後白河法皇には男児が十一名いる。ただし、そのうちの八名は僧籍に入っており帝位継承の資格を持たない。
第一皇子は亡き二条天皇である。
高倉上皇は後白河法皇の第七皇子であり、二条天皇とは一八歳の年齢差がある。
前掲の二帝と、僧籍に入っている八名とで合計一〇名。残る一名は?
その一名こそ、後白河法皇の第三皇子である以仁王(もちひとおう)である。
もともと後白河法皇の子のうち、藤原成子を母として生まれた六名の子、男児二名、女児四名はいずれも宗教界に身を寄せていた。女児四名はいずれも伊勢神宮の斎宮もしくは斎院となっており、男児二名も出家した親王である法親王である、はずであった。それを以仁王は破ったのである。
以仁王は幼くして天台座主である最雲法親王の弟子となり出家して法親王となっていたが、応保二(一一六二)年に最雲法親王が亡くなると一二歳で還俗して僧籍を抜けて皇室に戻り、永万元(一一六五)年には人目をしのんで元服した。数え年で一六歳での出家であるから、ギリギリ元服の年齢範囲内であるとはいえ、皇族たる身としてはかなり遅い。しかも、皇室に生まれた者の元服は天皇からの加冠であるのが決まりであるのに以仁王にはそれもない。ひっそりと元服しなければならなかったというだけでも以仁王の不遇は見て取れる。
そもそも「以仁王」であり「以仁親王」ではない。親王宣下を受けていないということは、皇族の一員としてカウントはされても帝位に就く資格を持たないということである。
親王宣下を受けぬまま歳月を過ごしていた以仁王であるが、後ろ盾は存在していた。後白河法皇の異母妹である八条院暲子内親王である。以仁王は八条院暲子内親王の猶子となることで、皇族の一員として認められて親王宣下を受け異母弟である高倉天皇の次の帝位に就くことを狙っていたが、その野望は治承三年の政変とその後の安徳天皇即位によって白紙になっただけでなく、長年に亘って知行していた城興寺領の没収もあってされ財政的にも大きなダメージを受けていた。
それにしてもなぜ以仁王はここまで不遇に直面しなければならなかったのか?
理油は単純明快で、母が平家ではないから。以仁王の実母は藤原成子であり、猶母が八条院暲子内親王である。藤原摂関政治全盛期であれば、実母の身分の低さが問題視されたものの、他に藤原氏を母とする皇族がいないとなれば迷わず以仁王が次期帝位に推されていたであろう。だが、今や時代は平家のものである。平家の女性を母とする皇族でなければ帝位に就くことは許されず、高倉天皇、安徳天皇と、平家の女性を母とする天皇が連続している中にあって、かつての藤原摂関政治の復活を可能とさせる皇族の存在は平家にとって厄介この上なかったのだ。ゆえに僧籍に入れられ、僧籍を離脱して還俗した後もなかなか元服できず、どうにか元服しても親王宣下を受けることの無いまま、すなわち皇族の一員であることは認められながらも皇位継承権を有さないまま三〇歳という年齢を迎えてしまっていたのである。
ただでさえ不遇な境遇にあったところに資産没収までされたのであるから、平家に対して不満を持つ者が担ぎ出すのに以仁王は絶好の存在であった。
具体的に何月何日のことであるかはわからない。わかっているのは夜だということだけである。
現在のように夜でも街灯に照らされている時代と違い、いかに首都平安京であろうと夜は暗い。ゆえに、牛車に乗ってひっそりと移動することはさほど難しくは無い。不審は不審であるが、夜中に牛車で皇族や貴族の邸宅との間を移動するというのは、貴族の男女での逢い引きとしてそれなりに見られる光景であり、検非違使が目こぼしする話でもある。
だが、三条高倉でひっそりと過ごしていた以仁王のもとにやってきた牛車はそのような浮ついた訪問では無かった。三位入道源頼政が平家打倒を呼びかけたのである。
源頼政の計画は以下のものであった。
まず、以仁王が源頼政をはじめとする全ての清和源氏に対して平家打倒を命じる令旨を出す。令旨は本来であれば、皇太子、皇后、皇太后、太皇太后のみが出すことのできる命令文書であるが、時代が下がるにつれて親王や女院の出す命令文書も令旨となった。ただし、前述の通り以仁王は王であって親王ではない。そのため、親王ならば出すことのできる令旨を以仁王が出すことは許されない。出すとすれば御教書であり、御教書には令旨ほどの強制力が無い。だが、ここは令旨とした。以仁王がなぜ親王ではなく王であるのかを知らぬ者はいない。その上で令旨とすることで、平家に逆らう意思表示を見せたのみならず、平家打倒後の帝位継承を示すこととなる。
治承四(一一八〇)年四月時点の軍事力を考えると、源氏の軍事力はたしかに平家に遠く及ばない。しかし、全国各地に点在している清和源氏の軍事力を結集させれば平家と対抗することは可能である。結集させなくとも点在していることで平家は各個撃破を図らねばならなくなり、平家の軍勢は否応なく分散させなければならなくなることを意味する。しかも、平重盛亡き後、平家の軍事の総指揮は平清盛一人の手に委ねられるようになったが、平清盛はもとからして情報の重要性をさほど認識していない人である。平安京とその周辺の狭い範囲での戦闘であれば個々の軍勢の全体指揮を執ることは可能であろうが、日本列島全体を見渡して各個撃破の戦略を立てることができるほどではない。平家の小規模集団が各々動き回って各個撃破にあたろうとすることになるのが目に見えている。
また、平家打倒の令旨が出たとなれば、動くのは源氏だけではなく寺社勢力も含まれる。ただでさえ高倉上皇の厳島神社社参に対する反発がくすぶっている渦中にあって、皇族の発する平家打倒の命令文書が世に出たならば格好の大義名分を手にすることとなる。平家の各個撃破の対象に源氏だけでなく寺社勢力も含まれるとあれば、さらに平家の勢力は分散されることとなる。
源頼政は勝算の無い戦いを始めようとしているのではなかったのだ。
平家物語ではここで、源頼政に全国各地に散らばる清和源氏の勢力の面々を語らせている。平家物語の原文を琵琶にのせて語ることを考えれば、リズミカルに次々と登場する清和源氏の面々の名の羅列は、清和源氏の勢力が平家に対抗しうる存在として強大なものであるかを印象付ける効果を持つ。
平家物語の中で源頼政が述べたとされている清和源氏の勢力を挙げてみると以下の通りとなる。
まず、京都在住の清和源氏として、伊賀守光基、出羽判官光長、出羽蔵人光重、出羽冠者光能の四兄弟の名を源頼政は挙げている。ただし、出羽蔵人光重と出羽冠者光能の両名が平家物語に登場するのは源頼政のこの場面の口上のみである。
次いで熊野に潜伏している清和源氏として、源為義の十男で源義朝の弟である十郎義盛の名が登場する。後に以仁王の令旨を全国各地の清和源氏に伝え歩いた源行家のことであるが、この時点ではまだ行家と改名しておらず源義盛と名乗っている。
その後で摂津国の多田蔵人行綱の名が挙がっているが、この人は鹿ヶ谷の陰謀において真っ先に裏切って平家に密告しているので、この場では計算できる清和源氏の一員としてはカウントされていない。摂津国に住んでいる清和源氏の一員であるというだけである。ただし、同じく摂津国には多田行綱の弟である多田二郎朝実、手島の冠者高頼、太田太郎頼基の三名が計算できる清和源氏として挙がっている。摂津国に計算できる清和源氏がいることは、摂津国福原を拠点とする平家に対する圧力として計算できることを意味する。もっとも、多田二郎朝実と手島の冠者高頼の両名はここで名が挙げられているだけであり、後述する河内源氏との対比もあって、摂津国における清和源氏の軍事力はさほど期待されたものではなかった。
武士としての清和源氏の本流を河内源氏と称すこともあるように、河内国と言えば畿内における源氏の重要拠点の一つであり、京都に対する睨みと摂津国福原に対する睨みの両方を働かせることが可能な地理環境にある。その河内源氏の河内国の清和源氏として、源頼政は武蔵権守入道義基とその子の石河判官代義兼の二名の名を挙げている。特に武蔵権守入道義基は、入道の名もあることからわかる通り出家した身ではあるが、位階を調べると従五位下の位階を得ていたことも判明しているため、末席ではあるが貴族の一員としてカウントされるまでになっていた。ここまでの地位があれば、貴族としては平凡でも武士としてはかなり有力な存在となる。
南都こと奈良の興福寺の寺院勢力を平家打倒の戦力としてカウントしていた源頼政は、大和国在住の、太郎利治、二郎清治、三郎成治、四郎義治の四兄弟の名を挙げた。興福寺との連携がうまく行けば京都から距離を置いた、しかし、京都に充分な圧力が期待できる勢力として計算できる。ただし、平家物語ではこの四名ともこの場面で名前が挙がるだけであることから、興福寺との連携は失敗した、あるいは源頼政の机上の計算なだけであったと考えられる。
同じく寺院勢力として計算していた比叡山延暦寺と園城寺の存在する近江国には、山本冠者義経、柏木こと山本義兼、錦古里こと山本義高の三名の名が挙がっている。山本冠者義経の弟が山本義兼で、山本義経の子が山本義高という血縁関係であるが、親子が一箇所に留まって生活しているのではなく、近江国山本(現在の長浜市)に山本冠者義経、近江国柏木(現在の甲賀市)に山本義兼、近江国錦古里(現在の大津市)に山本義高の三名が分散して住んでいる。ここまで分散すれば比叡山延暦寺と園城寺の双方とも等距離を置いた関係を構築することが可能だ。ちなみに、三名とも山本の苗字であるが正式な姓は源であり、山本冠者義経の正式な名は源義経ということになるが、源頼朝の弟である源義経とは同姓同名の別人である。
美濃国と尾張国、現在の岐阜県南部と愛知県西部はこの時代の穀倉地帯であると同時に、美濃国は東山道の要衝、尾張国は東海道の要衝であるから、流通面での圧力も無視できない話となる。その上、尾張国は熱田神宮を抱えているため宗教的側面からも平家に対する圧力を掛けることが可能となる重要拠点である。後述する通り、清和源氏のトップが宿命付けられている源頼朝は熱田神宮の宮司の娘を母としていることから、打算ではなく血縁での熱田神宮の協力が期待できることは大きい。現在の愛知県と岐阜県との関係とも似てこの両国は荘園が入り組んでおり、荘園を有する武士として山田次郎重広、河辺太郎重直、河辺重直の子の泉太郎重光、浦野四郎重遠、安食次郎重頼、安食重頼の子の太郎重資、木太三郎重長、開田判官代重国、矢島先生重高、矢島重高の子の太郎重行の名が挙がる。彼らの苗字は所有する土地の名がそのまま付けられており、山田と浦野は現在の名古屋市北区、河辺は現在の愛知県あま市、安食は現在の愛知県春日井市、木太と開田と矢島は現在の岐阜市である。このように苗字だけに視点を向けても、近江国の清和源氏と違って美濃国の清和源氏と尾張国の清和源氏は、近隣にまとまって、それも熱田神宮を中心とした近距離にまとまって居を構えていることが読み取れる、すなわち、こうした両国の清和源氏たちが熱田神宮を軸にしていつでも結集可能であることを示している。
結集可能な清和源氏は甲斐国もある。甲斐国には源義光が甲斐守に就任し実際に甲斐国に赴任した過去があり、源義光の子孫が甲斐国逸見郡逸見(現在の山梨県北杜市)と、甲斐国巨摩郡武田(現在の山梨県韮崎市)に拠点を構えていた。ここで源頼政が甲斐国の源氏として挙げているのは逸見冠者義清、逸見義清の子の太郎清光、逸見清光の子の武田太郎信義、加賀見二郎遠光、小次郎長清、安田三郎義定の四兄弟、および、武田信義の子の一条次郎忠頼、板垣三郎兼信、逸見兵衛有義、武田五郎信光の四兄弟である。なお、戦国武将の武田信玄は武田信義の直接の子孫である。
甲斐国は比較的まとまっていたのに対し、その隣国である信濃国は、清和源氏が多く居を構えていたものの、まとまりという点では乏しかった。ただし、ここの軍事力は侮れないものがあり、味方として行動してくれるなら戦場において頼りになる可能性があった。その信濃国の清和源氏として源頼政が挙げているのは、大内太郎維義、岡田冠者親義、平賀冠者盛義、平賀盛義の子の四郎義信、故帯刀先生義賢の次男の木曾冠者義仲である。これが平家物語における木曾義仲の初出である。後世に住む我々は後の木曾義仲の権勢を知るために木曾義仲の生涯について多くの逸話が存在することも知っているが、この時点における木曾義仲とは、源義賢の次男であり、信濃国に住んでいることが判明しているというだけのあまり素性の知られていない若者という位置づけでしか無い。
源頼政の口上が初出である木曾義仲に対し、源頼政がその名を述べる前から平家物語に登場している源氏がいる。この時点ではまだ伊豆国の流人であり、公的な地位も前右兵衛佐であるというだけの、すなわち、公的資格を持った状態で軍事行動を起こすことが許されていないはずの、源頼朝である。軍事行動を起こすのを許されていないのは平治の乱の敗者であるからであると言えばそれまでであるが、平家視点ではそれより大きな理由がある。平家の立場に立つと源頼朝以上に厄介な存在はないのだ。父の血縁は文句無しに清和源氏の嫡流で、母の血縁は熱田神宮につながる。この人が動けば関東から東海の一斉蜂起につながってしまうのは平家にとって大問題だ。かと言って、下手に死なせようものなら、源頼朝の敵(かたき)討ちとしてやはり一斉蜂起につながる。これは平家にとって二重に厄介な存在だ。
平家の監視下に置かれているはずの源頼朝を源頼政は把握していないわけはない。源頼政は源氏の面々を列挙しているが、その中でトップに立って清和源氏の全権を握るのはこの若者なのである。京都に近いところから順に述べているから源頼朝の登場がこの段階になるのであって、そうでなければ源頼朝は最初に出てくるはずである。
もっとも、厄介ではあってもそれは計算の範囲内である。
平清盛が源頼朝を生かしていたのは、平治の乱の時点ではまだ貧弱な少年であったからである。一人の武人としては貧弱で、軍勢を率いる指揮官としても無能な武士というのが平治の乱の時点での平清盛における源頼朝の評価であり、その評価は治承四(一一八〇)年四月を迎えても変わっていない。そして、四散して弱体化している清和源氏を束ねる存在が源頼朝であることを平清盛は理解している。無能な一人の指揮官に率いられる清和源氏は、個々の能力では目を見張るものがあろうと平家の戦力を結集させれば簡単に敗れ去ると平清盛は考えていたのである。その上で、こう考えていた。平治の乱と同様に清和源氏は平家に負ける。負け続けることで清和源氏は弱体化が進行して、四散から霧散へと化す、と。
源頼朝を述べたのに続き、源頼政はさらに東国に分散する清和源氏たちを列挙する。常陸国の信太三郎先生義憲と佐竹冠者正義、そして佐竹正義の子の太郎忠義、三郎義宗、四郎高義、五郎義季の四兄弟。信太三郎先生義憲とは源為義の三男の志田義広こと源義広のことで、この人は保元の乱に参加したかどうか不明で、平治の乱は参加した可能性が低いという、消極的であるために命を長らえることに成功したとすべきであろう。なお、この時点で常陸国にいたことは確実である。また、佐竹冠者正義とは佐竹昌義のことで、こちらは常陸国において志田義広よりもはるかに大きな勢力を築いている人であったが、ここで列挙するのに相応しい人ではない。久安三(一一四七)年に亡くなっているのである。太郎忠義は大掾忠義、三郎義宗は袋田義宗、五郎義季は革島義季とそれぞれ養子に入ったり佐竹氏から独立したりしている。佐竹氏の所領を相続したのは四郎高義こと佐竹隆義で、この人は後に源頼朝の対抗馬とさせられることとなる人物である。
そしてラストに、陸奥国の奥州藤原氏のもとに身を寄せている源義経。
以上が源頼政の述べた全国各地に散らばる清和源氏の面々である。
かなりの人数が挙がっているが、全国と行っても畿内と東日本に偏っており、北陸道はゼロ、東北地方は奥州藤原氏のもとへ身を寄せている源義経だけであり、東海道と東山道、そして畿内に限定されることとなる。何のことはない、このあとで以仁王の令旨を届ける順番を記しただけなのだ。ここまでの人数を挙げたのは源頼政の計画するところの反平家への一斉蜂起の計画であって、全ての清和源氏を挙げたわけではないのである。
抜け落ちている人物として最初に挙げるべき源氏として、源有綱の存在を挙げることができる。この人は源頼政の孫、源頼政の嫡子である源仲綱の子で、当初は源頼政が、源頼政の出家後は源仲綱が伊豆国を知行国とするようになったことの延長で、このとき伊豆国にいた。流罪になっていた源頼朝と接触していたことの明確な記録はないが、今後の展開を考えると源有綱はかなり高い確率で源頼朝と接点を持っていたとするしかない。いや、接点を持っているどころの話ではなく源頼朝のこのあとの行動において重要な役割を担うようになっている。その源有綱の存在が列挙された清和源氏の面々として挙がっていない。
さらに、このあとのことを考えれば絶対に登場しなければならない源氏の名が抜け落ちている。源有綱よりも重要な役割を果たす源氏、すなわち源範頼の名が抜け落ちている。また、結果的に重要視されなくなってしまう運命を迎えたが、源頼朝の同母弟で土佐に配流となっている源希義の名もなく、醍醐寺で出家させられた全成、園城寺に預けられている円成の二人の僧侶も数えられていない。全成と円成の二人は源義経の同母兄であり、全成は源義朝の七男、円成は八男である。源義朝の子のうち源頼朝はともかく、勝手に寺院を抜け出して勝手に奥州まで向かった源義経の名を挙げておきなから、その他の四人の子についての名が全く挙がっていないのはどういう理由か? 特に、二月のデモ計画時に園城寺を動かす根底となった円成についての記載が無いのはいかなる理由か?
