平家物語の時代 5.福原遷都挫折

 平清盛の福原遷都は容赦ない批判を受けたが、源頼朝による都市鎌倉の建設は批判を全く受けていない。理由は明白で、源頼朝は鎌倉という都市を構築することは狙っても、鎌倉を首都にしようとも、ましてや皇族の方々や貴族に移り住んでもらおうとも考えなかったからである。

 源頼朝という人は平治の乱で敗れるまで京都で貴族としての教育を受け貴族としての日々を過ごしていた人である。源頼朝の脳内ある都市とは平安京のことであり、鎌倉に都市を築くとすれば平安京を模した都市となるのは必然である。

 良く言われるのが、鎌倉は三方を山に囲まれ、残る一辺は海に面した防御に適した土地であるという評価である。その評価は間違っていないのだが、それだけが都市としての鎌倉の評価基準では無い。鎌倉は飛鳥時代には既に交通の要衝として存在しており、杉本寺や長谷寺など奈良時代から続く寺院もあるほか、東海道の要衝として万葉集にも登場するほどの土地である。また、気候が温暖で京都と比べて雪の降る日が少ない。関東平野をはじめとする周囲からの食糧供給も期待できることから、首都京都と比べれば少ない人数に留まってしまう可能性が高いがそれなりの人口を抱えた都市となることも可能だ。ただ、現在の鎌倉は鶴岡八幡宮から由比ヶ浜まで建物がひしめく土地であり一つの都市として成立しているのに対し、当時の鎌倉は北と南に分かれていたのである。現在の鶴岡八幡宮に沿った山の麓のあたりは農民の住まいが点在し、相模湾に面した海岸沿いには漁師の住まいが点在していたものの、その間の土地が湿地帯になっていて田畑が広がってはいるものの、庶民の住まいとなるとその数は少なかった。

 この時点で源頼朝の想定していたのは父祖伝来の土地である鎌倉を自らの重要拠点とすることであり、後に鎌倉幕府を開設するほどの大都市とするほどに発展させることまでは想定していなかった。源頼朝にとっての最終的なゴールはあくまでも上洛して平家を打倒することにあったためか、治承四(一一八〇)年一〇月時点での都市鎌倉に対する源頼朝の行動は、鶴岡八幡宮の移転と、鶴岡八幡宮の東の大倉に鎌倉における自らの住まいを用意することだけである。

 まず治承四(一一八〇)年一〇月九日に大庭景義を責任者として源頼朝の邸宅の建設工事を開始させた。新しく建てる時間は無いため、知家事(ちけじ)兼道が鎌倉の北の山内に所有していた屋敷を大倉に移転させることとなった。吾妻鏡によれば正暦年間に建設されてから一八〇年以上も経ていながら一度も火災に遭ったことはなく、それは建物に安倍晴明の守り札が貼ってあるからだという言い伝えがあったという。 

 鶴岡八幡宮の移転は治承四(一一八〇)年一〇月一二日になってから始まった。八幡宮を祀るため小林郷の北山に社殿を造営して鶴岡八幡宮を遷し、專光坊良暹を暫定の八幡宮長官職とした。ちなみに、源頼朝の邸宅の建設工事の責任者である大庭景義が鶴岡八幡宮の事務担当も兼務している。先に工事を開始した源頼朝邸宅建設よりも鶴岡八幡宮の遷御を優先させよというのが源頼朝からの指令があったため、工事の優先順位を制御させるための兼務である。

 源頼朝の軍勢がいかに巨大になったとは言え平清盛のように無尽蔵の資金があるわけでは無く、莫大な資産を要する都市建設にまでは手を出せない。そこで、都市建設の中軸を鶴岡八幡宮に担わせることにしたのである。鶴岡八幡宮を鎌倉北部に移設することで、陸路で鎌倉に入る場合に鶴岡八幡宮に立ち寄ることができるようにしたのだ。この時代の寺社は宗教施設であると同時に宿泊施設も兼ねている。需要があれば供給が生まれるとはよく言われる言葉であるが、実際には先に供給があり、その後で需要が生まれる。鎌倉が交通の要衝であり、交通の要衝に宿泊施設でもある宗教施設を建設する、それも八幡宮という由緒ある宗教施設があれば、鎌倉は通過点ではなく泊まる場所になる。鎌倉を通る人、そして、泊まる人の多さは、そうした人に向けてのビジネスを作り出すことで生活できるようになることを意味するようになる。農業や漁業といった一次産業だけでなく、二次産業や三次産業も鎌倉で生まれるようになれば、鎌倉は都市として自然に発展していく。もっとも、その他の本格的な都市鎌倉の建設については二年後に始まり、源頼朝がこの時点で始めたのは都市鎌倉の下地作りである。二年間は都市の自然発展に任せていたとも言えよう。

 ちなみに、源頼朝の軍勢の鎌倉入りの次に鎌倉にやってきたのは、ある意味では源頼朝がもっとも恐れた、それこそ生涯に亘って恐れを抱いた人物である。

 北条政子だ。娘の大姫とともに避難していた北条政子が娘とともに源頼朝の元に戻ってきたのである。

 八月二〇日に源頼朝が軍勢を組織し、相模国に向けて出発する直前に文陽房覚淵のもとに避難させてから約五〇日を経ての再会であった。


 源頼朝が事実上関東地方最大の勢力となって鎌倉入りしたと言っても、関東地方全体が源頼朝の勢力下に入ったわけではない。源頼朝がいかに巨大になろうと現時点ではまだ反乱者であり、遅かれ早かれ討伐される運命にあると考えている人もまだまだ多かった。

 そこまではまだ誰もが想定するところである。

 ところが治承四(一一八〇)年一〇月一三日に、一部の人しか想定しなかった事態が発生した。もっとも、その情報が源頼朝の元に届くのはもう少し先である。

 何が起こったのか?

 木曾義仲が碓氷峠を越えて上野国にやってきたのだ。名目としては亡き父である源義賢の旧跡を訪ねるためというものであるが、いったい誰がその名目を信じようか。

 木曾義仲の登場にもっとも驚いたのは足利俊綱によって攻撃され住まいを破壊された上野国府周辺の住人である。足利俊綱が住まいを破壊したあと住人の多くはそのまま放置されていたのである。そのタイミングで源氏方である木曾義仲が碓氷峠を越えてわざわざやってきてくれて、声を掛けてくれて、足利俊綱に煩わされても自分に従っていればもう恐れることはないとまで言ったのだから、住人にとっては文句なしに源氏に従うきっかけになる。

 それにしても、なぜこのタイミングで木曾義仲がやってきたのか?

 源頼朝が上野国の新田義重と足利俊綱に対して書状を送り源氏側に加わるように求めたのは既に記した通りである。その書状を上野国まで届けた者は、上野国に書状を届けたらただちに帰路に就くのではなく、上野国から西へと向かわせたのである。

 そこにいるのは木曾義仲だ。

 源頼朝は木曾義仲を利用したのだ。父の故郷で平家方が暴れていて、源氏のもとに身を置くことを決めた多くの者が苦しんでいると告げれば木曾義仲は上野国にやって来る。これから討伐軍を迎え撃とうというときに上野国まで軍勢を派遣する余力は無いが、利用できる勢力を上野国に向けさせることに成功すれば、新田義重にも、足利俊綱にも、充分に圧力となる。その後で木曾義仲が源頼朝のもとに来るかも知れないと考えなかったのかと思うかも知れないが、源頼朝は自分に付き従う武士についてはその所領を安堵することを約束している。現時点で武将自身は源頼朝のもとに付き従っていても所領の全ての武士を総動員して源頼朝のもとにやってきたわけではなく、必ず留守居役を残した上で源頼朝の側へとやってきている。木曾義仲が上野国の平家勢力を打倒するのは何の問題もないし、源頼朝に従った武将たちも動くことは無い。だが、源頼朝に従った武士の所領に攻めこようものなら、同じ源氏であろうと容赦なく、それこそ束になって木曾義仲に反撃する。

 木曾義仲は自分が源頼朝に利用されていると考えたであろうか?

 おそらく利用されたと考えたであろうが、源頼朝の黙認のもとで上野国の所領を手に入れることができるチャンスでもある。ここで上野国を制圧したのちに木曾に戻れば自らの勢力圏を拡大した上で平家勢力を弱めることにもなる。利用されることそのものへの不満さえ耐えることができれば、莫大なメリットを手にする絶好の機会だ。


 木曾義仲が上野国に姿を見せた治承四(一一八〇)年一〇月一三日という日付は、東海道でも大きな転換点を迎えはじめた日でもあった。

 総大将平維盛の率いる頼朝追討軍が、駿河国手越駅、現在の静岡市駿河区のJR安倍川駅付近に到着したのである。本隊の駿河国府到着は時間の問題であり、先遣隊は既に富士川まで到着していた。

 ところが、国司に代わって駿河国を統治しているはずの駿河目代橘遠茂が不在であった。調べてみたら甲斐源氏と向かい合っている状況であるというのである。ここで討伐軍に意見の食い違いが生まれた。橘遠茂を呼び戻して討伐軍に加えて源頼朝を討伐するのを優先するか、橘遠茂に甲斐源氏と向かい合わせることで甲斐源氏の動きを制御させ、現在の討伐軍だけで源頼朝を討伐するかである。

 一方、先遣隊が富士川まで来ていることを知った橘遠茂は、このままでは東海道を進んでくる源頼朝と甲斐国からの甲斐源氏の双方からの挟み撃ちになると考え、まずは甲斐源氏を討伐して北方の守りを固め、そのあとで討伐軍に加わって源頼朝討伐に参加することとした。つまり、両者の意思疎通はできておらす、先遣隊の到着を待つことのないまま駿河目代橘遠茂は同席していた長田入道とともに富士野へ回って甲斐源氏を攻撃すべく進軍を開始していたのだ。富士野経由は回り道になるが奇襲攻撃にもなり、甲斐源氏の不意を突く形になるため勝算が上がると見込んだのである。なお、この長田入道と源義朝を殺害した長田忠致とは同一人物であるとする説もある一方、近親者ではあって同一人物では無いとする説とがある。要は正体不明とするべきであろう。

 一方、橘遠茂が動き出したことをいち早く察知した人物もいた。甲斐源氏のもとにいた北条時政である。北条時政は橘遠茂を監視すべく密偵を放って監視し続けていた。密偵から橘遠茂の進軍開始の連絡を受けただけでなくどのルートを経由して攻め込もうとしているのかも知った上で北条時政は武田信義に途中で迎え撃つことを進言し、武田信義も北条時政の進言を受け入れて軍勢出発を決定した。甲斐源氏らと北条時政らは軍議を重ね、富士山の北麓の若彦路を越えて戦場に向かうこととした。

 このとき出陣したのは北条時政と江間義時の親子や加藤光員と加藤景廉の兄弟など石橋山の戦いで敗れたあと敗走を重ねた武士たち、さらに、武田信義、武田信義の長男である一条忠頼、三男の板垣兼頼、四男の武田有義、五男の石和信光、さらに武田信義の弟とも叔父とも言われる安田義定、武田信義の弟である逸見光長、同じく武田信義の弟の河内義長といった、この時点での甲斐源氏オールスターといった面々である。なお、甲斐源氏が親子や兄弟で苗字が違うのは各々が本拠地とする所領の地名を苗字として用いたためで、彼らの姓は全員が源である。


 一夜明けた治承四(一一八〇)年一〇月一四日、駿河国鉢田山にて両軍が衝突。ここに鉢田の戦いが起こった。

 ただし、この鉢田の戦いの舞台である駿河国鉢田山が具体的にどこであるのかは現在も特定されていない。判明しているのは、先に到着したのは甲斐源氏の側であり、奇襲攻撃を狙って進軍してきた橘遠茂の軍勢が甲斐源氏に待ち伏せに遭ったという戦闘開始状況である。

 山々の狭い一本道に軍勢を進めたために、待ち伏せに遭ったとしても対戦することとなるのは最前列の武士たちだけである。その橘遠茂側の最前列の武士たちが、一人、また一人と甲斐源氏に討ち取られていった。最前列以外の武士たちが弓矢で応戦しようとするも彼らもまた甲斐源氏側の弓矢の前に倒れることとなった。特に石和信光と加藤景廉の働きは凄まじく、死体の山が築かれていった。

 橘遠茂側の隊列は、前方では戦闘が繰り広げられているのに後方では何が起こっているのかわからないという状態になり、いったん引いて隊列を組み直そうとする前方と、なぜ前に進まないのかという後方との間で混乱が生じてもはや戦闘どころではなくなっていた。それでも橘遠茂は攻撃を防いたが、長田入道の子供二人が討たれて、橘遠茂は捕らえられ、軍隊の後の方にいた兵は一度も弓矢を構えることなく逃亡することとなった。

 この日の夕方には橘遠茂側の戦死者の首が富士野の伊堤、現在の静岡県沼津市井出のああたりで晒し首になり、駿河国はその大部分が甲斐源氏の支配下に組み込まれることとなった。

 橘遠茂の軍勢の事実上の全滅は討伐軍の兵士たちに深い動揺を招いた。

 兵士の多くは好きで参加したのでは無い。行軍路の先々で人と兵糧の両方を出せと命じられ、それではこの村の者が飢え死にしてしまうと懇願したら、兵糧がダメなら人だけでも出せとして命じられて強引に連れてこられた兵士たちである。馬上の武士たちはきらびやかな軍装であるが、強引に連れてこられた兵士たちの軍装は貧弱であり、おまけにまともに兵糧も用意していないために空腹である。それでも討伐に成功すれば報奨を得られて故郷に帰れるという希望があったが、平家方である橘遠茂の軍勢の兵士たちが次々と討ち取られたと聞き、さらには晒し首になったとまで聞いては、このままでは東海道を進む意欲などますます失せる。

 討伐軍は大軍であったはずなのに、一人、また一人と勝手に討伐軍から抜け出して勝手に故郷へ帰る者が続出し、中には討伐軍の貴重な食糧を盗んでから抜け出す者まで現れた。


 未だ工事中の源頼朝の邸宅に源頼朝が入ったのは治承四(一一八〇)年一〇月一五日のことである。工事中であるとは言えようやく手にした我が家なのであるからここで夫婦揃ってゆっくりするのかと思いきや、源頼朝にそのような贅沢など許されない。厳密に言えば一晩だけは過ごしたらしいのだが、それとて一晩だけである。

 なぜ一晩だけだったのか?

