三月一一日、常嗣と篁に餞別が渡された。そのときの儀式の様子は前年の四月二四日に行なわれた賜餞の儀式と全く同じである。詩のタイトルが「春晩入唐使に餞別を賜わるの題」に変わったことと、大使常嗣が激しい酔いに襲われ途中退出したことは前年と異なる。
常嗣が途中退出したのは強いストレスによるものだろう。常嗣はこのとき既に海への恐怖を抱くようになっていた。
しかし、動き出した遣唐使派遣への流れは止まらない。三月一三日には遣唐使の朝拝が行なわれ、二日後の三月一五日には遣唐大使藤原常嗣と遣唐副使小野篁に再び節刀が渡された。読み上げられた宣命は前年と同じ、常嗣が進み出て左肩に節刀を打ちあてて退出する動きも、篁が常嗣の前に走りよって相連なって退くのも前年と同じ儀式通りの行動である。
これにより、遣唐使の再第二次出航が正式決定となった。
ところが、ここから先が前年と異なる。
節刀を受け取ったあと、遣唐使たちは外国からの賓客をもてなすための場である鴻臚館に宿泊しなければならないのが決まりとなっている。ゆえに、常嗣も篁も自宅に戻ることなく鴻臚館で寝泊まりしていた。
常嗣が鴻臚館を発って大宰府に向かったのは三月一九日。これはタイミング的にごく普通である。だが、篁はその後も鴻臚館に留まり続け、三月二四日になってやっと大宰府に向けて出発した。これは鴻臚館にかなり長期間滞在したこととなる。
その間の三月二二日に、遣唐使の無事を祈るため楠野王らが伊勢大神宮に幣帛を奉るために出発しているから、もしかしたらこれを見届けたのかも知れないが、大使出発から五日経ってやっと鴻臚館を出発するというのはやはり尋常ではない。
都の人は遣唐使が再び失敗するのではないかと、何か不吉なことがこれからあるのではと噂立てた。
その不吉は、遣唐使たちの向かった方角とは逆の東北地方からやってきた。
まず、四月一六日に噴火の連絡が京都に伝えられた。
「玉造塞温泉石神が雷響振動し、昼夜止まない。温泉が河を流れ、その色は漿(白く濁ったもの)のようである。加えて、山が焼け、谷が塞がり、石が崩れ、木を折り、更に新しい沼を作った。沸く声は雷のようである」と続日本後紀には記されている。
この「新しい沼」は、現在の宮城県大崎市にある潟沼ではないかと言われており、世界でもトップクラスの酸性度で、現在では観光名所となっている。
だが、現在は観光名所でも、このときは陸奥国に新たなきっかけを与える事件だった。
五日後の四月二一日、朝廷を愕然とさせる連絡が、陸奧出羽按察使の坂上浄野(さかのうえのきよの)から飛び込んできた。
「新しい沼」の周囲にある陸奥国栗原郡と賀美郡(ともに現在の宮城県)で農民蜂起が発生。武器をとって朝廷に抵抗する者、田畑を捨てて逃亡する者が多発した。おそらく火山の噴火が直接の原因だろうが、間接的な理由としてはインフレに伴う治安悪化に伴う俘囚の残党と結合し、武装蜂起へと向かわせたのであろう。
陸奧出羽按察使の坂上浄野は坂上田村麻呂の子であり、父譲りの武力、特に弓に定評があった。そして、これも父に似ているが、政治家としてよりもシビリアンコントロールの効く生真面目な武人としての側面が強かった。薩摩国司、土佐国司と歴任したあと、東北地方の二ヶ国を束ねる陸奧出羽按察使に選出されたのも、浄野への信頼が極めて高いゆえであったろう。
「ここは浄野殿に任せ、武装蜂起を鎮圧させるべきです。」
この良房の提案に宮中の誰もが賛成し、仁明天皇の名で、浄野に対して武装蜂起鎮圧を命じる指令が飛び、浄野が要請した一〇〇〇名の兵士が京都から陸奥国へ向かった。
それにしても、いくら浄野がそれだけしか要請しなかったとは言え、京都から派遣した兵がわずか一〇〇〇名というのはこの時代の軍事を実に物語っている。
本州統一を最後に大規模な戦争はなくなり、仮想敵国は新羅となった。つまり、日本への侵略は北からではなく西から起こるものと考えられるようになり、それに対処するため兵力の西高東低が起こった。都から東は俘囚や新羅人が反乱をまれに起こすのみとなっており、地域の治安は国衙在中の兵士が担うようになっている。東北地方には軍団が常備する基地があり、浄野はこうした基地在住の兵士を利用するため、京からの援軍は一〇〇〇名で充分と考えたのだろう。
この反乱の様子は史料に残っていない。次に史料に登場するのは八月二九日のこと。この日、陸奥国在住の三二六九人に五年間の課役を免除するとの指令が飛んだ。この人達が反乱の参加者の生き残りと犠牲者たちであろう。
常嗣が五日早く鴻臚館を出発したことは、常嗣が一足早く大宰府に着いたことを意味する。
大宰府に着いた常嗣が見たのは前年と同じ偉容を見せる四艘の船であった。これらの船のどの船に大使が乗り、どの船に副使が乗るのかはとりあえず決まっている。ただし、それは決定的なものではなく大使に裁量の余地がある。
遣唐使船は船によって設備の違いが出ることはない。だから、特別な工事も必要とせず、現在第一船と指定されている船にそのまま乗り込むこともできたし、他の船を自分の乗る第一船と指定することもできた。
常嗣は四艘の船から便宜上第二船と名付けられていた船を第一船に選び、その第一船を「太平良」と名付けた。
これは父である藤原葛野麻呂が前回の遣唐大使を務めたとき、出航前に桓武天皇から送られた歌、
この酒は大(おお・「なおざり」の意味)にはあらず平良(たいら)らかに帰り来ませと斎(いわ)いたる酒
からとられた。
葛野麻呂が無事に帰朝するようにという祈りを込めた桓武天皇の歌であり、この歌を受けた葛野麻呂は涙を流して喜んだことが記録に残っている。常嗣はこの逸話を父が帰国したその日から聞かされていたと言ってもいい。そして、いざ自分が航海に出るシーンを迎え、そして、一度遭難したという経験を踏まえたとき、真っ先に思い浮かんだのが父の遣唐使成功を支えたこの歌であったろう。
大宰府に着いた篁は、常嗣が自分の乗るはずだった船を第一船に選び、自分にそれまで第一船とされていた船を押しつけたことを知った。
ただでさえギクシャクしていた遣唐大使と遣唐副使の関係はさらに亀裂を生じさせることとなった。とは言え、第一船を選ぶのは大使に与えられた権利であり、副使はそれに従う義務がある。
先にも記したとおり、遣唐使船は船によって設備の違いが出ることはない。だから、どの船を選んだからといって船内の待遇が変化することはない。にも関わらず船を変更した理由は一つしかない。
沈没の可能性。
傍目には同じ船でも、船と海を知る者にとっては違いがわかったのだろう。そう、常嗣は四艘の中で最も沈む可能性の低い船を選んだのだ。
大使である以上無事に任務を遂行することを最優先させなければならないというのは理屈として成り立つ。ただ、安全じゃないからと副使の船を取り上げて自分の船とし、本来の大使の船を篁に押しつけ、その上、自分の船に「太平良」と名前を付けた。これは、配慮が足らな過ぎる。自分の命だけを最優先に考え他の者の命を軽んじる行為ととられてもおかしくないのだから。
以前から冷めていた大使常嗣と副使篁との関係は、これをきっかけに修復不可能なまでに凍り付いた。
篁は正式な苦情を京都に届けた。ところが、京都からの返事は「大平良」と名付けられた第一船に位を授けるというものだった。
四月五日、朝廷は船に対し従五位下の位を授けた。無論名誉的なものであり実権は伴わず、船が貴族に列せられ参議や国司に就任するわけではない。ただ、船に位が与えられたことで常嗣の乗る船に朝廷が承認を与えたことになる。三位で遣唐大使と大宰権師を兼ねる藤原常嗣が乗るにふさわしい船という承認である。
朝廷の承認があっては篁も黙らなければならなくなる。いくら不満をぶつけようと、常嗣の乗る船こそが第一船であり、篁はかつて第一船であった現第二船で我慢するしかない。
これは篁の意欲をそぐに充分だった。
それから京都には大宰府の情報が届かなくなる。
問い合わせの使者を派遣しても、返ってくるのは「時期を見て出航する」という返事のみ。
しびれを切らした緒嗣は直ちに出航するようにとの命令も出そうとしたが、実状にそぐわぬ命令は良房らの猛反発を受けて撤回せざるを得なくなっていた。何しろ、今まで緒嗣と良房の間に立って両者を取り持っていた長良ですら、良房に全面的に賛成し、緒嗣は黙らざるをえなかったのだから。
それにしてもここ数年の長良の活躍には目をみはる物がある。緒嗣と良房の論戦はここ数年の恒例になっていたのに、一度としてこじれていない。
これは長良の存在が大きかった。
決定的な対立となる前に良房を制止するのが長良の役目だった。位でいけば長良は良房より下になる。しかし、兄の一言はどんな状況でも良房を黙らせるに充分だった。そして、長良が間に入った後はそれまでの激しい論戦などなかったかのようになるのが日常だった。
ところが、長良が間に入った後の朝廷の決定はどうだったかを見ると面白い現象が出てくる。
遣唐使派遣有無を除く全てが良房の思い通りになっているのだ。
遭難した遣唐使の帰郷も、貧困対策も、治安対策も、反乱対策も、何もかもが良房の主張した結果が実現している。
何のことはない。良房は兄が止めることを前提として論戦を展開していたのだ。そして、兄に怒られる弟を演じながら、良房の、いや、藤原兄弟の思い描いていた結果を朝廷内に実現させていたのだ。
こうして見ると、長良という男は一癖も二癖もあるように見えてくる。
善悪でいけば善の香りがする。弟のような偽善ではなく完全な善の香りが。
温厚な性格で、時に弟を叱るときもあるが、誰とでも打ち解け決定的な敵を作らない。長良は誰からも信頼を集め、篁のように自らの立場に当惑した者は長良に相談することが多かった。そして、長良はそうした相談者の心の支えになった。
だが、それが全て演技だとすればどうだろう。長良のこれまでの行動が良房との間で巧妙に仕組まれた芝居だとすれば全て辻褄があってしまうのだ。
断言はしない。だが、その可能性は否定しない。
