中納言良房 外伝 あこな(下)

 翌日、戦場から本府へと帰る軍勢が都万目の村を通りかかった。

 タカムラを先頭とする軍勢は、縄で縛られた捕虜を本府へ運びつつ、亡くなった者の故郷に遺体を帰しながら帰還していた。

 ここで都万目の村に寄ったのも、その一人が都万目の村の出だから。

 「たいへん申し訳ないことをしてしまいました!」

 タカムラは何よりも先にトシメの元に駆け寄り、頭を下げた。

 今回の軍勢を指揮したのはタカムラである。だから、遺族の怒りが集まるとすれば指揮官であるタカムラであろう。

 だが、タカムラが後ろの安全なところで悠然としていたのではないことは誰の目にもすぐにわかった。

 背の高いタカムラだからか顔の傷は右の頬だけだが、首から下はいたるところに傷痕があり、包帯からは血が滲んでいた。

 トシメは夫の遺体にすがりついて呆然としたものの、タカムラには何も言わなかった。

 夫は胸を槍で貫かれての死であった。

 「誰が……、誰がうちの人を殺したとね!」

 「こやつぞ。」

 兵士の一人が縄で縛られた捕虜の一人をトシメの前に引きずり出した。

 引き倒されたせいで、捕虜は地面に横たわらせられた。

 縄で縛られているので身体の自由は利かないが、おとなしく捕まったままでいる気はないようで、憎しみを込めた目を周囲に振りまいている。

 「こやつが……」

 「トシメちゃん?」

 「こやつが!」

 「何するとね!」

 トシメは兵士の一人の槍を奪い取り、捕虜に突き刺した。

 夫が刺されたのと同じ胸に、そして、目に、首にと、捕虜めがけて槍を抜いては刺し、その都度捕虜は悲鳴をあげた。

 「こやつが! こやつが!」

 「トシメちゃん! やめるわな!」

 兵士はトシメを押さえつけたが、そのときにはもう捕虜が亡くなっていた。

 「……」

 「……」

 兵士たちも捕虜たちも、村人たちも、そしてトシメ自身も、たったいま目の前で繰り広げられた光景に言葉を失い、沈黙の時間が流れた。

 「う、うわぁぁぁぁ!」

 トシメの涙の混ざった叫び声が沈黙を破り、村中に響きわたった。


 捕虜を本府に連れていったあと、タカムラは再び軍勢を率い、最後の一人を捕らえに山へ向かったという。

 断言できないのは、都万目の村に伝えられる情報が再び途絶えたため。

 それでも、本府の市への人の流れは復活し、四月のはじめには、アコナもその流れに乗って久しぶりに本府に向かった。ただ、かつては多くても五人程度であった集団が、今回は二〇人以上に増えている。

 誰もが途中の山道を警戒しての行動であったためその道のりは和気藹々とはならなかったが、それでも本府に着いて市を眺めたときは安堵感から笑顔もこぼれた。

 このときの隠岐では、特に本府では、新しいヒエラルキーができあがっていた。

 山賊や海賊の被害者と遺族がトップに来て、兵士を送り出している家族が次に来て、敵を憎む者がその下に来て、敵に情けを掛ける者は最底辺に置かれる。

 アコナは山賊の被害者ということでヒエラルキーのトップに立った。タケノコが売れたのもアコナのタケノコが美味しそうだからではなく、持ってきたのがアコナだから。

 「これしか出せんだども、これでええわぁか?」

 「ありがとうなぁ。こんなにたくさん。」

 竹林で穫れたタケノコが久しぶりに売れ、アコナはムギを手にできた。

 そんなに多くはなかったが、穀物を手にしたのはタカムラが自分の家に泊まったときが最後のため、アコナは久しぶりの穀物に満足していた。

 「お嬢ちゃん、どうだい。キレイな櫛だぁ。」

 市を歩く者は色々な店から声が掛かる。

 無視するのはマナー違反なので相手にはするが、今のアコナに買おうという思いはないし、買える余裕もない。

 「買いたくても買えんわりすぅ。いまは食べ物ぞ。」

 「食い物は食べたら終わりぞ。櫛は永遠だわな。櫛見てみぃ。きれいだわな。」

 「ほだな。」


 それからアコナは店頭に並んだ櫛やかんざしを眺めた。

 欲しいとは思ったが、買えるわけはないと考えた。

 「高うとよ。」

 「だども、これ以上値引きしたら大損……、ん? 何事だわね?」

 店主はアコナの背後に目をやった。

 店主の視線にあわせて振り返ると、叫びながらこちらに向かって走ってくる男に目が向いた。

 「どないしたと。」

 「タカムラ様が勝った! 海賊全滅ぞ。」

 「ほんまか!」

 「タカムラ様がいま港に来ちょる。オイラも行くところぞ。」

 その知らせに市は沸き立った。

 そのあとも何人か同じような情報を伝える者が駆けつけた。

 曰く、最後の一人は逮捕された。

 曰く、その一人は連行さえて本府に向かっている。

 曰く、これで隠岐の戦は終わる。

 ただ、情報が錯綜していて何が正しいかわからなかった。残る一人の海賊は逮捕ではなく殺したという話も登場し、また、その一人を捕らえた場所も、布施(本府の北東の集落の名)という話とあれば、加茂(本府の南西の集落の名)という話も出た。

 これでは情報ではなく噂話に留まってしまう。

 国衙からは特にこれといった連絡も発表されておらず、アコナは本当に戦が終わったのかと疑問を抱きながら港に向かった。


 アコナが目にしたのは、港に並べられた一〇人以上の海賊の生首だった。

 聞けば、この全員が遺族の手によって殺されたのだという。その中にはトシメの手によって殺された海賊も混ざっていた。

 「みんな殺されたと……」

 アコナはそう小さく言った。

 「殺したから殺される。おかしなことではないわな。」

 港にいた一人がアコナに言った。

 アコナは何も反論しなかった。

 人が死んだことを嘆き悲しむ自分がいると同時に、海賊が死んでも平然としている自分もいる。

 少し前なら海賊に情けをかけたかも知れない。

 だが、今のアコナにその感情はない。

 自分が襲われ、知り合いが何人も殺されたという現実があり、その犯人が遺族の手によって処分された。ただそれだけ。それは良くない感情だという理(ことわり)はあるが、本音を言えば「ざまあみろ」という感情だった。

 そして悟った。

 これは戦なのだと。

 戦だから殺したり殺されたりがある。目の前の敵は殺すべき存在であり、情けを掛ける対象ではない。

 情けを掛けたらどうなるか。こちらが殺される。

 「負けてたら、あたいらがこうなってたわりすぅ。」

 「んだな。」

 この感情はアコナだけのものではなかった。

 とりあえずは助かったという安堵感と、いつまた同じ被害が生まれるかわからない不安感が島民を支配していた。

 その結果が、本来は罪人としてこの島に流されてきた身でありながら、軍勢を率いてこの島を守ったタカムラの英雄視。

 「タカムラ様だ!」

 誰かが言った一言は港を混乱に導くものだった。

 都からやってきて自分達を救った英雄を一目見ようと殺到し、長身のタカムラが姿を見せると歓声がわき起こった。


 タカムラは捕虜にした海賊たちを連れてきていた。

 海賊の姿を見た島民達からは罵声がまき起こり、全員をこの場で殺すことを求める声が挙がった。

 そして、ある者は投げつけるための石を探しはじめ、またある者は殴りかかろうとして兵士に停められた。

 「やめないか。」

 その光景を見たタカムラは島民達の怒りを制するように言った。

 「皆様に言わなければならないことがあります。我々は確かに海賊を制しました。しかし、これで未来永劫海賊から逃れられ続けるわけではありません。第二・第三の被害を食い止めるためには、都に海賊を送り届けなければなりません。それは、都であれば、海賊が何者で、海賊の根拠地がどこなのかわかるからです。今ここで海賊を殺すより、都に連れていって海賊の根拠地を叩くことを考えねばならないのです。次の被害が現れる前に。」

