中納言良房 4.遣唐使渡航失敗

 承和昌宝の大きさだが、直径が約二一ミリの円形だから現在の五〇円硬貨と同じ大きさである。ただし、現在の五〇円硬貨が四グラムあるのに対し、承和昌宝は約二・五グラムしかない。実際に手に取ってみるとその軽さに拍子抜けするほどである。

 見た感じだが、一言で言って粗悪品。和同開珎以後作られた一二種類の貨幣(これを「皇朝十二銭」という)の中でも一・二を争う出来の悪さである。ただ、これは銅の絶対量が減少していたという側面もある。

 富寿神宝とて粗悪品であることには変わりなかったが、承和昌宝はよりいっそうの粗悪品だった。

 それでいて、承和昌宝一枚は富寿神宝一〇枚に相当する。

 その結果何が起こったか。

 私鋳銭の横行。

 承和昌宝を富寿神宝一〇枚と定めたことは、承和昌宝に価値をもたらさず、富寿神宝の価値を下げることとなった。

 貨幣の絶対条件として、貨幣の素材は等価かそれ以下の価値に留まらなければならない。例えば五〇〇円硬貨に使われる素材は銅とニッケルと亜鉛だが、五〇〇円分の素材を使用しているわけではない。中には、金や銀などの高額の素材を使う場合などで貨幣価値と素材の価値が一致することもあるが、それとて素材の価値が貨幣価値を超えることはあり得ない。

 もし、貨幣の素材の価値が貨幣価値を超えないということは、貨幣を貨幣として持っていても損はしないし、鋳つぶしたら損をしてしまうことを意味する。ゆえに、貨幣としての価値を持つ。

 ところが、承和昌宝のおかげで、富寿神宝に使っている銅の価値が富寿神宝一枚以上の価格になってしまった。つまり、

 承和昌宝 > 銅 > 富寿神宝

という価格差である。

 こうなると、富寿神宝と富寿神宝として持っていると損してしまう。

 富寿神宝も承和昌宝も素材の違いは大差ないのだから、富寿神宝をいったん溶かして銅に戻し、承和昌宝に作り直すとどうなるか。手持ちの銭がたちまち一〇倍の価値を生むこととなる。無論これは犯罪であり、発覚したら即逮捕、最悪の場合は終身刑が待っていたが、捕まるケースは非常に少なかった。承和昌宝の出来が悪く、偽銭だということがなかなか見破られなかったから。

 また、承和昌宝として加工しなくても、溶かして銅のままにしておけばそれはそれで価値が出た。銅の絶対数が少ないため銅そのものが値上がりし、貨幣が値下がりしているため、貨幣をそのまま持っているより利益のでることとなったのだから。

 そして、この承和昌宝の出現は市場にインフレを招いた。手持ちの富寿神宝を使おうという者はいなくなり、富寿神宝を銅に戻したり承和昌宝に加工したりといった手順を踏むのが当たり前になっただけでなく、富寿神宝を承和昌宝に加工する商売まで登場した。銭の加工は犯罪であるといくら宣言しても、いま自分が手にしていた財産がいきなり一〇分の一になるというのに真面目に従うほうがおかしい。

 これは完全に緒嗣の失敗だった。

 一瞬の財政好転を求めた代償は大きく、この傷はしばらく残ることとなる。

 篁復帰に伴う新羅との緊張は、再び戦乱を呼び起こしかねないものとなっていた。

 そして良房がついに動いた。

 三月一四日、新羅人来襲に供えて、壱岐島に遙人三三〇人を配備。基本的には壱岐在住の者から募った、農民や漁民兼任の志願兵であったが、中には良房自らが近衛府の者から選抜した武人もいた。

 ここで注目すべきポイントが三つある。

 なぜ壱岐か。

 なぜ三三〇人だけなのか。

 なぜ志願兵なのか。

 まず、壱岐に配備した理由だが、対馬にはもう同様の自衛組織が存在しているからである。

 これまではそうした対馬の自衛組織をものともせぬ新羅の海賊だったが、対馬の軍事力向上と篁の復帰という条件が重なると、対馬はたやすい相手ではなくなる。

 そこで目を付けられる可能性が増すのが壱岐。良房は軍を率いた経験がないが、軍事のセンスがなかったわけではない。自分が攻め込む立場なら、対馬を素通りして壱岐に攻め込むと考えたのである。そしてこれは正解だった。

 だが、ここで二番目の問題が生じる。三三〇人という人数である。良房はこの人数で充分と考えたのか。

 その答えは、否。

 だが、必要な人数を養わせるだけの余力が壱岐にはなかった。その上、基地で軍事に専念する職業軍人ではなく、農民兼任や漁民兼任の志願兵でなければ養えなかった。つまり、良房は志願兵を選んだのではなく、兼任の志願兵とするしか手段がなかったのだ。これが三番目の問題の答えである。

 三三〇人という人数、そして兼任の志願兵としたのは、それがこの時点で負担できる限界だったからに他ならない。

 まったく緒嗣は余計なことをしでかしたと思ったに違いない。遣唐使の派遣にこだわらなければ壱岐に配備できる兵士の数を増やせたのだし、職業軍人の配備だってできたのだ。いや、そもそも壱岐に兵を配備する必要もなかったか。

 それでも壱岐に軍勢を配備したことの効果は大きかった。

 近衛兵から派遣された者の名は伝わっていないが、その者が指揮する軍勢は新羅の海賊を食い止めることに成功したのだ。

 この功績により、四月七日、藤原良房に従三位が与えられ権中納言に就任。そして、四月一五日には左兵衛督の兼任が決まった。

 中納言は、参議、左大弁、右大弁、左近衛中将、右近衛中将のいずれか(後に検非違使別当も加わる)を勤めた経験を持つ者が就くことのできる職で、すでに参議と左近衛中将を経験している良房にはその資格がある。

 従三位相当の官職とされているため、いかに参議や左近衛中将を経験していても四位のままでは中納言に就けないが、従三位で、かつ、経験を必要とする役職を経験した者は自動的に中納言になるのが決まり。

 だが、ここで問題がある。中納言の定員は決まっている。定員を外れて中納言になることができるのは、皇族や、臣籍降下したばかりの源氏のみ。例えば源常は従三位になったと同時に中納言に加えられたが、それは源常が嵯峨上皇の子だからという理由、言うなれば、皇族特別枠によるものであった。いくら嵯峨上皇の娘を妻としていようと、良房は皇族ではない。つまり、中納言になる資格充分の良房を中納言に就けようとしても、定員オーバーで中納言に就けられなくなってしまうのがこのときだった。

