平家物語の時代 1.源平合戦前夜

 治承三(一一七九)年一一月一七日。治承三年の政変。平家が日本国の天下を獲得。

 元暦二(一一八五)年三月二四日。壇ノ浦の戦い。平家滅亡。

 この間わずか五年半。

 この短さで、源平合戦、歴史用語で言うところの治承・寿永の乱が平家の完全消滅という形で終わりを迎えたのである。

 平家を憎む者は多かった。

 平家への復讐を決意する者も多かった。

 だが、クーデタで天下を手にしてからわずか五年半で跡形も無く消え失せることになると考えた者はいなかった。

 願望として平家が滅亡することを願う者はいた。

 希望として平家の消失した未来を語る者もいた。

 だが、双方ともあまりにも空想に過ぎていた。

 少しでも現実的に考えれば平家が消え失せる未来など断じてありえない話であった。

 その、ありえない話が実現した。

 だからこそ、劇的である。

 だからこそ、歴史に深く刻まれる。

 だからこそ、書店を見ても、図書館を見ても、この五年半が特別な時代として扱われ、この五年半を扱った数多の図書が書架に並べられている。

 だからこそ、この五年半を扱ったドラマがテレビで放映され、映画が作られる。

 だからこそ、伝説に彩られ、人間性が摩耗し、現実が失われていく。

 多くの人がこの五年半を読み、聴き、語り、書き記すのも、この五年半があまりにも強い興味を集めるからである。研究生活の全てをこの五年半に捧げる研究者も数多く、論文を調べれば次から次へとこの五年半について研究した成果が出てくる。研究者でなくとも多くの人がこの五年半の流れを詳しく知っており、治承三年の政変から壇ノ浦に至るまでの流れを何も見ずに暗唱できる人も珍しくない。

 平安時代を全部書く。それがこの平安時代叢書のテーマである。仮に鎌倉時代は平安時代でないと断じたとしても、この五年半は平安時代の大きな転換点となる五年半であり、平安時代を全部書くことを決意した私に残されている選択肢は、数多あまたの著作が存在し、多くの人が詳しく知っているこの五年半について、今までの平安時代叢書の記載と同じように書き記すことだけである。

 これは、平安時代叢書に目を通していただいてきた方にこれまでと異なる感想を抱かせることを意味する。すなわち「あまり詳しい記述ではないな」という感想を抱かせることとなるのが、本作「平家物語の時代」である。

 「平家起つ」までの平安時代叢書の記載は、歴史の教科書に簡潔に記していることを詳細に記載し直してきたと言える。教科書に載っていない、あるいは、載っていたとしても教科書には数行しか書かれていない平安時代の出来事を、基本的には時系列に沿って原稿用紙数百枚に書き記したのがこれまでの平安時代叢書である。書き記したあとで教科書に立ち返り、自らの書き記してきた内容と歴史の教科書と比べ、歴史の教科書における記載がいかに短いものであるかを嘆いたこともある。だが、本作はそうはならない。歴史の教科書の時点で既に詳しく書き記されている時代を扱うのが本作である。

 本作は基本的に多くの人が既に詳しく知っている時代について、これまで通りの平安時代叢書の通りに書き記す作品である。そのため、人口に膾炙されている記載が本作には存在しない、あるいは、虚偽であるという注記のもとでのエピソード掲載となるケースもありうる。その点はご了承いただきたい。その代わり、多くの人が考えているのと違う五年半の情景が本作では展開されることとなる。英雄が英雄でなくなり、悪役が悪役でなくなり、無名が有名に、有名が無名に、冷酷が温情に、温情が冷酷になる。そして、多くの人が見過ごしてきた人たちのこと、すなわち、歴史に名を残す人たちの陰に隠れて見過ごされることの多かった庶民の情景が描かれる。それが本作である。

 本作の舞台は治承三年の政変終結直後よりはじまる。当然ながら治承三(一一七九)年一一月一七日の時点では誰一人として、五年半後に迎える運命のことなど知る由もない。


 治承三年の政変はクーデタである。革命ではない。

 革命とクーデタとでは何が違うか?

 革命とは支配されている側が支配している者を倒す政変であり、クーデタとは支配する側の内部での政変である。前者はそれまで権力に携わってこなかった人たちの起こす政変であるのに対し、後者はそれまでに多少なりとも権力の一翼を担ってきた人たちの起こす政変であると言い換えることもできる。ともに下が上を倒すという構図であるが、革命はそれまでの支配構造そのものを変革することが多いのに対し、クーデタは既存の支配構造の仕組みはそのまま残しつつ、仕組みを担う人を交代させる結果になることが多い。そのため、クーデタ前後の人の移り変わりだけを見れば大規模な人事異動が起こったのかとしか感じられないこともある。

 治承三年の政変で新たな役職を得た者は四五名、一方、全役職ではなく一部の地位を失った者も含め何かしらの地位を失った者、そして、死を迎えた者を合わせると五一名という数値はたしかに多いが、通常の除目でもこれぐらいの人事異動はあるし、この時代の医療水準や伝染病の流行頻度を見れば他の年でも同規模の死者数である年が散見される。ゆえに、治承三年の政変を知らずに人事の移り変わりだけを見れば、治承三(一一七九)年一一月一七日は大規模な人事異動があった日としか扱われず素通りされてしまう。ある一点に着目した人を除いて。

 革命にしろ、クーデタにしろ、成功した後で当事者が権力と無縁であったなどという話は皆無に等しい。探せばあるかもしれないというレベルにすらなる。とは言え、革命と違ってクーデタというものの本質は権力構造内部での政変であるため、可能な限り政変の影響を小さなものとしつつ名目を現実化させ、それでいて政変に携わった人たちにとって都合のいい結果を生み出そうとするのが通例だ。具体的には、当事者がクーデタ前よりも多くの権力を得ることになっても、権力のトップに立つことは少ない。その時点の制度で認められている頂点に立つのはクーデタ勢力が担ぎ上げた偶像であり、クーデタの首謀者自身は、低い地位から高い地位に一気に跳ね上がることはあっても、頂点に立ち昇ることは滅多にない。治承三(一一七九)年一一月一七日に松殿基房が関白を解任となり、新たに内大臣となった近衛基通が関白職を継承したのもクーデタの通例に含まれる。

 治承三年の政変をクーデタと捉えたとき、平家が担ぎ上げる偶像として近衛基通を選ぶのはごく自然な流れと言える。近衛基通が優秀な関白になると期待されたからではなく、名目としても、傀儡としても、平家にとってもっとも都合の良い関白が二〇歳の近衛基通であったからである。

 藤原氏のトップである藤氏長者の地位を藤原北家が継承し、その継承権が藤原忠平の子孫、藤原道長の子孫、藤原忠通の子孫へと狭まってきたのがこれまでの藤原摂関家の流れであるが、ここから先がこれまでの藤原摂関家の流れと異なる動きとなっていた。これまでは一つの家系に決まれば他の家系は藤氏長者の地位を継承する家系を支える一族となるのが定めであった。しかし、藤原忠通の子は違う。藤原忠通の子がそれぞれ、近衛家、松殿家、そしてこの時点ではまだ摂関就任争いに加わっていないが早いうちに加わることが目に見えている九条家を形成し、この三つの家で藤氏長者の地位を争う時代を迎えることとなったのだ。

 歴史を溯れば、奈良時代の藤原不比等の四人の子がそれぞれ、南家、北家、京家、式家を形成して争うように至ったことがある。このときは藤原北家の勝利に終わり、他の三つの家系は藤原北家と大きく差をつけられ、藤原氏ではあるものの権力の中枢からは程遠く、例外的に藤原南家から学者として立身出世を果たす者が稀に現れる程度になった。この歴史が繰り返されるであろうと考えたとき、近衛家も、松殿家も、九条家も同じことを考えた。すなわち、次世代の藤原北家になることである。

 この現実に直面して、近衛家は平家と接近することで権力を構築することを画策した。近衛基通の父である関白近衛基実が二四歳の若さで病没したために、近衛家は藤氏長者の地位が松殿基房のもとに向かうのを黙って見ているしかできなかったのが永万二(一一六六)年のこと。残された近衛基通は父の死のとき、わずかに六歳である。六歳の幼児が当主たることを受け入れなければならなかった近衛家の命運に光明が差したのは、近衛基実の後妻で平清盛の娘でもある平盛子が、近衛基実の子である近衛基通を自らの養子として後見すると表明したことにはじまる。近衛家は、藤原氏の女性ではない平盛子を前面に掲げ、近衛基実の正妻として藤原摂関家の持つ所領を相続することで資産を保持することに成功し、資産の保持に平家を絡ませることで盤石とさせることに成功したのである。

 もっとも、いかに亡き近衛基実の正妻であるとは言え、近衛基通を養子に迎え入れたときの平盛子はまだ一二歳の女児である。年齢差だけを見れば母と子というより姉と弟の関係に見えるし、実情を知る人であっても幼き少女の健気な美談でしかなく現実味は乏しかったのが実情だ。だが、平盛子は周囲の予想に反して養母として近衛基通を支え続け、資産を保持し続けることに成功し続けたのである。周囲は見誤っていた。平盛子の背後にいかに平家が控えていようと資産の維持や権力の中継はできないであろうというのが当時の予想であったのだが、平盛子はその予想を裏切って資産の維持も権力の中継も果たすことに成功したのである。「いかに平家が控えていようと」という予想は外れ、「平家が背後にいるからこそ」という現実がこの時代の貴族社会に広まったのである。

 その平盛子が治承三(一一七九)年に夫と同じ二四歳の若さで亡くなった。本来ならば養母が一時的に相続していた父の所領を近衛基通が相続するはずであり、近衛家もその準備を整えていたのであるが、この流れに横槍を入れた人がいる。後白河法皇だ。それも、かなり前から画策していたとしか考えられず、平盛子が亡くなった翌日にはもう資産管理の責任者を任命するという、用意周到という言葉では留めおくことのできない行動をしたのだ。これが平家の怒りを買わないわけはなく、治承三年の政変の原因の一因にもなっている。

 治承三年の政変で近衛基通を関白に就けたのは、平家にとってこれ以上ない大義名分を伴った政権奪取であった。不遇を被った近衛基通を擁護するとして資産を取り戻させた上で関白に就任させることは、クーデタに大義名分を与えるに値する行動であるのだから。

 関白近衛基通の誕生は、正当性を持つ若き執政者の誕生、すなわち、誤った時代の終わりと、正しく新しい時代をイメージづける効果があり、クーデタに手を染めた平家の不満を抑える効果をある程度は持っていた。

 そう、ある程度は持っていた。

 平家のクーデタは一点、大きな大問題を抱えていたのである。

 世論だ。

 世論の高さは民主主義だけに求められる政治的要素ではない。世論無しに政権を維持するのは、絶対に不可能とは言えないにせよ極めて難しい。曲芸にも似た綱渡り的政権運営が求められるのが世論の支持無き政権であり、そのような曲芸をするぐらいならば最初から世論の支持を得る政権運営を展開する方がよほど簡単だ。

 平家は世論の支持を得ていなかった。全くと言っていいほど得ていなかった。

 平重盛が亡くなり、平重盛が手にしていた越前国の知行国の権利を後白河法皇に奪われた。平盛子が亡くなり、平盛子が相続していた近衛基実の資産を後白河法皇に奪われた。それらを取り戻すという平家の行動は確かに納得できる。同情もできる。

 納得もできるし同情もできるが、同意できるものではない。

 そもそも平家はいかなる国を作ろうとして天下を握ったのかと問うても、その答えを出せる者はいない。理由は明白で、平家はそもそも、どのような国を作るかを考えて行動したのではないから。平家はただただ、平家にとっての敵を排除し続けていただけなのだ。敵を排除し続けた結果、見渡すと周囲に敵はなく、気づいたら天下を握るようになってしまっていたのであり、最初から天下を、そして、日本国民を考えて行動していたのではなかったのが平家だ。