 これを聞いて島民達は黙った。黙ったが、納得はできなかった。

 自分達に攻め込んできた者らを生かしておくことがどうしても許せなかった。家族が殺され、仲間が殺されたにも関わらず、殺した相手は生き残っている。これは理屈ではどうにもならない感情だった。

 タカムラはこの島民の感情を無視して、海賊たちを船に乗せ、海賊達の生首も船に積み込ませた。

 このままであればタカムラへの賞賛が反感に変わっただけで終わったであろうが、反感は再び賞賛に戻ることとなった。

 国衙近くに建てられた自分のための家を、今回の戦で家族を失った子供たちの家として提供すると申し出た。

 そして、流人である自分に配給される分のコメを、こうした孤児の養育にあてて欲しいとタカムラは願い出て、この願いは国司によって認められた。

 こうした配慮をしないと島民の反発が爆発する危険があったからだが、この決定をアコナは素直に感心していた。


 本府から都万目の村に帰る道中、行きと変わらぬ緊迫感はあったものの、おしゃべりにも花が咲いていた。そして、話題はタカムラのことに集中した。

 外見の格好良さもさることながら、島を救い、家とコメを被災者のために差し出した行動が、ヒーロー誕生の感動を呼んだというところか。

 そのタカムラと一晩を過ごしたことをアコナは嬉しく思ってもいた。思っていたが、家に着いたあとのことは想像だにしていなかった。

 「家が無くなってしまったので住まわせてください。」

 「……」

 タカムラがアコナの家を訪ねてきただけではなく、ここに住まわせて欲しいと言ってきたのだ。

 タカムラは小さなコメ俵と弓矢をかかえていた。

 コメ俵はアコナの家にこれから世話になることのお礼、弓矢は海賊から奪った戦利品だという。

 「いきなり言われようと困るわりすぅ。」

 アコナは当惑していた。

 以前のアコナならばならばタカムラと一緒に住むという決意はしていたし、その準備もしていた。また、実際、一泊だけだがタカムラが泊まった。

 だが、それから数ヶ月が経ち、タカムラとの同居など無かったことになったと考え、アコナは元の一人暮らしに戻ったつもりでいた。

 それに、タカムラを歓迎する最大のメリット、つまりコメが、今はない。ただ、コメがないことの理由をわかっている以上文句を言うわけにもいかない。

 この島を救った英雄が目の前にいて、しかも住まいを失っている。これを拒めば人でなしと言われる。

 おまけに自分は独身女。タカムラと同居することとなった場合、好奇心は向けられるだろうが、文句を言われる筋合いはない。

 「言うておくが、うちは貧乏ぞ。食い物はなかね。」

 「承知しております。ですから、こちらのコメをお納めください。」

 「承知するはええが、うちにはこれ以外に食い物がないわり。わかっちょるけ?」

 「山で捕りましょう。」

 「そげなうまいこといくわけなかね。竹林でタケノコ捕るで精一杯ぞ。お前さ山をなめちょるね。」

 「これをごらんください。」

 タカムラは弓を手にした。

 「海賊の使っていた弓です。かなり威力がありますから、クマでもイノシシでも一撃です。」


 この時代、肉食は禁止されてはいなかった。かつて、天武天皇が肉食禁止令を出したがそれも有名無実化し、この時代は四月から九月までの期間の肉食が禁止されていただけで、一〇月から三月までは肉食が認められていた。

 また、肉食禁止期間を守っているのは一部の貴族や一部の役人のみで、一般庶民は堂々と肉を食べていただけでなく、肉が市に普通に並んでいた。

 とは言え、アコナは役人の家の出。こうした決まり事は、ある程度偉い人より、末端の人のほうが厳密に守ろうとするもの。その影響を受けて育ったアコナにとって、すでに四月を迎えていることは肉食を忌避する要素になった。

 「そげなことして見つかったらどうするね。村から追放されるわりすぅ。」

 「都から追放されてきた私が、これ以上どこに追放されるというのですか。」

 「それはそうだども。」

 「それに、肉を食べていないのはアコナさん、あなただけですよ。」

 「何言うね。この村の者は肉なんか食えんと。」

 「海賊との戦では、イノシシの丸焼きを皆で食べていました。それから、海賊が持ち込んだ食料の中に干し肉があったので、それも奪って食べていました。」

 「それは戦だからぞ。戦でもないのに宍(しし・肉のこと)食べるぅは罪だわりすぅ。」

 「誰が裁くのですか? 沈没するような船に無理矢理乗せて『死ね』と命令する国ですか? それとも、左大臣の耄碌クソジジイですか?」

 「ちょ、ちょちょちょ、何を言うとるね。」

 アコナはタカムラの言葉に驚きを見せた。

 いくら元貴族とは言え、時代を支配する左大臣を平然と貶したのだ。一般庶民である自分にとって、都の大臣は雲の上の存在で、仰ぎ見るしかできないと考えていた。そして、不満を抱くことはあっても批判が許されるとは思っていなかった。

 「耄碌クソジジイでなければ、死にぞこないの強欲ジジイとでも言い直しますか。」

 「そんなん言うたらあかんて。言うたのバレたら追放だけでは済まないわりすぅ。」

 「死刑ですか。」

 「んだ。」

 「私は死刑になるところを追放刑にされたのです。あの耄碌ジジイは、人に死ねと命令することはできても、人を殺す勇気は持ってません。」 

 「お前さ、おっかないこと言うだわなぁ。」


 翌朝、アコナの家の前にはちょっとした人だかりができていた。

 タカムラが弓の腕前を見せるというのである。

 「あの的まで半町ほどあります。」

 アコナの家から半町(約五〇メートル)ほど離れた場所に、板でできた的が用意された。板には墨で丸が書かれており、それがターゲットになる。

 矢は竹を切って作った即席のもので、竹林のすぐ側にある都万目の村なら無限に手に入るものだった。

 タカムラは軽々と弓を扱い、的を狙って射った。

 矢は的の中央に当たり、的の板は真っ二つに割れた。

 「オオーッ!」

 村人からは拍手が起こった。

 「で、みなさんにこれを覚えていただきます。」

 「?」

 村人は一様に首を傾げた。

 「みなさんが弓を使えるようになれば、イノシシやクマと出くわしても充分に立ち向かえます。それに、弓矢で獣をしとめれば肉が食べれますし、余った肉は売れます。」

 「売るはええが、そんなに獣おるんけ?」

 「います。海賊を追いかけて山を駆け回ったときに出てきた獣の数は測り知れません。それに、クマやイノシシは危険です。退治もできて肉も手に入る。一石二鳥です。」

 「ふうむ。」

 村人は半信半疑だった。

 獣の肉は確かに魅力的だが、それを手にする保証があるだろうか。保証があっても時間があるだろうか。時間があっても弓矢を扱えるだろうか。

 要は乗り気ではなかった。

 今は農繁期にさしかかってきている。

 タカムラの語りかけは、魅力を感じてはしても畑仕事を放り出すまでには至らなかった。


 今の都万目の村で、田畑を持たずにいるのはタカムラだけ。アコナにも田畑はあるが、とてもではないが二人分の収穫を残す広さはない。

 「それでは行ってまいります。」

 タカムラは一人、山へと向かっていった。誰もが見送ったが、誰もついていかなかった。

 この村にはタカムラに限らず、新たに移り住んできた人に分け与える田畑が無い。

 強いて挙げるとすれば夫を失ったトシメの田畑があるが、それは一家の働き手を失ったトシメと三人の子を養うための田畑であって、代わりに耕すことはあっても、その収穫を自分のものとすることはなかった。

