清和天皇の兄の源能有の存在価値は日に日に向上していた。
反律令の現実主義の政策を進めるとき、壁となって立ちふさがる集団が二つある。一つは源融のように反律令ではあるものの基経には味方しない者、もう一つは律令を墨守する学者派である。
こうした反対派に真っ向から向かい合っていたのが能有であった。基経が反対派に向かい合うといっさいの政務が停滞するというのはすでに判明しているので、基経が反基経に向かい合うことなく政務に専念するために、基経自身に代わって誰かが立ち向かわなければならなかった。それを能有が一手に引き受けたのである。
能有と源融が内裏で口論するという光景は珍しくなくなった。これは源融に言わせれば目障りな人物が立ちはだかっていることとなる。
この能有の排除を源融は考えた。
貞観一六(八七四)年二月二九日、それまで右大弁であった藤原家宗を左大弁に出世させ、空席となった右大弁に源能有を就任させた。弁官局は実務方であり、かなり忙しい職務である。この多忙極めるポストに能有を就けることで反基経の前に立ちふさがっている能有を堂々と排除しようとしたのである。
結論から言うと、源融の目論見は半分成功で半分失敗であった。目の前からの排除には成功したが、根本的な排除には失敗したのだ。源融に言わせればより悪化したと言ってもよい。
弁官局は実務的な役職であり、請願は一度弁官局に集うし、命令も弁官局を経由する。そのナンバー2になった能有は、反基経の請願を送り返し、反基経の政策を握りつぶしたのである。朝廷内の反基経と内裏の外の反基経の関係を遮断してしまったのだ。
当然ながら源融は怒りを爆発させた。また、大学の学者たちからは、能有の行動が律令違反のみならず、人の道をあやまる鬼畜の所行とまで罵られた。
しかし、能有は平然としていた。
反律令を掲げてはいても律令の何もかもを否定したわけではない。殺してはいけないとか、盗んではいけないとか、人としての常識まで否定したわけではないのである。否定したのは現実と律令とが相反するケースに限られるし、能有の行動も、律令違反であることは認めても、人としての常識に照らせば当たり前の行動とするしかなかったのだ。国の経営にとって必要と考えれば請願を受け入れたし、国に利益をもたらすと考えれば政策を送り届けている。能有は、個人の利益にはなっても国の利益にはならないことを拒絶したに過ぎない。
貞観一六(八七四)年四月一九日、かつて淳和上皇が居を構えていた淳和院で火災が起こった。
基経は直ちに消火に当たるよう近衛府の武人たちに命じ、このときは珍しく大納言藤原常行も基経の動きに同調した。
この時代に火事がないわけではない。それどころか、火事は日本の家屋の宿命である。火災を避けようと石造りの家を建てようものなら地震で崩れ去ってしまう。地震という避けようのない天災と、火災という避けうる人災とを比べたら、人間の手でどうにかなる火災には弱くても、人間の手にはどうにもならない地震には強い木造家屋を、日本人はその歴史の中で常に選び続けてきた。
にも関わらず、火災対策のプロは江戸時代になるまで日本に現れなかった。では、それまでの日本人は火事になったらどうしていたのか?
小規模な火災のときは近隣住民が、大規模なときは武人が沈火にあたっていたのだ。この場合の武人とは武士のことではなく、国の役人としての武官であり、その主な役割は治安維持である。言うならば、警察が消防を兼ねていたのだ。
基経が動いたのも左近衛大将でもあるし、常行が動いたのも右近衛大将だからである。世の中には緊急事態にあっても原理原則を前面に掲げる者がいるが、このときの常行はさすがにそこまで愚かではなかった。
貞観一六(八七四)年六月四日、国外から二つのニュースが届いた。
この日、石見国に渤海人五六人が漂着。
同日、肥前国に唐人の商人が漂着。
この全く異なる場所に着いた二つのグループは同じことを伝えたのである。
それは、山東の塩密売商人であった王仙芝が数千人の集団を率いて反乱を起こしたという情報であった。
単に反乱を起こしたというだけなら唐から伝えられるいつものニュースであったが、このときばかりはいつもと違った。王仙台芝の反乱は鎮圧されるどころかさらに拡大しているというのだ。
唐の情勢が悪化していることは以前から把握できていた。一〇〇年以上前に起こった安史の乱から唐の衰退が始まり、今や遣唐使を送って国交を維持する必要もないほどである。唐からの輸入品が市場をにぎわせてはいたが、かつてほど特別な商品であるという扱われ方もされなくなっていたし、一般市民の生活水準でも日本が唐を上回っていたのである。現在の感覚で行くと、国全体のGDPでは唐のほうが上だが、一人あたりのGDPとなると日本が圧倒しているという感覚。
ただ、これは理屈であり感情はそうではなかった。
この時代の日本人が唐をどのように見ていたかを考えるとき、今の中国を考えても意味はない。それよりも、今の日本とアメリカの関係で考えるほうが近いだろう。ただし、在日米軍抜きで。
かつてよりは劣っているかもしれないが、やはり唐は日本人のイメージの中に大国として君臨していたのである。文化にしろ、社会制度にしろ、唐は日本の一歩先を進んでいるという感覚であり、当然の事ながら、唐が混乱に陥るなど、また、唐がなくなるなど誰も想像していなかった。
それがここに来て反乱拡大。
当初は信じられなかったが、全く異なる地点にたどり着いた無関係の二カ国人が同じ事を伝えたとなると信じざるを得なくなる。
実際、安史の乱が鎮圧されてから、少なくとも表面的には唐の国内は平穏を保っていたものの、不満はくすぶっていたし、長安の皇帝権力の及ばない地方権力も登場していたが、それでも唐は唐で確固たる存在としてあり続けるはずであった。
その唐がなくなってしまうかもしれないという思いは、日本人に大きな不安を抱かせた。
これもやはり、今の中国を考えても意味はない。それより仮にアメリカで大規模な反乱が起こり、それが鎮圧されることなく、五〇州のうち何州かがホワイトハウスの権威の及ばない地域となったら日本人はどう思うだろうかと考えるべきである。
それが、このとき起こった反乱に対する日本人の感情だった。
唐の情勢の第二報は新羅からもたらされた。
貞観一六(八七四)年八月八日、新羅人一二名が対馬に漂着した。海賊であった可能性は否定できなかったと見え、一二名は直ちに放還されている。
ただし、唐の情勢は聞いており、唐で大規模な反乱が起こっていると再確認できた。
唐で反乱が起こったのを、対岸の火事として眺めていられる余裕はなかった。
国内で反乱が起こる最大の要因は、政治の腐敗でも、自由獲得でも、また正義の確立でもなく、生活苦である。極論すれば、生活さえ安定していれば、プロ市民でもないのに反乱を起こそうだなどと考える者などいない。
中国で使われている歴史教科書を見る限り、中国共産党はどうやら、王仙芝の反乱を貧しい人民が腐敗した政権に立ち向かった人民解放運動と考えているようだが、所詮は生活苦からの反乱。生活が苦しくなって飢えを実感したため、生きるために反乱を起こしたのだ。王仙芝の反乱は何よりもまず生きるためであり、襲いかかった先で行なったのは食料の略奪である。反乱に参加した者はまだどうにかなるが、反乱の標的にされた側は取り締まられることのない武装強盗集団に襲いかかられたこととなってしまった。
この情報を京都では掴んでいた。
唐で生活苦が起こったのは政策の失敗もあるが、それだけではなく、天候不順もある。食べ物の絶対数が少ないために充分に行き渡らないから生活苦となってしまうのだ。
唐が天候不順で日本は問題なしなど考えづらい。たしかに、日本は唐と比べて人口が少ないし、同一面積あたりの農業生産性は唐を上回っている、つまり、一人あたりの食料供給量を考えると日本は唐より恵まれているが、だからといって、日本が飢饉と無縁だなどということはありえない。実際、史上最悪と言われる弘仁の大飢饉が起きたのは基経の祖父である藤原冬嗣の時代である。祖父母の世代の飢饉の記憶はそう簡単に喪失するものではない。
今は幸いにしてそこまでの飢饉は起こっていないが、生活苦は発生している。ここに唐の反乱の情報が入ったら、そして、反乱を指揮できる者がいたら、唐で起きたのと同じことが日本で起きてしまう。
世の中の通例として、何であれ権力に逆らう性分の者がいる。自分は万物を見渡せる大人物であるという誇大妄想を抱き、自分の思考と行動は常に正しいのに、その自分が権力を握ってないのは正当に評価されていないということだと考える、プロ市民である。だが、プロ市民がプロ市民である間は、やかましい迷惑な存在だというだけで実害は少ない。なぜなら、まともな知性の持ち主ならそんなバカの言うことなど放っておくからである。
しかし、そんなバカが勢力を持ってしまうケースがある。それは、政治家がもっとバカであるとき。知性を絶対的なもので測ったとき、プロ市民のそれはいつの時代もせいぜい偏差値三〇程度しかないが、政治家のそれが偏差値二五になってしまうことがある。こうなると、プロ市民のほうが相対的には利口だから、そっちのほうに人々が希望を見いだして流れてしまう。
政治家が利口であるかバカであるかの評価は一つしかない。それは、どれだけ生活が向上したかである。生活が悪化したら、どんなに支持率が高かろうと、あるいは、学歴が高かろうと、バカな政治家である。天候不順とか自然災害とかで生活が悪化したのは政治家の責任ではないと考える政治家もいるだろうが、政治家としての能力が少なくとも平均程度あるならば、天候不順にしろ、自然災害にしろ、生活水準を目に見えて悪化させることはない。この意味で、阪神大震災の村山富市と、東日本大震災の菅直人の二人は、東条英機に匹敵する最低最悪のバカ首相と結論づけざるを得ない。
幸いにして、この時代の日本には藤原基経がいた。起こるかもしれない飢饉に備えて国家予算をつぎ込んで食糧を備蓄したのは無駄なことに予算を費やしたと罵られたが、それもこれも庶民の生活のためである。庶民の生活を安定させることに比べれば自らへの罵りなど軽いものである。
前年の心配がまだ続いているかのように、あるいは天が前年の心配を維持させたかのように、この年もまた、梅雨が終わっても雨が降り続き、水害の危険性があった。貞観一六(八七四)年八月二〇日には雨がやむよう国家行事として神への祈りを捧げたほどである。
前年は杞憂に終わった水害であるが、貞観一六(八七四)年は悲しいことに杞憂ではなくなってしまった。
八月二四日、雨がやむどころか台風が京都を覆ってしまい、平安京に大打撃を与えたのである。
通常、平安京での水害は西半分の右京で起こるものと相場が決まっている。右京は左京と比べて海抜が低く、桂川の水害にたびたび悩まされ続けた結果、右京が都市として完成することのないゴーストタウンと化してしまったほどである。
ところが、このときの水害は右京だけで留まってはくれなかった。桂川と加茂川の両河川が決壊し、京都市中の全域を水深二メートル超の大水害が襲ったのである。右京だけでなく左京においても、人も、家畜も、家屋も、橋も流され、失われた命の把握もできぬほどであった。
被害は平安京の外にも及び、郊外の集落でも家屋という家屋は流されてしまい、数多くの命が失われてしまった。
水害がひいた後に残されていたのは、数え切れない死体と数え切れない廃墟。平安京を彩り京都の市民に愛されていた木々もことごとく倒れており、京都市民は心身ともに打ちのめされてしまった。
基経は素早く行動を開始した。避難所の開設と被災者の収容、家族を失った子の保護、職業を失った者の再就職の斡旋など、その対策には何ら文句のつけようのない内容であった。ただし、一つだけ源融らからの非難を浴びている対応がある。ガレキの撤去に時間がかかりすぎているというのである。ちなみに源融自身が水害の被災者のために行動したという記録はない。
基経が主導したから時間がかかっているというのは事実である。ただし、それは重機がないからガレキの撤去を人手でしなければならないという理由ではなかった。基経は意図して急ごうとしなかったのである。なぜなら、ガレキの中には数多くの遺体が眠っているから。ガレキを少しどけると遺体が現れ、遺族に遺体を引き渡して遺体を埋葬するため時間がかかったのである。その対応を考慮することなく基経に文句を言い放った源融はあまりにも配慮が足らなすぎた。
いつもの能有ならば、源融らが基経を批判しているとき、基経に代わって批判に向かい合っていたところであるが、このときの能有はその批判に対峙してはいない。
能有に批判に対峙できる余裕などなかったからである。
基経は被災者の救援と生活の再建を命じたが、大学頭時代の良房が行なったように自ら陣頭指揮に立って対策にあたったわけではない。基経は司令本部に身を置いて各地から上がってくる被害情報をまとめ、その都度対策を発していたからである。