 そこで権中納言となった。

 役職の前に「権(ごん)」が付くケースは二種類ある。

 一つは格下の役職に就くケース。菅原道真が大宰府に渡ったときの役職は「大宰権師(だざいごんのそち)」。これは右大臣を勤めた人間に対して、格下ではあるが外交の全権を握る大宰師にさせるために設けられた役職で、こういったケースのときは大宰師の役職を勤めるが、権威と待遇、そして給与は以前の職、この場合は右大臣と同じ権威と待遇と給与を得られる。

 もう一つが定員オーバーであることを示すとき。

 今回の良房は中納言として定員オーバーであった。しかし、中納言になる資格を満たしている。

 こういうときに使われたのが権中納言という役職。これは中納言と同じ権威と権力を持ち、同じ待遇を得られるが、法制上は中納言にカウントされない。

 だが、いかに法制上はカウントされなくても、良房が中納言にまで進んだことは事実である。

 緒嗣は自分の失敗を良房が利用したことを腹立たしく思ったが、もはやどうこうなるものではなくなっていた。

 中納言になった良房がまず取り組まなければならなくなったのは二つある。一つは、病に罹り寝たきりとなった夏野の穴を埋めること。四月二三日に、職務困難として夏野は左近衛大将の辞任を表明している。辞任は受け入れられなかったが、既に五〇歳を超えた夏野はいつ何があってもおかしくない年齢であり、また、病に苦しんでいることは誰の目にも明らかであり、夏野が朝廷に出勤しないことは何らおかしなことはみなされなかった。

 良房は朝廷内における最大の味方を失ったようなものだが、どうやら良房は覚悟をしていたようである。病に苦しむ夏野を頻繁に見舞っているが、夏野とどのような会話を交わしているのかの記録は残ってない。

 しかし、想像はできる。二人とも今のこの病は治るような軽いものではないと悟ったのではないか。良房は父の死を思い出し、夏野も今の自分を理解している。

 自分の命が尽きようとしているとき、多忙を極めている最中に時間を割いて自分のために何度も何度も足を運んでくれる良房を見て、この若者に人生を託したことは間違いではなかったと感じたに違いない。

 そこで話された内容は多分に政治的なものだろう。今の時代の抱えている問題を解決するにはどうするべきかが話し合われ、夏野は良房の行動力に時代と思いを託したのではないか。

 そして取り組まなければならなくなったことの二番目、これは夏野との話し合いで出た現在の問題点の筆頭でもあるが、それはこの年に顕著になった不作、それも人災の不作だった。

 四月二六日、越前国で飢饉が発生したため施が行なわれた。

 五月三日、近江国の飢饉に伴い、施が行なわれた。

 五月八日、伊勢国、加賀国、長門国など(資料にはその他とあるが、そこがどこなのかは記されていない)で飢饉に伴う施が行なわれた。

 先に、良房が三三〇人しか、それも兼職の志願兵しか壱岐に配備できなかったのはそれが限界だったからだと記したが、これまでの良房であれば自費を割いて不足分に当てていたはずである。確かに利益のでない出費だが、損得勘定で行動するならなおさら自費を割いていなければおかしい。だいいち、壱岐に海賊が攻め込んでくることは、社会全体を驚愕させる「損」以外の何物でもないのだから。

 ところが良房は自費を割いていない。

 割いていないのには理由があった。

 割きたくても割けなかったのだ。

 新貨幣の登場はインフレを呼び起こしただけでは済まなかった。インフレは失業を呼び、失業は流浪を招き、流浪は治安悪化を生み出した。

 彼らが目を付けたのが、成功している大農園だった。

 食べ物を恵んでくれるように頼み込んでくるにしても、働かせてくれと頼み込んでくるにしても、分け与える食料には限りがあり、新たに開墾した田畑を分け与える余裕はなかった。比較的早く流れてきた人を援助することはできたが、流れてきた人全てを養う余力を持つところなどない。

 結果、既存の住民と流れてきたものとで諍いが起こる。

 新たに田畑を開墾するにしても、インフレのせいで失業したのは一月。今日の食い扶持もないのに九ヶ月後の収穫まで耐えられるはずがない。

 今日の食べ物もなく自分や家族が飢えて苦しんでいるのに、農地にいる者は毎日コメの飯を食べている。それを分けてくれと頼んでも追い返される。これは理性でどうこうできるものではない。

 その結果が、奪う、であった。

 地方を荒らす強盗団が誕生したのだ。

 強盗団に狙われた農園は、食べ物も着る物も、貞操も命も奪われた。

 襲った後の田畑を省みることはなく、強盗団は次のターゲットを狙って行動し、彼らの通った跡には荒らされた集落と踏みにじられた田畑が残された。しかも、被害は一度では済まない。もう一度田畑を取り戻そうと生き残った者で力を合わせても、余裕のある農園と見られたらまた強盗団の襲撃がやってくる。

 それまで貴族の権威で守られていた田畑が暴力の前にズタズタにされたとき、農園で生き残った者に待っていたのは、今度は自分が失業者になったという現実だった。今日の食い扶持もなく、家族が飢えで苦しむという現実が彼らに絶望を招き、今を生きるための新たな強盗団を生み出すこととなった。

 この年の不作は気候のせいではない。

 緒嗣の行なった新貨幣の導入がもたらした人災である。

 良房はその尻拭いをさせられる羽目になったのだ。

 自分の農園の収穫が減るだけでなく、財産を持ち出して強盗の被害にあった人たちの救援にあたり、権威と権力をフル稼働させて治安維持に乗り出さなければならなくなった。良房の送り出すことのできる兵士だけでは足りず、強盗団に対処するため、自分達の田畑を自分達で守るよう命じ、そのための武器の配給もした。

 壱岐を守る必要を無視したのではない。

 良房は自分の農園を守るのに精一杯になったのだ。

 いや、良房だけではない。農園を持つ者が例外なく自分のところを守るのに懸命になったのがこの年だった。

 強盗団がこのあとどうなったかは一概には言えない。

 もとより偶発的に誕生した集団であり、組織として確固たるものではない。兵士との戦闘で全滅した集団もあったし、毒を以て毒を制すとばかりに集落に雇われて、他の強盗団から集落を守ることを仕事とする者も出た。

 この治安悪化の鎮静化は承和五(八三八)年まで待たねばならない。


 遣唐使派遣への準備は着々と進んできていた。

 八月一日、大宰府を抱える筑前国での貧困が問題化してきたため、五年間の返済期限を設定してのコメの貸し出しを行なった。大宰府周辺の貧困は大宰府の運営そのものに関わる。今は大宰府をベースとする遣唐使派遣を間もなく迎えると言う時。貧困救済を優先させる良房と、大宰府の安定を求める緒嗣の利害が一致した珍しい例が実現し、一万束という例を見ない大規模な貸し出しとなった。

 国からのコメの貸し出しは通常であれば出挙という形をとって高めの利子を設定するのが普通だが、良房はその出挙を事実上滅亡させた本人である。このときも出挙ではなく単なるコメの貸し出しとなったのは出挙に良房が猛反発したからだろう。そして、良房の低利の貸し出しが成功していることは緒嗣も認めざるを得ないことであった。

