鳥羽院の時代 3.叛旗を翻す者

 鳥羽法皇と崇徳上皇からなる二頭体制は、藤原摂関家にとって痛手であった。
 とは言え、鳥羽法皇は何一つ法令違反をしていないのである。法に精通している内大臣藤原頼長が黙っていたのも、鳥羽法皇に逆らうことを躊躇したからという側面もゼロではないが、それよりもっと大きな理由は鳥羽法皇に付け入る隙が無かったというところである。そこへ来て、藤原摂関家の内部分裂の今や誰の目にも明らかになっていた。内大臣藤原頼長と、兄の摂政藤原忠通との対立である。ここに出家した父の藤原忠実が加わると話はよりややこしくなる。
 勢力を伸ばしていく院と、内部分裂している藤原摂関家という構図であったが、ここにきて、藤原摂関家には院に匹敵する力があることを日本中に広める出来事が起こった。それが前述した康治元(一一四二)年八月三日の興福寺の僧侶追放である。興福寺の僧侶を追放したことが力を示す出来事となったのではない。一人の人物の復活が力を示す出来事となったのである。興福寺に乗り込んで、一五名の僧侶を逮捕し、実際に陸奥へと追放した源為義が今も藤原摂関家の人物の一人として健在であることを示したのだ。
 藤原道長の時代から藤原摂関家は清和源氏と密接につながっていて、いざとなれば清和源氏に武力を発動させることもできたのであるが、これが白河法皇院政で崩れていた。白河法皇に利用されていた源為義は、その後、鳥羽上皇に仕える貴重な軍事力となっていた。しかし、白河法皇亡き後、鳥羽上皇は源為義に対する処遇を誤り、源為義は再び藤原摂関家のもとに舞い戻っていたのである。源為義に対する公的地位は保延二(一一三六)年の左衛門少尉辞任でいったん途切れ、それ以後の源為義は藤原摂関家との私的な関係が続いていた。
 院のもとから離れて藤原摂関家に仕える武士の一人に戻ったというのは、現在の感覚でいくと、国家公務員を辞して民間企業のサラリーマンになったようなものである。ただし、現在のサラリーマンと比べて大きな点が一つある。それは、待遇。藤原摂関家に仕える武士の一人であるとは言え、清和源氏の武士団のトップであり、サラリーマンで言うと断じて平社員ではない。藤原摂関家の持つ荘園の管理と警備だけでも重職だが、その代わり報酬は高かったのだ。どれだけ高かったのかは、源為義の長男である源義朝が、藤原摂関家の持つ所領のうちの三ヶ所を荘園として手に入れることができたと言えば理解いただけるであろう。民間企業のサラリーマンが、いかに功績を残したとは言え、三つの子会社の社長に就任できるであろうか? それも本人ではなく息子が。
 もっとも、源義朝がそれだけの資産を手にできたのは理由がある。
 源義朝は父の源為義の命令で関東地方に追放されていたのである。源義朝に何かしらの失態があって追放されていたのではない。源義朝の母が、亡き白河法皇の側近の娘であるという理由で追放されていたのだ。 


 源義朝は廃嫡されていた、すなわち源為義の後継者から排除されていたという説もある。清和源氏のトップに立った源為義が自身の後継者として自身の長男を選ばなかったというのはおかしな話ではあるが、理解できない話ではない。前述の通り、源義朝の生母は白河法皇の側近の娘であり、白河法皇を最終標的とし、白河法皇に近い存在をターゲットとして攻撃し続けてきた鳥羽法皇である。白河法皇の側近の娘が母親であるという少年は鳥羽法皇に絶対に受け入れられることはないと思われていたし、そのような少年の父親である間は源為義も鳥羽法皇のもとで地位を掴むことはできないと思われてもいた。時代は鳥羽法皇のポピュリズムのものなのだ。
 源為義の想定したとおり、息子を追放した効果は源為義にたしかに現れていた。
 源為義は犯罪者をかくまうという、法の上では正しくとも感情としては許されないことをして地位を失った。しかし、源為義は自分の次男である源義賢を官界に乗せることには成功したのだ。源義賢の生年は不明だが、保安四(一一二三)年生まれの源義朝とは母親違いの弟であることは判明しているのだから、康治元(一一四二)年時点ではどんなに年齢を上に見ても一〇代後半のはず。官界デビューの年齢としては妥当であるが、デビュー時の役職が皇太子躰仁親王の警護の最高責任者である「東宮帯刀先生(とうぐうたちはきのせんじょう)」であったのはかなりの大抜擢だ。おそらく、武人としてかなり有望視されていたのであろう。あるいは、長男を追放までさせたことに対する鳥羽法皇なりの償いであったのかもしれない。
 ところが、源義賢は父親同様に失態をしでかすのである。
 源義賢も父親と同様に犯罪者をかくまったのだ。滝口の武士である源備(みなもとそなう)が殺害され、容疑者とされた宮道惟則を源義賢はかくまったのである。
 滝口とは滝口の武士のことで、藤原時平が導入した日本史上初の朝廷における武士への公的な役職であり、天皇が住まいとし日常の政務のほとんどを遂行する場である清涼殿の警護をその役職とする人たちのことである。律令に従えば、清涼殿に限らず内裏そのものが武装どころか武具を手にすることも許されない場所ということになっていたが、実際問題、警備を考えると武具は手にしないより手にするほうがより容易な警備となる。そこで、令外官として滝口の武士が制度化され、藤原時平の時代で一〇名、藤原実資による増員で一五名、白河天皇の時代に倍に増やされ三〇名までが、警護のための特例として内裏の内側でも武器を手にすることが許されていた。
 滝口の武士とは言うが、武士団の武士が選ばれるケースは少なく、そのほとんどは若き貴族やその随身である。平将門が若い頃にこの職に就くことを望みながら果たせず、夢叶わずに関東へ戻っていったという出来事からも滝口の武士がどういう形で存続してきた組織であるかわかる。それでも武芸によって選ばれた者ではあり、戦場での能力は未知数かもしれないが、ほとんどの犯罪者相手であったら簡単に逮捕できるだけの能力も持っている。一五名から三〇名に増えたと言ってもまだまだ選ばれし精鋭であったのが滝口だ。
 その滝口の者が殺害された。武芸を積んだ皇室の警護者が殺害されるというのは、被害者個人への恨みや突発的衝動による犯行のこともあるが、より大きな犯罪、たとえばテロリズムを入り口で防いだ結果であるという視点も持つのが普通だ。すなわち、単なる殺人犯ではなく対国家テロの容疑者を逮捕するという観点からも、容疑者の取り調べはより慎重なものとならざるをえない、と書くといかにもな意見に感じるが、容疑者に対する人権はゼロに等しくなる。
 何度も書いているが、清和源氏は、その中でも特に源為義は、法より感情が優先される時代にあって犯罪容疑者を守る最後の砦になっていた。それが源為義の公的地位喪失につながったのだが、息子も同じことをしたのだ。テロリストであろうと人権は守られるべきというのは、正しい。しかし、感情と正反対の行動である。だからこそ感情に訴えることで権力を手にすることを常とするポピュリストにとっては許せない存在となる。
 その結果が、源義賢の失職。東宮帯刀先生(とうぐうたちはきのせんじょう)から罷免されたのだ。
 源義賢は、自分は正しいことをしたと断言し疑う気持ちを持たなかったし、鳥羽法皇の指示による失職という現実を許せないと憤った。
 これを、失った地位を取り戻すために長男を追放してまで次男に道を用意した源為義の立場に立つとどうか?
 全てが水泡に帰したのだ。
 まったく、何もかもが無駄になってしまったのだ。
 何とか取り繕うとした鳥羽法皇との関係も全て白紙に戻った。いや、白紙ならこれから何かを書き込めるから、一面に墨を塗りたくって真っ黒になり、もうこれ以上何も書けなくなった紙とでもすべきか。
 ところが、こんな状況に置かれた源為義と源義賢に手を差し伸べる者がいたのである。
 内大臣藤原頼長だ。
 何度も記しているが、藤原頼長という人は法について熟知している人である。現実と法が乖離していれば現実のほう変えるべきと考えて疑わないひ人であり、感情と法的とが相反しているときに法に従って感情として許されないことをする人がいた場合、普通の人であれば憎しみの対象となるが、藤原頼長にとっては正しいことをしたという評価になる。
 元々清和源氏は藤原摂関家に個人的に仕えてきたし、源為義は実際に藤原忠実に臣従した。ただ、その次の代については不明瞭であった。摂政藤原忠通か、内大臣藤原頼長かが不明瞭であったのだ。多くの人が考えていたのは、まずは藤原忠通が藤氏長者を継承し、そのあとで藤原頼長が藤氏長者を継承するというものであったが、だんだんとその考えは実現しないものと見られるようになってきた。藤原忠通と藤原頼長の対立が隠せなくなったのである。保安二(一一二一)年に藤原忠通が藤氏長者を継承したが、父の藤原忠実はまだ健在である。藤氏長者の地位の剥奪は前例が無いが、かつて藤氏長者であった者が存命で、かつ、藤氏長者に勝てるだけの権威を持っている。たしかに康治元(一一四二)年時点の藤原忠実は六七歳という高齢を迎えている。しかも、出家までしている。この時代の考えで行けばいつ何があってもおかしくない頃だ。その、何があってもおかしくない頃であるというのは、それまで暖めていたアイデアを一気に噴出させる頃でもある。正しいことだが大混乱を招くことも予測されるだけでなく、自分も混乱に巻き込まれることは間違いないことをするとき、死を覚悟したタイミングで行うというのはよくある話だ。
 藤原忠実が藤氏長者の地位を息子から剥奪し、もう一人の息子に渡すというのは考えられる未来ではあったが、難しい話でもあった。
 このタイミングで選択肢を誤ると、個人だけでなく一族の命運にも関わる。藤原忠通につくのか、藤原頼長につくのか。
 源為義は逡巡していた。
 まずは藤原頼長が手をさしのべたが、藤原頼長には、この人について行きたいと思わせる何かが無かった。かといって、藤原忠通についていくという選択肢も逡巡するものがあった。貴族としても、武士としても、清和源氏の命運を賭けるのには、藤原忠通にも藤原頼長にも足りなかった。


