覇者の啓蟄 2.源義経追放

 鎌倉の一歩手前で待たされ続けていたのが源義経であるならば、鎌倉の街中で待たされ続けていたのが連行されてきた平家の落人達である。

 彼らのことを源頼朝が放置していたわけではない。早々に判決を下して処罰するなり、京都に戻して処罰させるなりする必要があることは脳裏にあったが、源頼朝は急いで判決を下すつもりはなかった。判決を下そうと思えば下せたのだが、歩調を合わせる必要があったのだ。

 何の歩調か?

 京都に留まっているはずの平家の文官や平家方の僧侶達に対して朝廷が下した判決との歩調である。武人であるために鎌倉に連行されてきたのだし、戦場において実際に軍勢を指揮し、また、自ら武器を手にして戦ったのであるが、連れてこられた平家の面々は都落ちの前まで位階と官職を持っていた人物でもあるのだ。ここで源頼朝が下さねばならない判決は、戦場での殺害ではなく、公人に対する判決である。武器を手にしていたか否かは関係ない。

 京都で平家の文人や僧侶に下された判決がどのようなものであったのかが鎌倉に届いたのは、判決からおよそ半月を経た六月二日のこと。その後も京都から諸々の連絡が届き、ようやく源頼朝は平宗盛をはじめとする鎌倉へと連行されてきた平家の落人と対面することにした。

 元暦二(一一八五)年六月七日、敗軍の将である平宗盛が、勝者たる源頼朝の前に連れ出された。平治の乱の後、源頼朝は捕縛されて平家の頭領である平清盛の前に連れ出されて流罪を宣告された。それから四半世紀を経て、立場が逆転して、平家の頭領が源頼朝の前に連れ出された。しかもこのときの源頼朝は直接平宗盛と会ってすらいない。御簾越しである。

 御簾(みす)とは、簾(すだれ)、すなわち現在のカーテンに相当するもののうち、人と神との境界のために設営されるものである。ただし、時代とともに女性が男性と接しないために設けられる仕切りを意味するようになり、この時代になると性別に関係なく高貴な人と庶民とが直接接しないための仕切りを意味するようになった。このときの源頼朝が選んだ「御簾越(みすご)し」というのは、犯罪者である平宗盛など従二位という高貴な位階を得ている源頼朝に直接会うことすら許されないのだというアピールでもあった。

 おまけに、御簾を挟んでいるだけでなく物理的な距離を置いている。源頼朝と平宗盛とが直接話すのではなく、間に比企能員を置いているのだ。源頼朝が比企能員に言葉を伝え、比企能員が平宗盛に源頼朝の言葉を伝える。平宗盛は比企能員に源頼朝への言葉を伝え、比企能員が源頼朝へ平宗盛の言葉を伝える。この繰り返しである。二人の間がかなりの身分差のあるというケースであればこういうしたやりとりも考えられるが、現在進行形で従二位である源頼朝と、過去形になってはしまっても内大臣まで務めたほどの人物である平宗盛との関係でこうなることは、本来ならば考えられないのである。それが、国家反逆者とされ、捕縛されて連行されてきた犯罪者という扱いになると、二人の関係性はこうも変わる。もう平宗盛のプライドは、そして、平家の落人達のプライドはズタズタだ。


 さらに源頼朝はプラスアルファを用意していた。

 この場面を一般公開したのである。源頼朝は御簾の向こうにいるが、その他の鎌倉方の武士達や事務方の面々、吾妻鏡に名が記されているだけでも、大内義信、北条時政、伏見広綱、足利義兼、中原広元、藤原俊兼、足立遠元が平宗盛を取り囲んでいるという光景である。平宗盛が言った言葉ではないが、後世の説話で「平家ニ非ズンバ人ニ非ズ」とまで権勢を誇った平家にとって、平治の乱の敗者たる源氏の家臣としてそれまで平家の公達が歯牙にも掛けてこなかった面々が、今や源平合戦の勝者たる源氏の家臣として平家のトップを見下す立場となったのだ。

