応天門燃ゆ 1.伴善男登場

 意外なことかも知れないが、平安時代、庶民が宮中に足を運ぶことは自由にできた。ただし、建物に入ることはできない。そのため、屋外で開催される宮廷行事の様子を描いた絵巻物であれば、観客として行事を見物する一般庶民の姿を確認することができる。

 宮中に庶民が詰めかけることは誰もおかしなことと考えなかったばかりか、集めた庶民の数の多さでその人の権勢と人気を知る要素となったほどであり、催し物の主催者はイベント告知を都中で大々的に行ない、宮中に来た者へ現金やコメの支給をしたほどであった。

 ただし、緒嗣も良房も無理して人を集めるようなことはしてない。

 緒嗣は民衆が宮中にやってくること自体を好んでいなかったようなので、あえて人が集まるような努力をするという考えがなかった。人が集まらなくてもそれは願ったり叶ったりといったところか。

 一方、良房はイベントの告知だけで勝手に人が集まった。良房の人気が都中にとどろいていただけでなく、イベントそのものの魅力が民衆に受け入れられていたから。

 現在からすればどうということのないイベントであっても、娯楽の少ないこの時代では充分な楽しみであり、庶民はこうしたイベントを楽しみにしていた。

 同じイベントであっても、緒嗣主催は荘重で上流階級を気取れる内容だが退屈であるのに対し、良房主催は軽いとまでは言わないが重苦しくはなく、退屈しないおもしろさがある。

 だから、宮中で開催される同じ年中行事であっても、主催者が緒嗣から良房に代わっただけで人が大勢集まるようになった。

 とは言え、これにも節度はあり、庶民が入れるのは通常であれば内裏の南に位置する応天門まで。そこから北は限られた貴族のみが入れる区画であり、そうでない庶民が入れるのは特別なときに限られていた。

 逆に言えば、応天門から南は庶民が自由自在に入れるエリアであり、応天門の一帯は庶民の憩いの場であった。

 その応天門で大事件が起こるのは、藤原緒嗣の死後二三年を経てのこと。

 この作品では、緒嗣の死から応天門事件までの二三年を描いていく。

 承和一〇(八四三)年八月二二日、対馬より新羅対策のための兵士の増員要請があった。

 対馬国上縣郡竹敷埼から、この年の一月から八月六日にかけて新羅からの侵略が断続的に続いているという知らせが届いたのである。弘仁年中の流行病による多数の死者の損失が埋まらずにいる現状では対馬の自衛ができないため、増援を頼むという連絡であった。

 「直ちに兵を派遣すべきです。」

 良房はこう仁明天皇に進言したが、意外なところから横槍が入った。

 弟の良相である。

 これは良相に限ったことではないが、実の兄弟であっても公の場では目上の者を位で呼ぶのがマナー。

 「大納言殿(=良房)、現在の本朝の兵力では、対馬の警備に割ける余力がありません。」

 政治家としては一流でも軍事経験を持たない良房と違い、良相はこの時代随一の武将としての実績と経験があった。そして、この時点での日本の軍事力の限界を把握していた。

 「対馬の現状を考えれば、今のままでは新羅の侵略を防ぎきれないではないか。」

 「それはわかっていますが不可能です。問題は兵の絶対数の少なさです。今ここで兵を対馬に割けば他の地域が脅威にさらされます。」

 「ではいかにすべきか。」

 「成すとすれば、防人(さきもり)です。兵の絶対数を増やさねば対馬に兵を割くことは不可能です。」

 「防人か……」

 良房は弟の回答に複雑な表情を見せた。

 志願兵と違い、徴兵である防人であれば兵士の不足も解決する。ただ、農地から人を奪って兵士にするということにもなるため労働力不足が発生。労働力不足は収穫の減少を招き、収入の減少と負担の増大を招く。

 純粋に軍事だけを考えれば良相の言うように防人が最良であろう。だが、軍事以外のマイナス要素が大きすぎた。

 「良房殿、私も防人に賛成します。」

 このとき、小野篁が間に入ってきた。

 「防人となると負担も大きいですぞ。」

 「筑前・筑後両国の失業者を防人とし対馬に派遣してはいかがでしょう。これは対新羅対策のみならず失業対策にもなります。この両国は失業者が多く、博多津で日々を所在なく過ごす者も数多くいます。」

 良房は少し考えてから口を開いた。

 「なるほど、それもありですな。」

 左大臣藤原緒嗣の死に伴い、人臣のトップの座は右大臣の源常(みなもとのときわ)に渡った。このとき源常三一歳。

 この源常は藤原良房の教え子であり、よく言えば良房と理解し合える中、悪く言えば部下であるはずの大納言藤原良房の傀儡であった。しかし、その良房も貴族としては一六年の経験しかなく、他の貴族からすれば若輩者である。何しろこの時点でまだ三八歳。

 そして、その上に立つ仁明天皇が三三歳。

 承和の変は、単に藤原良房に敵対する者を追放した事件ではない。若者が高齢者を権力の中枢から追い出し、トップに立つ者がことごとく三〇代で占められる政権が実現した事件である。

 緒嗣が居なくなったあとの会議は大納言の良房が主導権を握るようになった。ただし、主導権を握っているとは言え、その権限はあくまで大納言のレベルに留まり、大臣の権限とはならない。大臣はただ一人、右大臣源常のみであり、良房は複数の大納言の一人に過ぎない。

 だから、良房の言葉は参加者の一人の発言でしかなく、良房の言葉に対する反対意見が現れ、覆されることも珍しくない。

 ただし、緒嗣存命中のような明確な敵対関係というものは無かった。意見は派閥の意志ではなくその時々の個人の意見に寄り、良房のおかげで政界に復帰できた篁のように明確な良房派の者は無論、兄の長良や弟の良相ですら、良房の意見に無条件で従うということはない。

 このときは、良房・良相両名の折衷案として篁の意見が採用され、九州北部一帯で兵の募集が始まり、対馬へ派遣することが決まった。

 一方、承和の変の敗北者たちは無力感に襲われていた。

 時代は自分たちのものではなく、もう一度時代を取り戻すのも不可能。あとはこのまま死を迎えるまでの長い日々を過ごさねばならないと誰もが考えていた。

 それでも明確な敗者となって追放された者はまだ良い。また、高齢でいつ死を迎えてもおかしくない者もまだ良い。問題は追放されず宮中に残った、引退にはまだ早い年齢の者である。

 承和の変は藤原家の他氏排斥の第一段として挙げられることが多いが、良房は藤原以外の者を追放したわけでも、自派ではない者の全てを追放したわけでもなく、追放したのはクーデターという国家反逆罪に訴えた者達だけ。さらに言えば、クーデターの参加者とされれば藤原の者でも容赦なく追放された。

 何しろ、良房は実の叔父でさえ容赦なく追放しているのである。父冬嗣の弟である藤原愛発は承和の変をきっかけとして追放され、この年の九月一六日、追放解除となることなく京都近郊の山城国久勢郡で死去している。

 一方、藤原家とライバルになるどころか、追放された者の肉親ですら、クーデターとは無縁の者と判断されれば何の処分も下っていない。ただ、よほど優れた才能の持ち主でもないと役職にあり就けなかった。良房の周囲には、良房が大学頭であった頃の教え子という、良房に忠誠を誓う有能な若者がうごめいているのだから、それをかき分けてなお良房に認められる才能の持ち主となるとそうはいない。

 良房の周囲を固める者より劣る才能でしかない者は派閥の流れでしか地位を掴めない。これまでであれば緒嗣のおかげでそれなりの地位を掴めたし、より上の地位も望めたのだが、いきなり訪れた派閥の解消がその道を絶った。

 クーデターの首謀者として罰せられれば自らの苦悩の責任を良房に帰せるし、才能が認められて抜擢されればそれはそれで構わない。しかし、罰せられず抜擢もされないというのは苦痛でしかない。それは、無能者であると判断されることだから。反良房の者にとって、罰せられないでいることがかえって自己の能力を怪しくさせるものになってしまったのだ。

 その上、誰もがクーデターの真の首謀者であると見抜いていた藤原緒嗣は、自派の者が追放されたものの、自身は左大臣の職務に留まり続けていた。ただし、失った時代の流れを取り戻そうとも、再び自派の構築を図ろうともせず、ただ漠然と死までの時を過ごした。緒嗣は手下を見捨てたのである。

 こうなると、自らの無力感はより一層強まる。頼れる者も、頼れる自分もなく、ただ長い長い時間を過ごすのみという絶望が彼らを支配した。


 では、反良房でありながら良房に抜擢されたのはどういった人物か。

 ここでまず挙がるのは、伴善男(とものよしお)。承和の変の首謀者の一人伴健岑と同じ伴家の人物であり、承和の変までは緒嗣派に属していた。善男このとき三二歳。これまで高齢者が多かった反良房の勢力と違い、良房より歳下である。

 善男の父である伴国道(とものくにみち)は藤原種継暗殺事件によって佐渡に追放されている。その上、元々天武帝系の貴族であるため、平城天皇下だけでなく、天智帝系の権力が確立された冬嗣政権下でも冷遇されていた。

 国道の追放が解除されたのは緒嗣政権下。その才能が認められただけでなく、反冬嗣という点でも利害が一致したこともあって、国道は緒嗣のもとで順調に出世を重ね参議にまでなった。

 善男はその国道の五男である。

 佐渡追放中に国道の養子となった佐渡の郡司の子とする説もある一方で、佐渡で生まれた国道の実子とする説、さらに国道の実子であるが生まれたのは佐渡ではなく都だとする説もあり、要するにその出自は不明。

 とは言え、参議まで務めあげた国道の子であることから貴族の一員となったことを誰も不可解とは思わず、また、その知識の深さと頭脳明晰さで一目置かれる人物であった。ただ、貴族たるに必要な何かは欠けていた。緒嗣は、数少ない自派の若者であった善男を重用せず、クーデターにも参加させていない。

 ところが、その善男を良房は抜擢するのである。貴族たるに必要な何かは欠けているが、能力は高いと見てである。

 このときの善男は讃岐国司である。実際に赴任することなく代理の派遣のみで自身は都に残っていたという説もあるが、遣唐使の箔をつけるための役職とは違い、いかに都に留まろうと実務はついて回る。国司としての評判は伝わっていないが、悪評の立つ国司を遠慮なく罷免した良房が、善男については任期満了まで国司を務めあげさせたことを考えれば、まずは国司として合格点だったのだろうと思われる。