 これまでの流れを源義朝の立場で考えると、理不尽、の一言に尽きる。
 母が白河法皇の側近の娘であるという、ただそれだけの理由で父の命令で追放されたのだ。しかも、まだ正式に決まったわけではないが、清和源氏のトップの後継者の地位が異母弟に奪われ、弟の源義賢は官界デビューを果たした。自分を追放することが地位を失った父の汚名返上手段であり、弟の任官はその答えである。
 これだけでも納得できる話ではないが、もっと納得できないのは弟が父と同じ失敗をして官界から追われたことだ。犯罪容疑者の人権を守る最後の砦の役目を果たしたというのは理解できなくもないが、自分を追放させておいてまでそれをやられたらたまったものではない。これがもし、弟は世間の感情を代弁する形で容疑者を拘束し、関東に追放された自分が容疑者の人権を守るために武力を派遣したというなら理解はできるのだ。清和源氏全体が法と感情と人権を守る集団であると認識させることができるなら、追放され無位無官となっている自分にもまだ救いはあるし、やがていつかは認められる日が来るという希望も抱ける。
 それなのに、待っていた運命は弟の暴走、そして失職。しかも弟は、自分がなぜ失職しなければならないのかと憤っている。これでは源義朝が引き受けた苦悩が全くの無意味になってしまう。せめて弟が兄に協力するというなら、納得できないにせよ我慢はできたのだ。しかし、弟の失態は我慢できる話にすらならない。
 おまけに、弟の失態の結果として清和源氏が迎えることになった運命は藤原摂関家への再接近。鳥羽法皇に取り入るためとして追放されたのに、鳥羽法皇との関係は途切れてしまった上に清和源氏の選択は今までどおり藤原摂関家との関係となるのだから、追放が完全に無意味となったのだ。
 ところが、視点を移すと、追放が無意味になるのは源義朝では無く源為義になるのである。どういうことか?
 相模国鎌倉はこの時代には既に関東地方における清和源氏の本拠地であった。そして、関東地方に追放された源義朝が本拠地に定めたのも鎌倉であった。後の鎌倉時代の都市計画にはほど遠いが、それでも関東地方ではトップレベルの都市になってきている。その都市を根拠地とすることで、源義朝が関東地方の武士団をまとめる要素ができつつあったのだ。
 源義朝に対する声はそのほとんどが同情だ。父の地位回復のために関東に追いやられたが、関東に根拠地を構える武士たちは、その多くはかつて源義家に従って清和源氏とともに戦った武士の子孫達である。少し前までは清和源氏をまとめ上げる若きリーダーと言えば源為義であったのに、いまや地位回復のために息子を追放した心無き父親であるだけでなく、それが失敗に終わった無策な首領へと評価を下げていたのだ。
 この時代に長男が相続するという規定はない。慣例としてならばあっても、長男より優れた者がいるならばその者に相続させるのは珍しくなかった。ましてや武士という実力社会の話であり、トップに求められるのは長男であるかどうかではなく、さらには武人としての強さでもなく、武士を率いる能力の高さである。
 源義朝の指揮能力が低かったとは言えない。抜群に高いとまでは言えないにせよ、清和源氏のトップとして武士団を率いる能力ならば充分にあった。その源義朝を父の源為義は関東に追放した。これにより、源義朝は関東地方で自らの勢力を築くことに成功しつつあったのである。京都で勢力を作る予定であった源為義は、自らが捨てたはずの息子のせいで清和源氏の勢力そのものが自分の手から離れていってしまったのだ。
 ここで着目すべきは、関東地方で新しく源義朝に付き従うことを選んだ武士団である。源義朝が藤原摂関家の荘園を三ヶ所も手に入れたというのは前述の通りであるが、全て関東地方の荘園である。スタートは鳥羽法皇への接近のために息子を追放したことへの償いであり、あるいは関東地方に行くことになった源義朝への憐憫からきた藤原摂関家の配慮であった。ところが、その三ヶ所の荘園を管理監督していた武士たちがこぞって源義朝のもとに臣従したのである。その三ヶ所とは、現在の神奈川県の秦野である波多野荘、現在の神奈川県三浦市の三崎荘、そして、現在の茨城県常総市の菅生荘であり、そのどれもが藤原摂関家の荘園であったのが、今や源義朝の軍勢に対し、人員、食料、武具、騎馬といった供給基地の役割を果たすまでになったのだ。
 関東地方の有力武士団が源義朝に臣従したときに思い浮かぶ疑念がある。そもそも関東地方は清和源氏の勢力が強く、平氏の子孫である武士であっても源氏に臣従することは当たり前のこととして存在していたのである。それなのに、このタイミングで新しく源義朝への臣従を誓ったということはどういうことなのか?
 結論から述べると、関東地方の武士団における清和源氏の勢力が落ちてきていたのである。これはある意味当然と言えよう。清和源氏内部で主導権争いが起こり、最終的にトップに立ったのは若き源為義である。ここまでは清和源氏を結束させるに充分であった。トップに立つのに必要な資質は、この人とともに行動しても良いと思わせる資質とともに、この人には自分が必要なのだと思わせる資質である。素晴らしい人物であると認めても、この人は自分を必要としていないと感じたなら、行動を共にしたいとは思わない。
 武士というのは戦う集団であると同時に、守る集団である。その集団が共に行動したいと思うのは、この人と一緒ならば戦いに勝てると感じさせられたと同時に、この人ならば自分を守ってくれると感じさせられたときである。その上で、勝利を手にし自らの守る人たちの安全を果たすときに、自分の力も必要となると感じさせられてはじめて、その人への臣従を考える。この意味で、若きリーダー源為義は武士団のトップに相応しかったのであるが、時間とともにその相応しさが減ってきていたのだ。この人と一緒にいたところで勝てるわけでもない、身の安全を守るわけでもない、自分を必要とするわけでもないとなったら、臣従する意味がなくなり、武士たちは自分の身を自分で守らなければならなくなる。
 そうでなくとも飢饉が発生していたのである。荘園の食料が無くなって餓死する人が続出してきたとき、近隣の荘園には食料の余裕があるという噂が流れれば、食料を分け与えてくれと願い出るのはおかしな話ではない。
 ただし、その噂が真実であるかどうかは別である。
 食料の余裕があるという話も、突き詰めれば、荘園内に住む人の食料ならばどうにかなるが、荘園の外に食料を分け与える余裕はないというレベルでの食料の余裕である。ただちに餓死するわけではないが、これ以上減ってしまったら餓死する人が出てくる。一方、既に餓死者が出ている荘園からしてみれば、「こっちは餓死する人が続出しているのにお前らはまだ食い物がある。分けてくれてもいいじゃないか」という理屈になる。こうなると、食料をめぐる争いが発生する。最初は分けてくれという要請であったのが、次第に口論になり、奪い合いになり、武器を手にしての争いになる。本来であればこのような争いを制御するのも上に立つ者の任務であり、関東地方においては清和源氏のトップたる源為義がどうにかすべき話であったのだが、源為義は何もしないでいる。こうなると、トップ無き群雄割拠の争いとなり、食料の奪い合いから血生臭い合戦が繰り返される日常へと変貌する。
 この日常が終わりを迎えるのに必要なのは、まずは充分な食料があること。少なくとも明日の食料の心配をしないで済む暮らしに戻ること。次に、戦いのメリットが減ること。戦わなくとも食料があるという暮らしに戻ることができれば戦いは起こらない。ただし、それまでの戦闘で流れた血は消えることなく、憎しみとして記憶され続けることとなる。ここで残される記憶は被害者としての記憶であり、他の荘園に襲いかかったという記憶は、食料を分けてくれなかったことへの恨みに対する正当な報復だという記憶に書き換えられる。
 源義朝が関東地方にやってきたのはまさにそのタイミングだ。源為義がいなかったかのように、あるいは、源為義は若くして亡くなってこの世にはもういないとされているかのように、源義家の再来として源義朝が扱われることになったのだ。しかも時代の権力者である鳥羽法皇に疎んじられ、実の父に追放されたという悲劇性を伴って。ここで源義朝に臣従することは時代の権力者に対する反逆になるのではないかという懸念もあったが、鳥羽法皇の次の時代を考えるとその選択はあながち間違いではない。
 白河法皇の院政を相続したのが鳥羽法皇である。若くして退位させられ上皇となった鳥羽法皇、当時の呼び名だと鳥羽上皇は、白河法皇崩御の時点では誰もが白河法皇の従順な後継者と見ていた。それが鳥羽院政開始と同時に白河法皇の影響からの脱却を試みるのである。待賢門院藤原璋子に対する接し方からもそれは明らかだ。そして、鳥羽法皇は自身の院政の後継者として崇徳天皇を指名している。崇徳天皇は退位して崇徳上皇となり、鳥羽院政における二頭体制の一翼を担うまでになっている。この時代の人に質問すれば誰もが鳥羽法皇の次は崇徳上皇の院政になるだろうと答えたはずだ。
 ただし、崇徳上皇の院政開始と鳥羽法皇の院政の継続は同じことではない。いや、かなりの可能性で鳥羽法皇の政策を否定するはずだ。白河法皇の影響を排除したときのように崇徳上皇は鳥羽法皇の影響を排除しようとするだろう。そのときは待賢門院藤原璋子の名誉も回復され、白河法皇の側近の娘が母であるという理由で父の命令によって追放された源義朝も地位を回復するはずだ。
 そう遠くない未来に迎えるであろうそのとき、源義朝の周囲を固めるのは自分たちであるという考えは、どんなに打算的な武士団でも率先して源義朝に臣従させるに充分であった。その上で、揃って臣従することで武士団たちの上に源義朝が君臨するようになる。一人のリーダーのもとに率いられた集団というのは、集団内の対立を自己制御できる機能を有している。全体を一つの方向に向けると、集団内の対立は沈静化し、集団と集団外との対立として先鋭化する。この間まで対立していた他の荘園も、これからは共に戦う仲間となる。血の記憶が消えることはないが、外へと向かう矛先のほうが血の記憶よりも大切なこととして扱われるようになる。
 悪く言えば物騒極まりない集団の誕生であるが、集団の中のものにとっては平和の構築者になる。しかも、源義朝にはその期待に応えるだけの余地が残されていた。関東地方の有力武士団たちが源義朝に臣従したが、関東地方の全ての武士団が源義朝に臣従したわけではない。いや、比率で言えば源義朝に臣従しない武士団のほうが多く、そうした武士団と契約している荘園はもっと多い。また、どこの荘園のものでもない国衙領の存在も断じて無視できる規模ではない。
 これらは全て、源義朝率いる清和源氏の武士団の敵である。それもわかりやすい敵である。敵に投影される鳥羽法皇の影が強ければ強いほど、より強固な敵として認識されるようになる。後年の保元の乱の選択を考えると信じられないように見えるが、このときの源義朝と関東地方の武士団は、崇徳上皇を念頭に置いた行動をしていたのである。


 現代日本の関東地方と京都との間に時差はない。京都で何が起こったかを関東地方の人が知るのに必要な時間は、インターネットを用いればリアルタイム、人間が移動するには三時間、マスメディアでも一日あれば充分である。
 しかし、康治元(一一四二)年時点の日本ではそうはいかない。京都で起こったことが情報として関東地方に届くまでに一ヶ月以上要するのは当たり前のことであった。ゆえに、源義朝のもとに結集した武士団は、源義朝が追放されたにもかかわらず、その見返りで官界に地位を得た源義賢が失職し、代わりに藤原摂関家が、特に内大臣藤原頼長が源為義に接近しているというところまでは情報として届いていたが、そのあとのことは知らずにいたのである。
 まさにその時点で京都で起こっていたこと、そして、現在進行形で起こっていること、それは、藤原摂関家内部の争いが、はっきりと、内大臣藤原頼長優位に転換したことである。単に一族内の争いのことではない。国の舵取りに関わる話である。いかに鳥羽法皇の院政が強固なものとなっていようと、制度としての藤原摂関政治そのものが消えてなくなったわけではない。藤原摂関政治も律令制の上に立つデリケートな虚構であり、さらにその上によりデリケートな虚構である院政が乗っているというのがこの時代の政治システムの在り方であるが、藤原頼長は議政官の一員として法案に対する律令に基づく議決権の一票を持っている。すなわち、摂関政治という虚構が消えてなくなろうと、院政という虚構が消えてなくなろうと、議政官という律令に基づいた統治機構は存続し続けているのである。
 その上で、藤原頼長は徹底した律令制への回帰を主張した。それも、律令制で定められていながら実施されずにいることを、怠慢であるとして批判して律令制へと回帰するよう求めたのである。これだと誰もが文句を言えなくなる。今までそのようなことで咎められることはなかったと主張しようと、律令で定められている以上、実施されないことの方が違法であり、本来の律令のあるべき姿に復旧するだけであるとなったら黙り込むしかなくなる。
 記録によると、康治元(一一四二)年六月一六日のことである。律令に基づいて公事における貴族の欠席を禁止したのだ。この時代は当然のこととされていた物忌みによる欠席だけでなく、病気やケガ、さらには高齢による出席免除の慣例まで否定し、欠席したならば無条件で降格ないしは罷免するとしたのである。現在からすれば、物忌みはともかく、病気やケガでも出席しろというのは悪徳経営者の思考そのものであるが、藤原頼長は何も無茶な働かせ方をさせようとしたのではない。ただ単に律令を条文通りに適用させただけなのだ。降格や罷免も律令にある規定の通りであり、これまで律令が守られていなかったことのほうがおかしく、これからは律令通りに行くと宣言したのである。
 現代人からすれば、法と現実とで食い違いが起こっているのだから法律の方を改めればいいではないかとなるのであるが、藤原頼長はそうは考えない。律令は常に正しく、人間社会の方が律令に合わせて変わるべきというのが藤原頼長の思考である。藤原良房以後の藤原北家は、律令制からの決別と空文化による権力構築と、その結果としての生活水準向上を果たしてきたのであるが、それが物の見事に白紙撤回された。言うなれば奈良時代に戻されたのである。
 これで不満を感じない人がいたとすればその方がおかしい。ただでさえ好感度の無い人間が原理原則に従って人間社会の現実を無視した命令を出しているのである。いくら自分のことを正しいと信じ込んでいる人間でも、自分の正しさを理解できない人間がいると感じるのは普通のことであるし、その人間が自分に対して怒りの矛先を向けることがあると考えるのは当たり前だ。話し合えば自分の正しさが理解されると信じていたとしても、今まさに自分の正しさを理解せずに反発を見せている人間がいるという現実から目を背ける者はいない。いたとすれば能天気極まりない。
 古今東西、強引な改革が断行できた裏側には、強引な改革を遂行する支持者が改革を断行する者の周囲の安全を守る存在として機能してきたという一面がある。改革者自身が身の安全に気を配る必要な無いからこそ、強引な改革を遂行できたのだ。こうした警護部隊としては、ナチスの親衛隊や突撃隊、あるいは共産党の秘密警察などが例として挙げられるが、藤原頼長にそうした存在はいない。唯一の例外は自分の男色相手となった男たちだけであるが、男色相手個人はともかくその部下までを警護部隊として期待できるというほどではない。
 藤原頼長が清和源氏に接近したというのは、それまでの藤原摂関家と清和源氏との関係を考えた上で、清和源氏であれば自分の警護役として申し分ないという打算も存在していた。
 さらに、源為義と源義賢の二人がなぜ失職したのかという理由も、藤原頼長にはむしろ頼もしく感じることであった。前述した通り、藤原頼長という人は、法が許さぬことと感情が許さぬこととが対立したとき、法に従って感情が許さぬことを断行したことを評価する人であった。犯罪容疑者の人権を保証するという、犯罪被害者や第三者からすれば感情的に絶対に許されないことを「法が定めているから」という理由で遂行するのは、藤原頼長にとっては世間の評価低下とは逆に、評価上昇の対象となる。
 源為義はためらっていたが、源義賢は違った。正しいことをした自分を評価してくれる人がいた、それも、他ならぬ内大臣藤原頼長が評価したというのは、感激すべきことであり、父の逡巡は理解できぬことであった。清和源氏全体を統括する立場にある父が簡単に藤原頼長への臣従を誓うわけにはいかないということすら理解できぬこととなり、父が臣従しなくとも自分は藤原頼長に臣従するとまで主張し出したのである。