 源頼朝はここで、かつて内大臣まで務めた人物をこのように扱わねばならなくなったことの非礼を詫びると同時に、後白河法皇からの院宣が出ている以上、平宗盛を犯罪者として扱わねばならないことを告げた。ただし、ここで一つ嫌味を言っている。院宣を受け取ってからまさかこんなに短い時間で鎌倉までお越しいただくことになるとは思わなかった、と。

 平宗盛は源頼朝に直接何かを言うことはなく、平時忠ら京都に留まっている平家の面々にどのような処分が下されたのかを知り、出家することを比企能員に伝えたというのが平家物語や吾妻鏡での記載だ。そして、あまりの惨めさに平宗盛を取り囲んでいる鎌倉方の面々から非難の声が挙がったというのが平宗盛が鎌倉で受けた光景である。

 ただ、このとき本当に平宗盛が出家を訴えた理由が命乞いとしての選択肢であるという平家物語や吾妻鏡の記載についてはいささか疑念がある。と言うのも、同タイミングで本当に出家をした平家の者がいたからである。命乞いの手段としての出家ではなく、混迷に対する責任を執る手段としての出家である。

 平頼盛がその人だ。

 平家の都落ちに帯同せずに鎌倉へと赴き、源頼朝のもとに下った平頼盛が出家したのだ。なお、鎌倉で出家したのではなく、奈良で、それも東大寺で出家しており、平頼盛が正式に出家したのは五月二九日、出家したという知らせが鎌倉に届いたのは六月一八日のことである。ただし、平頼盛が東大寺で出家する意思を見せていることは以前から知られており、鎌倉の誰もが、そして、平家の面々も、平頼盛が東大寺で出家することを知っていたのである。平家によって大仏殿をはじめとする主立った施設が破壊されてしまった東大寺で、いかに源氏のもとに降ったとはいえ、当時は平家の主力の一人であった平頼盛が、当時のことも忘れる人など一人もいないであろう状況下でありながら東大寺で出家するのだから、それが東大寺からの赦しなのか、あるいは、それが平頼盛なりの責任の取り方なのかはわからない。ただ一つ言えるのは、平頼盛が東大寺で出家したということが、源平合戦において囚われの身となった面々の決断に大きな影響を与えたことである。


 元暦二(一一八五)年六月九日、平宗盛や平重衡といった鎌倉へと連行されてきた平家の面々が、源義経に率いられて鎌倉を出発した。なお、平家の面々を護衛するのにあたって源頼朝は追加人員を源義経に託しており、彼らはそのまま京都での治安維持における源義経の補佐、さらには、源義経個人の能力に依存しない京都とその周辺の治安回復も引き受けることを命じられている。

 源義経に率いられた平家の面々はこれから自分達の身に何が起こるのかを知っていた。既に判決は下されていたのである。ただし、その判決の行使は京都に戻ってからであり、まだチャンスはある、はずであった。

 そのチャンスが失われたことを知ったのは一行が近江国に到着したときである。国境をあと一つ越えればそこはもう山城国、そして京都が彼らを待っている、はずであった。

 元暦二(一一八五)年六月二一日、源義経は、橘公長に命じて近江国篠原で平宗盛を、堀景光に命じて平宗盛の嫡男である平清宗を近江国野路口で、それぞれ斬首したのである。なお、このときの殺害については異なる記録もあり、斬首となった場所や処刑を執行した武士の名については別の説もある。確実に言えるのは、平宗盛と平清宗の二人は京都に戻れなかったこと、そして、首だけが京都に持ち込まれたことである。翌六月二二日、源義経入洛。源義経はそのまま検非違使庁に出向いて、犯罪者二名の首を引き渡した。なお、源義経自身も検非違使であるが、源義経は検非違使の序列で言うと三番目であり、数多くの検非違使のうちの一人である。源義経の不在に加え平家の残党のテロも見られたせいで京都の治安はかなり悪化していたが、それでも理論上は源義経の不在イコール数多くの検非違使のうちの一人の不在であって、検非違使の職務そのものには大きな支障が出ていない、ということにされている。

