鳥羽院の時代 4.悪左府の時代

 話を源頼朝の産まれる前年である久安二(一一四六)年に戻すと、朝廷内に一つの問題が起こっていた。
 左大臣源有仁の体調不良である。このとき左大臣源有仁四四歳。
 当初は誰もが一時的な体調不良であると考えていた。いかに五〇歳で高齢者扱いされる時代であるとは言え、四四歳の人間を相手に加齢による寿命を考える人はいない。
 律令には左大臣不在時の対処が定められている。左大臣不在時は右大臣が、右大臣も不在のときは大納言筆頭が左大臣の職務を代行する。内大臣に左大臣代行はできない。
 久安二(一一四六)年時点で右大臣はいない。内大臣藤原頼長がいるが、前述の通り藤原頼長は内大臣であるため、藤原頼長に左大臣の代行は認められていない。ゆえに大納言筆頭が左大臣代行ということになるのだが、問題は、大納言が一人もいないということであった。権大納言ならいる。それも五人いる。権大納言は大納言よりも一段階下という位置づけであるが、与えられている権限は大納言に相当する。ゆえに、権大納言筆頭である藤原実行が左大臣代行を務めることは可能である。普通ならば。
 忘れてはならないのは、このときの内大臣は、律令だけはやたら詳しく藤原頼長だという点である。律令にあることが全て正しく、律令の通りに現実のほうを変えれば全てうまくいくと考えている藤原頼長に対し、権大納言筆頭である藤原実行に左大臣の職務の代行が認められているという説明は通用しない。どんな論拠を展開しようと右大臣が空席であることが異常であり、永治元(一一四一)年に右大臣藤原宗忠が亡くなってから五年間という長きに渡って右大臣職が空席であることは許されざる怠慢であるという結論になる。
 その上で藤原頼長はこのように主張することを忘れていない。自分を右大臣にすべきである、と。
 実際、左大臣不在は国政を停滞させるに充分であった。久安二(一一四六)年三月一八日の京都大火でも、左大臣不在が原因で緊急召集をかけることができず、早期に対処していれば救えたはずの火災の被災者に対して手を差し伸べることができずにいたのである。


 朝廷が機能不全に陥っても鳥羽法皇が機能すれば問題ないではないかと現在の人は思うかも知れないが、鳥羽院政に限らず院政というものは、法制上の権威はあっても法制上の権力は無い。鳥羽法皇が何かをしろと命じることまではできても、その何かを実行するのは朝廷なのである。
 現在でも見られることであるが、何かしらの社会問題が起こったときに、その社会問題を担当するのが仕事である人に対する苦情が殺到するという光景は珍しくもない。たとえば児童虐待に遭った子がいたり、生活保護を本来なら受けていなければならないのに受けることができないというニュースが出たとき、市役所や区役所に苦情を入れたという人もいるのではないであろうか。
 その中のどれだけの人が、仕事を果たさないのではなく仕事を果たせない状況にあることを理解できているであろうか。人手が足りず、まともに給与を受け取れず、こなせどこなせど終わることの無い仕事、残業も休日出勤も繰り返しても増える一方の残りの仕事。こんな状態に陥っているのに仕事を果たさないのはどういうことだと怒りをぶつけられたところで、いったい何ができるであろうか?
 機能不全に陥っているときに採りうる方法は二つ。一つは機能を復活させること。これは、不足している人員と予算と時間を用意することと言い換えることができる。もう一つは代わりの機能を作り上げてしまうことである。前述の児童虐待や生活保護の問題で言うと、児童虐待や生活保護問題を対応する人の数を増やし、充分な給与を用意し、最低でも労働基準法未満の拘束時間にすることが第一の方法。第二の方法は、児童虐待に遭っている子を実際に守り、生活保護の代わりに実際に生活を保障することである。どちらも言葉だけではなく、第一の方法は出費が、第二の方法は出費と行動の両方が必要となる
 現在でも起こっていることは、久安二(一一四六)年でも起こっていた。朝廷に対してどうにかしろと命令しても、あるいは苦情を突きつけても、朝廷がどうにもならなくなっているのだから動きようがない。もっとも、現在と違って第一の方法はさほどの予算を必要としない。藤原頼長を右大臣にするか、あるいは権大納言の誰かを右大臣にすることで解決する。予算が必要と言えば必要だが、そこまで大きな出費となるわけではない。ただ、損害が大きすぎる。律令遵守を徹底させることに粘着している藤原頼長を右大臣にするということは、単に出世を意味するのではなく、左大臣源有仁病欠の現時点においては議政官の招集権と議事進行権を与えることを意味するのである。律令遵守と言えば聞こえは良いが、律令が現実離れしているというのに現実を変えようものなら、不景気という言葉では言い表しきれない大恐慌を招くことは目に見えている。だったら朝廷の機能不全の方がまだマシだ。
 では、権大納言の誰かを右大臣にするのはどうか? 悪くないアイデアだが、それを藤原頼長が許すとは到底思えない。左大臣源有仁が議政官を取り仕切っていた頃でも藤原頼長と言論で勝てる者はいなかったのだ。かつての藤原道長も議政官という話し合いの場における言論の力で権力を握ってきた人間であるが、藤原道長は他者を認めた上での議論であったのに対し、藤原頼長は他者を全く認めない、自分の意見だけが正しいとする議論を展する。権大納言の誰かを右大臣にすれば議政官の開催はスムーズに行く。しかし、議事進行がスムーズに行くとは到底思えない。議論は何日も何日も空転することとなる。その結果も藤原道長の意見が議政官の議決になり、律令への回帰という名目で不況化政策が展開され国民生活は破壊される。
 裏技も存在はした。内大臣藤原頼長を、左大臣も右大臣も経験させないで太政大臣にしてしまうのである。近衛天皇はまだ元服していない。藤原頼長には男児がいないが、近い未来に近衛天皇に嫁がせることを目的として、妻の弟の娘、すなわち姪を養女に迎え入れて将来の皇后候補として育てている。彼女が近衛天皇に嫁いで、近衛天皇との間に男児が産まれ、その子が天皇になったとき、藤原頼長は天皇の祖父として摂政になるのが通例だ。左大臣や右大臣が摂政を兼任することもあるが、摂政太政大臣や摂政専任という例のほうが多い。というより、そうしなければ日常の政務をこなせなくなってしまうのが摂政という職務の宿命だ。摂政になることを条件として藤原頼長を太政大臣に出世させてしまえば、議政官から卒業という体裁で議政官から追い出すことが可能となる。皇族の元服は天皇が加冠役を務めるが、天皇の元服における加冠役は太政大臣が務める。近衛天皇の加冠役とするために藤原頼長を太政大臣にさせることは合理的な話である。
 無論、藤原頼長はそれを求めてなどいない。藤原頼長が求めているのは議政官を牛耳ることのできる左大臣や、左大臣の代行を務めることの許される右大臣であって、議政官からの卒業など求めてはいない。養女を入内させ、ゆくゆくは天皇の祖父となることを考えてはいるが、それはまだ先の話である。それに、近衛天皇の元服における太政大臣の件について、藤原頼長自身もまた別のアイデアを持っていたのである。前例は無いが、法制度上は何の問題もない対処法というアイデアである。


 久安二(一一四六)年四月一五日に清水寺で闘乱が発生した。このときの比叡山のトップを務めていたのは比叡山延暦寺から派遣されていた長円である。とは言うが、清水寺が延暦寺のものであったわけではない。前作「天下三不如意」でも何度か述べた通り、居水寺という寺院は比叡山延暦寺と興福寺の勢力争いが内部で繰り広げられている南都北嶺の最前線であった。このときの闘乱も興福寺派の僧侶と比叡山延暦寺派の僧侶とが争った結果である。当初は清水寺の中の興福寺派の僧侶が闘乱を起こした側であったが、比叡山延暦寺派の僧侶は黙っているわけではなく、清水寺から比叡山はかなり近い。現在、乗用車で移動すると一時間で到着する。武装した集団が移動するのだということを考慮しても、徒歩移動なら半日もあれば余裕だ。
 比叡山延暦寺派の僧侶を追い出したことで一時的な勝利を収めたとしても、この距離の近さがあればただちに比叡山延暦寺から援軍がやってくる。そのときの援軍の規模は不明であるが、このときの闘乱がもたらした結果は、一つだけ判明している。

 清水寺焼亡。

 平安京から鴨川を渡った東にある、現在だけでなくこの時代でも京都内外の人たちを集めていた清水寺である。身近さゆえに参詣客のもたらす売上も大きなものがあるだけでなく、平安京の目と鼻の先という立地条件は、京都に対する圧力としても大きなものがある。この寺院を比叡山延暦寺の手に渡すつもりなど、興福寺には毛頭無い。その上、比叡山から清水寺まで半日あれば徒歩で移動できる距離であると同時に、興福寺のある奈良からも清水寺までも一日あれば充分に移動できる距離だ。清水寺を奪還した延暦寺に対し、興福寺も奪還する動きは当然あり得る。
 武装集団同士が衝突するというのは当事者だけでなく周囲にも多大な損害を与える。当人同士の殺し合いだけでなく周囲の民家からの流れ矢が飛んでくることもあるし、火を付けられることもある。それらが起こらなければそのほうが奇跡だという出来事がこれから待ち構えているのだから、事前に食い止めるのが本来であれば政府の、当時であれば朝廷の役割であるが、前述の通り朝廷は機能不全に陥っている。機能不全に陥っているときに採ることのできる二つの方法のうち、第一の方法は国民生活を破壊する大不況を招くことが判明している。となると第二の方法となる。
 これはかなり無茶な方法であった。
 興福寺の武装勢力を朝廷の警察権力を使わずに抑える。これができるとすれば、清和源氏と伊勢平氏と連合軍を組織するしかないが、清和源氏はかつてのように源為義のもとに全武力が集中するようになってはいないし。伊勢平氏は平忠盛が息子の平清盛を通じてその軍事力を地方統治に回している。できるとすれば清和源氏の武力を親子のどちらかに集中させた上で奈良に向けて派遣する、あるいはその途中の宇治、あるいは平安京の南の鳥羽に武力を展開させることであるが、このときに流れる血の量も失われるであろう命も決して軽いものではない。
 誰もが頭を悩ませていたこの問題をギリギリで回避した人物がいた。その者の名を源師任という。村上源氏の一員で、大和国宇智郡に荘園を持っていた彼は、荘園を興福寺に寄進していた。興福寺が大和国で圧倒的存在になった以上、大和国内の荘園を興福寺に寄進する代わりに興福寺の庇護を受けるというのはごく普通の戦略だ。しかし、彼は村上源氏に名を連ねる貴族であり、現在の朝廷の機能不全を肌身で理解している人物である。そして、興福寺の軍勢が今まさに京都へ向かおうとしていることを目の当たりにしている人物である。
 源師任は、大和国宇智郡の郡司である藤原頼金と共謀して一つの行動を起こした。一度は興福寺に寄進した荘園を金峯山寺に再寄進したのだ。興福寺との契約を打ち切って金峯山寺に寄進し直したということになるのだが、何度か述べているとおり荘園というのは現在の株式会社に相当する。寄進というのも、大企業に対して株式の大部分を売り渡し、大企業の経営参画を認める代わりに運転資金を獲得するに等しい。寄進をし直すというのは子会社が子会社自身の意向で親会社の変更を計画することに相当し、現在の株式会社で法に触れずに同じことをするとしたら、親会社となった企業から子会社自身が株を全部買い戻した上で、新しい親会社のもとにもう一度株を売り直すしかない。ところが、源師任は興福寺が持つ所有権を否定した上で、すなわち興福寺に株を売ったことそのものを否定した上で株式の所有権を主張し、改めて金峯山寺に株式を売り渡したのである。
 法的には決して許されない行為であるが、荘園住民にとっては好評であった。大和国内の多くの荘園が興福寺の傘下となったが、興福寺以外の荘園も存在する。そして、興福寺の荘園と興福寺以外の荘園とでは、興福寺以外の荘園のほうが税が軽く労働条件も緩やかなのだ。このまま興福寺の荘園として厳しい労働環境に置かれ続けることを選ぶか、金峯山寺をはじめとする興福寺以外の荘園の住民となることを選ぶかの選択肢が迫られれば、多くの人は興福寺以外を選ぶ。
 一度は自分のものとなった荘園が大和国内の他の寺院の荘園になったことを許せる興福寺ではない。京都に向けて剥けられるはずの軍勢は、大和国宇智郡へと進行方向を変更した。源師任を逮捕するというのが軍勢派遣の名目であり、興福寺の派遣した軍勢に待ち構えていた運命は宇智郡司藤原頼金の率いる軍勢と対決である。
 この軍勢との対決がどのような結末を迎えたかの記録は残っていない。残っているのは清水寺で繰り広げられることになったであろう闘乱が未然に防がれたと言うことだけである。

 清水寺の再建供養はおよそ一年後の久安三(一一四七)年三月二七日のことである。
 その少し前、朝廷はついに一つの決心をした。
 久安三(一一四七)年三月一九日、内大臣藤原頼長を一上(いちのかみ)とすることが決まったのである。
 伏線は同年一月二一日にあった。この日、藤原頼長が病欠した。藤原頼長は皆勤賞を是とする現代日本の悪習を平安時代に実践していた人であるが、それでも休まざるを得なくなることはある。その休まざるを得ないという局面で、藤原頼長は蔵人所と外記局に假文(けもん)を提出している。假文(けもん)とは現在の欠勤届のことで、貴族が自身の政務を、病気やケガ、あるいは親族の不幸などの理由で欠席しなければならないときに提出する必要のある書類であったが、ほとんどの場合は提出することなく済まされていた。そもそも出席しないままであっても大目に見られていたのであるが、藤原頼長は欠席を告げる届けを提出したのである。これを内大臣がやったことは、それより下の役職の貴族たちにとっても今後は理由無き欠勤が認められなくなることを意味する。
 これを、無断欠勤を認めないのは当たり前だとする考えで捉えてはいけない。貴族というのは基本的に休日が無いのである。現在の労働基準法は一日八時間、一週間に四〇時間を超える時間の労働を禁止しているが、この時代の貴族に勤務時間以外の時間などありえず、睡眠時間を含むプライベートタイムとは勤務時間の中の休憩時間とされていたのである。当時は一日を二四時間とする考えも、一年を三六五日とする考えも無かったが、現在風の言い方をすると二四時間三六五日が律令に定められた勤務時間である。
 とは言え、律令に定められているこのような勤務規定を守っていては早々に過労死することが目に見えている。そこで、貴族たちは調整した上で交替で休暇をとり、あるいは具注暦、すなわちカレンダーを利用して適宜休暇を取得していた。それでも一ヶ月に二〇日は勤務することが最低ラインである。一ヶ月二〇日というのは現在の労働基準法に基づく勤務時間の上限とほぼ同じであるが、忘れてはならないのは、当時の貴族にとってのこれは最低水準であると言うことと、二〇日の勤務のうち最低でも五日間は徹夜での勤務であるということである。ボタン一つで室内照明の蛍光灯やLEDが灯る時代ではないからロウソクや油が夜間照明であり、おかげで夜間の照明の光熱費と、火災頻度という二つの問題を抱えることとなったが、それでも貴族の徹夜勤務は続いていた。これが、律令が現実的ではないとして妥協に妥協を重ねた結果、軽減された勤務状況である。
 この軽減された勤務状況を藤原頼長は白紙撤回した。現在風の言い方をすれば二四時間三六五日の全てが勤務時間であるという律令制への回帰が一つ実現してしまったのである。しかも、その言い出した本人である内大臣藤原頼長は自分から率先して過酷な勤務状況を受け入れている。それも、喜々として受け入れている。
 これが現在日本人のメンタリティとも一致するが、この国の人は自分の時間を削って何かに取り組む姿を、さらには必要以上に時間を掛けて取り組む姿を、それがいかに効率的でなくとも是とする思考がある。その考えで行くと、律令と現実との乖離で現実を否定し、律令に定められた非効率な長時間勤務を厭わない内大臣藤原頼長は、無能どころか勤勉者として扱われることとなってしまう。ただし、つきあわされる当事者は除く。
 左大臣源有仁が二月二三日に亡くなり、左右の大臣がともに不在となった。国政の一大事ではあるが、これまでにも何度か左大臣と右大臣の二人とも空席となったことはあり、そのときの緊急対応策はマニュアル化されている。左大臣か右大臣のどちらかが決まるまで、内大臣を除く議政官の最上位者が左大臣の役割を代行するのが決まりである。順番で行くと権大納言筆頭の藤原実行がそれにあたる。
 とは言え、内大臣はいるのだ。そして、このようなときに内大臣を昇格させることは通例であり、昇格させぬまま放置するとしたらそのほうが異例なのである。
 ただ、内大臣藤原頼長を左大臣や右大臣とすることはあまりにも危険であった。働き方を見てもわかるとおり、この人の唱える急進的な律令への回帰は多くの人が批判するところであり、批判の内容も意見を理解できずに反発するのではなく、意見を理解した上で同意できずに反発するのである。急進的であるがゆえにごく一部の支持を引きつけてはいるが、ほとんどの人は支持をしていない。それも、自分と異なる考えだから支持しないのではなく自分より劣る考えだから支持しないのである。現在で言うと共産党程度と考えるとちょうどいいだろう。自分で自分のことを優秀と思っているがが、実際には平均より遥かに劣る知性しかなく、その上、自らの知性の現実を認めることなく、何ら刷新を生まずに批判を繰り返すのみで、この時代に選挙があったら間違いなく落選する。断言できるが、藤原頼長の父親が藤原忠実以外の藤原北家の者であるなら、政界デビューどころか貴族の一員になることもできなかったであろうというのが藤原頼長である。
 その唯一のポイントがあるがゆえに内大臣になで上り詰めたのが藤原頼長である。藤原頼長をそこから上に進ませることは、急進的な懐古趣味を現実のものとさせ、この国の経済を破壊してこの国に大恐慌を巻き起こすことを意味する。
 そこで選ばれたのが、称号だった。一上(いちのかみ)というのは左大臣の別名であるが、正式に言えば議政官のトップに立つ貴族であることを意味する称号で、左大臣の別名であるのも左大臣が議政官のトップの貴族であるという常識が確立されていたからである。例外として右大臣を一上(いちのかみ)とすることがあるが、そのときは左大臣が不在であるという条件がつく。左大臣不在のときは右大臣がこの称号を得るところまでは前例があるが、左大臣も右大臣も不在のときに内大臣がこの称号を得ることは、法の上では不可能ではないが前例が無い。その前例の無いことを内大臣藤原頼長は獲得したのである。なお、あくまでも称号であって議事開催権も議事進行権も伴ってはいない。
 さらに藤原頼長はもう一つの称号を得ている。久安三(一一四七)年三月二九日に、内大臣藤原頼長を橘氏是定(ぜじょう)とすることが決まったのである。
 源平藤橘と総称されるほどの橘氏であるが、永観元(九八三)年に参議橘恒平が亡くなったのを最後に上級貴族から橘氏の名が消えた。通常、貴族の一族のトップに立つ者は「長者」の称号を獲得し、一族の所有する資産、医療施設、教育施設の管理監督権を持つ。ただし、長者になることができるのは上級貴族に限定されるため、上級貴族のいなくなった橘氏は長者を置くことが許されない氏族となった。
 橘氏に限ったことではないが、議政官に名を記録するほどの貴族であれば誰かしらが長者として氏族の最高責任者としての勤務を果たさねばならない。また、皇族のうち親王宣下を受けていない王についても制度上は一つの氏族ということになっているが、こちらは親王宣下を受けていないことからわかるように、貴族よりは上の地位であり、対外的には高麗や契丹といった国外の王と同格であるがものの、親王ではないため皇族の中では下の方に扱われる。具体的に言えば長者を置くことが許されない扱いとなる。
 このようなときは、上級貴族の誰かが一族のトップを代行することとなる。これを是定(ぜじょう)という。親王になれない皇族である王については親王が、そうでない民間の貴族であれば親王や源氏、あるいは藤原北家が是定(ぜじょう)を務める。内大臣藤原頼長が是定(ぜじょう)を務めるというのは橘氏にとって慣れたことでもあった。
 朝廷は何とかして藤原頼長に称号だけを与えて権限を与えずに済ませることで、朝廷の機能不全をどうにかしようとしたのである。
 ところが、藤原頼長は称号獲得によって自らの権威が確立されたと考えるようになったのである。朝廷の機能不全を改善するどころかより悪化させる方向へシフトさせてしまったのだ。
 会議は仕事では無い。このように書くと反発する人は多いであろうが、会議に生産性はなく、ただただ時間を奪われるだけの無駄な儀式でしか無い。働く上で最良なのは会議無しの就労環境であり、次いで、可能な限り少ない会議時間の就労環境、最悪なのは仕事よりも会議が優先されるという就労環境である。
 もっとも、会議をするのが仕事であるという人たちもいる。決定する責任を持つ人たちである。議政官というのは上奏されてきた法案を審議し、審議結果が法になること、そして、法が正しく運用されていることに対して責任を負うのが仕事である。ここで重要なのは審議そのものであって、会議の儀礼遵守では無い。情報を持った複数の人が集まってアイデアを出し合い、内容を向上させていくことが目的であって、いつ開催するか、どこで開催するか、誰が出席して開催するかといったことを定め、それを遵守させることは重要ではない。もっと言えばそのようなことにこだわりだしたらその会議体は終わりである。会議が審議ではなく暇人の暇つぶしになる。
 藤原頼長は律令制への回帰をめざすことで、会議を暇人の暇つぶしにさせた。
 議政官の会議は、本来であれば天皇が大極殿に出御し、各省のトップである卿(かみ)も参加した上で、その場で各省から上奏された議案を議政官たちが討論し、討論結果をその場で天皇が認可する「朝政」でなければならなかったが、平安時代になると天皇臨席がなくなり、開催場所も朝堂院に移って「朝堂政」になり、時代とともに簡略化が進んで開催場所も一定化せず、各省のトップは議政官の一員を兼ねているのでない限り参加しない「官政」へと変わり、官政もさらに簡略化が進んで陣定(じんのさだめ)と統合されるようになった。陣定(じんのさだめ)はもともと下級貴族のみからなる集まりであるが、天皇や大臣の参加しない非公式な会議であったのが、次第に大臣は参加するようになり、参加者が事実上議政官の一員に限定されることとなり、各省や弁官局から上奏された法案を適宜審議するようになったことで官政と変わらぬ結果を生むようになった。
 官政は必ず全ての省から上奏されるのに対し、陣定(じんのさだめ)は必ずしも全ての省から上奏されるとは限らず、その時点において必要とあれば弁官局を通じて上奏されるという違いがある。すなわち、会議体としては官政よりも陣定(じんのさだめ)のほうが討論内容が少なくて済む。この結果、陣定(じんのさだめ)形式の会議であるのに律令で定められた官政と見なされるようになり、議政官が会議をするときは陣定(じんのさだめ)になるというのが長期的に続いていたのである。
 藤原頼長が打ち出したのは官政の復活である。官政は全ての省からの上奏が必須であり、会議の場所も、日程も、会議形式も定まっている。一方、陣定(じんのさだめ)は弁官局からの上奏があればいつでも開催されるのに対し、上奏が無ければ開催されない。開催されない期間が長期間続く一方で、必要とあれば真夜中でも議政官達に緊急召集がかかって開催されるので、緊急時も踏まえた会議としてどちらが優れているかは明白である。貴族たちの勤務状況の改善は律令に定められた会議形式の縮小化に基づいていたのに、会議形式を縮小から拡大へと転換させたことで、貴族たちの負担は増し、朝廷の機能不全はますます悪化した。