 次に挙げられるのは橘氏公(たちばなのうじきみ)。こちらも承和の変のもう一人の首謀者である橘逸勢と同族にあたる。

 人物としては可もなく不可もなしといったところだが、氏公には一つ強みがあった。姉の嘉智子である。

 嘉智子は仁明天皇の実母であり、仁明天皇がまだ皇太子正良親王であった頃から、皇太子の母嘉智子の弟として名を馳せていた。ただ、それを鼻に掛けて権勢を振るっていたということはない。良く言えば長良のような敵を作らぬ性格、悪く言えば人物としては小物だからか、敵視されない代わりに重要視されていなかった。

 緒嗣派の一員であるが緒嗣は氏公に着目することなく、善男と同様、クーデターに参加させていない。仁明天皇を通じて良房と繋がっていると考えたからか、それとも、氏公の能力を見限っていたのかはわからない。

 それでも天皇の叔父というのは威力を発揮するのか、二八歳で中納言に、三二歳で大納言に上り詰めている。

 この大納言に上り詰めたタイミングは承和の変の直後だが、これは偶然ではない。空席となった大納言職に良房が氏公を推薦したのである。

 緒嗣派に属していた氏公に目をつけたのは、才能はともかく真面目に職務にあたる姿勢、そして、小物という評価もできるが敵を作らぬ性格でもあることからという点が挙げられる。

 言わば、兄の長良が務めている役目を、宮中の中枢で引き受けて貰うことを考えてのことである。とは言え、長良ほどの完璧な人間である必要はない。クーデター直後の殺伐とした雰囲気を考えた場合、多く見ても三〇名にも達しない宮中の中枢を穏便にまとめる役割を誰かが果たす必要があった。そして、宮中の中枢というものがたかが三〇名足らずの狭い世界であることから、長良ではなく氏公でもその役を果たせた。これは、宮中の中枢には遠い地位にある長良を無理して出世させるよりは余程容易であった。

 全権力を掴んだと誰もが考えた良房であるが、泣き所がなかったわけではない。

 良房の弱点は多々ある。軍事に対する無知であるとか、京都を離れたことがないことからくる地方の現実性に対する認識不足とか、挙げようとすれば次々と出てくる。

 しかし、こうして挙げられる弱点というものは、他の手段でどうにでも補完可能なものでもあった。軍事の無知に対しては、良相という実の弟がいた。地方の現実性に対しては大学頭時代の教え子たちがいた。

 ただ、良房の最大の弱点はどうにもならないものであった。

 後継者である。

 年齢的にも、自分の跡を継げる実子の一人や二人はいないとおかしいのに、良房は男の子に恵まれなかった。

 かといって、ハーレムでも築いて多くの子を産ませようなど、良房には考えることすら許されなかった。

 良房の妻の潔姫は亡き嵯峨天皇の娘。皇族出身の妻を持つ身である良房にとって、浮気など決して許されることではなく、子どもとは潔姫が産んだ子しかあり得なかった。

 この時代は、どんなに夫を愛し夫に愛されていようと、男の子を産めない妻は簡単に離婚させられてしまう時代である。後継者である男の子を産んでいない潔姫がもし皇族出身でなかったら、潔姫は藤原家の手で早々に離婚させられていたであろう。だが、潔姫は皇族出身。絶対に離婚はありえなかった。

 それに、潔姫は全く子供を産まなかったわけではない。女の子の明子(あきらけいこ)を産んでいるのである。つまり、男の子を産んでいないだけで、出産自体をしていないわけではない。

 この時代、良房の後継者として誰もが考えていたのが、弟の良相である。藤原良相このとき三〇歳。良房の次の世代のリーダーとして君臨し、一歳上の左大臣の源常をさしおいて、今では事実上の良房派のナンバー2にまで上り詰めている。

 その上、良相は良房にない長所を持っていた。武力である。

 武人としての経験を持たない良房にとって、実の弟が武力を指揮できることのメリットは大きかった。良房が誰かに命令する場合、その者がごく普通の貴族のときは特別な関心を呼ばなかったが、良相に命令するときは例外なく関心を呼んだ。その内容がいかに兄が弟にする普通の命令であっても、大納言が当代きっての武将に命令したこととなるのだから。

 良相は良房の忠実な家臣にして忠実な弟として振る舞い、良相自身も自分のことを良房の後継者と認じていた。

 しかし、良房はいささかの疑問を感じていた。

 良相の武人としての能力は高い。だが、政治家としての能力に不安を感じていたのである。

 人をまとめる力ならある。しかし、この弟がもっとも活きるのは誰かの命令を実行するとき。命令を受けたときは自ら先頭に立って行動することで周囲の人を引きつけていたが、自分で命令を考え出して、他者に任せて行動させる能力を欠いていた。

 言わば、良相はナンバー2としてなら有能だが、トップに絶つ器ではないのである。


 九月二九日、九州より良くない知らせが届く。肥前、豊後、薩摩、壱岐、対馬で飢饉が発生しているという知らせである。これまでの良房であれば私財を配給に回していたが、今の良房は国家財政をも握っている。

 国家財政を握る前からそうした困窮を見逃すことがなかったのが良房である。仁明天皇の名ではあるが九州各地で良房の命令よるは国庫からコメの支給がを直ちに実施された。

 それだけであれば、亡き父や、亡き緒嗣が行なってきたことと同じであるが、その内容は大きく違う。

 まず、今の九州に必要なのは、コメを民衆に渡すことだけではないと判断。このときの九州で最も必要だったのは土地の開墾と維持であり、良房はそのための費用としてコメの配給をした。

 耕作面積と収穫量、そして人口のバランスが崩れだしてきたのがこの時代の九州である。

 何しろ、人口は増えているのに、田畑の面積は変わらないどころかむしろ減っている。

 海の外からは海賊、国内では盗賊が農村を荒らし回っていた。ここのところは下火になったとは言え、こうした不安要素は完全に無くなったわけではない。こうした犯罪者から逃れるため、農民は土地を捨て、太宰府などの都市に避難しているのだ。それも目前の安全のみを考えての避難であり、避難先での暮らしは考えていない。

 結果、耕作者を失った土地は荒れて田畑が減り、収穫が減り、飢饉が悪化している。

 防人として職を与え失業を減らすのは一瞬だが効果がある。だが、防人に生産性はない。生産を増やし失業をもっと大規模に解消できるのは、田畑を復活させ維持させることである。

 では、田畑の復活はともかく、田畑を維持するということはどういうことか?

 単純に言えば、武士である。

 田畑の維持とは、単に田畑を耕し続けるということではない。田畑を荒らしに来る存在から土地と農民を守ること。これが田畑を維持するということである。

 武士という存在がいつ誕生したのかはわからない。

 武人という存在は古事記や日本書紀の時代から存在しているのだから、戦う人という概念は日本国誕生以前から存在していたと言って良いし、戦場に赴く兵士をこの目で見た者も多い。ただし、そうした兵士たちはイレギュラーな存在であり、延々と存在し続ける武人という概念はほとんどなかった。

 存在し続けている武人を強いて挙げれば、近衛、衛門、兵衛、検非違使といった、国家機関に組み込まれている役人の一部が武人と言えなくもないが、これらはあくまでも国の役人であり、武人としての要素は二の次。実際、こうした職務に就く者はまず役人であることが求められ、当人の武力は重要視されていないし、こうした部署に勤める者も、制服の一部として剣などの武器を持ってはいるものの、実際は役人として職務をこなし、出世すると武力とは無関係の職場に異動する。

 しかし、武士は違う。

 後世においてはともかく、誕生当時の武士は国家機関とは無関係であった。

 そして、自分たちの治安を脅かす要素、すなわち海賊や盗賊から自分たちを守る存在が、誕生当時の武士だった。

 誕生当時の武士は武士としてだけで食べていけたわけではない。普段は農民として土地を耕しながら、自らの身と土地に危険が及ぶと武器を手にして立ち向かうのが、誕生当時の武士だった。

 良房が武士の存在を明確に意識していたかどうかは怪しい。しかし、この時代にはもう武士が登場している。そして、農村に公権力ではない武力が登場するのが通常の光景となっている。

 良房はこうした農村の武力をサポートしたのだ。そして、九州でのコメの配給、これは武力が存在し続けられるように用意された予算であった。

 無論、後の武士という存在の確立まで良房は考えていない。いや、良房だけでなくこの時代の誰もが、後にこの国を操ることとなる武士という集団が誕生したことなど想像だにしていない。しかし、律令の定める牧歌的な農村の光景などもはや存在せず、自らの暮らしは自らで守るしかない時代になっていることは、良房も、その周囲の人も、充分理解していた。

 この時代は白村江の戦いで百済が滅亡してから二〇〇年近く経つ時代であるが、名目上、百済という国家が完全に消滅したわけではない。

 と言うのも、白村江の戦いに敗れた百済の遺民が日本に逃れてきたときに百済の王族も日本に流れ、日本で亡命政権を築いていたからである。つまり、現実はともかく、理論上はまだ百済という国家が存在しており、この時代の史料にはしばしば百済の国家元首である『百済王』という言葉が登場している。

 ただし、この『百済王』という言葉の意味するところは白村江の戦いを境に完全に変わるようになった。白村江の戦いまでは文字通り百済という王国の国王を意味していたが、白村江の戦い以後は、天皇に仕える一貴族家系の名字へと変化していったのである。

 理論上は百済王権の継承であり先祖をたどれば百済王国の国王に繋がるが、実際は藤原氏や橘氏といった貴族と同等の一家系に留まる、ということ。つまり、『藤原氏』や『橘氏』と等しい『百済王氏』である。

 ただし、ここには二つ注意点がいる。

 一つは、その特殊性ゆえに利用されることが多かったこと。

 自らの血統に権威を持たせるために、自身を百済王に繋がる家系と名乗るケースは多かった。例えば、桓武天皇は、対新羅政策のために実母が百済王氏の出身だという家系図を作り出し、自身は日本国の帝位と同時に百済王権を持つと主張した。また、新興貴族が自身の権威のために百済王氏の血を引くと名乗り、一族の歴史が浅い理由を白村江の戦い以後に日本に亡命してきたからだとすることも多かった。