 筑前の安定化については政策の一致を見た良房と緒嗣だが、遣唐使については最後まで意見の一致を見なかった。良房は明確に遣唐使反対を表明したが、緒嗣が頑として受け入れなかったのがその理由。

 理屈は理解できていた。もう遣唐使派遣の準備は八割方進んでいる。ここまで来て遣唐使を中止することは投じた費用が全て無駄に終わることを意味するし、既に遣唐使による財政悪化はどうにもならなくなっている。こうなると中止にしようと派遣しようと負担に大した違いはない。

 結局、左大臣という最高官職者が執念を見せている遣唐使という事業を、一中納言が覆すことはできなかった。良房は遣唐使派遣によって生じた諸問題の解決にあたることに専念し、遣唐使派遣に対する反対意見を封じることとした。これは病床の夏野からのアドバイスもあった。緒嗣の性格からして遣唐使の中止はあり得ず、できることがあるとすれば遣唐使に伴う被害を最小限に食い止めることだというアドバイスだった。

 この八月一日の記録から一二月二日までの間、続日本後紀の記録は乏しくなる。新たな任官や仁明天皇の外出といった記録のみになり、遣唐使や貧困対策のためにどのような政策が遂行されたかは記すことができない。が、何かはしたはずである。

 インフレによる失業の増加と治安悪化の改善、そして貧困の救済を劇的に改善させる効果はなかったとみえる。もっとも、現状より悪化させることはなく、徐々にではあるが改善させる効果ならあった。

 一二月二日、遣唐大使藤原常嗣に正二位、副使小野篁に正四位上の位が与えられる。これにより遣唐使は日本から大臣クラスの派遣となり、唐への礼節として申し分ないものとなった。ただし、帰還後は元の位に戻されることが決まっているので、これはあくまでも遣唐使期間中の特例となる。

 一二月三日、小野岑守の建てた宿舎続命院を大宰府に管理させることが決まった。続命院は大宰府を利用する者のために小野岑守が建てた建造物である。これは現在で言うホテルや大きめのペンションで七棟の建物からなっていた。その維持費のための田畑も併設されており、公使は無料で宿泊可能、私人でも有料だが宿泊できた。このホテルを大宰府に管理させる理由は一つ。ここが遣唐使の滞在ポイントとなるということ。

 さらに遣唐使船四艘が完成したという連絡も入り、あとは季節が来るのを待って出航するのみというまでになった。


 承和三(八三六)年一月二五日、陸奥国白河郡での砂金の採取量が倍になったことを受け、この地の氏神が表彰された。

 当初、陸奥国司からは砂金採取が倍になったという報告と、実際に採取された砂金の両方が送られてきた。

 情報だけなら怪しいが、実際に砂金が送られてきている以上、砂金採取量が倍になったことは事実として認められなければならない。

 緒嗣はこの報告に歓喜した。これで遣唐使による財政赤字は解消されると考え、陸奥国司の功績を称え、官位を上げるよう仁明天皇に奏上した。

 ところが良房は冷めていた。砂金の量が倍に増えたということは、歴代の国司が今まで過小に報告してきていたか、出世欲のために無茶な強制労働を課した結果だと主張したのである。その上で、陸奥国司に対し砂金が倍になった理由を正す公開質問状を送った。

 出世が待っていると考えた陸奥国司は狼狽した。急に倍に増えた理由はそれだけの強制労働を課したからであるが、それが露見したら間違いなく処罰される。かと言って、今までが少なかったのだと主張したら前年度の横領でやはり処罰される。陸奥国司は、考えた末に、倍に増えた理由は神への祈りの結果だと言いつくろった。

 この回答を受けた良房は、賞賛されるべきは地域の氏神であって陸奥国司ではないとする意見を出す。仁明天皇も良房の意見を受け入れ、白河郡の氏神である八溝黄金神(やみぞのこがねのかみ)に褒賞を与えることとした。

 このときの氏神への褒賞は田畑であった。無論、神が田畑を耕すわけはなく、神社周辺の田畑を、その氏神をまつる神社が管理し、実際には地域住民が耕す田畑だと認めることを意味したのである。

 その結果、これらの田畑は宗教法人が管理するものであるため非課税となり、その上、強盗団も神仏は恐れたのか、寺院や神社の周囲の田畑には手を出さないことが多かったことから、強盗団から守られた田畑を与えることとなった。つまり、これは強制労働を課せられた地域住民への褒賞なのだ。

 税と強盗から逃れられる田畑は最高の贈り物であったろう。手柄目当てに砂金採取の強制労働を増やして砂金の採取量を増やした陸奥国司は何の褒賞も得られず当てが外れて悔しがったが、強制労働を課されていた住民は良房の対応を絶賛した。 


 承和三(八三六)年二月一日から出航まで、遣唐使たちは遣唐使派遣のための儀式に追われることとなった。

 まず、二月一日に京都北郊の北野の地で航海の無事を祈る祭りが行なわれ、遣唐使に選ばれた者全員が幣帛を捧げた。

 二月七日には賀茂神社に遣唐大使藤原常嗣が赴き、航海の無事を祈る幣帛を捧げた。

 幣帛(へいはく・この当時の読みは「みてぐら」)というのは、神道の祭祀において神に奉献するもののうち、神饌(神に捧げる食事で祭りが終わったあと皆で食べる)以外のものの総称である。この時代は布地であることが多く、高価な布地であればあるほど効き目が高いと見られていた。

 こうした負担もまた、遣唐使に選ばれたときに課せられる負担の一部分を占めていた。国に選ばれた遣唐使はこうした幣帛の費用も国が持ってくれるが、自費で渡航する者は幣帛の費用がないから大使や副使が立て替えなければならない。

 続く二月八日には仁明天皇が大使常嗣と副使篁を謁見し、全ての遣唐使に天皇自らが禄を与えた。

 これに続き、遣唐使の中の無位無冠の者に位を与える儀式が行なわれた。このとき与えられた位はおそらく八位か高くても七位だが、遣唐使として唐に渡る者は、大使から一船員に至るまで、僧侶を除く全員が何かしらの官位を持つ役人となった。

 記録には誰にどのような待遇を与えたかという内容残っているが、出航までの間、唐へ渡る予定の各個人がどのような生活を送っていたかは断片的にしか残っていない。出航までの期間はわずかしかないことから家族や恋人との最後のひとときを過ごす者、まだ見ぬ唐への憧憬を抱く者、そして、船への荷物の積み込みに追われる者がいた。これは過去に行なわれた遣唐使の時と同じ光景だった。

