末法之世 6.後冷泉天皇

 後冷泉天皇が断固譲らぬこととして主張したのは、弟である尊仁親王を皇太子に就けることである。

 この時点でまだ子がいない後冷泉天皇である。皇位継承権の筆頭として弟が選ばれるのはおかしな話ではない。この時点でまだ一二歳であるというのは不安要素ではあるが、前例のないことではない。そこまでは何に問題もないのである。

 問題となるのは、尊仁親王の母が藤原氏でないということ。後冷泉天皇に何かあったとき、即位するのは尊仁親王である。そして、まだ元服していない以上、摂政が置かれることとなる。

 繰り返すが、摂政というのは、天皇がまだ幼い、あるいは天皇が病気に倒れたなどの理由で、天皇の近親者が天皇の職務を代行する仕組みのことであり、藤原氏だから摂政になれていたのではなく、天皇の近親者ゆえに摂政になれていたのだ。

 尊仁親王が天皇になったとしたら、摂政となるのは皇族の誰かであり、藤原氏ではなくなってしまうのだ。

 これは、皇室との婚姻を前提とした摂関政治の終焉を意味するのである。

 藤原頼通は、尊仁親王を皇太子とすることに可能な限り抵抗したが、どうあがいても尊仁親王以外に皇太子になる資格を持つ皇族はいないという現実を覆すことはできなかった。ただ、そこですんなりと尊仁親王を皇太子とするわけにはいかない。それは二〇〇年続いた摂関政治の終焉に直結する。藤原頼通は何とかして摂関政治を続ける方法を模索し、妥協点を探し出そうとしたのである。

 一方、後冷泉天皇は摂関政治がどうなろうと知ったことではない。自分の身に何かあったときのことを考えても弟が皇太子になるのは何の不都合もない。ゆえに、摂関政治を存続させるための妥協点などには興味などない。ただし、藤原頼通を無視できたわけではなく、藤原頼通を繋ぎとめておくための妥協点は何としても見出す必要があった。

 この時代の天皇に課せられた業務量は、一人の天皇でこなせる分量ではない。だから摂政や関白の出番が出てくるのだし、皇太子にも相応の役割が求められるのである。後冷泉天皇がいかに意欲を見せたところで、膨大な業務量を考えると業務をこなすことに汲々とし、自分の目指す政治を実現させる時間などどこにも見当たらないという現実がある。

 しかも、弟以外に皇太子になれる人物が見当たらない以上、弟を皇太子とするしかないのだが、さすがに一二歳の少年に天皇としての国事行為の一部を肩代わりさせるなど荷が重すぎる。そのあたりの荷を軽くする存在として最も適切なのが、他ならぬ藤原頼通なのだ。

 摂関政治を終わらせることは何とも思わなかった後冷泉天皇であるが、自らの政務を一部でも肩代わりできる存在の必要性は見出していた。その答えはこの時点で藤原頼通しかいなかったのである。

 後冷泉天皇は摂関政治の継続など考えないが藤原頼通は必要としており、藤原頼通は何としても摂関政治を続けようとする。その妥協点を見出した結果が、関白藤原頼通の続投、そして、この時点では尊仁親王を皇太子とするが、藤原氏の女子を入内させ、その女子が後冷泉天皇の子を産んだら、そしてその子が男児なら、その男児を皇太子とするというのが妥協点であった。

 これだけ見ると、藤原頼通にあまりにも有利である。後冷泉天皇が与えるばかりで藤原頼通は何も与えていないではないかと思える。ギブアンドテイクのギブだけでテイクがないのだ。

 だが、後冷泉天皇には、ギブに見合ったテイクを、いや、ギブ以上のテイクを手にしていた。

 そのテイクこそ、この時代の最大の社会問題となっていた荘園問題である。

 荘園が社会問題であることは誰もが把握していた。しかし、荘園の所有者自身が他ならぬ貴族なのである。すなわち、法案を作る側なのだ。法案を作る者が、自らの資産を大きく減らす法案を作るであろうか?

 後冷泉天皇は荘園問題の解決を目指したのだ。そのために、最大の荘園所有者である藤原頼通との間に妥協点を見出した。

 後冷泉天皇の最終目標は、荘園の消滅である。律令で定められているように全ての土地が国のものとなり、全ての収穫が国への納税対象となる。年貢を納めるべき相手は荘園領主ではなく国であるというのが後冷泉天皇の考えであった。

 ただし、それはあまりにも非現実的すぎた。何しろ、律令制により土地が全て国のものであった一八〇年間だけで飢饉が六回も発生し、飢饉でない年も生産性が著しく劣化していた一方、荘園制が始まってからの二〇〇年間は、生産性が大きく向上し、飢饉も二〇〇年間で一度、それも、藤原純友の乱に影響による一回という数まで減少したのである。

 経済の視点で見るなら、律令制は社会主義であり、荘園制は資本主義である。資本主義による格差の拡大が社会問題であることは人類史上何度も現れた光景であるが、その格差解消の答えを社会主義に見出したとき、例外なく全て失敗している。後冷泉天皇がもし理想を実現させたなら、日本国は、正義と引き換えに、絶望の貧困へと落ちぶれてしまうのだ。

 藤原頼通がそれを理解していなかったわけはない。荘園制に対する批判や非難が繰り広げられようと、荘園制は何としても維持しなければならないのである。貴族ばかりが儲かっていると言われようと、そのように非難する当の本人ですら、荘園制が始まる前より暮らしぶりも良くなっていることは否定できないのである。

 藤原頼通は、父道長と比べるかどうしても見劣りしてしまうが、歴史上の執政者、すなわち、摂政、関白、太政大臣、征夷大将軍、鎌倉幕府の執権、そして明治時代以後の首相たち全員を採点して順番に並べたら、平均以上に位置するだけの結果を残してきた政治家でもある。しかも、およそ四〇年に渡って政界に身を置いてきた人間である。このような人間は、現実離れした理想に基づく法案を、一見すると実現させているように見えながら、実際にはかなりの骨抜きの、つまり、現実に与えるダメージを限界まで削った法案とさせるように変えることぐらい簡単にできる話である。

 貴族が荘園で儲けている。それは事実だ。

 荘園が制御されると貴族の収入が減る。それも事実だ。

 だが、貴族の収入が減るという理由だけで、荘園の消滅に反対するわけではない。それは国民生活に直結する話なのである。国民生活の悪化に比べれば、自らが悪評を受けることなど些事とするしかないのが政治家というものである。


 寛徳二(一〇四五)年一月一八日、後朱雀上皇薨去。三七歳での死である。

 既に誰もが予期していたことだけに、後朱雀上皇の死が青天の霹靂となることはなかった。

 それどころか、後朱雀上皇の死すら組み込んだスケジュールが事前に決められており、そのスケジュールをこなせばそのまま政務となるほどまでに準備されていた。

 まず、後冷泉天皇は、前天皇である後朱雀天皇から皇位を受け継いだことになっているが、それが正式な即位を意味するわけではない。厳密に言えば、天皇としての職務でなく、前天皇の代理としての職務をしているわけである。後朱雀上皇の前後で、その地位に違いは無い。

 と同時に、後冷泉天皇は後朱雀天皇の実子でもある。つまり、後朱雀上皇の死とともに父の死に伴う服喪期間に入ることとなる。

 服喪期間が解けたら直ちに即位する。即位の日は吉日であることが優先する。服喪期間がある程度の期間であることは求められるが、厳密に何日間の服喪期間なのかなどは問わない。

 服喪期間が解けたのは寛徳二(一〇四五)年四月八日のことである。この日、大極殿で後冷泉天皇が正式に即位した。

 壮麗な即位の儀ではあったが、そこには何かしらの冷めた感覚もあった。

 新しい天皇の即位により新しい時代が始まることを多くの人は期待した。その期待の中には、後冷泉天皇が以前から主張していた荘園の制限も存在した。格差是正を考える者の耳に、経済の悪化を危惧する声は届かないどころか、むしろ、格差の解消に反対する者の挙げる論拠なき反論とさえ聴こえる。

 そして、格差是正を考える者の多くはその時点での社会的地位がお世辞にも高いものとは言えない。ゆえに、自分には手の届かない高い地位にいる人が独裁的に辣腕を振るい、格差社会でいい思いをしてきた者を懲らしめること、そして、独裁的に辣腕を振るう中で自分の社会的地位の向上を図ってくれることを願うものである。

 ところが、その期待をかけていた後冷泉天皇が、格差社会のトップに君臨している藤原頼通と妥協したことで、期待は失望へと変わった。相変わらず藤原頼通が関白左大臣として頂点に存在し、その他の上流貴族も藤原氏か、藤原氏とつながりのある源氏に限定される。皇太子こそ藤原氏を外戚としない尊仁親王であるが、それ以外は何も変わらなかったのだ。

 荘園問題を自らのライフワークであると考える後冷泉天皇にとっては藤原頼通との妥協もやむを得ないことであったが、自らの社会的地位の向上を最優先に考え、荘園問題は社会問題を訴えることで自らの尊厳を高める材料としか考えない者にとっては、荘園問題の解決よりも、既存勢力の存在のほうが許せない話であったのだ。

 この失望にさらに輪をかけたのが、後冷泉天皇肝いりで始まった荘園整理である。

 荘園整理そのものの歴史は古い。最も古い記録は藤原時平の時代にまで遡る。

 さらに、長暦四(一〇四〇)年の長久の荘園停止令も存在する。

 これらの荘園整理は、不正義を糾弾するとして絶賛されて始まった政策であった。

 ただし、荘園を不正義といかに糾弾しようと、荘園による格差の増大を批判しようと、荘園によって生活水準が向上し、失業者が減り、餓死者が減っていることは事実なのである。ここで荘園を無くしたら、餓死者が増え、失業者が増え、生活水準が悪化する。

 後冷泉天皇は荘園の全廃を最終目標とする荘園整理を求めるが、議政官から上がってくる答えは、荘園整理の否定。律令に従えば議政官がどのような結論を下そうと、天皇の命令は最終決定であり、議政官の決議を覆すこともできるが、それはしないのが慣例になっている。天皇は、天皇に仕える庶民たちの代表である議政官の議決に従って国政を取り仕切るというのが名目上の体裁なのである。その名目を壊し、天皇独裁を敷くことは考えなかった。

 そもそも、それは無茶な話であった。前述したように、天皇に課せられた責務は、自らの意見を表明できる余力があるようなものではないのである。仮に、ここで後冷泉天皇が独断で荘園の廃止を表明したとしても、その手続きを行える者がいないのだ。

 結局、議政官の決議に基づく法案を天皇の御名御璽によって正式な法律とする以外に、この時代の日本国を動かす方法はなかったのである。

 そのため、荘園整理を求める後冷泉天皇と、その求めを拒否する議政官との間のやりとりが何度も繰り返されることとなった。

 天皇と議政官との歩み寄りの成果が出たのは、寛徳二(一〇四五)年一〇月二一日のこと。各国の国司は、前国司が荘園として認めていた土地だけを荘園とし、自分で新しく荘園を認めてはならないとする命令が出た。これを寛徳の荘園整理令という。