平家物語は同時代資料ではなく平家滅亡という歴史に基づいた創作である。合戦における源義経の活躍とその後の不遇を考えれば、源義経が兄たちより先にヒーローとして特筆され、早い段階で名が挙がったとしてもおかしくはない。おかしくはないが、このタイミングで源頼政が述べるだろうかという疑念は生じる。普通に考えれば、源氏の軍勢の一員として顔を見せるようになるまで源義経のことを全く述べないか、源義経のことを述べるとすればこの時点での他の兄弟たちと並列でなければならない。少なくとも、治承四(一一八〇)年四月時点においての源義経は決して有名人ではなく、知名度としては園城寺の円成のほうがはるかに上回っている。
だが、ここでもう一段階話を進めてみると、不合理ではなくなる。
このとき、源義経がどこにいたのか?
奥州藤原氏のもとだ。
治承四(一一八〇)年四月時点の日本国の最富裕者は文句無しに平家だが、奥州藤原氏の資産も絶対に無視できるものではない。そして、この時代の保有資産はそのまま動員可能な軍事力の規模を意味する。平治の乱の直前まで藤原信頼を通じて源義朝のもとに武具と馬を送り届けていた奥州藤原氏が、軍事作戦に同調しなくとも、源氏方の支援を申し出るならこれほどありがたいことはない。この時代の奥州産の馬と武具は一大ブランドであり、武士の移動速度も、戦場での対峙も、有利に働かせることが可能となる。また、食糧生産の点でも奥州の生み出す物資は無視できるものではない。戦争というものは費用がかかるし、兵士の食料も考えなければならない。よほど無能な指揮官でない限り兵士を飢餓状態にして戦わせるなどしないが、かと言って、農業生産性の低下によって兵士のために用意できる兵糧は限られるという現実もある。治承四(一一八〇)年四月の段階で軍勢を結集させて動かそうものなら、間違いなく兵士たちは敵兵よりも前に食糧不足と戦わなければならなくなる。食糧不足の中で戦闘になろうものなら、戦場での敗北の可能性が高まるだけでなく勝者となっても戦争で決定的な勝利を収めることができなくなる。敗走する相手を追うことができなくなり、結果として、陣形を整えた上での第二戦に挑まねばならなくなる。それは源氏方でなく平家方にも言えることであり、食糧不足での戦闘を食い止めるために奥州藤原氏の支援を期待できるならそれだけで源氏方は有利になる。
後述するが、源頼朝は間違いなく弟が奥州藤原氏のもとにいることを知っている。重要なのは弟の身柄ではなく、奥州藤原氏が自分と協力関係にあることの方だ。それだけで源氏は有利になるのだから。
平家物語はここで一つのエピソードを記している。
源頼政が平家に対して立ち上がるきっかけとなったエピソードである。
源頼政の息子である源仲綱は名馬を持っていた。その名馬の名を「木下(このした)」と言う。
源仲綱が名馬を持っていることを聞いた平清盛の三男である平宗盛は、名馬を見てみたいので木下(このした)を連れてくるようにという書状を送った。見てみたいので連れてこいという書状を文字通りにとる人はいない。名馬を自分に差し出せと暗に示しているのである。貸したら最後、名馬が戻ってくることはなく平宗盛のものとなってしまうのは目に見えているから、源仲綱は平宗盛の書状に対し、木下(このした)はここにはいないという返答を示した。
連れてこいとの書状が無視されたことを知った平宗盛は何度も何度も木下(このした)を連れてくるように源仲綱に書状を送るが、何度送っても源仲綱からは、木下(このした)は具合を悪くして静養中であり自分のもとにはいないという返事しか送ってこない。無論、そんな言い訳は通用しない。何しろ源仲綱は普段から木下(このした)に乗っているのである。武士としての職務を果たすのに必要な馬がたまたま名馬であり、その名馬を手放すことは源仲綱の日々の職務もこなせなくなることを意味する。平宗盛のもとに渡ればコレクションを彩る名馬のうちの一つになるが、源仲綱にとっては自身の人生が掛かっている話になるのだ。
息子と平宗盛との間でそうした書状のやりとりが続いていることを知った源頼政は、息子に対し、権力者となった平家に逆らわない方がいい、そこまで書状を送るのならば黄金で作られた名馬であっても送るべきだとして息子に木下(このした)を手放すように訴え、源仲綱は仕方なしに木下(このした)を平宗盛の元に届けた。
手放した名馬がせめて平宗盛のもとで大切に扱われているならまだ救いはあった。しかし、平宗盛は木下(このした)に「仲綱」と名付け、仲綱の焼き印を押し、客が来るたびに名馬を見せては「仲綱め走れ」「仲綱めに鞭を入れよ」と呼んで娯楽の材料としたとあっては源仲綱も怒りを隠せずにはいられない。
これが平家物語の伝えるエピソードである。
このエピソードが本当であるかどうかはわからない。平家物語における平宗盛は何かと平重盛や平知盛と対比されることが多く、平宗盛の最期の光景も平重盛や平知盛の最期とは対比を為すかのような醜態をさらした情景である。
平家物語での平宗盛は悪役であることを求められた人物であり、源仲綱の名馬を奪ったエピソードも平宗盛を悪役とすべく生みだした虚構である可能性が高い。
馬のついでに記すと、この時代に武士達が乗っていた馬は現在のサラブレッドとは大きく違う。
今の日本で人を乗せた馬が走るシーンとしてもっとも目にすることが多いのは競馬の光景であろう。競馬での一般的な馬であるサラブレッドは体高、すなわち地面から馬の肩口までの高さは一六〇センチから一七〇センチほどであり、騎手の身長より高いことも珍しくない。しかし、この時代の一般的な馬は体高が一三〇センチ前後であり、一二〇センチ台の馬も珍しくなかった。この一二〇センチ、当時の尺貫法によると四尺の体高が武士の乗る馬の最低条件であり、この時代の馬の大きさを示す記録には単に一寸(ひとき)、二寸(ふたき)とあるが、これは四尺一寸、四尺二寸の体高であることを示す。体高の数値の大きさがそのまま周囲からの名馬の評価となることも多く、平家物語には木下(このした)の体高について記載は無いが、おそらく一四〇センチを超える大きさであることを平家物語では想定していたであろう。
鎌倉時代の武士は今で言うポニーのような馬に乗っていたという言われかたをすることがあるが、その言い方は間違っていない。現在では希少種となってしまったこの時代の馬の品種である木曾馬が上野動物園にやってきたときの写真を見ても、体高が大人の男性の胸元までしかないのは一目瞭然となっている。また、体重もサラブレッドの半分ほどしかなく、走行時の最高時速も時速六〇キロメートルを出せるサラブレッドとは違い、時速四〇キロメートルが限度である。
ただし、小さくて体重が軽いことが必ずしもサラブレッドより劣ることは意味しない。総重量二五キログラムにもなる大鎧を着た武士を乗せたまま、サラブレッドには昇ることのできない傾斜三〇度もの坂を軽々と登ることができたのがこの時代の馬だ。後に源義経が一ノ谷の戦いで披露することになる鵯越(ひよどりごえ)の逆落としもこの時代の馬であるからできることである。
さらに、全速力で走っても上下の揺れが少ないのは当時の武士にとってありがたいことであった。この時代の武士は馬に乗ったまま弓を引き絞って矢を放つ技能が求められた。弓矢を操ることを考えるならば馬が上下しないで走ることは重要な点だ。ちなみに、この時代の武士の武装は重いが動きづらいわけではなく、武装して馬に乗ったまま弓を構えて真後ろに向くこともできる作りになっている。
平家物語はさらに続ける。
以仁王に令旨を出すように促したのは源頼政であるが、源頼政と以仁王との間だけで話を進めていたわけではない。複数名が以仁王のもとに訪れたようであり、その中に藤原伊長(ふじわらのこれなが)がいた。平家物語の中では少納言伊長とも相少納言とも記されている人物である。
少納言伊長は、役職だけを見れば貴族まであと少しという立場の役人でしかなく特色はこれと言って存在しないように思える。しかし、少納言伊長はちょっとした有名人であった。人相見の達人として有名であったのだ。その人の人相を見てその人の運勢を占うと、それがよく当たると評判だったのである。その少納言伊長が以仁王の顔を見て言うには、以仁王には天子の座に就く人相をしているというのであるという。
その言葉を契機として以仁王は決心をしたというのが平家物語の伝える話である。
以仁王はここで熊野から、亡き源義朝の弟である源義盛を呼び出した。源為義の十男であることから十郎義盛と呼ばれていた男である。
源義盛は平治の乱で兄とともに藤原信頼側についたために連座として死罪や流罪の対象となる境遇であったが、熊野新宮まで逃れることに成功して二〇年に亘って潜伏することに成功していた。
なぜ潜伏に成功していたのか?
熊野三山検校は、熊野本宮、熊野速玉大社、熊野那智大社の三つの神社の総称であり、熊野新宮とはそのうちの熊野速玉大社のことである。位置づけとしては、熊野本宮だけが海岸線から遠く、熊野速玉大社と熊野那智大社は太平洋のすぐ近くにあり、熊野那智大社のほうが西にある。つまり、京都から大阪湾に出て海路で熊野詣に出向く場合、熊野那智大社の近くに到着することとなる。平清盛をはじめとする京都からの参詣者は熊野詣に出向くとすれば熊野那智大社に到着するのが普通であり、熊野新宮こと熊野速玉大社にまで出向くことはほぼ無い。つまり、熊野新宮であるがために神社の権威を利用して身を守ることができると同時に、京都からの熊野詣の盲点を突くことが可能となる。さらに言えば、熊野速玉大社は京都からの熊野詣については到着することがほとんど無いが伊勢湾方面からの熊野詣であれば頻繁に到着するので、人の出入りの激しさという点で見劣りすることは無い。木を隠すなら森の中、人を隠すなら人混み中というが、人混みは激しいが京都からやって来る人は少ないであろう熊野新宮の中にいればより安全を手にしやすくなる。
それだけでも身を隠しやすくなるが、源義盛は同母姉を利用できる環境でもあった。同母姉の鳥居禅尼の夫は第十九代熊野別当の行範である。行範は承安三(一一七三)年に亡くなっており、夫と死別した鳥居禅尼は治承四(一一八〇)年時点では熊野別当嫡流家の実権を手にするまでになっていた。
また、源義盛の身元が平家に漏れたとしても平家からは不問に付された可能性が高い。と言うのも源義盛について不明な点が二点存在するからである。この人の生年と元服時の年齢が不明なのだ。おそらく平治の乱の頃は二〇歳になったか、あるいはまだ一〇代であったろうと推測されており、治承四(一一八〇)年時点では三〇代後半であることまではわかるものの正確な生年も正確な年齢もわからない。また、この人が元服して源義盛を名乗るようになったのがどのタイミングなのかもわからない。わかるのは、保元の乱には参加していなかったこと、そして、この名前で平治の乱に参加したということである。保元の乱で源為義の子のほとんどは崇徳上皇側に立って戦って敗れたために死罪となったが、その中に源義盛の名は無い。兄とともに後白河天皇側に立って戦ったという記録も存在しないことから、父の源為義に従ったのでも、兄の源義朝に従ったのでもなく、幼かったか、あるいはそのとき京都にいなかったために保元の乱に加わらなかったとすべきであろう。それでも平治の乱には加わっており、源義朝のもとに集まった源氏の一人として源義盛は列挙されている。列挙されているが、源義朝の子らと違ってこれといった活躍を見せていない。母親が違うとは言え源義朝の弟なのであるから重要視されるところであるがこの人は戦闘においてこれといった活躍を見せていないばかりか、敗者となっても熊野にまで逃げ延びて延命することに成功している。もしかしたら、平家の通字でもある「盛」を元服後の名に用いたことの効果もあるのかもしれない。
その源義盛を以仁王は呼び寄せた。既に述べた通りこの人の同母姉は熊野新宮の別当家の嫡流の元に嫁いでおり、姉の威光を利用すれば宗教的使者として各地を渡り歩くことも不可能ではなくなった。さらに、八条院こと暲子内親王の蔵人に源義盛を補すことによって源義盛が日本国内をめぐるのに必要な公的地位を与えることに成功した。暲子内親王は父の鳥羽法皇の所領と母の美福門院藤原得子の所領の双方を相続し、さらに自身の保有する所領を加えると全国各地に二二〇箇所以上の荘園を保有する大荘園領主となっている。この、暲子内親王の保有する所領の総称を八条院領という。暲子内親王の蔵人になるということは、この広大な八条院領を自由に移動できる権利を手にするということだ。荘園経営のために全国各地の所領を巡り歩くのは、蔵人としての正式な職務である。
そして、源義盛はこのタイミングで源行家に改名する。ひそかな改名であり、平家が仮に源義盛という名の者を探し出そうとしても見つからず、各地に捜索命令を出しても熊野新宮からの使者であり、八条院の蔵人である源行家という名の者が見つかるだけという状況ができあがった。
源行家という名を他に調べても、つい最近八条院こと暲子内親王の蔵人に新しく任命された源氏であるということしかわからない。蔵人に任命されるような源氏とあれば、普通に考えれば村上源氏をはじめとする貴族社会における源氏であり、ただでさえ同じ姓であっても藤原氏と違って横のつながりの乏しいのが源氏である。新たに任命された「源行家」なる源姓の者が誰なのかを他の源氏の貴族に訊ねても「聞いたことない名前だ」「他の源氏の誰かであろう」という返答が戻ってくるのみであろう。何しろ治承四(一一八〇)年時点で源氏と言えば、清和源氏の他に、嵯峨源氏、仁明源氏、文徳源氏、陽成源氏、光孝源氏、宇多源氏、醍醐源氏、村上源氏、花山源氏、三条源氏、後三条源氏が確認されている。しかも、個々の源氏は祖となる天皇が異なれば全くの別家系となるから、源氏自身が「源行家」なる名の新たに蔵人に任命された者について訊ねられても、他の源氏の誰かであろうという答えしか返しようがなく、誰もがその答えを受け入れるしかないのだ。その、聞いたことのない名前の源氏が清和源氏であるとどれだけの人が考えることができるであろうか?
源行家は自分の名を変えることだけでなく、もう一つのカモフラージュをした。熊野三山はもともと修験者が数多く詰めかけているところであるから、修験者たる山伏の格好をすれば熊野三山に関連する宗教関係者としての旅になるのだ。山伏が修行の一環として各地を練り歩いたとしても誰も何もおかしなこととは考えない。仮におかしいと考えてその人の足跡をたどったとしても、山伏が数多くいる熊野に行き着いて終わりだ。山伏に不釣り合いな書状を持っていることを咎められる可能性があったが、その場合は八条院の蔵人に補せられたという経歴が役に立つ。八条院の所領は全国各地に分散して存在しているから、蔵人の職務として各地を転々とすることはおかしくないどころか、それこそが職務だ。しかも名前を変えているから、源義朝の実弟であると見破られる可能性は乏しい。
治承四(一一八〇)年四月一〇日、源行家が以仁王の令旨を記した書状を手に東日本へと旅立った。目的は一つ。以仁王の令旨を各地の清和源氏の元に届けることである。
以仁王の出した平家追悼の令旨を平家は察知していなかったのか?
