平家物語の時代 3.源頼朝挙兵

 福原遷都と言うが、治承四(一一八〇)年五月三〇日の発表はあくまでも安徳天皇、高倉上皇、後白河法皇の福原御幸であり、首都機能の福原移転ではない。しかし、平清盛が告げた六月三日の福原御幸は、京都出発が六月三日ではなく福原到着が六月三日であると、すなわち、誰もが考えていた出発日の一日前である六月二日に、安徳天皇、高倉上皇、後白河法皇を奉じて京都を出発すると発表されるとさすがに多くの貴族が慌て出す。その用意周到さの意味するところは明白なのだ。平清盛は平安京を捨てさせることにしたのである。竜巻の被害に対して何もしなかったというのは執政者失格の行動であるが、新たな住まいを用意するとなればそれはそれで執政者として評価できる行動ではある。

 平清盛は綿密な御幸計画を立てていたとみられ、京都を出発した行列はただちに鳥羽に到着し、鳥羽から淀川を船で下って大阪湾へと出て、大物浜(現在の兵庫県尼崎市)で一泊したのち、予定通りの六月三日の朝に福原に到着した。

 ところが、平清盛が綿密な計画を立てていたのはここまでなのだ。安徳天皇も、高倉上皇も、後白河法皇も揃って福原に招くことに成功したものの、泊まるべき御所がないのである。天皇が行幸先で民間人の邸宅に泊まることはあるし、上皇や法皇が民間人の住まいに泊まるのは熊野詣などでよくある光景だ。それを考えれば福原御幸で安徳天皇が平頼盛の邸宅に、高倉上皇が平清盛の別荘に、後白河法皇が平教盛の邸宅に泊まるのはおかしなことではない。一応は。また、同行した摂政近衛基通が安楽寺別当である安能が宿坊としている房に泊まったが、寺院とは宿泊施設を備えているのが普通なので、摂政が泊まることがあったとしてもおかしくない。寺院の別当の宿坊となればその寺院の用意できる最高の宿泊環境であるから摂政を迎え入れるのに最高のおもてなしだが、行き当たりばったり感は否めない。

 ちなみに、翌六月四日の夜に安徳天皇が平清盛の別荘に、高倉上皇が平頼盛邸に遷っている。なぜ遷ったのかの問いに対する回答は単純明快である。治承四(一一八〇)年六月四日、平頼盛が正二位へ昇叙。昇叙の理由は邸宅を提供した功績である。平清宗が従三位に昇叙したことに対する不平不満に対する平清盛からの単純明快な回答であった。

 全員に対していきなり福原に移動するよう命じても、前述の通り、福原にはそこまでの建物などなく、順を追っての福原移動となる。たとえば、右大臣九条兼実は平清盛から時期が来たら呼び寄せるという条件のもとで京都に留まっている。安徳天皇の行幸に付き沿う公卿が二名から三名、殿上人も四名から五名と発表になり、以降は順を追って福原に呼び寄せるという。

 これに対して九条兼実は日記にこのように記している。福原にはまともな邸宅がなく、多くの人が道路に寝泊まりしている状況だ、と。

 だが、考えていただきたい。福原に移らずに京都に留まる貴族は討伐の対象なのだ。それでいて、呼ばれるまで京都に留まらねばならず福原には移ることができない。もし、いつまで経っても呼ばれなければ、それは平家の軍勢の討伐対象に選ばれたということなのだ。道路に寝泊まりしている状況であろうと、討伐対象とされるよりははるかにマシだ。許されるなら京都に居続けたいが、京都に留まっていると命に関わるとあっては福原行きを切望するしかない。


 治承四(一一八〇)年六月七日、平家と興福寺との間で和議が成立した。興福寺が以仁王の令旨に同意して兵を送ったことを陳謝する代わりに、平家が興福寺に対して兵を向けるのを中止するというものである。和議としてはごく普通のものであろうが、これは平清盛にとって厄介な和議でもあった。考えていただきたい。どういう名目で福原御幸を進めているのかを。平家はここで福原御幸の名目を一つ失い、京都に留まっている貴族たちの間には希望が生まれたのである。脅威が無くなったのだから京都還幸となり、今まで通り京都での暮らしが続くことになるという希望だ。

 その希望は翌六月八日に消滅した。高倉上皇から右大臣九条兼実に対し院宣が伝えられた。前年七月に権大納言を辞任し第一線から退いていた藤原邦綱を、一通の書状を送り届けるためだけに京都まで差し向けたというのだからよほど大切な知らせだろうと思い、書状を開いてみると書いてあったのは、遷都について相談したいことがあるため福原まで来るようにという指令である。おまけに、院宣を届けた藤原邦綱は、今の福原には宿泊すべき場所がないので自分の邸宅で寝泊まりして欲しいと言っている。ここでいう藤原邦綱の邸宅とは寺江山荘のことであり、寺江山荘のある場所は現在で言うと兵庫県尼崎市である。現在ならば尼崎から神戸に通勤や通学する人も珍しくないが、この時代は乗用車も鉄道もない時代である。この交通事情なのに直線距離で片道二〇キロメートルある道を毎日往復しろというのだ。牛車で移動するとなると、往路で半日、復路で半日、合計で一日かかるという何ともムチャクチャな話であり、これだけでも福原の住宅事情は充分に読み取れる。

 牛車ではなく馬であるならば、この時代の馬は現在のサラブレッドのように時速六〇キロメートルを出せる品種の馬ではないが、それでも時速四〇キロメートルは出せるので、さすがに片道半日という長時間にはならない。理論上は。現実的に考えると、馬で移動させる前提で寺江山荘の宿泊を命じるのはありえない。右大臣に毎日馬に乗って寺江山荘と福原の片道二〇キロメートルを往復しろと命じるのは現実的ではない話だ。馬を自在に操る武士ならいざ知らず、この時代の貴族に馬に乗って駈けさせるというのは、一部の貴族の趣味であって実用ではない。その現実的ではないことを要請するような住宅事情にもかかわらず遷都を前提として右大臣を呼び寄せようとしている。これで京都還幸の可能性は完全に消滅したことが判明した。


 福原の住宅事情もそうだが、そもそも福原の都市計画ができていなかった。

 このときはまだ正式な遷都が発表になったわけではないが、遷都を前提とした都市計画は検討され始めた。もっとも古い記録となると治承四(一一八〇)年六月九日に最初の会合があったことの記録がある。そして、落胆させる現実が示されたことも記録に残っている。平安京も、その前の平城京も、南北は九条と決まっていた。一条は四町で、一町はおよそ一二〇メートルである。なお、町と町との間の道路幅の違いもあり、平城京は南北四・八キロメートル、平安京は南北五・二キロメートルと、南北の距離は一定ではない。距離は一定ではないが南北九条というのは首都建設における常識であり、そうしなければ官庁街に庶民街に商業地区といった都市機能を内部に持てなくなるという固定観念は崩せるものではなかった。

 その固定観念が存在するところで大納言徳大寺実定と参議源通親、そして、左少弁藤原行隆から提出された報告は、どうあっても五条までしか用地を確保できないというものであった。さらに、南北は五条の用地を確保できるが、東西となると、東側である左京については用地が足りず、西側である右京に至っては用地が足りないどころか、用地が皆無という有様であった。

 このような遷都を強行しようものなら失政以外の何物でもないが、最初の会合が執り行われた翌日、信じられない発表がなされた。あるいは、その発表が遷都断念を求めることの見返りだというなら納得いくことであるが。

 何の発表があったのか?

 治承四(一一八〇)年六月一〇日、平清盛と平時子の二人に対する准三宮の宣旨が発表になったのだ。太皇太后、皇太后、皇后の三宮に准ずる待遇を与えられた人を准三宮と言い、藤原良房が受けた頃は民間人の准三宮として大騒ぎになったが、それから藤原摂関家の准三宮が続出したことから藤原摂関家の者が准三宮となることは珍しくなくなった。しかし、藤原氏でないとなると史上初めてのことである。そして、武家でも初めてである。

 武家では初めてのことであっても、准三宮の栄誉は貴族としてのキャリアの集大成と言えるものであり、この栄誉を最後に政界から引退するのも普通のことであることから、これで平清盛が政界引退をすること、すなわち福原遷都を白紙撤回することを期待する声が挙がったが、その期待を平清盛は簡単に裏切った。

 治承四(一一八〇)年六月一一日、平頼盛の家で議定が開催され、遷都の議論が行われた。土地不足のため福原近郊の輪租田を新都用地に充てることが決まったが、それで足りるものではなかった。その場で決まったことと言えば未だ京都から福原に到着していない右大臣九条兼実を呼び寄せることであった。


 治承四(一一八〇)年六月一三日、右大臣九条兼実が京都を出発。このときの九条兼実は体調を崩していたのだが、諸大夫五人、侍四人、随身二人、女房四人を連れて京都を出発し、翌六月一四日に藤原邦綱の寺江別荘に到着した後、福原に参向することとなった。もっとも、福原に到着したのは戌刻になってからであり、院御所となっている平頼盛の邸宅のもとにたどり着いたときには子刻になっていた。現在の時制にすると福原到着が夜八時頃、御所到着が夜十一時を過ぎている。さすがに高倉上皇は就寝中ということで正式な訪問は翌日に持ち越しとなった。

 翌日、高倉上皇のもとを訪問した九条兼実は、福原では狭すぎるので遷都は断念すべきであるが、平清盛は遷都の意思を変えないので、現在の伊丹市から尼崎市にかけての地域である小谷野の地に首都を建設するのではどうかという意見を高倉上皇から耳にすることとなる。これは貴族たちから挙がった言葉ではなく高倉上皇の発案であったと考えられる。

 さらに、厳島内侍と呼ばれる巫女から「小谷野を改めるべし」との託宣が届くと、小谷野ではなく現在の姫路周辺にあたる播磨印南野に首都を建設するのではどうかという意見が出て、そこならば広くて良かろうと思って調べてみれば、広さは申し分なくとも生活用水を確保できないという大問題が見つかった。

 要は遷都すると言いながらも計画も何もあったものではなかったのだ。

 平清盛は、天皇と院を連れてくれば、その後はどうにかなろうという考えしかなく、御幸計画については綿密に計画しながらも福原御幸のあとは何も考えていなかったのだ。

 治承四(一一八〇)年六月一六日、右大臣九条兼実は現状のままでは大嘗会(だいじょうえ)の挙行が不可能であると通告した。

 現在の勤労感謝の日はその年の収穫を祝う新嘗祭(にいなめさい)をベースとする祝日であり、現在でも一一月二三日は宮中で新嘗祭が開催される。新帝即位後最初の新嘗祭のことを現在では大嘗祭(だいじょうさい)と呼び、この当時は大嘗会と呼ぶが、ともに践祚において欠かすことのできない祭事とされることに違いはない。

 新嘗祭は宮中で開催すると決まっている。即位後初であることで特別となっている大嘗会も新嘗祭であることに違いはなく、宮中での開催であることに変わりはない。そして、大嘗祭を開催することまでが新帝即位に伴う儀式である。例外はあるにせよ、基本的には大嘗祭を開催することで新しい天皇の治世が始まったことを内外に示し、大嘗祭が開催された場所であることでその土地が首都であることを示す。そのため、平清盛は何としても福原で安徳天皇の大嘗会を開催するつもりでいたが、今からどう頑張っても福原では開催できず、福原ではなく小谷野や播磨印南野に移したところで開催はやはり不可能というのが九条兼実の回答であった。

 その上で、大嘗会の開催のために自分は京都に戻るとして九条兼実は京都に戻ってしまったのである。討伐されるのではないかという懸念の声には、福原に出向かずに京都に留まれば討伐対象となるかも知れないが、既に福原に赴いたあとで、国政上の必要があるために京都に戻るのであるから何の問題も無かろうという理屈を貫くことで黙らせることに成功した。


 九条兼実が福原から京都へと戻ることにしたまさにその頃、京都の三善康信から伊豆の源頼朝のもとへと送られる月に三度の定期連絡で、源頼朝は以仁王と源頼政の叛旗の様子と合戦の結末を知った。吾妻鏡によると、源頼朝が以仁王と源頼政の死を知ったのは治承四(一一八〇)年六月一九日のことであるという。なお、三善康信から源頼朝への定期連絡の方法について不正確なところがあり、現時点で判明しているのは月に三往復の情報連絡があったということだけである。その定期連絡の方法のうちたった一回だけ判明している連絡方法が六月一九日のこの日の手紙である。三善康信は実弟の三善康清に書状を託し、三好康清に京都から伊豆まで向かわせて書状を渡させたのだ。それだけ重要な書状であったからだ。

 三善康信は以仁王と源頼政が命を落とした戦いのことを「橋合戦」と呼び、橋合戦で以仁王と、以仁王に呼応した源頼政ら清和源氏の軍勢が敗れ去ったことを伝えた上で、平清盛から各国の清和源氏を追討するよう命令が下る気配があることを伝えたのだ。実際には平清盛からそのような命令は出ていないが、京都では延暦寺や興福寺、さらに東国の清和源氏が軍を率いて京都に攻め込んでくるという噂が広まっていることは源頼朝のもとにも情報として届いている。

 三善康信は情報としてではなく弟を通じた私信として、このままでは平清盛から軍勢が派遣されるか、あるいは殺害指示が届くかして源頼朝が殺害される可能性があるとして、奥州藤原氏のもとに逃れることを提唱している。源頼朝も、三善康信も、源頼朝の末弟が奥州藤原氏のもとに逃れ、奥州藤原氏三代目当主藤原秀衡のもとで生活していることは情報として掴んでいる。

 三善康信からの情報に対する源頼朝からの返信は治承四(一一八〇)年六月二二日に伊豆より送られた。返書は署名と花押の入った正式な書状として三善康清に託され、三善康清はわずか三日間の滞在ですぐに京都に戻ることとなった。

 その書状の内容がどのようなものであったのかは推測の域を出ない。ただし、このあとの源頼朝の行動を考えると、三善康信に計画を伝えたであろうことは確実に言える。

 前述の通り平清盛はたしかに清和源氏追討の指令を出してはいない。出してはいないが、平清盛の直属の郎党である大庭景親に命じて源仲綱の子を捜索させはじめていた。

 源仲綱の子の一人である源有綱はこのとき伊豆国にいた。

 源有綱から見て祖父にあたる源頼政は伊豆国を知行国とし、源頼政が出家して政界を退いたあとは源仲綱が知行国の権利を手にしていたので、自分の子や孫を伊豆国に派遣していたこと自体はおかしなことではない。しかし、源頼政と源仲綱の父子が以仁王の令旨に応じて叛旗を翻したならば話は別である。とはいえ、父や祖父は確かに以仁王の令旨に応じて叛旗を翻したが、本人が叛旗を翻したわけではない以上、源有綱は罪に問うことはできない。だからこそ極秘裏の任務であったのだが、源頼朝の情報収集能力は平清盛の極秘指令を見破ることのできるレベルで存在し続けていた。後述するが大庭景親が相模国に姿を見せるのは八月二日のことであり、公的記録を探ってみても大庭景親が八月一日までどこで何をしていたかの記録は残されていない。それでいて、大庭景親が相模国に姿を見せる前の段階で、源頼朝は大庭景親がいる前提での行動を始めている。

 このあと源有綱の存在は姿を消す。そして、次に登場するのは源義経とともに行動する武士としての登場である。追っ手から逃れさせるために下野国(現在の栃木県)方面に向かわせたという記録もあり、もしかしたら源頼朝は源有綱を奥州藤原氏のもとに派遣して、奥州藤原氏との関係性構築を図ったのかも知れない。


 治承四(一一八〇)年六月二四日、源頼朝が人員の選抜を始めた。

 何のための選抜か?