 平清盛を知る人は、平清盛の慈悲深さを語り、部下思いの人であることを語る。しかし、平清盛を知らぬ人はそのようなことを語らない。冷酷であり、残忍であり、多くの人を苦しめる人であると語る。この違いは一見すると不整合に感じるが、実際にはそこまで不整合ではない。平清盛は、味方にとっては頼りになる慈悲深い人であろうとしたし、実際に慈愛の心で接したが、味方でない人、それは必ずしも敵を意味するのではなく、平家の味方であると平清盛が認識していない人のことは全くの無関心であった。だからこそ冷酷になれたし、だからこそ残忍になれたのだ。

 世の中には、敵以外は全て味方であると考える人と、味方以外は全て敵と考える人とがいる。また、味方を増やす人と敵を増やす人とがいる。平清盛は双方とも後者であった。平清盛は自分の味方以外は全て敵と考えるだけでなく、味方を増やそうとはせずに敵を増やし続けてきた、いや、現在進行形で敵を増やし続けている人であった。平清盛の父の平忠盛は味方を増やす人だった。平清盛の子の平重盛も味方を増やす人だった。しかし、平清盛は味方を増やす人ではなかった。平清盛は敵と味方とを明確に区別するだけでなく、敵を許さず、敵は滅ぼすべき存在であるとしか考えず、味方を増やそうなど全く考えなかったのだ。平清盛自身はそうではないと反論するかもしれないが、阿諛追従以外に平清盛に従うことを選んだ者などいない。

 だからこそ、敵を滅ぼすことに躊躇することはなく、次々と敵を滅ぼしていったら天下を握っていたというのが平家政権である。もっとも、それでも結果を出したなら構わない。政治というのは庶民の暮らしが以前と比べてどれだけ良くなったかだけで決まる。清廉潔白さとか、演説の上手さとか、ビジョンの明確さとかはどうでもいい。政治の評価は庶民生活が目に見えて向上したときだけが合格であり、そうでなければ不合格である。

 平家政権は不合格である。

 自由貿易を提唱し、南宋との貿易を広めたのはわかる。しかし、待っていたのはグローバル経済に飲み込まれた経済的敗者の誕生、そして、円高である。この時代に日本円という概念はないが貨幣という経済概念ならあるし、円高と評するしかない社会現象も発生する。もっとも、実際の日本円が存在しないから現在の円高の方がマシとも言えるが。

 どういうことか?

 日本の物資を南宋は買い求めた。それも日本より高値で買い求めた。日本国内での生産は日本国内で売り捌くよりも南宋へ運んだ方が高くなるから、南宋には日本の物資が行き届き、日本国内は物資が乏しくなる。一方、日本が南宋の物資を求めることは、ゼロとは言えないが少ない。手に入れようとしても南宋の物資を手に入れることができるのは現時点で物資を持っている人だけだ。南宋とのバーター取り引きで南宋の物資を手に入れることができるのは、日本国内での生産品を持っているごく一部の恵まれた人だけであり、ほとんどの人は物資が手元に届かず他の人に高値で買われてしまう。

 それでも輸出に耐えうる製品を自分で作り出すことのできる人はまだいい。自分の作り出した製品が南宋へ輸出する際の事実上の通貨になるために何かしらの資産を手に入れることが可能となる。しかし、自分では何も作り出せぬ人、そして、自らの生産が輸出に耐え得る製品ではない人となると、物々交換にせよ、コメや布地を貨幣とした取り引きにせよ、これまでの経済でなら手に入れることができていた日本国内産の物資が、平家政権下での経済では手に入らないこととなる。物資が南宋へと流れていく一方なのだ。輸出に向いていない製品を作り出せるならどうにかなるかもしれないが、それでも輸出に耐えうる製品を生み出す人との間での格差は目に見えて大きくなっている。それまでとの交換レートが成立しなくなったのだ。

 日本の物資を南宋は求めた。一方、南宋の物資に対する日本の需要はない。こうなると、物資が南宋へと流れていく代わりに南宋の通貨が日本へと流れていくこととなる。南宋の通貨で日本の物資を買うのだ。南宋での貨幣不足と引き換えに日本国内で南宋の貨幣が流通するようになり、南宋の貨幣の流通量増大と日本国内の物資流通量縮小という関係は、簡単にインフレを招いた。日本国内で算出する物資のうち輸出に耐えうる製品を作り出すことができる者はより多くの宋銭を得ようとし、得た宋銭で日本国内の数少なくなった物資を買い漁ろうとする。輸出向きでない製品しか作り出せない者は、自分の作った物資を宋銭と交換するものの、宋銭の価値は年月を経るごとに減っていく。宋銭一〇枚で買えた物資が宋銭二〇枚を出さないと買えないようになり、五〇枚を出さないと買えないようになり、一〇〇枚出さないと買えないようになる。

 これが平清盛の押し進めた日宋貿易の現状だ。

 貿易を見直し国内流通の改善を図れば日本国内の経済改善も見込めたのに、平清盛は自らの政策の過ちを認めず、改善も認めることなく強行している。平家に関わる一部の人は確かに豊かになったと言えるが、多くの人は貧しくなってしまったのが平家の押し進めた自由貿易だ。保護貿易は必ずしも悪ではないが、国内産業の育成と生活の安定を無視しておいて自由貿易を進めると、国内経済は破綻する。

 民意を得ていないだけでも問題であるが、民意を得ていたとしても平家の手によるクーデタは正統性という点でギリギリのところであった。

 中華歴史圏の歴史とは、それまでの国家が滅亡しては別の国家が新たに建国されることの繰り返しであり、中華歴史圏において新たに誕生した国家は新国家の正統性を歴史に委ねてきた。滅んだ国家がいかに滅ぶべき運命にあったのかを歴史書に記し、滅ぶべき運命にある国家を倒して新たな国家を建国したことの正統性の根拠としてきたのである。

 ところが、日本国の歴史に中華歴史圏の概念は通用しない。しいて挙げれば日本書紀における大化の改新の記載が中華歴史圏における正統性の根拠に沿った歴史記載であると言えるが、それでも国家が滅亡したわけでもなく、建国から連綿と継続している日本国では正統性を歴史に委ねることができない。そのため、日本国では歴史ではなく法に正しさを委ねてきた。

 正統性を英語でレジティマシー(legitimacy)といい、その語源はラテン語の「法(legis)」に「最も(-imus)」の接尾辞を付加したレジティムス(legitimus)に由来する。直訳すれば「最も法的に正しい」となるのがラテン語のレジティムスであり英語のレジティマシーである。そして、日本国における「正統性」は中華歴史圏における「正統性」よりもラテン語のレジティムスや英語のレジティマシーのほうが近い。すなわち、正しさは法に基づき、いかなる権力も法による裏付けを必要とするというのが日本国における正統性(レジティマシー)である。前例踏襲主義と揶揄されることもあるが、法で明確に定められていないことをする、あるいは、法に定められているのとは異なることをすると、その行動の正統性(レジティマシー)が喪失するのが法に正統性(レジティマシー)を置く社会である。前例踏襲というものは、法に正統性(レジティマシー)を置く社会において、行動の正統性(レジティマシー)に対するこれ以上ない裏付けとして作用する。

 平家のクーデタは中華歴史圏であれば通用したであろうが、日本国ではギリギリであった。この時代の国際感覚では中華歴史圏に従った平家のほうが他国に倣ったクーデタであったと言えるが、世界史全体を俯瞰すると治承三年の政変は正統性(レジティマシー)を獲得していると訴えるのが厳しいクーデタであったのだ。

 何があったのか?

 治承三(一一七九)年一一月二〇日には後白河院政が停止となったのである。

 院政停止だけを捉えれば院政が終わり藤原摂関政治の時代が蘇ったかのように見える。しかし、後白河法皇は単に院政を停止させられたわけではない。鳥羽離宮に幽閉されたがために院政を停止せざるを得なくなったのだ。それも皇室の手ではなく平家の手で。

 こうなると上皇や法皇に対する処遇が正統性(レジティマシー)の点で引っかかる。上皇や法皇に家臣が意見をすること自体は許されるが、上皇や法皇の自由を奪い幽閉することが許されるのは現役の天皇だけである。議政官からの上奏があった上での法の執行であることはより強固な正統性(レジティマシー)をもった処遇となるが、議政官からの上奏がなくとも天皇の指令であるならば強固ではないにせよ充分な正統性(レジティマシー)を有するのが日本国だ。

 治承三(一一七九)年一一月二〇日時点で言うと、後白河法皇に対し幽閉を命じることができる法的権威を有しているのは高倉天皇だけである。そして、高倉天皇は後白河法皇を幽閉せよと命令してはいない。後白河法皇の幽閉は平家の独断の行動である。

 後白河法皇は人気も支持率も決して高いものではないし、後白河法皇自身が崇徳上皇を讃岐国に配流とさせたことのある人なのであることを思い返すと、他ならぬ後白河法皇の先例に基づく処遇なのだという捉え方も不可能ではない。また、歴史を遡れば、当時はまだ院政がなかったが、藤原道兼による花山天皇の出家とその後の花山法皇の例を持ち出すことも、厳しいとは言え先例として取り上げることは不可能ではない。つまり、平家は先例重視のこの時代において、後白河法皇自身や藤原氏がかつて実行したことを自分たちも繰り返したと強弁することもできる。

 しかしながら、花山法皇には退位後の自由が存在していたし、崇徳上皇の場合はその当時の帝位にあった後白河天皇の命令であるから家臣が上皇や法皇を幽閉したことにはならない。平家が先例踏襲とするには正統性(レジティマシー)が乏しい。

 そこで平家はどのような体裁を以て後白河法皇を幽閉したのか。

 平家は公的には後白河法皇を幽閉してはいないと強弁したのだ。京都の治安が著しく悪化しているために後白河法皇を安全な鳥羽田中殿へと避難させ、不審者が入ってこないようにという名目で門を閉ざし、平家の武士が護衛するという名目で門を固めたのである。さらに建物内に不審者が紛れ込んでいる可能性があるかも知れないという理由で、乳母の夫であった信西の息子、および、後白河法皇の周囲に仕える女官のみか鳥羽田中殿に入ることの許されている人であるとし、その他の人は鳥羽田中殿に入ることを禁じたのである。これらは全て幽閉以外の何物でも無いが、平家はあくまでも後白河法皇の安全を守るための行動であるという体裁を整えたのである。

 さらにここに、院政という正統性(レジティマシー)の薄い権力構造が加わる。院政は退位した天皇が現役の天皇に要望を示すという図式での政治権力であり、事実上の命令ではあっても名目上は院の要望を受け入れて法を定め全国に広めることで政策遂行としている。つまり、天皇や議政官は上皇や法皇の要望を聞き入れる義務はないし、そもそも院が存在しなくても政策の正統性(レジティマシー)の上では問題ない。後白河法皇を幽閉したことで院がその機能を停止しても、法の上では支障が無いことになってはいるのだ。

 一応は。



 クーデタは必ずしも軍事クーデタとは限らない。

 とは言え、軍隊の力を利用しないクーデタというのは難しい。民衆の不満を結集させて政権転覆を謀るのではなく、頂点ではないにせよ政権の一翼を担っている集団が、集団の用意できる力のみを利用して現時点での政権を倒さなければならないのだから、もっとも安易な方法として武力に頼るのがクーデタにおいては通例である。これは治承三年の政変も例外ではない。平家は平家の持つ武力を京都とその周辺に展開することでクーデタを実現させた。ただし、既に述べているように支持率は低い。

 源平合戦とは言うが、平家に対抗したのは源氏だけではない。治承三(一一七九)年一一月時点で真っ先に平家に対する反発を見せたのは宗教勢力である。もとからして宗教勢力は政権に楯突く存在であったから、言論の自由を保障した上でクーデタ直後の京都市民に対して「現在のこの国で平家に反発しうる勢力があるとすればそれはどこだと思いますか」と質問したならば、その答えは源氏ではなく宗教勢力という答えが最も多く返ってきたであろう。