 治承四(一一八〇)年一〇月一六日、源頼朝のもとに、平家の送り込んだ討伐軍の本隊が駿河国手越駅にまで到着し、先遣隊に至っては富士川まで到達しているとの連絡が届いたのだ。

 源頼朝はその知らせに驚きを見せていない。それどころか、既に知っていることを再確認したという認識でいる。

 その認識でいたのは源頼朝だけではない。源頼朝に従って鎌倉までやってきていた全ての武士の間に共通認識として構築されていたのだ。その証拠にその日のうちに軍勢を整えて軍勢を出発させている。誇張を含めたとしても三万人の軍勢がその日のうちに鎌倉を出発して討伐軍と全面対決するために向かったのだ。武具を整えるのも、馬を用意するのも、食糧を用意するのでも、準備開始から終了まで一日で終わるような代物では無い。前々から用意しておかなければ無理な話だ。

 一方、平家の討伐軍が関東に向かっていることは、関東地方に点在している平家方の武士にとって現在の苦境を脱する絶好の機会であるはずだった。特に、相模国や伊豆国で平家方として起ち上がった武士にとっては苦境から解放してくれる味方の到着である、はずであった。

 その思いを源頼朝は簡単に破壊した。

 討伐軍が駿河国に到着したという知らせが源頼朝の元に届いたのは、公的には一〇月一六日である。源頼朝のように独自の情報網を築き上げていない武士にとっては、源頼朝は一〇月一六日になって討伐軍が向かっていることを知ったと考えるのが普通だ。そして、こう考える。源頼朝はそろそろ討伐軍に向かい合うための準備を始める頃であろうか、と。

 ところが、相模国の平家方の武士たちが知ったのは、完全なる装備で東海道を進む源頼朝の大規模な軍勢の様子である。これだけの軍勢を短期間でまとめ上げて動かすことに恐れ慄(おのの)かない者はいない。

 源頼朝からともに起ち上がるよう促されながら源氏を見限って平家のもとについた武士の一人である波多野義常(はたのよしつね)は、これから軍勢を整えて討伐軍に加わろうとしていた矢先に自らの敵になる存在の巨大さを知り、もはや未来はないと悟って自ら命を絶った。

 かつては袂を分かつこととなった者であろうと、ともに闘うと誓うならば仲間とするのが源頼朝である。その源頼朝が相模国波多野荘の松田郷で目の当たりにしたのは、自ら命を絶った者の遺体であった。源頼朝の軍勢は、戦友となりえたはずの者を弔いつつ、松田郷にて一晩を過ごした。


 その頃、平維盛率いる討伐軍は甲斐源氏のもとに到着していた。

 隅田川の両岸で互いに陣を敷いていた源頼朝と江戸重長との関係のように、この時代の戦闘の多くは互いが互いにどこに陣を敷いているのかを明らかにしつつ、相互に書状をもたせた使者をやりとりさせることが多かった。不意打ちは不意打ちで頻繁に見られたが、ルールとしては互いが互いの存在を確認したら相互に使者を送りあい、使者を通じた書状のやりとりの中で戦いをせぬまま済ませる方法を見いだし、どうしても一致点を見いだせなかったならば場所と時間を決めて戦闘に入るというものであったのだ。

 武田信義はこの時代のルールに従って使者を通じて平維盛に書状を送り届けた。「かねてよりお目にかかりたいと思っておりましたが道が険しいので、途中にあります富士山の麓の浮島ヶ原にて双方お会いいたしましょう」という内容である。この書状に目を通した侍大将伊藤忠清は激怒した。これから戦いに臨もうかという間柄での書状のやりとりであるから多少なりとも挑発の内容が記されることは珍しくなかったが、それでも武田信義からの書状は無礼に過ぎていた。しかも、平維盛らは自分らを朝廷によって派遣された官軍であるとし、相手を反乱軍と扱っている。対等に相手にすることも許されない関係なのにこのような内容の書状を送るなど言語道断であるとして激怒したのである。

 激怒までであればまだ許されたが、伊藤忠清はここで重大なマナー違反に手を染めてしまった。武田信義より派遣されてきた使者を斬り殺したのだ。

 それまでは勢いに任せて突き進もうとする平維盛を、多少なりとも現実が見えている伊藤忠清が押しとどめるという構図であったのが、この瞬間、伊藤忠清のほうが制御不可能な存在になってしまったのだ。無理矢理戦場に連れてこられた兵士たちにとって、伊藤忠清は兵糧不足と農村の疲弊に気づいているほぼ唯一の存在であり、ただ一つの心の支えであったのに、この瞬間、希望は失われた。

 ただでさえ行軍途中で減ってきていた兵士が、ここに来て再び脱走を企てるようになったのだ。脱走をしようとする者は捕らえ、悪質なときは死を命じることで逃げることは死を意味すると伝えてきたが、何もせずに餓死するか、源頼朝の軍勢に殺されるかの二択になってしまっている状況では、多少なりとも生きて故郷へ帰れる可能性のある脱走こそがただ一つのまともな選択肢になってしまっていた。


 討伐軍の実情は惨たるものであったが、関東地方に残る平家の武士にとってはまだ希望であった。その一人が石橋山の戦いで源頼朝に勝利した大庭景親だ。大庭景親は討伐軍に加わるために一〇〇〇騎もの兵を用意して出発しようとした。治承四(一一八〇)年一〇月一八日のことである。

 ところが、出発はできなかった。源頼朝の軍勢が既に足柄峠に向かっているというのである。しかも、その隊列は終わりが見えないというのだ。足柄峠を源頼朝の軍勢が塞ぐ形になっているために、大庭景親の軍勢が討伐軍に合流するためには足柄峠を通らずに遠回りするしかない。足柄峠で後ろをついて行って討伐軍と大庭景親の軍勢とで挟み撃ちにすることも考えたが、そもそも軍勢規模が違いすぎる。死を覚悟で飛び込んでいった末に討ち死にする結果しか見えない。

 大庭景親は軍勢に解散を命じ、各々逃亡するように告げると自分も山中に逃走して身を隠した。ここではじめて、自分の副官として常に側にいた梶原景時と離ればなれになった。

 源頼朝は大庭景親のこうした行動を知っていたのか、それとも知らなかったのかであるが、もはやそのような質問すら無意味になるほどに源頼朝と大庭景親との間では絶望的な格差が生まれていた。源頼朝にとっては大庭景親などどうでもいいのだ。

 ただし、一つだけ大庭景親も対象となる行動を見せている。厳密に言えば大庭景親が対象となる行動では無いのだが、今となっては大庭景親も対象となってしまう行動である。

 それはどういう行動か?

 討伐軍と対峙するために東海道を行軍している源頼朝のもとに、伊豆山走湯権現の僧侶たちが駆け寄ってきたのである。戦乱のために、伊豆山走湯権現、現在の伊豆山神社の近くの道路の治安が悪化しているというのだ。この時代、京都から相模国に向かうのに箱根を越えるには、三島から御殿場を迂回して足柄峠を越え、関本から国府津へ抜ける「足柄道」と、直接箱根山を登って芦ノ湖を経て箱根権現を通り、箱根湯本へ下る「湯坂道」の二種類の方法があった。なお、俗に「箱根八里」と呼ばれるルートは江戸時代になってから成立するものであり、この時代はまだ存在していない。

 伊豆山神社は箱根を越えるこの時代の二種類のルートのうち、湯坂道に近い。湯坂道を越えて相模国に入ってきた人は伊豆山神社に立ち寄って箱根越えの疲れを癒やし、これから湯坂道を通って西国に向かおうとする人は伊豆山神社に立ち寄って箱根越えの英気を養うことが一般的であったのだが、戦乱のせいで湯坂道での乱暴狼藉が頻繁に見られるようになってしまったというのがこのときの訴えであった。

 治安悪化を訴える伊豆山神社に対し、源頼朝は責任を持って湯坂道の治安維持を受け持つとした。一見すると街道に出くわす盗賊を相手にするかのように見えるが、源頼朝は盗賊相手とは一言も言っていない。言ったのは乱暴狼藉を防いでの治安維持である。そして、その中には源頼朝の軍勢に向かい合う平家方の武士も含まれる。大軍勢に恐れおののき山中に身を潜めるようになった平家方の武士が源頼朝のもとに襲い掛かってきた場合、それは戦ではなく強盗であるとしたのだ。そしてその強盗には山中に潜む大庭景親も含まれる。

 石橋山の戦いでの勝者と敗者であったはずなのに、しかも二ヶ月も経ていないというのに、何たる格差であることか。


 治承四(一一八〇)年一〇月一八日の夕方、源頼朝の軍勢が黄瀬川に着いた。黄瀬川は静岡県沼津市を流れる川であり、現在のJR沼津駅のあたりの河岸には東海道の宿駅もあった。軍勢集結にはもってこいの地点だ。

 甲斐源氏のもとへと派遣していた北条時政と江間義時の父子が仲介者となり、ここで源頼朝の軍勢と甲斐源氏の軍勢が顔を合わせた。

 甲斐源氏は清和源氏の中で半ば独立した勢力であったが、この会合で武田信義は源頼朝に跪(ひざまず)いて源頼朝に忠誠を誓った。平家方の武士の中には武田信頼と源頼朝の間に対立関係が生まれて源氏の内部での争いが起こることを期待する者もいたが、武田信頼が源頼朝に完全に臣従したことで争いの目は完全に消滅した。

 武田信義が源頼朝に臣従した理由は三つある。一つは源頼朝が他の追随を許さぬ貴種であること。源義家の直系の子孫にして源義朝とともに平治の乱を戦った経緯を持つ源頼朝は、他のどの清和源氏の者を上回る血縁の正統性を持っている。二つ目は集めることのできる軍事力。実際に軍勢を集めて戦闘に挑んだ経験があるからこそ、軍勢の規模を実際に目の当たりにしたとき、軍勢をいかに指揮して戦闘に勝つかは別にして、これだけの軍勢を集めることそのものがいかに困難であるかを理解し、その困難を実現させたことに武田信義は源頼朝に対して感嘆の念を抱くことになる。そして三点目。これがもっとも重要であるが、源頼朝は武田信義の所領を持つ権利を侵害しないと宣言したのである。甲斐国の所領は無論、信濃国や駿河国での制圧地についても甲斐源氏の所領とすることを認めたのだ。そもそも武田信義が源頼朝に取って代わって清和源氏のトップに立つなど現実的では無い。仮に源頼朝を打ち破ったところで清和源氏のトップに立つ正統性(レジティマシー)そのものが存在しない以上、一時的にトップに立つことはできてもすぐに引きずり下ろされる。しかし、源頼朝に臣従すればこれまでの甲斐一国だけではなく信濃国から駿河国までの三ヶ国を領有する強大な存在へとなることができる。しかも源頼朝に従う全ての武士を味方にした上で、だ。

 武田信義はここで鉢田の戦いの成果を示した。駿河目代橘遠茂を討ち取ったことを報告し、一八名の捕虜を源頼朝に引き渡したのである。なお、鉢田の戦いにおいて駿河目代橘遠茂は捕虜になったと吾妻鏡では記されているが、同じ吾妻鏡で駿河目代橘遠茂が討ち取られたとも記されていることから、おそらく鉢田の戦いのあった一〇月一四日から、源頼朝と合流した一〇月一八日までの間に橘遠茂は亡くなったか殺されたのであろう、これ以後の消息が全くわからなくなる。

 また武田信義は鉢田の戦いでは石橋山の戦いで敗走した武士の多くが北条時政とともに闘ったことを示し、源頼朝は石橋山で散り散りとなったかつての部下たちと再会することができた。その上で鉢田の戦いでの功績として、かつてともに石橋山の戦いに挑んだ戦友たちを表彰した。