 平宗盛とその子の首を携えての入洛という残酷な形での源義経の帰還であるが、それでも京都のヒーローの帰還である。また、それまで散々苦しめられてきた平家の首領とその嫡男の首を持ち込んでの入洛であり、京都の人達はこれで長く苦しかった戦乱の時代が完全に終わり、テロの恐怖も過去のものになると安堵したのだ。

 源義経の入洛の翌日、六条河原で平宗盛とその子の平清宗の首が梟首(きょうしゅ)され、六条河原は盛況となった。梟首(きょうしゅ)を眺めた人達の中には後白河法皇もおり、後白河法皇がこの日三条東洞院で平宗盛父子の首を見物したことが九条兼実の日記に残っている。

 平宗盛父子は近江国で殺害されたが、鎌倉へと連行された全ての平家の者が同日に殺害されたわけではない。殺害されることなく鎌倉から帰還することのできた平家の者もおり、その中には平重衡もいた。

 平重衡はもっとも残酷な結末を迎えた。途中で殺害されることなく鎌倉から戻ることができたのは、命を助けるためではなく、奈良へ引き渡すためであったのだ。

 平重衡は南都焼討の責任者として、東大寺と興福寺の宗徒達に引き渡されたのである。寺院を焼き、大仏を焼き、そして数多くの人を殺害したことへの憎しみが奈良の人達から消えることなどなかった。奈良へと引き渡される平重衡がどのような運命を迎えるかは誰もが容易に想像できた。平重衡は妻とは久しぶりの対面となったが、それは永遠の別れを前にした、最後の、いや、最期の対面も意味していたのである。

 平宗盛父子の首が六条河原で梟首となったまさに同日の元暦二(一一八五)年六月二三日、平重衡、木津川にて斬首。ただし、平重衡は梟首となることはなく、妻の元に首が送り届けられた。


 源義経が鎌倉に入ることなく京都へと向かっている途中である元暦二(一一八五)年六月一三日、源頼朝が突如、源義経が手にしていた二四ヶ所の平家没管領の没収を命じた。その際、中原広元や藤原俊兼といった鎌倉の文人官僚たちが源義経の元にある平家没管領の保有権の精査にあたっている。

 源頼朝が源義経を鎌倉入りさせなかったこと、そして、京都へと戻している途中で源義経が所領とした土地を没収させていること、さらに、この後で書き記すこととなる点で、源頼朝は源義経を疎んじて鎌倉方から排除しようとしたとするのが通説である。とは言え、単純に通説通りであるとは言い切れない。

 まず、源義経が鎌倉まで平家の落人を連行してきても源義経自身は鎌倉入りすることが無かったというのは本作にて既に記してきた通りである。源義経が検非違使としての職務を果たすことを考えると、源義経を鎌倉入りさせないのは、人情はともかく遵法意識という点では正しいのだ。源義経が書いたとされる腰越状もその信憑性は乏しく、源義経自身が鎌倉入りできないでいる自分の境遇について思うところはあったであろうが、自身の検非違使であるという職務を考えると受け入れなければならない境遇でもある。

 次に源頼朝が源義経の土地を没収している点についてであるが、ただの所領であるならばともかく、平家没管領の保有権を源義経が手にしていることの危険性がある。それは、この後で源頼朝が源義経をどのように遇しようとしたかを考えると合点がいく。