 この時代の宗教勢力というと南都北嶺、あるいは山門寺門の争いということになる。北嶺とも山門派とも称される比叡山延暦寺がこの時代において真っ先に思い浮かぶ宗教勢力であり、延暦寺に対抗する寺門派こと園城寺と、南都こと興福寺がその次に思い浮かぶ宗教勢力となる。治承三年の政変は平家が京都に軍勢を展開したクーデタであるため、京都から近い比叡山延暦寺も園城寺も僧兵を出動させようものなら平家の武力の前に血が流れることとなるのは目に見えている。だが、京都に近いとは言え早くとも徒歩一日の道程が通例である奈良となると話は変わる。平家がクーデタを起こしたことも、その兵力も、伝聞でしか伝わっていない。奈良に伝わっているのは、平家がクーデタを起こし、後白河法皇を幽閉し、関白松殿基房を追放し、多くの貴族を中央政界から放逐したという情報、そして、平家のトップである平清盛が福原へ帰還したという情報である。目にしたわけではなく伝聞のみの情報であるため、自分にとって都合よく解釈するようなバイアスがかかる。

 実際に軍勢を観ていないところで義憤に駆られる情報が届いた上、興福寺は藤原氏の氏寺である。そして、松殿基房こと藤原基房は関白を罷免され追放された。ここまで揃えば興福寺が動くのに充分だ。治承三(一一七九)年一一月二七日、興福寺大衆が松殿基房の関白罷免の取り消しと追放の白紙撤回を求めて蜂起した。松殿基房に同情したからというよりも、松殿基房という絶好のシンボルが手に入ったからというのが正解だろう。

 京都には奈良で興福寺が立ち上がったという情報が入り、その情報は延暦寺にも興福寺にも届いて京都の動揺を誘った。

 いつかは始まるであろう反平家の動きが、クーデタから半月も経たずに誕生したのである。

 ただし、このときの反平家の動きのその後の具体的な行動は見えない。より正確に言えば、義憤に駆られて立ち上がったところまではわかるのだが、その後が自然消滅したようなのである。次に興福寺の動きを見るのは翌年二月を待たねばならない。



 平家の手による治承三年の政変で関白が松殿基房から近衛基通に変わったことに対し、興福寺が松殿基房の関白罷免の取り消しと追放の白紙撤回を求めて蜂起したのは既に記した通りである。興福寺にとって松殿基房の境遇は絶好の大義名分である。その興福寺の大義名分に対して世情の人はどのような反応を示したか?

 一言で言うと、納得である。

 松殿基房が関白として優れていたから復帰すべしという理由での納得もある。

 松殿基房の不遇に対する同情を考えての納得もある。

 だが、一番の納得は、新関白近衛基通に対する不信感である。数えで二〇歳という若き関白は確かに頼りないが、それでも二〇歳ともなれば元服もとっくに済ませた大人だ。ところが、この近衛基通には大人らしさが欠落していたのだ。

 そもそも近衛基通は関白たる教育を全く受けてこないまま、そして、貴族としてのステップアップを全く経ぬまま、いきなり関白内大臣に就任したのである。何しろ関白内大臣に就任する前の職務は非参議右中将である。参議すら経験することなくいきなり大臣になり関白になったのだ。これでは議政官の場で学ぶべき政治学を学ぶことなどできようもない。

 右大臣九条兼実は、新関白近衛基通が関白たるに必要な知識を自分のもとに学びに来たことを日記に記している。たとえば、関白としての儀式作法、装束、行事開催手順などのやりとりが九条兼実から近衛基通に教育されたことが判明している。

 問題は、近衛基通が教わったことを全く身につけることができなかったことである。何度も教わっても段取りを間違え、ミスを繰り返し、ミスを咎めたらその原因を他者になすりつける。マニュアルに細かく定められていて、マニュアル通りにこなせばそれで充分な儀式についてですらこうなのだから、マニュアル通りとはいかない日常の政務となると目も当てられない惨状で、九条兼実は甥のこうした失態の連続に対し「関白有若亡(関白は有って亡きがごとし)」とまで日記に苦言を述べている。


 平家がクーデタを起こして権力を握ったことを伊豆にいる源頼朝はまだ知らない。情報への怠慢で知らないのではなく、この時代の情報伝達速度では、京都で発生したことが関東地方に伝わるのに、未確定情報でも半月、正確な情報となると一ヶ月を要するのが普通だ。三善康信からの書状による月に三度の定時連絡を受け、義兄弟である一条能保こと藤原能保からの情報も得ることができたていた源頼朝であろうと、平清盛が福原を発って上洛するという治承三年の政変のスタートが治承三(一一七九)年一一月一四日であるから、断片的な未確定情報であろうと伊豆の源頼朝のもとに届くのはどんなに早くても一一月末、正確な情報として源頼朝のもとに届いたのは一二月になってからであると推測される。ただし、今井雅晴氏の研究によると黒潮に乗ることができれば紀伊半島から相模湾まで三〇時間で航行可能であるとしているので、海路を使い、かつ、京都から向かう一方通行であるが、陸路よりもかなり短時間で情報を獲得できることとなる。

 ここで京都における源頼朝の情報源である三善康信と一条能保について記すと、二人とも表向きは全く目立つ人間ではない。三善康信は算道を職掌とする役人であり、一条能保は藤原摂関家の人物ではあるが時流に取り残されて官職に掴めずにいる。二人ともうだつの上がらない人間というのが周囲からの感想だ。三善康信の母親が源頼朝の乳母の妹であること、一条能保の妻が源頼朝の同母姉とも同母妹ともされている女性であることを知っている人ならばいたかも知れないが、知っている人であっても特に着目するに値しない人物としか考えない。この二人がまさか源頼朝のスパイとなって京都の情報を東国に送り届けていると考える人がいたとしたら、その人の妄想癖のほうが疑われるレベルだ。せいぜい、うだつの上がらない同士で何やら手紙のやりとりをしているとか、やたら筆まめな人だとか思われて終わりだろう。役人でも知ることのできる情報は三善康信自身が、貴族でなければしることのできない情報は一条能保から三善康信を経由して陸路でも片道半月、海路で黒潮に乗ることができればもっと早く伊豆国の源頼朝の元へと届けられることを知らないまま。

 この情報伝達の速度は、陸路の場合は往路だけではなく復路でも変わらず、海路の場合は海流が逆になるので復路は往路よりはるかに時間を要するため、京都の情報が伊豆に届いたのちに伊豆で何かしらの行動が発生して伊豆からの情報が京都に届くまで、未確定情報でも一ヶ月、正確な情報だと二ヶ月を要する。つまり、治承三年の政変から最低でも一ヶ月間は平家のもとへ源頼朝の情報を届けようがない。

 だからといって平家のもとに源氏の行動についての情報が全く届かなかったわけではない。一応ではあるが届いてはいる。ただし、平清盛は情報の重要性を認識していなかったとまでは言わないが、情報の重要性についての認識は源頼朝に大きく劣る人である。それは平清盛に限らぬ平家の面々の各員についても言えることであり、伊豆での源頼朝がしていたような積極的な情報収集を平家はしていない。それに、人間とはどうしても正常性バイアスがかかった情報分析をしてしまうものである。平家にとっての源頼朝とは二〇年前の平治の乱で敗れ去って伊豆に追放となった一三歳の少年であり、馬を操るにせよ、弓矢を操るにせよ、軍勢を指揮するにせよ、父である源義朝に大きく劣った軟弱な武士というイメージが最後の光景である。知識としてならば源頼朝が清和源氏のトップになることは知っていたし、清和源氏がこの世から完全に壊滅したわけではないことも知っている。ただ、源頼朝に対する情報のアップデートがされないままだったのだ。

 平家がこのとき気にかけていた源氏の情報、それは、京都におけるほぼ唯一の源氏の武力であった源頼政である。既に七六歳という年齢を迎え、ようやくの思いで上流貴族の一員たる従三位の位階を手にした源頼政は、クーデタ時点で平家の脅威になる可能性のある武力の一つであり、その動向は平家も無視できないものがあった。後の歴史を知る人は伊豆に追放になった源頼朝のもとに清和源氏の武力が結集したことを知っているが、この時代の平家に源頼朝の挙兵について質問しても笑い話を伴う杞憂と扱われて終わりであろう。それよりも源頼政が兵を率いて平家に立ち向かうことのほうが遥かに恐ろしいことであった。

 その心配が、治承三(一一七九)年一一月二八日に消滅した。従三位源頼政がこの日出家し、家督を嫡男の源仲綱に譲ったのである。これにより、源頼政の武力が平家の脅威となる可能性は消えた、はずであった。

 源頼政も源頼朝も同じ清和源氏である。そして、清和源氏の主流は源頼朝のもとにあり源頼政は傍流である。源頼政がいかに自らの方こそ清和源氏の主流であると訴えても響くことはなく、多くの武士が、京都で従三位にまで登り詰めた源頼政ではなく、伊豆で流人生活を過ごしている源頼朝こそ清和源氏のトップであると考えている。これは何が違うのか?

 源頼朝の家系と源頼政との家系との双方の祖先を遡ると、源満仲に行き着く。源満仲の長男である源頼光の子孫が源頼政であり、源満仲の三男である源頼信の子孫が源頼朝である。後の武士の考えに左右されると、長男である源頼光のほうが清和源氏の主流であり、三男である源頼信の方が傍流ではないかと考えてしまうが、この時代の清和源氏とその家臣である武士たちにその考えは通用しない。この時代の武士に通用するのは、血筋ではなく、平家のクーデタのところでも述べた正統性(レジティマシー)である。清和源氏の正統性(レジティマシー)は源頼光ではなく源頼信にあったのだ。

 源頼光の子孫を摂津源氏、源頼信の子孫を河内源氏と区別することも広く見られ、歴史学の書籍では摂津源氏と河内源氏とを歴然と区別していることもある。その関係を藤原氏でいうなら、藤原北家と藤原南家との関係に近いとも言えよう。政権の主軸を担い続けてきた藤原北家に相当するのが河内源氏であり、政権の主軸から離れてはいるが一応は貴族を定期的に輩出している藤原南家に相当するのが摂津源氏と捉えると近い。そして、藤原北家も藤原南家もそのスタートである奈良時代の藤原四子の時代ではさほどの差異がなかったのに、時代とともに絶望的な格差がついてしまったという点でも似ていて、摂津源氏と河内源氏は最初のうちこそ清和源氏内部における主導権争いを繰り広げている関係でもあったのだが、時代とともに河内源氏、すなわち源頼信の子孫こそが清和源氏の主流であるとみなされるようになったのである。と言っても、摂津源氏と河内源氏との関係は藤原北家と藤原南家との関係ほどに決裂した関係というわけではなく、清和源氏という括りは藤原氏内部での争いより小さなものであった。

 源頼光といえば藤原道長に仕えた武士であり、源頼光の名は頼光四天王と称される源頼光の四人の家臣、渡辺綱、碓井貞光、卜部季武、坂田金時の四人の名とともに今でも轟いている。特に坂田金時の幼少期を描いた童話である金太郎は、今でも子供向けの絵本として、あるいは童謡として、日本国での幼児教育に君臨している。ただし、藤原道長に仕えたということからわかる通り、源頼光の行動範囲、そして、摂津源氏の行動範囲は京都を中心としたものである。貴族としてならば正解であったろうが武士としては大きな痛手であった。京都に滞在し貴族の論理で動く摂津源氏は武士の支持を得ることが難しかったのである。

 一方、源頼信の子孫である河内源氏となると、河内源氏という現在の大阪府南部の名称を無視するかのように主に東国で勇名を轟かせ、多くの武士の支持を手にすることに成功していた。特に支持を得るきっかけとなったのは、前九年の役や後三年の役において、軍勢の主軸を担って前線に立ち、戦に挑む武士たちを率いて戦いに臨み、朝廷の恩賞が期待できなくなったために朝廷の代わりに褒賞を与えた源頼信の孫である源義家である。源義家の威光は没後七三年を迎えてもなお東国において健在であり、源義朝も源義朝自身の武人としての能力だけでなく源義家の直系の子孫であること、そして、源義家と変わらぬ家臣への配慮によって権威と権力を掴んでいたのである。

 この時代の京都は現在と比べ物にならない治安の悪さであったが、それでも東国に比べればマシである。治安の悪さは京都の比ではなく、いつどこで武装した集団が田畑目掛けて襲ってくるかわからぬ恐怖の日々を過ごさねばならず、自分たちを守るのは理(ことはり)ではなく武力であると悟らなければ生きていけなかったのが東国だ。これは人類社会のどこにでも起こることであるが、話し合いの通用しない人であっても殴り合いならば通用する。そして、殴り合いで負けると知っていて殴り合いに持ち込もうとする人はいない。源義家の威光を用いて源義家のときのように強大な軍勢を結集させていれば、殴り合いになったら負けると誰もが理解する。その点を用いることで河内源氏が東国において絶対的な存在感を持ち清和源氏の主軸を担うようになったのである。

 これを平家は知らなかったのか?

