貞観一三(八七一)年一二月一一日、加賀国に渤海国から楊成規を大使とする渤海使が来日したとの報告が届いた。
唐は混乱が激しくまともな外交使節を送れない。
新羅に至っては今まさに戦争をしている最中である。
そんな中、渤海だけは日本との外交を続けることができたのである。
かつては互いに使節をやりとりするのが通例であり、日本でも奈良時代までは積極的に使節を派遣していたし、派遣された使節を迎え入れていた。
ところが、いつからか、外交使節は格下から格上へ派遣することとなった。滞在費用は使節を迎え入れた格上が出すのだし、帰路の船の用意だって迎え入れた国の方がするのだから、格上だと言ったって軽い負担では済まない。
しかし、格を求めるとなると、至急を要する案件でもない限り、互いに格上になろうとするのは目に見えている。日本が新羅に使節を派遣するのは桓武天皇の時代に廃止されたし、遣唐使だって三〇年以上途絶えている。四方を海に囲まれている日本にとっては、国外からの侵略さえくい止めることができればそれで充分であり、格を下げてまで国外の国と折衝しようという気概はなかった。
このあたりの気概は新羅も同じなのだが、新羅は国境を面する国があり、かつ、その貧しさから一国だけで経済が成り立ってはいないことから、外交が常に至急を要する案件になっている。それでも格式を求めるとどうなるか。尊大な態度に出続けることとなる。
執拗なまでに日本や渤海、さらには唐への侵略を試みるのも、全ては新羅の外交問題と連携している。すなわち、時には武力を伴ってまで強気に出て、相手を屈服させた上での外交樹立を求めていたのである。そしてこれは、国内の混乱を国外の敵に向けさせるという目的もあった。何しろ、新羅は王の権威が地に落ち、国家崩壊の寸前にあったのだから。
一方、渤海はより現実的だった。格上か格下かという面子にはさほどこだわらず、どうせ滞在費用向こう持ちなのだからと、渤海のほうから使節を派遣するのを厭わなかった。
その上、渤海は新羅と違って国内がまだ安定しているが、厄介な問題を抱えてもおり、その前には面子など言っていられる状況ではなかった。
その問題というのは、国境を面する新羅からの侵略。
日本への侵略がうまくいっていないが、日本は防戦に努めていて、復讐としての侵略はしてこないと悟った新羅は、日本への侵略が失敗したことは無視して放っておいて、次なるターゲットを渤海に絞った。
渤海は形式上、高句麗の継承国家ということになっている。このことは、高句麗を滅ぼして朝鮮半島を統一させたこととなっている新羅にとって、戦勝国に従わない反乱分子ということができる。
が、こんなのはどうでもいいこじつけでしかない。重要なのは侵略することで、理屈などはあとから適当にでっち上げればいいのである。
これは攻撃される側からすれば冗談では済まない事態である。理屈をどんなに説得しようと、向こうは侵略という結論をもう出している。となれば、侵略されないことではなく、侵略させないことを考えなければならない。その回答が日本との連携強化だった。日本と挟み撃ちすることで、新羅が侵略しようとするのを力ずくで封じる。これが渤海の考えだった。
渤海からの使者が日本にやってきたのは、定例の外交使節の派遣なだけではなく、軍事同盟の締結を求めての派遣だったのである。
この年の暮れから、インフルエンザ、当時の呼び名では「咳逆病(がいぎゃくびょう)」が京都で大流行した。咳逆病はおびただしい数の死者を出し、京都と周辺一帯を恐怖に陥れた。
年が明けた貞観一四(八七二)年一月一日、太皇大后の服喪に伴い、朝賀が中止される。これは服喪期間ということもあるが病の伝播を抑えるためでもある。
この時代、病原菌とかウィルスとかいった概念はないが、伝染病であることは知られており、罹患しないためには人との接触を減らすのが有効だというのは知られていたし、人伝いに遠くまで広まってしまう病気であることも知られていた。
それが、この咳逆病に対する一つの噂を生むきっかけとなった。すなわち、咳逆病は渤海の使者からもたらされた病であるという噂である。
この噂を伝え聞いた基経はとんでもない噂だと怒り心頭に発したが、その怒りは懸命にこらえた。
良房の頃から、藤原氏の権力は民衆の支持に寄っていた。承和の変にしろ、応天門の変にしろ、良房が勝者となれた要因の中に、民衆が常に良房の味方をしたということが挙げられる。
貴族が敵になろうと、場合によっては天皇が敵になろうと、藤原良房にはダメージとならない。律令派に対する自分たちという図式を作り出すことに成功していたからであり、良房の後ろにはこの国の国民という圧力が存在し続けていたのである。
その良房の後継者である基経にとって、民衆を敵に回すような発言や行動は、政治家として命取りとなってしまうことであった。だから、どんなにおかしな噂であると考えようと、それを直接口にすることはできなかった。
しかし、渤海との折衝はこの国の安全にも直結することであり、庶民の噂を受け入れて渤海からの使者を追い返して渤海と手を切るという選択肢は断じてあり得なかった。ここで渤海と国交断絶状態になるということは、日本をアジアの中で孤立させ、新羅の侵略をより容易にさせてしまうこと、つまり、この国に住む一般市民が新羅軍に殺される光景が日常化してしまうということなのである。
基経は、噂は噂でそのままにさせたが、渤海を迎え入れる人材に最高のスタッフを用意した。
貞観一四(八七二)年一月六日、二八歳の菅原道真を渤海客使に抜擢したのである。渤海客使に、もうすぐ貴族になろうかという若き役人が選ばれることは先例のあることであるが、道真の抜擢はプラスアルファの要素がある。美青年として京都中の女性を虜にしていた道真の抜擢は渤海からの使者に対する噂を和らげるのに役立ったし、史上最年少で方略試に合格したという実績は渤海にも届いており、その若き天才が自分たちを迎え入れてくれることに感謝したのである。
さらに、前回の渤海使のときに通訳として異例の抜擢を受けた春日宅成を、今回も通訳として任命した。ただし、位が大きく違う。前回は下っ端の役人の一人に過ぎなかったのが、今では正六位上という、あと一歩で貴族になれるという地位まできていたのである。
この春日宅成が今回も通訳を務めること、そして、春日宅成がここまで出世していることは渤海からの使者たちを喜ばせた。日本側でただ一人渤海の言葉を自由自在に操り、前回の訪日のときには位の低さを忘れるほどの活躍をして使者たちと友情をはぐくんだ春日宅成が、今ではもうすぐ貴族になろうかという地位まで来ている。これは渤海への配慮だけではなく、親友の出世という喜びでもあった。
こうして万全で迎えるはずであった渤海使の来訪であったが、貞観一四(八七二)年一月二六日、予定外のことが起こった。
流行極める咳逆病により道真の母が亡くなってしまったのである。
これにより、一度は沈静化していた渤海からのインフルエンザ来襲という噂が再燃してしまった。渤海を出迎えるために選ばれた道真の母が亡くなったのは、天の裁きによるものだとする噂である。
そんな何の裏付けもない噂など聞き流せば済むが、道真の母の死はもっと大きな問題があった。
近親者に不幸があった場合、公務に参加できないのがこの時代の習わし。その事情は渤海側も承知しており、渤海客使の職務を道真が遂行できないのは当然のこととして受け止められた。
ただし、道真が渤海客使の地位から辞職させられたわけではない。服喪期間の自粛は求められるが、喪が明ければ再び渤海客使の職務に戻るのが通例。
そのため、基経は直ちに渤海客使の代理を立てる必要が生じたのだが、道真を担ぎ出してしまったがために、今となってはあの若者には勝てないと誰もが後込みする始末。結果、渤海客使がいなくなってしまったのである。
それでも何とか選び出して任命したのは、このとき正六位下であった春日安守。この者の素性はよくわからないが、同じ姓であることから春日宅成の関係者であろうと思われる。
咳逆病はなおも収まることなく、月が変わった貞観一四(八七二)年二月七日、右大臣藤原氏宗が亡くなった。
ただし、亡くなったと記されているだけで、賀陽親王のときと同様、氏宗も史料に略歴が記されていない。賀陽親王から始まる、死の記事への略歴記載省略に氏宗もまた該当した。
しかし、一点だけ異なることがある。
賀陽親王の死は断じてその他大勢の一人の死ではない。年齢からすれば不可思議ではないにせよ、何の前触れもなく突然届いた死の知らせであり、それは大きな驚きを伴ったのに対し、氏宗はその他大勢の一人の死になってしまったのだ。
氏宗が亡くなったとき、朝廷では、一人、また一人と貴族が減っていた。咳逆病に倒れた者が続出したのである。命を失った者、失わなかったにせよ身動きできなくなった者、本人は無事でも家族が亡くなった者が続出してしまった中での右大臣の死は、特に省みられる事件ではなくなってしまった。
これが伝染病というものの恐ろしさである。
身分の差も、栄華も関係なく、一斉に襲いかかって命を奪い去る。経済ではあり得ない平等も、伝染病の前ではあり得てしまうのだ。
気づいたときには多くの人の命が奪われ、残された者は失われた命の多さに愕然とする。歯車の歯が、一つ欠け、二つ欠け、気がつけば歯車が用を果たさなくなったのに気づくのに時間はいらない。食べ物を作る者も運ぶ者も亡くなったことで物の値段が高騰し、市で売られる食料はとてもではないが貧しい者には買えない額になっている。栄養を失った者は体力も失い、抵抗力も失ってインフルエンザに身体を蝕まれる。
死が日常と化した社会に訪れるのは例えようのない虚無感。街中に死体が散乱する光景を前に全てが虚しく感じられ、生きる意味すら失ってしまう。ある者は一時の快楽を求めて犯罪に走り、ある者は救いを求めて寺院の門を叩いた。
朝廷にできるのは、僧侶に祈りを命じることと、祭りを自粛すること、そして、死者の穴を埋めるために大幅な人事異動を実施することだけであった。
貞観一四(八七二)年三月七日、太政大臣藤原良房が咳逆病で倒れたとの連絡が届いた。
ただし、その日に倒れたのではない。倒れたのは二月一五日である。良房は三週間以上、自分の病気を隠し続けたのだ。
もっとも、良房が内裏に姿を見せなくなったのはここ最近の話ではない。応天門炎上事件の後始末を最後に内裏から姿を消してもう六年になる。その間、良房の生活は完全にベールに包まれ、公になっていない。