 「あたい、あの人がようわからんわりすぅ。」

 タカムラの姿が見えなくなってからアコナはつぶやいた。

 「お公家さんぞ。オイラたちにはわからん世界の人だわい。それに、オイラたちを助けてくれた人ぞ。迷惑かけるわけでなし、とやかく言うこともなかね。」

 「だども……」

 「アコナちゃんは女だからわからんかもしれんが、男には意地ちゅうものがあるだな。」

 「意地?」

 「女房と子供を何とかして食わせていこうちゅう意地ぞ。タカムラ様、たぶん、生まれてから一度も土いじりなどしたことなかろうて。アコナちゃんを養うにゃ、生まれてから一度もやったことない土いじりじゃ無理だでけんども、やったことのある狩りならできる考えたんちゃうかなぁ。」

 「そうなん?」

 「オイラたちを助けてくれた人ぞ。心配はかけるが迷惑かけるわけじゃなぁ。それなら見守ってやりゃあええ。イノシシ穫れたら穫れたでよし、穫れんでもどうにかなろうて。」

 「だわりすぅ。」


 夕方頃、タカムラが帰ってきた。

 タカムラはイノシシを引きずってきていた。

 「重かった~」

 タカムラの引きずってきたイノシシを見た村人がまず驚き、噂は直ちに都万目の村中に広まった。

 「いと大きいわなぁ。」

 「六尺(約一八〇センチ)、いや七尺(約二一〇センチ)はあろうて。」

 その巨大イノシシを目の当たりにした村人からは一様に感嘆の声が挙がった。

 「で、これからこの村にお世話になりますので、みなさんで食べてください。」

 それからは力仕事だった。

 イノシシの皮を剥ぎ、解体し、竹串で串刺しにして焚き火の周囲に並べる。それだけで日が暮れ都万目の村はあたかも夜祭りかのような雰囲気になった。

 たくさんの串が並んだが、何しろ量が多いので、焼いても焼いてもまだまだ焼ききれない固まりが残る。

 「うまっ!」

 「こらええわ。」

 村人たちは喜んで串焼きを食べ続けた。

 理屈としては今が肉食禁止の時期と知っているが、香ばしさと食欲は理屈を簡単に打ち負かす。

 ほとんどの村人にとって、これがはじめての肉食なわけではない。

 ただ、肉がコメ以上に高級品となっているのでそう易々と手に入らず、また、動物を屠殺して食肉にする仕事が卑しい仕事とされていたこともあって自分で動物を捌くという考えもなかったから、肉を積極的に食べるという状況に巡りあってこなかった。

 というところで、元貴族が自分で山に入って、巨大なイノシシを弓でしとめて村に運び、自分で捌いて村人に振る舞った。卑しいとされている仕事をタカムラが自ら引き受けただけでなく、その成果を大判振る舞いした。

 「喜んでいただけましたか。」

 タカムラは串焼きを頬張るアコナに話しかけた。

 「だわな。お前さと暮らすとこんなええ思いできるわりすぅ。」

 「まあ、毎日ではないですが、できるだけ狩りをしますよ。」

 「狩りかぁ、やったことないわり。あたいも狩りやればうまいもの食えるかもしれんわりすぅ。」

 「アコナさんはタケノコを掘るのが上手と聞きましたが。」

 「それしかないとよ。コメ作るのうまくねぇし、年貢払うたら何も残らん。海に出てサカナや貝を穫るのもできねぇ。それでもお前さみたいにお公家さんなら困らんだども、あたいらは食べるために色々せな死ぬわりすぅ。」

 「私ももう貴族じゃありませんが。」


 貴族ではないと言ったタカムラの言葉はウソではなかった。

 土いじりをせず、隠岐の言葉も話さないが、それ以外は完全に都万目の村の村人で、そこに貴族らしさはなかった。目立つところがあるとすればその顔とその長身であって、絢爛豪華な服ではない。だいたい、タカムラの着ている服はトマシベの遺品、それも丈足らずで寸詰まりの服である。

 文字も読めるし詩も書けるが、それをひけらかすことはしない。教えてくれと頼まれれば教えるが、それは片手間の作業であって本業ではなかった。タカムラが普段しているのは、弓矢を持って山に入り、獲物をしとめることができたときは村人に振る舞うことぐらい。二一世紀の島後にはイノシシもクマもいないが、この時代の島後にはまだクまもイノシシもおり、その対策もまた日常の光景。農業をしないことを除けば、これは典型的な猟師の姿だった。

 とは言え、遣唐使にも選ばれたほどの逸材を隠岐の国司様が放っておくわけはない。本府で市が開かれるときには国衙に呼び出され、都に送る書類作りに参加させられた。その代わりに報酬としてコメを貰ってくるので、アコナにとってはタカムラとともに本府に行くのがさらなる楽しみにもなった。

 無論、市の楽しさはそれだけではない。

 何と言っても島一番のにぎわいがあり、都万目の村ではあり得ない華やかさがそこにはあった。

 それは、島で最大のデートスポットでもあり、アコナにとってタカムラと市を巡ることは、デート気分を味わえることだった。

 「櫛、気になりますか?」

 櫛を売る店を眺めたアコナにタカムラは話しかけた。

 「ええよええよ。そんな高いもん買えんて。」

 「いいですから。」

 そう言うとタカムラは懐から銭を三枚取り出し、アコナに渡した。

 「何だべ?」

 「おカネです。ゼニとも言います。国司様からおコメと一緒にこちらも貰いました。」

 「これがゼニかぁ。はじめて見たわりすぅ。これがありゃあ何でも買えるわりすぅ。」

 「でも、あまり価値ないんですよね。」

 タカムラが手渡した銭には『承和昌寳』と記されていた。ただ、文字の読めないアコナには単なる模様にしか思えなかった。

 アコナにとって生まれてはじめて目にする貨幣だった。この世に『ゼニ』というものがあるということは知っていたが、今まで目にする機会がなかったため、何の前触れもなく銭を手にしてもこれと言った感情は浮かばなかった。

 しばらく手に持って眺めた末に浮かんだ感想は、思っていたよりも小さくてみすぼらしいものという感情だった。

 銭があれば何でも買えるということは知っていたから、もっときらびやかで有り難みあふれるものと思っていたのに、いざ手に取ってみるとただの金属の固まりにしか思えなかった。

 「これで櫛をください。」

 アコナの赤い服にあった赤い櫛を買うために店主に銭一枚を渡した。

 「何だいこりゃ?」

 「銭です。」

 「ゼニ? ゼニってあれか、コメでも何でも買えるっちゅう。」

 「ええ。」

 「これがゼニかぁ。はじめて見たわい。」

 店主はそれからしばらく銭を眺めていた。

 「何か頼りないわい。」

 「どうかしましたか?」

 「何か、銅の固まりだわり。これで何でも買えるんかね。」

 「買えます。」

 「いやね、タカムラ様を信用しないわけでねぇけんども、これと櫛と交換ちゅうんは、何だかねぇ。」

 タカムラはこのとき、この島に貨幣経済が浸透してないことを思い知った。

 「それでは、銭でないとすれば何となら交換してくれるのですか?」

 「コメなら一合だわい。」

 「銭一枚でコメ一升というのが国の決まりなのですが。」

 「ほんまけ?」

 タカムラの言葉にアコナも店主も驚いた。

 現代の一升は一・八リットルだが、当時の一升は四五〇ミリリットル。一合はその一〇分の一なので四五ミリリットルになる。何れにしても、この銅片一枚が、アコナには贅沢で買えない高級品を軽く買えるだけの価値を持っているのかという驚きがあった。