 つまり、自称が多いため誰が正当な百済王氏なのかわからず、現在の研究者でも百済王氏の家系図を作り上げることが不可能となっている。

 もう一つは、百済王氏は藤原氏や橘氏と違って、貴族としての出世で目に引くものがないこと。一人だけ従三位まで昇った貴族がいたが、それも特筆すべき内容ではない。強いて挙げれば桓武天皇の実母が百済王氏出身という公式記録があるが、それが仮に事実であったとしても、歴代天皇の皇母を多数輩出してきた貴族と比べると、一人しか皇母を輩出していないというのはやはり特筆することにはならない。

 この百済王氏であるが、国内では影の薄い貴族であっても、対外的には意味があった。中国の皇帝は周辺の国々の上に立つ存在であるという立場を貫いていたが、日本の場合、天皇は中国の皇帝と同格であり、ゆえに日本は中国と同格であるとしていた。

 その論拠となったのが、天皇の配下に他国の国王がいるという論理である。蝦夷や隼人の制圧に乗り出したのも、自らの安全を図ると同時に、多民族を支配下に置く政権であるという事実を作るためでもあった。その中でも特に、天皇の配下に百済王が存在し、その地位も一般の貴族と同等の家臣であるという論理は対外的にかなり有効であった。かつて中国の支配下にあった王権が、中国の元を離れて日本の元に下ったのである。これは、他国の王を従わせる強い権力を持つ存在として天皇を定義し、天皇の統治する日本という国の格を引き上げる効果があった。

 百済王氏はその特殊性から存続のために国家援助が与えられる貴族であり、他の貴族が有していた一族滅亡というリスクを回避できている、はずであった。

 ところが、良房が権力を握った頃から百済王氏の名が史料から消えてくるのである。無論、完全に消滅するわけではなく散見はされる。ただ、その他大勢の貴族となるのである。

 承和一〇(八四三)年の終わり頃の史料を読むと、奇妙な記述が出てくる。

 一一月一六日、陸奧国に住む下級役人が新たな名字となったとの記述が見える。その名字の決まり方は安易で、白河郡にいるから『白河』、安達郡にいるから『安達』というように、それまでの名を全く生かさない改姓が行われている。

 一二月一日には出羽国でも改姓が行われており、そのときは『大瀧』姓を名乗っている。この由来は何も記されていない。

 何れの者も役人としての地位は低く、また、この時代は現在と違って改姓など日常の光景であった時代である。つまり、わざわざ史料に残すほどのことでもない。

 にも関わらず、彼らの改姓は史料に残った。なぜか。

 それは彼らが百済王氏であったからである。

 百済王権を継承する本家ではなく分家であった可能性が高いのだが、それでも、百済王氏を名乗ることで百済王権を持つ貴族の一員であるより、百済王氏より分かれた別の貴族や役人となることを選ぶ者が出てきたということである。

 そして、これは良房のいつもの行動パターンであった。

 良房は、無くそうとした場合に論争が巻き起こること間違いない事物を、明確に無くすことはしない。気がついたら消滅しており、元通りにはもうできなくなっているという結果になる方法を良房は選んでいる。

 良房は百済王氏を無くそうとした。単に一貴族の名字を無くそうとしたのではない。日本国内に保持している百済王権を無くそうとしたのである。

 これは論争を生むに決まっていた。

 百済王氏の存在は日本国の威信に関連する。

 百済王という姓を名乗る貴族が日本国内に存在し、特別な存在として扱われ国費で養われているが、これを誰もがおかしなことと考えなかったのは、百済王氏の存在が日本国の威信に関わからである。それは全て、百済王権が天皇の下に存在することを示すためであった。

 これは新羅や唐との正式な折衝があるとき、すなわち、遣唐使や遣新羅使の派遣を考えれば極めて有効であった。日本国のトップは天皇であり、他の国のように王ではない。天皇は唐の皇帝と対等に渡り合える存在であり、その証拠に百済王を従えている、と主張できる。

 しかし、良房は遣唐使も遣新羅使も見限った。これもまた正式な廃止ではないが、遣唐使や遣新羅使という正式な国交使節を自然消滅させることを考え、実行しつつあった。そして、他国との折衝は民間交流に任せるとした。

 正式な国交使節であるならば百済王を従えることが意味を成すが、正式でなければ百済王を従えることが意味を成さなくなる。民間通商において求められるのは交易品の有無であって、国の威信ではない。

 そうなると百済王氏の存在は不要となる。そして、不要となった国の威信を維持するために特別な貴族を用意し続けることは無駄であった。

 それでも百済王氏から有能な貴族が輩出されているのであれば問題ないが、百済王氏からはこれといって目立った貴族が輩出されていない。

 人材を輩出しないのに貴族として維持させることは無駄と考えた良房は、百済王氏に対して行われている国家援助を打ち切るとした。無論、ただ単に打ち切るのではない。本家から外れた者を百済王氏から独立させ、役人と貴族の世界に送り込ませた。それも、百済王氏に対して与えられる国家援助より多くの給与を得られる役職を用意して。

 本家はともかく、百済王氏の分家となると、かなりの割合で満足いく生活を送れない者が出ていた。という状況で与えられた、豊かな暮らしになるチャンスである。役職は役人なのだから特別な貴族である百済王氏に比べれば格下だが、給与はそのほうが多い。ただし、百済王氏ではなくなるため国家援助を受けられなくなる。

 良房は百済王氏の数そのものを減らすことでの、百済王氏の消滅を企画したのだ。

 遣唐使も遣新羅使も無くし、百済王氏も無くそうとした良房であるが、国外との折衝を無くそうとしたわけではない。

 それどころか、良房が権力を握って以後、唐と日本との通商が活性化するのである。記録を見ても遣唐使の派遣の記録はなくなるのに、唐の商人の日本滞在の記録が続出し、ついには日常の光景となる。ついこの間までは唐人の来日自体が珍しく、たまたま太宰府に訪れていた唐の商人を都に招いて唐の情報を調べようとしていたのに、今では、唐の商人も、唐の情報も気軽に接することができるようになった。

 増えたのは人や情報だけではない。唐の産物が日本にもたらされ、日本の産物が唐の市場に並ぶことが日常の光景となった。その結果、日本国内では高級品とされ、よほどの金持ちでなければ手に入れることのできなかった唐の産物の値段が下がり、一般庶民にも手に入るようになった。日本国内で発掘される唐製の陶器は、この時代になると急激に出土量が増える。流通の絶対量が多かったからであろう。

 そして、この折衝に新羅は絡んでいない。

 絡まないのは当然で、九州を発った民間の船は東シナ海を東西に横断し、明州(今の寧波)や、長江を遡った揚州へと直行している。帰路も同じで、明州や揚州を発った船は東シナ海を横断して九州に到着している。太宰府が九州の中心であり博多が九州最大の貿易港であることに変わりはなく、新羅経由で山東半島に向かう航路も残っていたが、太宰府のみに限定されていたはずの海外交易はその決まりが有名無実化して、肥前国松浦など、九州西部が唐との交易拠点として発展していくこととなる。

 松浦などには唐の商人が常駐するようになり、日本の商人も明州に常駐するようになる。そして、この間を往復することで、結果として、亡き緒嗣が当初企画した新羅を通さぬ遣唐使と同じ結果が生まれた。

 緒嗣は遣唐使にこだわるあまり新羅の力を必要としただけでなく、乗組員の四人に一人を亡くすという被害を生みながら、遣唐使という外交自体は成したものの、唐との直接折衝という当初のもくろみは失敗している。

 一方の良房は、遣唐使にこだわらないことで緒嗣が狙った結果を手にしている。そこに正式な外交はないが、通商なら確立されたのである。

 そして、この貿易で莫大な資産を手にすることになったのが二人現れた。

 小野篁と良相の二人。

 隠岐追放からの帰還時に全資産を失った篁は、自身のパイプを利用しての貿易に身を乗り出すこととした。とは言え、隠岐から戻ってきたときは全資産を失っただけでなく、家族も使用人も居なくなっていたという有り様。これでは貿易の元手もなければ人材もいない。

 さらに、それまで持っていた新羅とのパイプは完全に途切れていた。新羅に対して睨みを利かしていたのは昔の話であり、今の篁は新羅にとって単なる障壁となっている。その篁に残されたパイプは唐の商人とのそれであるが、中継となるべき新羅が頼れないとなると、新羅を通さず直接唐と接触しなければならない。それは、船の安全を考えれば海賊も出没する危険な海域を、海賊を逃れるとなると海難に遭う可能性の高い危険な海域を進む航海となる。ゼロからの出発となる者にとっては利益をもたらすのが困難な条件が揃っていた。

 そこで手を貸したのが、篁の弟子でもある良相であった。長兄の長良や次兄の良房が大土地所有に乗り出すことで資産を生み出したとき、良相は権力の乏しい一役人に過ぎず、兄たちが乗った流れに完全に乗り遅れている。そのため、兄たちのような大土地所有は最初から諦めていた。

 当初は深く考えずに始めた師匠の手伝いであったが、すぐに良相は貿易に必要不可欠な人物となった。

 良相は師匠以外の者の船を分け隔てることなく、日本と唐との交易に携わる者であれば、日本人であろうと、唐人であろうと、誰もに保護を与えた。日本人のみならず、それまで新羅経由の交易をしていた唐の商人が、より安全な良相の保護下を選ぶようになったほどである。

 良相には兄たちにはない武力という後ろ盾があった。そして、これこそが誰も目を付けていないビジネスチャンスでもあった。

 自然の驚異から逃れる海域の危険性は海賊である。ただし、海賊が海賊として存在し続けられる海域ということは、無事に航海しさえすれば莫大な利益があがるという海域でもある。でなければ船がわざわざその海域を通るわけがない。

 だから、問題は海賊である。海賊に対処するために良相の息の掛かった者たちを送り込んで船を守ることは公私ともにメリットのあることだった。

 公私の公のメリットは何と言っても安全である。時代最高の武将が、船を守り、人を守るというのは、航海者に安心と安全をもたらす。しかも、その守る船というのが国の正式な外交船ではなく、どこにでもいる民間人の船であり、その上、国籍による差別もしないというのは、貴族として大いにアピールできる要素となった。

 そして、公私の私のメリット。これは公のメリットのような崇高なものではない。良く言えば保険料、悪く言えばワイロである。

 良相の手による保護は無料ではない。良相は船と人を守ったが、守られる側は貿易によって得られる利益のいくらかを良相に渡さねばならなかった。もっとも、こうしたボディーガード料はこの時代普通であるし、良相は他の者より安い値段で保護を国家予算に頼ることなく請け負っていたため、良相を悪く言う人はいなかった。