それに、基経は大学頭時代の良房のときの水害とは比べ者にならない規模の大災害と向かい合っているのである。陣頭指揮に立って一カ所の被災を救ったとしたら、その他の無数の被災箇所の対応が後回しになってしまうのだ。
ただし、権力者が陣頭指揮に立って災害からの復旧にあたるのと、どこか遠くにあって姿を見せないまま災害からの復旧を指令するのとでは、被災者の心の内面の復興度合いがやはり違う。物だけの価値で考えれば一人の人間が被災地にやってきて指揮するというだけ現象にとどまるが、権力者が自ら先頭に立って災害復旧を支援するというのは、被災者にとって自分たちを見捨てていないというアピールすることとなるのだから。
この陣頭指揮に能有がかり出されたのである。
まず、身分が申し分ない。何しろ清和天皇の実の兄である。これはそこいらの貴族には手も足も出ない高貴な血統であり、制度の上では臣籍降下した一貴族であっても、被災者にとっては、まるで天皇が自ら支援に当たってくれると感じたのである。
しかも、能有が基経の腹心であることは今や周知の事実である。理屈としては基経が中央にあって動くことができないというのは、どの被災者にも理解できていることであったが、やはり、自分は安全な場所にいて、被災地のまっただ中で陣頭指揮に立っているわけではないという不満はある。だが、能有が来たとなればそれは違う話になる。腹心である能有を派遣することは、今や事実上の最高権力者である基経が直接被災者を救いに来たと同じ意味を持たせる効果があった。
しかも、この二九歳の若者は自分一人で被災者の支援に当たったのではない。自らの友人や知人にも声をかけて、オフィシャルな権力としての支援ではなく、プライベートな行為による支援という体裁をとったのである。これは国の力を利用するとどうしても遅くなるからであった。
いくら基経が中央にあって全面的にサポートしてくれるとはいえ、また、絶大な権限を持っているとは言え、災害対策を名目に例外的予算執行を連発する基経への反発は強く、当初はスムーズに提供されていた支援物資が滞りだしたのである。そのため、基経は私財を供出し、個人としての支援を連発した。能有の救援もその延長上であり、事実上はともかく名目上は一個人としてのものである。
プライベートな支援ということで、基経と反発する学者派の面々からの支援も得られた。その中でも群を抜いていたのは、これまでも能有への協力を惜しまず、この後も生涯の親友として能有を支えることとなる菅原道真である。この大学最大の秀才が率先して能有と行動をともにしたことは、他の学者派の若手たちを行動させるきっかけにもなった。
自然災害そのものを一時災害とすれば、心ない行動は二次災害である。
災害に対し何もできず被害者をみすみす増やしてしまう無能な政権とか、良かれと思って贈ったのにかえって被災地をゴミ捨て場にさせてしまうという支援物資とか、人災と呼ぶべき二次災害は自然災害のたびに発生する。
自粛も二次災害の一種で、本来行われるべき経済活動を「被災者ことを考えて」「良かれと思って」中止することで、経済が悪化し、被災者の生活再建がかえって遠のいてしまうだけでなく、被災者でない人の暮らしも悪化してしまう。
自然災害からの復興を考えるのであれば、自粛を徹底的に取り締まって私財をいかに使わせるかを考えた方がいい。基経が過去二度にわたって御霊会(ごりょうえ)を開催したのも、名目は悪霊を鎮めるためだが、実際は大規模なイベントを開催することで経済を活性化させるためである。
貞観一六(八七四)年九月五日、源能有と基棟王の二人が桓武天皇の眠る柏原山陵に派遣された。桓武天皇はこの時代の皇族たちの直接の祖先と考えられており、平安京開設の祖として他の歴代天皇より一段上に考えられていた。このとき能有と基棟王が柏原山陵に派遣されたのも、この自然災害からの救いを祖先に求めてのことであり、と同時に、御霊会に匹敵する大イベントとさせるためであった。
自然災害からの復興には予算を要するが、だからといって増税してしまっては元も子もない。ただでさえ災害に財産を奪われてしまったのに、ここに来てさらに財産を奪うというのはとんでもない愚策である。
このようなとき、どこから予算をとってくるかというのもまた、政治家の腕の見せ所である。
もっとも良い結果をもたらす方法は、これまで税の負担を引き受けることなく、また、災害にも遭わなかった面々に税を負担させることである。ただし、それはきわめて難しい。何しろ、税の負担を引き受けてこなかった面々というのは権力者とその支持者のことなのである。いや、権力者だけならばまだいい。権力者の支持者はとにかくやっかいである。
まず、自分のことを恵まれているとも、権力を握っているとも考えていない。さらに、自分はすでに必要以上の負担を引き受けさせられており、減税の対象となるならともかく、増税の対象とされるには納得いかない。今の日本でも、高齢者を増税の対象にしようとすると「年寄りイジメだ」と猛反発するし、それをしようものなら政権は瓦解する。なぜなら、その高齢者によって選ばれたのが今の政権なのだから。
財政問題を解決するには、高齢者への福祉を削り高齢者に増税を課すしかないし、それが唯一の日本の財政問題解決の方法であるが、それを今の政権ができるわけない。その代わりに、現役世代に限界を超える負担が強いられている。しかし、それをいくら問題だと訴えても、当の高齢者自身は自分のことを不当に搾取されている一般庶民と考えている以上、苦しみを聞き入れるわけがない。
この時代は高齢者という世代での特権階級なわけではないが、実際に苦しい暮らしを強要されている側からすれば夢のような暮らしをしているにも関わらず、自分自身のことを庶民と考える特権階級が存在し、それが政権の支持基盤となっていたことでは同じである。
それは誰かというと、荘園の農民。
まったく、荘園もまた、制度というものの例外ではないということだ。
マイナスを意図して作られた制度などはない。全ての制度はプラスであることを意図して作られたものだが、マイナス要素を持たない制度などないし、プラス要素とマイナス要素を比較して、永遠にプラスが優勢であることなどもあり得ない。制度というものは何であれプラスもあればマイナスもあるし、それは時代の移り変わりによってプラスが大きくなったりマイナスが大きくなったりする。
荘園というものは時代の要請のよって生まれた制度である。何よりも再重要視されたのは失業対策であり、律令制を否定してでも失業を減らし生活を安定させるという目的のために荘園は生まれた。
出挙の高い利率ではなく雇用主の安い利率によって生活が始まり、出挙の返済という高い負担でなく雇用主への年貢という安い負担によって生活が維持され、治安の悪化に対しても武士という武力があって守られる。
一つ一つは暮らしの向上のためなのだが、全員が全員同じことをしたらどうなるか?
何しろ荘園で働いている者は税を納めていないのだ。一人一人は税を納めないため比較的裕福な暮らしをしているが、全員が全員税を納めないと国家財政が底をつきてしまう。こうなると、正しく税を納めていれば国によって守れた命が守れなくなってしまう。
予算不足を解消するためには税を集めなければならず、税を集めるには税を負担できる者に負担させるしかない、この時代で言えば荘園で働いている者に負担をさせるしかないのだが、荘園で働いている者というのは基経の支持者でもあり、ここに負担を求めると基経の政権そのものを否定することとなる。
基経は結局、減税による経済回復を選んだが、予算確保のためにタブーに手をつけることはできず、役人のリストラでも予算の穴埋めにはならず、自らの私財の供出でその場しのぎの穴埋めをするしかできなかった。
大水害の影響は貞観一七(八七五)になっても続いた。
一月一日の朝賀がまたもや中止となったのである。天候が悪かったわけでもなく、清和天皇の体調が悪かったわけでもない。前年の大水害に対する自粛である。
ただし、ただの自粛とすると景気を悪化させる。行事が一つ中止になったというだけと思うかもしれないし、朝賀の中止などいつものことと思うかもしれないが、元日早々から喪に服すというのは心理面に与える不景気感が大きい。
そこで、大水害に対する自粛として朝賀の中止が決定されたが、清和天皇は朝賀以上に経済効果のあるイベントを開催した。
イベントの名は伝わっていないが、元日から翌一月二日にかけて、京都中の皇族と貴族が内裏に集って、音楽の奏でられる中、飲めや歌えやの大騒ぎをする行事であったと記録に残っている。こういうイベントは貴族だけでなく庶民も参加することが通例であったので、この日は朝から晩まで新年を祝う大騒ぎとなっていたであろう。
また、不景気感を一掃するためもあって、一月七日には久しぶりに位の大盤振る舞いが行われた。
このとき、それまで従四位上であった源能有が正四位下に昇格しているほか、計五四名の貴族がこの日新たな地位を手に入れた。ただし、これもまた恒例であるが、誰が昇格したのかの記録は残っていない。
一月一三日には新たな役職の付与が合計三三名に対して行われた。このとき、在原業平が右近衛権中将に就任したことは判明しているが、その他の貴族の役職就任の詳細についてもやはり不明である。
意図して好景気を演出して始まった貞観一七(八七五)年。しかし、この雰囲気を台無しにする大事態が一月二八日に発生した。
この日の夜、冷然院で火災発生。
炎は実に五四の建物を焼き尽くし、この時代随一とされた冷然院の図書はことごとく灰燼に帰した。現在では書名だけしか残っていない、あるいは中の文章が引用でしか残されていない貴重な図書がこのとき失われてしまった。もし、この火災が起こっていなかったら、日本の古代史はもっと明瞭なものとなっていたであろう。
せめてもの救いは、数多くの建物と図書を灰にしてしまった大火でありながら、人命がほとんど失われていないことである。記録に残っている死者は一名。鎮火の陣頭指揮を執っていた大原雄広麿のみである。おそらく前線に立って行動するタイプの指揮官だったのであろう、誰よりも危険なところに駆けつけて鎮火にあたり、焼け落ちる建物に巻き込まれて亡くなってしまった。
朝廷はその功績に応え、遺族に、新銭三貫文、米一斛五斗、商布三十段を支給。さらに、施薬院に埋葬されるという特権を与えた。支給された現金は現在の感覚で三〇万円ほどだが、米と布となるとこの時代の役人の平均年収の二倍となるから、一〇〇〇万円ほどが支給されたこととなる。
この冷然院の火災が与えたインパクトは大きく、二月一日には大原野祭が中止、二月四日には祈年祭が中止、二月六日には春日祭が中止と、例年の行事が停まってしまった。災害のときに最もやってはいけない自粛が始まってしまったのである。
冷然院の火災のショックも和らいできた貞観一七(八七五)年二月一七日、さらにショックをもたらすニュースが飛び込んできた。
大納言右近衛大将藤原常行死去。四〇歳の若さでの死である。
清和天皇は亡き常行に従二位の地位を贈り、生涯ライバルとして張り合いながら一度も立ち向かえなかった基経と、常行はこれでやっと肩を並べることとなった。
良房もそうだが、死に対する記述の少なさは物悲しさをおぼえるものがある。常行がこの日に亡くなったと書いてあるだけで、どういう経緯で亡くなったのかを日本三代実録は全く書いてくれていないし、どういう人生を送ったのかも全く記してくれていない。
ただし、常行には一つだけ説話が残っている。それは今昔物語集で、陰陽道に従えば夜間の外出を控えるべき日となっていたにも関わらず、夜惚れた女に会いたくて夜間に外出してしまい、鬼に捕らえられそうになったところを逃げ延びたという話である。
鬼かどうかはわからないが、夜間の治安の悪さは大問題であった。逃げ延びたというのも、鬼ではなく平安京をうろつく強盗団と言ったところであろう。父の藤原良相であったら強盗団などモノともせず、かえって強盗団を壊滅させていたであろうが、常行にそれはない。勇将名だたる藤原良相の後継者らしからぬこの逸話だが、これもまた、時代が武将を必要とせず、武将の子と言えど武将を継ぐなどしなくなっていたことの姿と言えよう。
常行の死は一人の大納言の死であると同時に、右近衛大将の死でもある。これは、朝廷の武力システムに影響を与えるということでもあった。
朝廷の武力のトップは基経だが、それは右大臣だからではない。左近衛大将だからである。常行も文人としては大納言というナンバー3の地位だが、武人としてはナンバー2になる。
もっとも、基経は武人としての訓練を積んでいないし、それは常行も同じこと。言うなれば自衛官経験のない者でも防衛大臣を務めるのがごく当たり前という現代日本の防衛システムに似ており、武力行使の判断基準はあくまでも政治的な意思によっていた。
武力のわからない者が武力を統括するというのは許されない話だが、必ずしも武力経験が必要なわけではない。武力の使い方を理解していればよいのであって、自身に武人経験がなくても武力の統括は可能である。
では、いかにして可能にするのか?