 荘園整理は実現した。ただし、既存の荘園は全てそのままである。つまり、格差の解消にはつながらないどころか、むしろ格差を固定させるものであった。

 それでも、後冷泉天皇は新しい荘園を認めないという姿勢を示した。なんと、後冷泉天皇が自ら太政官朝所に行幸し、荘園整理の手続きを進める役人たちと寝食を共にしたのである。これはあまりにも異例すぎる展開であり、上流貴族たちは後冷泉天皇の本気を目の当たりにさせられることとなった。

 過去にも記したが、太政官朝所というのは、内裏の代わりができるほどの大きさを持った建物ではない。火災に遭ったために、あくまでも一次避難先として、天皇をはじめとする朝廷機能が逃れてくることはあったが、常駐はまず考えられないことであった。その考えられないことを後冷泉天皇はしたのである。

 これは思いがけない効果を生んだ。後冷泉天皇が藤原頼通をはじめとする現在の上位貴族たちと妥協したことで失望感を呼び起こしていたところで、下級役人たちの目の前に後冷泉天皇が現れ、上位貴族たちにダメージを与えること必至な荘園整理に全力をつぎ込むというのである。これは野心あふれる若き役人たちを燃えさせるのに充分であった。


 後冷泉天皇が、議政官に関して言えば、先帝である後朱雀天皇の人事をそのまま引き継いだことはすでに示したとおりである。

 問題は、引き継いだ人事の年齢である。特に、右大臣藤原実資が問題であった。寛徳三(一〇四六)年一月時点で、なんと九〇歳である。平均寿命が八〇歳を数える現在ですら、九〇歳の国会議員はいない。ましてや、五〇歳で高齢者扱いされ、六〇歳を迎えることも稀であったこの時代の九〇歳は、平均寿命をはるかに上回る伝説の長老というレベルの高齢者である。その伝説の長老が現役の大臣であったのだ。

 しかも、この九〇歳の右大臣がいることで、議政官が成り立っているのである。どんなにキャリアを重ねてきた貴族であろうと藤原実資にはかなわないのだ。藤原頼通が頼りなく見えたとしても、藤原頼通の右腕となっている藤原実資が健在であるという一点がある限り、歯向かう者などいなくなってしまう。

 藤原頼通もこの時点で既に五五歳という、この時代の感覚では充分に高齢者、現在でも頼られる側であって頼る側とはみなされない年齢になっている。にも関わらず、父藤原道長亡き後、藤原頼通はかなりの比重で右大臣藤原実資を頼っているのである。藤原実資自身も日記に、あまりにも藤原頼通が頼ってくるので困ると嘆いているほどなのである。

 年齢ゆえに右大臣藤原実資が命を落とすことは、いつあってもおかしくないことであった。ただ、それが起こってしまうと藤原頼通の手による政務の根底が覆ってしまうのだ。そのため、藤原実資は何度も引退を申し出ているが、藤原頼通は左大臣として、それがだめなら関白として、藤原実資の引退の願いを握りつぶしていたのである。

 その藤原実資が、寛徳三(一〇四六)年一月一六日、九〇歳で亡くなった。

 貴族の一人が亡くなったことは、天皇の死と比べものになるほど大きなものではない。天皇の死は日本中の全ての活動が止まるのに対し、一貴族の死はせいぜい家族が服喪期間に入るという程度のものである。

 寛徳二(一〇四五)年一月に後朱雀天皇が退位し薨去したことと、寛徳三(一〇四六)年一月に右大臣藤原実資が亡くなったこととは、天秤にかけるまでもないことである。後朱雀天皇の死については日本中が喪に服したのに対し、右大臣藤原実資の死は何も無かった。ただ、右大臣が亡くなったという情報が伝えられただけである。

 しかし、国政に与えた影響で言うと、後朱雀天皇の死は後冷泉天皇の即位という規定路線が敷かれていたためにさほど支障が出なかったのに対し、右大臣藤原実資の死はダイレクトに国政に影響を与えた。

 単純に言うと、議政官がまともに機能しなくなった。

 自由に意見を述べる。

 その発言はまとめられる。

 議論が重ねられる。

 だが、結論が出ない。

 これまでは、右大臣藤原実資の発言の重さが議政官の議論を動かした。どんなに強固に自らの意見を述べる者を相手にしても、少なくとも自分の意見がマイノリティであることを把握させることはできた。

 これができなくなった。自説を絶対に曲げず延々と議論を重ねる光景が展開されるようになったのだ。

 誰が自説を曲げずに延々と意見を述べるのか?

 内大臣藤原教通である。

 左大臣藤原頼通の実の弟であることに加え、藤原北家のナンバー2である。藤原独裁という点では藤原頼通の最大の協力者でもある。

 しかし、藤原氏内部の対立となると根が深いものになるのだ。

 藤原道長亡き後の藤原氏のトップは藤原頼通が引き継ぐ。藤原頼通のあとの国政のトップは源師房が引き継ぐ。国政のトップは藤原氏とは限らない。一方、藤原氏としてのトップの地位、いわゆる藤氏長者は藤原頼通の直系の子孫が引き継ぐ。藤氏長者に相応の能力があれば国政のトップに就いても構わない。この藤原道長の定めた規定路線の中に、藤原教通は出てこない。

 その代わりに、国の武力のトップである左近衛大将の地位は手にし続けている。事実上はともかく、理論上は、日本中の武士が藤原教通のもとに仕えることとなっている。藤原道長の定めた規定路線にあった話ではないが、兄が放棄した左近衛大将の地位を手にすることで、無視できない存在へとなっていたのである。

 弟として生まれてきたというただそれだけの理由で、藤原道長の定めた路線から外されてしまったのである。それまでは左大臣藤原頼通に意見することがあったとしても右大臣藤原実資が諌めることで収まってきた。しかし、これからは諌める人がいない。

 子供じみた兄弟ゲンカであるが、一方は国政のトップで、一方は武力のトップである。その対立を目の当たりにして、誰が平然としていられるであろうか。


 議政官で左大臣と内大臣が兄弟ゲンカをしていることを後冷泉天皇は当然知っていた。知っていたが、そこに興味は示さなかった。それより、自分のライフワークとすると誓った荘園問題を優先させていたのである。天皇としての国事行為以外の全ての時間を太政官朝所で過ごしていたほどである。

 後冷泉天皇が太政官朝所を去ったのは寛徳三(一〇四六)年二月二八日のことである。

 荘園問題が片付いたとか、荘園問題に飽きたとかという理由ではない。この日、太政官朝所が火災に遭ったのだ。

 後冷泉天皇は大膳職に遷り、その後、藤原教通の私邸でもある二条第に遷った。

 二条第に遷ったのは後冷泉天皇だけである。後冷泉天皇とともに荘園整理を司る役人たちは大膳職に残った。これは、役人たちが後冷泉天皇を見限ったからでも、後冷泉天皇が役人たちを見放したからでもない。単に、二条第には役所たるに必要な設備が無いというだけのことである。

 後冷泉天皇の荘園整理にかける情熱は冷めることが無かった。法で決まったことでもあるため既に存在する荘園については認めたが、新しい荘園はいかなる理由があろうと断じて許さなかった。

 後冷泉天皇の姿勢は副産物を生んだ。当たり前のものとなっている藤原独裁に対する疑念である。律令制が当たり前であった頃に律令そのものに対する疑念を示し、反律令という軸で庶民の支持を固めて摂関政治を作り上げた藤原良房と同じような流れが、このときの後冷泉天皇のもとに生まれ出してきたのである。

 もっとも、何もかも覆すような急進的な革命勢力になってきたわけではない。社会的地位の獲得を狙う者はともかく、現状に対する疑念を抱いていたところに示された現状への疑念への答え、すなわち、藤原氏という存在は必ずしも必要不可欠な存在ではないという答えは、新しい潮流を生み出すのに充分であった。

 かつては律令という古臭いテーゼに対するアンチテーゼとして藤原摂関政治が存在し、それこそが最新の思想であったたのに、今や、藤原摂関政治のほうが古臭いテーゼで、藤原摂関政治に対するアンチテーゼたる何かのほうが最新の思想となってきたのだ。

 この、最新の思想に対し、後冷泉天皇自身は深く入り込んではいない。荘園整理は求めたが、統治システムとしての藤原摂関政治自体は存在してもやむをえないと考えていた。

 ところが、この最新の思想にのめり込み、それこそ正義だと考える者が現れた。

 皇太子尊仁親王その人である。今の学齢で言うと小学校高学年から中学生にかけてであり、その世代に実体験したことから生涯の思想を作り上げる者は珍しくない。それは皇族とて例外ではない。


 反発するようになっていた左大臣藤原頼通と内大臣藤原教通であるが、藤原摂関政治を継続させるという点では意見の一致を見ている。

 その二人のもとに、皇太子尊仁親王が反藤原氏の思想を隠さなくなってきているという知らせが届いたことで、対立を乗り越えた意見の一致が見られた。後冷泉天皇のもとに藤原氏の女子を嫁がせ、藤原氏の血を引く皇位継承者を産んでもらうことである。

 血筋となると藤原頼通の娘である藤原寛子ということになるのだが、さすがにまだ一〇歳の少女を嫁がせるのは無茶がある。嫁がせることができたとしても、結婚そのものが目的ではなく子を産ませることが目的なのだから、一〇歳の少女という選択肢はますます消えることとなる。

 そこで選ばれたのが藤原教通の娘である藤原歓子である。年齢は二五歳だから申し分ない。藤氏長者の娘ではないという一点以外は何の問題も無かった。

 この藤原歓子を後冷泉天皇に嫁がせるために、前例を踏襲することを画策した。

 後冷泉天皇が皇太子であった頃に既に嫁いでいた章子内親王はこの時点でまだ女御である。夫が天皇に即位したからと言って自動的に皇后になれる仕組みにはなっているわけではなく、章子内親王が女御であること自体はおかしな話ではない。

 前例を踏襲するとなると、後冷泉天皇の即位に合わせて、章子内親王も皇后に就任する。つまり、中宮が空位となる。その空位となっている中宮に藤原氏の女子を、ここでは藤原歓子を就けるのである。

 ところが、後冷泉天皇も、章子内親王も、この前例を拒否した。章子内親王が中宮になるなら受け入れるが、皇后となるのは受け入れないというのである。

 理論上はおかしなことではない。だが、本音は別なところにある。

 他ならぬ藤原頼通自身が前例を作り上げてしまっていたのである。

 後朱雀天皇のの中宮であった禎子内親王が皇后に押し上げられ、藤原頼通の養女である藤原嫄子(もとこ)が中宮になったという前例である。

 そのときの禎子内親王の様子を、後冷泉天皇も、章子内親王も知らないわけではない。皇后になるというこれ以上ない待遇に押し上げられてしまったことでかえって、禎子皇后はまともに宮中入りもできなくなってしまったという前例である。宮中入りできなくなった女性とその周辺の者は、必然的に宮中における影響力が乏しくなる。