 源義経は京都のヒーローになっていた。身分こそ検非違使のうちの一人であるが、存在そのものは単なる一人の検非違使ではなく京都の治安維持を一手に握っている存在となるまでに昇華していたのだ。本来であれば京都における源頼朝の代理としての期待ができたし、源義経自身にもそれだけの文人としての才覚が存在した。ただ、あまりにも存在が大きくなりすぎていた。鎌倉方のトップは源頼朝であり、全ての権威と権力は鎌倉の源頼朝に集中することを前提とした組織を現在進行形で構築しているのに、源頼朝のコントロールの効かない存在が出現することは、単なる不都合ではなく、再びの戦乱の兆しとなりかねないのだ。

 さらにここに、源義経に対して命乞いをしてくる平家の落人が加わる。平宗盛は斬首となり、平知盛は壇ノ浦の戦いで海に散ったが、平時忠をはじめとする平家の文人官僚や平家方の僧侶は流罪となることが決まっても、この時点ではまだ流罪となってはいない。流罪を執行するのは検非違使の役目であるが、検非違使である源義経に取り入ることで流罪を軽くする、あるいは、流罪判決そのものを見逃してもらうチャンスもあったのだ。流罪宣告された平家の面々が源義経に会うための理由などどうとでもできる。

 さらに、源頼朝が没収した平家没管領について、かつての自分の所領についての保有権についての話し合いということにすれば、所領の再復は叶わぬ夢であろうと、源義経のもとに伺いを立てるぐらいは可能だ。平家没管領は源氏として獲得した所領であり、源義経が勝手に自己の物としていたという側面もあったため、源頼朝の命じた源義経の所領の没収は、法的には源氏内部での管理者の変更となる。なお詳細な日付は不明であるが、源義経の手にしていた所領を没収したと同タイミング、あるいはその前後のタイミングで源頼朝は多田行綱が保有していた所領も没収している。


 京都に戻った源義経は相変わらずスーパーヒーローとして迎え入れられたし、多くの京都の人達も源義経を好意的に受け入れた。源義経自身も、左衛門少尉兼検非違使少尉としての職務としての役割を無事に果たしたのだという自負を持っていた。

 ただ、京都を出発する前の源義経が受け持っていた鎌倉方の京都における代理人という役割は、出発前と比べて薄くなってきていたことに気づいていなかった。

 源義経は致命的な大きな欠点があったのだ。政治的能力の低さである。人を惹きつける魅力としても良いであろう。源義経が京都におけるヒーローであったのは、京都を荒らした木曾義仲を駆逐し、多くの人の憤怒を買っていた平家を討伐したからである。前任者が酷すぎたから前任者がしでかしてしまったことをしなかった、要は、木曾義仲がやらかしたような目に見える形での略奪や、平家がやらかしたような言論弾圧をしなければ、それだけで相対的に評価は上がる。しかし、絶対的な評価となると話は別だ。

 源義経は京都の貴族達と対等に渡り合えるだけの文人官僚としての能力を持っている。それは自他共に認めるところである。ただし、それより上の能力、具体的には官僚を使いこなす執政者としての能力は無かった。誰かが源義経に命じればそつなくこなせるが、源義経が誰かに命じて何かをさせるのは苦手であったのだ。

 源義経に命令をするのが鎌倉にいる源頼朝であるならば問題なかった。だが、源義経の相対的評価が上がってしまったせいで、源義経に命令をするのが源頼朝だけではなくなっていた。それまでが歯牙にも掛けていなかったせいで見向きもしなかった源義経が、実は利用できる存在であることに気づいてしまったために京都の貴族がダイレクトに源義経に接することもあったし、他ならぬ後白河法皇が源義経に接することも見られるようになったのだ。ここまでであれば既に五位の位階を得ている貴族であり、また、現役の検非違使でもある人物の日常としてはおかしくない。しかし、ここに平家の落人も加わるとなると話は別だ。平時忠をはじめとする文人官僚としての平家であろうと、あるいは僧籍にある平家であろうと、既に処罰が下っているのに執行を逃れるために源義経につながりを持とうとするのは許される話ではない。