それは、常に現状に合わせ、理想を排除することである。この時代の日本の軍事力は、とてもではないが侵略するなど無理、それどころか、他国からの侵略に対処できるかどうかも怪しいというものであった。かといって、軍備を拡張できるほどの余力などない以上、武士の存在を認めた上で、現状でどうにかやりくりするしかない。
もし仮に、ここで理想に燃えた者が武力を操るような局面を迎えたらどうなるか? かなりの可能性で新羅への侵略を試みるだろう。侵略を受けたから抵抗するのだという理屈を付けようと、結果は朝鮮半島への侵略である。だが、これには何らメリットがない。
新羅が日本に侵略してきているのは貧しさからである。新羅の生産性は日本よりも遙かに低く、新羅を侵略しても得られるのは自尊心のみで、豊かさを期待することはできない。仮にここで新羅を侵略し、侵略に成功して新羅全土を日本のものとしたら、日本を豊かにするどころか、日本の国家予算の少なからぬ額を朝鮮半島に投下しなければならなくなってしまう。韓国併合から太平洋戦争終結まで、日本は日本領であった朝鮮半島に毎年国家予算の一割を投入しており、それは過剰な負担となって日本経済に重くのしかかっていた。植民地を手にすることで豊かになるどころか、かえって生活を苦しくさせていたのだが、そのあたりの事情は千年前も変わらない。
しかもそれは侵略に成功したらという条件付きである。新羅が日本からの侵略を喜んで迎え入れるわけはなかった。新羅にしてみれば、日本とは海の向こうの野蛮人の住む島であり、新羅が侵略する対象ではあっても、新羅が侵略される対象ではない。となれば、相当に激しい抵抗が予想される。このようなとき、流される血の多さは決して軽く見て良いものではない。
話が長くなったが、常行の死によって右近衛大将の地位が空いたというのは、理想に燃える者にとって魅力的な職務が空席になったことを意味していた。新羅からの侵略が問題であるというのはこの時代の共通認識であったが、侵略に対する復讐を唱えるのは極めて限られた一部の者だけで、国論であったわけではない。それどころか、この時代の国論は現状維持、すなわち、侵略に抵抗はするが復讐はしないというのが基本路線であった。
ところが、この姿勢が軟弱だと一部では批判されていた。そして、右近衛大将になった暁には武力を率いて新羅を討伐すると公言する者が現れた。右近衛大将は何しろ武力のナンバー2であり、それなりの軍事力を操れる。
これは大変なこととなったと考えた基経は、それまで陰に徹し続けてきた叔父を担ぎ出すことにした。貞観一七(八七五)年二月二七日、中納言であった藤原良世が右近衛大将になるという破格の出世を見せた。と同時に、従三位に昇格させ、右近衛大将に相当する位階を与えた。
良房に対する長良の関係は、基経に対する良世の関係にほぼ等しい。ただし、冬嗣の長子として、その気になれば弟にとってかわって権力を握ることのできたにも関わらず、自分の意志で弟の影に徹し続けた長良と違い、良世の場合、他に選択肢がないから影を引き受けていた。長良のように温厚で、周囲との調整役を進んで買ってはいたが、長良のように出世欲皆無ということはない。
良世を右近衛大将とさせたのも、軍事について基経と共通認識ができていたからというだけでなく、それなりの出世欲はあったからである。また、かつての長良のような役割を担っているという一点で、反基経の面々であっても右近衛大将就任を許容できたのである。
しかし、これだけでは、理想に燃える血気盛んな面々を黙らせるのは難しい。そこで基経は、血気盛んな面々に新たな役職を用意した。理想に燃える者は、権力から遠ざかっているがゆえに理想を延々と述べて現状を批判する。だから、権力の一端を担わせれば、ある程度は黙らせておくことができる。
貞観一七(八七五)年五月一〇日、下総国から緊急連絡が飛び込んできた。
俘囚が反乱を起こしたというのである。
基経は恐れていた事態がついに起こってしまったと直感し、ただちに反乱を鎮圧するよう命じた。唐における王仙芝のような事態になることだけは絶対に避けなければならない。
基経はまず、下総国に近い武蔵・上総・常陸・下野の四カ国に対して兵を送るよう命じた。ただし、その総数はわずかに三〇〇名。これではあまりにも少なすぎると感じられるが、これがこの時代の軍事力の限界であった。ただし、これとは別に地域の武士の協力も計算できるので、兵力としてはおそらくもう少し上積みがあるはず。
この反乱の理由も、この反乱の詳細も残っていない。残っているのは結果だけで、無事にこれを鎮圧したとある。
反乱を先導するのは自分を正義と疑わない暇人で生活に余裕がある者が多いが、一参加者として反乱に参加する理由は生活苦と決まっている。となれば、生活苦を解消する方策を示して実行すれば、初期であれば反乱はわりと早く終結する。反乱を起こさせないことが最良であるが、このときの基経の行動は最良ではなくとも次善であったと評価できる。
生活の保障で反乱の参加者を減らすことに成功したが、反乱参加者がゼロではない以上、反乱の完全な鎮圧とはならない。朝廷の呼びかけに応じない反乱の参加者は一定数いたし、首謀者に至っては「正義」が生活よりも優先するのだから、朝廷としても「犯罪」に対処するしかなくなる。
反乱がいかに「正義」に基づく行動であろうと、武器を持って暴れ回り、襲い、奪い、殺すという一連の流れを見れば、犯罪以外の何物でもない。これへの対処は武力による弾圧だという批判もあるが、武力であろうと何であろうと、武器を持って暴れ回っている集団を取り締まらないようでは国ではない。
死刑のないこの時代であるが、反乱でも死がないというわけではない。下総国の反乱軍はだんだんと追いつめられ、戦闘の場所は徐々に北西へと移り、下野国に入っていった。
貞観一七(八七五)年六月一九日、反乱軍八九人の死亡という連絡が来た。ただし、まだ反乱軍は残っており戦闘が続いているとの連絡も届いていた。
反乱終結の連絡が届いたのは七月五日になってから。反乱軍の残党三一人のうち二七人を殺害し、残る四人を拿捕したとの連絡が届いた。これにより下総の反乱は終結。朝廷は戦闘に参加して反乱を鎮圧した者への報償を与えると決めた。
最良の結果というわけではない。流された血の多さ、戦乱に巻き込まれた一般人の被害の多さは目を覆うばかりである。しかし、最悪の事態は防ぐことができた。
この頃、前年の洪水が嘘であるかのような毎日となっていた。梅雨だというのに全く雨が降らないのである。
去年は雨が止むように祈っていたのに、貞観一七(八七五)年は逆に雨乞いであった。
巨大なダムなどないこの時代、空から降る雨以外に水を求めることはできない。ただし、山林が天然のダムを果たしているという感覚だけはわかっていて、山林の中というのは落ち葉などが地面を覆っており、山林の地面というのは湿っているのがあたりまえ。雨が全く降らなかったとしても、山林が蓄えてくれていた水が川に流れ込むので、どんなに激しい日照りでも川が枯れることは滅多になく、「日照りに飢饉なし」という言い伝えもあった。
しかし、言い伝えがあることと、飢饉の恐怖とは別物である。特に、大量の水が必要というそのタイミングで充分な水がないというのは恐怖でしかない。いくら言い伝えがあろうと、田植えからこれまで順調に来て収穫が楽しみだというこのタイミングで充分な水がないと言うのは、収穫が減る、あるいは収穫が無くなるという恐怖を招くものだから。
この恐怖をなくす唯一の方法は充分な水を用意することだが、そのための手段は雨乞いしかないと言うのがこの時代だった。もっとも、現在だってこの問題の根本的な解決にはなっていないが。
神泉苑にて雨乞いを行ない、幸いなことに雨が降った。
ただ、少々雨が多すぎた。
人災の最悪な事態は防げても、天災の最悪な事態は防げなかった。雨乞いしなければならないような乾燥が嘘であったかのような雷雨が京都を襲ったのである。貞観一七(八七五)年七月一〇日、暴風を伴う雷雨が京都を襲い、樹木を引き倒し建物を破壊した。暴風雨は七月一二日まで続き京都に大ダメージを与えた。
ついこの間雨乞いをしたばかりなのに、今や雨がやむのを神頼みする始末である。
この頃、唐で暴れ回っていた反乱軍の中で、科挙の落第生であった黄巣が頭角を現し、今では反乱軍のトップになっているという情報が飛び込んできた。そのため、この反乱そのものを「黄巣の乱」と言うほどである。
王仙芝の反乱軍は元々が塩の密売商人からスタートした集団であり、当初は暴れ回るだけでそこに規律はなかった。しかし、黄巣は違う。科挙を受けるぐらいだから野心は強い。何度受けても落第し続けていたということは、能力が低いとするしかないが、それでも反乱軍の中では一つ飛び抜けている。しかも、黄巣には自分を落第させ続けていた唐という国家そのものに対する強い反発があったため、ただ暴れ回るだけの集団を反国家勢力へと昇華させる事に、何らためらいはなかった。
今の受験でもそうだが、確かに、試験の出来の良し悪しと実際の知性の良し悪しが一致するわけではない。しかし、社会において重宝されるのは、実際の知性の良し悪しではなく、試験の合格者のほうである。試験に合格すれば高級官僚としてバラ色の未来が待っているのに、何度受けても不合格となり、その一方で、自分が落ちた試験に受かった者がこの世の春を謳歌しているのを横目で見ながら、次の試験に向けて人生の全てを捧げるのは鬱屈した感情を生む。たとえどんなに自分を優れた人間と認識しようと、あるいは他者から知性がある人間と見られようと、それが試験の不合格ということの運命である。
ここでもし、試験を実施する側、すなわち国を打倒しようという勢力があり、しかも、それが一定の成果を上げているというのを知ったとき、野心家はどう考えるだろうか。国に忠誠を誓い改めて試験に挑戦するより、国を裏切って反乱軍に身を投じたほうが高いメリットとなるならば、自分を不合格にしてきた国をさっさと裏切るのも手である。
科挙の試験というものは作文と作詩しかなく、実用性はほとんどない。とは言え、国を操る方法を学んでいる事には違いがないので、そこいらの武装強盗より人を操る手段に長けてはいる。身分も財力も関係なく優秀な人間を採用する仕組みである科挙は、同時に、不合格者という反国者予備軍を大量に生み出し、反乱を指揮する人間を生み出す仕組みにもなっていたのである。
これは科挙が持つ宿命でもあった。
この黄巣の台頭という連絡を受けた日本では、唐との折衝をいかにすべきかという問題に直面した。
いかに黄巣の軍勢の勢いが強くても、中国全土を制圧しているわけではない以上、正式な国家として承認するのは難しいとする意見があった。
一方、黄巣の勢力を認めただけでなく、黄巣はいずれ唐にとって変わった王権を築くと見なし、公式な国家として承認することを主張する一派もあった。
だが、もっとも多かったのは、そのどちらでもなく、中国との正式な折衝を断ってしまうべしとする意見である。
正式な折衝というと遣唐使ということとなるが、遣唐使の最後の派遣からおよそ三〇年を経ている。しかも、その最後の遣唐使もただ単に唐に渡ったというだけでこれといった外向的成果を上げていない。つまり、外交的成果となると、平安京遷都直後にまでさかのぼらないと見つからない。
黄巣相手に派遣するにせよ、唐に派遣するにせよ、戦乱の真っ直中に遣唐使を派遣して、果たして何の成果が得られるか。
新羅対策にもはや唐は期待できないが、国土防衛に限定すれば新羅対策は何とかなる。
渤海との折衝は、放っておいても向こうからやってくるのだから日本としてはそれを受け入れればいい。
唐の物資がほしければ民間の船で事足りる。
それなのにわざわざ、死亡率四割というとんでもない危険な航海をする必要はどこにもない。
それが第三の主張の理論であった。
応天門炎上事件から一〇年目を迎え、事件の真犯人として民衆に徹底的に嫌われた伴善男が亡くなってから七年以上が経過している。
しかし、その七年という期間は善男への怒りの記憶を消すにはまだまだ短かった。
この時代は非業の死を遂げた者が怨霊となって暴れ回ると考えられていたのに、そして、善男はこれ以上なく非業の死を遂げていたのに、怨霊どころか、祟り一つ口の端に現れない。怨霊と認識されるには多少なりとも民衆の同情が必要だが、善男に対してあったのは、死刑でもおかしくないのに死刑にならずに追放刑になったという刑罰の軽さへの怒りと、追放が解除されぬまま追放先で死んだことに対する歓喜だけで、そこには同情心などカケラもなかったのである。人々が善男を語るときは憎しみと罵声しかなく、同情もなければ恐怖もなかった。
こういう境遇の善男である以上、亡き善男に対する尊重など考える者はおらず、貞観一七(八七五)年一一月一五日、亡き善男が伊勢国に所有していた所領を没収し、京都の土木工事の費用に充てるという決定がされても誰も反対しなかった。
一度手がつき始めると、止める者がない限り突き進むまで突き進む。当初は伊勢の所領だけだったのが、一ヶ月以内に、田畑、山林、家屋、そして倉庫の中の稲など一切の私有財産の没収が行われ、京都の公共事業費に当てられることとなった。
なお、このときに没収したのは「庶人伴善男」の財産と記されている。死後七年を経っても善男は許されることなく、死後の名誉回復も全く行われていないのは、それだけ善男に対する怒りが強かったから。これが、庶民に背を向け、独善を貫いた政治家の末路である。
貞観一七(八七五)年一一月一六日、出羽国から緊急連絡が飛び込んできた。
北海道から「狄」が押し寄せてきたのである。この「狄」という語であるが、漢字一文字で「えびす」と読み、この時代のアイヌ人たちを指す差別用語であった。現在では差別用語扱いされている「蝦夷」もこの時代は差別用語であるという意識がないばかりか、当の本人たちも自分たちのことを「蝦夷」と呼んでいたから何の問題もない。しかし、「狄」という言葉は差別用語であり、使うのははばかられるだけでなく、使った側が知性貧弱として差別されるほどの放送禁止用語であった。
その放送禁止用語が史料に残るとはどういうことか。
その放送禁止用語を使うに値するだけの犯罪をしたということである。
北海道から八〇艘の船で渡ってきた「狄」たちは、旅行でも貿易でもなく犯罪集団として秋田にやってきたのだ。略奪、暴行、強姦、そして殺戮の惨劇が現在の秋田港付近で展開され、少なくとも二一人の日本人が殺害された。襲いかかってきた船の数に比べて被害が少ないのは日本側も抵抗を見せてこれを撃退したからで、友好的な侵略だったために二一人の殺害で留まったからではない。この蛮事に日本側の怒りは強く、放送禁止用語であるはずの「狄」が公に語られ、史料にも「蝦夷」ではなく「狄」と記されるほどになった。
「狄」たちが秋田を急襲したのは、そこが目に見えて豊かに感じられる土地だったからである。
彼らに言わせれば、出羽も元々は自分たちの住まう土地。その出羽北部にある港町秋田に秋田城が築かれ、豊かな田園が広がっただけでなく、秋田城の周囲に東北地方最大の都市が成立したが、「狄」にとっては自分たちの土地で日本人たちが勝手にやったこと。自分たちの土地にある豊かさを自分たちが手に入れるのは当然と考えた彼らが行なった行動が、強盗と殺戮であった。
このときはすぐに収束したが、三年後、この秋田の地により大規模な悲劇が展開されることとなる。
国外の動揺、海の向こうからの侵略、これに加え国内も平穏無事とはなっていない。それでも清和天皇はつとめて平静を装おうとしていたし、基経も懸命に平常心を保とうとしていた。
年が明けた貞観一八(八七六)年一月一日、雨のため朝賀を中止したが、中止のほうが当たり前の年中行事は、開催されないほうがむしろ平年通りである。真冬のさなかにも関わらず雪ではなく雨だが、平均気温が上がっていたこの時代ではこれもやはり日常の光景とするしかない。
一月七日に五五人が昇格するが、これもまた日常の光景である。そして、正四位下であった藤原冬緒が従三位に登った以外に名が残されていないのも通例の通りである。
ところが、いつもなら一月一六日前後に行われる新たな役職の発表が、この年は一月一四日と少し前倒しで行われたあたりになると通例が怪しくなる。前倒しに行われること自体は珍しくない。しかし、それらの役職はことごとく低くポストであり、また、数も少ないというのは通例ではない。少なくとも弁官局以上の人事は固まっており、このときの最高の地位でも従四位上相当の役職だから、例年にない低さとするしかない。
詰まるところはポストの不足に行き着く。
例年であれば、死去や出世、あるいは左遷などで多少なりともポストは空いているはずである。それがないということは、皆が健康だったというよりむしろ、政局が安定しているということである。確かに対立はある。左大臣源融と右大臣基経の関係は目に見えて悪化しているし、大学に目を向ければ、今なお律令を墨守する一派が君臨している。しかし、対立があることと政局の安定とは両立できる。現在でも、異なる政党が議会で議席を争い、議場で論戦を繰り広げているが、これは、民主主義社会の常識であるだけでなく、人間社会の常識。対立があったところで流血の騒ぎになるわけではなく、ただ単に言葉の応酬がされるだけ。いっさいの対立を認めず、ゆえに論戦も起こらない社会のほうがどこか狂っている。
この時代は人間社会の常識が存在しえたゆえに対立があり、そして、政局の安定があった。
しかし、通例ではなかった。
人事の安定は政局の安定を生む。
ただし、ポストレスの貴族にとっては政局の安定だと悠長に構えていられるわけがなかった。ポストは限られているが、貴族の数は毎年増えている。こうなると、地位だけあって職のない貴族が増えてしまうこととなってしまうのだ。
貴族の給与は位階による給与と役職による給与の二本立てであるから、位だけあって役職がない貴族であっても全くの無給というわけではない。しかし、地位だけあって役職がなく、給与も半分に留まるというのが気楽なわけはないし、給与も満足行くものではないし、何より、貴族としての格は位階ではなく役職によって決まる。権威も権力も財力も位階ではなく役職に基づくからこそ、貴族たちは何とかして役職を手に入れようと懸命になっていたのである。
では、どうしてこうなってしまっていたのか。
簡単に言えば、ポストと比べて貴族が必要以上に増えてしまったからである。
ではなぜ、貴族が必要以上に増えたのか?
