平家物語の時代 4.鎌倉入り

 源頼朝の立てた作戦とは何か?

 源氏勢力を房総半島に集結させることである。

 治承四(一一八〇)年八月二八日、それまで姿を隠していた源頼朝の所在がついに確認された。真鶴から出港して相模湾を西から東へ横断して安房国へと向かった。相模湾の船上で源頼朝は、衣笠城を放棄した三浦義澄と合流し、安房国へと上陸。そこで北条時政と再会する。

 犠牲は大きかったが、源頼朝は作戦を全て成功させたのだ。

 源頼朝の作戦とは以下のものである。

 源頼朝とともに戦う武士がどれだけいるかは安達盛長を派遣することで既に調査を終えている。その結果判明したのは、伊豆国、相模国、武蔵国の三ヶ国はそのほとんどが平家の支配下に置かれていて源氏の味方を探すのが困難である反面、房総半島の三ヶ国、安房国、上総介、下総国は源氏の勢力のほうが強いため反平家で起ち上がったときの兵力が期待できる。後述するが、特に安房国については知行国主吉田経房の黙認も得られるので、房総半島三ヶ国のうち安房国はもっとも期待できる。

 問題は二点、一点は源頼朝自身を含め伊豆国と相模国の源氏方の武士をどうやって房総半島まで移動させるか、もう一点は兵力を結集するための時間をいかにして稼ぐかである。足立氏、豊島氏、比企氏といった武蔵国の武士についてはこの段階で待機である。

 そのためにまず、山木兼隆を討つ。山木兼隆が伊豆国の目代だからではなく、山木兼隆をどうにかしなければ伊豆半島の東部の港に出ることができなかったからである。ただ、山木兼隆を討つ目的が伊豆国の目代だからではないと言っても、山木兼隆は伊豆国の目代である以上、起ち上がった瞬間に朝廷権力に逆らうこととなる。源頼朝率いる源氏の軍勢はその瞬間に朝敵決定だ。もっとも、ただでさえ流罪の身であるのだから今更朝敵になろうと関係ないとも言えばその通りなのだが。

 山木兼隆を討ったあとは相模湾を横断する。当初の想定ではいったん三浦半島を経由してから房総半島へと向かい安房国に上陸するというものであったが、天候のために出港できず大庭景親に追い詰められてしまったために時間稼ぎが必要となった。北条時政は嫡男の北条宗時を亡くし、三浦一族は衣笠城を失うという大損害を被ったが、それでも相模国と伊豆国の源氏方の武力の多くを房総半島に集結させ、安房国に上陸させることは成功した。

 この、安房国への上陸時に信じられないことが起こった。和田義盛が源頼朝に対して、この戦いに勝利して平家を打ち破り天下を握ったときは自分を侍所の別当にしてほしいと申し出たのである。他の者が言うならばまだしも和田義盛が言うのは信じられぬことであった。源平盛衰記の記載に従えば、和田義盛と和田義茂の兄弟の行動はどう考えても失態である。必要の無い戦闘を引き起こしただけでなく三浦半島にこれまで築いていた三浦氏の所領を失うこととなったのである。和田義盛は三浦一族の分家であり、三浦半島に所有している三浦氏の所領の一部は和田兄弟の所領である。する必要の無い戦闘を引き起こして死者まで出してしまったのだから本来であれば処罰の対象となりこそすれ、報奨の対象とはなり得ない。だが、源頼朝は和田義盛のこの申し出を受け入れているのである。

 和田義盛が申し出た侍所(さむらいどころ)別当という役職であるが、これは、伊藤忠清が上総国司に任命されたときに平家から命じられた役職である。平家は伊藤忠清に対し、関東八ヶ国の全ての武士を管理監督するように命じた。その結果が武士を管理監督する役所としての侍所(さむらいどころ)の設置とそのトップである別当への就任であったのだが、伊藤忠清は侍所を創設することなく、ただ侍所別当の名称が持つ権威のみを称して関東地方の武士の上に立つと自負したのである。

 侍所(さむらいどころ)とは、字義だけ見れば皇族や貴族の周囲に仕える武士たちの控え室と思えてしまうが、実際には朝廷組織とは別に皇族や貴族の家政機関に仕える六位程度の位階を持つ官僚のための組織であり、侍所別当は皇族や貴族に仕える官僚たちのトップを意味するようになっていた。もっとも、侍所は一つではなく、侍所別当も一人ではない。院の侍所があって別当がおり、近衛家の侍所があって別当がおり、松殿家の侍所があって別当がいるという感じに、京都では複数の侍所があり複数人の侍所別当がいた。そして平家の場合も平家の侍所がある。平家が伊藤忠清に命じたのは、関東八ヶ国の武士に六位から七位の位階を付与して朝廷の組織下に組み込んだ上で関東八ヶ国の武士を統括して管理監督するという狙いがあった。ただし、構想だけで終わってしまっており具現化していない。

 和田義盛は関東八ヶ国の武士を管理監督する役所としての侍所(さむらいどころ)に別の意味を持たせた。武士に位階を付与して管理監督することではなく、武士を擬似的に官人として扱った上で既存の侍所のシステムを利用して武士たちをまとめる組織を作り、その組織に公的な役職を持たせることである。貴族である武士や、貴族ではないにせよ朝廷の官職を持っている武士というのは珍しくはない。珍しくはないが断じて過半数では無い。圧倒的大多数の武士は朝廷の官職とは無縁の庶民であり、武士だけを職務とする者も少数派である。多くの場合は農業や漁業といった産業に携わりつつ、必要に応じて防具を身にまとって武器を手にする身である。

 源頼朝のもとに集まった軍勢は、これから平家を打倒することを目的として集まった軍勢である。それは、平家打倒を果たした瞬間に軍勢の組織意義そのものを喪失させてしまう宿命を持っている。戦争は終わったからこれまでのように農民として農地に戻り、あるいは船に乗って漁業に励むように考える者は多くない。純然たる収入源として考えたとき、農民でもあり武士でもある、あるいは漁師でもあり武士でもあるというのは、本業を上回る収入が期待できる生き方なのだ。軍勢の存在意義の消滅は収入源の喪失でもあり、平和の理念には同意しても、本心から受け入れることのできる話ではない。

 また、平家打倒という崇高な目標を掲げていても、全くの無報酬とするなど許されない。最低でも、平家打倒を果たした後は、各員の働きに応じた報償を与える義務がある。と同時に、現時点で各員が保有している所領については不可侵であることを約束しなければならない。他者の報奨のために、ともに源頼朝とともに戦った者の所領を没収して報奨として与えるなど許される話ではない。名目上はあくまでも源頼朝とその家族を守る武士の集団である侍所を新たに創設し、その侍所をより広範な組織とすることで多くの武士を抱える集団とさせ、平時には警察権を持った組織として源頼朝の支配下にある地域の治安維持を図り、緊急時には軍事権を持った組織として戦場に出向くという組織を構築することは四つのメリットがあったのだ。

 平家討伐後の武士に、平家討伐後の役割を用意すること。

 平家討伐後の武士に、役割だけでなく役職も用意すること。

 支配する地域の治安をこれまでより向上させること。

 平家討伐時の軍事力をそのまま保持し続けること。

 この四つである。

 ではなぜ、和田義盛をそのトップにすることを源頼朝は許可したのか?

 一言で言うと、信頼できたからである。

 畠山方の軍勢と争うきっかけとなったことからもわかる通り、この人は浅慮なところがある。だが、一人の武士として勇猛果敢に戦うのも、武将として軍勢を率いるのも、和田義盛ならば任せることができたのだ。それに、浅慮というのも後世からの判断であり、後世から浅慮と弾劾されるような行動をとったときも、その時点での評価としては即断即決なのである。戦場において躊躇せずに即座に判断を下すというのは、後世からすればマイナスでも、同時代からすればプラスであることが多い。


 源頼朝らが安房国のどこに上陸したのか正確にはわかっていないが、今のところ千葉県鋸南町竜島が源頼朝の上陸地点であったろうという説がもっとも有力である。安房国の在地領主である安西氏の安西景益は幼少時から源頼朝と親しかったという伝承もあり、源のよりとをも出迎える用意を安房国の側でも用意していたと見られる。

 上陸地点は断定されていないが、上陸した源頼朝が最初に何をしたかは判明している。平家の息が掛かった安房国の役人に対する逮捕命令である。源頼朝は以仁王の令旨を前面に掲げており平家打倒についてのオフィシャルな根拠は持っている。安房国は吉田経房こと藤原経房の知行国であり、吉田経房自身は藤原北家の人間であり、平家政権下で出世を果たして蔵人頭にまで昇格していた人物であるのだから知行国とした安房国に平家に関連する人物が多くてもおかしくないものだが、実際には安房国の中で平家に関連する人物はそう多くはなかった。上陸して間もなく三浦義澄が平家方の武士である長狭常伴(ながさのつねとも)を追討したが、安房国の武力行使となるとこれぐらいである。

 吉田経房は明らかに平家の息の掛かった人物ではあるのだが、吉田経房はかつて伊豆守を務めており、その頃の北条時政は在庁官人として吉田経房に仕えていたという間柄だ。つまり、かつての上司と部下という関係になる。しかも、吉田経房は平治の乱の前に上西門院統子内親王の元に仕えていた過去を持っている。上西門院統子内親王と言えば源頼朝が平治の乱の前に仕えていた人だ。こうなると、伊豆に流罪になる前も、流罪となった後も、源頼朝と吉田経房は関係が存在している。そして、この関係を利用して源頼朝は吉田経房と連絡を取り合うようになっていたと思われる。そうでないと、こののち源頼朝の京都における代弁者となり、吉田経房はこのあとで平家政権下以上の出世を果たしたことの説明ができない。

 さて、ここで注意していただきたいことがある。

 繰り返し述べてきたが、この時代は新聞もテレビもネットもなく、情報は人の手で運ばれるものであり、京都にいる人が関東地方の情報に接するとすれば、そこには半月のタイムラグが存在するということである。馬を懸命に急いで走らせたとしても、奇跡に奇跡が重なったとして一〇日で届くかどうか。黒潮に乗ることができれば海路でもっと時間を短縮することも可能であろうが、これは極めて例外である。仮に源頼朝の挙兵から一〇日後に京都に情報が届き、京都から発せられる情報が関東地方に届くまで一〇日であったとしても、その二〇日の間に関東地方の情勢は激変している。このタイムラグは大きければ大きいほど源頼朝にとって有利になる。

 源頼朝が伊豆国の目代である山木兼隆を討ったのが治承四(一一八〇)年八月一八日。その第一報が京都に届く前の八月二三日に石橋山の戦いが起こり、源頼朝の敗戦と源頼朝の軍勢の主立った者が討ち取られたという情報が京都に届く前の八月二八日に源頼朝は安房国に到着した。

 九条兼実の日記における源頼朝の挙兵のニュースの初出は九月二日のことであり、そのときの情報も不明瞭なもので、平治の乱で拿捕されて流罪となった源義朝の子が伊豆国と駿河国の二ヶ国で暴れ回り平将門のようになっているというものである。場所が違うし、そこまで大規模ではない。そして何より、源義朝の子という記されかたであって源頼朝の名がそもそも存在しない。

 九月五日には平維盛、平忠度、平知度を追討使として派遣することを決めたが、そのあとで大庭景親から、実際には梶原景時から、在地の平家の軍勢の勝利に終わり、源頼朝の軍勢の主立った者は討ち取られ、首謀者の源頼朝が行方不明となっており現在捜索中であるとの情報が入ったことで追討使の派遣が見送られたことが記されている。

 朝廷は何か起こってから発せられた情報に基づいて行動を起こしている、すなわち関東地方で何が起こっているのかの情報を自発的に集めることなく情報が届いてから行動し始めているのに対し、源頼朝はこの間も月に三度の定期連絡を受け取っており、極秘裏であるにせよ返信も京都に届けている。算道を職掌とする役人である三善康信が書状のやりとりの相手であるが、京都における源頼朝の情報源は三善康信だけではない。一条能保こと藤原能保と源頼朝とは義兄弟の関係にあたり、一条能保は太皇太后藤原多子や上西門院統子内親王に仕えている身でもあることから、朝廷の奥深くの情報が手に入る。それこそ京都の貴族でも手に入らないような情報を源頼朝は東国の地で手に入れることができている。その上、情報が届く前から源頼朝は行動を開始し、新たな情報が自分の想定と異なるならばプランBを用意してさえいる。そのような源頼朝から、最新の情報を蔵人頭吉田経房まで極秘裏に届けることに成功していたらどうか?