 「これもって都に行けば、一枚でコメ一升と取り替えてくれます。」

 「う~ん。よし、トマシベさんには世話になったし、タカムラ様はこの島の恩人ぞ。オイラはタカムラ様を信じる。櫛持っててくれ。」

 「ありがとうございます。」

 タカムラは櫛を受け取り、アコナの髪に挿した。

 「似合ってますよ。」

 「あ、ありがとう……」


 アコナにとってタカムラとの日々は明瞭なものではなかった。想い描いていたような豊かさはないが、幸せは感じられるし、この暮らしをずっと続けたいと思った。しかし、永遠にこの暮らしが味わえるとも思えなかった。

 誰もがアコナはタカムラの妻になったと感じていたし、アコナ自身も妻として振る舞っていた。無論、誰もが正式な夫婦でないことを理解している。タカムラは今でこそ隠岐に追放された身だが、いつかは都に帰るときが来るかもしれないし、タカムラは何も言わないが、都には奥さんや子供がいるはず。

 それが愛のない夫婦であろうと、貴族としての夫婦関係のほうが正解で、アコナと一緒にいることのほうが不正解の関係。言うなれば、タカムラにとってのアコナは、タカムラがこの島にいる間だけの愛人なだけ。

 ところが、アコナにタカムラはこう言った。

 「都に戻るつもりはありません。」

 「なして?」

 「都は黒いです。」

 「?」

 「人間の醜い黒い部分に溢れているのが都です。貴族を辞めた今の暮らしのほうが私は好きです。それに、アコナさんもいますしね。」

 「な、な、何を言うとるね。」

 アコナは顔を赤くした。

 「今は夫婦になれないかも知れない定めですが、いつかはアコナさんを正式な嫁にしたいと思っています。そして、一生この島で、この都万目の村で生きていたい、そう思ってます。」

 「ほんまにええだか? お公家さまがあたいと……」

 「公家だろうが何だろうが関係ありません。私はアコナさんの夫です。」


 隠岐に留まり、都万目の村の一村人になることを選んだタカムラの様子が都に届いたのは承和六(八三九)年の一二月、間もなく年も暮れようかという頃。

 「何ということだ!」

 その知らせを聞いた嵯峨上皇は激怒し、左大臣藤原緒嗣もまた怒りを露わにした。

 海賊を退治したことはいい。たとえクビになろうとそれは貴族の責務であるし、誉められてしかるべきことである。だから、海賊退治の功績で隠岐の人々に慕われることは当然。

 だが、そこから先が良くない。

 よりによって海に沈んだ遣唐使の娘と事実上の婚姻関係にあり、一村人として生きる決意をしたのである。その上、確たる証拠はないが、追放されてもなお朝廷批判をやめようとしないらしい。これは国家反逆罪に問われてもおかしくないことであった。

 何しろ、タカムラには前科がある。遣唐使船を無断で降りただけではなく、その後で『西道謡』という詩を作って公表している。

 詩の中身は伝わっていないが、遣唐使派遣に執念を燃やす左大臣の藤原緒嗣と、それを支援する嵯峨上皇を批判する内容であったことはわかっている。そして、これも記録には残っていないが、『西道謡』は曲がついて流行歌となり日本全国に広まっていたらしい。

 一般庶民にまで広まった政権批判を許せるほど、嵯峨上皇も左大臣も心の広い人間ではなかった。

 その上、追放されて性根を入れ替えるならまだしも、反省の様子を全く見せることもなく、遣唐使の遺族と都を離れた悠々自適な暮らしをしている。これは怒りを増幅させる要素であった。

 「篁(たかむら)を呼び戻せ!」

 「呼び戻して何をするつもりですかな?」

 「決まっておろう、この手で処分してくれる!」

 「最高の処分が下っているのにこれ以上何を処分できるのですか、ぜひお教えいただきたい。」

 「そんなこと知るか!」

 左大臣の怒号が宮中に響く中、承和六(八三九)年は終わりを迎えた。


 隠岐も都も日付に従って正月がやってくる。

 都万目の村に都の絢爛豪華な正月はないが、それでも精一杯の華やかさはある。

 村の中心に皆が集まり、とっておきのモチ米を使ってモチをつく。

 そうしてできたモチがこの村での最高の贅沢。

 「よいっしょー!」

 さすがに体力の差なのか、重い杵を軽々と振り回すタカムラを村の誰もが頼もしく見ていた。

 「モチができたわりすぅ。」

 つきたてのモチが村人に振る舞われ、正月最高の楽しみに誰もが舌鼓をうった。

 「美味しいですねえ。」

 「んだべ。初日の出のあとはこのモチぞ。」

 「なに言うとんね。タカムラ様は都でこんなモチよりうまいもの食うてきたわり。」

 「いやいや、都でもこれほどのモチはありません。」

 「お世辞言わんでもええて。都とこの村では大違いぞ。」

 「確かに違いますね。」

 「そうだべ。」

 「だいたい、ここには左大臣がいませんから。宮中で死にぞこないのクソジジイの無駄話聞くのと、できたてのオモチ食べるのとでは大違いです。」

 「ちょっと! 何言うとんね!」

 「何か言いました?」

 「いくらタカムラ様でもそれはマズいでねぇか? 大臣(おとど)をそう貶したらあとが怖いとよ。」

 「批判したから私はここで暮らせるのです。批判をやめれば都に呼び戻されてしまうのですよ。私はここの暮らしが気に入りましたから、暮らすためには貶し続けるしかないのです。まあ、貶さないことができない奴ですけどね。」


 タカムラの隠岐での暮らしがどのようなものであったかの第二報は意外な形で都に登場した。

 それは一見すればごく当たり前の隠岐からの定期連絡の文書であり、何らおかしなものではない。だが、それはこれまでの隠岐の国司の書いた文書とは似ても似つかぬ文書、言うなれば、文章作成のトップエリートが作りだした文書であった。

 遣唐使が唐から帰還したもののその犠牲も大きく、数多くの人材が失われてその穴を埋めるのに窮していた状況にある。

 そこにやってきた、見事なまでの文章。

 この文章を書いた者こそ失われた人材の穴を埋める人間だと考えてもおかしくはなかった。そして、これほどの文を書ける人間が隠岐にいるのかと考え、直ちにスカウトすべしとの意見が出た。

 だが、その直後、中納言の藤原良房が気づいた。

 「篁(たかむら)だ!」

 隠岐に流された篁がこの文を書いたに違いないと、良房は考えた。

 「篁の追放を今すぐ解き、都に帰還させるべきです。これほどの人材を隠岐に留め置かすなどもったいないこと。」

 「追放を解くなどできるか。」

 「左大臣が全面謝罪すればいいだけのことです。」

 「なぜ謝罪しなければならないのか!」

 「左大臣のどうでもいい誇りのせいで一〇〇名以上の遣唐使が死に、この国に必要不可欠な人材が追放されています。これで何ら謝罪をしないというのは図々しいにも程があります。左大臣のせいで失われた者は一人として欠かすことのできない人物ですが、左大臣がいなくなったって誰も困りません。」