 人望の無い藤原頼長が、よく言えば冷徹に、悪く言えば無鉄砲なまでに律令への回帰を訴えていることを問題視する人は多かったが、それでも藤原頼長がまだ内大臣であるというのは救いの一つであった。内大臣は議政官の議事進行権も議事開催権もないのである。議政官を開催し、議政官の議長となることができるのは、まずは左大臣、左大臣不在時は右大臣、右大臣も不在ならば大納言筆頭であって、内大臣は議政官における一票の行使はできても、議政官そのものを開催することも、議事を進行させることもできない。徹底して律令にこだわってきた藤原頼長である。自分自身が内大臣であるというのは充分に認識していたし、自身に与えられている権力も左大臣や右大臣と比べて少ないことも認識している。
 ただし、このままでいいと認識していたわけではない。康治元(一一四二)年九月二日、大雨で鴨川が氾濫した。白河法皇が三不如意の一つに挙げた鴨川の水である。自分の権力を持ってしてもどうにもならないことの一つに挙げた水害に対し、時代の移り変わりはあっても変わらないものがあると、さらに言えば、その頃より悪化していると認識させるに充分であった。朝廷も、院も、水害に襲われるのを傍観するのみで何もできなかったのだ。鳥羽法皇も、崇徳上皇も、平安京に出向いてデモを繰り返す寺院も、無視できぬ存在へと成長してきた武士団も、水害の前にはあまりにも無力であった。
 人は無力を自覚したとき、自らの無力ではなく、自らを無力にさせている現状の方に問題があると考える。要は、本来なら自分の能力はこんなものではないのだが、社会制度のせいで、あるいは、環境のせいで、自分の能力を発揮できないのだと考える。
 一歩進むと、自分に権力があれば問題は全て解決すると考えるまでに至る。
 藤原頼長が求めたのは空席となっている右大臣の席であった。康治元(一一四二)年時点の議政官は、左大臣が源有仁、右大臣が空席、内大臣が藤原頼長である。右大臣が空席というのは許される状態ではないと訴え、内大臣である自分を右大臣に昇格させるよう公然と求めるようになったのである。前述の通り、右大臣になれば左大臣不在時の議事開催権と議事進行権を手にできる。人望の無い藤原頼長に対し、左大臣源有仁の人望は高い。後三条天皇の孫にして、のちに崇徳天皇となる顕仁親王が生誕するまで皇位継承権筆頭であった人物である。臣籍降下の結果で源氏となったが世間の反応は今なお貴公子であり、今なお人気の高い後三条天皇の意思を継承するシンボルですらあったのが左大臣源有仁である。ただ、無能とまでは言わないが、寺院勢力のデモに対しても鴨川の氾濫に対しても何もできなかったことからわかるとおり、この人に思い切った決断と行動を期待することはできない。
 藤原頼長が最終的な目標に見据えたのは源有仁に代わって自分が左大臣になることであるが、一足飛びにそれができる状況では無い。そのための第一歩として、自分自身が右大臣になることを考えたのである。
 右大臣任官に対する反発は強かった。藤原頼長は愚者の嫉妬と考えたが、実際の反発の中身は藤原頼長の徹底した律令への回帰への危惧である。法がそうなっているというのはわかるが、現実社会を法に合わせて変化させろと主張して平然としている藤原頼長の考えは危険すぎた。藤氏長者の継承権筆頭であるために無視できる存在ではなかったから、議事開催権も議事進行権も持たない内大臣になることまでは問題ないと考えた貴族たちも、その双方を行使しうる右大臣になることは納得できなかったのだ。

 人望が全く無い藤原頼長であるが、過激な考えの人間の周囲には、ごく少数であるが、その過激な考えに同調する面々が現れる。藤原良房が律令制打破のために、律令制支持を古い考え方、打倒を新しい考え方であると宣伝することで若者の支持を集めたように、律令に背いている現在を古い考えとし、律令に回帰することを新しい考えと宣伝することは、現時点で地位を得ることのできずにいる若者の支持を集める効果ならばあったのである。
 過激な考えに走る者には一つの特徴がある。知力の低さである。知性と教養と基礎学力と一般常識が乏しいために社会的地位を得ることができずにいるのに、その現実を認めることなく自らの知力の高さを信じ、知力の高い自分が地位を手にできずにいるのは愚か者が上に立っているからだと考える。これは藤原頼長とて例外では無い。藤原頼長から見て甥にあたる慈円はその著書である「愚管抄」の中で「日本一の大学生(だいがくしょう)、和漢の才(さえ)に富む」と記し、当時の人も藤原頼長のことを知力の高い人と考えていたようであるが、残された記録からも、そして本人の残した記録からも、頭の悪い人間がどうにかして頭の悪さを隠そうと、無理して頭のいい人間であろうと振る舞った痛々しい様子しか見て取れないのである。
 藤原頼長自身も含まれるが、自分の頭の悪さを直視できずにいる若者にとって、藤原頼長の主張する律令制への回帰は魅力的な主張に映った。何しろ、現在の自分の置かれている境遇の低さを、頭の悪さという現実に一切直面することなく、全ての辻褄を合致させた上で説明できるのである。おまけに、上にいる“愚か者”を正々堂々と罰する仕組みまで用意できている。律令の厳密な適用だ。律令に存在する罰則を条文通りに適用すれば、どんなに権力を持った貴族であろうと流刑に処すことができるとあれば、実現したらどのような社会になるかを考えることすらできないレベルの知力しか無い人間ならば、公然と支持するようになる。
 厄介なことに、この中に清和源氏の次期当主と目されるまでになっていた源義賢がいたのだ。知力の乏しい者の集団というだけであれば怪しい集団というだけで止まるが、武力を行使できる清和源氏がいるとなると単純に済む話ではなくなる。危険な集団が武装テロ集団へと成長するのだから。


 藤原頼長を白眼視するのは鳥羽法皇も同じであるが、鳥羽法皇には一つだけ、藤原頼長に親近感を抱ける視点があった。
 敵の敵は味方であるという視点である。
 律令制への回帰を訴える藤原頼長であるが、院政を否定してはいない。というより、院政そのものが、一つ一つは完全に律令に合致していながら、全部を足し合わせると法皇や上皇が権力を持つという、律令を完全に守ると同時に律令の精神に反する結果を生み出しているデリケートな構造であったからで、律令を徹底的に研究している藤原頼長であっても院政を批判することができなかったのだ。
 その上で、鳥羽法皇は院政を継続し続けるために幼い天皇であり続けさせようとしている。すなわち、摂政藤原忠通を摂政職に専念させることで藤原摂関政治の機能を抑えようとしている。
 藤原摂関家の次期当主である藤原頼長が摂政や関白に興味を示さなかったといえば嘘になるが、律令制への回帰を考える藤原頼長にとって重要なのは左大臣になることであり、関白はともかく摂政は、就かねばならないならば就くが、何としても就かねばならぬ役職ではない。摂政になるか左大臣になるかの二択を求められたら、左大臣を即座に選ぶのが藤原頼長である。
 さらに言えば藤原頼長は、摂政はともかく関白が権力を握ることができるという現在の仕組みそのものが間違っているとも考えている。兄の藤原忠通が摂政であることは近衛天皇が幼少であるゆえにやむを得ないとは考えていても、摂政はあくまでも天皇の代行、関白に至っては律令に記されていない天皇の相談役にすぎず、権力を持つべきでないというのが藤原頼長の主張だ。
 藤原摂関政治を制御するために藤原忠通を摂政であり続けさせることを選ぶ鳥羽法皇と、兄が権力を振るうのを良しとしない藤原頼長とは、ゴールこそ違えど、望ましい形については一致している。
 おまけに、藤原忠通にはこの時点でまだ男児がいない。康治元(一一四二)年時点の藤原忠通の実子は崇徳天皇の中宮である藤原聖子のみである。藤原聖子には弟がいたことは確実であるが、その男児の名は伝わっておらず大治二(一一二七)年に亡くなっている。厳密に言えば正妻ではない女性が男児を産んでいるが、藤原忠通はそうした男児を二人とも出家させている。
 男系相続が当然であるこの時代、藤原氏の当主である藤氏長者の地位はかなりの確率で藤原頼長の手に移る。あとはそれが早いか遅いかだけの話だ。もっと言えば、藤原忠通に男児はいなくとも、藤原頼長には康治元(一一四二)年時点で三人の男児がいるから、藤原摂関家の当主の継承を考えても、藤原忠通より藤原頼長のほうが優位な位置にいる。ちなみに、同性愛についての記録が残っている藤原頼長であるが、男性しか愛せなかったのではなく、男性も女性問わずに恋愛対象としていたようで、確認できるだけで三人の女性と結婚している。
 もっとも、男児はいるが女児がいないことは藤原頼長も懸念していたようで、藤原公能の娘である藤原多子を養女に迎え入れている。目的はただ一つ、近衛天皇の将来の妃とするためである。 


 康治元(一一四二)年、奥州藤原氏に関する一つの記録がようやく登場する。
 藤原基衡がトップに立ってからの奥州藤原氏の記録はほとんど残っていないというのは既に記した通りであるが、その間に藤原基衡が東北地方でどれだけの権勢を掴んでいたかの記録が康治元(一一四二)年にわかるのである。
 この年、陸奥国司として陸奥国府に赴任した藤原師綱から一つの情報が京都へと送られてきたのだ。陸奥国において藤原基衡の勢力があまりにも強く、国司が国司としての職務を果たせないというものである。朝廷はこの訴えに対処するため、国司の土地調査を妨害してはならないという宣旨を出した。
 送られてきた宣旨の文書を受け取った陸奥国司藤原師綱は、朝廷の命令遂行の第一手として、陸奥国信夫(しのぶ)郡(現在の福島県福島市)の公田検注を始めようとしたが、この検注を藤原基衡は妨害した。ただし、実際に妨害したのは藤原基衡本人ではなく、家臣の一人で信夫郡を根拠地とする佐藤季治である。妨害と言っても反対デモが道路を塞ぐかの話ではなく武装した軍勢が国司の一行を妨害するというものだ。このあたりは国司のほうもわかっていて、検注時は武力を率いている。
 検注というシチュエーションではあるが、武装勢力同士が向かい合った結果どうなるかは容易に想像つく。少なくとも和気藹々とした団欒のひとときになどにはならない。
 この結果がどうなったかの情報を藤原師綱は朝廷に送り届けていないが、陣容を整えて再び検注に赴いたという記録は残っているから、一度目は佐藤季治率いる軍勢の前に敗れ去り、二度目の任務遂行を果たそうとしたことは間違いない。
 この任務遂行が成功したのは国司の率いる軍勢の軍事力ではない。国司の手にしている朝廷からの宣旨である。奥州藤原氏がいかに巨大勢力を築いていたとしても所詮は地方の有力勢力に留まっている存在であり、朝廷の権威の前にはひれ伏す存在である。どうやら藤原基衡はこの直前まで宣旨の存在を知らなかったようで、それまでは国司の権威を認めなかった藤原基衡も朝廷の宣旨を目にしては黙り込むしかなく、根拠地を守るためとして藤原基衡の命令により軍勢を指揮した佐藤季治も陸奥国司藤原師綱の前に無条件降伏するしかなくなった。降伏した佐藤季治は朝廷の命令に逆らった反逆罪を理由に捕縛された。
 藤原基衡は陸奥国司藤原師綱に砂金を献上し、捕縛された佐藤季治の釈放を求めたが、その頃にはもう佐藤季治はこの世の人ではなくなっていた。処刑されたとも、自害したとも言われている。後の記録にはこのときに本人とその家臣を含め総勢五名が斬首されたとも、本人だけでなく子どもも斬首されたとも伝えている。一方、陸奥国司藤原師綱は朝廷の権威向上に功績を果たしたとして名声を獲得することとなった。

 もっともこれで朝廷に全面服従するとなると、いかに朝廷の権威を認めるとはいえ奥州藤原氏の権勢が揺らぐこととなる。それに、永続する巨大組織のトップに立つ人間というのは理想だけを前面に打ち出して突っ走るなどせず、必ず現実との妥協点を見いだしている。たしかに朝廷の権威の前に藤原基衡は敗れ去った。だが、それは今後も朝廷の権威に負け続けることを選ぶことを意味するわけではない。それどころか、藤原基衡の勢力をむしろ強化することにつなげるのである。
 まず、自らの命令によって武装を整えさせた末に命を落とさせてしまった佐藤季治を無駄死にとはさせていない。佐藤季治の息子の佐藤基治に父の勢力をそのまま継承させただけでなく、鎌倉の源義朝との接点として源義朝の家臣で上野国の武人である大窪太郎の娘を妻とさせた。ちなみに、後に源義経の従者として名を残すこととなる佐藤継信と佐藤忠信の兄弟はこの夫婦から生まれている。奥州藤原氏と南で勢力を接することとなる関東の清和源氏との勢力の接点を信夫郡の佐藤氏に任せることとしたのであるが、これは、遺族を庇護するだけでなく、遺族に組織の重要な役割を担わせ奥州藤原氏にとって必要不可欠な存在であると周囲に認めさせる意味も持っていた。
 婚姻を利用したのは信夫郡の佐藤氏だけでなく、藤原基衡自身も婚姻を利用した。藤原師綱の後任として陸奥国司として赴任してきた藤原基成の娘を藤原基衡の息子で後に藤原基衡の後継者となる藤原秀衡の妻として迎え入れたのである。藤原基成は鳥羽法皇の近臣の一人であることから、藤原基衡は鳥羽法皇との接点を掴むことに成功したのである。
 この後の奥州藤原氏と鳥羽法皇との接点についての記録は無い。しかし、鳥羽法皇との関係を築くことに成功したことで、藤原基衡は後年の藤原頼長との対立において自らを優位に進めることに成功することとなる。


 白河院政以後、院と朝廷とを行き来するのが、役人としての、そして貴族としてのステップアップと考えられるようになっていた。白河法皇への反発を源泉とする鳥羽院政ではあるが、白河法皇の構築した院司の人材システムは鳥羽法皇の思いを完璧に満たす形で成就していた。
 まずは康治元(一一四二)年一二月時点の議政官と院司の構成を比較すると以下の通りとなるので見ていただきたい。