 藤原頼通が、そして、藤原教通が画策したのは、まさにこれと同じこと、すなわち、章子内親王を皇后にすることで宮中から遠ざける、影響力を弱めることであった。

 影響力を弱められることは、皇后という称号を手にすることで埋め合わせることのできるものではなかった。それを見透かされては拒否も当然の反応である。


 寛徳三(一〇四六)年四月一六日、永承へ改元。

 新天皇の即位からしばらくの間、先帝の元号を使うことはこの時代ごく普通に見られることであり、新天皇即位に伴う改元が即位からしばらくしてから行なわれることは珍しくない。

 新しい元号は本来であれば新しい時代の創生をイメージさせるものではあるが、あまりにも回数が多すぎるとかえって時代の創生のイメージが損なわれてしまう。「ああ、またか」となってしまうのだ。そのため、寛徳への改元までは、朝廷が考えているような新しい時代に対する期待感を生み出すことができずにいた。

 ところが、寛徳から永承への改元は違った。改元の持つ本来の意味である新しい時代の創生をイメージさせることに成功したのである。

 荘園整理に着手し、章子内親王の皇后位についても藤原氏に対して妥協しなかったことで、後冷泉天皇が新しい時代を作り出そうとしていることをイメージさせることに成功していたのである。急進的改革派にとっては人事面で藤原氏との妥協したことが納得できないことであったが、そうではない人にとっては藤原氏に逆らう若き天皇というイメージが新しい時代への希望へとつながったのである。

 それは、永承元(一〇四六)年七月一〇日、章子内親王を中宮とするという宣告を出しときにピークに達した。藤原氏はあの手この手で章子内親王を皇后にし、藤原教通の娘の藤原歓子を中宮にしようとしたが、その試みが失敗したのである。およそ二〇〇年続いた藤原氏の独裁政治にダメージを与えることに成功したのだ。

 藤原氏はもともと、律令制に不満を持つ庶民の支持を集めたことで政権を強固なものとしてきた過去を持っている。摂関制の始祖である藤原良房から、ついこの間まで圧倒的存在感を示し続けていた藤原道長まで、全員とは言わないにせよ、その多くが庶民の声に耳を傾け、庶民の期待に沿う政治を展開してきたのでる。

 藤原頼通はそうした政治をしてこなかったのか? 二択で答えるなら「した」である。しかし、点数をつけるなら、藤原道長よりも下の点になる。六〇点以上を合格とする一〇〇点満点で言えば、藤原道長は九五点以上をコンスタントに叩き出してきたのに対し、藤原頼通は七〇点代に留まる。合格点は充分に超えているのだが、ついこの間まで九五点以上を獲得してきた人と比べられたら、合格点であると言ったところで周囲の人を納得させられるものではない。


 永承元(一〇四六)年一〇月八日、後冷泉天皇が二条第から内裏に戻った。この日、焼け落ちていた内裏の復旧工事が完了したからである。これもまた、新しい天皇の手による新しい時代を実感させるに充分であった。

 これをさらに勢いづかせる出来事が起こったのがこの年の一二月に二つ起こった。

 一つは、一二月一九日の皇太子尊仁親王の元服である。まだ一三歳ではあるが、後冷泉天皇の身に何かあっても摂政を必要としない天皇が誕生することとなった。藤原氏はこのときまで、尊仁親王は藤原氏の女性を母親としていないから、元服していない尊仁親王が即位するようなことがあったら藤原氏でない者が摂政になるというのを問題だと考えていたのに、元服した今は藤原氏の女性を母親としない天皇が親政をはじめることを危惧するように変わったのである。これも庶民にとっては藤原氏へのダメージと映った。

 そしてもう一つが、奈良の興福寺が焼け落ちたことである。一二月二四日の興福寺の火災で、金堂、講堂、西金堂、東金堂、南圓堂、鐘樓、經藏、南大門東西上階,僧坊といった、興福寺の主だった建造物がことごとく焼け落ちてしまったのだ。興福寺といえば藤原氏の氏寺である。その氏寺が焼け落ちたということは、天が藤原氏を見放したのだと多くの人が考えるようになったのだ。

 ただし、多くの人が気づいていないことがあった。この間に藤原歓子が女御として入内しているのである。藤原氏の女性を中宮とすることには失敗していたが、藤原氏の女性を宮中に入れることは成功していたのだ。中宮になれなくとも、女御として入内し、天皇の子を産めば、その瞬間に宮中における地位は逆転する。あるいは、功績を讃えるためとして子を産んだ女性を中宮とし、中宮を皇后に昇格させることはおかしなことではないのである。

 藤原氏に対するダメージが大きくなっていると思われている最中に、藤原氏の権勢を維持するための方策をひっそりと展開するあたり、藤原氏は転んでもただでは起きないと実感させられる。

 新しい時代になっていることを実感する人たちは、熱狂している。

 熱狂というと聞こえはいいが、要は現実から目を背けているということである。

 現実を直視せず、新しさに熱狂していても、現実はそのうち訪れる。それも、当人たちが「たいしたことない」とタカをくくっている場面で現れる。

 日常生活がそれである。

 それまで気軽に買えていたのが一日働いても買えないほどに高値になったとか、給与が下がったとか、失業したとか、新しい時代を迎えることで消えてなくなるであろうと考えていたことが、現実となって熱狂している人に押し寄せると、一瞬にして熱狂は冷める。

 後冷泉天皇がライフワークとした荘園整理は、想像しなかった副産物を産んでしまった。失業者が増え、失業した人が平安京に集うようになってしまったのだ。

 なぜ失業者が増えたのか?

 荘園が持っていた失業者の吸収を、荘園整理によって止めてしまったのだ。

 荘園というのは、現在の企業に相当する。後冷泉天皇が推し進めるように新しい荘園を認めないという政策を展開するとどうなるか? 新しい荘園、すなわち、新しい企業が消えることとなる。

 こうなると、その時点で存在する荘園は何とかして生き残ろうとする。今までは、荘園が潰れてしまっても、新しい荘園が次々に誕生していたから次の荘園に移ることができたが、これからは今いる荘園になんとかしてしがみつくしか、荘園の人間であり続けることができなくなってしまうのだ。

 人は流動する。今いる荘園よりも優れた生産性を持つ荘園があればそちらに行くし、荘園の方で人材をスカウトすることもある。新しい荘園を始めるとして人を集め、実際に新しい荘園を開墾することもある。それが全部止まった。就職活動を経験した人は想像つくと思うが、企業が採用を減らす時代になって、望み通りの就職先を、いや、そもそも就職先そのものを手にできるであろうか?

 現在の企業に相当とする荘園が潰れることは珍しくなかった。人災にしろ、天災にしろ、荘園が大ダメージを受けることは珍しくなかったが、そうしたときは、荘園の復興よりも新しい荘園を興すほうが多かった。そのほうが少ない負担で済み、そのほうが利益も大きかった。

 それを、後冷泉天皇は全部止めてしまった。

 正義の実践の結果、失業者が増え、失業せずに入られた者も生活水準の悪化を実感せざるをえなくなった。


 何かがおかしいと誰もが感じていた。新しい時代になったのに以前より苦しくなっていることを見逃すことはできなかった。

 新しい時代に期待をかけたことそのものが間違いであったと考える人もいたが、新しい時代になったのに苦しくなったのは他に原因があるからだと考える人はもっと多かった。荘園を無くし、あるいは減らし、大貴族に集中している富を貧しい者に分け与えれば、格差が減り、貧しさが減るはずであったのに、貧しさが減らないどころか増えている。

 永承二(一〇四七)年という年は、新しい時代に対する希望より、絶望が上回った一年であった。

 後冷泉天皇にとって荘園整理はもはや執念であり、生活水準が悪化してきているという声が届いてはいても、それは、荘園整理のせいではなく、荘園整理が不充分だからだと考えた。社会主義を推し進めるときに例外なく起こる失敗は、この時代の日本でも例外ではなかったのだ。

 だが、後冷泉天皇がいかに荘園整理の失敗を認めなくとも、生活者はこれまでのように荘園が広まることの方を選ぶ。何しろ生活がかかっているのだ。後冷泉天皇に隠れるように密かな荘園が生まれ、後冷泉天皇の命令が空文へと変わってしまったのだ。

 そのことを嘆く人も多かった。荘園整理で格差を減らそうとしているのに、荘園整理に逆らって荘園を拡大することは、天の裁きが待っていると警告した。前年の興福寺の火災もその表れだとした。

 そうした天罰の理論を展開する人を後押ししたのが、この年に連続するようになった有力僧侶の死去である。

 一月八日、天台宗僧侶、行円死去。享年六二。

 二月二日、真言宗僧侶、定誉死去。享年九一。

 六月一〇日、天台宗僧侶、教円死去。享年六九。

 いずれも高名な僧侶であると同時に、大規模荘園所有者としての寺院関係者でもある。

 天罰が貴族だけでなく寺院関係者にまで及んでいるとしたのだ。

 そして、荘園整理を推し進め、荘園を無くすところまで持っていかなければ、さらなる災害が訪れるとしたのである。こうなると、狂気しか感じなくなる。

 その狂気を後押ししたのが、永承二(一〇四七)年の六月頃から明らかになった干害である。雨が全く降らなくなってしまったのだ。

 皮の水が枯れ、池の水が枯れ、田畑に水が行き渡らなくなった。

 天候は現在の科学をもってしても解決できない。水不足でダムが干上がったなんてニュースも珍しい話ではない。それでも、水不足で飢饉の危機を感じることはない。だが、当時は飢饉に直結する大問題であったのだ。

 飢饉が起こるかもしれないと考える人がどのような行動に走るかは、東日本大震災の後のコンビニエンスストアやスーパーマーケットの店頭を思い浮かべていただければいい。今のうちに買いだめをして飢饉に備えようとする。ましてや、この時代はコメが食料品であると同時に貨幣でもある。こうなると、コメをますます手放すことはなくなる。

 結果、市場からコメは消え、わずかばかりのコメの値段は信じられない高さになった。一日働けばコメ一升の給与が貰えたのに、三日働いてコメ一升へとなった。着るものとコメを交換してもらおうとしても、そもそもコメとの交換に応じる人はおらず、仮にいたとしても庶民が気軽に手にできる価格ではなくなった。それこそ、着ているものをすべて脱ぎ捨てたとしても、一食分のコメを手にすることもできなくなったのだ。

 後冷泉天皇も、議政官の貴族たちも、どうにかしなければならないという点では意見の一致をみた。ただし、具体的にどうするのかという話は出なかった。

 新しい時代における悪役になっていた藤原氏にとって、この干害は汚名返上の大チャンスであるはずだった。これから起こるであろう飢饉に備え、現時点で備蓄している食料がどれだけあり、収穫によってはそれらの食料を開放すると宣言するだけでも食料価格は安定するのである。

 それなのに、永承二(一〇四七)七月二一日の発表は、多くの国民を呆れさせただけであった。内大臣藤原教通が右大臣に昇格し、後任の内大臣に藤原頼通の異母弟である藤原頼宗が就任するというのである。藤原実資の死去に伴う右大臣職の空席を埋めるためとはいえ、このタイミングでの昇格は無神経極まりなかった。