それでも亡くなっていないという連絡は届いていた。時折ではあるが良房から直筆の手紙が届くのだ。ただし、それが政局に与える影響は可能な限り抑えてあり、現在の政務を大幅に方向転換させるような内容は一つを除いて記されていない。その唯一の例外というのも准三后に対する自身の拒否反応であり、その中身は確かに政務に関してはいても、実際には完全に個人的な内容である。そこには後継者に任命した藤原基経の政務に支障を与えないようにとの配慮がにじみ出ていた。
良房は確かに内裏に姿を見せていない。見せてはいないが、その権力を手放したわけではない。使ってはいないが権力はやはり良房の手元にあり続けたのである。抜かれることがなくても伝家の宝刀はやはり伝家の宝刀なのだ。良房は鞘に収まったままの伝家の宝刀だが、錆ついてはいない。いつでも鞘から抜き出せる。そして、抜きだしたら最後、誰一人としてその権力に逆らうことは許されない。
その唯一無二の最高権力者の体調が悪化したのである。これは貴族たちを色めき立たせることにつながった。太政大臣の死が現実的なものとして捉えられ、良房の死後が考えられるようになった。人事の大刷新があると考えられ、自らの売り込みを図る貴族が続出した。
一方、清和天皇は慌てふためいていた。やはり、清和天皇のバックボーンは太政大臣にして摂政である藤原良房の存在だった。実際に頼り続けたわけではないが、いざとなれば良房を頼れるという思いがそこにあったし、良房の死が現実なものとして考えられると、清和天皇は僧侶たちに祈りをささげさせ、恩赦を施して天の恵みにより良房を救おうとした。
その思いが功を奏したのか、良房からの体調不良の連絡はここでいったん消えた。しかし、健康に回復したという連絡も届かない。相変わらず、良房はベールの向こうの人なのである。
その後も咳逆病は次々と人の命を奪っていった。
日本国内に咳逆病が蔓延し、本来の渤海客使である菅原道真が母の死に伴う服喪のため出迎えにいけないこと、代理の渤海客使が任命されたこと、咳逆病により太政大臣が倒れたほどであることは渤海からの使者にも伝えられ、安全のために上京させず、港に留めおくことの承諾を得ていた。
しかし、いつまでもそのままにすることはできなかった。来日からまもなく半年になるのである。いかに伝染病が広まっていようと、半年も留めおくというのは許されぬことであった。
港を出ていつ頃京都に向かったかという記録はない。記録に残っているのは、貞観一四(八七二)年五月七日、出発した渤海使を出迎えるための人員が京都を発ったこと、彼らが渤海からの使者とともに五月一五日に上洛し、鴻臚館に入ったことである。
渤海からの使者を出迎えるのに、当代最高の詩人がもてなしの場に出向くことはこの時代の外交儀礼である。本来ならばそれが菅原道真の役割なのだが、母の死に伴う喪中とあってはそれもできず、道真の代理として在原業平が鴻臚館に派遣されている。いろいろと話題を振りまく業平だが、詩人としてならば一流だった。
貞観一四(八七二)年五月一八日には、源舒が鴻臚館に派遣された。こちらは単純なもてなしではなく外交文書のやりとりのためである。このとき、渤海から清和天皇に外交文書とともに毛皮と蜂蜜が渡された。
翌五月一九日には左大弁の大江音人が鴻臚館を訪問し、前日の贈答品に対する謝礼の言葉を伝えた。
五月二一日からは、京都市民と渤海使との交易が許可された。インフルエンザの責任を渤海使に押しつけていた京都市民も、いざ交易が許されるとなるとそんな噂など忘れて渤海の珍しい産物を買いあさった。なお、このときのやりとりは物々交換が基本で、珍しい毛皮を手に入れるために、京都市民は渤海では貴重品となっている絹や木綿を渤海使に手渡している。こういうのをWIN-WINの関係というのだろう。
ただし、渤海から持ってきた品はすぐに底をついてしまったようで、清和天皇は五月二二日に四〇万銭という大金を渤海使に贈与している。平安京の市場で日本の品を買うためである。
確かにこの時代の京都には貧しいホームレスも多く、それが律令派から激しい攻撃材料にされていたが、平安京の市場はこの時代の東アジアでトップクラスの豊かさを持った市場であり、インフレで物価が上がってはいるものの、品物が山積みとなる市場が形成されていた。イメージでいくと、棚に品物が何も並んでいない商店しか知らない東側の市民が、品物に満ちあふれた西側の商店を目の当たりにするようなものである。渤海使たちは、平安京にホームレスがいるのも目の当たりにはしたが、平安京には祖国で味わうことのない豊かな暮らしぶりがあることも目の当たりにしたのだ。
渤海使との交流はビジネスだけではない。在原業平が派遣されたように、文化交流もまた重要な交流である。
貞観一四(八七二)年五月二三日、文章博士でこの時期大学頭を兼ねてもいた巨勢文雄が、文章得業生でもある藤原佐世を連れて鴻臚館に足を運んだ。文章得業生というのは現在の大学院生であるが、同時に方略試の受験資格を持った者でもある。方略試に合格した道真はいないが、方略試の受験資格を持った者を連れていくことは、渤海への気配りとしてこの時点でとれるベストチョイスであった。
翌五月二四日には、橘広相が渤海使のもとを訪問している。肩書きとしては皇太子貞明親王の教育係というだけであるが、実際には清和天皇と貞明親王の代理としての訪問であった。渤海使たちも広相の訪問をそのように受け止めている。
広相がこの日渤海使を訪問したのは、この翌日、清和天皇からの返礼があることを伝えるためでもあった。
五月二五日、清和天皇から渤海使たちへ返礼の国書が渡された。理論上、これで渤海使たちは来日の目的を果たしたこととなる。
ただし、渤海使たちは自分たちに課された最大の役目、すなわち、対新羅の軍事同盟に関しては満足いく回答を獲得できなかった。渤海との友好関係も、それまで結んできた同盟関係も、これまでのまま継続することは確認されたが、より一歩踏み込んだ、新羅への反撃を含む軍事同盟とは至らなかったのである。
ただし、それに対する苦言は全くない。それは渤海使たちが目の当たりにした日本の現実の前には当然の結論だったからである。
市場には確かにモノが山積みになっているが、それと軍事力とは何の関係もない。日本は経済的には渤海より上だが、海で隔てられていることもあり、新羅からの侵略に守るだけの軍事力はあっても、新羅に攻め込む軍事力はなく、渤海の要請に応じて新羅に攻め込むことは現実的にあり得ないと見抜いたのだ。それに、新羅に侵攻する軍事同盟にはならなかったが、新羅を公式に非難する外交には成功した。
最良の結果ではないが、喜ばしい結果は手にできたのである。渤海使たちはこの国書を手に日本を離れ故国へと戻っていった。
貞観一四(八七二)年五月三〇日、駿河国の国分寺別堂に大きな蛇が入り込み、般若心経のうちの一巻を飲み込んだという連絡が届いた。そのときは国分寺の者が蛇を捕らえ、経典を取り戻したという。
賀陽親王や藤原氏宗の略伝は記さないのに、こういう珍しいニュースならば記しているのも、この時代と言えばこの時代らしい。もっとも、現在の新聞やテレビのニュース、それに我々の態度も似たようなもの。政治家が一人亡くなったところで大々的に取り上げることはないが、珍しいニュースが起こればそれを喜々としてとりあげるのは、人間社会というものの現実であろう。
しかし、朝廷には珍しいニュースだと言って騒いでいられる余裕がなかった。内裏に常駐するただ一人の大臣であった右大臣の藤原氏宗が亡くなったのに加え、太政大臣の藤原良房までも咳逆病に倒れたのである。これは大臣不在という国事遂行の障害であった。
ところが、なかなか大臣を決めようとしない。左大臣も右大臣も空席なのに、その空席を埋める者が誰も現れなかったのである。
正確に言えば立候補者ならばたくさんいたのである。ただ、その中で群を抜いた人物がいないのだ。大納言や中納言ならいるのだが、それより一歩上の人材がいなかった。
大納言も中納言も現在の感覚では内閣の一人に相当する役職であるが、この時代は、まず左大臣があり、次に右大臣があり、その下にこの二人をサポートする大納言がいるという感覚であった。いかに現在の内閣の一人に相当する役職とは言え、大臣二人とはわけが違う。
しかも、このときは太政大臣藤原良房がいて、それが強く印象づけられていた。良房が太政大臣に就任したとき、左大臣に源信、右大臣に藤原良相という体制が敷かれたが、それが良房の指揮下で見事に機能したことがこの時代の人たちには強く印象づけられていたのである。
藤原氏宗が右大臣になったが、どうしても亡き良相と比べられてしまい続けていた。
左大臣職は空席のままとなり、亡き源信とは比べるということ自体ついに起こらなないままここまで来た。
立候補者たちはたくさんいても、源信や良相と比べて遜色のない人材がいなかったのだ。
無理もない。源信も良相ももう亡くなっているのである。亡くなった人はどうしても思い出だけが強く残り、現実の人間としての感情が薄れてしまう。マイナスイメージは忘れ去られ、プラスのイメージだけが残るのだ。そして、亡くなった人のイメージを越えるには、記憶でも、記録でも、そのプラスのイメージだけが残る人間を相手に競争して圧勝しなければならない。それもまた、人間社会の現実である。
朝廷内で人選が難航している頃、清和天皇個人にもちょっとした動きがあった。
貞観一四(八七二)年七月一一日、兄の惟喬親王が出家したのである。
惟喬親王は文徳天皇の第一皇子である。ゆえに、本来であれば皇位継承権第一位であるべきはずの人であった。しかし、惟喬親王の母親は紀氏、片や、清和天皇の母は太政大臣藤原良房の娘。この母親の身分の違いに加え、それまで続いてきた藤原北家の政権を安定して継続するには、長子相伝とするより、藤原北家の血筋も利用するほうがより安定していた。
とは言え、清和天皇は兄から皇位を奪ったという思いを捨て去ることはできなかった。政権安定のためには自分が天皇であり続けることがベストだというのは理屈として理解している。しかし、兄を家臣の一人として扱わなければならないことは心苦しいことでもあり、清和天皇は人生で何度か、兄に帝位を譲ることを考えたといわれる。
惟喬親王はこれを拒否した。
最大の理由は、自分が帝位に就いてしまうと朝廷が分裂してしまうことにある。たとえ本人にその気がなくても、こういうことは家臣が利用する。「本意ではない」のに帝位を「奪われた」から、力ずくでも取り返そうとし、取り返した暁には、それまでの地位をはるかに上回る権威と権力が手元に残ると考える反乱の目がそこで生まれてしまうのだ。
こうした内乱は何らメリットがない。ただ単に別の派閥であったというだけで優秀な人材が放出され、国内には世代を越えた混乱をよび、実力通りに評価されたために低い地位に留まっていた者が権力を握ることで、社会は停滞し、生活水準は悪化する。