 公卿補任に名が載るのは議政官の一員になるか、あるいは三位以上の位階を獲得したときであり、後世の書き直しの指摘はあるものの掲載基準は一定している。一方、院司の一覧は正式な文書ではなく日記をはじめとする私的な文書、それも原本ではなく写本でしか残っていない。さらに、どのような基準で載せたのかも曖昧である。実際、上記の院司の一覧も平安遺文の高野山文書にたまたま存在していたから、同時期について記した二つの一覧の突合が可能だったというのが上記の表である。
 上記の表によると、議政官二三名中九名が院司である。これは元院司ではなく、現役の院司である。たしかに過半数ではないが、近い将来過半数を握ることは目に見えている。その下の四位別当が一三名、さらにその下の判官代が一一名いて、その全員が将来の参議候補だ。現時点で三九パーセントの議席を占めているだけでなく、そう遠くない未来に過半数を占めるであろう勢力を無視できる議会があったら見てみたい。
 そうでなくとも、議会としての議政官の構成は時代とともに将来の安泰を約束しないものへと変貌してきていた。従来は藤原氏として一つの派閥を構成し議政官の過半数を占めることが藤原北家の政権維持の方策であり、藤原氏に生まれた者は、本人の意思に依らず藤原氏の政策に協力する見返りに地位と名誉と資産を手にできたのだが、時代とともに藤原氏の絶対数が増えてしまったために地位も名誉も資産も保証されなくなってしまったのである。
 というタイミングで、明らかに増えている院という新興勢力は脅威である。鳥羽法皇の意見は現在、議政官の三九パーセントを占めているに過ぎず、鳥羽法皇の意見を議政官で通すためには最低でもあと三名の賛成を加えなければならない。あと二人までなら過半数とならないから、院司でない貴族が一枚岩になればどうにか、鳥羽法皇の意見を通さずに済ませることができる。ただし、康治二(一一四三)年時点ならば、という注釈がつく。
 近い未来はそうではない。鳥羽法皇の意見は間違いなく議政官の議決となる。そのとき、院司でない貴族が一枚岩になったところで議決は通らず、反対したら敵を作り出すことで支持を集める鳥羽法皇のポピュリズムのターゲットになるだけだ。
 この後の政治家人生を考えるなら、このタイミングで鳥羽法皇を手を組むことはデメリットよりもメリットのほうが大きい。そうでなくとも鳥羽法皇は敵の敵は味方の論理で内大臣藤原頼長への接近を図っているのである。
 それがいつなのかはわからないが、少なくとも康治二(一一四三)年時点では既に、鳥羽法皇と内大臣藤原頼長とが政治的な関係を築き上げるのに成功していたと言える。
 その一例が康治二(一一四三)年一月一二日に起こった。
 この日、鳥羽法皇の催す法会の場で、左近衛少将源成雅と前山城守藤原頼輔が殴り合いの闘乱を演じた末に、源成雅と藤原頼輔を刃傷するに至ったという事件があった。自らの主催する法会の場がこのような不祥事の場になるというのは大きなショックを伴うものであるが、ショックを受けている鳥羽法皇のもとに駆け寄ったのは内大臣藤原頼長である。
 藤原頼長は事件の二日後の一四日、容疑者を解官に処することを主張したのみならず、解官の宣旨の発給を弁官局に対して要請したのである。現在で言うと、政務次官クラスの国会議員が前東京都知事である国会議員と殴り合いになった末に前東京都知事である議員が刃物で刺されたというとんでもない事件である。自分で辞める、あるいは、圧力に押されて辞めることになるかの違いにあるにせよ、不逮捕特権のある現在でもこのようなことをすれば失職する。この感覚は康治二(一一四三)年時点も存在する。ところが、藤原頼長は単なる解官だけでなく、朝廷の事務方である弁官局に対して解官の宣旨を出すよう要請したのだ。解官の宣旨となると朝廷の正式な文書として全国に向けて発令される。そのため、このときのようにかなり悪質な不祥事であっても宣旨を書き下さないのが通例である。実際に宣旨の文面を書き記すこととなる大外記中原師安もこれまでの慣例に基づいて宣旨の不発給を主張したが、後代の乱臣賊子を懲めるためとして藤原頼長は解官宣旨を書き下させている。
 律令に従えば藤原頼長が正しいのである。そして、この事件における被害者は誰かと考えると間違いなく主催者である鳥羽法皇である。厳しすぎるという反発はあったが、厳しすぎるために律令通りとならないよりも、厳しくとも律令通りであるほうが被害者感情を満たす決断となる。

 律令への回帰を求める藤原頼長が、まさにその律令制への回帰によって鳥羽法皇とのつながりを築いたのである。


 ここで、前述の院司の一覧の中に、藤原氏でも、源氏でも、平氏でもない者の名が二人いたことを思い出していただきたい。高階氏自体は奈良時代の長屋王にまで遡ることのできる家系であるから名門と言えば名門である。ただし、さほど高い地位を手にしてきた貴族ではない。
 ところが、この一族は代々、参謀的存在を輩出しているのである。中でも、藤原道長の兄の藤原道隆の知的参謀を務めた高階成忠は、娘を藤原道隆のもとにと継がせることに成功したのみならず、藤原道隆との間に生まれた中宮定子を一条天皇の中宮として入内させることに成功したという実績を持っている。高階成忠がいなければ中宮定子もおらず、中宮定子もいなければ枕草子も生まれなかったのだ。
 また、康和四(一一〇二)年にも世間の注目を集めた高階氏がいた。高階宗章がそれだ。彼が何をしたのか? 蔵人に選ばれたのである。蔵人に選ばれること自体は貴族であれば珍しくない話であるが、一二歳での蔵人となると話は別だ。藤原氏でも源氏でも無い氏族の者が一二歳にして蔵人に就任するなど前代未聞である。
 高階氏が代々参謀的存在を輩出できたのは理由がある。
 執政者として政権の表舞台に立つのではなく、参謀として政権を支えるために必要な教育を施してきたのである。
 それは何か?
 知力である。
 それも古今東西の歴史と、現在の法、社会、経済の全てを熟知することである。
 藤原頼長は知力が高いと言われていたが、向いていたのは法だけである。しかし、高階氏が代々学ばせてきたのは法だけでは無い。法が生み出す社会と経済、そして庶民生活の現実の積み重ねである歴史を学ばせたのだ。その結果、あるときはアイデアを提示し、あるときは提示されたアイデアにブレーキを掛ける、知的参謀を生み出すことに成功したのである。
 高階氏の教育は徹底していた。何しろ、高階氏の教育に相応しい人物がいるとなったら、他氏の生まれであろうと高階氏の養子として迎え入れることも厭わなかったというのだから徹底している。もっとも、前述の院司一覧の最後に記された判官代の高階通憲は確かに高階氏のもとに養子に入った人物であるが、高階氏の養子になったのには理由があり、父の藤原実兼が急死したために身寄りの無くした七歳の少年が高階経敏の養子となったという経緯があるのだが。
 実父の名からわかるとおり、高階通憲はもともと藤原氏である。藤原氏であるが藤原北家ではない。藤原南家の生まれで、幼い頃は学者になるための教育を受けた少年であった。それが父の死で高階氏の一員となりさらに学問の積み重ねがなされ、天治元(一一二四)年に中宮藤原璋子の側に仕えるところから官界生活をスタートさせ、藤原璋子が待賢門院となったことで自動的に待賢門院蔵人にシフトした。その後、鳥羽上皇のもとに身を移し院司として経験を積み、判官代まで出世していた。前述の院司一覧のラストに高階通憲の名があったのは、まさにそのタイミングでの院司一覧を、その役職の就任順にまとめた資料だからである。


 藤原頼長は法と現実との乖離が見られるときに現実のほうを改めるべきであると考えて平然としていた人間であるが、その裏付けとなる律令についての知識は持っていた。
 自分の頭の良さを信じて疑わない人間は、自分の知っていることを知らない者を平然と見下すが、自分の知の得意とするところを自分よりもはるかに詳しく知っている人は認めるところがある。藤原頼長にとっての高階通憲はその人であった。いくら藤原頼長が律令に詳しいと言っても、高階通憲に勝てるレベルでは無かったのだ。さらに、藤原頼長が律令のみに詳しいのに対し、高階通憲は律令も詳しいのである。
 藤原頼長は意気投合したというが、高階通憲はむしろ失望した。
 この程度で知を名乗り、血縁だけを理由に内大臣まで上り詰めて、社会も知らずに律令遵守だけを説いているのか、と。
 この瞬間、藤原頼長が鳥羽法皇との接近を見せたことを人生の決断のきっかけにする人が二人登場した。
 清和源氏の頭領である源為義は、これで藤原摂関家の未来は藤原頼長のものとなったと見定め、藤原頼長に臣従することを決心した。
 既に鳥羽法皇の判官代になっていた高階通憲は、これで藤原頼長の未来は無くなったと考え、出家を選んだ。
 康治二(一一四三)年六月三〇日、源為義が藤原頼長に臣従する。
 康治二(一一四三)年八月五日、高階通憲が出家を宣言する。
 清和源氏が我が手に入ったことを喜んだ藤原頼長は、それから一ヶ月も経たずに、自分の認めた人物が自分の元から去る決意をしたことを知り動揺した。怒り狂ったのではなく動揺したのである。
 高階通憲は出家の理由を、自分が高階氏であるがために望みの職に就けぬことを語ったのである。藤原氏で無いために貴族としての出世が狭くなっているだけでなく、高階氏に養子に入る前、まだ藤原南家の一員であった頃は将来の夢として父や祖父が就いていた大学頭に自分も就くことを望んでいたのに、高階氏になってしまった瞬間にその道が消えてしまったことを嘆き、その夢が叶わない以上、出家してこの世界から離れたいと述べたのである。
 何とも手厳しい意趣返しである。
 律令に従えば高階通憲が正しいのである。生まれに関係なく優秀な者であれば大学頭をはじめとする学術界で地位を掴めなければおかしい。それなのに、今や藤原北家独占となっているわけではないにせよ、藤原氏でなければ地位が手にできずにいるのだ。藤原頼長は慌てて藤原氏に復帰することを認め、高階通憲の息子には藤原氏しか認められなかった文章博士や大学頭に就くのに必要な試験を受ける資格を与えるとしたが、高階通憲の出家の意思を覆すことはできなかった。
 それどころか、高階通憲は藤原頼長に対し、律令を遵守すると言いながら遵守できていないと手厳しく批判した。律令に従えば無罪であるべき人が有罪となって流刑に処されている例があるとした一方で、有罪であるべき人が無罪であるか、あるいはそもそも捜査すらされていないとした。例として挙げたのは大治五(一一三〇)年に土佐へ配流された源光信である。自宅前で源義親を名乗る二人の男が乱闘を繰り広げたというだけの理由で、源義親を名乗る男性が殺害された事件の犯人と扱われ、流刑に処されて一四年という長い年月を経過させているのに顧みられることすらないというのは怠慢極まりないと批判したのである。
 藤原頼長は慌てて源光信を復職させ、本来の職務である検非違使に戻させたが、一人の人生を破壊しておきながら忘れ去って平然としていること、それが現在の社会であることを厳しく非難するだけであった。


 藤原頼長は焦りを見せていた。
 自分が認めた人物が、それまでの社会が生みだした結果が理由で自分の元から去っていくのである。清和源氏が自分のもとに来たというのは慶事であったが、自分を支える人物の一人になるはずであった高階通憲の出家はあまりにも痛かった。
 さらに藤原頼長の焦りを増したのが、藤原忠通に男児が産まれたことである。何月何日生まれなのかは不明であるが、康治二(一一四三)年に四男である男児が誕生し、藤氏長者の継承権が藤原頼長の元にあると断言できる状況ではなくなったのだ。
 藤原忠通に男児がいないために、藤原忠通は弟の藤原頼長を養子としていた。
 それが白紙撤回されることが危惧されたのである。
 以上の経緯を、摂政藤原忠通の立場に立つとどうなるか?
 自分はこれまで摂政として、あるいは関白として、政務を懸命に支えてきたのに、そのことへの感謝の言葉も労いの言葉も無く多忙な日々を強要され、その間に鳥羽法皇が徐々に権力を身につけてきただけでなく、養子にした弟も、さらには父も、自分を疎んじるようになったのである。
 これに黙って耐え続けていたのが藤原忠通であるが、その運命を是として受け入れていたわけではない。自分の後継者となる可能性がある実子が産まれた以上、自分が受け継いだ藤氏長者の地位を弟に譲らなければならない理由は無いのだ。
 弟の人望の無さは兄としても危惧すべきところであったが、血縁関係を無視して一人の執政者として眺めても、やはり危惧すべきところであった。社会の現実を顧みずに律令への回帰だけを主張し、やたらと手厳しく周囲にあたる。これで民心が掴めるわけはないし、それよりも大切なこととして庶民の暮らしぶりの向上は見られない。庶民の人気が無くても庶民の暮らしが良くなれば政治家として評価できるが、人気も無い上に暮らしが悪化するというのでは、とてもではないが権力を握らせるわけにはいかない。
 生まれたばかりの乳児に権力を移すのは正気の沙汰ではないが、忘れてはならないのは、藤原忠通はまだ四七歳ということだ。いかに平均寿命が短く五〇代で高齢者扱いされる時代だとは言え、四〇代の人間が自分の寿命を気にするだろうか。少なくともあと二〇年は生きていると考えるし、生まれたばかりの我が子も、二〇年も経てば乳児ではなく成人になっている。二〇代の息子を後継者として指名して隠遁生活に入るというのは、貴族のキャリアとしてごく普通であるし、これならば藤原頼長の入り込む余地もなくなる。
 この時点ではまだ、形式的ではあるが藤原忠通と藤原頼長の二人の関係は、兄と弟であると同時に養父と養子ということにもなっている。しかし、現実にはこの時点ではもう養子縁組が解消されていたと考えるべきであろう。