 吉田経房は朝廷内において圧倒的優位に立てることとなる。見返りとして安房国における源頼朝の行動を黙認することは充分に取引材料として成立する。しかも、源頼朝は以仁王の令旨に基づいて行動をしているために、法的にはグレーゾーンであるとは言え違法ではない範囲で行動している。理論上ではあるが、吉田経房は違法なことをしているわけではない。


 安房国を制圧した源頼朝は、小山朝政、下河辺行平、豊島清元、葛西清重に対して源頼朝側に起ち上がることを求める書状を送った。最終的な合流は求めるが彼らは房総半島から距離があるところにいるため、速やかな合流を求めることはできない。

 この四人の中で源頼朝が特に重要視したのが葛西清重である。速やかな合流を求めるのではなく、時間を要しても構わないという前提で海路を通って合流するように求めたのだ。葛西清重の所領は現在の東京都葛飾区から江戸川区にかけての一帯であり、現在は東京都であるがこの当時は武蔵国ではなく下総国である。つまり、葛西清重の所領までが源氏の勢力として計算できる房総半島であり、葛西清重の所領から一歩西に進むと平家の武士団の多い武蔵国に突入することとなる。葛西清重が海路で合流できれば、房総半島から武蔵国に向かうまでのルートを陸路だけでなく海路でも確保できることとなる。単に人が移動するだけでなく物資の輸送を考えると、陸路の半分の時間で移動を完了できる海路が確保できることは源頼朝の軍勢を優位に立たせる効果がある。既に書いたが、治承四(一一八〇)年という年は不作が予期されている。食糧の現地調達をしようものなら軍勢が通った跡は飢饉のために草木も生えぬ地となってしまうのだ。

 書状を送った四名は房総半島制圧後の行軍を前提とした合流要請であったが、前提となる房総半島制圧が完了したわけではない。源頼朝はそのことも当然視野に入れており、上総介広常のもとへ和田義盛を、千葉常胤のもとへ安達盛長を派遣した。こちらは速やかな合流を求めるためである。

 この件については、吾妻鏡と源平盛衰記との間で経緯にバラツキがある。

 吾妻鏡によると、千葉常胤はただちに合流することを約束した一方、上総介広常は回答を保留したとある。その理由として、上総介広常は隙あらば源頼朝に取って代わろうとしていた野心があったからだとする。

 源平盛衰記によると、千葉常胤は一度回答を保留したのち、上総介広常と相談した上で回答すると答えたとあり、同時に、上総介広常もまた千葉常胤と相談した上で回答するとしたとある。こちらだと上総介広常の野心の記載は無い。

 ちなみに、平家物語ではどのように描かれているのかを調べてみても無駄である。平家物語には源頼朝が関東地方で起ち上がったことを伝える使者がやってきたという記述しかない。源頼朝が起ち上がってから石橋山で敗れた後に房総半島に渡ったことまでが記されているのみである。

 結論から記すと吾妻鏡の記述のほうが正しいのだが、吾妻鏡の記述を鵜呑みにすることはできない。吾妻鏡を誰が記したのかを考えると、千葉常胤を称賛し上総介広常を貶めて書けば都合良くなるのだから。


 源頼朝が関東地方で挙兵した。

 源頼朝の挙兵の根拠は以仁王の令旨である。

 以仁王の令旨は源頼朝だけに向けて発せられたものではなく、数多くの源氏の元に届けられており、以仁王自身の蜂起によって日本全国に以仁王の令旨の内容、すなわち平家打倒を促す決起文が広まることとなった。

 以仁王の令旨を知ってどうしようかと戸惑っていたところで、源頼朝が実際に伊豆で挙兵したという知らせも届いた。

 以上が積み重なると何が起こるか?

 源頼朝以外の者も以仁王の令旨に従って起ち上がったのである。治承四(一一八〇)年九月六日から九月七日にかけて、確認できるだけで三件の挙兵が見られた。

 まず、九月六日に熊野権別当湛増が起ち上がった。湛増は誰よりも先に平家打倒の動きを知り、平家打倒に動きだそうものなら逆に平家に打倒されることになるとして、熊野から以仁王に従おうとする者を排除しようとした僧である。その熊野権別当湛増が、今度は源氏方に味方するとして起ち上がったのだ。それもただ起ち上がったのではなく、自分とともにかつて平家方として熊野から源氏派を追放しようと協力していた仲間たちを熊野から追放したのである。厄介なことに、熊野権別当湛増は熊野水軍を率いることに成功していた。紀伊半島南東部を拠点とする水軍であり、同地は耕作地に乏しい代わりに海運業に携わることによって生計を立てる者がむかしから多かったのであるが、文字通りの海運業ならともかく海賊行に身を投じることも多くなると、熊野水軍そのものが軍事的に脅威となる。軍事的に脅威となるということは味方とすることに成功すれば莫大な軍事力を手にできるようになるということでもある。

 九月七日には、甲斐国の武田信義こと源信義が以仁王の令旨を旗印として甲斐国内の源氏を石和(いさわ)に招いて挙兵した。後述する波志田山(はしたやま)の戦いに対してこれから先どのように接していくべきかを検討していたところで源頼朝が挙兵したという知らせが飛び込んできたことを踏まえての挙兵である。源頼朝は、北条時政と、北条時政の息子で後に北条義時と呼ばれることとなる江間義時の親子を甲斐国に向けて派遣しているが、九月七日時点ではまだ到着していない。

 そして、三件目。この三件目が問題である。

 木曾義仲こと源義仲が挙兵したのだ。

 熊野は源氏側に立つと宣言しているが熊野三山の外に出て行って戦うわけではなく平家に従わないという宣言をしただけである。源頼朝としてみれば味方を宣言してくれることはありがたいし、熊野の防衛に徹するというのであるから源頼朝の計画において障壁となることはない。

 甲斐源氏は源頼朝の把握しうる存在であり、源頼朝は共闘できると考えて北条父子を派遣している。共闘できなければ痛手となるが、それでも甲斐源氏が関東地方に手出しせずに相互不可侵であるなら時間を稼げる。問題は甲斐源氏が関東地方にまで手を伸ばすことであるが、その場合でも関東地方の源氏の勢力を結集させれば甲斐源氏を倒すことは、夥しい血が流れるであろうが不可能ではない。

 問題は木曾義仲だ。そもそも木曾義仲の父の源義賢は源頼朝の長兄である源義平に討たれ、後の木曾義仲こと駒王丸は二歳にして信濃国へ逃れたという経緯がある。その後、駒王丸は中原兼遠のもと木曾谷、現在の長野県木曾町に逃れ、中原兼遠の庇護下に育っていた。木曾義仲と呼ばれるようになったのは木曾谷で育ったからである。ちなみに、木曾義仲と呼ばれるようになる前は木曾次郎と呼ばれていた。名前からしてわかる通り次男である。父が亡くなった頃、木曾義仲の長兄である源仲家は母とともに京都におり、後に源頼政の養子となって長兄で官職を務めていたが、養父源頼政の出陣に従って軍勢に参加し宇治平等院のあたりで討ち死にしている。

 木曾義仲のことを源頼朝が知らなかったわけではないが、共同歩調を取れる相手であるとも考えられなかった。何しろ源頼朝は実父を殺害した人物の弟なのだ。伊豆に流罪になって苦しい思いをしたと源頼朝は言うかも知れないが、それでも木曾義仲のこれまでの人生に比べれば甘ったれた生活をしていたと言うしかない。生活は比企氏の支援があり、何かあれば駆けつけてくれるかつての戦友もおり、住まいこそ伊豆ではあるものの日常生活は基本的に京都の貴族の暮らしを模したもので、学問に励むことも許され、そして何より平家にその存在を認知されている。それにひきかえ、木曾義仲にはそれらのどれもない。飢餓に直面するような危機ではないにせよ生活の支援は乏しく、かつての戦友と呼べるべき者はおらず、探すとすれば木曾の山中で共に生活していた仲間のみ。生活様式は首都の洗練されたものとは大きく違う粗野なもので、学問はその片鱗も見えず、そして何より無視されてきた人生である。平家物語で以仁王に反平家で起ち上がるよう訴え出た源頼政が全国各地の源氏の名を列挙するときに信濃国の源氏の一人として名前が挙がるものの、基本的に木曾義仲は重要視されておらず、その他大勢の源氏の一人という扱いである。木曾義仲に言わせれば、源頼朝は反平家という点で意見を同じくすることはあっても、源頼朝から同じ清和源氏として一丸になっての行動を説いたところで、恨みしかない相手の戯れ言になってしまうのだ。

 せめてもの救いは、木曾谷が信濃国と美濃国の境界付近にあることである。木曾谷で蜂起した武士が平家打倒を考えるのであれば、東山道を東に向かって関東地方に向かうという選択肢はありえず、木曽川沿いに南東へ下って濃尾平野に出てから京都へ向かおうとするはずである。つまり、未だ軍勢結成中の鎌倉方の軍勢の前に木曾方の軍勢が立ち向かう可能性は低いということである。ちなみに、これより少し後の記録では信濃国木曾谷出身の木曾義仲という言われかたをするようになるが、木曾谷の住所を厳密に記すと美濃国である。父が殺害されたときには信濃国に避難し、その後で美濃国に逃れたということになる。


 治承四(一一八〇)年九月七日の木曾義仲の挙兵の様子を吾妻鏡より拾うと、以下の通りとなる。

 平家は各地の源氏を監視するために、全国各地に平家の家人である武士を派遣しており、その中に一人に笠原頼直という武士がいた。吾妻鏡は木曾義仲討伐のために木曾への進行を企てたとあるが、実際には東山道が源氏に制圧された場合の第二の交通網整備のためであろう。

 現在、濃尾平野から長野県の塩尻に向かうには、道路で言えば国道一九号線、鉄道で言えば中央西線を通って木曽川沿いに北東へ進むのが一般的であるが、この時代は、途中の中津川までは現在と同じでも、そこから神坂峠を西から東に向かって飯田方面に出て、道路で言うと国道一五三号線、鉄道で言うと飯田線に沿って、飯田、駒ヶ根、伊那を経由して塩尻に向かうのが一般的であった。そのルートが東山道である。

 何度も記しているが、平安京という都市は自給自足できる都市ではない。各地からの物資が搬入されてきてはじめて生活が成り立つ都市である。その物資搬入路のうちの東山道は、途中に神坂峠という難所があるものの、東北地方と直結する大動脈であると考えられており、特に武具や馬の搬送においては他の道路よりも重要視されていた。

 ただ、この神坂峠が大問題であった。急峻で距離も長いことから峠を越えることができずに途中で命を落とす者や、治安も悪かったことから途中で盗賊に襲われる者が続出していたのである。前述の武具や馬のように費用対効果が高ければ警護と食糧を増やして峠に挑むこともできたが、そうでない製品の輸送には向いているとは言えなかったのだ。

 源氏が起ち上がったという知らせは既に平家の元まで届いている。源頼朝が伊豆で起ち上がったあと行方不明になったという知らせではあるが、源頼朝が姿を再び見せ、蜂起の地点である伊豆とその周辺を制圧したら東海道が途中で途切れることとなる。そうなったら、平安京に入り込む物資が少なくなり、最悪のケースとして飢餓が起こる。それは何としても食い止めなければならない。かといって、神坂峠という難所を構えている東山道に東海道の代替はできない。そこで目を向けられたのが木曾川である。神坂峠を回避して木曾川沿いに北上して塩尻に出ることで、安全で平易な交通路を構築し、費用対効果の低い製品の輸送や人の移動を東山道でも可能となるように目指したのだ。

 笠原頼直は信濃国を本拠地とする武士であるが、このときは大番役として六波羅に在駐しており、以仁王の蜂起に際しては宇治川まで出向いて手柄をたてている。その後で命じられた東山道のバイパス開拓だ。開拓と言っても既に木曾川沿いの道そのもの、現在で言う国道一九号線やJR中央西線に相当する道はあるので、その道を東山道のバイパスとして利用できるか否かを調査する役目を受けた。単に調査するのではなく、周辺の武士の情勢、特に源氏の勢力の把握も調査対象となっていた。だからこそ経験実績ともに申し分ない地元出身の武士である笠原頼直が選ばれたのである。