 それだけでなく、良相の保護を受ければ今までならば払っていた通行料や港湾利用料、つまり、船を通したり船を停めたりするときに払う額を無料にすることまでできた。

 この通行料や港湾利用料というのは法に定められた正式な負担ではなく、海賊が船を襲わない代わりに要求する上納金である。法に従うのであればこうした負担は払う必要はなく払うべきでもないのだが、刀を振り回して暴れている奴がいて、下手な抵抗をすると何されるかわからないという暴力の前には黙り込まなければならなかった。この状況に対しては当然ながら不満もあったが、商人にとっては従わなければ命に関わる問題である。

 というところでの良相の登場である。海賊が今までのような上納金を要求すると、今度は海賊のほうが命に関わるようになった。当初は命知らずの海賊が今までのように上納金を要求したことがあったが、その海賊が問答無用で船ごと沈められるのを目の当たりしては、どんな海賊も黙り込まざるを得なくなる。

 今まで苦しめられていた海賊が名実ともに消え失せたことは商人たちにとってこれ以上ない慶びであり、数多くの商人が良相のもとに身を寄せることとなり、良相のもとには同時に莫大な資産が入るようになった。


 この日本と唐の海運から閉め出された新羅はさらなる混迷を深めることとなっていた。

 張保皐(チャンポゴ)(「張宝高」とも記される)によって一時は安寧を取り戻した新羅であるが、この時代は再び治安が悪化していた。自らが犯罪者とならなければ犯罪によって命を奪われる、そんな社会の誕生である。

 犯罪が嫌なら国境の外に逃れる難民となるという手段もあったが、国境を接する渤海や、海の向こうでの日本における新羅人の評判は最悪だった。商人としてやってくる者が市や港に滞在することは特に何も言われなかったが、難民となった者を快く受け入れる雰囲気は失われており、長期滞在をすることなど、そして永住することなどは無謀な考えであった。

 そうした新羅人の数少ない活躍の場として残っていたのは海運だった。船に関する技術においては、日本も、唐も、新羅には勝てなかった。新羅人のうち、優れた操船技術を持つ者は貿易船の船員として雇われ、東シナ海の航海も可能な船を造る船大工の船は造るそばから高値で売れていった。

 また、張保皐が築き上げていた日本と唐との中継貿易をそのまま引き継ぎ、明州ではなく、山東半島~新羅~日本という既存の貿易ルートで商売をする商人もピークを過ぎたが存在はしていた。例えば、一二月九日には、唐に滞在していた僧侶の仁好が帰国するときに新羅人の操る船に乗り、新羅人の張公靖ら二六人と長門国に来着したという記録が残っている。九州西部に来着しなかったのは、山東半島を発つルートを選んだからであろう。

 張保皐の最盛期には、山東半島に新羅人コミュニティーが存在し、唐の国内には新羅商人が数多くいたという記録もあるが、こちらもピークを過ぎていたと考えられている。

 もっとも、これは新羅商人だけの問題ではない。唐皇帝の武宗による仏教弾圧(会昌の廃仏)の結果、在唐の外国人が仏教を信仰することも禁止され、数多くの外国人が棄教ではなく帰国を選んだこともある。また、ウイグルやチベットへの侵略が負担を招き、経済の疲弊を生んでインフレの悪化とGDPの減少を呼び寄せ、唐に留まって商売をすることのメリットが薄れてきつつあったという側面もある。

 いずれにせよ、これまでのように、唐が絶対的存在として君臨し、新羅が海運を担うということで安定していた通商関係は、唐の経済的地位の低下と新羅の海運の必要性の低下によって、次第に壊れてきつつあった。

 この事態からの脱却を狙った新羅は、三つの手段で日本への接近を試みる。

 当初考えたのが正式な使節の日本への派遣であるが、これは計画だけで実際の派遣とはならなかった。新羅国内の治安悪化と反乱の続出という状況にあって、当時の新羅王である文聖王に日本へ使節を派遣する余力などなかった。

 次に考え出されたのが過去に何度もしてきた強行上陸であるが、新羅の海賊が良相の軍勢の前に散々に敗れ去る状況が続出している以上、かつてのような海賊とも商業ともつかない荒くれた交易は不可能であった。

 そこで、最後の手段となる。

 太宰府に限定されているが日本と新羅との民間交易自体は禁止されたわけではない。その地位が低下していることが問題なのであって、地位の再上昇があれば新羅は希望している結果、すなわち、これまでのような新羅の海運を日本が頼る貿易を確立し、これによって利益を手にできる環境の復活が実現する。

 問題は、どうやって地位を上昇させるか。今は日本と唐とが直接折衝する時代であり、わざわざ新羅を通すとなると、新羅を通したほうが大きなメリットを得られるか、新羅を通さなければ得られない品を取り扱うかしかないが、前者はもはや存在しなくなってしまっている以上、後者しかない。と書けば格好はつくが、要は法に触れる品を扱う密貿易である。

 そして新羅が考えたのが、日本国内に密貿易の協力者を見いだすことにある。

 新羅が目をつけたのは、承和の変のクーデターにおいて、クーデターの重要人物であったにも関わらず追放されずにいた人物、文屋宮田麻呂(ふんやのみやたまろ)であった。

 追放されなかった理由は簡単で、承和の変の前に筑前国司を解任されて京都に呼び戻されていたから。それが緒嗣の差し金であろうと、理論上はすでに処罰を受けていた以上、さらなる処罰を下すことはできはなかったということである。

 そして、これも緒嗣の差し金に寄るのだが、京都に呼び戻された宮田麻呂の資産は没収されることなく留め置かれている。なぜなら宮田麻呂が交易によって手にしていた物資を緒嗣が必要としていたから。

 その物資というのは武器である。クーデターのために用意させながら、クーデターが血の惨劇をもたらす前に終結したこともあって、宮田麻呂が国外から持ち込んでいた武器はそのままとなっていた。

 経済的地位の低下を目の当たりにしていた新羅商人にとって、日本との通商関係を再構築するためのターゲットとして宮田麻呂は最適だった。何しろ、これまでの宮田麻呂は取り扱う品に多少のブラックな要素があっても応じてきたからである。

 ところが、宮田麻呂はこれに困惑した。

 先にも述べたが、京都に召喚された宮田麻呂は資産を没収されたわけではない。従五位下という貴族としてはかなり低い地位に留まったまま動かしてもらえず、それ以上の出世は無理、役職に就くのも無理と考えた宮田麻呂であるが、それまでため込んでいた資産のおかげもあって、苦しい生活に追い込まれていたわけではなかった。

 つまり、宮田麻呂には、ここで無理して新羅の誘いに応じる必要はなかったのである。

 その上、宮田麻呂は筑前国司時代に新羅の武器を密輸していたために処罰され、免職させられた身である。武器の密輸は単なる密輸では済まない国家反逆罪であり、再犯となったら今度こそ命に関わる。

 というタイミングでやってきた新羅からの誘いは宮田麻呂に二択を迫るものであった。窓際族からの脱出が難しい以上、命に危険を感じるとしても新羅からの誘いに乗って財産を築き、地位を築く礎とするか、今の資産で満足して新羅との誘いを断り命の安全を図るか。

 ここで悩んだことは宮田麻呂の人生を大きく悪化させた。

 一二月二二日、宮田麻呂の従者であった陽侯氏雄(やこのうじお)から、主君が新羅との密貿易を企んでいるという密告が仁明天皇の元に上奏された。この知らせを受けた良房は、左衛門府に命じて宮田麻呂への家宅捜索をさせる。

 京都の自宅と難波津付近の別邸に対する捜索が行なわれた結果判明したのは大量の武器である。元はと言えば緒嗣が極秘裏に命令して密輸入させた物であり、それが使われることなく宮田麻呂の屋敷内に保管されていた。

 宮田麻呂は、それらの武器は亡き緒嗣の命令により集めさせられていたものであると主張した。また、新羅との接触を引き受けてはいないとも弁明した。しかし、新羅との接触を完全に断ったわけではないことは事実であり、宮田麻呂は家宅捜索を拒否することができなかった。

 二日後の一二月二四日、密告を上奏した氏雄が左近衛府に出頭する。同時に、宮田麻呂の屋敷で発見された武器の一覧情報が届いた。

 京都宅。弓が一三張。胡録(矢を容れる筒)が三本。矢が一六〇本。剣が六本。

 難波宅。鎧甲が二人分。剣が八本。桙が三本。弓が一二張。胡録が一〇本、ただし、矢の本数は不明。

 以上である。

 この報告を受けた良房は、宮田麻呂の武具が微妙な量であることに戸惑いを見せた。

 「犯罪を成すには多すぎる。だが、謀反を起こすには少なすぎる。これで謀反を成せるものか?」

 この良房という男は、死ぬまで戦場と無縁の暮らしをした男である。武具に関する知識は素人と言うしかない。

 武具のことならば専門家に訊ねるべきと、良房は良相に報告書を見せた。

 「仰いますとおり、この量では、せいぜい一〇名前後の武人しか集められませぬ。しかし、謀反を成すには充分な数です。」

 「なに!」

 「二〇〇ほど前、我が祖先(=藤原鎌足)は、一〇名前後で、天智帝とともに蘇我入鹿を成敗いたしました。それと同じことを宮田麻呂が考えたとすれば、謀反は成り立ちます。兄上、あなたを殺すことでです。」

 良相の言葉には重みがあった。

 謀反にしては少ないと誰もが感じた武具の量。しかし、武人でもある良相には、政府の中枢部を殺害することによるクーデターを起こすのに充分な量と感じた。

 一二月二六日、宮田麻呂への尋問開始。尋問は、参議滋野貞主、左衛門佐(さえもんのすけ)藤原岳雄の両名によって行なわれた。

 良房は宮田麻呂への尋問を躊躇していた。しかし、良相はそうは考えなかった。

 良房はすでに罪に対する罰が下された元罪人と見ていたのに対し、良相は宮田麻呂をまだ罰の下されていない罪人と考え処分すべきとしたのである。

 表向きの理由は謀反を計画したこと。何しろ新羅が宮田麻呂と通じて行なおうとしたのは武器を主とする闇取引であり、ここで宮田麻呂を排除することは闇取引の接点を失わせ、国内情勢を安定させることにつながる。