大宰府から待望の知らせが飛び込んできたのは七月二二日になってからだった。
ただし、その内容は緒嗣を喜ばせるものではなかった。
「遣唐使船三船は共に松浦郡旻楽崎を指して発行(出航)する。第一、第四船はたちまち逆風に遭い、壱岐嶋に流着。第二船は値賀嶋に漂着。以上。」
「三船? 四船ではないのか?」
「三船としか書いておりませぬ。察するに、遣唐使船第三船は出航しなかったのではないかと思われます。」
良房も書いてあるとおりのこと以上は言えなかった。
「なぜだ。なぜ三船しか出航せぬ。」
「第三船は前年沈没したばかり。わずか一年での復旧はかなわなかったのか、それとも、建造はしたものの出航に耐えられる品質ではなかったか、いずれにせよ、大宰府が三船と判断した以上、都で我々がどうのこうの言う資格はございません。」
「だが、第三船は残っているのだろう。ならば早々に第三船を出航させれば良いではないか。」
「海に面する者が無茶と判断したのに、海と離れたところに住む者が何を言えましょう。判断は一つしかございません。遣唐使は失敗したのです。」
緒嗣は何も言えなかった。しかし、今回の遣唐使の渡航が失敗したことは認めたが、遣唐使そのものが失敗したとは断じて認めなかった。
その態度は大宰府にたどり着いた者達への処遇に現れた。前回は許された帰郷が今回は許されなかったのである。そのまま大宰府の続命院に留まるようにというのが緒嗣の発した指令だった。
さて、この二度目の渡航に第三船が加わらず三艘で出航した理由であるが、これは現場の判断である。
二度目の渡航は第一回目の渡航と同じ面々が遣唐使船に乗り込んでいるが、一部例外がある。それは大量の死者を出した第三船の生き残りたち。彼らは遣唐使として乗り込むことが許されなかった。
緒嗣は許したのである。いや、再び渡航するように命じもしたのだ。だが、現場がそれを許さなかった。
沈没した船の生存者を再び海に乗せることを不吉とし、乗船を拒否することはこの時代多かった。特に今回は命がけの航海であり、前年に大量の死者を出したばかりである。五人に一人しか生き残れなかったことはこれ以上ない凶事であり、海の者ならば誰もが同乗を躊躇わなければならない大事件だったのだ。
前年に第三船に乗り込んでいたため有能かつ将来有望と見られていた二人の僧侶、真然と真済の二人が遣唐使から外されたのも同じ理由。僧侶が乗り込んでいながら御利益無く船が沈没したという事実が海の者たちを恐れさせ、二度と遣唐使にたずさわるなという目で見られたため、彼ら二人に変わる僧侶として円仁と円行が選ばれた。
良房は船が三つしかできなかったからではと言ったがそれは違う。船はちゃんと四艘完成していた。だが、乗船者が三艘分しかいなかったのだ。そして、前年に遭難したばかりの第三船は不吉として忌避されたのだ。
この判断を大宰府は独断で行ない、京都には結果が出てから届けた。
もし、第三船を出航させないという連絡が先行して来たら緒嗣は猛反発を示し、使えうる全ての権力を駆使して四艘の船を出航させたであろう。
だが、大宰府からの連絡が届いたのは全てが終わった後。三艘のみで出航し、失敗したという連絡を受けたのでは緒嗣にはどうにもできない。
緒嗣はそれでも遣唐使派遣に執念を燃やした。九月二一日、石川橋継を遣唐使船修理長官に任命、小野末継と長峯高名の二人遣唐使船修理次官に任命し、大宰府へ派遣した。
遣唐使にしか意欲を示さない緒嗣に代わる役割を担うのは本来なら右大臣の役割であるが、その右大臣清原夏野の体調は予断を許さぬものになっていた。
夏野邸は双岡(ならびがおか・現在の京都市右京区御室双岡町)にある。貴族の大部分が御所から見て東にある左京に住んでいたのに対し、夏野は貴族の少ない御所の西、それも平安京の区画を外れた双岡に住んでいた。そのため、長良も良房が夏野邸に足を運ぶことは珍しくはないものの、毎日というわけではなかった。
日々悪化していく夏野の様子は看る者を辛い思いにさせる光景でもあった。
「見ての通りだ。私の人生は長くはないだろう。」
「そんな、まだ右大臣殿がいていただかなければ困ります。」
「良房、そなたの父が亡くなられた時を思い返してみよ。そなたの父の最後と私の今とが似ているとは思わぬか。」
「……」
良房は何も答えなかった。たしかに今の夏野は父冬嗣の亡くなる直前に似ている。」
「そなたに人生を賭けたことは間違いとは思っていない。だが、今の良房には失望している。私を見舞う暇があるなら、都で苦しむ人々を救うことを考えよ。私は何をしようともうすぐ死ぬ。だが、手をさしのべれば失われずに済む命がたくさんある。まあ、そなたのことだからもうしているとは思うがな。」
「してはいますが、恥ずかしい話ながら、財は尽きました。国の財も、藤原の財も。」
「清原の財を使え。財は黄泉の国まで持ち運べるものではない。」
「右大臣殿のご家族はどうなるのですか。」
「我が息子等は朝廷より碌をいただいている。親が貯めた財を期待するようでは、先は長くはないな。」
そして夏野は自らの財産を良房に託し、良房はその財産を利用して京都市中の民衆救済にあたった。具体的な内容については不明だが、救済に検非違使や衛門も動員していることから良房は教え子たちを動員したのであろうが、もう一つ大きな存在がここにいた。
冬嗣の息子は長良と良房の二人だけではない。年の離れた弟、良相(よしみ)もいる。兄二人と違い素行が悪く評判も悪かったが、良房はこの良相を救済活動に参加させたのみならず、民衆との折衝役を担当させた。
このときの良相は六位の蔵人で、役人であって貴族ではない。しかし、評判が悪かろうと、今を風靡する良房の弟であり、仁明天皇の側に仕える蔵人が民衆救済の窓口になったことは大きかった。
そして、遣唐使一色に染まった朝廷が自分たちを見捨てずにいてくれたというアピールできたし、藤原家や清原家が民衆を忘れずに行動することをアピールできた。
しかし、これは清原家にとって大きなダメージでもあった。
夏野は右大臣にまでなった人物だが、清原家は藤原家ではない。それでも夏野の父までは皇族の一員の扱いを受けた特別な家系となっていたが、夏野以後は清原の姓を名乗る一臣下になっている。夏野は皇族の子であることを利用して貴族になったが、そこから先は自身の能力と運と賭けとで現在の地位を掴んだのであり、家系を利用しての出世ではなかった。
清原家の収入は農園からの収入と貴族としての給与に限定され、皇族限定の定期給付対象からは外されていた。というところで財産を処分するのである。これは人としては称賛されることであるかも知れないが、父としては称賛されることではなかった。
家系を利用して貴族デビューしたが、家系を利用しての出世はしていないというのであれば、長良や良房だってそうではないかとなる。だが、これは理論上に過ぎない。
冬嗣は婚姻と教育という二つのプラス要素を子ども達に与えた上で貴族デビューをさせているし、財産だって残している。一方、夏野は息子たちを貴族デビューさせたが、婚姻も教育も用意していないという状態で財産を奪っている。これは夏野の子ども達にとって二重三重のハンデが与えられたことを意味する。
夏野には最低でも三人の息子がいたという記録があるが、詳細な記録はない。記録に残るほどの功績を残していないからである。
そのため、父が病に倒れたときに何歳なのかを伝える記録も無ければ、息子たちがどういった生涯を送ったかという記録もただ一つの例外を除いて存在しない。その一つも、後の文徳天皇の頃に夏野の子である清原瀧雄が右近衛少尉になったという記録が残っているのみであって、貴族の一員ではあっても目を見張る出世ではない。
承和四(八三七)年一〇月七日、清原夏野、死去。右大臣職空席に。
そして、清原氏の本流は夏野の手からこぼれ落ち、父の従兄弟である清原有雄の手に渡る。
清原氏の系図を見ても夏野を最後に途切れていることが多く、系図の上では有雄の子孫のみが記され、夏野の子孫がその後の朝廷で勢力を持ったという記録は見られない。そして、有雄の子孫が夏野を超える勢力を持つことも、夏野に並ぶ勢力を持つこともなくなった。
一氏族でしかなくなった清原氏はこのあとその他大勢の貴族に留まり、左大臣も右大臣も輩出しない家系となる。
ただし、夏野の直系の子孫ではないが、清原氏はこの一七〇年後に大人物を生み出すこととなる。
清少納言。
この「清」の文字は「清原」の「清」である。
夏野の財産を用いての京都の民衆救済であるが、皮肉と言うべきか、一瞬しか効果をもたらさなかった。
もともと京都に逃れてきたのは、以前から田畑を耕す意欲を持っていなかったか、貧困による治安悪化で田畑を耕す意欲を失った者であり、労働生産性という点ではゼロ。つまり、食料を配ろうと、カネを配ろうとそれを生かして人生をやり直すという意欲には向かわず、その日の生活に消費されて終わった。
良房は自らの農園の再建を試みるが、失われた治安の回復は簡単にはいかなかった。
それを象徴する事件は一二月五日に発生した。女二人組の盗賊が春興殿(しゅんこうでん・宮殿の中で武具などを保管していた建物)と清涼殿(せいりょうでん・天皇の日常生活の場所)に侵入したのである。
一名は逮捕できたがもう一名は逃亡した。
天皇の生活の場に盗賊が忍び込んだという事実は治安悪化をこれ以上なく意識させることであり、仁明天皇は大きなショックを受けた。
一二月一一日には京都を大嵐が襲い、数多くの建物が崩壊し、路頭に彷徨う人はさらに増えた。良房がいかに救済に走ろうと結果は無駄であった。治安は悪く、生活も悪化している。農地に向かうように誘っても強盗団の襲撃を受けるだけだと拒否される。命を守れぬ農園より、命を守れる可能性のある京都の方がマシだと多くの民衆が判断したのだ。