 反平家の決起に参加する人員の選抜である。

 これから源頼朝は平家を倒すべく決起するのである。平家に対する憎しみを抱いている人はたしかに多い。だが、平家に対して勝てるかどうかとなると話は別だ。以仁王とともに武器を手にした源頼政らがどのような運命を迎えたかの情報を源頼朝は手にしている。平家物語の数字の誇張は無視して本来の数値で考えれば、園城寺の僧兵を加えても一〇〇騎ほどであり、平家の武士が混在していたとしても公的には検非違使率いる三〇〇騎ほどの軍勢の前に敗れ去ったのである。一〇〇騎という数字は清和源氏が京都で用意できた軍勢の数、それも僧兵を味方に加えることが成功してようやく実現した限界の数字であるのに対し、三〇〇騎という数字は検非違使が、平家の支援を受けたとしても通常兵力として提供できる余裕の数字である。この現実の戦力差を前にして、いったいどれだけの人が躊躇せずに平家に刃向かうことができるであろうか。反平家に起ち上がると言うことは、単に平家の軍勢と戦うことだけではなく、朝廷に逆らうことも意味するのだ。

 かといって、武器を手にせず平家の前に起ち上がることもせぬままでいるという選択肢はあり得ない。既に大庭景親が伊豆に向かってきている。大庭景親はこの時点ではまだ伊豆に到着していないが、伊豆に到着した大庭景親が、本来ならば伊豆にいるはずの源有綱が消息不明となっていることを知っておとなしく帰るなど考えられない。平清盛にしてみれば、一人の武士としても、軍勢を率いる武将としても貧弱な源頼朝が存在していることの方がかえって清和源氏を一括で管理できるメリットがあるのだが、そのようなメリットも、以仁王の令旨と源頼政の挙兵を目の当たりにしたとあっては、源頼朝を亡きものとさせて今ここで清和源氏にとどめを刺すメリットに比べれば少ないとするしかない。

 源頼朝個人には選択肢など無かったのだ。平家打倒に立ち向かうことだけが源頼朝がこれからも生きていくことができる選択肢であり、そのような現実的な視点を無視して理想的な題目を掲げたとしても、平家政権を打倒する以外に暮らしの向上を果たせないというのは政治家としての源頼朝の決断だ。

 ただし、自分一人が起ち上がったところでたかが知れている。源頼朝個人として起ち上がるのではなく、反平家という集団で起ち上がらなければ打倒平家を果たすことはできない。平家との間にはそれだけの軍事力の差がある。

 そこで、軍事力を集めなければならなくなるのだが、反平家として決起する仲間を探すに際し、源頼朝はレベルの低いマネジメントなどしなかった。

 レベルの低いマネジメントとは何か?

 強制しないマネジメントである。

 これは経営学の基礎であるが、無理矢理何かをやらせると、間違いなく失敗する。どんなにその人がもっとも適していると考えて行動させようとしても、本人がやりたがらないでいることを無理矢理やらせると、一瞬はどうにかなっても、早々に瓦解する。戦場という人殺しの舞台に向かわせることはまさにその例だ。

 ここで人を集めて、これから戦争になること、殺し合いになって殺される可能性が高いことを告げた上で、戦場に出向く人を探そうとすると、一応は手が挙がる。本音ではやりたくないのだが、周囲の目、周囲の空気、周囲の評判に流されて、本音とは違う判断、すなわち、戦争に参加するという判断を下して手を挙げることになる。平家を打倒することだけを考えればそれでもどうにかなるが、源頼朝はその後のことも考えて行動しなければならない立場の人間だ。戦争が終わった後の、ともに闘ってくれた仲間たちのことも考える必要があるのだ。戦争とは目的達成に至るためにやむを得ず選ばねばならない手段の一つであって、目的ではない。

 人を集めて集団を構成し、集団を維持して目的を達成するまでであれば、つまり、一瞬だけどうにかすることだけで良いのであれば、やりがいだの、責任感だのといった、強制を伴うレベルの低いマネジメントでもどうにかなるが、人を集め続けること、集団を構成し続けること、集団を維持し続けて目的を達成し続けること、すなわち永続を考えるときは高レベルなマネジメントを必須とする。

 高レベルなマネジメントとは何か?

 三つを保証することである。

 充分な人員。

 充分な物資。

 充分な報酬。

 この三つである。

 やりがいとか、責任感とか、レベルの低いマネジメントしかできない無能者がよく口にするような単語は、高レベルなマネジメントが保証する三点を全て満たしたときに創出されるものである。充分な人員により行動前に自分に対する負荷が少なくて済むことが示され、充分な物資によって行動中の苦労を気にすることも健康上の心配を気にすることもなくて済むことを実感し、充分な報酬によって行動後に自分の行動が意味のあることであったことを実感する。その全てが満たされなければやりがいなど生まれないし、その全てを満たしていないのに責任など背負わされる義理はない。


 高レベルなマネジメントと簡潔に記したが、簡単に実践できる代物ではない。レベルの低いマネジメントしかできない人でも高レベルなマネジメントのほうが高い価値を持つことぐらいはわかっているが、払える報酬もなく、配れるモノもないというのに人を集めることはできない。源頼朝も、極貧とは言えないにせよ、大盤振る舞いできるほどの裕福さを持っているわけではない。

 しかし、源頼朝には高レベルなマネジメントを執行できるだけの計算があった。これは何も源頼朝が人類史上唯一無二なマネジメント能力を有しているからではなく、現在でも稀に見られる水準のマネジメント能力を有していたからである。もっとも、稀に見られるとは言うものの、百万人に一人いるかいないかという希有さではあるが。

 では、源頼朝が有していたマネジメント能力とはいかなる希有なマネジメント能力であるのか?

 注意していただきたいのは、充分な人員、充分な物資、充分な報酬を保証することが高レベルなマネジメントにおいて必要であるとは記したが、現時点で充分な人員、充分な物資、充分な報酬を提供できることとは必ずしも一致しないということである。

 隆盛極める大企業も、そのスタートは従業員が数名で場所も小さなガレージのみというケースは多い。当然ながら、生まれて間もないそのような企業に、充分な報酬、充分な物資、充分な人員は期待できない。だが、現状がどのようなものであるかが公開されている上で提供できる人員、提供できる物資、提供できる報酬は払われている上に、成功後の莫大な報酬と想像を超える成功が待っているとなれば話は別だ。充分な人員、充分な物資、充分な報酬は野心に火を点ける材料であり、現時点では提供できなくても、遠くない未来に保証できるとあれば、やりがいも責任感も生まれる。

 あとはどうやって、遠くない未来の保証を示すか。

 源頼朝は治承四(一一八〇)年時点の経済情勢を、正確に言えば治承三年の政変以後の日本国の経済情勢と自然気象を見極めたのである。

 平家は、そして平清盛は、自分の推し進めてきた自由貿易がこの国の庶民の暮らしを向上させていると信じていた。だが、その言葉を信じる者は少なかった。たしかに豊かになった人はいたであろうし、それまでであれば手に入らなかった貴重な輸入品を手にすることも、コメでも布でもない宋銭を手にすることもできるようになったが、その前に根本的な大問題が迫ってきていたのだ。

 治承四(一一八〇)年六月時点ではまだ危惧というレベルである。しかし、伊豆にいる源頼朝は、京都に住む貴族よりも、福原に移り住んだ貴族よりも、この国の農について目の当たりにし、実情を理解している。

 そして、この時点で多くの人が心配していた点について、源頼朝もまた、懸念できていた。

 このままでは不作になる、と。


 治承三(一一七九)年は気温が低く、治承四(一一八〇)年は降水量が少なかった。

 これは藤木年表でも確認できることである。

 藤木年表とは、藤木久志氏が編集して二〇〇七年に高志書院より刊行された「日本中世気象災害史年表稿」のことで、同書には一〇世紀から一七世紀にいたる、風水害、旱魃、虫害、そして、それらを原因とする凶作や飢饉や疫病について当時の記録や古文書の中から収集した史料がまとめられている。資料の記載内容と実際の自然気象との関係については発掘調査や放射性炭素年代測定法などから高い同質性が確認できており、一〇世紀から一七世紀の日本国の気象条件の変化を客観的に知ることができる貴重な図書となっているのが同書だ。ちなみに、藤木年表と呼んでいるのは私だけではなく、ほとんどの研究者が、同著の編纂者である藤木久志氏の名から同書を「藤木年表」と呼んでおり、私は研究者の皆様の呼び方に従っているに過ぎない。

 この藤木年表によると、治承三(一一七九)年は気温が低かったこと、治承四(一一八〇)年は降水量が少なかったことが示されている。また、藤木年表の記載の正しさ、すなわち当時の史料と実際の気象との関係は、発掘調査からも正しいことが確認できているのは前段に記した通りであり、これは治承三年と治承四年の二年間も例外ではない。

 さて、治承四(一一八〇)年六月時点で考えると、前年は気温低下により作物がまともに生育できなかったであろうことは容易に推測できる。それでもまだ六月ならば次回の収穫まで我慢すればどうにかなるだろうが、このまま降水量が乏しい状態が続けば二年連続で秋の収穫が無事に済まなくなり、秋以降の食糧事情は絶望と形容するしかない。

 庶民ならともかく、執政者にとっての降水量の減少とは雨乞いで済むような甘い話などない。執政者としてすべきことは、万が一に備えて食糧を確保することだ。それも、充分に。

 食糧危機の問題は飢餓だけではない。食糧が確保できたとしても、食糧そのものが高価値の資産となってしまうという問題があり、執政者にはこの問題に対処する義務がある。

 平清盛は自由貿易を推進している。たしかに自由貿易は利益をもたらし豊かな者をさらに豊かにする効果を持っているが、自分の豊かさと貧しい人への救済とでは自分の豊かさのほうが勝つのもまた、自由貿易の側面だ。最終的には全体的に豊かになるのも自由貿易であるが、そこに至るまでの課程において生命の危機を迎えるとあっては別の話となる。

 食糧が手元にあり、かつ、余剰もある状況で飢饉が起これば、手元にある食糧が高価値な資産となる。そのときに優先されるのは、他者の飢饉の回避ではなく、自分の手元にある食糧を通貨とした商売のほうである。他者の飢餓に心を痛めたにしても、自分が豊かになるチャンスが目の前に有り、それまでであれば高価であるために手に入れることができなかった物品や権利が食糧を通貨とすることで手に入れることが可能となったとあれば、手元の食糧を周囲の貧しい人の元に届けるなど考えず、商取引の材料にしてしまう。

 さらに、これは平家に限ったことではないが、この時代の武士や貴族や寺社というものは荘園を保有し、荘園からの年貢を資産の根幹としている。収穫が悪かったので年貢を減らしてもらいたいという申し出があったとき、申し出に応じて年貢を減らす者は少なく、予定通りの年貢は納めよと命令するほうが多い。根性がねじ曲がっているからではなく、収穫の少なさを目の当たりにせずに他人事と考えているからだ。

 収穫が少なかったからと言っても納めねばならない年貢は変わらないとなると、いつもの年なら手元に置いておけるような食糧を年貢として差し出さなければならなくなる。そうでなければ容赦ない取り立てがやって来る。一方、年貢を出せと命じている側は、苦しいという声があったのに予定通りの年貢が貢納できたではないかという結果だけしか目が行かないことになるから、無理を重ねた結果の納税が前例になって翌年も同じとおりの年貢を求めるようになる。レーニンやスターリンがウクライナで、毛沢東が中国大陸全土で、チャウシェスクがルーマニアでやったような、国内に餓死者を生み出しながらも儲けのために食料を平気で輸出する飢餓輸出も同じ構図だ。

 荘園とは、本来であれば朝廷からの負担の重さに対抗するため、朝廷の税率より少ない負担に加え、朝廷からは与えられない身の安全までついてくるものであるはずだった。荘園の住人であることそのものが庶民の中においては特権であったほどだ。

 それが、時代とともに変貌した。荘園の絶対数が増えたのと引き替えに、荘園に与えられていた権利のありがたみが失われ、荘園住民は貧しさに直面することになった。かつてであれば荘園領主と日常生活で接することもあったのに、今や荘園領主は京都にいる見ず知らずの赤の他人。荘園領主の視点に立つと、自分が手にした荘園ではなく戦乱や政変のドサクサで手に入れた荘園であって、荘園に住人がいることは知識としては知っていても、荘園に対する感想としては年貢の発送元以外の感情がない、つまり、荘園住人に対する人権意識が希薄ないしは皆無である。荘園に住む人が困ろうと知ったことではなく、求めているのは予定通りの年貢を自分の元に届けさせることだけである。

 荘園住民の側に立つと、予定通りの収穫であるならばまだいいのだが、不作となったら最悪の結末を迎える。生きていくのに必要な食糧ですら差し出さねばならず、それがせめて自分と同じように貧しい人の手元に行き渡るならまだ我慢できようが、既に裕福な存在になっている荘園領主がさらに豊かになるための手段として使われるだけなのだ。

 前年の政変で平家が権力を握り、多くの荘園が平家の手元に移った。そして、平家は自由貿易を推し進めている。この二つが重なるとき、待っているのは飢餓である。自由貿易と言えば聞こえは良いが、荘園住人が飢えようと知ったことではないと食糧を分捕って転売して儲けようとするのは、とてもではないが誉められたものではない。誉められたものではないが、平家の荘園の住人になってしまった人は、これから先、間違いなく飢餓がやって来る。平家の面々は荘園住人がどうなろうと知ったことではないが年貢だけは納めよと命じているのだから、年貢を納めるために自分の手元に残るはずの食糧を分捕られるのを我慢するか、取り立ての際に命懸けで抵抗して命を落として食糧を分捕られるかのどちらかしか選択肢がないとあっては、待っているのは地獄の未来だ。

 しかし、その飢餓を食い止める方法が一つだけある。

 以仁王の令旨に応じて反平家で起ち上がることだ。

 平家討伐のために起ち上がれば平家に年貢を納める必要など無くなる。しかし、現実問題として年貢徴収のためにやってくる平家の武士と戦って勝てるかと言われると、その答えは否である。

 だがここで、清和源氏が起ち上がったとあればどうなるか?