これを防ぐためには、反乱の口実を除去してしまうことである。惟喬親王の選択はこれだった。自分が僧籍に入ってしまえば帝位を狙うことが不可能になる。壬申の乱のときの天武天皇という例があるが、それが一〇〇年以上に渡る国内の混乱を呼び寄せたこと、そして、今の政権がそのときの敗者となった天智天皇の系統の政権であることを知らない者はいない。
清和天皇は兄の出家に心苦しめられたが、それが持つ意味を理解し、兄の行為に感謝した。
貞観一四(八七二)年七月二九日、一つの布告が出された。連座の停止である。
連座というのは、犯罪者だけでなく、犯罪者の家族にも刑罰を執行するという制度である。本人だけではなく家族にも責任を広げることで、犯罪抑止を狙っていた。
ところが、この制度が機能不全に陥った。狙っていたような犯罪抑止どころか、さらなる犯罪の悪化を招いていたのである。
このとき停止されたのは連座の全てではなく、国司の犯罪のみ。国司が赴任先で、過剰な税の取り立てや収賄、強制労働、人身売買といった圧政をした場合、国司本人だけではなく、その家族も刑罰の対象となっていたのを、国司本人だけを刑罰の対象とするというように改めたのである。
これには理由がある。
子の教育は親の責任だが、親の行為に子の責任はない。自分の子が人を殺したとかモノを盗んだとかいった犯罪をしたときには親にも教育者としての責任があるが、親がした犯罪について子に責任をとらせようとしても、それはふざけた考えとするしかない。子は親に影響を与えることができても、親を教育することはできないのである。
しかし、連座というのは一人の犯罪が家族全体に及ぶものである。理論上、自分のしでかした犯罪のせいで子どもが人生を狂わされると考えることが犯罪抑止の効果を生むかもしれない。
だが、そう考える者が少なかったのか、この頃、親のせいで犯罪者扱いされ、人生を狂わされる若者が多数出現していたのである。彼らは「仕方がない」などと納得するわけなどない。理不尽な理由で未来を奪われたことに対し怒りを抱き、社会に反発するようになる。
具体的には、犯罪に走る。それも国司という地方での絶対権力者の子が犯罪に走るのだから、単に不良化するとかいうレベルでは済まず、強盗集団となり、テロ集団へと変貌してしまう。
これでは困るのだ。
犯罪を減らすための連座制が犯罪を増やし、治安を悪化させてしまっている。しかも、本人は優秀で国にとって有用な素質を持っているのに、ただ一点、親が犯罪者だというだけで未来が奪われた結果、手強い強盗集団を生みだしてしまっているのだ。
これは大問題だった。
誰がこの問題に気づいたのかという記録は残されていない。しかし、このときに誰かがこの問題を取り上げたはずである。
律令にこの制度を記載した者は間違いなく良かれと思って記載したことだろう。だが、善意で始めたことであろうと、結果が良くなければ何の評価にもならない。「うまくいかないのは律令を守らないからだ」と反発する者もいたが、現実の前に理屈は黙るしかない。
貞観一四(八七二)年八月一三日、応天門炎上事件で追放された者のうち数名が追放を解除される。
彼らも連座制を受けての追放であったことから、罪の執行が停止されて京都帰還を果たした。ただし、熱狂的な出迎えはなく、ひっそりと京都に戻ってきている。京都帰還が発表されたのは京都に戻ってから、さらに、京都での住まいも人の少ない右京に限定するなど、事を荒立てないように苦心している。
連座の停止は決まったが、それと庶民の怒りが鎮まることというのは全くの別物である。
伴善男に対する庶民の怒りは激しく、追放され、追放先で亡くなってもなお、善男は憎悪の対象であり続けた。
平安時代の考えとして、無念の死を遂げた者が怨霊となって天災を招くというものがあるが、善男についてはこれがない。地震だの集中豪雨だのといった天災の記録は多々あるが、その中の一つとして怨霊と化した善男の祟りであるとするものはなかった。
民衆が怨霊と考えるのは、ただ単に無念の死を遂げるだけではなく、民衆に同情される無念の死でなければならない。善男は確かに無念の死であるが、そこに同情の入り込む余地はなく、善男の死を聞いた庶民は狂喜乱舞したと伝えられている。これでは怨霊となりようがない。
これほどまでに嫌われた者の親族に対する連座適用の解除である。連座がもたらす害悪について頭では理解しても、感情として受け入れることは断じてできなかった。
停滞の続いていた大臣人事に終止符が打たれたのは貞観一四(八七二)年八月二五日のこと。
ただし、いきなり大臣が任命されたのではなく、大臣になるとの決まった者と、玉突き人事でさらに上の役職に就く者の昇格がまずは行われた。
従三位であった藤原基経が正三位に出世。これで、基経が左右どちらかの大臣に就くのは既定路線となった。ただし、大納言、左近衛大将、陸奧出羽按察使という三つの役職を兼ねている基経がこれまで従三位であったことの方が異常なのであって、位階としては正三位でなければおかしい話でもあることから、大臣に名乗りを上げた者にはこの時点でもまだ一縷の望みがあった。
同時に、正四位下であった南淵年名と藤原良世が揃って従三位に上っている。
と、ここまでの発表があった後、太政大臣藤原良房を除く参議以上の全ての貴族が内裏に集められた。
位の発表があっただけに新たな人事もあるだろうと思っていた貴族たちは、ここで清和天皇の結論を聞いた。
大納言正三位源融を左大臣に任命。
大納言正三位藤原基経を右大臣に任命。
中納言従三位である源多と藤原常行の二人を大納言に任命。
参議で従三位の南淵年名と藤原良世の二人を中納言に任命。
従四位上の菅原是善、藤原仲統、源能有を参議に任命。
これは現在の感覚でいくと内閣総辞職と新内閣発足であるが、大臣や大納言、中納言、参議といった議政官は少しずつ入れ換えるのが当たり前であったこの時代、大臣、大納言、中納言、参議の全てが入れ替わるというのは前代未聞のことであった。
この三日後である八月二八日には、大納言に就任したばかりの藤原常行が右近衛大将に任命された。左近衛大将は基経だから、見た目は従兄弟同士で近衛大将を分けあうという構図となったが、実際には、基経の養父良房と、常行の実父良相の対立が世代を越えて復活したということとなる。
世代は代わり、時代も変わる中、ただ一人、摂政にして太政大臣という破格の権威を持った藤原良房だけは健在だった。
いや、健在であると誰もが思っていた。
しかし、その良房の体調がさらに悪化したという連絡が届いたのは貞観一四(八七二)年八月の末のことである。
そして、貞観一四(八七二)年九月二日、ついにその情報が飛び込んできた。
太政大臣従一位藤原良房、東一条第にて死去。享年六九歳。
第一報を受けた清和天皇は直ちに、日本全国に向けて太政大臣の死去を発表し、三日間の服喪を命令。
九月四日、良房の遺体は愛宕郡白川辺に埋葬された。
ところが、ここから先に問題がある。
最高権力者の死でありながら、歴史書にはその略歴が全く記されていない。経歴を追いかけることはできるのだが、略歴から良房の人物像を追いかけることができないのである。
また、愛宕郡白川辺に埋葬されたことは記録に残っているのだが、具体的にはそのどこなのかが全くわからない。
ゆえに、良房の墓とされるものはない。
藤原家歴代の墓陵をまとめた宇治陵に良房の名はないし、宇治陵の「藤原氏塋域」には藤原冬嗣、基経、時平、兼家、道隆、道長、頼通、師実といった歴代の藤原氏の最高権者の名が記されてはあるが、この中にいなければおかしい良房はいない。
良房の記録に関してさらに言えば、略伝の不在だけでは済まない。
実は、この人の人物像を探れる記録がほとんど残っていないのである。
歴史書には、何年何月何日に何をしたかという記録ならば残っている。だから、その記録を追いかけていけば良房の生涯を追いかけることもできる。
だが、歴史書に残らないようなことは何もわからない。
どんな顔であったのか、どんな体型であったのか、身長はどれほどか、体重はどれほどか、こういたことが全くわからない。
肖像画も残されていないし、手紙も残っていない。
良房は私的な記録を全く残していないのである。
碑文に良房の名が記されることもなく、探すとすれば、良房の建てさせたという記録のある東三条殿の跡地を示す碑文ぐらいしかない。
平安時代の貴族のエピソードをまとめた「大鏡」には良房のことを記した一節も残っているのだが、記されているのは、冬嗣の次男であったこと、太政大臣になったこと、摂政になったこと、娘が文徳天皇の妻となり、清和天皇の祖父になったこと、和歌を詠んで古今和歌集に採用されたこと、男児に恵まれなかったこと、兄の長良の血筋を受け継いだ者が権勢を握るようになったこと。そのどれもが他の史料で充分追えることだけであり、プライベートの文章が全くない。
もしかしたら、それが良房の遺言なのかも知れない。我が記録をいっさい残すな、という。
良房の死の直前から始まった新体制は、順調に機能していた。
良房の存在感は確かに大きかった。大きかったが、突然の死ではないし、突然の不在でもない。良房は六年にも渡って不在だったのであり、どんな組織でも、六年も不在の人間を頼って経営するなどありえない。
残された者は誰もが良房の元で経験を積んだ者や、基経の元で学んだ者たちである。これならば良房の政権の継続も可能である、はずであった。
はず、と記したのは、良房の死をきっかけとして宮中が二分されてしまったからである。
特に、左大臣源融と、右大臣藤原基経が対立するようになってしまったのが大きかった。宮中は基経派と反基経派に分裂し、その対抗心が他の貴族や役人にまで及ぶようになってしまったのである。
かつて、良房に反発していた伴善男は、太政大臣の良房ではなく、左大臣の源信と対立していた。いや、源信とでしか対立できなかった。良房にいくら反発を示そうと良房は善男を相手にしなかったのである。良房にとっての善男は便利な手下の一人に過ぎず、対等に相手するような人材ではなかった。反発を示すのは勝手だが、それにわざわざつきあう義理も暇もないというところである。たしかに良房派と律令派という二分はあったが、良房はその派閥争いの上に超然として君臨していたのだった。
一方、基経は源融と対等な相手として対立した。
これは、左大臣と右大臣という張り合える関係だからというより、基経の性格に寄るものだろう。いくら張り合える相手であろうと、好き好んで対立する必要はどこにもない。良房がしたように超然と構えて相手の攻撃を受け流せばよかったのである。にも関わらず対立したのは、基経の性格にもよるといえる。