結論からいうと、治承四(一一八〇)年四月時点ではまだ察知していなかった。
この頃の平家の面々の脳裏を占めていたのは安徳天皇の即位の儀である。
日付は決まっている。治承四(一一八〇)年四月二二日だ。
問題は、どこで即位の儀を開催するかである。治承元(一一七七)年の大火で焼失してから再建されていないために大極殿は使用できない。そのため他の場所で開催しなければならないのだが、適切な場所が無い。
このようなとき、前例踏襲を是とする考えは論拠を伴った代替案を提示し、周囲を納得させる効果がある。治承三年の政変で平家が権力を握ったとは言え、藤原摂関家がこの世から喪失したわけではなく、特に九条兼実は右大臣として健在だ。右大臣九条兼実は古記録から康保四(九六七)年の冷泉天皇即位の儀の先例を持ち出して、紫宸殿での即位の儀の開催を主張したのである。
冷泉天皇の即位の儀を紫宸殿で開催することとなったのは冷泉天皇の病状の都合であるが、大極殿への行幸ができなかったために紫宸殿で即位の儀を開催した先例は安徳天皇にも適用できるとしたのだ。
このとき多くの人が考えていたのが治暦四(一〇六八)年の後三条天皇の即位の儀である。安徳天皇と同様に大極殿が使用不可となっていたため後三条天皇は太政官庁にて即位しており、この時代もなお評判の高い後三条天皇の前例に則って太政官庁で即位の儀を開催させるべきという意見が多かったのである。
右大臣九条兼実が後三条天皇の先例を否定して冷泉天皇の先例を持ち出したのは、表向きは、皇室における太政官庁というのは、藤原氏をはじめとする庶民の家庭における公文所程度の建物であり、新帝の即位の儀の場として相応しくないという理由である。公文所(くもんじょ)というのは貴族の所領や年貢を管理する文書を処理する役職、また、そうした役職の人たちの働く政務組織であり、同時に、文書を管理する建物でもある。大貴族だと公文所(くもんじょ)より大きな政務組織である政所(まんどころ)が存在するが、通常の貴族では政所(まんどころ)の設置が許されず公文所(くもんじょ)となる。後に源頼朝が鎌倉に政務組織を設置するときに政所(まんどころ)ではなく公文所(くもんじょ)となったのも、政務組織を設置した時点の源頼朝の位階が政所(まんどころ)設置に必要な位階に達していなかったからである。藤原摂関家の人間である九条兼実にとって公文所程度の建物というのは建物の小ささを揶揄する語になるのだ。
いかに太政官庁が建物として壮麗であろうと、また後三条天皇の先例があろうと、新帝の即位の儀の場として相応しいかと言われれば、その答えは否とするしかない。意見の潮流が後三条天皇の先例を持ち出す流れになっていたところで右大臣として取りうる権限の全てを発揮して流れを変更させたのであろう、九条兼実の日記には二月一五日、二月一八日、二月二四日の三度に亘って冷泉天皇の先例を挙げて紫宸殿で即位の儀を開催すべきと訴えたことの記録が残っている。
右大臣九条兼実がそこまでして紫宸殿での即位の儀にこだわったのは、これから新しい時代を生み出そうという新帝即位の場として太政官庁が相応しくないという強い思いがあったからであるが、それだけが理由ではない。
後三条天皇の評判は確かに高く、また、新しい時代を作り出した天皇であったために先例として相応しいと考えられたが、藤原摂関家にとってはそれまで連綿と受け継いできた藤原摂関政治を破壊した天皇でもある。それでも庶民生活の向上という結果が伴ったならば文句は無いが、後三条天皇の治世下の日本国は一気に不景気へと突入した時代であった。GDPで換算するとマイナス九・一パーセントである。戦争や自然災害、感染症の大規模な流行があったならまだ納得はできるが、後三条天皇時代の不景気は政策だけで引き起こした不景気なのだ。短い治世であったために後三条天皇は改革者として評判を得続けることができていたが、そうでなければ後三条天皇は改革者ではなく破壊者として糾弾されていたであろう。
藤原摂関家の一員としてとしてだけでなく政治家としても後三条天皇の先例は踏襲が許されない先例であると考えたならば、天皇としての評価は高くなくとも時代に対する評価は決して低いものではなかった冷泉天皇の先例を持ち出す必要がどうしてもあったのだ。
治承四(一一八〇)年四月二一日、翌日に控えた安徳天皇即位の儀に伴う叙位が執り行われた。もっとも、前年の治承三年の政変で大規模な叙位が執り行われたため、この日の叙位は静かなものであった。摂政内大臣近衛基通が従一位に昇格し、権中納言藤原成範が従二位へ、同じく権中納言平頼盛も従二位に叙せられた。公卿補任を見るかぎり治承四(一一八〇)年四月二一日の叙位として確認できるのはこの三名だけである。近衛基通は文句無しに藤原北家の、それも藤原摂関家の本流を自負できる家系であるが、藤原成範は藤原北家ではなく南家であり、平頼盛については記すまでもない。藤原摂関政治を少しは強固にしたが、同時に平家政権も少しは強固になっている。新帝即位における叙位と政権強固はこれまでの通例であったが、平家が権力を握りながらも藤原摂関政治も存在しているという状況下では、前年の治承三年の政変を理由として小規模なものとした上で、このようなバランスをとるしかなかったと言える。
そして迎えた翌四月二二日、右大臣九条兼実が強く訴えた通り、安徳天皇の即位の儀が紫宸殿で執り行われた。安徳天皇はこのとき、数え年で三歳であるが、満年齢だと一歳二ヶ月である。このような幼児が無事に即位の儀を執り行うことができるのかという懸念が当然ながら存在したが、永万元(一一六五)年に生後七ヶ月で即位した六条天皇という例がある。六条天皇の即位の儀では、途中で泣き出してしまった六条天皇を落ち着かせて泣き止ませるために、乳母である藤原成子が即位の儀の途中で授乳させたという例があり、安徳天皇のときは実母である平徳子が安徳天皇を抱きかかえて高御座(たかみくら)に座るという、異例と言えば異例であるが、先例に則った即位の儀となった。
令和元(二〇一九)年の即位の儀において天皇皇后両陛下が鎮座まします御姿を拝見したかたは多いであろう。その上で想像していただきたい。カーテン状になっている御帳が開いたとき、高御座に鎮座まします新帝が母に抱かれた幼児である光景を。我が子を抱き抱える実母なのだからおかしくないとは確かに考えられる。だが、その実母は、前年にクーデタを起こして国家権力を奪取した平清盛の実の娘なのだ。この瞬間が展開されただけでも時代は平家のものとなったと否応なく痛感せざるを得ないであろう。前日の叙位で昇格した平家が一人だけであるなどというのは、平家の権勢に対する不穏な感情の鎮静化には何の役にも立たない。
平清盛の視点に立つと、自分の娘が自分の孫を抱きかかえた即位の儀ということになる。自分の娘が産んだ男児が新帝に即位するというのは藤原摂関政治において何度も見られたことであるが、いかに幼児を落ち着かせるためであるとはいえ自分の娘が即位の儀において新帝とともに高御座に鎮座するというのは前例のない話だ。
平家物語は、この安徳天皇の即位の儀を平家の隆盛の頂点であるとしている。
だが、すでに述べたように以仁王の令旨は既に出されている。各地に散らばる清和源氏の元にはまだ届いていないが、ただでさえ燻っている平家政権への不満の声が爆発するのは時間の問題であった。
新幹線や高速道路、飛行機など存在しないこの時代、陸路だと京都から伊豆へは早くても半月を要する。黒潮に乗って海路で航行することができれば話は別であるが、源行家の行き先は源頼朝のもとだけではない。四月一〇日に出発した源行家が伊豆の源頼朝のもとに到着したのが治承四(一一八〇)年四月二七日のことであるのは、途中に他の清和源氏のもとを訪ねたことも考えれば順当、ないしはむしろ早かったと言えよう。
伊豆を訪問した源行家は源頼朝に以仁王の令旨を記した書状を渡した。書状を受け取るとき、源頼朝は武士の正装である水干(すいかん)に着替え、石清水八幡宮を遙拝したとある。なお、吾妻鏡の記述に従えば、まずは以仁王の令旨を受け取り、源行家が甲斐国に向けて向かっていったのを確認した後に北条時政とともに書状を開いたとある。
書状を開く前の段階でも、書き記したのが以仁王であること、すなわち、本来なら令旨を出すことの許されていない以仁王が令旨を発したことは、それだけでもどのような決意のもとで以仁王が令旨を記したかがわかるものである。しかし、北条時政の目の前で書状を開いた源頼朝の目に飛び込んできたのは想像を超えた文章であった。
以下に、吾妻鏡に残る以仁王の令旨の原文を載せる。
下 東海東山北陸三道諸國源氏并群兵等所
應早追討清盛法師并從類叛逆輩事
右 前伊豆守正五位下源朝臣仲綱宣 奉
(下す。東海、東山、北陸、三道諸国の源氏並びに群兵等の所へ。応えて早く清盛法師並びに従類叛逆の輩を追討の事。右、前伊豆守正五位下源朝臣仲綱宣ず)
以仁王は東日本各地の源氏に対して、平家打倒のために立ち上がるよう促したのである。その蜂起の呼びかけ元となっている人は源頼政の子の源仲綱であった。皇族が自ら軍勢蜂起を命じるのではなく、以仁王が平家排撃を促すよう訴えた源仲綱の願いに応えたという体裁になっている。しかも、前述の通り、親王ではないため本来であれば令旨を出すことが許されていないのにもかかわらず、以仁王は令旨を出している。
吾妻鏡にはその後で、源仲綱から各地の源氏に向けて出された檄文が転記されている。ここでは原文ではなく現代語訳を載せる。
「最勝王(=以仁王)の勅を奉りて称(い)う。平清盛ならびに平宗盛らの平家が権勢を意のままにして暴れ回り、この国を滅亡へと導き多くの人が生活苦にあえいでいる。日本全国で平家の略奪が繰り返され、後白河法皇は幽閉され、多くの貴族が、ある者は流罪となり、ある者は命を落とし、ある者は地位の全てを失った。水に突き落とされ、牢屋に入れられた。平家は、財産を奪い取り、この国の土地を占拠した。奪った官職を平家の息の掛かった者に振る舞い、平家の関係者というだけで報奨が得られる一方、無実の罪で捕まる者も増えた。各地の寺院を支配下に置き僧侶を意のままに任命する一方で平家に逆らう僧侶を牢に押し込めた。比叡山延暦寺の資産を奪い食料を奪い去った。平清盛は日本の皇室の流れを断ち切り、仏法を破壊し、日本国の歴史を終わらせてしまおうとしている。神も人も誰もが悲しみ庶民には絶望しかない。そのため、後白河法皇の第二皇子である以仁王とともに天武天皇の先例に従って皇位簒奪を企む犯罪者を追討することとし、聖徳太子の遺跡を訪ね仏法を破壊する者どもを討ち滅ぼすこととした。これは人の力だけでなく神の力も頼りとするものである。神の力があれば莫大な軍勢を集めることができる。源氏だけではなく藤原家の者も、東海道、東山道、北陸道の各地の者は皆ともに立ち上がり平家を打倒しようではないか。もし、協力しないのであれば、平家を討ち滅ぼしたときに死を以て償ってもらうことになるであろう。協力するのであれば、以仁王が帝位に就いたとき、どのような報奨もお思いのままとなることを保証する。このことを各地に伝え、ともに打倒平家へと立ち向かおうではないか」
この檄文の日付は治承四(一一八〇)年四月九日であり、前伊豆守正五位下源朝臣仲綱が書き記したという署名もある。
源頼朝という人は、伊豆に流罪の身になっていても京都からの情報連携を欠かさなかった人である。当初は三善康信を通じて京都からの情報を手にし、文覚追放以後は真言宗の寺院ネットワークを利用した二系統で情報も獲得していた人である。治承三年の政変で平家が権力を握ったことも、その後の京都がどうなっているかも理解しているし、軍事クーデタに対する人々の支持も、クーデタ後の平家政権が国民生活をどのようなものとさせているかも、平家政権が平清盛をトップとする一点集中の独裁政権であることも理解している。平家に対する人々の不満がかなり高いものとなっていることも理解している源頼朝は、何らかの形で反平家の行動が起こるであろうことは分析できていたし、寺院の反発についても把握できていた。
しかし、以仁王の令旨まではさすがに想定外だった。やがていつかは平家に対する反発が叛旗へとなることは予期していたものの、このように急激に叛旗を促す書状が来るとは考えることもできなかったのだ。
源頼朝は逡巡したが、源頼朝の下せる結論は一つしか無かった。以仁王の令旨に従うことである。源頼朝は、自分が清和源氏のトップであり、清和源氏全体の指揮を執るのも自分であることを覚悟していた。流れが起きてしまった以上自らに課された政務を果たすしかないのだ。だが、実際に今の自分が伊豆で動かすことのできる軍勢については全く計算できなかった。
承安三(一一七三)年五月に伊豆に配流になった僧侶の文覚は、源行家から書状を受け取った場にいたという。そして、源頼朝に決起を促したとも伝えられている。もしたしたら、文覚は寺院内のネットワークによって前もって情報を掴んでいたのかもしれない。
源頼朝が考えなければならないのは清和源氏のことだけではない。清和源氏に従う武士だけのことを考えるだけでも不充分で、反平家の存在全体を考えなければならないのだ。平家に対する不満がいつ噴火してもおかしくないことは目に見えていたが、噴火させることと反平家の思いを充足させることとは一致しない。立ち上がる以上、思いを充足させる義務が発生するのである。
ここで重要なのは、反平家の思いを充足させることは必ずしも平家に対して戦闘を挑んで勝利を掴むことだけを意味するのではないという点である。平家を戦場まで引きずり出して平家の面々を武力で倒したとしても平家に受けた仕打ちが消滅するわけではない。それより大切なのは、平家に受けた仕打ちと相殺するだけの報奨を用意し、平家に受けた仕打ちをこれからは二度と受けなくていいと保証することである。具体的には、平家に土地を取り上げられた人や平家のせいで失業した人に対して土地や職業を用意し、取り戻した資産を源頼朝は取り上げることはしないと確約することである。そうしなければ反平家の思いを充足させることにはならず、立ち上がったとしても意味あることにはならない。平家への不満がそのまま源頼朝への不満になってしまっては無意味なのだ。
源頼朝は以仁王の令旨に賛同することに決めた。しかし、ただちに動き出すことはなかった。何度も繰り返しているが京都から伊豆までの情報は早くとも半月を要するのが普通だ。しかも、以仁王の令旨は平家追討へと動き出すよう訴えるだけであり、何月何日にどのような行動を起こすべきという指令は記されていない。名目上の提案者である源仲綱からの檄文にも平家の悪辣さは記されていても具体的な行動計画は無い。そして、京都との情報網を持っていた源頼朝の元に届いていた京都の情勢は反平家の感情が高まっているという点だけであり、実際に反平家の行動が起こったことを記す情報は伝わってきていない。つまり、この半月の間に京都で何かが起こる。それに合わせた行動としないと源頼朝が立ち上がることが無意味となる。
裏を返せば、源頼朝は時間を確保できたと言うことだ。
以仁王から反平家の決起を促す知らせが来た。その知らせに奮起し源頼朝とともに行動を起こす者をどれだけ集めることができるかが勝負の分かれ目になる。源頼朝は、今なお流人の身であるという点を踏まえた上で、今の自分が反平家として立ち上がったときに集めることのできる戦力を計算し始めた。
ここで、いったん源平合戦から離れて記さねばならない出来事がある。
出来事を記しているのは鴨長明。
鴨長明は方丈記に、治承四(一一八〇)年四月のこととして京都を襲った災厄である「つじかぜ」のことを記している。なお、四月二九日のことであったとする史料もあるが、方丈記には卯月、すなわち四月のこととしか書いておらず詳細な日付は記してはいない。
鴨長明が記した「つじかぜ」とはどのような災厄か?
竜巻である。
その破壊の様子を鴨長明は方丈記におどろおどろしく書き記している。竜巻は建物という建物を破壊し、ある建物は真っ平らになって敷地だけが残り、ある建物は柱だけが残り、ある建物は門を五〇〇メートルほど吹き飛ばした。隣の家との垣根が壊れて一区画となり、家の中の財産は残らず空に吹き上げられ、檜皮葺きの屋根や板の屋根が吹き飛んで木の葉が舞うような光景になり、粉塵を煙のように巻き上げるので視界が失われ、竜巻の騒がしさは会話を失わせた。多くの人がケガをしてしまい身動きできなくなる人も多くいた。
巨大な竜巻であったというだけでも大事件だが、竜巻の損害を被った場所が平安京の都心のただ中とあってはさらなる大事件となる。治承四(一一八〇)年四月の竜巻は中御門京極、現在の京都市歴史資料館のあたりで発生し、南南東へと進んで現在の東本願寺のあたりに至るまでの建物をことごとく破壊していったのだ。大坂で言うと大阪城から通天閣までの一帯の建物が、東京で言うと国会議事堂から渋谷に至るまでの一帯の建物がことごとく破壊されたに等しい。
さらに大問題がある。
復旧支援が何も無かったのだ。
もしかしたらこれを期に京都ではなく福原に移り住むよう薦めたのかもしれないが、そのような計画を立てていたとしても、また、住宅地が木っ端微塵に吹き飛んだことまでは自然災害だとして我慢できても、その災害に対して何の手も打たずにいるというのは執政者失格だ。
平家のクーデタに対して不満を抱いていた人だけでなく、是々非々な立場である人でも、自然災害に対して何もせずにいるというのは是を失い非と決するに充分な態度だ。
治承四(一一八〇)年五月初旬、以仁王の令旨が出てから初の衝突が起こった。
衝突の起こった場所は、熊野。
源義盛が源行家と名前を変え東国に向かったことに対して熊野内部で騒動があったことが平家物語の記録にある。源行家の行動が平家の元に伝わってしまったら平家が熊野に対して軍勢を向けることになるとして、熊野権別当である湛増は兵を率いて熊野速玉大社と熊野那智大社に対して攻撃を加えたことが記録されているのだ。平家物語では湛増を熊野別当、すなわち熊野のトップとしているが、熊野三山の記録での治承四(一一八〇)年時点の湛増は権別当、すなわち、熊野の地におけるナンバー2である。
湛増の家系を遡ると藤原忠平の五男で左大臣にまで登り詰めた藤原師尹まで遡ることができる。また、第十八代熊野別当湛快の息子であることも判明していることから、藤原北家の血を引いた貴種であると同時に熊野別当嫡流の人であることはわかるのだが、この時代の熊野別当嫡流は何と言っても源行家の実姉の鳥居禅尼が実権を握っている。とは言え、湛増の妹が平清盛の末弟である平忠度のもとに嫁いでいることから熊野別当嫡流の実権は手にできなくとも、湛増は今をときめく平家の権勢を充分に利用できた立場である。ちなみに、平忠度が生まれたのは熊野であるという説もある。
湛増と鳥居禅尼との関係は義母と婿の関係であり、当然ながら源行家こと源義盛が源義朝の弟であることは知っている。それでも源義盛が熊野で平穏無事な暮らしをしているならどうということはないのだが、源義盛が源行家と名を変えて以仁王の令旨を記した書状を手に東国へ向かったとあれば厄介な話になる。令旨の内容がわからなくとも、源行家が以仁王に呼び出されて山伏の格好をして東に向かったというだけでも意味するところは明白だ。義母が清和源氏の人間であると言っても湛増自身は平家に対して明白な反発心を抱いているわけではないばかりか、平忠度とは義理の兄弟だ。ここで鳥居禅尼に従おうものなら裏切り者として平家の軍勢が熊野に押し掛けてくることは目に見えている。ここで何もしないでいるのは危険すぎた。自身にとっても危険であるだけでなく熊野三山にとっても危険であった。
その答えが平家側に立っての反源氏の宣言である。東国に向かった源行家を熊野は支援せず、熊野は平家に従うと宣言するのである。平忠度が熊野生まれであるとする説もあるほどに熊野には平家の息の掛かった者は多く、自身の信条よりも現在は平家が天下を握っているのだという現在の国情に基づいて行動しようとする者も、自らの意見ではなく上役に付き従う者もいる。そうした者を集めれば軍勢とすることも可能だ。湛増はおよそ一〇〇〇もの兵を率いて熊野速玉大社と熊野那智大社に向かった。目的はただ一つ、源行家のバックボーンとなっている清和源氏の関係者の熊野からの殲滅である。
しかし、およそ三日間に渡る戦いで、この一〇〇〇もの兵は敗れ去った。熊野新宮こと熊野速玉大社は倍の二〇〇〇もの兵を集めることに成功していたのだ。考えてみれば単純である。湛増が兵を集めていることも、その目的も、熊野の内外で周知の事実になっている。そこでわざわざ軍勢に踏みにじられることを選ぶほどお人好しの人は多くない。平家の軍勢が熊野に来ることが恐ろしくないと言えば嘘になるが、これから以仁王が遂行しようとしていることと、東国に向かった源行家がどのような行動を見せるかということとを考えると、今までの通りであるほうが合理的である。
一〇〇〇名もの裏切り者がいるならそれを越える軍勢を集めればいい話だ。
いかに平清盛が情報を自発的に手にしようとしない人であろうと、以仁王が令旨を出したという情報が平清盛の元に届かないなどあり得ない。だいいち、京都にいる平家の面々に以仁王の令旨のニュースは飛び込んでくる。平家物語では熊野別当湛増が平宗盛に向けて急ぎの使者を派遣したことで平家は以仁王の叛旗を知ったとあるが、それでは遅すぎる。
どういうことかというと、治承四(一一八〇)年五月一〇日には平清盛が福原から上洛して武士が平安京の中にひしめくまでになっていたのだ。五月一〇日に平家の武士が平安京にひしめいていたというのは右大臣九条兼実の日記に残っており、平家物語の創作したエピソードではない。すなわち、日付は動かしようがない。
熊野から京都までの距離と京都から福原までの距離の双方とを考えると、平家物語では熊野別当とされている熊野権別当湛増からの書状をスタートとするのでは平清盛の行動が異常な速さになってしまう。おそらく、湛増からの書状が届く前にはもう平家のもとに以仁王の令旨のニュースが届き、ただちに福原に使者が派遣されて平清盛が出陣したというところであろう。
ところで、平家物語にはいくつかの異本がある。現在のように印刷技術が確立されていない時代において書籍を増やす方法は原本からの書き写し、すなわち写本である。そして、写本というのは原本から書き写す過程で新たなエピソードが追加されたり、逆にエピソードが削除されたりすることがある。意図的に追加や削除をする場合もあれば、写本時のミスで追加や削除が起こることもある。原本が失われて写本しか伝わっていないとき、現存する様々なバージョンの写本を比較してどれがもっとも原本に近いのかを判定し、学者自身がもっとも原本に近いと考えたバージョン以外のバージョンを異本として扱う。本作を記すにあたって著者が利用しているのは東京大学国語研究室にて所蔵しているバージョンをもとに刊行された訳注付きの平家物語であり、東京大学国語研究室にて所蔵している平家物語のバージョンを「高野本」あるいは「覚一別本」という。様々な出版社も高野本を基本として平家物語を活字にして印刷し刊行しており、高野本は世間一般でもっとも手に入りやすい平家物語のバージョンであるとも言えよう。一方、平家物語の異本の中には熊野別当湛増のエピソードがまるまる抜け落ちているバージョンもある。それもまた一つの平家物語の構成なのであるが、熊野別当湛増が抜け落ちているとなると、熊野別当湛増からの書状をきっかけに平家が動き出したことの辻褄が合わなくなる。そのためか、熊野別当湛増のエピソードのないバージョンの平家物語では以仁王の謀叛の知らせが平家に届いたことだけが記されている。
五月一〇日時点の平清盛の出した指令は、以仁王こと高倉宮を逮捕して土佐国に追放してやるというものである。なお、いかに平清盛が天皇の実の祖父であろうと、平清盛には皇族を逮捕する権限もないし、ましてや追放する権限などはない。高倉宮を逮捕して土佐国に追放してやるというのは怒りに任せて放った言葉であり、この時代では即座に違法となる発言だ。平安京に集められた武士たちは平清盛の怒りに任せて放った命令を遂行するために集められた武士であり、法的には違法なことをさせられる存在であった。もっとも、相手が以仁王でなければ平家の行動は合法なのである。国内の治安維持を考えれば反政府を訴えるテロを食い止めるのは正しいのだから。
それにしても、平家はかなり慌てていたと見える。まさか自分たちに対して反抗する勢力が現れると思っていなかったと見えて、反乱の知らせを聞きつけて武士たちを集めたものの、その相手が皇族とあっては身動きできるものではなくなる。かといって平清盛の怒りに任せて放った言葉を無視することもできない。テロを食い止めよと言われて集められた軍勢にとって、国法を守ることと命令を守ることが不一致となり身動きできなくなることを考えていなかったのか。
調べてみたら以仁王が首謀者で、首謀者を知った平清盛は以仁王を逮捕して追放すると息巻いたが、ただちにその言葉が法に反する言葉になると悟らざるを得なかった。このようなとき、余計な正常性バイアスを働かせるのは世の常である。平家は情報を正しく掴めていなかったと見え、治承四(一一八〇)年五月一〇日時点では以仁王一人だけが反抗の意思を示したと考えたのである。実際の宣旨の内容までは情報として掴めていなかったと見え、源頼政の長男である源仲綱の言葉に対する以仁王の返信という形式であるとは考えなかったのだ。
そのため、平家が集結するよう命じた武士の中には、出家した源頼政も、源頼政の甥で猶子となっていた源兼綱も、そして、源仲綱自身すら含まれていた。平家にとって源頼政ら京都近郊の清和源氏は平家の軍勢の一要素であると把握していた証左であろう。
源頼政は平家の一員を演じながらも独自の行動を続ける。五月一〇日のうちにひそかに以仁王に連絡を取り、以仁王に対して園城寺へと逃れるように促したのである。
ところがここで奇妙なことが起こる。
以仁王はたしかに園城寺へと逃れた。
だが、以仁王が園城寺へと逃れるために脱出したのは五月一四日になってからなのだ。五月一〇日に逃れるよう促されてから実際に園城寺へと向かうまで時間がありすぎる。以仁王はこの間いったい何をしていたのか?