 国全体が遣唐使へと向けて動いている間、良房はその後始末に追われていた。

 二月二九日、伊勢国で飢饉救済のための施を行なった。

 三月一二日、京都で地震が発生し、救援に向かった。

 三月二〇日、尾張国で飢饉救済のための施を行なった。

 三月二六日、石見国で飢饉救済のための施を行なった。

 良房が後始末をするおかげで緒嗣は遣唐使に専念できていたと言っても良い。ただし、それに対する緒嗣からの感謝の言葉は全くない。

 また、この施というのも良房の好みではなかった。良房の民衆救済の行動パターンは二種類しかない。復旧と新規開拓である。

 いまは生活できないが、生活を立て直そうとする意欲のある人を助けるのがこれまでの良房の福祉政策だった。しかし、このときは意欲有無に関わらず支給している。極端なことを言えば、意欲など無く、働かないでタダ飯にありつこうとする者を養っている。

 これは本心から言えばやりたくないことだったが、インフレのせいで悪化した治安を考えたとき、とりあえず生きる対策をとらねばならない対策であることを痛感させられた。働いても働いても根こそぎ強盗団に奪われる暮らしが待っているのに、治安悪化の原因である強盗団を取り除けていない以上、できることは、強盗団から守られた場所での食料支給しかなかった。


 四月一〇日、緒嗣を筆頭とする一四人の公卿とともに遣唐使朝拝の儀式が行なわれる。ここに天皇は出席しないのが小野妹子の頃からの決まりなので仁明天皇も決まりに従って出席しなかった。また、右大臣清原夏野は病欠、権中納言藤原良房も理由は不明だが出席していない。後始末に忙しかったのか、あるいは、抗議の意味を込めたボイコットであろう。

 四月一三日、遣唐使船が新羅に漂着した場合に備え、紀三津(きのみつ)を新羅に派遣した。

 資料によってはこのときの派遣を遣新羅使とするものがあるが、厳密には正しくない。なぜなら、遣新羅使の派遣は宝亀一〇(七七九)年の光仁天皇が命じた派遣を最後に終了し、延暦一八(七九九)年には桓武天皇の命令によって遣新羅使が廃止されているからである。これは、格下が格上に使節を派遣するのが礼儀であるとした桓武天皇の姿勢をそのまま反映させたもので、日本からの使節の派遣は遣唐使漂着に備えた人道的な配慮に限定されている。

 また、続日本後紀には紀三津の新羅派遣は遣唐使出航後だと記されているが、これは考えづらい。日本から新羅に使節が派遣されたのは確認できるだけで二七回あり、この紀三津の派遣が二八回目となる。そして、そのうちの少なくない数が遣唐使出航の前に派遣されたものであり、遣唐使派遣後の新羅への使者の派遣は一度しかない。

 そのため、十干十二支の記録を一周誤った、あるいは意図的に誤らせたとするのが現在の考え方である。

 また、続日本後紀には五月のこととして記されているこの事件も、実際にはこの頃の事件であった可能性が高い。

 その事件というのは、突然の突風が皇后宮職を襲い、ここで織られていた布一匹(布の長さの単位としての「匹」は約二一メートル)が四〇丈(およそ一二一メートル)の高さまで舞い上がってから侍従所に落ちたという事件である。

 竜巻ではないかと思われるがこの正体は分からない。しかし、これは不吉な前兆として考えられたことは間違いない。なぜなら、このときに織られていた布は唐の皇帝への献上品だったのだから。

 四月二四日には賜餞の儀式が行なわれた。これは天皇自らが開催する酒宴であるが、酒宴といってもさすがに居酒屋でワイワイガヤガヤ無礼講にやるようなものではなく、儀式に則った手順がある。

 酒宴の最初に、仁明天皇から詩の題が出される。このときは「餞を入唐使に賜う」が題だった。参加者は全て、制限時間内にこのタイトルで漢詩を作らなければならない。

 詩のタイトルが発表されてから少しして、大使常嗣が仁明天皇に酒を捧げて良いか伺いを立てる。その許可があってから常嗣は進み出る。次いで、采女(うねめ・天皇の身の回りの世話をする女官)が呼ばれ酒と杯を持ってくる。それから常嗣が仁明天皇に酒を注ぎ、仁明天皇は飲み干す。それから采女の一人が常嗣のもとへ歩み寄って常嗣の杯に酒を注ぐ。天皇自ら酒を注ぐのはあり得ないことなので、これが仁明天皇からの返杯となる。返杯を受けた常嗣はひざまずいて杯を受け取ると一気に飲み干し、拝礼をして座に戻る。

 この座に戻るまでの間に詩を仕上げなければならない。

 詩の形式やこのとき作られた詩の内容は伝わっていない。

 二日後の四月二六日、各地域の神社に対して、遣唐使の航海の無事を祈る幣帛が奉られた。

 そして、四月二九日、遣唐使たちは最後の儀式を迎えることとなった。

 遣唐大使と副使に節刀を賜る時が来たのである。節刀を受け取ったということは遣唐使として出発しなければならないということ。自宅の前を通ることがあろうと立ち寄ることは許されず、次に家族に会うのは唐から無事に帰ってきて節刀を天皇に返したあとまで待たなければならない。

 記録上こうした命令文は漢字で表記されているが、使われた言葉は全て和語である。これを宣命という。

 「天皇(すめら)が大命(おおみこと)らまと、遣唐國使人(もろこしのくににつかわるつかい)に詔(みことのり)たまう大命(おおみこと)、聞食(きこしめさえ)を詔(みことのり)たまう。」

 「おお!」

 宣命がいったん区切られると、遣唐使たちはこう唱える決まりとなっている。

 その後も宣命が続くが、史料の和語表記には異説があり確定しない。今回は故佐伯有清博士が著書「最後の遣唐使」で記した現代語訳に基づく。

 「藤原常嗣朝臣。小野朝臣篁。きみたち二人を唐へ派遣するのは今回始まったことではない。以前から使者を唐に派遣し、唐からも死者が渡ってきている。ここに本朝から使者を派遣する番が来たのだ。この意味をわきまえ、唐の人々が穏やかに心和むように物を申し、唐の人々を驚かせる行為をしてはならない。今回の遣唐使で死罪以下の罪を犯す者がいたならば罪の軽重に従って処罰せよ。そのために節刀を賜うのだから。」

 これで終わりである。

 常嗣と篁に残された行動はただ二つ、出発までの間の宿舎となる鴻臚館で時を過ごすことと、時が来たら難波津に向かって遣唐使船に乗り込み、唐へと向かうことだけ。

 五月一二日、出航を待つのみとなった常嗣のもとへ勅語が届く。これも和訳には数説あるため、故佐伯有清博士の著書「最後の遣唐使」の内容より現代語訳を転記する。

 「節刀授与の儀式が終わり、朝廷を退出してからまだ幾日も経っていないが、旅情は遠近を問わず苦しいものがあると思う。遠方に出かけている間の心の慰めとして、また道中つつがなく、折り目正しく退出したその日のように面変りしないで、早く帰国するようにと祈って、酒と肴を賜う。」