その上、女盗賊二人の侵入に刺激されたのか、一二月二一日には大蔵省にも盗賊が侵入してきた。このときの盗賊が逮捕できたのかどうかを伝える史料はないが、逮捕できなかったであろうとは推測できる。こうした反乱や重大な犯罪の犯人が逮捕されたなら必ずその者の様子が史料に残っているからであり、残っていないということは逮捕できなかったということを意味する。
それでも良房はできる限りのことをしたとするしかない。右大臣を失い、左大臣は遣唐使にかかりきりとなっている朝廷にあって、遣唐使と距離を置いて日々の政務に目を見張る良房は頼もしくあった。
「現在の問題は治安悪化に始まっている以上、治安回復しか問題を解決する方法はございません。」
「近衛を司る立場でありながら、御所に盗賊を招いておいて何を言うか。」
緒嗣は良房の言葉に皮肉を込めた批判をしたが、治安回復に関する具体的なアクションを起こさなかった。
「その盗賊を生み出したのは、左大臣、あなたです。私はその尻拭いをしているに過ぎません。そして、私がいま考えているのもその尻拭いの延長です。」
「で、その考えとは何だ。」
「盗賊を全員殺します。」
「!」
良房の言葉は宮中に緊張を招いた。
仲成の射殺を最後に死刑が消えて三〇年経っている。それからこのときまで、どんな重大な犯罪であっても最高刑が追放刑となっており、牢に入れられたまま死を迎える者はあっても、法により殺された者はなかった。
犯罪者の人権に配慮したと言うより、死刑自体が忌むべきものとされたことのほうが大きいだろうが、何れにせよ、犯罪者を殺すというのは考えることすら許されぬタブーであることに変わりはなかった。
良房はそのタブーをあっさり口にした。
「盗賊を生かして何の価値があります。一粒のコメも生まず、一枚の銭も稼がぬ者を殺して困る人などおりません。」
「そ、それは……」
「まず成さなければならないことは盗賊に襲われない暮らしを作ることです。温情により盗賊から足を洗わせようと考えても何の意味もありません。治安を悪化させる者は誰であれ叩きつぶします! 主上、私めに治安回復を命令なさいませ。必ずや期待に応えてみせましょう。」
大きなショックを受けた仁明天皇に向かって良房はこう言い放った。
父冬嗣が実権を掴んだのは三五歳になってから。その息子の良房は三四歳にして権中納言となり朝廷内で父冬嗣の実権を掴んだとき以上の存在感を持つようになっている。
治安悪化に対する長良と良房の兄弟の反撃は翌承和五(八三八)年一月に始まった。
まず、一月七日に、正六位上の蔵人でまだ貴族ではなかった弟の良相(よしみ)を外従五位上に任命させて貴族デビューを果たさせた。良相このとき二五歳。兄二人と比べると貴族デビューの年齢としてはかなり高いが、兄二人が貴族デビューしたときは父が現役の左大臣であり、良相のデビュー時は父が既に亡く、兄二人が三位から四位の貴族であるだけという状況を考えると、これでも早いほうである。
良房はこの良相に治安回復のキーマンを託すこととした。良相は兄二人と違って武人としての訓練を積んでいた。もっとも、天賦の才能に恵まれていたのではなく、性格が粗暴で長兄の長良のように周囲をまとめる能力はなく、また、短絡的な性格で次兄の良房のように政治家として左大臣を敵に回して論陣を張ることもなかった。
その代わりに良相には、良房ら三〇代の者よりも一世代下、二〇代のリーダーとしての集団を率いる能力と腕力があった。と書くと格好が付くが、要は不良だったのだ。二〇過ぎてからは落ち着いてきているとはいえ、一〇代の頃から不良をまとめる親分肌で、そちらの意味で良相を慕う者が多かった。
毒を持って毒を制すとばかりに、良相の息の掛かった者が京都市中に散らばり、それまで仲間のようなものだった盗賊たちと血で血を洗う暴力沙汰が展開された。
一月一〇日には、夏野の後任の右大臣に藤原三守(みもり)が任命された。大納言の一人であるため右大臣への昇格は制度上おかしなことではないが、全く考えられていなかった者の右大臣就任は誰もが驚きを隠さなかった。
間違いなく三守の右大臣就任には長良と良房の兄弟が裏で噛んでいる。三守は冬嗣の妻の弟であるため、良房から見れば叔父にあたる。このとき五〇歳を迎えており、あとはリタイアした後の順風満帆な隠居生活が待っているはずだった。
その三守を兄弟は担ぎ出した。
三守は弘仁格式の編集に尽力したことで名を残したが、以後の消息は乏しくなる。残っている記録となると天台宗と真言宗の両派を熱心にサポートする信心深い仏教徒であることぐらいだった。
しかし、この仏教界に顔が利くということが大きなメリットだった。
治安安定へのメリットである。
兄弟は三守の仏教界への影響力を通じて寺院の僧侶に武器を持たせ、治安維持にあたらせることにしたのだ。後に問題となる僧兵の誕生である。
このときはまだ強盗団のターゲットの中に寺院や神社が含まれていなかったが、寺院や神社が他より豊かであることは誰の目にも明らかであり、いつ強盗団のターゲットとなってもおかしくなかった。その段階で僧侶に武器を持たせ盗賊に向かわせることはかなりの先見の明と言える。
寺院が武器を持って強盗団をやっつけてくれるということで、京都を出て寺院の庇護を求めることを選んだ者が出てきた。寺院の周囲の捨てられた田畑に人が戻りはじめ、農園が復興されてきたのである。これは京都の福祉負担を減らし、寺院にとっては影響力の行使できる田畑が増えることを意味した。
二月九日、良房はついに直接的な武力に訴えた。盗賊逮捕のために左右衛門府の府生(ふしょう・衛門府の実働部隊の隊長)、看督(かど・現在で言う刑務所の刑務官)らを畿内諸国に派遣した。
翌二月一〇日には、海に逃れた強盗団が海賊化しているため、山陽道、南海道の各国国司に対し捕縛を命じた。国衙には一定の軍事力が常駐しており、海に面した国だとその軍事力は海軍力も持っているのが普通。しかし、本来その軍事力は国外の敵に向けてのものであった。
良房は各地の軍事力を、国外の敵でなく国内の敵に向けたのだ。
日本各地で凄惨な強盗狩りが展開された。
強盗に味方する民衆などいなかった。それまで攻め込んでいた側が追われる立場となって、かくまう所などなく逃げわらなければならなくなった。
農村に逃げ込んできた強盗が農民にリンチされ、寺院に助けを求めた強盗は僧侶の手で殺され、京都市中に逃げようとした強盗は良相一派の手で処分された。
山に逃げ込んだ強盗は弓で射殺された。
海に逃げた強盗は船ごと焼かれ海の藻屑と消えた。
人質をとって立て籠もった強盗は人質ごと殺された。
強盗から足を洗い真人間として暮らすと命乞いした者はその場で斬り殺された。
「強盗を殺す」は脅し文句ではなく、他の貴族たちが眉をしかめる大事件となった。
力ずくでの強盗団対策は効果をもたらしつつあったことは認めなければならなかった。目に見えて治安が向上したのだから。
強盗団の中に死刑となった者はいない。だが、逮捕に至るまでの過程で命を落とす者は続出した。それは捕まえる側も同じで、少なくない命が治安向上のために失われた。
その強盗団鎮圧の様子を良房は淡々と語った。
それを聞かされた貴族たちの中には吐き気をもよおす者も現れ、途中退出する者まで出たが、良房はそれでも顔色一つ変えることなく、治安回復について報告した。
ここにいる誰もが良房は血も涙もない男だと感じたに違いない。
だが、良房は自分の出した命令に恐れおののいていた。
言葉にするのも命令するのも簡単だった。だが、それによって失われた命の多さは良房自身の心に深い傷を付けるに充分だった。
「誰かがやらなければならなかった。だから命じたのです。非難は私に向けてください。それが、死を命令した者の定めです。」
朝廷ではその言葉で報告を締めくくった良房も、家に還った後は妻に弱みを打ち明けている。
「あなたはよくやりましたよ。」
「だが、私は何人もの人を殺してしまった。」
「あなたも言ったではないですか。いまここであなたが動かなければ、より深い悲しみがこの国を包んでしまうのです。この世の全ての人があなたに汚名を浴びせようと、私はあなたを信じ、あなたについていきます。」
「すまない……」
潔姫は、宮中では決して見せない弱みを自分だけには見せる夫を暖かく迎え入れた。
五歳で嫁いできた潔姫は、もう二四年ものあいだ良房とともに暮らしている。他の誰よりプライベートの良房を知る妻にとって、顔色一つ変えずに冷血極まりない決定をし、非情この上ない惨劇を報告しても平然としている様子など、全てが演技であると見抜けることだった。
この二人の夫婦仲は他者も羨むほどだった。
ただ、子宝には恵まれなかった。潔姫が生んだ子どもは生涯でただ一人、後に文徳天皇の妻となる明子(あきらけいこ・「めいし」と読んでいたとする説もある)のみ。男の子には終生恵まれなかった。
この時代、妻が男の子を産まないというのは離婚要素となるほどだったが、良房はそのようなことを全く考えていない。さすがに嵯峨上皇の娘と離婚するなど許されないということもあるが、そんなことよりもむしろ、妻として潔姫以外の女性が考えられなかったということがあるのではないか。
良房は生涯潔姫を愛し続けた。
スタートは間違いなく政略結婚だが、政略結婚が必ずしも不幸を招くとは限らない。
三月二七日、勅令が下った。
「遣唐使は過去二年連続で唐に着かず舞い戻り、その役を果たしていない。仏を信じれば御利益は必ずあり、良きことをすれば必ず神の助けがある。よって、大宰府所管の九ヶ国に、二五歳以上で常日頃の品行が正しく、経典を読むことができる者、そして心変わりしない者九名を選び、香襲宮(かすいのみや・神宮皇后を祀る神社)に二人、大臣の社(武内宿禰を祀る神社)に一人、宇佐の八幡大菩薩宮に二人、宗像神社に二人、阿蘇神社に二人の計九人を配属させ、国分寺および神宮寺に於いて安置供養し、遣唐使らが行き帰りの間無事であるよう祈るようにさせよ。」
緒嗣は今年こそ遣唐使を渡航させることに執念を燃やしており、そのために神仏の力を借りることにした。
仁明天皇も左大臣のこの執念には何の抵抗もできず、言われるがままの勅令を発する。