 荘園住人は清和源氏に救いを求めることが可能となる。

 清和源氏は正当な支援要請に基づいて武士を送り込むことが可能になる。

 代償として年貢を貰うのはあっても、その割合を平家の求める年貢よりも低くすれば、さらには気象問題が解決するまで減免するとすれば、荘園の実質的な所有権を手にできることとなる。

 これを源頼朝の立場で見れば、源頼朝とともに起ち上がった武士たちに新たに荘園の所有権が報奨として与えることが可能であることを意味する。二〇二〇年のノーベル経済学賞を受賞したポール・ミルグロム氏は、その著書「組織の経済学」において、組織の一員に行動を求めるには相応の報酬が必要であることを説いており、源頼朝はその理論をノーベル経済学賞の八四〇年前に実践したとも言える。

 大前提として平家の要求よりも安い税率と、荘園住人に対して飢饉に直面しうる食糧危機を回避できるだけの支援をする必要があるが、どんなに人の心を持たない冷酷な人であろうと、自分に対する庶民からの支持を得られる手段を破棄するような選択など選ぶ者はいない。一時的な実入りはたしかに少なくなっても、長期的には充分な実入りが計算できるのだ。

 平家が手にしていた荘園を自分のものとできる可能性がある。これは充分な報酬だ。

 荘園がもたらす食糧をはじめとする物資も、今は乏しくとも将来は期待できる。それに、これから戦争になろうかというときに兵糧についての不安を解消できる。これは充分な物資だ。

 そして、同じ目的で仲間が集まること。これは充分な人員だ。

 源頼朝は、高レベルなマネジメントで仲間を厳選することに成功したのだ。


 人員の厳選で、源頼朝はさらに高度なテクニックを披露している。

 源頼朝自身が未だ流罪中の身であるために身動きできないとして、源頼朝に仕える武士の一人である安達盛長を関東地方各地に派遣することで源頼朝とともに行動を起こす武士を集めたのである。本人が出向くわけにはいかないというのは表向きの理由で、実際には源頼朝から一人一人にスカウトを飛ばしたのだ。

 源頼朝自身は流罪中の身であるために移動の自由を持っていなかったが、安達盛長は、実質上は源頼朝に仕えている身であっても理論上は伊豆に住む一般人であり、移動の自由を有していた。特に、妻が武蔵国比企郡の有力武士団である比企家の一員であることから、安達盛長が伊豆国と武蔵国とを往復することは何ら咎められることではなかった。

 なお、比企家は伊豆に流罪になった源頼朝の生活を支援している。安達盛長の妻の母である比企尼(ひきのあま)は源頼朝の乳母であり、伊豆に流罪になったときの源頼朝はまだ一三歳であったことを考えると、いかに元服していたとは言え少年としか形容しようのない若者が流罪となったのだから、乳母が生活支援をするのは何らおかしなことではない。

 安達盛長がどのような人であるのかは関東地方の武士という武士が知っている。その安達盛長が自分の元を訪ねてきた理由はただ一つしか考えられない。源頼朝が一緒に反平家として起ち上がることを要請してきたのだ。訪問されたので面会してみれば、やはり想像した通りの要請であった。そのようなことを公表しようものならどうなるかわかっているし、そもそも流罪中の身である源頼朝に自由はない。だから安達盛長を通じてあくまでも私的な訪問ということにし、秘してスカウトしているのである。条件は、平家の荘園となってしまった土地と、その土地に住む人たちを平家から守ること、報酬は、守った荘園そのもの。条件も報酬も悪くは無い。それに、これから飢饉が来ることが予想されているところで、飢饉対策まで源頼朝は提唱している。

 安達盛長の誘いに同意を示したのが誰であるのかはこの時点では明瞭となっていない。しかし、拒否を示した者の名は残っている。もっとも、さすがに一日や二日で関東中をめぐるなどということはできないので、拒否した者の名の記録が出てくるのは治承四(一一八〇)年七月一〇日になってからである。


 自分とともに起ち上がってくれるのが誰であるのかを把握しつつあった源頼朝のもとに、それとは別の情報が届いた。その情報は、三善康信からの月三回の定期連絡では知り得ぬ情報である。

 治承四(一一八〇)年六月二七日、平家政権のもとでの京都で大番役を務めていた三浦義澄と千葉胤頼の二名が、京都からの帰途の途中で伊豆の源頼朝のもとを訪問して京都の情勢を伝えたのである。

 苗字を見ればわかる通り、三浦義澄は現在の神奈川県の三浦市を本拠地とする武士であり、千葉胤頼は現在の千葉県千葉市を本拠地とする武士である。と同時に、三浦義澄は相模国の在庁官人でもあり、千葉胤頼は上総国の在庁官人でもある。東国の在庁官人でもある武士である以上、大番役として京都に赴くこと自体はおかしなことではないことも意味する。このときも、大番役の職務を終えたあとで故郷に戻るだけのことであるため、世の中の情勢がどうであろうと京都から東海道を通って関東地方に向かうこともまた不可解なことと見なされなかった。

 だが、この二人が後白河法皇からの情報を持っているとすればどうか?

 千葉胤頼は後白河法皇の同母姉である上西門院統子内親王に仕えていた過去があり、三浦義澄が本拠地を構える相模国は元々が後白河法皇の知行国であった国であるから後白河法皇との接点は不可避となる。その二人が大番役として京都に赴いており、京都で働いているからこそ知りうる情報も持っていたのである。確かに後白河法皇は平家の監視下に置かれており、そう簡単に情報のやりとりのできる状況にはない。しかし、簡単ではなくとも後白河法皇が自分の意思を何度か外に漏らしたことは記録に残っている。気心知れた相手に対して漏らしたとしてもおかしな話では無い。

 大番役とは本来であれば、皇室や院、あるいは藤原摂関家の警護を担当する職務であり、東国の在庁官人でもある武士にとって、大番役に呼ばれて京都に向かい、最長で三年間の職務を勤め上げることは、上手くいけば中央政界での官職を、それがダメでも故郷での公的官職を手にできることを意味する。たしかに負担は大きいものの、リターンも大きい職務であったのだ。

 ただし、前掲のように本来であれば皇室や院の警護が職務であり、のちに藤原摂関家も警護対象に加えられたものの、その他の貴族を警護対象とする大番役はそう多くはなく、命じられても敬遠されることが多かった。その中での数少ない例外が平家で、平家に命じられて平家の警護をすると、公的地位を手に入れることは難しいものの、平家に関連する権勢を手に入れることが可能であった。その中の例としては、平家に命じられて上京して平家の警護を務めた伊東祐親といった例がある。ちなみに、北条時政は従来の意味での大番役を経験して在庁官人となることに成功しており、京都で警護を務めたという点ではキャリアを同じくしていても獲得した公的地位という点では大きな違いがある。

 さて、本来であれば大番役としてカウントされない平家の警護であるが、治承三年の政変は大番役の位置づけを変更させてしまった。カウントされないはずの平家の警護も大番役となってしまったのである。三浦義澄も、千葉常胤も、従来通りの大番役であればどうということなかったが、呼び出されてみれば平家のための大番役。治承三年の政変以後は平家の警護も藤原摂関家の警護に匹敵する大番役であると言われても釈然とできるものではない。三浦義澄は平治の乱で、源義朝の長男で源頼朝の兄である源義平と行動を共にしながら敗れ去って相模国に逃れてきた過去がある。千葉胤頼は実父の千葉常胤が保元の乱で源義朝とともに戦った過去があり、また、千葉常胤が源義朝の従弟である源頼隆の保護者となっている。なお、源義朝の従弟と言っても源頼隆の生年は平治元(一一五九)年であり、源頼朝より一世代上であっても源頼隆は源頼朝より一二歳歳下である。源頼朝の身に何かあったとき、源頼隆は清和源氏のトップとなり得る血縁を持つ一人であった。

 こういう経緯を持っている二人を大番役という名目で平家の警護役として京都に呼び寄せたのである。二人とも後白河法皇と接点を持っているかどうか知らなかったとは思えない。二人とも源氏の軍勢を構成する武士の一員であることを知らなかったとも思えない。平家はそれらを知っていた上で呼び出したのだ。

 さて、ここまで三浦義澄に千葉常胤と記してきたが、二人の本名は平義澄と平常胤である。そう、ふたりはともに平氏なのだ。それも平清盛と同じ桓武平氏なのだ。後白河法皇と接点を持っている、源氏の軍勢の一員である、それらは事実でも同じ桓武平氏として平家の一翼を担うよう要請されたのだ。

 考えていただきたい。平家は新興貴族勢力であると同時に武家勢力でもある。平家が自らを藤原摂関家に模して大番役を命じるのは貴族勢力としての意思表示でもあったろうが、より大きな理由として、大番役を通じて平家の武力拡張を意図してもいたのだ。それも清和源氏に仕えてきた武士団を切り崩すようにしての。既に源義朝から離反することによって平家政権下での地位を獲得していた山内首藤経俊(やまのうちすどうつねとし)や波多野義常(はたのよしつね)のような武士が誕生している。ここで大番役という名目で京都に武士を呼び寄せ、帰京させたときには平家に仕える武士へと変貌させる。これを繰り返せばただでさえ保元の乱と平治の乱とで勢力を縮小させていった清和源氏の勢力を少しずつ、しかし着実に弱めることができる、はずであった。

 その目論見は崩れた。平義澄も平常胤も、いや、三浦義澄に千葉常胤も、桓武平氏としてではなく後白河法皇との接点を持ったまま源氏の一翼を担う身であることを選んだのだ。その上、源頼朝に後白河法皇からの密命を伝え、治承三年の政変以降、関東地方各地で急速に拡大してきている平氏家人によって相模国や上総国といった地域の武士団と地域住民の困窮を訴えることができたのは大きかった。名目と実利の両方を手にしたのであるから。

 ここで三浦義澄について記さねばならないことがある。厳密に言えば三浦氏について記さねばならないことである。

 三浦義澄の本名が平義澄であることは既に記した通りであり、相模国の三浦に本拠地を持つため三浦の苗字を名乗るようになったが、それは三浦義澄から始まることではなく、ルーツをたどれば高祖父、記録をたどれば曾祖父まで遡る話である。

 三浦義澄の高祖父で、前九年の役で源頼義とともに戦った平為通が、前九年の役の後に源頼義から功績として相模国三浦の領地を拝領したのが三浦氏のルーツとなっている。ただし、この平為通という人物の素性はあまりはっきりしていない。実在の人物ではないとする説もあるほどだ。とは言え、安房国の武士団である安西氏は自身の祖先を平為通の次男である平為俊であるとし、三浦半島の三浦氏と安房国の安西氏は浦賀水道を挟んだ親戚関係であると相互に認識するなど、平為通の素性が不明であろうと、平為通はアイデンティティの上で欠かせぬ人物であった。

 三浦の苗字を名乗る人物として確実に言えるのは、平為通の子で三浦義澄の曾祖父である平為継、いや、三浦為継からである。後三年の役における鎌倉景正とのやりとりに出てくる人物であり、三浦氏の多くはこの三浦為継を三浦氏の始祖であると考えていたようである。もっとも、この三浦為継までは相模国三浦を領地とする相模国の武士団という位置づけであった。

 三浦為継の子で三浦義澄の祖父である三浦義継から三浦氏の隆盛が始まる。相模国は令制国の区分でいうと上から二番目にあたる上国であり、律令に従えば朝廷から国司として相模守と相模介の二名が派遣されることになっていたのであるが、そのうちの相模介の地位を三浦義継が独占するようになり、自らの本拠地である三浦と合わせて三浦介を称すようになったのだ。三浦義継は称号だけでなく、それまで三浦半島に留まっていた三浦氏の勢力を拡張し、相模国の東半分を実効支配するまでに成功した。さらの、次男を津久井氏、三男を蘆名氏、四男を岡崎氏として各地に三浦氏の分家を構築しつつ、後に三浦党とまで呼ばれることとなる集団を相模国の広範囲に亘るように築き上げたのである、三浦一族は時代とともに相模国の東半分どころか相模国の国境も越えた一大勢力となり、相模守ですら三浦義継を無視できなくなった。

 ところが、相模守ですら無視できなくなった三浦一族を平然と従える者がいた。源義朝である。保元の乱、平治の乱と、三浦一族は源義朝に従って戦い続けた。平治の乱で敗れた後、三浦義継は長男の三浦義明ともに京都から何とか脱出して相模国三浦に戻ることに成功し、三浦介の称号を保持しつつ相模国での一大勢力を維持していた。三浦義継の死後は三浦義明が三浦の家督と三浦介の称号を継承し、治承四(一一八〇)年時点で八九歳という当時としてはかなりの高齢でありながらも相模国において絶大な存在感を維持していた。三浦義明も父の展開した分家の構築路線を継承しており、若くして亡くなった長男の息子が和田氏を、三男が大多和氏を、四男が多々良氏を、四男の息子が佐久間氏を、五男が長井氏を、六男が杜氏を創設して三浦一族の勢力をさらに拡大させていた。

 三浦義澄は三浦介三浦義明の次男であり、実兄の三浦義宗が亡くなってからは三浦氏を事実上継承する立場になっていた。三浦義澄は治承四(一一八〇)年時点で既に五四歳となっており、年齢、実績とも申し分なかったのであるが、何しろ父が健在なのである。この五四歳の壮年が広範に亘る三浦一族をこれから指揮することは既定路線であった。


 治承四(一一八〇)年七月五日、源頼朝のもとに伊豆山神社の僧侶である文陽房覚淵が姿を見せた。神社なのに僧侶とはいかなることかと思うかも知れないが、明治維新後の神仏分離により伊豆山神社となる前は伊豆山権現とも呼ばれており、天台宗や真言宗と関わりの深い神仏習合の神社として名を馳せていた。源頼朝も安元元(一一七五)年九月に自分に対する殺害計画を察知したときに最初に逃げたのは伊豆山神社のもとであり、その後も何度も伊豆山神社を頼っている。もっとも、北条政子との逢瀬の場に利用していたという記録もあるので純粋に信仰のためではなかったが。

 逢瀬に利用していたことは、悪く言えば低俗な、良く言えば人間っぽいことであるが、このときの文陽房覚淵の訪問は人間っぽいと形容はできても低俗とは断じて形容できないものであった。文陽房覚淵は源頼朝の要請に応じて源頼朝のもとを訪問したのであり、源頼朝は自身のもとを訪ねてきた文陽房覚淵に対して自分の覚悟を神仏に伝えるために一〇〇〇巻の法華経の読経を誓ったが、時間の問題もあって八〇〇巻で断念せざるを得なかったことの許しを請うたのである。

 許しを請う源頼朝に対し文陽房覚淵は、源頼朝が八〇〇巻の読経をなしたことは、源頼朝が八幡大菩薩の氏人にして法華八巻に通じた信仰の厚い者であるだけでなく、八幡太郎源義家の血統を受け継いで関東八州(常陸・下野・上野・武蔵・相模・下総・上総・安房)の武士を従える者であることを示す証拠であり、八逆(謀反・謀大逆・謀叛・悪逆・不道・大不敬・不孝・不義)の罪を重ねた八条の相国を討伐する運命なのだと述べた。八条の相国とは京都八条に邸宅を構えている相国という意味であり、相国とは太政大臣、あるいは元太政大臣を意味する語で、すなわち平清盛のことである。一〇〇〇を誓いながら八〇〇に留まったことに対し、ここまで八を重ねた回答を即座にした文陽房覚淵はさすがとすべきか、あるいは吾妻鏡の創出したエピソードとすべきか。

 それにしても、源頼朝のもとに以仁王の令旨が届いたのが四月二七日であり、この時点で既に七月五日を迎えている。第三者からすれば遅いとしか感じられない。源頼朝が述べた一〇〇〇巻もの読経をすると決意していたからだというのは理由としては乏しい。

 しかし、二つのポイントから考えると源頼朝の理由は理解できる。一つは自分の集めることのできる武力の現実、もう一つは兵糧問題。

 以仁王の令旨に従って平家打倒に起ち上がったとしても、源頼朝に用意できる軍勢はたかが知れている。そして、起ち上がったあとの兵糧問題も存在している。単に起ち上がって平家を打倒するのではなく、平家を打倒し続けるためには、軍勢を展開するに充分な人員を集めるだけで無く、展開し続けることのできる物資も用意しなければならない。兵糧も必要だし、行軍先が野宿であったとしても宿泊に必要な日用品も必要だ。武器だって槍や弓はともかく矢は基本的には使い捨てだし、馬の飼料だって考えなければならない。高レベルなマネジメントを展開しなければ打倒平家として起ち上がることは許されないのだ。

 源頼朝が安達盛長を通じて高レベルなマネジメントを発揮したことの結果の第一段が判明したのは、既に記した通り治承四(一一八〇)年七月一〇日になってからである。この日に判明したのは、相模国では多くの武士が源頼朝と行動を共にする可能性が高いが、代々源氏に仕えてきた家系である波多野義常(はたのよしつね)と、相模国鎌倉に居を構えるまでになっていた山内首藤経俊(やまのうちすどうつねとし)の二人が、源頼朝の招請に応じることなく、暴言まで吐いたという知らせである。

 相模国波多野荘を本拠地とする波多野義常は前九年の役で源頼義のもとに参戦して戦死した佐伯経範の子孫の家系であり、源氏の軍勢が結集するなら波多野家の武士はほぼ例外なく名を連ねるのが通例であった。

 相模国鎌倉郡山内荘を本拠地とする山内首藤経俊は、源義朝が平治の乱で倒れた後、主人なき街となった鎌倉にやってきて鎌倉を支配するようになっていた。

 この二人が、安達盛長に対して拒否を示しただけでなく罵声を浴びせて追い返したのである。なぜか?