 これは優しさを感じさせる内容であったが、翌一三日、節刀を授受されたときに読み上げられた厳しさに満ちた宣命が再び読みかえされた。

 「遣唐使判官以下(もろこしのくににつかわすかいまつりごとびとよりしも)、国家(みかど)のために犯事(おかせること)あらば、罪の軽重(おもきかろき)に随い、死罪(ころすつみ)を以下科決(はじめてさだめのおおせよ)として、大使主(おおおみ)、小使主(おおみ)に、節刀(しるしのたち)給えり。諸此状(もろもろかくのさま)を知りて、謹み勤み仕え奉(まつれ)と宣(の)りたまう。

(今回の遣唐使で死罪以下の罪を犯す者がいたならば罪の軽重に従って処罰せよ。そのために節刀を賜うのだから。)」

 最初にこれを聞いたのは常嗣と篁の二人であったが、その内容は公開され、一般の船員も知るところとなっていた。しかし、改めて読み上げられたのはこれが始めて。

 ある者は肝を冷やし、ある者は航海に不安を抱いた。

 それでも遣唐使は一人残らず遣唐使船に乗り込み、翌日の出航に備えることとなった。

 五月一四日、遣唐使船四艘が難波津を出航。このときの遣唐使の総数、トップの常嗣から末端の船員に至るまで合計すると六五一人の旅が始まった。

 いろいろとあったが無事に出航したことに胸をなで下ろし、後は無事に唐に着いて帰ってくるのを待つのみとなった、と誰もが思った。

 だが、五月一八日、遣唐使船に試練が訪れる。

 この日の夜、京都市中に暴風雨が吹き荒れた。樹木が折れ、家屋が倒壊し、京都市中の民家で被害が出ていない家屋を探すほうが困難なほどであった。

 長良は藤原の財をかき集めて良房に渡し、良房はただちに市民の救援にあたった。かつての大学生達も救援に参加し、救援活動はちょっとした同窓会の雰囲気さえ漂った。

 そうした救援活動の途中で、遣唐使船も風雨にさらされ、四艘とも摂津国輪田泊(現在の神戸港)に緊急避難したとの連絡が届いてきた。

 状況を把握させるための使者を遣わせると同時に、航海の無事を祈る動きも起こった。

 五月二二日、神功皇后、天智天皇、光仁天皇、桓武天皇の陵墓に幣帛が奉られた。仁明天皇にとっての祖先にあたると考えられた天皇たちで、天武天皇系の天皇はきれいに除外されているあたりがこの時代の天皇家の歴史観を反映している。

 難波津を出た遣唐使は無寄港で一気に唐を目指すのではない。瀬戸内海沿岸を少しずつ渡り、大宰府にいったん留まって、タイミングを見計らって出航するのが通常であり、このときもそうしていた。

 寄港した港からは何月何日に到着し、何月何日に出航したという知らせが逐一届いていた。

 緒嗣はこの情報に関しては嬉々として受け入れたが、その他の情報については無関心であり、対策は良房に委ねられた。

 その他の情報には各地からの定時連絡と緊急連絡とが混在している。その緊急連絡が日々増えてきたのがインフレ発生以後の日常だったが、インフレを超える最悪の緊急連絡が五月末から登場し始めた。

 疫病流行。

 どういった流行病かは記録に残っていないので詳細は不明だが、治安悪化に伴う生活環境の劣化が流行病の蔓延を招いたのは間違いない。

 良房は直ちに全国の医師に対して治療にあたるよう指示を出すが、医師からの返答は治療の甲斐なく亡くなる者が多いという返信だった。そして、この治療をする薬は現在の国内には存在せず、唐より緊急に薬を輸入してほしいという要請がきた。

 良房はこの要請を受け、大宰府にいるはずの遣唐使たたち、そして、新羅に出向する順をしているはずの紀三津に症例を伝える手紙を送り、直接にしろ、新羅経由にしろ、唐から治療法を入手することを命じた。これは良房が人生で行なったただ一つの遣唐使に対するアクションだった。

 良房からの連絡が太宰府に向かってからしばらく経った七月一五日、京都の緒嗣のもとに待ちこがれていた知らせが届いた。七月二日に遣唐使船四艘が揃って出航したという知らせである。良房から依頼された医薬品の入手についても可能な限り行なうとの連絡が記されており、色々あったが無事に出航したという知らせは緒嗣を喜ばせ、宮中に安堵をもたらした。


 ところがその翌日、とんでもない知らせが届いた。密封された奏上を開いた緒嗣はしばし絶句し、なかなか読み上げなかった。緒嗣にとって不都合な内容だと察知した仁明天皇は、良房にその書状の内容を読み上げるように命じた。

 「第一船と第四船が漂流し肥前に漂着、船の破損が激しく全面的な修理が必要。また、第二船と第三船も漂流し現在も消息が掴めません。以上。」

 出航間もない難破に朝廷内はどよめきを見せ、緒嗣は狼狽を隠せなかった。

 「まずは遣唐大使殿に書状を送って大宰府に待機するよう命じ、第二船第三船の安否を確認させることが先決にございます。海岸に見張りを立て、第二船、第三船の漂着に備えさせるべきでありましょう。」

 良房は狼狽する朝廷の中で冷静であった。

 「それよりも気がかりなことがございます。疫病です。」

 「今は遣唐使をいかにすべき可を議論する場。そのような些細なことは後ほど議論すればよい。」

 「疫病が些細なこととは何たることですか! それが左大臣ともあろう人の言葉とは思えませぬ!」

 良房が語気を強めた。

 「本朝に疫病が蔓延し命を失う者が出はじめているというのに、都にこもって何もせぬなどあり得ぬことです。疫病につきましては新羅に派遣されているかも知れぬ紀三津が希望の綱にございますが、いつ戻るかもわからぬ者に過度の期待を掛けるわけにはまいりませぬ。本朝として疫病への対策を早々に実施することを提案します!」

 そう良房は提言したが、治療や防疫の方法もわからず、効果のある医薬品が何であるのかもわかっていない。もっとも、それはこの時代の医療技術の限界であって、良房個人に帰す問題ではない。

 良房の主張は正論であったが、素直に納得できる内容でもなかった。語気を強め自説を展開する姿が不遜に映り、賛成する者が少なくなる結果を招いた。

 「良房、それは過ぎたることぞ。」

 そのとき、長良が口を挟んだ。

 「疫病の流行りたるは無視できぬことにございます。ですが、現在の医師、現在の薬で治るすべも無いこと。今の我々にできることは、疫病の鎮圧を図ること、そして、大宰府へ指令を出すことの二つにございます。」