この答えも九条兼実の日記が参考になる。平家物語は記していないが、平安京に平家の武士が集結したのは確かに五月一〇日であっても、実際に以仁王に対する処罰を打ち合わせし始めたのは五月一二日になってからなのである。それも、会議が延々と続いた結果なのか、答えが出始めたのが五月一四日になってからだ。
この間、以仁王は怪しいとは見なされていても、公的には単に噂になっているだけの人だったのである。以仁王の令旨なる物が出回っているがそれはニセモノであると言い切ってしまえば、世間の口上からはともかく、公的には何ら処罰を受ける謂われのない立場へとなるのである。しかも皇族であるために平家がいかに権勢を掴んでいようと逮捕されることは許されない身分だ。ただし、以仁王は何かしらの動きを見せようものならただちに国法に反する存在となり、後白河法皇の院宣があれば容疑者へとなり平家の武士たちに捕縛される運命が待っている。
以仁王は動かないのではなく動けなかったのだ。
同じ治承四(一一八〇)年五月一〇日、関東地方でも一つの動きが起こっていた。京都で勤務していた下河辺行平が伊豆にやってきて、北条時政のもとに京都で源頼政が挙兵したことを伝える知らせを届けたのである。伊豆国は源頼政が知行国としてきた国であり、源頼政の出家後は嫡男である源仲綱が知行国の権威を継承した。この時点の北条時政は伊豆国に在住する在庁官人であり、この知らせ自体も名目上こそ京都在住の官人が伊豆国の在庁官人に情報を連携したという、緊急性を考えればおかしくない話である。何しろ、現在の知行国主の父親にして先代の知行国主が平家に向かって刃向かったというのだから、その情報が京都からやってきた人から伊豆国の役人に対して伝えられるのは当然だ。
だが、下河辺行平が京都で働いているときの上司であったのは源頼政である。父である下河辺行義とともに源頼政に仕えていた下河辺行平が源頼政の蜂起を伝えてきたのだ。いかに名目は北条時政のもとへの伝達でも、さすがに源頼朝がいることを知らぬわけはない。北条時政に対して源頼政が蜂起したことを伝えることは、清和源氏のトップたることを宿命づけられている源頼朝に対して伝えることも意味する。実際、源頼朝はこれではじめて、以仁王の令旨が具現化し、源頼政主導による反平家の決起が発生したことを知った。実際にはまだ以仁王の叛旗が噂になっているという段階で武力衝突には至っていなかったが、京都からの距離を考えれば、武力衝突が起きてからの情報連携では遅い。
下河辺行平が伊豆国に来たことはもはや周知の事実だ。下河辺行平と源頼政との関係、そして、以仁王の令旨の内容が判明したら、源頼朝が平家に対して叛旗を翻すことになったと誰もが考える。
もはや源頼朝に選択肢はなかった。
具体的な行動はまだ起こせない。しかし、源頼朝はこれで自らの運命を決めた。
軍勢を集め平家に対して叛旗を翻す。一個人としてではなく、清和源氏を束ねるトップとして叛旗を翻すのである。
以仁王の逮捕を命じられた平家の武士たちがただちに平安京に結集したのと、源頼朝が源頼政の蜂起の情報を手にしたのが同日であることは単なる偶然であるとするしかない。だが、そこには運命的なものを感じる。平清盛の一声で平安京を埋め尽くすことのできる軍勢を集めることのできる平家と、叛旗を決意しながらも軍勢を集め始めるところから考えなければならない源氏との全面対決との関係とを。
伊豆国で源頼朝が挙兵を決意したことを、当然ながら京都の人はまだ知らない。京都の人が考えていたのは以仁王の謀叛についてである。
治承四(一一八〇)年五月一四日、平清盛が後白河法皇の鳥羽殿幽閉を解いた。これにより、以仁王の手から父の自由を回復するという大義名分が失われた。とは言え、鳥羽殿から移動する際にも、移動した後も、後白河法皇の周囲には相変わらず平家の武士が警護と言う名の監視をしている。その数はおよそ三〇〇騎というのだから、鳥羽殿でないということ以外はこれまでと同じか、あるいは今まで以上の圧力だ。なお、後白河法皇の移った先が八条坊門烏丸邸であることは共通しているが、右大臣九条兼実の日記には藤原季能邸とあるものの、鎌倉時代に貴族の日記を編纂して作成された歴史書である「百錬抄」では藤原俊盛邸であるとしているあたり、良く言えば平家がより高いレベルで後白河法皇の安全を守っていたことが、普通に考えれば幽閉解除が名目でしかないことが読み取れる。
以仁王は名目の一つを失ったが、ここで平家に対して全面降伏することは許されなかった。既に日本全国に向けて令旨を送っているのである。ここにきて令旨を白紙撤回することはできない。しかし、現実問題として平家の武力に勝てるわけはない。治承四(一一八〇)年五月一四日時点の以仁王にできたことは何としても園城寺まで逃れることであった。既に園城寺には以仁王が逃れてくるとの連絡が届いている。そして、以仁王を捕縛するための軍勢が向かってきている。
このような危機に対して、平治の乱は格好の前例となった。藤原信頼の監視下に置かれていた二条天皇が、女装した上で、中宮に同行する女官の外出ということにして内裏の監視から逃れることに成功したという前例である。このときも、以仁王は女装した上で、公家に仕える若き侍が女性を迎えて送っていくという体裁を取ったと平家物語は伝えている。何しろ二条天皇の前例踏襲なのだから、いかなる前例踏襲主義であろうと受け入れることのできる話だ。
このあたりは時間軸が不明であるが、平家物語の記述が正確だとすると、以仁王の御所である三条高倉邸におよそ三〇〇騎からなる平家の軍勢が詰めかけたのは五月一五日の子刻というから現在の時制でいうと夜中の二四時前後、すなわち日付が変わってすぐの頃である。現在のように夜でも明るいなどということはないが、この日は満月に照らされた比較的明るい夜であったという。
三条高倉邸に到着した平家の軍勢は以仁王との“面会”を求めるが、三条高倉邸に残っていた左兵衛尉長谷部信連は以仁王が不在であることを伝えた上で立ち去るよう求める。この邸宅以外に以仁王がいるはずはなく、以仁王が不在というなら家宅捜索をするとの回答が軍勢を率いる一人の出羽判官光長からあったが、長谷部信連からのさらなる回答は、ここは皇族の邸宅であり家宅捜索はおろか馬上のままであることすら許されぬことだとするものであった。たしかに、この時代の礼儀に従えば皇族の邸宅に勝手にやって来ることは無論、馬に乗ったまま応対することは大変なマナー違反であり、処罰の対象にもなる話だ。
ちなみに、このときの平家の軍勢三〇〇騎を率いていたのは出羽判官光長と源兼綱の二人である。二人目の名前を見て、源頼政の猶子がこの軍勢を率いていたのか、平家は軍勢を指揮する二人のうち一人を清和源氏に任せていたのかと思った人がいるかも知れないが、その感想は半分間違っている。出羽判官光長は一般的には土岐光長と呼ばれ、歴史書などでは土岐光長と記されることが多いが、この人の本名は源光長であり、美濃国に本拠地を持つ清和源氏の一派である美濃源氏の一員である。清和源氏を頼って反乱を起こそうとした以仁王を捕縛しに来たのが清和源氏で、以仁王を守るために邸宅に残ったのがそれまで歴史に登場したことのない姓の者であるというのは、これからの新しい時代を明示しているかのようである。もっとも、長谷部信連の祖先を遡ると清和源氏に行き着き、長谷部信連の四代前に功績により朝廷より長谷部の姓を与えられたという系図の経緯があるので、長谷部信連もまた広い意味での清和源氏の一員ではあるのだが。
話を戻すと、長谷部信連の言葉に対して怒った出羽判官光長は十数名の部下とともに三条高倉邸に突入するが長谷部信連は静まりかえった邸宅の中で孤軍奮闘し出羽判官光長の率いる十数名の部下のほとんどを斬り殺したという。平家物語では、その際に、平家方の武士から「いかに宣旨の御使をばかうはするぞ(どうして宣旨の御使にこのように抵抗するのか)」と言われたのに対し「宣旨とはなんぞ(宣旨とは何か)」と言い返したことから太刀を振るっての戦闘になったとある。
しかし、多勢に無勢である上に、武器としてきた太刀が折れてしまったために長谷部信連は自害を決意。だが、腹を切ろうにも太刀は既に折れており、その他の武器も激しい戦闘のために使い物にならなくなってしまったため、屋敷の中にいる人たちの身の安全と引き換えに長谷部信連は平家方の武士たちの前に降伏した。
やはり以仁王はいるのではないかという嘲りを伴う声も生まれたが、以仁王は邸宅内にはおらず、中にいるのは以仁王の家族たちであること、そして、以仁王の家族を守るために一人奮闘し続けていたことが判明し、長谷部信連に対する尊敬の念が武士たちの心を動かした。
長谷部信連は殺されることなく、生きたまま六波羅へと連行されることとなった。
平家物語における本格的な戦闘描写の最初は、この、長谷部信連の孤軍奮闘である。
長谷部信連はこののち、六波羅で平清盛の尋問を受けるが、その際に自分はあくまでも皇族の邸宅に侵入してきた強盗に対して抵抗したのだというスタンスを崩さなかった。ただし、後述するように平清盛がこのときどこにいたのかの消息については不明であり、六波羅で平清盛の尋問を受けたと断言できる証拠はない。
以下は平家物語の記載に準じる。
平家の武士からの証言から「宣旨とはなんぞ」という言葉とともに太刀を振るって斬り殺し回っていたことが伝えられたが、それに対しても、山賊や海賊や強盗などは「公家のおいでだぞ」とか「宣旨の御使いだ」などと名乗って自らの正統性に無駄に箔を付けてから襲撃してくるものであり、今回も武装をして襲い掛かってきただけでなく、強盗がよく使うフレーズを口上にして襲い掛かってきたのだから、邸宅を守る以上強盗に抵抗する義務があるとしたのである。
その上で、以仁王がどこに行ったかはわからず、わかっていたとしても決して口外はしないと宣言。それからは完全に黙り込んでしまった。
忘れてはならないのは、この時点で違法なのは平家のほうなのである。朝廷の許可無く武士を集めるところまでは治安維持の業務として認められるが、いかに怪しいとはいえ皇族の邸宅に襲撃を掛けることは断じて許されることではなく、相手を強盗として扱って奮闘した長谷部信連のほうが正当防衛の成立するのがこの時点での情勢なのである。
このときの平家が法に基づいて下すことができたのは、過剰防衛として長谷部信連を伯耆国の日野へ流罪とすることだけであった。
だが、このとき以降は法が平家に味方するようになった。
治承四(一一八〇)年翌五月一五日、後白河法皇より院宣が下ったのである。以仁王を臣籍降下させ「源以光」と改めた上で土佐国への配流を決定したのだ。五月一〇日時点では平清盛が怒りに任せて放った言葉であった逮捕の上での土佐国追放が、国法に基づく処分へとなったのである。もはや皇族で無くなった以上、以仁王は民間人ということになり、警察権と検察権と司法権を持つ平家が以仁王、いや、民間人源以光を逮捕して土佐に追放するのは適法になるのだ。
源氏はたくさんの系統がある。祖とする天皇の名を戴き、清和天皇の子孫であるなら清和源氏、村上天皇の子孫であるなら村上源氏となる。江戸時代に源氏二十一流としてまとめられた源氏の中には後白河天皇の子孫である後白河源氏も存在する。だが、清和源氏はその血を受け継ぐ者を列挙するだけで日本史の教科書の半分を書き記すこととなるほどであるのに対し、後白河源氏は一人しかいない。源以光、すなわち臣籍降下させられ以仁王から改名させられたその人だけである。後述するが、以仁王の第二皇子である若宮は臣籍降下の前に出家したことにされたため皇籍から僧籍に移ったという扱いになり、後白河源氏には含まれないでいる。
臣籍降下させられ「源以光」と改名させられた以仁王が行方不明になった。
その知らせに京都は騒然とし、後白河法皇は自分の息子が行方不明となったことを嘆いた。
誰もが以仁王の行方について噂し合っていた頃、誰よりも先に以仁王の居場所を突き止めることに成功したのが園城寺である。以仁王が園城寺に逃れたのだから居場所を突き止めるも何もないと言えばそれまでであるが。
なぜ以仁王が園城寺を頼ったのかの問いは簡単で、反平家で起ち上がった以仁王にとって、もっとも簡単に逃げ伸びることのできる可能性が高いのが園城寺なのだ。
まず、園城寺のトップである長吏は後白河法皇の第四皇子である円恵法親王だ。以仁王から見れば異母弟であり、兄が弟を頼るのは何らおかしな話ではない。また、源義朝の第八子で源義経の実兄である乙若丸は園城寺に預けられて出家し、円恵法親王のもとに仕える僧侶となっていた。後に法名、すなわち僧侶としての名を義円と変更するが、このときの法名は円成である。清和源氏を動かして反平家の動きを見せようというとき、円成のいる園城寺は有力な避難先となる。
また、弟の円恵法親王がいなくても、源義朝の八男の円成がいなくても、園城寺は以仁王の避難先になり得た。
治承四(一一八〇)年二月から三月にかけて、寺社勢力が結集して後白河法皇の幽閉解除と高倉院の保護を求めて武装デモを企画したことは既に記した通りである。結果は寺社勢力の不戦敗であったが、そのときはじめて、比叡山延暦寺、園城寺、奈良の興福寺の三つの寺院の大同団結が見られた。反平家の意志としては興福寺と園城寺の二者が際立っており、延暦寺は比較的平家への理解を示している。と言うより、延暦寺には平家勢力が強く入り込んでいて、平家の意向を無視できなくなっている以上、反平家の意思を鮮明に示すなどという贅沢は許されない。また、奈良の興福寺は反平家の意思を鮮明にしていても、最低でも京都から徒歩一日の距離がある。この時代の京都で最大の武力は何と言っても平家だが、平家に唯一抵抗しうる武力を持つ勢力を京都で探すとすれば、それは源氏ではなく寺院である。三寺院の反平家大同団結からまだ三ヶ月も経っていないこの段階では、反平家のために京都から逃走するなら園城寺が最良の選択肢だ。
これを園城寺の側から眺めると、それまでの劣勢を一気に挽回する絶好のチャンスを手にしたこととなる。延暦寺と争いを続けてきたとはいえ、園城寺は基本的に延暦寺に圧倒され続け防戦一方であったのがこれまでの歴史だ。二月から三月にかけて三寺院が大同団結したと言っても、主導したのは延暦寺であり、園城寺は一時的とは言え延暦寺の作戦に同調したという図式になっている。これが悔しくないはずはない。そうした鬱屈した感情の渦巻くタイミングで以仁王が園城寺に逃れてきたのである。
園城寺の中では議論が百出したが、反平家を唱える以仁王に同調し、兵を起こすべきと結論づけ、ただちに比叡山延暦寺と園城寺に向けて、第二次の大同団結を呼びかける書状を送ることに決めた。園城寺のもとには以仁王がいるとして。無論、この段階での彼らは以仁王が園城寺にいることは自分たちしか知らない秘密だと思っている。
ところが、その書状が延暦寺と園城寺に届く前どころか、書状の文面を推敲している間に、平家の元に連絡が届いたのである。
以仁王は園城寺にいるという連絡が。
しかもその書状を送ったのは園城寺のトップである長吏の円恵法親王だ。
いったい何が起こったのか?
