはこの時代である。
武士道とか、身分としての武士とか、そうした意識が誕生するのには時間がかかったが、日々の生活を力ずくで守るための存在が必要だというのは意識されるようになった。
政治家の評価は一つしかない。その人が政治家である間に生活が良くなったか悪くなったかである。治安もその重要な要素であり、向上すれば政治家として高評価になるし、悪化すれば低評価となる。
自分の手から権力が離れていくのを実感していた良房であったが、それが良い結果をもたらしているか否かという判断を怠ることはなかった。そして、それがどんなに善意から生まれた政策であろうと民衆の暮らしを悪くする政策には、あらゆる手段を持って抵抗した。
良房が反律令を訴えたのは、律令が生活を良くすることは無かったからである。生活が良くならないのは律令を守らないからではなく律令を守っているからだと考えた良房にとって、律令を全面に掲げる政治を行なった結果治安が悪くなったというのは、律令派に対する何よりの攻撃材料であった。
承和一四(八四七)年二月一一日、二五名の貴族が新たな役職を手に入れる。
一見するとこの人事に良房の影響を感じ取ることはできないことから、仁明天皇はいよいよ良房の元から独立したのだと多くの人が考えるようになったし、そして、良房が前年から始めた身内に向けての教育も、勢力を失った良房が、次世代を育成してもう一度勢力を取り戻そうとしているのだと考えられるようになった。
良房の実子が明子しかいないことはもはや周知の事実であり、良房が自分の権力を誰かに継がせることができないまま世を去ることになるのは確実と思われていた。人の一生は長くて五〇年と考えられていた時代である。三八歳で権力を握った良房も今はもう四三歳になっている以上、長く見ても良房はあと一〇年生きるかどうか。その一〇年の間に後継者を用意できなかったときに終わるのは良房の権力ではない。良房の掲げた反律令の政治が終わるのだ。
良房の考えに共鳴し、良房の手足となって働く貴族はいる。しかし、その中に良房の後継者はいない。代わりにいるのは、今や明確な律令派となった良相たちである。おまけに、今なお良相は良房の後継者筆頭に考えられていた。
これは、政治信条ではなく権力を求めて派閥を選んだ者にとって、良房を見限って良房の元を去ることを考えさせるきっかけにもなった。
その結果、かつては一部の危険分子しかいなかった律令派が勢力を盛り返すようになっていた。
その律令派の中でも特に、皇太子道康親王の存在が大きかった。
追い求める理想と、現在の現実とを比べたとき、現実のほうが間違いであると考える者がわりといる。
道康親王はそうした人の一人であった。
それだけならば道康親王hそういった考えなのだという理解を示せば済むが、その考えを実践する道康親王の行動は当惑せざるを得ない子どもじみた行動になった。
それがどんなに重要な式典であろうと、良房が出席するというだけで欠席すると言い出すほどであり、実際に病気を理由に欠席したことも一度や二度ではなかったのである。
おまけに、自分には最愛の妻がいるのに良房は自分の娘を妻にさせたと考えるようになってしまった。いくら一夫多妻が許される時代であるとは言え、自分は最愛の妻との円満な夫婦生活を送っておきながら、娘を利用して自分の栄達のために政略結婚をする神経が信じられなかった。
政治信条の違いが無かったとしても、道康親王にとって、あの手この手で自分を利用しようとする良房の存在は疎ましいものでしかなかった。それが伯父であり義父でもあるという関係であっても、いや、それだからこそ、疎ましく感じたのであろう。
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