 父の源為義が藤原頼長に臣従したことを、関東に追放されたままでいる源義朝が知らなかったはずはないが、リアルタイムで知ったとも思えない。この時代に京都の情報が関東に届くまで一ヶ月は要するのが普通だ。ゆえに、源義朝の行動を単純に日付順に並べると父が藤原頼長に臣従してからしばらく要しているように見えるが、情報が関東に届いたのがいつであるかを考えると納得いくのである。
 関東に追放された源義朝は二つのことを並行して行い続けていた。本拠地である鎌倉のさらなる都市化と、関東地方の武士団の平定である。
 前者はともかく、問題は後者だ。
 荘園をめぐる争いの末に生じた敵対感情をゼロとすることはできないが、共通の敵を見出して攻撃することで敵対行動をゼロにすることはできる。とはいえ、勝手に武装勢力を率いて暴れるのでは犯罪になる。寺社勢力が京都でやっていることも本来なら犯罪であり、逮捕されずにいるのも警察権力が弱いからであって無罪だからではない。
 ただし、武装勢力を率いて暴れることが許されるケースがある。公的な警察権力を手にすることだ。犯罪者を取り締まる必要があるが、犯罪者が武装しているとなると犯罪者と向かい合うために警察権力のほうも武装が必要となる。検非違使は本来であれば京都だけの存在であったが、時代とともに国司直属の警察権力として地方にも検非違使が見られるようになった。根拠地とする鎌倉に居を構える源義朝の場合、鎌倉の存在する相模国の国司から検非違使に指名されれば、軍事行動ではなく警察権の行使となる。
 当時の相模国司は藤原頼憲。ここで藤原頼憲が源義朝を検非違使に任命したならば問題ないのだが、藤原頼憲は源義朝の要望を拒否した。いかに多くの武士団の支持を得ていても父によって追放されたために関東までやってきた人物である。扱いという点では微妙とならざるを得ないのである。
 源義朝も自分がそういう境遇にあることはわかっており、武士団を率いて関東地方の敵対勢力に対面すると言っても正面衝突は可能な限り避けてきたのである。ところが、康治二(一一四三)年の終わり頃からは相模国司の黙認を獲得し堂々と暴れ始めたのだ。相模国司藤原頼憲も「進止あたわず」と述べたと記録に残っている。
 源義朝は公的権力を手にしたわけではない。清和源氏の有力者であることは事実でも、当時の源義朝の呼び名は「上総御曹司」、すなわち、上総国に所領を持つ若者というだけで、いっさいの公的権力とつながっていない。無論、検非違使でもない。それなのにどうやって源義朝は相模国司の黙認を手にしたのか?
 何のことは無い、源義朝は鳥羽法皇の許可を手にしたのだ。
 鳥羽上皇に直談判して、院の持つ荘園を守るために、院の荘園に攻め込もうとする武士団と対決する許可を手にしたのである。藤原頼憲自身も院司の一人ではあるが判官代までには至っておらず、ここで相模国司としての役目を果たして任期を終えたら判官代として院の威光を背に貴族界でやっていけるという未来が待っていた。このタイミングで、肝心の鳥羽法皇から要望が届いた。源義朝を検非違使にせよという指令にまでは至っていないが、院の所領を守るために源義朝の軍事行動を黙認せよという要望は事実上の命令である。
 相模国司の黙認を獲得した源義朝が真っ先に行動したのは、下総国司藤原親通の目論んだ相馬御厨奪取の阻止である。御厨(みくりや)とは伊勢神宮の所有する荘園のことであり、伊勢神宮が下総国に持っていた荘園が相馬御厨である。下総国司藤原親通は国司としてこの荘園の没収と自領への組み込みを狙ったのだが、源義朝は武士団を率いてその動きを制したのである。ただし、伊勢神宮に荘園維持能力は無いとし、相馬御厨を平常澄(上総介常澄)と平常重(千葉常重)とに分割して管理させた。下総国司藤原親通は源義朝の軍勢の非道を訴えようとしたが、その背後に鳥羽法皇がいると知り訴えを無かったこととせざるを得なくなった。
 それにしてもおかしな話ではないか?
 そもそも源義朝は白河法皇の側近の娘が母親であるという理由で関東地方に追放されたのだ。
 にもかかわらず、源義朝は鳥羽法皇の許可を得ている。
 果たしてこれはいったい何なのか?
 さて、これまで何度も、源義朝は母親が白河法皇の側近の娘であるという理由で父親から関東地方に追放されたと書いてきたが、それは何も鳥羽法皇の命令では無い。鳥羽法皇へ仕えるために源為義が見せた覚悟である。鳥羽法皇にしてみれば、白河法皇の側近の娘の息子であるという理由で我が子を追放した源為義の覚悟は理解するにしても、追放された源義朝は同情の対象でしかない。
 おまけに、源為義が清和源氏の後継者と推した源義賢が失態をしでかし失職した。ここで源義朝の要望を受け入れることはメリットこそあれデメリットは無い。源義朝が関東地方に平和をもたらすなら願ったり叶ったりであるし、失敗したならそのまま関東地方への追放を継続すればいいだけだ。
 この流れを京都で見ていた源為義はどのように感じたであろうか?
 鳥羽法皇に取り入るために長男を追放したのに、後継者に指名した次男は失態をやらかし、これまで通り藤原摂関家の接近を図るも摂政藤原忠通と内大臣藤原頼長とどちらに臣従するかに悩み、鳥羽法皇と藤原頼長の接近を確認したことで藤原頼長への臣従を誓ったら、関東地方に追放したはずの長男が自分の頭の上を飛び越えて鳥羽法皇と直接やりとりし、鎌倉を根拠地に武士団を率いて暴れるようになっていたのである。
 ついこの間まで無意味に追放されたと落胆していたのは源義朝であったのに、今や、無意味に追放してしまったと源為義が嘆くようになったのだ。


 康治三(一一四四)年二月二三日、天養に改元することが発表された。とはいえ青天の霹靂では無い。康治三(一一四四)年は十干十二支で言うと甲子(きのえね)であり、昔から変乱の多い年として考えられていた。これを甲子革令という。辛酉革命の年の改元は当たり前であるが、甲子革令の年の改元もまた当たり前のことであった。
 改元して天養元(一一四四)年時点、鳥羽法皇のもとに内大臣藤原頼長も下ったことに加え、後継者としての崇徳上皇の存在があり、さらに、議政官の過半数も院司で占めることが見えてきたこともあって、誰もが鳥羽法皇の時代の盤石さと永続を考えていた。
 この社会情勢では、鳥羽法皇の時代の終わりを見据えて俗世間からの脱却を目論む高階通憲のほうが異常で、鳥羽法皇の一派に加わろうとするほうが正常である。
 藤原頼長は高階通憲の出家を思いとどまるように訴え、まずは藤原氏への復帰をさせ、さらに少納言に任命までしたが、高階通憲、いや、藤原氏への復帰後の名で記すと藤原通憲の意思は強固で、天養元(一一四四)年七月二二日、藤原通憲は出家した。ゆえに、これ以降の彼の名は、出家後の名である信西(しんぜい)となる。
 血筋の低さを理由に出家した信西のことを、当初は誰もが、これから寺院に籠もって一人の僧侶として生きていくことになるのだろうと考えていた。出家しないでくれと嘆願する人たちを振り切って出家したのであるから、よほどの覚悟を伴っての出家なはずであり、これから先は鳥羽法皇のもとを離れて僧侶としての修業生活を過ごすと考えたのである。
 ところが、信西はなかなか鳥羽上皇の元を去らない。それどころか、今までと同じ暮らしをし続けたのである。これまでのように鳥羽法皇の下に参内し、これまでのように院司の一人として政界に身を置き続けたのだ。
 いったい何が起こったのかと誰もが考えた。
 それはすなわち、信西の計画を誰もが見抜けなかったことを意味していた。
 出家したことで信西は自由を手にしたのである。
 信西が言った、才能よりも血筋が物を言う時代というのはウソでは無い。そして、僧侶になれば血筋よりも実力が物を言う世界に飛び込むことができるのもその通りである。だが、有力者が出家する場合ならいざ知らず、有力者になる前に出家して、出家した後で実力を発揮して生きていくというのは、信西より前に実行した者はいない。実行した者はいないが、僧侶である信西には僧侶としての出世が可能となったのである。おまけに、鳥羽法皇自身が出家して一僧侶となった身である。事実上はともかく、理論上は鳥羽法皇と信西とは一人の僧侶同士ということになり、そこに差異は無いということになるのだ。
 平安時代後期の和歌集である「月詣和歌集」には信西の詠んだ和歌が残っているが、これが何とも、そこまで本音をあからさまにするものかと言いたくなる一首である。

 ぬぎかふる 衣の色は 名のみして 心をそめぬ ことをしぞ思ふ
(僧の着る黒衣を身にしているが心までは染まっていない)

と、名ばかりの僧侶にはなったがこれからも俗世間に身を置いて政界に居続けるつもりだと宣言したのである。
 それまで、血筋の低さでその優秀さを活かすことのできなかった高階通憲に対する視線は同情であった。それが、このときから憎しみへと変わるのである。律令制への回帰を声高に訴え違反する者への処罰を平然と訴える藤原頼長に対する視線は冷たいものであったが、律令制への回帰を訴えるわけでもないが律令制の穴を巧みについて自らの地位を掴んだ信西に対する視線はそれよりも上回る憎しみの視線である。ずるいとか、卑怯とかという言葉の裏には羨望がある。羨望の先には憎しみがある。信西がその憎しみを理解しなかったわけはない。しかし、武力があればどうにか認められつつあるものの、そうでなければ血筋で人生が決定するという時代で、武力はなく知力に生きるしかない者に、他にどういう方法があるというのか。知的参謀の役目を担うということは、自分の思いを他者を通じて実現させることが可能である一方で、責任からも、マネジメントからも解放されるという、一見すると楽なポジションである。ただし、そこには、どんなに成果を上げても自らの栄誉とはならず、何があろうと憎しみを全て一身に受けなければならないという宿命も併存している。信西への憎しみは、知的参謀たる教育をほどこし、知的参謀たる人生を過ごすことを求められる高階に育った者なら誰もが宿命づけられているとしてもよい。そこに羨望から来る憎しみが加わったところで何だと言うのか。
 しかも、信西は、鳥羽法皇の周囲を固める一人であり続けながら、鳥羽院政の限界を早々に察知してその次を見定めてもいた。先に、藤原頼長が鳥羽法皇のもとに身を寄せたことで藤原頼長の未来が無くなったと信西は考えたと書いたが、その思いは変わっていない。これはさらに憎しみを生む。出家してまで派閥の一員としての地位向上を図りながら派閥の限界を誰よりも先に察知し、派閥を裏切る準備を早々に整えるのだ。これで憎しみを受けないとすればそのほうがおかしい。
 鳥羽院政が国民生活にどのような結果をもたらしてきたか、そして、これから権力を掴むであろう藤原頼長がこれから国民生活をどのようなものにするであろうか、経済や歴史を学べば簡単に答えが出る。今はまだ勢力の強さゆえに政権は盤石のように見えるが、庶民の支持を得られない政権は早々に瓦解する。しかも、この国には緩やかな政権交代の仕組みが三段構成で存在する。院と摂関家と議政官だ。そのうちどれか一つでも人が入れ替われば政策の継続は失われ、失政の責任を取らせるために前任者は処罰を受ける。
 そのうち、もっとも時間を要するのは議政官の人の入れ替わりだ。二〇名以上の貴族の過半数を鳥羽院政以外の勢力が占めなければ議政官の人の入れ替わりは成就しない。解散総選挙のある現在なら可能であるが、貴族の出世を要件とする議政官の人の入れ替わりが一瞬で起こることは、大規模な災害や戦乱、あるいは革命でも起こらない限り、ありえない。
 それは、鳥羽法皇から崇徳上皇へ院政の主導権が移ったときについても同じことが言える。院司というのは白河法皇によって朝廷の役職とリンクするように補完されたが、法制上は院号を得た皇族の身の回りの世話をするための役人や貴族であり、院号を得た個々のの皇族ごとに役人や貴族が送り込まれる。そのため、鳥羽法皇に仕える院司と崇徳上皇に仕える院司はそれぞれ別人が朝廷から任命されることになっていたのだが、白河法皇逝去後、鳥羽上皇が亡き白河法皇の院司を徐々にではあるが自分の院司加えたことから、院司は事実上、誰が法皇や上皇であろうと同じ職務を継続する、上皇や法皇個人ではなく院政のための役職へと変化してきたのである。ここで崇徳上皇へ院政のトップがシフトしても院政の政務そのものは継続されるのだ。
 信西がもっとも早いタイミングで起こるであろうと考えたのは、藤原摂関家の内部争いだ。藤原摂関家は今でこそ摂政藤原忠通がトップであるが、そのうち藤原頼長にトップが移る。ただし、これは簡単にはいかない。藤原頼長と、藤原忠通の息子を担ぎ上げる一派との争いが起こる。もっとも高い可能性は、藤原頼長にトップが移るものの、律令回帰を声高に主張するあまりに国民生活を破壊し、不満の声が湧き上がって、藤原摂関家内部の自浄作用が働いて、藤原忠通の息子を担ぎ上げて藤原摂関家のトップの地位である藤氏長者の地位を藤原頼長から剥奪する未来である。藤原頼長が鳥羽法皇のもとに身を寄せたとしても、藤原頼長の失政の責任を鳥羽法皇がとるとは到底思えず、鳥羽法皇は容赦なく藤原頼長を見捨てる。こうなったら、藤原頼長に次の藤氏長者が政権中枢に現れるまで藤原摂関家の権力は弱くなる。
 藤原頼長が鳥羽法皇のもとに身を寄せたことで、藤原頼長は絶大な権力を手にし、その権力を振るうことになるだろう。それは、権力の強さゆえに、より大きな被害を伴って国民生活を破壊する。そのとき、藤原頼長の迎えることとなる運命は、破滅しかない。