貴族の数が減らないのに、貴族の要件を満たす役人が増えたのである。
正六位上から一階級昇格すると晴れて貴族の仲間入りとなるが、その一階級昇格の要件を満たす者が毎年のように大量に現れたのだ。
定員があって、成績順に並べて上位何名までを昇格させるという仕組みではなく、役人の評価はあくまでも個人のそれまでの働きである。テストで例えるなら、上位何名までという定員で絞るため、どんなに高得点を獲得しても不合格になることもある入試のようなテストではなく、合格者が何名いようと一定の点数以上なら無条件で合格となる運転免許のようなテストのようなもの。
位階はそれまでの努力と結果に対する評価であり、同じ努力をして、同じ結果を残したならば、同じ評価が下されねばならないとなっていた。これは一見すると公平に見えるが、それは同時に、貴族の増大と位階の相対的地位の低下というすさまじいインフレを伴う。貴族の数が増えすぎてしまい、かつては従五位下でも就けた役職なのに、今では正四位上でないと就けないというインフレが起こってしまったのだ。
これに加え、蔭位の制がかなり強力に働いてしまった。
五位以上になると、自分の子を高い地位の役人に就けることができる。これを「蔭位の制」という。ただし、この頃までは、いきなり貴族というケースは皇族から臣籍降下した源氏だけに限られており、高い地位の役人と言っても、全員が全員貴族になれるとは限らない。理論上は。
大学は定員が決まっており、その競争率は激化していた。良房の手によって、無位無冠の者であっても大学に入ることができるようになっていたため、人生をかけて大学に挑む者が続出。無論、目的は学問ではなく、その後に待っている就職。大学を出ればまず間違いなく役人になれるし、役人になれれば努力次第で貴族になれるというのが目的である。不純な目的であろうと、競争率が上昇し、大学に関わる選考が繰り返された結果、大学の卒業者の質が向上していた。となると、優秀な役人として出世する者が続出することとなる。
一方、蔭位の制の対象者たちは大学を出ることなく役人になることができるが、彼らはかなりの確率で大学と同等、あるいは大学以上の教育を受けている。有力貴族ならば自分の子弟に大学に頼らない英才教育をほどこすのが当たり前であり、有力者の子弟であることよりも、貴族の設けた一族専門の教育機関出身者という目で見られていた。
人事を司る式部省の面々は、かつてならば大学を出た者の中から優秀な者だけを考えれば良かったのに、今や、大学を出た者全員に加え、大学を出たに等しい能力の者も加えて考えなければならない状況となってしまった。
これがある程度までであれば教育熱心な家が多いというだけに留まったであろうが、一族専門の教育機関の質が向上しすぎてしまったのである。蔭位の制によって役人になっても、それまでであったら、いかに有力貴族の子弟であろうと無能な者が多かったので貴族にたどり着ける者はある程度限られていたのに、この頃になると優秀な者が大量生産されるようになり、どうしても貴族入りする者が数多く生まれてしまうようになってしまった。
大学関係者は、大学がないがしろにされ、貴族が幅を利かせているとして批判していたが、これは批判するほうが間違っている。大学からの人材採用は以前と同じペースで続いており、大学は決してないがしろにされたわけではない。第一、大学出身の貴族が律令派として宮中で一定の勢力を持っているのである。無論、大学以外の者の割合が増えてしまっているので、全体に占める割合が減ってしまったのは事実であるため、大学がかつてほどの影響力を持ち得なくなったことは事実ではある。
その上、政情が安定した。
承和の変、応天門の変と、藤原良房の絡んだ大事件が二つ続いたが、その中に死刑となった者は一人としていない。
死刑が事実上廃止されて追放刑が最高刑になったため、どんな極悪な犯罪者でも追放にとどまる。しかも、実状がいかに追放による左遷であっても、名目上は官位を持ったままの地方赴任とすることが多かった。
となると、五位以上であれば蔭位の制によって子弟を役人にできるから、追放されても我が子を貴族にさせることは不可能ではなく、伴氏や紀氏のように、藤原氏に一族もろとも追放されてしまったとされる家系なのに、かなり長い間、名門貴族として宮中に勢力を持っていた家系は珍しくない。
たしかに、官位を剥奪されれば蔭位の制は適用されない。そして、官位を剥奪された上で追放刑となった者もいる。だが、追放刑となっても、その多くは数年経てば罪を許され京都に戻っただけでなく、罪を許されて京都に戻るときは元の官位になるのが通例。京都に帰れずに追放先で亡くなった者であっても、死後の名誉回復は当たり前であり、官位を剥奪されたまま追放先で死を迎え、死後の名誉回復も行われなかった伴善男は例外中の例外である。
今の日本は、議会で多数決をとれずに政権を失っても殺されることはない。議員個人は選挙に落ちればただの人だし、かつて勢力を持っていた政党であろうと数議席しかないまでに落ちぶれれば文句ばかりの税金泥棒に落ちぶれるが、それでも殺されることはない。
だが、日本の歴史の中でこんな平和な光景が展開されているのはここ一五〇年のこと。それまでは、一部の例外を除いて、権力を失った者は滅ぶしかないというのが日本の歴史であった。その一部の例外というのがこの時代。平安時代はその日本の歴史の中で数少ない、敗者を赦す例外の時代であった。
ただし、敗者を赦すということは、敗者たちが、かつての勢力を取り戻せないにしても、そのまま権力機構の中に居続けるということでもある。現在の国会における野党は、議員ではあっても、大臣となって内閣に参加することができないのと同様、この時代もポストは勝者優先で、敗者は有力な役職に就けない。つまり、位階だけあって職のないポストレス貴族となる。
公正な評価、教育の拡充、そして平和。一つ一つは正しいことであるがゆえに、貴族の増大が生じた。任期満了で地方官を終え京都に戻ってきた者、新しく貴族に加わった者、政争に敗れた者、そうした者がポストレスとなって宮中でポストを奪い合う光景が広まったのである。
ポストレスとなっていた貴族が最も望んだのは地方官であった。莫大な富が築けるし、その実績次第では中央での出世も見込めるのだから、同じ位階の職務としては、中央でその他大勢の一人をやっているよりもはるかにメリットが多かった。
しかも、かつては家族を連れての地方赴任や単身赴任が多かったが、今やそれがおよそ半分にまで減っており、残る半分は代理の者を派遣して、本人は京都で暮らすのが通例になった。任地に赴かず代理を派遣するだけという国司を清和天皇は厳しく処分したはずなのに、気がつけばそれは有名無実化し、都市の暮らしを満喫しながら地方の豊かさを享受するのが当たり前の光景となったのである。ただし、清和天皇の定めたもう一つの政策である国司の任期を四年とする制度のほうは継続していた。かつての六年と比べて地方で得られる財は三分の二に減るが、中央でのキャリアアップを考えれば、六年間よりも四年間のほうがありがたい。財の減少を加味しても、六年の頃より全体の旨味は上であるとしても良い。
ただでさえポストレスなのに加え、旨味がある地方官の空席ができたとなると、自己推薦文が山のように届く。自己推薦文だけならばまだマシで、賄賂、中傷、恫喝と、貴族間の醜い争いが展開された。
この問題を解決するには貴族の数を減らすかポストの数を増やすしかないのだが、政務の安定も手伝って貴族の数は減らしようがないし、予算の問題もあってポストを増やすこともできない。
そのため実施されたのが、任期の短縮。とはいえ、国司の任期は六年前の貞観一二(八七〇)年に六年間から四年間へと短縮されたばかりである。ここに来てさらにまた短縮するのは、地方官のポストを増やすというメリットよりも、頻繁な権力交代による地方政治の混乱を招くばかりである。そこで用意されたのが、国司の罷免。国司を任期満了の前に罷免し、ポストレスの貴族をあとに就けるのである。実際、貞観一八(八七六)年二月一五日には三三名の国司が罷免され、同数の皇族や貴族が新たに就任した。
国司を罷免する理由はいくらでもあった。
まず、税の過剰徴収が挙げられる。
税率は決まっているのだが、荘園の発達もあって税率通りの税収がない。しかし、各国に割り当てられ、国司が責任を持って中央に納入しなければならないに税額は決まっているので、不足分はどうにかして国司が埋めなければならない。
負担を拒否しながら、他者に増税を押しつけると、例外なく産業の空洞化を生む。不足分を埋めるために、荘園ではない農地、あるいは、荘園でもその国司の権力でどうにかなるところに税を負担させるのが日常化してしまったと同時に、過剰な税負担に耐えきれず、農地を荘園に差し出す者と、農地を捨てて都市に逃れる者が続出した。荘園の拡大と非荘園の荒地化であり、それはまさに、平安時代の産業の空洞化である。
この産業の空洞化を食い止めるには、税の過剰な取り立てを実行した国司を罷免するというのが一つの手だった。何しろ、産業の空洞化を直接生み出した元凶なのだから。
国司は言うだろう。中央から命ぜられた税を納入するためだと。
だが、そのためであろうと過剰な取り立ては許されない。荘園の拡大はいいにしても、数多くの難民を生み出すのはとうてい受けいれられない。
その上、文字通り中央への納入のためだけではなく、自分の懐を潤すための取り立てまであった。国司を一期勤めれば一生暮らせるだけの財産を残せると言われていたのである。任期が六年から四年に減って、得られる財も三分の二に減ったが、それでもかなりの財産を獲得できていることに変わりはない。国司の給与として税の一部を自分の手元に残すことは認められていたが、一部どころではない分量の税を手元に残した者が続出したのである。こうあっては国司を罷免するしかない。
また、賄賂も罷免の絶好の口実になる。
そもそも、貴族が財を貯めて何をするのか?