基経は気が弱いのに我が強い。気も我も強かったのが良房だが、基経は良房と同じだけの我の強さがあったにも関わらず、気は弱かった。気が弱いだけなら単なる臆病者で済むが、これに我の強さが加わると臆病ではなくなる。その結果、こういう性格の人は超然と構えているなどできなくなる。
それまでは良房という強烈なバックボーンがあったが、これからは良房を頼れない。また、これまでは大納言同士ということで対等な立場であったのに、今では左大臣と右大臣という関係になっている。それがさらなるプレッシャーとなったのであろう、基経は源融の攻撃を受け入れてしまった。
源融自身は律令派に属しているわけではない。それどころか、良房派の一人と見られており、兄の源信亡きあとは嵯峨源氏を率いる良房派の重要なファクターと見なされていた。
しかし、生涯を良房の右腕で通した兄と違い、この弟は野心が強かった。嵯峨源氏はその多くが良房派に属し、良房の影響を受けた現実主義者として政界に君臨していたが、源融は良房亡き後まで良房派の一人に留まるつもりはなかった。
その回答が基経への反発である。
源融の立場に立てばわからなくもない。
律令上のトップである左大臣は自分であり、基経は二番目である右大臣である。それなのに、事実上のトップに君臨しているのは右大臣の基経。源融に言わせれば年齢も実績も自分のほうが上なのに、ただ単に良房の養子であるというだけで基経が実権を握っている。
自分が格上だと思っているが、権力を行使する実力も資格もない者がとる行動は一つしかない。
批判である。
これは理屈で片づく問題でなく感情の問題である。
政治において、批判は何も生まない。ただ批判する者のどうでもいいプライドを満たすだけである。それでも批判に終始する者が多いのは、現実からかけ離れたプライドだけしか自身を平静に保つ手段がないからである。
いかに現実主義を学ぼうと、プライドを捨てて自分が何の価値もない存在なのだと認めることができる人間はいない。ゆえに、現実が物悲しい人間になればなるほど、プライドを維持するためだけに、現実のほうから離れてしまう。
こうなった人間を相手にするときにとるべき行動は一つしかない。
無視することである。
良房が律令派に対してやってきたように、好きなだけ批判をさせておけばいいのだ。
批判に酔いしれ、使っている単語は難しいが中身は空っぽな議論に熱中させておけば被害を軽くできる。確かに目障りだが、目障りだからと相手にしたり、さらには権力を持たせたりしてはいけない。なぜなら、何も生まない批判者が行動をすると絶対に失敗するから。店員に文句を言うクレーマーにいちいち従っていたら店の経営が成り立たなくなるのと同じで、政治にあれこれ文句を言う奴の言うことを聞き入れるたら政治は成り立たなくなり、例外なく失敗する。
店舗経営の失敗は従業員の失業と地域住民の不便だけで済むが、政治の失敗は人命に直結してしまう。生活が苦しくなるだけでは済まず、無意味な戦争に巻き込まれたり、わけのわからない改革運動が起こって不満分子の総括が行われたりした例は歴史上に無数に出てくる。
こういうクレーマー気質の人は常に存在する以上、クレーマーを相手にしないという対策は常に必要である。クレーマーが暴走するのは目障りだが、相手にしたり、ましてや従ったりして人命が失われることに比べれば、クレーマーが目障りな空論で終始することのほうがまだマシなのだから。
良房亡き後の基経は、事実上の最高権力者として君臨することとなった。しかし、最高権力者ではあっても独裁者とはなれなかった。
権力者の中での先頭を走っているのは間違いなく基経である。だが、それは二位以下をぶっちぎっての先頭ではない。先頭集団のトップであるというだけで、いつ二位以下に追い抜かれてもおかしくなかった。
基経は自分の権力基盤のもろさを痛感していた。寄って立つところは亡き養父の権勢しかなく、妹の高子が清和天皇の妻であるというのは、兄妹の関係悪化も手伝ってプラス要素どころかマイナス要素となって機能する。なお、基経と対立すると言っても、このときはまだ高子と源融が手を組んではいない。
良房の後継者であるということは、良房の主たる支持基盤である民衆の支持を引き継いだということでもある。ただし、これは諸刃の剣でもあった。民衆の支持は移ろいやすい。それは、民衆というものは貴族が考えているほど愚かではなく、また、常に現実と直面しているからである。
あの良房の後継者だからと無条件に支持してくれる人もいるだろうが、良房の後継者であるかどうかに関係なく、今の暮らしを前よりも良くしてくれそうだと考えるから支持するというのが大半である。
ところがこれが難しい。
よかれと思ってやることが非難を浴びるとき、良房だったら、スタンドプレーに走って非難をうまく逸らしたり、あるいは大々的に撤回して批判を支持に転換させたりしたであろう。良房は気づいたらそうなっていたという政策を実施したことが非常に多かったが、それは、今の日本には必要なのだが明確に始めると民衆の支持を失いかねない政策なので、誰にも気づかれぬように行い、気づいたときには既成事実化するという手段をとっていたからである。
こんなもの、誰もができる芸当ではない。
実施するためには未来を見通す洞察力と、冷徹かつ冷静な性格、そして、幾ばくかの運が必要である。基経は、洞察力と運ならばともかく、冷徹かつ冷静な性格となると疑問符がつく。基経は良房よりは現実主義の傾向が薄いが、それは、気が弱く我が強いという性格にも由来する。
他者の考えを聞き入れる能力ならばあり、その点では充分現実主義と言える。それが良房の後継者たるゆえんであり、民衆の支持も集める理由でもある。しかし、聞き入れることと、その意見をした者に尊重されるというのは全く別の話で、基経は異なる他者の意見に正面切って抵抗してしまうことが多かった。
良房だったらうまく受け流すところを、基経は正面から受け止めてしまうのである。この結果、論争になることもしばしばで、論争のあげく言いくるめられることもあったし、口汚い言葉で真っ向から罵倒されたこともある。それでも、右大臣としての権威を振りかざして、相手をねじ伏せることはなかった。当然だ。それをしたら肝心の民衆の支持を失ってしまう。
今でも、国民に愛されながらマスコミには嫌われ、野党から罵倒の嵐を食らう政治家がいるが、基経はそういうタイプだったのだ。
基経はかなりストレスと貯めていたと思われる。
一方、野党である律令派にとって、基経が攻撃できる相手と悟ったことは大きかった。
特に激しく出たのは大納言兼右近衛大将の藤原常行であった。従兄でもある基経と論争をした、と書くとまだ格好はつくが、内裏において罵声を浴びせ続けたのだ。基経はその罵声に不快感を示し、律令派の他の貴族もさすがにそれはひどいと感じたのか苦言を呈している。
この対立は互いに辞表を提出しあうまでに至った。
まず、貞観一四(八七二)年九月三〇日、罵声を浴びせた側の藤原常行が抗議の辞表を提出。名目としては右近衛大将と大納言の兼職が重荷であることに対し、大納言職の辞任を申し出ている。この辞表は許可されなかったが、良房亡き後の朝廷での対立はかなり悪化していることが、都に住む者の共通認識となって広まった。
一〇月六日には、左大臣の源融が辞表を提出する。この辞表も却下されているが、基経と、反基経の対立はいよいよ緊迫を増してきた。
反基経は明確に律令派となっているわけではない。だが、律令派と反基経が接近していた。律令に基づく政治というのはあくまでも名目であり、実際には基経から権威を奪って自分たちの元に権威をたぐり寄せることが目的である。辞表はそのためのパフォーマンスにすぎない。
しかし、これは実際に実務にあたっている基経にとっては迷惑千万なこと。誰かが辞表を出す度に政務が止まってしまうのだ。店のレジで店員にクレームを突きつけているのがいると、その間レジを裁くことができず、そのレジには大行列ができてしまうのと同じである。クレームを突きつけている本人は正しいことをしているのだと考えるだろうが、そんなことを思っているのは当の本人だけ。後ろで待っている側にとっては迷惑以外の何物でもない。そのせいで帰宅が遅れることもあるし、予定時刻に間に合わなくなることだってある。
政治活動と店のレジとを同一視するとは何たることかとする人もいるだろうが、迷惑を顧みない無価値な行動であることに違いはない。
それは、実際にレジに立つ人、政治で言い換えれば実際に政務に当たる人に多大なストレスをもたらすことでも変わりがない。
亡き藤原良房は「忠仁公」と呼ばれるようになった。以後、歴史書に良房の名が記されることは少なくなり、忠仁公の名が増えてくる。
貞観一四(八七二)年一〇月一〇日、忠仁公に正一位を送ってもらいたいとの要請が基経から出た。律令開始以後三度目という人臣で生者の太政大臣であるだけでなく、人身でありながら摂政を兼任するという前例のない功績をなした人物である。この忠仁公の功績の大きさを鑑みれば正一位に該当するというのが基経の主張である。
良房は元々、従一位という通常では考えられない高い地位にあったが、それでも律令の制度上は最高地位ではない。というより、最高位である正一位というのはあまりにも高位すぎて誰もそこに就けなかったのだ。就くことがあるとすれば、それは、生前に多大な功績を成した人物に対する仕事の名誉称号であり、忠仁公を正一位にしないということはありえない。なぜなら、生前の良房はこれ以上考えられない功績をなしてきたからであり、良房よりも功績の少ない者が正一位の称号を死後に獲得しているのであれば、忠仁公だって正一位を獲得するのは当然だと誰もが考えていた。
清和天皇は基経の要望に応え、忠仁公に正一位の称号を贈った。
問題はそのあと。
亡き養父に正一位が贈られたのを確認した基経は、一〇月一三日、突如右大臣辞職を申し出たのである。
反基経派は一瞬喝采したが、すぐに気づいた。
実務を成しているのは基経であって、反基経の人間は文句ばかりでなにもしていない。その基経がいなくなるということは、客からクレームを突きつけられている店員が商売をボイコットするのと同じことである。クレームを突きつけている人間が商品の発注をできるわけではないし、店頭に商品が並んでいるならばともかく、店員からサービスを受ける商売であるとき、店員がボイコットしたら何も手に入らない。あれをやれ、これをやれ、と色々と要求を突きつけたので、それを拒否し、もうこれ以上やっていられないと商売をボイコットしたとき、他に店がなかったらクレーマーはどうなるか。