 朝廷の機能不全に対して別のアプローチを意図したのが鳥羽法皇である。
 久安三(一一四七)年四月七日、園城寺の長吏が社務を執行している越前国白山社を、延暦寺の末寺にすべきだという訴えが延暦寺から起こされた。
 鳥羽法皇はこの訴えを棄却しただけでなく、鳥羽法皇の動員できる可能な限りの武力を動員して比叡山延暦寺に対峙させたのである。久安三(一一四七)年四月一四日には、鳥羽法皇の命令により延暦寺僧徒の入京に備え鴨川岸に陣形を整えさせたほどである。
 こうした緊迫した情勢の中、一つの事件が発生した。
 久安三(一一四七)年六月一五日、祇園臨時祭で祇園神人が平忠盛と平清盛親子の郎党の武装解除を要求し乱闘に発展したのである。
 これを祇園闘乱事件という。
 事件の発端は以下のとおりである。
 平清盛が祇園社に詣でて田楽を奉納しようと社頭で田楽の準備をしていたところ、田楽の準備を警護する平清盛配下の武士と、田楽の準備を制しようとした社家の下部との間で争いとなり、平清盛の配下の武士の放った矢が社僧や神人、宝殿などに当たった。
 これがきっかけとなって平清盛配下の武士たちと祇園社家たちとが乱闘となり、祇園社内に鐘が響き渡り多くの人が集まったことで、この騒ぎはいったん沈静化した。
 この頃、鳥羽法皇と崇徳上皇は揃って比叡山に赴いており、京都に戻ってきたのは六月二四日のことである。このとき、鳥羽法皇と崇徳上皇を迎え入れたのは比叡山延暦寺の所司らである。ここではじめて鳥羽法皇は祇園闘乱事件を耳にしたこととなる。このニュースを聞いた平忠盛はただちに平清盛の家臣のうち祇園社で矢を放った七名を特定し、彼らを犯人として検非違使に引き渡している。なお、この時点における平清盛の態度は明瞭ではないが、おそらく、父の行動にいくばくかの不満を持ったことは想像される。
 一方、比叡山延暦寺の怒りは犯人七名の出頭だけで済むものではなかった。六月二六日には比叡山が主導した日吉社と祇園社のデモ集団が京都に向けて出発したのだ。双方とも神輿を担いでのデモ行進である。デモの要求は平清盛だけでなく、監督責任として父の平忠盛についても流罪とせよというものであった。
 ここで事件は混迷を迎えることとなる。
 久安三(一一四七)年六月二八日、鳥羽法皇主導の審理が始まる。これによりデモ集団の動きは一時的に沈静化したが、あくまでも一時的であり、いつまた暴発するかわからない状態であった。そこで、鳥羽法皇は検非違使の源光保、源親康、平家弘、源季頼、さらに源為義まで動員して平安京の警護をさせると同時に、平正弘、源季範の軍勢にも出動を命じデモ集団に向かい合わせた。ここで平忠盛と平清盛親子の軍勢が加わればこの時代の軍勢オールスターズの誕生であるが、当然ながら平忠盛と平清盛は軍勢の中にいない。また、このときは運悪く源義朝が関東地方に一時的に戻っている頃であり、源義朝の率いる関東地方の武士団も動員できない。長期の戦闘になるという想定も存在しないためか関東地方に急使を派遣してもいない。
 軍勢とデモ集団が向かい合うことで一触即発の事態が続いていたが、鳥羽法皇はデモ集団に対して側近の一人である藤原顕頼を派遣して鳥羽法皇主導の審理を待つように命じたことで、デモ集団は一時的に比叡山に戻っていったが、デモ集団は武装解除された状態ではなかった。それは、鳥羽法皇主導の審理が機能していないと判断したことも理由として加わっていた。
 審理が機能しないのは当然で、鳥羽法皇のもとに出頭を命じられた平忠盛は犯人七名を検非違使に引き渡したが事件そのものは知らないと述べ、平清盛はそもそも今回の責任は比叡山延暦寺の側だけにあると主張して父が七名の部下を検非違使に引き渡したことすら誤りであると主張したのだ。鳥羽法皇主導の審理の場で事件を目撃していたのは平清盛ただ一人で、その他の状況報告は全く無い。
 久安三(一一四七)年六月三〇日、白河北殿に摂政藤原忠通や内大臣藤原頼長をはじめとする主だった貴族が集められ審理を継続したが、そこでもやはり結論は出ない。そこで、事件現場の見聞が必要ではないかということで祇園社に使者が派遣され、矢の痕跡の残る宝殿や流血のあった場所、また、実際に怪我を負わされた人からの聞き込みが行われたと同時に、検非違使でも平忠盛から引き渡された七名の尋問も行われた。行われたが、それは要領を得ないものであった。七名とも事件現場に向かって矢を放ったことは認めたが、事件が発生したと聞きつけて駆けつけ、騒動を沈静化させるために矢を放ったと述べただけで、何が原因で闘乱が起こったかわからないというのである。つまり、矢を放ったこと、それで負傷者が出たことについては有罪とすることができても、デモ集団の要求するような流罪には相当しないのだ。
 久安三(一一四七)年七月五日になっても集めることができた情報は矢を放つことで生じた負傷者と損害だけであり、闘乱そのものの原因も責任もわからないでいる。この中間報告を受けた比叡山のデモ集団は激怒し、さらに人数を増して京都への殴り込みに行くことを決定した。ただし、人数が増えたために即時の行動とはならないでいる。一方、比叡山から六月末以上の規模のデモ集団が京都に押し寄せることは情報として京都に届いていた。そこで鳥羽法皇は、群勢のさらなる拡張を図っただけでなく、比叡山の西の入り口である西坂本に軍勢を配置させた。しかも、交代制で昼夜を問わぬ配備である。これはいくらか比叡山のデモ集団の動きを沈静化させる効果を持った。特に、比叡山延暦寺のトップである天台座主行玄は、デモ集団と軍勢とが衝突した場合の流れる血の多さを危惧し、デモの沈静化を非公式ながら命令するようになった。
 また、この頃は旱魃が社会問題化してきており、このままでは秋の収穫に多大な影響が出ることが懸念されていた。事態の長期化を懸念した鳥羽法皇は源義朝に京都に戻ってくるよう促そうとしたが、まさにこのタイミングで関東地方から届いたのは、関東地方に旱魃の兆候が見られ荘園間の争いが一触即発の状態になっていること、その状態を最後のところで食い止めているのが関東地方に一時的に戻っている源義朝とその軍勢であることを記した現地報告書である。相模国司は京都で何を起こっているかを掴んでいたが、そのために源義朝が京都に行ってしまったら関東地方で何が起こるのかは明瞭であった。源義朝を関東地方に留め置くことが関東地方における最高の安全保障になっていたのである。
 関東地方に限らず日本全国から旱魃の情報が届いているという状況で、デモを何度も起こして流罪を要求することは比叡山延暦寺の評判を地に叩き落とすことにもつながる話であった。これは久安三(一一四七)年七月一八日に、旱魃対策として神泉苑の池の水を空にして平安京周囲に神泉苑の水を行き渡らせるよう鳥羽法皇が命じたことでさらに加速した。旱魃問題に対処する鳥羽法皇と、旱魃問題に目もくれずデモを繰り広げるだけの比叡山延暦寺とで、どちらが庶民の支持を集めるかは記すまでもない。
 鳥羽法皇が庶民の支持をさらに高める行動に出たのが久安三(一一四七)年七月一八日以降のこと。この日と、七月二三日、七月二四日の計三回に渡って、比叡山に向かい合う軍勢のうち交代で空き時間となった者を集めて軍事パレードを開催したのである。七月一八日は源季範、源光保、源近康、源季頼、源為義、平繁賢、平貞賢。七月二三日は平家弘、源重成、平公俊、七月二四日は平盛兼、平盛時、源親弘、源義国、源助光という構成であり、その軍事パレードは平安京内外から多くの人が見物に詰めかけるものとなった。
 およそ一ヶ月に渡った鳥羽法皇主導の審理の結果が出たのは軍事パレード最終日でもある久安三(一一四七)年七月二四日のことである。内大臣藤原頼長が律令と照らし合わせ、さらに明法家、現在で言う法学博士の意見も集めたところ、平忠盛は無罪とするしかなく、平清盛は有罪とできなくもないが、律令に基づく最高刑を平清盛に課したとしても罰金刑が上限であり、その金額も贖銅三〇斤が限界であると結論づけたことから、平清盛に贖銅三〇斤の罰金刑を課すと決まったのである。平忠盛と平清盛の親子に対する流罪の要求はここに正式に拒否されることとなった。
 鳥羽法皇から伝えられたこの結論は比叡山延暦寺の内部を二分する騒ぎとなった。受け入れるべきとする天台座主行玄と、あくまでも要求貫徹を求める相明と最雲法親王の二名の法印との対立が生じ、久安三(一一四七)年八月一二日、要求貫徹を求める僧侶たちが天台座主の居する房に押し寄せるに至った。この日は天台座主支持派の僧侶たちによって守られたが、翌八月一三日に前日以上の勢力で押し寄せた僧侶たちが天台座主行玄とその弟子の重喩の房を襲撃して双方とも破壊。天台座主行玄は比叡山から脱出した。
 これを重く見た鳥羽法皇は、比叡山延暦寺内の騒動の沈静化を命じたが、激昂する僧侶たちは鳥羽法皇の意見を無視。それどころか要求貫徹として平忠盛と平清盛の二名の流刑を改めて要求したのである。
 それからおよそ一ヶ月半に渡って双方の意見の対立が見られたが、久安三(一一四七)年一〇月八日、鳥羽法皇は最終手段に打って出た。検非違使を派遣し、行玄追放の首謀者を逮捕したのである。この逮捕に怒った僧侶たちは一時的に被疑者を奪還したが、鳥羽法皇はさらなる強硬手段に出る。久安三(一一四七)年一〇月三〇日、鳥羽法皇が院宣を発し、行玄を天台座主に復帰させることを命じたのである。拒否する者は全員を流刑にするとしたこの命令には比叡山延暦寺の僧侶たちも黙って受け入れるしかなかった。
 ここに、およそ四ヶ月半におよんだ祇園闘乱事件は終結した。
 祇園闘乱事件は鳥羽法皇のもとでの二つの派閥を生みだした。
 鳥羽法皇とともに比叡山延暦寺と向かい合った貴族や武士たちと、向かい合わなかった貴族や武士たちである。後者を構成したのが、摂政藤原忠通、平忠盛、平清盛、そして関東地方に留まらざるを得なかった源義朝である。この面々を覚えておいていただきたい。


 ポピュリストがファシストを兼ねることは良くある。
 曲がりなりにも民主主義の一種でもあるポピュリズムと、民主主義と対極にあるファシズムとが兼ねるというのは一見するとおかしな話に見えるが、どちらも理(ことわり)ではなく感情に基づいているという点で共通はしている。民主主義という視点を外せば、ポピュリズムはどのような方法を使ってでも支持を集めるのに対し、ファシズムはどのような方法を使ってでも支持を維持するという点で類似しているといえる。ゆえに、ポピュリズムで権力を掴み、政権を掴んだ後でファシズムに変貌するというのは人類史のいたるところで出現してきた珍しくもない話である。後になって調べてみれば、権力を掴む前から組織内ではファシズムが跋扈していたということもあるし、権力を掴んでからもポピュリズムで新たな支持を手にしようと画策するようになったというのもある。
 ポピュリストとしての鳥羽法皇にはファシストとしての側面もある。それが、組織を維持するために組織の外に敵を、組織の外の敵が居なくなったら組織の中から敵を見つけ出して攻撃することである。組織の中に対しては残された者の結束を高めることになるし、組織の外に対しては悪の敵に対して正義の攻撃を仕掛けているというアピールにもなる。敵を見つけて攻撃するというのは、支持を集め、支持を強める、低レベルではあるが有効な方法である。
 もっとも、敵にされた側にとってはたまったものではない。本人にとっての命の危機であり、さらには、自身の家族や子孫にまで害をもたらす惨事ですらある。貴族としての命運が尽きるだけではなく、一族が歴史の闇に消える危機にまでなるのだ。
 以前から敵とされていた藤原忠通は、この状況を打開すべく鳥羽法皇への擦り寄りをはじめた。鳥羽法皇ファシズムが時代を支配しているときに生き残るためには、ファシズムに敵対するよりもファシズムの中での生き残りを模索するというのも一つの手だ。文化大革命という大量虐殺を伴うファシズムの中で生き残るためには、文化大革命を批判するのではなく、自分で率先して毛沢東語録を手にする必要があったように、この時代において鳥羽法皇の勢力の一員になることは生き残るための方策の一つでもあったのだ。
 既に国内最大の荘園領主ともなっている鳥羽法皇に、金銭やコメを使っての賄賂は通用しない。藤原忠通が狙ったのは珍妙さである。久安三(一一四七)年一一月一〇日に九州の荘園から取り寄せたクジャクとオウムを鳥羽法皇に献上した。人間の言葉を喋るオウムは多少は話題となり、献上した藤原忠通に対する視線も変化が生まれたが、鳥羽法皇の心情における藤原忠通の状況回復とは何のつながりも生まなかった。それどころか、藤原忠通の立ち位置はこれでさらに悪化するのである。
 摂政藤原忠通さえどうにかすれば藤原頼長の問題も解決することに鳥羽法皇が気づいてしまったのだから。 