 また、石橋山の戦いで大庭景親とともに源頼朝への攻撃を仕掛けた武士のうち、平家を見限って源頼朝へ忠誠を誓うことを決めた武士たちも黄瀬川に駆けつけていた。荻野俊重や曾我祐信といった武士がそうした武士である。源頼朝は彼らの命は助けるとして自軍とともに行動するように命じた。

 その一方で、駆けつけるのではなく、違う形で黄瀬川にやってこなければならなくなった者もいた。伊東祐親とその息子の伊東祐清である。二人は駿河湾を横断して平維盛の軍勢に加わろうとしたのだが、船を出したところで天野遠景に見つかって生け捕りになり黄瀬川へと連行されてきたのである。源頼朝にとって伊東祐親は、安元元(一一七五)年九月に我が子千鶴丸を殺害した憎き存在であり、石橋山の戦いにおいても明白に敵であった人物である。しかし、伊東祐親の息子の伊東祐清は源頼朝にとって命の恩人でありぜひとも自軍に加えたい人材である。

 伊東祐親の娘が嫁いだことから、三浦義澄にとって伊東祐親は舅にあたる。三浦義澄は婿として伊東祐親を預かることを申し出て、源頼朝は三浦義澄の申し入れを受け入れた。ちなみに、北条時政の前妻は伊東祐親の娘、あるいは伊東祐親の妹とされている女性であり、後に北条義時と呼ばれることとなる江間義時から見ると、伊東祐親は母方の祖父、あるいは母方の伯父である。

 父である伊東祐親の身柄が三浦義澄に預けられたのを目の当たりにした後、伊東祐清は源頼朝から直接、自軍の一員に加わらないかと誘われた。それに対する伊東祐清からの回答は、父が既に怨敵として囚人(めしうど)となったのに、子である自分が賞を受けるなどできない。今はこの場を離れ平家軍に加わるために京都に向かいたいというものであった。源頼朝は命の恩人でもある伊東祐清のその願いを受け入れ、伊東祐清は黄瀬川を離れ京都へと向かった。ただし、伊東祐清が平維盛率いる討伐軍に加わったという記録は無い。さすがに討伐軍の一員に加えることは許さなかったのか、それとも、討伐軍を素通りしたのかはわからない。

 わかるのは、この一件で確実に評判を築いたという点である。義を通した伊東祐清に対する称賛の声と、義を通すことを許した源頼朝への賛美の声が挙がったのだ。

 このように源頼朝の軍勢が増えていた頃、討伐軍の方では厭戦気分がますます進んでいた。平家物語の伝えるところによると、この状況を打破するために平維盛は東国の武士の様子に詳しいとして斎藤実盛を呼び寄せたという。斎藤実盛は保元の乱でも平治の乱でも源義朝とともに闘った記録が残っており、武蔵国幡羅郡、現在の埼玉県熊谷市から深谷市に掛けての地域に所領を持っていたことも確認できている。つまり、平治の乱のあとで平家に仕えるようになった武士の典型例である人物であった。

 以下は平家物語の伝えるエピソードである。ただし、このエピソードは嘘であることが判明している。なぜ嘘であると証明できるのかは後述することして、以下に平家物語におけるエピソードを記す。

 平維盛は斎藤実盛に対し、東国には斎藤実盛のように強力な矢をいることのできる武士はどれだけいるのかを質問した。それに対し、斎藤実盛は、自分など東国では特別ではないと述べた上で、こう続けた。自分はたかだか一三束(そく)を引くだけのこと。東国では一五束(そく)ですら珍しくないと。矢を握ったときの人差し指から小指までの長さのことを一束(そく)と言い、通常の矢は一二束(そく)と決まっている。一三束(そく)となると普通より長い矢であり、上手く射ることができればかなりの破壊力を持った矢となるが、そのためには弓の弦もかなり強く張らねばならず、弓を扱うのに相当な腕力を要する。これが一五束(そく)の矢となると、その矢を射るのに必要な弓は相当に強力な物とならなければならず、斎藤実盛は弓の弦を張るだけでも五人から六人が必要であると述べている。その代わり、鎧を二段重ね、さらには三段重ねにしても射貫くことのできる強力な弓矢が完成する。無論、その弓矢を扱うには想像の及ばぬ規模の腕力を必要とする。

 さらに東国における軍の構成と騎馬術についても斎藤実盛は説明する。武将一人につき最低でも五〇〇騎の武士が従い、その誰もが馬を自由自在に操り、どんな悪路であろうと馬から落ちることはないとしている。さらに、親が討たれようが子が討たれようが容赦なく屍を乗り越えて敵に向かうのが東国武士である。一方の西国の武士は、親が討たれたら供養をし、子が討たれたら嘆き悲しんで戦場から離れ、兵糧が尽きたら次の収穫まで待ち、夏は暑い、冬は寒いと言って戦いを嫌っている。

 その上、甲斐源氏は戦場となると地を詳しく知っている。川の向こうに陣を張ってはいても背後に回り込んで夜襲を仕掛けることもありうる。ゆえに、敵への攻撃策を練った上で夜襲に対する準備も整えておかなければ討伐軍は敗れてしまうことになる。

 戦場における奮起策には二種類ある。一つは相手が弱小であるとして自分たちは質も量も上回っているから負けることがないと訴える奮起策、もう一つは、相手が強大であることを訴えて量では負けているが、質の点でこちらに勝算があることを述べる奮起策である。

 斎藤実盛の場合、一応は後者にあたるのだが、このタイミングで選択するような奮起策であろうか。ただでさえ厭戦気分が漂っており、ともに行軍してきた仲間が一人また一人と戦場から離脱しているのである。誰の目にも軍勢の人数では負けているのをわかっているから、せめて質だけでも討伐軍のほうが優れているとでも言っておけばまだよかったものの、よりによって相手の強大さを量だけで無く質においてまで訴えたのだから失態以外の何物でもない。

 斎藤実盛の言葉は、ただでさえ厭戦気分が広まっている討伐軍の中に余計な恐怖心を植え付けることすらしてしまったというのが平家物語の伝えるエピソードである。そして、このエピソードは嘘であると判明している。

 なぜ嘘と判明しているのか。実は、平維盛が斎藤実盛を呼び寄せたというのは平家物語のみに記されている虚構であり、そもそも治承四(一一八〇)年一〇月時点で斎藤実盛は討伐軍に参加していな勝ったことが判明しているのだ。平維盛の失態を彩るために討伐軍に加わっていない斎藤実盛を登場させて虚構を語らせているのが平家物語である。

 ちなみに弓矢の能力について東国のほうが優れているとして記しているのが平家物語であるが、高橋昌明氏の研究によるとむしろ弓矢の技術に於いては平家のほうが優れており、特に馬上で弓矢を操る馳射(はせゆみ)においては平家が圧倒していたという。


 源頼朝の軍勢はいつでも攻撃できる状態にあったが、より確実な勝利を得るため攻撃開始を治承四(一一八〇)年一〇月二四日と決めていた。それまでに陣形を整え、武田信義の率いる甲斐源氏を中心とした軍勢を遠回りさせて討伐軍の北側にある富士沼に向かわせ、討伐軍を東と北の二方面から挟み込むのが作戦である。

 ここは人の気配すらない平原などではなく、それなりの民家も存在する集落の近くである。これから戦場になるのがわかっているのに家の中でじっとしているなどということはありえず、源頼朝の勧めもあって安全な場所へ避難する者は多かった。ある者は山へ逃れ、ある者は船を操って駿河湾へと向かった。源頼朝も、避難していく民衆の身の安全を守るようにとの指令を飛ばしていた。

 避難するように促したことは人道的にも意味のあることであったが、戦略的にも意味のあることであった。

 避難先となった山や海で灯りを求めるとすれば、この時代だと火を灯すしかない。

 これを討伐軍の側から見ると、源頼朝の軍勢が山の上や海の上にまで広がっているように見える。ただでさえ人数で圧倒されている討伐軍にとっては、自分たちの陣営が見渡す限り敵軍の醸しだす炎に囲まれているように見える。その炎を灯した軍勢がいつ夜襲を仕掛けてくるかわからないのである。

 治承四(一一八〇)年一〇月二〇日の夜、甲斐源氏の軍勢は富士沼の付近まで到達していた。甲斐源氏の軍勢が富士沼付近まで近寄っていることを討伐軍の面々は気づかずにいたが、富士沼に集まっていた水鳥は気づいた。

 甲斐源氏に驚いた水鳥が一斉に飛び立ち、その羽音を源頼朝の軍勢による夜襲であると勘違いした討伐軍の陣営の中は混乱に陥った。弓矢を手にして挑むどころか、着の身着のままで陣営から脱走する者や恐怖心にとらわれ身動きできなくなった者が続出し、侍大将伊藤忠清は、厭戦気分が広がっている上に兵糧も乏しい現状に加えてのこの混乱ではもはや陣形を立て直すどころの話ではないとし、総大将平維盛に対して全軍撤退を進言。平維盛は伊藤忠清の進言を受け入れて全軍退却を命令した。なお、水鳥の逸話は虚構である可能性が高いが、この日の夜に討伐軍が陣営から一斉に退却したこと、その退却がかなりの混乱を極めたために全軍が文字通り退却できたわけではなく、源頼朝にもとに投降した一〇〇騎以上の武士を含め少なくとも過半数は平維盛の指揮下から離れ、討伐軍のうち無事に戻ることができたのは二〇〇〇騎未満へと減っていたことは確実である。

 ここに富士川の戦いは終結した。戦闘を迎える前に平家方が勝手に負けたのである。


 討伐軍が退却したことを源頼朝の軍勢が知ったのは朝になってからである。夜中のうちに討伐軍の陣営で混迷が広がっているのは確認できていたが、わざと騒動を起こして敵を誘い込んで敵を討つというのは戦略的によく見られる。ゆえに、朝になってから確認に、それも部隊を編成した上で確認に行かせるのは定石である。

 その定石である確認部隊が目の当たりにしたのは、人がほとんど居なくなってしまっている討伐軍の陣営、いや、昨夜までは討伐軍の陣営であった瓦礫の山であった。残っていた武士は源頼朝に降伏し、軍勢と一緒に行動をして陣営の中にいた女性も源頼朝によって保護された。

 ここで源頼朝は討伐軍を追いかけて上洛することを主張した。逃げていく平家の軍勢を血気盛んな源氏方の武士たちが追いかけて小競り合いとなっており、彼らに引き返すよう命じるのではなく、本隊のほうが平家の軍勢を追いかけるべきとしたのである。しかも、ここから京都まで最速七日で移動できる距離だ。

 ところが多くの者が反対したのである。

 関東にはまだ平家方の武士の残党がいる。

 奥州藤原氏の動きも無視できるものではない。

 上野国の平家勢力の討伐に木曾義仲を利用できたとは言え、今度は上野国を手に入れた木曾義仲が源頼朝に敵対する勢力として成長して向かい合うことも考えられる。

 いかに源頼朝の軍勢の人員が増えたとは言え、軍勢を分けて関東地方制圧と上洛の双方を果たせるほどの人数ではない。

 そしていちばんの大きな問題である、兵糧。ただでさえ平維盛率いる討伐軍が東海道の集落という集落に襲い掛かり食糧を根こそぎ奪っていったのである。ここから京都まで七日で移動できたとして、途中の食糧を関東地方から持って行くことまではできたとしても、京都に到着した後の食糧は期待できない。

 これらの理由が挙がったとあっては源頼朝も鎌倉に戻らざるを得なくなる。現在の源頼朝がすべきは関東地方の地盤整備であると考え、源頼朝は鎌倉へ引き返すことを決めた。

 これらが鎌倉帰還を促した意見であるが、誰もが考えながら誰一人として口にしなかった本音もあった。

 源頼朝は一度しか戦時の指揮を執っていない。山木兼隆の邸宅を攻めたのも、安房国へ上陸したときも、上総国府の制圧も下総国府の制圧も、戦場は全て他人任せであり、源頼朝は戦闘が終わった後にやってきただけである。隅田川を挟んで江戸重長と向かい合ったときも江戸重長が降伏して終わった。そして今回の富士川の戦いは相手が逃走した。全て源頼朝の軍勢指揮によるものではない。源頼朝が軍勢を指揮したのは、敗れ去った石橋山の戦いだけだ。

 源頼朝に従う武士たちは気づいていた。政治家としての源頼朝は超一流だが、軍勢を指揮するのは下手くそだと。そのような人物が先頭を走って京都まで向かおうものなら絶対にその途中で負ける。戦闘の勝利のためには源頼朝が戦場にいられると困る、もっと言えば迷惑なのだ。源頼朝には、戦場のことを気にしてもらいつつ、戦場から遠い鎌倉で内政に徹してもらいたいというのが共通理解としてできあがっていた。


 源頼朝が軍勢を率いたら負ける。源頼朝には鎌倉に居続けて全体の指揮を執ってもらいたい。このような共通認識ができあがっているのが源頼朝の軍勢である。

 しかし、源頼朝がいることによって軍勢がまとまっているのも事実なのだ。ナポレオンはイタリア侵攻時にラザール・カルノーに対して「一人の凡将は二人の勇将に優る(Un mauvais général vaut mieux que deux bons)」と書いた手紙を送ったが、凡なる一将が頂点に君臨してその下に優秀な武将が複数いるという図式のほうが全体としては統率が取れていることになるのだ。ここで源頼朝が鎌倉に戻り、源頼朝の家臣となった武将たちがそれぞれ軍勢を率いて日本全国に散らばって軍事行動をするとなったとした場合、ナポレオンが手紙にしたためた優れた二将になってしまう。