困る。
困るが、代わりはできない。
代わりはできないから早く戻るようにさらなるクレームを突きつけるが、それを簡単に受け入れるわけはない。
何しろ、クレームそのものがボイコットの理由なのである。ここでクレームを増すことは、ボイコットをさらに増す決意をさらに高めるだけである。
基経の右大臣辞任の重大性に気づいた者から、即座に辞任を撤回し、直ちに政務に戻るよう声が挙がった。清和天皇も基経の辞表を握りつぶしてボイコットを中止するよう命令が下ったが、基経は断固として受け入れなかった。
貞観一四(八七二)年一〇月一六日、基経は再度辞表を提出。清和天皇の温情に感謝するが、自分は周囲が言うように右大臣の器ではなく、源融や常行といった他の貴族たちからの要望に応えることができない以上、右大臣を辞職しなければならないという理由である。何とも嫌味な内容であるが、書いてあることは反基経の貴族の言っていることをそのまま記しているだけである。
この嫌味に対する源融や常行からの返答はないが、想像は容易につく。これまでの言動を省みず、自分たちに責任を押しつけていると更なる反発を示したことであろう。
すでに右大臣基経のいない政務が四日目に突入している。その四日間の基経の不在は思いの外大きかった。人臣のトップである源融も、基経への度重なる批判を繰り返していた常行も、基経の代わりはできなかった。
しかし、日々の政務を基経がスムーズにこなしていて、その上で政治が成り立っているのだということを改めて実感しながらも、彼らが基経への批判を止めることはなかった。ただちに政務に復帰するよう命じ、それに従わないのは職務怠慢だと批判するのみだったのである。右大臣に相応しくないと言われたから右大臣を辞めると言っているのに、右大臣の職務をしないことを職務怠慢と批判するのは筋が違っている。
貞観一四(八七二)年一〇月一七日、左大臣の名で源融が公式に基経の辞表に抗議。ただし、この抗議は黙殺されている。
一〇月二一日、基経が三度目の辞表を提出。清和天皇はこの辞表も却下。この間も政務は停止し続けている。
貞観一四(八七二)年一〇月二七日、今度は藤原常行が辞職を申し出る。清和天皇はこれを拒否。
結局、貞観一四(八七二)年一〇月末まで、この政争は続き、気づいたときには辞職などなかったかのように基経が政務に復帰している。基経を批判するのも相変わらずだし、反基経が基経に代わって政務を執ることがないのも同じである。全ては元に戻ったのだ。
ただし、一つだけわかったことがある。
反基経に政権担当能力はないということである。
貞観一四(八七二)年一一月はそれまでの政争とは打って変わって祭に明け暮れ、毎日のようにどこかでイベントが開催された。
そして、一二月、亡き忠仁公に勲章が一つ加わった。
それまで特別扱いされていた陵墓は「十陵四墓」とまとめて呼ばれており、その名の通り一四カ所の陵墓であった。内訳は天智天皇朝の主立った歴代皇族一〇名の陵墓と、天皇家に繋がる人臣四名の陵墓であり、内容の変遷はあっても皇族一〇名、人臣四名の十陵四墓であることに違いはなかった。
しかし、一二月一三日、亡き良房の埋葬されている愛宕郡の陵墓を一五番目にカウントすると決まった。以後、十陵五墓と称されるようになる。
しかし、先にも述べたが、良房の墓は、ない。
厳密に言えば、わからない。
おそらく、この当時はどこに埋葬されていたか誰もがわかっていたのだろうが、現在はそれがどこなのかわからないのである。
およそ六年に渡って宮中を離れていたときは特に感じなかったが、良房が亡くなって三ヶ月を経た今になって、やはり良房の大きさは埋められるものではないと、誰もが痛感していた。
後継者である基経は、なるほど、非凡な才能の持ち主である。源融や常行が言うような無能な右大臣ではなく、むしろ歴代の右大臣と比べて良くやっているとは感じる。
だが、何かが足りないと誰もが感じていた。
敵と反発するだけでなく、敵の攻撃に嫌気をさして政務を放り投げてしまうなど、良房ならば断じてしなかったのに、基経はやった。この一点でも、基経の、良く言えば人間らしさ、悪く言えば幼さが感じ取れる。
これは性格によるものだからどうにもならないとも言えるが、もう一つ、ここに至るまでの境遇もあった。
貴族デビューしてからの良房は、常に目上の敵に喧嘩を売り、迎え撃つ敵を叩きのめし、その実績を武器にして庶民を味方につけ、政争を繰り広げた末に権力を握った。権力を握った後は並び立つ者のない絶大な権威を持った権力者になっており、逆らう者はいても、対等に逆らう者は一人としていなかった。
一方、基経は良房という権力者の権威を継承することでこれまでの地位を築いてきた。言うなれば、喧嘩を売られる側であるという境遇なのだ。
貞観一五(八七三)年一月一日、忠仁公の服喪期間であるとし、朝賀が中止になった。ただし、朝賀はなかったが、清和天皇は出席を希望する貴族を集めて雅楽の吹奏に聴き入った。現在の感覚で行くと、新年のカウントダウンがあるニューイヤーコンサートというところか。ただし、あくまでも朝賀の代替行事であり、大騒ぎするものではなかった。
一月七日、左大臣源融、右大臣藤原基経が揃って正三位から従二位に昇格する。また、参議の菅原是善が正四位下に就くなど、合計三九名の貴族が昇格した。ただし、その詳細はわからない。日本三大実録にはこの日に三九名が昇格したとしか書いておらず、誰が昇格したのかまではわからない。
一月一三日、新たな役職の付与。この日、左大臣源融が皇太子貞明親王の教育係となる。また、菅原道真の方略試の試験担当官として名を残している都良香もこの日に新たな役職に就いた。だが、その他の詳細はわからない。こちらもまた、歴史書には合計四三人が新たな職に就いたと記しているのみであり、誰がどの職に就いたかを記すことができないのである。
その後も、一月恒例の行事が忠仁公の服喪期間による中止となったことを歴史書は記している。
政争も一段落し、これからの日本はこういう日常になるのだと誰もが考えていた冬が終わり、春になりつつあった貞観一五(八七三)年三月一一日、それまで日本が忘れていた危機を突然思い出した。
きっかけは、渤海人崔宗佐らの乗った船二隻が、唐から渤海へと戻る途中、薩摩国甑島郡に漂着したことである。
渤海は唐と国境を面した国であるが、大量の物資の輸送には、陸路より海路のほうが便利であった。これは今の社会でも同じで、飛行機や道路、鉄道といった交通インフラがいかに整備されようと、大量輸送能力では船に勝てない。
だから、唐と渤海の通商で陸路ではなく海路を選ぶのはおかしな話ではないのだが、日本に漂着したというのはかなりおかしな話である。実際、救助にあたった者も、なぜ渤海に向かう船が漂着したのか不思議がった。
だが、漂着した者の話を聞いて、その理由を納得すると同時に恐怖にすくみあがった。
海の向こうでの政情不安が拡大しており、いつ大規模な反乱が起こってもおかしくない。また、政情不安がこれまで以上の海賊横行を招き、航海の危険性が高まっているのみならず、海賊による侵略がいつあってもおかしくないという報告である。
新羅からの侵略は、撃退しているだけで消えたわけではないし、その対策としてかなりの負担が存在している。それに唐からの侵略が加わる可能性があるというのは落ち着いていられるようなことではなかった。
政情不安イコール侵略ではない。しかし、食料を求める者は追いつめられると何でもする。戦いをせずに平和を愛し、平和な暮らしをしているというのは、何でもする覚悟になった者にとっては絶好のターゲットである。
そこから逃れるためには何をすべきか。追いつめられている者ですら手出しできないだけの武力を身につけることである。
貞観一五(八七三)年三月一九日、因幡、伯耆、出雲、石見、隱岐、ならびに大宰府に対し、国外からの侵略に備えて兵を配置するように命令が飛んだ。
兵を配置するのはかなり予算がかかる。徴兵にしろ志願兵にしろ、国外からの敵と向かい合う仕事を無料でやれと命じる者はいない。仮にそんな命令をしたら、国外の敵だけではなく、国内にも武器を持った敵を作ることとなるにだから。
かといって、予算というものは天から降ってくるものではない以上、どこかの出費を代わりに削らなければならない。繰り返すが、この時代には赤字国債という考えなどなく、税収だけが収入なのである。
清和天皇がこのときの予算削減に選んだのは、自分の子供たちである。
皇族のうち八名を親王に任命すると同時に、四名を源氏としたのである。親王となると特別な皇族となるので名誉と肩書きはあっても給与は少ない職務を任せられるし、源氏とすれば皇室予算を削減できる。
この皇族に対する予算の削減も、予算不足の抜本的解決とは繋がらなかったが、このときの清和天皇の行動は後の世に大きな影響を与えた。
なお、後に征夷大将軍の地位を得ることとなる清和源氏は、このときに誕生した四人の源氏の子孫というわけではない。始祖となるのはこのとき親王になった清和天皇の第六皇子である貞純親王である。もっとも、さすがにこのとき、貞純親王の子孫が源氏になることも、その源氏が後に大隆盛を極めることも、予期した者はいない。
貞観一五(八七三)年六月二一日、武蔵国に追放されていた新羅人三名が集団脱走をした。集団脱走をした三人の名は記録に残っており、金連、安長、清信という。
この三人は、三年前に追放されてからこれまで全く記録に登場していない。つまり、この間、武蔵国で何をしていたのかという記録は全く残されていない。囚人として牢に閉じこめられていたのかもしれないし、奴隷として農地につなぎ止められていたのかもしれないが、もっとも高い可能性は、一般庶民として暮らしていたという可能性である。これは、日本に逃れてきた亡命新羅人たちに与えた日本からの処遇を考えると、もっとも高い可能性で考えられる。
この当時の日本は国外からの亡命者を頻繁に受け入れていた。今から比べればこの当時の日本は貧しいし治安も悪いが、他の国から比べれば豊かで治安も良かった、つまり、新羅や唐からみれば、日本は恵まれていた暮らしだったのであり、生活苦から日本に逃れてくる外国人は多かったのである。
ただし、朝廷は、彼ら亡命人に対して、王侯貴族としての暮らしを用意したわけではない。差別はしないが特別扱いもせず、あくまでも一庶民として暮らすよう命じたのである。税も当初は免除するが、数年経てば一人の日本人として徴税の対象となるし、国籍も日本に移すことを命じられた。日本語を使って生活することも求められたし、日本の主権が母国のそれと対立することとなったときは、日本人として行動するよう求められた。現在は国会議員ですら竹島を韓国に譲り渡せなどと主張できるが、この時代は、そのような発言をしたら、ただちに全財産没収の上で国外追放を食らう時代である。