 「き、貴様! 何を抜かすか!」

 良房の主張は前年暮れに緒嗣が言ったことと同じ結果だった。

 ただし、内容が違う。

 左大臣緒嗣は処罰の一つとして都への帰還を宣言した。

 良房は追放解除の上での都への帰還を訴えた。

 いかに同じ結果であろうと、良房の主張は緒嗣にとって断じて受け入れられないものであった。


 タカムラの帰還の噂は一月の半ば、市が開いた日に隠岐に届いた。

 本府の港に着岸した船の船員から、遣唐使が帰ってきたこと、数多くの犠牲者が出たことと一緒に、都でタカムラ帰還の話が出ているという情報が伝えられ、その話を聞きつけたアコナが船員に問いつめた。

 「ほんまけ?」

 「まだ聞いてなかったのか? 良房様が動いてくれてるだよ。」

 「ヨシフサ様? 誰だわぁ?」

 「冬嗣殿のご子息さ。今の都で左大臣様を抑えてくれているんだよ。左大臣様がどんなに『追放だ』『追放だ』と言ったって、良房様が動いてくれれば追放なんてなかったことになるさ。」

 船員はそれを良い知らせと考えてアコナに伝えた。

 だが、アコナにとっては良い知らせではなかった。

 アコナにとって、タカムラが罪人であるかどうかなど気にも止めないことだった。重要なのはタカムラがここで自分と一緒に暮らすことであって、それがなくなることは茫然自失とする悲しみをもたらすことであった。

 理屈では、罪人でなくなることがタカムラの名誉にとって喜ばしいものだということを理解している。しかし、それとタカムラとの日々を捨てることとを天秤にはかれば、タカムラが罪人であり続けても、自分と暮らす日々のほうを選ぶのが今のアコナだった。

 アコナは自分の聞いたことを積極的にタカムラに話す気になれなかった。話したら自分のことを捨てて都に帰るのではないかという思いに満たされていたから。 

 もっとも、タカムラもそのことを聞いたと思われる。断言できないのは、都万目の村に帰る道中、タカムラはそのことについて一言も話さなかったから。ただ、その様子は普通ではなく、どこか影を感じているようだった。

 アコナはいつもと違う雰囲気に耐えきれず、家に戻ってすぐにタカムラに問いつめた。

 「都に帰るのかどうかだけでも話してけれ。」

 「……」

 「なして黙っちょるね。お前さのことだで。許されて都に戻ると聞いちょるわりすぅ。」

 「それは違います。都に連れ戻されるという話はありましたが、左大臣が怒り狂っていて、私を殺すために連れ戻すという話です。」

 「!」

 「何を驚いているのです。左大臣はそういう人間ですよ。」

 「お、お前さを、こ、殺……」

 「アコナさん。これが貴族の世界です。私はそれが嫌になったのです。だから私はここに居続けたい。アコナさん、私はここであなたと一緒に暮らし続けたい。」

 「お前さ……」


 二月、都ではタカムラをはじめとする追放者の帰還の審議が始まった。

 主張は真っ二つに分かれた。

 タカムラらを罪人として都に連れ戻すという主張。これは左大臣が強く主張し、公表はしていないが嵯峨上皇もこれに賛成していた。

 一方、中納言の藤原良房らは、追放を解除し、公職に復帰させることを主張した。前提としては左大臣の全面謝罪があるが、それがなかったとしても、追放したこと自体が誤りであることを認めさせることが重要であった。言うなれば、追放解除を名目とする左大臣攻撃の材料であった。

 議論は平行線をたどり、二月一四日、両者の唯一の共通点である都への復帰をまずは決定し、その後の処遇は帰還後に決定するということで話がまとまった。

 この知らせが隠岐に届いたのは三月になってから。

 国衙にまずは連絡が届き、タカムラへは国司から伝えられた。

 『小野朝臣篁(おののあそんたかむら)、嵯峨上皇の命により都への帰還を命ずる。』

 文面はたったこれだけであった。

 何月何日に帰還せよとか、どのように帰還せよとかが全く書いてない。また、これは命令であり、拒否権も認めないとするものであったが、命令の執行についても詳細が記されていない。

 つまり、帰還せよと書いてはあるが、その内容は不明瞭なものであり、どうとでも解釈できる内容であった。

 「どうすればいいのかわからない。」

 都からの命令文を聞いたタカムラは、来るべき知らせがついに来たかといった感覚であった。

 それは拒否を許されない命令であった。拒否して逃げたとしたら、残された者に被害が及ぶ。かといって、逃げずに抵抗したとしたら確実に殺される。

 殺されても構わないと抵抗したとしたら、待っているのは血の殺戮。それは海賊以上の被害を隠岐にもたらす。

 「アコナさん、すまない。」

 タカムラの覚悟を決めた表情にアコナは、タカムラの感じたのと同じような来るべき時が来たという思いを抱いた。


 都への帰還命令を聞いてから、タカムラは木を彫って、自分とアコナの像を造りはじめた。自分の代わりとして置いていく木像だという。

 不格好ではあったが、愛を感じる彫像ができあがってきた。

 「都に帰るだね。」

 木像を彫るタカムラに、アコナは諦めるように語りかけた。

 「あたいを連れて都に行く気はなかね?」

 「その気はあります。」

 「だったらなぜあたいを連れていかんと?」

 「左大臣がそれを許しません。無理してアコナさんを船に乗せたら、船ごと沈められます。」

 「ほな、あたいはどうなるね。お前さとともに暮らすと決めたわりすぅ。お前さがいなくなったら、あたいはまた独りぼっちぞ。」

 「わかってください。アコナさんを殺したくないのです!」

 「お前さのためなら死んでもよか!」

 「私たちの子供はどうなります!」

 「!」

 「アコナさん、私の子供を孕んでいませんか。」

 「……、そんなこと……」

 アコナはここで声を詰まらせた。

 心当たりがある。タカムラに毎日抱かれる日々を過ごしているのだから、いつどこで月のものが無くなってもおかしくないとは思っていた。

 確証はないが可能性はある。

 「もしそうなら、アコナさんは独りきりではないです。」

 「父(てて)なし子にするだか。」

 「……、それしか生かす手段がないのですから。」

 「ほか。わかった。」

 そう言うとアコナは家を出て行った。



 家を出たアコナの様子は明らかにおかしく、村人たちはただ事ではないと考えた。

 そして、アコナのあとをついていった。

 アコナが向かったのは都万目の村のそばの竹林。アコナがいつもタケノコを穫っている場所。ただ、いつもタケノコを穫っている早朝ではなく、間もなく日も暮れようかという時間に竹林に向かったことは怪しさを際だたせるものであった。

 「アコナちゃん。」

 遠目からアコナを眺めていた村人達の中からまずトシメがアコナに近寄って語りかけた。

 「なんぞね?」

 「命を絶つんでなかね。」

 トシメは思い詰めているアコナの様子を見て語りかけた。

 ついこの前に夫を亡くしたトシメは、子供たちとともに夫を追いかける覚悟をしたばかりである。しかし、生まれたばかりの子、そして、やっと物心のついた子供たちを見て、生きることを決めたばかりでもある。

 その彼女には、今のアコナの様子が手にとるように理解できた。やっと巡り会えた運命の相手と生き別れになる可能性が高い。それも抵抗の許されない強大な権力を目の当たりにしての強制的な別れであり、自分がどんなのタカムラを愛していようとそんなことなど無視されることでもあった。