 さて、この頃伊勢平氏は何をしていたのか?
 平清盛は院司一覧にも姿を見せていないが、父の平忠盛は院司一覧に載っている。位階は四位で議政官の一員でないから公卿補任にまだ名が載っていないが、ただの四位の貴族でなく、院司である四位の貴族だ。藤原氏でも源氏でもない貴族が議政官入りするのは珍しいことではあるが、天養元(一一四四)年時点の議政官の構成を見れば、同じ姓を持つ平実親がいる。ここまで来ればあと少しで参議になり議政官入りというところであったのが平忠盛であった。
 ただし、同じ姓を持つとは言え、純然たる貴族の平実親と、武士でもある平忠盛とでは朝廷内の捉え方も違う。要は「俺が参議になれないのに武士が参議になるなど許せない」という感情が渦巻いているのだ。
 こういう状況下で平忠盛が今より上の地位を掴むには、反発を押さえつける何かが必要だ。「武士のくせに参議になるのは納得できないが、これだけの功績を果たしたのだから参議になるのも仕方ない」という共通認識を作り上げなければ、平忠盛は今より上には行けないのである。
 時間は少し遡って天養元(一一四四)年五月八日、鳥羽法皇が住まいの一つにしていた白河北殿が火災に遭った。法皇御所が火災に遭ったのは本来であれば大問題であるが、この時代は火災がやたら頻発していた時代である。何しろ、天皇が住まいとする内裏ですら火災の被害を何度も被っているのだ。ここまで火災が頻発すると、本来であれば大事件として語られるべきニュースであるのにニュースにならなくなってしまう上に、火災に遭ったあとの対処がマニュアル化されていくこととなる。火災そのものを防ぐ方向へ進まなかったのかと言いたくなるが、この時代の日本国で手に入る建築資材のうち、震度六以上の地震を喰らっても壊れない建築資材は木材しかない。火災の多さは木造建築以外の選択肢の許されない日本国に住むことの宿命とするしかないのである。
 そのマニュアル誰が遂行するのかという話になったとき、平忠盛が手を上げたのだ。平忠盛が手を上げたのは、平忠盛の持つノウハウと、平忠盛の持つ資力が活きるからである。日宋貿易によって築き上げている資産はなおも健在であったし、平忠盛はその資産を活かす術も知っていた。平忠盛の資産は藤原頼長がその日記に「数国の吏を経、富巨万を累(かさ)ぬ」と書き記している。それに、平忠盛はこれまで何度か邸宅を建設させて上納したことがある。カネがあって経験があれば法皇御所を再建することも可能だ。実際、火災に遭ってから半年ほど経過した一一月二二日にはもう、鳥羽法皇が新造白河離宮に移っている。
 おまけに、建設は短期間に大量の雇用を呼ぶ。建設機械などないこの時代に建物を建てるには人員を集めるしかない。人手が欲しいときにカネを用意せずやりがいだの義務だのを押し付けて強制すると反発を招くだけだが、労苦に応じた給与と待遇を用意すれば人は集まる。平忠盛がやったのは後者である。法皇御所再建のために多くの人が高い給与で雇われ、平安京とその周辺では失業が激減した。
 ただし、インフレも招いた。平忠盛が支払った給与には南宋から流入した貨幣も含まれていたのである。宋銭が価値のあるものだと知識として知っている人は多かったが、実物を見たことのある人は少なかったときに、宋銭が給与に含まれていた。給与として宋銭を受け取った人は宋銭を持って市場に行った。すると、これまで存在することは知っていて高くて買えなかった品が手に入った。これまでであれば貨幣を持っているだけでも怪しまれたものだが、今は法皇御所の再建工事で受け取った給与という堂々たる理由がある。ついこの前まで失業していてその日の暮らしに困っていた家庭が、一瞬にして周囲の羨む家庭に変わったのである。
 その羨む暮らしを後押ししたのが他ならぬ平忠盛だ。日宋貿易で宋から輸入した高級品を市場(いちば)に流すと同時に、宋から輸入した貨幣を市場(しじょう)に流すことで、経済の活性化を図ったのである。
 経済が活性化すると社会全体の暮らしぶりが底上げされる。ただし、格差は広がる。それまで貧しかった者は前よりは良い暮らしになり、それまで豊かであった者は群を抜いて豊かになる。年収が倍になるとして、年収二〇〇万円の人と年収四〇〇万円の人がいる場合、その差は年収二〇〇万円であるが、四〇〇万円と八〇〇万円とでは四〇〇万円の差になる。暮らしは前より良くなるが、格差は以前より拡大する。


 裕福ということでは平忠盛が顕著であったが、他の院司の面々も同様であった。
 荘園制度が生み出す格差問題を是正しようと後三条天皇が荘園整理を断行した。後三条天皇の後を受け継いだ白河法皇は荘園整理を緩めたが制度としては廃止しておらず、自身の荘園の拡張のために利用した。この状態を鳥羽上皇は受け継いだのだが、鳥羽上皇はこれを放置するどころか拡充させたのである。
 白河法皇以前から院という制度はあった。そして、院号を受けた皇族には特定の国の国司を推薦することが認められていた。単に推薦するだけでなく、推薦された国司から朝廷に納入される税を院の必要経費として受け取ることが認められていたのである。国家予算から院の必要経費を捻出するのではなく、院の経費を院そのものが稼ぎ出すことが可能であるというのがミソだ。国司の統治がうまく行って税収が上がれば院の収入も増える一方、統治に失敗して税収が減れば院の収入も減る。そのため、誰を推薦するかは情実よりも実力が問われる。国司といえば下級貴族の渇望するポジションであり、欠員が出れば自己推薦を手に数多くの貴族が殺到するというのが日常の光景であったから、朝廷だけでなく院からも国司になるルートが存在するとなると、国司になることを渇望する貴族にとっては筋道が増えることを意味する。もっとも、令制国の数が増えるわけではないので国司の枠そのものは変わらない。国によっては守(かみ)と介(すけ)の二人の国司がいるところもあるが、それらを加味しても一〇〇を数えることはできない。ただでさえ狭い門である国司への推薦の権利を持っているというのは、これから這い上がろうとする貴族にとって魅力的な特権であり、その特権が院号を得た皇族のセカンドキャリアの源泉ともなっていたのである。
 この二つの権利を合わせたのが鳥羽法皇である。いつ頃から見られるようになったのかははっきりとわからないが、鳥羽法皇は自身が国司推薦権を持つ国に対する荘園整理を匂わせながら、自らの側近を国司に推薦するようになったのである。ここでポイントとなるのは二点。鳥羽法皇は荘園整理を匂わせているだけで実際に発動させてはいないということと、もう一つは新しい法を用意することなく既存法だけで対応したということである。
 鳥羽法皇は、まだ皇位にあった頃に天皇に認められている権利の行使を匂わせた過去がある。また、藤原頼長という律令に精通する者や、信西という藤原頼長以上に詳しい人物がいながら、鳥羽法皇の国司推薦について何も言えずにいる。本質としては強引な話なのであるが、格差問題を念頭に置いた荘園整理に皇族のセカンドキャリアのための国司推薦権が重なると、地方統治に絶大な権力を持つ存在が誕生する。
 これを知行国と言う。
 知行国は、法制度上は、その国の国司として誰かを推薦できるというだけであり、推薦と国司任命は必ずしもイコールではない。また、推薦された者が推薦してくれた人の利害に反するが国家全体の利害に叶うよう任務にあたることも理論上は可能だ。とは言え、誰がそんなことをするであろうか?
 鳥羽法皇の推薦を拒否して別の人を国司に任命できるわけない。任命された人も鳥羽法皇の意向を無視した統治などできない。おまけに、鳥羽法皇は荘園整理を発動できる権利を持っている。
 こうなると、従来ならば免税であったはずの荘園が課税対象となる。
 律令に従えば納税するのが当然であり、税を払わない荘園のほうが法の上ではおかしな存在なのである。荘園制度に逆らって荘園からも徴税しようとした国司は何人もいるが、成功はしていない。当然だ。国司よりもはるかに上に立つ上流貴族や、その貴族ですら太刀打ちできない有力寺社が持ち主なのであり、徴税しようとした瞬間に官界での命運は終わる。ところが、国司の後ろに鳥羽法皇がいるとなると話は一転する。武力に物を言わせて国司をねじ伏せて納税拒否することはできるかもしれない。だが、そうなった後に待ち受けているのは荘園整理だ。荘園そのものが地図から消されてしまうのである。
 鳥羽法皇の推薦を受けて国司となった者は、領国の住民よりも鳥羽法皇に向いて職務に励む、と言えば聞こえは良いが、要は遠慮せずに税を徴収しまくる。徴収した税は本来ならば国に納めるのであるが、知行国では鳥羽法皇のもとに納められることとなる。ただでさえ日本最大の荘園領主である鳥羽法皇が、自身の持つ荘園ではない土地からも税を集めることに成功したわけである。しかも、何ら法を犯すことなく、それどころか法を変えることもなく。
 おまけに、鳥羽法皇はこの権利を独占したのではない。院司にも分配していて、少なくとも天養元(一一四四)年時点の平忠盛は、美作国(現在の岡山県北部)と肥後国(現在の熊本県)の二ヶ国について知行国とする権利を手にしていたことは判明している。もっとも、知行国は院号を得た皇族しか行使できない権利であることは守っている。どういうことかというと、美作国と肥後国の二ヶ国については平忠盛の推薦した人物を鳥羽法皇がそのまま推薦するとしたのである。知行国である美作国と肥後国について、誰を国司とするのが適切かという相談を鳥羽法皇は平忠盛にし、平忠盛はその相談への返答として自分の推薦する人物を鳥羽上皇に上奏するのである。
 自分の住んでいる土地が知行国となったらどうなるかという資料は、まさに平忠盛が肥後国を知行国としていたことに由来して残されている。平忠盛が肥後国を知行国とすることができたのは、鳥羽法皇への功績もさることながら武士としての能力を買っていたからである。
 これはどういうことか?
 記録によると、康治二(一一四三)年四月三日、肥後国司の清原信俊から、肥後国内で群盗がはびこり、田口新大夫行季が率いるおよそ一〇〇〇名からなる軍勢が肥後国の官僚の邸宅などおよそ四〇もの家屋を襲撃し、コメや小豆、ダイズ、さらには種籾をも奪っていったことが報告されている。この報告を受けた平忠盛は、肥前国司を源国能に交替した。これによりおよそ一〇〇〇名からなる軍勢の動きを鎮静化させることには成功した。成功したが今度は次の者が現れた。自らを「大将軍」と名乗る木原広実とその養子の木原秀実の二人が率いる面々が肥後国の官僚を襲撃し、弓矢で射殺そうとする者も現れたという。
 こうして見ると肥後国を知行国とした平忠盛には任命責任があるのではないかとなるが、改めて振り返るべきは、京都に上ってくる情報は公権力が受けた被害についてのものであり、公権力が与えている加害については上らないという点である。すなわち、暴れ回る群盗の鎮圧に成功している。群盗が暴れていると国司は京都に向けて報告するが、群盗の立場に立つとそれまで免税が認められていたのを反故にされ納税を命じられ、その結果、生活が立ちゆかなくなったのだ。コメだけでなく種籾をも奪っていったと国司は述べるが、群盗とされた側に言わせれば奪われた生活を取り返そうしたということになるのである。
 同様の記録は紀伊国にも存在しているが、こちらは荘園側の記録が残っている例である。国司の命じた軍勢が荘園に襲いかかり、荘園内の家屋を焼いて、コメを奪い、生活資材を奪い、翌年のための種籾まで奪い去っていったと述べており、どうやら知行国では領国の住人の生活よりも法に定められた税を徴収することを優先させていたようなのだ。