 ところが、源頼朝に鎌倉帰還を決意させた治承四(一一八〇)年一〇月二一日、奥州藤原氏のもとからやってきた戦場の天才が源頼朝の前に現れたのである。ナポレオンの言うところの一人の凡将ではなく、ナポレオン自身に比肩しうる一人の勇将となり得る人物が。

 源平合戦最大のスーパースター、源義経だ。

 源義経が源頼朝に会ったのはこれがはじめてである。後の源義経こと牛若丸は、生まれてすぐに平治の乱が起こり、朝敵となった源義朝の子であるという理由だけで、まだ乳児であったにもかかわらず母の腕に抱かれたまま平家に捕縛され、二人の同母兄は早々に出家させられ、源頼朝をはじめとする異母兄たちは流罪となり、牛若丸も一一歳で出家を前提として鞍馬寺に預けさせられ遮那王と名を変えさせられた。鞍馬寺での牛若丸こと遮那王は稚児であったという。文字通りに解釈すれば寺院の中にいる未元服の少年のことであるが、その多くは寺院の僧侶の男色相手とさせられていた少年だ。源義経が遮那王と呼ばれていた頃にそうであったかどうかの確証はないが、後に平家の武士からそのような誹謗中傷を受けている。

 稚児の多くは成長後に出家して僧侶となる運命にあった。遮那王も本来であれば二人の同母兄と同様に出家して僧侶になるべきところであったのだが、承安四(一一七四)年三月三日、遮那王は鞍馬山を脱走して東国へ向かった。数えで一七歳、現在の満年齢だと一五歳のときである。鞍馬寺から脱走した少年は、母の再婚相手である一条長成の親戚である藤原秀衡を頼るために奥州藤原氏の本拠地である平泉へと向かった。その途中で遮那王は勝手に元服し、勝手に名前を変えた。清和源氏に多く見られる漢字の「義」と、清和源氏の初代とされていた源経基の「経」を合わせた「源義経」がここに誕生した。

 源義経が源頼朝と顔を合わせたのはこのときが最初であるが、源頼朝は自分の末弟が奥州藤原氏のもとにいることは知っていた。源義経が自分を頼ってやってきたというより、源頼朝が奥州藤原氏から弟を呼び寄せたとするべきであろう。


 奥州藤原氏は東国における最大の脅威であり、同時に、東国における最大の、日本全国を見渡しても平家の次にランクインする資産を持つ民間人でもあった。

 奥州藤原氏自身が武士であり、朝廷の権威を利用しつつ東北地方において他者の介在を許させぬ強大な勢力を築いている。その奥州藤原氏の動向は平家も源氏も不気味に感じていた。

 源頼朝の父である源義朝は、藤原信頼を通じて奥州藤原氏とコネクションを築いており、奥州藤原氏第三代当主である藤原秀衡にとって清和源氏は信頼できる商売相手の関係者であって敵ではない、はずであった。

 ところが藤原信頼が源義朝も巻き込んで平治の乱を起こし、藤原信頼も源義朝も亡くなると情勢がややこしくなる。純粋にビジネスだけを考えれば天下を握った平家とつながるという選択肢もあったのだが、このときの奥州藤原氏は平家とつながるという選択肢を選んでいない。その代わりに朝廷と一線を画した独自の勢力であることの維持に専念するようになったのだ。

 という状況下で承安四(一一七四)年に一五歳の少年がやってきた。彼は源義朝の子で、今は伊豆に流罪になっているが清和源氏のトップに立つことが確約されている源頼朝の末弟だという。奥州藤原氏と源頼朝はここで意見の一致を見た。

 手を結ぶのだ。

 奥州藤原氏にとって、かつて存在していたコネクションを復活させて源頼朝と手を結ぶことは大いなるメリットだ。奥州藤原氏のもとで生み出される武具や鎧、また、奥州産の馬というのはこの時代の武士における一大ブランドであり、その一大ブランドの産品をかつてのように購入してくれる可能性の高い人物と手を結ぶのだから、どんなビジネスライクな人物であろうと、源頼朝は選択肢になる。それに、自分の元に源頼朝の弟がいるとあれば源頼朝が奥州藤原氏と敵対することは考えづらくなる。人質と言ってしまえばそれまでだが、平家の追撃から保護しているのだと言い繕えば理由として成立する。

 源頼朝にしても、弟が奥州藤原氏のもとにいるのは何の不都合もなかった。後の歴史を知っているからこそ奥州藤原氏と源頼朝とを対比できる存在と考えるのであり、治承四(一一八〇)年の時点では奥州藤原氏と比べて源頼朝の存在があまりにも小さすぎるのだ。この年の八月に蜂起するまでは伊豆の流人であり、蜂起したあとも関東地方の一部に根ざす小規模集団のトップというだけの源頼朝が、いったいどうすれば奥州藤原氏のもとと連絡を取ることができようか。亡き父の威光を利用すればどうにか相手にしてくれるかも知れないが、それでも基本的には奥州藤原氏の取引相手になる可能性のある人物のうちの一人であり、とてもではないが対等な関係とはならない。

 だが、末弟が奥州藤原氏のもとにいるとなれば話は別だ。父を亡くした兄弟がいて、兄が弟の身を心配しながらも、犯罪者扱いが続いていて伊豆から出ることができず、せめて書状だけでもやりとりさせてくれと弟のもとに手紙を送り届け、返書を受け取る。この一連の流れに何ら不都合はない。兄と弟の書状のやりとりの中に奥州藤原氏の様子が記されていようと、書状が弟を保護してくれている藤原秀衡のもとに届こうと、何らおかしなことはない。


 源義経という人物への評伝は史実よりも伝承のほうが強い。

 たとえば源義経が黄瀬川に到着して生まれてはじめて兄と面会した情景はどの史料も同じなのであるが、源義経が誰と来たかという情景は一定しておらず、史実により近ければ近いほど、伝承にあるような高揚感から遠いものとなってしまうのだ。

 吾妻鏡では一人の若者が宿泊所の入り口に立っていたので招き入れたところその若者が源義経であったことが判明したとある。一人で奥州からやってきたと記しているわけではないが吾妻鏡での源義経の登場シーンは源義経の孤独感をどうしても抱いてしまう。これが源平盛衰記になると二〇騎ほどの軍勢でやってきたとなり、平治物語だと八〇〇騎の大軍に膨れあがっている。こうなると孤独感どころか一つの軍勢を指揮する武将だ。

 では、平家物語はどうか?

 実は、平家物語の「高野本」バージョンには源義経が黄瀬川で源頼朝と会ったときの情景がない。情景を描いているのは「延慶本」と呼ばれる平家物語のバージョンであるが、源義経が到着して兄と会い、兄弟揃って涙を流したことは記されていても、源義経が奥州から来たことだけが記されており、どのようにやってきたのかは記されていない。

 問題は、義経記だ。

 義経記(ぎけいき)とは源義経とその主従を中心として描いた軍記物語であり、現在まで広く伝わる源義経伝説の多くが義経記に寄っている。ところが、義経記が著されたのが室町時代になってからなのだ。義経記に描かれている源義経は極めてドラマティックで、藤原秀衡の制止を振り切って兄の元へと向か負うとするため藤原秀衡はおよそ三〇〇騎の軍勢を同行させて、奥州を出発するも道中の険しさから脱落する者が続出し、現在の福島県に入る頃には半分の一五〇騎、現在の埼玉県川口市に到着した頃には八五騎にまで減り、兄の進軍経路をたどって、板橋、武蔵国府、平塚、足柄山、伊豆国府と兄の足跡を追うもことごとく兄が出発したあとであり、苦労に苦労を重ねた末に最期まで残った五〇騎から六〇騎ほどの仲間とともに兄と出会えるまでのシーンは感動と躍動感に満ちているが、読む、あるいは朗読を訊くときの感動を味わえるのと同じ感情を、源義経の歴史的事実の描写についても味わえるかというと、そうはいかない。

 一方で、かつては美少年として描かれてきた源義経が近年では平家物語の記述の影響で美少年どころかむしろ醜男であったとする風潮になっているが、源義経の風貌を貶して描いているのは平家物語の、平家方の武士の語る悪態としてのセリフの箇所のみであり、源平盛衰記では色白で背が低く優美で優雅な振る舞い、義経記では女性であるかのような美男子、平治物語では娘のいる者ならば誰もが婿に迎え入れたがると、平家物語における悪態を打ち消す描写がわりと多く見られる。

 ちなみに、源義経の肖像として有名な中尊寺所蔵の源義経の肖像画は、どんなに古くても戦国時代、新しいところでは江戸時代に描かれた後世の想像図であり、同時代の源義経についての肖像画はない。


 治承四(一一八〇)年一〇月二一日、源頼朝の軍勢が撤退を開始。

 ただし、源頼朝は二つの指示を甲斐源氏に対して下している。一つは駿河国の平家方の武士の追討を武田信義に依頼したこと。これは問題ない。富士川の戦いの前、鉢田の戦いにおいて駿河目代橘遠茂を倒したのは甲斐源氏の軍勢の功績であり、武田信義はその支配権を駿河国に確立することも源頼朝は認めている。駿河国の統治をするなら駿河国の平家方の武士についての処遇を受け持つのは武田信義の義務とも言える。

 問題はもう一つの指令の方である。武田信義の弟とも叔父ともされる安田義定に遠江国における平家の軍勢の討伐を命じたのだ。吾妻鏡によると源頼朝の指令によって安田義定は遠江国に派遣されたかのように見えるが、実際には勝手に進軍していった安田義定の行動を源頼朝が追認したというところであろう。それでも京都までの進軍路の確保と言う観点からの東海道の制圧を考えれば、遅かれ早かれ着手しなければならないことである。それを甲斐源氏が勝手にやってくれるというのだから特に反対する理由などない。

 ところでこの一〇月二一日の吾妻鏡の記事によると、武田信義を駿河国の守護に、安田義定を遠江国の守護に任じたとある。これが鎌倉時代から室町時代に通じて令制国単位の行政と軍事指揮権を保持した守護職についての最初の記事であるが、この時点で鎌倉幕府の職制としての守護が存在していたわけではない。和田義盛が源頼朝に奏上した侍所と同様、既に存在している仕組みをそのまま利用しただけである。

 どういうことかというと、国司が令制国内における治安維持を目的として在地の有力武士団のトップを国守護人に任命することがあり、任命された者は国司の指示に従って令制国内でトラブルが起これば駆けつけて紛争を食い止める役割を担っていた。ただし、非公式な役職である。本来は国司が任命する国守護人について、甲斐国と駿河国については国司に代わって武田信義と安田義定の両名を源頼朝が国守護人として“推薦”したのだ。一〇月二一日の吾妻鏡の記事での守護の任命そのものは吾妻鏡を編纂する人が差し込んだ捏造である可能性が高いが、源頼朝が武田信義の駿河国に既に確立した支配権と、安田義定の遠江国にこれから確立しようとしている支配権について認めていたことは間違いない。その上で、支配権を認める代わりに現地の平家の追討を要請したのである。

 さて、上洛するための行軍路を確保するための東海道の制圧を進めながらも、自身は反転して鎌倉に戻ることにした源頼朝にとって、一ヶ国忘れてはならない令制国がある。伊豆国だ。伊豆国もまた完全に制圧したわけではないのだが、そのことも源頼朝は考えている。

 要は東海道が確保できれば良いのであり、東海道は伊豆国の北端を走っているので、伊豆国の中央部から南に平家の武士団が残っていようと東海道さえ保持できればいい。そこで源頼朝は、東海道沿いにある三島神社、現在の三嶋大社を利用することにしたのだ。一〇月二一日の夕方、源頼朝は湯で体を清めたのちに三島神社へ参詣し、宿願成就への感謝として伊豆国の三ヶ所の荘園を三島神社へ寄進した。何れも三島神社の近くの荘園であり、荘園の中を東海道が走っている。荘園を寄進する代わりに三島神宮に東海道の掌握を依頼したのである。荘園に住む武士は、理論上こそ三島神宮のもとに仕える武士になったが、実際には源頼朝の指揮下にある武士であり続けていることは周知の事実であった。


 富士川の戦いで平家が不戦敗に終わったことを、当然のことながら京都の人も福原の人もまだ知らない。京都の人たちと福原の人たちにとっての大ニュースは、はるか遠くの富士川で起こっていることではなく、比叡山延暦寺の声明だった。声明そのものが発せられたのは治承四(一一八〇)年一〇月二〇日のことなので、まさに源平両軍が富士川に向かい合い、そして、平家の軍勢が逃げ帰ったタイミングと合致するが、それはただの偶然である。