 そのようなことはない。むしろ、清和源氏の状況を知っているからこそ、清和源氏のトップに立つこととなる人物として、武士としては軟弱で武将としても頼りにならない源頼朝を残しておいたのである。同じ清和源氏として源義朝とともに平治の乱で武器を手にしながら源頼朝を裏切って平家についた源頼政のことも知識としては知っているが、源頼政が清和源氏全体を率いて武装蜂起することは考えられず、武装蜂起するとしたら清和源氏のうちのごく一部、源頼政個人が率いることのできる軍勢だけであるというのが、治承三(一一七九)年時点の平家における源氏の評価であったのだ。


 平家が政権を担ったことに対する反発はあるが、平家政権を打倒する術(すべ)をこの時代の京都の貴族たちは持っていない。期待するとすれば宗教勢力の蜂起が連鎖して京都に襲いかかることであるが、そこで起こりうるのは確かに平家勢力の掃討ではあるものの、同時に宗教勢力の主導する新たな秩序の構築になってしまう。それまで延々と悩まされ続けてきた宗教勢力が京都において権力を握るとすればどのような事態を招くかは誰もが容易に想像つくことであった。病気に罹るか罹らないかの瀬戸際で病気に罹らない方法を探しているのに、示された選択肢はペストに罹るかコレラに罹るかの二択というのだから絶望しかない。

 それでも絶望の中で生きる術(すべ)を探さねばならない。対抗しようものなら殺されてしまうのだ。ペストに罹るかコレラに罹るかの選択肢しかないなら、罹ってしまった後で完治する方法を探すというのも手ではある。

 もっとも簡単なのは平家政権に追従することである。恥も外聞もかなぐり捨てて平家政権の一翼に加わればこれからの平家政権下でも生きていける可能性はある。

 平家政権への追従は藤原摂関家内部に一つの動きをもたらした。一発逆転のチャンスと考える者が何名も現れたのである。藤原摂関家内部の争いが現在進行形で展開中であり、特に近衛家と松殿家との対立は明白な物となっている。内部で争ってはいても外に対しては一枚岩となることが藤原氏の強みであるが、その強みも現実の藤原摂関家の勢力の相対的衰退の前では充分に活かされなくなっていた。それよりも権勢を掴んだ平家勢力を利用する方が藤原摂関家内部の争いを優位にすすめるための道具になるなら、藤原氏として一枚岩であることよりも平家政権と手を結ぶことも選択肢として有効だ。しかも、平家政権と手を結ぶことは平家政権下で生き延びる術(すべ)になる。

 では、具体的には誰が平家政権と手を結ぶ藤原氏となったのか?

 藤原氏に生まれながら親の権勢は高くなく、将来も期待できない若者たちである。

 治承三(一一七九)年一二月一四日、越前守平通盛が近衛基通第へ関白就任の祝いに訪問したのであるが、そのとき勧学院の学生らも同行したのだ。

 平通盛は平清盛の弟の平教盛の嫡男であり、平清盛の甥にあたる。このときは二七歳であるから勧学院の学生たちから見れば少し歳上になる。勧学院と言えば藤原氏専用の教育施設であり、藤原氏ではあるが父の地位が低い若手の貴族にとって、勧学院での学業で成績を残すことは将来の栄達を手にする最後のチャンスであった、と言えば聞こえはいいが、本来は藤原氏限定の教育施設であった勧学院が、時代とともに、自らの中途半端な生まれを払拭して一発逆転を図る若者の集団へと変貌するようになったのだ。ここで勧学院の学生らが平通盛と行動をともにして新関白近衛基通のもとへ向かったのは、次世代の藤原摂関家の中心は近衛家のもとにあり、近衛家は平家と協力関係にあると示すことで、古い藤原氏の面々ではなく、これからは自分たち勧学院の藤原氏の若者が近衛家と平家政権とともにこの国の中心を担うのだと示す効果があった。


 ここで、平家物語の生みだした創作について語らねばならないことがある。

 それは「禿(かむろ)」と称される少年たちである。

 平家物語は平家に批判する者を監視するために一四歳から一六歳の多くの少年を京都内外に派遣したとする。少年たちは、髪型を禿(かむろ)、すなわち肩までで切りそろえた髪型で統一し、揃いの赤い直垂(ひたたれ)に身を包んで目立っていたという。その上で、平家政権に対して批判的な言葉を口にした人がいるならば「禿(かむろ)」が集団でその人の家に乱入して家財道具を奪い、本人を六波羅に連行していったと平家物語では記されている。そして、ついには「禿(かむろ)」に対しては誰もが表立って非難を加えることもできなくなり、「禿(かむろ)」が道に立っていれば牛車も馬も避けて通り、「禿(かむろ)」は朝廷のどの建物でも自由自在に出入りできるようにまでなったというのが平家物語の記述だ。これではまるで突撃隊や親衛隊、あるいは文化大革命での紅衛兵である。

 平家物語を読んだ人は、平家政権が「禿(かむろ)」を使っていかに言論の自由を奪う圧政を敷いていたのかと憤慨するであろうが、その憤慨は平家物語の作者の想像に乗せられているとするしかない。「禿(かむろ)」という存在が登場するのは平家物語だけであり、その他の資料のどこを探しても出てこないのである。公的記録に登場しないならば平家が圧力を掛けて揉み消したのだろうと思うかも知れないが、プライバシーが守られている個人の日記にも、さらには鎌倉幕府の公的資料であるがために、平家の圧力をいっさい気にしないでいいどころか、平家の悪行を正しく記せばむしろ称賛されることになる吾妻鏡においても「禿(かむろ)」の存在は全く記されていない。

 しかし、紅衛兵たる「禿(かむろ)」の存在は確認できなくとも、平家政権は自らに反する言論を全く認めなかったことは言える。そうでなければ治承三年の政変であれだけの人が職を失い、命を失うことはなかったろう。この前例があってなお平家政権に対してどれだけの人が表だって叛旗を翻すことができるであろうか?

 「禿(かむろ)」は平家の言論弾圧のわかりやすい構図として生み出された存在であろう。ただし、全くの空想ではない。そこには勧学院の若き貴族たちの存在がイメージとして存在したであろうし、後に木曾義仲の率いる軍勢が繰り広げてきた非道もイメージとしてあったろう。鬱屈した人生を過ごしていた中で突然一発逆転のチャンスを手にし、傍若無人に暴れまわった彼らのことを忘れるなどできようがない。それが「禿(かむろ)」という伝承を生み出したのではないか。


 平家政権の成立とは言え、藤原摂関家が連綿と受け継いできた政治体制と比べると脆弱である。

 強固に見える藤原摂関家の政権にしても、その根底は律令に基づく官職の独占と皇室との関係に由来する権力確保であり、一つ一つは律令に違反してはいないが、積み上げてみると律令の精神と合致せぬ摂関政治として成立するというデリケートな性質のものである。システムを構成する一つ一つは律令の規定を逸脱したものではなく、律令に従って官職の歩みをいかに進めるか、そして自派の者をいかに官職途上の道を歩ませて議政官で多数を占めさせるかが権力の基盤となり、その上に皇室との姻戚関係によって摂政や関白となった藤氏長者が君臨するという仕組みなのが摂関政治だ。年月を経てシステム化され前例として確立し正統性(レジティマシー)を獲得するようになったとは言え、本質的にはデリケートな構造であり、デリケートであるがために藤原氏がいかに権威と権力を有していても逸脱することは許されなかったのである。官職の歩みの中には令外官があるではないか、令外官は律令に合致しないではないかとう意見もあるだろうが、令外官は確かに律令に定められたものではないにせよ、一つ一つの令外官は律令に反する目的で創設された官職ではなく、名目上だけであるとしても律令の補完を目的として創設された官職である。

 藤原忠通の息子たちがそれぞれ近衛家、松殿家、九条家を作り出して互いに争うようになってはいるが、争う方法が、藤原摂関政治の先例をいかに素早く、そして正しく踏襲するかであったのも、デリケートではあるが正統性(レジティマシー)を伴って確立されているシステムを逸脱するなど誰もが想像すらしなかったからである。

 一方、平家政権は、藤原摂関政治にあるようなデリケートな、しかしシステム化された手順に則って権力を握ったわけではない。今は出家して一人の僧侶となっているとはいえ元は太政大臣である平清盛の権勢と、平家の持つ剥き出しの武力、そして、高倉天皇との間に生まれた春宮言仁親王の存在が平家の権力の源泉である。とは言え、春宮言仁親王は数えで二歳、満年齢はまだ一歳にもなっていない乳児であり、いくら皇位継承権筆頭であると言っても、また、乳幼児死亡率の高い時代で最高の医療が保障されている皇室の幼児であると言っても、幼児を前面に掲げての皇室とのつながりのアピールは脆弱とするしかない。ただでさえ平家が議政官の過半数を握っているわけではなく、摂政にも関白にも就いていないという藤原摂関家には遠く及ばない平家の権力を絶対なものとするには、春宮言仁親王だけではあまりにも足りないのである。関白近衛基通を平家の操り人形とさせることには成功したが、それとて近衛家と松殿家との対立の末の妥協の産物であり、藤原氏がかつてのように外に対して一枚岩となって、近衛家だの松殿家だのといった対立を乗り越えて藤原氏として平家と対抗するようになれば、平家は議政官の権力の前に敗れ去ることとなる。

 平家はこの状況をよく理解していた。だからこそ、次の帝位を約束されている春宮言仁親王を平家で全面的にバックアップし、春宮言仁親王の背後に平家がいることを広くアピールする必要があった。幼児であるがために皇位継承権に相応しくないという意見を、春宮言仁親王の背後に平家が剥き出しの武力で控えていると示すことで封じることが可能となるのである。それがいつのことになるかわからないが、春宮言仁親王が帝位に就けば平家の権勢は安泰なものとなり、平家政権は強固な正統性(レジティマシー)を獲得する。治承三(一一七九)年一二月一六日に春宮言仁親王を祖父である平清盛の私邸である西八条亭に行啓させた際に平清盛が春宮言仁親王を抱いて離さなかったという逸話があるのも、平家政権の現在と未来が、生後一年を迎えてもいない春宮言仁親王との関係にかかっていたからである。


 平家は春宮言仁親王が帝位に就くことを隠さぬようになっていた。

 具体的な日付は不明であるが、治承三(一一七九)年一二月中に後院庁を設置したことが判明しているのである。後院庁とは現在の天皇が譲位して上皇となったのちに御所となる住まいのことであり、また、譲位後の生活を支える経済基盤そのものを指す。この時代となると後院庁が荘園を持つことも可能となっており、天皇自身が荘園を組み込むことはできなかったが、院政成立後の権勢のために後院庁へ荘園を寄進することも珍しくなかった。高倉天皇も後院庁が在位中に設けられること自体はおかしなことではない。だが、高倉天皇はまだ数えで一九歳、満年齢でも一八歳だ。帝位に就いて一一年を経過して一二年目に突入しているとはいえ、譲位するとは考えられない年齢である。繰り返し記すが、春宮言仁親王はまだ生後一年も迎えていない乳児だ。

 この乳児への譲位を前提とした後院庁の設置が意味することは誰にでも理解できた。平家はそう遠くない未来に高倉天皇から春宮言仁親王への譲位を計画しているのだ。おまけに高倉天皇の後院庁の財源として後白河法皇の持つ院領を没収して高倉天皇の後院庁に組み込むと発表した。こうなると後白河院政は政治機能としてだけでなく経済的基盤も失うこととなる。