 摂政藤原忠通をどうにかするとはどういうことか?
 最大の懸念は藤原頼長が法的権力を持つことである。現在は、一上(いちのかみ)の称号を得た議政官のトップではあるが、議政官の開催と議事進行は権大納言筆頭の藤原実行が担当している。内大臣を差し置いて権大納言が進行しているのは一見するとおかしな話ではあるのだが、何度も繰り返しているとおり、左大臣も右大臣もいないときは内大臣を除く議政官のトップが代行を務めることが定められている。律令通りであることから、このことについて藤原頼長は何の文句も言っていない。ただし、自分が内大臣であり続けていることに対しては苦言を呈している。その上で、左大臣、それがだめでも右大臣に自分を昇格させるべきと述べている。
 鳥羽法皇もそれをわかっている。そうすれば少なくとも朝廷の機能停止を直ちに復旧できることをわかっている。
 だからこそ、藤原頼長を内大臣よりも上にすることができなかったのである。
 そこで鳥羽法皇が狙ったのが、藤原忠通の手にある摂政の地位だ。藤原頼長を摂政にしてしまえば全て解決するのである。
 急進的な律令制への回帰を望んでいるということは、この国の政治を、経済を、そして社会を、律令制に定められた姿に戻すことを意味する。現実と律令とが乖離していることは認めていても、正すべきは現実のほうだとするのが藤原頼長の考えだ。この考えは、藤原頼長が左大臣か右大臣のどちらかになった瞬間に実行されてしまう。
 それを食い止めるのが摂政就任だった。
 摂政になるとたしかに絶大な権力を手にする。それこそ摂政の証明捺印が御名御璽に匹敵するほどの権力を手にすることとなるが、藤原頼長という人は律令制への回帰を望んではいても自らが独裁者になることを願っているのではない。本心では独裁者になろうという思いがあったのかも知れないが、律令制に基づく政治をすることは、本質的には独裁者を生じさせずに権力を分散させ、議政官から上奏された議論の結果に天皇の御名御璽が加わって正式な法律となって日本全国に発せられる政治を作り上げる仕組みを維持させることを意味する。
 議政官を構成するのは左大臣から参議までの役職にある者であり、その役職にある者は議政官での議論に参加する義務を持つが、その役職のいずれかにありながら議政官の議論に加わらないことが慣例になっている者がいる。摂政や関白を兼任する者だ。記録を遡れば摂政や関白を兼ねている左大臣や右大臣が議政官にあくまでも一人の大臣として参加したという記録も存在はするが、それはむしろ異例であって、通例としては左大臣が右大臣が摂政や関白を兼ねたら議政官から退席するのが慣わしだ。
 藤原頼長が左大臣や右大臣になったとしても、摂政を兼任させてしまえば堂々と藤原頼長を議政官から追い出すことが可能となる。ただし、現時点で摂政である藤原忠通に対して摂政の地位を弟に譲り渡すように説得しなければならない。このとき藤原頼長二九歳、藤原忠通五二歳。地位を譲るという点でおかしな年齢差ではないが、既に摂政専任となっている藤原忠通から摂政の地位を剥奪することは、政界引退をしろと命じるに等しい。そうでなくとも藤氏長者の地位を幼い藤原基実にいかにして譲ろうかと画策している最中であり、ここに来て摂政の地位を弟に渡すというのは、藤氏長者の地位を弟に譲ること、ひいては藤原摂関家の当主の地位を自らと自らの子孫のもとから、弟と弟の子孫のもとへと移ってしまうこと、そして、二度と戻ってこなくなることを意味する。
 藤原忠通には到底容認できることではない。


 鳥羽法皇は摂政の地位の禅譲を画策するようになったが、藤原忠通は頑として応じない。その間も朝廷の機能不全は延々と続いており、一上(いちのかみ)の称号を得た藤原頼長の面子を傷つけないようギリギリで議政官の議事を進めていた権大納言藤原実行は、与えられた条件の中では良くやったとするしかないのだが、納得いく成果は残せないままであった。
 顕著なのが治安問題だ。
 その国の政治情勢を探る指標の一つに治安がある。特に首都の治安はその国の政治能力を示す、かなり高いレベルの指標である。首都の街中ですら安心して歩けないというのは政治能力の低さを示すのみであり、治安悪化と言うことは警察権の発動すらできないことを意味するのであるのだから。
 治安悪化の顕著な例の一つが、放火である。それも著名な建物の放火である。放火には二種類あり、テロの一環として放火するケースと、火事場泥棒を目的とするケースとがある。目的は異なるが、双方とも放火犯にとっては莫大な利益をもたらす、すなわち、甚大な被害を生じさせることに違いはない。
 久安四(一一四八)年はどうであったか?
 二月一七日に発生した大火では法成寺惣門や法興院などを焼きつくした。
 三月六日に四条油小路より発生した火災は南へと火災の進路を進め、六条堀川までの数千もの家が灰に消える惨事となった。
 三月二九日には三条河原辺の小屋より出火し、数百家を焼きつくした後に祇園社を焼亡させるまでに至った。
 わずか一ヶ月半でこれである。藤原実行がいくら与えられた条件の中で懸命にやったのだと訴えても、これが藤原実行の政治家としての能力なのかと言わざるを得ない。
 藤原実行にも言い分はある。何しろまだ権大納言だ。左右の大臣が不在なために議政官を開催して議事進行する権限はあると言っても、大臣が行うときのようなスムーズさは期待できない。おまけに、議政官を見渡すと自分よりも格上である内大臣藤原頼長がいるのだからスムーズさはもっと期待できなくなる。
 さらなる問題として、検非違使がなかなか動かないことも挙げられる。鳥羽法皇が命令するのであれば検非違使は動くのだ。鳥羽法皇の命令次第で荘園を獲得できるかも知れないし、うまくいけば平忠盛のように武士でありながら四位にまで位階を高めることもできる。一方、朝廷からの命令にそのようなものはない。火災対策にしろ、放火対策にしろ、検非違使にとっては激務の連続だが、激務が続くのに見返りはほとんど無い。使命感に訴えて出動を命じても、労多くして益少なしで動く人はそう多くはないのが現実だ。
 検非違使たちは自分に課せられた仕事をするのに鳥羽法皇の命令が出るのを待つようになった。朝廷からの指令では何も得られないが、院からの指令であれば、報酬も、永続的な資産も、そして何より大切なこととして、出世することで、やりたくもない検非違使からの堂々たる卒業を果たせるのである。


 久安四(一一四八)年六月二六日、朝廷の機能不全は土御門内裏を焼亡させるにまでいたった。国政の中枢が火災に遭っているというのに検非違使は動かず、あるいは動けず、ただ燃えるがままにされたのである。

 この状況下での批判を一手に浴びることとなったのが摂政藤原忠通である。藤原忠通が摂政として行動していればこのような火災が起こることも、あるいは火災が起こったにしてもここまで多大な被害とはならないという意見が大勢を占めるにいたったのである。そうした意見の中には藤原頼長を左大臣にさせるべきだとの意見まで登場した。急進的な律令制への回帰であっても、それが国民経済を破壊するものであるとわかっていても、治安が破壊されるよりはマシだと多くの人が考えるようになったのだ。
 こうした世論は藤原忠実も動かした。久安四(一一四八)年七月一七日に藤原忠実が私的に所有する荘園のうち一八ヶ所を藤原頼長に譲ったのである。本来なら藤原忠通が相続するはずの荘園を生前贈与で藤原頼長に譲ったのだ。藤原氏のトップである藤氏長者は摂政藤原忠通であることはまだ動かせないが、藤原氏の資産は藤原頼長が継承するというアピールであり、近い未来の藤氏長者交代の布石であった。
 藤原頼長への継承についてのもう一つの布石も存在していた。藤原頼長には男児がいても女児がいない。ゆえに、自分の娘を皇室に嫁がせることで摂政となる手段は持たない。しかし、妻の弟である藤原実能には娘がいる。それも久安四(一一四八)年時点で確認できるだけで三人の女児がいる。藤原頼長は三人の女児のうちの三女である藤原多子を養女に迎え入れたのである。目的はただ一つ、近衛天皇に嫁がせるためである。藤原多子は保延六(一一四〇)年生まれであるからこのとき数え年で一〇歳、満年齢で八歳という幼さであるが、保延五(一一三九)年生まれの近衛天皇に嫁がせることを考えると、近衛天皇の一歳下というのはちょうどいい年齢差である。
 藤原多子の入内は事実上決定していた。ネックは近衛天皇と藤原多子の幼さだけであるが、この時代、一〇歳で元服することは珍しくない。近衛天皇の元服に伴い藤原多子を入内させることはほとんど決定していた。というところでもう一つの問題が現実のものとなった。皇族の元服で加冠役を務めるのは天皇であるが、天皇自身の元服だけは例外で、加冠役は太政大臣がつとめる。ところが、太政大臣を務めることのできる人間がいない。いるとすれば内大臣藤原頼長である。太政大臣は人臣最高位であるが、議政官の一員になることはできない。左大臣になって議政官を操縦することで律令制への回帰を狙っている藤原頼長にはどうあっても承認できない話になってしまうのだ。
 左大臣も右大臣も経験せずに内大臣からいきなり太政大臣になったという先例はあるが、太政大臣が左大臣や右大臣になったという例は無い。すなわち、議政官より上の官職に上った者が議政官に戻ることはあり得ない。
 二年前には将来起こりうる危惧であったのが、ここに来て現実の危惧となったのである。しかし、藤原頼長はこの時代の誰もが想像しなかったアイデアを主張した。
 摂政藤原忠通を太政大臣にするのである。
 一見すると摂政が太政大臣を兼ねるというのだからごく普通のことのように見える。
 ところが、藤原忠通は大治三(一一二九)年一二月一七日から大治四(一一三〇)年四月一〇日までのおよそ五ヶ月間という短期間ではあるが、太政大臣を経験しているのだ。
 崇徳天皇元服の加冠役としての太政大臣就任であり、元服を終えたら早々に太政大臣を降りている。三三歳で太政大臣に就任しその翌年には退任しているから太政大臣のキャリアとしては若い。そして、早々に太政大臣を退任したために、太政大臣退任後のキャリアは摂政選任、あるいは関白選任となっている。
 律令に太政大臣再任を禁止する事項は無く、太政大臣に就任するのに必要な位階があるのみである。そして、従一位左大臣源有仁が亡くなってから、従一位の位階を持っているのは摂政藤原忠通ただ一人となっている。ちなみに藤原忠実は既に出家した身であるため位階を喪失しており、太政大臣になる資格を有さない。


 藤原忠通は自分が太政大臣に再任することについて特に何も述べていない。異例なことではあるが受け入れざるを得ないこととは考えているようで、太政大臣再任のスケジュールについて調整をし始めている。ただし、譲れない一点がある。藤氏長者の地位を自分が保持し、実子の藤原基実が藤氏長者を継承すると確約することである。
 その一環として、それまで藤原頼長は兄である藤原忠通の養子ということになっており、弟というだけでなく養子としても藤氏長者継承者筆頭であったのだが、これを期に養子縁組は解消された。二人の関係は兄弟へと戻り、藤氏長者の継承権筆頭は藤原基実で、藤原頼長が藤氏長者となることがあるとすればそれは、未だ幼い藤原基実が成長するまでの中継ぎであるというのが、養子縁組解消という形で藤原忠通の示した未来であった。
 近衛天皇の元服を優先させるための太政大臣再任と、その対価としての藤氏長者の地位について天秤にかけられることとなった。しかも、近衛天皇の元服は年が明けた久安五(一一四九)年一月と決まり、元服とほぼ同タイミングで藤原多子の入内も決まった。スケジュールが詰まっていることから、藤原忠通の主張する藤氏長者の継承を認めてでも藤原忠通の太政大臣再任が決まりつつあった。
 決まりつつあったというのは、決まったわけではないからである。
 何が起こったか?
 久安四(一一四八)年一二月一四日、藤原忠実の妻である源師子が七九歳で亡くなったのである。高陽院藤原泰子と摂政藤原忠実の実母である女性が亡くなったことは、藤原忠通、藤原頼長の二人が服喪期間に入ることを意味しただけでなく、崇徳上皇と近衛天皇も服喪期間に入ることを意味した。元服も藤原多子の入内も延期である。
 この延期が思わぬところで論争を巻き起こした。
 摂政藤原忠通と内大臣藤原頼長の服喪期間は同年一二月二八日に解除することが命じられた。本来であればもっと長くなければならないのだが政務の中心を担っている者の場合は半月位内に服喪期間終了を命じられることが普通である。ただし、崇徳上皇と近衛天皇の服喪期間はまだ続く。また、鳥羽法皇は出家しているため服喪期間そのものが適用されない。
 近衛天皇の元服と藤原多子の入内は久安五(一一四九)年一月一九日を予定日していたが服喪期間中として見送られ、延期することが決まった。問題は、どのタイミングで崇徳上皇と近衛天皇の服喪期間を解除し、近衛天皇の元服の儀を開催し、藤原多子の入内を認めるかである。この答えがなかなか出なかった。
 ドラマや小説などに登場する陰陽師はオカルティックな人物として描かれることが多いが、実際には朝廷に仕える国家公務員であり、陰陽師の勤務する陰陽寮も現在で言う気象庁に該当する国家機関である。呪術もたしかに職掌に含まれてはいるが、そのほとんどは天体観測、気象観測、カレンダーの管理と作成といった業務である。元服の儀や入内、あるいは服喪期間の解除といった日程についても陰陽寮が中心となって決定しており、陰陽寮の示した吉日の中から最適な日程を選ぶのが一般的である。
 陰陽師と言えば安倍晴明という名が真っ先に思い浮かぶ人も多いであろう。実際、安倍氏はこれまでに何人もの陰陽師を輩出しており、久安五(一一四九)年時点では安倍晴明の直系の子孫である安倍泰親が権陰陽博士、すなわち陰陽寮における実務のトップにあった。ただ、安倍泰親は事務方も含めたトップというわけではなかった。このときの陰陽寮のトップである陰陽頭は賀茂憲栄。賀茂氏も安倍氏と同様に代々陰陽寮に人材を送り込んできた家系である。権陰陽博士と陰陽頭とでは、陰陽寮の中における権威でいうと権陰陽博士のほうが上であるが、対外的には陰陽頭のほうが上の位階になる。プロ野球やサッカーでいうところの、選手を代表するキャプテンが権陰陽博士安倍泰親で、監督が陰陽頭賀茂憲栄という図式と捉えるとだいたい一致する。律令に従えば、権陰陽博士の位階は正七位下相当であるのに対し、陰陽頭は従五位下と貴族の一員にカウントされている位階であるが、前述の安倍晴明のように陰陽頭より上の位階を獲得していた例もある。ゆえに、上下関係が微妙なところになるのが陰陽寮というところであった。
 この二人が激しい論争を繰り広げたのが久安五(一一四九)年三月一二日である。どの日を吉日として、近衛天皇の元服と藤原多子の入内の日として推すかで意見が真っ二つに割れたのだ。
 安倍泰親は陰陽道に基づいて最高の吉日を導き出そうとするが、賀茂憲栄は藤原頼長の指図による日程調整であると反論。この反論に対して安倍泰親も再反論を繰り返し、吉日を選ぶというただそれだけのことなのに陰陽寮が真っ二つに割れてしまったのである。
 これで余計な時間が注ぎ込まれることとなり、藤氏長者の継承も含め藤原忠通の太政大臣再任が再び荒れることとなった。