 この流れの中で、関東地方にも一つの動きが起こった。
 鎌倉を根拠地とする源義朝だ。天養元(一一四四)年九月、源義朝が、現在の藤沢市から茅ヶ崎市にかけて存在していた大庭御厨に対して襲撃をかけたのである。大庭御厨も相馬御厨と同様に伊勢神宮の所有する荘園であり、しかも、相模国ではなく朝廷の認めた荘園であり、本来であれば国司とは言え税を徴収することはできないはずの荘園であった。
 ところが、鳥羽上皇の知行国となったことで朝廷の認めた納税免除が白紙に戻る。
 大庭御厨は荘園内に一三の郷(さと)(「里(さと)」とも書く)を抱える大規模荘園である。
 令制国の国内はいくつかの郡に分かれており、郡はいくつかの郷に分かれている。平成の大合併以後で考えると、国が都道府県、郡が市町村、郷が市町村内の町会に相当するとし考えるとちょうどいい。
 一三の集落単位から一つの大庭御厨を形成しているのであるが、令制国と内部の郡は統治を前提として分割されているのに対し、荘園は生活圏に基づいて形成されるため、荘園の範囲が郡を超え、ときに国を超えることも珍しくない。要は、同じ荘園内であるのに郷単位で考えると住所が違うのだ。国司や朝廷が荘園に対して免税の権利を与えるときも、厳密には郷の単位で与えていて、大庭御厨のように内部に一三の郷を抱えている場合は一三の郷が各々免税の権利を受けていなければならない。荘園を現在の民間企業に比して考えると、会社単位でなく、本社、支社、営業所といったそれぞれの所在地ごとに法人としての届け出をしなければならないと考えるとわかりやすいであろう。
 この大庭御厨を構成する一三の里のうち、鵠沼(くげぬま)郷だけが相模国鎌倉郡に位置していることが問題となった。鎌倉郡としては鵠沼郷に対する免税を認めていないのである。
 従来通りの免税を主張する大庭御厨に対し、源義朝は、相模国の田所目代(現在で言う税務署長に相当する役職)である源頼清とともに大庭御厨からの徴税を目論む。このとき、およそ一〇〇〇もの騎兵が大庭御厨に襲撃したというから、これでは大規模税務調査どころか略奪行とも言いたくなる規模だ。この襲撃で多くの被害者が出たことに対して大庭御厨は相模国司に抗議をしたが、相模国司藤原頼憲は正当な徴税であるとして訴えを無視。これを受けて伊勢神宮は源義朝の乱暴狼藉を朝廷に訴え出たものの、朝廷からの返答も無かった。
 源義朝は同年一〇月二一日にも大庭御厨に襲撃をかけ、大庭御厨は壊滅的な打撃を受ける。この結果、大庭御厨に住む人、そして、伊勢神宮から大庭御厨の管理を委託されていた平景宗は源義朝のもとに仕えることになるのである。この頃には既に、平景宗は自身が身を置く大庭御厨の地名を苗字として使用するようになっており、資料には大庭景宗と記されるようになってきている。
 それにしても大庭景宗はなぜ、荘園に襲撃してきた源義朝の臣下になったのか?
 一見すると不可解だが、大庭御厨の誕生の経緯を考えると納得がいく。
 大庭御厨は伊勢神宮の荘園であるが、伊勢神宮が開墾した荘園ではない。大庭景宗の祖先である鎌倉景正こと平景正の命令で開墾されてできあがった荘園であり、荘園を伊勢神宮に寄進することで伊勢神宮の威光を利用して、当初は相模国、最終的には朝廷から免税許可を獲得した荘園である。ところが、伊勢神宮の威光が通用しなくなった。時代は荘園であろうと納税義務から逃れることはできず、さらには荘園と荘園との争いが日常化していたのである。
 たしかに源義朝に襲撃を受けたことは大損害である。ところが、そのあとで待っていた運命は、源義朝の手による荘園保護だ。関東地方最強とされる源義朝の軍勢が大庭御厨の警護につくのであるから、他の荘園からの軍勢の襲撃はもはや心配無用となる。鳥羽法皇に向けて税を納めなければならないが、荘園の安全が手に入るなら、決して軽いとは言えないが納得できる負担増ではあったのだ。
 また、武士としての大庭景宗はこれを期に源義朝に仕える有力武将の一人となることができる。これは武士としての名に箔がつくだけで無く、実利を伴う話でもあった。源義朝が鳥羽法皇と直接やりとりをする立場であることは周知の事実であり、ここで源義朝に臣従すれば鳥羽法皇と接点を持つことが不可能では無くなるのである。
 まったく、およそ二〇〇年に及んだ荘園制度に対する反発が、誰もが想像せぬ形でいきなり結実してしまうとは誰が想像したであろう。しかも、現行法を一切変更することなく、しかも荘園制度を残したままで。
 知行国の権利が鳥羽法皇の権力を強化させるものであるというのは誰もが把握していた。そして、院に仕える者はその権力を利用できる側であった。権力に伴う私益に目をくらむ者にとっても、権力のもたらす荘園制度打破も狙う者にとっても、魅力的なものと映ったのである。ただし、私益を求めた者にとっては理想通りの結果であっても、荘園制度打破の最終目標である、誰もが豊かで平等な社会は実現しなかった。平等なのは生活水準ではなく課税であった。
 知行国で見られたのは法に基づく課税であって増税ではないのだが、それまで免税となっていた人にとっては増税と同じである。平等の課税の結果ではあるが、不景気のときに景気を向上させるために増税をするというのは経済政策として正しい。溜め込まれている資産が強制的に吐き出されるのだから、市場(しじょう)に資産が出回ることとなる。市場に資産が出回れば景気は上がり、好景気は生活水準の向上を生み出す。ここまではいい。ただ、全体的な向上が見られるものの、院に関わる者が飛び抜けて豊かになったことは、格差問題を考えると要注意である。
 一方で、朝廷はどうだったのか。特に院司ではない貴族たちは知行国の権利をどのように見ていたのか。この点でも鳥羽法皇は巧みというか狡猾というか、摂政藤原忠通にも知行国を用意したのである。それも大和国だ。
 大和国の荘園問題と言えば、大和国において圧倒的な存在である興福寺をそのまま意味する。ちょっとやそっとの貴族ではどうにもならない巨大勢力だが、全ての貴族の中で最高勢力である藤原氏のトップである摂政藤原忠通なら話は別だ。しかも藤原氏は興福寺を氏寺としている。興福寺をどうにかしなければならないと考えている人は多かったが、今まではどうにもできなかった。
 しかし、摂政藤原忠通ならどうにかなるはずである。いや、藤原忠通以外にどうにかできる人はいない。これは当時の人の切実な思いであった。
 藤原忠通が知行国たる大和国の問題を解決することができれば、藤原忠通の勢力は確固たるものが成立するはずであるし、元来、大和国の生産性の高さは全国でも有数である。ここで興福寺をはじめとする大和国内の荘園から徴税できれば、私益としても公益として絶大なものがある。 

 そう。徴税できれば、の話であるが。
 肥後国は平忠盛の武力が、相模国では源義朝の武力が発揮された。しかし、藤原忠通にそうした武力は無い。藤原摂関家であれば清和源氏の武力を期待できるところであったのだが、清和源氏の当主である源為義は藤原頼長に臣従することを表明している以上、藤原忠通が清和源氏に何かしらの指示を出すことができない。
 その結果が、天養元(一一四四)年一〇月八日に発生した興福寺の僧徒による武装蜂起である。蜂起の相手は藤原忠通の派遣した大和国司であり、徴税のための調査をすることそのものに反対して蜂起したのである。なお、この蜂起についての記録を書き残しているのは藤原頼長であるのだが、藤原頼長は日記に国司の名を「忠清」と書くのみで姓を記していない。そのため、清和源氏の一員として名の残る源忠清を派遣したという説と、のちの保元の乱での活躍で話題となる伊藤忠清こと藤原忠清を派遣したとする説があり、どちらを派遣したのかはわからない。
 どちらを派遣したのかはわからないが、少なくとも武士を派遣したことだけはわかる。どういうことかというと、清和源氏である源忠清であるなら後世の別資料にも武士として名が残っているので武士であること間違いなしであるし、藤原忠清であったとしても、藤原という姓を名乗ってはいるが伊勢平氏の有力家人の一人であり、祖先をたどれば平将門の乱の時代の藤原秀郷にまで行き着くという武士でもある。伊藤という苗字も平氏の勢力が強い伊勢国の度会郡にある古市荘を根拠地としていたからで、伊勢国の藤原氏だから略して伊藤という苗字になったという経緯がある。
 摂政藤原忠通が武士を国司に任命して大和国に派遣したことは、武力がモノをいう知行国の世界では妥当な判断とすべきであろう。もっとも、相手が興福寺で無ければという条件がつくが。
 国司と荘園の争いは日常と化してきているものの、訴え出たところで荘園の権利は認められない。たとえば、天養元(一一四四)年一〇月二〇日には伊賀国にある東大寺の荘園について、東大寺と伊賀国司の双方が訴え出るという事態に陥ったが、朝廷ではなく院庁が結論を出した。伊賀国司の主張を全面的に認めたのである。
 武人としても名を馳せてきつつある大和国司と真正面から対決することとなった興福寺は、国司ただ一人が問題であるし、天養元(一一四四)年一一月六日に大和国司を配流するよう藤原頼長に陳情するにいたった。藤原頼長がこの陳情に対してどのような回答を見せたのかはわからないが、利用したことは充分に考えられる。知行国統治の失敗は何よりの攻撃材料となるのだから。
 藤原忠通の決断は灰色だった。国司忠清が石見国司に抜擢されたのである。令制国はその規模を四段階に分けており、上から、大国、上国、中国、下国となっている。大国に分類されている大和国から中国に分類される石見国への配置転換は一見すると左遷であるが、現在の島根県西部に当たる石見国は、金帝国や高麗との侵略の恐れがいまだ消えていないどころかより緊張感を増しているというこの時代の国外情勢を考えると、随一の武人を常駐させなければならない、言わば最前線を為す国である。そのため、任期中の報酬は高く、任期満了後の中央における地位構築も、このまま大和国司であり続けるより優位に働いたのである。


 弟よりも先に動いたのは兄であった。
 藤原忠通による大和国知行国は、期待に応えられなかったという点では失敗であったものの、これまでの誰よりも興福寺に対して真正面から向かい合ったのは事実であった。そのため、攻撃する側は失態を突く材料となるし、攻撃される側は相対評価による成果を防御の拠り所とする。
 藤原忠通が狙ったのは、実子である藤原基実の後継者指名である。数え年でまだ三歳の幼児であるが、年が変わった天養二(一一四五)年の正月に高陽院で開催された載餅の儀において後継者として披露されたのである。しかも、このときの儀式には藤原頼長は参加しているものの、父である藤原忠通が参加していない。
 載餅の儀は、三歳から五歳ぐらいの男児の頭に餅を載せ、その子の前途を願うという貴族界での正月の行事である。餅を頭の上に載せるときのセリフも決まっていて、「才覚は祖父の如く、文章は父の如く」と言う。
 たったそれだけの儀式であるのだが、実の父が不在で、藤原忠通の弟であり、同時に藤原忠通の養子となっている藤原頼長がいるとなると事態はややこしくなる。藤原頼長がいるところで、祖父である藤原忠実と、父である藤原忠通のことだけが述べられるのである。血縁だけを見れば叔父にあたる藤原頼長のことが述べられないのは当然であるとは言え、載餅の儀が一般公開されたことは、藤原忠通が藤原忠実の正統な後継者であり、藤原忠通の後継者は、藤原頼長ではなく、この幼い男児であると世間一般にアピールする効果を持っていたのである。 
 藤原忠通の行動に対する藤原忠実と藤原頼長の答えは、即時ではなかったものの明白なものであった。
 藤原基実の載餅の儀が高陽院で開催されたのは既に記した通りである。
 問題はなぜ、まだ三歳の藤原基実が高陽院にいたのかという点。
 高陽院は建物の名前であると同時に、藤原泰子の院号でもある。そして、院号の通りに藤原泰子の住まいでもある。平安京における貴族の邸宅は、よほどのことでもない限り一町四方より大きな敷地を持つことは無かったが、高陽院は東西にも南北にもその二倍、敷地面積で言うと一般の貴族の邸宅の四倍という広大な敷地面積を持つ豪邸である。微妙なのはその所有権で、里内裏として、また、皇族の住まいとして使用されることは頻繁にあっても、藤原頼通が購入してからは藤氏長者が所有権を継承していた。こうなると、誰が高陽院に住むかは極めて微妙な問題となる。高陽院を制す者は藤原摂関家を制すのだ。
 藤原泰子が高陽院に住むのは、もっとも穏やかな形でのこの問題の解決法でもあった。藤原泰子は鳥羽上皇皇后であるから、皇族の住まいとして使用されることの多い高陽院に住むこと自体おかしなことではない。と同時に、藤原泰子は藤原忠実の娘であり、藤原基実にとっては伯母であり、藤原頼長にとっては姉にあたる。つまり、誰が藤氏長者であったとしても、高陽院が住まいとして提供されるという配慮を受けたとしてもおかしくない人である。
 藤原忠通は、自分の息子の載餅の儀を高陽院で開催させただけでなく、実母のもとから引き離してまで高陽院に住まわせたのだ。高陽院に住まわせることで、藤原基実を藤氏長者の後継者とすることを暗に示したのである。
 先例にこだわる人ならこれだけでひるんだかも知れないが、藤原頼長にそれは通用しない。藤氏長者たる資格は高陽院の所有権ではなく藤氏長者としての役職を果たすか否かで決まると考える藤原頼長が欲したのは、土地の権利書ではなく書物であった。
 とは言え、藤原摂関家がいかにして統治をしてきたかは全てマニュアル化されている上に、書物として一般に公開されている。書物の値段が現在と比べ物にならない高価であるこの時代であるから読者数がそう多くはないし、高級品であるために読む機会以前に触れる機会も乏しいのがこの時代の書物というものであるが、それでも図書館に相当する施設はあったし、図書館に行かなくとも書物を持つ人のところに足を運んで本を読ませてもらうことは可能であった。ましてや、藤原頼長の読書量はこの時代のどの人も敵わない質と量であることは有名で、もともと読書家であるだけでなく、藤原摂関家の資産を使用できる立場にあれば、いかに書物が高価な時代であろうと本を買って読むことは可能であり、買った本を自宅に保管することも可能であったのだ。
 それを踏まえた上で藤原頼長が実行したのは、書物の相伝ではなく、書物を利用したシンボルの構築であった。
 天養二(一一四五)年四月二日、藤原頼長が大炊御門高倉第に文倉、つまり図書室を建設した。ここで重要なのは新しく図書室を建設したことではなく、新しい図書室を建設したことである。藤原頼長の読書について知れ渡っているところで藤原頼長が新しい図書室を建築させた以上、その文倉は単なる図書室ではないはずというのが、まずは噂となって広まった。
 その噂に対する答えが出たのが天養二(一一四五)年四月一八日のことである。この日、藤原忠実から藤原頼長に「律令格式」や「除目叙位官奏格記」などの記録が譲られたのである。これはニュースとなって広まった。「やはりただの文倉ではなかったのだ」と。そして、このことを以て、藤原忠実から藤原頼長に統治の秘伝が寄贈されたと考えられるようになったのだ。ただ、書名を読めばわかる通り、寄贈されたのはとっくに公開されている記録であって、極秘の書物というわけではない。もっと言えば、貴族にしろ役人にしろ読んでいて当然という書物であり、藤原頼長も読んでいて当然の書物である。今回の件は、父が愛用していた貴族としての必読書を息子に譲ったというだけの話であるのだが、先に噂を築き上げ、舞台を用意した上で譲り受けると、それだけでイメージを強く生み出すことが可能になるのだ。