 既に関白近衛基通は平家の手に落ちている。ここで高倉天皇が譲位して上皇となり、後院庁をそのまま高倉院へと昇華させて高倉院政を確立させれば、藤原摂関政治だけでなく院政もまた平家政権の一翼を担わせることが可能となる。高倉院政を操ることができれば関白近衛基通を傀儡とさせる必要すらなくなるのだ。

 自らの所領を奪われた後白河法皇がどのような思いであったろうか。

 そういえば、文化人としての後白河法皇を伝える梁塵秘抄の成立はこの治承三(一一七九)年である。この時代の流行歌全集ともいうべき梁塵秘抄に現実逃避し、大好きな今様を歌い続けて気を紛らわせていたのかもしれないと考えると哀愁も感じる。


 京都では平家政権が確立され、危惧された宗教勢力の蜂起は奈良の興福寺が立ち上がったと思ったらすぐに消え、京都に唯一残った源氏の武力である源頼政は出家して第一線から退いた。

 しかし、地方に目を向けると平家政権樹立直後の行動がのちに大きな影響を与えていたことがわかる例が見つかるのである。

 それは上総国、現在の千葉県中部での出来事である。

 後に源頼朝とともに立ち上がることとなる関東の武士の一人として、上総介広常という人物がいる。この人物の本名は平広常といい、名前からしてわかる通り平氏の一員であるが、平清盛ではなく、関東地方の平氏たちと同様に武士として源義朝と行動を共にし、平治の乱でも源義朝とともに行動し、敗れたのちは領地のある上総国までなんとか脱出することに成功している。波乱万丈な経歴ではあるが、これでも典型的な関東武士の経歴である。

 この人物が上総介広常と呼ばれるようになったのは本当に上総介になったからではなく一族から多くの者が上総介に就任していたからで、平広常にとっての上総介は通称より転じた苗字である。なお、論文の中には平広常のことを上総介広常ではなく上総広常と「介」の文字を付さぬ名で記す論文もあるが、本作では上総介広常という名を用いる。

 上総国は親王任国であるために親王が国司に就く場合を除いては国司に守(かみ)はおらず介(すけ)が国衙のトップに立つ。親王が上総守に就いたとしても実際に上総国に赴任することはなく、必然的に上総国の統治は上総介が受け持つこととなる。平広常の祖先の多くが上総介に就任して上総国の統治にあたっていたのは長元元(一〇二八)年から三年間に亘って繰り広げられた平忠常の乱による損害が多大であったためで、戦乱前は二万二〇〇〇町あった作田が、三年後の戦乱終結後にはわずか一八町にまで減っていたという大損害を上総国は被っていたのである。この損害からの復旧を担ってきたのが地元の有力武士団のトップである上総国の平氏であり、朝廷から位階を受けた上で上総国司に任命してもらうことで、在地の武士団の勢力を利用して上総国の復旧を図ってきたという経緯がこれまで存在していた。そして、前述の通り上総国は親王任国であり、上総国司に任命された親王が上総国に赴任することはないため、上総国の復旧はただ一人の国司でもある上総介の手腕にかかることとなっていたのである。

 もっとも、平忠常の乱から一五〇年ほど経過している。ここまでの時間経過があれば臨時措置たる在地の武士団の国司任命ではなく、他の国と同様に中央からの国司派遣のほうが通例になる。それでも何代にも渡って上総介を輩出してきた家系であることは無視できず、上総国最大の武士集団でもあるこの平氏の武士団のことを周囲は上総介と呼ぶようになり、いつしか上総介が苗字となっていた。つまり、上総国で上総介といえば、本当に国司である上総介と、何代にも渡って上総介を務めてきたために上総介が苗字となった在地の平氏の二人がいるようになったのである。それでも混乱が起こらなかったのは、在地の平氏である方の上総介氏が朝廷から派遣されてきた国司の上総介と協力体制にあり、また、朝廷から派遣されてきた上総介が在地の平氏である方の上総介氏の権利を侵害しなかったからである。

 この安定が治承三(一一七九)年一二月に壊れた。

 平家政権が新たに任命した上総介は藤原忠清である。藤原忠清は本名であるが、史料には必ずしも本名が記録されているわけではなく、保元物語などでは源為朝と対峙した伊藤兄弟の兄である伊藤忠清として名が残っている。保元物語に名が残っていることからもわかる通りこの人は藤原を姓とする身ではあるが平家に仕える武士であり、その後も武士としての功績が記録に残っており、平治の乱の直後には平清盛の命令に従って、二条天皇の側近である大炊御門経宗と葉室惟方を逮捕したことが愚管抄に記されている。

 その後、左兵衛尉を経て、嘉応二(一一七〇)年に右衛門少尉へと出世した後、何らかの理由で上総国へと配流となった。そのとき伊藤忠清は上総介広常の歓待を受けたことが源平盛衰記に記録されている。つまり、伊藤忠清と上総介広常とは見知らぬ間柄ではない。

 その後、配流が解けて京都に戻った伊藤忠清は内裏の警備を職務とするようになり、安元三(一一七七)年四月の延暦寺の強訴では警護として出陣。その際、伊藤忠清の放った威嚇射撃の矢が神輿に命中したのがきっかけとなり延暦寺に死傷者を生じさせている。前歴を見ると、その武力は頼りになるものの、何かをやらかすことの多い厄介者というのが平家における伊藤忠清であったと言えよう。

 その伊藤忠清が治承三年の政変で解官となった藤原為保の交替として上総介となり、同時に従五位下に叙せられたのであるが、平家物語はこのように伝えている。伊藤忠清は「坂東八ヶ国の侍の別当」、すなわち関東の武士団を統率する権限も与えられての上総国司就任であったと。かつては配流先であった上総国に対し、今では国司様、しかも上総国だけではなく関東地方全域の武士団を統率する公的権威を得た地位への就任なのだから、伊藤忠清がどのような思いで上総介に就いたかは容易に想像できる。

 ただし、それが現地の武士団の怒りを買わずに済むかどうかとなると話は別だ。いや、怒りを買わないとすればそのほうがおかしい。国司として赴任してくるだけならわかるが、いきなり自分たちの上に立って全権を掌握しようというのである。それでも道理に従って武士たちに接したならば法に基づくこととして受け入れられもしようが、それすらも無い。平家によって関東地方の王者として君臨することとなったのだから、関東地方の武士たちは問答無用で全員自分にひれ伏すようにというのが伊藤忠清の態度であったのだ。

 この時点ではまだ伊藤忠清本人が赴任してきてはいない。赴任してきてはいないが京都からは連絡は届いてきている。このまま伊藤忠清が上総国にやってきたら武力衝突間違いなしという状況であることを察した上総介広常は、武力ではなく道理に基づく解決を求め、自身の代理として息子の上総介能常を京都に派遣した。伊藤忠清に関東地方の武士たちの反発を伝えるためである。既に述べたように伊藤忠清は以前、上総国に配流となって上総介広常の世話になったという過去がある。そのため、上総介広常の息子のことは知らぬ仲ではない。知らぬ仲ではない上総介広常の息子の言葉を受け入れることで、すなわち、関東地方の武士たちの現状を受け入れることで、上総介広常は伊藤忠清が考えを改めることを期待したのである。

 ところが、伊藤忠清は話を聞くどころか上総介能常を拘禁したのである。京都に息子を派遣して事態の早期解決を図った上総介広常であったが、京都から戻ってきた答えは解決どころか息子の拘禁。これではどんなに穏健的解決を図ろうとした人であっても反発を示す以外ありえない。上総介広常はどのような理由での処遇であるかと今度は平清盛に向けて連絡を取るが、そこからの答えは伊藤忠清の命令の方が正しく上総介広常は平家の一員として上総介に従えというものであり、これが上総介広常の決意を固めることとなった。

 既に述べたように広常の本名は平広常という。書状でも、公的書類でも、上総介という苗字ではなく平姓を名乗っている。しかし、いくら同じ桓武平氏でも、上総介広常は平家ではない。平家とは平氏のことではなく平清盛に従う一派のことであり、上総介広常は平家の一員になった覚えなどない。上総介広常は関東地方土着の武士団の一員であり、平姓ではあっても自分は源氏の武士団の一員であると考えている。そこに平家の一員として平清盛の命令に従えという命令が来たところで、上総介広常にはその命令に従う道理などない。平家がクーデタを起こしたことは知識としては知っているが、朝廷が命令を出したのならばともかく、理論上の平清盛は既に政界を引退して福原に住まいを構える元太政大臣の一僧侶である。朝廷に仕える身として天皇から、あるいは朝廷からの命令が降ったのであれば従うのは当然ではあっても、平姓であるが平家ではない上総介広常には平清盛の命令に従えと言われて従う義理などないのである。


 年が明けた治承四(一一八〇)年一月二〇日、皇太子言仁親王の魚始の儀が執り行われ、数えで三歳になったばかりの幼児への帝位継承路線が広く広報された。通常であればその幼さでの帝位などありえない話であるが、実の祖父が平清盛であるとなると話は変わる。出家したために不可能となっているが、仮に平清盛が出家しないでいたら、藤原氏ではなく平清盛が摂政に就任することも許される関係である。

 平清盛はこの時点で上総国での上総介広常からの連絡を知っているが、同じ平氏なのだから平家の命令に従うべきであり、命令を下した以上これで問題は解決したと確信している。繰り返すが、この時代の情報インフラでは関東地方の情報が京都にやってくるのに早くても半月を要する。馬を乗り継ぐことでより素早い情報連携は可能となるがそれでもタイムラグは絶対に存在し、現在のようにリアルタイムでの情報連携など夢の世界の話である。ちなみに、何度か書いてある黒潮に乗ることでの海路を用いた情報伝達時間の短縮は西から東に向かうという前提なので、黒潮の逆になる東から西への情報伝達はとてもではないが三〇時間で済むわけない。

 それに、平清盛という人は積極的に情報を集めようとはしない人である上に、自分に絶対の自信を持っている。自分の命令は、それがどのようなものであろうと滞りなく遂行され、結果も自分の考えた最良の結果に終わることを確信しているのが平清盛という人だ。それもあって、この時点での平清盛は自分が送った命令が関東地方に届いて命令が滞りなく遂行されること、すなわち、伊藤忠清のもとに関東地方の平氏の武士が平家の一員となって結集することを確信し、これで問題は解決したと考えている。このあたりが平清盛という人の他者認識力の低さとも言えよう。あるいは、クーデタに成功して日本の全ての権勢を我が物とすることに成功したことへの驕りとも言うべきか。

 もっとも、平家勢力の中に不穏分子がいることの認識ならばできたようで、三日後の一月二三日に、治承三年の政変の際に右衛門督を解官された平頼盛が出仕を許されている。平家における不穏分子の一掃という視点であれば平頼盛の失脚は平家政権の強化につながったが、有力な武人であり、また、貴族としても亡き平重盛に次ぐ存在であった人の不在は平家政権をか細くすることになる。平頼盛不在を維持して平家政権をか細い代わりに強固なものとするか、平頼盛を戻すことで平家政権をもろい代わりに太くするかという選択肢で、平清盛は平頼盛の復帰を選んだ。

 これを平頼盛の立場で捉えるとどうであろうか?