 首都を平安京に戻さないのであれば武装蜂起し近江国と山城国を制圧するとしたのだ。平安京は特別な都市であるが、首都が福原に移った以上かつて首都であった都市である以上の意味を持たず、信西の定めた平安京内での武装デモの禁止は首都での武装デモの禁止であるとし、平安京は首都で無くなった以上、武装デモの禁止の対象外であるとしたのである。

 延暦寺の声明に対する平清盛の回答はない。暴れるなら好きにしろという態度であり、僧兵が平安京で暴れれば暴れるほど首都を福原に移すことの意味が高まるとしたのだ。

 もっとも、それまで平安京であったからこそできたこと、特に宮中儀式をはじめとする国家的行事を福原に移して今まで通りできるかとなると、その答えは厳しい。

 九条兼実はこの現状に対し、京都でしかできないことは今まで通り京都で実施し、福原への完全遷都は暫時的にすべきという妥協案を見せている。

 延暦寺の要求をどうするべきかという議論は白熱していたが、この二日後に飛び込んできた知らせに比べれば呑気な議論であった。

 治承四(一一八〇)年一〇月二二日の夕方、当時としては異例のスピードで富士川の戦いの結果を伝える早馬が京都に到着。さらに福原へと知らせは送られた。誰もが討伐軍によって反乱軍は討ち取られるものだと考えており、戦勝の報告が届くものと確信していたのである。

 ところが、届いたのはそんな予測を完全に破壊する知らせだった。

 平家軍、不戦敗。

 この瞬間、京都でも、福原でも、複雑な感情が生まれた。

 平清盛にとってはじめての敗戦である。それも言い逃れのできない惨敗である。せめて戦場で戦ったあとでの敗戦であるなら武士としての誇りも維持できようが、刃も交えることなく逃げ帰ってきたのだから恥の上塗りである。

 平家にとっては恥の上塗りだが、それまで平家に苦しめられていた人たちにとっては溜飲の下がる出来事である。その一方で、源頼朝は朝廷に楯突く反乱軍であり、反乱軍の前に朝廷の派遣した軍隊が何もせずに敗れ去ったことは無力感を生み出しもした。

 平家物語によると、何もせずに逃げ帰った平家を笑い飛ばす落書が散見されたという。現在で言うネット炎上に似た感覚か。

 もっとも、このときの民衆はそれどころでは無かった。まさに飢餓の足音が忍び寄っていたのだ。


 富士川の戦いを戦いそのものだけで捉えれば、特に特筆すべきことのない戦いであり、また、後世の参考にもならない戦いである。何しろ平家の自滅であり、戦いを探すとすれば逃げていく平家の軍勢を血気盛んな源氏方の武士が追いかけて小競り合いが起こったということだけである。

 しかし、それまで無敵であった平家が敗れたという事実は心理的に大きなインパクトをもたらした。関東地方に点在する平家方の武士たちにとって源頼朝の起こした反乱は鎮圧されることになるのが自明の理であり、自分が平家の一員であることは最終的な勝者とさせる選択であったのだ。

 その大前提が崩れたことは関東地方の平家方の武士にどうしようもない脱力感をもたらした。関東地方の巨大勢力となった源頼朝と立ち向かうのに、理論上こそ、平家方の武士で寄り集まって平家方の勢力を築き上げればどうにかなるのだが、実際にはそのような勢力構築など夢の話であった。

 それでも源頼朝が本懐を遂げるために一刻も早く京都へ向かうという希望はあったが、その希望も源頼朝が関東地方へと引き返したことで潰えた。やがて京都に向かうとは宣言しているが、その宣言を実行するのは関東地方を平定した後、すなわち、関東地方に点在する平家方の武士を討伐し終えて関東全土を源氏の支配下に置いたときである。おまけに源頼朝は源義経を通じて奥州藤原氏と手を組んだから、源頼朝から逃れるために東北地方に逃れるという選択肢も消えた。

 ならば関東地方を突破して東山道沿いに信濃国へ、あるいは東海道沿いに駿河国に逃れるという方法もあるが、東山道は木曾義仲が、東海道は甲斐源氏が制圧している。

 ならば平家の勢力が強い北陸、特に越後国に逃れるという方法が思い浮かぶかもしれないが、これは机上の空論である。現代の感覚で行くと群馬から新潟へは上越新幹線や関越自動車道があるではないかとなるが、この時代、三国峠を通る交通は一般化されていない。通って通れないことはないが夏ならばともかくこれから一一月になろうというのでは雪で埋まっている可能性が高く、雪の三国峠を通って越後国に向かうのは命懸けの大冒険旅行になる。ちなみに、三国峠を通る街道が常設の街道として整備されるのは上杉謙信を待たねばならない。

 では、この時代の人はどうやって上野国から越後国に向かっていたのか?

 上野国から越後国に向かうには、いったん上野国を西に向かって碓氷峠を経て信濃国に出てから信濃国と越後国を結ぶ北陸道連絡路を通るのが一般的で、現在で言うと、上信越自動車道に沿って長野市経由で上越市に向かうルートがこの時代の上野国から越後国に至る通常の移動方法であった。

 このルートは、そもそも信濃国に行く前に木曾義仲が立ちふさがっている。これはこれでやはりダメだ。


 絶望にうちひしがれている平家方の武士と対(つい)をなすかのように、勝者となった源頼朝の側は治承四(一一八〇)年一〇月二三日に相模国府に到着した後、勝利を祝すとして、ともに闘ってくれた武士たちに対する論功行賞を実施した。吾妻鏡に記された順番通りに記すと、北条時政、武田信義、安田義定、千葉常胤、三浦義澄、上総介広常、和田義盛、土肥実平、安達盛長、土屋宗遠、岡崎義実、工藤親光、佐々木定綱、佐々木経高、佐々木盛綱、佐々木高綱、工藤景光、天野遠景、大庭景義、宇佐美祐茂、市川行房、加藤景員、宇佐美実政、大見家秀、飯田家義の計二五名に対し、これまでの領地を認めるとともに新たな領地を与えた。併せて、三浦義澄に対して、祖父と父が称し続けてきた三浦介の称号を継承することを、下河辺行平にこれまでと同じく下河辺庄司を継続することを認めている。

 源頼朝はこの時点で安房国、上総国、下総国、武蔵国、伊豆国の国府を直接の支配下に置き、相模国については目代(もくだい)である中原清業の協力を確保し、甲斐国と駿河国に関しては甲斐源氏を通じて支配下に置いている。これまでの領地の保持を認める本領安堵と、新たに領地を与える新恩給与は、事実上は源頼朝の権威を発揮した結果であるが、名目上は各国の国府がそれぞれの武士に対して認めたという図式になっている。特に相模国については源頼朝が背後にいるとは言え相模国目代(もくだい)中原清業の名での新恩給付を展開している。

 さて、それまでの所領の保有を認める本領安堵はともかく、新しく所領を与える新恩給与は大問題があるのではないかと考えた人もいるのではないだろうか?

 所領を与えると言っても、今まで誰の土地でもなかった所領を与えるならまだしも、現時点で誰かの土地である所領を与えるとなると大問題となるのではないか?

 その答えは単純明快である。

 平家方の武士の所領であった土地を与えるのだ。

 富士川の戦いで源頼朝が勝った、それも平家の不戦敗という、平家方の武士にとって最低最悪な結果を迎えた末、源頼朝に降伏することを選んだ武士たちはその所領を取り上げられた。一〇月二三日時点で判明しているのは、大庭景親、長尾為宗、長尾定景、河村義秀、山内首藤経俊の五名である。それぞれ所領は没収となり、各人の身柄は源頼朝とともに闘った武士たちに預けられることとなった。大庭景親は上総介広常、長尾為宗は岡崎義実、長尾定景は三浦義澄、河村義秀は大庭景義、山内首藤経俊は土肥実平のもとに預けられ、戦闘の勝者となった源頼朝の処分を待つこととなったのである。

 大庭景親は、実兄の大庭景義が大庭家の家督を占めた上で源頼朝の家臣として大手を振るっているのを黙って見つめなければならないという屈辱に耐えなければならなくなっていた。ただし、その屈辱に耐えなければならない日はすぐに終わった。

 治承四(一一八〇)年一〇月二六日、河村義秀、大庭景親の両名、斬首。ただし、河村義秀はこの時点で斬首となったと公表されただけで実際に斬首となったわけではなく、一〇年後に生存が判明している。

 大庭景親の弟である俣野景久は関東での捲土重来を狙っていたが、兄の斬首を知って京都へと逃走した。


 富士川の戦いのあと、源頼朝は上洛せずに鎌倉へと引き返した。

 こう書くと源頼朝はまっすぐ鎌倉まで戻ったのかと思う人も居るかもしれないが、源頼朝は誰もが途中経過地点であると思っていた相模国府に居続けた。

 鎌倉がいかに相模国の交通の要衝であり、また、防御に適した土地であるとは言え、純粋に移動のことだけを考えれば東海道そのものに面している相模国府のほうが優れている。それに、相模目代(もくだい)中原清業は源頼朝の行動に対して何ら制限を設けておらず、

 源頼朝がなぜ移動のことを考えたのか。その理由は治承四(一一八〇)年一〇月二七日に判明する。この日、佐竹秀義を征伐するため常陸国へ向けて出発することとしたのである。

 関東地方に点在している平家の武士団の中で最大規模の勢力となっていたのが常陸国の佐竹氏だ。常陸国を佐竹氏が制圧していること自体が脅威であるが、さらなる脅威であったのが、もっとも安全かつ短時間で東北地方へ行くルートを佐竹氏が遮断していることである。義経記の記載なので割り引いて考えなければならないとは言え、源義経が三〇〇騎を率いて平泉を出発したのに兄の元に到着するときには五〇騎から六〇騎に減っていたというのは、この時代の関東地方と東北地方との交通事情を考えればおかしな話ではない。現在で言うと東北自動車道や東北新幹線に沿って移動してきたのであるから、現在からすれば東北地方と関東地方とを結ぶ最短ルートを通ってきたことになるのであるが、この時代の道路事情で考えると、東北地方から関東地方まで陸路で移動するというのはそれだけ難所が続いていることを意味する。

 ところが、水路だと話は変わる。

 たとえば東北地方から京都に向かう海路はかなり昔から整備されていた。日本海を利用するのだ。日本海沿岸を航行して敦賀をはじめとする琵琶湖北岸に近い港に到着したのち、琵琶湖北岸まで歩き、琵琶湖を船で航行して大津に到着し、大津から京都まで歩く。陸路は少しだけで済む。輸送において水路は陸路よりはるかにコストが少なくて済み、かつ、スピードも稼げる。水難の危険性をコストに含めても陸路を行き続けるのに比べれば水路のほうが優れている。

 ならば、東北地方から関東地方に向かうには太平洋を利用したのか?

 それは違う。そもそも太平洋沿岸を航海しても関東地方の太平洋岸には適切な港が無かった。鹿島港や銚子港を思い浮かべるかも知れないが、この時代、鹿島に港はまだ存在せず、銚子港は存在してはいたものの小さな漁港で、水深の浅さから輸送には適していなかった。

 ただ、琵琶湖のように途中まで陸路を移動して、湖の北端に到着してから水上輸送で南下することは可能だった。この時代の関東地方には東北地方からの水運を受け止めることのできる湖が存在し、湖の沿岸には充分な港湾施設が存在していた。それも、現在とは比べものにならない規模で存在していた。

 香取浦がそれだ。

 現在の霞ヶ浦も充分に広大な湖であるが、今から一〇〇〇年前に存在した香取浦は現在の霞ヶ浦とは比べものにならない巨大な湖であった。香取浦が時代とともに小さくなっていき、残ったのが現在の霞ヶ浦であるとしてもいい。現在でも、千葉県北部から茨城県南部に掛けて明らかに内陸なのに「舟」や「船」を有する地名が点在しているのも当時の名残である。

 この時代の平泉から関東地方に出る最短ルートは、平泉から東山道、現在の東北自動車道や東北新幹線の走っているあたりを南下するところまでは源義経が選んだルートと同じであるがし、郡山盆地まで来たら久慈川まで出るところからが違う。久慈川に出て久慈川沿いに、現在のJR水郡線のルートとほぼ同じルートを南下することで常陸国府にたどり着く。この、郡山盆地と常陸国府とを久慈川沿いに結ぶ道のことを東山道連絡路という。常陸国府からは東海道となるので、あとは東海道をひたすら南西に進むのが最短ルートなのであるが、実はその途中は水路を使うことでもっと時間と安全を稼げる。

 東山道連絡路は現在のJR水郡線のルートとだいたい一致する。そして、JR水戸駅から現在のJR常磐線に沿うルートが当時の東海道とだいたい一致する。茨城県石岡市や土浦市のあたりにくると霞ヶ浦が見えてくるのも現在とだいたい同じだ。ただ、前述のように現在の霞ヶ浦と比べて当時の香取浦は極めて巨大である。東は太平洋に注ぎ込み、南は現在の千葉県佐倉市、西は現在の千葉県柏市のあたりまで広がっているのだ。その間を水運で移動できるとなれば、わざわざ時間を要す陸路を通る必要など無くなる。