このとき武蔵国に追放されたのは、日本に暮らしながら日本の主権より新羅の主権を優先させる者であった。つまり、日本人になるという意志は全くなかった。当然だ。日本への侵略を意図していた者たちである。彼らにとっての日本人は侵略の対象であり、格下の存在である。その格下の存在にとけ込むなど断じてあり得ないことであった。
脱走はその結果であろう。彼らの心の中での最後の砦となっていたのが新羅人としてのアイデンティティなのだから。
貞観一五(八七三)年六月二二日、前年からの歪みが噴出した。
京都と河内国が飢饉であることを公式に認めたのである。朝廷は直ちに、京都では国庫からのコメの支給を、河内国には摂津国からのコメの支給を決定した。
この流れで、基経が率先して食料配布を行なったのには誰もが驚かされた。
コメの支給自体は祖父の冬嗣も養父の良房も行なっていたが、良房は途中から消極的になっている。それは、弱者救済の方法として食糧供給ではなく職業斡旋を優先させるようになったからであり、基経もその路線を継承していた、はずであった。その基経が、養父の死後一年と経たずに、良房が消極的になった政策に積極的になったのである。
しかも、この弱者救済の方法自体は律令派のそれである。反律令派であるはずの基経が率先するなど誰もが想像しなかった。
都市に流れ込んでくる者は、都市で暮らしたいから都市に流れ込んでくるのではない。貧しくて、食べ物もなくなって、生きるためには都市に流れる以外に選択肢がなくなったから都市に流れ込んでくるのである。ここまでは歴代の執政者が共通で抱いていた認識である。
しかし、このときは京都だけでなく、京都近郊の河内国からも飢饉が報告されたのである。現象としては京都と同様、外部からの流入が穀物供給量を越えてしまったことに尽きるが、京都と河内という組み合わせは前例がない。そして、この前例のない組み合わせであることが、基経をして、食料配布に積極的たらしめる理由であった。
では、なぜ河内国の飢饉で積極的になるのか。
それは、河内国がこの当時最大の穀倉地帯であったからである。京都で消費される穀物の少なくない数が河内国からもたらされたものであり、京都の東西の市で並ぶ食料品も河内国産が多かった。
都市に行っても食料がないなら、その食料を作るところに行けばあるのではないかと考えるのはよくあること。良房はこの問題を、食料を求めるだけの者ばかりが多くて、食料を作り出そうとする者は少ないということで捉えていた。強盗と化した者は荘園を守る武士に破滅させられたが、強盗とならなかった者だって似たようなものだった。何もせずに食料をくれるよう窮状を訴えるだけだったのだから。
確かに荘園開発の人手は常に不足していたのだ。多くの荘園領主は、生活の保証を担保に人手を集めていた。田畑を広げることも望んでいたし、今の田畑を維持する人手だって求めていた。無論、荘園領主がくれるのは初期投資費用だけで、秋には収穫からいくらかを返さなければならないのだから、遊んで暮らせるわけではない。しかし、田畑を開墾すると約束するなら、自由は少なくなるが生活を回復できる可能性があったのだ。それを選ばず田畑を離れ、都市に向かい、さらには都市の食料供給元に向かい、他者の労働の結果を温情にすがって求めたのは浅ましすぎる。言葉は悪いがこれは自己責任とするしかない。良房が彼らへの食糧供給を止めたのはこうした理由からである。
ところが、基経はこのときの食糧供給を率先して行なった。
これは、不吉な予感を感じていたから、いや、良くない近未来を確信していたからである。
誰もが雨が多いとは感じていた。とは言え、季節は梅雨。雨の連続であってもおかしくはない。
しかし、基経は察知していた。より正確に言えば、各所から伝えられる情報を分析して、ある予測を立てていた。
降水量が多すぎる。
このままでは農作物に影響が出る。いや、河内国では実際に影響が出ている。その証拠が河内国からの飢饉の連絡である。この時点で手を打たなければ、祖父冬嗣の頃のような大飢饉がこの国を席巻することとなる。
今の流民の多さは、怠惰の一言で片づくような代物ではない。自然環境が労働を台無しにしてしまう時を迎えてしまったのだ。そしてこれから、農村で収容しきれない貧困が、それも、最大の穀倉地帯であるはずの河内ですら収容しきれない貧困が始まるのだ。
しかも、冬嗣の頃は、北東の蝦夷と北西の新羅という二つの敵と戦争をし、その二つに勝つことで国内の不満を外に逸らすという手段があったし、それだけの軍事力もどうにかなったのだが、今はそれができない。
軍事力がないのだ。
藤原良相の死を最後に、武将が朝廷から姿を消してしまった。武力の職務を受け持つ者ならばいるが、実際に軍勢を指揮する能力は持ち合わせていない。
それに、仮に武将がいたとしてもその武将に指揮させる軍勢を用意できない。徴兵制である防人は義務過剰による負担が大きすぎて桓武天皇の手によって崩壊させられ、志願兵制である健児(こんでい)が導入されたが、その定員は一万人に満たない少なさである。
地元の武士を軍勢としてカウントしたとしても、この兵力の少なさでは防衛するのが限界であり、戦争を仕掛ける余裕などない。つまり、戦争を理由に掲げて飢饉をごまかすなどできないのである。
となれば、方法は一つしかない。
生きていけるよう、食料対策を講じることである。
東日本大震災の爪痕がどれだけ根深いものか敢えて記すまでもない。左派政権の対応は最悪だったし、東京電力のしでかした犯罪を列挙したらきりがないが、それでもなお、命を奪われずに済んだ者は生きることができた。遠く離れた避難所での生活は快適なものではないし、食べ物だって満足にはいかないが、それでも生きていけたのは、被害の軽かった、あるいは被害を受けなかった者一人一人が懸命になって物資を届けたからである。
避難所に逃れてきた人は、断じて怠惰な暮らしをしていたわけではない。それどころか、ほとんどの人は朝から晩まで懸命に働いて懸命に生きてきた人たちである。その人たちが、ただ単に三月一一日にそこにいたというだけで、家族を失い、恋人を失い、友人を失い、住まいを失い、財産を失い、仕事を失ったのである。
この現実を目の目にしては、誰であれ、この人たちを救わないなどありえない。東日本大震災で江頭秀晴氏が絶賛されたのも、自己の知名度を利用することなく、自己の手で物資を集め、自己の手で物資を運んで被災者を救ったからであり、また、誰もが被災者を救わねばならないという共通認識を抱いていたからである。
行動だけを見れば基経の行動は養父を裏切る行動であろう。だが、このときは自己責任でどうにでもなるような甘い自然環境ではなかった。東日本大震災と同様の自然環境が原因の災害であり、菅直人や辻本清美、あるいは東京電力の面々といった大量殺戮鬼が跋扈した東日本大震災と違い、誰にも責任などないのである。まじめに働きながらも飢餓の恐怖と向かいあわねばならない状況に対処するのは執政者である基経の義務であり、また、使命であった。
貞観一五(八七三)年七月八日、恐れていた現実がついに始まった。
止まぬ雨はいよいよ激しさを増し、雷雨を伴う暴風雨となって京都に襲いかかってきたのである。基経は水害に対して即座に行動できるよう、左近衛大将としての権限をフルに発揮して武人たちをかき集め待機させた。
翌七月九日には、六〇名の僧侶を紫震殿に集めて大般若経を転読させ、各寺院にも祈祷をさせた。目的は唯一つ。多雨の沈静化である。
七月一九日には伊勢神宮に使者を派遣して沈静化を祈らせた。ただし、この日はまたもや雷雨が京都を襲い、この雷雨は翌日になっても続いた。
こうした基経の行動に対する京都市民の反応は冷淡だった。「大げさだ」「そんなことして何の意味がある」「右大臣もとうとうヤキが回ったか」と。そして、ことあるごとに良房と比べた。
基経は市民のこの反応を放っておいた。これからくるであろう災害に備えて万全を期していたのに災害がこなかったとしたら、「小心者の右大臣が大げさに用心しすぎた」という笑い話で済む。だが、災害の備えをせずに災害を迎えてしまったら、後に待っているのは夥しい数の死。それは絶対に笑い話になどできない。命が助かるなら自分が笑い物になるなど安いものである。
この基経の願いが通じたのか、基経は笑い物となった。このあたりを最後に飢饉の記録が消えていくのである。
あとに残っていたのは、自然災害があったという記録だけ。
自然災害は確かにあったし、食糧不足に苦しむ人も数多く現れた。にも関わらず、人命を失わせることなく、被害を最小限に食い止めたのである。
この基経の行動に対する評価は完全に真っ二つに分かれた。
一つは基経の行動を笑った者。彼らは基経に対して「臆病で浪費癖のある右大臣」という評価を下し、「大した災害でもなかったのに無駄に予算を使わせた」として非難した。左大臣の源融や大納言の藤原常行といった反基経の貴族、それと、橘広相を中心とする律令派の学者たちがその中心だった。
一方、大納言の源能有は基経の政策に積極的に賛成し、食料配布の際に自ら集めた物資も加えて渡している。能有にはわかっていたのだ。何もなかったかのようにするために万全の対策をするのだと。
わかっていたのは能有だけではない。若手の役人や貴族の中にも、災害を目の前にして必死に抵抗する基経の姿勢に同意し、積極的に協力する者が次々に出たのである。応天門炎上事件で一族が壊滅状態となった伴氏や紀氏の者もいたし、良房の全否定をしてきた律令派の者もいた。彼らの共通認識は、今真っ先になすべき事が災害への抵抗と人命保護の二つであること。それはこれまでのわだかまりや主義主張よりも重要なことであり、そのためには自分のアイデンティティを否定しても構わないとするものであった。
基経は彼らに一つの報償を与えた。貞観一五(八七三)年八月二一日、右大臣の強い進言により、一三名の貴族が昇格する。
源融や常行、それに橘広相はこのときの基経の行動を激しい口調で非難した。起こりもしなかった災害対策のために予算の無駄遣いをしておきながら、またここで昇格させて人件費を増やすとはどういう事か、と。
これに噛みついたのが能有である。自分は何もしなかったくせに、結果を出したことは何ら評価せず、全力を尽くした者への正当な報償をなぜ否定するのかと、清和天皇の見ている前で左大臣を罵倒したのだ。