 現地に着いた笠原頼直は、木曾川沿いの武士団が源氏の側になっているのを目の当たりにした。ただし、笠原頼直の判断では大した軍勢では無かった。ここで平家の側に立つことを促せばついてくる武士も多いであろうと考えたし、ついてこない武士は制圧できると考えたのである。

 ところが、その考えは甘かった、笠原頼直と直面したのは村山義直と栗田寺別当大法師範覚の率いる軍勢であった。村山義直らは、平家の手が伸びてきていることを後方に伝えさせるとともに笠原頼直と一進一退の攻防を繰り広げ、矢が尽きたとき、村山義直の援軍がやってきた。その援軍を率いていたのが木曾義仲である。これが史料における武士としての木曾義仲の初登場の場面である。

 木曾義仲の軍勢を見た笠原頼直は、信濃国南部における源氏勢力が想定しているよりも巨大であること、東山道のバイパスを計画していた木曾川沿いは源氏に制圧されていることを伝える使者を京都へ向けて送り返すと同時に、本拠地であったはずの南信濃を放棄して自身はそのまま北へ向かい、筑摩川ぞいに北に逃れて越後国に入り、平家方の一大勢力であった城資永(じょうすけなが)のもとへと逃れていった。

 これが吾妻鏡の伝える木曾義仲の蜂起のシーンである。


 治承四(一一八〇)年九月七日時点の源頼朝は、この日に木曾義仲が起ち上がったことを知らない。しかし、源頼朝の脳内には地図があり、どこに武士団があってどの武士団が平家の側か源氏の側かの判断ならばついているし、誰が敵で誰が味方であるかも見定めている。その中には木曾義仲もいる。源氏か平家かと問われれば源氏である木曾義仲であるが、源頼朝の味方であるか否かで問うと明らかに否となる木曾義仲対策についても源頼朝は考えている。

 源頼朝は、北条時政とその息子の江間義時の親子を使者として派遣することで、甲斐源氏を利用した対木曾義仲の作戦を展開した。起ち上がるかどうかは別にしても、清和源氏であっても自分に従う可能性は低いとするしかない木曾義仲に対しては早い段階で踏み込んでおかなければならない。

 では、どのように踏み込んだのか?

 甲斐源氏のターゲットを信濃国とさせようとしたのである。

 その前に挙げておかなければならない戦いが一つある。甲斐源氏の蜂起のきっかけとなった波志田山(はしたやま)の戦いである。

 吾妻鏡の記述によると、九月七日よりも前である八月二五日に甲斐源氏は平家方と戦闘をしているとある。ただし、そのときはまだ挙兵したことにはなっていない。どういうことかというと、八月二五日時点ではまだ、相手から攻め込まれてきたために自衛したのであり、正式な挙兵ではないのだ。

 吾妻鏡によると、治承四(一一八〇)年八月二五日に、富士山の北にある波志田山(はしたやま)で甲斐源氏が平家の軍勢と戦ったとある。ただし、そこには武田信義の名前はなく、甲斐源氏の軍勢を構成する名前として挙がっているのは、武田信義の弟とも叔父とも言われる安田義定、工藤景光と工藤行光の親子、そして市河行房といった面々である。一方、平家方の軍勢は、大庭景親の母親違いの弟である俣野景久と駿河国目代の橘遠茂の名前がある。俣野景久が橘遠茂とともに駿河国から甲斐国へ軍勢を進めたところ、安田義定らの軍勢と波志田山(はしたやま)の付近で遭遇したために合戦となったというのが吾妻鏡の記述で、戦闘の前夜に俣野景久の軍勢の弓の弦がすべてネズミによって食いちぎられていたために、いざ戦闘を始めようにも弓矢が使い物にならなかったために戦闘前に俣野景久は逃走し、橘遠茂も駿河国へ逃げ帰ったというのが吾妻鏡の記述である。

 八月二五日という吾妻鏡の日付の記録は私の書き間違いではない。その上で、このことも脳裏に刻んでおいていただきたい。

 俣野景久は兄である大庭景親とともに石橋山の戦いに参戦した。

 石橋山の戦いは八月二三日である。

 いかがであろうか。石橋山の戦いは明確な勝利ではなく、源頼朝が行方不明になるという形での戦闘終結である。にもかかわらず、その二日後の八月二五日に軍勢を整えて富士山の北まで行けるであろうか?

 梶原景時に源頼朝の捜索を任せて大庭景親は戦場から離脱したのだから異母弟の俣野景久も一緒に戦場から離脱してもおかしくないし、静岡県から山梨県に行くだけではないかと思うかも知れないし、高速道路や鉄道の無いこの時代でも東海道の支線として甲斐路(かいじ)という道路は存在していて東海道から甲斐国府までの道がつながっていた、すなわち、駿河国や伊豆国から甲斐路を通って甲斐国に行くルートは存在するのだから不可能ではないと思うかも知れないが、さすがにこんな短時間では無理だ。しかも、八月二五日という日付は前日に野営をした後の日付である。石橋山の戦いの翌日には富士山の北側まで軍勢を引き連れていたということになるのだ。

 しかし、こう考えると全て辻褄が合う。

 波志田山(はしたやま)の戦いを吾妻鏡に記すとき、意図的に日付を書き換えたのだと。八月二五日よりも前、具体的には石橋山の戦いの前に既に波志田山(はしたやま)の戦いが存在しており、そこで敗れた俣野景久が異母兄のもとに逃れ、どれぐらいの時間的猶予があったかはわからないが、その後で繰り広げられることとなった石橋山の戦いに加わることとなったのだと考えれば、出来事と時間軸とが合致する。

 公的記録によれば甲斐源氏が起ち上がったのは九月七日である。ただ、この日は甲斐源氏が石和に集まって挙兵した日であり、それよりも前、源頼朝が挙兵する前に甲斐源氏は平家の軍勢と戦っていた。その日を石橋山の戦いよりも後にしたのは、吾妻鏡を記すときに源頼朝を関東で最初に挙兵した人物とさせる必要があったからと考えると、動機まで合致することとなる。

 武田信義ら甲斐源氏は清和源氏の中で源頼朝らと一線を画した独立勢力となっていたが、源頼朝はそのあたりも把握している。石和で挙兵したという知らせはまだ源頼朝の元に届いてはいないが、源頼朝はかなりの確率で波志田山(はしたやま)の戦いのことを知っている。だからこそ、北条時政と、その息子で後に北条義時と呼ばれることとなる江間義時の二人を甲斐源氏のもとに派遣したのである。目的は共闘戦線を組むため、共同戦線がダメだったとしてもセカンドベストとしては相互不可侵を図るためである。

 甲斐国、現在の山梨県は、甲府盆地を中心として甲斐国全体が一つの地域となって統治しやすい地形となっている。そのために甲斐源氏が半ば独立した源氏勢力になっていて外部の干渉を受け付けない図式になっているという側面はあり、武田氏以外の甲斐源氏も存在してはいるが、基本的には武田氏が甲斐源氏のトップに君臨して甲斐国全体に睨みを利かせている。

 一方、信濃国、現在の長野県は、盆地が点在していてそれぞれの盆地にそれぞれ武士団が点在しているだけでなく、全体的なまとまりを考えても甲斐国より乏しい。信濃国全体をまとめる武士団は存在せず相互の小競り合いが頻発しているのが治承四(一一八〇)年九月時点の信濃国だ。

 そうした信濃国の武士の一人に小田切友則がいた。小田切友則は平家方の武士団を率いており、現在の伊那から駒ヶ根にかけての一帯の天竜川沿いの伊那谷を支配していた。

 木曾義仲の挙兵のところでも述べたが、現在、長野県の松本市から塩尻市に掛けての一帯から京都に向かう最短のルートは、道路で言えば国道一九号線、鉄道で言えば中央西線を通って名古屋方面に向かうルートであるが、この時代は、道路で言うと国道一五三号線、鉄道で言うと飯田線に沿って、伊那、駒ヶ根、飯田と経由し、飯田から神坂峠を経て岐阜県の中津川に出るというルートであった。これが東山道である。小田切友則はこの東山道の要衝を支配していたのだ。関東地方で軍勢をまとめ上げて打倒平家を果たすために京都へと向かうとすれば、そのルートの第一候補は、現在の神奈川県、静岡県、愛知県を通る東海道だが、第二候補は、現在の群馬県、長野県、岐阜県を通る東山道である。そのまっただ中にある伊那谷を支配する小田切友則を甲斐源氏に討伐してもらえれば東山道のルートをまずは確保できる。東山道最大の難所である神坂峠を回避する必要性については多くの人が知っており、木曾川沿いを利用したルートの開拓が検討されていることも多くの人が知っている。ただし、その実効性についてはまだ検討中という段階であり、東山道は神坂峠を越えるものであるという前提を崩してはいなかった。

 治承四(一一八〇)年九月一〇日、武田信義率いる甲斐源氏の軍勢が信濃国伊那郡の小田切友則の屋敷に向かった。小田切友則は各地の源氏が蜂起したことはニュースとして知っていたが、自分がターゲットになるとは全く考えていなかったと見え、戦わないことを決意した。ただし、降伏したのではない。屋敷に火を放ち自ら命を絶ったのだ。これにより信濃国の東山道を源氏は抑えたこととなる。


 甲斐源氏が東山道を抑えた頃、源頼朝は房総半島制圧に向けて動き始めていた。

 治承四(一一八〇)年九月一一日、源頼朝が安房国を巡検。知行国主吉田経房の黙認のもと安房国で源頼朝は自由に行動できており、巡検することで源頼朝は安房国全体に対して以仁王の令旨に基づく平家打倒を完了させたことを示した。

 これだけならばまだ武力を前面に押し立てた示威行動なだけであるが、翌日、源頼朝は安房国一宮である洲崎神社に対して条件付きで荘園を寄進すると表明した。これは、源頼朝は支配地の占有や私領化ではなくあくまでも平家打倒のみを求めており、その他の社会構造については手を付けず、自分たちは平家からの解放者であり、平家の被害者に対する保護者となると示したことを意味する。

 ただし、狡猾である。条件を付けたのだ。

 その条件というのは二点ある。上総介広常が源頼朝に合流すること。そして、千葉常胤が源頼朝に合流することである。房総半島の平和的な制圧に協力することを求め、満たされるなら解放者であり保護者になると宣言したわけである。

 この宣言は一日で安房国の内外に広まった。安房国の世論は源頼朝のもとに向かい、源頼朝に協力しないことは平和を乱すものとして弾劾される風潮すら生まれたのである。治承四(一一八〇)年九月一三日、源頼朝が安房を出立して上総に向かう。このとき、源頼朝に従って出発した兵の数は三〇〇騎ほどであったという。吾妻鏡によると同日、源頼朝のもとに二つの連絡が届いたとある。一つは上総介広常が軍勢をまとめるのに手間取っているため参上できずにいること、もう一つは、千葉常胤が源頼朝に従って行動を開始し、息子である千葉胤頼と孫の千葉成胤を下総国府に派遣して平家方の目代(もくだい)館を攻撃し始めたとの知らせである。

 房総半島は北から下総国、上総国、安房国となっている。そして注目していただきたいのは、このタイミングで下総国府を千葉一族の軍勢が攻撃しているという情報である。つまり、上総国府についての情報はないにもかかわらず、九月一三日の時点で上総国も源頼朝の支配下に入っていたということになる。あくまでも吾妻鏡によれば、の話であるが。

 では、どのような経緯で上総国が源頼朝の支配下に入ったのか?