 つまり、東北地方から常陸国に入って香取浦までたどり着くことができるかどうかが問題なのだ。香取浦にさえ到着できれば、そこから先は水運。コストも、時間も、さらには安全も陸路より優れている。

 源義経が海路ではなく陸路でやってこなければならなかったのは、まさにこの水路の最重要拠点でもある常陸国府を佐竹秀義が制圧していたからである。佐竹秀義は平家方の武将であり、交通の要を制圧しているだけに厄介な存在であり続けた。

 常陸国府を制圧している佐竹秀義を排除することができれば東北地方との交通路が開ける。武具も、馬も、兵糧も、奥州藤原氏の支援が期待できるようになるのだ。


 源頼朝がターゲットとした佐竹氏は、源義家の弟である源義光の子孫であり、源義光の子の孫の源昌義が常陸国久慈郡佐竹を中心とすることから佐竹昌義と名乗るようになったのが佐竹氏のスタートである。

 佐竹昌義は奥州藤原氏初代当主である藤原清衡の娘を正妻に迎え入れることで奥州藤原氏との関係を築き、自分の子らに周囲の有力武士団と姻戚関係を結ばせることで勢力を拡大させ、佐竹昌義の死後、三男の佐竹隆義が佐竹氏を相続したときには常陸国の北部七郡、現在の地図で示すと水戸市より北の茨城県全域を支配する常陸国最大の武士団へと成長していた。

 佐竹氏の命運を分けたのは平治の乱である。系図からも明らかなように佐竹氏は清和源氏であるが、源義朝に同調することなく平家側に従ったため、平治の乱の後、自らのバックには平家がいるとして常陸国の北部七郡を越えて領域を拡大させ、周辺の武士団と衝突状態にあった。

 清和源氏でもあるため以仁王の令旨を受け取っている。また、以仁王の令旨に呼応して起ち上がった源頼朝に誘われてもいる。佐竹隆義はその双方を拒絶し平家側として起ち上がることを宣言。その功績が認められたか、それとも源頼朝の対抗措置とすべきか、このタイミングで佐竹隆義は従五位に叙任されている。もっとも、そのとき佐竹隆義は大番役として在京中であり、すぐ側に平清盛がいたので平家に対して起ち上がるなどできようもないと言えばそれまでであるが。

 富士川の戦いのあとで上洛しようとする源頼朝を制して関東地方へと引き返させたのは源頼朝に従って富士川の戦いに参戦したほとんど全ての武士たちである。それぞれに思惑があってのことであるが、現時点で上洛するとなると大損害を被るだけでは済まず、反平家で起ち上がった自分たちが敗者となり、所領も、家族も、水かの命も失う運命を迎えるという共通認識はできていた。

 と同時に、自分たちが強大な軍勢になっていることも認識できていた。その強大な軍事力は、現時点で自分が本拠地としている所領の近くで起こっている問題を、理(ことはり)ではなく武力で解決する絶好のチャンスでもあるのだ。特に、源頼朝の房総半島制圧における功績が多大である千葉常胤と上総介広常の二人にとって、それまで一対一で対決するには太刀打ちできなかった佐竹氏を討伐する絶好の機会を迎えたことを意味し、源頼朝率いる軍勢を佐竹氏討伐に向けて動かすことに成功したのである。

 治承四(一一八〇)年一〇月二七日に出発した源頼朝の軍勢が常陸国府に到着したのは一一月四日になってからである。時間が掛かりすぎと思うかも知れないが、この時代の関東地方の交通事情に加え、軍勢を保ったまま兵糧を確保しつつ移動することを考えると順当とするしかない。


 佐竹氏が常陸国府を制圧下に置いていると言っても、佐竹氏が国衙の建物の中で生活しているわけではなく、実際には武士としての本拠地である太田城に居住していた。ただ、現在の常陸太田市にあった太田城は平地の中のちょっとした高台にある城で、統治には向いている建築物である反面、防御に向いている城塞ではない。これから自分たちを攻め滅ぼそうとしている軍勢が向かってきているのだから、立て籠もるのに相応しい場所ではない。

 とは言え、いきなり攻撃となるのではない。最初は双方の妥協点を見いだすべく交渉が行われる。圧倒的軍事力を見せつけた上で交渉に臨むのは、血を流さずに勝利を手にする方法の一つでもある。

 交渉のための軍議が早速開かれた。この軍議で最も重要なのは、最前線で源頼朝に指揮をさせないことである。兵士たちは源頼朝が指揮するからこそ常陸国までついてきたのであるが、武将たちにしてみれば源頼朝の下手くそな陣頭指揮で兵士の命を落とさせるわけには行かない。そこで、綿密な作戦を立てた上で源頼朝は後ろの方で待機してもらい、前戦で戦う兵士たちの兵糧や武器の手配、また、各武将や兵士たちの働きぶりをチェックすることに専念してもらうことにした。後ろの安全なところにいるのかという非難はあるかも知れないが、陣頭指揮に立たれたら負けるという本音は隠し、戦場全体を見定めた上で各人の働きに応じた論功行賞を決めるために後ろにいて全体を確認しているのだという理由ならば文句がないどころか、総大将の揺るぎない自信に対する安心感と、自分の働きの客観的評価への期待感をもたらす効果があった。

 軍議は、千葉常胤、上総介広常、三浦義澄、土肥実平といった長老たちが主導した。

 軍議の結果、まずは上総介広常を交渉に向かわせることとした。縁戚関係である上総介広常であれば交渉において不都合な存在ではない。

 既に述べたように、佐竹氏のトップである佐竹隆義は在京中のため常陸国にはいない。留守を預かっているのは佐竹義政と佐竹秀義の兄弟である。兄は見知らぬ間柄ではない上総介広常との交渉であれば妥結点を見いだせると考えて源頼朝との直接交渉に臨むこととしたが、弟は、当主たる佐竹隆義が不在でいる間に佐竹氏の命運を勝手に決めることはできないとして源頼朝との交渉を拒否し、太田城から離れた金砂山城に籠もって抵抗することにした。金砂山城は山々の連なる山地の上に建築された城であり、簡単に行き来できない反面、この時代としては類を見ない強固な防御力を持っていた。

 まずは源頼朝と佐竹義政の交渉だと誰もが思っていたが、交渉は始まらなかった。

 佐竹義政が上総介広常に殺害されたのである。誰もが見ている前で起こった惨劇に、佐竹義政の家臣である武士たちは、ある者はその場で源頼朝に対して降伏し、ある者は一目散に逃走した。

 ほとんどの者の逃走先は佐竹秀義の籠もる金砂山城である。深く入り組んだ山にそびえる城であり、どうやって攻め落とすかという以前に、そもそもどうやってあの城まで行けばいいのかわからないというのが源頼朝の軍勢の判断であったのだ。それが、闘争する兵士たちの姿というこれ以上わかりやすい道案内ができたことで金砂山城への移動方法が判明したのだ。

 その後、金砂山城への攻撃部隊が編成され攻撃を開始した。吾妻鏡に名の記されているのは、下河辺行平、下河辺政義、土肥実平、和田義盛、土屋宗遠、佐々木定綱、佐々木盛綱、熊谷直実、平山季重 といった武士たちである。それぞれの武士が家臣の兵士たちを引き連れて行軍するため、金砂山城側から見ると一瞬にして城への道が埋め尽くされ少しずつ攻め込まれる情景となる。

 それでも防御に徹した城である。しかも佐竹秀義は高地に陣取っているために各種の攻撃が有利になる。弓矢にしても到達距離が長くなるし、岩を落とせば大ダメージを与えることになるし、人に当たらなくても道を塞ぐことにもなる。一日目の攻撃は佐竹秀義の側に軍配が上がった。


 治承四(一一八〇)年一一月五日、現在の時制に直すと午前四時頃、土肥実平と土屋宗遠から源頼朝に使者が送られた。佐竹秀義が構えている金砂山城の防御力はかなり高く、このままでは損害が多いだけでなく攻略失敗に終わる可能性があると言うのである。

 それに対しアイデアを出したのは上総介広常であった。前日、源頼朝との交渉のためという名目で佐竹義政を誘い出して殺害したことを卑怯と考える人は、この後で出された上総介広常のアイデアを知ったならば、前日の殺害すら正々堂々たる行動に思えてしまう内容であった。もっとも、人命を考えるならばこの日の上総介広常のアイデアは称賛に値するとも言えるが。

 上総介広常の出したアイデア、それは、佐竹氏の内部に裏切り者を出すことである。佐竹秀義の叔父、つまり、当主たる佐竹隆義の弟に佐竹義季という者がいる。この者はなかなかに優秀なのだが、佐竹氏の中では孤立していた。平家の側であり続けることを選んだ佐竹氏の中では珍しく、以仁王の令旨に従って蜂起すること、源頼朝の軍勢に加わること、この戦いでも一刻も早く源頼朝に対して降伏することを主張していたのである。時流を読んだとも言えるが、平家が前年に繰り広げた治承三年の政変が国民生活にもたらした破壊のほうを問題視していたのである。源氏の側に立つというより、平家の未来が無いと考えていたとすべきであろう。

 佐竹義季は金砂山城に籠もって徹底抗戦することに反対し太田城に残っていた。前日に甥を皆が見ている前で殺害した相手であることは知っている。それでも佐竹義季は上総介広常の示した裏切りに乗ることにした。ただし、条件付きで。

 佐竹義季の出した条件、それは、自分が佐竹氏の当主になることである。現在は佐竹秀義一人が平家側であり続けることをこだわっているのであり、家臣たちは佐竹秀義に従って否応なく戦わざるを得なくなっている。佐竹秀義がいなくなれば家臣は源頼朝に降伏することとなる。そのあとで佐竹義季が佐竹氏の家督を継ぎ、源頼朝に降伏した佐竹氏の武士たちを自分の家臣とする。

 では具体的にどのように佐竹秀義を金砂山城から追放するのか。

 金砂山城は深く入り組んだ山の上にある城であり、城への道筋は複数ある。前日慌てて金砂山城に逃げた兵士が通ったのは公表されているルートであり、金砂山城側からの攻撃も容易であった。だが、金砂山城には秘密裏になっている裏道がある。佐竹義季は金砂山城の裏道を教えたのである。

 佐竹義季はすぐに上総介広常率いる軍勢を裏道に案内して金砂山城の後ろに回らせた。

 上総介広常は家臣たちに攻撃の雄叫びを一斉に上げさせた。

 金砂山城の中に籠もっていた兵士たちは想定していなかった場所から敵の声が聞こえてきたことで慌てふためき、城内は混乱に陥った。そこに熊谷直実や平山季重といった源頼朝の側の武士たちが城内へと乱入し混乱にさらに拍車が掛かった。

 佐竹秀義は混乱の隙を突いて逃走。治承四(一一八〇)年一一月六日、現在の時制に直して午前二時頃、城主のいなくなった城は陥落し金砂山城は炎に包まれた。

 夜が明けた後、逃走した佐竹秀義を探し求める軍勢を派遣したが、常陸国の国境を越えて陸奥国花園城へ向かったことが判明し、奥州藤原氏の支配下にある陸奥国に対する軍事行動はできないと判断されたことから、金砂山城陥落を以て佐竹討伐の完了となった。


 関東地方で反平家の勢力の討伐の第一段として佐竹氏攻略が進んでいた頃、平維盛率いる討伐軍が京都へと戻りつつあった。

 富士川の戦いでの不戦敗の情報が最初に届いたのは治承四(一一八〇)年一〇月二二日のことであるが、本隊の到着はまだである。その後も討伐軍の軍勢であった武士たちが次々に帰ってきたが、彼らの答えは誰もが同じで、富士川の戦いで戦闘になる前に退却したこと、退却時に大混乱となり、組織的な退却ではなく各自がバラバラに逃げていく敗走となったことを伝えるだけであった。

 討伐軍の帰京の記録は治承四(一一八〇)年一一月になって徐々に増えていき、一一月一日の九条兼実の日記ではどうやら平維盛以下の軍勢が負け帰ってきたらしいという伝聞の記載であったのが、その翌日には、平清盛が平維盛に対し入京禁止を指令するという公的記録が登場することとなる。平清盛にとっては、我が孫であろうと顔も見たくもないと言うことか。なお、ここでいう入京とは福原に入ることを禁じるということで平安京に入ることについては何も言っていない。

 さらに平清盛を激怒させたのが一一月五日の平宗盛の奏上である。福原遷都は失敗であったとし、ただちに京都に戻るべきと述べたのである。今までであれば平清盛の激怒の前に周囲の者は黙り込んでいたが、このときばかりは違った。亡き平重盛が憑依したかのように平清盛に対して真正面から論戦を繰り広げたのである。いつ殴り合いにあるか発展するかわからない緊張感の口論は、全く想定外のところから水を掛けられることとなった。

 平家物語によると一一月八日とあるが、実際には九条兼実の日記にもあるように一一月五日の晩になって福原に平維盛らが到着したのである。まず平知度が先行して福原入りするも、従うのは二〇騎ほど。そのあとで平維盛が入京するも従うのは一〇騎ほどであったという。平家物語によると、激怒した平清盛は、平維盛を鬼界ヶ島に流罪にし、伊藤忠清を死罪とせよと命じたものの、平盛国によって平清盛は怒りを強引に静めることに成功したとある。実際のところは刑罰に処すとまでは言っていないもののかなり強い感じでの平清盛の激怒が繰り広げられたのである。ただ、平清盛の激怒が完全に無視されたのだ。平維盛は検非違使である藤原忠綱の邸宅に泊まり、平知度は八条邸に入っている。