贅沢三昧な暮らしだけがその答えではない。
一番の目的はさらなるステップアップにある。
一度国司を勤めても、任期が終わって京都に戻ったら次の仕事があるとは限らず、かなりの可能性で無職となる。そのため、あの手この手を使っての求職活動となるのだが、その手の一つが賄賂だった。人事に口出しできるだけの有力者に賄賂を渡し、次の役職を獲得するのである。
役職を獲得し続けることで、個人の名誉欲と同時に権力を獲得できる。国司に選ばれる人間というのは荘園から税を取り立てることができない地位に留まる人間であるが、国司を終えて国司より上の地位に進むと、国司には手出しのできない地位の人間、すなわち、荘園の所有者となれる。
いくら国司が莫大な財を残せる職務でも荘園のあげる収入には遙かに及ばない。しかも、国司の財は任期満了までの四年間だけ手に入れられるものであるのに対し、荘園は無期限に財を獲得できる。そこには当然、荘園の維持や管理に要する出費もある。
荘園が荘園として成立する前の大規模農園の頃は、開墾や潅漑設備、さらに入植者たちの当面の生活の保障に対する出費のほうが多く、農園からの収入はほとんど期待できなかったほどであるが、設備投資が一段落したこの時代は毎年一定量の収穫が見込めるようになっていた。
しかも、国司すら手も出せないほどの荘園を持つほどの身になれば、自ずと人事に対する権限もついてくる。人事は本来なら式部省の権限なのだが、ある程度の地位になると、配下の者を「××を自分の配下として△△の役職に就けてくれ」と頼むぐらいはできる。その「××」に入る名前を誰とするかの基準を純粋に能力とするならば何の問題もないのだが、この基準を賄賂額で決めるとなると捨ててはおけぬ事態となる。
良房にしろ、基経にしろ、贈収賄と無縁であったわけではなく叩けばホコリぐらい出る。ただし、人を見てはいる。賄賂を贈っても無能だと判断すれば職は渡さなかったし、それとは逆に賄賂と無縁の者でも有能と判断したら職を与えている。
しかし、誰もがそうだとは限らない。能力だけでなく賄賂額だけで人を選ぶ者が続出し、結果として、人材の劣化を招いていた。
腐敗のない社会が必ずしも善と限らないし、腐敗が必ずしも悪だと限らない。政治における善とは庶民の暮らしが向上することで、悪とは暮らしが悪化することだから、生涯で一度も腐敗をしなかったヒトラーも、大量虐殺をしでかし生活を破壊した以上悪でしかないし、腐敗だ金権だと叩かれまくった自民党政権は日本史上最高の生活水準を産み出したのだから善とするしかない。
どんなに腐敗しようと結果さえ出せば構わない。ただし、現実問題として、腐敗の結果、とんでもない高い税を取り立てるような者がいい暮らしを構築できるわけはない。
腐敗の一掃は絶対に正しいというわけではないが、必ずしも間違いであるとは限らない。
貞観一一(八六九)年六月に新羅が日本に侵略してきて戦争となったが、これまでは戦火が鎮まっただけで戦争が終わったわけではなかった。
前線となっていた対馬や壱岐、そして、肥前国の値嘉島では新羅の侵略を食い止める日々が続いており、太宰府も対新羅戦に総力を挙げて対応していた。この前線の奮闘があったからこそ、前線を離れた京都では比較的平穏な日常が展開できていたといえる。
しかし、攻め込んでいる側からすると平穏な日常だなどと言っていられない。ただでさえ国内が荒れているのに加え、北の渤海と南の日本の両方と戦争をしているのである。その上、残り少ない国力を挙げて侵略を試みても全て失敗しているのだから穏やかではない。
国内の再統一を夢見て二方面への侵略戦争を始めた新羅の景文王は前年に亡くなっており、新羅の王権は景文王の長子である憲康王に移っていた。
父王から王権を譲り受けた憲康王は国の現状に愕然としていた。父王の始めた侵略戦争が新羅に与えている負担の大きさ、そのための増税、増税による政情不安、政情不安による内乱の頻発。おそらく父王よりは現実的な人だったのであろう、憲康王は現状の脱却を模索した。
貞観一八(八七六)年三月九日、憲康王の命令により侵略が中止された。
しかし、一方的に攻め込まれ続けたあげく、もう攻め込むのをやめたと宣言されて、それで戦争が終わったと呑気に構えていられるわけなどなく、実際、このときも、大宰権帥の在原行平から猛烈な抗議を受けている。
しかも、この抗議は単なる手紙の送り届けではなかった。
これまで攻め込まれてきたことに対する復讐戦を開始すると宣告したのである。
新羅軍は日本に一度も勝てなかった。攻め込んでも攻め込んでも完膚なきまでに叩きのめされ続けていた。それでも新羅国内の心配が内乱だけで済んでいたのは、日本も渤海も新羅へ侵略しなかったからである。
その日本が渤海と歩調を合わせて新羅に侵略すると宣言したことの衝撃は大きかった。
新羅の貴族たちは国の終わりと考えて狼狽し、日本軍に向かい合わねばならないはずの兵士たちは我先に逃亡した。
これが憲康王を決意させた。
新羅のとれる手段は一つしかない。
降伏することである。
憲康王の名で日本への降伏文書が記され、残り少ない国家財政の中、黄金三〇〇両が日本への損害賠償金として支払われた。この額は、日本にとってはわずかな額ではあったが、新羅にとっては国家予算の三分の一に達する大金であった。
全てをなかったこととするには少なすぎる賠償だが、新羅人のプライドを傷つけるには充分である。憲康王にはカネで平和を買った軟弱な王のレッテルが貼られ、新羅国内はさらなる混乱を招くこととなった。これがよほど悔しかったのか、これから四〇〇年後に書かれる韓国最古の史書である「三国史記」には、日本が新羅に使節を派遣してカネを払ったと、真逆のことが書かれることとなる。
一方、戦争が終わったことに対する日本の視線は冷めていた。新羅からの賠償金はそのまま防御を固めるための軍事費に充てられ、肥前国松浦郡の庇羅・値嘉両郡を二郡と肥前国から切り離し、値嘉国として独立させて太宰府直轄の防衛体制を作り上げたのである。
戦争終結に対する特別な感情を抱く者は少なかった。新羅の降伏は受け入れたが、それが永遠に続くとは誰一人考えていなかったのである。
侵略されたが徹底的に抵抗し、膠着したこともあって被害は少ない。また、侵略を受け始めた当初は国を挙げての抵抗ということで盛り上がったが、膠着が日常となっただけでなく、戦闘を担っているのは地元の兵士と武士のみで、少なくとも京都周辺では徴兵されて戦地に赴いた者はいない。つまり、戦争をしていることは知識ではわかるのだが、実感はできず、最後には戦争していることすら忘れ去られるようにまでなっていた。前線だけは必死だったが、そうでないところは戦争を感じさせない日常が続いていたのである。
というところで、何の前触れもなく伝えられた戦争終了。
新羅が全面降伏し日本に損害賠償を払ったと言われても、これで新羅からの侵略に対して未来永劫気にしなくてもよくなったなどと考えるわけなく、相変わらず新羅からの侵略を水際で食い止めうる体制は維持し続けなければならない。
それは、貞観一八(八七六)年四月一〇日に起こった事件によってさらに強固な考えとなった。この日の夜、大極殿、小安殿、その脇を固めるように建っている蒼竜楼と白虎楼の双方で出火したのである。火災はさらに大規模に広がり、およそ一〇〇件の建物が数日間燃え続けるという大火災となった。
応天門のときもそうだがこうした大火は誰かの放火ではないかという噂が流れる。より厳密に言えば、そうであってほしい、そうならば辻褄が合う、そういうストーリーが考え出され、それをさらなる攻撃材料とするという光景が展開される。
このときは新羅人が放火犯と考えられ、大極殿放火の犯人探しが行われた。本当に新羅人が犯人かどうかなんて関係ない。とにかく新羅人を攻撃する材料として使われたのである。
しかし、犯人は捕まらなかった。当然だ。戦争直後から新羅人は京都とその周辺から追放されていたのだから。国外追放がいやなら、京都からも新羅からも遠く離れた東北や関東に移り住めというのがこの時代の政策であり、新羅人を京都で見ることなどできない。ゆえに、新羅人の犯人など見つからない。
見つからないが犯人は新羅とされ、新羅との戦争は終わっておらず、新羅の降伏など形だけのもの、こうした感覚が広まっていた。
ついでに言うと、京都で見ることができないのは新羅人だけではない。
奈良時代の平城京はペルシア人も普通に歩き、外国語も行き交う普通の国際都市であったが、この時代の平安京に外国人はいなかったし、外国語が街中で聞こえることもなかった。この当時のアジア最大級の都市でありながら、この時代の京都で見られる外国人は国外からの正式な使節だけ。どんな大金を持った貿易商人であろうと、それが正式な国の使節でもない限り、平安京に入れなかったばかりか近づくこともできなかったのである。
大極殿の火災の与えた影響は応天門の火災の比ではない。
応天門の火災は政治的にも歴史的にも大きな分岐点であったと当時の人は考えたし、現在から見ても摂関制の基礎を作る大きな事件でもあったが、表向きは門が一つ燃えただけというだけである。応天門は庶民が入ることの許されるボーダーラインとして重要であったし、庶民にとっては自分たちのシンボル的建物として特別視されていたが、数多くの貴族にとっては出退勤のときに一瞬だけ通り過ぎる門であるという認識しかなかった。
しかし、大極殿となるとそうはいかない。朝廷の建造物としての重要性が桁違いなのである。なぜなら、この大極殿というのは今の日本における国会議事堂に相当する建物であり、内裏で政務を行うことが通例化したとは言え、あくまでも表向きは大極殿で政務を執るというのが決まりであったのだから。
その大極殿が燃えたというのは、実務的なダメージもさることながら、それ以上に精神的なダメージがかなり深い出来事であった。現在の感覚で行くと、二〇〇一年九月一一日の同時多発テロでアメリカ人が受けたような衝撃をこのときの日本人に与えたのである。
ただし、同じような衝撃ではあっても、同時多発テロを受けたアメリカと決定的に違うことが一つある。それは、報復に打って出なかったこと。
多くの人が敗戦した新羅人の報復的犯行と考えたが、それを国の公式見解としなかったため、新羅への抗議も行わなかった。
それは無駄な戦争を起こさないという一点では立派であったが、その後の行動が良くない。
火災の翌日に学者たちを集め、昔の中国で大規模な火災があったとき、歴代の王や皇帝たちがどうしたかという討論をさせたのである。討論は長く、また白熱もしたが、当然ながら、学者たちの満足以外に何も生まず、新羅に対して軟弱になった朝廷への不満がうごめくようになった。
では、基経はこのとき何をしていたのか?