 「命絶つなんて、そんなこと……」

 「ないと言い切れるけ?」

 「……」

 アコナは即答できなかった。

 自殺とまでは言い切れない。しかし、今の苦しさを耐えていく気持ちはなかった。

 逃げて、逃げて、逃げまくって、慣れ親しんだこの竹林に足を運んだだけ。あとのことは考えず、ただ、今の苦しさから逃れるためにここに来た。

 「どうすればいいかわからないわりすぅ。」

 親友に口を開いたアコナは涙ながらに答えた。

 「追いかけるしかなかね。」

 「追いかけるって、どうするね。」

 「都に行くね。都に行ってタカムラ様を追いかけるね。」

 「あの人はここで一緒に暮らすと約束してくれたぞ。隠岐で一緒に暮らすと……」

 「お公家さまにそれは許されることでなかね。ならば、こちらら行くしかなかと。」

 「隠岐を、出ると。」

 「それしかなかね。親父さんもお袋さんも亡くして、これでタカムラ様も失ってええのけ?」

 「……」

 アコナは何も言えなかった。


 都からの使者が何月何日に都万目の村にやってきたのかの記録はないが、おそらく三月の中頃から終わりにかけてと推測される。

 「小野篁様の住まいをおたずねしたい。」

 都万目の村に着いた使節たちは村人にタカムラの居場所を問い、村人はアコナの家に彼らを案内した。

 村に使節がやってきたことを聞いたタカムラは、自分からアコナの家の外に出て使者を出迎えた。

 都から遣わされたのは兵ではなく役人たち。彼らの名前も記録に残っていない。ただ、タカムラとかつて主従関係にあった者らしく、恭しい態度で終始している。

 使者はタカムラの前に進み出て、書状を開き、中身を読み上げた。

 漢字で書かれた文章を書き下し文にして日本語で読み上げているが、難しく理解しづらい単語の羅列で、使者が何を言ったか理解できた村人は少なかった。

 「本院(=嵯峨上皇)の命令で都に帰れと、そういうことだな。」

 「御意。」

 「そうか。できれば、あと少しだけ待ってもらえないか?」

 「少しならば待ちます。ですが、永遠に待ち続けることはできません。我々は明日には隠岐を発ち都に向かいます。篁様がそれを望まないことは承知しておりますが、篁様を連れずに都に帰ることはできません。篁様が逃げ出さないように見張らせていただきます。」

 「わかった。」

 タカムラはそう言うと家に中に入り、使者の一人も後をついていった。

 使者が見たのは家の中で泣き崩れている女性だった。この人が、話で聞いたタカムラのこの島での恋人なのだと悟った。

 「アコナさん。」

 タカムラが声を掛けると、アコナは涙に濡れた顔をタカムラに向けた。

 「必ず迎えに来ます。だから、それまではこれを私と思って……」


 それからタカムラは二体の木像に小刀で傷を刻んだ。

 「これで、完成です。」

 二体のうち、男性の像のほうに『篁』と、女性のほうに『阿古那』と記された。

 「これで、『アコナ』と読みます。アコナさんの名です。」

 アコナはできあがりつつあった木像を複雑な思いでこれまで眺めていた。これが自分たちの思い出になるのだという想いと同時に、木像が完成するまではタカムラがここにいてくれると思っていた。

 その木像が完成してしまい、タカムラは自分のもとを去ることになった。

 タカムラは『迎えに来る』と言ったが、貴族という雲の上の存在に戻ってしまうのに、離島の貧しい村に住む自分のことなど見つめてくれるなど思えない。

 「タカムラ様……」

 それはアコナがはじめて口にした呼び方だった。これまでは「お前さ」だったのに、都に戻ると決まって「タカムラ様」になった。

 こう呼んだ瞬間、アコナはタカムラとのこの島での出来事が全て終わったと感じた。

 自分は名も無き一庶民。

 タカムラは都の大貴族。

 この差はどうにも埋まらぬものに感じた。どんなに篁を愛していても決して超えることの許されない身分の差がそこにあった。


 縄で縛られて連れて行かれたタカムラを、一人を除く全ての村人が眺めていた。

 その除かれる一人であるアコナのことを、誰も何も言わなかった。

 他のどの村人よりも悲しい思いで今を迎えていることを誰もがわかっている。

 そして、誰かが言ったわけではないが、この日はアコナをそっとしておいてあげようと誰もが考え、アコナの家には誰もが近寄らずにいた。

 そのアコナの家から人の気配が消えたのが判明したのは翌日になってから。

 「アコナちゃんがおらんね!」

 村は大騒ぎになり、村の内外でのアコナの捜索が始まった。

 誰もが考えたのが自決。

 タカムラがいなくなるかも知れないというときのアコナの行動を考えればタカムラがいなくなった今の行動は良くない意味で容易に想像できた。

 だとすれば、竹林や山林にアコナが行き、そこで自ら命を絶っても何らおかしな話ではない。

 だが、どんなに探してもアコナの姿は見つからなかった。

 最悪の事態を考えた村人達のもとにアコナの消息が伝わったのは翌日。本府の役人がやってきて、篁を乗せて都へと戻る船に女性が一人忍び込んだという話をしたときである。

 「アコナちゃんけ?」

 「だ。」

 「んだか……」

 村人に一様に安堵の表情が流れた。

 タカムラを追いかけて都に行くというのをたきつけたのはトシメだが、正直言って、それが現実の物になるとは思っていなかった。

 しかし、いざそれが現実の物となったとき、最悪の事態は免れたと誰もが感じた。

 「行ってしまったわりなぁ。」

 「それもアコナちゃんの運命ぞ。ここで淋しく暮らすより、都まで大好きな人を追いかけるがええわりすぅ。」

 「だな。」


 「さて、このおなごをどうしてくれようぞ。」

 出雲へと着いた後、船底に隠れていたアコナは見つかり、縄で縛られ引き立てられた。

 「アコナさんをどうする気か。」

 タカムラも縄で縛られ自由に動けない状態でいる。

 「密航は大罪。相応の処罰は受けていただきます。」

 「ならば、その女性を招き入れた私も同罪。ただちに追放すること望む。」

 「それは我々の決めることにありません。罪人を処罰するはその土地の国司にございます。」

 「ならば国司に合わせていただきたい。この土地ならば出雲の国司か。」

 「それも我々の関与することではありません。我々は篁様を都に連れて行くことが仕事にございます。このおなごの処罰はここの土地の者に任せるのみです。このおなごのことは聞いておりますが、連れ立っていくわけには参りません。処罰は我々のなす事にございます。」

 そう言うと港の役人たちはアコナを引き立てていった。

 「タカムラ様を追いかけてきたね。都に連れて行ってくれだわりすぅ。」

 「それはならぬ。」

 「ほな、あたいをどうするね。殺すんけ?」

 「それは国司様が決める。」

 「殺すなら殺すがええわさ! お前ら死ぬまで呪い続けてやるわり!」

 「だから何も言うとらんて。」

 アコナが連れ去られていく姿をタカムラは黙って見ているしかなかった。役人たちの態度からして、そして、死刑が事実上なくなったこともあって、アコナの命は無事だろうとは思った。そして、それがいつになるかはわからないが、絶対にアコナと再会できるという確信もあった。

 だからなのか、このときのタカムラは動揺していない。縄で縛られて自由を失っていることもあるが、抵抗することなく役人たちに従っている。

 ただし、一言だけ口にしている。

 「アコナさん! 必ず迎えに行きますから!」

 タカムラの声を聞いたアコナは、タカムラのほうを振り返って小さくつぶやいた。

 「待っちょるわりすぅ。」


 小野篁の京都到着は六月一七日。隠岐を出発してから都に着くまでに三ヶ月かかったこととなる。

 都に着いた篁は、染められていない繊維の元の色そのままの服(当時はこれを「黄色い服」と呼んでいた)を着させられ、その格好のまま京都市中を練り歩かされた。黄色い服は無位無冠の庶民であることを示す。京都に連れ戻された篁は、元の地位に戻っての帰還ではなく、一人の一般人の元罪人としての連行だった。