 新しい時代にも絶望し、藤原摂関家にも絶望する。

 これではいったい、どこに希望があるというのか。


 干害が収束したのは永承二(一〇四七)年九月八日のことである。その日に雨が降ったから少なくとも干害ではなくなった。

 ただし、大地を潤す恵みの雨ではなく、台風上陸である。しかも、多数の死者を呼び起こす大洪水であった。

 新しい荘園を断じて認めてこなかった後冷泉天皇も、この自然災害の前には自分の考えを改めなければならないと悟った。泥に飲み込まれた田畑を復旧させることの困難さを解決するのは荘園としての開墾しかなかった。墾田永年私財法は有効であることを確認し、開墾した者に田畑の所有権があることを確認した上で、開墾を推奨したのである。そして、新しく開墾した土地が荘園となることを黙認した。本心は納得しなかったが、自然災害に対処する方法がこれしかないとなると、受け入れざるをえなかった。

 皮肉なことに、これが失業問題を一瞬にして解決させたのである。

 新しく荘園を手にできるとなると、貴族も、寺社も、私財をなげうって開墾に走る。開墾に携わる者に給与としてコメを与えることも厭わない。それどころか、開墾需要に対して労働力のほうが乏しいのだから、賃金がウナギのぼりになる。

 ついこの間まで飢饉に怯え、着ているものを売り払ってその日の食事を求めていた人が、一夜にして生活の安定を手にした。食べ物があり、着るものがあり、住むところがあり、職業がある暮らしを手にしたのだ。

 新しい時代に希望を抱いた人が実現できなかった豊かな暮らしが、新しい時代を否定することによって実現したのだ。

 ただでさえ末法思想が広まっているのに加え、絶望が社会を支配すると、末法思想を迷信とする考えよりも、末法思想に身を委ねる考えのほうが広まる。

 その上、末法思想がより体系化されてきた。

 かつては「もうそろそろが末法のはじまりだ」という漠然としたものであったのに、この頃になると、いつが末法のスタートなのかが明言されるようになる。

 永承七(一〇五二)年がその最初の年である。あと五年だ。

 仏教に基づく安定があと五年で終わると考えるだけなら迷信と笑い飛ばせるが、まさにこの一年が目に見えた不安の一年であったのだ。しかも、末法とはその瞬間を迎えるのではなく、地獄の時代の始まりを意味するのだ。一瞬の苦しみではなく、延々と続く苦しみが間もなく始まるという考えが広まっており、その苦しみの入り口が実感できたとあっては、末法に恐れおののく者が増えてしまう。

 統治者として、それを迷信と笑い飛ばすことが許されなくなっていたのである。

 仏教に関わる話なのだから寺院がどうにかすればいいと考えるかも知れないが、当時の人の考えるところでの寺院の腐敗を目の当たりにしては、寺院とは頼るものではなく正されるべき存在であった。

 頼るべき存在のないまま時間だけが過ぎていく。末法とされる時代があと五年で始まるとあって、平然としていられる人は少ない。迷信だと断言する人であっても、目の前でこの一年の干害、水害、飢饉への恐れを示されては、迷信と断言することのほうが難しくなる。社会の悪化を実感し、そのために新しい時代に期待を寄せたら裏切られた。このタイミングで納得いく説明は末法とされる時代が間もなくやってくることしかなかったのだ。

 後冷泉天皇は社会のこの流れを無視できなかった。

 いかに自分の荘園整理が正しいと考えても、社会が上手くいっていないことは自覚させられずにいられなかった。理由を荘園整理が徹底されていないことに求めても、現実は否定できない。だが、その原因が末法という時代の終わりにあるとしたら?

 後冷泉天皇は末法に論理の整合性を見いだした。

 末法だからうまくいかない。

 末法だから悪化している。

 荘園整理は正しいが、末法だからこうなっている。

 そう考えることで、後冷泉天皇は自らを正当づけていた。


 永承三(一〇四八)年、焼け落ちた興福寺の復旧工事が完了した。

 復旧工事完了の記念式典は、この時点の上流貴族が勢揃いしただけではない。僧侶は無論、老若男女を問わず、身分の差も問わず、かなりの数の人が足を運んだ。当時の記録は「これほどの人数が集まったことは過去に無い」と記している。

 奈良が都で無くなって人口が減ったが、京都と奈良の距離はおよそ四四キロ。日帰りは無理としても歩いて移動できない距離ではない。

 そして、時代はまさに仏教のもたらす安寧が終わろうとしている頃であり、そのタイミングで大々的に宣伝された寺院での一大イベントである。しかも、入場無料。

 この時代、役人の労働時間は一〇時間を超えることも珍しくなかったし、貴族にいたってはそもそも勤務時間という概念など無く、現在風の言いかたをすると二四時間三六五日が拘束時間であったが、庶民の労働時間は一日四時間程度であった。家電製品などないため家事に要する時間が現在と比べものにならないほど長かったが、それでもプライベートにつぎ込める時間は今よりも長かったと言える。つまり、ヒマがあった。

 それでいて、娯楽が無かった。何しろ、貴族の牛車が大通りを走るというだけでニュースとなり、日の昇る前から詰めかける人が出るほどである。

 ネットも、テレビも、ラジオも無い。本もほとんど無い。つまり、一人で時間を潰せるようなものがほとんど無い。そのため、皆が集まって駄弁るぐらいしか娯楽が無い。その上、現在におけるそのような光景のときのアイテムとして想定されるタバコは無論この時代にないし、酒も高級品であるため滅多に出くわさない。お茶もあったがやはり高級品で庶民が手軽に飲めるものではない。あるのは時間だけ。

 それに加え、時代はまさに仏教による安定が終わろうとしているとされている。このタイミングで、無料で楽しめるだけでなく、仏教の加護も期待できるイベントとあっては京都から奈良に出向くぐらい苦にならない。切実である上にヒマがあるのだ。

 興福寺復旧工事の完了を告げる再建供養は、一瞬ではあるがこの時代の人たちの不安を和らげ、時間を埋める効果をもたらした。

 このとき以上に仏教に着目を集めることはなかった。

 仏教を見限る人は多かったが、どこかで期待する人も多かったのだ。

 ところが、肝心の仏教界がその期待を裏切るのである。

 部外者には理解できないことであるが、派閥争いの渦中にある者は、敵対する派閥と手を結ぶぐらいならより隔たりの大きい敵と手を結ぶことも珍しくないし、協力すれば立ち向かえるピンチを迎えても、協力するぐらいならピンチのままであり続けることを選んで平然としている。

 天台宗のトップを天台座主と言う。末法という仏教の存在そのものに関わるピンチであるということは、ここで末法に思い苦しむ人たちに手を差し伸べれば、宗派そのものが日本の仏教界で圧倒的な地位を占めることも可能になる。天台座主ならば、天台宗のトップとして天台宗の、さらには仏教そのものの存在価値を高めることを考えるべきであるし、実践すべきである。

 しかし、何度も記してきたように、天台宗はこの時代、山門派と寺門派に分かれていたのだ。そして、このタイミングで、寺門派の明尊が天台座主任命されたのである。

 確かに、僧侶としての明尊は文句なしの存在であった。文字通りの天台宗のトップとして考えたとき、明尊以外の人材は考えられないとしてもよかった。だが、山門派と寺門派の対立があり、寺門派のトップとして君臨し続けてきた僧侶を天台座主とするのは、それもこのタイミングで天台座主とするのは最悪の判断であった。

 反発が生まれるぐらい覚悟していたというかも知れないが、そんな生易しいものではなかった。僧兵たちが武器を持って暴動を起こしたのである。

 山門派の僧侶たちは、天台座主の罷免を求め、比叡山を降り、京都へと大挙して押し寄せてきた。デモと言えば聞こえはいいが、弓を持ち、刀を持ち、槍を持って暴れ回っている集団がどうして平和的と考えられようか。

 その上、僧兵たちの暴動を食い止める方法がこのときの朝廷にはなかった。検非違使に動員をかけても多勢に無勢であった。武士に動員をかけようとしても従う武士はいなかった。暴れ回る僧兵たちを抑えるには、僧兵たちの要求を受け入れるしかなかった。

 明尊が天台座主に任命されたのが永承三(一〇四八)年八月一一日。その四日後には、明尊が天台座主を罷免させられる事態となったのである。

 僧兵たちは願いを叶えた。だが、京都の民衆は、これこそまさに末法だと実感しただけであった。


 天災で末法を自覚させられ、寺院関係者の荒れ具合でさらなる末法を自覚させられ、さらに末法を自覚させられる事態が起こったのが、永承三(一〇四八)年一一月二日のことである。

 出来事そのものはもはや年中行事にすらなっている感のある出来事である。

 内裏焼亡。

 それにしても、また、である。

 内裏消失の歴史をまとめるだけで以下の通りである。

 天徳四(九六〇)年九月二三日。

 貞元元(九七六)年五月一一日。

 天元三(九八〇)年一一月二二日。

 天元五(九八二)年一一月一七日。

 長保元(九九九)年六月一四日。

 長保三(一〇〇一)年一一月一八日。

 寛弘二(一〇〇五)年一一月一五日。

 長和三(一〇一四)年二月九日。

 長和四(一〇一五)年一一月一七日。

 長暦三(一〇三九)年六月二七日。

 長久三(一〇四二)年一二月八日。

 そして、永承三(一〇四八)年一一月二日。

 忘れてはならないのは、平安京遷都から天徳四(九六〇)年まで内裏が火災に遭うなどなかったのだということ。応天門炎上事件はあったが、内裏そのものが焼けたのは、遷都から一六〇年以上を経てからなのである。それが、天徳四(九六〇)年以後は一〇八年間に一二回の火災。焼けては立て直し、焼けては立て直しの繰り返しなのだ。

 火災に遭うたびにその時点での最高技術を集めて壮麗な内裏を建て直す。そして、これでもう、内裏が焼け落ちてしまったために他の建物を里内裏として代用品扱いすることも無くなると考える。

 その考えは、内裏再建から数年で破綻する。

 このくり返しだ。

 後冷泉天皇は再建工事の終わった内裏にわずか二年しか住めなかったことになる。

 信念とともに即位し、信念とともに行動し、信念を貫いた結果がこれだ。これで信念を貫けるとしたらそのほうがおかしい。信念を貫いていると考えているとしたら、それはおそらく、執念でしかない。

 信念だろうが、執念だろうが、結果が出るならそれでいい。

 だが、結果が出ないだけでなく、むしろマイナスになるだけのことに時間と予算を注ぎ込むのは、無益どころか有害でしかない。

 とはいえ、それを認めることは自らの存在価値にも関わる話なのだ。後冷泉天皇は、格差が問題であると考え、格差を埋めるためには、まずは格差の勝ち組である荘園の制限、最終的には荘園の消滅による平等が必要だという確信を持っていた。それがおびただしい貧困を招き、失業を招いている。その上、世間に広がる空気は一言に集約される。不安、の一言に。

 世間に漂う不安感を甘く考えてはいけない。人は、このあとどうなるかわからないというとき、守ろうとする。自分の手にある資産を使わずに、このあとに起こるであろう不安に備えようとする。自分の資産が増えることより、自分の資産が減る恐れのほうが強くなる。

 そのとき何が起こるか?