ただ、これまでだって神仏の力を借りようとしていたのである。実際、渡航前には遣唐使たちに参詣をさせているし、唐へ渡るためでもあるが各船には必ず僧侶を乗せている。
誰もがその疑問を抱いたが、遣唐使しか頭にない緒嗣にその質問は無意味だった。
このあくまでも遣唐使を優先する緒嗣の姿勢に真っ先に反旗を翻したのが良房である。
「遣唐使の航海の無事を祈らせるより、疫病と飢饉の沈静化を祈るほうが先ではないですか。」
治安回復を果たしつつある良房のもとには各地からの情報が飛び込んできていた。
そこには、力ずくによる治安回復が果たせたものの、強盗団のせいで田畑を耕す者が少なくなり収穫が乏しくなっていること、その上で疫病が流行し使者が増加していること、にも関わらず、あくまでも遣唐使を郵船させる祈祷を命じる国への反発が強まっていることが記されていた。
「遣唐使のために祈る暇があるなら、民衆の日々の暮らしのために働かせなさい。」
真正面から緒嗣に文句を言う良房の言うことなど、ついこの間までなら緒嗣は聞き流していた。だが、今の良房は違う。強盗団を力ずくで殲滅させた、つまり、人を殺すことなど何とも思っていないと思われるようになっていた。
良房が恐怖の対象となったのだ。
恐怖の対象となった良房の意見を聞き入れたのか、緒嗣は貧困対策に手を出した。
四月二日、大和国の富豪の財産を調査し、困窮者へ借貸させるよう、左大臣の名で命令が下った。
これは仁明天皇の指示ではない。左大臣藤原緒嗣の独断である。
これはかつて緒嗣が行なって大失敗した政策の繰り返しだった。弘仁一〇(八一九)年二月二〇日、緒嗣は、富豪の蓄えを調査して、余裕ありと判断した者に対し貧困者に無担保無利子で貸し出させるよう進言したが、今回も同じことを命じた。そして、これはのちに、借金の全額免除もあって事実上の財産没収という結末を迎えた。
それから一九年の時間を経て、緒嗣は左大臣としての権限を駆使し、比較的豊かな者が多いとされている大和国の農園に対して同じことを命じた。
大和国には寺院の経営する数多くの農園が展開している。また、貴族の経営する農園も寺院ほどではないにせよ数多く点在している。こうした大和国の農園の豊かさは京都でもよく知られていた。
ところが、寺院の経営する農園には、良房の命じた強盗対策のための武力が存在している。寺院にとっては、いかに左大臣が命じたことであろうと財産を差し出せと命じるのは強盗に等しく、対抗する相手であった。そのため、調査に来た役人に対して武器を持って立ちはだかる光景が展開された。
また、大和国に農園を持つ貴族のほとんどは緒嗣派の貴族の農園である。緒嗣はこうした農園については最初から調査対象外であった。
となると、寺院でも、緒嗣派の貴族でもない者の持つ農園がターゲットとなる。
結果、こうした農園の経営者は新たな強盗に狙われたも同然となった。指令はいかに「貸し出し」であっても事実上の財産没収であることは誰の目にも明らかだったのだから。
良房もそのターゲットとなった貴族の一人だった。
良房は貸し出しには応じたが、貸し出すためのコメは長良を通じての借金(厳密に言えば「借コメ」)でまかない、それを大々的にアピールした。しかも、そのときの貸し手となったのは緒嗣派も明確な貴族たちであった。
良房が緒嗣の過去の暴走を知らないわけはないし、現在の暴走を知らないわけもない。だが、良房は富豪の財産を調査せよという左大臣の命令に何ら反対を示していない。これは、緒嗣の思惑がなぜ失敗であるのかを身を以て証明しようとしたからではないか。
緒嗣はたしかに自分の配下の貴族に対する財産調査は行なっていない。
だが、良房を通じて財産調査を行なったも同然となった。
これが緒嗣派の貴族にとって新たな決断を迫る結果を招いた。
緒嗣への絶望と良房への期待である。
良房が日本一の富豪になったとは言え、これまで借金をしないで済む人生を送ってきたわけではない。今でこそ大農園の持ち主として莫大な財産を持つ身となっているが、その農園はもともと失業対策への投資であり、莫大な財産はその結果である。
まずは失業対策ありきで支出したため、収入を超える支出が必要となってしまった。そのため借金がかさんだのである。
ではなぜそこまで良房が借金できたのかだが、それは良房が律儀なまでに借金を返し続けたからと、いつどこで誰に借りたか、そして、何のために借りたかを隠すことなく主張したからであろう。何しろ、誰もが問題であると認識せざるを得ない失業対策にあたるのだから何ら文句は言えない。
申し込まれた借金を断る自由だってあるが、良房は断られたときも誰に断られたかを隠さず公表すると公言している。民間人ならともかく貴族が庶民を見殺しにする行動に出るなどもってのほかと考えたのか、世論の恨みを恐れたのか、良房に借金を申し込まれたときはその借金を受け入れている。
また、借金を貸す側にとっても良房は信頼できる相手だった。政治的な立場はともかくビジネスの相手としての良房は信頼がおけたのだ。どんな借金でも良房は律儀に返し続けた。ただし、問題点が一つ。良房から返却されるとき、利子はほとんど期待できない。全く利子を付けないで返すわけではないが、他の人に貸す場合と比べたときのリターンは少ない。
言わば、ノーリスクローリターンの投資相手だったのだ。
また、良房には強盗団を死に至らしめたばかりである。本来の性格はともかく、宮中における良房は人の死を平然と無視する恐ろしい人間に見えた。
そのため、長良に頼まれた緒嗣派の貴族たちは、政治的立場は別にして、長良を通じて良房にコメを貸し出した。
四月五日、遣唐使が出航してから帰国するまで、五畿七道全ての国で海龍王経を読経するように命令が下った。海龍王は仏教における海の神で、第八次遣唐使として渡唐した僧侶の玄昉が日本への帰路で嵐に遭遇したとき、海龍王経を唱え続けたところ船が無事に帰国したという逸話があることから、海龍王経には船の安全な航海をもたらす効果があると考えられてきた。もっとも、海龍王経の読経は一度目の派遣のときからとっくに行なわれており、今回は読経を行なう範囲を広げたということになる。
その二日後には、同じく五畿七道の全てで、大般若経の転読が命じられた。こちらは、蔓延する疫病の鎮圧と不作の解消を願っての転読であり、同時に、一七日間の殺生が禁止された。
大般若経は正式名称を大般若波羅蜜多経(だいはんにゃはらみったきょう)と言い、全六〇〇巻からなる膨大な経典である。日蓮宗や浄土真宗などの一部の宗派を除いては最重要経典と位置づけられており、この時代はどの寺院にもこの経典が保存されていた。そのため、大般若経の転読が命じられた場合、どの寺院でもすぐにスタートできた。
大般若経は全部読むのに極めて時間がかかるため、全部の経文を読む代わりに行なわれるのが、転読(てんどく)。転読は経典の一部のみを読み上げることで一巻を読んだことにするもので、現在でも大般若経を使用する儀式では、全文を読むのではなくこの転読で読了としている。ちなみに、全文を読みあげようとした場合、不眠不休で二ヶ月、一日八時間ずつ読み上げたとしても半年かかり、日本に仏教が伝達してから一五〇〇年以上の歴史がありながら、日本国内で大般若経の全文を読み上げた者は一〇名に満たないと言われている。
その頃大宰府から届いた知らせは、遣唐使の出発ではなく、大宰府管内の窮乏だった。
遣唐使を一冬留めることの負担が九州各国に襲いかかってきていたのだ。その上で、大宰権師としての常嗣が送ってきたのが、自分たちがここにいる事による周辺地域への負担の重さだった。これは緒嗣を怒らせるに充分だった。
四月一三日、北九州の五ヶ国、筑前、筑後、肥前、豊前と、もう一国(それがどこなのかは史料に残っていない。豊後とする説と肥後とする説とがある)に対し、一年間の免税が決定された。ただし、大宰府にいる遣唐使たちの世話をすることの見返りであり、かつ、遣唐使船の建造・修理の負担がこれらの国に命ぜられた。
翌一四日には、大宰府の所管する九州の各国で施が実施された。
緒嗣も常嗣からの連絡で九州の負担の重さを知ったが、それと遣唐使派遣とは別問題だった。それがいつ京都を出発したのかわからないが、四月二八日、大宰府にいる遣唐大使藤原常嗣と副使小野篁に詔が届けられた。
「遣唐使たちは、大きな使命を帯びて大海を渡ることを期待されている。しかし、こちらの期待に応えず、続命院に留まって出航しないのはどういうことか。最近は北東の風が吹き出して出航に相応しい時期を迎えているのだから早々に船を出航させるように。」
その上、この詔を持ってきたのが従四位下右近衛中将の藤原助(ふじわらのたすく)。藤原助は単に詔を持ってくるために大宰府に来たのではなく、出航を見届けるために大宰府に派遣された者であった。
大宰府からの上奏文は五月三日に京都に向けられて送られた。
上奏文に記されていた大宰府からの返信は以下のようなものであった。
「二度の航海失敗がありながらも、主上からの命令は未だ実現できずにおります。遭難は風向きによるものであり、風向きは天が命じた結果にございます。今ここで航行を重ねれば海は再び行く手を阻むこととなりましょう。そのためには、神仏の助けが必要です。我々の航海のためにも大般若経の転読を五畿七道各国に命じていただきますよう謹んで請い申し上げます。」
一見するとまっとうな回答に見えるが、よく読むと、航海への嫌悪感と、あくまでも航海を命じる朝廷への恨みが聞こえてきそうである。
この上奏文が何日に京都に届いたのかはわからないが、五月一八日には上奏文に基づいて一〇〇名の僧侶に対し五日間の大般若経転読が命ぜられたことから、それより前には届いたはずである。
藤原助が大宰府に来たことで、出航をしないわけにはいかなくなった遣唐使たちであるが、その思いは一致団結にはほど遠いものだった。
まず、冷え切っていた大使常嗣と副使篁の関係が完全に引き裂かれた。