 それに、謀反と呼ぼうがクーデターと呼ぼうが、あるいはより実情に即してテロリズムと呼ぼうが、こうした暴力事件は、発生してから取り締まるのでは遅すぎる。いかに言論の自由のある現在でも、暴動を起こす自由はない。こうした暴力を芽のうちに摘み取り血の惨劇を事前に防ぐことは執政者の義務でもある。

 ただし、裏の理由も探る必要はある。

 それは、良相が交易で財を成していたということ。

 いかに交易の中身が闇取引であろうと、宮田麻呂は新羅との接点を持つ身であり、返答していないとは言え新羅を通した交易に手を出す可能性を持っている身である。一方の良相は新羅を通さぬ交易で財を成している。ということは、良相にとっての宮田麻呂は同じ市場でシェア争いをするビジネス上のライバルとなる可能性を持つ存在であり、宮田麻呂の破滅は良相にとって大きなメリットをもたらす。

 公私ともの理由で、宮田麻呂の芽が大きくなる前に摘み取ることに良相は執念を燃やした。

 承和の変においては、その真否は別として拷問が行なわれたという記録が残っているが、このときに拷問が行なわれたという記録は残っていない。記録に残されなかったのではなく、揃っている証拠だけで充分だったからか、あるいは拷問をする前に全てを供述したからか、何れにせよ拷問をする必要がなかったのであろう。

 宮田麻呂を被告とする裁判が直ちに催され、一二月二九日、謀反の容疑で有罪宣告が下った。

 主犯、文屋宮田麻呂、死刑。ただし、恩赦による減刑で伊豆国への流刑となる。

 この事件に関しては共犯者もおり、宮田麻呂の長男の忠基が佐渡国へ、次男の安恒が土佐国へ追放となる。また、宮田麻呂の従者であり、新羅との直接の折衝にあたっていた和邇部福長は越後国へと追放され、その他の共犯者は揃って出雲国への追放と決まった。

 逆に、密告した陽侯氏雄は大初位下の位と筑前権少目の役職が与えられた。一見すれば無位無冠から役職のある役人への“出世”だが、それほど地位も高くなく、遠い九州への追放である。国を血の惨劇から救った報酬としては低すぎるが、宮田麻呂の残された関係者から身を守ると同時に、これが前例となっての出世目当ての無意味な密告を防ぐにはこうした措置が妥当なのだろう。

 研究者によっては、この宮田麻呂らの追放を以て、承和の変の終結とする人もいる。


 承和一一(八四四)年の正月は大雪で始まった。

 京都に降りしきる豪雪は、一月一日の定例行事である朝賀を中止としたほどである。

 この一月の定例の人事改編で、良房は自派の者による政権固めをさらに推し進めることとなった。

 一月七日、実に四三人もの皇族や貴族に新たな位が授けられ、良房の兄である藤原長良がこのとき従四位上に出世。さらにその四日後の一月一一日には従四位上になってわずか四日の長良が参議に加わることとなった。また、位の異動はなかったが良相が蔵人頭に就任し、仁明天皇の秘書役を務めることとなった。

 法制上、左大臣、右大臣に次ぐ役職である大納言に四〇歳の良房が就任していることを考えれば、三一歳での蔵人頭就任である良相は遅めだが許容範囲だとして、四二歳になってやっと参議になった長良の出世はあまりにも遅い。

 だが、これは長良が自分から選んだ道である。生涯を弟の影として過ごすことを決意した長良は、並の貴族ならば誰もが願っている参議になることすら躊躇していた。長良のこれまでの国政への貢献を考えれば、参議どころか、最低でも中納言になっていなければおかしいのに何ら文句を言っていない。

 長良は出世を完全に見限っていた。出世することを求めないどころか、出世に繋がること自体を拒否している。位が上がることも拒否しているし、将来の安定に繋がる地方赴任も良房の権力に繋がるのでない限り拒否し続けた。選ばれたときでさえ、自身は京都に留まったまま良房のサポート役に徹している。

 このときの長良の参議就任も、良房に懇願されて仕方なくといった感じであり、長良も『それが弟のためになるならば』と考えてから引き受けている。

 しかし、なぜこのタイミングで長良を参議に就任させる必要があったのか。貢献を評価するならもっと早く参議以上になっていなければおかしいし、影に徹する兄の意志を活かすなら参議にすることはかえっておかしい。

 そこで、注目すべきは弟の良相である。

 この頃から良相が野心を露わにしだしたのだ。

 良相は、兄の影になることを選ぶ性格ではなかった。自らが表に立つことを選び、良く言えばことあるごとに自分が目立とうと、悪く言えば出しゃばとうとした。

 その上、良相はこのとき良相派とも言うべき派閥を構築しつつあった。

 この弟の牽制役に長良への権力付与は必要だった。

 この時点において、国の最高実力者は大納言藤原良房である。しかし、藤原北家のトップは良房ではない。藤原北家のトップの地位を冬嗣から継承したのは長良であり、藤原北家の財産も長良が握っている。この、長良が握っている藤原北家のトップの地位は後に「藤氏長者」と名付けられる公式な権威として成立するが、この当時はまだ概念のみで、名称もなければ公的なものもない。しかし、それは充分魅力ある地位として羨望を集める地位として認識されていた。

 この魅力ある地位を良房が手にすることはあり得なかった。

 藤原北家に限ったことではないが、原則として、一族のトップは長男が継承することとなっている。もっとも、藤原冬嗣は藤原内麻呂の次男だから、原則が鉄則ではない。しかし、いかに良房の協力者となる人生を過ごすことを決意した長良でも、そして、国家権力を握っている良房相手であっても、実の息子のいない良房にトップの座を譲ることは考えることすら許されることではなかった。なぜなら、その地位にある者の最大の役目は血統の継続であり、長良にはこの時点ですでに五人の息子に恵まれている。その誰もがまだ幼子ではあるが、長良の実の息子がこれだけいる以上、実の息子のいない良房が一族のトップの地位を望むことはなかった。

 それゆえ、良房は政治家としての地位には固執したが、一族内での地位には何ら興味を示さなかった。父藤原冬嗣が生前持っていた権力のうち、藤原北家の権威と財力を長良が、政治家としての権力を良房が受け継ぐことで現在の二人が存在している。そのバランスを壊そうなど、長良も良房も考えたことがなかった。

 しかし、良相はその地位を狙っていた。長兄長良からは藤原氏のトップの地位、次兄良房からは政治家としての権力、その両方を受け継ぐことを考えだしていたのである。

 もっとも、良相が一人でその野心を考えたとは考えられない。

 それよりも、周囲が良相をそのように祭り上げ、良相を利用しようとしたと考えるほうが正しい。

 良房が権力を握った瞬間、良房の忠実な手足が大勢誕生したと同時に、良房への反発を示す者も大勢誕生した。そして、このときの良相には、反良房派をまとめるのに適切な状況が揃っていた。

 蔵人頭という出世間違いなしという地位にあり、当代最高の武将として名を馳せ、そして、最大権力者藤原良房の後継者筆頭とあっては、誰もが良房の次の時代を担うのは良相と考える。それは、今は手にすることができずにいる希望を次の時代に託さざるを得なくなっている面々にとって、最高の偶像、すなわち、良相の時代となれば自分たちの時代になるという希望を抱かせる偶像とさせる要素であった。

 では、反良房派とは何か。

 これは緒嗣派の残党と、派閥未定の若者の二つに分けられる。

 まずは緒嗣派の残党であるが、これはさらに二つに分類される。

 一方は、本人の意思とは無関係に血縁関係を優先させられた結果、緒嗣派に加えさせられた若者、すなわち、強制された緒嗣派である。

 自身は良房派に就きたかったのに、親や兄、親族の強制で緒嗣派に参加させられ、クーデターに加えさせられた者は、クーデター失敗後、争うように良房派に身を投じた。

 だが、こうした者達を満足させられる地位を良房は用意できなかった。彼らは当初、堂々たる良房派になったことでこれからは自分の栄華が期待できると考えていたが、時間が経るにつれ、元からの良房派のように恵まれた役職にありつけていないことに気づきだした。その結果、最初の期待が大きかった反動もあって、良房への失望を呼び寄せていた。

 二つに分類されるもう一方は、政治信条が良房と噛み合わない、明確な緒嗣派である。

 律令を神聖不可侵と考え、律令に従う政治を行うことこそ正しい政治と確信する者にとって、良房の政治は容認できるものではなかった。その結果、良房の掲げた反律令という考えへの反発から、緒嗣派へ参加した。

 その筆頭として挙がるのが伴善男である。

 善男は緒嗣派の一員でありながらクーデターに参加していない。そのため、罪に問われることもなく、その能力を見込まれてある程度の地位を得ている。ただし、律令遵守を主張し、良房の掲げる反律令には従わないことを明言している。

 良房にとって、律令を守るとか破るとかはどうでもいいことであって、それで人生を左右することにはならない。ところが、善男にとってはそれこそが命を懸けるに値する最重要事なのである。

 これは理屈ではどうにもならない感情の相違だった。

 次に派閥未定の若者であるが、これもまた良房の行なった人事による。

 良房は、自らが宣言したとおり、良房派の面々が権力を握るときに高齢者の排除をしたが、権力を握った後でその下の世代を招き入れることが少なかった。

 これは良房だけの話ではない。古今東西、権力の入れ替えを企む者は多いが、それは自分が権力を握るにはどうすべきかという企みであり、まだまだ現役として権力を握っている状態でありながら、自分たちより下の世代に権力を渡すにはどうすべきかという企みは滅多にない。

 おまけに、このときは権力を握ってからまだ三年しか経っていない。権力を握るまでに一五年以上の時間を消費したことを考えれば、三年も、ではなく、たった三年、と考えてもおかしくない。これでは若者に権力が渡るなど考えづらかった。

 おまけに、若者とは言うが、良房派の貴族や役人との平均年齢を考えると、どこまでを良房派と考えるかによって差はあるが、大きく見ても五歳程度の年齢差、下手すれば一歳差か二歳差しかない。

 ところが、その数年の違いが人生を激変させる要素となっているのである。大学生であったとき、そして、大学を出るときの大学頭が良房であったかどうかという違いが、片や良房派として世間に名を馳せ、片や大学を出たものの役職にあり就けない就職浪人とさせている。若者たちが、これは公平でもなければ公正でもないと考えたとしてもおかしくない。