 円高デフレにも似た、コメ高によるデフレだ。円高株安という言葉をニュースで聞いたことがあると思うが、この時代の考えで行くとコメ高モノ安が展開されるようになったのだ。

 この時代、資産と言えばコメである。給与はコメで支払われ、市場ではコメと交換で製品が手に入る。と同時に、コメもまた市場に流通する商品の一つである。

 コメを持つ者は、コメと何かを交換するのではなく、コメを使わないで貯め込むことを選ぶ。市場に流通するコメの量が減るから、コメを欲しい人、例えば、皿を作って市場で売ることでコメを手にする人は、それまでであれば皿一枚とコメ一升という交換レートであったのが、皿二枚でコメ一升、さらには皿三枚でコメ一升となる。皿一枚を作るのに必要な時間も労力も変わらないのに、手に入るコメの量は次々と減っていく。

 これで貧困を感じない人がいるであろうか?

 喜ぶのはコメを手に入れることができる人、つまり、コメによる給与を保証されている者と、田畑でコメを生み出すことができ、かつ、比較的手元にコメを残しやすい荘園に住む荘園領民である。現在の感覚で行くと、前者は公務員、後者は有名企業の正社員。いずれも社会における勝ち組扱いされる人。それ以外の人、すなわち、コメを手元に残しにくい人たちは負け組と見なされる。

 勝ち組と負け組という概念を無くすことを目的とした荘園整理がかえって格差の固定を生む。荘園を厳しく取り締まろうとすればするほど、その時点で荘園の一員である者は現在の地位と資産を守ろうとする。当然だ。抜け落ちてしまったらその瞬間に不安定な暮らしを余儀なくされる格差社会への負け組へと転落してしまうというのに、好き好んで自らの地位と資産を手放すわけはない。

 理屈はわかる。格差社会という問題があることはわかる。だが、格差問題の解決とは、自分が、現時点の自分より恵まれた境遇にある人と同等の境遇を手にすることを意味するのであり、自分より恵まれていない人と同じ苦しみを受けることを意味するわけではないのである。

 後冷泉天皇の思考は、そして、後冷泉天皇を熱狂的に支持する人は、現在の社会主義にあまりにも似ている。特に、失敗を認めないところが。

 永承四(一〇四九)年二月一八日、興福寺がまた焼けた。復旧工事の完了から一年と経っていない状況での火災である。北円堂、唐院、伝法院という三つの建物が燃えたことから、計画的な放火であったことは容易に想像できた。藤原氏の氏寺ですらこの有り様なのだということは、末法の時代にあることをさらに意識づけるに充分であった。

 それでも、最後の希望を抱く人はいた。

 入内した藤原歓子が妊娠したのである。それまで皇子に恵まれなかった後冷泉天皇にとっても、さらに藤原氏の血を引く皇族の誕生を願っていた藤原頼通をはじめとする藤原北家の面々にとっても、その希望は決して無視できるものではなかった。

 そのときは永承四(一〇四九)年三月一四日に訪れた。女御藤原歓子が出産したのだ。しかも、男児。これで未来への希望が生まれた、希望がつながったと、たくさんの人が考えた。

 実際にその瞬間を迎えるまでは。

 誕生の直後、男児は亡くなった。命名されることもないままに。

 再度の希望が失われたときの藤原氏の落胆は隠し通せるものではなかった。

 それでも、むりやり希望を創り出そうとはした。

 藤原歓子には再度の妊娠が求められるようになった。

 まだ初潮も迎えていない年齢の藤原寛子の入内の準備も始まった。

 誰の目にも藤原氏の焦りは見て取れた。

 焦りを隠せなかったのは藤原氏だけではない。後冷泉天皇もまた焦りを隠せなかった。生まれたばかりの我が子が亡くなったことのショックもさることながら、執念を掛けてきた荘園整理による格差是正が全く進んでいないどころかむしろ悪化していることは焦りを生むのに充分であった。

 貴族も焦る。

 天皇も焦る。

 寺院は争う。

 これのどこに庶民の不安をかき消す要素があるというのか?


 不安をかき消すために、関心を別な方向に向けることは古今東西頻繁に見られることである。敵を作り、敵への憎悪を作り出すことで不安を不満に変え、集団の結束を図り、関心をそらすというのは、古典的であるが、普遍的でもあると言えよう。

 この時代の日本にとって、国外は実にわかりやすい敵であった。特に、高麗はもっともわかりやすい敵であった。

 朝鮮半島を新羅が統治していた頃、日本は何度も新羅の侵略を受け、その都度跳ね返してきた。正式な戦争だけでなく、日本国内を荒らし回る海賊も、捕らえてみれば新羅人だということは珍しくもなかった。

 新羅が滅び、混迷を経たのちに成立した高麗は、新羅のように日本に宣戦布告をすることはなかったが、相変わらず海賊として暴れまわっていたし、不法入国も相次いでいた。

 海の近くを歩いていたら、いきなり沖からやってきた船に乗った海賊に襲いかかられ、拉致され、奴隷として売り飛ばされる。あるいは、海に近い村にいきなり海賊が押し寄せてきて、奪われ、犯され、抵抗すれば殺され、おとなしく従えば拉致される。

 そうした海賊を捕らえてみれば、犯人は高麗人。

 高麗人は言うであろう。国に帰っても戦乱続きで生活が苦しい、と。目の前にある豊かな暮らしの分け前を受けたい、と。

 だが、襲いかかられる側にとってはたまったものではない。働いて手にしたモノを奪われ、命を奪われ、拉致されて自由を奪われるなど、平然としていられる話ではない。

 この国民感情は広く共有できるものであった。

 朝廷はこの感情を利用した。

 永承四(一〇四九)年閏九月、高麗からの不法入国者二〇人を対馬から強制退去させたというニュースを大々的に流した。これまでにも逮捕した高麗人の強制退去は頻繁にあった。だが、ここまで大々的に発表したことはなかった。

 想定でいけば、ここで高麗への敵愾心が沸き起こり、対高麗という国内の意見の一致を築き上げ、高麗への、あるいは朝鮮半島への敵愾心を利用して不安がかき消されるはずであった。だが、この目論見は失敗した。

 敵愾心は確かに生まれた。だが、末法という不安の渦中にあっては、侵略される危機ではなく、侵略される時代を迎えたという絶望の方が強くなったのである。

 戦争が良くないことだとは誰もが理解している。それこそ、今まさに戦争をしている当の本人ですら、戦争は良くないことだと考える。無理やり連れてこられた兵士ではなく、自分ですすんで武器を手にし、自分で喜び勇んで最前線に出てくるような人間であろうと例外ではない。戦争が良いことだと考える人はいない。まさに戦争をしている張本人なのに、そのように答える。どう考えても論理の矛盾が存在する。

 しかし、自分がしていることが正しいことだと考えると、そこに論理の矛盾は起きなくなる。それどころか、「戦争をしているのは敵であって、自分は守っているだけなのだ」と考えるようになる。それを戦争だと考えない、あるいは、戦争だとしても正義だから仕方がないとし、そのために敵の命が失われても気にするそぶりも見せない。

 このような考えに至るまでには、明白な敵の存在が必要となる。敵が存在するために現在の問題が起こっているのだとすることもあるし、現在の問題は、それはそれとして置いておいて、それより重要な問題として敵が存在しているのだとすることもある。現在起こっている問題の本質を解決できないでいる状況下で、現在起こっている問題をどうにかしなければならないときに選ぶ方法として、敵を作り出す。

 国という規模で見た場合、仮想敵国を作り出し、仮想敵国の侵略に備えよと訴えると、問題をそらすことができる。もし、仮想敵国に対する敵愾心が高まっている国があるなら、そして、そのように考える人が多くの支持を集めているなら、それは、国の抱えている問題が、かなり根が深く簡単に解決できなくなっている証拠である。

 一方、そのように訴える国のトップ、あるいはそういう訴えをする人を非難する人、非難する集団もまた、敵を求めている人、そして、集団であることに違いはない。いや、その方がより深刻な状況であるとして良い。低い知性と低い社会的地位という現実を直視できず、想像上の自分、あるいは自分たちを理想化し、理想と現実のあまりにも甚だしい乖離から目を背けるために、敵を作り出して攻撃し、酔いしれる。

 もっとも、ここまではどの国でも見られることである。

 だが、ここより一歩進むと大問題となる。

 仮想敵国の脅威を声高に訴える人が権力を掴むと、戦争に近づく。

 仮想敵国の脅威を訴える人を攻撃する側が権力を掴むと、絶望的な貧困が生まれ、戦争にもっと近づく。

 この時代でいうと、藤原頼通は仮想敵国を訴える人ではなかったし、戦争を訴える人でもなかった。議政官の面々には、その共通認識ならばあったのである。ところが、後冷泉天皇をはじめとする反藤原勢力のほうが、既存権力である議政官の面々のことを、仮想敵国を声高に訴える側のように扱ったのである。

 結果、絶望的な貧困が生まれ、戦争にもっと近づいた。

 貧困は戦争の母である。


 敵愾心を国家レベルで展開し、かつ、戦争にならぬよう制御が掛かっているのであれば、物騒ではあるがとりあえずの平和は保てる。

 だが、敵愾心がより小さな存在に向けられ、かつ、制御できないものとなってしまっては、平和とほど遠いものとなる。

 末法という、仏教の終わりを予期させる出来事が世間の空気を包み込んでいる中、制御できなくなった敵愾心が暴走したらどうなるかを思い知る出来事が、大和国で起こった。

 敵愾心の暴走が暴動となったのである。それも、本来なら敵愾心を制御すべき立場の者が暴動を起こしたのだ。

 暴動の一方は、大和国司源頼親。

 もう一方は、興福寺。

 国司と、任国内最大勢力の寺院との対決である。

 ここで大和国司源頼親について記すと以下の通りとなる。

 源頼親は清和源氏の一員であり、源満仲の子で源頼光の子である。もっと古い記録として正暦三(九九四)年には盗賊追捕命令を遂行するために武力を発揮していたことが残っており、寛弘三(一〇〇六)年には興福寺から大和国司源頼親弾劾の訴訟を起こされ、長和六(一〇一七)年三月八日に発生した清原致信殺害事件の重要参考人でもあった。ちなみに、清原致信は清少納言の兄である。

 という経歴を持った人物が永承四(一〇四九)年時点で存命であり、この時点で人生三度目の大和国司であった。大和国司に選ばれてきた理由は毒を以て毒を制す的なやり方であり、興福寺をはじめとする奈良の寺院勢力に立ち向かえる武人であるために選ばれていたのである。

 生没年は不詳であるが、このような経歴の持ち主であり、兄の源頼光が天延元(九七三)年頃に二〇歳前後で藤原氏の家臣として存在していたことを考えると、九〇歳を数えた藤原実資ほどではないにせよ、永承四(一〇四九)年時点の源頼親はかなりの高齢であったことが窺える。

 その高齢者となっていた大和国司源頼親と、火災からの復興を果たしている途中の興福寺の僧侶たちが、永承四(一〇四九)年一二月二八日、衝突した。

 場所は源頼親の私邸だというのだから、間違いなく興福寺の僧侶たちのほうが襲いかかってきたと言える。忠臣蔵だと襲いかかって来た側のほうは誰も命を落とさなかったが、このときは源頼親も抵抗を見せたし、源頼親の次男の源頼房も弓矢で抵抗した。

 結果、興福寺の僧侶が複数名亡くなった。具体的に何名の僧侶が命を落としたのかはわからないが、攻め込んだ側のほうである興福寺側にかなりの被害者を生じさせたことは記録に残っている。

 それにしても、どうして興福寺は国司を襲撃したのか?