常嗣が自分の乗る船を選んで太平良と名付けたのは二度目の航海時に既に記したが、その名は今回の出航でも有効だった。ただ、太平良と名付けられた船は前回の船とは別の船だった。
今回太平良と名付けられたのは、篁が乗るはずだった第二船。
常嗣は大使としての権力で第一船と第二船を取り替えた。二度目の出航前に常嗣が船を取り替える前の状態に戻ったことになるが、このタイミングで船を取り替えた理由は一つしかない。
二度目の航海での破損状況がもっとも軽かったのが第二船で、その第二船を常嗣は選んだのだ。
そして、今度第二船となったかつての太平良は、現在もなお修繕中で、底板に穴が空き海水が浸水している有様だった。この船を押しつけられて篁が平然としていられるわけはない。
篁はついに反旗を翻した。
病気を理由に遣唐使船への乗船を拒否したのだ。もちろん仮病であり藤原助は乗船するよう迫ったが、いまは疫病が流行っている状況でもある。病を持った者を乗船させると狭い船内に瞬く間に病が広まってしまうことから、篁の仮病を知らない船員たちは篁の条件を拒否した。
六月二二日、大宰府の藤原助から、小野篁が病気のため乗船できなくなったとの報告が京都に届いた。
七月五日、大宰府から第一船と第四船の二艘だけが出航したという連絡が入った。前々回は四艘揃って、前回は三艘のみ、そして今回は二艘だけという状態に、今回の出航は前回よりも悪い結果に終わるのではという噂話が広まった。
七月二九日、大宰府から遣唐使の二度目の情報が届いた。第二船出航。ただし、乗り込んでいなければならない副使小野篁は病欠。このとき出航したのは第二船のみで、第三船は結局出航することなかった。
八月三日、常嗣からの上奏文が京都に届いた。
「四月二八日に受け取りました詔書を拝見し、かたじけなさで気が動転してしまいました。身にあまる破格の恵みは遠く離れた大宰府の地にあっても道を深く潤しながら届いて参ります。その御恩を我々遣唐使たちに向けていただきましたこと、感謝の気持ちで一杯であります。京都を発ってから長い月日が経っておりますが、我々はその任務未だ果たすことができずにいます。人の命には限りのあることと言え、これは万死に値することにございます。」
原文はもっと美辞麗句の散りばめられた勇ましい文章になっているが、かえって空しい響きを招くこととなった。
それは、この上奏文が届いたあとで伝わった情報も手伝っている。
篁の病欠は既に伝わっていたが、そのほかにも伴有仁(とものありひと)、刀岐直貞(ときのおさだ)、佐伯安道(さえきのやすみち)、志斐永世(しびのながよ)の四人が乗船を拒否し出航前に逃亡したという連絡である。
彼らは何れも遣唐副使小野篁とともに第二船に乗る予定であった者達であり、一度目の航海も、二度目の航海も篁と一緒の船に乗り込んでいた。
誰が見ても対立している以外に見えない大使と副使の関係にあって篁側に着いた者達であったし、篁が以前より主張していたこと、すなわち、遣唐使はもはや役を果たさず、ただ死の危険が高い無意味な航海であるという意見に同調していた者たちでもあった。
彼ら四人は逃亡と言っても野山を逃げまどうのではなく、大宰府の管理下に留まっていた。遣唐使を拒否して船に乗り込まなかったときに何が待っているのかは彼らも知っていたはずである。
法に照らせば死刑になる罪であった。それでもなお、彼らは国命に逆らうことを選んだのだ。
それからしばらく遣唐使関係の記録が影を潜める。
遣唐使が大宰府から出航したあとであり、次に情報が届くことがあるとすれば、遣唐使が帰ってきたという連絡でなければならない。そして、あまりにも早く帰ってくると、遣唐使の派遣がまた失敗に終わったことを意味する。だから、便りが来ないのはむしろ喜ぶべきことなのだが、前年の失敗があるため、頼りがないのは無事の証しといった甘い考えを持つ者はいなかった。
八月二〇日、京都を暴風雨が襲う。数多くの建物が被害を受け、数多くの避難民が発生した。そして、この暴風雨を遣唐使船も受けたのではないかという噂が京都市中に広まった。
最初は遣唐使船が嵐に見舞われたという噂だったのが、最後には遣唐使船は全て嵐で沈んだという話に発展。緒嗣はその噂を否定するのに躍起になった。
九月一四日、地子稲に伴うイネとワタの交換比率が決定した。ワタ一屯(一屯はおよそ二二三・八グラム)をイネ八束と固定。これにより、地方の税収の安定化が促進されることとなった。
口分田を班給した後に余った田畑を農民に貸し出し、収穫物の二割を納入させることがある。その納入させた二割の収穫物を地子稲(じしとう)という。国衙にとっての地子稲収入は、税の補充や国衙の運営費用にあてられていた。また、そのときに納入されたコメや布地は京都に運ばれ市中に流れる物資ともなった。
その地子稲の対策を行なったということは、この年の税収が乏しくなることを意味していた。
九月二九日、公式に今年度は凶作であると宣言。河内、三河、遠江、駿河、伊豆、甲斐、武蔵、上総、美濃、飛騨、信濃、越前、加賀、越中、播磨、紀伊の一五ヶ国(史料には一六ヶ国とあるが、残る一ヶ国がどこなのかは記されていない)で雨量が多かったために作物の生育が充分でないことを認めた。
その上で、京都市中の市場での穀物価格が急騰していることを問題視し、インフレの抑制を訴えた。
ただ、インフレが起こっているのは品物が少ないところで貨幣の量が増えていることが原因なのであって、物資を増やす手段も、貨幣を減らす手段もない状況ではどうにもならないことだった。
一〇月二二日から一一月一七日にかけて巨大な彗星が観測される。ハレー彗星の帰路と考えられている。
ほうき星(=彗星)は不吉の象徴と考えられており、このときは、遣唐使船が海の藻屑と消えたという噂が広まるきっかけとなった。
遣唐使船に関する情報は全く届いていない以上、無事とも、遭難とも、どうとも発表できぬ状況にあって、朝廷はその噂を打ち消そうとしても、打ち消せなかった。
一一月二七日、皇太子恒貞親王元服。
不況と遣唐使のニュースしかないここ数ヶ月の中で急遽訪れたこのニュースは、一瞬ではあるが京都の雰囲気を明るいものにさせた。
篁の乗船拒否は大問題だったが、これに輪を掛けた大問題を篁はしでかした。
「西道謡」という詩を作って公表したのだ。
この詩の内容は伝わっていないが、在位中に唐の文化吸収と国外との通商を頻繁に行なっていた嵯峨上皇の批判という形を取った内容であったという。そして、名目は嵯峨上皇批判でも、実際は国の遣唐使政策を根底から批判する内容であり、これを目にした緒嗣は怒り狂って周囲に当たり散らしたという。
乗船を拒否した後の篁の足取りは不明だが、おそらく、大宰府を発って京都に戻っていたのではないだろうか。
常嗣との確執だけでなく、もはや何ら意味のない遣唐使にこだわる国の姿勢、特にその中心にいる緒嗣の行動を全否定したこの「西道謡」の内容は、遣唐使に苦しめられている民衆の思いを代弁するものでもあり、高い評判を生んだ。
結果、篁は出頭を命ぜられることとなった。
篁に出頭を命じたのは嵯峨上皇だった。嵯峨上皇主催の裁判が始まったのだ。
裁判の場で、篁は遣唐使がいかに誤った政策であるかを主張し、嵯峨上皇批判の形を取った朝廷批判を改めて繰り返した。そして、緒嗣の名は出さなかったものの、朝廷が行なっている遣唐使事業は何らメリットがなく、無駄に命が奪われるだけの愚行であると断言した。
無論、反省の言葉などなく、遣唐使を派遣することのほうが犯罪であると主張した。
この裁判の場は民衆が入ることなど許されない場であったが、建物の周囲は京都中から民衆が押し寄せ騒然となっていた。
彼らは篁を支持し、「西道謡」をくりかえし謳い続けた。
国の命令を拒否しただけでなく、上皇を、そして国を批判したということは、律令に従えば死刑である。それは貴族としての特権を持っているはずの篁でも例外ではないはずだった。
だが、裁判を取り巻く群衆の圧力がそれを許さなかった。
一二月一五日、篁に判決が下った。
「天皇家の批判、ならびに国命拒否の罪は律令に従えば絞首刑である。しかし、温情により、刑一等を減じ、一切の官位剥奪の上、隠岐への配流を命ずる。」
「好きにしていただきたい。ですが、何ら過ちを犯したとは考えておりません。」
「言いたいことはそれだけか。」
「言いたいことは無数にあります。沈みかねない船を二度も押しつけられ、京都からの命令は二転三転し、出航などできぬのに出航を命じられ、何ら価値のない唐行きを強要されたのです。これは国の過ちであり、私は国の過ちを正したのです。私は隠岐でも叫び続けます。国は誤りを犯したと。」
それから篁は後ろ手に縛られ外へ連れ出された。
詰めかけた民衆は、篁が死刑にならなかったことを喜んだが、有罪となって隠岐に追放されることは嘆き悲しんだ。
わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人にはつげよ海人の釣舟
百人一首にも残る篁のこの和歌は、隠岐へと流される途中を詠んだものである。かつては難波津を出発する船に乗せられたときに詠んだ歌とされていたが、現在では出雲国千酌(ちくみ)で詠んだとされている。なぜなら、京都から隠岐へ向かうのは、丹波、但馬、因幡、伯耆、出雲と全て陸路を通り、出雲から隠岐へと渡るときに初めて船に乗るというのが普通だったから。
篁の隠岐追放は年末年始を挟んだ頃に行なわれた。おそらく、千酌を出発したのは一月であったろう。遣唐使船のような豪華絢爛な船ではない、罪人護送用の船である。遣唐使船は航海に適した時期を選んで出航するのに、護送船はもっとも航海に適さないと考えられた真冬の海が荒れ狂う時期に隠岐に向かっている。
ところが、皮肉にも、こうした罪人護送用の船のほうが遣唐使船より安定しており、多少の嵐にも耐えられる頑丈さを持っていた。その上、隠岐に着いた篁を待っていたのは、比較的気楽な暮らしだった。