もはや恒例でもあるが、議論に明け暮れる学者たちを横目に、基経は実務に専念していた。
大極殿の火災の対策として貞観一八(八七六)年四月一三日よりこれまで以上の警備が命じられ、翌一四日には火災を理由に賀茂祭が中止された。イベンターとしての才能を何度も発揮していた基経にとってイベントの中止は痛い決断だったが、賀茂祭の中止は市民感情に受け入れられた。
また、再建開始まで長い期間を要した応天門と違い、さすがに政務開催の場所だけあって四月二〇日には早くも再建が命令された。
こうした実務対応をこなしていた基経が同時に対処しなければならなかったのが、このときの民衆意識である。
大極殿の火災の与えた心理面の影響は無視できないものがあった。国の中心が燃えたことのショックは大きかったが、それよりも大きなショックは犯人が未だに捕まっていないこと。そのため、この時代の人たちは未だに犯人が京都の街中をうろついていると考えたのである。
結果、京都の治安が悪化した。
誰もが自分の身を守ろうと自警団を結成し、それに武士が混ざり込んで武装勢力となり、少しでも怪しい者がいればそれだけで殺しあいになるという状況になってしまった。互いが互いに疑心暗鬼になっており、基経はその対策として警備の強化を宣言したが、犯人が捕まらない現実を目の前にしては宣言も弱いものになる。
そこで、四月二七日には、六衛府の全ての武人を総動員して京都市中に配備し、昼夜問わぬ警備を命じた。
清和天皇はこの火災に大きなショックを受けていた。
元来現実主義的で神秘的なものへの関心は薄かったのに、火災を境に神仏への頼み込みが急増するのである。
貞観一八(八七六)年五月三日には棟貞王を伊勢神宮へ派遣。
五月四日には藤原冬緒を松尾神社へ、菅原是善を賀茂神社へ派遣。
五月八日には兄の源能有を桓武天皇の眠る柏原山陵に派遣し、事態の沈静化を祈祷させた。死後七〇年を経たこの時代、桓武天皇は希代の名君として語り継がれ、平安時代を生んだのは桓武天皇であるという意識は強く、他の天皇たちより一段上に見られていたため、こうした事態になると柏原山陵に使者を派遣するというのは通例になっていた。
しかも、桓武天皇は清和天皇にとって高祖(祖父の祖父)であり、同時に能有にとっても高祖となる人である。直系の子孫の願いであればかなえてくれるのではないかとの思いもあった。
だが、その思いは裏切られる。
五月一四日、地震。
五月一五日、地震。
五月二一日、地震。
神仏の力で鎮めようとしたのに、事態はむしろ悪化していると清和天皇は感じた。
そしてさらに祈りを深めた。五月二三日、六〇名の僧侶を集めて大般若経の転読を実施。それまで通例になっていた国家行事としての転読ならば実施してきた清和天皇であるが、自発的な命令で転読を実施させるのはこれが始めてであった。
その上、平安京とその郊外で収穫されるコメ四二石を毎年石清水八幡宮護国寺に奉納するとまで定められた。
それまでの現実的な清和天皇からは考えられない豹変ぶりに基経は驚きを見せた。
平安京の都市問題もこの頃現れてきていた。
元からして平安京はさほど大きな都市ではない。都市としての大きさでいけば平城京や長岡京よりも小さい。都市内には寺院を二カ所を除いて建てなかったから土地の有効利用という点では平城京よりも優れているかもしれないが、西半分が水害の影響で都市として機能せず人々が東半分に集中して住むようになっていたため、狭いところに家々が密集するという光景になり、それが悪化していた。
土地が限られているところに来て、地方から流れてきた人が居を構えようとするし、貴族の数も増えているので新たな貴族の邸宅も必要となる。つまり、需要は増えているのに供給には限りがあるから、土地の値段は日に日に上がっている。
この問題を解決するには、需要を減らすか、供給を増やすしかない。
基経が選んだのは後者だった。
平安京の中は家と道しかないというわけではない。田畑も普通に見られたし、都市生活をしながら田畑を耕す農民も普通に見られた。
これらの田畑は元々班田、つまり、国の土地である。だが、班田が事実上機能停止となったことで次第に私有地化されるようになり、さらには荘園に組み込まれるようになった。特に、大学で権力を持つ律令派の貴族や、反基経の急先鋒である源融が、これらの田畑を荘園とすることでかなり多くの財を得ていた。
基経はこれに目を付けた。
何しろ平安京の内部の田畑である。他の田畑と違って土地の所有権が明確になっているので、いくらそこが私有地で今は荘園に組み込まれていると主張しようと、その土地は本来ならば国の土地であると証明することもできる。
基経は、平安京内部の田畑のうち、過去六年間に渡って税の納められていない田畑を没収し、住宅地として組み入れると発表したのである。
これは騒然となった。特に、それらの田畑を荘園として持つ貴族たちの大反発を招いた。
表向きはその強引な方法に対する反発であるが、本音はもっと簡単な理由、すなわち、自分の財産が奪われることに対する反発である。
荘園は徹頭徹尾、税を払わないための仕組みであり、これによって利益を得ている者は多い。しかし、税を払わない行為など本来であれば許されないし、国の権力を行使する側の人間は誰もが脱税による予算不足に悩まされていた。しかしながら、税を取り立てる国司の権力では、荘園の所有者、すなわち貴族としての権力を全面に振りかざして税を踏み倒しにきた者を相手にしたら、手も足も出せないというのが実状だった。
それは平安京の内部の田畑でも同じことで、取り立てにくるのは国司ではなく京職(きょうしき)、つまり、平安京の行政のトップ、今で言うと千代田区長だが、いかに千代田区長が熱意を持って行動しようと、国会議事堂にいる国会議員には太刀打ちできないのと同様に、税を取り立てに来た京職をはるかに凌駕する権力を持った貴族が立ちはだかっているため、平安京内の田畑は税を納めることなくこれまできたのである。
ところが、今度は右大臣藤原基経が、税を納めさせようとするどころか土地そのものを没収しにきた。言わば、野党第一党の党首が千代田区長の代わりに国会議員に立ち向かうのと同じ光景が展開されることとなった。右大臣と左大臣とでは左大臣の方が格上だが、野党第一党の党首が内閣総理大臣にこびへつらうわけがないのと同様、基経という人は左大臣源融だろうと平然としている。つまり、それまでであれば左大臣様の荘園ということでいっさいの税を免除されてきた田畑を没収しようとして平然としている。
いくら基経でも、私有地ならば権力を振りかざしたところでどうにもならないが、班田となると国の権力でどうにでもなる。何しろ、基経は何一つ律令違反をしていないどころか、律令に書かれたとおりの行動をしているのだ。これには律令派の貴族も何ら文句を言えなかった。
基経曰く、税を払わないというのは、その田畑の収穫が期待できないものであるという痩せた田畑なのだから、田畑をとりつぶして、今すぐ需要のある住宅地に切り替えたほうが都市問題の解決にもなるし、それまでその田畑を耕そうと懸命になっていた者は、もっと税を納められる収穫のある班田を用意するから、そちらに移住したほうがより多くの収穫を見込めるだろうと主張したのである。
その上で基経は、もし今後も田畑を所有する意志があるということはこれまで納めなかった税を払うようにと命じた。しかも、これで納めた税は平安京の貧困対策のために使用すると宣言したのである。
これは怒りを招いたが、反発するのみで抵抗はできなかった。
税を納められなかった者は田畑を手放し、田畑を手にし続けた者は税を納めた。
貞観一八(八七六)年六月一九日、このときに納められた税を元手に、貧困者への施が行われた。
神仏に頼りだした清和天皇は行動をエスカレートさせるようになってきた。
貞観一八(八七六)年六月二一日、東海道、山陰道、南海道の計二九カ国に、合計一万三〇〇〇体もの仏像を分置させたのである。このタイミングでの分置はともかく、なぜこの三地域への分置なのかはわからない。
この神仏頼みになってきた清和天皇の神経を逆なでする事件が起こったのは六月二七日のことである。
事件は私鋳銭(偽金作り)であった。
それまで流通していた貨幣を溶かし、新しく流通することとなった貨幣に作り替えることは頻繁に行われていた。朝廷としては禁止していたのだが、あまりにも多すぎて収拾がつかなくなっていたのである。それでも有罪は有罪なので見つかったら処罰はしていたのだが、その処罰は今でいう駐車違反ぐらいのもの。法令違反で捕まるが、刑務所に入れられるような類のものではなかった。
しかし、このときばかりは軽い刑罰とならなかった。事件の首謀者が興福寺の僧侶である徳操だったのだ。今まさに神仏に頼んで世の中の安定を願っているというのに、その寺院の僧侶が犯罪に手を出すとは何事かということで清和天皇の逆鱗に触れ、僧籍剥奪の上、私鋳銭としては異例の追放刑となった。
自分のところの僧侶が追放されたことに対する報復なのか、興福寺は、貞観一八(八七六)年七月七日、興福寺の塔が地震でもないのに揺れだしており、これは重すぎる刑罰への天の怒りだとする声明を発表したが、神仏頼みになっても元々は現実主義的な清和天皇はこの発表を無視。追放刑は変わることなく、一九日、興福寺は塔の揺れが収まったと発表せざるを得なくなった。
黄巣の乱の最中にあっても、唐との民間交易が完全に停まったわけではない。それどころか以前より活発化したのである。
貞観一八(八七六)年七月一四日、唐の商人である揚清ら三一名が筑前荒津に漂着したのもその例であり、彼らからは故国が戦乱にあることが伝えられたが、それと商売とは別問題であった。
戦乱は確かに経済を縮小させる。しかし、ゼロにはならない。農業をはじめとする産業が破壊され、食料や日用品が市場から姿を消すが、需要がなくなるわけではない。
戦乱の渦中にあっても人は生きていかなければならないし、生きていくためにありとあらゆる手を尽くさねばならない。
その手段の一つが日本との交易であった。より正確に言えば日本の物資を輸入することであった。
唐の商人たちが日本にやってきたのも日本の物資を求めてのこと。産業が破壊された唐と違い、日本は新羅との戦争を終結させて平和を謳歌している。GDPでいえば戦乱の渦中でもなお唐のほうが日本を上回っているが、もともと国民一人あたりのGDPは日本のほうが高かった上、戦乱によりまた差が開いてきている。つまり、日本人のほうが唐よりいい暮らしをしており、平安京だけではなく、太宰府やその他の地方の市も、唐の市を凌駕する繁栄を見せていたのである。
外国人を排斥して閉鎖的になりつつあった日本に合法的に移住するのは困難であったにも関わらず、数多くの新羅人や唐人が海を越えて日本にやってきて日本に住み着くようになっていたのも、ひとえにこの生活水準の差にあった。
しかし、唐より豊かな暮らしをしていると言われて当の日本人たちは不可解に感じただろう。何しろ、街にはホームレスがうろつき、その日の食料を手に入れるのだって困難を極め、インフレが生活を直撃しているのだ。ほとんどの日本人は自分の暮らしを豊かであると感じはせず、むしろ苦しい生活であると考えていた。そして、いま自分が苦しんでいる最中に貴族たちは贅沢三昧のいい暮らしをしており、憎しみと羨望の視線で貴族たちの暮らしを眺めていた。
貧困とは相対的なものである。
数字を示されて「自分はこんなに貧しいのか」とは感じない。他の人の暮らしを見て「自分はこんなに貧しいのか」と感じ、そして、自分が貧しい暮らしであることの理不尽さを感じる。
その思いは常に一方通行で、自分より貧しい者が自分を羨んだとしても見向きもしないし、むりに議論の場に引きずり出してもそれに理解を示すことはない。豊かな暮らしをしている人のせいで自分の暮らしが悪化しているという証拠を突きつけたとしても、努力が足りないとか、仕方ないことだとか言い、どんなに豊かでも自分は貧しいと考えて、自分の豊かさは絶対に手放さない。
貧富の差のない社会は絶対に存在しない。だから、貧富の差を無くすことではなく、貧しさから脱出する機会を増やすことが課題となる。
この時代、豊かになる方法はあったのか?
結論から言うと、無数にあった。
まず、荘園で働く農民になることである。貴族たちは常に荘園を拡大しようとし、荘園で働く農民を募集していたから、意欲さえあればいつでもなれた。ただし、初期投資をケチる貴族は多かったので、最初の選択を誤ると思い通りの豊かさを手に入れられなくなる可能性もあった。
次に役人になることである。大学生になるのは狭き門であったが、決して実現不可能な夢ではない。そして、大学を出ればまず間違いなく役人になれる。役人になれれば貴族に登る可能性も出てくる。実際、全くの無位無冠の庶民出身でありながら役人となった者は珍しくなかったし、貴族に登り詰めた者だって普通にいる。
役人は中央だけとは限らない。地方の役人は常に人手不足だったから中央より働きがいもあるし、ライバルが少ないから出世も早い。そして何より、収入がいい。無理して京都で働くよりも、格下げ覚悟で地方に行くほうが豊かな暮らしをできたほどである。
役人がだめなら商人という手がある。遠隔地や海外との交易に乗り出せば莫大な財を見込めたし、遠隔地じゃなくても平安京の市に店を出せればなかなかの売り上げを残せた。平安京にこだわらなければ常設でない市を巡り歩く商人になるという手もあった。地域の特産品ではない品に対する需要は高く、平安京では安値で手に入る商品でも、五畿を少し離れると五割増しの値段で取り引きされるようになっていた。
商才はないが体力には自信があるというなら、武士になるという手もある。ほとんどの武士は農民の兼職であるが、裕福な貴族の中には専業の武士をボディーガードとして雇うこともあり、下手な役人よりも高い年収が期待できた。
さらに、僧侶になるという手もある。荘園を経営している寺院は多く、寺院の僧侶は荘園の所有者としていい暮らしをしている者が多かった。また、貧しくて勉強できなかった者が、自身の学問の第一歩を寺院で開始することも多く、寺院で学問を積んだ後に還俗(僧侶を辞めて一般人に戻ること)をして大学に挑戦することもあった。
法に触れる手段で生活を保とうとする者が多いために治安も悪かったし、ホームレス生活をする貧しい暮らしの者も多かったが、法を守った上で豊かになった者はもっと多かった。
そして、都市と地方とでは地方のほうが裕福な暮らしとなっていた。
なんと言っても、荘園の規模が違う。
京都とその周辺は一つ一つの荘園が小さい。小さいのは当然で、班田が他の地域よりもより綿密に行われていたこともあって新たに開墾する土地が少ない。そのため、荘園にできる土地が少なく、できたとしてもその規模は小さなものである。
一方、京都から離れれば離れるほど班田ではない土地が多く残されていたため、荘園の規模は大きい。その上、元々の物価が安いから初期投資の費用が少なくて済むので、荘園を大規模に構築することができる。この規模は収穫できるコメの量にも直結した。
年貢は税と同じく割合で決まるから、収穫量が多ければ同じ年貢の割合でも手元に残るコメは多いこととなるし、年貢の率を下げても収穫量が多ければ荘園領主のもとに入るコメの量が増えることとなる。
コメの多さはそのまま財産の多さに直結するから、大規模な荘園を用意すればするほど財産を殖やすことができるようになる。
この結果何が起きたか?