円恵法親王から平宗盛に対して連絡が届く少し前、平家は平頼盛を以仁王の潜伏先の一つと見られていた八条殿に向かわせていた。八条殿には八条院暲子内親王がいる。暲子内親王の猶子が以仁王であり、暲子内親王は以仁王に対して内密に支援を送っているのではないかとの疑惑が持たれていた。
また、以仁王の令旨を東国に喧伝しているという源行家なる人物を新たに蔵人に任命したこと、その源行家なる人物が蔵人としての職務という名目で全国各地に以仁王の令旨を届けているところまでは平家も情報として掴めていた。ただし、この段階ではまだ源行家の素性を掴むことまではできていない。
平頼盛を八条殿に向かわせたのは、妻が乳母として八条院暲子内親王に仕えていた女性だからである。八条院暲子内親王と平頼盛は知らぬ仲ではない。
平頼盛が八条殿にたどりついたとき、八条殿には平安京の人たちが想像以上に参集している光景が目に飛び込んできた。反平家のために起ち上がろうと八条殿に結集していたのではない。反平家の武装蜂起が予期されたからこそ、自分が戦乱に巻き込まれることを危惧し、以仁王とも、平家の一員である平頼盛ともつながりがあり、かつ、資産という強大な武器を持っている八条院を頼ろうとしたのである。少なくともここに匿ってもらえるなら身の安全は期待できたのだ。
以仁王もここに逃げているだろうと平家の多くの者は考えたし、それは平頼盛も例外ではなかった。ただしここには以仁王の姿はなかった。以仁王の姿はなかったが、以仁王の第二皇子である若宮はいた。
平頼盛は八条院に詰めかけた人たちから若宮を差し出された。わずか六歳の幼児を差し出すことになろうと、それで自らの命が守られるならば仕方ないと考えたのだ。
八条院暲子内親王は自らの邸宅で展開された光景に心を痛めたがどうにもできなかった。
平頼盛はここではじめて戦乱に恐懼する平安京の人たちの世論を目の当たりにした。
自分には以仁王の捕縛が命令されている。以仁王が不在である以上、八条院で以仁王を捕縛することはできない。以仁王の第二皇子を連れて行くのであれば職務を果たしたこととなり、とりあえずこの場をやり過ごすことができる。六歳の幼児をどうするのかという非難を受けるのはやむを得ないにしても、まだ幼いこの命をどうしようというのかという世論を形成させることに成功すれば平清盛とて命を奪い取ろうなどということはあり得ない。実際、平清盛が平治の乱の後で、処刑することもできた一三歳の源頼朝を生かしたという先例がある。ここで若宮の命を助けるということで手を打ってもらえるなら、戦乱そのものがどうにかなるのではないかとの予測も成り立つ。
六歳の幼児を差し出すことで八条院に詰めかけた人たちの命は助かった。
治承四(一一八〇)年五月一五日、平頼盛、八条院に到着。
治承四(一一八〇)年五月一六日、平頼盛、若宮を六波羅へ連行。
六波羅に連れて行かれた若宮の命は、出家をすることを条件とはするものの、助けることには成功した。
ただし、戦乱の沈静化にはつながらなかった。
肝心の以仁王がいないのだ。
これで以仁王の所在が全くわからないのであれば事件の迷宮化の代わりに事態の沈静化を図ることもできたであろうが、六波羅で若宮に出家が命じられたまさに同日、園城寺長吏円恵法親王から平宗盛に、以仁王が園城寺にいることの連絡が届いたのである。平家は平時忠に以仁王の連行を、いや、民間人源以光の連行を命じた。平時忠は検非違使別当である。警察に対して犯罪者を捉えるように命じて派遣したのである。
五月一六日のうちに検非違使別当の名で平時忠から犯罪者源以光を差し出すようにとの連絡が園城寺に届けられた。自分たちしか知らない極秘情報をなぜ平家が知っているのか、その理由を調べたところ判明したのは驚愕の事実であった。こともあろうに自分たちのトップである長吏の円恵法親王が平家に連絡をとっていたのだ。これに怒った園城寺の僧たちは円恵法親王の房を破壊して気勢を上げるまでになった。
彼らには希望があった。正義感もあった。延暦寺と興福寺に書状を送れば三ヶ月前と同様に大同団結が期待できるという楽観視があった。
平家物語に記されている書状は、反平家として武器を手にして起ち上がるよう促すことを目的とするかなり洗練された文章であり、園城寺の推敲の跡が窺える。
これを比叡山延暦寺から見るとどうなるか?
大同団結というのは、脆(もろ)い。
そもそも、同じ志(こころざし)を持っているなら最初から別の存在になどなっていない。別の存在たらしめる点を大同小異という四字熟語は「小異」とし、第三者から見ても些細なこととしか考えられないと四字熟語の中で扱っているが、その些事こそが当事者にとってはどうしても受け入れることのできない点であり、その違いがあるために別の存在なのである。別の存在であり続けていることの理由を小異ということにして他の理由に立ち向かうために一時的に手を組んだとしても、本質は小異である相互の対立がある。
二月の大同団結は延暦寺にとって何の問題もないことであった。延暦寺が主導して園城寺と興福寺が協力するのであるから、延暦寺にしてみればそれまで敵対していた園城寺と興福寺が自分たちのもとに頭を下げてきた図式になる。
ところが今回は園城寺が主導する大同団結だ。これが興福寺なら延暦寺も我慢できた。互いに争う関係であるが、そもそも宗派が違う。興福寺は法相宗で延暦寺は天台宗だ。どちらの宗派が優れているかの争いも本来ならば気に食わない違いなのだが、大同団結のためならまだ妥協できる。それに、興福寺は藤原氏の氏寺だ。延暦寺がいかに自らの権勢を誇ろうと、由緒での勝負になると興福寺に軍配が上がる。しかも今回は宗教上の対立ではなく国政の問題なのであるから、藤原氏の氏寺として興福寺が主導するならば、大同団結で協力することも吝(やぶさ)かではない。
しかし、園城寺はそうではない。延暦寺と同じ天台宗だ。延暦寺に言わせれば、延暦寺こそが正統な天台宗の総本山であり、園城寺は延暦寺を頂点とする天台宗の一派に過ぎない。園城寺はそもそも、自らが間違っていましたと延暦寺に対して頭を下げて許しを乞うべき存在であり、対等どころか、上から目線で大同団結を主導するなど到底受け入れることのできる話ではないのだ。いかに以仁王が園城寺のもとにいようと関係ない。反平家のために園城寺のもとで行動するくらいならば、反平家であることを捨てる。それが延暦寺の判断であった。
以仁王は幼い頃、第四十九世天台座主最雲法親王の弟子として延暦寺にいた過去がある。そのときの以仁王は僧体であり、出家する前は後白河天皇の第二皇子であったために特別な存在であることは延暦寺の他の僧侶は理解しているが、それとこれとは別の話だ。おまけに、最雲法親王が亡くなった後に勝手に還俗し勝手に元服して俗世間に戻ったという過去もある。延暦寺にしてみれば、幼少期の以仁王は確かに自分たちの仲間であったから、以仁王の誘いに耳を傾けるぐらいはしてもいい。だが、世話してやったのに抜け出して勝手に俗世間に戻り、勝手に元服しただけならいざ知らず、こともあろうに園城寺に逃れたとあっては耳を傾ける以上のことはできない。
それでも延暦寺の中には議論百出があったようで、少なくとも五月一九日時点では延暦寺として園城寺とともに武装して起ち上がるべきとの意見が無視できぬ声になっていた。また、五月二二日におよそ三〇〇名もの僧兵が反平家で起ち上がったとの記録もある。しかし、延暦寺からの回答は園城寺に同調しないというものであった。
これには平家からの裏工作もある。平家とて二月から三月にかけての大同団結を忘れているわけない。それどころか強く鮮明に記憶に残っている。そして、これは平家だけではなく京都に住む全ての人に共通することであるが、僧兵勢力でもっとも恐ろしいのは比叡山延暦寺の僧兵である。以仁王が園城寺に逃げたという連絡を受けた瞬間、平家は延暦寺の切り崩しを図ることにした。平清盛から天台座主明雲へ要請が送られたのだ。平清盛と一対一で会合したという説もあるが、後述するように平清盛の消息は五月二六日にならないと判明しておらず、その消息も福原から上洛してきたというものであるため、平清盛が天台座主明雲と直接会った可能性は低い。
平清盛からの要請を天台座主明雲が受け入れたことで、平清盛は延暦寺の中立を取り付けることに成功した。延暦寺が平家の側として起ち上がるのは最良の結果だが、今までの確執を考えればそんなものは期待できない。しかし、延暦寺に現実を理解してもらった上で、延暦寺の内部で園城寺との対立感情を煽り立てることができれば、武器を手に起ち上がろうという動きを封じてもらうことができる。平家物語では見返りとしてコメ二万石と織延絹三千疋が平家から延暦寺に支払われたとある。現在の貨幣価値にして一〇億円に達する途方もない金額である。平家物語の創作した数字である可能性もあるが、マクロ経済についてはともかく、ミクロ経済についてならば理解していた平清盛のことだ。高くはつくがより大きな損害と比べれば充分に差し引きゼロどころかプラスにさえなると考える金額の負担を選んだとしてもおかしくはない。
延暦寺から武装蜂起拒否の回答を受け取った園城寺の立場で考えると、これで怒らないほうがおかしい。怒りは人から冷静さを失い正常な判断力を消し去ってしまう。本来であれば出家して仏門に身を投じることで俗世間の煩わしさを捨て去っているはずなのが僧侶としてのあるべき姿であるが、延暦寺からの回答は僧侶としてのあるべき姿を忘れさせるに充分な回答だ。
そこに、以仁王がいることによる反平家の大義名分が加わる。ただでさえ円成を抱えている園城寺に以仁王まで加わったことで、平家を打ち倒すべしという意見で団結した僧侶たちは、正義は我らにありとして、反平家と反延暦寺を旗印に起ち上がったのだ。
正義とは麻薬だ。巨大な敵に立ち向かっている自分の姿に酔いしれるのは、日常生活を破壊し、周囲を不幸にする。しかも常習性があり、ついでに言えば一円の価値も生まない。おまけに正義という名の麻薬の厄介なところは、薬物である麻薬よりもタチが悪く、薬物に溺れる人の多くが体験するような孤独感から逃れることができてしまう。孤高の正義の味方というのはほとんどがフィクションであり、実際には正義と言う名の麻薬に溺れる人たちが集まり、正義の実現を目指す徒党が生まれる。徒党を組んでいる間は自らの正義に好きなだけ溺れていられる上に、何をしても咎められないと思っている。それで被害が生まれようと正義のためのやむをえぬ犠牲であり、それに文句を言うのは倒すべき悪になる。そして、正義という名の麻薬に溺れている間は、何も生まず、何も学ばず、ただ堕落していくのみ。それが正義というものの正体である。悪が存在するから正義が存在するのではない。正義であり続けるために次の悪を必要とするのである。園城寺の僧侶たちにとっては、反平家に燃え、そして今や反延暦寺に燃える自分たちこそが正義の集団であり、正義を旗印に悪と戦うことに高揚感に満ちている。だが、仮に反平家の思いと反延暦寺の思いの双方が成就したとしても、正義が解散することはない。次なる悪を探して攻撃し続けることとなる。
現実を眺めることのできる人は、正義という名の麻薬に溺れている人たちから距離を置ける。ところが、数少ない園城寺でのそうした人を、他ならぬ園城寺自身が追放してしまっていた。園城寺長吏である円恵法親王だ。自分に仕える円成が反平家の感情を隠さずに園城寺の中に反平家感情を撒くことで、園城寺の僧侶たちに反平家感情を植え付けることに成功した。これでもし、反平家として武器を持って起ち上がろうものなら園城寺は平家と全面戦闘状態に入る。そのとき流されることとなる血の量、そして、失われることとなる命の数は計り知れない。円恵法親王は園城寺長吏として平宗盛に連絡を届けた。以仁王は園城寺にいると。
正義に燃える人たちにとって、現実的な指摘というのは怒りを呼び起こす言葉になる。客観的には現実的な指摘の方が正しくても、正義の麻薬に取り憑かれた人が怒りを帯びているときは、現実的な指摘が絶対悪になる。怒った園城寺の僧兵たちが円恵法親王の房を破壊して気勢を上げるまでになったのはその例だ。
この正義感に燃える園城寺の僧兵たちを更に燃え上がらせるニュースが飛び込んできたのが治承四(一一八〇)年五月二二日のことである。
何が起こったのか?
二つある。
一つは奈良の興福寺からの武装蜂起許諾の書状の到着。
もう一つは、源頼政の率いる軍勢の園城寺到着である。
カレンダーを一日戻して治承四(一一八〇)年五月二一日に目を向けると。この日、平家が園城寺に向けて軍勢を進めることとしたと記録に残っている。ただし、軍勢を進めるという決定だけがされており、実際に軍勢を組織し終えて出陣となったわけでは無い。
なお、このときの軍勢派遣命令の中には源頼政も含まれている。含まれているどころの話ではなく、平家は軍勢指揮権を、平頼盛、平教盛、平経盛、平知盛、平重衡、平維盛、平資盛、平清経、源頼政の九名に与えているのである。姓を見ればわかるとおり源頼政以外は平家だ。平清盛は近親者八名プラス源頼政という軍勢で園城寺への攻撃を命じたのである。既に引退して出家した身であり、七七歳という高齢でもあったにもかかわらず、平家は源頼政を軍勢に加えさせたのだから、平家の面々は源頼政の軍勢指揮能力を信頼していたのであろう。以仁王の令旨の裏側を知らずに。
源頼政はここで行動を起こした。源頼政率いる軍勢が出発した直後、源頼政の邸宅が何者かに放火されたのである。そのことを源頼政に伝えようとしたが、平家の軍勢の中に源頼政らの姿がいない。いったい何が起こったのかと思って調べて見てはじめて、源頼政らの軍勢が園城寺側に参加するために平家の軍勢から離脱したと判明したのだ。源頼政の邸宅が焼け落ちたのは、確かに放火ではあったが、源頼政の命令による放火だったのだ。後には何も残さないとして。なお、平家物語では三〇〇騎が園城寺に向けて出発したとあるが、実際には五〇騎ほどの離脱であったという。その規模が源頼政の率いることのできる上限であったこともあるし、その人数だからこそ平家の目の届かぬ間に園城寺へと向かうことができたとも言える。
さらに平家物語の記載について記すと、平家物語はここで一つの逸話を入れている。平家物語の生みだした虚構である可能性が高いが、おつきあい願いたい。
源頼政の家臣の一人に渡辺源三滝口競という武士がいた。本名は源競(みなもとのきそう)といい、一般的には渡辺競(わたなべ・きそう)という名で知られている。源氏には祖先となる天皇の違いによってたくさんの家系があり、その中でも嵯峨源氏は源氏最古参として他の源氏にはない特色を持っていた。名前を漢字一文字とするという特色である。名を漢字二文字とすることが多かったこの時代において、漢字一文字の名前であるというのはそれだけで嵯峨源氏であることを示していると言っても良いほどである。源競が渡辺源三滝口競と呼ばれるようになったのも、嵯峨源氏のうち渡辺を苗字とするようになった家系の三男として生まれた者であり、滝口の武士として朝廷に務めるまでになった人であることを意味する。
かつては朝廷において藤原氏を越える権勢を誇っていた嵯峨源氏であるが、時代とともに貴族としての地位を失って地方に移住するようになり、源の姓ではなく移住した地域名を苗字とするようになった。渡辺もそのうちの一つで、同じ渡辺を苗字とする嵯峨源氏としては、藤原道長に仕えた頼光四天王の筆頭である渡辺綱(わたなべのつな)がいる。渡辺競が鬼退治でも有名な渡辺綱の直系の子孫であるという証拠は無いが、渡辺競にとって渡辺綱は、貴族として君臨していた先祖たちよりも誇りとする先祖であった。祖先をたどれば源頼光に仕える渡辺綱に行き当たることから、先祖代々清和源氏に仕えてきた武士であるという自負を持ち、源頼政に仕えていたのである。
その渡辺競が何をしたのか?