 久安五(一一四九)年七月二八日、ついに人事が動いた。もはやこれ以上待てなくなったとすべきか、あるいは、国民経済を破壊する律令制への回帰ではあるが少なくとも治安維持の期待ならできるとすべきか、そこには幾分かの諦念も存在した人事であった。
 内大臣藤原頼長、左大臣に昇格。同日、従一位の位階を獲得。
 権大納言筆頭藤原実行(公卿別当)、右大臣に昇格。
 権大納言源雅定(公卿別当)、内大臣に昇格。
 権大納言藤原実能(公卿別当)、大納言に昇格。
 権大納言藤原宗輔、大納言に昇格。
 権中納言藤原宗能、権大納言に昇格。
 権中納言藤原成通(公卿別当)、権大納言に昇格。
 権中納言藤原公教(公卿別当)、中納言に昇格。
 権中納言藤原家成(公卿別当)、中納言に昇格。
 権中納言藤原重通、中納言に昇格。
 参議藤原清隆(公卿別当)、権中納言に昇格。
 参議藤原忠基(公卿別当)、権中納言に昇格。
 藤原経宗、新しく参議に就任。
 藤原資信、新しく参議に就任。
 源俊雅(公卿別当)、新しく参議に就任。
 議政官だけで実に一四名もの貴族が異動となったが、そのうち九名が鳥羽法皇の院司である公卿別当という、ある意味わかりやすい図式が完成した。さらに言えば新しく左大臣となった藤原頼長も鳥羽法皇のもとに身を寄せる一人であるため、これで鳥羽法皇は議政官を影で支配できる立場となったこととなる。
 ところが、ここに名前が載っていてもおかしくない人が一人、載らないままでいる。
 四位別当の筆頭にして、二ヶ国を知行国とするまでの権利を得ている平忠盛である。順番で行くと平忠盛が参議の一人となっていてもおかしくないところまできていたのであるが、ここに名前はない。
 話は久安五(一一四九)年二月に遡る。鳥羽法皇はこのとき熊野詣に出ており、平忠盛は次男の平家盛を同行させていた。この時点で平清盛に次ぐ伊勢平氏の第二後継者であるから、鳥羽法皇の熊野詣の同行として長男ではなく次男を指名したことはおかしなことではない。それに、平清盛は祇園闘乱事件で鳥羽法皇の不評を買ってしまったのだから、武士としてのボディーガード能力は間違いないとは言え平清盛を鳥羽法皇の同行に任じるのは、父としても逡巡するところがある。それに比べれば次男のほうが適切にも思えたのだ。
 ところが、平家盛は病を押して参加したのである。ただでさえ絶望的に広がってしまっている兄の平清盛との差を埋めようとしたのであろうが、無茶をしたのが良くなかった。熊野詣から京都へ戻る途中の三月一五日、宇治川のあたりで命を落としてしまったのだ。誰もが無茶な同行であると考え、ボディーガードどころか誰もが体調を心配する中での熊野詣は、往路はどうにかなったものの復路は最悪の結末を迎えた。平家盛の乳母父である平惟綱は哀しみのあまりその場で出家し、父の平忠盛は若くして亡くなった子を追悼するため息子の遺品を東大寺に納めた。
 鳥羽法皇は、平忠盛との関係を祇園闘乱事件をきっかけにしてギクシャクさせてしまっていたが、息子の死に嘆き苦しむところを目の当たりにしてまでギクシャクを続けるほど鳥羽法皇は冷徹ではない。息子を強引に熊野詣に参加させたこと、結果として道中で命を落とさせてしまったことを後悔して嘆く姿、そして、この時点で平忠盛が手にしている役職を考えたとき、適職が一つあった。
 久安五(一一四九)年八月二八日、平忠盛が内蔵頭(くらのかみ)に任命された。次男を亡くした平忠盛であるが、平忠盛自身が播磨国の国司にして美作国と肥後国を知行国とし、長男平清盛が安芸国司、四男平教盛が蔵人、五男平頼盛が常陸国司と、中央と地方とでそれなりの勢力を築き上げている。なお、亡くなった次男の平家盛は生前常陸国司であり、五男の平頼盛が常陸国司となったのは次兄の後を継いだことに由来する。六男の平忠度はまだ四歳の幼さであり、三男の平経盛はどういうわけか出世街道から取り残されている。それでも地方と中央を合計して四人が貴族界に名を連ねているというのは、藤原摂関家と比べればはるかに少ないものの、これだけの人数があれば充分に勢力だ。しかも、長男平清盛ですらまだ三一歳という若さだ。この年齢ならはそう遠くない未来、伊勢平氏は貴族界に於いてそれなりの勢力を築き上げるであろう。
 伊勢平氏のトップである平忠盛を内蔵頭(くらのかみ)に任命したというのは、鳥羽法皇なりの配慮でもあった。内蔵頭(くらのかみ)は確かに議政官の一員と比べれば格下だが、内蔵頭(くらのかみ)でしかできない職務も存在する。律令制に従えば、国家財政を担当するのが大蔵省であるのに対し、内蔵寮は中務省の下部に位置し、大蔵省から支給された皇室用資産を管理するのが職掌であった。しかし、律令制に基づく国家財政が成立しなくなった一方で院そのものが国家最大の荘園領主となると、皇室資産は大蔵省を経由せず内蔵寮が直接管理するようになる。内蔵頭(くらのかみ)は内蔵寮のトップであり、事実上、院の持つ荘園の管理の最高責任者となっていたのがこの時代だ。
 おまけに院の荘園は朝廷から独立した組織であるから、朝廷の指導を受けることは無い。現代日本で言うと日銀総裁に相当する役職と言える。日宋貿易で大量の外貨を受け入れ、すなわち円高政策を敷いた上で市場(しじょう)に資金を流通させることでインフレを引き起こしたのが平忠盛である。政策金利を策定するわけでも、マネーサプライを操作するわけでもないが、朝廷から独立した上で国の経済を操作したという点で、平忠盛を日銀総裁に比すのはさほど間違った捉え方とは言えないであろう。


 混乱を極めた近衛天皇の元服の儀の日取りは久安六(一一五〇)年一月四日と決まった。何をそこまで討論する必要があったのかわからないが、陰陽寮では直前まで権陰陽博士安倍泰親と陰陽頭賀茂憲栄との、よく言えば論争、率直に言えば罵りあい、ひょっとしたら殴り合いにまで発展していたのではないかという状況が続いていた。
 その結果、一月四日に元服の儀、一月一〇日に藤原多子が入内、一月一九日に藤原多子を女御とすることが決まった。藤原頼長は藤原多子を皇后、もしくは中宮にすることを考えていたようであるが、さすがに入内直後にそこまでの地位を掴むこと望んではいない。いきなり中宮や皇后になるのではなく少しの時間を置いてから就くのが通例であり、藤原頼長もそこは守っている。
 ただし、下準備は整えている。中宮藤原聖子は永治元(一一四二)年一二月二七日に皇太后となり、皇后藤原得子も久安五(一一四九)年八月三日に美福門院の院号を宣下された。ゆえに、この時点で皇后も中宮も空席である。

 さらに、久安五(一一四九)年一〇月二五日、藤原忠通が正式に太政大臣に再任された。史上初の太政大臣再任であるが、混迷を極めていた藤氏長者の継承について、自分の息子の藤原基実を次期藤氏長者とするより確実な見込みが立ったことで、納得して太政大臣再任を引き受けた。
 そして、混迷の久安六(一一五〇)年を迎える。


 久安六(一一五〇)年一月四日、予定通り近衛天皇の元服の儀が執り行われた。場所は東三条殿。皇族の元服で加冠役を務めるのは天皇だが、天皇自身の元服は太政大臣がつとめる。藤原忠通が太政大臣になったのはこのためである。
 一月一〇日、藤原多子入内。
 入内から間もなくの一月一九日、藤原多子は女御となった。この時点では皇后も中宮もいないため、宮中の女性のランクで皇太后藤原聖子に次ぐナンバー2となる。このとき藤原多子わずかに一一歳。一二歳の近衛天皇とは年齢的にも適切と誰もが考えた。
 ここまでは何の問題も無かった。
 問題は藤原多子が女御となった一月一九日に発生した火災である。この日、広隆寺が焼けたのである。広隆寺の歴史は平安京よりも古く、もっとも古い記録は日本書紀にある。建物は平安京の区画外にあるが、これは平安遷都のタイミングで移転した結果であろうと言われている。平安京が誕生する前からこの土地に存在した寺院が火災に遭ったという出来事は、藤原多子が女御になったこと、さらに、その養父である藤原頼長に対する天からの答えではないかと噂したのである。天災を、天が下した執政者失格のサインと考えるのがこの時代である。女御になったまさにその日に火災が起こったというのは、藤原頼長へ向けられた天からのサイン以外の何物でも無いというのがその考えだ。
 これを活かしたのが摂政太政大臣藤原忠通である。前年に立てていた見込みを実行するときが来たと考えたのである。
 具体的には、藤原頼通と同じ行動を取ることであった。
 藤原忠通は、美福門院藤原得子の養女である藤原呈子を猶子とした上で近衛天皇のもとに入内させる準備を始めたのである。この時点ではあくまでもまだ噂であり、また、年齢が近い藤原多子と違って藤原呈子は既に二〇歳になっている。一二歳と二〇歳の年齢差は滅多に無い話だが、先例の無い話では無い。
 噂の段階に留まっていると言っても、自分の養女以外の女性が近衛天皇のもとに入内する、それも、自分の兄の養女が入内すると知った藤原頼長は戸惑った。弟の性格をよく知る兄は、一点でも律令に逆らうポイントがあったなら間違いなくそこを突いてくることは目に見えている。ただし、突くポイントが無ければ黙り込む人でもある。そして、藤原忠通は何一つ律令に逆らっていない。
 噂を知って戸惑いを隠せなくなった藤原頼長は、久安六(一一五〇)年二月七日、女御藤原多子をただちに皇后とするよう鳥羽法皇に上奏した。鳥羽法皇のもとにも藤原呈子の入内の噂は届いていたが、これで噂は現実のものとなったと悟った。これは皇后位を巡る争いではない。摂政太政大臣藤原忠通と左大臣藤原頼長との藤原氏のトップを巡る争いであり、それはそのまま権力争いなのである。 

 焦っていたのは藤原忠通も同じであった。久安六(一一五〇)年二月一二日、藤原忠通は摂政太政大臣として鳥羽法皇に上奏した。「先例に従えば摂政関白以外の者の娘は立后できない」というのがその主張である。この上奏と同時に、藤原忠通は正式に藤原呈子を猶子とすることを発表した。藤原呈子は権大納言藤原伊通の娘であるが、前述の通り美福門院藤原得子の養女となっていた上に、摂政太政大臣藤原忠通の猶子となったことから、血筋の点で藤原多子を上回る女性となっていたのである。ただし、後出しジャンケンである。弟が事前から準備を整えてから養女を入内させたのに対し、藤原忠通は前触れも無しに藤原呈子を猶子として入内させようとしたのであるから、世間の反応は冷ややかなものがあった。
 この発表のあった翌日の二月一三日、藤原頼長は父の藤原忠実の元を訪れ、藤原多子の皇后立后への協力を仰ぐと同時に、藤原忠実から鳥羽法皇へ、あくまでも出家した二人の僧侶の間の文書のやりとりであるという名目での書状を送らせた。父の協力があると示すことは、藤氏長者の継承という、あくまでも藤原氏内部の権力争いに限定するならば無視できない効果があった。
 父の了承を取り付けたことで兄より一歩進んだと考えた藤原頼長であるが、翌二月一四日、実際に参内して近衛天皇と女御藤原多子との様子を眺めた藤原頼長は落胆した。近衛天皇は一二歳であり、女御藤原多子は一一歳である。そしてこの二人の関係は、現在のPTAが絶賛するような関係であったのだ。藤原頼長は一刻も早く近衛天皇の子を産んで欲しいと願っているのに、いかに元服しているとは言え目の前にいるのは未だ幼い少年少女だったのだ。これでは藤原多子が子を宿すのを待つなど悠長なことは言えない。
 口喧しい人でさえ絶賛するような健全さであるとは言え、藤原多子を皇后とすることができないわけではないと考えた藤原頼長は、久安六(一一五〇)年二月二三日、鳥羽法皇と美福門院藤原得子の二人に対して書状を上奏した。藤原多子の一刻も早い皇后立后を訴えた内容である。さらに、翌二月二四日には鳥羽法皇の御前に藤原頼長が参上し改めて皇后立后を訴えた。
 藤原頼長の悲痛な訴えが功を奏したのか、久安六(一一五〇)年二月二五日、鳥羽法皇が「兼宣旨」を下した。正式な宣旨ではなく、「それがいつかは不明だがこれからこのような宣旨を出す」という予告である。予告されている内容は、藤原多子を皇后とするというものであり、これで藤原忠通の企みは終わったかに見えたが、鳥羽法皇もそこまで藤原頼長の言うことをそのまま受け入れていたわけではない。純粋に皇統問題を考えるのであっても近衛天皇の子が産まれる可能性が高ければ高いほうがいい。そのためには藤原呈子も考慮に値する選択肢だったのである。
 兼宣旨の際に鳥羽法皇は妥協案を提示した。藤原頼長の求めるように藤原多子を皇后にすると同時に、藤原呈子を中宮にするという妥協案である。これには藤原頼長には不満であったが、藤原忠通が弟の性格を理解しているように、鳥羽法皇もまた藤原頼長の性格を理解している。空席となっている中宮を誰かが埋めることで皇位継承問題のリスクを減らすことが可能となる上に、血筋においても美福門院藤原得子の養女であるなら何の問題もない。そして、この一連の動きの中のどこにも律令違反の要素は無い。すなわち藤原頼長が文句を言う余地は無い。
 さらに藤原頼長に対するさらなる妥協点を示した。藤原呈子を中宮とするのは藤原忠通の太政大臣辞任と引き替えとするという妥協点である。一見すると太政大臣就任そのものが近衛天皇元服のためだけの就任であり、元服を終えたら太政大臣を辞任するのは通例の話であるのだから、引き替えの条件として成り立つだろうかとは考える。ただし、あくまでも通例であって、藤原忠通が太政大臣を継続することそのものは律令で認められている話である。太政大臣という職務は、左大臣や右大臣と違って長期間その地位にあったという人は少ない。かつては藤原良房が一五年間その地位にあったこともあるし、藤原忠平も一四年間に渡って太政大臣の地位にあったこともあるが、藤原道長以降で見ると、藤原道長は三ヶ月、藤原頼通は九ヶ月、藤原忠実は四ヶ月と短期間で太政大臣を辞めるのが通例となっている。
 ところが例外が一人いる。承暦四(一〇八〇)年から寛治二(一〇八九)年までという長期間に渡って太政大臣の地位にしがみ続けてきた藤原信長だ。関白の地位を巡る争いからただ一人の大臣である内大臣藤原信長がストライキに入って政務放棄をし、国政が停止したために半ば左遷という形で内大臣から太政大臣へと祭り上げられてきた形での太政大臣就任であり、さらに太政大臣就任後もストを継続したため、結果として太政大臣藤原信長は国政に何ら影響を与えてはいない。
 このただ一人の例外を藤原忠通が繰り返さないという保証はどこにも無かった。しかも、ストライキに入って政務放棄をした藤原信長と違い、藤原忠通は現職の摂政だ。それも、天皇元服によりもうすぐ摂政では無くなることが決まっている摂政だ。
 摂政は署名捺印が天皇の御名御璽の代わりとして通用するだけの権限を持っているが、摂政であることが許されるのは天皇がまだ元服していないからであって、元服したならば間もなく摂政から罷免されることが決まっている。そもそも元服した天皇に摂政がいること自体がおかしな話ではあるが、天皇元服と摂政辞任は必ずしも同時ではない。天皇元服後も少しの間は摂政が存在し続け、少し経ってから摂政罷免と同時に関白就任となるのが通例である。
 摂政から関白になると手にできる権限が激減する。関白はあくまでも天皇の相談役であり、議政官から上奏された議案に署名捺印したところで御名御璽の効果などない。しかし、関白ではなく太政大臣となると話は変わる。太政大臣には議政官の議決に対する拒否権が存在するのだ。いかに近衛天皇元服のためだけの太政大臣就任であるとは言え、太政大臣は太政大臣。左大臣藤原頼長が議政官の議決として上奏し法案に対して、藤原忠通は太政大臣として突き返す権利がある。これは議政官を手にしたはずの藤原頼長にとって目の上の瘤であったのは事実であるが、いかに元服のためだけの太政大臣就任とはいえ、この短期間での太政大臣辞任は現実的ではないとして認めていたのである。そう遠くない未来に兄が太政大臣を辞任するとは考えていても、兄が太政大臣の持つ政治的権利を行使することを選んだとするならば、太政大臣に留まり続けることは充分にあり得た話だったのである。
 だからこそ、このタイミングで出された太政大臣辞任は見返りとして掲げるに値する話であった。
 これだけでも妥協点として不充分と考えたのか、鳥羽法皇は藤原頼長に対する妥協を追加した。久安六(一一五〇)年二月二七日、皇太后藤原聖子に皇嘉門院の院号が宣下されたのである。皇太后藤原聖子への院号宣下は、誰が皇后になるにしても、それについて苦言を呈する資格を持つ女性が宮中からいなくなったことを意味する。これにより、宮中の女性のトップは一一歳の藤原多子のものとなった。
 これらの妥協を藤原頼長は受け入れた。
 久安六(一一五〇)年三月一三日、藤原忠通が太政大臣を辞任。
 翌三月一四日、藤原多子が皇后となる。皇后宮大夫は藤原多子の実父である藤原公能が、皇后宮権大夫は左大臣藤原頼長がつとめるという、これ以上無いバックボーンを持った皇后の誕生である。


 これから一ヶ月以上を経た久安六(一一五〇)年四月二一日、藤原呈子がようやく入内した。さらに、近衛天皇の女御となることができたのは七日を経た四月二八日になってからのことである。
 これだけの長い期間を置いていたのは、久安六(一一五〇)年四月に、それまでの蓄積がついに爆発したからである。
 蓄積の爆発は思いがけないところで現れた。
 四月一二日、左大臣藤原頼長が左大臣の辞表を提出したのである。藤原頼長が左大臣になったと同時に右大臣に藤原実行、内大臣に源雅定が就任している。藤原頼長が左大臣を辞任することの代償として要求したのは大納言藤原実能の大臣就任である。藤原実能を大臣に昇格させるために自分は左大臣を辞し、空席となった大臣のポストを大納言藤原実能に譲ると表明したのだ。
 無論、それは本心からでは無い。それより重要なのは二度目の太政大臣を辞めた兄藤原忠通が三度目の太政大臣に就任しないことである。藤原頼長が狙ったのは、自分が左大臣の辞意を伝えることで藤原実能を大臣に昇格させ玉突き人事を起こさせることである。具体的には、右大臣藤原実行か内大臣源雅定のどちらかを太政大臣に昇格させることで、兄藤原忠通の三度目の太政大臣就任の余地を無くすことにあったのだ。
 これに猛反発を示したのが父の藤原忠実である。藤原忠実には自分の息子の思惑が見えておらず、ただ左大臣辞任の意思だけが伝わったようである。そのため、藤原忠実の見せた動きの最初は息子への怒り、二番目は息子の様子を心配する父としての様子である。最初に「何でこんなことをしたんだ!」と怒り、次に「何が不満なんだ。言ってみろ」というのは、矮小化すれば家庭内でよく見られる光景ではあるが、見逃してはならないのは、これが国政に関わる問題だということである。
 この二番目の動きのとき、藤原頼通は父に自らの想いを打ち明けた。左大臣として議政官を操る地位に就いたが、摂政である兄が自らの目指す政務において目障りになっていること、ついては、摂政の役職と藤氏長者の地位を自分に譲って欲しいというのが藤原頼長の要求として伝えられた。
 これに激怒したのが摂政藤原忠通である。弟の暴走をいかに食い止めようかと苦心しているところで、暴走を食い止めるどころか、自らの持つ二つの地位、すなわち摂政と藤氏長者の地位をともに譲り渡せというのである。摂政の地位を失うことは自らの貴族としてのキャリアの終わりを意味し、藤氏長者の地位を失うことは自らの子やその子孫の命運の終わりを意味する。どちらも到底容認できることでは無い。自分が辞した太政大臣の地位を、右大臣藤原実行か内大臣源雅定のどちらかが就くことは文句を言える立場に無いが、摂政を譲るつもりも、藤氏長者を譲るつもりも無いと公表したのである。
 以前から上手くいっていないよう見えていた兄弟間の対立は、それまでは公然の秘密というところであったが、これからは公然たる対立へと変わった。
 藤氏長者の地位はともかく、摂政の地位は他者がどうこうできるものではない。律令に従えば、摂政に命じるのも、元服に伴って摂政を解任するのも天皇のみが定めることのできる事項であり、上皇であろうと、法皇であろうと、助言はできても命令はできない、ということになっている。事実上は、摂政自らが記した摂政解任と関白就任の命令を天皇が発するという仕組みになっているから、法皇であろうと上皇であろうと、ましてや左大臣や、実の親である元太政大臣であろうと、口出しする余地はますます無くなる。
 摂政藤原忠通は摂政としての権利を行使するときが来たと考えた。律令制への回帰を目指す藤原頼長を相手にするからこそ、律令に則った権利の行使が威力を発揮する。
 その権利とは、議政官を無視した法の発令。
 法は、議政官での討論を経てまとまった法案というだけでは有効とはならない。さらに言えば議政官での討論そのものは法たる用件ではない。現在の議会制民主主義と違い、この時代の法とは天皇の御名御璽があるかどうかで決まるものである。議政官の討論の結果以外に法案として上奏されるものはなく、天皇が法案をゼロから作り出すことも無いというのは、慣例であって法令では無い。
 そして、摂政の署名捺印は天皇の御名御璽の代わりして通用する。
 この二つが組み合わさると、議政官を無視した全く新しい法律を摂政が作りだし、自分で自分のサインと捺印をすれば、それを法とすることが可能となる。それこそ、議政官全員の位階を剥奪して島流しにするという法律を作ることだって可能だ。そこまで無謀な法ではないにせよ、摂政が独自に法律を作るなどしないのは、しないという慣例であって、してはならないという規則があるわけではない。無論、議政官無しで勝手に法律を作るような独裁政治をすれば絶対に支持を無くすし、いかに民主主義では無い時代であるとは言え支持者無しに自らの権力を維持することなどできない。議政官に不正義を見いだし、正義の独裁者が悪の議政官を処罰するという構図を作り出すことに成功しようと、議政官を無視した法令を創出するなど暴挙と形容するしか無いのである。
 暴挙と形容するしか無いからこそ摂政の持つ権力は抜かれることのない伝家の宝刀となるのだが、伝家の宝刀を抜かないまでも宝刀に手を掛けたというのは無言の圧力として充分に通用した。
 対立の末の妥協として、入内からおよそ二ヶ月を経た久安六(一一五〇)年六月二二日、藤原呈子がようやく中宮となった。ちなみに、このとき藤原呈子に仕えた女性の一人に常磐(ときわ)という名の一三歳の女性がいる。その役職は藤原呈子の雑仕女(ぞうしめ)、すなわち、藤原呈子の身の回りの世話をする召使いのことである。それだけであれば歴史に名を残すことは無かったであろうが、彼女は後にとある子を産み、そのことで歴史に名を残すこととなる。彼女の後に生む子、それは源義経と後に呼ばれることとなる男児である。