 二人とも源氏を見限っていたからである。特に平治の乱における源義朝に同意できずに離反していたことが大きい。源義朝を見限ったことで、山内首藤経俊は滝口の武士として朝廷に仕えることに成功し、波多野義常は平家に仕える武士の一人となっていた。源義朝を裏切ったことで平家政権下において地位を手にすることに成功した二人が、ここで源頼朝と行動を一緒にする道理は無かったのである。


 もう一つ、間違いなく源頼朝と行動をともにできなかった武士団が一つある。

 比企家だ。

 源頼朝の流罪先である伊豆という土地は、流罪地としてもっとも重い遠流となった者が流される土地であり、京都から見ればはるか遠くの地でもあるが、武蔵国比企郡を本拠地とする比企家の出身の比企尼にとっては、気軽とまでは言えないにせよ、自分の実家から歩いて移動できる土地に自分が乳母として仕えてきた少年が流されてきたこととなる。実際、比企尼は平治の乱のあとで伊豆に流罪となった源頼朝を追いかけるように、夫に対して京都での職務から故郷である武蔵国の職務に異動するよう迫り、武蔵国比企郡の代官、すなわち、比企郡の郡司の代理へと夫を異動させることで武蔵国に移り住んでいる。ちなみに、比企尼の夫が武蔵国比企郡の代官になれたのは比企郡における有力武士団のトップでもあったからで、このぐらいの地位の人になると、京都でキャリアを積んでから故郷に戻るのでも国司としての故郷凱旋ならば本人にとってもキャリアアップを果たしたこととなるのだが、京都でのキャリアを途中で放棄させて故郷に戻るとなると国司に就任するなど夢の話となり、武蔵国比企郡の代官という、武士団のトップとしては物足りない地位で我慢させられる結果となる。

 その比企家が京都でのキャリアをうち捨ててまで地方でのさほど重要でもないとされてきた職に就くというのは、答えは一つしかない。清和源氏嫡流の源頼朝との関係を構築するためである。娘婿を源頼朝に仕えさせるようにしたのも、源頼朝への生活支援を欠かさなかったのも、比企家が代々源氏に仕えてきた武士団であったからであり、源義朝が平治の乱に敗れて命を落とした後になって、慌てて平家のもとに下るよりも、今まで通りに源氏に仕え、源義朝の後継者である源頼朝に仕えるほうが理に適ったからである。

 であるならば、比企家の武士団が源頼朝のもとに集うのは当たり前のように思われたのだが、それは無理であった。比企家の武士団を統率できる者がいなかったのだ。本来であれば比企尼の夫がその職務を担うはずであったのだが、治承四(一一八〇)年の時点で故人となっていたのである。しかも、後継者となる男児がいなかった。比企尼は三人の子の母であったが三人とも女児であり、男児に恵まれぬまま夫と死別して治承四(一一八〇)年を迎えてしまったのである。のちに比企尼の甥である比企能員(ひきよしかず)が比企尼の猶子となって比企家を率いることとなるのだが、このときはまだ比企能員がいない。率いる武士がいない以上、武士を送り込むことができない。その代わり、物資と兵糧の支援は申し出たため、山内首藤経俊と波多野義常の二名とは違い、事情が事情であるとして理解され、比企家は源氏の軍勢から味方と見なされるようになった。


 その頃の福原に目を向けると、福原遷都をどうするのかという議論が延々と続いていた。九条兼実は大嘗祭ができないとして京都に戻ってしまったが、九条兼実のもとには福原での議論の様子が届いていた。ただし、届いていたのは議論の様子であって議論の結論ではない。

 平清盛は福原に固執していた。

 平清盛以外の平家の面々は平清盛の意向に従って福原遷都もやむなしと考えており、妥協案として、現在の伊丹市から尼崎市にかけての地域である小谷野、あるいは現在の姫路周辺にあたる播磨印南野への遷都も候補として挙げていた。

 一方、多くの貴族は京都への帰還を本心では望んでいたが、それを口に出せずにいた。京都に留まっている貴族は討伐対象となるため福原に呼ばれる日を待ち続け、福原に呼ばれたら喜んで福原に向かったが、いざ移ってみると京都は遠く及ばぬ暮らしぶりに耐えなければならないことに直面させられた。海辺で月を眺めながら風流を気取るという流行も生まれたが、多くは京都への望郷の念に包まれていた。

 平清盛にいかに心変わりをしてもらうかを考える貴族は多かったが、心変わりを促す矢面に立とうという貴族はいなかった。

 九条兼実は治承四(一一八〇)年七月一六日のこととして、福原をしばらく皇居とし、道路を敷いて宅地を造成して提供するべきという結論が出たことを記している。しかも、ここで提供対象となるのは平家に近い人たちだけで、全ての貴族のための用意されているわけでもないだけでなく、朝廷機構に必要な役人の住まいも首都に不可欠な一般庶民の住まいも全く考慮されていない。

 それでも安徳天皇、ならびに高倉上皇と後白河法皇の両院のことが考慮されているならばまだいいが、安徳天皇のことは考慮されていても、高倉上皇については重視されておらず、後白河法皇については無視されているに等しく、平家物語によると後白河法皇は三方が板張りで正面しか出入り口の無い部屋に軟禁状態にあったとなっている。だが、鳥羽殿に軟禁されていた頃のような厳重な警備にあったとは記されておらず、だからこそ密かに源頼朝に対して連絡を取ることが可能であったと言える。


 治承四(一一八〇)年七月時点で理論上の治天の君は高倉上皇である。とはいうものの、前段にも記したように高倉上皇について平家はさほど重視していない。

 その高倉上皇についての記載が治承四(一一八〇)年七月二〇日頃から続出することとなる。

 何が起こったのか?

 病気になり憔悴するようになっていったのだ。七月二四日には高倉上皇が命の危険を感じるようになり、七月二九日には太上天皇の尊号と随身を辞退するに至った。

 これは大問題となった。

 院政は既存の藤原摂関政治を利用した政治システムである。

 治承三年の政変後に成立した政治システムは既存の院政の政治システムを利用している。

 つまりここで高倉上皇の身に何か起こると平家政権の前提を見直さなければならなくなる。

 そうした平家政権の都合を高倉上皇自身は考慮したようであるが、高倉上皇の体調がそれを許しはしなかった。七月二九日に高倉上皇は改めて太上天皇の地位を辞退した上で、高倉院政の中断と摂政近衛基通による藤原摂関政治の復活を表明した。

 そこまでであれば、やむを得ぬ体調不良の上の臨時的措置として許容できたであろうが、七月三〇日に摂政近衛基通が熱病で倒れたとなると冗談では済まない事態となる。院政も摂関政治も瓦解した状態で平家政権を運営していかなければならないのである。

 高倉上皇が身動きできなくなった。

 摂政近衛基通も身動きできなくなった。

 安徳天皇はまだ幼く政務が執れない。

 貴族たちの議論の末に挙がった法案を法律として全国に展開するという本来あるべき政治の仕組みを執ろうにも摂政がいないからどうにもならず、臨時通知としての効力を持っている院宣を出そうにも高倉上皇が身動きできなくなっているために院宣を出せずにいる。

 これで平家政権は完全に身動きが取れなくなってしまったのである。この頃に右大臣九条兼実を内覧とする意見が挙がったらしいことは九条兼実自身の日記から推測できるが、その話は立ち消えになっていることも九条兼実自身の日記から推測できる。平家の操ることのできる近衛基通ならまだしも、平家が操れるとは断言できない九条兼実は、緊急事態の対処の候補に挙げることまでは可能でも、実際に対処させるには不都合というところか。

 その一方で京都から月に三回の定期連絡を欠かさず受け取っている人物がいる。伊豆で流罪生活中の源頼朝だ。しかも、源頼朝のもとには後白河法皇と接点を持っている三浦義澄と千葉常胤の二人のつながりがある。

 源頼朝は一つの働きかけをはじめた。後白河法皇に、平家打倒の院宣を出してもらうのである。治天の君が高倉上皇であるというのは法で決まっているわけではなく慣例である。後白河法皇だって院宣を出す資格はあるのだ。以仁王の令旨に従って起ち上がったときに待っているのは朝敵となる運命であり国家反逆罪に問われる未来が待っているが、後白河法皇の院宣を源頼朝に対して出してもらうことができれば朝敵とならず国家反逆罪に問われることはなくなるだけでなく、平家のほうが朝敵になる、すなわち、源頼朝の行動に法的根拠が与えられることとなる。


 治承四(一一八〇)年八月二日、大庭景親が相模国に到着した。京都から相模国に行くのは通常であれば陸路、すなわち東海道の徒歩移動であり、その際には伊豆国を通る。そして、伊豆国の国衙は現在の静岡県三島市に存在しており、伊豆国の国衙のあたりを通過する。ただ、伊豆国というのは国衙の位置が他の令制国と比べて珍しい位置にある。通常の令制国は国内のどこへでも同程度の時間で異動できるよう、領域内の中心部に国衙を置いているものであるが、伊豆国は現在の三島市のあたり、すなわち、伊豆国の北端に国衙を置いている。東海道での移動を考えると便利な位置であるが、国内統治を考えると国衙の位置がかなり偏っている場所になる。

 大庭景親は源有綱の捜索を目的として京都を出発したが、名目上は相模国への帰郷である。伊豆国の国衙に行くことはできてもあくまでも通過点であり、源有綱がどこにいるのかを国衙の在庁官人に訊ねることまではできても、伊豆国を南下して伊豆国内で勝手に捜索することは許されていない。どうしても捜索するのであればいったん相模国に帰った後で私的に伊豆国内の人に捜索を依頼するしかない。

 そのため、大庭景親は一人で京都を出発したのではない。伊東祐親も帯同させての帰郷であった。伊東祐親と言えば平家の権勢を利用して伊豆国内で勢力を拡大させ、伊豆国中の憤怒を集めていた武士である。大庭景親が相模国への帰郷であるのに対し伊東祐親は伊豆国への帰郷だから、途中までともに行動するのはおかしなことではなく、伊豆国の国衙から南下して伊豆国の国内を巡ることもおかしなことでは無い。平家の権勢を背後にして強引に所領を拡大させたことから敵が多かった伊東祐親であるが、治承三年の政変は伊東祐親の境遇を一変させた。どんなに敵が多くても、平家が国家の全てを掌握した時代を迎えた以上、平家の権勢を背後に利用できる伊東祐親のほうが伊豆国で圧倒的地位を手にできたのである。

 伊豆国は元々源頼政が知行国とし、源頼政が出家したあとは源仲綱が知行国の権利を相続していた。その二人が戦場に散った後、伊豆国の知行国の権利は平時忠のもとに移り、伊豆国司には平時忠の養子となっていた平時兼が就任。平時兼は実際に伊豆国に赴任することなく平兼隆を自身の代理である目代(もくだい)として伊豆に派遣するとした。

 ただし、ここにちょっとしたいきさつがある。まず、平兼隆はたしかに桓武平氏であるが平家ではない。そもそも保元の乱まで遡ってみても、祖父も、父も、平清盛とは行動をともにせずおり、そのために平家一門に加えられることも無かった。この点が武士ではないばかりか伊勢平氏でもないのに平家一門となった平時忠とは真逆である。

 この平兼隆であるが、伊豆国司の代理をつとめるために伊豆にやってきたのではない。治承三(一一七九)年一月に、罪状は不明であるが父から訴えられ、有罪となり、それまで務めていた右衛門尉の地位を解任され、伊豆への流罪が決まって伊豆国山木、現在の伊豆箱根鉄道韮山駅のあたりへと追放されていたのであるが、そのタイミングで以仁王の令旨にはじまる争いが起こり、源頼政と源仲綱が討ち取られたことで伊豆国を知行国とする権利が平時忠のもとに移った結果、かつての上司であった平時忠から平兼隆の代理として目代(もくだい)になれと命令が来たのである。なお、追放先である伊豆国山木の地名から、平兼隆は山木兼隆と呼ばれることが多く、本作でも以降は山木兼隆と記す。

 伊豆国の政治情勢を考えると極めて不安定とするしかなくなっていた。伊豆国はそもそも源頼政が知行国としていた国であるため、以仁王の令旨の前までは、源頼政自身が平清盛に仕える忠実な家臣のような武人であったとは言え、伊豆国の在庁官人は知行国主のように平家に忠実に従う必要は無かった。平家の権勢を全面的に利用できていた伊東祐親に対する反発があろうと、伊豆国の国衙から何か言われることもなければ在庁官人から咎められることもなかったのが伊豆国である。

 この政治情勢は治承三年の政変の直後も変わることなく平家とある程度距離を置くことが許されるままであったのであるが、以仁王の令旨とその後の戦闘で一変した。在庁官人は平家とつながりのあることが必要条件とされ、伊豆国において多くの在庁官人や武士から憤怒を集めていた伊東祐親をはじめとする平家の忠実な家臣である者が重用されるようになったのである。その一方で、北条時政のように平家とある程度距離を置いてきた在庁官人は冷遇されるようになっていた。裏を返せば、山木兼隆と伊東祐親を最初のターゲットとすることで伊豆国の武士を集めることに成功することとなる。

 また、山木兼隆と伊東祐親を倒すことは源頼朝にとって地政学的な意味も持っていた。

 治承四年の関東地方の武士団を源氏と平家とで分けるとこのようになる。赤が平家で白が源氏である。

 伊豆への流罪となっている源頼朝が平家を打倒しようとした場合、真っ先に考えるのは伊豆での勢力を維持して軍勢を構築すること、次に三浦半島の三浦一族の軍勢をその軍勢に加えること。その上で房総半島へと渡って房総半島の源氏勢力をまとめあげ、関東平野に軍勢を展開し、平家の武士団に対して源氏に戻るかどうかを促し、源氏に加わるならばそれで問題なしとし、加わらないなら結集させた軍勢で打ち破って、まずは関東地方に勢力を築き上げるというのは一般的な戦略である。これまでの清和源氏の培ってきた歴史をそのまま利用できる上に、関東地方の武士団を結集させれば平家と互角に渡り合える武力を構築できる。また、産業に目を向けても打倒平家に必要な物資が自給自足可能だ。