 長良の言葉は混乱しそうになったこの場を鎮める役を果たし、仁明天皇は四つの指示を同時に出した。

 一つ目の指示は各国の寺院に対して般若経を転読させ疫病鎮圧を祈祷させること。

 二番目の指示は神社に対して幣帛を奉らせ疫病鎮圧を祈祷させること。

 これらの二つにどれほどの効果があったのかはわからないが、少なくとも朝廷は疫病に対して何かをしているとアピールすることはできた。

 三番目の指示は大宰府に漂着した常嗣に対して遭難を気遣うこと。

 最後の指示は大宰府の役人たちに対して未だ不明の遣唐使の帰還が果たせるように努力させること。この最後の命令の受け取り相手は大宰大弐(大宰府の次官)の藤原広敏である。常嗣に対しては、遭難を慰め行方不明となった第二船と第三船の安否を気遣う内容だったが、広敏に対しては、第一船と第四船の修繕と、値嘉嶋(ちかしま)の海岸に人員を配置し第二船と第三船の捜索にあたらせること、そして損傷の度合いが軽微ならば直ちに唐へ向かわせることをかなり強く命令する内容だった。

 一番目から三番目までの指示は温厚な内容の文であったのに対し、最後の命令だけが強い命令文となっていたのは、仁明天皇ではなく緒嗣がその文を記し、仁明天皇は最後の署名をしただけだからである。

 遣唐使船を四艘も出航させても、四艘全てが唐にたどり着かなければ遣唐使としての役割を果たさないというわけではない。そのうち一艘でも唐にたどり着けば遣唐使の役を果たすため、行方不明という知らせであっても、第二船と第三船が無事に唐にたどり着けばそれで問題ないとする考えもあった。

 何よりも、緒嗣がそうであろうと考えた。

 大使常嗣が大宰府に舞い戻ってしまったが、副使篁が唐に渡って遣唐使としての役割を果たすと信じた、いや、信じ込もうとした。

 だが、緒嗣の願望は打ち砕かれた。

 七月二四日、大宰府より、副使小野篁の乗った第二船が漂着したとの連絡が入ってきた。

 「第二船、肥前国松浦郡別島(わけしま)帰着。船舶は大破し、運搬・脱出用の小舟も流出。以上。」

 大使も副使も帰着してしまい、残るは第三船のみとなった。通常ならば唐の皇帝に拝謁できる者ではないが、こうした遭難を経た結果であれば唐も受け入れることになっているし、国書ならば携えている。

 緒嗣は第三船の唐行きを祈った。

 その上で篁に対し勅符が飛んだ。

 「大宰府に還りて、その完(まつた)からず足らざる者を繕補(ぜんぽ)し、然(しか)る後に持節使等と共に国命を果たせ」

 つまり、一刻も早く大宰府に赴き、船の修理と荷の再積み込みを行ない、乗員を乗せて再出航するようにとの命令である。大使常嗣にはやさしさに満ちた温かい勅命だったのに、副使篁には「さっさと旅立て」との冷たい勅命。いくら大使には乗組員全員の安全を確認する使命を持つからといっても、この仕打ちの違いは篁の熱意を奪うに充分だった。

 篁は背後に緒嗣の存在を感じた。自分にこうした命令を出してくるのは、人としての度量が狭いこの男しかいないと確信して。

 命からがら日本にたどり着いた者に向かって時を置かずに再び唐に向かえと命令するのは、緒嗣にとっては何よりも遣唐使派遣を優先させるために必要な命令であったろうが、人としての配慮をあまりにも欠いた命令であったとするしかない。

 緒嗣にとっては、未だ戻ってこない、つまり無事に唐に向かっていると推測できる第三船に合流することを念頭に置いたものだろう。

 四艘の船のうち三艘が遭難して引き返している。これで残された第三船が無事に航海していると考えるのはよほどの気楽者か、そう考えざるを得ない状況に追い込まれているかのどちらか。緒嗣の場合は後者だった。

 執念を燃やした遣唐使がこんな形で失敗するなどあってはならないこと。連絡のない第三船は無事に航海できていると考えることだけが、緒嗣のやってきたことを無に帰させぬ唯一の思考だった。

 しかし、その思考は裏切られることとなる。

 八月一日、大宰府から緊急の使者が京都に使わされた。

 「第三船難破。水手(かこ・水夫のこと)一六名が板きれを編んで筏(いかだ)を作り、対馬の南浦に漂着。水手たちの証言によれば、第三船の船体損傷が激しく浸水を止めることできず、このような事態となった。他の乗組員の消息は不明。以上。」

 緒嗣はこの報告に黙り込んだ。

 唯一無事と判断していた第三船が、四艘の船の中で最も激しい損壊を遂げていることが伝わったのである。これで緒嗣が執念を燃やした第一七次遣唐使の第一回目渡航は失敗という結末を迎えたこととなる。

 「ま、まずは船を修繕し、再び渡航を…」

 緒嗣の言葉は弱々しいものだった。

 「何を言っているのですか! だいたい今の大宰府に船を直す余裕も、遣唐使を養う余力もありません! 筑前の貧困と疫病をお考えください!」

 良房は緒嗣に反論し、それから一つの提案をした。

 遣唐使の乗組員を一度帰郷させることがそれである。

 遣唐使船の遭難は今回が史上はじめてのことではない。過去の遭難は何れも乗組員を帰郷させており、前例を持ち出しての帰郷の提案は緒嗣も認めざるをえず、帰郷の許可が下りた。ただし、帰郷しても良いという許可であり、帰郷しなければならないという命令ではない。

 緒嗣が想像していたのは、遣唐使たちが自らの任務を優先させ帰郷せずに大宰府に留まり、船が修繕し次第再度出航することであった。ところが、緒嗣の期待は裏切られる。

 常嗣からは生存が確認できた者を一人残らず帰郷させ、自身も含め、主立った者は京都へと帰還することとしたという連絡が来た。

 そして、大宰府からは遣唐使を養う余裕がもはや存在しないため、一人残らず帰郷させたという連絡が来た。

 これとほぼ同時に、第三船の乗組員のうち八名がイカダに乗って肥前国に漂着したという連絡が来た。これで第三船の乗組員で生存が確認できたのは合計二五名となる。一四〇名以上が乗り込んでいる第三船で二五名しか生存が確認できていないというのが緒嗣の執念を燃やした遣唐使の迎えた現実だった。

 それでも緒嗣は言い放った。

 「まずは遣唐使の再度の出航を最優先せよ。」

 この発言に朝廷内の空気は静まりかえった。

 八月二〇日、大宰府から第三船の遭難の様子が届いた。様子をまとめたのは第三船に乗り込んでいた僧侶、真済(しんぜい)。彼はこの遭難の様子を口ではなく文章にしてまとめた。疲労の度合いが激しく言葉が口からでなかったからとも、その残酷な光景はとてもではないが口にできなかったからだとも言う。