無位無冠の一市民として隠岐に行かされたとは言え、牢の中に閉じこめられ続けるわけでもなければ、無人島で一人きりの暮らしをするわけでもない。人々の暮らしが成り立っている島であり、篁は隠岐で京都では味わえない自由を満喫し、島の女性とのラブロマンスまで生んでいる。
承和六(八三九)年の一月七日から一一日にかけて、六二人の貴族が出世を果たした。これは例年にない大規模な人事異動であり、このタイミングで長良が左馬頭に、良房が陸奥出羽按察使に選ばれた。ともに官位相当の兼務職であり、長良が朝廷内の馬の手入れをする役目を担うようになったわけでも、良房が東北地方へ追放されたわけでもない。
このときの出世者の中に遣唐使は含まれていない。出航後の遣唐使の様子が伝わっていない以上、人事は凍結するしかなかった。出航してから半年を経過し、年が明けても遣唐使の情報は京都に届いていなかった。太宰府に派遣した藤原助からの連絡も全くなかったのは、太宰府でも同様に遣唐使の情報が掴めていなかったからである。
ただし、一つだけ望みがあった。海に出て行くのは遣唐使船だけではない。商人の船もあるし、漁師の舟もある。航海の途中で何かあったらこうした民間の船を通じて遣唐使の情報が入ってくるのが普通であったから、情報が来ないということは航海の途中に何もなかったからと考えるのが普通だった。
それから一ヶ月後の閏一月一一日、京都の治安回復の功績が認められ、藤原良相が従五位下に昇格した。
これと前後して、京都の治安悪化の情報が途切れる。
毒を以て毒を制すは成功だった。目に見える強盗団が消えただけでなく、闇に潜む強盗団も壊滅的なダメージを受け、それまで京都市中を我が物顔で歩いていた現在で言うところのヤクザもその存在自体が消滅させられたた。
治安悪化の解決は、犯罪者の処罰ではなく、より根の深いところの解決こそ不可欠だとする意見もるが、この時代必要としていたのは目の前の安全であり、犯罪者に責任をとらせることだった。つまり犯罪を犯しかねない土壌の解決ではなく、表面化した犯罪の取り締まりと、発生しかねない犯罪を力ずくで抑えることを選んだのだ。それは犯罪の発生する可能性についてはそのままとしておくことを意味する。
しかし、犯罪を決して許さないとする良房の態度、そして兄の言葉を実践する良相の行動は、犯罪を思い留まらせるのに強い効果があった。犯罪が割の合わない行動になり、たとえ今を生きるためにしなければならないと考えても、その直後に死が待っているのでは犯罪に手を染めようがない。
力ずくで抑えるのでは真の意味での安全とならないとする意見もあるだろう。だが、真の安全であろうが、力ずくの安全であろうが、安全は安全。強盗を気にしないで良いという一点は変わらない。
三月一日、遣唐使に関する情報が全く届かないことに業を煮やしたのか、緒嗣は勅令を出させた。
「唐へと向かった三船が遭難しないよう、五畿七道の各国、および、十五大寺は、大般若経と龍王経を遣唐使が帰還するまで転読するように。」
寺院の仕事は転読だけではない。転読が命じられたり、転読が依頼されたりしたときは日々の業務に加えての転読実施となるが、それは特別なこととして引き受けるものであって、日常に加えられて平気なものではない。
イメージとしては、毎日プラス一時間の残業をこなしているサラリーマンに、さらに五時間の残業が命じられるようなものである。それも残業代が出るならまだいいが、緒嗣は命令だけして代価は一切用意していない。つまり、サービス残業である。
それでも期間が決まっているのであれば耐えられるだろうが、今回は無期限の転読。いつ終わるかわからない苦行を命令されて平然とはしていられるわけはなかった。その結果、転読しているという報告だけして実際には何もしていないところや、堂々とボイコットするところも現れた。
また、緒嗣の命令自体が大いに疑問のあるところだった。遣唐使の出航は前年七月。いくら何でも四分の三年を経過しておきながらまだ航海しているなど考えづらい。唐からの帰路にある可能性ならあるものの、それだとかえって早すぎる。遣唐使は唐に一年は滞在するのが普通だから、出航から四分の三年のタイミングで命令を出すのは不可解である。
この質問をした良房に対する明確な回答はなかった。
緒嗣はただ祈り続けるよう命じたのみ。
左大臣が左大臣の職務を果たさなくなったのを見た右大臣の藤原三守は、緒嗣と折衝することなく、陸奥から上ってきた請願に応える。
三月四日、陸奥国の農民三万〇八五八人の課役を三年間免除するとの布告が出た。
この三守、就任当初は長良・良房の兄弟の傀儡だと誰もが考えていたが、ここにきてなかなか有能な右大臣であることが明らかとなった。
長良や良房を遮って自分の意見を貫き通すことはしないものの、二人を説得して自分の意見を仁明天皇に奏上することはあった。このときの陸奥国からの労働義務の免除についても、良房は当初反対であった。一ヶ国で例外を認めれば、他の全てでも例外を認めなければならなくなる。
しかし、三守の考えは違った。
陸奥国は後進地域のため収穫が少ないところに加え、反乱や火山の噴火もあって、生活するための労働が他より多いと主張。ここで労働義務を免じるのはそうしなければ他の地域と釣り合いがとれないとした。
良房はその考えに賛同した。
三月一六日、篁に同調して乗船を拒否した遣唐使四名への裁判が終わった。
知乗船事、従七位上、伴有仁、流刑。
歴請益、従六位下、刀岐直貞、流刑。
歴留学生、少初位下、佐伯安道、流刑。
天文留学生、少初位下、志斐永世、流刑。
何れも法に照らせば死刑になるところであったが、温情による一等減が行なわれ流罪となり、流刑地は四人とも佐渡と決まった。これが一民間人であれば無人島に流刑になるところであったが、役人となると有人島、それも、島全体で一つの国となっている比較的大きな島への流刑となる。
この四人は篁と異なり、流刑に伴う官位剥奪が行なわれていない。そのため、流刑となった先でも官位に伴う給与が支給された。研究者によれば、一日にコメ一升(この当時の一升はだいたい七〇〇ミリリットル。大きさの目安としては三五〇グラムの缶ジュース二本分)と塩一勺(一勺は一升の一〇〇分の一)が支給され、生活するための田畑と種子も無料で提供されていた。それを自ら耕す者もいたが、付近の民に耕作させていた者も多かった。耕作する時間がなかったからである。
隠岐や佐渡は島全体で一つの国となっていたが、本州・四国・九州の国と比べると国衙の運営は常に困難を生じていた。国司は派遣されてはいたが、その配下の役人は現地採用であることが多く、文字を読めない者も採用せざるを得ないほどの慢性的な人材不足であった。このようなとき、規定によれば京都から役人が派遣されることとなっていたが、生活水準の低さと、本州・四国・九州と比べ功績によって抜擢される可能性の低さから拒否されることが多かったという問題もあった。
というところでやってきた、遣唐使にも選ばれたほどの人材。しかも、その職務に比べ支払う給与は少なくて済む。離島にとって彼らは国衙運営の貴重な人材となった。
佐渡や隠岐の言い伝えの中には、喧噪からは離れたゆったりとした暮らしが気に入り、権力闘争の渦巻く京都を離れ、離島での暮らしを満喫する者も現れたという記録が残っている。
今回追放された四人がこの後どうなったのかを伝える記録は二人分しかない。
伴有仁と刀岐直貞の二人については、後に京都への帰還許可が出たという記録が残っているが、残る二人については不明である。許されて京都に帰ったかも知れないし、そのまま佐渡に残ったかも知れない。あるいは、二人に帰還許可が出たときにはもうこの世の人ではなかったのかも知れない。
治安安定化の最終章は近づいてきていた。
京都も、野山も、海も駆逐されてきた強盗団は追い詰められてきていた。
当初は秩序なき人の群れであった強盗団も、人が少なくなって逃げまどい、一つまた一つと他の強盗団と結合するにつれ、秩序ある軍勢へと化してきた。
強盗団の壊滅を命じたのは良房だが、その実行にあたったのは良相である。この人は郡を指揮する能力、そして、軍事作戦を立てる能力は二人の兄より優れていた。
良相の立てた作戦は対ゲリラ作戦の基礎というべきものだった。
まず周辺で小さな小競り合いを繰り返すことで相手を逃走させる。
逃走先でも競り合いを繰り返し、各個撃破を図ると同時に、散らばっていた敵を一つの集団にまとめ上げる。
そして、最後の大きな集団となったところで一気に叩く。
これが正規な訓練を積んだゲリラの軍勢であったら乗らなかったかも知れないが、無秩序な集団として始まった強盗団には有効だった。
その最終決戦の場となったのが、伊賀国名張郡。
しかし、いくら強盗団とは言え、集団となって秩序だって生活している者、そして、かつて強盗であったとしても現在では自給自足の生活をしている者を、何の名目もなく攻め立てるわけにはいかない。
それが名張に集まった者の強みであった。強盗ばかりが集まった集団となると強盗のしようがないし、周辺の農民はとっくに避難させている以上、強盗しようにも襲うべき一般人もいない。それに、これが真相だとしても、かつて強盗であった証拠もないし、今は強盗をしていない。それを国がその権力で大々的に攻め込むことは問題だった。
途中までうまくいっていた作戦が最後の最後で失敗したかと思った良相は兄に相談。良房はここでも一枚上手だった。
良房は伊賀国名張郡に私鋳銭を大量に作成している集団があると主張。これは日本中のどこでも行なわれていることで伊賀国名張郡だけが特別なわけではなかったが、犯罪は犯罪。
そして、この犯罪を取り締まるためという名目で、良相とともに右近衛将の坂上当宗(坂上田村麻呂の孫)を派遣した。しかも、最初の名目は私鋳銭製造の一七名の逮捕で、強盗団全体の壊滅はどこにも謳っていない。
だが、そこで意味するところは誰もが理解できた。
良房は最後の殲滅を命令し、良相と坂上当宗は良房の言葉に応えた。