 その第一歩となるのが、いかにして相模湾に出るか、である。

 源頼朝の流罪の地である蛭ヶ小島は、「島」という地名を名乗ってはいるが、実際には平地のまっただ中である。伊豆半島の北部は東よりも西の方に平地が広がっていて、蛭ヶ小島から海に出るには、西の駿河湾であればさほど困難ではないが、東の相模湾となると二重の意味で困難となる。東に山地が広がっているという地形の理由と、その山地の入り口となる高台に山木兼隆が、山木兼隆の南に伊東祐親が本拠地を築いているという軍事的な理由である。

 陸路で三浦半島に出るとすれば、まずは山木兼隆を倒し、次いで大庭景親を倒さねばならない。集められる兵力を考えたとき、山木兼隆はどうにかなっても大庭景親相手は困難だ。大庭景親と対戦することなく三浦半島に行くには、伊豆半島の東部から相模湾を西から東へ航海するのがもっとも安全で確実である。

 幸いにして、現在の湯河原の周辺に勢力を築いている土肥氏は源氏の味方として期待できていたが、北からは大庭景親、南からは山木兼隆に攻められる状況になっており危険な状態になっており、安全な出港は期待できない。

 蛭ヶ小島は駿河湾に近いのだから、西に進んで駿河湾に出て、伊豆半島を反時計回りに一周して相模国に向かうような航路をとればいいかと思うか知れないが、そうなったら相模湾沿岸の伊東、山木の支配する沿岸を航行しなければならない。この時点の源頼朝の用意できる海上戦力を考えたとき、相模湾を西から東へ一気に航海するのは可能でも、無寄港での伊豆半島一周は絶対に不可能である。

 ゆえに、まずは山木兼隆を倒して土肥氏のもとから相模湾を横断するよう航海することを考えなければならない。


 治承四(一一八〇)年八月四日、源頼朝が一人の人物を招いた。藤原邦通である。源頼朝自身は武士としての教育を受けると同時に京都において貴族としての教育を受けてきた人物であるが、平治の乱に敗れて伊豆に流罪となったと同時にそれまでの教育が打ち切られた。その後も伊豆において独学で学んでいたが、この時代の情報格差は現在の比ではない。伊豆で手に入る書物の質も量も京都と大きな差があり独学には限界がある。それでも一三歳で教育を打ち切られたにしてはかなりの知識量を持っていたのが源頼朝であるが、有職故実や文筆となるとどうしても朝廷の第一線で活躍している官僚や貴族と比べると見劣りしてしまう。

 藤原邦通という人物の評伝は良くわからないが、有職故実に通じ、文筆に長じ、さらには絵画や占いまでこなしていたという。この人物がどういうわけか源頼朝のもとを訪問した。吾妻鏡によると京都を離れて各地を流浪していたところ、安達盛長の目に留まって源頼朝に紹介されたという。ただし、そのあともしばらく流浪を繰り返し、一時期は山木兼隆のもとにも滞在したという。

 そのような人物を何で源頼朝が招き入れたのかを訝しんだ者は多かった。

 有職故実に通じており、文筆にも長けている人物を招き入れるのまではわかるが、よりによって山木兼隆のもとにも滞在した人物を何でわざわざ招き入れるのか。

 その理由が判明したのは、源頼朝の元を訪れたときに何を持参したのかが判明したとき。藤原邦通は山木兼隆の邸宅とその周囲の地形を図面にして持参したのである。

 源頼朝が山木兼隆の邸宅を襲撃する準備を整えているというニュースが瞬く間に広まり、襲撃日時を決定したというニュースまで広まった。八月一七日がその日付だ。八月一七日は三島神社の祭礼があるため山木兼隆の側としても油断が生じる。

 治承四(一一八〇)年八月六日、源頼朝はともに闘うと表明してくれた武士たちを呼び出し、作戦の開始を告げた。それもただ単に告げたのでは無い。一人一人呼び出した上で、他にたくさんの仲間が参加してくれていることを告げた上で「未だ口外せざるといえも、偏に汝を恃むに依って話す」、つまり、「これは秘密にしておいてほしいのだが、ともに闘ってくれる仲間の中で、そなただけが頼りなのだ」と述べたのである。少なくとも、工藤茂光、土肥実平、岡崎義実、宇佐美助茂、天野遠景、佐々木盛綱、加藤景廉といった武士たちが同じことを言われている。


 もっとも、このようなニュースが広まるということは、ターゲットとされた側にもニュースが伝わるということでもある。実際、治承四(一一八〇)年八月九日に大庭景親は佐々木秀義を呼び出して、源頼朝が本当に叛旗を翻すのかを質問している。これに対する佐々木秀義の回答は不明であるが、質問を受けた後の行動はかっきりとしている。自分の息子たちを全員、源頼朝のもとに向かわせたのだ。

 佐々木秀義は本来であれば近江国蒲生郡の佐々木荘を本拠地とする武士であったが、平治の乱で源義朝のもとで戦ったため敗戦を迎え、奥州へと逃走しようとした過去を持っている。佐々木秀義は、奥州藤原氏三代目当主藤原秀衡の妻の甥であるため、奥州へと落ち延びたのであれば奥州藤原氏のもとで保護して貰える可能性が高かった。ただし、奥州藤原氏の元に向かう途中で相模国から武蔵国に掛けての地域に勢力を築いていた渋谷重国に引き留められ、それから二〇年以上、渋谷重国のもとで過ごしていた。

 大庭景親がなぜ佐々木秀義を呼び出したのか。

 平治の乱で源義朝とともに戦い敗走した佐々木秀義を呼び出したとして、佐々木秀義自身が源頼朝とともに戦うよう決意しているとは考えなかったのかと思う方もおられるかも知れないが、実際には大庭景親の呼び出し自体に不合理が感じられない。

 佐々木秀義が渋谷重国のもとに二〇年間も滞在していることは既に記した通りである。だが、渋谷重国は佐々木秀義と同様に平治の乱で源義朝とともに戦って敗れ、自分の所領へと逃れていった武士である。しかし、平治の乱での敗者となった渋谷重国であるが、所領を奪われることもないばかりか、むしろ平家のおかげで自らの所領を増やすに至ったのである。この広大な所領を統治するのに渋谷重国は佐々木秀義の武士としての能力を求め、佐々木秀義は戦友である渋谷重国の求めに応えたのだ。

 大庭景親から見れば、渋谷重国は平家の恩を受けている武士である。そして、佐々木秀義は渋谷重国のもとにいるために、平家の恩を受けている武士であると考えたのである。だから大庭景親は佐々木秀義を呼び出したのだ。関東地方における平家の武士の一員として計算できるとして。

 なお、苗字だけを見ると渋谷重国は現在の東京都渋谷区を本拠地としている武士なのかと思ってしまうかも知れないが、渋谷重国は相模国高座郡渋谷荘、すなわち現在の神奈川県大和市に存在していた荘園を所領としている武士であり、その名を現在に伝えているのは神奈川県大和市渋谷、駅名でいうと、小田急江ノ島線の高座渋谷駅のほうである。もっとも、渋谷重国はその所領を相模国高座郡渋谷荘から北へと伸ばし、所領の北端は武蔵国豊嶋郡谷盛、現在の地名で言うと東京都渋谷区から港区に掛けての一帯へと至っているので、渋谷重国と現在の東京都渋谷区との関係は全くのゼロではない。


 一方、ターゲットとされた山木兼隆の側がどこまで源頼朝の計画を把握していたかどうかは不明瞭なところがある。ターゲットとして狙われているらしいという噂は山木兼隆自身も聞いているが、山木兼隆は山木兼隆でどうにかしてさらなる情報を手に入れようとしている。山木兼隆のもとには情報が足らなすぎるのだ。

 源頼朝の情報を手に入れるために、山木兼隆に仕えている者のうちの一人が源頼朝の側で働いている女性の一人と恋仲になっていると知って、彼女を通じて源頼朝の情報を掴み取ろうとしたことまでは判明しているが、実際にどこまで情報を手に入れることができたかは怪しい。後述するが源頼朝は情報戦も仕掛けているのである。何と言っても自分の近くに仕えている女性が山木兼隆に仕えている者と恋仲になるよう仕掛けたのは源頼朝の側なのである。よくあるハニートラップだと言ってしまえばそれまでだが、情報が漏れるかのようにしておいてどうでもいい情報を漏らしておきつつ肝心な情報を隠すのは、情報戦での常套手段だ。

 自分のところを訪問した藤原邦通が山木兼隆の邸宅や周辺の地形を図面に記して源頼朝に対して持参したという噂も届いているが、これらは全て既知の情報であり、藤原邦通が図面として記さなくとも知られている可能性は高い。

 そうでなくとも山木兼隆は攻め込まれる側だ。城壁を囲った堅牢な城に限らず、一般家庭であっても攻撃側は守備側の三倍の戦力を必要とする。さらに、時間を用意できれば用意できるほど建物内外の防御施設の拡充や人員の増強を図れる。

 襲撃予定日と噂されている八月一七日は三島神社の祭礼の日であり通常よりも人混みが激しくなる。そのようなときに攻撃をしようものなら山木兼隆だけならまだしも、三島神社の祭礼に訪れた一般人にも被害が及ぶ。そのような襲撃を使用ものなら源頼朝への支持は容易に反感へと変貌し、民間人を守ろうとした山木兼隆のほうに支持が集まることとなる。

 源頼朝の襲撃が失敗したら、源頼朝は民間人を無差別攻撃したテロリストということになる。伊豆国において平家の権勢を利用して勢力を広めている面々への反感が高いのは知っているが、テロリストから民間人を守ったとあればそうした反感を打ち消すことも可能だ。

 正常性バイアスが働いているとは言え、八月一七日の襲撃について山木兼隆は対応できているという思惑が働いていた。

 源頼朝の手のひらの上で踊らされているとは知らずに。


 吾妻鏡によると、佐々木秀義が大庭景親に呼び出されたのと同じ治承四(一一八〇)年八月九日の京都からの定期連絡で、伊藤忠清から大庭景親に対して、伊豆国の流人である源頼朝が、北条時政と比企掃部允の二人に擁立されて謀坂を計画しているという書状を送ったとある。あくまでも伊豆国に到着したのが八月九日であり、この時代の京都から伊豆国までの交通通信事情を考えると、伊藤忠清から大庭景親に書状を送ったのは七月中旬の話であり、伊豆国の源頼朝が謀叛を起こす可能性があるという情報が京都に届いたのがいつであるかを考えると六月の段階で出発していなければならない。

 伊藤忠清は駿河国の長田入道から伝えられた情報であるとしているが、まずもって情報が不正確である。源頼朝と北条時政はいい。問題は比企掃部允だ。比企掃部允という人物は比企尼の夫であり本来であれば比企家の武士団を統率するべき立場にある人物である。脅威として京都にまで情報を伝えるとしたら名前が挙がっていてもおかしくない人物と言えよう。治承四(一一八〇)年時点ではもう故人となっていることを除けば。

 既に故人となっているかどうかも情報として掴めていないというのは、伊藤忠清の情報収集能力に疑念を感じさせる内容である。平家の側の人物の情報収集能力がこの程度であるというなら、脅威どころか侮蔑の対象にしかならない。

 治承三年の政変のあとでの行賞で伊藤忠清は上総介に就任した。しかも「板東八ヶ国の侍の別当」の権利を与えられた上での上総介の就任であり、伊藤忠清は関東地方の全ての武士について統括する権利が与えられていたということになるのだが、統括する権利を得ていることと、関東地方の武士についての情報を把握していることとは全くの無関係であるということが示された。

 伊藤忠清にも言い訳の余地はある。たしかに上総介に就任したが上総国に常駐したわけではないのである。以仁王を追撃する検非違使の軍勢の中に伊藤忠清がいたという記録もあり、平家物語では宇治川の馬筏(うまいかだ)を構成する馬上の武人の一人であったとある。実際に以仁王を追討する軍勢の一員であったか否かは不明であるが、伊藤忠清が京都におり、情報を受け取った時点では福原へ移るか否かの対象であったことは間違いない。とは言え、上総国に常駐していないことと関東地方の正確な情報を手に入れていないこととは何の関係もないことだが。


 治承四(一一八〇)年八月一一日、佐々木秀義の息子の佐々木定綱から、今回の計画が大庭景親のもとに漏れていることが源頼朝のもとに伝えられた。

 本来であればここで作戦を練り直すべきところであるが、源頼朝は作戦の練り直しをせず予定通りに挙兵することを伝えた。既に動き出していたから止めることができないというのは理由の半分でしかない。源頼朝は情報戦も仕掛けていたのである。

 伊藤忠清から大庭景親のもとに送られた書状の不正確性、そして、大庭景親は佐々木秀義から情報を仕入れようとしていることは情報戦の素材として絶好の材料であった。大庭景親は正しい情報を掴めていないのだ。

 まず、治承四(一一八〇)年八月一四日に佐々木秀義の四人の子に対していったん渋谷荘、現在の神奈川県大和市に戻って甲冑を用意させるよう命じた。単に四人が欠けるのではなく、周辺に従う郎等たちも揃って渋谷荘に戻るわけであるから事実上佐々木家の軍勢の総移動となる。今なら鉄道や乗用車で移動できでも、伊豆から神奈川県大和市までの距離である。馬を急がせたところでそう簡単に移動できるものではない。しかもその途中で大庭景親の近くを通らねばならない。

 大庭景親には佐々木秀義が息子たちに何をさせたかわかった。その上で、息子たちが伊豆から渋谷荘にまで戻っているのである。一方で、源頼朝が八月一七日に挙兵するのではないかという噂が広まっている。伊豆から大和市に行って甲冑を身にまとって伊豆へと戻るまでの日数を考えると、どう考えても八月一七日に挙兵するなど無理だ。かといって佐々木家の軍勢無しで挙兵するとは考えられない。源頼朝が用意できると見込んだ軍勢がどの規模であるかを考えると、佐々木家の軍勢が欠けたら間違いなく挙兵計画は失敗する。すると、考えられる答えは二つ。源頼朝はそもそも挙兵しないか、あるいは、挙兵するのが八月一七日より後であるかのどちらかである。

 源頼朝の側の貴重な軍勢が源頼朝のもとを離れて渋谷荘へと向かっていることの知らせは大庭景親から山木兼隆へと伝えられた。八月一四日に伊豆から渋谷荘に向けて出発した一行が一七日までに戻れる可能性は無いとしか言いようがないという希望的観測とともに。

 これが山木兼隆のもとに仕える武士たちの間に油断を招いた。三島神社の祭礼はこの時代の貴重な娯楽でもあり、その日に襲撃の可能性があることは緊張を以て迎えられていたが、本心からすれば貴重な娯楽のもとで過ごしたいという思いもある。

 忘れてはならないのは、山木兼隆はたしかに目代(もくだい)として伊豆国に君臨しているが、ついこの間まで流人であった人であり、以仁王に呼応した源仲綱が討ち取られたことで伊豆国司が空席となったのを埋めるために目代(もくだい)に指名された人物であるということである。つまり、個人的なつながりで周囲を固める人はゼロとは言えないにせよ乏しく、平家への忠誠と、国司には相応の警護を配備されてしかるべきという信条から配属された者が山木兼隆の周囲を固めている状況なのである。無理をさせることはできないのだ。

 ここで注意すべきことがあるとすれば渋谷荘まで出向いた佐々木四兄弟が率いる軍勢が八月一七日までに戻ってきて源頼朝の軍勢が揃ってしまうことであるが、その前々日の八月一五日から八月一六日にかけて豪雨となったこともあり佐々木四兄弟の帰着はまずあり得ない、はずであった。


 運命の八月一七日を迎える前、福原ではどうなっていたのか?