 それでも、ただの庶民の連行でないことが二つあった。

 一つは、都の庶民の怒りを買う存在だということ。篁が追放されたとき、篁は国の理不尽な命令で殺されるところだった悲劇のヒーローだったのに、遣唐使が帰還したことが都に熱狂を呼んだことが篁の立場を逆転させ、、遣唐使船を途中で降りた篁は怒りの矛先となった。

 そしてもう一点、これは左大臣藤原緒嗣の面前に引き渡されたという一点である。

 「よくもまあ戻って来れたものだな。」

 左大臣の侮蔑の込めた表情は篁の誇りを傷つけるに充分だった。

 「自分で連れ戻しておいて何を言うか。」

 「立場を考えよ。貴様は一庶民。貴族でも何でもない。にもかかわらず、追放を許し都へと帰還させてやったのだ。ありがたく思え。」

 「誰がありがたく思うか。」

 「いやでも感謝するようになろうて。何もない離れ小島から脱出させてくれたのだぞ。」

 「連行だろうが。この能なしが。」

 「ほう。」

 「能なし、人殺し、死に損ない、耄碌ジジイ、生きる価値無し……」

 「わめこうが、逆らおうが、たかが一庶民の言葉などとるに足りぬこと。慈悲深きこの私にどのような暴言を吐こうが、何ら処罰するつもりはないぞ。」

 「都で貴様に叫び続けるぞ。貴様が遣唐使に向かって何をしたか。貴様の独りよがりの欲望のせいでどれだけの人が死んだか。よもや忘れたとは言わせぬ。」

 「国家百年の計の前のやむを得ぬ犠牲。追討は欠かさぬ。」

 「追討だけか。失われなくてもいい命が失われたのだぞ。貴様など生きていても価値もないのに、生きる価値のある人間が貴様のせいで殺されたのだ!」

 「だからこれ以上は殺さないでおこうというのだ。貴様は生きる価値があるのだろ。ありがたく都で余生を送るがよい。」


 都での篁は、市民の怒りが集中する存在であり、無位無冠の一般人として事実上の自宅軟禁を余儀なくされた。

 そして、自宅に戻った篁を待ち構えていたのは、家族も使用人も居なくなり、ただ一人となっていたという現実だった。呼びかけても誰も返事せず、食事を作る者も買う者もおらず、何もかもが一人でしなければならなくなっている。

 食料は多少の貯蔵が残されていたが、すぐに尽きるのは目に見えていた。とはいえ、誰もいないのだから自分で市に行って食料を手にしなければならないが、これには二つ問題があった。民衆の憎悪の中を突っ切ってまで市に行って自分で食料を買い求めなければならないのと、肝心の収入源はがないこと。

 篁は、自分がこのまま自宅で餓死するのではないか、それこそが左大臣の課す刑罰ではないかと考えた。

 そして、隠岐でのアコナとの暮らしを思い出した。アコナとの暮らしで自炊を覚えたが、それは隠岐の農村の日常の食事であり、かつてこの邸宅で住んでいた頃の食事とは縁遠い貧しい食卓。だが、それでも篁にとっては思い出に満ちた食事。

 それが今はない。

 だだっ広い邸宅に自分一人。

 そして、家を一歩出れば民衆の怒号が取り囲む。

 帰国した遣唐使たちは市民のヒーローとなっている。そして、その遣唐使に選ばれながら途中で離脱した篁は市民の怒りを買う存在となっている。そのため、都の篁の自宅は民衆が取り囲む場所となっていた。

 中の孤独と外の絶望は無限に続く地獄に思われた。

 その小野家に不意の来客があったのは自宅軟禁の始まった三日後。

 屋敷に足を運んだのは中納言藤原良房だった。

 「良房殿。」

 思わぬ来訪者に篁は畏まった。

 貴族をクビになる前の篁は、遣唐使としての箔をつけるために中納言である藤原良房より高い地位にあったのは事実。ただ、遣唐使としての特例による箔づけで、それがなければ篁は良房よりも格下であった。

 「かしこまる必要はありません。篁殿のほうが格上なのです。」

 「何を仰る。御覧の通り、私は無位無冠の一庶民。中納言ともあろうお方に敬意を払われる立場にはありません。」

 「官位など私が取り戻します。それより、いきなりで申し訳ないですが篁殿の奥様についてお話があります。」

 「私の妻?」

 「隠岐から密航して出雲に着いた女性です。」

 「アコナのことを御存知なのですか!」

 「出雲で断獄(だんごく・刑事裁判のこと)にかけられ、牢に入れられたとのこと。」

 「アコナが牢に……」

 「名目は密航ですが、その名目はとうてい信じられません。篁殿の隠岐での暮らしはお伺いいたしました。そして、篁殿の奥様がなぜ断獄にかけられたのかも。」

 「左大臣、ですか。」

 「ええ。篁殿への仕打ちです。律令に従えば密航の処罰は断獄ですが、国の命令による船への密航ですから、それは都での処分でなければなりません。それを出雲で済ませたというのは問題です。にも関わらずその咎めがありません。これは明らかに左大臣の陰湿な仕打ちであり、この仕打ちはとうてい容認できるものではありません。私は左大臣に逆らいます。篁殿、ここはぜひ協力いただきたい。私は篁殿の奥様を都に連れてくるよう命じます。律令に従った都での断獄であれば誰も文句は言えません。篁殿は、隠岐への追放に受けた仕打ち、隠岐からの帰還に受けた仕打ち、そして、奥様の受けた仕打ちを語っていただきたいのです。断獄の場で。」

 篁はこの言葉を額面通りには受け取らなかった。

 額面通りであれば、裁判に掛けられたアコナが、都でもう一度裁判にかけられるということであり、結果次第では再び牢に入れられる。だが、それは考えづらかった。

 左大臣と良房の敵対関係を知らない篁ではない。そして今回の件は良房にとって左大臣に向けての絶好の攻撃材料である。

 良房はアコナを利用しようとしているが、この人は人でなしなどではない。この人がこれまで成してきた政治家としての日々を考えると、アコナの身の安全はかなり高い可能性で保証できると考えられた。

 アコナのことを考えたとき、この人以上に頼れる人はいない。

 「かたじけない……」

 篁は良房の行動に感激し頭を下げた。


 篁は良房の庇護のもとで生きることとなった。

 対価は良房の弟である良相(よしみ)の教育。いわば家庭教師だが、状況が状況だけに、教師である篁が教え子のもとに行くのではなく、良相のほうが小野邸に足を運ぶというスタイルになる。

 すでに武人として公職に就き多忙の渦中にある良相が篁の元を頻繁に訪れるのは困難であったが、それでも良相はできる限り小野邸に足を運び、篁の教育を受けることとなった。

 そして、未だ市民の怒りを買っている篁を守るため、良相は配下の兵たちに小野邸の警備を命じた。

 そのおかげもあって、篁は平穏な生活ならば取り戻した。しかし、自由に表に出ることはできず、篁は良相としか接点を持たない日々を過ごすこととなった。

 一方、良房は着々と準備を進めていた。

 第一段として、出雲国意宇(おう)郡(現在の島根県松江市)の出雲国衙に向けて使者を派遣した。

 ただし、左大臣の息のかかった出雲国司と、それに逆らう良房が派遣した使者という関係は、間違えても友好的なものとはならなかった。

 結果は力ずく。

 出雲からは囚人の脱獄を告げる連絡が飛び、その知らせを受け取った左大臣藤原緒嗣は脱獄に協力したとして良房を非難した。

 これに対し、良房からは出雲国司の糾弾と、左大臣を公式に非難した上での不当逮捕からの救出という布告が飛んだ。さらに、弟の良相に救出者たちの都までの護衛を命じ、そのことを公表した。