 「舵が折れ、棚が落ち、海水が流入した。乗組員はおぼれ、一四〇名を超える乗船者は波に任せて漂流した。船長は『このまま船上にいたら飢え死にしてしまう。船を壊してイカダを作り、各自イカダに乗って飲料水を求めるしか方法はない』と言った。乗船者は各々船を壊してイカダを作り、それぞれに乗って去っていった。以後は各自運命に任されることとなった。」

 この報告書は朝廷を氷づかせるに充分だった。

 そして、八月二五日には第三船の最後の報告が届いた。

 第三船の残骸が対馬に漂着。船には三人しか残っておらず、他の者の消息は不明という報告である。これで確認できた生存者二八名。一四〇名以上の乗船者の五人に一人しか生き残れなかったこととなる。

 京都へ帰還している途中の常嗣と篁に対し、京都へ帰京したのちに節刀を返還するように命じる指令が飛んだ。

 さらに、この指令と入れ違いで、紀三津が大宰府を出発し、新羅に向かったという連絡も届いてきた。

 九月二五日、常嗣と篁が相次いで京都に帰還し、揃って節刀を返還した。

 この儀式を以て第一七次遣唐使の第一回渡航は終了となった。

 本来ならばこれで遣唐使自体が中止になるはずだった。だが、緒嗣はただちに大宰府に対して船の修理と再建を命令。遣唐使の派遣は諦めていないというメッセージを内外に公表し、もはやこの人の執念は、誰が何と言おうと、どんなに命が失われようと、遣唐使は何があろうと派遣するというものになっていた。

 一〇月二六日、新羅に渡っていた紀三津が大宰府に帰還。遣唐使船四艘は一艘残らず遭難したのに、往復とも何ら災害に遭うことなく無事に帰還したことは紀三津にとって幸いだったと言える。

 ところが、紀三津は命が無事であってもその新羅での任務が難ありとされた。

 一二月三日、京都に戻ってきた紀三津は、任務の無事終了の報償ではなく、叱責が待っていた。

 朝廷が紀三津を新羅に派遣したのは遣唐使の安全のためであって正式な国交ではない。ところが、新羅は紀三津を日本からの使者と捉えた。それも、格下が格上に遣わす使者と見た。

 ついこの間無条件降伏した相手が、航海の安全を願う連絡をよこし、そして使者を遣わせた。これは新羅の溜飲を下げるに充分だった。その上で、日本側の非礼を咎めた。

 一方、日本から差し出した文書は宗主国が属国に差し出す文書だった。唐に使者を派遣するが遭難して新羅に避難してくるかも知れないので、その際は宗主国の客人として礼を尽くして迎え入れ日本へ丁重に送り届けるようにという命令の文書だったのである。これは紀三津が京都を発つときに渡された国書で、仁明天皇の名による文書だが、実際の執筆は緒嗣が行なっている。当然のことながらこの中に医薬品のことは書いてない。

 紀三津は当惑したに違いない。互いが互いを格下に考え、自らを宗主国と任じている。しかも、紀三津は新羅王室に二人だけ、つまり、紀三津と新羅語の通訳の二人だけで連れてこられた。周囲は武装した衛兵が囲んでいる場面である。身の危険を感じたとしてもおかしなことではない。

 それでも紀三津は毅然とした態度で新羅王室に対峙した。全ては文書に記されたとおりであり、自分はそれを伝えるためにやってきたのだと言い切った。紀三津の言う「それ」が何であるかはあえて宣言せず、何を聞かれても「文書に記されたとおり」という回答に留まった。

 新羅王室は紀三津の態度に怒りを感じ、非礼だとの声を荒げた。

 それでも理は紀三津にある。使者としての行動範囲を超えることなく、新羅は紀三津の無礼と日本の無礼を咎める国書を紀三津に突きつけた。

 また、新羅はここで小野篁の名を出してその消息を訊ねた。新羅がここで大使である常嗣ではなく副使の篁の消息のことを訊ねたのは、篁が新羅にとって手強い相手だったからに他ならない。

 新羅は狙っていた。篁の乗った船をである。新羅にとって最良のケースは篁の乗った船が自然に沈没して海の藻屑と消えること、次善のケースは篁の船を襲撃して沈めることができる状況になること。

 紀三津もそれを知らないわけはない。

 そこで紀三津は、篁の乗った船が無事に航海し唐へ向かっていると答えた。

 紀三津のこの回答は新羅の動きを封じる効果があった。篁の船はあくまでも自然沈没でなければならず、たとえそれが海賊の仕業であろうと、新羅が手出ししたものであるということを悟られてはならなかった。紀三津が篁の消息を掴めているということは日本が遣唐使船の消息を掴めているということであり、遣唐使船が襲撃された場合はその情報が日本に伝わってしまうこととなる。そのため、遣唐使船へ向けての出航準備を整えていた新羅軍の軍船は出航をただちに取りやめることとなった。

 紀三津が日本に帰ってきたのは新羅からの国書を手に携えてであり、良房の依頼した医薬品は全く無かった。医薬品どころではなかったというのが正解だろう。

 帰京した紀三津から差し出された新羅の国書を見た緒嗣は激怒した。

 新羅から差し出されたのは、日本と紀三津の非礼を咎める、宗主国から属国へと差し出す文書である。そこには紀三津が新羅王室でどのような言動をしたのかが記されていた。

 一使節に過ぎない紀三津が自分の権限を越えた態度に出たことも記されており、緒嗣はまずこの点で怒りをぶつけた。

 「自らの職分をわきまえず尊大なる態度に出たこと、これは本朝の誇りを傷つけ、多大なる損害を与える行為である。これは万死に値する大罪だ。」

 紀三津は緒嗣の言い分を黙って聞いていた。

 だが、ここで良房から反論が出た。

 「誇りが傷ついたとすればそれは左大臣一人の誇りのみ。本朝にとっては痛くも痒くもない些細なことです。それをわざわざ大ごととして騒ぎ立てまくるのは左大臣としての質を疑わざるを得ません。」

 「何を言うか、良房!」

 「紀三津を責め立てる必要がどこにあるのです。新羅が非礼と断じたのは国書の内容であって紀三津は適切な処置をとりました。その国書を書いたのはどこの誰ですか? 左大臣、あなたではないですか。」

 「国情というものがある。それを踏まえた上で適切な態度を示すのは使者たる者の使命であり、紀三津はそれを果たさなかった。叱責は当然ではないか。」

 「先ほどは自らの職分をわきまえずに尊大な態度に出たと怒り、たった今はそれをしなかったと怒る。いったいどちらなのですか。」

 「黙れ、良房!」

 「黙りません! 今ここで紀三津を責め立てることと、新羅との関係を改善することとが何の関係を持つのですか。いま成すべきはこれからどうするかの議論であって過去をああだこうだと論じることではありません。」