 源頼朝の挙兵の知らせは知る人ぞ知るという不確定な情報であり、また、さほど重要な情報と見なされてもいなかった。伊豆に流罪となった清和源氏の若者が起ち上がる可能性があるという情報はあっても、その情報を受け取った平清盛は京都を首都とし続けることの懸念点とする材料としての価値しかなかった。

 治承四(一一八〇)年八月一二日、平宗盛がついに福原遷都反対意見を平清盛に表明する。福原の新都市建設計画はそもそも準備不足の上に予算も不足しておりこのまま遷都を強行するよりも平安京を首都とし続けるほうが現実的であるとしたのである。福原は、鳥羽離宮などと同様の離宮であって首都ではなく、各官庁は京都にあり続けるというのが平宗盛の示した意見であった。

 息子の反対意見に対する平清盛の回答は単純明快で、否。何としても福原に遷都するという意見を絶対にねじ曲げることなく福原遷都にこだわり続けたのである。

 ただし、平清盛は妥協を示した。今すぐ福原に全面遷都するのではなく、大嘗会を翌年に延期することを認めたのである。どうあがいても福原で大嘗会を開催できないことは、どんなに平清盛が福原遷都にこだわろうと受け入れざるを得ないことである。その上で首都機能の暫時移転に平清盛は同意した。

 目処としては再来年。そこまでに内裏を建設し、再来年までには八省院をはじめとする必要な役所を京都から福原へと移転させる。それまでの間は京都と福原の二箇所で政務を分担し、徐々に福原での政務の比率を増やして最終的に福原遷都を完成させるというのが、平清盛の見せた最大限の妥協であった。

 伊豆で戦闘が繰り広げられることになるのに福原は呑気なものだと思うかも知れないが、それはこのあとの歴史を知る現代人からの視点であって、この時代の福原の人に、あるいは京都の人に、伊豆の流人である源頼朝が反平家で起ち上がるかと質問したら、非現実的な妄想と笑われて終わりであろう。

 何度も繰り返すが、この時代の情報通信能力に、伊豆と京都との間のリアルタイムを求めてはならない。


 現在、正月二日から三日にかけてテレビで放送される箱根駅伝を楽しみにしている人がいるであろう。東京大手町から箱根まで二日かけて往復する大学駅伝である。長距離走に徹した軽装であるだけでなく、大会関係者や各大学関係者、報道陣、地域の警察といった方々の全面協力のもと学生ランナーたちの安全に目を配られているとは言え、東京大手町から箱根の間を二日で往復するのである。それを考えれば伊豆から渋谷荘、すなわち現在の神奈川県大和市までの間を往復させるのは決して不可能ではないとわかるはずである。

 忘れてはならないのは、彼らは馬で移動しているということだ。山木兼隆のもとに伝わった情報は治承四(一一八〇)年八月一四日に佐々木四兄弟らの軍勢が伊豆を出発したというものである。軍勢の移動を、馬に乗る者もいるが基本的には徒歩での移動と考えるからこそ、八月一四日に伊豆を出発した佐々木四兄弟らの軍勢が八月一七日までに戻ってくるというのはあり得ない話と考えるのであり、八月一五日からの二日間は豪雨であったことを考えるとますます戻るなどあり得ないこととなる。

 そのあり得ないことを源頼朝はやらせた。全員を馬に乗っての移動とさせたのである。

 豪雨の影響で予定していた時刻よりも遅くなった上に疲労困憊の姿ではあったものの、渋谷荘まで往復した佐々木四兄弟は八月一七日の昼過ぎに伊豆に到着したのである。とは言え、当初は八月一六日までに伊豆へと戻った佐々木四兄弟を加えた軍勢で八月一七日の早朝に襲撃する予定であったのだからプランBを発動せざるを得なくなる。

 源頼朝という人は、一人の武士としても、軍勢を指揮する武将としても、劣っている人である。しかし、この人は超一流の政治家である。つまり、その場の臨機応変で計画を立てるのは苦手であるが、大局的な視点で前もって計画を立てるのは得意としている。佐々木四兄弟が予定通りに戻ってくる場合、遅れてくる場合、そもそも戻ってこなかった場合を考えて計画を立てるぐらいしている。そして、佐々木四兄弟が送れてきた場合の計画というのが、結果として政治家源頼朝の本領を発揮する計画になったのである。

 何かというと、まさに八月一七日が三島神社の祭礼のため人混みに溢れている日だということ。当初は三島神社の祭礼が始まる前に山木兼隆を討ち取り、祭礼のために集まった群衆に対して山木兼隆を討ち取ったことを報告する予定であったが、その予定は白紙に返した。と同時に、佐々木四兄弟が相模国渋谷荘に向かったことは広く知られていることであったが、伊豆に帰着したことはまだ知られていない。つまり、祭礼のために集まった群衆を利用して、八月一七日の襲撃は断念せざるを得なくなっているだけでなく、軍勢がそもそも結集していないことを噂として広めさせることが可能だったのだ。源頼朝は佐々木四兄弟の帰着を極秘裏とした。


 噂されていた源頼朝の襲撃がなく、三島神社の祭礼も通常通りに開催され、多くの人が祭りの後の静けさに浸っていた治承四(一一八〇)年八月一七日の深夜、源頼朝の軍勢が行動を始めた。

 日付が変わった八月一八日の子刻、現在の時制でいう午前一時頃、源頼朝の命令で出動した軍勢は、山木兼隆を襲撃する北条時政らの軍勢と、堤信遠を襲撃する佐々木兄弟らの二手に分かれた。なお、源頼朝自身は襲撃する軍勢に加わっておらず北条の館で待機している。軍勢を率いるのが下手というのもあるが、公的にはまだ流罪中の身であり、監視下から勝手に抜け出すことは法的に許されないのである。源頼朝はあくまでも以仁王の令旨に従って反平家で起ち上がるのであり、伊豆国司の代理である平兼隆こと山木兼隆を攻めるは山木兼隆が平家だからであって、朝廷そのものには逆らわないという姿勢を崩すことは許されなかったのだ。

 ここで注目すべきは、伊豆国司目代(もくだい)である山木兼隆だけではなく、堤信遠なる人物に対しても襲撃をするとしたことである。この堤信遠は何者か?

 山木兼隆は伊豆国司の代理である目代(もくだい)として伊豆国にいるが、伊豆国司の代理となるために伊豆国に来たのではない。それが何であるかはわからないが父から訴えられ、有罪となってそれまで務めていた右衛門尉から罷免され、伊豆国へと配流となって一年以上経過していたところでいきなり目代(もくだい)に任命され国司代理を務めることとなったのである。

 かつては検非違使であり右衛門尉まで務めていた人物なのであるから山木兼隆が全くの無能であるとは言わないが、ついこの間まで流罪中の身であったところからいきなり伊豆国の国司の職務を務めるよう命令されたとして、果たしてどこまで職務を遂行できるというのであろうか。

 その答えの一つとなっていたのが堤信遠である。堤信遠は山木兼隆の後見として山木兼隆の邸宅の近くに住まいを構え、目代(もくだい)としての山木兼隆を裏から支えていたのである。優れた勇士であるとの評判も高く、堤信遠が後ろで支えているからこそ、ついこの間まで流人であった山木兼隆が国司代理として伊豆国を統治できていたのである。実情は統治と言えたものではないかもしれないが、それでも平家の権勢を前面に押し立てることで強引にねじ伏せることはできていたのだ。


 源頼朝は攻撃成功の合図として、ターゲットを討ち取ったなら屋敷に火を放つように伝えた。襲撃した上で放火まで命じるのは現在の感覚からすると野蛮としか思えないが、この時代の夜襲では一般的であり、むしろ火を放たないほうが礼を失する行為になる。どういうことかというと、火を放つことそのものが夜襲の合図となり近隣住民への合図になるのである。戦闘における夜襲の対象となるのは、野営中の陣営を除けば武士や貴族の邸宅か寺社のどちらかであり、天災にしろ、人災にしろ、この時代においては何かしらの災害が起こったときに逃げ込む場所でもある。そのような場所に襲撃を掛けるのは避難場所に襲撃を掛けることも意味するのだ。夜襲があったという知らせだけが行き渡ってしまったら、いつもの避難場所へと避難しようとしてしまう。そこがまさに襲撃を受けている場所だと気づいたときにはもう遅い。

 しかし、放火されて燃えているなら話は別だ。夜襲があるという知らせのあとで燃えさかる邸宅を目にしたなら、いつもの避難場所である武士や貴族の邸宅が襲撃されていることが誰の目にもわかる。身の危険を考えるときに燃えさかる邸宅に逃げる者などいない。

 北条時政、江間義時、工藤茂光らが率いる軍勢が山木兼隆の邸宅へと向かい、佐々木四兄弟のうち佐々木定綱、佐々木経高、佐々木高綱の率いる軍勢が堤信遠の邸宅に向かった。このとき、佐々木四兄弟の三男である佐々木盛綱は源頼朝の警護のために北条の館に待機している。軍勢を二分したうちの半分が佐々木家の郎党であり、さらに源頼朝の警護も佐々木家の武士である。これだけでも佐々木家が相模国渋谷荘から戻ってこないという知らせと源頼朝の軍勢が結集不可に陥ったという判断とが密接に繋がることが読み取れる。

 攻撃が始まったのは堤信遠の邸宅の側である。治承四(一一八〇)年八月一八日の真夜中、佐々木四兄弟の次男である佐々木経高が矢を放ったことから合戦が始まった。

 堤信遠はこの日の襲撃を予期していたため万全を期していたが、自身の用意できる兵力の多くを山木兼隆の邸宅へと派遣していたため防御は手薄であり、数少ない軍勢を率いて弓矢で応戦するも邸宅の門が破られて佐々木家の軍勢が邸宅内に侵入。堤信遠自身も矢が尽きるとともに弓を捨てて太刀で応戦するまでになった。

 先陣を切っていた佐々木経高が堤信遠と一騎打ちとなり太刀で渡り合いながらも矢を受けて倒れたところ、長男佐々木定綱、四男佐々木高綱も加わり、堤信遠は討ち取られた。

 一方、山木兼隆の邸宅の襲撃は難航していた。堤信遠を討った佐々木兄弟らの軍勢も駆けつけるが激戦となっている。

 離れているとは言え、北条の館は山木兼隆の邸宅から直線距離で二キロほどであり、双方とも高台にあるため、燃えているかどうかが確認できる距離だ。山木兼隆の邸宅はまだ燃えていない。


 北条の館、山木兼隆の邸宅、そして、流罪中の身である源頼朝が本来ならば滞在していなければならない蛭ヶ小島は、ほぼ一直線上に並んでいる。蛭ヶ小島から西南西に直線距離で一キロほど行くと北条の館に行き着き、蛭ヶ小島から東北東に一キロほど向かうと山木兼隆の邸宅へと行き着く。

 北条の館から山木兼隆の邸宅を眺め続けていた源頼朝は、山木兼隆の邸宅からなかなか炎が見えないことに焦燥し、自分の警護をしていた加藤景廉、佐々木盛綱、堀親家の三名に山木兼隆の邸宅を襲撃するよう命じた。特に加藤景廉には長刀を与え、源頼朝は加藤景廉に対してこの長刀で兼隆の首を取って持参せよとまで命じた。

 これは危険な賭けであった。山木兼隆へと夜襲を掛けるという噂が前もって広まっている上に、三島神社の祭礼があったために通常よりも人手が増えている。すなわち、三島神社の祭礼という名目で源頼朝のもとを襲撃するとしたら、山木兼隆の側もまた夜襲を掛けることが可能なのである。ここで源頼朝の周囲の警護が手薄になったとき、山木兼隆の側から押し掛けてくる軍勢があったら太刀打ちできなくなる。

 それでも源頼朝の命令に従い源頼朝の側にいた軍勢は出動した。源頼朝は蛭ヶ小島ではなく北条の館に「避難」している。しかも、避難している理由は「山木兼隆が自分のことを襲ってくるかもしれないから平家から監視役を命じられている北条時政の邸宅にかくまってもらっている」だ。蛭ヶ小島は平地のただ中にあるのに対し、北条の館は高台にあるので防御に適しているし、何より蛭ヶ小島と比べて山木兼隆の邸宅から距離がある。

 結論から記すと、結果は成功である。山木兼隆の邸宅から炎が昇っているのが見え、山木兼隆の邸宅と堤信遠の邸宅を襲撃した軍勢は明け方には帰還した。加藤景廉は源頼朝から受け取った長刀の先に山木兼隆の首をぶら下げての凱旋であった。

 治承四(一一八〇)年八月一八日、源頼朝によって山木兼隆の死が確認された。


 一夜明けた治承四(一一八〇)年八月一九日、源頼朝は以仁王の令旨に従って朝敵平家を打倒するために蜂起したことを宣言し、伊豆国の目代(もくだい)である山木兼隆の死を公表。併せて、伊東祐親ならびに中原知親の両名に対し政務停止を命じた。中原知親とは、山木兼隆に不測の事態があったときに目代(もくだい)の職務を代行することになっている平知親のことである。

 それにしても、源頼朝にそのような宣言をする権利はあったのか?

 結論から言うと、あった。

 以仁王の令旨に従うことで源頼朝には平家の一員である山木兼隆を討伐した。山木兼隆は伊豆国の目代(もくだい)であるため、伊豆国の国司としての職務を有する者がいなくなった。

 これは平将門も選んだ方法であるが、国衙を襲撃して国印を奪取すると、令制国内に対して国司としての指令を発することができる。国法に従えば違法であるが、源頼朝のもとには以仁王の令旨があるため、国法の側である平家のほうが違法な存在となり、源頼朝のほうが国司としての権利を有することとなる。

 伊東祐親が不正な方法で伊東荘を手中にしていたことは前作「平家起つ」にて記した通りであり、伊東祐親の行動に対しては国司として白紙撤回することが正当化される。では、中原知親は?