 源頼朝は二段構えで対策を練ることにした。

 まず、源義経を京都から離すこと。

 次に、源義経に変わる実務担当者を京都に派遣すること。

 この二点である。

 そのために源頼朝は鎌倉から京都とその周辺の所領保有権調整のために中原久経と近藤国平の両名を京都に送り出した。荘園の所有権ならびに所領の保有権については源義経ではなくこの両名に裁決させるようにしたのである。荘園の所有権はともかく所領の保有権については鎌倉の源頼朝の名で下される。また、京都周辺における裁決の権限を源義経から取り上げることは、それまで源義経を利用しようとしてきた面々が源義経から離れることを意味する。

 さらに、対高麗情勢を名目として源範頼を九州から京都に呼び戻すことを考えた。対馬国での陣営構築の目処が立ち高麗からの侵略を食い止めることが可能であると判断できたならば、それがいかに儀礼的で名目的な理由であろうと、京都に状況報告するために九州を離れてもおかしくない理由となる。源範頼は源頼朝の威光を全面的に利用しているとは言え、源義経よりは政治的能力が高く、それは鎌倉方の軍事指揮官を一手に担ってきたことからも証明できる。ただし、文人官僚としての能力はお世辞にも高いとは言えない。他の武士に比べれば高いとは言えるが、源義経の代わりになれるほどの能力は無い。ただ、鎌倉から送り届けた中原久経と近藤国平の両名、さらに鎌倉方の文人官僚を動員すれば源義経不在の穴を埋めることは十分可能だ。

 そして、源義経は伊予国司に任命する。伊予国司は播磨国司や美濃国司と並ぶ国司職のうちの重職であり、検非違使を務めた者が次に昇進するときのキャリアとしてかなり高いレベルでの待遇である。藤原摂関家以外でこれからキャリアを構築しようという貴族であれば、これ以上の厚遇はありえないとも言えよう。また、壇ノ浦の戦いに至るまでの源義経の戦歴を考えれば、伊予国、現在の愛媛県に源義経が在駐することは瀬戸内海の海賊対策としても効果を発揮するし、西国に逃れた平家の残党に対する抑止効果も期待できる。そして何より、誰からも文句の言わせない形で京都から源義経を引き離す、すなわち、判決の下った平家の面々が源義経と接する機会を限界まで減らすことが可能だ。

 ここまで積み重ねれば、特に非の打ち所の無い対策であるかのように見える。

 だが、源頼朝の立てた想定を破壊する出来事が起こってしまったのだ。それも、相手は平家の残党でもなければ後白河法皇でもない、さらに言えばそもそも人間相手ではない出来事だ。


 最初の記録は元暦二(一一八五)年六月二〇日に登場する。ただし、最初の記録そのものはよくある日常の光景であり、日記における記載も特筆すべきこととはなっていない。

 だが、それから連日のように続くとなるとさすがに怪しく感じ出す。それでも、一つ一つの出来事自体は珍しくないことであるため日記に記録されはするものの大きなニュースとはなっていない。

 六月二〇日以降の一つ一つの出来事が実は前哨であったことが判明するのは元暦二(一一八五)年七月九日のことである。

 この日の正午頃、琵琶湖西岸を震源地とするマグニチュード七・四の巨大地震発生。

 里内裏である閑院、破損。

 摂政近衛基通の邸宅、破損。

 前摂政松殿師家の邸宅、破損。

 右大臣九条兼実の邸宅、破損。

 八条院暲子内親王の邸宅、破損。

 平安京内の数多くの民家が被害を受け、倒壊する家屋は数知れず。

 地面は液状化現象を起こし、地盤沈下があちこちで発生した。

 それでもまだ平安京の内部はマシであったと言える。

 平安京の外に目を向けるともっと無残な光景が広がっていた。

 白河法皇が平安京の東に展開するように創り上げた白河の地の建物の多くが崩壊したのだ。白河の地のランドマークであった法勝寺の九重塔は、倒壊はしなかったものの大きなダメージを受けた。そして、法勝寺のその他の建物や、白河の地にある法勝寺以外の寺院の多くはこの地震で崩壊した。地震の揺れそのものによって崩壊しただけでなく、地震によって起こった液状化現象によって建物が地面から湧き出る水の中へとゆっくりと沈んでいき崩れ去ったのである。この瞬間、白河法皇が平安京を九〇度倒すように白河の地をあたかも大内裏であるかのように崇めさせる図式で構築した白河院政の名残が消滅した。