 藤原兄弟の対立とは言うが、摂政がその地位を守り続けるために懸命になり、左大臣が地位を強化するために辞任をちらつかせている状況が、政局の安定や強化につながることは、無い。特に治安に対して良い状況を生み出すことは、無い。久安六(一一五〇)年七月七日、清水寺における延暦寺と興福寺との対立が再燃し、一年前に清水寺から追放された僧侶らが清水寺を襲撃し、清水寺の僧侶らと合戦するに至った。それだけでも物騒極まりない話であるが、八月五日に興福寺僧徒と春日社神民とが共同で数千人規模となって奈良から入京し強訴するとなると、これは全国レベルの社会問題となる。想像していただきたい。現在で言うと、横浜から首相官邸まで数千人が列を成してデモをしに来るような距離と感覚なのだ。
 その上で忘れてはならないのは、左大臣藤原頼長の辞意がまだ撤回されていないことである。鳥羽法皇が主導して祇園闘乱事件における武士の総動員をもう一度実現させるという手もあるが、本来の手続きによれば左大臣を軸とする議政官の指令によって検非違使を出動させるべきところである。
 奈良からデモ隊が向かってきているという局面で藤原頼長に左大臣としての政務を執らせるため、藤原頼長の要求を受け入れることが決まった。デモの鎮静化のあとの久安六(一一五〇)年八月二一日、右大臣藤原実行が太政大臣に、内大臣源雅定が右大臣に、大納言藤原実能が内大臣に、それぞれ昇格したのである。これにより、摂政藤原忠通の三度目の太政大臣就任の可能性が激減した。太政大臣藤原実行が太政大臣を辞さない限り藤原忠通は三度目の太政大臣に就任できず、太政大臣として行使できる権利、すなわち議政官の議決に対する拒否権発動が封じられることとなった。
 とは言え、摂政としての強硬手段はまだ残っている。太政大臣就任が封じられた以上、兄が強硬手段に打って出る可能性が高まってしまったのだ。強硬手段を封じる方法はただ一つ、藤原忠通を摂政で無くすしかない。もっとも、これは意外と簡単で、近衛天皇は既に元服を迎えているのだからいつまでも藤原忠通が摂政であることがおかしいという世論を形成し、藤原忠通を摂政から関白に移せば良いのである。関白ならば摂政に与えられている強硬手段の行使などできない。
 鳥羽法皇も藤原忠実もそのことは苦慮しているようであり、藤原忠実から鳥羽法皇へ働きかけて藤原忠通に対して摂政辞任と関白就任を促させようとする動きがあったことが久安六(一一五〇)年九月四日の藤原頼長の日記に記されている。鳥羽法皇から宇治に隠遁している藤原忠実への手紙の中に、藤原忠通は鳥羽法皇が命じるなら摂政を辞任すると述べたと記されており、ここで鳥羽法皇が思いきった行動に出れば問題は解決したかも知れないが、鳥羽法皇にはそこまでの行動はとれなかった。
 藤原忠実からはその間も摂政辞任要請は何度も繰り返されてきたが、藤原忠通はその都度、父からの要請を拒否。鳥羽法皇の要請を受けない限り、自らの意思に反して摂政を辞任することはないと繰り返した。長男のこの態度に藤原忠実の意見も頑迷化し、摂政を辞任して関白となるよう促すものから、摂政を辞任してその地位を藤原頼長に譲るよう促すものへと変わっていった。
 久安六(一一五〇)年九月二五日、摂政藤原忠通が、藤原忠実から出されていた藤原忠通から藤原頼通への摂政譲渡要求を正式に拒否した。太政大臣辞任は受け入れたが摂政の辞任は断じて受け入れられないとし、鳥羽法皇の仲介に対しても「収公せらるべし、譲与するあたはず」と応じ、摂政継続の意志を告げる書を鳥羽法皇へと上奏したのである。
 これに激怒したのが藤原忠実である。翌九月二六日、藤原忠実は長男との義絶を宣言し、藤原忠通に与えていた藤氏長者の地位を剥奪したのである。いかに父とは言え、息子の持つ藤氏長者の地位を勝手に剥奪するなど許されるのだろうかという疑問を持つ人も多かったし、実際に藤原忠通自身が父の宣言に対して不満を述べたが、このときに威力を発揮したのが藤原頼長、より正確に言えば藤原頼長に臣従を誓った清和源氏たちであった。源為義や源頼賢といった源氏の武力を背景にして、藤原摂関家の正式な邸宅である東三条殿を占拠し、藤氏長者が世襲してきた荘園の証書である渡荘券文(わたりしょうけんもん)に加え、氏長者印、朱器台盤、蒭斤(まぐさはかり)といった藤氏長者であることを示すレガリアを没収したのである。その上で、鳥羽法皇に藤氏長者の地位を藤原頼長に譲ることになったと上奏したのである。レガリアの所有権も藤原頼長に移された。
 皇帝や王、ローマ法王やカリフといった地位を象徴するアイテムをレガリアという。日本で最も有名なレガリアと言えば、八咫鏡(やたのかがみ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、草那藝之大刀(くさなぎのたち)からなる三種の神器であろう。それだけで天皇の権威を示すとしてもいい。また、皇太子であることを示す壺切御剣(つぼきりのみつるぎ)も、三種の神器の次に日本中で知られているレガリアと呼べる。ちなみに、譲位に伴う三種の神器や壺切御剣(つぼきりのみつるぎ)の相続は相続税法における相続対象外であり、生前譲位の場合は特別法により贈与税の課税対象外となっている。
 現在の税法はさておき、このレガリア、実は藤原氏の内部にも存在する。藤氏長者であることを示すアイテムは、渡荘券文(わたりしょうけんもん)、氏長者印、朱器台盤、蒭斤(まぐさはかり)の四つからなる。渡荘券文(わたりしょうけんもん)は藤氏長者が所有権を有する大和国佐保殿、備前国鹿田荘、越前国片上荘、河内国楠葉牧(くすはのまき)の四ヶ所の荘園の所有権を示す証書、氏長者印は文字通り藤原氏のトップが記す文書に捺印するための印鑑、朱器台盤は摂関家にて開催する大臣大饗で使用する朱塗りの什器のセット、蒭斤(まぐさはかり)は藤氏長者の厩舎の秣(まぐさ)を計量し管理するための秤(はかり)と、各々は実用的なアイテムであるが、それらが藤氏長者が代々継承してきたということで権威を伴ってレガリアへと発展したという経緯がある。なお、氏長者印を外す代わりに朱器と台盤を別アイテムと数えることもあるが、そのどちらも藤原氏のトップは四つのアイテムを継承するものであるという概念ができあがっている。
 藤氏長者たるレガリアは、三種の神器に比べると歴史が浅い。どんなに古く遡っても藤原冬嗣までしか遡ることができず、レガリアとして確立されたのも藤原兼家が最古である。とは言え、邸宅としていた土御門殿の火災時、土御門殿の再建よりも周辺の民家の再建を優先させた藤原道長が、これだけは何よりも先に火災に巻き込まれぬよう待避させたという逸話があれば、伝説から伝統へと昇華させるに充分だ。
 律令を墨守することを是とする藤原頼長が律令には記されていないレガリアにこだわるだろうかと思うかも知れないが、藤原冬嗣に始まる歴史があり、もはや伝説になっている藤原道長の故事が出てくるとなると、いかに藤原頼長が律令にこだわる人間であろうと話は別だ。
 もちろん、話は別となるのは藤原頼長だけではない。
 藤原忠通も父の行動を静観していたわけではない。藤氏長者のレガリアが武力で父に奪われたというのは被害者としてのアピールをする絶好の機会である。その上、藤原忠通には自身がまだ摂政であるというアドバンテージがある。名目上は長女の皇嘉門院が近衛天皇の准母であることを理由に、実際には自らの摂政としての権威を用いて、近衛天皇を藤原忠通の私邸である近衛殿に招くことに成功したとする資料も、近衛殿を里内裏にすることに成功したという史料もある。なお、この時点の近衛殿は、藤原忠通の私邸ではあるが崇徳上皇の住まいでもあり、一時期は崇徳上皇の弟で後の後白河天皇となる雅仁親王も居住していたという。
 一方で、近衛天皇の足跡を追った記録によると、近衛天皇は久安五(一一四九)年一二月二二日に元服のため東三条殿に遷御したのち、久安六(一一五〇)年一月二二日に里内裏である四条東洞院殿に戻ったという記録があるものの、この間に近衛殿に滞在したという記録はない。ただし、どんな些細な外出であろうと近衛天皇の足跡を全て記録している史料のほうが、久安六(一一五〇)年六月八日の記録を最後に同年一〇月四日までの記録を残していない。
 正式な里内裏の一覧を見ても近衛殿の記録は無いが、記録がないことのほうがむしろ怪しいとも言える。なぜかと言うと、近衛天皇の足跡を克明に残している史料というのが藤原頼長の日記なのである。後のことになるが、藤原頼長は全ての貴族と役人に対して日記を記載して保管し提出するよう命じている一方、公式記録のほうにはさほど注意を払わずにいる姿勢を見せている。藤原頼長の残した記録とその他の記録とを比べたとき、明らかに藤原頼長の残した記録の方が間違っているというケースは多く、藤原頼長はおそらく、自分にとって不都合な記録を好き好んで残すような人ではなかったと、さらに言えば記録を改竄することを厭わない性格であったと言える。
 その藤原頼長でも改竄できなかったのが、藤原多子が近衛天皇から遠ざけられることとなったという事実である。近衛天皇との男女関係が冷え切ったからではなく、近衛天皇が摂政藤原忠通に強い影響下に置かれていたからである。摂政が天皇に対して強い影響を与えるというのは律令にも明記されているごく当たり前のことで、これに対して藤原頼長は里内裏を認めないという姿勢を見せはしても、受け入れざるを得なくなっている。そうでなければ、これから一年後の藤原頼長の起こした行動の説明ができない。


 完全に破綻した藤原摂関家を、鳥羽法皇は少し距離を置いて眺めていた。これまで多くの人が藤原北家独裁の打倒を願いながら、その誰もが願いを果たせずにいたのである。それがまさか、このような形で成就するとは夢にも思わなかったであろう。自らが権力を握る仕組みでもある院政を強化するという側面に立つと、藤原摂関家の内紛はむしろ好都合である。ただし、国政に与える影響は想像をはるかに超えて大きい。
 内紛を繰り広げる藤原摂関家は、ともに鳥羽法皇院政に近寄ろうとする。久安六(一一五〇)年一〇月一二日には、藤原忠実が藤原忠通から没収した荘園や家屋を鳥羽法皇へ献上するという出来事まで起こった。その一方で、藤原忠通も自分の息子を貴族界にデビューさせ、自分の次の摂関、そして、弟のものにされてしまった藤氏長者のレガリアの再復を図ろうとした。荘園や家屋を提供した藤原忠実と、息子を貴族界デビューさせようとしている藤原忠通とでは、どう考えても前者のほうがインパクトのあるように見える。甘く見る人であってもこの二点を対等に見る人は少ないであろう。ところが、貴族デビューのタイミングだけを捉えると必ずしもそうとは言えない。そして、藤原忠通が何をしたかを考えると、むしろ、これ以上が考えられないタイミングで最高の行動をしたことがわかるのである。
 まず、久安六(一一五〇)年一二月一日には、崇徳上皇の第一皇子である重仁親王が元服した。これにより、天皇のみならず皇位継承権第二位の親王も元服したこととなるため、天皇が幼少であるという理由での摂政がますます意味を持たなくなる。ゆえに藤原忠通が摂政であり続けることは本来であれば厳しいものとなる、はずである。
 ところが、久安六(一一五〇)年一二月九日に藤原忠通が摂政を辞任し、同時に関白宣下を受けたことで、藤原忠通の立場の厳しさは一変して有利に変わる。一見すると摂政の持つ絶大な権限を手放すことになるのだから痛手となるはずであるが、重仁親王の元服にタイミングを合わせての摂政辞任と関白就任とすることで、鳥羽法皇に対する信任はむしろ上がるのである。考えていただきたい。資産も家屋もレガリアも奪われた者が、ただ一つ残された自らの権威である地位を、祝賀の一環として差し出したのである。資産を奪われる前であれば摂政の何かしらの意図を勘ぐる者も多かったであろうが、苦境に立っているからこそ勘ぐられることは無くなり、むしろ潔い行動へと転換する。
 もっとも、関白藤原忠通は勘ぐられるようなことをしていなかったわけではない。
 この時点で皇位継承権筆頭は、近衛天皇の異母兄である雅仁親王である。元服して間もなくの近衛天皇と違い、久安六(一一五〇)年時点で既に二四歳になっている。普通であれば皇位継承権筆頭ということで皇太子になっていなければならないはずであるが、天皇より歳上の皇太子は認められないという表向きの理由と、とてもではないが帝位に相応しいとは思えないという周囲の評判から皇位継承権筆頭からだんだんとフェードアウトしつつあったのがこの頃の雅仁親王である。
 この雅仁親王には久安六(一一五〇)年時点で八歳になっている第一皇子がいた、孫王である。親王ではなく王であることからもわかるとおり、親王宣下を受けていない、すなわち皇位継承権を持つとは認められていない。孫王を産むとほぼ同時に生母が亡くなったことから祖父である鳥羽法皇のもとに預けられていたこの少年は、皇室に産まれたならば五歳で終えていなければならない着袴の儀を、どういうわけかまだ行なっていなかった。親王宣下も受けていないことからもわかるとおり、鳥羽法皇のもとで軽んじられてきたのであろう。
 関白藤原忠通は孫王に接近した。未だ開催されていない着袴の儀の開催を推したのである。皇位継承権筆頭の雅仁親王にとっては、別れて暮らしているとは言え大切な自分の息子だ。その子を軽んじることなく接する関白藤原忠通に嫌悪感を抱くことはなかったろう。
 重仁親王の元服と合わせた摂政辞任と関白就任が話題となり、孫王の着袴の儀が関白主導ものとで開催されたことで注目を集めたことを活かしつつ、久安六(一一五〇)年一二月二五日、関白藤原忠通は、息子の藤原基実を元服させ、正五位下に叙位させることに成功した。貴族界デビューと同時に左近衛少将に任官されるという、通常の貴族であればありえないが、藤原摂関家の後継者であれば当然のことを、誰もが注目する中で開催したことで、藤原摂関家の後継者は藤原基実であると世間に広くアピールすることに成功したのである。
 およそ一年間に渡る藤原兄弟の対立は、全く予期せぬところで終止符を打った。
 年が明けた久安七(一一五一)年一月一〇日、藤原頼長を内覧とすることが発表されたのである。前年九月に近衛殿を里内裏としたかどうかはわからないが、近衛天皇は少なくとも久安七(一一五一)年一月初頭の時点で四条東洞院殿を里内裏としたこと、すなわち近衛天皇が四条東洞院殿にいたことは確認できている。一月二日に鳥羽法皇の元を訪れた近衛天皇は、帰りの足で四条東洞院殿に向かったことが判明しているからであり、藤原頼長を内覧とするという発表も近衛天皇の住まうところとなっている四条東洞院殿での発表であったのだから。