 吾妻鏡には記録が残っていないが、実は意外なところに記録が残っている。九条兼実が書き残した日記だ。九条兼実は東国で介八郎広常、すなわち上総介広常が大庭景親を攻撃したと日記に書き留めているのである。それがいつ時点のことなのかを九条兼実は日記に残していないが、日記そのものの日付は九月一一日のことであり、この時代の情報伝達スピードを考えると八月時点の情報を九条兼実は九月一一日の日記に書き記したこととなる。そして、大庭景親が登場する戦いとなると石橋山の戦いということになる。上総介広常は石橋山の戦いに源頼朝方として参加していたのだ。

 さらにここがややこしいところになるのだが、上総介広常は上総介ではなく、単にそのような苗字なだけである。治承四(一一八〇)年時点で官職としての上総介は伊藤忠清であり、上総介広常と伊藤忠清との対立は前年一二月の時点ですでに表面化していた。何しろ京都にいる伊藤忠清のもとに上総介広常息子である上総介能常を派遣したら伊藤忠清のもとに監禁されたというのだからこれは穏やかではない。

 このタイミングでやってきた絶好のチャンスである。吾妻鏡を詳細に研究された野口実氏によると、確かに上総介広常は源頼朝の軍勢に合流するのが遅れたが、遅れた理由は上総介氏が上総国府を攻撃し平定していたからであるとする。上総介一族が上総国府を、千葉一族が下総国府を攻撃するという役割分担をすることで房総半島を制圧するという作戦分担をしたのだ。ところが、吾妻鏡の記述では千葉常胤しか合流せず、上総介広常は大遅刻をしたとなっている。上総介広常が遅刻したのは隙あらば源頼朝にとって代わって自分が関東地方における覇者となる野望を抱いていたからだとするのが吾妻鏡の主張だ。つまり、吾妻鏡は事実をあるがままに書いたのではなく、事実を取捨選択して、吾妻鏡を書き記した著者にとって都合の良い過去を作り出したのだ。

 ここにもう一つ、上総介広常が早い段階で源頼朝のもとに参加していた証拠がある。先に、源頼朝は洲崎神社に対して荘園の寄進をすると誓ったと書いたが、その寄進は実行されたのである。二つの条件、上総介広常と千葉常胤の両名が源頼朝のもとに合流した証拠と言えよう。


 千葉常胤が下総国府への襲撃をかけたのはすでに記した通りであるが、これを下総国府の側から捉えるとどうなるか?

 上総介広常も千葉常胤も上総国の有力武士団のトップであり、その両名ともが源頼朝の側で起ち上がろうものなら、源頼朝は安房国だけでなく上総国も手中に収めることとなる。下総国の平家側の官人や武士たちは恐懼しているところであったが、まだ時間の余裕はあると思っていた。それなのにいきなり下総国府を千葉一族の軍勢が襲いかかってきたのだ。

 これで完全にパニックに陥ったが、下総国の平家の武士たちも黙っているわけはなかった。安房国がどうなったかは知っている。上総国の巨大勢力である千葉氏と上総介氏がともに源頼朝のもとに加わったあとの上総国の命運も決まりきっている。その後で下総国がどうなるかを考えれば、残されている手段は抵抗だけだ。脱出しようものなら武士としてのメンツが傷つくだけでなく失業する。下総国で武士として生活をできている理由は平家が武士として認めたからである。脱出は平家から見放されることを意味し、平家から見放されることは武士という職業で食べていけなくなることを意味する。それまでは田畑を耕す庶民の上に立つ特権階級気取りでいられたのが、いきなりその日の食料に困る生活へとなるのだ。第三者はこれを仕方ないと済ませることができるが、当事者にとっては人生を全否定する転落である。

 彼らの狙った抵抗の手段、それは、国府を攻撃している隙をついて千葉一族の本拠地に向かって進撃することである。下総国府を守るのでなく、一時的に国府を千葉一族に明け渡すこととなったとしても、千葉一族の本拠地を奪い、千葉一族を殲滅できれば、下総国府もすぐに奪回できると考えたのだ。

 アイデアとしては悪くなかった。しかし、それを許す千葉常胤ではなかった。千葉常胤自身ではなく、下総国府から戻ってきたばかりである孫の千葉成胤に指揮させて、すなわち平家方に余裕という圧力をかけた上で、千葉一族の本拠地に攻め込もうとした千田親政を生け捕りにすることに成功したのである。せめて戦場で散ったならばプライドも保つことができたであろうが、情けをかけられた上での生け捕りである。プライドはズタズタに引き裂かれることとなった。


 治承四(一一八〇)年九月一四日、甲斐源氏の武田信義と、武田信義の嫡男である一条忠頼が信濃国の平家の平定を終え甲斐国へと帰還した。ここで帰還した武田信義を待っていたのが北条時政である。

 北条時政は源頼朝から甲斐源氏を信濃国に向かわせることを最良の選択肢とした上での共同戦線を組むために派遣されていたのであるが、甲斐国に到着してみたら武田信義は不在であり、ようやく戻ってきた武田信義と面会したら北条時政から求める予定の信濃国の制圧が完了していたのである。

 北条時政とすれば依頼すべき内容が既に完了し、信濃国の領域内での交通路としての東山道の確保も完了したこととなる。

 だが、ここで武田信義と北条時政が会談したことは全くの無意味ではなかった。武田信義から駿河国へと侵攻することが、厳密に言えば反撃することが告げられたのである。まずは関東地方の制圧を考えている源頼朝にとって、その次に考えねばならない東海道への進出についての足掛かりを甲斐源氏が築いてくれるというのは感謝こそあれ非難すべき内容ではない。気がかりな点としては甲斐源氏が源頼朝の手から離れた独自の軍事集団となって源頼朝の前に立ちはだかる存在になることだが、この時点では反平家の蜂起という点で利害の一致が見られており、源頼朝との間の共同戦線構築という点で両者は意見の一致を見た。

 これから後の出来事の推移を見ると、北条時政が武田信義の提言を受け入れたことは源氏にとって大正解であったことがわかる。

 北条時政は目的を完遂させただけでなく二つの手土産まで持って源頼朝の元へと戻ることとなった。一つは前述の、甲斐源氏による駿河国への侵攻、すなわち東山道に加えて東海道の経路も、途中までではあるにせよ確保できる筋道ができたこと。そしてもう一つは、甲斐源氏の内部問題。甲斐源氏は武田信義を中心にまとまっているものの、武田信義の後継者争いの萌芽が既に観測できたのだ。具体的には、武田信義の弟と息子の二人の間での後継者争いである。

 明瞭な後継者がいないというのは源頼朝だって同じではないか、さらに言えば五年前に伊藤祐親の手で千鶴丸が殺害されてから治承四年(一一八〇)時点で源頼朝に息子はいないではないかと思うかも知れないが、そろそろ還暦を迎えようかという老練の武田信義と、まだ三〇代前半の源頼朝とを並列に比べることはできない。ついでに言えば源頼朝の妻は北条時政の娘の北条政子であり、北条時政にとって後継者問題とは、やがていつかはという話になるが、北条時政の孫が源頼朝の後継者となるか否かを意味する言葉でもあるのだ。北条政子は既に源頼朝との間の娘を産んでおり、源頼朝にも北条政子にも赴任の心配は無いと見られていた。実際、この二年後に北条政子は、後に源頼家と名乗ることとなる男児を出産している。


 治承四(一一八〇)年九月一七日、源頼朝が上総介広常の到着を待たず下総国府へ向けて出発。同日、下総国府にて源頼朝が千葉常胤と顔を合わせた。

 下総国府には源頼朝の想定していなかった人物が二名いた。

 一人は下総国府への攻撃の裏を突こうと千葉一族の所領に攻め込んだときに生け捕りになった千田親政。もう一人が源頼隆。千田親政についての記録は九月一七日に源頼朝の前に連れ出されたところで終わる。それ以降の記録をどれだけ調べても千田親政の名も、それらしき人物も、全く姿を見せない。もしかしたらここで殺害されたのかも知れない。

 問題は源頼隆だ。

 源頼隆は源義朝の従弟である。ただし、平治元(一一五九)年生まれのため、源頼隆は源頼朝より一世代上ではるが、源頼隆は源頼朝より一二歳歳下である。源頼朝は自分より歳下であるが自分より一世代前である源頼隆という人物が千葉常胤のもとにいることは知っていた。ただし面識は無かった。

 千葉常胤のもとになぜ源頼隆がいたのかの理由は明白で、源頼朝の身に何かあったとき、源頼朝に変わって清和源氏のトップとして推戴できる人物であったからである。千葉常胤にとって最高にして最高の切り札である源頼隆をこの場に連れてきたということは、千葉常胤が源頼朝に完全に服従すると宣言するに等しい。悪く言えば千葉常胤にはもう源頼隆が要らなくなったとも言えるが、そのような本音を口にするわけはない。建前としては、それまで千葉常胤が保護していた源頼隆を、もっとも頼れる親戚である源頼朝のもとに託したという体裁になっている。

 源頼朝もさすがに源頼隆に対して危害を加えたりはしていない。それどころか千葉常胤よりも上座に座らせる配慮を見せている。

 源頼隆が千葉常胤のもとに預けられるきっかけとなったのが平治の乱である。源頼隆は、平治の乱で敗れ逃走している源義朝の身代わりとなって討ち取られた源義隆の息子であり、他ならぬ源頼朝自身が、源義朝の身を守るために源頼隆の父が命を落とした瞬間を目撃している。

 父が戦死したとき源頼隆は生後五〇日ほどの乳児であり、源頼隆は父を知らぬ人生を過ごしてきた。平家の命を狙われてもおかしくない源頼隆の身を守り、父親代わりを務めてきたのが千葉常胤である。上総国の有力武士団のもとでの暮らしであるので極貧とは断じて言えぬし、源頼朝と違って流罪の身になっているわけではないので日常生活での自由もあったが、平治の乱が無ければ過ごせていたであろう暮らしからはほど遠い暮らしを余儀なくされてきた源頼隆は誰もが同情を見せる相手であった。

 それに源頼隆は源頼朝にとっては父の命の恩人の息子である。清和源氏のトップを争うライバルであることは自覚しているが、息子がまだおらず、弟たちとまだ再会できずにいる源頼朝にとって、源頼隆は自分に何かあったときに源氏を率いることのできる後継者でもある。それに、源頼隆の父の壮絶な死の様子は全ての源氏の武士にとってあえて口にするまでもない共通認識であり、その人の息子であるという一点で源頼隆は高い評価を得ていた。その源頼隆を保護して寓することは源頼朝にとってメリットしかない。


 治承四(一一八〇)年九月一九日、源頼朝が下総国府を出発した。目的地は、相模国鎌倉。源頼朝は父祖の地を目指して軍勢を指揮した。

 東京湾沿いに反時計回りに軍勢を進め、常沼、現在の千葉県習志野市のあたりに到着したとき、上総介広常の軍勢が到着した。

 吾妻鏡によると上総介広常が遅刻したことに対して源頼朝は叱責したというが、本当に叱責したのかどうかは怪しい。吾妻鏡は吾妻鏡を著した著者にとって都合良くなるよう取捨選択されている歴史書であるというのもあるが、それ以前に源頼朝にとって上総介広常は必要不可欠な戦力であったのだ。それは上総介広常個人の武士としての能力だけでなく、それまでの源頼朝の持っていなかった要素、すなわち軍勢を上総介広常に頼ることになるからである。ここで叱責して上総介広常が源頼朝の元から離れようものなら源頼朝の軍勢の人数はただちに三分の一未満に減ってしまう。詳細な人数は不明であるが、治承四(一一八〇)年九月一九日から最低でも一ヶ月間は源頼朝の軍勢の総数のうち三分の二以上が上総介広常の率いる軍勢なのである。

 もっとも、全軍の三分の二以上の兵力を提供するとは言え、上総介広常に源頼朝に逆らうという選択肢は無かった。源頼朝は軍勢を必要としている一方、上総介広常は正統性(レジティマシー)を必要としていたのだ。全軍の三分の二以上の兵力を提供しようと上総介広常には武士を統率するに必要な正統性(レジティマシー)が無い。上総介広常に従う武士の数は治承四(一一八〇)年九月時点であれば源頼朝の軍勢の過半数を占めてはいても、この先激増することは考えづらい。しかし、源頼朝であれば激増する可能性は高い。ここで源頼朝のもとに頭を下げて加わることは、現在も、未来も、上総介広常の軍勢の一員であることが関東における勝ち組になることを意味するのだ。

 上総介広常は異名で、本名は平広常という。姓でわかるとおりこの人は本来であれば平氏の人間だ。しかし、平家の人間では無い。関東地方土着の平氏の子孫であり、先祖の多くが上総介に就任していたから上総介という名字で呼ばれるようになったというだけで、公的な地位を得ているわけではない。

 だが源頼朝は違う。父は源義家の直系の子孫にして清和源氏の当主であった源義朝、母は熱田神宮の宮司の娘、当人は伊豆に流罪となるまで京都でキャリアを積み重ねてみた文句無しのエリートであり、平治の乱で敗れたために壊滅状態に陥った清和源氏のトップになることを宿命づけられている人だ。その源頼朝が反平家を旗印にするからこそ、多くの人が自らの行動と正統性(レジティマシー)とを結びつけることができ、軍勢へと参加することを誓うのである。