 この頃、全世界の人を驚愕させる事件が上空で起こっていた。
 七六年に一度の軌道で夜空に出現するハレー彗星である。
 彗星のメカニズムが明らかになっている現在はともかく、彗星が何の前触れもなく夜空に現れる怪奇現象と見られていたこの時代、彗星の出現は恐怖以外の何物でも無く、南宋の記録にも高麗の記録にも、さらには地球を三分の一周したイギリスの記録にも彗星への恐怖が記録されている。
 日本でも天養二(一一四五)年四月にハレー彗星の記録が確認できる。突然現れた彗星に対する恐怖から貴族たちが陰陽師のもとに詰めかけ、さらにはヒステリックに祈祷したことが記録に残されているのである。そして、貴族たちの期待を一身に受けた阿闍梨が祈祷を捧げたところ彗星が夜空から消えたことで褒賞が与えられたことも記録に残されている。
 このことが、ちょっとした喜劇を生んだ。
 これまでに観測された範囲で語るならば、ハレー彗星というものは七六年に一度、太陽に近づいてくるものの太陽に衝突することはなく、太陽の周囲を半周してまた太陽から離れるという軌道を描くため、一回の接近につき太陽に近づくときと太陽から遠ざかるときの二回に渡って観測される、つまり、事前知識無しで夜空を眺めたならば、何の前触れもなく出現した後、少し経ったら夜空から消え、また再び現れる。前述の阿闍梨は、彗星が太陽に近づく途中に祈祷したため、一見すると彗星が夜空から姿を消したかのように見えたが、ハレー彗星が太陽の周りを半周して太陽から遠ざかり地球の公転軌道に近づくと、夜空に再び彗星が現れるようになる。祈祷して彗星を夜空から消して褒賞をもらったらまた彗星が夜空に出現したことになるので、彗星を夜空から消すほどの強力な祈祷をする人かと思われて尊敬を集めたら、実はそうでは無かったということがすぐに判明して、阿闍梨は物笑いの対象となり、彗星は「出賞」、すなわち、褒賞を出した星と呼ばれたと記録に残っている。
 彗星がパニックを生み出すことも珍しく無かった時代にあってこうした喜劇はむしろ微笑ましいものとはなったが、実際にはパニックを招いている。
 天養二(一一四五)年七月二二日、彗星出現を理由として久安への改元が発表されたのである。


 ハレー彗星が夜空に出現し多くの人が右往左往していた頃、国司交代に成功させたと考えた興福寺の勢力が、大和国内で暴れ出していた。
 大和国を知行国とする藤原忠通が実際には大和国に対して何もできないと考えたならば、興福寺はこれまで遠慮していたことをするようになる。元からして大和国内で絶大な権力を持っていた興福寺であるが、これまでは大和国内の最有力寺院であるものの、単独で大和国内のその他の勢力に対抗できるほどの勢力までは持っていなかった。それが、改元前の天養二(一一四五)年三月一四日に東大寺、同年七月一二日に金峯山を襲撃したことによって話が変わった。久安に改元した後も興福寺の襲撃は続き、久安元(一一四五)年が終わってみれば大和国内の荘園の多くを興福寺は傘下に置くようになっていたのである。もはや大和国内の興福寺以外の勢力を結集させても興福寺単独に対抗できる時代ではなくなったのだ。
 それにしてもなぜ大和国はここまで興福寺の勢力伸長を許したのか?
 大和国は現在の奈良県である。現在の奈良県も同じことが言えるが、当時も人口の八割が北部の奈良盆地に集中しており、中部から南部の山岳地帯の人口は二割に満たなかった。つまり、大和国北部の奈良盆地の趨勢がそのまま大和国全体の趨勢とみなされていた。その上で忘れてはならないのは、平安京遷都前の平城京に限らず、飛鳥や橿原といった古代の首都がことごとく奈良盆地に集中していた点である。難波や大津に首都を置いたこともあったが、大和朝廷以後の日本国は基本的に大和国内に首都を定め続けていて、桓武天皇の長岡京遷都とそれに次ぐ平安京遷都はむしろ異例な判断であったのだ。
 奈良盆地は東、西、南の三方向を山地に囲まれた盆地であり、この三方向の山地が奈良盆地に対する天然の城壁の役割を果たしている。ここで意味する城壁は、武装した外敵だけでなく自然災害に対する防壁でもあり、現在のような建築技術が発達していない時代あっては貴重な防御壁の役割を果たしていた。山地が防壁をなす盆地は日本各地にあるが、奈良盆地は東西一六キロ、南北三〇キロメートルと広い上に水にも恵まれ、それでいて河川の水は大和川となって西の大阪湾に流れていくので水量と比べて水害に遭う頻度が少なく、河川がもたらす腐葉土に恵まれているため耕作地の収穫量は高いという、自然条件だけ見ても極めて恵まれた土地であった。
 しかも、三方向を山地に囲まれていながら、北部は平野が開けている。北部に開けた平野から東に行けば東海道、東山道、琵琶湖を渡れば北陸道と山陰道。平野を西に行けば茅渟(ちぬ)の海(今の大阪湾)で、海に出れば山陽道と南海道、瀬戸内海を渡れば九州こと西海道にたどり着く。自然条件が恵まれている上に交通の利便性も高いとなれば人口も増えて来て都市問題を引き起こすものであるが、奈良盆地には増えた人口を養いうるだけの生産性が存在していた。どんな国でも、ここまで好条件が揃っている土地が存在するなら国の中心として選ばれるものだ。日本国も例外ではなく、自然条件と交通の利便性の結果、平城京までの時代のほとんどにおいて首都であり続けたのが奈良盆地だ。
 その奈良盆地が首都でなくなったとき、奈良盆地に残されていたのは肥沃な土地と寺院だけとなっていた。他の土地であれば地域の有力者が郡司として地域を守る存在になっていたが、奈良盆地はこれまでの歴史においてずっと首都であり続けてきたために、地域の有力者は朝廷に仕える有力貴族となって、桓武天皇の遷都に合わせて奈良盆地を離れ平安京に移ってしまっていた。その結果、首都でなくなった後の奈良盆地は地域権力が不在となり、その穴を埋めて奈良盆地を守ることができたのは奈良盆地に残された寺院だけになったのだ。寺院は宗教的権威と武力、そして、その経済力で土地を守り、土地に住む人は寺院に年貢を納めることで人に自らの身を守ってもらうという相互関係が成立したのである。そこに京都から送り込まれる国司の入り込む余地はなかった。
 興福寺は大和国全体を制圧しようという意図はなかったかもしれないが、奈良盆地の制圧は考えていた。そして、大和国と奈良盆地の関係を考えると奈良盆地の制圧と大和国全体の制圧とはほぼ同義となるのは人口重心から考えるとごく自然である。
 奈良盆地での最高の生産性を考え、奈良盆地の安全性の確保を考えて行動すると、生産性の障壁を排除するという結論に至る。奈良盆地全体を一つの権力のもとにまとめ上げ、外からの圧力を全て排除してしまえば奈良盆地が生み出す生産は最高の結果を生み出す。これを興福寺の視点で捉えると、興福寺以外の勢力を奈良の地から追い出すことという結論に至る。興福寺以外にとっては迷惑至極だが、興福寺にとっての最高の結論だ。しかも、それは奈良盆地の住民の要望にかなった結論なのだ。自分たちの身を守ってくれる存在がいるだけでなく、引き受けなければならない負担は国の要求よりも低くて済むというのだから。


 京都と目と鼻の先で起こった大和国の現実を目の当たりにし、京都で三つの動きが見られた。
 三つの全てが、京都の軍事力強化を目的としている。
 興福寺は奈良盆地を制圧した。そして、奈良盆地は東と西と南を山地に囲まれているが北には開けている。奈良から京都は徒歩一日で移動可能な距離だ。
 京都の東に目を向けると相変わらず比叡山延暦寺と園城寺が待ち構えている。
 国司に荘園の権利を踏みにじる権限を与えて送り出す知行国という制度は、ちょっとやそっとの荘園領主相手であれば太刀打ちできない国司を生み出す根拠を生みだした。と同時に、ちょっとやそっとでは太刀打ちできない荘園領主の存在を明らかにした。特に厄介なのが、寺社勢力というものは気に入らないことがあると京都までやってきてデモを繰り広げることである。朝廷の威光を認めないわけではないが、朝廷や院の命令に無条件に従うわけでもない。
 現在ではデモと向かい合うのは機動隊と相場が決まっているが、この時代にデモと向かい合うのは検非違使をはじめとする警察権力、あるいは武士である。このデモ勢力を食い止めるために三つの動きを並行して始めることとなったのである。
 最初に動いたのは内大臣藤原頼長である。年が明けた久安二(一一四六)年一月二三日に、自らに臣従した源為義を左衛門大尉に復帰させ、ただちに検非違使に任命したのである。これで源為義の軍事行動が警察権の行使になるという朝廷のお墨付きが加わることとなった。
 次いで動いたのは鳥羽法皇である。源為義の検非違使就任から一〇日も経ていない二月一日に、平忠盛の子の平清盛を正四位下に叙すとしたのである。ただし、久安二(一一四六)年時点の院司一覧の中に平清盛の名は見えない。その代わりと言うべきか、平清盛はこの頃、各地の国司を歴任している。父の平忠盛が知行国としての権利を持つ美作国(岡山県北部)を皮切りに、尾張国(愛知県西部)、播磨国(兵庫県南部)と各地を歴任し、久安二(一一四六)年時点では安芸国(広島県西部)の国司を務めている。もっとも、史料によっては安芸国司の地位に就いたのはもう少し後であるとの記録もあり、このあたりのところははっきりしない。確実に言えるのは、武力を伴った国司として派遣するのに適任である人物として平清盛が認識されており、必要に応じて利用されていたということである。それも、現地に赴任することなく京都に留まり続けた上でその役職を果たすのであるから、鳥羽法皇にとっても、父の平忠盛にとっても、平清盛はありがたい存在であったろう。
 そしてもう一人、全く想像しなかった人物が用意した切り札があった。この三枚目の切り札こそ、京都の軍事力強化における最大の答えなのである。


 それが何年何月何日のことなのかは記録に残っていない。
 はっきり言えるのは、ある日突然、関東地方にいたはずの源義朝が京都に姿を見せただけでなく、鳥羽法皇に従う武士の一人になっていたことである。
 父の源為義にとっても、弟の源義賢にとっても、源義朝が何の予告もなく京都に姿を見せただけでなく鳥羽法皇の側に仕える一人になっていたことに驚きを隠せなかった。
 京都に姿を見せたのは源義朝一人ではない。関東地方で源義朝に臣従した武士たちが一団となって付き従っていたのである。
 ただ、鳥羽法皇の側に姿を見せた源義朝ではあるが、源義朝を京都に招き入れたのは鳥羽法皇ではない。先に全く想像しなかった人物が招き寄せたと書いたのも、鳥羽法皇と源義朝の間に絡んでいる一人の人物が介在しているからである。
 その人物の名は、待賢門院藤原璋子。
 そして、久安二(一一四六)年を迎えたとき、待賢門院藤原璋子はこの世の人ではなくなっていた。久安元(一一四五)年八月二二日に、兄の住まいである三条高倉第で崩御したのである。待賢門院藤原璋子が亡くなる寸前に鳥羽法皇は三条高倉第に駆けつけ、彼女の死を見届けたとき、大声で泣き叫んだという。源義朝が京都に呼ばれたのはその後である。
 待賢門院藤原璋子の遺言で源義朝が呼び出されたという証拠は無いが、タイミングとしては一致している。もとからして白河法皇の側近の娘が母親であるという理由で関東地方に追放された経緯を持っている源義朝である。白河法皇を思い起こさせる第一人者としてもよい待賢門院藤原璋子の死は、母親の血筋を理由に関東に追放していることの白紙撤回として充分に通用する理由である。そもそも源義朝の追放そのものに納得できていなかった鳥羽法皇ではあるが、息子を追放した源為義に顔を立てるという意味で、待賢門院藤原璋子の死であれば追放解除として納得させることのできる理由にはなれたのである。
 鳥羽法皇の命令で堂々と追放解除となった源義朝のもとには、亡き待賢門院藤原璋子のもとに仕えていた人たちがいた。この人たちを守るのが京都での源義朝への最初の命令になったのである。これが源義朝に一つの転機をもたらした。待賢門院藤原璋子に仕えていた女性の一人である由良御前と結婚したのである。

  源義朝は関東地方にいる間に、二人の女性との間にそれぞれ一人ずつの男児をもうけている。永治元(一一四一)年には三浦氏の女性との間に長男の源義平を、康治二(一一四三)年には波多野氏の女性との間に次男の源朝長をもうけているが、この二人の女性はともに側室であり、正妻は由良御前ということになる。娘を嫁がせた三浦義明や、妹を嫁がせた波多野義通にとって、嫁いだ親族が正妻ではなく側室になったことは一見すると不本意であったかも知れないが、側室であることを受け入れたことで、二人とも鳥羽法皇のもとに仕える武士となることに成功したのである。
 源義朝の二人の側室もそうであるが、正妻となった由良御前についても本名が伝わっていない。由良御前の父親が熱田神宮の大宮司である藤原季範であることは判明しており、源義朝は藤原氏の女性を妻に迎え入れたこととなる。ただし、藤原季範は藤原氏の人間ではあるが藤原北家の人間ではなく、藤原南家の人間である。それでも従四位下の位階を獲得しており、貴族界に於いてはまずまずの地位として良い。
 源義朝と由良御前のとの間に生まれたのが源頼朝である。これにより源義朝は貴族界との婚姻関係を築くことに成功したことになるのだが、この時代の人はまさか、この息子が鎌倉幕府を創出することになるとは夢にも思わなかったであろう。
 まさかそのようなことになると思わなかったのは父親もその中の一人のようで、源頼朝の正式な誕生日は不明である。さらに言えばどこで産まれたかも不明である。一説によると、源義朝と由良御前が結婚した翌年である久安三(一一四七)年四月八日に、尾張国熱田、現在の名古屋市熱田区で生まれたというが、その頃に由良御前が生まれ故郷である尾張国に行った記録はなく、四月八日に生まれたというのも後世の記録であって同時代の記録ではない。
 さらに同時代の記録が無いのが、幼少期の源頼朝の教育についての記録である。神職にして貴族でもある母と、有力武士団のトップを務める父との間の子であることから、文武両道の教育を受けていたのではないかと推測されるが、そのことを示す記録は無い。確実に言えるのは、幼少期の源頼朝は京都で生活していたということだけである。

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

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