渡辺競は源頼政に仕える武士の一人であり、本来であれば源頼政とともに園城寺に行くべきところであったが、どういうわけか平家方の軍勢に留まっていたのだ。
平宗盛はなぜ平家のもとに留まるかと渡辺競に問い、渡辺競は平宗盛に応えた。先祖代々清和源氏に仕えてきた特別な感情はあるが、朝敵となった以上、源頼政に味方することはできないと。平宗盛は渡辺競をこれからは自分の家臣になるように誘い、渡辺競は平宗盛のもとに仕えるようになった。
渡辺競は以前から評判が高かった。特に弓矢の技術が高く平家のどの武士も渡辺競には太刀打ちできぬと観念していたほどである。おまけにこの人は絶世の美男子としても評判であり、馬上の姿は多くの女性を虜にさせてきた。いや、虜にさせてきたのは女性だけで無く男性も同じであり、男色が珍しくなかった時代にあって渡辺競の凜々しい姿は同性愛の相手として言い寄ってくる男性も生みだしていた。保元元(一一五六)年の保元の乱にも参加したという経歴があるから治承四(一一八〇)年時点の渡辺競は断じて少年とは呼べない年齢であるが、それでも、かつて美少年との評判の高かったことの面影は年齢を重ねるにつれて凜々しさへと昇華し、武士としてだけではなく外見が評判を呼び寄せるようになっていた。平宗盛にしてみれば、周囲から羨む人材が、信念のもとに自分のもとにやってきた、それも全く予期せぬところからやってきたのであるから、ありがたいことこの上ない。
渡辺競も平宗盛のもとに仕えることは喜ぶべきことであるとしたが、条件があった。自分はここに残ると仲間に告げたために、かつての仲間に馬を盗まれてしまったというのである。その上で、平宗盛から馬を一頭借りたいと申し出たのだ。それが平宗盛のもとに仕える条件である。
平宗盛は条件を受け入れて渡辺競に自分の愛馬の一頭を与えた。馬上の渡辺競の姿は渡辺競自身の美貌に加え馬の美しさによっても醸しだされるものである。平宗盛は愛馬のうちの一頭である「煖廷(なんりょう)」を渡辺競に渡し、実際に乗せてみた。源頼政のもとで仕えていた頃は遠くから眺めるしかできない凜々しい武士が、その頃の美しさをはるかに超える美しい武士となって平宗盛の前に現れた。童話などで「白馬に乗った王子様」などというフレーズがあるが、煖廷(なんりょう)は白馬である。白馬に乗る絶世の美男子である武士というのが絵になる光景になるのはこの時代にはもう存在していたということか。
評判の名馬を受け入れた渡辺競は、早く明日の朝にならないものかと言った。明日の朝に平家の一員として皆とともにと園城寺へ攻め込み、朝廷を裏切ったかつての主君を討ち取るつもりだという意思を示したのである。
そして実際に日が昇って朝を迎えたとき、渡辺競はいなくなっていた。煖廷(なんりょう)もいなくなっていた。渡辺競の家族も居なくなっていた。渡辺競の屋敷は放火されて燃えていた。
その後、煖廷(なんりょう)だけは戻ってきた。正確に言えば夜闇に乗じて六波羅に戻されていた。
煖廷(なんりょう)には焼き印が押されていた。
「宗盛」という焼き印が。
平宗盛はかつて、源頼政の息子である源仲綱の愛馬である木下(このした)を強引に取り上げただけでなく、「仲綱」の焼き印を押して馬の名前を木下(このした)から仲綱へと変え、皆が見ている前で、「仲綱めに鞍を置いて引き出せ、仲綱めに乗れ、仲綱めをムチでたたけ」と源仲綱から取り上げた馬をいたぶっていた。このことを耳にしたことで源頼政は反平家に起ち上がったというのが平家物語の訴えるところである。
このエピソードが実話であるかどうかはわからないが、実話だとすれば源頼政に仕えていた渡辺競が知らないわけはない。その上で、平宗盛から愛馬を一頭奪っただけでなく、その愛馬に「宗盛」と名付けて焼き印を押して平宗盛の元に返したのである。
平宗盛は激怒し、渡辺競を生け捕りにしてノコギリで首を切り落としてやると息巻いたが、後の祭りである。
平家物語は元からして平宗盛を過剰なまでに無能な極悪人として描いている作品でもある。このエピソードを見ると平宗盛の悪辣さが成敗される情景となるが、そもそもこのエピソードそのものがあったかどうかも疑わしい。ただし、このようなエピソードが挿入されることが、平家政権に対する庶民感情の正直な発露であるという捉え方もできる。
先に、園城寺攻撃の指揮を執る九名を列挙した、そのうち八名は平清盛の近親者で、残る一人が平家と袂を分かって園城寺に向かった源頼政であることを記した。
ここで、その九名を整理してみる。
かつてであれば、このような軍勢の指揮は平重盛に委ねることができたが、平重盛が亡くなってしまった以上、残された平家の面々の中からリーダーを選ばなければならないのであるが、そのリーダー争いは混沌としていた。それが、八名もの指揮官を送り込む結果となり、八名が八名とも決定的なリーダーになれないことが判明したために、彼らをまとめ上げ、彼らの補佐役として軍勢指揮を支えることを期待して選ばれたのが源頼政である。源頼政は七七歳と高齢であったが、百戦錬磨の経験を積んでいる。それまでの平家への功績を考えても抜擢されることに違和感はなかった。この以仁王の令旨のスタートであり、また、真っ先に平家の軍勢を離脱して以仁王の側に立つために園城寺に向かったことを考えなければの話であるが
かつてであれば平忠盛の五男で平清盛の弟である平頼盛をリーダーとできたが、この人は治承三年の政変で地位を追われた人である。平家の他の面々と一線を画しているところもあり、能力は問題ないのだが平家の中での評判となると疑問符が付いていた。
平頼盛より武人としての能力は劣るものの、同じく平清盛の弟である平経盛と平教盛の兄弟も参加していた。
平忠盛の三男である平経盛は母の身分が低かったことと武士としての能力が低かったことから平家の中ではさほど重要視されていなかったが、人付き合いという点では能力を発揮しており、多くの貴族と親交を深めている。また、武士としての訓練ならば一応は積んでいるので、ある程度までであれば軍勢を指揮することも可能だ。
平忠盛の四男である平教盛は後白河法皇の院近臣でありながら、兄の平清盛に対しても従順な態度に終始していた。また、武士として軍勢を率いる能力も決して低くはなく、自分ではない誰かが事前に充分な作戦が練ったのであれば作戦通りに行動することが期待できた。しかし、作戦も立てることなく命令も下されることがないとなると、途端に軍勢指揮統率ができなくなってしまう人でもあった。
軍勢指揮権となると、平清盛の弟たちの他に平清盛の息子たちの名が挙がる。このときも平清盛の四男である平知盛と平清盛の五男である平重衡の二人に対して指揮命令権を与えられている。特に平知盛は、軍勢指揮能力だけを見ればこのときに選ばれた九名の誰よりも優れており、事前に作戦を立てるのも、臨機応変に軍勢を動かすのも、平重盛の穴を埋めるに充分な才能を発揮していた。ただ、この人は五月八日に重病となり、五月一二日にようやく起き上がることができるようになったという体調である。まだ完全に平癒したとは言えず、病を抱えたままでの出陣になっていた。
平清盛の五男である平重衡は対人関係を取り持つことに定評があったものの、自身が軍勢を指揮することについては未知数であった。後にこの人が軍勢を指揮して奈良で何をしたかを知っている人であれば指揮官としての平重衡に対する先入観もあるであろうが、治承四(一一八〇)年五月時点の人における平重衡は、九名という大人数の指揮官たちの間に立って全体の人間関係を調整することを期待されていた。
残る三名は亡き平重盛の子である。平重盛の長男である平維盛、次男の平資盛、三男の平清経の三名である。これも後の先入観から判断してしまうが、治承四(一一八〇)年五月時点で考えると、指揮権を与えて園城寺に向かわせるのは、今後の平家のことを考えると武人としての実践教育として適切な話である。
そして注意していただきたいのが、ここに平清盛の三男である平宗盛がいないことである。平宗盛という人は平家物語で散々に罵倒されている人であるが、このときの平家の指揮を誰が執っていたかを考えると、平宗盛が執っていたことが考えられるのだ。実際に武具を身につけ戦場に向かう立場からすれば後ろの安全なところで指揮を執るのかという不平不満もあるだろうが、情報伝達や物資補給を考えたとき、後方からの指揮というのは決して軽んじることのできるものではない。それは後に源頼朝が証明するところである。
それに、戦闘が予期される局面で平宗盛に軍勢を扱わせることは困難であった。経験も無ければ武士からの人望も無いのだ。その代わりに貴族としての地位となると平宗盛がトップに来る。平宗盛は正二位の位階を持っているものの公的地位は前権大納言であって現役の議政官ではない。平家で現役の議政官であるのは権中納言である正二位平時忠、同じく権中納言である正三位平頼盛、そして参議の正三位平教盛の三名であり、そこに平宗盛の名は無い。平家を貴族としての序列で並べると、ただ一人正二位である平宗盛が現職の官職に関係なくトップに立つこととなるのだ。
平時忠も平宗盛と同じ正二位ではないかと考えるかも知れないが、官職となると、現職の権中納言である平時忠よりも前職ではあっても権大納言にまで進んでいた平宗盛のほうが先に立つこととなる。それに、平時忠は平家の一員ではあっても武士ではない。検非違使別当であるから警察権力の行使はできるが、平家の武士を指揮させて軍勢を成立させるのは無謀な話だ。できるとすれば、警察権力の行使のために軍勢指揮の訓練を積んだ別の者に平家の武士を動員させることができるかどうかが限界となる。この、警察権力に対する平家の武士の動員については後述する。
一方、平宗盛は武士である。平清盛の実の息子なのだから平家の武士たちを指揮することも不可能ではない。だが、武士ではあるが、平宗盛は武士としての訓練を全く積んでおらず戦闘において計算できる人材とはなっていない。その代わり、平家の人材不足を解消するためもあって平宗盛は政治家としての訓練ならば積んできた人生を歩んできており、政務においては平家のトップたるに値するリーダーシップを発揮できていただけでなく、政治家として庶民の支持を獲得することにも成功していたのである。たしかに治承三年の政変では軍勢を率いてもいるが、それは政治家として平清盛の作戦を遂行する一環としての話であり、武士を引き連れて動いたことまでは事実でも戦闘を起こしてはいない。
このときの園城寺への行軍は明らかに戦闘を前提とした行軍である。そのような行軍に位階だけは高い平宗盛を連れて行ったらどうなるか?
勝てる戦いも負けることになる。
平家はこれから戦いをしに行くのだ。戦いを知っている者の上に戦いを知らない者が立つのは、シビリアンコントロールと言えば聞こえは良いが、勝利を目の前にしながら敗北を手にする軍勢で起こることでもある。
しかし、後方にいて誰にどこの戦場に向かわせるかの命令を出させ、武器と武具と兵糧の確保と補給をさせ、安全な後方に居続ける代わりに責任を背負わせるという点であれば平宗盛は計算できる存在であった。無論、武人としても政治家としても一流であった平重盛には遠く及ばないが。
園城寺が反平家に起ち上がったことのニュースは、治承四(一一八〇)年五月二三日にはもう平安京に届いていた。
一方、六波羅の動きは静かである。源頼政が園城寺に向かったというニュースが届いたのを最後に軍勢の移動が全く見られないのだ。
このことから、平安京内外では様々な噂が広まった。
最初に広まった噂は僧兵の蜂起である。噂は次第に具体的になっていき、比叡山延暦寺からおよそ三〇〇名の僧兵が延暦寺を脱出して園城寺に協力すべく向かっているという噂や、興福寺の僧兵が挙兵したという噂が広まり、京都と京都近郊の武士たちが慌てて家中の雑物を運び出して家族を安全な場所に避難させているという噂も広まった。さらに、平清盛が、安徳天皇や後白河法皇、高倉上皇を連れて福原に向かうのではないかという噂まで広まると、竜巻からの復旧について全く動かなかったことも合わさって平家は京都を見捨てるのだという噂も合わさってその日のうちに噂はさらに加速し、貴族全員が福原に向かうことになるとする噂を経て、庶民だろうと貴族だろうと関係なしに、平安京内の全ての人が福原に連行されることになるという噂へと発展していった。
これは根も葉もない噂というわけではない。五月二三日時点の平清盛は消息が不明なのである。比叡山延暦寺に対して園城寺と同調しないよう折衝するにあたり、天台座主明雲に対して平清盛が要請を送ったという記録ならば平家物語にはあるが、直接会ったとは書いていない。すなわち、京都とその近郊に平清盛がいたという証拠は無い。そして、平清盛の消息が確実に判明するのは五月二六日になってのことであり、その記録も福原から京都に戻ってきたというものである。このときの庶民の間の中では、未確認情報ではあるものの、このときの平清盛は福原から動かずにおり、その理由は福原のほうが京都より安全だからという共通認識が築かれていたのだ。
情報の不足は平清盛の消息だけではなく、京都だけで起こっていることでもなかった。当事者である園城寺の側にも平安京内の様子や六波羅の様子は園城寺には届いていなかったのである。最後に届いている情報は、源頼政からの平家が軍勢を向けてきているとの知らせである。
この知らせを受けて園城寺では議論百出の状態となった。
ある者はこのまま園城寺に籠もって平家の軍勢と迎え撃つことを主張し、ある者は園城寺からも軍勢を進め、陣を敷いて平家と対決することを主張した。
その中で大勢を占めたのが、園城寺から夜襲を仕掛けることであった。まず、白河へ進んで民家に火を掛ける。この時代の平安京最大の建造物である法勝寺の九重塔は平安京の多くの人から目にすることができる白河のランドマークであり、そのあたりで火災が発生したとあれば平安京の中の武士や六波羅の武士が詰めかけることとなり、六波羅の防御に隙ができる。そのタイミングを狙って六波羅に襲撃を掛ければ六波羅にいる平清盛を討ち取ることができる。平家の恐ろしさは平清盛が頂点に立つ完全なるトップダウンの組織構造ができあがっていることにある。平清盛からの指揮命令が末端まで行き届く仕組みができていることで平家の軍勢は機動的に動き作戦を遂行できるようになっているのが平家の強みであるのだが、平清盛の軍勢指揮能力が高いからこそ、平清盛の代わりを務めることのできる人材がいないというのが平家の弱点となる。平重盛が健在であるなら平重盛がその任にあたることができたのだが、平重盛はもう故人である。
園城寺の立てた作戦は迅速さが求められた。夜闇に乗じて白河に足を運んで火を放たないと成立しないのだから、園城寺を出発して京都に向かうまでの移動時間を考えると悠長なことを言っていられない。それなのに園城寺の会議は長時間に亘った。特に、阿闍梨真海は、平家の武力の巨大さに加え、そもそも六波羅にどれだけの兵力がいるのかわからないのにそのような計画は無謀であり、時間を掛けて作戦を練った上で軍勢を集めて攻撃すべきであると主張したことで議論は延々と伸びることとなった。
時間だけが経過していくことに業を煮やした阿闍梨慶秀は、阿闍梨真海の言葉を遮って今すぐ攻撃を仕掛けるべきと主張。これに多くの者が賛同し、治承四(一一八〇)年五月二三日、平家物語によると源頼政率いる一〇〇〇騎の兵が出陣、また、平家の軍勢は源仲綱が一五〇〇騎の兵を率いて迎え入れることとなった。源頼政は奇襲を仕掛けに行くのだから一〇〇〇騎でも理解できるとしても、平家の軍勢を迎え撃つのに一五〇〇騎ではさすがに少ないと思うかも知れないが、それはさすがに対応している。足跡ではあるが掘を作り、逆茂木を立てて防御を固めていたのである。逆茂木というのは棘のある木や枝を上下逆にして地面に植えて敵の侵攻を食い止めるための防御壁のことで、現在で言う鉄条網に相当する。用意できる兵力で平家を迎え撃つには、不充分ではあるが何もしないよりははるかにマシであった。
なお、何度も記すことになるが、この人数は平家物語の伝える人数である。平家物語は人数について過大記載するところがあるので実数はもっと少ない。だいいち、源頼政が動かすことのできる武士は五〇騎ほどである。しかも息子と分け合うのであるから実数はもっと少ない。興福寺の僧兵の協力を得られたとしても、かたや一〇〇〇騎、かたや一五〇〇騎という数字を叩き出すことは難しい。その一〇分の一でも多すぎるほどである。実際には源頼政が一〇〇騎未満、源仲綱が一五〇騎未満であったろう。
園城寺ではこの状態で平家の軍勢を待ち構えていたのであるが、夜が明け、園城寺が最初に目にした軍勢は舞い戻ってきた源頼政の軍勢であった。夜襲だから成功する可能性のあった作戦であったのに、現地に着く前に夜が明け始めてきてしまったため作戦決行を断念して戻ってきたというのである。
これで園城寺の立てた計画は完全に白紙に返すこととなった。
そして、園城寺の中で怒りが渦巻くこととなった。何もせずに戻ってきた源頼政に対してではなく、時間を浪費させて作戦を失敗させたとして阿闍梨真海に対する怒りが爆発したのである。
園城寺の若い僧兵たちは、平家に対する怒りをそのまま阿闍梨真海に向け、阿闍梨真海の宿坊を襲撃し、阿闍梨真海の弟子たちと乱戦となった。ここで数十名の僧が命を落としたというが、命を落とした僧の中に阿闍梨真海はいなかった。阿闍梨真海は園城寺からの脱出に成功し六波羅にまでたどり着くことに成功していたのである。
阿闍梨真海という僧についての詳伝はわからない。治承四(一一八〇)年時点で既に老僧であったことは判明しているが、どのような人生を送ってきた僧侶であるのかが不明なのである。
ただし、一つだけヒントとなる記録がある。
織田信長の祖先をたどると平親真という人物に行き着く。この平親真は鎌倉時代の人なのだが、越前国丹生郡織田荘を所領とするようになったことから織田親真と名乗るようになった人であり、歴史上初めて織田を苗字とするようになった人である。そしてこの平親真の母は、阿闍梨真海の姪であるという。一般的に流布している説では平親真の父を平資盛としているが、そうすると平資盛と平親真との年齢差がおかしなことになってしまうので現在ではその説が否定されているが、少なくとも織田信長の頃はその説が信じられていた。