 そもそも解官されたことのほうがおかしいのであり、出仕を許したから感謝しろと言われてもそんな感謝の気持ちなど抱きようがない。平家の一員としての行動はするが、これで次があると思ったらお人好しにすぎる。それでも平頼盛は平清盛の恭順の意を示している。平家の一員である以上、平頼盛には平清盛に従うことが求められる。単に弟が兄に従うというレベルの話ではなく、この時代に生きる一人の平家の武士として、生き残るのに必要なのは平清盛に従うことなのだから。

 本心は別として。


 治承三年の政変によって軟禁状態に置かれることとなった後白河法皇は憔悴状態に陥っていたという。中山忠親こと権中納言藤原忠親の日記によると、治承四(一一八〇)年一月下旬に医師の診断を受けた際に後白河法皇は、医師に対してもう一度熊野詣に行きたいと涙ながらに訴えたという。

 熊野詣はこの時代の上流階級における最大級のレジャーであるが、京都を一ヶ月は離れる必要があるため簡単に赴(おもむ)けるものではなかった。熊野詣に赴(おもむ)くとすれば事前に準備をし、留守中の手筈も全て整えた上で、何月何日から出発すると事前に告げてから執り行うのが通例である。事前準備はかなり綿密に執り行わねばならないが、熊野詣にはその綿密さを埋め合わせるに充分な見返りがあった。自由さだ。熊野詣は皇族であろうと、船に乗っているとき以外は自らの足で歩かなければならないが、その代わり自由である。京都では体験できない自由がある。天皇を退位して上皇となり、さらに出家して法皇となると行動の自由が以前より利くようになるが、その自由も熊野詣の自由とは比べものとはならない。ちなみに、最新の流行を熱心に求めてきた後白河法皇は当初、時代遅れの流行であるとして熊野詣に対して興味を持っておらず、生まれてはじめて熊野詣を体験したのは平治の乱のあとのこと。現在の感覚で行くと、長期休暇を海外で過ごすのを古い世代の流行として興味を示さないでいた人が、いざ体験してみたら海外旅行を趣味とするようになったというところか。それまで興味の対象でなかった熊野詣の自由を体験した後白河法皇は、それまでの無関心を覆すかのように生涯に最低でも三三回も熊野詣に赴いたことが記録に残っている。多いと思うかもしれないが、毎年年末年始をハワイで過ごす人のことを考えれば不可思議な回数ではない。我々庶民には夢の話でも、後白河法皇は庶民ではなく法皇なのだ。

 一度自由を体験した人にとって不自由は何よりも苦痛である。話を治承四(一一八〇)年一月に戻すと、かつては自由自在に動き回ることが許されていた、それこそ熊野詣に赴こうと完全に自由であった後白河法皇が、今では鳥羽離宮の建物の中に閉じ込められるようになったのである。しかも、後白河法皇が幽閉されている鳥羽田中殿に出入りが許されているのはごく一部の者だけである。この日常は、後白河法皇にとってものすごいストレスであったろう。

 さらにここに着目すべきは医師がどのように後白河法皇を診察したかである。診察したのは典薬頭である和気定成であり、典薬頭というのは律令制における公的医療のトップにして現役医師のトップでもある人物である。厚生労働大臣に日本医師会の会長が就任しており、かつ、その厚生労働大臣兼日本医師会会長が診療していると考えていただければ、和気定成がどのような人物であるか想像できるであろう。そして、そのような医師が法皇を診療すると耳にしたら、法皇を診察する医師としてこれ以上の人物はいないであろうと誰もが感じるであろう。法皇が病院に足を運ぶのではなく、医師のほうが法皇のもとに足を運ぶことに違和感を覚えた人がいるかも知れないが、このような診療システムはこの時代に限らず昭和時代の途中まで珍しくはなかった。法皇ともなれば医師のもとに足を運ぶなどありえず、医師のほうが法皇のもとへと足を運ぶのが当たり前である。

 問題は、和気定成が診療に赴く際に平宗盛が特別に許可を与えたことである。体調が目に見えて悪化しているからと言って簡単に診療を受けることはできず、命に関わることですら平家の許可を得なければできなくなっているのが治承四(一一八〇)年一月時点の後白河法皇なのである。

 この一点に着目しただけも平家政権の権勢を計り知ることができる。


 平家政権の権勢は、治承四(一一八〇)年一月下旬からピークを迎えた。一月二八日、平重衡が二四歳で蔵人頭に任じられたのである。かつての藤原摂関家の若者であれば珍しくはなかった年齢での蔵人頭への就任であり、また、春宮亮を兼任したままでの蔵人頭就任である。少し前であれば平家の若人が二四歳という年齢で春宮亮を兼務したまま蔵人頭に就くことは驚きを呼び寄せたであろうが、今や誰も驚きはしない。今は平家の時代なのである。だが、これはピークへの序章に過ぎない。

 およそ一ヶ月を経た治承四(一一八〇)年二月二〇日、平清盛の求めに応じて、摂津国大輪田泊の経が島の修造のため、日本全国に対して人員を送り出すように命令が発せられたのである。平重衡を蔵人頭に送り込んだことの効果が発揮された結果だ。高倉天皇は反発を見せたようであるが、時代はもはや高倉天皇の反発も許される時代ではなくなっていたのである。

 そもそも人員を送り出すとはどういうことか?

 大輪田泊の工事をする人員もたしかに不足していたが、大輪田泊を利用する船の船員が不足していたのである。船にエンジンなど搭載されていないこの時代、帆が風を受けることができないときに船を動かすには櫂を漕がねばならない。小舟ならともかく国際貿易に用いる輸送船ともなると船は大型になり、輸送船の櫂を漕ぐために必要となる船員、すなわち水夫の人数は、一つの船に一人二人という人数ではなく数十人、多いと百人以上は必要となる。そして、船に乗り込む人数はそのまま海運費用に跳ね返る。何しろ水夫の人件費だけで積み荷の一割を超える予算が必要なのがこの時代の水運だ。

 同じ船に乗り続けて最初から最後まで航海する水夫は珍しくないが、風が期待できる範囲は水夫を少なく、風が期待できない範囲は多くの水夫を集めて航海する、つまり必要最小限の人員で航海することで輸送費を減らすことも珍しくなかった。そうすれば人件費を節約して海運費用を節約できる。裏を返せば、櫂を必要とする海域に近い港に水夫が多く在住するようになれば、その港に寄港する船も増え、物資の積み卸しそのものの需要だけでなく水夫の乗り降りの需要が生まれれば港が発展する。

 平清盛は福原近郊の大輪田泊の発展を考え続けてきた人である。その人の脳裏に大輪田泊の水夫のことが欠け落ちているなどあり得ない。実際、大輪田泊に水夫を多く常駐させるようにしてきたし、そのための待遇改善もずっと図ってきていた。そうすれば人が多く大輪田泊に集まる。だが、大輪田泊に常駐する水夫の人数と大輪田泊で水夫を求める船の数との需給バランスが崩れてきていた。人件費をより多く払って船を動かすのに充分な人数を集める代わりに輸送費も増やすか、輸送費を維持するために船に乗せる水夫の数を減らすかという局面に至っていたのである。たとえば、本来ならば二〇名の水夫が必要な船であるところを一六名に減らし、一人あたり一・二五倍の仕事量とさせる船まで登場した。人手を減らして無理をさせて、無事に航海できてしまったら水夫の勤務状況は厳しくなるのが通例化してしまうこととなる。無事に航海できなかったら海難事故を招いてしまう。前者は人命を、後者は人命と物資の双方が失われる。

 需給バランスが崩れてきているのに加え、日本全国で見ると失業者は多い。そうした失業者を水夫とすべく大輪田泊に集めることに成功すれば、水夫と船との需給バランスが正常化し、失業者も減る。

 良いこと尽くめでは無いかと思うかも知れないが世の中そう簡単には行かない。

 平家の手によって貨幣経済が導入されつつある。つまり、平家のもとで雇われた場合、支払われるのは貨幣、具体的には宋銭となる。大輪田泊の水夫たるべく住まいを移すとなると大輪田泊とその近くにある福原に住まいを構えることとなる。現在であれば現金を得ることがそのまま豊かさを意味するが、この時代はそうはいかない。首都京都であれば日本各地からの物流があるから貨幣を手にして市場に出向けば生活必需品を買うこともできるが、このときの福原はまだ首都ではない。平清盛が現在進行形で造成させている一地方都市である。現在のように神戸から京都まで日帰りで気軽に移動できる環境があるならまだしも、この時代の福原と京都の間はとてもではないが一つの経済圏として認識できるような関係ではない。福原に住まいを構えて水夫として船を操り報酬を得たとしても、得た報酬、すなわち貨幣で買えるものには限度がある。

 するとどうなるか?

 福原での局所的な貨幣過剰供給に起因するインフレだ。大量の現金を手にできるということで物資を平安京ではなく福原に持って行こうと考える人もいるかもしれないが、この時代の宋銭は平家が導入しようとしている貨幣という位置づけでしかなく、日本国内全体に広く流通する貨幣とまではなっていない。欲しいものがあれば貨幣を持って市場に行くのではなくコメや布地を持って市場に行くのが通例で、宋銭は宋銭で価値のあるものだと知識としては知っていても、平安京で店を構える人は宋銭ではなくコメや布地との交換で物を売ろうとする。大輪田泊で働いて宋銭を手にし、数日掛けて平安京まで出向いて欲しいものを買おうとしても、市場では謎の銅の塊を渡して者を持って行こうとする怪しい人としか扱われない。背後に平家が控えているのであればその武力の前に怯んで宋銭と物資を交換する人も現れたが、それは商売ではなく恐喝だ。

 海外交易を考えたならば銅貨を給与とするのは問題ない、むしろ喜ばしい話ではあるのだが、日本国内に住み続けることを考えるのであれば銅貨が給与であることは職業選択においてむしろマイナスになってしまうのである。職業選択の自由を憲法で定めている現在に限らず、この時代においても自身の望まぬ仕事には就かなくてもよいと考えて行動する権利はある。平清盛にしてみればかなり高い給与を用意してこれから経済の主軸になる宋銭を給与として支払っているのであるから不満は無いはずなのに、なぜか人が集まらない。だからこそ、各国に命じて失業者を大輪田泊へ連れてくるようにと命令した。庶民の就業の自由を認め、大輪田泊の水夫としての徴集に応じるくらいなら失業状態である方がまだマシであるとする庶民の反発に理解を示した高倉天皇ではあったが、蔵人頭に平清盛の五男である平重衡が就いたことで自らの意思を政務において示すのはもはや困難であることを悟った。


 その翌日である治承四(一一八〇)年二月二一日、高倉天皇が退位し、春宮言仁親王が践祚した。安徳天皇の治世の開始である。

 治世開始とは言え、安徳天皇はこのとき数えでまだ三歳、満年齢でも二歳にはなっていない幼児である。当然ながら摂政は必要であり、高倉天皇の関白であった近衛基通が高倉天皇の退位とともに関白を辞職し、同時に安徳天皇の摂政に就任した。

 それまで関白であった者が天皇の退位とともに関白を辞し、新たな天皇の摂政や関白になるのは藤原摂関政治における通例である。そして、春宮、すなわち皇太子の皇位就任に伴って、それまで皇太子の周囲に仕えていた人たちがその職務を解かれるのも通例である。たとえば平知盛は春宮権大夫を辞任し、春宮亮を兼任していた蔵人頭平重衡は春宮亮を辞任したのも通例通りではある。だが、平重衡が安徳天皇の蔵人頭を今後も継続して就任することは驚きを持って迎え入れられた。たしかに一ヶ月前に就任したばかりの蔵人頭であるから就任してすぐの辞任はあり得ないと言えばその通りであるが、本来は天皇の秘書役である蔵人頭は天皇の譲位とともに交替するほうが普通であったのである。

 しかし、平重衡は高倉天皇の譲位とともに安徳天皇の蔵人頭に移った。一見すれば前帝からの政務継承ということになるが、数えで三歳の幼児を天皇とする政権が誕生したことを考えると、そう脳天気に捉えるなどできない。

 高倉天皇は退位時に、平家への反発としてか、前例にないことを画策したようである。

 それは、上皇にならないこと。

 天皇が退位すれば自動的に上皇、すなわち太上天皇になるのではなく、天皇を退位した後に上皇宣下を受けてはじめて太上天皇に就任するという仕組みになっている。理論上は。

 実際には帝位を退くと同時に上皇宣下が天皇より発せられ、退位した前天皇は太上天皇に就くのが通例であり、基本的には空白の時間を持たないことになっている。新天皇が幼帝である場合でも摂政がいれば上皇宣下は可能だ。そのためただちに高倉上皇誕生となるように上皇宣下への準備を整えようとしたのだが、高倉院が上皇への就任に難色を示すとなると話がこじれることとなる。