 藤原忠通には天承二(一一三二)年一月一四日にも内覧の権利を奪われて、内覧の権利を前関白藤原忠実に与えられたという事例があるから、藤原忠通は史上はじめて二度の太政大臣に就任しただけでなく、史上はじめて二度に渡って内覧の権利を剥奪された関白ということになる。このときも一度目と同様に藤原忠通は関白の地位を失ったわけではない。しかし、内覧の権利を失った関白は、関白としての職務を遂行できない。どの貴族よりも先に情報に接することができるという内覧の権利は、議政官において発言権を持たない関白に与えられた貴重な権利である。誰よりも先に情報に接することで、自分の意思の通りに動く議政官の貴族の誰かに自らの意思を託し、他の貴族が行動する前に議政官の議決を作り上げることが可能になるのだ。
 左大臣や右大臣が摂政や関白を兼ねていたら、左大臣として、あるいは右大臣として、自分自身が直接議政官に顔を出すことも理論上は可能であるが、慣例として、摂政や関白は、左大臣や右大臣、あるいは内大臣が兼任した場合、議政官に顔を出さないことになっている。一方、左大臣や右大臣が内覧の権利を持ったところで議政官から退出しなければならないということはなく、そのまま左大臣や右大臣であり続けることは問題視されていなかった。
 そもそも内覧の権利を持った左大臣ということでは過去にとてつもない巨大な先例がある。藤原道長という巨大な先例が。
 藤原頼長の幼名は菖蒲若(あやわか)といい、元服に際して名を改めるときに「頼長」という二文字が選ばれたのも「御堂宇治殿御名」、すなわち、御堂こと藤原道長と、宇治殿こと藤原頼通の二人から一文字ずつ採用した結果である。律令制への急進的な回帰を主張して隠さない藤原頼長であろうと、尊敬すべき先祖としての藤原道長の存在はあまりにも大きく、その先例を踏襲することは律令制回帰に反することになろうと先例踏襲を優先させたのである。もっとも、藤原道長という人は人生で一度も関白にならず、摂政になったのは天皇が幼少であるためやむをえず、太政大臣就任も天皇元服時の加冠役のための一時的な就任に留まっており、執政者としてのほとんどを左大臣として過ごしたことは、藤原頼長にとって律令制回帰と反することとはならなかったが。
 また、藤原道長の威光はこの時代もなお有効であった。時代とともに理想化されるようになっていた藤原道長の時代と同じ統治体制を築き上げることは、藤原頼長の手によって藤原道長の時代を蘇らせるかのような感覚を抱かせることを意味してもいたのだ。
 たしかに藤原頼長は厳しい人であるし、律令制への急進的な回帰を隠さずにいる。康治二(一一四三)年一月一四日の宣旨要請はその一例であるが、そのほかにもいくつものケースで律令制への回帰を要請し、あるいは自ら実践している。
 関白ゆえに持つ特権を失った関白と、関白しか持つことのない権利を持った左大臣とが並立し、対立している。この二人の対立を見たとき、勝者がどちらになるかは明白とするしかない。いかに人望の無い藤原頼長であっても権力者となれば従う人も出てくるし、現実を無視して律令制に回帰しようという急進的な考えであろうと、実際に政権を担うことになれば現実への歩み寄りを見せるであろうという考えもあった。それに、藤原頼長はその博学で名を馳せた過去も持っていたし、自称博学という点では現在進行形であった。
 久安七(一一五一)年一月二六日、仁平へ改元することが発表された。表向きは彗星の出現による改元であるが、実際には新しい時代の創生をイメージさせるための改元である。混沌と治安悪化を目の当たりにしていた当時の人たちは誰もが、鳥羽法皇も、貴族たちも、一般庶民も、三二歳という若さの藤原頼長の時代に託すことで時代が一変することを期待した。
 要は、日本国全体が現実逃避したのだ。
 新元号仁平は、内覧の権利を持つ左大臣藤原頼長の時代になることが高らかに宣言された。
 この国の地獄の始まりであることを知らないまま。


 藤原頼長が最初に手を付けたのが二点。過去の日記のまとめと、出勤記録の把握である。
 まず前者について説明すると、過去の日記と言っても個人的に記録する日記ではなく、朝廷が記録することとなっている外記日記と殿上日記の二種類の日記である。外記日記は各省の実務と朝廷への上奏の記録、殿上日記は宮中での会議の議事録をまとめた記録であり、これらが公的記録となって後の時代に受け継がれるようになっているのであるが、時代とともに記録されなくなってきていた。当然だ。日記を書き記すことのできる者がいないのだから。
 文字を書くことのできる者がいなくなったのではなく、日記を書く時間のほうが無くなったのである。日記を記すのは通常、その日の勤務終了後、もしくは翌日の早朝であり、六位以下の位階の役人である場合はその時間を勤務時間として計上することができない。つまり、サービス残業である。それでも書いて提出するように求められるなら時間を削って書くこともあるが、提出も求められなくなると書く必要も失われる。
 正式な記録が残らなくては困るでは無いかと思うかも知れないが、実際には困らない。なぜなら、各省がどのような政務をし、どのような上奏をし、宮中でどのような討論が行われたかはリアルタイムで全部記録されているだけでなく、要約も行われて保管されているのである。朝廷内においてその役目を受け持つのが蔵人であり、各省においては史生がその役目を受け持つ。どちらも出世コースであり、特に蔵人となって朝廷内の記録をリアルタイムに記録し、要約し、上奏することは、中央政界における政務を学ぶ絶好の機会にもなっていて、生まれの血筋の低さゆえに出世の望みが少ない者に残された数少ない出世の機会にもなっていた。もっとも、中には藤原行成のように、記録そのものの正確さよりも、記録に記された文字の美しさで評判になった者もいたが。
 記録を残してまとめる専門家がいて保管する仕組みも存在するのに、それをもう一度、専門家でもない者に対して日記としてまとめて提出するように求められても、遅い上に、要約としても頼りなく、後の時代の参照とはならない。これから四〇年後の平泉のように都市全体が灰燼に帰したときに備えてのバックアップならば意味があるかも知れないが、これも専門家の残した記録がバックアップされる仕組みを用意すべき話であってサービス残業を強要してまでさせることではない。政務にあたり、上奏し、討論に参加した本人の記載ということでは価値が日記にはあるかも知れないが、発言権は無いにしろこの目で政務を目にし、上奏を目にし、討論を目にし耳にした記録の専門家である蔵人や史生がとっくに提出している記録が既にあるのに、それよりも遅く出てくる記録に価値はない。ついでに言えば、日記は後付けで書くため、意図するか意図しないかの違いはあるが、事実と相違するように改竄されることも頻繁にある。
 日記としての性質が私的であるという点で同列視すべきではないが、まさに日記を記すように命じた本人である藤原頼長の書き記した日記は、克明に記されている反面、自分にとって都合の悪いことは見事に抜け落ち、ときには書き換えられている。日記がこのような状況であるというとき、採用されるのは蔵人や史生が出した記録のほうであって日記ではない。正式な記録とは異なる意見を残すという価値ならばあるかも知れないが、既に限界まで働かされている人間の人生を削ってまですべきことかという根源的問題に行き着く。休まず働き続けることを是とする人は永遠に理解しないことであるが、それがどんなに価値のあることであろうとも、限界まで働かされている人間の仕事を増やして得られるものなど、無い。記録の大切さを訴えるならなおさら、記録をし、保管する専門家と専門の場所が必要であり、その片方が欠けるだけならまだしも双方ともに用意せず仕事を増やして対応させることにメリットなど、無い。
 後者の出勤記録の把握であるが、現在のサラリーマンがこれを知ったなら、一瞬だけ羨ましいと思うであろうことが平安時代には当たり前として存在していた。当時の出勤記録のことを上日(じょうにち)というが、この上日(じょうにち)に記されている出勤記録が正確ではなかっただけでなく、そもそも上日(じょうにち)が作成されないことすら頻繁に見られたのである。要は、無断欠勤をしたところで咎められることは無かったのだ。ただ、羨ましいと思うのはここまで。出勤記録が正確で無いというのは、欠勤しても咎められないと同時に、出勤しても記録されないということである。藤原頼長は上日(じょうにち)の記録を正しく記すように命じると同時に、毎月三日までに前月分の上日(じょうにち)をまとめて提出するよう命じたのである。律令に従えば上日(じょうにち)の提出は毎月一日と決まっているのだから、それを三日まで延期したというのは藤原頼長に言わせればむしろ譲歩であろう。
 ここまではいい。しかし、問題は欠勤せず毎日出勤した場合の勤務日数である。本来は五日働けば一日休むという決まりであり、奈良時代には毎月六日、一二日、一八日、二四日、そして月の最終日を公休日としていたとする記録もあるが、その決まりが適用されるのは六位以下の役人であって五位以上の貴族には適用されない。また、時代とともに決まりが変化していき、公休日という概念が無くなり全ての日を勤務日とする代わりに、同僚と調整して各人が交替で休むようになっていった。その結果、律令通りに働くとすれば毎日働くことを意味することとなり、一日でも休んだらペナルティの対象となることとなったのだ。
 職場のブラック化が一気に進展し、多くの者が不満を述べるようになったが、この不満に大臣藤原頼長は全く耳を傾けなかっただけでなく、自ら日記を記し、自ら毎日出勤する姿を見せたのである。上司がやっているから部下も従わざるを得ないという日本国の悪習が姿を見せたのだ。
 そしてもう一つ、いまの日本国の悪習につながることを藤原頼長はしている。数年後の話になるが、藤原頼長は二人の息子に対し、二人のうちどちらを先に出世させるかは、政治家としての実績ではなく上日(じょうにち)の出勤記録で決めると宣言している。

 息子に対する宣言は数年後ではあったが、役人に対する宣言は既に展開済であった。それも、日本全国ありとあらゆる役所に対して、全ての位階を持つ者に対して、さらには位階を持たない人に対しても宣言済であった。それも、律令に定められたノルマを達成したら評価されるのではなく、ノルマを達成しなかったら罰則が加わるという宣言を済ませていたのだ。
 律令通りということは、税率も上がるし、無償強制労働も復活するということだ。強制労働と呼ぼうと、ボランティアと呼ぼうと、あるいは正しい言い方である奴隷労働と呼ぼうと、労働力に予算をかけず、ただ義務を課して需要を満たそうとするのを快く受け入れる人はいない。ましてや、農作業で一分一秒を争っている最中の、その日に田畑に行かなければ一年間の収穫が無に帰すというタイミングでの強制労働への呼び出しは害悪以外の何物でもない。おまけに、強制労働を優先させたせいで収穫がゼロとなっても容赦なく税は課せられる。
 藤原頼長にそのような不平不満は通用しない。律令は正しく、律令に定められた労働義務を果たし、かつ、収穫を残して税を納めるのは当然のことであり、そのどちらか片方でも欠けるのは怠惰であると断言して終わりだ。
 荘園は、税を軽くするだけでなく強制労働を軽くする仕組みでもあった。無償強制労働となっても送り込める人員を荘園内で保持しておいて、その者に労働義務を代行させる見返りとして、その者とその家族を荘園での収穫で養うのである。無償強制労働の他にも荘園内外の道路や水路の維持、収穫物の輸送、そして、荘園の外から攻め寄せてくる勢力に対して武装して自衛するなど、田畑を耕さなくとも、あるいは漁に出て魚を得なくとも、荘園においてやらねばならぬ仕事は多かったが、荘園はそうした仕事を給与の出る仕事として用意したのである。
 それを藤原頼長は全否定した。全ての人が田畑を耕し、全ての人が道路や水路を整備し、全ての人が荷を運び、全ての人が武器を手に戦うことこそ律令に掲げられた姿であり、それ以外は認めないというのだ。
 このような人がトップに立った国はどうなるか?
 共産主義国家がどうなったか、社会主義国家がどうなったか、全体主義国家がどうなったか、軍国主義国家がどうなったか、愚かな執政者が暮らしを破壊した国家がどうなったかを現代人は知っている。暮らしが著しく悪化し、飢饉と大量の餓死者を生じさせた歴史を知っている。豊かな暮らしを政策で作り出すのは困難だが、政策で暮らしを壊すのはいとも簡単だ。現代人が歴史で学び、ニュースで学んでいる政策で壊された暮らしという生き地獄が仁平元(一一五一)年からのこの国であった。


 現実的ではないとして緩やかになってきていた律令の運用が律令通りになったことの効果は、仁平元(一一五一)年四月にはもう現れていた。
 飢饉の知らせが全国各地から届いてきたのだ。
 今年の収穫どころか、田植えから間もなくの次期なのにこの知らせが届くのは異常事態とするしかないが、四月に知らせを送らねばならないほど喫緊の情勢となっていたとするしかないのである。いかに律令を遵守する藤原頼長とは言え、律令が天候を支配するなど考えてはいない。律令に定められた納税は義務として果たさねばならないが、律令には不作のときの徴税についても規定が存在する。不作のときは徴税減免、もしくは免税だ。
 藤原頼長の元に次々と届く全国各地からの飢饉の知らせを藤原頼長は真面目に捉え対策を検討したようである。仁平元(一一五一)年四月一四日には、貴族たちを従えて平安京内外の福祉施設を巡検し、同年四月二三日、飢饉のため伊勢など九社に訪幣したのだ。
 ただ、地方から届く飢饉の知らせは、この時点ではまだ飢饉ではなく、納税義務の減免のための理由付けであった。何度も記しているが藤原頼長には人望が無い。人望のある人ならば個人的なネットワークで全国各地の情報を手に入れる手段を持つが、人望の無い人は私的に情報を集める手段を持たない。ゆえに、左大臣藤原頼長の手に入れることのできる情報は左大臣として集めることができた情報であって、藤原頼長個人として手に入れることのできた情報ではない。荘園の住人が荘園領主に送る情報ではなく各国の国司が朝廷に送る情報であり、その情報の中心はその年の納税の見込みだ。そして、律令の定めている徴税ノルマを果たせそうか否かというのが情報の軸である。
 現在でも良くあることだが、頑張ったことに報いないどころか、頑張ったことが前例となって次のノルマとして課されることとなる組織は多い。藤原頼長はノルマを果たさなかったことには激怒するが、ノルマを果たしても何の評価もしない人である。このような人を相手にしてノルマ以上のことをする意味はない。いかにノルマを果たすかどうかだけが重要であり、果たせないにしても、藤原頼長ですら認める理由があればそれでどうにかなる。
 上に政策あれば下に対策あり。
 藤原頼長が厳しくすればするほど、藤原頼長の統治を受ける人たちは対策を練って対応するようになる。
 その結果が生産低下だ。
 それでもまだ四月はどうにかなると思っていた。飢饉になるということにしておけば、実際の収穫から支払うべき税ではなく、飢饉ということで減らされただけの税を払うことで、手元に残る収穫はむしろ増える、はずだった。


 その思いは残念ながら果たせなかった。
 四月に飢饉となると報告したことは、本来であれば税の減免を狙っての対策であったのが、結果としてこれから起こる飢饉を前もって通知したということになったのである。国司たちは意図せず、正直な報告を朝廷に伝えることとなったのだ。
 当初は天候不順と台風だった。特に雨が多く、水害が田畑を飲み込む可能性が出てきたのである。普通なら大雨に対して対策を練るところであるが、律令遵守を徹底させたことで大雨対策が採られなくなったのだ。この時代の治水能力で河川の増水をどうにかすることはさすがに難しいが、それでも抵抗することぐらいはできる。水門の開閉だけでも収穫に違いを生むのだ。
 ただし、収穫が税となるとわかっていたらどうか?
 命懸けで田畑を守り、命懸けで収穫を記録したとしても、その収穫は税として持って行かれる。それが律令だ。一方、水害に遭ったということで田畑を放置し、収穫を残せずに秋を迎えても、収穫がないから税が減らされる、あるいは免税となる。それも律令だ。
 これで誰が命懸けで田畑を守るというのか。
 田畑がどうなろうと手元に残らないのに働く意欲など沸くわけがない。働く意欲が湧くのは藤原頼長にも抵抗しうる荘園の住人だけである。律令制への回帰を邁進している藤原頼長は、自身が藤原摂関家という巨大荘園の領主であり、また、権力基盤の一翼でもある院の持つ荘園も視界に入っていながら、荘園に対しても平然と税を課し強制労働義務を課していた人であった。こうなると、藤原摂関家や院の荘園の一員であることはメリットではなくなる。となると、寺社勢力の荘園と言うことになる。寺社勢力は今なお藤原頼長に対して逆らう姿勢を示しているのだから、寺社勢力に組み込まれれば少なくとも納税と強制労働からは免除される。
 藤原頼長はこのあたりのことをかなり早い段階で認識していたようであるが、徹頭徹尾律令にこだわる藤原頼長は寺社勢力に対して取りうる手段もまた律令しかないと認識していたようで、もっとも早い記録としては仁平元(一一五一)年二月二三日に藤氏長者としての権限を利用して興福寺に対して武装解除を命じたという、律令に示されてはいる範囲での手段を命じた記録があるが、その実効性については疑念が浮かぶ。


 興福寺に対する武装解除命令を出した二日前の仁平元(一一五一)年二月二一日、藤原頼長は鳥羽法皇と一つの取引をした。藤原頼長の長男の藤原師長を参議に、次男の藤原隆長を侍従にする代わりに、鳥羽法皇の四位別当で未だ参議になれずにいた平忠盛を刑部卿にするというものである。元々は空席となっていた参議の椅子に誰を就けるかで揉めていたのである。四位別当の序列の順番で行くとそろそろ平忠盛が参議になる順番であったのだが、武士が参議になるというのは前例が無い。一方、藤原師長は一四歳という若さであるが、左大臣の息子であるという一点を加味するにしても前例の無いことではない。
 結局は鳥羽法皇が折れて、藤原師長を参議にする代わりに平忠盛には刑部卿の役職が用意された。刑部卿がトップを務める刑部省は、律令制の上では警察権と司法権を司る役職である。刑部省の役人が逮捕し、刑部省の役人が裁判をし、刑部省の役人が管理する監獄に収監するのが律令で定められた役割であり、これでは検非違使と何が違うのかと思うかも知れないが、実際、検非違使と全く同じ役職である。いや、刑部省は平安京が管轄外であったのに対し、検非違使は平安京も管轄に含めているから検非違使のほうがより大きな権限を持っていると言える。
 検非違使に役職を奪われた後の刑部省は実務を伴わない名誉職となっていたが、それでも刑部省のトップである刑部卿の権威は強く、四位の位階で就任できるのは稀で、通常は参議の兼職、もしくは参議に任官できぬが三位以上の位階を得ている貴族が就任する役職であった。そのため、刑部卿というのは参議になれないことに対する平忠盛への見返りとして充分な待遇となったのである。
 もう一点忘れてはならないのは、藤原頼長は律令制への回帰を公言していることである。既に四位の位階を得ている上に内蔵頭(くらのかみ)の役職も務めていることは平忠盛をして刑部卿に就任させるに充分なキャリアであったが、それでも武士である平忠盛が刑部卿に就くとなると今までであれば批判されるところであった。
 そう、今までは。
 今はもう違う。律令制への回帰を目指す藤原頼長にとって実際に武力を行使できる者が刑部卿として刑部省のトップに立ったことの意味は大きかった。伊勢平氏の武力を行使できるというのは忘れてはならない視点である。興福寺に対して武装解除を命じたのも、伊勢平氏の武力を期待できたからである。そう、あくまでも期待だけはできたのである。