 しかも、源頼朝は自分とともに戦う仲間の所領を保証すると謳っている。それまでであれば近隣の武士団との抗争の末に強引に所領を奪うこともあったし、朝廷からの命令一つで、あるいは平家の命令一つで所領を没収されることもあったが、源頼朝はそうした理不尽な命令を拒絶するとも表明している。現在で言う私有財産の保護だ。平家の専横に不満を抱いてはいても叛旗を翻すほどではないと考えている人であっても、現時点で手にしている資産は保護し、その上で資産を増やす機会を用意するとしているのであるから、平家ではなく源頼朝を選んだとしてもおかしくない。そんな理想論を語っても現実的ではないと反論する人がいても、後三年の役における源義家という前例を思い返せば源頼朝は理想ではなく祖先の行動の再来を謳っているだけなのだと気づかされる。


 朝廷視点で見ると、伊豆国で流罪となっているはずの源頼朝が蜂起したことが第一報、石橋山で大庭景親と激突して敗れただけでなく源頼朝の家臣の主立った者が討ち取られ、さらには源頼朝自身が行方不明となっていることが第二報である。

 この時点で朝廷は、以仁王の反乱が失敗に終わったように、源頼朝の反乱も失敗に終わると考えていた。

 だが、第三報は朝廷を絶望させるものであった。

 治承四(一一八〇)年九月一九日、西国筑紫においても反逆者が現れたとの情報が飛び込んできたのだ。ただし、誰が反乱を起こしたのかの情報は入ってきていない。後に肥後国の菊池隆直が反乱の首謀者であることが判明するがそれは二ヶ月近く経過してからである。

 また、朝廷の元に届いてきている情報は反乱についての情報だけではない。それよりももっと大問題となる情報が続々と飛び込んできていたのだ。

 その情報は大きく二つに分けられる。

 一つは不作。

 もう一つは伝染病の流行。

 朝廷にしてみれば反乱の知らせは弱り目に祟り目といったところであったろう。

 既に干害についての情報は全国各地から届いてきていたが、この時代の水利政策などたかが知れている。せいぜい雨乞いが限度だ。それでも雨乞いの効果があったのかようやく雨が降ったが、雨が降ってきたのは遅すぎ、しかも不充分であった。この時点でこの年の不作は決定である。前年の収穫を食べ尽くしたらそれで終わりだ。

 さらにここに伝染病が加わる。何しろ高倉上皇が罹患して倒れ、太上天皇を返上するとまで言い出したほどである。この時代に細菌やウイルスといった概念は無いが、人との接触や住環境によって病気になることの知識はある。高倉上皇は福原での高倉上皇の住まいである平頼盛の邸宅からの移住を訴えたため、平家は高倉上皇に対して平重衡の住まいに移るよう促したが、高倉上皇が望んだのは福原の内部での移住ではなく京都への帰還であった。これを平清盛は認識していないか、認識していたとしても認めることはできないと判断した。

 福原への遷都にこだわる平清盛の姿勢と、不作や伝染病との間に直接の関係は無い。だが、福原に強引に移ろうとする姿勢は多くの貴族の反発を招いているだけでなく、少なくとも治承四(一一八〇)年八月の段階で既に意見として挙がるようになっていた。平清盛は何としても福原遷都にこだわり、福原での皇居の建造と貴族への宅地班給も推進したものの、福原での住環境の整備が貴族の反発を和らげることにはならなかった。

 九州での反乱の知らせはこのような情勢下で届いたのである。


 平清盛は各地の反乱を追討することを計画したが、ここで福原の貴族たちを驚愕させる噂が飛び込んできた。

 以仁王も源頼政も晒し首となったのは影武者であり、二人とも生存していて、東国に逃れて源頼朝の軍勢と合わさって数万の軍勢となり、今や東国の七ヶ国以上が以仁王の支配下に入ったという噂だ。

 当初は治承四(一一八〇)年九月五日に源頼朝を追討するための軍勢の結成が決まっていたが、その直後に源頼朝が石橋山の戦いで敗れたという知らせが届いて、軍勢結成の決定が霧散していた。それが九月二二日になって軍勢結成が再確認され、平重盛の子の平維盛を総大将、平清盛の弟の平忠度を副将とし、平清盛の第七子である平知度を武蔵国司たる武蔵守に任命して、伊藤忠清ら京都及び福原在勤の平家の武士たちが動員される討伐軍が結成された。

 また、当時の記録には残っていないが後世の伝承によると、土佐国に流罪となっていた源希義を討伐するよう命令が出されたという。源希義は源頼朝の実母弟である。なお、源希義の討伐については指令だけが出されて軍勢を派遣したわけではない。

 一方、未だ完治せずにいる高倉上皇の転地療養を兼ねた高倉上皇の厳島御幸は治承四(一一八〇)年九月二一日に予定通り進発となった。ただし、予定では厳島で平清盛が高倉上皇を迎え入れるはずであったが、平清盛は福原に残った。今の情勢で福原から平清盛が離れることは許されなかった。

 高倉上皇の進発を見届けた翌日の治承四(一一八〇)年九月二二日、平維盛らが源頼朝を追討するため新都を出発。翌九月二三日に追討軍が旧都に入洛した。あくまでも公的には以仁王も源頼政も故人であり、源頼朝を追討するという前提である。結果的にはその前提が正しいのであるが、当時の人は以仁王や源頼政を倒したと言い張る平家の往生際の悪さを感じさせる前提としか感じなかった。あるいは、平家が倒れることを願う向きがそのような願望を生んだとでもいうべきか。

 そして、このときの公的な発表はもう一つの落胆を招いた。新都を出発して旧都に到着したという公式アナウンスである。ここでいう新都とは福原であり、旧都は平安京である。平安京から福原への遷都はまさに現在進行形で展開している話であるが、遷都の話を白紙撤回して京都に戻ることを期待する人も多かったのだ。しかし、追討軍ははっきりと、福原を新しい首都と、京都をかつては首都であった都市と明言した上で京都に到着したのである。

 落胆したのは追討軍も同じであった。いや、落胆の度合いで言えば追討軍のほうが大きかったとするべきであろう。京都に到着し六波羅へと赴いた追討軍に対し過酷な現実が突きつけられたのだ。

 兵力不足と兵糧不足だ。

 不作の結果、追討軍が用意できる兵糧の数はとてもではないが予定している兵を全て養うなど無理な話であり、兵糧をさらに追加で支援してもらえなければ行軍できないことが判明したのである。権中納言中山忠親はその日記で伊藤忠清と平維盛との間に出発の日取りをめぐる争いがあったとしているが、実際のところは兵士に用意できる食糧の問題であった。兵士も食糧も現地調達をすれば良いではないかという平維盛に対し、現地調達どころかこれから通ることになる東海道はこちらから食糧を分け与えなければならない状況であると説き、出陣そのものを取りやめるべきとしたのである。


 源頼朝は自分に向けて軍勢が差し向けられていることを知っていたのか?

 おそらく知っていた。ただし、その規模は知らなかった。この時点でも月に三度の京都からの定期連絡は機能している。もっとも、かつては伊豆に向けて書状が差し出されていたのが今では房総半島だ。情報のタイムラグとしては一日から二日の遅れが生じる。それでも九月五日に源頼朝追討軍の結集が決議されたものの、梶原景時の工作も利用して軍勢結集と出発が遅れていることは情報として掴んでいる。

 このようなとき、自分が平家の立場ならばどうやって源頼朝を倒すかを考えるのは定石だ。現在のように飛行機に乗ってやって来ることなどありえないのだから、京都や福原を出発した軍勢が関東地方にやって来るとすれば東海道か東山道を通ってやって来ることとなる。その他のルートはあり得ない。源頼朝は軍勢を率いるのは下手くそでも軍勢を動かすのに兵糧が必要なことは知っているし、この年の不作も知っている。ゆえに、兵糧確保と兵の選抜を進めながらの行軍になるはずである。より多くの兵糧を必要とする東山道は選択肢から外れる可能性が高く、仮に討伐軍が行軍路に東山道を選んだとしても東山道を甲斐源氏が制圧しているのだから、上手くいけば甲斐源氏が制圧、ダメでも時間稼ぎにはなる。ゆえに、今のところは東海道を通ってくる討伐軍のことだけを考えれば良い。

 問題は東海道のどこで待ち構えるかである。源頼朝はまだ下総国にいる。これから先の行動を踏まえて討伐軍を受け止めるとなると、移動できたとしても武蔵国か相模国。無茶をすれば伊豆国までは行けるであろうが、駿河国より西で討伐軍を受け止めるのは不可能である。

 ゆえに、候補地は三点に絞られる。

 一点目は今のまま動かないでいること。まずは内政によって地域住民の支持を獲得することで房総半島三ヶ国を源頼朝の勢力下に置くことに専念し、房総半島全体を基地として討伐軍を迎え撃つ。ただし、この場合は関東地方の平家の武士たちが討伐軍に加わるため、大軍を相手にすることとなる。

 二点目は武蔵国。視点は一点目と同じで、房総半島に加え武蔵国も源頼朝の支持基盤とすることで討伐軍を迎え撃つという視点である。討伐軍が到着する前に武蔵国に現時点で展開している平家方の武士を制圧しなければならないが、討伐軍に加わる平家方の軍勢が相模国の武士のみになるため、対峙しなければならない軍勢が少なくなり、源頼朝の勝率が上がる。

 そして、三点目が相模国。支持基盤に武蔵国と相模国の双方を加えることで、討伐軍の軍勢に加わる関東地方の平家の武士をかなり減らすことができるようになる。さらに、相模国には行軍の目的地である鎌倉がある。討伐軍が到着する前に鎌倉入りを成功させれば清和源氏の本拠地への帰還を果たしたというアピールが加わるだけでなく、鎌倉自体が天然の要塞になっている都市であるため防御しやすくなる。

 源頼朝の選択は決まった。第一目標は相模国鎌倉、第二目標は武蔵国、最悪なケースとして現状維持である。その上で、もう一段階の罠を仕掛けることとした。


 治承四(一一八〇)年九月二四日、甲斐国に滞在している北条時政と江間義時のもとへ源頼朝から使者が送られてきた。九月一四日に北条時政が源頼朝に送った使者への返信である。

 使者からの指令は、武田信義の主張するように甲斐源氏に駿河国へ向かわせること。甲斐源氏が駿河国を制圧できればベストだが、それがダメでも駿河国の平家方の武士が減れば討伐軍に加わる武士が減り、残った平家方の武士も甲斐源氏をターゲットとするようになる。

 甲斐源氏が源頼朝に利用されることとなるが、甲斐源氏としても駿河国への侵攻は悪い話では無い。甲斐国だけでなく駿河国も自らの支配下に置くことができるだけでも甲斐源氏にとって充分な利益だ。駿河国を手中にすることは、信濃国へ侵攻することで手中に収めることに成功した東山道だけでなく、新たに東海道も手中にすることとなるために、甲斐源氏は陸路での通商利益を獲得できるのである。

 そもそも甲斐源氏は、駿河国への侵攻を少なくとも九月一四日の時点で決定している。決まっていないのはいつ侵攻するかという問題だけであったのだ。そこに来て源頼朝から甲斐源氏に対して駿河国への侵攻が依頼されたのである。甲斐源氏はさらにお墨付きを増やしたこととなる。

 さらに源頼朝は狡猾な手段で甲斐国に使者を送っていた。わざと駿河国を通らせていたのだ。吾妻鏡によれば、駿河目代橘遠茂は波志田山(はしたやま)の戦いで戦闘となる前に駿河国へ逃げ帰ったとある。戦いになるならまだしも戦いの前に逃げ帰ったというのは武士にとって恥以外の何物でもない。その恥を思い出させるようにわざわざ駿河国を通って甲斐国に向かわせ、甲斐源氏に対して駿河国に攻め込むよう促したのである。北条時政と江間義時の元に使者が届く前に、駿河目代橘遠茂のもとに、何もできずに逃げ帰った弱腰の目代を討伐するよう源頼朝が甲斐源氏に対して依頼するという噂を伝えさせたのだ。

 その上、源頼朝は北条時政と江間義時の両名に対して、石橋山の戦いで敗れた武士たちを捜索して甲斐源氏の軍勢に加えるよう依頼した。彼らもまた戦いで敗れたことの恥を雪(すす)げずにいたのであるが、自分たちをかつて指揮していた源頼朝が石橋山の戦いのとき以上の軍勢を結集させている途中であることを知り、もう一度ともに戦うために甲斐源氏の軍勢に加わるよう求めたのである。これにより加藤光員や加藤景廉など石橋山の戦いで敗れて敗走した武士たちが甲斐国に集まり、北条時政の配下に加わって甲斐国で一つの軍団を作ることとなった。北条時政自身も石橋山の戦いで敗れた身であることから、人数こそ少ないものの、また、甲斐源氏の支配下から独立していながらも、甲斐源氏とともに平家に対して積極的に打って出ることを強固に主張する、甲斐源氏にとって無視できぬ存在へと昇華させることに成功したのである。