しかし、良房は伊賀国の強盗団を壊滅させることで一仕事果たせるとは考えていなかった。
人の住むところ犯罪は必ずある。犯罪者をいかに死滅させても今の暮らしが厳しいために犯罪に手を染める者は次から次に生じるし、苦しくなくても犯罪を職業とすることを選ぶ者だっている。犯罪を無くすことなどあり得ないし、犯罪者を全員殺したところで永遠に犯罪から逃れられる生活がやってくるわけではない。
ゆえに、執政者にできることは、犯罪の芽のつみ取りではなく、不満がくすぶろうが何しようが犯罪そのものを力ずくで封じることである。この翌年に平安京内の強盗集団対策として六衛府に夜警を行なわせることを定めているのも、犯罪そのものを封じるためであった。
緒嗣の神仏に頼る姿勢は日を重ねるにつれて増していった。
四月二一日、伊勢神宮に祈祷を命令。
四月二八日、一〇〇名の僧侶を集めて大般若経の三日間の転読を命令。
五月一七日、延暦寺に仁王経の転読を命令。
六月四日、全国の寺院に対し三日三晩徹夜しての転読を指令。
七月五日、六〇名の僧侶を紫宸殿に招いて大般若経の転読を命令。
この年は降雨量が少なく、遣唐使の無事を祈ると同時に雨乞いを命じてもいたのだが、それにしても神仏に頼る回数が多すぎる。
これで祈りが無駄に終わったのであれば悲しい事態だが、神仏の祈りが功を奏したのか、八月一四日、緒嗣が待ち望んでいた知らせが大宰府から飛び込んできた。
遣唐使第一陣帰国。
「遣唐使船が三艘とも大破したため、唐からの帰国には新羅船九隻を購入し、それぞれ分乗して楚州を出発。黄海沿岸を航海し、新羅西岸を伝って帰国の道に至る。他の八隻の行方は現在のところ不明。以上。」
遣唐使が唐に渡って帰ってきた。この知らせを聞いた緒嗣は号泣して喜び、直ちに残る八隻の捜索を命じ、対馬、壱岐をはじめとする島々や、山陰から北九州の各地にかけての一帯に、夜間はたいまつの火を灯し続けさせた。また、食料と水、そして当面の宿舎も各地に用意させた。
そして、第一陣の帰国から一〇日を経た八月二四日、大使藤原常嗣が六隻の船を率いて肥前国松浦郡生属(いくつき)嶋に到着したとの連絡が届いた。
仁明天皇は直ちに、常嗣と、常嗣不在の間大宰府のトップの代理役を務めていた大宰小弐の南淵永河(みなみぶちのながかわ)に勅を送った。
「これからは収穫の時を迎えるため、陸路では道中となる農民の負担が大きくなる。よって、遣唐大使藤原常嗣、伴須賀雄、春道永蔵の三名は直ちに帰京せよ。長岑高名、菅原善主、藤原貞敏、大神宗雄、高丘百興、丹犀高主、槻本良棟、深根文主、大和耳主、春苑玉成の以上一〇名は船を建造して帰京せよ。荷については陸路で運搬させるための者を派遣する。」
この勅を大宰府で受け取った常嗣は、大宰府所有の船の一隻に乗り込んで、およそ一〇日かけて、瀬戸内海を経て難波津にたどり着き、そこから京都に着いた。
九月一六日、藤原常嗣、節刀返還。これで遣唐使派遣が正式に終了し、遣唐使期間中与えられていた位は元に戻された。
危険な航海を経て京都に戻った常嗣は宮中でのスターになった。
九月一七日、紫宸殿において、唐より送られた勅書が右大臣藤原三守の手で読み上げられた。遣唐使の中では常嗣だけがこの場への参加を許された。
仁明天皇は常嗣の語る航海の様子や唐の皇帝への謁見の様子を聞き入り、苦難な航海を終えたことによる褒賞を与えた。
九月一八日、唐からの勅書が良房に渡された。これを良房が保管してもよいという特権だというが、なぜ良房なのか、そしてなぜこれが特権なのかはわからない。
ただ、緒嗣にとってはこれ以上ない嫌味でもあったろう。遣唐使の派遣に反対した良房に対し、遣唐使派遣が成功に終わったことを示す何よりの証拠を突きつけたことになる。これを持ち続けろというのは、自分の誤りを否定し続けろというのに等しい。
もっとも、受け取った良房は特に何とも思わず、これを教育の教材として利用した。唐に限ったことではないが、こうした外交文書はその時代最高の書家が記すことになっている。受け取った勅書は文章教育の最高の手本であったろう。
九月二七日、遣唐使全員を昇進させるとの決定が下った。これにより、常嗣は正四位下から従三位に昇ったほか、最低でも三名の遣唐使が新たに貴族に加わり、また、唐の地で没した者にも追悼の昇位が行なわれた。
一〇月九日、残る二隻のうちの一隻が博多に到着した。しかし、最後の一隻の消息はわからず、朝廷は最後の一隻捜索にあたるよう命令を下した。
一方、京都に戻った遣唐使たちのヒーロー扱いはなおも続き、いかに唐に行った者を招き入れるかで宴のステータスが問われるようになった。大使常嗣や、貴族に列せられた者たちだけではなく、一船員として唐に渡った者であっても、唐に渡ったという一事だけで賓客扱いされ、独身の船員は様々な家から嫁の申し入れが出るほどだった。
京都でブームを呼んだのは唐に渡った人たちだけでなく、唐からもたらされた物もブームになっていた。同じメイド・イン・唐であっても、新羅経由の輸入品は見向きされなかったのに、遣唐使とともにもたらされた品はいくら高くても売れた。もっとも、簡単に売ることが許されたのは船員が唐の市で買った日用品であって、遣唐使として正式に入手した物ではない。
一〇月一三日、唐から渡された品々が伊勢神宮にいったん奉納された。
唐から渡された品々が一般公開されたのは一〇月二五日になってから。建礼門前に品々が並べられ、仁明天皇自らも足を運ぶ盛況となった。並べられた品々はこの後、光仁・崇道・平城・桓武の四名の天皇の陵墓にも運ばれ祀られた。
承和七(八四〇)年の正月の人事は大きなものとはならなかった。前年末の遣唐使の昇格の影響で昇格の枠が少なくなっていたからである。
また、この少ない昇格も二つを除いてはインパクトのあるものではなかった。一つは、無事に遣唐使の役を果たした藤原常嗣が大宰権師を辞すことになったため、仁明天皇の叔父にあたる賀陽親王が大宰師に選ばれたこと。もう一つの例外というのは、昇格と言うよりはむしろ降格人事とも言える内容、すなわち、藤原長良の蔵人頭就任である。
五位の若手の貴族が就くのが通常であったこの役職に、四位で若くもない長良が就くのは珍しかった。もっとも、淳和天皇の頃に駿河国司まで務めた吉野が蔵人頭に就いた例もあるから、まるっきりの例外というわけでもない。
仁明天皇が長良を自らの秘書役に選んだのは、それが宮中のバランスをとるためであったと言える。
遣唐使が無事帰還したことで緒嗣は失いかけてきた発言力を大いに取り戻した。今まで庶民の支持を全く得なかった緒嗣にとって、遣唐使がヒーローとなり庶民の絶賛を浴びていることは、自分が賞賛されていると同じだと考えたのである。
しかし、それで、対抗する良房が黙り込むことはなかった。
遣唐使の派遣は終了した。しかし、それは成功とは言えない。新羅を頼ることのない唐との関係構築は、遣唐使たちの帰路を新羅に頼らざるを得なかったことを見ても、成功ではないのは明らかだった。
唐の皇帝からの国書だけは正式な遣唐使ゆえ手にできたが、それ以外の物品については唐の市場で普通に買えたし、唐に行かなくても新羅の商人を通じれば手に入る。前年末の喧噪は遣唐使がもたらしたものというプレミアがついていたため評判を呼んでいたが、時間が経ってみれば、それは日本で手に入るものであったり、日本で手に入らなかったりしてもそれまで普通に輸入していたものだったということに気づいた。
また、唐からの輸入品で最優先してほしかった医薬品についても、結局は特別なものではなかった。唐からもたらされたものの中にはたしかに医療品も含まれていたが、疫病を劇的に沈静化する薬でもなければ、改善させる医療技術でもなかったことは、少なからぬ失望を呼んでいた。
何よりいちばんの問題だったのは航海の危険さだった。失われた人命の多さは決して無視できる数字ではなく、遺族となってしまった家庭への補償も簡単では済まなかった。国のためと命令されて海に出て、帰りを待ちわびていた妻や子、両親のところに飛び込んできたのは、海の藻屑と消えたという知らせ。
遺族となってしまった人たちは緒嗣を激しく非難し、彼らは遣唐使に反対した良房のもとへ身を寄せた。
良房は彼らを利用し緒嗣の失敗を責め立てた。
かたや誇りとし、かたや攻撃の材料とする。この対立にあって、両者の中間に位置できる長良の存在は仁明天皇にとってこれ以上なく頼れる人であったろう。
二月一四日、隠岐に追放されていた小野篁に京都帰還命令が出る。同時に、佐渡に流された四人のうちの二人にも京都帰還命令が下りる。
ところがこれに篁は困った。篁はドロドロした京都の朝廷の暮らしを捨て、隠岐に終生の住まいを築くことにしていたのである。
それまでの貴族としての暮らしを捨て、西郷町都万目に小さいながらも住まいを構え、アコナという名の女性と同棲するようにまでなっていたのだ。
遣唐使に任命された当時の篁が独身であった可能性は低い。本人が女性にモテたということもあるが、名門小野氏の一員として政略結婚から逃れうるわけがなかった。女性と浮き名を流したのも、こうした政略結婚の暮らしに対する反旗の意味もあるだろう。
その篁にとって、隠岐追放は悲しいものであったが、隠岐での暮らしは今までに体験したことのない満ち足りた暮らしだった。これまで出会ったどの女性よりも幸せを感じさせる女性と暮らし、豪邸ではなくても生き甲斐に満ちた住まいで暮らす日々、これらは何れも篁を満足させるに充分だった。
これを聞きつけた嵯峨上皇が怒った。
追放したのに安楽な暮らしをしていることに我慢ならなかったのである。
嵯峨上皇は温情措置として、篁の京都帰還を命じる。しかも、身一つでの帰還命令であり、アコナを連れての京都帰還は許さなかった。
この知らせを聞いた篁は命令を拒否しようとするが、強制連行の面々がやってきたことで京都帰還を受け入れざるを得なくなった。