 新しい元号まで手にして自分の時代を手に入れた藤原頼長への支持率は、スタート時こそ今までよりはマシになるだろうという期待も込めてそれなりに高いものがあったが、改元から半年も経たないうちに底辺へと落ち込んでいた。これもまた民主党政権時代の日本国民が体験したことであるが、その時代の日本国民に体験しなくても良かったことを藤原頼長ははじめるのである。
 テロだ。
 藤原頼長という人は人望がなかったが、藤原頼長自身が自分の人望のなさをどこまで自覚していたのかは怪しい。もしかしたら、権力を握ることが決まりつつある過程で増えていった追従者を見て、自分の人気は日に日に向上しており、それは自分の訴える律令制への回帰が幅広い支持を得られるようになったからだと考えたのかもしれない。
 自分が正しいことをしていると考えて全く疑わず、自分の人気も高いものがあると考える人にとって、自分の意見や行動に対する反発は許されざる悪であり、犯罪である。犯罪であるがゆえに処罰しなければならないが、律令遵守を謳っている以上律令に従わない方法での処罰はできない。しかし、許されざる悪を律令を理由に処罰することは可能だ。
 藤原頼長は藤原忠通との対決の末に、内覧の権利を持つ左大臣という藤原道長を彷彿させる権力を手に入れることに成功したが、藤原道長にあって藤原頼長にはない要素が一つあると藤原頼長は考えていた。第三者からは一つどころか無数に違いがあるだろうとツッコミをしたくなるところであるが、藤原頼長自身の考えでは一つだけ存在していた。
 天皇の里内裏である。
 この時点の近衛天皇の里内裏は四条東洞院殿。里内裏というのは貴族の邸宅用の敷地を一時的な内裏とするものであり、内裏を模するように手を加えていない限り建物は貴族の邸宅としてちょうど良くなるようにできている。すなわち、内裏ならば存在していた設備が存在しないため、邸宅内の一室を臨時の設備として使用するようになっている。関白である藤原忠通には、内裏であれば関白のための居住スペースである直廬(じきろ)が最初から専用の空間として用意されているが、里内裏ではすでに存在している部屋を直廬(じきろ)として使用するしか無い。そして、天皇の相談役であることを求められる関白の直廬(じきろ)とは、近衛天皇のすぐ近くであるのが普通だ。この状態では、いかに内覧の権利を剥奪されたとは言え、関白藤原忠通が近衛天皇に対する影響を保持し続けることもさほど困難ではない。
 では、どうすれば近衛天皇を藤原忠通の影響下から外すことができるか?
 藤原頼長は近衛天皇の遷御を考えたようであるが、どのような法を持ち出しても現時点で近衛天皇の遷御はできなかった。そもそも遷御する必要がなかった。四条東洞院殿は実際の内裏に比べれば小さいが里内裏としては充分な設備を持った邸宅であったのだ。 


 ただし、現在の里内裏が里内裏でなくなれば話は別だ。
 仁平元(一一五一)年六月六日、時刻は丑の刻というから現在の夜中の二時頃、四条東洞院殿内の藤原忠通の直廬(じきろ)から謎の出火が起こった。その結果、四条東洞院殿が焼け落ちたのだ。近衛天皇は美福門院藤原得子の御所である八条殿へ、中宮呈子はいったん養父の自宅である四条烏丸に避難したのち、改めて近衛天皇の避難した八条殿へ移った。
 明らかに怪しすぎるこの放火事件にさらなる怪しさを加えているのが、藤原頼長が全く動かなかったことである。律令制への急進的な回帰を訴え、違反する者を厳しく罰する姿勢を崩さなかった藤原頼長がこともあろうに里内裏の火災、それも放火であることを隠せない火災に対して何の動きも見せていないのである。これで怪しさを感じないとすればその方がおかしいが、藤原頼長はこれで思いを果たせると考えたようである。藤原頼長の考えでは藤原忠通の失火により里内裏が炎上し、この責任を取らせるために藤原忠通に対して何かしらの処罰が下ると、そうでなくとも、少なくともこれで近衛天皇と関白藤原忠通との関係は白紙になり、自らの推し進める律令制への回帰が一層進むと考えたようなのだ。
 あまりにも杜撰すぎると考えるだろうが、それがテロリズムの本質である。テロリストというのは例外なくバカだ。藤原頼長がテロリズムに手を染めるようになったのは頭が悪くなったからでは無い。もともと頭が悪いからテロリズムを厭わなくなったのだ。テロに手を染めてどのような反応を示すのか理解できない人間が、テロの結果どのような国民感情を招くかを考えること自体、期待してはならない。
 藤原頼長に対する国民感情の悪化と、藤原頼長に対する近衛天皇の感情の悪化は、完全に連動していた。里内裏に火を放って平然としているような左大臣にどうやって敬意を持って接することができようか。すでに近衛天皇は数えで一三歳になっている。満年齢に直しても現在の学齢でいうと小学校五年生だ。このぐらいの年齢の子に対して暴力を繰り返す大人というのはいつの時代にもいるが、それが効果を発揮するのは逃れる手段を持たないからで、暴力を平然と繰り返す人間に対する反発の手段も反発する集団も存在するのに一方的に暴力を繰り返す人間がいるという状況で暴力に従うことはない。ましてや常日頃から接している藤原忠通が藤原頼長に対して対抗しているのである。ここまで来ると近衛天皇は意地になっても藤原頼長に接しようとはしなくなる。


 藤原頼長は里内裏放火事件の犯人をでっち上げるしかなくなった。
 仁平元(一一五一)年七月、藤原頼長は近臣の武士である源頼憲を摂津国に派遣し、摂津国にあった宿所を焼かせたのである。これもまた一つのテロリズムと言えるが、理解し難いのは、焼かれた宿所というのが摂津国にあった源為義の宿所であったということだ。もしかしたら源為義を真犯人ということにして責任を取らせようとしたのかもしれないし、あるいは真犯人がその宿所にいて、逮捕しようとしたら真犯人が火を放って自害したという筋書きを用意したのかもしれない。何しろ源為義とその息子の源義賢には、犯罪者をかくまったという前歴がある。だが、そうした筋書きを広める前に左大臣が臣下の武士を摂津に派遣して、同じく臣下の武士である源為義の宿所を焼かせたという話が広まった。
 犯人をでっち上げる前に平安京内外で反藤原頼長感情が渦巻き、ついには爆発した。当時の記録には「衆口嗷々」と記すのみで具体的な非難の声がどのようなものであったのかは記されていないが、政権批判の声であったことは間違いない。
 あるいは関白藤原忠通の思惑もあったかもしれないが、近衛天皇は平安京の庶民の声を利用することにした。仁平元(一一五一)年七月五日、小六条殿を里内裏とすると発表したのである。小六条殿は平安京の中でも庶民街にある邸宅であり、その周囲を見渡すと貴族の邸宅よりも一般庶民の住まいの方が多く見えるほどだ。ついでに言えば、この時代の庶民の集まる場である東市にも近い。
 庶民の声を味方とすることで明らかに近衛天皇は藤原頼長と距離を置くようになり、庶民は藤原頼長と対立する近衛天皇と藤原忠通に対して支持するようになった。藤原頼長は庶民の声の反発を愚人の戯言と意に介さぬようであったが、近衛天皇が関白藤原忠通とともに小六条殿に移ったことは計算外であった。
 このパワーバランスの変化が、一度は藤原頼長に近寄った貴族たちの中に動揺を呼び起こした。ある者は藤原忠通のもとに足を運び、ある者はこれまで通り鳥羽法皇には近づくものの藤原頼長とは距離を置くようになった。
 こうした貴族たちの中に藤原家成がいた。
 仁平元(一一五一)年時点の役職は正二位中納言だから決して低いわけではない。年齢も四五歳だから中堅どころとしていいだろう。姓をみれば藤原氏であることは明白であり、実際、藤原北家の一員である。ただし、藤原北家の本流というわけではなく、藤原道長の子孫である御堂流とは大きく差をつけられた分家という位置づけである。ゆえに、藤原頼長は藤原家長のことを血筋の低さゆえに見下していた。
 ところが、こうした藤原摂関家の本流であるか分家であるかが意味を持たないのが院という組織だ。生まれの低さを一気に挽回するために院に近づいた貴族は多いし、藤原氏や源氏であっても同じ一族の中での地位の低さをコンプレックスとし、このコンプレックスを埋める手段として院に近寄った貴族も多い。藤原家成もそうした貴族の家系の一人だが、藤原家成から始まった話ではなく、藤原家成の四代前の時代から始まった話である。何しろ白河天皇が即位する前、貞仁親王であった頃に藤原家成の祖父の母が貞仁親王の乳母を勤めたことからはじまり、貞仁親王が即位し、退位し、白河法皇として絶大な権力を築き、白河法皇逝去後の鳥羽法皇の時代になるまで、祖父、父、そして藤原家成本人と院近臣を勤め続けてきた家系なのである。
 たしかに藤原摂関家の本流ではないが、院という軸に立つと藤原摂関家の本流の方が新参者となる。それでも権力者として藤原頼長には相応の礼を以って接してはいたのだが、藤原頼長に対する庶民感情がここまで悪化すると、藤原家成本人はともかく、その従者達まで相応の礼を以って接し続けることはできなくなる。
 その結果が、藤原頼長の従者達と、藤原家成の従者達との衝突であった。仁平元(一一五一)年七月一二日、藤原頼長の従者達と藤原家成の従者達とが路上で殴り合いとなり、この光景を見た平安京の庶民が藤原家成の従者達に加わり、憎き藤原頼長本人ではないにしてもその従者であるということで暴行に参加するという事態になった。どのような理由で殴り合いになったかはわからない。一説によると馬に乗ったまま藤原頼長の邸宅の前を通り過ぎようとした藤原家成とその従者が、下馬しなかったことに対する不満を述べた藤原頼長の家臣と争ったという。たしかにこの時代、自分より格上の貴族の邸宅前を取り過ぎるときは下馬して徒歩で歩くのが作法であったから、中納言が左大臣の邸宅前を下馬しないまま通り過ぎようとしたことはマナー違反である。
 これに怒りを隠せなかった藤原頼長は、藤原家成の従者たちが逮捕されたという知らせを受けても怒りを鎮めることができずにいた。藤原頼長にしてみれば格下の家系の者が、それも正二位中納言でしかない者が、藤原摂関家の本流にして左大臣である自分に逆らうなど許されぬことであった。
 もっとも、藤原頼長の立場で藤原家成の従者たちの逮捕を眺めると納得いかないであろうこともあるのは理解できる話ではあったが。

 藤原家成の従者たちが逮捕されても藤原頼長は納得いかなかったとはどういうことか?
 暴行事件の犯人である藤原家成の家臣達は、法に基づいて処罰を受けた。入牢、すなわち懲役刑である。とは言え、複数年に渡る懲役刑というわけではなかった。何しろ藤原家成自身が左衛門督という宮中警備の最高責任者の地位にあり、かつ、検非違使別当という検非違使のトップを兼任する立場であったのだ。この時代の検非違使には現在の警察権、検察権、さらに司法権も加わった巨大権力であり、その巨大権力のトップに立つと、誰を逮捕するかを、逮捕した者にどのような処罰を加えるかも、そして、処罰を加えた者を釈放するかも全て意のままに操ることができる。
 藤原家成は自身の権力を用いて、牢に入っていた犯人たちを釈放した。いかに法制度が現在よりも整っていない時代であろうと、同じ犯行で二度の処罰を課されることはない。刑期満了による釈放であろうと、刑期短縮による釈放であろうと、犯罪に手を染めはしたものの、牢に入ることで罪を償い、罪を償ったので釈放された者に対して、もう一度処罰を加えることはできない。
 これが法に疎い者であれば、釈放された身であろうと犯罪者は犯罪者だと言うこともできるが、律令に回帰することを信条とする藤原頼長はそのような感情を抱かない、いや、抱きたいのであるが抱くことが許されないのである。すでに釈放された以上、その人が犯罪に手を染めた過去があることは指摘できても、過去の犯罪による処罰を求めることは許されない。そのため、釈放された藤原家成の家臣は大手を振って京中を歩けるようになった。こうなると、彼らは平安京のスーパースターになる。何しろあの憎き藤原頼長を、本人ではなく家臣ではあるが痛めつけてくれたのだから。
 この光景は、ただでさえ屈辱を忘れていなかった藤原頼長に一つの決断をさせるに充分であった。
 仁平元(一一五一)年九月八日、藤原頼長は家臣に命じて藤原家成の邸宅を破壊させたのである。邸宅の中には逮捕され入牢し釈放された者もいた。邸宅破壊だけでも問題であるが、藤原頼長はその破壊の様子を眺めるだけでなく、邸宅から逃げて寺社にたどり着いた者に対しても襲い掛かり、境内で流血事件を起こすに至った。 もとからして藤原頼長を快く思っていなかった寺社勢力はこれで藤原頼長と完全に決別した。
 当然のことながら左大臣藤原頼長に対する反発は沸き起こったが、藤原頼長は不当な釈放がなされた方が異常事態であり、自分は正しいことをしたと平然と答えた。
 藤原頼長のこの姿勢は言葉だけでなく行動でも示されていた。自身の愛人の一人である秦公春(はたのきみはる)を利用したのである。彼が藤原頼長に求められたのは、暗殺であった。法に従って釈放された者を、殺害する。それが秦公春に課せられた役割であった。
 藤原頼長も言い逃れは残している。秦公春は左近衛府の府生である。すなわち、平安京の治安維持を職務とする律令に定められた武官であり、彼が京中をパトロールしたところ怪しい者と出くわし、取り調べに対して抵抗したため応戦したところ、不幸にも死に至らしめてしまったというのが公式発表であった。なんとも陰湿な話であるが、律令に精通している人間が絡んだテロとなると、ギリギリで違法とならないことをする。 


 仁平元(一一五一)年九月一一日、弟の暴走をこれ以上見過ごせなくなった関白藤原忠通はついに動き出した。左大臣藤原頼長の失脚を狙ったのである。
 ただ、藤原頼長のように律令に精通しているわけでなく、陰湿な計画を立てる技量を持たない藤原忠通にそこまではできない。結局、藤原頼長に謀反の疑いありと鳥羽法皇に報告が行ったに留まった。とは言え、その報告は既に平安京の内外に広がりを見せていた。
 左大臣に謀反の恐れあり。
 左大臣に失脚の恐れあり。
 この二つの噂は信憑性を持っているから広まったのではなく、そうあって欲しいと願う思いが広がっていたからこそ広まったのである。
 真相が判明したのは仁平元(一一五一)年九月二〇日のこと。この日、鳥羽法皇が藤原忠実に対して、近衛天皇譲位に関して藤原頼長が策謀を巡らせているという報告があったこと、その報告主は藤原忠通であったことが伝えられた。
 藤原忠通の発した噂が京都の内外に広まったことを藤原頼長は現実として受け入れなくてはならなくなった。と同時に、自分が置かれている現状を改めて見つめ直すことにもなった。
 内覧の権利を持つ左大臣であり、議政官を事実上掌握している。関白はいるが摂政はいない。そして、議政官の議決に対する天皇の御名御璽は無条件で行われると慣例で決まっている。ただし、関白藤原忠通には執りうる手段があった。それは、近衛天皇が慣例を破棄して親政を開始することである。近衛天皇親政となれば、天皇の相談役たる関白藤原忠通にも相応の発言権が発生する。天皇親政の過去を遡ると村上天皇や醍醐天皇といった例がある。また、後三条天皇や後冷泉天皇も例として挙げることができる。左大臣がいかに議政官を制圧しようと天皇親政となれば天皇がその意を議政官に伝えることで議政官の議決を左右させることは可能だ。また、鳥羽院司の貴族たちは今でこそ左大臣の議決に従っているが、鳥羽法皇と近衛天皇が手を結んだとなると藤原頼長の議政官掌握に限界が生じることとなる。
 さらに厄介なのが、現時点での皇位継承権である。天皇親政を強制的に終わらせる手段として、院政開始以後はもはや慣例となっている若くしての天皇退位を近衛天皇に適用させたとしても、仁平元(一一五一)年時点の皇位継承権者としては、崇徳上皇の第一皇子である重仁親王、崇徳上皇の弟で近衛天皇の兄にあたる雅仁親王、雅仁親王の第一皇子である孫王の三人が挙げられる。三人のうち孫王以外の二人は元服しているから、近衛天皇に何かがあって三人のうち孫王以外の二人のうちどちらかが皇位を継承したら、関白藤原忠通は摂政ではなく今後も関白となる。すなわち、天皇親政の継続そのものが可能となる。
 藤原頼長の視点に立つと、三人の皇位継承権者の中で最も手強くなるのが孫王だ。関白藤原忠通が接近していたというのもあるし、未だ元服していない以上藤原忠通は摂政となるというのもあるが、実父雅仁親王の存在が目の上の瘤となっていたのである。現状のままで孫王が即位したとした場合、雅仁親王の存在は、院政というシステムを根幹から揺るがす存在になり得るのだ。自身が皇位に就くことなく自身の子が皇位に就くというのは前例が無いことではない。ただし、今はもう院政という、天皇の父や祖父が院として権力を持つ時代となっている。これについては前例が無いが、孫王の即位と同時に雅仁親王には天皇の父として院政を、あるいは院号を得られなかった場合でも院政に似た権力を手にしうるのだ。
 権謀術数という点で、左大臣藤原頼長は兄よりも秀でている。自身が近衛天皇退位を画策しているという噂を否定しようという試みは失敗したが、仮に近衛天皇退位が現実の物となった場合の最悪となるケースを閉ざすことには成功した。仁平元(一一五一)年一〇月一四日、孫王が仁和寺に入ったのである。まだ出家してはいないが、鳥羽法皇の末子で孫王から見て叔父にあたる覚性法親王の弟子とさせることに成功したのだ。これで皇位継承権者から孫王が消えた、と当時の人は思った。