 彼らは時代に間に合わなかったのだ。そして、時代に間に合わなかったがゆえに来る失望が、彼らを反良房派へと走らせる要素となっていた。

 こうした反良房派の特徴を一言でまとめれば、若さ、がある。

 かつては良房派が若者で、緒嗣派、つまり、反良房派のほうが高齢者だったのに、良房派の面々が年齢を重ねたことで、立場が逆転してしまった。

 さらに、良房派のほうが若手だった頃は、律令に逆らうことが若さであり、律令に従うのが時代遅れと扱われていたのに、今ではその考えも逆転してしまった。律令を守ることが新しさであり若さだと考えられるようになったのである。

 人々の意志をまとめるとき、その象徴はわかりやすいほうが良い。それが、良房派にとっては反律令であり、反良房派にとっては律令だった。そして、そのわかりやすさがゆえに、時代に不満を持つ若者は律令に身を投じ、良相が律令遵守のリーダーかのように見なされるようになった。

 何と言っても、この時点では良房の後継者筆頭であり、良房に何かあったら良相が時代を掴むと誰もが見ていた。時代に逆らう者や、時代に乗り遅れた者が、次の時代に希望を託すことは珍しくない。

 その上、良相は彼らと年齢が近い全くの同世代である。言わば自分たち世代の代表であり、自分たちの意見の代弁者と見られていた。

 この動きに輪を掛けたのが、前年末の宮田麻呂への処分に対する良相の毅然とした行動である。処罰を躊躇していた良房と違い、謀反の芽を、ひいては内乱の芽を早々と摘み取った良相の行動は鮮やかだった。そして、当時の人は良相のことを、かつての坂上田村麻呂のように頼れる武人と眺め、その若さも手伝って新時代の希望の星と考えるようになっていた。

 こうして自派を作り上げつつあった良相であるが、泣き所もあった。小野篁による家庭教育の結果、遅咲きではあるが、貴族としての必要な素養は身につけた。だが、良房と対等に渡り合えるようなものではなかったのである。

 二二歳で貴族デビューしてから間もなく二〇年を迎える良房は政治家として百戦錬磨のキャリアを誇っている。ここで良房と政治家として勝負を挑んだ場合、勝てるかどうか以前に、勝負にすらならない。

 何しろ、良相の今の権力が良房の後ろ盾あってのものであり、良房が見放したらその瞬間に良相は窓際族へと追いやられる運命にあるのだから、いかに武力を持つ身でもここで良房に反旗を翻すことは得策ではない。

 政治家としての能力で良房と良相の間に大きな隔たりがあることは誰の目にも明らかであった。純粋な知性そのものを考えれば、良相の元には、良相の師である小野篁が居る。だが、政治家としての能力では篁とて良房には及ばない上、篁もまた良房の手によって地位を手にしている身。良相と師弟関係にある篁であっても良房と良相とを選ぶなら良房を選ぶであろう。

 この政治家としての力の差はどうにもならないものとして諦めていた良相から近づいたのか、それとも良相の現状を見てこれならば自分の居場所を築けると考えて良相へと近づいていったのかはわからないが、この頃から、伴善男が良相のすぐ側に姿を見せるようになった。

 善男は律令こそがこの国を支える根幹であると主張し、そのために人生の全てを捧げると宣言。政治の世界で良房に対抗する論陣を張った。

 良房は善男のこうした主張に対して何ら妨害していないばかりか、主張に関係なく善男の貴族としての能力を認め、能力に応じた地位を与えていた。それは、人の命に関わるような主張でない限り、どのような主張でも認めるべきとする言論の自由の考えと、その人の思考ではなく能力を買う姿勢を良房は持っていたから。


 承和一一(八四四)年二月二日、山城国、摂津国の校田使が任命された。

 校田とは班田の配布の前に行なわれる田畑の測量で、この職務は本来なら各国の国司の役割とされていた。

 律令に従えば、まずは戸籍を整理して納税対象者の洗い出しを行ない、次に校田を実施して分配すべき田畑を用意し、それから班田があって田畑を配布するのだが、この通りの手順を踏むのは事実上不可能であった。校田に時間がかかりすぎるのである。中には真面目に校田をする国司もいたが、その国は班田が遅れに遅れ、税収どころか生活に支障が出る始末。真面目に国司としての職務をすることが国司としての評価を悪化させ、その国の暮らしも厳しくさせるとあっては、校田に精勤する国司など現れるわけはなかった。

 さすがにこれは問題であるというのは運用直後から認識されていたようで、いろいろと手直しが繰り返された結果、延暦四(七八五)年には国司の職務から校田が外され、代わりに参議相当の貴族に校田を担当させるようにまでなっていた。これが校田使である。

 専門職を用意しなければならないほどの重要な職務であり、理論上は一国一名の校田師が任命されて、これが全国に展開されるはずであったが、参議相当の職務ということでそもそも校田使になれる人間の絶対数が少ない上、この時代はごく一部の者しか学ばない高等数学の知識も必要となるため、校田使の任命と派遣は五畿に限定されるようになっていた。

 このときは、笠數道が山城国へ、路永名が摂津国へと派遣されている。派遣と言っても、京都のある山城国と、そのすぐ隣の摂津国である。実際に派遣されたのかどうかも怪しいものがあり、これといった成果を残していない。さらに言えば、このときに派遣された二名は、氏名だけなら残っていても、名前以外の記録が全く残っていない。

 土地の測量は土地の所有者がやるものであり、誰がどの土地を耕すかは土地の所有者個々人が決めるべき物というのが良房の考えであった。実際、良房は自信の所有する土地についての測量を綿密に行なっているし、その役にある者を優遇している。だから、良房が校田に対して無知なわけではない。

 考えるに、この二名の校田使の任命は、何とかして役職を見つけ出そうと考えた結果であろう。実情が伴っていなくても、ある程度の地位にある貴族が就く役職であり、かつ、就いた後はある程度の期間、その役職で居られる役職である。

 このときの校田使の任命も、役職を作り出すことそのものが目的であり、それ以上の意味はない。このときの人事で班田に関わる点があるとすれば、班田をすることではなく、班田をしないことである。

 律令制の基礎である班田を否定し、大土地所有に乗り出した良房であるが、国の権力を握り、国を操る立場になった以上、正式な廃止となっているわけではない班田を継続する義務は確かにあった。ただし、明らかにやる気はなかった。良房は律令に定められた通りの手順を踏みながら、班田という制度そのものを否定したのだ。

 この時代の農民が耕す田畑は三種類ある。国の田畑、自分の田畑、そして他人の田畑の三つである。かつては全てが国の田畑、いわゆる班田であったが、墾田永年私財法の施行以後、土地の私有が認められるようになった。

 私有の田畑であろうと班田であろうと、収穫から税を引いた残りを自分のものにできるということに違いはない。違いがあるのはその田畑を自分で使い続けられるかどうかという点である。

 自分が生きている限りその田畑を使い続けられるなら、田畑に対する手入れも行き届き、土壌の改良もされる。また、亡くなった後に自分の田畑を耕すのが我が子であるならば、土地への努力も無にならない。土地を私有するということは、収穫を増やすために行なった努力の全てが自分にもとに結果として帰ってくるということでもあり、真面目に耕すことと生活の安定とは直接繋がる。

 これは大農園でも変わらない。土地の持ち主は貴族や寺院であっても、土地を利用し続けられることでは同じである。また、田畑への努力の結果がそのまま耕作者に還元されることも変わらない。違うのは、納税先が国ではなく貴族や寺院であることぐらいなものであるが、それも大した違いにはならない。

 しかし、班田は違う。

 班田には問題も多く明らかにデメリットのほうが多数を占めるが、一つだけ大きなメリットがあった。それは、自分の田畑が数年に一度リセットされるということ。配布された田畑が品質の劣る土地であった場合、班田がなければ自力で田畑の品質を上げるか、他に品質の高い田畑を自力で見つけなければならないが、班田が行なわれれば、何ら苦労することなくより良い土地に交換してもらえる可能性があった。無論、良い土地が手に入るかどうかは不確かであり、今までより悪い土地が分け与えられる可能性もあるが、それは仕方のないこととされていた。

 それは裏を返せば、土地への努力があろうとなかろうと、時期が来れば田畑は没収されてしまうということである。そして、班田の時期が来たら、これまでの努力は全て無視されて、新しい土地でゼロから始めなければならない。

 これでは土地への愛着が湧くわけない。

 この時代の記録の中に、班田とそうでない土地とで収穫量に明らかな違いがあるとし、班田を真面目に耕さない農民の態度を嘆く文書が残っているが、これは何も農民が自堕落であったからではない。努力に見合った成果を班田では得ることができなかったからである。

 良房が班田を軽視したのも班田の持つ制度上の欠陥に目を向けていたからに過ぎない。ただ、良房が史上初めてこの欠陥に気づいたのではない。良房以前の天皇や貴族も、班田の持つ制度上の欠陥に気づいていた。ただ、政治家として、班田を軽視することのダメージの大きさから誰も手出しできずにいたのである。

 班田軽視の政策は、大農園に組み込まれている農民からは何ら関心を呼ばれず、大農園に所属せずに班田に頼る農民からは失望と怒りの声が投げられる政策であった。

 大農園にいる身にとっては班田の有無など人生に何ら関係ないことである以上、無関心なのは当然。そして、班田に頼る農民にとっては班田の有無が人生を左右する出来事であるため猛反発を示す。つまり、班田の軽視は、それがどんなに有効と考えようと、支持は得られず、批判が容赦なく降りかかる政策である。これではどんな政治家も後込みするに決まっている。

 では、班田の軽視がなぜ批判を浴びるのか。

 それは、権利を奪われ責任と義務を増やされたと感じられたからである。

 どんなに有名無実化した権利であろうと、権利を奪われたと感じて平然としていられる人間はいない。ましてや班田というのは、農地の維持も管理も公費で賄ってくれる上に、当初は六年毎に、桓武天皇以後は一二年毎に新しい田畑が貰えるという、国が認めた農民の数少ない権利であった。

 農民が求めていたのは班田の早急な実施であって廃止ではなかった。それが、事実上の班田の軽視である。前から班田を否定していた良房であるが、いくら良房でも班田をなくすとは思っていなかった農民は多かった。そして、班田の時期を迎えたことで班田を実施するものと誰もが思っていた。

 しかし、良房のこのときの行動により班田は停止し、土地の維持も管理も全て自己責任となった。これは権利の喪失に加え、同じ収穫を得続けるには、これまでやっていた公費による維持・管理を自費で行なわなければならないこととなった。権利が消えたと同時に責任と負担が増えたということである。