 大和国は寺院が多い。平城京は無論、それ以前の都の多くも大和国にあった。仏教伝来から都の内外には寺院が築かれることが多く、平安京の歴史の長さゆえに平安京を当たり前に考えがちであるが、敷地内に寺院を建立させるのを許さなかった平安京というのは、歴代の都の中でも極めて珍しい例外なのである。

 荘園が誕生して以後、寺院というのはその周囲に荘園を構えるようになっている。寺院が数多くあるところは土地に対する荘園の割合も高い。任国に荘園が多ければ多いほど、国司は租税を集めることが困難になる。また、国司として任国に赴いた者は任国に自らの荘園を築くことも多かったが、任国内に寺院が多いとなるとそう簡単に荘園を築くことも困難になる。

 おまけに、大和国の農業生産性は高い。荘園がここまで広まる前であれば、農業生産性の高い大和国の国司は旨みのある職業であったが、農業生産性の高いところから荘園になっていくことが通例である以上、大和国の国司は荘園を築くことも租税を集めることも困難な職務ということになってしまう。

 源頼親が三度に渡って大和国司を勤めることができたのは、荘園所有者である寺院と、文字通り武力で渡り合うことができたからであった。新しく荘園を築くだけでなく、荘園を奪うことも厭わなかったし、寺院の持つ荘園に認められていた免税の権利を無視し、税を課すことも平然と行なった。

 税を払わない者に税を払うよう命じるという点では誉められたものだが、命じる者自身が税を払わないためのコミュニティである荘園を築くのだから無茶苦茶な話である。ただ、無茶苦茶な話を展開する源頼親以外に大和国にある寺院たちの勢力を抑えることができる国司はいなかったのだ。

 このような国司を、興福寺をはじめとする大和国の寺院群が快く思うわけがなかった。そして現れた源頼親は、いまや老いを隠せぬ身になっている。

 武力で訴え出るにはタイミングが揃ってしまっていたのだ。


 武力で訴え出て、死者まで生じた。

 その責任は、普通に考えれば襲撃者側にあるはずである。

 だが、永承五(一〇五〇)年一月二五日に出た判決は、常識を疑うものであった。

 襲撃した側の興福寺は無罪放免。一方、大和国司源頼親は土佐国へ、弓矢で応戦した源頼房は隠岐国へと配流となったのである。

 この結果、大和国は前述した通り、他の令制国に見られない特徴を生み出すこととなった。

 国司不在。

 さらに、後の鎌倉時代にも守護を置くことができない国になり、守護大名の勢力が日本中を席巻するようになった室町時代であっても守護のない国になった。大和国が中央勢力の支配下に組み込まれるのは織田信長を待たねばならない。

 この、国司も守護もいない大和国の支配者となったのが寺院である。特に興福寺が大和国最大の権力者として君臨するようになったのだ。もっとも、最大の権力者であっても、大和国、現在の奈良県の全体を統治できるほどの権力者なわけではない。

 大和国の住民はどこかの荘園の領民であるか、どこの荘園の領民でもないかのどちらかになったが、それは税負担を逃れる暮らしを手にしたことを意味したわけではなかった。朝廷につながる権力を、後世は鎌倉幕府や室町幕府につながる権力に組み込まれていないということは、荘園同士の争い、あるいは盗賊の襲撃、あるいは武士同士の抗争に巻き込まれても守ってくれる存在がいないことを意味する。自分の身は自分で守るといえば聞こえは良いが、現在のスイスのジレンマに似た状況を生み出すことにもつながったのだ。スイスは集団的自衛権を選ばずに個別的自衛権で国を守っている。そのため、国民は徴兵の義務があるし、各家庭は武器の保管を義務付けられ、外から攻めてくる勢力があれば応戦することを義務付けている。国家予算に占める国防予算の割合も鷹揚に済ませることのできる割合ではない。

 この、現在のスイスと同じ選択をした大和国は、確かに朝廷に対する納税は無くなったが、自分の身を自分で守るための、そして、自分たちを守ってくれる武士を雇い入れるための負担が重くのしかかることとなったのである。

 それが、朝廷の支配から半ば独立することの結果であった。


 宗教があやふやな状態にあるために世間の空気が末法を意識する時代になっている。

 にも関わらず、宗教は末法に恐れる人に手を差し伸べるのではなく、末法の混乱に乗じて自らの組織の強化を図ろうとする。

 興福寺の訴えにより源頼親と子の源頼房の二人が追放されたのが永承五(一〇五〇)年一月二五日。その五日前には、伊勢神宮の神官や伊勢神宮の荘園に住む者ら総勢七〇〇名が京都に集結し、祭主大中臣永輔らを告発するという事件も起こっている。

 京都の庶民はこうした宗教の暴れまわりを苦々しく思っていたが、どうにもならなかった。

 それが末法への恐れをさらに強いものにさせていた。

 本当に世界が滅ぶのかという恐れは表面的なものにすぎない。根源は、自分が今生きるこの時代がかつてより悪化しているという感覚である。そして、その悪化の流れは未来へと加速していると感じているのである。

 世の中が悪化していく一方だから、せめて自分は現状を維持しようとする。貨幣であるコメは溜め込んで使わず、出費を抑える。これでは商人や職人はたまったものではない。作っても売れないのだ。売り物とコメとの交換比率を下げてなんとかコメを確保しようとする人も増えたし、廃業する人も増えた。廃業する人が増えれば、市に並ぶ品の総数も減る。総数が減っても物価は下がっている。コメを持っているならさほど苦労もせずに品を買えるが、コメを持っていなければ品を買えなくなる。貨幣であるコメがないのだから買おうとしても買えない。

 目の前で格差が展開されているのである。

 その上、格差問題について考える人は、自分を格差の負け組であると考え、自分より恵まれている人にさらなる負担を課すことと、恵まれている人の地位に自分を引き上げることを求めるのみで、自分を格差の勝ち組と考え、自分の負担を増やすことを申し出て、自分より恵まれない人の地位を引き上げようとはしない。どんなに恵まれた暮らしをしていても、自分は不当な搾取をされている貧乏人であると考える。

 宗教が本来の役割を果たすなら、すなわち、貧しい人への救済に全力を挙げるなら、誰も文句は言わない。寺社が豊かな組織で、寺社の一員になればいい暮らしをできるとしても、いい暮らしの引き換えに救済に力を注いでいるなら何とも思われない。それなのに、これ以上ない格差の勝ち組である宗教人が、貧しい人を放っておいて自らの組織の勢力拡張に励んでいるのである。

 末法を恐れるこの時代の人たちが叫びたかったこと。それは、「誰か何とかしてくれ!」であったろう。自分でどうにかすればいいではないかと思うかもしれないが、転がり落ち続ける社会に身を置いているとき、自らの手で社会そのものの転落を食い止めようとする人はほとんどいない。いたとしてもそれはあまりにも無力である。皆で力を合わせて何かを成し遂げようというのは幻想でしかない。

 強力な独裁者を求める思いはこういうところにある。

 何とかしなければならないと、朝廷の面々だけでなく、文字どおり日本中の人が考えていた。

 もっとも、それは無茶な話であった。貧富の差が拡大し、時代は転落に向かっていることは誰もが認めることであるが、自分より貧しい暮らしをする人のためであろうと自分の負担を増やそうとはしないどころか、自分はむしろ貧しい側であるとしてさらなる負担の削減を求めているのである。

 端的に言うと、国家財政の悪化。

 荘園整理に血眼になっている後冷泉天皇をあざ笑うかのように、事実上の荘園は目に見えて増えてきていた。荘園が三倍に増えたと記したが、それがさらに増えてきた。それでも全農地に占める荘園の割合が一〇パーセントを超えることはなかったが、荘園の増大がこのまま進めばどうなるかは目に見えていた。

 税を課されない土地がそれだけ増えたとなると、税負担は残る土地に回されるようになる。かと言って、それを「はい、そうですか」と快く受け入れるわけはない。どうにかして税を課されないで済む荘園になろうとする。その結果、いくら後冷泉天皇が荘園整理を進めようと、荘園は勝手に増えていくこととなる。

 それでいて、税の支出を求める声は強まっていた。税を払わない代わりに税を使ってもらわなくて結構だなどという人はいない。税を払わないことに情熱を傾ける人でも、自分のために使わせる税については無頓着になる。「生活が苦しいのだから税で守られるのは当たり前」と考え、どうして税を使わないのかという攻撃をする。

 この時代の日本が貨幣経済であったら、どうしようもないインフレになっていたであろう。貨幣を増発して支出をどうにかやり過ごせるとなれば、後のことなど考えず銅を鋳潰して貨幣にし、ばらまいてごまかしてきたであろう。だが、貨幣はもう消えてしまっている。代わりに貨幣として流通しているのがコメであるが、コメは貨幣と違って好きに増やすなどできるものではない。増やすとすれば、手をかけて土地を育成し、土地から上がる収穫を増やすしかない。不足だからと簡単に増やせるものではないのだ。

 藤原道長の頃と比べて、どうしてこうなってしまったのかと思わない人はいなかった。藤原道長の頃は自由があり、豊かな暮らしがあった。今日よりも明日、明日よりも明後日の希望が強く存在した。それが今や、自由がなく、貧しい暮らししかない。今日よりも昨日、昨日よりも一昨日を回顧するまでになっている。


 藤原道長の時代に花開いた女流文学の花は、藤原頼通の時代になると完全に枯れ果てていた。創作者の能力の違いではない。そうした文学に対し、下品、低俗、気持ち悪いなどという感覚を抱く人が、その思いを実現させた結果である。

 漫画に嫌悪感を示す人がいるように、アニメに嫌悪感を示す人がいるように、どの時代にも、生まれて日が浅い文化を毛嫌いする人がいる。時代についていけなくなっているにも関わらず、何とかして矜持を保とうとしている者である。文化に対する捉え方の違いではない。文化に対する接し方の優劣である。

 その、劣った側の方が権力を握り、自らの意見を推し進めると、生まれて間もない文化は簡単に死ぬ。それも、創作意欲そのものを壊滅させるように、死ぬ。生き残るのは、劣った側の人間の認める文化、それも、新しい文化の創造ではなく既存の文化の繰り返しである。

 藤原道長の時代に花開いた文化を否定してきた藤原頼通が文化に携わるとなると、藤原道長よりも前に誕生してきた文化ということになる。藤原頼通は言うだろう。それは違うと。藤原道長と同じ文化政策を守ってきたと。

 たとえば、永承五(一〇五〇)年三月一五日に、藤原頼通が法成寺の新堂を供養した。法成寺と言えば藤原道長の建立した寺院であり、道長以前からあったわけではない新しい文化に対する藤原道長の政策を継承している。それはウソではない。だが、そのやり方が、全く新しくないのだ。寺院の施設や鐘楼、仏像を寄進するという、どこにも新しさのないやり方であった。ただ、そのどれもが桁違いの規模であった。大きさもさることながら、その壮麗さに圧倒される人は多かった。

 こうなると、藤原道長を上回る文化政策を展開したのだと自負で気もするであろう。

 新しくない文化には和歌もある。五・七・五・七・七に言葉を込める和歌という文化は、古事記や日本書記の時代にまでさかのぼることのできる歴史を持っており、万葉集や古今和歌集といった、この時代の人であれば一般常識となっているほどの書にもまとめられている。


 藤原道長と藤原頼通の二人と和歌との関係について、「この世をば~」の句を藤原道長が詠んだことは一〇〇〇年を経た現在でも多くの人が知っているが、藤原頼通は何も思い浮かばない人がいるのではないであろうか?