 既に歴史上の人物となっていた白河法皇だけでなく、現役の法皇である後白河法皇も被害から免れることはできなかった。後白河法皇の主たる邸宅となっていた法住寺殿をはじめ、蓮華王院や最勝光院も全壊とまではいかなかったものの大きなダメージを受けた。また、三十三間堂もこのとき倒壊した。

 被害は京都とその周辺に留まることなく、鳥羽離宮や宇治からも被害報告が寄せられた。特に宇治からは宇治橋が崩壊したことと、橋を渡っていた人が崩壊に巻き込まれて宇治川に投げ出され死者まで出たことの報告も寄せられた。

 京都の北東にある比叡山延暦寺も被害とは無縁では済まなかった。延暦寺の主たる建物がことごとく崩壊し、多くの僧侶が命を落とすこととなった。

 福原遷都の混乱から復旧しつつあったところで木曾義仲の襲撃を受け、木曾義仲の襲撃から復旧しつつあったところで発生してしまったこの地震である。賽の河原ではないが、作り直している途中でそれまでの苦労と努力を無に帰すようなことが起こったとき、多くの人はもう一度やり直そうなどとは考えない。やがてはそのように考えるようになるが、直後はこれまでの苦労も努力も無駄であったのだと落胆し、虚無感に包まれ、自暴自棄に陥る。余裕のある暮らしのできる者は今の生活を捨てて隠遁生活に入ろうとする。建礼門院平徳子もその中の一人で、彼女はこの地震を契機として京都から離れることを決意する。現在では京都駅からバスで行くことのできる京都の観光地の一つである大原も、このときの建礼門院平徳子にとっては、あるいはこの時代の人達にとっては、京都を離れて静かな暮らしをすることを選んだ人達のための隠遁の地であった。

 そして、このような噂が広まった。この地震は平家の怨霊の祟りである、と。



 ところが、被害を京都内外にもたらしながら、平安京内を見渡すと、ところどころに全く無傷な場所もあった。地盤のおかげか、あるいは建物の耐震構造によるのか、あるいは幸運が重なった結果か、大きな被害を受けた建物と無傷な建物とが隣り合っているということすら起こったのだ。

 それだけであれば巨大地震における光景の一つとして受け入れることもできるが、そうした無事な建物の一つが六条室町にあった源義経の邸宅であったことは、ただでさえ偶像として崇拝されるまでになっていた源義経のヒーロー性を高めることとなった。平家の怨霊が起こした大地震という噂が広まっている渦中にあって、まさに平家討伐で功績を残した源義経の邸宅が無事だったのである。虚無感に包まれていた京都の人達にとって源義経は唯一と言っても過言では無い希望となったのだ。

 元暦二(一一八五)年七月一二日、後白河法皇は院御厩司でもある源義経に対して群盗警戒を命じた。地震の後の混乱で急激に悪化した治安を取り戻すことを考えれば、このタイミングで源義経の出動を命じることは適切な判断であるとするしかない。

 源頼朝が鎌倉に居続け、鎌倉からのリモートコントロールで京都や西国を制御しようという試みは、京都の朝廷からの干渉を受けることなく庶民の声を吸い上げた上での国家復興を果たすという点では大きなメリットがあったが、この時代の通信事情を考えると京都から鎌倉までの距離がデメリットをもたらすこともあった。このときの地震もそのうちの一つである。