地方の豊かさが中央を凌駕したのだ。
中央で貴族として生活するよりも、地方で有力者として生活するほうが良い暮らしを過ごせるようになり、中央での出世を諦めた貴族が地方に流れて、地方の有力者となることが日常化した。
特に源氏や平氏、そして藤原氏が地方に流れるケースが続出した。有力貴族に数えられる姓の人間であっても中央で出世できるとは限らず、中央で可能性の低い出世争いをするのならば、地方で悠々自適な暮らしをする方が良いと考えたのである。
清和天皇の精神状態はかなり極限まで追いつめられていたはずである。
誰もが豊かになるために必要であると信じて増税を実行したのに、待っていたのは、脱税のテクニックを駆使した荘園という存在をさらに拡充させ、増税から脱出することこそ豊かさになることだという結果である。
しかも、自分の統治を天が祝福していると感じられる要素はどこにもない。国内も国外も混乱が続き、国外からは侵略され、国内では反乱が起き、そして大極殿の火災。天災を天が突きつけた統治者失格の証とするなら、清和天皇のこれまでは統治者失格ということとなる。良房が生きていた頃ならば良房の責任に押しつけることもできたが、応天門炎上事件を期に良房が姿を消し、六年後に亡くなったこと、その間、いかに基経が奮闘しているといっても清和天皇の親政が続いていたことは隠しようのない事実である。
思えば、桓武天皇以後の全ての天皇は、平城天皇を除いて、一〇年前後で退位している。自発的な退位のときもあれば、逝去によることもあるが、いずれにせよ、天皇の地位の重圧をこなし続けた結果の退位や死として考えられた。その重圧に耐え続けた桓武天皇のほうが例外なのであり、この時代、一〇年前後で帝位を降りるほうが普通だと考えられていたのである。
その中で清和天皇はただ一人、一八年という長きに渡り帝位を維持している。
しかも、まだ二六歳という若さ。つまり、これからも清和天皇は天皇であり続けると誰もが考えていた。
だが、清和天皇の立場で考えるとどうであろうか。二六歳の人間は老いなど感じない。若さが失われたと感じることはあっても、自分が老い、寿命を迎え、死を迎えるなど考えるわけがない。いくら平均寿命が現在と比べものにならないほど短いこの時代であろうと、二六歳は、これまでの人生よりこれからの人生の方が長い年齢である。つまり、清和天皇の人生はまだまだ続く。
ということは、これまでのように天に否定され続ける人生がこれからも延々と続くと言うことである。
苦痛というのは終わりがあると考えるか耐えられるのであり、終わりがないと考えてしまったら耐えられるものではなくなる。
貞観一八(八七六)年一〇月五日、清和天皇は声明を読み上げた。
火災の犯人は名乗り出よ、と。
名乗り出るわけないのにと誰もが考えていたが、誰も口に出せなかった。
そしてもう一つ、誰もが感じたことがあった。
清和天皇は限界まで追いつめられている、と。
もっとも、三ヶ月後には、清和天皇はそんなヤワではないことを思い知ることとなるのだが。
貞観一八(八七六)年一一月一一日の平野春日祭にはじまり、一一月一二日の梅宮祭、一一月一五日の大原野祭、一一月一六日の園韓神祭、一一月一七日の鎮魂祭と、清和天皇は天皇としての職務をこなしていった。
しかし、一一月一八日、新甞祭を清和天皇がボイコットする。現在の勤労感謝の日にあたる新甞祭は、その年の収穫を神に感謝し祈りを捧げる、天皇が行わねばならない儀式である。それをボイコットするというのは異常事態であった。
新甞祭を天皇が執り行わないという前例はないわけではない。体調を崩しているときもあるし、戦乱でそれどころではないときだってあったから、清和天皇は前例のないことをしたわけではない。
しかし、それまでの行事をこなしておきながら、そして、精神的に追いつめられてはいても外見的には健康そのものでありながら、新甞祭をボイコットするというのは考えられないことであった。
貴族たちは仕方なく、皇太子貞昭親王に新甞祭を執り行わせることでこの場をしのいだが、何の前触れもなく担ぎ出された九歳の少年皇太子は大いに動揺した。
新甞祭を息子が執り行ったのを確認した清和天皇は、ついに決断した。貞観一八(八七六)年一一月二八日、清和天皇が帝位を皇太子貞昭親王に譲ると前触れもなく宣言したのである。これは誰もが驚きを隠せず、懸命の説得工作が行われた。
だが、どんな説得工作も無駄であった。
貞昭親王はまだ九歳で幼いという説得には、自分も九歳で帝位に就いたのだから問題ないと返された。
今このタイミングで清和天皇が退位すると国内に混乱を生むという説得には、左右の大臣も、大納言も、中納言も、主な貴族全員が健在なのだから問題ないと返された。
天命を理由に退位に反対した者は、天災と人災の多さ、特に大極殿の火災こそが天の答えであると返された。繰り返すが、この時代、天災とは執政者に対する天の裁きであると考えられていた。
もはや清和天皇の意志は変わらないと考えた貴族たちは、清和天皇の説得を諦め、貞昭親王へ譲位した後の対応について検討した。
貞観一八(八七六)年一一月二九日、貞昭親王が東宮御所を出て染殿院に足を運び、その場で、父の清和天皇から天皇の位を譲られた。
正式な即位はまだだが、この瞬間、貞昭親王は陽成天皇となり、清和天皇は清和上皇となった。
同日、陽成天皇にとっては伯父にあたる基経に対して一つの勅命が出た。ただし、これは陽成天皇ではなく清和上皇からの勅命である。
「保輔幼主摂行天子之政如忠仁公故事」
つまり「良房が行なってきたように幼い天皇を助けて政治を取り仕切りなさい」という命令である。表向きはただ「助けよ」だけであるが、その意味するところは誰もが理解した。その意味するところは一つ。命令の文面にもある「摂政」である。
基経を摂政にせよと命令したのは清和上皇である。貞明親王に帝位を譲るときの条件が基経の摂政就任なのだから、基経が摂政就任を拒否することは陽成天皇の即位を拒否することになる。
にも関わらず、基経は摂政就任の二日後である貞観一八(八七六)年一二月一日に摂政辞任を求めている。このときは却下されたが、一二月四日に再度、摂政からの辞任を求めている。そして、基経の辞任の意志を清和上皇は再び却下している。
基経が辞任をちらつかせるのはこのときが始めてではない。この人は人生で何度か、ボイコットを政治手段として利用している。だから、このときの摂政辞任も基経の行なってきたいつもの話ではある。
だがなぜ、基経は摂政辞任を求めたのか? 摂政という地位は太政大臣を遙かに凌駕する。太政大臣は臣下の一人に過ぎないが、摂政となるとその意志は天皇の意志となり、大臣の意志など簡単に握りつぶせる権力が手に入る。執政者としては夢のような地位ではないか?
しかし、少し考えれば基経の考えも理解できる。
摂政というのはイレギュラーな職務であり、今の基経でレギュラーな職務はあくまでも右大臣の方である。先例を探しても、と言っても良房しかいないが、実際、応天門炎上事件後に摂政に就いた良房は、摂政としてではなく太政大臣として政務を行なっていた。良房が摂政としての職務を遂行したのはただ一度、伴善男らを追放したことだけであり、追放を終えたあとは、摂政の地位こそ手放さなかったが、摂政の権力を使うことなく隠遁生活を送った。
この養父の先例もあって、摂政とは、抜くことの許されない伝家の宝刀であり、抜いたら最後、望むがままの権力を獲得できるが、政治家生命を終わらせる覚悟も必要とする役職と認識されていた。そうでなければその強大すぎる権力が国政を不安定なものにさせてしまうのだ。摂政という地位は、独裁者として君臨し、我が身を神聖不可侵な存在とさせることを夢見る者にとってはノドから手が出るほどほしい権力であろうが、唯一の先例である藤原良房はそんな人間ではなかった。
良房は政権の安定を望んだし、そのために自身を出世させての地位の上昇を選んだが、個人としての栄達は手段であって目的ではなかった。太政大臣になったのも政策の遂行のためであって、独裁者として権力を手に入れることが目的ではない。目的はあくまでも政権の安定である。摂政というのは応天門炎上事件にまで発展した律令派と良房派の対立を解決するためにやむを得ず受け入れた地位であり、良房はただ一度だけその権利を行使して、その一度の行使が終わったと同時に隠遁生活に入った。
その摂政に基経は選ばれた。
理論上はわずか九歳の陽成天皇の補佐という役職であり、元服もしていない天皇には相応の地位の補佐がいるという理屈は成り立つ。
だが、同じく九歳で天皇に就いた清和天皇は摂政を必要としなかった。その摂政を必要としなかった当の本人である清和天皇が摂政を求めたのはなぜか?
文字通り解釈すれば天皇の補佐だが、実際には陽成天皇に代わって責任を背負うことである。清和天皇は、摂政というものが天皇にとって実に都合の良い制度だと気づいていた。何しろ、都合の悪いことは全て摂政に押しつけ、天皇は人気を得ること間違いない政策だけに専念すればいいのだ。
「応天門燃ゆ」の清和天皇即位のときにも述べたが、九歳は大人が考えているほど子供ではない。世の中の理屈もわかっているし、自分の政治的意見も持っている。その意見を表明し行使する機会がないというだけで、機会さえあれば自分の意見を示せる。子供は子供であるのではない。子供を演じているのである。
基経が求められたのは政治を執ることではなく、責任を引き受けることである。
勅命はあくまでも良房のように天皇を補佐しろと書いてある。だから、良房の後継者である基経が摂政になったことをおかしく考える人は少なかった。摂政は天皇の代わりができるという大権であるが、基経自身、伯父として陽成天皇の補佐をする気にはなれても、養父良房が一度だけ使った大権を使うとは考えていなかったのである。そして、誰もがその考えを理解していた。
しかし、基経のこのときの地位は右大臣。左近衛大将でもあるから武力では朝廷のトップであるが、政治家としては左大臣の次である。その左大臣より格下にあたる基経が、左大臣源融をさしおいて摂政に就任した。これは源融を激怒させるに充分であった。理解はできても同意はできないのである。
また、二代に渡る摂政就任である。摂政自体は律令に定められている職務であるから律令に反するわけではないが、イレギュラーであることに変わりはない。そのイレギュラーな体制が世襲によって構築されたのを、大学の学者たちは快く感じなかった。これもまた、理解はできるが同意はできない事柄だった。
研究者の中にはこのときの清和天皇の退位と陽成天皇の即位、そして、基経の摂政就任に至る流れの全てを基経の計画によるものであるとする者がいるが、これは二つの点で不可解である。
まず、陽成天皇は基経にとって都合のいい存在ではなかったこと。陽成天皇の実母である藤原高子は確かに基経の実の妹である。だが、この兄と妹の関係は最悪だった。より正確に言えば、高子には、在原業平との恋路をじゃまされ、まるでカードであるかのように利用され、九歳の清和天皇に無理矢理嫁がされたことへの恨みが残っており、血のつながり以外に基経と接する要素はなかった。基経に言わせれば、高子を清和天皇に嫁がせたのは自分ではなく養父の良房なのだから、養父を恨むならばともかく自分を恨むのは筋違いというところだが、恨み神髄の高子にはそんな理屈など通用しない。憎き良房の後継者であるというだけでも実兄基経は恨みの対象なのである。その高子のもとでこれまで育ってきていた陽成天皇が、母の仇でもある基経に快く接するはずがなかった。
その上、陽成天皇の教育係は、今や律令派のブレインともなっていた橘広相である。同じ律令派でも広相は伴善男ほどムチャクチャな性格ではないが、反律令派を徹底的に攻撃する性格だけは共通している。その教育をまともに受けている陽成天皇は、清和天皇よりもむしろ、生涯律令派に身を置いた文徳天皇に近い政治思想の人間になりつつあった。
基経にとっては、いかに自分が摂政になれるのであろうと、政治思想も反対である上に、個人的な感情でも敵対している存在が天皇になるのである。政治家としても、人間としても、これはやりづらいことこの上ない。基経にとっては、摂政でなくとも清和天皇が続投してくれているほうがはるかにやりやすかったのである。
だが、決まってしまったものはどうあがいても覆せない。そのため、摂政となった基経は陽成天皇との関係改善を図って歩み寄りを見せた。自分の長男で、陽成天皇より二歳年下の藤原時平を内裏につれてきて、陽成天皇の学友とさせたのである。
少年時代の時平には何ともいえない愛嬌があった。基経憎しで固まっていた高子でさえ、我が子をまるで兄のように慕う甥の時平には甘かったし、また、基経への反感を隠さなかった広相も、陽成天皇と机を並べて学問に励む時平をかわいがった。
清和天皇は精神的に追いつめられ、天の意志を感じ取って退位したところまでは共通認識である。ただし、権力を手放すことを考えてはいなかった。それどころか、よりいっそうの権力強化を考えていたのである。
清和上皇は基経を頼ろうなどしていない。基経と協力するのではなく、基経を利用しようとしていたのである。自分がかつて良房を利用したのと同じように、政治は自分が執り、責任は基経がとるという関係を構築しようとしていたのだ。
摂政に基経を就けるためには自分が退位して幼い息子を天皇にすることも厭わなかった。九歳の若き天皇とあれば、自分の前例は無視してでも、摂政の存在は不合理なことではなくなる。上皇である自分には、帝位はなくとも権力はある。その上皇たる自分が権力を発揮し、責任を基経に引き受けさせた上で政権を握る。これが清和上皇の構想であった。
基経にしてみたらムシが良すぎる話である。権力を発揮できず責任だけ押しつけられるのだからたまったものではない。だから二度に渡って辞表を出した。
この辞表が清和上皇と基経の関係を決定的に壊した。
この結果が人事に現れる。