 平清盛は自らの怒りが完全に無視されているのに気づかされた。その上で、自分の知らないところで政務が動き出しているのを目の当たりにしてしまったのである。

 治承四(一一八〇)年一一月六日に延暦寺から遷都をやめて欲しいとの奏上が再びあり、これを契機として福原遷都の白紙撤回がいよいよ現実味を帯びてくることとなった。あくまでも福原にこだわる平清盛の激怒も平宗盛が真正面から受け止めることすらなくなった。

 翌一一月七日、東海道、東山道、北陸道に対し、源頼朝ならびに源信義の両名を追討せよとの宣旨が朝廷より下った。何度か記しているが、一般に武田という苗字を名乗っていても本来の姓は源であり、どのような苗字を名乗っている相手でも朝廷内では姓を用いるのが鉄則である。これは江戸時代末期まで代わることなく、北条や織田は平姓を、足利や徳川は源姓を用いた。例外は豊臣で、豊臣は朝廷から下賜された正式な姓なので朝廷内でも豊臣を使う。

 話を治承四(一一八〇)年一一月七日に戻すと、朝廷からの宣旨に基づいて第二次討伐軍の編成が議論され、平教盛や平経盛を総大将とすることはほぼ決まりになっていた。ただ、誰を加えるかの議論は平行線を辿っていた。

 検非違使別当である平時忠から、美濃国の清和源氏、いわゆる美濃源氏も討伐軍の編成に加えるべきとの進言がなされるが、これが拒否される方向に向かいつつあったのだ。美濃源氏のトップである源光長こと土岐光長は平家政権下で検非違使や左衛門尉を務めるなど朝廷内での功績を果たしていただけでなく、以仁王の挙兵時に三条高倉邸まで以仁王を捕縛しに行き長谷部信連と戦闘を繰り広げたという以仁王の令旨に従っていないことが明白な武士であり、検非違使別当である平時忠にとっては信頼できる平家方の武士なのだが、それがここに来て清和源氏であるという理由で除外されつつあった。軍事的に考えれば加えるべきであったが政治的な理由で外されようとしているとすべきか。それにしても、武士でないだけでなく戦場をまともに体験してもいない平時忠が軍事的な発言をし、武士として戦場を経験してきた他の平家の面々が政治的な理由で除外するという逆転現象が発生してしまっている。もっとも、激怒が過ぎて話し合いにならなくなっている平清盛を除くと、平家のトップに立つのは武士としての経験を積むことなく貴族としての教育しか受けてこなかった平宗盛になるのだから、政治的決断になってしまってもおかしくないと言えばその通りであるが。

 土岐光長を加えるべきか否かの議論の最中に一つの報告が届いた。遠江国より東、最低でも一五ヶ国を源頼朝が制圧したというのである。実際にはもっと少ない令制国数であるものの源頼朝が国府を制圧した令制国が複数あるというのは事実であり、ここまで来ると、反乱を起こした源頼朝を討伐するのではなく、国力を注ぎ込んでの全面戦争に挑まねばならない。制圧されたとされる一五ヶ国の中に美濃国は含まれておらず土岐光長にとってはとばっちりもいいところであるが、源頼朝の側に近いとして討伐軍からの除外が決定となり、編成の全面見直しも進むこととなった。

 なお、源頼朝が一五もの令制国を制圧していると聞いた平清盛はさらに激怒したが、平清盛の激怒などに付き合っていられる暇人などいなかった。


 朝廷で福原遷都の白紙撤回や第二次討伐軍の編成が議論されていることの情報は、さすがに源頼朝のもとには届いていない。その代わりに源頼朝の元に届いたのは金砂山城陥落のニュースである。くしくも、源頼朝が東国一五ヶ国を制圧したという、事実よりもかなり誇張されているニュースが朝廷に届いたのと同日の治承四(一一八〇)年一一月七日のことで、こちらは誇張のない淡々たる事実の連絡であった。

 報告をしたのは上総介広常を中心とする武士たちである。

 佐竹秀義が逃亡して陸奥国に入った可能性が高いために捜索を断念したこと、金砂山城が燃えたことについては城郭への放火であること、軍勢の中では熊谷直実と平山季重の両名が特に素晴らしい功績を残したこと、佐竹義季が源頼朝の軍勢に加わりたいと申し出ていることを伝えると、源頼朝は佐竹秀義の捜索を打ち切ったのは奥州藤原氏との関係を考えた適切な措置であり問題なく、金砂山城の放火についてもこの時代の夜襲の礼儀であるため問題なく、熊谷直実と平山季重の両名の働きについては既に調査済みであり報奨も準備している途中であること、佐竹義季の仲間入りについては許可するとした。

 ここで金砂山城の放火について補足すると、八月一七日の山木兼隆邸襲撃のときにも記した通り、現在の感覚で行くと放火は悪行極まりない行為であるが、この時代においては夜襲における礼儀であるばかりか放火をしない方が礼を失する行為である。城というものは、戦闘時の要塞であると同時に、天災や人災が起こったときの近隣の人たちの避難場所でもあり、夜襲時には城に火を放って城に避難する人が現れないようにするのである。

 同日、源義朝の弟で源頼朝の叔父である源義広と源行家が常陸国府に到着した。

 こう書くと怪訝な顔をする人もいるかもしれない。源義朝の弟は保元の乱で敗れて兄によって斬首されたのではないかと。それでも源行家はわかる。保元の乱の頃はまだ幼かったために参戦していなかったことが判明している。だが、源義広はどうか。この人は源為義の三男なのだ。

 そこで調べてみると、保元の乱に崇徳上皇方として参戦したという記録と参戦していないという記録の両方が存在する。確実に言えるのは保元の乱で敗れて兄によって斬首となった源為義の息子たちの名の中に源義広の名前はない。名が記されているのは源為義、源為義の四男の源頼賢、五男の源頼仲、六男の源為宗、七男の源為成、九男の源為仲であり、三男の源義広の名前はない。また、平治の乱についても源義広の記録は無い。平治の乱の頃に上京していたという説ならばあっても参戦したという記録は無く、そもそも平治の乱の頃は京都にいなかったのではないかとさえ考えられている。

 なお平家物語では、以仁王の令旨を促す源頼政から各地の源氏の名が列挙されるときに源義広の名前も載っている。ただ、信太三郎先生義憲という名になっており、この人は自分の名前を義範としたり義憲としたりと名前を頻繁に変え、源為義の息子という清和源氏嫡流でありながら源の姓を使い続けるのではなく志田義広と苗字を名乗っているので、おそらく自らの名を埋没させることでこれまで生きていた人なのであろう。

 志田義広と源行家の二人の叔父を源頼朝は招き入れたが、二人はここで源頼朝の態度に傲慢さを抱いて不満を抱いたという。ただ、どのような傲慢さから不満を抱いたのかはわからない。ただし、容易に想像はできる。

 二人はおそらく、源頼朝に対して現時点で源頼朝が手にしている権勢を全て譲り渡すように言ったのではないだろうか。一世代下の源頼朝よりも自分たち世代のほうが清和源氏を統率するのに相応しいと。源頼朝にしてみれば叔父であるために相応の礼を持って接したものの、叔父たちの要求に従うなどできるわけがない。今でもよくいる、成功者になったら急に増える親戚というやつだ。

 叔父たちの相手をしていたからか、佐竹氏征討の論功行賞は翌一一月八日にずれ込んでいる。

 まず、常陸国の北部七郡をはじめ佐竹氏の領地は全て没収。その領地を金砂山城攻略に功績のあった者への新恩給与用の所領とした。また、佐竹氏の家臣で捕虜となっている者に源頼朝の軍勢に加わる許可を与えた。前日に佐竹義季は源頼朝の家臣となったが、本人の希望していた佐竹氏の家督相続については認められなかった。もっとも、佐竹の領地は全て没収されたので家督を相続しても無意味であった。それに、佐竹の家臣が源頼朝の直属の家臣となったため、かつて格下に見ていた家臣と同列になるという待遇も受け入れねばならなくなった。


 その頃福原では、あくまでも福原遷都にこだわる平清盛と、もはや明確に京都帰還を求めるその他の貴族という対立図式が成立していた。

 治承四(一一八〇)年一一月一一日、福原に新しく建造された新造内裏に安徳天皇が遷御した。平清盛の考えではこれで福原遷都は決定であり、あとは京都から首都機能を、すぐではないにしてもできる限り短時間で福原に移すのみとなるはずであった。

 ところが平清盛の思いは完全に破綻した。多くの人の述べる内容は、移すのは京都から福原へ、ではなく、福原から京都へ、であったのだ。高倉上皇も、藤原氏も、そして平家の公達ですらも京都還都を公然と口にするようになったのだ。

 平清盛はそれでも福原遷都の正しさを信じていたようで、ならば福原遷都と京都還都とどちらの意見のほうが多く、そしてどちらが正しいのか調べてみよとしたところ、京都還都に反対するのが平時忠ただ一人という有様であった。それも、検非違使別当として京都の治安を考えれば今のまま京都に戻るのは危険であるという理由であり、それさえ解決できれば京都に戻るべきという意見であった。

 この現実を目の当たりにして、治承四(一一八〇)年一一月一三日時点ではもう平清盛ですら平安京へ戻ることもやむなしという感想に至ったという。

 これまでは平清盛を怒らせると命に関わるとして畏怖されてきたのが、京都還都という意見の見せる一致団結が平清盛への恐怖心を和らげさせ、さすがに平清盛に向かって文句を言うほどではなくても、密かに書き記す日記や、後世の人の記録には、平清盛のことを気にせずに済むとあってか容赦ない言葉が書き連なって記されるようになっていった。

 その中でも最も手厳しい記載をしているのが、鴨長明。何しろ、方丈記において、地震、火災、飢饉と並ぶ災厄として福原遷都を挙げているのである。京都の家屋が壊されて淀川に浮かぶ一方で邸宅の跡地は畑になり、馬が重視されるようになった一方で牛車は見向きもされなくなり、九州や四国の荘園が歓迎されるようになった一方で東北の荘園は敬遠されるようになったと記している。その上で、新しい首都になった福原についても罵倒を書き連ねている。狭いし、うるさいし、新しい首都だと言われてもそもそも建物がないし、前から福原に住んでいた人は土地を取り上げられてただ嘆いているだけだ。貴族は本来であれば牛車に乗って移動するものであり、移動時の速度についてはさほど問題となっていない。それが、福原遷都で速度優先となり、我先に馬に乗るようになり、貴族としての風格を漂わせる衣冠布衣ではなく、馬上での格好である直垂を着るようになって貴族が武士の格好をするようになってしまった。かつてであれば東国の荘園は貴族の裕福さの源泉であったが、今や以仁王に呼応した清和源氏の武士たちが東国で暴れて荘園を踏みにじるかもしれないという恐怖に変貌した。これが鴨長明の記すところの福原遷都である。


 佐竹討伐の完了を経て、源頼朝はようやく鎌倉へと戻ることとした。

 ただし、単に戻るのではない。道中の源頼朝には関東地方の治安回復という重大ミッションが課されている。それは支配者になったためにこなさねばならない必然である。

 源頼朝の治安回復手段はアメとムチとの使い分けである。たとえば、鎌倉へ戻る途中の治承四(一一八〇)年一一月八日に源頼朝は小栗重成の邸宅の一つである小栗御厨八田館に宿泊したが、宿泊する前に、常陸国の平家方の武士でありながら源頼朝に刃を向けることなく源頼朝の前に恭順の意を示したとして、小栗重成だけでなく小栗氏全体の本領安堵を約束している。

 その一方で、一一月一二日には武蔵国荻野に到着した際に、荻野の地を所領としている荻野俊重を斬首している。石橋山の戦いで大庭景親とともに源頼朝に対して攻め込んだことが理由である。一〇月一八日に源頼朝のもとに降伏をし、その後は源頼朝の家臣の一人として行動してきた荻野俊重が、その所領に到着して斬首されたのだ。同タイミングで源頼朝のもとに降伏の意を示した曾我祐信も、自領である相模国曾我に到着したら斬首されるのではないかと恐れ慄(おのの)くようになった。結論から言うと、曾我祐信の心配は杞憂に終わった。鎌倉に到着した直後に曾我祐信に対する赦免が下ったのである。

 これらは武士に対するアメとムチであるが、その間に関東地方の庶民に対するアメとムチの使い分けもしている。

 土肥実平を武蔵国内の寺社に派遣して寺院や神社の所領となっている土地に攻め込み暴れ回っている武士や盗賊を逮捕させると同時に、戦乱に加えて天候不良により収穫の悪化した土地に対する年貢減免と年貢免除を指令した。これで源頼朝に反発するのは、どんな不作でも年貢を分捕ろうとする強欲者と、犯罪者だけである。