 中原知親は平家の威光を利用して蒲屋御厨(かばやのみくりや)、現在で言う静岡県下田市から静岡県南伊豆町に掛けての一帯を制圧していたが、重税を課していたために住人から怒りを買っていたことに加え、蒲屋御厨(かばやのみくりや)は本来であれば皇室ないしは伊勢神宮の所有する荘園であるため、平家の威光があろうが無かろうが、さらには以仁王の令旨があろうが無かろうが、中原知親が制圧していること自体がそもそも違法なのである。源頼朝は藤原邦道を蒲屋御厨(かばやのみくりや)に派遣し中原知親の違法性を突くことで、武力ではなく法によって中原知親を制御することに成功したのだ。

 これにより蒲屋御厨(かばやのみくりや)の住人は源頼朝の支持を表明することとなった。蒲屋御厨(かばやのみくりや)は伊豆半島の南部にあり、海上交通の要衝であると同時に製鉄の一大拠点でもあるため、源頼朝は海路と製鉄の双方を手にしたこととなる。

 もっとも、伊豆国の目代(もくだい)を打倒し、蒲屋御厨(かばやのみくりや)を手にしただけで伊豆国の全権力を手に入れることができるほど世の中甘くはない。それに、伊東祐親は源頼朝の命令にそもそも従っていない。また、源頼朝の命令が有効化されて源頼朝が伊豆国を手に入れたところで目的完遂となるわけではない。目的はあくまでも平家打倒であって伊豆国に独立国を築き上げることではない。

 目的達成のために次にすべきは、朝廷からさらなる公的権威を手にして平家に対抗できる勢力を築き上げることである。現時点では以仁王の令旨だけが源頼朝の公的権力基盤であるが、源頼朝は以仁王がもう亡くなっていることを知っている。しかも、皇室から離脱させられた。つまり、以仁王の令旨そのものが無効であるとされればそれまでだ。だが、以仁王の令旨に変わる新たな公的権力基盤を手にできれば話は変わる。そのために必要なのは朝廷な無視するなどできない勢力となること、そして、現時点で政権を握っている平家の法的不備を突くことである。

 伊豆国においては少数勢力であっても関東地方にまで赴くことができれば源氏の軍勢の結集は不可能ではなくなる。軍勢を結集させて関東地方に一大勢力を築くことができれば話は変わる。そのためには源頼朝自身が伊豆を出て関東地方に出向かねばならない。


 治承四(一一八〇)年八月二〇日、源頼朝が軍勢を組織し、妻の北条政子と、北条政子との間に二年前に生まれた娘の大姫を文陽房覚淵のもとに避難させた上で相模国に向けて出発した。

 山木兼隆を討ち取ったことで伊豆半島東岸に進出することが可能となり、相模国足下郡土肥郷を支配する土肥実平のもとから相模湾を横断して三浦半島へ向かうことが可能となった。

 ところがここで大問題が発生した。

 天候が悪化して船を出港させることが不可能となったのだ。ならば、天候が回復するのを待てば良いではないかと思うかも知れないが、そう悠長なことを言ってはいられない。既に源頼朝を討伐するための軍勢が動き始めていたのである。

 北東からは相模国の大庭景親が、南からは伊東荘の伊東祐親が、それぞれ軍勢を率いて土肥郷へと向かってきていた。

 相模湾を横断できなくなった以上、源頼朝に課されているのは時間稼ぎである。それも人員を厳選しての時間稼ぎである。

 既に山木兼隆を討伐したことは広く宣言している。これまでの源頼朝は流罪中の流人であり、事実上はどうあれ理論上は平家の武士の監視下に置かれていた。その源頼朝が反平家で起ち上がった。それも以仁王の令旨を前面に掲げての挙兵である。治承三年の政変だけでなく、平治の乱以降の政治を全否定すると宣言しての挙兵なのだ。

 関東地方とその近辺の平家の武士にとっての源頼朝は、厄介な存在ではあったが討伐することが許される存在ではなかった。源氏に従う武士は関東地方に点在している。東海道にも東山道にも存在している。熱田神宮が源頼朝を支持しているのは公然となっている。当然だ。源頼朝の母親は熱田神宮の宮司の娘だ。

 今までは、源頼朝を討伐することと、平安京とその近辺への物資流入を止めてしまうこととが同じ意味を持っていた。関東地方の農産物が東海道や東山道を通って運ばれることは無くなる。仮に運んだところで、熱田神宮のある濃尾平野で物資の動きを止めてしまう。東からの物資がやってこないとなると、その後で起こるのは平安京での大飢饉だ。源頼朝を討伐したあとでまっているのは、報奨ではなく、平安京の庶民からの蔑視と憤怒だ。源頼朝を殺さなければ生きていくことができたのに、源頼朝を殺してしまったせいで平安京に飢饉が訪れて餓死者が続出するとあっては、怒りを買わないほうがどうかしている。

 だが、源頼朝が起ち上がったとあれば話は別だ。関東地方の源氏方の武士も討伐対象となるし、東海道や東山道の源氏方の武士も討伐対象となる。熱田神宮が物資の流れを止めたことを契機として飢饉を招くことになっても、民衆の憤怒は挙兵した源頼朝と熱田神宮のほうに向かう。


 何度も書き記しているが、源頼朝という人は、軍隊を指揮するのは下手でも政治家としては超一流である。そして、戦場での臨機応変の指揮ならば三流でも、戦場を用意するところまでならば文句なしと評価できる人物だ。

 まず、悪天候の中にあって相模湾を横断する早船を出発させた。目的は三浦半島の軍勢をこちらに向かわせることである。大庭景親の軍勢は、現在の茅ヶ崎から藤沢に掛けての地域にあたる大庭御厨(おおばみくりや)から東海道本線のあたりを東から西に向かって行軍している。大庭景親の軍勢の後ろから三浦半島から派遣した軍勢を襲撃させれば大庭景親の軍勢を分散させることもできるし、上手くいけば源頼朝の軍勢と挟み撃ちにして大庭景親を打ち破ることもできる。もっとも、軍勢の差はどうあがいても乗り越えることができない。吾妻鏡の記述に従えば、源頼朝の軍勢はおよそ三〇〇騎、対する大庭景親はその一〇倍の三〇〇〇騎を率いて源頼朝討伐に向かったとある。現実にはもっと少ない人数であったろうが、人数比で源頼朝のほうが劣勢であったことは間違いない。

 だからこそ源頼朝は時間稼ぎを狙ったのだ。しかも、ある二つの作戦とともに。

 一つは、三浦半島からの軍勢の全体を湘南海岸沿いに移動させたのではないということ。たしかに三浦義澄は三浦氏の武士を率いて大庭景親のもとに向かっていたが、軍勢の一部は房総半島へと向かわせていたのである。

 そしてもう一つ、こちらの作戦のほうが重要であるが、源頼朝は大庭景親の軍勢の中に楔(くさび)を打ち込んでいたのだ。その楔(くさび)が何であるかはこの時点では極秘であり、その楔(くさび)が何であるかを知る者は、楔(くさび)の当事者だけである。

 天候が悪化しているために船を出港させることが不可能となったことは既に記したが、天候悪化は単に港だけで起こっている話ではなかった。現在の小田原市を流れる酒匂川も増水していたのだ。大庭景親も自分たちの軍勢の背後に三浦義澄の率いる軍勢が押し寄せてきていることはわかっていたが、追いつける距離でないことも悟っていた。ここで追いつけなくさせるために大庭景親は酒匂川に架かっている橋を破壊して簡単に渡れぬようにしたあと、大庭景親にとっては都合の良いことが起こった。大庭景親の軍勢が渡り終え、橋を破壊し終えたあとにさらに水量が増してきて付近一帯が洪水となり、三浦義澄の軍勢の動きを止めることに成功したのである。

 ただし、永遠に追いつけなくなるわけではない。増水した川であっても馬筏(うまいかだ)を用意すれば兵を渡らせることは可能だ。さすがに夜間は危険なので日が明けてからになるが、酒匂川の東岸に陣取っている三浦義澄の軍勢のもとには灯が灯っており、夜が明け次第、酒匂川を渡って大庭景親の元へと攻め込んでくることは容易に想像できる。しかも前方には源頼朝の軍勢がいる。兵力差があるとは言え、これでは挟み撃ちになる。

 大庭景親には執るべき手段が一つだけあった。源頼朝に対して夜襲を仕掛けるのだ。兵力差に物を言わせて源頼朝を討ち取ればそれで全てが完結する。

 そのとき、大庭景親のもとに一つの情報が飛び込んできた。

 源頼朝は石橋山に陣を敷いている。


 山岳地での戦いというものは、山の上に陣取るほうが圧倒的有利である。ただし、軍勢の人数差があれば、山の上に陣取る有利さを簡単に白紙化できる。

 大庭景親は低地から高地への攻撃という希有な例の攻撃を決断したのだ。大庭景親にとっては都合のいいことに南からは伊東氏の軍勢も迫ってきているという情報が届いている。大庭景親のもとに情報が届いているということは、情報収集に熱心である源頼朝のもとにも情報が届いているであろうことを意味する。挟み撃ちにされることがわかっているときに奇襲を掛けることができれば、奇襲攻撃そのものが源頼朝の軍勢にプレッシャーを与えることとなり混乱を起こさせることも可能だ。また、その日は豪雨でもあることから、雨が姿を消してくれ、雨音が足音を消してくれるので、身を隠すのに利用して奇襲を掛けることも可能となる戦況だ。

 ここに、源頼朝の人生最大の危機とされる石橋山の戦いが始まった。

 降り注ぐ豪雨の音の中に大庭景時の軍勢の夜襲の声が鳴り響き、源頼朝は軍勢の統率が取れず椙山(すぎやま)の中にバラバラに逃げ込むしかできなくなった、というのが吾妻鏡で伝える源頼朝の苦戦の様子であり、源平盛衰記だとその描写がさらに詳細になっている。戦いで命を落とした者の名を列挙するだけでも、三浦義澄の従弟で三浦一族の武士団の一員として山木兼隆館襲撃に加わった佐奈田義忠、かつて伊豆半島最大の勢力を築きあげた工藤茂光、そして、北条時政の嫡男で江間義時の実兄である北条宗時の名が挙がっており、大庭景親の側には源頼朝のもとにいる主立った者が次々と討ち取られているとのニュースが届いていたのである。実際、名の挙がった面々がここで亡くなったことは他の史料からも確認できることである。

 ところが、そのニュースのあとで来ることを期待していたニュースは大庭景親の元に最後まで届かなかった。それどころか、大庭景親が受け取ったのは奇妙な報告であった。

 源頼朝が行方不明になったというのだ。

 奇妙な報告ではあるが理解できなくはない。雨中の夜襲を受けて軍勢がバラバラになってしまったのだから夜闇に乗じてどこかに逃げたと考えるのが定石だ。しかも、源頼朝は平治の乱で敗れたあとで逃走を図った前歴がある。ここでも戦いで敗れたことを悟って敗走することを選んだと大庭景親は考え、全軍に対して源頼朝の捜索を命じたのである。

 吾妻鏡によると、源頼朝は椙山(すぎやま)の「しとどの窟」に身を潜めていたところを大庭景親の軍勢の副官である梶原景時に見つかったものの、梶原景時は源頼朝に気づきながらも見過ごして、ここには誰も居ないことを告げたという。源平盛衰記での記載はもっと詳しくなっており、梶原景時がここには誰も居ないと告げた後も大庭景親自身が洞窟の中に弓を突っ込み、何かしらに触れた感触があったところで二羽の鳩が飛び出したというエピソードも加わっている。

 ところが、そもそも吾妻鏡や源平盛衰記のこれらの記載にどこまで信憑性があるか乏しいのである。それどころか、後の歴史書である愚管抄には別の解釈まで載っている。梶原景時は源頼朝と通じていたのだという記載である。私はこの意見に賛成している。後の歴史書の意見など参考にならないと思うかも知れないが、愚管抄は、歴史書であると同時に源平合戦期の同時代史料にもなり得る歴史書である。どういうことかというと、愚管抄を記した僧侶の慈円は藤原忠通の息子であり、右大臣九条兼実の同母弟なのである。治承四(一一八〇)年時点で慈円は二五歳であり、慈円自身は歴史書を記すと同時に自らが体験した出来事を当事者の視点で描いているのである。

 話が逸れたが、先に記した源頼朝の第二の楔(くさび)とはこれだ。

 どういうことかというと、たくさんの仲間の命が失われたのは事実であるが、その犠牲を埋めると言ってもいいほどに何から何まで源頼朝にとって都合の良い結果が続いているのである。失われた命を考えれば断じて最良とは言えないが、源頼朝がこれからどのような行動をとり、どのような状況を迎えたかを見ると、前もって計画してあるとおりの結果であって、追い詰められた人間の生みだした行き当たりばったりの偶然であるとは考えられないのだ。

 源頼朝は椙山(すぎやま)の「しとどの窟」に身を潜めたというが、この「しとどの窟」とされる洞窟は二箇所ある。神奈川県真鶴町と、神奈川県湯河原町の二箇所である。どちらが本当の「しとどの窟」なのかという論争は昭和時代まで存在していたが、平成になってから双方とも源頼朝が身を隠した洞窟であるとの説が登場し、現在ではその説が主流となっている。まずは海岸から遠い洞窟に身を隠し、次いで海岸近くの洞窟に身を隠し、天候が回復したのを見計らって、現在の真鶴町の岩海水浴場のあたりから東へと出港したと考えると、天候も、行程も、全て合致するのだ。

 大庭景親の軍勢が源頼朝を探そうとしており、その中の一人である梶原景時が源頼朝の不在を告げて他のところの捜索に当たろうとする。梶原景時は大庭景親の軍勢における事実上の副官であり、参謀的役割の人物である。その人物が不在を確認しただけでなく他のところを探せと命じるのであるから、大庭景親麾下の武士たちも上官の確認に疑念も持たずに従わざるを得ない。それが梶原景時と源頼朝の結託の結果だとすればどうか?

 全てが説明できてしまうのである。


 梶原景時がなぜ源頼朝と通じていたのか?