 藤原頼長は自らの影響力をさらに強めると同時に、天皇親政への道をよりいっそう閉ざす行動に出た。
 仁平元(一一五一)年一〇月一八日、里内裏としていた小六条殿が放火されたのである。四条東洞院殿の放火からわずか四ヶ月半にして次の里内裏も放火されたのである。近衛天皇は中宮藤原呈子とともに六条烏丸殿へ避難。藤原頼長の考えではこれで里内裏とするところが無くなった以上、自らの監視下に近衛天皇が中宮藤原呈子とともに来るはずであった。
 ところが近衛天皇はそれを断固として拒否。近衛天皇の意思は崇徳上皇も受け入れ、火災から一〇日後の一〇月二八日、崇徳上皇が住まいとしている近衛殿を出て東八条殿へと遷御した。近衛殿を里内裏とするためである。なお、この時点で近衛天皇の新たな里内裏は未定であるが、かなりの可能性で近衛殿が新たな里内裏となることは予期された。上皇が東八条殿という庶民街の中の邸宅に移住するとは異例中の異例であるが、そのことがむしろ崇徳上皇に対する庶民の支持を高める役割を果たしたのである。考えていただきたい。この時点で小六条殿の放火犯は不明である。不明であるが、小六条殿が放火されると誰の利益になるかという犯罪心理学の基礎に立ち返ると、藤原頼長は怪しいと評するしかない。

 後の崇徳上皇に対する評価からは想像もつかないかも知れないが、あるいは、後の評価の根底にあるのはこの時代の崇徳上皇のことがあるからとも言えるが、この時代の崇徳上皇に対する人気は高い。特に鳥羽院政を支える右腕としての活躍に加え、庶民に寄り添う姿勢と、藤原頼長が全く関心を示さなかった詩歌の保護に努めた文化人としての姿勢は、社会の破壊者である藤原頼長に対する社会の守護者としての評価を呼び寄せていたのである。
 その崇徳上皇が自らの住まいである近衛殿を近衛天皇の里内裏とするために明け渡しただけでなく自身は東八条という庶民街のまっただ中に移住することにしたというのは、藤原頼長の支持をさらに下げ、崇徳上皇の人気を高めたのである。
 これを藤原頼長がどう思ったか、記録には残っていない。しかし、思いの記録は残っていなくとも行動の記録は残っている。
 仁平元(一一五一)年一一月二日、東八条殿放火。移り住んでから半月と経たずに崇徳上皇は住まいを失うこととなった。崇徳上皇はやむなく三条烏丸へ移り住むことを余儀なくされた。
 それでも近衛天皇の思いを覆すことは出来なかった。仁平元(一一五一)年一一月一三日、既に予期されていたとおり近衛殿を里内裏とすることが発表されたのである。近衛殿は藤原忠通の私邸であるだけでなく、藤原忠通の邸宅とは二条通を挟んで南北意向かい合っている。平安京を南北に走る室町通りの東側、二条通の南にあるのが藤原忠通の邸宅で、二条通の北にあるのが近衛殿だ。おまけに室町通りの西にあるのは左衛門府、すなわち、この時代の平安京の治安維持のための基地である。治安を考えるならここ以上に安全な場所は無い。
 ここで一つの疑問が思い浮かぶ人もいるかも知れない。立地条件は悪くないし治安についても申し分ないのに、これまでなぜ近衛殿を里内裏としてこなかったのか、と。
 これについては近衛殿内部の構造に問題がある。たしかに立地条件も治安も優れたものがあったが、里内裏とするには設備が乏しかったのだ。後の記録にも建物は狭く、院の御所とするには用を果たしても、里内裏とするには一つ一つの部屋が狭すぎるという苦情が出ている。近衛天皇もそれをわかってはいたであろうが、今は部屋の狭さをどうこう言える状況ではないとし、近衛殿に住み続けることとなる。「近衛天皇」という諡号となったのも「近衛殿」を里内裏にした天皇だからである。


 藤原頼長は議政官を操り法を駆使する一方、法に従わざる者には容赦なく暗殺者を送り込むことで自らの権勢を掴んできた。しかし、仁平二(一一五二)年一月一九日、そのうちの後者の方法を失う。
 藤原頼長の送り込む暗殺者の名が秦公春(はたのきみはる)であるというのは既に記した通りである。また、秦公春は藤原頼長の愛人であったことも既に記した。その秦公春がこの日に命を落としたのだ。既に前年から病状悪化の兆候が見られており、藤原頼長の命令を遂行することが困難になっていたのである。
 病状は新年を迎えるとさらに悪化し、一月一九日、ついに命を落とした。症例から見ると糖尿病であったと推測される。
 それからあとの藤原頼長の憔悴は、いかに藤原頼長を悪しく言う人ですら声をかけるのも憚るものであった。亡き秦公春の墓にすがりついて泣き続け、悲しみの思いを自らの日記に延々と書き連ねる一方、多少の体調不良でも出勤していたのが嘘であるかのように無断欠勤を繰り返すようになったのである。結局、まともな政務へと復帰したのは三ヶ月を要した。
 この三ヶ月は、人間藤原頼長としては理解できる期間であったが、政治家藤原頼長にとしてはあまりにも痛い空白であった。
 秦公春が亡くなったとまさに同日、大炊御門御所が火災に遭い、大炊御門御所に身を寄せていた皇后藤原多子が東三条殿へと避難した。東三条殿は藤原摂関家の本拠地であり、本来であれば藤氏長者として皇后藤原多子を保護する義務があった。本人が無理でも家臣に命じて、別居している近衛天皇のもとへ皇后藤原多子を送り届けるべきであった。それなのに皇后藤原多子は放置され、新たな住まいが見つかったのは一月二二日になってから、それも次の住まいは藤原多子の叔父にあたる左近衛少将藤原公保の邸宅である。藤原多子にしてみれば自分が養父に見捨てられたと感じるのも当然であろう。いかに愛する人が亡くなったといっても、火災に遭った養女を放置する養父を是として眺める人がいるであろうか。


 その三ヶ月間に関白藤原忠通の反撃が始まった。仁平二(一一五二)年三月八日、藤原忠通の子の藤原基実が従三位に叙されたのである。藤原頼長の子の藤原師長は既に参議になっているが位階はまだ正四位下であり、未だ参議になっていないにしても位階では藤原基実が藤原師長を上回ったこととなる。なお、藤原師長は仁平二(一一五二)年時点で一五歳なのに対し、藤原基実はまだ一〇歳である。いかに元服を迎えたとは言え、この年齢で議政官入りするというのはそうそうある話ではないが、それでも次世代で最高の位階に上ったことで次期藤氏長者の地位を巡る争いでトップに立ったこととなる。
 政務に復帰した藤原頼長が最初に手を付けたのは、参議である我が子の藤原師長に対し従三位の位階を授けさせたことである。八人の参議の中で序列最下位であった藤原師長はこれで、参議の序列三位に上り詰めたこととなる。自分の不在の間に藤原基実が従三位に上ったことに対して怒りを隠せなかったが、さすがに正四位下から正三位まで一段抜かしで昇格させることはできなかった。
 一方その頃、従三位に昇格した藤原基実は昇格の報告を関係各所にまわっていた。昇格の報告を関係者に伝え回るのは当時の風習の通りであり、従三位藤原基実が報告に回ること自体は何らおかしなことでなかった。ただ、その中に美福門院藤原得子がいたことが運命を変える。彼女の目の前に現れた一〇歳の少年は自身の権勢を考えたときに極めて大きな存在になると気づかされたのである。
 美福門院藤原得子は中宮藤原呈子の養母である。当然ながら、皇后藤原多子ではなく中宮藤原呈子の産んだ子が次代の皇位継承者になるべきであると考えており、そのときのサポート役となるのが目の前の一〇歳の少年の将来の姿であると考えたのだ。それはすなわち、藤氏長者の争いにおいて、左大臣藤原頼長ではなく関白藤原忠通を支持することを意味することであった。


 平忠盛が刑部卿を務めるようになったことは既に記した。問題は平忠盛が刑部省を組織し治安向上に成功したのかであるが、結論から言うと失敗であった。平忠盛が無能であったわけではない。既に二ヶ国を知行国としていた上に、長男の平清盛が安芸国司、四男平教盛が淡路国司、五男平頼盛が常陸国司であり、地方統治のために伊勢平氏の武力を割り振らなければならず、京都に残された武力だけで刑部省を再興するのは無謀な話であった。
 そもそも有名無実化している刑部省を再興したところで、刑部省の役人になった後のキャリアが見えてこない。検非違使ならばまだ役人としてのステップアップとして位置づけられていたからまだ人を集められる可能性があるが、復活した刑部省の役人と言われても躊躇してしまう。
 おまけに、刑部省の役人になったときにしなければならないことは何かを考えるともっと意欲が失せる。律令を守らない者を逮捕し、牢に叩き込めというのである。スタート時こそ混乱を解消出来るであろうという期待から藤原頼長を支持していた人も、今となってはとてもではないが支持などできない。現実と乖離した律令など守るつもりはなれないし、律令違反をした者を逮捕しようなどという気にはもっとなれない。
 それに加え、平忠盛の体調不良が目に見えて問題化してきた。刑部卿として刑部省を再興させるどころか、刑部卿としての役職を果たすのも難しくなってきたのである。律令への回帰を要求する藤原頼長も、さすがに京都市中の治安低下は執政者としてどうにかしなければならない問題であると認識した。仁平二(一一五二)年五月一二日、京中で殺傷事件が頻発していることを理由に検非違使に警戒させるよう指令が出た。律令制への回帰を求めていた藤原頼長がはじめて現実を受け入れて自説を撤回した瞬間である。

 検非違使に対する指令が出たことは、藤原頼長の律令制回帰断念への第一歩であった。
 藤原頼長がいかに律令制への回帰を主張しようと、律令違反で逮捕されることはないとなれば律令を守る意欲など無くなる。
 検非違使がこれまでより厳しく取り締まりをすることは容易に想像できたから、誰もが犯罪と考えることをすれば逮捕される可能性は過去に比べれば高くなるものの、律令違反ではあるが現実的ではないとされ、慣例として藤原頼長以前であれば許されてきたことならば、今後も許され続ける可能性が出てきたのである。
 もっとも、それを藤原頼長が許容するかどうかは別問題であった。
 たしかに藤原頼長は最も信頼できる暗殺者を失った。そして治安悪化はもはや隠し通せる者ではないことも認めていた。だからこそ検非違使に出動を命じたのであるが、同時に平忠盛に対する失望も生み出していたのだ。
 藤原頼長にしてみれば、祇園闘乱事件で有罪とされなければならないはずの平忠盛の罪を問わなかっただけでなく、武士でありながら刑部卿に任命するという寛大な処置をしたのに、平忠盛はその寛大さに応えなかったとなる。平忠盛にしてみれば、自分が有罪となること自体がありえず、参議になれずに刑部卿でお茶を濁されたということになるのだが、藤原頼長はそのあたりを理解できるような人間ではない。
 その藤原頼長が次に目を付けたのが、平忠盛の弟である平忠正である。
 この兄弟の差は歴然であった。兄の平忠盛は貴族の一員に加わり、四位の位階を獲得し、日宋貿易で莫大な資産を築きあげて知行国まで獲得しているのに対し、弟の平忠正は朝廷から追放された後、藤原摂関家に仕える武士として名前が記録されているものの、その間の詳細はわからない。
 あと一歩で参議である兄と、公的な役職を持たぬ弟となればその対比は苛烈だ。おまけに、甥の平清盛は既に複数の国の国司を歴任してきたという貴族としての順調な出世を遂げている。それでも純然たる貴族であるならばまだ納得はできるが、平清盛は自分と同じ武士なのだ。
 同じ武士でありながら、一方は貴族界の一員にまで上り詰め、一方は藤原摂関家に仕えるボディーガード的存在の武士。これで平忠正にルサンチマンが生じないとすれば、それはよほど人間が出来ているか、あるいはよほどの脳天気とするしかない。
 藤原頼長は平忠正のルサンチマンを刺激すればよかった。平忠正は少なくとも武士としては信頼置ける存在なのである。正式な検非違使とすることはできないにしても、藤原頼長の私的な命令で動かすことの出来る武士としては計算できる存在であった。
 平忠正の正式な記録が登場するのは仁平二(一一五二)年八月一四日である。平忠正の武力が平安京の中に展開されることとなった。そのもとには、平忠正と同様にルサンチマンに満ちた武士たちが結集していた。


 その頃、近衛天皇のもとで一つの慶事がニュースとなっていた。
 中宮藤原呈子が妊娠したのである。
 美福門院藤原得子も関白藤原忠通もこのニュースに喜びを隠せず、中宮藤原呈子に対する最高のサポートを用意した。仁平二(一一五二)年一〇月一九日に大々的に懐妊のニュースが発表されると、美福門院藤原得子の主導による宮中行事が繰り返され、一二月には出産に控えて御産所への退出と同時に等身御仏が五体も造立され安産祈願が行われたほどである。
 中宮藤原呈子の周囲の安全も最高のサポートとして伊勢平氏に動員がかかった。ただ、その指揮は平忠盛ではなく平清盛であった。そして、美福門院藤原得子はそのことを当然と考え、任務遂行を誉めたのみで、平忠盛がいないことを特に咎めはしなかった。
 平忠盛は任務を遂行しなかったのではない。任務を遂行できなくなっていたのである。
 このときの平忠盛の年齢は五七歳。いかに平均寿命が五〇歳であるこの時代でも、五七歳は老いを実感させる年齢ではない。それなのに、仁平二(一一五二)年の後半になると、平忠盛はそのほとんどを自邸で過ごし、いや、自邸で過ごさざるを得なくなったのである。身動きがとれなくなってしまったのだ。体調の悪化は目に見えていた。
 既に内蔵頭は辞任していた。体調悪化による職務遂行困難がその理由である。なお、どのような症状での体調悪化なのかは記録に残っていないのでわからない。わかっているのは、平清盛をはじめとする伊勢平氏の面々が、そう遠くない未来にその瞬間を迎えてしまうであろうと覚悟していたこと、そして、平忠盛の任務のいくつかを父に代わって平清盛が遂行することを周囲が認めざるを得なくなっていたことである。


 仁平三(一一五三)年になると平忠盛の体調はますます悪化した。
 誰もが来るべきときを覚悟するようになり、その日は誰もが想定していた状況下でやってきた。
 仁平三(一一五三)年一月一五日、平忠盛死去。
 平忠盛はあと少しで参議となるところまで来ていながらこの世を去り、伊勢平氏は平清盛が相続することとなった。生前は平忠盛のことを快く思っていなかった藤原頼長ですら、平忠盛の死を「数国の吏を経、富巨万を累ね、奴僕国に満ち、武威人にすぐ。人となり恭倹、いまだかつて奢侈の行いあらず、時人これを惜しむ」と書き記しているほどである。
 平忠盛の死を多くの人が悲しみ、同時に伊勢平氏のリーダーを平清盛が務める時代がやってきたと多くの人が思ったのであるが、全員がそうであるとは考えなかった。特に平忠正は自分にもワンチャンスがあると考えるようになったのである。官暦も、資産も、平忠正は平清盛に遠く及ばない。官暦はともかく資産については、平清盛が平忠盛の資産を相続したから遠く及ばないというわけではなく、平忠盛から一切の資産を相続しなかったとしても平清盛に遠く及ばなかった。
 ところが、平忠正には一つだけ、平清盛に匹敵できるポイントが存在するのだ。
 それは集めることのできる兵力。
 藤原頼長の評判は地に落ちているが権力者であることに違いはない。年齢を考えても、藤原頼長が早々に権力の座から引きずり降ろされることはないだろう。となれば、藤原頼長のもとに身を寄せることで権力の分け前を手にすることで自身の勢力を築く条件と時間が存在すると考えてもおかしくない。藤原頼長個人に心酔しなくても、これまでの不遇を一気に挽回する手段としてならば藤原頼長は好条件の選択肢と言える。そして、自身の不遇に不満を持つ者はいつの時代にも一定数は存在する。そうした者が平忠正を軸として集えば無視できぬ勢力となる。
 この頃の平清盛は平忠正をどのように考えていたのか。ついこの前であれば歯牙にも留めぬ存在として扱っていたであろうが、今や明白に驚異となっている勢力だ。今すぐ衝突することはないにしても、そう遠くない未来に激突することは容易に想像できた。ついこの前の清和源氏のように。


 仁平三(一一五三)年になると平忠盛の体調はますます悪化した。
 誰もが来るべきときを覚悟するようになり、その日は誰もが想定していた状況下でやってきた。
 仁平三(一一五三)年一月一五日、平忠盛死去。
 平忠盛はあと少しで参議となるところまで来ていながらこの世を去り、伊勢平氏は平清盛が相続することとなった。生前は平忠盛のことを快く思っていなかった藤原頼長ですら、平忠盛の死を「数国の吏を経、富巨万を累ね、奴僕国に満ち、武威人にすぐ。人となり恭倹、いまだかつて奢侈の行いあらず、時人これを惜しむ」と書き記しているほどである。
 平忠盛の死を多くの人が悲しみ、同時に伊勢平氏のリーダーを平清盛が務める時代がやってきたと多くの人が思ったのであるが、全員がそうであるとは考えなかった。特に平忠正は自分にもワンチャンスがあると考えるようになったのである。官暦も、資産も、平忠正は平清盛に遠く及ばない。官暦はともかく資産については、平清盛が平忠盛の資産を相続したから遠く及ばないというわけではなく、平忠盛から一切の資産を相続しなかったとしても平清盛に遠く及ばなかった。
 ところが、平忠正には一つだけ、平清盛に匹敵できるポイントが存在するのだ。
 それは集めることのできる兵力。
 藤原頼長の評判は地に落ちているが権力者であることに違いはない。年齢を考えても、藤原頼長が早々に権力の座から引きずり降ろされることはないだろう。となれば、藤原頼長のもとに身を寄せることで権力の分け前を手にすることで自身の勢力を築く条件と時間が存在すると考えてもおかしくない。藤原頼長個人に心酔しなくても、これまでの不遇を一気に挽回する手段としてならば藤原頼長は好条件の選択肢と言える。そして、自身の不遇に不満を持つ者はいつの時代にも一定数は存在する。そうした者が平忠正を軸として集えば無視できぬ勢力となる。
 この頃の平清盛は平忠正をどのように考えていたのか。ついこの前であれば歯牙にも留めぬ存在として扱っていたであろうが、今や明白に驚異となっている勢力だ。今すぐ衝突することはないにしても、そう遠くない未来に激突することは容易に想像できた。ついこの前の清和源氏のように。

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

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