 治承四(一一八〇)年九月二七日、源頼朝はまだ下総国にいた。とは言え、目と鼻の先は武蔵国である。隅田川を渡ればそこから先は武蔵国だ。

 それでも源頼朝が動かなかったのは、江戸重長が隅田川西岸の江戸に陣を張って頼朝と対峙していたからである。

 太田道灌によって江戸城が建築されるまで、江戸という地名は隅田川河口の西岸を意味する地名であった。なお、当時は「住田川」や「宮戸川」という名で呼ばれており、現在の「隅田川」という河川名になったのはもっと後のことである。それでも当時の名残は現在でも残っており、国技館があることでも有名な「両国」という地名は、隅田川に架かる橋が武蔵国と下総国の二つの国の間に架かっていることから「両国橋」と名付けられ、さらに地名へと拡大された結果である。なお、この当時はまだ両国橋も存在せず、両国という地名も存在しない。存在しないのは当然で、この時代の両国はまだ海だったのだ。何しろ浅草が海に近い漁村であったのだから東京湾がどれだけ奥深く入り込んでいたかが想像できよう。

 前段の両国の説明でわかると思われるが、隅田川は武蔵国と下総国の境界となっている川である。現在の隅田川は東京の都市部を流れる川であり、川の東岸も西岸も供に東京都であるが、令制国でいうと川の東と西とでは別の令制国なのである。

 下総国府を制圧している源頼朝は下総国内であれば行動の自由を有し、下総国内であれば源頼朝に逆らう軍事行動を見せる側のほうが国法に違反する側になる。しかし、隅田川を渡った瞬間に武蔵国衙の管轄になるため、今度は源頼朝のほうが行動の制限を受けることとなる。以仁王の令旨に基づいて平家の武士を制圧するという名目で行動しているとは言え、国衙の制約を無視して行動するのは最低限で済ませるに越したことは無い。

 だったら下総国府を制圧するのはどうなのかという話になるが、源頼朝が安房国に上陸したときは知行国主吉田経房の黙認を得ており、上総国府は上総介広常が、下総国府は千葉常胤が制圧したのであって、源頼朝自身が制圧したわけでは無い。制圧した者が源頼朝の軍門に降っただけである。


 治承四(一一八〇)年九月二八日、源頼朝が豊島清元と葛西清重の二人を介して江戸重長と初の交渉に臨んだ。この時点で豊島清元と葛西清重の両名は中立という立場であり、源頼朝の陣営と江戸重長の陣営の双方を行き来している。

 源頼朝から江戸重長に示された条件というのは、平家方に立ったことは不問とした上で江戸重長に対して以仁王の令旨に従うことを促すというものであった。江戸重長を自陣に招いての交渉であり、交渉の場には江戸重長自身が死に追いやった三浦義明の一族の者もいたが、三浦一族の面々は、三浦義明の敵(かたき)であることよりも反平家のほうを優先させて黙り込んでいた。事前に源頼朝から三浦義澄ら三浦一族の者に対して、「勢力のある者たちを取り立てないと事は成しがたい。忠義を思う者は憤りを残してはならない」と述べたと吾妻鏡に記されており、三浦一族は複雑な思いを抱えていながらも源頼朝の言葉を受け入れていたのである。

 さらに、畠山重能と小山田有重の兄弟が大番役のため武蔵国を離れている現在、江戸重長が武蔵国の棟梁であり、源頼朝がもっとも頼りにしている武蔵国の武士は江戸重長であるとして、江戸重長に対して近隣の武士を率いて参上せよという言葉まで飛び出したが、それでも江戸重長からの回答は無かった。

 一方で、源頼朝の軍勢に加わろうとする武士も続出していた。翌九月二九日時点で二万七〇〇〇騎の軍勢になったともいう。数字の誇張は吾妻鏡や平家物語での通常態なので実際にはもっと少ない軍勢であったのは容易に想像できるが、確実に軍勢の中にいた人間の数を数えたとしても、石橋山の戦いで敗れて安房国に逃れてきた直後から比べれば、百倍とまでは言えなくとも、十倍では済まない人数に膨れあがっていたことは確実に言える。

 源頼朝はとにかく江戸重長をどうにかしなければならないと考えていたが、江戸重長のほうにも簡単に源頼朝の側に寝返ることのできない事情があった。江戸重長が隅田川を挟んで源頼朝の軍勢を向かい合っているのは、源頼朝が言うように江戸重長が武蔵国における最重要人物であるからではなく、ただ単に武蔵国の武士団の本拠地のうち、もっとも下総国に近い土地を本拠地としているからである。源頼朝の口約束に乗って源頼朝の軍勢に加わったとして、武蔵国の内部における武士団の間での敵対関係において一気に江戸一族が優位に立てる見込みなど存在しなかった。それどころか、自分の本拠地を奪われる危険すらあったのだ。

 三浦一族を攻め滅ぼすために衣笠城に兵を向けるところまでは協力してきた畠山重忠や河越重頼らとの関係はお世辞にも良好とは言えなかった。ここで源頼朝に刃向かうように立ちふさがることは、江戸重長にとって、平家への忠誠を示すアピールとしても通用したが、それ以上に重要なこととして他の武蔵国の武士たちに対する江戸重長の武力のアピールという意味があったのである。

 相模国鎌倉へ向かうことを第一目標にしている源頼朝にとって、武蔵国との国境付近で足止めを喰らってしまうことは本来であれば痛手になるはずであった。ただ、何度も記しているが源頼朝という人物は武将としては三流でも政治家としては超一流である。そして、古今東西の政治家の評価基準はただ一つ、庶民の暮らしをいかに向上させたかだけで決まる。源頼朝は隅田川の東岸で足止めを喰らっている間も、確実に外堀を埋めていたのである。


 源頼朝の脳内には地図があった。隅田川西岸の江戸重長と向かい合い続けて隅田川東岸で足止めを喰らっていても、源頼朝の手は四方八方へと伸びていたのだ。

 その中で特筆すべきが、北関東の有力武将である上野国の新田義重と足利俊綱の両名に対して送付した書状である。源頼朝はこの両名に対し、上野国府周辺の民家に対して源氏の武士を既に派遣しており、その上で源氏側に加わるよう促す書状をそれぞれに送ったのだ。なお、足利俊綱と呼ばれているが、後に室町幕府を築くこととなる足利氏の先祖ではなく藤原氏の子孫である足利氏であり、本名は藤原俊綱である。ちなみに、宇治川の戦いで利根川の渡河方法を示して馬筏(うまいかだ)を作らせた足利忠綱は、この足利俊綱の息子である。

 自陣に加わるよう源頼朝が書状を送ったと書くと、ただ単に現在の群馬県の武将に対して源氏方につくのを求めたように見えるが、実際には違う。双方とも平家方に立つことを早々に宣言していたのだ。ただ、平家方に立ってはいても激しい対立関係が存在していた。何しろ互いに互いの所領を奪い合う関係がずっと続いていたのだ。そこに来て源頼朝からの協力要請である。

 ここに囚人のジレンマが誕生した。

 囚人のジレンマとは一九五〇年にアルバート・タッカー氏が提唱した理論で、このままいけば懲役五年となることが確定している二人の囚人に対して「二人とも自白したなら懲役五年のまま。二人とも黙秘したら証拠不充分のため懲役二年に減刑。一人だけが自白したなら、自白した方は釈放し、自白しなかった方は懲役一〇年。なお打ち合わせをすることはできない」という司法取引を示すと、二人とも黙秘すれば懲役二年に減るのだから黙秘を選ぶのが最適解なのだが、二人の囚人がともによりメリットのある釈放を望んで自白を選ぶこととなるという理論である。

 囚人のジレンマの理論は一九五〇年に登場したものだが、概念ならば源頼朝の脳内にも存在していた。囚人のジレンマを新田義重と足利俊綱に当てはめると、二人とも最終的には平家が勝って源頼朝は負けると思っているので、源頼朝に協力するのが囚人のジレンマにおける黙秘、平家方に立って行動するのが囚人のジレンマにおける自白となる。双方とも相手が源氏方に立つことでこの戦いで敗れて所領を失い、平家方であり続けた自分の元に相手の所領が転がり込んでくるかを狙うという結果だ。

 この結果、いかにして相手より強く平家方に立って行動するのかの勝負となった。

 新田義重は軍勢を率いて上野国の寺尾城に立て籠もった。源頼朝に従うつもりはないとして。

 足利俊綱は軍勢を率いて上野国府を襲撃した。源頼朝の手中に落ちた国府を解放するとして。

 この瞬間、足利俊綱は庶民の敵となった。上野国府の周囲には上野国内最大の街が築かれている。足利俊綱が国府を襲撃したことで、国府周囲の街も破壊されたのだ。こうなると足利俊綱が平家方であるかどうかなど関係なく、民衆を苦しめる破壊者へと変貌することとなる。新田義重は足利俊綱を攻撃する絶好の口実を手にし、足利俊綱は上野国の民衆の支持を失った。

 源頼朝は一通の書状で上野国に戦闘状態を起こさせ、一人の平家方の武将を破滅へと導いていったのである。しかも源頼朝は単に使者を上野国と往復させたのではない。第三の目的地へと向かわせていたのである。

 この、第三の目的地については、第三の目的地にいるのが誰で、その人がどのように行動をしたかが判明するときに記すこととする。


 なかなかに悪辣なことをする源頼朝は、江戸重長に対しても悪辣な手段を企んだ。吾妻鏡によると、中原惟重をひそかに葛西清重のもとに派遣し、葛西清重に江戸重長を太井川(現在の江戸川)の防御を一緒に確認しようと持ちかけて江戸重長を殺害するよう企んだという。隅田川ではなく、より北を流れる太井川を通って武蔵国に侵攻するというのは江戸重長にも想定できた話であるが、源頼朝の陣営にも顔を出している葛西清重の助言には裏があると考えたのかこの誘いには乗らず、江戸重長は源頼朝の陣に向かい合い続けた。なお、ここで悪辣というのは、江戸重長暗殺計画のことではない。その件については後述することとなる。

 このような悪辣さは得てして支持を失わせるものであるが、源頼朝は支持をむしろ高める行動を見せ続けていた。

 その一例が、石橋山の戦いで奮戦し戦死した佐奈田与一の母への処遇である。佐奈田与一の母のもとに使者を派遣し、相模国と伊豆国の双方から襲撃される可能性があることを示した上で源頼朝が責任を持って保護することを内外に示したのだ。その上で、源頼朝と供に戦う者の家族は、たとえ討ち死にしても源頼朝が責任を持って守ると示したのである。これにより多くの武士が感じていた後顧の憂いを断ち切ることに成功した。源頼朝はただでさえ私的財産の保証を宣言しているのに、たとえ戦場に散ったとしても家族の安全まで保証されるというのだから、より安心して源頼朝のもとに加われるというものである。

 この結果、いままで源頼朝のもとに加わろうかどうか逡巡していた多くの武士が源頼朝を選ぶようになった。源頼朝の軍勢は確かに江戸重長とにらみ合いを続けていて足止めを喰らっている。だが、江戸重長の背後に控える武士たちが、一人、また一人と源頼朝の元へと足を運ぶようになり、気が付けば江戸重長は正面の源頼朝だけでなく、背後にも源頼朝側の軍勢を背負い込むこととなってしまったのである。

 しかも、源頼朝に味方するとした軍勢は次々と東海道沿いに結集してきた。こうなると江戸重長が陣を解くだけで源頼朝は第一目標である相模国鎌倉まで何ら支障なく移動できることとなる。

 武将としては三流でも政治家としては超一流の相手を目の前にすると、戦いで決着を付けることの意味が薄れてくる。戦争という物は政治における手段、それもお世辞にも誉められるものではない手段であって、戦争をせずに目的を果たすことができれば、どんなに輝かしい戦功も、戦争不要の目的達成の前にはゴミにしかならない。江戸重長が直面したのは、源頼朝ではなく、武士である自分の存在意義そのものの喪失であった。


 平維盛率いる軍勢が福原を出発して六波羅に到着したのが治承四(一一八〇)年九月二三日のこと。そして、六波羅を出発したのが九月二九日である。

 先にも記したが、権中納言中山忠親は伊藤忠清と平維盛との間に出発の日取りを巡った論争があったと記しているが、実際のところは兵力不足と食料不足をめぐる論争である。足らなければ現地で補えば良いとする平維盛の意見に対し、伊藤忠清は現地調達など不可能と訴えた結果、ここまで出発が延びた。

 結論から言えば、平維盛の意見が採用されたが、伊藤忠清の意見が正しかった。

 六波羅を出発して東海道を歩いて関東地方へと向かうまさにそのスタート直後である近江国でいきなり追討軍は躓(つまず)いたのだ。平維盛は近江国の各地で兵力と食糧の提供を求めたが、兵力の提供どころか討伐軍から離脱する者が続出し、食糧の提供は全くうまくいかず、討伐軍の兵士による略奪すら起こったのだ。朝廷の命令であるからと食糧を奪い、無理矢理武装させて兵として連行するに至ったが、それがさらに兵の離脱と人心の離反を生み出すという悪循環が討伐軍の行軍路で発生するようになったのである。

 平維盛はなぜ討伐軍に協力しない者がいるのかと怒りをぶちまけたが、伊藤忠清はこれだから反対したのだと返すだけであった。

 さて、そもそも伊藤忠清が総大将平維盛に意見を述べることは許されているのか?