織田信長が自らの系図を桓武平氏に求め、朝廷に対して平信長と名乗るようになったのは歴史的事実である。そして、その祖先に平資盛だけでなく阿闍梨真海も持ち出していることは、後世の人たちにとって、阿闍梨真海が平家と深いつながりのある人物であったことが周知の事実であったことを意味する。阿闍梨真海自身が平家の人間でなくとも、園城寺での会議を長引かせて攻撃を破綻に追い込んだことは人口に膾炙されることになっていたのである。
阿闍梨真海はたしかに平家の味方をするように議論を長引かせ、それにより園城寺の立てた計画は失敗に終わったことは否定しようのない。ただ、阿闍梨真海の言葉には真実であったことも存在した。六波羅にどれだけの兵力がいるのかわからないのに攻撃をしようというのは無謀だという言葉である。六波羅に逃げ込んだ阿闍梨真海が目の当たりにしたのは平家の数万の軍勢であったという。いかに軍勢を指揮する源頼政の能力が優れていたとしても、たかが一〇〇〇騎程度の軍勢ではひとたまりも無い。人数の誇張は平家物語の常であり六波羅に詰めかけている武士の数も、奇襲を仕掛けようとする源頼政率いる軍勢の数も実際にはもっと少ない人数であったろうが、それでも園城寺の軍勢と衝突することになったら作戦以前に人数差で平家が圧倒していたことは断言できる。
治承四(一一八〇)年五月二五日、園城寺は既に危険な状態にあるとし、源頼政は以仁王に対して奈良の興福寺の元へ逃れるべきと進言した。奈良からは既に、覚明(かくみょう)という僧侶から以仁王の令旨に呼応して起ち上がるとの回答が届いていた。なお、その文面はかなり過激で、現代語訳すると「平清盛は平家のカス、平家は武家のゴミ」というものである。この文面を知った平清盛は激怒して、奈良からの返書を記した覚明(かくみょう)を捉えて首を刎ねよと命令したという。ちなみに、この命令を知った覚明(かくみょう)が逃亡した先が木曾義仲のもとである。
興福寺の心強い回答に安寧を覚えつつ、阿闍梨真海に対して怒りをぶつけたところで園城寺の危険が消えて無くなることはない。園城寺が迎える運命は目に見えているが、以仁王の令旨が無かったことになるわけではない。時代は既に反平家へと動き出したのである。
以仁王とともに園城寺から奈良へと向かうことができたのは、平家物語の伝えるところではおよそ一〇〇〇名という数字である。繰り返して記すが平家物語は数字を誇張するところがあるので、実数はもっと少なく、どんなに多く見積もっても一〇〇騎ほどであろう。それでも、源頼政の率いる武士に加えて園城寺の僧兵たちを足した純戦闘集団プラス以仁王という構成であり、戦闘において足手まといにしかならない園城寺の高僧たちは園城寺に留めさせられた。僧侶としての実績や地位ではなく、武器を持って戦うことができるかどうかだけが選抜基準となったのである。
同時に、僧兵はこれまで園城寺の僧侶ということになっていたが、以仁王に付き従うことになった瞬間、園城寺の籍から外され、どの寺院にも属さない僧侶であるとされた。
阿闍梨真海の言葉を遮って攻撃を開始させることに成功した阿闍梨慶秀は園城寺の中でもかなり強固な反平家のタカ派であったが、年齢は既に八〇歳に達しており、武器を持って戦うどころか歩くことも困難となっていた。その阿闍梨慶秀すら園城寺では特異な存在ではなく、園城寺に残される僧侶の多くは阿闍梨慶秀ほどではないにしても高齢で、とてもではないが興福寺まで連れて行くことはできない。そんな阿闍梨慶秀らを守ることのできそうな、そして園城寺を守ることのできそうな僧侶はことごとく以仁王とともに行動することになったため、園城寺に残された僧侶たちに残されている運命は誰の目にも明らかになっていた。明らかになっていたからこそ、持って行くことのできる宝物や思い出の品を源頼政らに託す光景が見られた。
以仁王が園城寺を出発したのは治承四(一一八〇)年五月二五日の夜半である。そして、次の記録は翌五月二六日のこととなる。
以仁王は既に限界に達していた。園城寺から興福寺に向かう途中で宇治を通るが、園城寺から宇治まで至る間に六回も落馬をしたというのである。理由は明白で、寝不足だ。一日だけの寝不足ではなく令旨を出してからずっと、いや、その前から以仁王の受けていたストレスは既に限界に達していたのである。いかにこの時代の人権意識が現在より劣悪でも、この状態にある人にこれ以上無茶をさせるとどうなるかはさすがにわかる。そして、以仁王らの一行は宇治にいる。宇治には平等院がある。平等院は数千人の軍勢でも滞在させることができるだけの空間を持っているし、皇族の方々を宿泊させるに充分な設備も持っている。
さらに、平等院は宇治川の南にある建造物だ。宇治川に架かる宇治橋を外せばそれだけで宇治川が天然の防壁となってくれる。現在の宇治橋はコンクリートで頑丈に作られているためダイナマイトでも用いなければ人為的に破壊するのは困難であるが、この時代の宇治橋は木造で、橋そのものを解体せずとも橋板を外すだけで、それも部分的に外すだけで簡単に橋の機能を喪失させることが可能となる仕組みになっていた。本来なら奈良の興福寺まで一気に移動する予定であったのだが、以仁王がこの状態であるまま宇治の地で最低でも一泊は留まる必要があったのだから、宇治の地でできる防御手段は全て選ばなければならなかった。
以仁王が源頼政らとともに園城寺を出て奈良の興福寺に向かったことは六波羅の平家のもとにも情報として届いていた。
平家物語では平知盛と平重衡の二人の弟を大将とする軍勢を組織して奈良へと向かわせたとあるが、実際の出動記録にあるのは平家の軍勢ではなく検非違使の藤原景高と藤原忠綱の二人の率いる軍勢である。また、平家物語ではこのときの軍勢を平家率いる二万八〇〇〇騎としているが、右大臣九条兼実はその日記で検非違使の率いる三〇〇騎ほどの軍勢であったとしている。おそらく、九条兼実の日記が正しくて平家物語の数字が必要以上に誇張された数字であったとすべきであろう。なお、出発日時は現在の時制にすると治承四(一一八〇)年五月二六日の朝四時頃となるのはこのあとの記録から踏まえると不都合では無い。
検非違使の派遣する軍勢であるとは言え、平家が軍勢を全く動かさなかったというわけではない。少なくとも平重衡と平維盛の二人の率いる第二陣の編成はしている。また、推定ではあるが、検非違使の藤原景高と藤原忠綱の二人に率いさせる軍勢の中には平家の武士も含まれていたのであろう。忘れてはならないのは、五月二六日時点の検非違使別当は平時忠であり、藤原景高と藤原忠綱の二人は平時忠の部下なのである。平時忠は確かに武士としての伊勢平氏ではないが平家の一員である貴族であり、検非違使別当として警察権力を行使するために平家の武士を動員することはできたのである。
検非違使に出動を命じたということは、名目はあくまでも犯罪集団の取り締まりであって、事実上はともかく理論上は軍事衝突を目的としたものではないということになる。その多くが平家の武士であろうと、国法に基づいて行動しているのは検非違使の藤原景高と藤原忠綱の二人が率いる軍勢の側ということになるのだ。ここで万が一のことがあったら、政治的には前権大納言である平宗盛が、軍事的には左兵衛督である平知盛が全面バックアップした上で、平重衡と平維盛の二人の率いる第二陣が国法に基づいて出陣することとなる。平知盛自身が軍勢を率いたと平家物語には記されているが、実際には、この時点ではまだ平知盛の軍勢指揮はとられていない。
興福寺へと進軍する、平家物語の言うところの平家の軍勢、この時点での国法に従えば検非違使率いる軍勢のもとに飛び込んできたのは、以仁王らは興福寺までまだ到着しておらず、途中の宇治で休憩しているという情報である。ここまで情報が集まれば休憩しているのは平等院であろうという推測は容易に立てることができる、と言うより、この時代の宇治で平等院以外に皇族が休憩できるような施設は無い。
京都から奈良に向かう道はこの時代の多くの人が歩いて通ってきた道である。宇治橋を渡ると目の前に平等院があることもまた、この時代の人であれば慣れ親しんできた光景である。軍勢を指揮する検非違使の藤原景高と藤原忠綱の二人は兵士たちに、目標は興福寺ではなく平等院であることを告げ、部隊の一部に宇治橋を渡るよう命じた。
宇治橋に向けて一気に走って突入していった面々は、宇治橋に用意された源頼政の計略を知った。宇治橋の橋板が外されて宇治川を渡れなくなっていたのだ。
両軍の間には宇治川が流れ、宇治川には宇治橋が架かっている。現在の宇治橋は乗用車でも問題なく通れる比較的平坦な構造になっているが、乗用車のことなど考えなくていいこの当時の宇治橋は、中央部が高くなっている文字通りのアーチ型構造になっている。つまり、陣を敷いた側から宇治橋を眺めると、宇治橋の真ん中あたりにある最頂部までは見えるがそこから先は見えないようになっている。しかも、時期は旧暦五月。現在のカレンダーにするとまさに梅雨の時期の最中で水かさが増し、水の流れも速くなっている。
平家物語には、宇治橋の橋板が外されていることを後続の仲間に告げるも、一気に宇治橋を渡ろうとする面々の勢いに圧倒されて二〇〇騎以上の武士が橋から落ち宇治川に流されていく様子が描かれているが、同時代の記録によるとそのような被害は出ていない。宇治川に落ちた武士は一人もいなかったか、あるいは落ちた武士がいたにしても平家物語にあったような大量の死傷者とはなっていなかったであろう。
橋板が外されているのを理解した軍勢は、改めて宇治川の北岸に陣を敷いた。
平等院の側でも検非違使の軍勢が向かっていることは確認されたため、源頼政は宇治川を防御壁とすべく宇治川の南に陣を敷いた。もっとも、既に述べたように平家物語の数値に従えば平家の兵力は二万八〇〇〇騎を数えるのに対し、源頼政の用意できた兵力は一〇〇〇騎。正面からぶつかって勝てる兵力差では無い。ちなみに、九条兼実の日記に従って数字を補正しても三〇〇騎対一〇〇騎であるから検非違使の軍勢のほうが多いことに違いは無い。
互いに陣を敷いたのを確認した後、双方から戦闘の開始を告げる鏑矢(かぶらや)が放たれた。通常の矢は先端に刃物などがついていて矢が殺傷能力を持っているようになっているが、鏑矢(かぶらや)は、矢の先端に笛の仕組みで音の鳴る鏑(かぶら)がついていて、矢を放つと空気が鏑(かぶら)の笛の構造部分を通ることではげしい音が鳴る仕組みになっている。この時代、鏑矢(かぶらや)を相手の向けて放つことは戦闘をこれから始めると相手に告げる合図の一種であり、双方から鏑矢(かぶらや)が飛んできたら双方とも戦闘開始を伝えたことを意味する。
当初は双方から矢の応酬となったが、源頼政と行動をともにしてきた興福寺の僧兵である五智院の但馬という僧は、ただ一人長刀を持って宇治橋の南岸に立ったことで、情勢は源頼政側に転がる。橋板を外されている以上、橋を渡るとすれば橋の欄干や、橋板を支える橋桁の上を渡らねばならない。現在の宇治橋は片道二車線で歩道も整備された大きな橋であるが、この時代の宇治橋はどんなに横幅を多く見積もっても幅四メートルを超えることは無いという大きさの橋である。つまり、ただでさえ橋を渡ることができる人数が限られている上に、橋板が外されているために欄干や橋桁を渡らなければならないので、一度に渡ることができる人数がもっと減る。
五智院の但馬が、長刀を手に宇治橋の出口に立っているということは、一人で宇治橋の出口を封じたということでもある。
どういうことか?
弓矢は拳銃ではない。飛んでくる矢は、かなりの速度があるとは言え肉眼で確認できるし、訓練を積んだ者であれば矢をよけることも、長刀で矢をたたき落とすこともできる。おまけにこの時代の鎧は、通常の矢であるならば射られたところで致命傷にならないぐらいの防御力を持っている。この時代の矢は初速が秒速六〇メートルであり殺傷能力としては充分であるが、速度による矢の殺傷能力を発揮させるとなるとターゲットまでの距離は一五メートルが限度である。より長距離まで矢を放つことも不可能ではないが、鏃(やじり)の持つ殺傷能力に依存せずに速度だけで弓矢を攻撃用兵器として使用するとなると、宇治川の川幅は弓矢で相手を殺傷するには長くなる。しかも、川を挟んで向かい合っているわけであるから、どこから飛んでくるかわからないなどということはなく一方向からしか矢が飛んでこない。平家は何とかして宇治橋の出口を突破しようと五智院の但馬にめがけて矢を次から次に放つが、そのどれもが五智院の但馬に当たらないのだ。
さらにここでもう一人の僧兵が登場した。その名を筒井の浄妙明秀という。五智院の但馬が防御のスペシャリストならば筒井の浄妙明秀は攻撃のスペシャリストで、まずは弓矢で、次いで長刀で攻撃し始めた。先にこの時代の鎧は矢を受けたところで致命傷にならないぐらいの防御力を持っていると書いたが、いかに鎧が頑丈でも、あるいは兜が守っていようと、露出している部分もあれば、死角になっている部分もある。筒井の浄妙明秀の弓矢の腕前はそうしたピンポイントの致命傷を与える箇所に見事に捉えるものがあった。また、引くのに怪力を要する弓の中には、弓を引くのが難しい代わりに鎧を貫通する威力を矢に与えるものもある。筒井の浄妙明秀の操る弓は常人では扱えないような強力な弓であるため、狙いを外しても平家の武士の鎧を貫通して致命傷を与えた。
弓矢というものは矢のストックが尽きると戦闘において無意味な物となるが、筒井の浄妙明秀は全ての矢を放った後も攻撃を続けた。橋の欄干を渡って宇治橋の北側に行き、当初は長刀で、長刀が折れたら太刀で平家の武士に攻撃していった。筒井の浄妙明秀の奮闘を目の当たりにした園城寺の僧兵たちは、後に続けと次々に宇治橋の欄干を渡って宇治橋の北側に集い、ある者は弓矢で、ある者は槍で、ある者は長刀で平家の武士への攻撃を続けるようになった。ただし、いかに奮闘していようと宇治橋を渡りきってさらに攻撃を続けるなどはしていない。狭い宇治橋ではげしい攻撃を見せて平家の軍勢を追い返すのが目的なのである。
この状態で検非違使率いる軍勢はいったん軍を引き、宇治橋を渡った僧兵たちも平等院に戻り、いったん停戦した状態で夜を迎える。
検非違使率いる軍勢は宇治川の北側で戦略を練った。
どうすれば宇治橋を渡ることができるかという議論が展開されていたが、宇治橋は渡れないという結論はもう出てしまっていた。その上で、そもそも以仁王を興福寺に向かわせないことが目的であるので、遠回りになっても軍勢を迂回させて安全に宇治川を渡河した上で奈良へと向かうべきと言う意見も出ていた。何しろ宇治川の流れは急であり、梅雨の時期ということもあって河川量が増している。橋以外の方法で宇治川を渡るなど想像もできなかったのだ。
そのとき、そもそも橋を渡る必要は無いのではという意見が出てきた。その意見を述べた者の名を平家物語は足利忠綱としている。足利という苗字であるがこの人の本名は藤原忠綱であり、後の室町幕府の足利氏とは血縁関係のない武人である。ただし、血縁関係は無くても地縁関係はあり、下野国足利荘を本拠地としていた。後の室町幕府の足利氏も同じ下野国足利荘を本拠地としているので、足利を苗字とするようになったという経緯がある。
関東地方最大の河川である利根川は現在、関東地方を西から東に流れて太平洋に注いでいる川になっているが、これは江戸時代の工事の結果であり、それまでは東京湾に流れ込んでいた。それも、現在の利根川よりも激しい水量の河川であった。足利忠綱に限らず、下野国や上野国、武蔵国の武士たちはこの利根川と接する日常を過ごしていたのである。足利忠綱に言わせれば宇治川の河川量など利根川に比べればどうと言うことのないものであった。
その上で、足利忠綱は提言した。
まず、馬に乗った武士だけで二つの集団を作り、それぞれが一団となって宇治川を途中まで渡らせ留まらせる。決して応戦してはならず、どんなに矢を射られようと、宇治川に倒れて流されることになろうと、自分の乗った馬が宇治川に留まることだけを考える。そして、宇治川の北岸と南岸との間に馬の列を作り出す。これを馬筏(うまいかだ)という。
二列の馬筏(うまいかだ)ができあがったら、馬筏(うまいかだ)と馬筏(うまいかだ)の間を歩いて渡る。上流の馬筏(うまいかだ)は川の流れを弱くし、下流の馬筏(うまいかだ)は宇治川の流れに流されてしまいそうになった武士を押しとどめる効果を持つ。
昨日と同様に宇治橋を守ることでこの戦いの優位を継続させるつもりであった源頼政であるが、宇治橋を利用しない渡河を平家の軍勢が始めているのをみて運命を悟った。二日目は最初から戦闘を考えず、いかにして以仁王を奈良に逃すかという方法だけを考えるようになった。平家物語によると以仁王は三〇騎ほどの武士を連れて平等院を脱出したというが、九条兼実の日記には脱出のことが記されていない。なお、源頼政をはじめとする軍勢の多くは平等院に籠もり、攻め込んでくる平家の軍勢と白兵戦となったという点では異なる史料の間でも意見が一致している。前日は狭い宇治橋というメリットを利用した戦いができていたが、平等院は壮麗な建物であっても防御に適した建物ではない。この日は建築物のメリットを期待できない戦いになる。
源頼政の猶子で次男である源兼綱の奮闘は凄まじく、多くの平家の武士が馬上の源兼綱の手で討ち取られていったが、矢を受けたことで落馬したことで平家の十数名の武士たちによって殺された。
源頼政の長男である源仲綱も全身に多くの矢を受け、動ける限り奮闘したものの、これ以上動けなくなると覚悟したところで自ら命を絶った。
息子たちが死を迎えたのを目の当たりにした源頼政は、家臣の一人である渡辺長七唱(わたなべのちょうしちとなう)を呼び、自分の首を切り落とすことを命じたが、主君の首は切れないとその命令を拒否。しかし、自害したあとならば敵の手に主君の首を渡さないことを約束した。