 治承三年の政変からちょうど一年を迎えた治承四(一一八〇)年一一月一七日、源頼朝の軍勢が鎌倉に凱旋。同日、侍所を設置して和田義盛を別当に任命した。治安維持の最高責任者に和田義盛を命じたのである。元々伊藤忠清が平家から上総国司に任命された際に用意されていたのを、伊藤忠清は称号だけしか用いなかったが、和田義盛の進言の結果であるにせよ源頼朝は実利ある役職とさせたのである。土肥実平を武蔵国内の寺社に派遣して取り締まりを図らせたがそれは一地域の一時的な措置である。しかし、侍所を設置することで治安維持は常設となり、武士を治安維持に動員することで関東地方に平和と安定をもたらすことに成功したのだ。

 ただし、源頼朝は侍所別当としての和田義盛の能力に疑念を抱いていた。浅慮で独断専行のところがある。また、正義感の発露の結果であるが公正な法の裁きを和田義盛に期待することはできなかった。源頼朝は和田義盛の侍所別当としての職務をサポートする副官を探していた。厳密に言うと目を付けている人物はいたのだが、その人物とコンタクトが取れずにいた。


 源頼朝らが鎌倉に到着した治承四(一一八〇)年一一月一七日、治承三年の政変からちょうど一年を迎えた福原の朝廷には尾張国と美濃国で反平家の蜂起が発生したとの情報が届いていた。尾張国と美濃国とでそれぞれ反乱が発生したのではなく濃尾平野を舞台とする反乱が起こったのである。この時点で木曾義仲は福原の朝廷の関心に含まれておらず、マニア的に詳しい人でも源頼朝の軍勢の一部、あるいは武田信義の軍勢の一部という認識である。

 木曾義仲をカウントしないにしても、源頼朝の討伐どころか反平家の動きが日に日に増している状況に福原の朝廷は余裕を完全に失っていた。現時点で福原の朝廷が確認できている反平家の反乱は、鎌倉の源頼朝、甲斐国の武田信義、熊野の湛増と熊野水軍、肥後の菊池隆直、そして首謀者不明の濃尾平野での反乱の五つ。位置でいうと、福原より東の東海道と東山道に三つ、南の紀州熊野に一つ、そして九州肥後に一つである。

 その全てに討伐軍を派遣するのは現実的ではないとし、比較的勢力が弱いと見られた熊野の湛増と肥後の菊池隆直に対して赦免の決定を下した。なお、熊野の湛増はこの赦免を一時的に受け入れてはいるが、肥後の菊池隆直は平家からの申し入れについて黙殺した。

 ほぼ同じ頃、源頼朝のもとにも美濃源氏が挙兵し美濃国と尾張国を制圧したとの連絡が届いた。土岐光長の主導する軍勢が美濃国で蜂起し、勢いに乗って尾張国を制圧したというのが源頼朝の元に届いた情報である。

 美濃国は東山道の入り口に近く、尾張国は東海道の入り口に近い。もともと外部からの物資に頼っているのが平安京である。東からは北陸道、東山道、東海道、西からは山陰道、山陽道、南海道が平安京への物資流入のルートなのだが、ここで東山道と東海道が制圧されてしまったために物資搬入のルートの六分の二が利用できなくなり、首都でなくなったことも加わって平安京に流通する物資が目に見えて減っていった。

 さらに大問題なのが濃尾平野を制圧されてしまったことである。二一世紀の現在では米どころとして越後平野を思い浮かべる人が多いであろうが、この時代の米どころとなると何と言っても濃尾平野である。特に美濃国はその収穫の多さから国司就任希望者が後を絶たず、欠員が出たと知ると自己推薦文を手に朝廷に押し掛けるのが日常の光景であったほどだ。その濃尾平野が源氏の手に落ちたことは、平安京で消費するコメの流入が停止することを意味する。ただでさえ不作であるところに加えコメの流入が停まるのであるから平安京の庶民にどのような運命が待っているかはあえて記すまでもない。

 もっとも、濃尾平野に住む農民にも言い分はある。平維盛の指揮する討伐軍が容赦ない略奪と拉致を繰り返したから、平安京に持って行けるようなコメもなければ、平安京にコメを運ぶ人員もいなくなってしまったのだと言い返されたら二の句が継げなくなる。

 源頼朝はこれから平安京で発生することになる惨劇を理解し、現状のままでは上洛は断念せざるを得ないこと、自分の支配下に入った地域では惨劇を起こさせないことを考えるようになった。幸いなことに、源頼朝は武将としては三流でも政治家としては超一流である。

 関東地方には数多くの荘園がある。ただし、自分が挙兵したことによって荘園と院や貴族、あるいは大規模寺院との関連性は断絶している。そのうち、平家一門の所有していた荘園については新恩給与で自分に付き従ってくれた武士たちに与えたから問題なしとして、院や、平家以外の貴族の所有する荘園、あるいは大規模寺院の所有する荘園は、経営者なき荘園となって宙に浮いてしまっている。かといって、勝手に没収して新恩給与として与えるわけには行かない。自分たちはあくまで反平家で起ち上がったのであって国家そのものに対して楯突こうとしているわけではないのだ。

 しかし、福原にいる貴族の元に年貢を届けることはできない。全国的な不作は関東地方も例外ではなく、外に持ち出されようものなら関東地方の庶民のもとに食糧が残らなくなってしまう。源頼朝は、年貢を納める意欲はあるが、平維盛率いる討伐軍のせいで東海道が破壊されてしまったため年貢納入はできないとし、責任は全て平家にあるということにして手元に食糧を残すことを選んだのだ。明らかに真実ではないが、ウソはついていない。

 さらに、治承四(一一八〇)年一一月一九日に弟の全成(ぜんじょう)を利用して宗教的側面で関東地方の安定を図った。末弟の源義経と違い、全成(ぜんじょう)は出家して僧籍のままである。そのため、全成(ぜんじょう)を経由させれば仏教勢力を利用できる。川崎市多摩区にある妙楽寺がそれだ。あるいは「あじさい寺」としたほうがわかりやすいか。源頼朝は弟の全成(ぜんじょう)に妙楽寺を与えたのである。妙楽寺はもともと円仁が建立した天台宗の寺院であり、真言宗である醍醐寺出身の全成(ぜんじょう)にとっては別宗派の寺院ということになるが、全成(ぜんじょう)はあまり気にしなかったようである。

 さらに、富士川の戦いで源頼朝が個人的に所有するようになった駿河国阿野庄を全成(ぜんじょう)に与えた。妙楽寺の財源とするためである。これ以後、全成(ぜんじょう)は阿野全成と呼ばれるようになる。そこまでして阿野全成を優遇したのはなぜか?

 それは関東地方の地図を広げた上で妙楽寺の位置を調べれば理解できる。妙楽寺があるのは東海道のすぐそばであり、関東地方の交通の要だ。関東地方で大事件が起こったときに動くのは鎌倉の侍所であるが、より身近な問題が起こったら妙楽寺の阿野全成が寺院経由で動くという仕組みにすれば、寺院の存在そのものが細かな日常の治安維持に役立つ組織となるのだ。


 この治承四(一一八〇)年一一月一九日という一日は、福原に視点を移すと前代未聞の一日であった。安徳天皇の大嘗会の福原開催を断念した日であったからである。即位したのに大嘗祭を開催せず、特例として新嘗祭を平安京神祇官で開催することとなったのだ。

 その代わりと言うべきか、翌一一月二〇日、安徳天皇が福原の新しい皇居で豊明の節会を開催した。平清盛としては、今年はこれで妥協する代わりに来年こそは福原を新しい首都として各種儀式を開催するつもりであったが、そんな悠長なことを言っていられる事態ではなくなっていた。

 治承四(一一八〇)年一一月二一日、近江国でも清和源氏が挙兵したのだ。近江国の清和源氏である山本義経と、その弟の柏木義兼の兄弟が挙兵し、北陸と平安京を結ぶ物流拠点である琵琶湖を同日中に占拠して北陸から平安京へと向かう年貢を差し押さえたというのだからただごとではない。

 山本義経と柏木義兼は兄弟であるが、同じ場所に住んでいたのではない。山本義経の本拠地は現在の長浜市で、柏木義兼の本拠地は現在の甲賀市と、琵琶湖の北岸と琵琶湖の南東という位置づけになり、交通で言うと東山道や東海道にあたる。

 東山道や東海道から京都に入るには、琵琶湖を大回りするか、琵琶湖から流れる瀬田川を渡らねばならず、琵琶湖南岸の瀬田川に架かる瀬田の唐橋をあえて破壊すれば京都の防御という点では琵琶湖西岸だけに注力すればいいのであるが、地元の人間はそれぐらいわかっている。兄弟は小舟や筏を動員して勢田に浮き橋をかけることで瀬田の唐橋がなくても瀬田川を渡れるようにし、すなわち、軍勢を出して京都と琵琶湖とを結ぶルートを完全に遮断することに成功したのである。

 さらに近江国の源氏勢力は瀬田から野路にかけての一帯で平家の有力家人である藤原景家とその郎党たちの一行を襲撃し、討ち取った首を勢多橋に晒したと九条兼実はその日記に記している。藤原景家とは平家物語では以仁王を討ち取ったとされている飛騨守景家のことであり、平家物語の記述の通りであるならば、二人はここで以仁王の敵討ちを果たしたこととなるが、少なくともこの三年後まで藤原景家が生存していたことは確認できているので、おそらく藤原景家は郎党の多くを亡くしたものの本人は逃げることに成功していたのであろう。

 そのあとで園城寺にも攻め込んだとあるが、別の資料では園城寺の僧兵が近江国の源氏勢力と呼応して挙兵したともあり、おそらく園城寺に攻め込んだというよりも、園城寺の仲間と協力するために園城寺に向かったとすべきであろう。

 京都は内陸の都市であるが、琵琶湖まで出て、琵琶湖を縦断すれば目と鼻の先は日本海という位置づけの都市である。既に東山道と東海道が制圧されてしまっているが、北陸道が健在であればどうにかなった。京都への物資輸送のルート自体は六本あるがその中で最重要なのは山陽道、次いで北陸道であり、東山道と東海道が利用できなくなったことは痛手ではあるが耐えることができる話でもあったのだ。

 昨日までは。

 今日からは北陸道も利用できなくなった。これで平安京に流入する物資の半分以上が壊滅した。それでも琵琶湖西岸を陸路で移動すれば何とか日本海まで行くことができ北陸道へとつながるが、時間もコストも琵琶湖を利用する場合の倍以上を要することとなる。

 九条兼実の日記によると柏木義兼は勢いに乗って平安京の制圧も企んだという。ただ、甲斐源氏からの使者が兵力の少なさから平安京制圧は困難であることを告げ、援軍が到着するまで攻撃を止めるように命じたとある。朝廷としてはこれで一息ついたことになるのであるが、琵琶湖が制圧されている事実は代わらない。さらに悪いことに、若狭国からも挙兵の動きが出てきており、琵琶湖と日本海とを結ぶ若狭国が源氏の勢力に置かれると、琵琶湖西岸を陸路で移動するという手段も失われることとなるのだ。


 甲斐国にはじまり、関東地方全域、駿河国、遠江国と来て、尾張国、美濃国、そしてついに近江国も源氏方の手に落ちた。

 福原の朝廷では、誰もがどうにかしなければならないということでは意見の一致を見ていたが、具体的にどうすれば良いのかという意見については全く一致点を見いだせずにいた。

 いっそのこと福原に完全移住させればいいではないかとの意見まで出たが、平安京から福原に移住すれば、福原は港町であるから食糧はどうにかなるという反論を示しても、京都だから職業にありつけている庶民を福原に移住させたら失業者になってしまう上に、そもそも福原は狭いために住環境が整っていない。ここで無理して福原に移住させようものなら待っているのは大量の失業者と路上生活者、そして餓死者だ。京都が機能していれば失業する心配も住まいを失う心配もなく餓死する可能性も少なくて済む人に、何もかもを捨てさせて福原に来いと命令させようものなら、平安京に残っている庶民の大多数が源氏側につくことになる。

 同意点を見いだせたのは、最低でも近江国はどうにかしないと物流が完全に停まって飢饉が起こるということだけである。

 ここでついに平清盛が決断した。

 京都還都を決めたのである。

 治承四(一一八〇)年一一月二三日、平清盛は福原から京都に戻ると宣言し、誰も福原に残ることなく京都へ向かうようにと命令を下した。

 京都の邸宅を解体して福原に移築した貴族もたくさんいたが、その労力を繰り返すこととなっても京都還都は賛成であった。

 それにしてもなぜ平清盛はこだわり続けた福原遷都をここで捨てたのか?

 答えは近江国にある。近江国の最大勢力は何と言っても比叡山延暦寺だ。比叡山延暦寺は琵琶湖西岸に位置しており、その勢力の巨大さゆえに近江国で反乱を起こした清和源氏は接することなく避けて通っている。延暦寺に出動してもらい最低でも琵琶湖を利用した北陸道への水運を取り戻すのである。無論、延暦寺がただで動くわけはない。平安京に戻ることは延暦寺への譲歩であった。

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

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