 実は許されている。

 治承三年の政変のあとで伊藤忠清が上総介に就いたとき、伊藤忠清は「板東八ヶ国の侍の別当」の権利を与えられた上で上総介に就任していた。それが名目上の地位であっても関東地方の全ての武士について統括する権利が消失しているわけではない。

 また、平家物語によれば伊藤忠清には討伐軍の中で侍大将の地位が与えられていたとある。

 古今東西頻繁に起こったことであるが、軍勢の総指揮を執るのが経験の浅い若者であることは珍しくない。その若者に軍勢指揮の抜群の才能があるからではなく、有力者の子や孫であるからだ。これから経験を積めば軍勢指揮を安心して任せることができるようになるが、経験が浅いままでは戦闘がうまくいかず本人にも将兵にも多大な損害を与えてしまう。このようなとき、総大将の右腕となって軍勢指揮のサポートをする叩き上げの武人が同行することがある。

 平清盛の末弟である平忠度と、平清盛の七男である平知度が同行しているではないかと思うかも知れないが、この二人には官界でのキャリアならあっても軍勢指揮の経験は無い。かと言って、平知盛をはじめとする経験豊富な平家の武人を送り出すわけにも行かない。今回の討伐軍の遠征は平家にとって平維盛ら軍勢指揮の経験の乏しい平家の武将に対する経験付与の意味合いがある。経験豊富な平家の武人を送り込んでしまったらそちらが指揮するようになってしまうのだ。ゆえに、実戦経験ならばあるがあくまでも平家に傅(かしず)く立場であるという者でなければならない。その結果として選ばれたのが伊藤忠清だ。安元三(一一七七)年に比叡山延暦寺と対峙し、治承三年の政変でも存在感を発揮した伊藤忠清は、上総介に任命されたときに関東八ヶ国の侍所の別当の権利を受けている。経験の浅い総大将を支える実践豊富な右腕である侍大将というのが伊藤忠清に課された使命であり、総大将平維盛との論争は軍務での一環として起こったことに過ぎなかった。


 月が変わった治承四(一一八〇)年一〇月一日、駿河国で一つの動きが見られた。駿河目代である橘遠茂のもとに甲斐源氏が駿河国に向けて侵攻しつつあるとの情報が入り、橘遠茂はただちに軍勢を奥津、現在の静岡市清水区興津の付近に集結させて侵攻する甲斐源氏を迎え撃つことにしたのである。ところが、それから一二日間、甲斐国も駿河国も何の動きも無かったのである。動きを見せないのではなく、見せることができなかったと言うべきだろう。

 一方、隅田川東岸に陣を張る源頼朝のもとには大ニュースを伴う動きが見られた。一人の僧侶が訪れたのである。醍醐寺の修業僧であるその僧侶の名を全成(ぜんじょう)という。僧侶が僧兵となって源頼朝のもとを訪問したというだけであれば特にニュースにはならなかったであろう。しかし、醍醐寺から僧侶がやってきたとなればニュースになる。何と言っても京都から東海道、東山道、北陸道へと向かうときは必ず醍醐寺のすぐ近くを通るのだ。その醍醐寺から僧侶がやってきて源頼朝のもとを訪問したとなれば、源頼朝討伐軍の様子と、その行軍路の様子という貴重な情報を源頼朝の元に届けることとなる。討伐軍とこれから対峙するにあたっての貴重な情報源だ。もっとも、討伐軍が出発するはるか前に醍醐寺を出発しており、八月二六日には関東地方に到着していたことが判明したので情報源としては機能しなかったが、そんなことは源頼朝にはどうでもいいことだった。

 情報の重要性をこれ以上無く認識している源頼朝と会うのに際し、情報源として役に立つかどうかなどどうでもいいとはどういうことか?

 全成(ぜんじょう)の素性を知ればその答えは簡単に出せる。

 全成(ぜんじょう)は源頼朝の弟なのだ。源頼朝にとっては生き別れの弟との再会であり、感激のあまり皆が見ている前で涙を流して喜んだと吾妻鏡には記録されている。

 さらにニュースとして付け加えるべきは、全成(ぜんじょう)らを保護して源頼朝の陣営まで連れてきた人物が誰であるのか、そして、源頼朝がその人物をどのように処遇したのかである。「全成(ぜんじょう)らを保護」と書いたのは書き間違いでは無い。保護されたのは全成(ぜんじょう)を含む複数名であったのだから。

 全成(ぜんじょう)らを連れてきたのは、かつて大庭景親らとともに石橋山の戦いで源頼朝を攻め込んだ渋谷重国である。渋谷重国は全成(ぜんじょう)だけでなく、石橋山の戦いで敗れ敗走していた佐々木定綱と佐々木経高の兄弟もともに保護していたのである。その渋谷重国が源頼朝の側に加わるとして軍勢を引き連れてきたのだ。相模国渋谷荘、現在の神奈川県大和市を本拠地とする渋谷重国が源頼朝の側についたことは、川を挟んで対峙する江戸重長だけでなく相模国と武蔵国の武士たちの間に動揺を誘うに充分であった。

 武蔵国から相模国にかけての広大な所領を保持する渋谷重国が源頼朝の側で起ち上がったということは、源頼朝の勢力が武蔵国の奥深く、さらに相模国の中央部に至るまで浸透したことを意味する。しかも、渋谷重国の所領の南にある大庭御厨は、大庭景親の兄で大庭御厨を事実上支配している大庭景義が源頼朝側に立つとかなり早い段階で宣言している。武蔵国から相模国に掛けての一帯を所有している渋谷重国も源頼朝の側に加わったことで、現在の地図でいうと渋谷から大和を経由して藤沢に至る一帯が源頼朝の側の勢力圏になったことを意味する。武蔵国から相模国に掛けての一帯に点在する武士たちは、平家方に立っている限り周囲が包囲されて孤立させられることとなったのだ。


 ここで全成(ぜんじょう)について記すと、源義朝の三男が源頼朝であり、全成(ぜんじょう)は源義朝の七男であるから、源頼朝にとっては異母弟との再会となる。

 全成(ぜんじょう)は幼名を今若と言い、母の常磐御前が平家のもとに出頭した後、出家することを条件に命を長らえることができたという経緯を持っている。平治の乱のときの全成(ぜんじょう)は八歳、上の弟である乙若丸は五歳、末弟の牛若丸はまだ生まれて間もない乳児だ。その幼き少年が運命に翻弄されて、父の死を目の当たりにし、母と離れ離れにさせられ、兄たちとも弟たちと別れさせられ、平安京の南東にある醍醐寺に連れて行かれて出家させられた。平家に言わせれば国賊たる源義朝の子なのに命を助けてあげたではないかと言うであろうが、そもそも源義朝を国賊扱いし、子供であるというだけで罪を着せるだけでも許されざることで、命を助けたぐらいで恩を売りつけるなど図々しいにも程があるというのが全成(ぜんじょう)の言い分だ。ちなみに、同じ言い分は源頼朝も使っている。

 ただし、平家に感謝するわけにはいかなくとも、全成(ぜんじょう)には平家のおかげで手にすることができた資産があった。醍醐寺の持つ真言宗醍醐派のネットワークだ。醍醐寺そのものが真言宗醍醐派の総本山であり、全国各地の真言宗醍醐派の寺院を統べるネットワークの頂点に位置している。弟の牛若丸、いや、元服後の名前である源義経と違って全成(ぜんじょう)が僧体のままでいたのも、醍醐寺の持つ寺院のネットワークをそのまま利用するためだ。比叡山延暦寺や園城寺、奈良の興福寺と比べれば規模は小さいが、寺院勢力としての醍醐寺は決して無視できるようなものではない。さらに言えば醍醐寺は村上源氏や宇多源氏の庇護下にある寺院であるために藤原氏とも平家とも距離を置くことができている。

 なお、全成(ぜんじょう)が関東地方で挙兵した兄のもとに向かうと告げて醍醐寺を脱走して関東地方へと旅立ったとき、醍醐寺とその周囲では全成(ぜんじょう)の身の安全を危惧する声とか、勝手に抜け出したことへの憤りとかの声はなく、ただただ安堵の声が聞こえた。よほどの悪僧であったのだろう、醍醐寺の僧侶であった頃の全成(ぜんじょう)のアダ名は「醍醐の悪禅師」。とにかく暴れ回って周囲に迷惑を振り回し続けたくさんの被害者を生んでいたらしく、醍醐寺から出て行って関東地方に行ってくれただけで喜びの声が出たのだ。醍醐寺とその周囲に住む人たちとしてはこのまま醍醐寺に戻ってこないでくれと願うばかりで、以仁王の令旨に従う程度で全成(ぜんじょう)の身を関東地方に留めておいてくれるならば、源頼朝に同調して反平家で起つなどどうと言うことない話であった。


 源頼朝が見せた江戸重長に対する悪辣な手段として、江戸重長を太井川(現在の江戸川)の防御の確認を名目として呼び出し江戸重長を殺害するよう企んだという出来事を記したが、私はそこで記した悪辣というのが江戸重長暗殺計画のことではないとも記した。

 そして、その件を後述するとも記した。

 その件が判明するのが治承四(一一八〇)年一〇月二日のことである。

 この日、源頼朝が、千葉常胤や上総介広常らが用意した船に乗って太井川を渡り、隅田川を渡って武蔵国に突入したのだ。江戸重長が太井川の防御に乗り出していれば確実に妨害されていたであろうが、太井川を口実としか考えなかった江戸重長にとって、太井川が口実ではなく現実の渡河地点であったと知ることは忸怩(じくじ)たる思いにさせられるに充分であった。

 渡河と同時に源頼朝のもとに豊島清元と葛西清重がやって来た。それまで中立としていた武蔵国の二人の武士がここで正式に源頼朝の軍勢に加わったこととなる。併せて、足立遠元も源頼朝の軍勢に加わるために向かってきているところであるとの情報が入り、さらに下野国の有力武士団である小山氏も源頼朝のもとに加わることが決まった。

 ここでの小山氏の加入についてちょっとしたエピソードがある。

 小山氏のトップは本来であれば小山政光であるが、小山政光はこのとき大番役として京都に滞在しており、小山氏はトップのいない武士団となっていたのである。そのタイミングで源頼朝が決起したため小山氏としてどのような選択をすべきか意見の一致を見てはいなかったのであるが、ここにきて小山政光の妻である寒河尼(さむかわのあま)が行動を見せた。彼女はかつて京都で源頼朝の乳母の一人であり、その後に小山政光のもとに嫁いでいたという経緯がある。あくまでもかつて乳母であった身として成長した源頼朝のもとに会いに来たという体裁で、小山政光の末っ子である一万丸も帯同させたのである。

 その上で、寒河尼は一万丸をここで元服させて欲しいと頼み込んだのだ。それも源頼朝を烏帽子親としての元服である。元服のときにこれより大人になる少年にはじめて烏帽子をかぶせる役目を務める人のことを烏帽子親と言い、顔を合わせることのできる人の中でもっとも高位の人に烏帽子親を依頼することは慣例化されており、その場で烏帽子親に元服後の名を名付けてもらうこともごく普通のことであった。