 だが、和歌に対する貢献という点では、藤原頼通はなかなかのものがあった。この人は生涯に何度か歌合を開催し、多くの和歌を世に送り出すことに成功している。そして、自分自身も和歌を詠み、勅撰歌集に一五首送り込んでいる出来栄えなのである。

 歌合とは、その時代を代表する和歌の読み手が集い、二チームに分かれ、テーマを示して和歌を作らせ、どちらの和歌が優れているかを競うイベントである。そのイベントはなかなかの盛り上がりを見せるものがあるのだが、藤原頼通主催のそれは、時代が下降線をたどる中にあってひときわ輝くものがあった。これまでにない壮麗さ、これまでにない絢爛豪華さ、これまでにない和歌の出来栄え、何もかもが素晴らしく、多くの人を圧倒させた。

 まったく、何と言う皮肉であろう。藤原頼通はイベンターとしてはなかなかの力量の持ち主だったのである。そして、藤原頼通の好んだ文化という点に絞るなら、藤原頼通は藤原道長以上の出来栄えを発揮するのである。

 一方、藤原頼通が見捨てた文化は、いや、藤原頼通の立場で考えれば文化ではない何かは、消え失せるように圧力をかけるものであって、保護に値するものではないのである。

 自分はその文化を理解できなくても、その文化を愛好する人たちがいることを認め、文化に対する圧力をいっさい掛けないでいたら、逆に、圧力から守っていたならば、この国の歴史は良い方向に大きく違っていたであろうに。


 永承五(一〇五〇)年閏九月、出羽国司に平繁成が任命された。同時に、秋田城介の兼任も決まった。

 ここで、秋田城介(あきたじょうのすけ)という役職について記しておくことがある。この職務は出羽国の特殊事情が関わっている職務だからである。

 現在の秋田県から山形県にかけてが出羽国であり、出羽国の国府は現在の山形県酒田市のあたりに存在していた。一方、出羽国の北方は蝦夷との境界線であり、平安時代初期に文屋綿麻呂によって本州が統一されるまで東北地方北部に住み続けた蝦夷との衝突は続いていた。

 この蝦夷との衝突について、前線にあって軍勢を指揮する役目を背負ったのが秋田城介という役職である。読んで字のごとく、現在の秋田県秋田市にあった秋田城に常駐し、軍事面では前線の指揮を、民事面では出羽国北部の統治を担当していた。前線の指揮が求められることからもわかるとおり、軍事を知らない文官に務まる職務ではない。実際、当時の武官の出世ルートとして、まずは秋田城介になり、次いで鎮守府将軍となるというのがエリートコースであったのである。これは当時の武士にとって最高の出世コースであった。

 軍事面では北方を担当する重要な役職であるが、出羽国内における役人のランクで言うと二番目になる。トップは国司である出羽守で、秋田城介は出羽介に相当する職務である。だが、このときの平繁成が任命されたのは出羽守であり、その上で秋田城介を兼任することとなったのである。これは出羽国に問題があったことによる特別措置であった。

 では、どのような問題があったのか?

 東北地方は確かに日本国の領土に組み込まれていた。と同時に、蝦夷がそのまま蝦夷の文化を持って住むことを認めていたし、北海道に住む蝦夷が東北地方にやってくることも、また、東北地方に住む人が北海道に渡ることも認めてもいた。ただし、平和を維持することが絶対条件である。国外との交易は認めるが、国外から軍勢を招き入れることは断じて許さなかった。

 平和を前提とするとは言っても、何もせずに平和が築かれるわけはない。侵略する立場に立てば、平和を前面に押し出して軍事に力を見せない存在は、格好の獲物である。平和を維持する必要があるがために、平和を壊す存在があれば立ち向かうという姿勢を見せ続ける必要があったのである。

 その役割を日本海側で担っていたのが秋田城介であるが、その秋田城介の持つ軍事力では抑えられないような危機が目前に迫っていたのである。東北地方で戦乱の火蓋が切って落とされることが目前に迫ってきていたのだ。

 文屋綿麻呂によって東北地方が朝廷の支配下に入った後も、蝦夷が日本に対する反旗を翻すことは何度かあった。しかし、次第にそれは意味の無いことだという共通認識が広がってきていた。

 まず、租税義務が無い。

 それでいて、国外勢力からの侵略に対して守るのは日本が請け負っている。

 中国大陸の国々や朝鮮半島の国々も、この時代の東北地方を日本国の一部と見なしており、侵略を試みないでいた。契丹建国と渤海滅亡、そして、女真族の台頭といった日本海西岸の地域の混迷の余波を北海道はまともに食らったが、東北地方は逃れることができていた。

 東北地方は日本領になった瞬間に縄文時代を終えたが、北海道はその後も縄文時代が続いていた。北海道の集落跡の変遷を見ても、平安時代初期のそれは縄文時代の暮らしのままであることが見て取れる。

 それが、唐の滅亡、渤海の滅亡、契丹建国、女真族の台頭というまさに同タイミングで、戦乱に適応した集落へと変遷したことが見て取れる。堀が張り巡らされ、塀が築かれ、集落そのものが守りやすい高台へと移転した。集落を守るための防御が硬くなっていったのである。

 北海道がこのような戦乱に巻き込まれていることは東北地方の蝦夷たちも知っていた。その上で、自分たちが日本の一員であることのメリットを理解した。この土地が日本であるからこそ、北海道で繰り広げられている戦乱と無縁の平和な暮らしが過ごせているのだと理解して、ここで無理矢理日本から離脱してしまったら、待っているのは戦争という名の殺し合いである。

 それに比べれば、日本統治下で緩やかな自治を得ていることのほうがはるかにメリットのあることだったのである。


 しかし、その東北地方にも末法の考えが広まってきていた。

 日本統治下に組み込まれることで平和を享受してきたのに、その日本という存在が自らの平和を保証するものではなくなってきたのだと考えられるようになってきたのである。

 蝦夷たちは、自分たちが日本の統治下に組み込まれていることは複雑な感情を伴っていた。

 東北地方に住む蝦夷たちは自分が日本人であるという意識が生まれてきていた。アテルイやモレの頃は名前だけ見れば日本人と思えない名前であったが、この時代の蝦夷たちは日本人の名前としてもおかしくない名前をしていた。朝廷から官職を受ける蝦夷もいたし、さらには貴族の一員に加わる者もいた。そして、東北地方に居住し続けながら郡司に任命される者もいた。

 と同時に、自分が蝦夷であるというアイデンティティを持つ者もいた。蝦夷として生まれながらも日本人になることを選んだ者を俘囚と言い、俘囚となれば日本中のどこに住むことが許される反面、租税義務が生じる。蝦夷が蝦夷で有り続けるならば、住む場所の制限は受けるが、租税免除の対象となる。

 税負担をしてくれている上に国外からの侵略から守ってくれている日本はありがたい存在であったが、荘園が広まるにつれて自分と同じように免税になっている者がいて、軍備につかないどころか平和を享受し、それでいて自分より自由の多い人がいる。蝦夷で有り続けることがメリットのあることだったのがメリットで無くなってきたんのだ。

 ここに、人口増加と凶作が加わる。人が増えて食料が減れば、待っているのは貧しい暮らしだ。餓死の恐れの前に、平和の理念は弱いものになる。

 日本の一員であることのメリットが薄れつつあると同時に、自分は日本人なのかという感覚が生まれてきていた。そして、自分たち蝦夷は生活が苦しくなることが目に見えているのに、日本人たちは、日本人自身がどう言おうと蝦夷よりは良い暮らしをしている。そのことに気付いたとき、自分が日本人であるとか、蝦夷であるという意識を抱いてはいても日本人との共生とかの感覚は疑問を抱く対象へとなったのだ。

 日本人は自分たちの敵であるという考えが生まれれば、日本人の元にある食料や物資は奪う対象となる。野山の野生動物や木に実る果物と同列の存在となる。

 それでも、平和を壊した結果がどうなるかの想像がつけば、武器を持って立ち上がり、攻め込んで、奪って、命をつなぎ止めようなどしない。生きるためという大前提があれば殺される可能性の高い行動など選ぶわけがないのである。

 だが、生きることのできる可能性が高まればどうか?

 日本から訣別しようという動きが、蝦夷たちの間に生まれてきたのだ。

 そのことを知った朝廷が選んだのが平繁成である。この時点での位階は従五位下。国司任官の希望者が殺到し、四位でも国司になれないことが珍しくなかったことを考えれば、従五位下で国司になったというのは異例のことであった。

 実は、平繁成は自ら出羽国司に立候補したわけではない。秋田城介への推薦がまずあり、秋田城介になるなら出羽国司に任命した上でその兼任とさせてくれと申し出たのである。武人としての能力の高さを買って、出羽国司にもするという条件を付けて秋田城介として出羽国に送り込んだのであった。

 平繁成を秋田城介へと推薦したのは、陸奥国司の藤原登任(ふじわらのなりとう)であった。藤原登任は、藤原氏であるが藤原北家の人間ではなく藤原南家の人間である。つまり、血統だけで自動的に貴族になれるわけではなく、低い官職から階段を上り詰めて貴族入りし、各地の国司を転々としてキャリアアップをなすという、一般的な貴族であった。その彼にとって、陸奥国司は自身のキャリアを彩る経歴の一つになる以外の意味を持たないはずであった。

 ところが、現在の宮城県多賀城市にあった陸奥国府に赴任してみると、東北地方北部の蝦夷たちの動きが不穏なものになっていると気付かされた。藤原登任は、自分に武人としての才能など無いことは自覚していた。

 そもそも、朝廷は陸奥国司に軍事的才能を求めていなかった。陸奥国の統治システムとしても、陸奥国の軍事は鎮守府将軍が担当し、陸奥国司は軍政以外を担当する。鎮守府将軍は陸奥国司の部下となっており、文官である陸奥国司のもとのシビリアンコントロールが成り立つというシステムになっていた。ゆえに、軍事的才能を持たない藤原登任であっても、鎮守府将軍が軍勢を指揮すれば問題ない、はずであった。