 良相が登場したということは、単に師匠の奥方を救い出すために弟子が動いたというだけでは済まない。良相はこの時代最高の武将であり、良房は最高の武将に対して兵を指揮して動くように命じたということである。これだけでも良房の決意は明白なものとなった。

 ここで『救出者たち』としたのは、このとき助け出されたのがアコナ一人ではないからである。牢に入れられた理由は千差万別であるが、正当な法の手続きによった入牢ではないことは共通していた。きっかけは篁であったとしても、良房にとっては地方官吏の不正を正すという名目での左大臣への攻撃がメインであり、アコナはそのうちの一人に過ぎない。

 しかし、アコナはその境遇からシンボルとなっていた。篁の隠岐での恋人が篁に会うために脱獄してまで都にやってくるという知らせは、遣唐使の帰還の熱狂が鎮静化しつつあったこともあって、悲劇のヒロインの来京として好意的に受け入れられた。それにはアコナの父や兄が遣唐使船とともに海に沈んだ過去も幸いした。

 しかし、彼らの都への到着は誰もが注目する中で起こったわけではない。車に乗せられた状態での入京であり、傍目には貴族の子女が車に乗って外出していたのから戻ってきたとしか思われず、その中に元囚人がいると考えた者はいなかった。

 それらの車の中の一台が小野邸に入り、車の前方の戸が開いた。

 中にいたのは一人の女性。

 彼女はかなりお腹が大きくなってきており、車から一人では降りられなかった。

 「タカムラ様……」

 その女性は間違いなくアコナだった。

 「アコナさん……」

 タカムラは駆け寄ってアコナの手をとり、車から降ろした。

 「あたいらにはもう、タカムラ様しか……」

 「私たちの子ですか。」

 「んだ。タカムラ様とあたいの子だ……」

 車を御していた者はアコナが降りたことを確認すると静かに小野邸を去っていった。

 「もう、離さないでけれ……」


 元囚人たちの来京から一〇日後、検非違使の主催する刑事裁判である断獄が開かれた。

 当時は現在のように司法権が三権の一つとして独立して存在しておらず、行政権の一部。犯罪者は裁判官でもある検非違使の前に連れ出され、弁明したのちに判決が下される。

 現在の裁判と違って、裁判とは犯罪に対する処罰を命令する儀式であり、弁護士もいなければ、判事と検事が別々の存在ですらない。逮捕した側の人間が裁くため、現在以上に無罪判決の下る可能性は低い。

 そのため、裁判に臨んだ逮捕者たちは希望を失っていることが多かった。

 ところが、この日の元囚人たちは違った。何しろ、自分たちを出雲からここまで連れてきた中納言藤原良房が配下の役人たちと傍聴し、証人として篁が出廷しているのだから。

 良房は単なる傍聴者として黙って見つめて何の発言もしなかったが、居るだけで存在感が違う。篁にいたっては、積極的に証言するのみならず、裁判の根底を覆す内容の発言までしている。有罪となればその論拠を要求し、その罪状が律(現在の刑法)になければ無罪であるとした。さらに、律に記された罪状であってもその証拠の提示を要求した。

 このときの篁は完全に弁護士の仕事を果たしていた。

 「隠岐国周吉(すき)郡都万目村阿古那。」

 検非違使の言葉に反応したのは、アコナではなく篁であった。

 「出廷はできぬ。」

 「なにゆえか。」

 「身ごもり、間もなく子を産もうかという者を裁きの場に連れてくるなど許されることではない。」

 「法を犯したのに、ただ孕んでいるという理由で罪が許されると言うのですか。」

 「いかにも。」

 他の元囚人と違い、アコナはシンボルである。

 アコナを捕らえ牢に入れるのに成功するか失敗するかは大きく違う。

 左大臣の息のかかった検非違使がアコナを有罪としようとし、それに対抗する篁がアコナを無罪にしようとする。これは単に一人の女性を有罪とするか無罪とするかという次元ではない。左大臣と中納言の政治家としての争いであった。

 「孕んでいるがためにこの場を離れることなど許されることではありません。ただ密航したのみではなく、断獄の場に姿を見せない罪によっても裁かねばならないのです。」

 検非違使は、本心はともかく、自らの誇り、そして、自らの派閥の威信にかけて、アコナを有罪にしようとした。

 「新たな命が生まれようというときに、断獄などというどうでもいいことで連れだそうとする神経が信じられぬ。」

 篁も全力でその試みに逆らった。

 「断獄がどうでもいいこととはどういうことですか。」

 「無能な左大臣のつまらぬ遊びのせいでこれ以上命を減らすことは許されない。ただちにこの断獄の場を散会せよ。」

 「つまらぬ遊びですと。」

 「つまらぬ遊びでなければ何だと言うのか。」

 「法を犯した者を法に則って裁くのが律令の定め。よもやご存知無いとは言わせませぬ。」

 「妻が夫を追いかけることのどこがおかしい。」

 「そのために法を犯しても良いと言われるのですか。」

 「いかにも。」

 「律令に背くのは大問題ですぞ。」

 「神が定めたわけでもない律令と、神がもたらした命と、どちらが大切か考えよ。もう一度問う。妻が夫を追いかけることのどこが問題なのか。誰かを傷つけたわけでも、誰かを殺したわけでもない。ただ夫を追いかけただけの女性をなぜ裁くのか。」

 「それは律令に定められ……」

 「ならば間違っているのは律令だ。間違っている律令になど何の価値もない。それでもなお律令に基づいて裁くと言うなら、律令に存在しない検非違使という職務も見直さなければならない。」

 議論は始まったときから篁に優勢に動いていた。検非違使はどうにかしてシンボルであるアコナを裁こうとしたが、篁は終始妻を守り続けた。


 「隠岐国周吉郡都万目村阿古那を無罪とする。」

 検非違使は最後には涙目になっていた。

 自らの人生を捧げていると言ってもいい職務の全てが全否定され、何を言っても篁に論破されてしまったのだから。

 左大臣から受けていた抜擢に応えるにはここでアコナを有罪にするしかなかったのに、それを叶えることができなかった。

 もはや何をしても無駄だと悟った彼は、アコナに無罪を宣告した後、自分の出世はここで終わったと考えたのか、検非違使を辞任している。

 一方、アコナはそのとき、自分の無罪を勝ち取ってくれた夫への最高のプレゼントを用意していた。

 家に着いた篁を待っていたのは間もなくという知らせ。

 そして、そのときはすぐに訪れた。

 「かわいい女の子でございますよ。」

 良房の妻である潔姫が用意した産屋で、藤原家の派遣した産婆の手によって新たな命が生まれた。

 「よくやりました、アコナさん。」

 「あたいが、母親……」

 この日、アコナは母親になった。

 アコナにとって初の、そしてただ一人の子の誕生。

 この娘は後に、名も無き町娘から生まれた子として「小町」と呼ばれることとなる。日本史上最高の美女と言われる小野小町はこの日、父小野篁、母阿古那のもとに生を受けた。


― あこな 完 ―

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

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