大納言が左大臣を罵倒するなど本来あってはならないことである。だが、源能有は元皇族、しかも清和天皇の実の兄という並の貴族には手足できない高貴な血を引いている元皇族である。源氏であるということでは源融も同じだが、現在の天皇との血縁でいけば、源能有は源融よりはるかに天皇に近い。
それに、能有は正論を言っているのである。この年の夏の行動は断じて予算の無駄遣いではない。その上、今回の食料支援で、基経がコメ一粒たりとも自らの懐にしまっていないどころか、藤原氏の私財の提供まで行なっているのは誰もが知っている話である。辻本清美とピースボートのように、東日本大震災に際して善意で集められた物資を着服して横流ししたならば非難されるのは当然だが、そのようなことは基経と無縁の話であった。
この上で能有は、彼らへの非難を能有個人のものでなく、民衆の意見となるように画策した。平安京の各地に高札を立てて、今回の災害対策に誰がどれだけの負担をしたかを些細漏らさず公表したのである。
これを見た平安京の庶民たちは愕然とした。
基経が群を抜いて負担をし、能有をはじめとする何名かの貴族も少なからぬ負担をしている。今回昇格した一三名の貴族全員も高札に名を連ねており、これを見た庶民たちは昇格が正当な評価であると考え納得し、笑い物にした自分たちが間違っていたと誰もが考えた。
一方、左大臣の源融も、大納言の常行も名が記されていないだけでなく、橘広相にいたってはこのどさくさに紛れて不正転売を重ねて財を稼いでいると公表された。これは怒りを呼ぶに充分だった。
民衆を味方とすることが良房の政治の常套手段であったが、応天門炎上事件以後それがとぎれていた。しかし、能有の手でここに基経の元に復活したのである。
これが、藤原基経の生涯を、さらには嫡子である藤原時平の半生を支えることとなる源能有の、基経の右腕としてのデビューである。
京都の飢饉は一段落ついた。
しかし、基経は安心していなかった。
降水量が多いと言うことは、洪水の可能性が高いと言うことでもある。
洪水はただ単に水があふれるだけの自然現象ではない。家を流し、人を流し、田畑に大打撃を与える災害である。
その上、水が引いてもまだ安心はできない。
水害が起こると上下水が正常に機能しなくなるので衛生状態が悪化してしまい、伝染病が流行しやすくなるのである。
こうなると、とるべき手段は二つ。一つは洪水を起こさせないように堤防を高く作らせること、もう一つは洪水が起きた場合に備えての伝染病対策である。被災者がでてしまったときのための食料支援については前から継続中なので、新たに何か政策を展開するというわけではない。
基経はここでも私財を投じて、治水対策と医薬品の購入にあたった。
この時代、医薬品は日本国内の生産で需要が満たせるわけではなかったため、どうしても輸入が必要だった。遣唐使が途絶えて正式な国交も失われても、日本と唐との民間交流が途絶えたわけではない。なぜなら、互いが互いの生産品を必要としていたからである。
ただ、民間交流に頼っていたのでは急増することとなる医薬品需要に対処しきれない。
そこで基経は新羅を使った。
確かに日本は新羅と戦争中であるが、人命に比べれば国のメンツなど気にしてはならない。航海技術では新羅のほうが優れているのだから、新羅を使って商人を唐に派遣し、唐から医薬品を持ち帰らせるのは、今すぐ取り得る最も手早い方法だったのである。
基経は直ちに太宰府に指令を出し、新羅を経由して医薬品を日本国内に運ばせることとした。貞観一五(八七三)年九月二五日に新羅人三二名が対馬に漂着したのを利用し、正式な国交回復はなくとも、人道を前面に掲げて、漂着した新羅人の帰還と医薬品とをバーターにかけたのである。
基経の医薬品を求める行動もまた、反基経からは憤怒と失笑を買った。憤怒は、敵国である新羅の利用と予算の無駄遣いであり、失笑は、まだ起きていない水害と伝染病の対策に汲々としていることである。
基経は自分に向けられた悪評を放っておいた。相手にしている暇などないからである。ただし、一つだけ嫌みを言っている。批判していればそれで給与をもらえる者と違って、自分は働かなければならないのだと。
こう言われて、反基経の源融や常行は憤激し反論した。自分たちは定められた政務を日々こなしていると。
結局ここでも能有が相手にならざるを得なかった。能有は再び左大臣を罵倒した。貴族にあるまじき言葉だと言って。
役人は五日働けば一日休める。また、一日の勤務時間も厳密に定められている。そこでは決まったマニュアルに則って決まったとおり行動すれば評価されるし、それ以上は求められない。
しかし、貴族はそうはいかない。貴族に勤務時間の縛りなどないし、貴族に休日などない。この時代は一年が三六五日と定まっているわけではないが、現在風の言い方をすれば二四時間三六五日休むことなく働き続けるというのが貴族に与えられた使命である。なぜここまで縛られるのかと言えば、貴族には緊急事態の対処が求められるから。
緊急事態は休みなどなく、その緊急事態に対処するのが貴族の役割である。それをすることなく、日々の政務をこなすだけで貴族として役割を果たしているというのは完全に間違っていると能有は主張した。
その上、基経の努力の結果を真っ先に享受することになったのが清和天皇である。貞観一五(八七三)年一〇月一七日、清和天皇が体調不良で倒れたが、基経は輸入したばかりの薬を献上し、それを飲んだ清和天皇はすぐに回復した。
しかも、清和天皇だから特別に薬を飲めたわけではない。基経は大量に輸入した薬の一包を献上したに過ぎないのである。それまでであれば高価な献上品で天皇でなければ服用できなかったであろうが、輸入した今は、天皇も民衆も関係なく飲めるごく普通の薬になっていた。
源融は黙るしかなかった。貴族である源融なら容易に手に入る医薬品でも、民衆の財力では簡単に買えるわけない。だが、新羅を通じれば話は変わる。気軽に買えるほどではないにせよ、少し頑張れば買える程度にまでなら値下がりするのだ。
右大臣藤原基経が先頭に立って奮闘し、源能有が基経を支えるという政治体制が成立したと誰もが感じた。そして、左大臣の源融と、藤原常行が基経の敵となって朝廷に君臨しているとも誰もが感じた。
しかし、良房と敵対していた勢力は律令派として一括りにできたのに対し、基経と敵対する彼らを一括りにすることはできなかった。
源融は良房の側近であったし、その政治信条は反律令にある。ただし、良房の後継者である基経と協力しようという意志は毛頭なく、反律令ではあるが基経にも反対するという複雑な立場である。
一方、藤原常行は明確な律令派ではないものの、律令派の重鎮であった藤原良相の後継者ということもあって、反律令というわけではない。ただし、基経へのライバル心は強く、その点は源融と同調している。
応天門炎上事件で律令派は大打撃を受け、朝廷を見渡しても律令派の貴族は少数である。だが、ゼロではない。共産主義が滅亡した現在でも大学でマルクスを教える者が居続けているように、この当時の大学においても律令派は強力な勢力を誇っており、律令派の若者を輩出していた。また、学者ゆえに貴族の地位を手にしている者はこぞって律令派に身を投じており、大学出身者たちは言わば「学者派」と呼んでも良い形で一大勢力を築いていたのである。
ただし、これには大きなデメリットがあった。律令の精神を教えることで学生運動が生じてしまい、国とはどうあるべきか、社会とはどうあるべきかということを、わざわざ難解な単語を使って討論し、何であれ反対する集団を生みだした反面、肝心の教育レベルが下がってしまったのである。現在でも、学生運動にはまった学生や、働きもせず社会活動に没頭するのは例外なく役立たずのバカであるが、それは平安時代でも同じだった。大学を出ても文句ばかりで何もできないが、それでいて自分はエリートだと考えるバカが大量生産されてしまったのである。
藤原氏が自分たちの子を勧学院で教育させたのも、大学での律令派の権勢に拒否反応を示したからに他ならない。
貞観一五(八七三)年一二月七日、陸奥国で蝦夷が暴動を起こしたとの連絡が来た。
「蝦夷」と書いて「エミシ」とも読むし「エゾ」とも読む。この二つの読み方、そして当てられている漢字は日本が彼らに対して称した呼び名だが、現在はともかくこの時代は差別用語ではない。なぜなら、彼ら自身が自分たちのことをそう呼んでいたからである。
北海道に昔から住んでいた人たちをアイヌと呼び、その言葉をアイヌ語と言うが、「アイヌ」というのは民族名ではない。アイヌ語で「人」という意味の言葉であり、彼らの民族名の自称は「エムツィウ」である。「エゾ」も「エミシ」も「エムツィウ」の訛った言い方であり、「蝦夷」はその読み名に漢字を当てた結果。選んでいる漢字が差別的ではあるが、彼ら自身が自分たちをそう呼んでいた以上、この時代の彼らを示す単語はこれしかない。
さて、蝦夷はこの時代、北海道の住民を指す言葉にもなっていた。藤原冬嗣の時代に本州が統一され、津軽海峡が蝦夷との事実上の国境として成立することとなったからである。ただし、津軽海峡が明確な国境として成立したわけではないし、津軽海峡の人の行き来が消えたわけでもない。商業で津軽海峡を渡る者は多かったし、北海道の生活が苦しくなったので、より豊かな暮らしを求めて本州に渡る者も多かった。
ただ、北海道の物産を持って本州にやってくる商人ならばともかく、北海道からの経済難民となると簡単にはいかなくなる。人道的には受け入れるべきであろうが、この時代の日本に、難民を無制限に受け入れられるだけの余裕など無かったのだ。
来てくれと頼んだわけではない難民を受け入れて何も起きないとすれば、それは極めて限られた幸運。だいたいは、よくて殴り合い、そうでなければ殺し合いが待っている。確かに陸奥に住む者の多くは蝦夷の子孫である。より正確に言えば、蝦夷のうち日本に住むことを選んだ「俘囚」の子孫である。つまり、蝦夷からすれば同胞の元に身を寄せたに過ぎないと考えていた。
しかし、この「俘囚」という言葉は「蝦夷」と違って禁止用語になっていたのである。日本に住み、日本の領土と主権を守る者であれば、祖先が誰であれ誰もが日本人であるというのがこの時代の共通認識になっており、蝦夷とのつながりを示す「俘囚」という言葉は公文書から姿を消していた。無論、影でそう口にする者はいたであろうが、表だって口にして言うような単語ではなかったのである。そして、蝦夷とは国境の向こうに住む異民族のことで、津軽海峡の南は、先祖が誰であれ日本人であるという意識が確固たるものになっていた。
それは言葉にも現れていた。