 梶原景時を源頼朝と大庭景親の両名がスカウトした結果、梶原景時が大庭景親を捨てて源頼朝を選んだからだ。

 梶原氏と大庭氏はともに、源義家に仕えた鎌倉景正を祖先としている。そのうち、現在の神奈川県茅ヶ崎市から神奈川県藤沢市にかけての一帯にあたる大庭御厨(おおばみくりや)の下司職、すなわち現地管理責任者としての職務を相伝するようになったのが大庭氏であり、その少し北、現在の神奈川県寒川町のあたりを所領とするようになったのが梶原氏である。ここで注意していただきたいのは、大庭氏は大庭御厨の下司職であって大庭御厨を所有していたわけではないという点である。御厨(みくりや)は本来であれば皇室ないしは伊勢神宮の所領であり、民間人が私有することは認められていない。この大庭御厨も元をたどれば鎌倉景正の開拓した荘園を伊勢神宮に寄進したところからはじまっている。治承四(一一八〇)年時点でも伊勢神宮の所領であって、大庭氏は管理を担当する下司職として御厨を管理していただけなのだ。

 そして、大庭景親は大庭氏のトップではない。大庭氏のトップの地位を継承したのは大庭景親の兄の大庭景義であり、大庭景親は大庭氏の一員ではあるものの大庭氏の資産や地位を継承できていたわけではないのである。大庭景親は、平家から相模国に出向くよう命令されて相模国に来たが、大庭氏の本拠地となっている大庭御厨を管理しているのは兄の大庭景義であって、大庭景親は兄から援助を受ける立場なのである。大庭御厨の一部を割譲してもらえれば自活できる可能性もあろうが、普通の荘園ならいざ知らず、伊勢神宮の所領である御厨(みくりや)である以上伊勢神宮の許可がなければ土地の分割など許されない。そこで、大庭景親は大庭氏の実効支配領域の拡張と、拡張した地域の分割相続を目指した。

 御厨の範囲を超えれば、それはもう荘園所有だ。所有に至るまでの正統性さえクリアすれば大庭景親は堂々たる荘園領主となることもできる。それまでの大庭御厨の下司職よりも大幅なステップアップだ。

 問題は、その拡張先が梶原氏の所領付近にまで伸び、浸食するまでになっていたということ。梶原景時にしてみれば自分の所領を大庭景親が浸食するようになってきているのであるから、梶原景時が、そして梶原氏が許すわけなどない。

 それならばなぜ梶原景時は、最初から源頼朝のもとに出向くのではなく、石橋山の戦いの時点で大庭景親の軍勢の中にいたのか。


 大庭景親の人生を眺めたとき、武人としての大庭景親の姿を見ることはできても、役人や貴族としての大庭景親を見ることはできない。そして、大庭氏のトップの地位も手にできずにいる。関東地方の武士としても、中央官庁の貴族としても、今のままでは未来を手にできないと考えた大庭景親にとって、平家に仕えるということは一発逆転の大チャンスであった。

 以仁王の令旨のあとの反乱は、大庭景親にとって相模国に向かう堂々たる理由が生まれただけでなく、自身のステップアップの絶好のチャンスが巡ってきたことも意味した。治承四(一一八〇)年八月時点で大庭景親が相模国にいたのも、以仁王の令旨に従った源頼政らの叛旗の後始末として、源頼政の孫である源有綱を捜索せよと命令された結果であり、そのために大庭御厨の兄の元にやってきたという図式なのである。命令を果たせば大庭景親の未来に待っているのは栄達だ。

 そこまでなら平家からの任務を遂行するためであるから問題は無かったが、源頼朝が叛旗を翻す可能性ありとして佐々木秀義を呼び寄せたあたりから大庭景親の雲行きは怪しくなっていた。多くの人が大庭景親の能力に、特に政治家としての能力に不安を感じるようになったのだ。その中の一人が梶原景時だ。

 大庭景親は朝廷から任務を受けて派遣されてきた以上、その経過や結果を報告しなければならない義務がある。つまり、書状を記して福原にいる平家に状況を伝えなければならない義務がある。ところが、大庭景親は書状をまともに書けなかった。兄の大庭景義は大庭御厨の下司職として日常政務に必要な書状を書くくらいであれば何の問題も無かったが、兄は弟に全く協力しなかっただけでなく、平家に臣従して行動する弟に苦言を呈し、いっさいの協力を拒否したのだ。

 こう記すと大庭景親の無学をあざ笑う向きが現れるかも知れないが、地域に土着している武士の家庭では文化的素養を持っていないことが普通である。そして、文化的素養の乏しさをコンプレックスに感じている武士も多く、源頼朝が女性にモテていた、特に武士の家庭に生まれ育った女性にモテていた理由の一つに、源頼朝が一三歳まで京都で過ごしていたことに加え、可能な限りという限定はつくものの、伊豆へ流されてからも源頼朝は独学で学習し続けていたことで、その時代の伊豆で接することのできる最先端の文化的素養を身につけていたという点があったほどである。

 大庭景親は任務遂行のために自らの足りない点、すなわち源頼朝が持っていた文化的素養の欠落を埋める必要があった。また、大庭景親の軍勢を三〇〇〇騎とするのが吾妻鏡であるが、実際にはもっと少ない数であったとするのも、このときの兄の拒否がある。大庭景親個人に従う軍勢に加え、これからは平家の時代であると説いて将来の報奨を示すことで集めた軍勢を足しても、とてもではないが三〇〇〇騎どころか、源頼朝の軍勢にも満たない。

 大庭景親は自身の不足を埋める存在を求めた。そして、親戚筋にあたる梶原景時に協力を求め、梶原景時は協力に応じた。梶原景時を加えることで書状をどうにかし、梶原景時の軍勢も加えることで源頼朝を上回る兵力を捻出することに成功したのだ。

 当時も、現在も、梶原景時に対する評判は高いものではない。特に源義経を主人公として歴史を追いかけると、どうあっても梶原景時は悪役として描かれることとなる。先入観を捨てて梶原景時がどういう人物であったかを追いかけてみても、梶原景時が皆に好かれたような人物であったとは断じて言えない。だが、この梶原景時は関東地方の武士たちの中で例外的に京都や福原の公家たちと渡り合える文化的素養を持っていたのである。文書を記すのも、和歌を詠むのも、有職故実に基づいて行動するのも、梶原景時は何ら遜色なくできたのだ。

 梶原景時にしてみれば、平家の命令ということで大庭御厨に帰ってきた大庭景親が、いきなり自分たちの上に立ってあれこれ指図するようになっている。その上、文章を書けと命じ、軍勢を差し出せとまで命じ、しかも、梶原景時の所領への進出も試みている。これを果たして愉快に感じるであろうか。

 源頼朝はこれから先、自分に仕えてくれて、自分とともに戦ってくれた武士たちに、各員の所領の権利を源頼朝が保証するという本領安堵を示している。これを梶原景時にも適用したらどうなるか?

 大庭景親ではなく源頼朝を選んだとしてもおかしくない。

 大庭景親の軍勢に加わって源頼朝を倒した後、今度は自分が大庭景親に攻め込まれる運命が待っているのである。どんなに戦いを宿命と感じる武士であろうと、このあとで勝ったあとで待っているのが破滅であるという結果を黙って受け入れる武士など果たしているであろうか。源頼朝は梶原景時の所領について手出ししないことを約束した上で、大庭景親の軍勢の一員として振る舞いながら、源氏方に協力するよう要請したと考えると全ての辻褄が合う。あくまでも大庭景親の副官であるかのような体裁を維持しながらも、源頼朝の行動を補佐する動きを見せるのだ。

 梶原景時は、源頼朝の捜索の矛先を変えて源頼朝が相模湾に脱出できるようさせただけでなく、書状においても源頼朝の動きを補佐した。

 先にも記したが、大庭景親はまともに文字が書けない。そこで、書き記さねばならない書状を梶原景時に任せることにしたのである。

 梶原景時は大庭景親の要求は満たした書状を書き記した。

 そこに嘘は無かった。事実が列挙された模範的な報告文が伊豆から福原へと送られたのである。ただし、大庭景親の要求は満たすと同時に、梶原景時の要求も満たしている書状であった。事実の列挙を組み合わせることで真実を隠すという、手の込んだ細工の施された書状ができあがり、福原へと発送されたのだ。

 京都に届いた第一報は源頼朝の武装蜂起であるが、第二報は以下の通りである。

 源義朝の子が伊豆で蜂起して目代を殺害するも大庭景親の前に敗れ去り、反乱軍の主立った者はことごとく殺害されたが主犯はなおも逃亡中であるため、大庭景親の指揮のもと、現在主犯を捜索中である。

 これを受け取った場面を想定してもらいたい。

 「反乱が起こったが鎮圧に成功しつつある」、あるいは、「反乱の首謀者はまだ捕まっていないが捕縛も時間の問題である」と、誰もが考えるのではなかろうか。第一報を受け取った直後は反乱鎮圧のための部隊を出撃させることにした朝廷であるが、この第二報を受け取ったあと、反乱鎮圧のための部隊を援軍として関東地方に派遣するという決断を下す者がこの世にいるであろうか?

 後述することになるが、九条兼実はこのときの朝廷の決断が遅れた理由を現地報告から来る楽観視に求めている。


 いかに梶原景時が大庭景親の副官的地位である人であっても、源頼朝をまだ討ち取っていない状態で梶原景時の言葉を信用したのは迂闊ではないかと思うかも知れないが、大庭景親が源頼朝の手のひらの上で踊らされていたとすれば充分に理由になる。

 石橋山の戦いは北から大庭景親率いる軍勢が、南から伊東祐親率いる軍勢が源頼朝を挟み撃ちにしているという布陣からスタートした大庭景親の軍勢の夜襲であるが、大庭景親が夜襲を仕掛ける前の段階で挟み撃ちにされていたのは大庭景親のほうであった。大庭景親の南に源頼朝が、北に三浦半島から進軍してきた三浦義澄の軍勢が陣取る構図になっていたのである。

 源頼朝の軍勢を打ち破ることは成功したとは言え、大庭景親の立場に立てばまだ安全ではない。背後から三浦義澄の軍勢が攻めてきているのである。しかもその道中には大庭氏が事実上の自領としている大庭御厨がある。伊勢神宮の所領である御厨(みくりや)であって大庭景親の所領では無いと指摘されてもそのような指摘は通用しない。事実上の自領である大庭御厨が戦場となり、さらには三浦義澄のものへと奪われてしまうようなことがあってはならない。そのためには源頼朝を捜索するよりも先に三浦義澄への対処のために大庭御厨へと戻るのが最善であった。

 梶原景時が源頼朝の捜索を引き受けるというのは、大庭景親にとって二重の意味でありがたいことであった。源頼朝討伐の職務を丸投げにできるだけでなく、上手くいけばどさくさにまぎれて梶原景時の所領まで自分の勢力を拡張させることも可能なのだ。繰り返すが、大庭景親自身は所領を持たぬ身である。このまま梶原氏の持つ所領を自分のものとすることができれば、大庭景親にとって最良の結果となる。梶原景時が源頼朝を拿捕できなかったら梶原景時に責任を求めて梶原氏の所領を分捕る。そのとき、梶原景時の生死はどうでもいい。生きていれば生者に責任を求めることができるし、亡くなったならば死者に責任を押しつければ済む話だ。梶原景時が源頼朝を拿捕できたなら任務完了として大庭景親は平家から褒賞を獲得できるから。そのときもまた、梶原景時の生死はどうでもいい。生きていれば大庭景親は報奨を得て梶原景時は元に戻る。梶原景時が亡くなったならば大庭景親は報奨を得た上に梶原氏の所領も獲得できる。どう組み合わさっても大庭景親にとってメリットのある結果しかない。


 大庭御厨に戻るのが大庭景親にとってメリットしかないことであったはずなのに、大庭景親は大庭御厨に戻ってはじめて現状を知らされ、このままではメリットどころか破滅だと知らされた。

 大庭景親の兄で大庭御厨を事実上支配している大庭景義が源頼朝側に立つと宣言したのである。大庭御厨そのものが源頼朝側に立つことで、大庭景親は戻る場所を失ったのだ。かといって、現在進行形で浸食している途中の梶原氏の所領については、浸食する動きを止めなければならなくなっている。何しろ梶原景時はまだ源頼朝を捜索中であり、いかに命令であろうと留守中に所領に浸食しようという動きに同意する武士は少なかった。大庭景親個人に心酔している武士などほとんどおらず、いたとしても道義的に許せないことまでは従えなかった。

 さらに、相模国府に在駐している相模目代(もくだい)中原清業が大庭景親の行動を非難し、相模国として大庭景親の手による源頼朝討伐に協力しないことを宣言したことで大庭景親の立場がさらに悪化した。

 大庭景親と対戦すべく軍勢を進めていた三浦義澄は、大庭御厨に対して何もせずに素通りして三浦半島へと戻っていった。大庭御厨自体が源頼朝のもとに立つと宣言した以上、大庭御厨は味方の土地である。どんなに品性下劣な軍勢であろうと、味方であることを宣言した土地を荒らしながら本拠地に戻ろうなどという軍勢などない。

 それでも大庭御厨に戻った大庭景親にとって喜ぶべき知らせはあった。

 自分を攻撃しに来ている三浦一族の本拠地である三浦半島が平家方の手に落ちたという知らせである。

 源頼朝の敗戦を知って敗走をはじめた三浦義澄率いる軍勢は大庭御厨を通り過ぎるところまでは無事であったが、鎌倉の由比ヶ浜で、平家方に立って源頼朝打倒に賛同した畠山重忠の軍勢と遭遇した。

 畠山氏はもともと武蔵国男衾郡畠山郷、現在の埼玉県深谷市を本拠地とする武士団で、代々清和源氏の一翼を担っていた家系であるが、平治の乱の前の段階で源氏を見限って平家に仕えるようになっていた。平治の乱における平家の郎等の中に畠山重能と畠山有重の兄弟の名が残されており、畠山氏の当主である畠山重能はその後も平家の忠実な家人として各地を転々としていたこと、治承四(一一八〇)年八月時点で畠山重能が大番役として京都にいたことの記録も残っている。

 源頼朝が起ち上がったとき、関東に残っていた畠山氏の武士たちは畠山重能の息子である畠山重忠の指令のもと、源頼朝打倒のために軍勢を動かした。畠山重忠、このとき一七歳である。家臣たちは源氏に仕えていた頃の畠山氏のことを知っているが、畠山重忠は平治の乱の頃はまだ生まれておらず、畠山氏の過去を知識としては知っているに過ぎない。畠山重忠にとっての畠山氏とは一族全体が平家の家臣であり、畠山氏たるもの平家に仕える武士として平家のために行動するのは当たり前という意識があったのだ。

 畠山重忠らの軍勢と三浦義澄との軍勢は鎌倉の由比ヶ浜で衝突した。これは治承四(一一八〇)年八月二四日のことであるという。由比ヶ浜での激突は三浦義澄の勝利に終わり、畠山重忠はおよそ五〇騎の家臣を失った。

 源平盛衰記によると、この衝突自体は回避可能であったという。三浦方の軍勢も畠山方の軍勢もその多くが顔見知りであり、双方とも互いの事情を熟知している。三浦方は三浦半島へ戻ることが目的であり、畠山方は本来であれば三浦方の軍勢の動きを止めなければならないのだが、黙って通り過ぎるだけであれば黙認することもできた。ところが、由比ヶ浜で三浦義澄の甥である和田義盛が名乗りを上げてしまった。この時代のルールだと、名乗りを上げるか、鏑矢(かぶらや)を射るかをすれば、これから攻撃を開始するという合図になってしまう。それでも一度は合戦を食い止めようと双方で合意が形成されつつあったのだが、今度は和田義盛の弟の和田義茂が馬を率いて突入していった。これにより合戦となってしまったという。

 前述の通り畠山重忠はおよそ五〇騎の家臣を失ったが、それで黙っているようでは武士ではない。畠山重忠は朝敵である源頼朝を打ち倒すべきとの考えをますます強め、源頼朝の側で起ち上がった三浦一族を滅ぼそうと、ともに平家方として起ち上がった河越重頼と江戸重長の両名とともにおよそ一〇〇〇騎もの軍勢を結集し、現在の神奈川県横須賀市衣笠に存在していた衣笠城へと軍勢を進めていた。衣笠城は三浦半島のほぼ中央に存在する三浦一族の本拠地の城であり、戦国時代の城に比べれば見劣りするものの、当時としては堅牢な構造の城であった。何しろ、周囲の地形は三年半後の鵯越(ひよどりごえ)の逆落としの絶好のヒントになるような地形だ。だが、いかに地形のメリットがあろうと、治承四(一一八〇)年八月時点で三浦一族の用意できた兵力は三〇〇騎ほど。多勢に無勢である上に、源頼朝は三浦一族に対して一つの指令を出していた。それは三浦半島を放棄してでも遂行すべき指令であった。

 治承四(一一八〇)年八月二七日、三浦一族は源頼朝の指令に従って衣笠城を放棄。しかし、三浦義澄の父で三浦一族の長老として衣笠城に君臨していた三浦義明は作戦遂行のために衣笠城に残り、城とともにその命を終えることとなった。三浦義明、このとき八九歳。三浦一族は本拠地である三浦半島を失った。

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

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