 二条天皇のように退位してから三日後に太上天皇に就いた例はあるし、もっと遡れば嵯峨天皇が退位した際には平城上皇が健在であったために上皇が複数名存在することが許されるのかという議論が起こったために、嵯峨天皇は退位してから九日間に渡って天皇でも上皇でも無い時間を迎えたことがあるが、こうした例は珍しいからこそ特筆される話である。ついでに言えば、嵯峨上皇が先例となって複数の上皇は問題なしとなっている。退位した天皇は死を迎える以外に上皇になることを逃れることはできず、命に関わる状態になっていたために上皇宣下が遅れた二条上皇は例外中の例外であると言えよう。この時代になると、帝位に就いたまま死を迎えることを凶事と扱い、一日どころか数時間だけの話になろうと天皇の死が予期されれば退位させて上皇とさせてからの上皇崩御という体裁をとるまでになっていた。有名な例では長元九(一〇三六)年の後一条上皇の崩御がある。後一条天皇が崩御したことが秘匿され、後一条天皇が退位して後朱雀天皇に譲位した後に後一条上皇が崩御したと公表されたのである。

 という時代にあって高倉天皇は上皇への就任に難色を示したのだ。上皇になること自体は問題ない。しかし、平家が新しい上皇に何をさせようとしているのかを考えると、問題が続々と露顕する。

 高倉院政だ。

 院政そのものは通例の政治体制として確立していた。治承三年の政変で後白河法皇が幽閉されたことで院政が停止しているが、安徳天皇の即位時点では院政という政治システムそのものが喪失したわけではない。存在はしているが機能していない状態である。その院政というシステムを、高倉院を擁することで復活させようというのが平家の思考である。高倉院の院政を念頭に置いた後院庁については前年一二月中にすでに設置され、院の財政基盤も現在進行形で構築されてきており、あとは退位後に後院庁が高倉院となることを待つのみであった。

 ここで高倉上皇が誕生しないとなると高倉院政は成立しなくなる。しかも、退位した天皇に対する上皇宣下がほぼ自動的であるというのは慣例であって、法で定められている話ではない。上皇宣下があるために上皇は天皇から与えられる地位ということになってはいるが、院政が通例化し、上皇の権威がこれ以上なく高まっていた時代において、いかに幼帝ゆえに摂政の権限を行使できようと、これから上皇になろうとする人の意向を無視するのは現実問題として難しい話だ。

 かといって、高倉院の側もいつまでも上皇宣下の拒否を続けることは不可能であった。本人がどんなに上皇になることを拒否し続けていても、上皇宣下がなされると自動的に上皇になるのである。これも嵯峨上皇が先例となるのだが、嵯峨前天皇は何度か上皇宣下を拒否したものの、最終的には上皇宣下の拒否が受理されなかったために自動的に太上天皇となったという例がある。つまり、本人の意思に関係なく上皇宣下がなされれば退位後の天皇は自動的に上皇となる仕組みになっている。

 これは明らかに上皇宣下を利用した政略である。そして、高倉院は政略として一つの意思を示した。上皇宣下を受けるなら一つだけ条件があるというのである。

 その条件とは、上皇になっての最初の社参を厳島神社とするというもの。慣例として、石清水八幡宮、賀茂社、春日社、日吉社のいずれかが上皇宣下直後に上皇が赴く最初の社参社であったから厳島神社という選択肢は異例中の異例だ。治承四(一一八〇)年二月二一日の高倉天皇の退位は、上皇宣下後の最初の社参社を厳島神社とすることを付帯条件として発せられたのである。

 高倉院から出されたこの付帯条件は平家にとって思いも寄らない最高の条件であった。この時代の人の中に平家と厳島神社との関係を知らない人などいない。そして、上皇宣下後の高倉院の最初の社参社が厳島神社であると発表されれば、これからは平家の時代になるのだと強く印象づけられることとなる。平家として悪い話では無い。その条件を飲まなければ高倉院が上皇宣下を受けないと言っているのだから、今後の高倉院政を考えても、ここは付帯条件を受け入れるのが現実的な話である。

 だが、石清水八幡宮、賀茂社、春日社、日吉社といったこれまでの社参社にとっては社のプライドを踏みにじられたことになる。

 そして、この時代の神社の背後には有力寺院がある。

 高倉院の最初の社参社を厳島神社とするという発表は、延暦寺、園城寺、興福寺といった大寺院の反発を招くに充分であった。

 治承三年の政変後、平家と武力で渡り合うとすればそれは寺社勢力しかなかった。後世の人は源氏勢力を思い浮かべるであろうが、この時代の人が源氏勢力を思い浮かべるのは難しい。一部の人は知識として清和源氏がまだ滅んでいないことを知っているというだけで、清和源氏が健在であることを知っている人も含め、清和源氏が武装蜂起して平家と渡り合う時代が来ると思っている人などおらず、平家と武力で渡り合う勢力が現れるとすればそれは寺社勢力であろうというのがこの時代の人たちの考えである。そして、高倉院はこの思いに乗った。

 上皇宣下後の最初の社参社が石清水八幡宮か、あるいは賀茂社か春日社。そのいずれもできないときは比叡山にある日吉社というのが通例であり、どの寺社勢力もそれについては何も言わなかった。南都北嶺の対決の中にあっても、新しい上皇の最初の社参社が敵対する寺院の配下の神社であったとしてもやむなしとするのが暗黙の了解として存在していた。

 その暗黙の了解を高倉院は無視したこととなる。

 対立している勢力の間でも通用している暗黙の了解が壊れたとき、対立している勢力はどのような行動を見せるか?

 大同団結である。

 共に反発している間柄であるがために相手の事情は熟知している。そして、反発している間柄に共通の敵が登場した。こうなると、それまでの反発はそのまま放置し、手を取り合って共通の敵に向かい合うことを選ぶようになる。治承四(一一八〇)年二月二一日時点における寺社勢力の共通の敵として平家が認識されるようになったのだ。

 最初に動いたのは、高倉天皇の付帯条件のニュースを最初に接した比叡山延暦寺である。この時代はインターネットも、電波も、新聞もない。朝廷からの情報が届くまでの時間は京都からの距離に比例する。それも数分とかの話ではなく数時間、さらには数日という話になる。有力寺社勢力の中でも京都に近い比叡山延暦寺が高倉院の付帯条件を最初に接し、最初に行動を起こすのは何らおかしな話ではない。

 比叡山延暦寺はただちに園城寺や興福寺に使者を派遣した。これまでの対立を一旦棚上げし、協力して平家政権に向かい合おうというのである。

 比叡山延暦寺は京都に近い。京都からの情報がすぐに延暦寺に届くということは、延暦寺からの情報がただちに京都に届くということでもある。これまで何度も京都市民は延暦寺の武装デモに苦しめられてきた。その延暦寺の武装デモを退治してくれたことは、数少ない平家への感謝の要素となってはいたが、今や平家の方が憎しみの対象となっている。というタイミングで比叡山延暦寺が園城寺や興福寺に使者を派遣して共同戦線を組むという連絡が届いたのである。これで京都は混乱に陥り、平家はここで高倉院の出した付帯条件の意味を知った。高倉天皇は寺社勢力と手を組んででも、自身の院政に平家を関わらせないことを画策したのだ。

 延暦寺からの情報は続々と届き、園城寺と興福寺からの情報が延暦寺からの情報を補完した。特に園城寺からは強い協力の意思が示された。園城寺のトップは後白河法皇の第四皇子である円恵法親王であり、そのすぐ側には円成という名の僧侶がいた。円成は源義朝の第八子で源義経の実兄である乙若丸の出家後の姿である。円成は自分がなぜこのような境遇にいるのかをよく理解していた。そして、父と兄たちを死に追いやり、自分と母と兄弟たちを追放しあるいは寺院に追いやったことへの強い憎しみを抱いていた。園城寺のトップである円恵法親王自身はそこまで強い協力の意思を示していなかったのだが、円成の境遇に同情を示している園城寺の僧侶は多く、平家への反発心から強い同意が形成されたのだ。

 興福寺からも同意の意思が示されたことから三つの巨大寺社は勢力を結集して武装デモを企画した。デモの要求事項は二つ、一つは後白河法皇の幽閉解除、もう一つは高倉院の保護である。後者は厳密には厳島神社への参詣の撤回であるが、要求を文字通りに解釈すると、新たに院政を始める高倉院の身辺警護は平家ではなく寺社の僧兵が担うこと、すなわち、高倉院政に平家を関与させずに寺社勢力がそれまでの平家の位置付けで参画することを意味する。

 これで京都内外が騒然となった。


 治承四(一一八〇)年二月二五日、平知盛が新院別当となった。まだ正式に高倉院政は始まっていないが平家主導の高倉院政の準備が続々と事実化されてきていた。寺社勢力の要求に対する平家の答えは明白であった。いかなる要求も受け入れず、全面対決であろうと受けて立つというものである。それは平安京が戦場になろうと構わないという強硬姿勢であった。

 平家のトップである平清盛がこのとき平安京にいたら、あるいは平安京のすぐ隣にある六波羅にいたら、迷うことなくこのときの京都の空気を察知して別の指令を出したであろうが、平清盛がいたのは摂津国福原である。どんなに早馬を走らせても情報が届くまで一日は要する上に、その情報はかなり編集されている。平清盛という人は源頼朝と違って自発的に情報を集めようとする人ではない。こういう人に情報を届けるとき、真否を問わずとにかく最新の情報を送るようなことはない。情報を送り出す側にとって正しいと判断すべき情報だけが選別され、その上で脚色されて手紙に記される。要は、平清盛にとって都合の良い情報だけが平清盛の元に送られることとなる。

 摂津国福原から届く平清盛からの司令は、予定通り高倉院政を開始することと、付帯条件である厳島神社への社参を実行すること、そして、反発する者には平家の武力をぶつけるというものである。

 良かれ悪しかれ平家というのは一枚岩である。平清盛の命令は絶対であり、平家の一員たる者になったら最後、平清盛の命令に逆らうことは絶対に許されない。平清盛の命令に背くだけでなく、公衆の面前で平清盛を叱りつけた平重盛という例外はいたが、平重盛はもう故人である。今の平家の面々に平重盛のような意思や行動を持つ者はいない。

 治承四(一一八〇)年二月二七日、安徳天皇の名で正式に上皇宣下が発せられる。これにより正式に高倉上皇が誕生し高倉院政が開始となり、高倉上皇の周囲は平家の軍勢が構えるようになった。この様子を知って、高倉院政に平家は全く関与しないという考えを持つ人がいたら見てみたいものである。

 さらに、寺社勢力の武装デモの要求は届いていたが、実際に武装デモが発生したという知らせはない。知らせはないが、平家は寺社勢力に対する布石も打っていた。警護という名目で、平通盛と平経正の二人が率いる軍勢を後白河法皇のいる鳥羽殿に、平知盛を高倉上皇の御所に派遣して陣を敷いたのである。近年の発掘調査で平家の本拠地である六波羅については防御設備が整えられていたことが判明しているが、六波羅は特殊な例外であり、一般的にこの時代の建物の防御設備はお世辞にも優れたものとはいえない。それは攻め込む側である寺社勢力の武装デモ集団にとってつけ入る隙ではあったのだが、さすがにここまでピンポイントに軍勢が結集してしまっていると付け入る隙もなくなる。

 寺社勢力がいかに武装デモを意図しようと、あるいは、デモを超えて実際に軍勢を組織することになろうと、正面衝突となったら平家のほうに軍配が上がる。作戦を立てて各個撃破を図れば寺社勢力の武装デモが平家の軍勢に勝利する計算も立つが、平家の警護の様子を見るに各個撃破は夢の話とするしかない布陣になっている。もっともこれは寺社勢力側のミスとするしかない。武装デモの要求が後白河法皇の幽閉解除と高倉上皇の保護であるのだから、その二つの要求を双方とも認めないとするにはこの双方の拠点を厳重に警護すれば済む話で、それは素人にもわかる話である。

 ただし、寺社勢力が協力して武装デモを意図し平安京に向かわせることは早々に京都に伝わっていたが、いつ、どのような作戦のもとで、どのようにして武装デモが京都に向かうかを察知していなければ、厳重な警護も疲弊の末に無に帰す。ゆえに、寺社勢力にとってはタイミングを計っての出動という手段が残されていた、はずであった。