 ところが、藤原登任が陸奥国司に任命されたとき、鎮守府将軍が空席であった。さらに、東北地方の軍事のナンバー2であるはずの秋田城介も空席であった。そもそも、鎮守府将軍という役職そのものが、万寿四(一〇二七)年の藤原頼行を最後に四半世紀近くも空席であったのである。

 藤原登任は、前任の陸奥国司である源頼清から陸奥国の情勢を引き継いでから赴任していた。源頼清は、陸奥国の情勢は今まで通り特に問題なしと報告しており、朝廷もその報告に基づいて藤原登任を陸奥国司に任命していた。

 ところが、源頼清は清和源氏の一人で源頼信の次男であり、自分自身が優秀な武人であった、つまり、鎮守府将軍が空席でも、陸奥国司の動員できる武力で蝦夷を抑えつけることが可能だったのである。


 源頼信の持っていた軍事力は、陸奥国司として動員できる軍事力ではなく、清和源氏として動員できる軍事力であった。そのため、源頼信の帰京と同時に陸奥国府からその軍事力が無くなった。

 問題なしとして陸奥国に赴任した藤原登任は、軍事力ゼロ、鎮守府将軍不在、蝦夷が何の行動も起こさないでいたのは問題が無かったからではなく前任の国司が武力で抑えつけていたからで、それが無くなった瞬間に蝦夷が立ち上がることは目に見えていた。

 慌てて軍勢を指揮できる鎮守府将軍の必要性を認めた藤原登任であるが、鎮守府将軍は秋田城介を務めた者の就任する役職であり、その秋田城介も不在であることも気付いて慌てて秋田城介を求め、平繁成を推薦したのである。

 その上、藤原登任が赴任した直後は、前任の源頼信の頃には無かった問題が吹き出し始めていた。

 日本からの訣別を考えたとしても、個人的な反抗を見せるだけでは意味が無い。反抗的な個人は警察権力で取り締まることができるが、反抗的な集団となると警察ではなく軍隊の出動となる。

 集団を組織するというのはそう簡単に出来る話ではない。同じ目的を持った集団を作り上げて動かすのはマネジメント能力を要する。動かすのはもっと高いマネジメント能力を要する。集団に所属する一人一人に、集団の一員であることのメリットを感じさせ続けなければ、集団は組織できないし維持もできないのだ。

 その能力を持った人間が蝦夷に現れたのである。

 その者の名を安倍頼良(あべのよりよし)という。

 東北地方北部に安倍氏という氏族がいること、安倍氏の根拠地は奥六郡(陸奥国胆沢郡、江刺郡、和賀郡、紫波郡、稗貫郡、岩手郡の六つの郡の総称。現在の岩手県盛岡市を中心とする岩手県内陸部の一帯)であることはかなり前から京都の朝廷でも知られていた。そして、朝廷はこれまで安倍氏を陸奥国の統治に利用していた。朝廷の官職を与えていたのである。安倍氏は東北地方の奥六郡を担当する陸奥国司の部下の一人という扱いであったのである。

 安倍氏の所領である奥六郡は、後の平泉の原形が既に存在していた。この時代の東北地方の文化の中心地であり、京都や奈良の寺院に匹敵する仏教文化が既に存在していた。平安京と比べればさすがに見劣りはするが、当時としては異例の四〇〇戸もの家屋を要する集落まで存在していた。地域の農業生産性も高く、三〇〇〇騎もの兵を養えたほどである。これらのことから奥六郡の経営者としての安倍氏の能力はかなりのものがあったことが窺える。もっとも、三〇〇〇騎もの兵を養えたほどの生産性というより、生産性が向上しても三〇〇〇騎の兵を養えるレベルであったという捉え方もできる。農業生産性の向上は人口の増加を招くが、人口の増加がさらなる生産性の向上を招くとは限らない。土地が限られている以上、生産の増加は土地あたりの収穫量を増やすしかないが、それには限度がある。増え続ける人口を奥六郡で養いきれなくなっていたとも言えるのである。つまり、領域内の人口を増やすぐらいの統治者としての能力は持ち合わせていたが、増えた人口に充分な生活を保証できるほどの能力ではなかったという言い方もできる。でなければ、このあとの行動の説明ができない。

 また、後に判明するが当時の貴族の素養として必須とされていた古今和歌集も安倍氏は学んでおり、当時の京都の貴族たちと対等に渡り合える文化的素養を身につけていた。つまり、この時代の典型的な地方の有力者であったことは間違いないのである。この時代の典型的な地方の有力者は、近隣の勢力と争うことなど珍しくもなかった。増えた人口を食べさせていくためである。ところが、東北地方だけは蝦夷という民族アイデンティティが絡んでくる。典型的な地方の有力者であるところに民族アイデンティティが絡むと、ややこしいこととなる。

 平将門は新皇を名乗るのにかなり躊躇した。

 平忠常は反乱を起こしても朝廷に服属する意思を崩さなかった。

 だが、安倍頼良には民族アイデンティティが絡む。安倍頼良本人には絡まなくても、部下が絡んでしまうのだ。


 ところで、この安倍氏の素性はよくわからない。

 平安時代は、神武天皇の時代にまで遡る系図とされていた。神武天皇の時代に大和地方で勢力を持っていたナガスネヒコの弟のアビヒコが安倍氏の祖先であり、ナガスネヒコは神武天皇の東征の途中で神武天皇に抵抗して命を落としたが、弟のアビヒコは東北地方に逃れた。そのアビヒコの子孫が安倍氏であるというのが平安時代に流通していた系図であった。

 現在の研究者はどう考えているか?

 大きく分けて三つの説がある。

 一つは大和朝廷の豪族である阿倍氏が東北地方に移住したとするものである。第八代孝元天皇の子である大彦命(おおひこのみこと)の子孫であり、阿倍仲麻呂や阿倍比羅夫もその一族の一員であり、後に漢字表記が変わって安倍氏となったとする説である。この説の根拠として、藤原良房の時代の鎮守府将軍である安倍比高の存在が挙げられている。安倍晴明のように京都に残った安倍氏もいたが、東北地方に渡った安倍氏もいるのは文献資料上判明している。

 二つ目は大和朝廷の豪族であった阿倍氏の直系の子孫ではなく、阿倍氏に仕えた、あるいは阿倍氏の統治下に組み込まれた東北地方の蝦夷の子孫とする説である。漢字表記が変わったのは阿倍氏に関連する姓を与えられたからであり、阿倍氏が姓を変えたわけでは無いとしている。

 三つ目は、大和朝廷の豪族とは無関係とする説である。アイヌ語のアペ(=火)を姓とする氏族で、安倍という漢字表記はアイヌ語の漢字表記であるとしている。

 ちなみに、二〇一三年の参議院議員選挙において安倍晋三総理が岩手県に赴いた際に、自分はこの奥州安倍氏の子孫であると演説した。小沢一郎氏の地盤に風穴を開けるためではあるが、岩手県の輩出した英雄と同じ苗字だからそのように称したのではなく、安倍晋三総理の祖父で、衆議院議員を務めた安倍寛がそのように称していたのを利用した結果である。

 東北地方北部に勢力を築いていた安倍氏のトップが安倍頼良であった。

 安倍頼良のこの時点の役職は、陸奥国胆沢郡、江刺郡、和賀郡、紫波郡、稗貫郡、岩手郡の六郡の郡司であった。一人の人間が六つの郡の郡司を兼ねるというのは本来であればおかしな話であるが、東北地方の安定を優先させたことで、この兼職は黙認されていた。なお、郡司としての給与は支払われている。

 それでいて、奥六郡に住む蝦夷は免税対象となっている。

 つまり、税を納めないで税を受け取る立場であったのである。

 源頼清は自身が武人であり、蝦夷であるための免税と、郡司としての安倍頼良に給与を支払うところまでは譲歩していたが、それ以上の譲歩を見せることは無かった。蝦夷から生活苦を訴え出てきたとしても、それは郡司である安倍頼良の責任であり、安倍頼良にはそれだけの給与を既に払っていると突き放すことができたのだ。この対応に不満を持っていたとしても源頼清の武力を相手にしてはどうにもならない。

 というタイミングで陸奥国司が源頼清から、一貴族でしかない藤原登任へと交替した。これは蝦夷にとってチャンスであった。

 日本からの訣別が脳裏に浮かんでいても、いきなり訣別まで思い至るわけではない。まずは現状の保証があり、更なる権利の拡充を求める動きが来る。この時点の蝦夷は、生活苦を陸奥国司に訴える段階で留まっていたのである。

 これまでは源頼清の軍事力の前に更なる権利の主張をできずにいたが、陸奥国司が交替したことで権利の拡張が図れると考えるようになってきたのだ。それも、軍事力を使った脅しで権利の拡張が図れると考えるようになってしまったのだ。

 新国司の藤原登任は、この脅しに乗らなかった。かといって、蝦夷の武力に対抗できるとも考えなかった。藤原登任が考えたのは武のスペシャリストを京都から呼び寄せ、武力には武力で対抗することであった。

 陸奥国から届いた蝦夷の反乱の兆しに驚いた朝廷であったが、平繁成を出羽国司兼任の秋田城介とすることで問題は解決すると考えていた。

 少なくとも、この時点の京都が、東北地方の情勢について不安視していたような記録は無い。この頃の京都の最大の関心は末法であり、末法をいかに阻止し、克服するかという点に注力が注がれていた。

 末法である理由の一つであった後冷泉天皇の後継者問題のために、藤原頼通に残された最後の切り札である藤原寛子を入内させた。永承五(一〇五〇)年一二月二一日のことである。

 ここで藤原寛子が後冷泉天皇の子を産めば、その子が男児であるならば、皇統は継続する。皇統問題は未来に対する不安の一つであったから、その問題を解決することは未来に対する不安を一つ消すこと、すなわち、末法に対する恐怖を和らげる効果があったのである。

 同じ頃、藤原頼通は末法に対するもう一つの対策を始めている。

 京都の南を流れる宇治川に橋が架けられた最古の記録は大化の改新の翌年であり、以後、交通の要衝として認識されるようになっていた。壬申の乱の頃には宇治をいかに制するかの争いがあったほどで、宇治の歴史は京都よりも古い。

 平安時代に入ると、宇治は交通の要衝であると同時に平安京の南の別荘地としても名を馳せるようになっていた。源氏物語の宇治十帖もこうした時代背景があったからで、宇治が別荘地であるというのはフィクションの世界の話では無い。そして、当然と言うべきか藤原頼通も別荘を持っていた。これを宇治殿という。もともとは源融の所有する別荘であったのが宇多天皇の手に渡り、源重信に所有権が移って藤原道長の所有する別送となったという経緯がある。

 この宇治殿を、藤原頼通は末法対策に利用することを考えた。

 藤原頼通という人は、文化に対する許容範囲は狭いが、認めた文化に対するのめり込みは深い。それが宇治殿に向かうとどのような結果になるか?

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

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