確かに方言はあったろう。京都から東北地方に向かった人が現地の言葉を理解できなかったという記録も残っているのだから、今よりも激しい方言差だったかも知れない。
だが、東北地方で話されている言葉は日本語だった。そして、津軽海峡の北はアイヌ語だった。アイヌ語も日本語も元は同じ言葉だし、この時代は元々一つだった言葉が二つに分かれてからの時間も今より短かったが、この時代にはすでに、互いの意志疎通ができなくなるほどの言語差が生じていたのである。それは方言ではなく別の言語であった。
北海道から来た蝦夷がそれを愉快に感じるだろうか。
百年前は自分たちの言葉が通じる自分たちの領土だったのである。しかも、同胞の元に身を寄せようとしたのである。それなのに、言葉が通じず、やっと言葉を理解したと思ったら民族が違うと言われていると知った。
これは理屈で片の付く問題ではなかった。
移る先も蝦夷の領土であり、移った先にいるのも蝦夷だと思っていたのに、そこは日本だと言われ、自分たちは日本人だと言い、話す言葉も日本語だと知って、蝦夷はナショナリズムを爆発させたのだ。
ただ、いかに自分たち自身が正しい行動と考えようと、行き着く結果は暴行、略奪、強盗。いかに「戦争」と考えようと、それは犯罪でしかない。
日本は彼らを特別扱いすることなく、ごく普通の犯罪者として接し、ごく普通の犯罪者として罰した。
貞観一五(八七三)年一二月一七日、太宰府から緊急連絡が来た。
土地問題である。
良房の手によって班田制が無名になっても、班田が消えて無くなったわけではない。農地の所有権がリセットされなくなったことで班田を耕していた者は事実上その田畑の所有者になったのだが、税は班田を基礎として課され続ける。
問題はこのあと。
清和天皇の増税が彼らに重い負担となり、班田を荘園領主に譲り渡す者が出てきたのだ。
班田であるがゆえに課されるはずの税がうやむやになっただけでなく、班田の再配布時に行われていた土地の所有権もあやふやになった。
こうなると確実に税収が減る。何しろ、荘園は事実上の免税地なのだ。去年までは班田であったはずの土地が今年から荘園になったと聞かされて、いざ行ってみると国司程度では手も足も出ない有力者の所有地になっている。それでも国司としての職務に忠実に「ここは班田だから税を払え」と言っても相手にしてくれない。貴族の権威を振りかざしたわけではなく、その土地が班田だという証拠がないのだ。
班田は一二年に一度分配される。ということは、一二年耕したら、その田畑は自分の所有権から離れてしまうということでもある。つまり、法律の上では誰の土地でもない田畑ということとなる。
その土地をなおも耕し続けるのは法的にグレーゾーンだが、「班田でなくなったために荒れた土地を再開発しました」となるとグレーですらなくなる。墾田永年私財法によれば、土地を開墾したらその他の所有権は開墾した者の手に渡る。これは、全くの無からの開墾だけではなく、荒れ地を再生させても同じである。
となると、班田の期限が切れた土地を、一度荒れ地にさせて再開墾すれば所有権が手に入ってしまう。何しろ、かつて班田であったという記録ならあっても、配布したあとの班田がどうなったかという記録はなく、こうなると国司にはどうにもできなくなってしまう。
土地の所有権を合法的に獲得しただけでなく、所有権を貴族や大寺院に売り渡せば、今まで通り田畑を耕しているのに税から逃れることができる。結果だけを見れば脱税という犯罪なのだが、そこに至るまでの一つ一つは法に違反する行為ではなく、その途中のどのポイントをつかんでも法で裁くことはできない。
後ろめたいところがあったとしても、それが違法ではないと知り、しかも生活スタイルを変えることなく生活水準を向上させるとあっては、班田ゆえの納税に従うのがバカバカしくなる。
とは言え、これは二つの問題を抱えることとなる。一つは税収の減収、もう一つは貧富の差の拡大である。
誰もがこの脱税に手を染めると、国司のもとに集まる税の絶対数が減る。これは国司の給与を減らせばいいという代物ではない。地域の行政の運営費が減るのだ。税でなければこなせない事業も止まるし、税による福祉もできなくなる。税の絶対数が減っているところではどんなに事業仕分けを繰り返しても焼け石に水である。予算の世界では、チリは積もっても山にはならない。
その上、班田の私有化、さらに荘園化に成功した者とそうでない者の貧富の差が広がったと、日本三代実録には記されている。ただ、これは貧富の差の「拡大」などよりも大きな問題、すなわち、貧富の差の「固定」とすべきであろう。豊かになるためのチャンスが失われてしまい、貧しい者が貧しさから脱却する手段が狭くなってしまったのである。
どんな状況下にあっても豊かになる方法を見いだし、行動し、富を手にする者はいるが、それは極めて限られた例外中の例外。大部分の人は、すでに用意されている豊かになるチャンスにあわせた行動をすることで豊かさを手に入れる。たとえば、今の日本で子供の教育費が高くなっているのも、良い会社に入ることが豊かになることであり、良い会社に入るには良い学校を出ること。良い学校を出るには教育費を費やすことという図式ができあがっているからである。ただ、このルートが年々狭まっている。無事に定年退職した者が財を手放さず、新たな社員を迎え入れる数が少なくなっているからである。できあがったルートに従って豊かさを手に入れても、その豊かさを手放さないでいる限り、新たな者が新たに豊かさを手に入れることはできない。
豊かさを手に入れた者が豊かさを手放さなければ貧富の差が固定されてしまうのは今の日本に限ったことではない。この時代の日本だってそれは同じ。一人々々は自分の生活を豊かにするために選んだ荘園化だったのに、全体で見ると貧富の差が固まる最悪な結果を招いたのである。
荘園化が進んだというのは、すでにある田畑に対する保護が強まった反面、田畑の供給量が少なくなったということであり、田畑の供給量が減ったということは就職口が減ったということである。土地問題は貧富の問題であり失業問題でもあったのだ。
太宰府からこの報告が上がったのは、貧富の固定化が他の地域よりも激しかったからであろう。京都とその周辺であれば貧しくても庇護を受けられる可能性が高かったが、太宰府にはそれがなかった。
朝廷からの回答は、新たな田畑の開墾と配布の命令であった。失業が進んだだときになすべきは、福祉の充実でなく仕事の絶対数を増やすことである。福祉は失業の改善にもつながらないし税収も悪化させるが、仕事を増やせば失業の解決だけではなく、生産に伴う税収の向上も計算できる。この場合は田畑の絶対数を増やし、土地を持たないが土地を耕す意思のある者に田畑を供給することであった。
年の明けた貞観一六(八七四)年一月一日、大雨による朝賀の中止。
少なくとも昭和末期まで、平安時代の平均気温は日本の歴史の中でもっとも高い時代とされていた。平成になっての異常気象で平安時代が最高気温であるとは言い切れなくなったが、その前後の時代と比べて平均気温が高いことは間違いない。
その結果なのか、雪の記録が少なくなる。無論、雪国に雪がたくさん降った記録はあるし、京都に雪が降らなかったというわけでもない。ただ、少なくとも京都では雪が日常の光景ではなくなり、子どもたちが雪を珍しい光景として喜ぶようになったのである。
雪が珍しくなったということは、暖かな気候になったということである。
縄文時代から日本国内で広くみられた縦穴式住居が姿を消していくのもこの頃からで、それはひとえに、縦穴式住居というものが地震に強く冬も暖かである反面、夏は暑くなる住まいだったからである。夏の暑さに対処するため、地面を掘り下げずに地面と同じ高さに床を設定し、さらには地面より高い場所に床を設営するようになった。ただし、屋根は今までと変わらない。
昔ながらの家屋をイメージさせる「茅葺きの屋根」。実はこの茅葺きと縦穴式住居は構造が同じである。茅葺きの屋根と地面との間にある壁を取り外し、地面を掘り下げ、柱を短くし、茅葺きを直接地面に置いて固定すればそれで縦穴式住居ができあがる。
昔ながらの住まいとバカにしてはいけない。茅葺きは、三万年以上の歴史が生み出した、地震と寒さに耐える日本の住まいである。
貞観一六(八七四)年一月七日、毎年恒例の出世発表。とは言うものの、ほとんどが省略されていて誰がどんな位に昇ったのかわからないのが実状である。
出世だけでなく新たな役職の付与についてもそれは変わらず、一月一五日に役職の付与があったという記録はあるのだが、誰がどんな役職に就いたのかの記録はない。
記録がないということは、大幅な変更がなかったということであり、それは、政権が安定していたということでもある。
現在の日本をみても、小泉純一郎を除く全ての首相が一年程度で交代している。また、首相の交代がなくても大臣や政務次官の交代というのは頻繁にある。これは政権の安定とは言えない。
政策が一貫しないところに発展はない。「応天門燃ゆ」でも記したが、イタリアの詩人のダンテが祖国フィレンツェで政権交代が頻発していることを、痛みに耐えかねてベッドの上で身体の向きを頻繁に変える病人になぞらえたように、結果が出ないからといって政権を頻繁に取り替えるとろくな結果を生まない。病に苦しみ痛みに耐えかねる状況になっても、病を治すには身体を安静にし栄養を摂らなければならない。それを「医者の腕が悪いからだ」とか「薬が効かないからだ」とかで医者や治療法を頻繁に変え、安静を拒否し、摂るべき栄養も摂らずにのたうちまわっていたら治るものも治らない。
人事が入れ替わらないということは政権が安定するということであり、政権が安定するということは政策が一貫するということである。
政権を支える基経自身にとっては、朝廷内に敵がうごめく日々であり、しかも、その敵は批判ばかりで何も協力しないという苦しい日々であるが、ここで政権を投げ出してしまったら全てが地獄に陥ってしまうのだ。何しろ、自分が政権を投げ出してしまった後で待っているのは、反基経の政権なのである。おそらく、良房が展開して軌道に乗せてきたこの反律令の、即ち現実主義の政策が全否定されるであろう。だが、それで庶民の暮らしが向上するとはとうてい考えられない。彼らは批判ばかりで何も創造しない。批判ばかりで何もしない野党はいつの時代にもあるが、批判しかしなかった野党が政権を執ったらどんな地獄絵図が待っているか、東日本大震災のときの菅直人を見れば容易に想像がつくであろう。
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