 実際には、そのタイミングすら平家側に軍配が上がっていたのである。いつ、どのタイミングを狙って武装デモを出動させるのかの秘密裏の作戦が平家側に筒抜けになっていたのだ。いかに平家が情報の重要性についての認識の乏しい平清盛がトップに立つ組織であろうと、勝手に充分な情報がやってくるというのに、その情報を受け取らないなどという選択肢を選ぶわけがない。

 寺社勢力を利用しようとした高倉上皇も、勢力を結集させて平家に対抗しようとした寺社勢力も、まったく思いも寄らないところから横槍が入った気持ちであったろう。事前からダダ漏れの計画であったにしても、計画そのものの与えるプレッシャーを考えれば理解できる。だが、寺社勢力の考える武装デモの行動作戦手順が見事なまでに平家に流れていってしまっていたのだから、これはもう打つ手がない。

 結果は、高倉上皇と寺社勢力の不戦敗である。

 途中までは一発逆転を狙える、優れたとまでは言わないにせよ理解可能な作戦ではあったのに、たった一人の存在がこの作戦を完全に白紙にしてしまったのだ。

 その一人とは、後白河法皇。

 鳥羽院に幽閉されている後白河法皇は、事実上はどうあれ理論上は一人の僧侶である。そして、寺社勢力の二つの要求のうちの一つが後白河法皇の幽閉解除である。いかに幽閉されているとはいえ、僧侶間の情報連携で後白河法皇のもとに書状を届けることは不可能ではない。

 後白河法皇はその書状を平家にそのまま流したのだ。

 寺社勢力にしてみれば、いつ、どのようなタイミングで、どの寺院が中心となった武装デモが押し寄せてくるかの情報を後白河法皇に届けることで、後白河法皇の幽閉解除と後白河法皇を前面に立てての勢力構築を狙っていたのだから、後白河法皇に書状で情報を届けること自体はおかしな話ではない。しかし、後白河法皇がその情報を平家にそのまま渡すとまではさすがに考えられなかった。そもそもそのようなことをするような人間がこの世に存在するなどとは考えようもなかった。

 その、考えようもなかったことを平然とこなす後白河法皇は、一滴の血も流すことなく寺社勢力の武装デモを鎮静化させたという点では最高の功労者である。ただし、そのように評価するのは平家側だけであるが。

 後白河法皇も何も考えずに情報をまるまる平家に渡していたわけではない。無論、ここで戦乱を招くことを許容しなかったという理由もあろう。実際に寺社勢力が動きを鎮めたことで平安京に血が流れることを防いだのは事実ではあるのだから。だが、そのような崇高さとは程遠い、良く言えば現実的な、悪く言えば情けない理由も存在していたとするしかない。後白河法皇は、自身の幽閉解除が果たせるなら、それが寺社勢力の手によるものであろうと平家の手によるものであろうと関係ないと考えていたのだ。大義の前に自身の感情を持ち出したことを咎めるべきか、それとも、平和を実現させたことを評価すべきか、それは一人一人異なる感想となる。事実として記すべきは、平家が後白河法皇の幽閉を緩やかにし、治承四(一一八〇)年三月一七日に京極局と丹後局の二人の女房が鳥羽院の後白河法皇のもとに伺候することが認められたこと、そして、翌三月一八日に高倉上皇が厳島参詣に進発したことである。


 寺社勢力の利用に失敗した高倉上皇に残されていたのは、当初の宣言通りに厳島神社に参詣することだけである。高倉上皇は輿(こし)で、まずは鳥羽に幽閉されている父の後白河法皇のもとに向かい、次いで摂津国福原に向かった。その道程はかなり厳重な警護のもとに執り行われたもので、寺社勢力の武装デモから高倉上皇を守ると考えればやむを得なかったともいえる。いかに寺社勢力が平家の前に屈したとは言え、警護が薄くなるタイミングさえ上手く図ることができれば高倉上皇のもとへ襲撃を掛けて高倉上皇を寺社勢力が奪取することも可能なのだから、警護は厳重にする必要がある。

 高倉上皇の厳島参詣の日程であるが、治承四(一一八〇)年三月一八日にまずは平清盛の邸宅の一つである西八条第に向かい、翌一九日には鳥羽の父のもとを訪問したというスケジュールになっている。ただし、高倉上皇が鳥羽に幽閉されている父の元を訪問したという記録は平家物語にしかなく、その他の記録に高倉上皇が鳥羽殿に向かったという記録はない。向かったという記録はないが、この時代に京都から安芸宮島まで向かうとなると西八条第を起点として鳥羽を経由するのは妥当なルートではある。西八条第があったのは、現在の京都の地図でいうと京都鉄道博物館とは線路を挟んだ東にある梅小路公園のあたりであるから、平安京の内側であるとは言え、右京の閑散化と賀茂川以東への都市機能移転が進展したこの時代では、首都京都のかなり外れである。もっとも、六波羅に本拠地を構えた平清盛のことである。地図を見ればわかるが梅小路公園のあたりに自らの住まいを設けることは、六波羅とともにこの時代の平安京の庶民街に対する平家の無言の圧力として充分に機能したであろう。

 翌日に鳥羽の後白河法皇のもとを訪ねたというのも、平家物語の虚構であるにしても無理のないスケジュールである。たしかに鳥羽殿は平安京の区画外であるが、現在の地図で捉えると、鳥羽離宮跡があるのは京都駅から地下鉄で五駅プラス徒歩。西八条第からスタートして鳥羽殿まで向かうのは、いかに時間のかかる輿であろうと、現在の東京でいうと上野から銀座に向かうぐらいの距離でしかない。ここまではわかる。

 問題は、その翌日。平清盛が高倉上皇を福原で出迎えたのである。三月一九日に鳥羽殿にいた高倉上皇が、翌日にはもう摂津国福原、今で言う神戸にいる。電車も無ければ自動車も無いこの時代に、およそ八〇キロメートルはある京都から神戸までこんな短時間に移動できるであろうか? しかも輿(こし)で。当時の早馬であれば、途中で馬を乗り換えるにせよ京都を出発した使者をその翌日には福原で出迎えることもできようが、高倉上皇が乗っているのは輿(こし)、すなわち、馬ではなく人間の足での移動である。このあたりもまた高倉上皇が鳥羽に向かったことを平家物語の作り上げた虚構とする論拠にもなっている。

 ところが、よく考えてみるとこれは不可能な話ではないのだ。

 トリックを簡単に説明すると、船である。

 平安京の東を流れる賀茂川と西を流れる桂川の合流地点にある土地が鳥羽だ。現在の鳥羽離宮跡は鴨川東岸の近くにある公園であり、それまで北から南へ流れていた鴨川が北東から南西へと斜めになるような流れに変わり桂川へと合流する地点の近くに鳥羽離宮跡がある。より厳密に言えば、現在の鳥羽離宮跡は西へ少し足を伸ばせば鴨川にたどり着くという場所になっているが、この時代の鴨川の流れは、平安京と接している地点までは現在と大差なくとも平安京との接点を過ぎると現在と違っている。現在よりも鴨川は東に流れていたのだ。そのため、鳥羽殿の位置自体は現在と同じでも、現在のように少し歩かないと川にたどり着けないという距離は存在せず、鳥羽の建物は川の近くにあるというレベルを超えて建物そのものが池に面していたのである。その池こそがこの時代の鴨川と桂川の合流地点をなす池である。池から船に乗って川を南西へと下れば山崎の地で宇治川とともに淀川と合流し、淀川を下れば大阪湾へと出る。大阪湾に出ればあとは現在の神戸である福原へと航行すればいい。高倉上皇が鳥羽にいる後白河法皇の元を訪れたことそのものは平家物語の虚構でも、鳥羽より船で出発するというのはこの時代の皇族の旅程ではごく普通の話であった。

 船速について記すと、これは後の記録になるが、伏見と大阪湾との間の定期河川航行は、川の流れに逆らって大阪湾から伏見へと遡上する場合は日の出から日没までの時間を要した一方、川の流れに従う伏見から大阪湾への航行であればその半分の時間で済んだという。高倉上皇の場合は川の流れに従うのであるから、後白河法皇のもとに午前中に出向き、鳥羽で船に乗ればその日のうちに大阪湾に出向くことも可能だ。ちなみに鳥羽と伏見との間は、東京で言うと渋谷から青山に向かう程度の距離しかない。

 大阪湾にまでたどり着ければあとは船に乗って福原に出向くだけだから、おそらく三月一八日は大阪湾岸で一泊し、日が明けてから瀬戸内海の航海へと赴いたのであろう。船の速度単位をノットと言い、一ノットはおよそ時速一・八五二キロメートルである。帆で順風を捉えることができれば櫂を漕がなくともこの時代の船でも七ノットは出せたとあるから、時速に直すと時速一三キロメートル、高校生男子の一五〇〇メートル走の平均タイムとほぼ同じ速度になる。この速度で、かつ、人間が走るのではなく船が走るのであるから、大阪湾から福原までの距離は四〇キロメートル近く離れているものの、その距離であっても三時間あまりで航行可能だ。風に恵まれなくともこの距離の海運であるなら早朝に出発すれば正午過ぎには福原にたどり着く。

 三月一八日に京都を出発した高倉上皇を三月一九日に平清盛が福原の地で出迎えた。前述の通り早馬であれば陸路でも京都から福原まで一日で連絡できる。先に早馬で高倉上皇出発の知らせを受けたなら、福原で高倉上皇を迎え入れることも可能だ。いかに情報の重要性を認識していなかった平清盛とはいえ、さすがに高倉上皇の厳島神社参詣についての情報ぐらいはこの時代としては可能な限り早いタイミングで受け取っている。

 記録によると高倉上皇は治承四(一一八〇)年三月二六日に厳島に到着したとある。福原で乗り込んだ船は宋で作られた船とあるから、皇室が国産の船ではなく外国製の船に乗ることについては、問題無いとされたか、あるいは問題視する声を平清盛の圧力で封じたかのどちらかであろう。それに、この時代の瀬戸内海の航行でもっとも安全な船を探すとすれば東シナ海を航行できる宋の船ということになる。

 平清盛が高倉上皇と同じ船に乗った可能性は低い。その証拠に、福原で高倉上皇を出迎えたはずの平清盛が厳島でも高倉上皇を出迎えているのである。かといって、新幹線も鉄道も高速道路もないこの時代に、いかに早馬を用意できる立場にあるとはいえ、京都・神戸間とは比べ物にならない長距離である神戸・広島間を陸路で移動したとは考えられない。スケジュールを考えると平清盛もまた船での航行であったとするのが正しいであろう。つまり、同じ船団であったとしても別の船での航行であり、安芸国付近からで船を先行させて一足先に厳島に到着して高倉上皇を出迎えたというところか。

 高倉上皇は厳島に二日間逗留し、その間に経会舞楽を観覧したとある。

 高倉上皇が京都へと戻ったのは四月九日のことであるから往路と比べて復路は時間を要したことがわかる。もっとも、風向きの問題もあるし大阪湾から京都へは川の流れに逆らって遡上するのであるから時間も当然かかる。平家物語には高倉上皇の帰路についての記載もあって、そこには風向きや天候に苦労した中での帰路であったこと、途中で福原に泊まったこと、現在の大阪市西淀川区寺江あたりに到着したこと、その後で淀川を遡上したことは記されているものの、往路よりもその記載は乏しい。ちなみに、船で淀川を遡上する場合は、船の櫂を漕ぐだけでなく、船にロープを結びつけて淀川沿岸で船を引っ張る。そのため往路の倍の時間を要する。そのあたりの日付の妥当性と平家物語の日付の記載は無理が無い関連性になっている。

 この治承四(一一八〇)年四月九日という日付は極めて重要である。

 それは何も高倉上皇が京都に戻った日であるからではない。

 まさにこの日、歴史用語としては「治承・寿永の乱」と総称される源平合戦が始まったのである。

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

0コメント

  • 1000 / 1000