源頼政は辞世の句を詠んだ後に、自ら刀を突き刺して死を選んだ。
「埋木(むもれぎ)のはな咲くこともなかりしに身のなるはてぞかなしかりける」(私の生涯は、埋もれた木に花が咲くことがないように、時代に輝くこともなく埋もれたままこのような最期を迎えたのは悲しいことだ)
渡辺長七唱は生前の主君の約束を守り、源頼政の首を切り落として石にくくりつけ、敵陣の中を突き進んで源頼政の首を宇治川の底へと沈めたという。
なお、平等院に攻め込んだ平家の軍勢の最終目的はあくまでも以仁王であるが、以仁王の姿が平等院のどこにも無いことに気づいた平家の武士は少なかった。少なかったが、ゼロであったわけではない。
平家物語では、伊藤忠清の実兄でもる飛騨守景家こと藤原景家が率いる軍勢に追いつかれ、弓矢の応酬があった末に、以仁王に矢が当たったとする。九条兼実は平等院の殿上廊で首のない遺体が見つかり、この遺体が以仁王の遺体ということにされたと記している。
以仁王、逝去。享年三十。
以仁王の死の報せを真っ先に受け取ったのは、京都ではなく、奈良の興福寺の僧兵たちであった。園城寺とともに反平家に起ち上がった僧兵たちが北上しているところで、以仁王が討ち取られ、源頼政や園城寺の僧兵たちの軍勢が壊滅したという知らせを受け取ったのである。
以仁王に呼応して京都へと向かっていた興福寺の僧兵たちにとって、以仁王の死は行動の大義名分を喪失させる大事件であった。また、冷静に物事を捉える者にとっては、源頼政の軍勢もなければ園城寺の僧兵たちもいないという状況で武器を手にすることがすなわち自分たちだけで戦いに挑まねばならないことを意味する。これは容易に受け入れることはできる話ではなく、興福寺の僧兵たちは「せめてあと一日早ければ」と後悔しながら奈良へと戻っていった。
一方、平等院での戦いで勝利を収めた平家方の軍勢は、討ち取った敵方の首を太刀や長刀の先端に突き刺しての凱旋行軍で入京した。九条兼実の日記によると、藤原景高は、源頼政、源義賢の子で木曾義仲の異母兄である源仲家、渡辺党の源勧(みなもとのすすむ)ら七人、藤原忠綱は、源兼綱と渡辺党の源唱(みなもとのとなう)、源副(みなもとのそなう)ら四人、美濃国の左兵衛尉源重清は渡辺党の源加(みなもとのくわう)らの首を掲げての入京であったことが記されている。平家物語に従えば源頼政の首は宇治川に沈められて平家の手に渡らなかったと記されているが、他の記録だと源頼政の首が携えられた凱旋になっている。凱旋の知らせを受けて、第二陣として出発予定であった平重衡と平維盛の二人の率いる軍勢は、行動開始前に作戦完了が告げられて解散となった。
凱旋入京後、以仁王一派の首は晒し首となって吊された。平家物語によると晒し首となった対象には以仁王の首も含まれていた。いや、臣籍降下させられたのだから、ここは民間人源以光の首とすべきであろう。
思い出していただきたいのは以仁王のこれまでの生涯である。
表に出ることの許されていた人ではないため、以仁王の顔を知っている人が少ないのである。知っている人の多くは以仁王とともに闘い、そして亡くなっている。つまり、以仁王の晒し首とされている人が本当に以仁王なのかという疑念の声が多く生まれたのだ。そのこともあって、以仁王東国逃亡説が京都内外で広まった。平家は以仁王が確実に亡くなったことを見せるために、以仁王の寵愛を受けていたという女性が連れ出されて以仁王の晒し首と対面した。彼女は以仁王の晒し首を目にして涙を流した。平家にとってはこれで以仁王が間違いなく死を迎えたという証明になったというのが平家物語でのシーンである。
この平家物語のシーンは、他の史料との間で不可解な不整合が存在する。平家物語によると源頼政の首が見つからないでいたが以仁王の首は晒し首になったという。ところが、九条兼実の日記によると、源頼政は晒し首になったのに以仁王の首がなかったとなっている。鎌倉幕府の正史である吾妻鏡では以仁王が光明山の鳥居の前で亡くなったと記しており、後の歴史書である愚管抄では以仁王の学問の師である日野宗業が以仁王の首を確認したとある。つまり、一定していない。
そもそも九条兼実は以仁王の最期そのものを明瞭に記していない。治承四(一一八〇)年五月二六日の日記によると、平等院の殿上廊に自殺者の死体が三体あり、そのうち一体は首がなく、おそらくこの遺体が以仁王の遺体であろうとする記録がある。すなわち、以仁王の死そのものが不明瞭であるとしている。
九条兼実は右大臣であり、この時代の人としてかなりのトップシークレットにも接することのできる立場であるが、地位の高さと正しい情報に接することとは必ずしも一致しない。これは東日本大震災のときに吐きたくなるほど日本国民が体験してきたことだ。
情報には必ずノイズがある。情報のノイズとは、真実ではないが間違いとはまだ断言できない情報のことであり、その多くは願望によって生じる。九条兼実はノイズとしての情報に接し、その情報を日記に書き記した可能性もある。治承四(一一八〇)年五月二六日時点での情報のノイズとは以仁王生存説だ。以仁王は亡くなったのだと、以仁王はもうこの世にいないのだと、繰り返して平家が訴えたところで、多くの人の心の中から以仁王が生きていてほしいという願望が消えて無くなることはなかったのである。より正確に言えば、以仁王の生存よりも反平家の灯火が消えてしまうのが納得できなかったのだ。
以仁王生存説が渦巻く治承四(一一八〇)年五月二六日の夕方、ここでようやく平清盛の消息が判明した。このタイミングで平清盛が福原から京都に入ってきたのである。なお、入京したということ以外に平清盛の動静についての記録は無い。
以仁王が亡くなったと公表され、源頼政とその子供たちも亡くなったことが告げられた。
以仁王の子のうち四名の皇子が出家を選んだ。既に第二皇子の若宮は出家しているため以仁王の男児はここで全員が出家したこととなった。
以仁王と行動を共にしていた園城寺の僧兵たちも多くが亡くなった。
しかし、園城寺に残った僧侶たちは健在なのだ。戦闘で殺されることなく園城寺まで逃亡してきた僧兵がいることも、園城寺の支配下にある寺院に逃れた僧兵がいることも確認できている。
治承四(一一八〇)年五月二七日、院御所において園城寺と興福寺に対する措置が議論された。平清盛自身は議論の場にいないが、その意向は伝えられている。平清盛の意向は平家に逆らう存在の抹殺という単純明快なものだ。
参議源通親は園城寺と興福寺に対する責任追及を要求し、権大納言藤原隆季は参議源通親の意見に全面賛成した。源通親は参議の末席のため最初に発言する権利を持っている。第一発言者の意見が議論の趨勢を決めるのは通例の通りだ。その第一発言者たる源通親が平清盛の意向に全面的に従っている発言をすることで、この場にいない平清盛が議論をリモートコントロールしていることが誰の目にも明らかとなった。
参議源通親は具体的な処分についても主張している。園城寺については以仁王とともに行動を起こした者だけでなく、その者の師匠についても全員を引き渡すこと、興福寺については以仁王に呼応して僧兵を差し向けたことそのものが犯罪であるとして軍勢を差し向けて興福寺を攻撃し、興福寺の末寺と荘園を全て没収するというのがその主張である。感情にまかせた発言は顰蹙を買ったが、強硬な主張はときに決然たる言論となる。血気盛んな言論が渦巻いているときに冷徹な判断を下せる人はそう多くはないが、その多くはない人の一人がこのときはいた。右大臣九条兼実だ。もっとも、九条兼実の日記が出典なので著者自身を美化したとも言えるが。
九条兼実は参議源通親の主張が法を逸脱しているとして批判し、あくまでも法に基づく処分とすべしとした。
以仁王が打倒平家を訴えて起ち上がり、源頼政ら京都およびその近郊に在住の清和源氏が以仁王に同調し、園城寺も興福寺も以仁王に同調した。ここまでは事実だ。しかし、法に従えば、以仁王に従って以仁王とともに園城寺から興福寺に向かおうとした面々だけが有罪であり、その他の者は罪に問うことができないのだ。実情はどうあれ、興福寺は以仁王のもとに参集しようとはしたものの未遂に終わっているゆえに罪に問うことができず、園城寺から興福寺へと向かおうとした僧兵は以仁王に付き従って興福寺へと向かうことになったと同時に園城寺の籍から外され、どの寺院にも属さない僧侶ということになった。以仁王に付き従った僧兵が平家に討ち取られたというのは、事実上はどうあれ、理論上は以仁王と行動を共にするために園城寺を脱退したのであり、園城寺の罪を問うことはできないということになるのだ。戦闘が園城寺や興福寺の敷地内での戦闘であったならまだしも、園城寺から興福寺へと向かう途中の平等院での戦いであったというのは、平等院はとばっちり、興福寺は無関係、そして、園城寺も無関係になるのである。卑近な言い方になるが、つい最近までその大学の学生であり今は大学を退学して無職となっている者が犯罪に手を染めたことに対し、その学生を退学にさせた大学に対して責任を取らせるように平清盛は言っているのである。平清盛の言い分に理解はできても、法的には責任を取らせる方法はない。
ここで法的根拠を盾にして平清盛の要求を撥ね付けることに成功した九条兼実であったが、平家の動きを完全に止めることはできなかった。園城寺そのものに責任を取らせることはできなくても、平等院での戦いに敗れた後で園城寺まで逃れてきた僧兵や、園城寺の関連施設に逃れてきた僧兵に責任を取らせることは法的に可能だったのである。園城寺の敷地内に戻ったと言っても園城寺の籍から外れているので、園城寺の僧侶ではない人たちが勝手にやってきて園城寺の敷地内の建物を勝手に占拠している扱いになるのだ。しかも、ここでいう園城寺の敷地内というのが、現在の滋賀県大津市の園城寺そのものではなく、園城寺の支配下にある寺院も含まれており、その中には三室戸寺も含まれているのである。
平家は宇治の三室戸寺に軍勢を派遣し、三室戸寺を攻めて、三室戸寺を焼き尽くした。三室戸寺は平等院から見て宇治川を挟んで北岸にある寺院である。なぜこの寺院を攻め込んだのかの理由であるが、この時代の三室戸寺が園城寺の支配下である寺院であると記せばそれで理由は充分であろう。平等院で敗れた僧兵の中で少なくない数の僧兵が三室戸寺まで逃れていることは判明しており、投降を呼びかけるも抵抗したために三室戸寺そのものが灰と化すに至ったのである。
自らの意向が反映されないことに業を煮やした平清盛は人事に介入した。以仁王を討伐したことの報奨を、平清盛に言わせれば反逆者源以光を討伐したことの報奨を要求したのである。
国家反逆罪に問われるような反乱を起こした集団の首領を討伐したのであるから報償は当然与えられるべきだというのが平清盛の主張だ。この主張は受け入れられ、源頼政追討の賞で藤原景高、以仁王追討の賞で藤原忠綱がそれぞれに大夫尉になり、藤原景高の一族や藤原忠綱の一族が刑部丞、衛門尉、兵衛尉に任官されることとなった。
ここまではいい。だが、平清盛が横槍を入れたか、あるいは平宗盛が主導したかはわからないが、平宗盛の息子である平清宗が報奨を受けたとなると話はややこしくなる。平宗盛が後方で指揮を執っているものの、既に権大納言を辞職して現在は前権大納言という扱いになっている平宗盛は報奨の対象とはならない。このようなとき、当人の息子で既に官位を得ている者が報奨を得ることがある。報奨としては従四位上から従三位への昇叙なのであるからかなり奮発した報奨であると言えるが、これはこの時代での通例だ。
ところが、このときの平清宗が一一歳となると話は別だ。
その年齢であっても軍勢に参加して武功を残したというなら話はわかるが、そんなものはない。京都の父のもとで軍勢とは無縁の時間を、さらに言えば武芸そのものと無縁の時間を過ごしていたのに、いきなり従三位に位階を進めたのだから、これを愉快に思う人が多いはずがない。
愉快に思うはずはないのだが、これが平清盛の同意のもとでの昇叙なのだから文句を言いたくても言えなくなる。せいぜい、人目に付かないところで怒りの言葉を呟くのがせいぜいであろう。
ただし、このあとで平清盛が打ちだしたプランを考えると、怒りの言葉を呟くよりも有意義な結果が得られることが誰の目にもわかる。
福原への遷都である。
もっとも、治承四(一一八〇)年五月三〇日時点での第一報はあくまでも、安徳天皇、高倉上皇、後白河法皇の身の危険が生じているため六月三日から福原へ御幸してもらうというものであり、明確に遷都を宣言したものではない。しかし、意味するところは明白であった。御幸とはいうものの出発日時しか決まっておらず、京都還幸のスケジュールについては何も述べていない。つまり、御幸という名目で永遠に福原に住み続けてもらうことを意味する。
少し前に平清盛が院や安徳天皇を福原まで連れて行くのではないかという噂は広まっていたが、あくまでも一時的な避難であり、まさか永続的なものとまで考えているとは夢にも思っていなかった。
永続的となるとこれはもう遷都だ。
ほとんどの人は遷都を真剣に述べる平清盛の考えに賛同できなかったし、平清盛の言葉をタチの悪い冗談としか考えなかった。
だが、平清盛は本気だった。
以仁王の令旨に対し延暦寺は行動しなかったが、延暦寺がいつ動き出すかはわからない。比叡山延暦寺は京都のすぐ側にあるため、軍勢を動かそうものならただちに平安京になだれ込んでくることもできるし、平安京でなくとも六波羅に突入させることもできる。
また、奈良の興福寺は行動を起こしたものの途中で以仁王が亡くなったことを知って引き返した。奈良から平安京までは徒歩一日の距離、軍勢の行軍であったとしても二日もあれば余裕で到着する距離である。
そしてもう一つ、これがもっとも大きな理由なのだが、平清盛は明らかにこの時点で東国の清和源氏たちが反平家に起ち上がるであろうことを予期している。以仁王の令旨が主に東国の清和源氏たちのもとに届けられたことは間違いなく、規模はどうあれ何らかの形で東国から清和源氏たちが軍勢となって京都へと押し寄せてくることは充分に予想されることであった。源義朝の子らは、流罪となっている者については現地の平家は以下の武士に監視させ、出家させられた者は寺院の監視下に置かれているから、源氏が源義朝の子、特に源氏のトップに立つことが宿命づけられている源頼朝が清和源氏の軍勢を率いて京都に攻め込んでくることは難しいであろうとは考えている。
だが、清和源氏というのは東国各地に分散している。
源頼朝であればそうした分散している清和源氏の面々を束ねて大軍とさせる資格を有しているが、源頼朝のいない清和源氏、あるいは源義朝の子のいない清和源氏となると、その軍勢の規模は小規模で、軍勢と言うよりも小規模なテロ集団となって京都に襲い掛かってくる可能性が高い。戦えば平家が勝つだろうが、被害もゼロでは済まないのだ。
この平清盛の予想については、半分は正解で、半分は間違いなのだが、平清盛の予想のうち京都という都市に対する危惧については合点がいく。
平安京という都市は完成した都市ではない。保元の乱のあとで信西が平安京の再建工事に着手し桓武天皇の立てたプラン通りの平安京を実現させようとはしたものの、平治の乱でそのプランは白紙に返し、結局は元通りになってしまった。平安京というのは城壁が完成している都市ではないため外から攻撃を仕掛けられたら都市そのものが戦場になってしまう。おまけに内陸の都市であるため包囲されたら都市内で飢饉が発生してしまう可能性が高い。包囲とまでは行かなくとも東からの流通が止められてしまえばそれだけで平安京の中では食糧危機が発生するのが平安京という不完全な都市の持つ宿命である。裏を返せば、攻撃する側から考えればいかようにも攻撃手段を行使できる都市なのだ。その都市に延暦寺や興福寺の僧兵が押し寄せ、さらには東国の清和源氏が無秩序に攻め込んできたら、最終的には勝つことができたとしても失われる命があまりにも多くなってしまう。
翻って福原はどうか? 延暦寺とも、興福寺とも、そして東国からも遠いから軍勢がやって来るにしても時間を稼ぐことができるし、前方は海で後方は山という地形であるから防御にも適している。また、海に面しているということは輸送面でも平安京より有利になり、包囲戦に持ち込まれたとしても、東国からの輸送路が遮断されたとしても、飢饉を発生させることなしに輸送力で都市として持ちこたえることが可能だ。
平清盛のプランを耳にしたときは誰もが耳を疑った。福原に平清盛の別荘があるのは有名である。また、徐々に都市ができあがりつつあることも知られている。実際に福原にまで足を運んで福原の平清盛のもとを訪ねた貴族も多いし、京都と福原の往復の道程も、福原の都市としての成長過程をその目で目の当たりにした貴族も多い。だが、京都と福原の往復の道程はともかく、福原には都として必要な設備が整っているわけでもなければ、貴族たちの屋敷などそもそも存在しない。長期的ならばまだしも、遷都命令からすぐに福原に移り住むためには、京都の建物をいったん解体して福原に運び入れて移築しなければ無理な話となってしまうほどだ。
福原遷都も認めず京都に残ることを考えた貴族も多かったようだが、これに対して平清盛はアメとムチを用意していた。まずアメであるが、福原に新しく都を建設し、その功績によって位階の昇叙を検討することが決まった。誰にどのような位階を与えるかを平清盛は決めることができるというのは、平清盛の実の孫であることを差し置いても、一一歳の少年に平清盛の一存で従三位の位階を与えたという実績が役に立つ。次いでムチであるが、福原に移り住むことが許されるのは以仁王に従わなかった、平清盛に言わせれば国家反逆者源以光に従わなかった者に厳選するとした上で、福原への遷都を敢行した後に京都にいる以仁王の残党を処罰する計画であると公言したのだ。これで京都に留まるという選択肢は消えた。京都に留まり続けたら反逆者として討たれてしまうのである。
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