 その責任を引き受け、負担を自分で用意できる人はまだいい。また、どこかの大農園で働く農民となった者、つまり、維持管理の費用を有力者が負担してくれる土地の農民となった者もいい。

 問題は、班田で生活できていた人たち、つまり、班田を当然の権利と考えていた者である。その人たちを現在の感覚で考えると、福祉に頼ることなく生活できていると考えている中流階級にあたる。そして、班田で生活でなくなった者は、福祉無しでは生きていけない貧困層にあたる。

 この両者を考えたとき、普通は前者のほうが人生の勝ち組に思えるだろう。

 実際、当時の人も、班田で生活する自分は大農園の一員になった者とは違うという優越感があった。

 しかし、前者が存在できているのは、後者の悲劇の上に乗っているからだという認識は無かった。

 農地の維持や管理を公費で行なっているということは、どこかで誰かが払ってくれた税を自分のために使わせるということである。

 彼らは「自分は税を払っている」と言うだろうし「だからこれだけの権利を得るのは当然だ」とも言うだろうが、その人個人が払った税は実際には大した額ではなく、自分の払っている税と使わせている税とを比べると使わせている税のほうが多かった。何しろ、この時代の直接税の税率はわずか三パーセント。これで班田を行う予算を捻出できるわけはなかった。

 現在のように国債による財政赤字の穴埋めという考えのない時代である以上、使える税は納められた税の総額を超えることはない。この状況で払った以上の税の恩恵を受けるということは、自分ではない誰かが払った税が自分のために使われると言うことになる。

 その誰かというのが班田では暮らせない貧しい者であった。

 あまりにも安すぎる直接税では賄いきれない分の税を埋めていたのが、かつては出挙であり、この時点では良房をはじめとする大貴族の私財の寄付であった。もっとも、大貴族の私財とは言うが、元を正せば貴族の農園に働く農民の納める年貢である。出挙よりは安くて済むが、班田で生きる農民の直接税よりは高い。

 その高い負担が巡り巡って公費による班田支給に行き着いていたのである。

 ここで現在の暮らしを考えていただきたい。特に、派遣問題とか、ワーキングプアの問題のように、働いても働いても満足行く給与が出ず、苦しい生活を余儀なくされている人がなぜ存在しているのかを。

 これを雇用主のせいにして一部の金持ちが悪いと片づけるのは短絡過ぎるし、責任を一部の金持ちに押しつけて自分とは関係ないとする態度で臨むのは無責任すぎる。

 牛丼やハンバーガーが三〇〇円以下で手に入り、着るものや日用品が一〇五円で買えるようになったのは、企業努力ではなく従業員を犠牲にしているからである。つまり、そんな値段での供給をさせているのは、購入者のほうが物価を下げろという圧力を掛けているからに他ならない。

 企業は価格を下げるために人を減らし、人件費を減らし、一人当たりの労働量を増やしているから現在のこの安い物価が存在する。こうして価格を下げられた品々を安く買えることを喜んでいられるのは、働かずに一定の収入が得られる脳天気な者のみ。働いている者は、働いても働いても売り上げが得られず、給与に結びつかないという現実が待っている。

 厳しい暮らしを余儀なくされている者を助ける方法は、厳しくならないだけの給与が払える利益を企業にもたらすしかないが、それは物価の上昇につながる。この物価の上昇を拒否し続ける限り、厳しい暮らしが楽になることはない。節約と呼ぼうが、ケチと呼ぼうが、自分の負担を徹底的に拒否する今の暮らしはこうした犠牲の上に成り立っている。

 その上、自分が負担させている側だという意識がない。それどころか、自分は負担を押しつけられている側であり、大して税を払っていないのにも関わらず、「税負担は限界まで引き受けた」、「厳しい暮らしをする者を救えるだけの税はとっくに払った」、「それができないのは自分の払った税が無駄なことに使われているからだ」、と主張する。

 この時代も同じだった。

 班田で暮らしていた者はわずかな税しか払っていない。それでいて、農地の維持や管理は公費である。

 彼らとて、班田だけでは暮らせない者がいて、その生活が苦しいことは知っているし、彼らは自分たちより負担の多い暮らしをしていることも知っている。しかし、負担を減らすべきだという考えはあっても、負担を減らす代わりにどの支出を削るかという明確な考えはなかった。

 この時代にも述べられていたのが無駄な税の支出を減らすということであった。自分とは関係のないところ、例えば見たことも聞いたこともない土地に建設される道路や、一生使うことのない建物の建設に使われるというのは実にわかりやすい。自分の税が自分と関係のない無駄なことに使われるのだから、一方的に怒りをぶつける対象となるし、支出を減らす絶好のターゲットとなる。しかも、それで自分の生活水準が下がるとは考えないで済む。

 しかし、そんなものを削っても何の意味もなかった。道路を造るとか、建物を建てるとかにつぎ込まれる予算を削っても支出の減少には全くつながらなかった。何しろ税を最も多く使っているのは福祉、それも、班田で生きる農民に対する福祉、つまり、本来なら自費で負担すべき田畑の維持や管理を国にさせるという福祉なのだ。そして、負担を減らすとなった場合、まず削るべき支出は福祉の削減しかなかった。

 班田で生きる者は、税が自分のために使われていること、それも、自分が払った税以上の恩恵を税によって受けていることに目を向けず、自分は税を負担するのみで何ら恩恵を受けていないと考えていた。そして、班田という権利を当然のことと考えていた。

 その上でもう一度現在の暮らしを考えていただきたい。今の社会で税負担をしていないのは誰なのか、増税に反対しているのは誰なのか、負担を求めれば「年寄りイジメ」だと猛反発する人たちは誰なのか。

 良房が手をつけたのは、今まで負担から免れていた者から、負担以上の権利を奪うことであった。

 それまで班田で暮らしていた者にとって、班田のみで暮らすことが農民としての勝ち組であり、班田だけでは暮らせずに出挙に頼ったり、田畑を捨てて都市に逃れたり、大農園で働く農民となったりといった、律令から外れた者は負け組という認識であった。

 それが、ここに来て価値の逆転である。

 班田にしがみつく者が負け組となり、班田から離れた者が勝ち組となる時代へと替わったのだ。しかも、班田から離れた者のほうが良い暮らしをするようになり、班田にしがみついてた者は責任と負担が増すこととなった。

 この時代に支持率を推し量れる統計記録はないが、緒嗣に対抗して権力を握るまでの良房の人気、言わば良房派の政党支持率は七割から八割に達していたであろう。しかし、良房が権力を握ってからこれまでの間に支持率は落ち込んできたはずである。

 とは言え、それでも過半数を超える支持率はあった。強烈なアンチが誕生したことで良房批判の声は大きくなったが、市民の声は良房支持のほうが多かった。

 若者、特に一〇代から二〇代の若者の中に強烈なアンチ良房が出てきていたが、彼らの声は大きくても、数そのものは少なかった、彼らの意見が同意を集めることはもっと少ない。こうした声と反比例するかのように、世代別の支持率で見ると、年齢が高くなるにつれて良房批判が増え、若くなるにつれて良房支持が増えてくる。

 これは、班田に残ったか、班田から離れたかという違いにもつながる。

 班田に残った農民の多くは高齢者であった。

 班田という制度は、現在の感覚でわかりやすく捉えれば共産主義の制度である。

 誰もが平等という大前提があり、私有を許さず、少しの負担で豊かな暮らしをともに築こうというのだから、学生運動なんかやっている連中にとっては夢のような話であろう。そして、その理想を推し進める律令もまた、理想に満ちたバラ色のものに見えるのではないだろうか。

 しかし、現在に生きる我々は、その理想が起こした現実を目の当たりにしたし、失敗に終わったことも知っている。

 今の我々に理解できることがこの時代の人にも理解できなかったわけはなかった。

 理解はできていたのだ。ただ、理解することと行動に移すこととは別だった。

 律令は正しくて、うまくいっていないのは律令の通りにしていないからという理屈が成り立ってしまってはその後の議論は成立しない。今でも共産主義の理想が正しいと考える人がまだいるし、彼らに言わせればスターリンのせいで失敗したとか、理想は正しいのにその理想の通りにしなかったからということになっていて話が全く通用しないが、それもこの時代と変わらない。

 時代についていけなくなった高齢者が過去を懐かしがり、時代の流れを掴めなかった若者が理想に身を投じて権力者を批判する。そこに具体的な形はなく、批判している自分が偉くて頭がいいと考えたいがために、無意味に批判する。旧共産主義国や共産主義が非合法となっていない国で共産主義運動に参加するのはこの二者しかないが、この時代でもそれは同じだった。

 良房は彼らを好きにさせておいた。実害が出ない間ならば、相手にするだけ時間の無駄と考えたからであろう。

 律令の象徴である班田が有名無実化したことで、律令を信じる者の怒りは頂点に達した。しかし、良房は何一つ律令違反をしているわけではないのである。ゆえに、律令を守らぬことを理由に良房を公式に非難することはできなかった。

 そのためか、律令派、特に律令派のブレインとなった伴善男は良房個人ではなく良房の周囲への攻撃を狙うようになった。周囲であれば律令違反も出てくるからである。

 善男は律令を熟知していた。そして、些細なミスも見逃さない、良く言えば丁寧さ、悪く言えば悪辣さがあった。さらに、ディベート能力が高く、論争となるとだいたい善男の勝ちに終わった。

 こういう人間を敵に回すとどうなるか。

 居心地が悪くなる。

 少しでも律令に反することをすれば容赦なく攻撃してくる。そして、言い返そうとすればそれ以上に言いくるめられる。

 攻撃から逃れる方法は一つ。律令違反をしないことである。どんな微々たることであっても律令が認めていないことをしてはならないし、しでかしたら懸命になってもみ消さなければならない。

 善男は断じて無能ではない。それどころか、その有能さで名を馳せる人物である。しかし、有能なことと、高い評判とが、必ずしも一致するとは限らないのは人間世界のよくある光景である。

 スケールを小さく言えば、善男とは、クラスを仕切りたがる、成績は優秀だが人望は高くない風紀委員がそのまま大きくなった人間である。もっとも、大きくなった人間と記したが、厳密には間違いだとも言える。男性の平均身長が一五〇センチ台しかなかったこの時代にも関わらず、善男の背の低さは、善男に反感を抱く者にとって絶好の嘲笑の材料になっていたのだから。

 善男は良相に接近し、律令遵守を掲げ、反良房派を形成したが、その目的は何だったのだろうか。

 そのままストレートに考えれば律令への回帰である。善男の律令に対する知識の深さ、そして、律令違反に対する攻撃性を考えれば、善男は律令の精神に則った国家を作り上げることを目標としていたとも言える。

 だが、それは本心なのだろうかとも考えられる。

 時代の趨勢が反律令であり、趨勢に乗り遅れたがために律令への回帰を題目に掲げたのではないだろうか。

 仮に良房が律令を遵守し、律令に完全に従う政治をしていたとすれば、善男は律令に反対し、反律令という題目を掲げて一派を形成していたはずである。

 なぜか?