篁が京都帰還を受け入れたことを知ったアコナは嘆き悲しみ、自決まで考えた。それを知った篁は、少しだけ京都行きを待ってくれと役人に頼んだ。
役人は篁をいったん自由にさせたが監視は続けた。監視された中で篁は木像を彫ってりアコナに渡した。
「この像を私だと思ってくれ。」
「篁さま……」
像を渡してすぐに篁は縄で縛られ、引き立てられていった。
三月三日、未だ帰らぬ遣唐使船一隻が帰還するまでたいまつの日を絶やすなとの指令が飛んだ。
残る一隻の消息が判明したのは四月一五日にもたらされた。四月八日に大宰府が情報を掴んでからわずか七日にして京都に届くという、当時としては異例のスピードだった。
それがいつなのか、また具体的に何名なのかはわからないが、残る一隻に乗り込んでいた遣唐使の菅原梶成らが大隅国に漂着した。梶成らの乗ってきた船は新羅船ではなくボートのような小舟であった。
唐を出国した後、梶成らの乗った船は遭難し、異域に着いたと証言した。
異域にたどりついた梶成らはその地に住む者から襲撃を受け、三〇名ほどが何とか生き延びることができた。
襲撃を生き抜いた面々はそれまで乗ってきた船を壊しいくつかの小舟に仕立て上げ海に逃れ、梶成らの乗った小舟だけが大隅国にたどり着いた。そのほかの者の乗った小舟がどうなったかは梶成にもわからない。
その際、現地人が襲撃に使った武器を梶成は奪取しており、戦利品として、また、実際に身を守る武器として小舟に積み込んでいる。梶成は自分たちがたどり着いたのは唐の一部だと考えたようだが、日本に持ち帰ってその武器を見せたところ、それは唐で使われているような武器ではないと判断された。
梶成らの着いたこの「異域」がどこなのかは現在でもわかっていない。現在もっとも有力な説となっているのは台湾説。かつては沖縄だとする意見もあったが、その地にたどり着いた梶成が現地の人と言葉を交わせなかったこと、そして、この時代の沖縄では既に日本語が使用されていたことが明らかになっていることから、現在では沖縄とする説が否定されている。
篁の追放解除を犬猿の仲となった常嗣がどう考えたかはわからない。
なぜなら、常嗣の容態が急激に悪化してきたからである。
常嗣の容態悪化は緒嗣にとっては痛恨の一事であったに違いない。すでに六六歳となっている緒嗣は後継者に自席を譲り隠居生活を送るようになってもおかしくない年齢になっていたのに、後継者がいない。
緒嗣とて後継者のことを考えてこなかった人生を送ってきたわけではない。ただ、後継者に考えた人材を次々と失ってきていた。
後継者と考えた長男の家緒は、八年前に三〇代前半の若さで命を落とした。
自派の有力な後継者と考えられた藤原吉野は淳和天皇の退位に合わせて宮中を去った。
そして、吉野に次ぐ自派の後継者となれると考えた常嗣が四五歳の若さで病に倒れた。
ここで常嗣が病状から復帰しないとなると、緒嗣は後継者に考えた全ての人材を失ったことになる。
緒嗣の周囲の面々を見ると、遣唐使として唐への渡航経験もあり、嵯峨上皇・空海と並ぶ文筆家として名をはせていた橘逸勢が五八歳、文屋綿麻呂の弟で各国の国司を歴任した文屋秋津が五七歳、冬嗣の母親違いの弟でこのとき大納言であった藤原愛発が五二歳とことごとく五〇代を超えている。
そんな中で現れた四〇代の常嗣は、この時代の平均寿命からすれば高齢になるが、緒嗣派にとっては期待の若手だった。
その期待の若手の命が失われようとしていることに緒嗣は嘆き悲しみ、手を尽くして医師を呼び寄せ薬を集めようとしたが、無駄だった。
もしかしたら、遣唐大使を務めたことで燃えつきたのではないか。
人生をかけた大事業が無事終わったことで全てが終わったと考えたのか、その最期は静かなものであった。
四月二三日、藤原常嗣死去。享年四五歳。人生を賭けた冒険から帰ってきてわずか八ヶ月後のことだった。
常嗣の死去からほどなく、淳和院からニュースがもたらされた。
五月六日、久しぶりに宮中に姿を見せた吉野の口から飛び出たのは、淳和上皇の容態が急変したという知らせである。
淳和上皇は自らの命が残り少ないことを悟り、死後は火葬にし散骨するよう、そして陵墓は作らないようにとの遺言を記した。淳和上皇の忠臣であることを貫くために宮中を離れていた吉野が宮中に戻ったのはこの遺言を伝えるためである。
容態回復を祈ることも、医薬品を用意することも、医師の診療も断った淳和上皇は、自身の子である恒貞親王の後見を吉野に託し、静かに自らの死を迎えた。
五月八日、淳和上皇死去。
遺体は遺言に従って火葬され、その遺骨は大原野西院(現在の京都市西京区大原野南春日町)で散骨された。
陵墓を築かないよう遺言に残したため、長い間皇室の正式記録から陵墓に関する記録が残されていなかったが、淳和天皇がどこに埋葬されたかは非公式の記録にずっと残っており、小さな石を積み上げた円形の塚も残されていた。
現在は淳和天皇の陵墓が存在する。大原野西院の小塩山山頂付近に設けられた「大原野西嶺上陵」と称する陵墓である。これは幕末の陵墓整備の際に、陵墓を持たない歴代天皇に対し新たに陵墓を設定するときに築かれたものである。
そのため、大原野西嶺上陵に淳和天皇の遺骨はない。その代わり、その地一帯の土壌には淳和天皇の遺骨が残っているはずである。
小野篁の京都到着は、常嗣の死から五〇日ほど、淳和上皇の死から四〇日ほど経った六月一七日のこと。
京都に着いた篁は、かつて自分に向けて涙を流して見送った民衆が、みな一様に冷めた表情であることに気づいた。
その理由を知ったのは、黄色い服を着させられたとき。
篁が隠岐にいる間に遣唐使が出発し、帰国したことは聞いていた。しかし、遣唐使達が京都でヒーローとなっていたこと、そして常嗣が死んだことはこのときはじめて知り、そして冷めた表情の理由を理解した。
京都を発つときの篁は自分たちの生活を苦しめる遣唐使事業に反対する民衆の英雄だったのに、京都に戻ってきたときには、自分達のヒーローである藤原常嗣を苦しめた大悪人へと変化してしまっていたのだ。
何ら染められていない繊維の元の色そのままの服(当時はこれを「黄色い服」と呼んでいた)を着させられた篁は、その格好のまま京都市中を練り歩かされた。黄色い服は無位無冠の庶民であることを示す。京都に連れ戻された篁は、元の地位に戻っての帰還ではなく、一人の一般人の元罪人としての連行だった。
理屈の上では罪が許され京都に舞い戻ったこととなる。
しかし、実際は、市民の怒りをぶつけるターゲットであり、無位無冠の一般人として事実上の自宅軟禁を余儀なくされた。外出が禁じられたわけではないが、外出したときの命の保証がなかった。
今の篁は裕福な人間ではない。貴族でなくなり収入を失った篁にとって、自宅軟禁はそのまま生活の道が途絶えることを意味するのだ。
貴族であった頃は莫大な収入があった。貴族としての給与に加え、新羅との交易から上がる収入がかなりの額になっていたのである。だが、そうした収入は遣唐使に選ばれて以後、全て使いきっていた。良房のように農園経営に乗り出したのではない。教育と学問への投資であった。
篁の読書量はこの時代の先陣を切っていた。そう易々と本を買うなどできず、一〇〇冊も持っていれば大図書館扱いされたこの時代、本を大量に買いあさり、私塾を経営し、貧しい者への教育資金に財産をつぎ込んでいた。
おかげで篁は当代最高の頭脳の持ち主と称されることとなるのだが、その頭脳を以てしても、自身の生活の困難はどうにもならないことだった。
その篁に良房は接触した。もともと長良と同い年で宮中でも顔見知りであっただけに、良房が篁に接触するのは容易だった。
良房は篁に対し、弟の良相の教育係となるよう要請し、篁はそれを受け入れた。報酬は篁の生活の保証。
良相は京都の治安を安定化させた功績があったが、同時に恐れられてもいた。強盗を遠慮せず逮捕し、血祭りにあげる人間である。庶民が治安回復の功績を誉めることはあっても、積極的に接したいと考える相手ではなかった。
ゆえに、民衆の恨みを買い邸宅の周囲を民衆が囲んで罵声を浴びせ、中に入ろうとする者に対し容赦ない暴行が繰り広げられようと、良相が小野邸に向かうことについては邪魔されなかった。当然だ。邪魔したら命に関わる。
その良相だが、いい年齢になって素行も静かになったとは言え、どうも不良の血が騒ぐのか落ち着きがない。それに、素質はあると思われるのだが、兄二人と比べて学問の出来が良くない。軍勢を率いて敵を壊滅させる指揮力はあるのだから頭が悪いわけではないし、仲間の人望だって厚いのだから人心掌握力も高いのだ。
ただ、貴族として必要とされる一般教養が弱かった。
兄二人の出来がいいだけにそれはなおさら強調された。
この面を引き上げてくれというのが良房から篁への依頼だった。
これは難しい仕事となると感じた篁だが、断るわけにはいかない。それしか収入の道がないのだから。
ところがいざ良相に会ってみると、この若者の素行の悪さの理由が瞬時に判断できた。良相はこれまで、兄二人と比べられ続ける人生を送ってきたのだ。何をするにしても長良や良房と比べられ、どんな結果を出しても「長良なら」とか「良房なら」と言われ続ける人生。貴族としてのデビューが遅いのも、良相のデビューのタイミングにはもう父がこの世の人でなっていたからにすぎない。
恵まれていると感じる兄二人と自分との境遇の違いは大きすぎた。これでは人生が逸れるに決まっている。教育のスペシャリストであった良房でも、自身が原因である良相の不良化を食い止めることは不可能だった。
だが、篁なら違った。
本質的には篁も良相と同じ雰囲気の人間である。学問の出来とか、貴族として必要な素養とかは身につけているが、素行の悪さで言えば篁も人のことは言えない。そのために気が合ったのか、それとも篁の教育者としての資質が素晴らしかったのか、良相は篁を生涯の師として従うこととなる。
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