本来なら朝賀が行われ、通常ならば朝賀が中止になるのが一月一日だが、貞観一九(八七七)年はそのどちらでもなかった。
二日後に控えた国家的祝賀行事が全てにおいて優先しており、朝賀どころではなかったからである。
貞観一九(八七七)年一月三日、陽成天皇が正式に即位した。本来であれば式典は大極殿で行うものであるが、大極殿が火災からまだ復旧していないので陽成天皇は豊楽殿で式典を挙げた。この式典そのものは、開催場所こそ普通ではないが、式次第にしろ、読み上げる祝詞にしろ、全て律令に定められたとおりに執り行われている。つまり、普通である。
ただし、そこから先が普通ではない。
新年一月というのは昇格と役職の付与が行われるものだが、この年の一月は陽成天皇の即位という慶事が重なっている。慶事があれば慶びをともに祝おうということで昇格の大盤振る舞いが行われるものだが、今回はそれが一月に行われるということで、左大臣源融が正二位に登ったのをはじめ、大納言南淵年名と中納言藤原良世が正三位に、参議藤原家宗が従三位に登ったのをはじめ、合計六一人が昇格するという壮大な規模の昇格となった。しかも、その六一人は日本三代実録の中では珍しく、全てが網羅されている。
この前例のない規模の昇格の大盤振る舞いに当時の人は度肝を抜かれた。と同時に不可解を感じた。
この六一人の中に、出てこなければいけない人間が二人、どんなに探しても出てこないのである。
母藤原高子の兄である右大臣藤原基経と、父清和上皇の兄である大納言源能有。この二人の伯父の名がどこにもなかったのだ。
人々はそこに清和上皇の意志を感じ取った。
基経を影で支える藤原良世は出世した。だが、基経も、そして、今や誰もが認める基経の右腕である能有も、出世した者の中にいない。これは文徳天皇の頃の良房らと同じであった。
この清和上皇の意思に対する基経の答えが一月九日の記録に見える。
この日、基経が左近衛大将からの辞意を表明したのである。ただし、辞意の理由については記録に残っておらず、却下したのか受け入れたのかの記録も直接は残っていない。この一ヶ月後に源多が左近衛大将に就任したことから、このとき基経が左近衛大将を辞任したことがうかがえるのみである。
この基経の抗議を受け入れたことで清和上皇は得意になったであろう。ついに基経をひれ伏させることに成功した、と。
ところが、清和上皇の意志にも限界があることを、清和上皇自身が知ることとなる。
貞観一九(八七七)年一月一五日には四五人の貴族に対する除目が行われた。
除目(じもく)というのは貴族の新しい役職を発表することで、ここに名前が記されればそれから任期満了までの数年間はその役職として活躍できる。特に、新たに貴族になった者や、数年間無職に悩まされてきた貴族たちにとっては、ここに名前が記されるかどうかが人生を大きく左右する。たとえば国司として名が記されれば、無事に任期満了を迎えるまで任務に励むことで、一生暮らせるだけの財産を築ける。
このときの除目は一月一五日に四五人が新たな役職を手にしたことが記されているのみで、誰がどんな役職に就いたのかは全く記されていない。
おそらく、人数は大きなものであったが、その内容は人々の記録に残らない地味なものだったであろう。絶対評価で貴族を評価した結果の位階ならば清和上皇の権力でどうにかなっても、相対評価で貴族に役職を与えなければならない除目はどうにもならなかったのだ。
清和上皇は、増える一方の貴族の数を減らすことができなかった。それは貴族を出世させれば済む問題ではなかったのである。それどころか、出世したのだからこれで役職も手に入ると考えた貴族たちを失望させるだけであった。
貞観一九(八七七)年一月一六日、出雲国より緊急連絡が届いた。前年一二月二六日に渤海からの使者が到着したという知らせである。
総勢一〇五人の船団は渤海使としては普通の規模であるが、唐の内乱、新羅の混迷がある中、いつもと変わらぬ船団を送ることができるだけでも渤海は安定していた。
以前も記したが、こうした使者は、格下から格上に送るものと決まっている。ただし、それに要する費用の全ては迎え入れる側が負担する。だから、日本にしてみれば来てくれることはありがたいのだが、そう頻繁にこられると費用負担が大きい。
ましてや、この時期は前年の不作のせいで数多くの失業者が街中にあふれる事態となり、官米を安く提供する常平所の設置が決まったばかりである。ここに来ての渤海使の来日は正直頭の痛い問題でもあった。
おそらく検討を繰り返した結果であろう、貞観一九(八七七)年二月三日になってやっと、まずは渤海使を迎えにいく面々を選ぶことが決まった。選ばれたのは少外記で正六位上の大春日安名と、正八位下の占部月雄。占部月雄はこのとき役職がなく無職の状態であったから、渤海客使を快く受け入れた。それに、この二人には心強い味方がいた。渤海関係のエキスパートに成長し、正六位上、つまり、あと一歩で貴族入りできる地位にまで出世していた春日宅成が、今回も通訳として同行することが決まったのである。
それにしても、渤海からの使者を出迎えるのが貴族ではなく役人である。春日宅成は渤海との交渉のエキスパートだから問題なかったし、渤海使にとっても自分たちの言葉を操れる春日宅成がいてくれることはありがたかったが、そのほかの二人の地位は低い。占部月雄にいたっては正八位下。企業間のビジネスで、相手は専務がやってきたのを、こっちは係長で出迎えるようなものである。もっとも、入社二年目の役職もない若手だった頃からずっとその会社との取引を担当していて、今は出世して部長にまでなった者が後ろでサポートしているのだから、問題ないと言えば問題ないが。
上皇として権力を発揮する政治体制としての院政は白河上皇から始まるが、アイデアが白河上皇から始まったわけではない。天皇を退位し上皇となった者は、かつて天皇であった者として相応の権力を獲得するため、意図して上皇になろうとする者は数多く存在した。
清和上皇の場合はまさにそうで、清和天皇は上皇の権威と権力が、天皇としての自分が求めてきたものを全て満たしていると考えて退位した。
律令派ですら認めねばならないことだが、律令の規定は全て天皇に基づいており、上皇については律令の適用から外れる。つまり、天皇であるがゆえに行わねばならない国事行為からは解放される。それでいて、その権力は天皇に匹敵し、権威は時に天皇を凌駕する。
その上、行為を譲った貞明親王は未だ九歳の幼子。と言うことは、摂政を置いても何ら問題ない。清和天皇のときは摂政を置かなかったではないかと言われても、自分のときは藤原良房が事実上の摂政だったと言い訳もできる。
良房しか先例がないので良房と比較するしかないのだが、摂政という職務を天皇の母方の親族が引き受ける職務と規定するなら、陽成天皇即位のこのときは右大臣藤原基経という絶好の存在がいた。そして、良房の先例に基づいて摂政としての任務を果たせと命じることが、摂政の任命で最もスムーズに行く方法だった。
清和天皇が求めたのは、自分が権威と権力を握りながら、責任からは逃れることである。
この理屈で行けば、権力の権威を行使できたはずである。ところが、そこには現実が待ち構えていた。
天皇位を手放したことは大きすぎた。
皇位を譲ってから三ヶ月間、清和上皇は何の行動もできなかったのである。
貞観一九(八七七)年三月二四日、清和上皇が清和院に足を運んで大規模な行事を開いたとあるが、本人が期待したほどの効果を得られなかった。上皇が行事を主催すること自体は特におかしなことではなく、その規模はひっそりとしているものである。嵯峨上皇も淳和上皇もそれが現実だと受け入れて上皇になった。清和上皇はその先例を学んでいなかったのか。
それならばと、貞観一九(八七七)年三月二八日、には清和上皇の私財を京都の貧しい者に配ったが、その数はわずかにコメ一五〇斛、その他の穀物一〇〇〇斛。国の行う施はおろか、藤原氏の施にも遙かに届かない少なさに終わった。ちなみに、藤原の施は一万斛を軽く超えることが普通。
天皇だから手にできていた人望は上皇になった瞬間喪失した。
手元の財産は藤原に遙かに及ばない微小なものであった。
権威は尊重されている。だが、天皇ではなくなった清和上皇には権力がないことを悟ってしまったのだ。
貞観一九(八七七)年四月九日、大極殿の再建工事が始まった。こういった国の施設の工事は当然ながら国が行う。国が行う工事であるためその記録も残っている。斉衡二(八五五)年の地震で大仏の頭部が壊れたときは賀陽親王を派遣するなど国としてかなり強力な体制を整えたが、大極殿の再建はそれほど強力な体制ではない。
工事責任者は左中弁の藤原春景。これに、木工権頭、今で言う国土交通大臣である藤原維邦が来る。ただし、役職こそ国土交通大臣に相当するが、その地位は従五位下、つまり、ギリギリ貴族ではあるが消して高い役職ではない。このあたりが、この時代の公共事業に対する認識と言えよう。
その代わり、重宝されたのが神頼み。今でも建設の開始と終わりには御祓いをしてもらうぐらいするが、このときは伊勢神宮、石清水八幡宮、賀茂神社、松尾、平野、稻荷などの神社にお祓いをさせた。
また、こういう国の工事をするときは成功を祈願して何らかのアクションを起こすことがある。意図的に慶事を作り出し、慶事をともに祝うという名目で四月一一日には八名の者を出世させ、四月一六日には年号を貞観から元慶(がんぎょう)に改元させた。
この新しい年号の開始である元慶の歴史は渤海使の出迎えから始まった。
ところがここで一悶着あった。
前回の渤海使の来日は貞観一三(八七一)年。渤海使の来日は一二年ごとと決められているのでこれは定例の渤海使ではない。やってきたのだから迎え入れるための人の派遣はしたが、渤海使を平安京に招くかどうかが問題になった。
黄巣の乱もあって唐の情勢が混迷を極める中、渤海との関係を維持するためにも渤海使を受け入れるべきとする意見と、一二年に一度を守らなければ日本の財政に大きな負担をもたらすことになるとする意見である。
出迎えに行った大春日安名らからの連絡が届いたのは元慶元(八七七)年四月一八日になって。現在の感覚では遅いが、当時としてはこれが通常のスピードである。
渤海使は国の正式な使節として来日しており、大使の楊中遠は渤海国王大玄錫からの正式な書状を持参していた。
この渤海使を出迎える日本側の作法や外交上の礼儀は完璧であった。位の低い者が出迎えに来るというのは本来ならば失礼に値する行為なのだが、そのものは誠意あふれる対応で接した。また、渤海語を完璧に操り渤海との交渉のエキスパートとなっている春日宅成が後ろで控えており、かつ、春日宅成自身が無名の若者として渤海との交渉に当たり、渤海との応対で絶賛されたという前例があることから、今回も無名の者が出迎えに来ることを渤海側も当然のこととして受け入れていた。
このときまでは通常の応対である。ただ、そこから先が定まらなかった。
予算を守って外交の孤立を選ぶか、外交を守って予算に苦しむか。国論が二分されたのである。
この年の六月は梅雨がなかなか訪れなかった。日照りである。
渤海使に対しても、この日照り続きを理由とする出雲待機が要請されたほどである。このような自然災害のケースで正式な外交を取りやめたり伸ばしたりすることは当然のことと認識されていたため、渤海使たちに不満は出なかった。
出雲に待機と言ってもずっと一カ所に留まっているわけではなく、出雲の港の近辺をうろつく自由はある。そして、出雲が実際に干害に苦しんでいることは渤海使の目にも明らかであった。
それに、渤海とて、一二年に一度という取り決めを知らないわけではない。唐の混乱もあり、今ここで日本と手を結べるか否かは国家存亡の危機に関わるから、取り決めを無視して船団を派遣したのである。無茶を言ってきたのは自分たちのほうであり、この自分たちを受け入れるか拒否するかで国論が二分されていることも知っている。
国王からの書状の写しを届けた以上、最低限の役目は終えている。あとは日本の対応を待って行動をするだけであった。
現在の島根県は人口の少ない県の一つだが、この時代の出雲は人口の多い国の一つであり、また、京都、難波、太宰府に次ぐ日本第四位の都市の座を争う大都市の一つでもあった。京都に比べれば都市としての規模は小さいが、故郷渤海の都市と引けをとらない規模の都市が広がっており、長い船旅を終えて日本にやってきた渤海の船乗りたちを癒やす環境にあふれていた。市には故郷でも手に入らない品が安く売られているし、渤海から持ってきた日用品は市で高く売れた。
渤海使たちは、出雲の人たちが自分たちを暖かく迎え入れてくれていることを歓迎していた。そして、その出雲の人たちが日照りに苦しんでいること、日本の朝廷も日照りをどうにかしようと苦心していることを理解していた。
今だって自由自在に雨を降らせることはできない。この時代も状況は同じで、日照り対策は神頼みしかない。
元慶元(八七七)年六月一一日から連日雨乞いの儀式が行われたが、雷は鳴っても雨は降らなかった。雷ではなく雨を降らせてくれるよう祈りを捧げても、答えは同じ。雨は降らなかった。
この結果を目の当たりにした朝廷は、渤海使を迎え入れられる状況ではないと判断。この時代の考えでは、天候不順というのは天が執政者に与えた執政者失格の証だから外交使節を拒否する理由にはならないから、朝廷は一二年に一度の取り決めを破ったから今回の交渉は拒否するという名目で渤海使を帰国させることとなった。
感慨を目の当たりにしていた渤海使たちは、やむを得ぬこととして日本側の要請を聞き入れて帰国した。ただし、渤海国王からの書状は陽成天皇の元に届いており、また、陽成天皇からの返書も渡された。
日本と渤海との同盟関係が維持された瞬間である。
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