 この烏帽子親の役目を源頼朝は生まれてはじめて体験することとなったのである。清和源氏嫡流としてたぐいまれな血筋を持っているとは言え、ついこの間まで流人扱いされていて、高位であると扱われることなど全く考えられなかったのが源頼朝である。ここで烏帽子親を依頼されるということは、小山氏だけでなく、この場にいる全ての人が源頼朝を最高位者であると認めたことを意味する。

 ここで源頼朝によって烏帽子を授けられた少年は、一万丸という幼名から小山宗朝へと名を変えることとなった。自らの名のうちの一文字を与える名付けは、その者を生涯に亘って保護することを意味する名付けである。小山宗朝は後に名を結城朝光へと変えるが、源頼朝より賜った朝の文字を捨てることは無く、生涯に亘って源頼朝の側に仕える有力御家人となる。


 着々と関東地方で勢力を拡張しつつある源頼朝に対し、関東地方在住の平家方の武士は日に日に追い詰められていた。

 ここで源氏方に降るというのは実に簡単な解決方法であるが、同時に極めて困難な選択肢でもあった。いかに源頼朝が勢力を拡大しつつあるといっても基本的には反乱軍であり、平将門や平忠常がそうであったように反乱勢力は討伐される運命にあるというのがこの時代の認識だ。そんな討伐対象とともに行動したところで、今は良くても討ち取られる未来が待っている。しかし、源頼朝とともに行動しないことは批判を多く集める平家の一員になることも意味する。平家が何をしてきたかを、そして現在進行形で何をしているかを考えた場合、反乱に加わるよりもより多くの憤怒を集めることとなる。平将門や平忠常がそうであったように平清盛が討伐される運命だってあるのだ。そうなったら憤怒とともに自らの命運は喪失することとなる。

 こうした苦悩の末に自暴自棄になる者も現れ、治承四(一一八〇)年一〇月三日、上総国で反乱が発生した。源頼朝が房総半島を制圧したあとで発生した最初の反乱である。源頼朝は房総半島三ヶ国を制圧したと言っても、安房国は知行国主の黙認、上総国と下総国は国府の制圧であり、令制国全体を制圧したわけではない。そして、内部にはまだまだ平家側である武士も存在している。その中の一つが上総国夷隅郡伊隅荘の伊北常仲である。

 上総国の制圧は上総介広常が受け持っていたが、ここに来て上総国での反乱発生、しかも伊北常仲は上総介広常の甥であり、上総介広常は二重の意味で失態を重ねたことになる。もっとも、これを反乱と考えているのが源頼朝の側であり、伊北常仲にしてみれば反逆者源頼朝とともに行動することの方が日本国に対する叛逆であって許されざる話であり、反乱者と呼ばれる謂われはない。

 源頼朝は千葉常胤に対して伊北常仲の討伐を指令し、千葉常胤は長男の千葉胤正に命じて千葉一族の軍勢を率いさせて上総国に向かわせた。確かにこの反乱は上総介広常らにとっての失態であったが、その失態を咎めることはしていない。その代わり、上総介広常ではなく千葉常胤に指令を出している。一族の失態を償わせるために一族の間で血を流させるという、これまで何度となく見られてきた武士の間での責任の取り方を源頼朝は否定したのである。


 渡河から二日後の治承四年一〇月四日、源頼朝はついに、隅田川を挟んでの睨み合いでの勝利を手にした。

 畠山重忠、河越重頼、そして、江戸重長が源頼朝の前に降伏し、源頼朝麾下の軍勢に加わると申し出たのである。

 それまでずっと睨み合いを続けてきた相手であり、三浦一族にとっては衣笠城を攻め落として三浦義明を死に追いやった上に三浦半島の所領まで踏みにじった面々である。怒りを見せたとしても理解されこそすれ貶されることではないが、三浦一族に対しては既に源頼朝から指令が出ている。彼らは黙って三名を受け入れた。降伏を受け入れたのではない。新しい仲間として受け入れたのである。

 これはなかなかできるものではない。昨日まで殺しあいをしていた、そして実際に家族が殺されたにもかかわらず、その指揮を執っていた武将を許すだけでなく仲間として迎え入れるのである。中でも問題になったのが畠山重忠だ。本来の棟梁である畠山重能が大番役のため京都におり、棟梁不在のままの状態で源氏挙兵を知った畠山重忠は、一七歳の若さでありながら、反対する家臣たちを制して畠山氏として平家方に参戦するとし、責任を全て自分が引き受けるからと由比ヶ浜で三浦義澄らの軍勢と衝突したのである。そして実際に勝利を収めたものの、情勢が変わってしまい、一ヶ月半前は敗者であったはずの源頼朝が圧倒的優勢となっている。

 この情勢を目の当たりにして畠山重忠は家臣に対して約束通り責任を取るとしたのである。自分は源頼朝に刃を向け、三浦一族と戦闘となり衣笠城を落として三浦義明を死に追いやってしまった。ゆえに責任は全て自分がとる。自刃も覚悟の上である。その代わり、自分とともに闘った畠山一族の仲間は自分の命令でやむを得ぬ戦闘に打って出てしまったのだから、彼らを今後は源頼朝の麾下の武士として扱ってもらいたいとしたのだ。

 源頼朝は畠山一族の武士を自分の麾下に加えることは約束したが、その軍勢の指揮をそのまま畠山重忠に執らせることとした。自刃ではなく、自陣への参加を命じたのだ。

 昨日まで殺しあいを敵をも許し自軍に加える源頼朝の姿勢は評判を呼び、さらに多くの武士が源頼朝のもとに参上するきっかけとなった。その知らせは東海道にも響き、討伐という名目で行軍路において略奪を繰り返す平維盛とのあまりにも大きな格差を目の当たりにして、元々存在していた平家への失望がさらに増すのと比例するかのように源頼朝への期待が膨らむようになっていったのである。

 塩野七生氏のローマ人の物語第Ⅴ巻での引用を借りれば、古代ローマのカエサルとポンペイウスとの内戦においてキケロはこのように語っている。「何という違いだ。敵を許すカエサルと、味方を見捨てるポンペイウスと」。ここでのカエサルを源頼朝と、ポンペイウスを平維盛と置き換えても同じ言葉が成立する。源頼朝と梶原景時との密約を知らなければ、の話であるが。


 治承四(一一八〇)年一〇月五日、源頼朝の軍勢はいったん現在の東京都北区王子に向かい、源氏方として起ち上がったくれた豊島氏の邸宅を訪問した後で武蔵国の国衙へと歩みを進めた。

 武蔵国府は無主の地となっており、源頼朝は労せず国府に入ることができた。討伐軍結成の時点で平知度が武蔵守に任命され討伐軍の一員として向かっているとの情報が飛び込んできていたため、武蔵国司を勤める者が不在になっていたのである。本来であれば、これまでの国司は新任の国司が赴任してきたのちに業務引き継ぎをしてから帰京するものであるが、その前提が崩れてきて、新しい国司が任命されたと知ったらただちに帰京する、あるいはそもそも本人が赴任するのではなくそれも代理である目代(もくだい)を送るだけで済ませて本人は国司としての政務に関与しないというケースも珍しくなくなっていた。このとき武蔵国の国司は国府にいなかったが、武蔵国ではそれが通常態にすらなっていた。

 平知度が武蔵守に任命して源頼朝討伐軍に加えたのは、その通常態を正状態に戻す目的もあった。これを源頼朝の軍勢の側から見れば従う必要の無い国司がやって来ることを意味する。新しい国司が平家である以上、以仁王の令旨に従えば討ち取られるべき対象である。従うどころか討伐すべき存在だ。

 そうでなくとも武蔵国は在地の武士団のトップ層が在庁官人として武蔵国の政務に当たる光景が日常化し、そのための組織である留守所が成立するまでになっていたほどだ。また留守所のトップとして総検校職が成立し、秩父重綱がその職に就任して以来、代々秩父氏のトップが武蔵国留守所総検校職を担当するのが慣例化した。日本国六八ヶ国のうち留守所総検校職という職務が成立しているのは武蔵国と大隅国の二ヶ国だけであり、武蔵国はかなり特殊な統治事情があったといえる。要は、国司が国司としての政務をまともにとることができず、在地の武士団の微妙なパワーバランスで成り立っていたのが武蔵国だ。

 それでも留守所総検校職は武蔵国内の統治業務で莫大な成果を残した。特に治安維持については莫大な功績を残した。武蔵国内は多くの武士団が点在していたが、その全ての武士団が留守所総検校職の権威を認め、留守所総検校職の指令に基づいて軍事行動を起こすこともあったのだ。秩父一族にはそれだけの権威が存在していたのである。

 だが、ここに一つ大問題があった。誰が秩父一族のトップであるかという大問題である。そもそも秩父という苗字自体が武蔵国秩父郡に本拠地を築いていることから生まれた苗字であり、正式には平姓である。平姓の者が本拠地としている土地の地名を自らの苗字にするようになった結果、秩父郡から離れて別の土地に本拠地を築くようになればなるほど新しい苗字が生まれる。

 たとえば、本作でこれまで登場している苗字の武士のうち、畠山氏、河越氏、豊島氏、渋谷氏、小山田氏、そして、江戸氏は全て秩父一族であり、正式には平姓である。

 源頼朝が隅田川を挟んで対峙している江戸重長に対し、江戸重長が武蔵国の棟梁であり、源頼朝がもっとも頼りにしている武蔵国の武士は江戸重長であると言った。その言葉は嘘ではなく、治承四(一一八〇)年一〇月五日、源頼朝は家臣に加わったばかりの江戸重長に武蔵国府を任せ、在庁の指揮権である留守所総検校職に補任した。嘘偽りなく江戸重長を武蔵国の武士の中のトップであると源頼朝が認めたのである。秩父一族の内部における争いを源頼朝は強引に抑えつけたということになるが、昨日までの敵を許した上に争いを鎮静化させたということで、源頼朝の評判を上げる効果を生み出した。


 治承四(一一八〇)年一〇月六日、もはや誰も邪魔する者のいなくなった相模国鎌倉に源頼朝がたどり着いた。先月まで鎌倉を実効支配していた山内首藤経俊は既に逃走しており、鎌倉に住む住人はいつでも源頼朝を迎え入れる準備ができていたが、実際に源頼朝の軍勢を見ると予想を遙かに上回る光景であることに気づかされた。

 まず軍勢の数が例を見ないものであった。武士の隊列が延々と続き、軍勢の終わりが見当つかないほどであった。

 さらに、軍勢の先頭を行く騎馬上の武者に驚かされた。ついこの間まで源頼朝と戦っていたはずの畠山重忠が先頭なのである。源頼朝はかつての敵でも味方になったなら全て許す人であるとの評判は聞いていたが、実際に味方になっている光景を目の当たりにしたことで鎌倉の民衆は源頼朝の言動一致を知ることとなった。

 ただ、あまりにも上手くいきすぎる鎌倉入りは源頼朝に思わぬ現実を突きつけることとなった。住まいがないのだ。源頼朝は民家を借りて一時的な宿泊所にすることとしたがそれでも足りない。吾妻鏡は源頼朝が入ってきたときの鎌倉を元々辺鄙なところで漁師と百姓しか住んでいる人がいなかったと記しているが、これは源頼朝の業績をより大きく見せるための誇張であり、実際には相模国における最大規模の都市であったことが他の記録や発掘から判明している。ただ、最大規模は相模国の中ではという条件がつき、源頼朝が入ってきたときの鎌倉に源氏の軍勢を収容しきる能力が無かったのはそのとおりである。

 鎌倉で一夜を過ごした後、源頼朝はまず由比ヶ浜にある鶴岡八幡宮を遠くから拝み、次いで亡き父である源義朝が亀谷に築いていた邸宅跡を見に行った。父の邸宅跡を自分も鎌倉における本拠地とする予定であったからである。しかし、既に亡き父を供養するための御堂が建設されていた上に、父の頃とは比べものにならない大軍勢を率いている身となっている。御堂を移転させたところで鎌倉における自らの本拠地とするには狭すぎた。

 源頼朝は鎌倉の改造に取りかかった。

 真っ先に手を付けたのが、鎌倉の南部の由比ヶ浜にあった鶴岡八幡宮を鎌倉の北部に遷御することである。都市鎌倉の大規模建設計画がここに始まったのだ。

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

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