 「だが、責任というものがあるだろう。」

 「責任はあなたがとりなさい。遣唐使を計画し強引に推し進めたのは左大臣、あなたです。あなた一人の誇りのせいで一二〇人もの命が失われたのです。これこそ万死に値する大罪です。」

 その後も緒嗣と良房の論戦が続いた。責任をとらせようとする緒嗣と、責任はないとする良房との論戦は終わること無いように見えたが、論戦は意外なところで終焉を迎える。

 「良房、いい加減にしないか。」

 兄の長良が横から口を挟んだ。

 「左大臣殿も大人げない。今回もっとも危惧すべきは、これまで多くの命が失われたことと、これから失われる可能性のあることにございます。いまはまず、海中に没した同胞の死を追悼することが国命に基づいて死を迎えた者への礼節にございましょう。」

 「……、いかにも。」

 それから良房は目を閉じ黙り込んだ。それは祈りの姿であり、長良も続いて追悼の祈りを捧げた。

 貴族たちは一人また一人と目を閉じ、この場は追悼するための場となった。

 この紀三津であるが、実は素性がよくわからない。続日本後紀の中で、ある日突然登場し、この日を最後に記録から姿が消える。ゆえに、このあと紀三津がどうなったのかわからないし、この年の紀三津が何歳なのかを伝える資料もない。

 紀三津は武内宿禰にはじまる紀氏の一人だと考えられているが、現存する紀氏の家系図は明治時代に作成されたものであり、その家系図に三津の名はない。だから、紀三津がどういった家族構成のもとに生まれ、どういう人生を過ごしたのかといったことも全くわからない。

 そしてもう一つわからないことがある。それは紀三津が大宰府を出航した日。大宰府を出航したという連絡が京都に届いたのは八月二五日、第三船が漂流して最後の生存者三名が来着したという情報と同時である。

 何月何日に紀三津が大宰府を出航したのかという記録はないが、京都から大宰府まで片道一〇日から二〇日ほどかかるのが普通だから、紀三津が大宰府を出航したのは遅くても八月の上旬だろう。ところが、七月一六日には遣唐使船の遭難の情報が大宰府に届いているのである。四艘中三艘が帰朝し、残る一艘も沈んでイカダを組んで漂流しているという情報が入っていたのに、なぜ紀三津が新羅へ向かったのか。

 この回答を明確に示した研究者はいない。

 ただ、推測はできる。

 まずは良房の依頼した医薬品。

 太宰府の周辺でも疫病の惨状は確認できた。そして、遣唐使船がことごとく遭難し、第三船に至っては沈没である。いまここで医薬品を手にするのは自分しか残されていないという使命感を抱いて、玄界灘をこぎ出した可能性は高い。

 日本から遣唐使を派遣するという情報を新羅は掴んでいる。それは日本と唐の間に新羅を介さない貿易関係を築くことが目的であり、日本と唐との中継貿易で少なくはない利益を得ている新羅にとってそれは無視できる要素ではない。特に、日本では手に入らない医薬品は新羅にとって花形商品であり、新羅を無視しての医薬品の輸出入があると大打撃を受けてしまう。

 ゆえに、非合法な方法だろうと、遣唐使を妨害することはメリットのあることだった。しかも、遣唐使の中に、新羅にとって厄介な存在である小野篁がいる。その上、豪華だが船としての性能の劣っている遣唐使船に乗って航海する。新羅にとってこれは篁排除の絶好のチャンスだった。

 だが、日本がそれを「はいそうですか」と受け入れるわけはない。

 ゆえに、唐への渡航の邪魔は許さないという断固たる姿勢が必要だったし、国書の内容もその姿勢が現れた結果。いくら必要であろうと、日本が頭を下げて頼みこまなければならない医薬品のことを公式な文書に記すわけにはいかなかった。

 しかし、それは新羅を激怒させること必至の内容だった。

 新羅は日本が医薬品を欲しがっていることを知っていた。そして、日本が頭を下げて頼み込んでくるものと考えていた。ところが、やってきた日本の使者は相変わらず日本を宗主国と、新羅を属国として扱い、医薬品のことなど一言も言わずにいる。

 緒嗣はおそらくそのことに気づいていなかったであろう。医薬品に気づいていなかったのであろうから、もしかしたら多少は怒らせる高圧的な文面であろうとは気づいていたのかも知れないが、ここまで新羅を怒らせるとは思っていなかったのは確実である。

 ゆえに紀三津を責め立てた。

 全ての責任を紀三津に押しつけるために。

 緒嗣は遣唐使の派遣を諦めていなかった。

 年が明けた承和四(八三七)年、人事がほとんど動かなかった。

 普通ならば新年ともなれば多少は人事異動があるものだが、この年の人事異動は無ではないにせよ、乏しい。

 緒嗣が意地になって人事を止めたからである。人事異動をするということは遣唐使をリセットするということであり、緒嗣には容認できる話ではなかった。

 それだけでなく、二月一日には、日本全国を休日にした上で、遣唐使たちを山城国愛宕郡へと向かわせ、航海が無事に終わるようにと天神地祇に祈らせた。この山城国愛宕郡は小野家の所領で、伝承によれば小野妹子もここに眠っているという。伝説の名外交官小野妹子にあやかって無事を祈ろうとしたのだろう。

 また、遣唐使に選ばれた者に対し、各々の氏神に参詣する許可を出した。これは小野篁の強い誓願によるもので、遣唐使そのものには強いこだわりを見せた緒嗣も、遣唐使たちの個人の安全を祈ることは許可を出した。

 しかし、緒嗣の執念は喜劇ではなく悲劇になってきた。

 命を賭けて海に出て、船を失い、命からがら九州にたどり着き、仲間を失って、もう二度と航海に出るものかと思っていたら遣唐使はなおも派遣するという命令。

 これは遣唐使たちに強いストレスを与えた。船に乗り込むまでは航海への恐怖よりもまだ見ぬ唐への憧れ、そして、帰国後に待っている出世を心待ちにしていた遣唐使たちも、命の危機、そして、実際に仲間が命を失うのを目の当たりにしては遣唐使であること自体苦痛となる。

 この苦痛を無くす手段はただ一つ、遣唐使の中止しかなかったが、緒嗣は断じて動かなかった。

 彼らは緒嗣に対峙する良房に期待するようになっていた。

 そして、良房が遣唐使の中止を進言するたびに歓喜し、緒嗣がその進言を握りつぶすたびに意気消沈した。

 二月一七日、固まっていた人事が動き出した。藤原常嗣が大宰権師に就任。単なる大宰府のトップではなく、通常以上の権力を持った地位に就いたということである。しかし、それで遣唐使から逃れられることはなかった。

 この月、大きな彗星が観測された。後の研究によればこれはハレー彗星だという。

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

0コメント

  • 1000 / 1000