 この人の律令遵守のための行動を眺めると、律令は手段であって目的ではないとするしか言えないのである。

 この人の目的としていたこと、それは、自己の栄達であり、その一環としての伴家の復興であった。

 改姓前は大伴家と呼ばれていた伴家は、歴史で考えれば、藤原家など足元にも及ばない超名門氏族である。史料に確認できる大伴姓の有力者、実に二〇一名。しかもその祖先が古事記にも日本書紀にも神代の時代のこととして描かれている。大伴姓が確認できるのも允恭天皇の時代、つまり五世紀中頃。雄略天皇(宋書には倭の五王の一人『武』と記されている)の時代に至って大連(おおむらじ)という当時の軍事のトップに就任するまでになり、以後、天皇のボディーガードを務める人材を多数輩出していた。

 それがどれだけのものかは、当作品のタイトルである「応天門」という名でわかる。

 宮殿の南側の門の名を漢字で「応天門」と記すのは中国の洛陽に始まる。「応天門」という漢字を現在は「おうてんもん」と読んでいるが、漢字が伝来した直後の日本語では「おおとも」と読んでいた。そして、この「応天門」を守る氏族のことを「おおとも」と呼んだことが大伴氏の姓の由来となった。つまり、この大伴という姓自体が宮殿を守る氏族だということを示している。

 自らの氏族の名が宮殿の一区画として存続している氏族は伴家を除いて他にはなく、これだけの歴史を持つ伴家に比べれば藤原家などたかが二〇〇年の歴史しかない新興成金貴族にすぎなかった。

 しかし、世の中は藤原家の者になっている。権力は藤原良房が握り、財力は藤原長良が握り、武力は藤原良相が握っている。国の力の全てがこの三兄弟に集中している。

 そして、自身が所属する伴家は、歴史だけなら勝てても、その他の全てにおいて藤原家に敗れている。

 しかも、藤原家は天皇家と密接に繋がることで、権力の継承まで作り上げようとしている。

 こうなると伴家はどうにもならない。入り込む隙間がなくなり、あとは、歴史だけはあるが落ちぶれた貴族として時を過ごすしかなくなる。ここで自身を、そして伴家を復興させるには、現在の権力者を利用しながらも、現在の権力者に対抗するしかないと考えたのだろう。

 それが良相への接近であり、反良房の行動の始まりであった。

 善男の伴家復興の動きの最初として歴史に残っているのは、伴家の歴史の精算であった。

 藤原種継暗殺事件に関連して追放された者の中に大伴家持(やかもち)がいた。善男の近い親戚ではあるものの直系の先祖というわけではないが、家持の直系の子孫は途絶えているため、善男に財産の継承権は存在するといえば存在する。

 この家持は生前に追放されたわけではない。種継暗殺の一ヶ月前に家持が亡くなっており、家持の遺体は埋葬されるのを待つのみとなっていた。その家持の遺体が追放されたのである。

 犯人とされた者が死人に口無しとばかりに事件の責任を家持に押しつけたこともあるが、種継暗殺に対する桓武天皇の怒りはすさまじく、首謀者とされた家持の埋葬は禁止され、官籍からは除名され、その子らもことごとく追放されたのみならず、資産もこぞって没収された。

 追放自体は緒嗣政権下で解除されていたが、この資産没収の状態は続いていた。

 善男はこれに目をつけた。

 「すでに罪は赦され、追放は解除されている以上、没収された資産も返還せねばならないではないですか。」

 善男は一般論として述べたが、これで利益を得るのは、没収された資産を受け取ることとなる善男である。

 これには良房も戸惑った。

 理屈でいけば善男の言葉は正しい。だが、資産没収から五〇年以上経ている上、その資産は没収時とは比べものにならない優良資産へと変貌していた。

 その資産とは加賀国(没収当時は越前国加賀郡)にある農園であった。一〇〇町あまりの広さだからそれほど広くはないが、この農園の生産性は高かった。桓武天皇が没収した当時はそれほどの生産性ではなかったが、この農園からの収穫を大学の運営費の一部としていることから、大学頭であった頃、そして加賀国司であった頃に良房が集中して投資をした結果、高い生産性の持つ農園へとなったのである。

 これを善男は無料で寄越せと言ってきた。

 「国庫による投資を行なった農園を無償で手に入れるのはいかがなものか。手に入れるならば、それまで投入した国庫に見合うだけの支出を引き受けるのが道理ではないか。」

 「国庫の収入のための農園を国庫で維持するのは当然です。また、追放解除のときに返還していれば国庫からの支出も不要でした。本来であれば損害賠償を請求せねばならない返還を無償での返還とするのですから、何ら非難される謂われはありません。」

 「農園を手渡すとなると大学の維持費が捻出できなくなるが、それはどこから充当するのか。」

 「大学の維持費は律令にて定まりております。」

 良房と善男の直接対決はこれがはじめてである。

 手強い人間であることは知っていたが、いざ敵として迎えると、想像以上に手強い相手であると気づかされた。

 その後の議論がどう展開されたかはわからないが、結果は判明している。

 善男は加賀国の農園を手に入れた。論戦としては良房の敗北である。

 ただし、善男の完全勝利とはなっていない。

 善男は律令遵守に陶酔する若者たちにとっては知的参謀のような存在であり、自分たちのリーダークラスの存在の善男が時代を操る良房に論争を挑んで勝ったことも知っていた。

 国はどうあるべきかとか、理想の実現はどうすべきかという論争は心地よいものであるし、何より自分を偉い人間であると思わせてくれる。その考えの結果が律令であり、律令に基づいての論争での善男の勝利は、自分たちの理想の勝利であるはずだった。

 しかし、大学の運営費を賄う農園を私有したことが、大学の運営に支障が出るようになるのに繋がることは当初気づいていなかった。そして、気づいたときには遅かった。寮で出される食事の質が落ち、支給される衣服の質が落ち、そして何より肝心の教育の質が落ちた。理想を掲げたことの結果がこの現実である。

 これは大学生たちを二分することとなった。教育の窮状を訴える者と、今の窮状は理想の実現のためのやむを得ない一時的な苦労であり、理想が実現すれば窮状は解決するとする者の二分である。前者は良房に窮状を訴え、良房は長良を通じて藤原家の私財を大学の運営費の不足分につぎ込んだ。

 良房の恩恵を受けた大学生たちの心境は複雑なものになった。味方であるはずの善男によって苦しくさせられ、敵であるはずの良房によって元に戻ったのだから。

 大学の質の低下など天下国家を論じる者にとってはとるにたりない卑近な例なのだろうが、理想を述べる善男がその理屈を実践した結果が目の目に展開されということは、理想に反する現実を貫くとうまくいくという例でもある。

 大学生たちは、善男に従うことの是非を論じだし、少なくない数が、良相を、そして善男を見限って良房の元へと向かった。

 善男は伴家復興のために自派の若者を切り捨てたこととなる。残ったのは現実よりも理想を優先する、多少なりとも過激な者らであった。

 承和一一(八四四)年二月、良房が陸奥出羽按察使を兼任することとなった。良房は承和六(八三九)年にも兼任しており、これが二度目の陸奥出羽按察使就任である。ただし、前回の就任と違って二月の何日に兼任することとなったのかは不明。

 按察使(あぜち)とは、地方行政の監督をする役職である。かつては日本全国に派遣されていたが、この時代は陸奥国と出羽国を除いて有名無実となっていた。

 陸奥国と出羽国に按察使の制度が残っていたのは、この二カ国がその他の国と比べて比較にならない面積だからであると同時に、日本領となってからの歴史の浅さから今なお俘囚の反乱の火種が残っていたからである。統治の難しいこの二ヶ国には国司の上に立つ有力者が存在するほうが好都合であった。

 ただし、按察使は常設ではない。それどころか、ここで良房が就くまで按察使が空席であることのほうが常態であった。

 良房がこの役職に就いたのは、東北地方の統治のためというより、若者たちへに職を用意したことのほうが大きい。按察使にはそのサポート役を果たす部下が、それも、按察使専属の部下が必要だったのだから。

 これは良房からの反撃であった。

 按察使自身は京都に留まることが珍しくなく、職務遂行のためには部下を東北地方に派遣するのみというのが通例になっている。

 按察使のもとで働く者には地方派遣の特別手当も出るため、中央に留まるより高めの給与が出る。その上、中央で働くとなると数多くの役人たちの一人として埋没してしまい、余程のことがない限り抜擢などされないが、地方では競争相手の絶対数が少ないため抜擢されるチャンスが多い。さらに、中央では様々な目があって不正自体が困難なのに対し、地方では中央の目が届かないこともあって不正な蓄財が可能。

 こうした役職に若者を就かせることは二つのメリットがあった。

 一つ目は新たに自派に加わった若者に役職をあてがうことである。良房派に加わるメリットをわかりやすく伝えるには、自派に加わった者に役職を用意するのが最良であった。

 二つ目は自分に逆らう過激な若者を堂々と京都から追放することである。良房は、自身の元に来た若者だけではなく、自身と敵対する若者にも職を与えた。

 ただし、ここで一つの差別をしている。自身の元に下った若者は京都に近い東北地方の南部や京都と連絡の付きやすい沿岸部に配属されたのに対し、自身に対立する若者は京都から遠い北部や、京都との連絡が付きづらい内陸部に配属されている。

 この処遇に善男を筆頭とする良相派から良房を非難する声が激しく浴びせられたが、良房は善男たちを無視した。按察使自体は律令に定められた役職であり、そのサポート役の部下もまた律令に定められている。

 律令を前面に押し出している善男にとっては、一部始終律令の通りであり、律令に何一つ違反していないこのときの良房の行動は、頭にくることではあったが、反論したくても反論できないことであった。

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

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