 この地震は、京都では度重なる災厄から復興しようとしている途中で起こった自然災害であり、市民の多くを絶望の淵に追いやる悪夢であったが、京都で巨大地震が起こったという知らせが鎌倉に届いたのは元暦二(一一八五)年七月一九日、すなわち、震災から一〇日が経過したあとである。確かに事実は伝えられたのであるが実際に震災を体験していない人にとっては実感できない伝聞になってしまうし、京都がどんなに大変なことになっていると言っても、京都を救援できるほどの余力も無い。さらに都合の悪いことに、六月二〇日の夜中に鎌倉でも比較的大きめな地震が、しかし、建物に損傷を与えるほどではない規模の地震が起こったのである。それからおよそ一ヶ月を経たときに京都から伝わった大震災の知らせを知った鎌倉の人は、一ヶ月前のような地震が京都でも起こったのかという感情になってしまったのだ。京都からの震災報告の第一報が届いてから一〇日を経た七月二九日に大蔵卿高階泰経から書状が届いて、ここではじめて京都で平家の怨霊が震災を引き落としたという京都で広まっている風聞が源頼朝の元に届いたが、そこでの源頼朝の回答は平家の落人に対する処分の見直しであって京都の被災に対する救援ではなかった。

 京都での源義経は絶望の中に浮かぶ数少ない希望であったのに、鎌倉での源義経が鎌倉方の武士の一人、言わば将棋盤の上のコマの一つである。源頼朝は配置の再編を考え、京都で源義経がヒーローとして称賛されていようと関係なく、あるいは、ヒーローとして称賛されているからこそ、源義経を京都から引き離すことを選んだ。


 源義経にしてみれば、自分の預かり知らないところで評価が勝手に向上し、鎌倉と京都との対立の中軸に置かれた末に、これまで積み上げてきたことの全てが勝手にリセットされようとしているのである。納得できるかと問われれば、その答えは否だ。

 さらにここに、源義経の預かり知らぬところで源義経にも影響を及ぼす事態が発生した。

 元暦二(一一八五)年八月四日、源行家の謀反が発覚したのである。

 源行家とは実に不思議な人物である。源義朝の実弟であり、源頼朝から見れば叔父にあたる。保元の乱には参加していなかったから討ち取られることは無かったが、平治の乱では源義朝と一緒に参戦している。それでいて、兄と違って討ち取られることなく熊野まで逃れることに成功している。

 そのあとで以仁王の令旨を手に、全国の、と言っても畿内とその隣国、そして畿内よりも東国に限定されるが、各地に散らばる源氏に対して反平家に立ち上がることを訴えている。アジテーターとしての能力は高かったのであろう。なお、源行家と名乗るようになったのは以仁王の令旨を手に全国を巡るようになった直前であり、それまでは源義盛と名乗っていた。このあたりの経緯は前作「平家物語の時代」を参照願いたい。

 ただ、アジテーターとしての能力ならば高いものがあった源行家も、武士としての能力、そして政治家としての能力となるとお世辞にも高いと言えなくなる。それでいて、自分こそが源氏のトップたる存在であるという自負はあったため、源頼朝に従うことはなく、最初は志田義広こと実兄の源義広とともに、そのあとは源頼朝の弟で源義経の兄である僧侶の義円とともに、その次に木曾義仲とともに、京都陥落から少ししてからは木曾義仲と袂を分かって個別に暴れ回るようになり、そして、敗れ続けていた。

 源氏の一員ではあるのだが、源行家という人は一ノ谷の戦いから壇ノ浦の戦いに至るまでの一連の戦いに加わっていない。加わっていないのは当然で、源範頼も源義経も木曾義仲を討伐するために鎌倉から派遣されたのであり、源行家も木曾義仲のついでという形で討伐される対象であった。ただ、なぜかこの人は命を取り留めていた。九条兼実の日記によると、平家討伐の軍勢を率いる源範頼は源行家とすれ違ったという。愛情の反対語は憎しみではなく無関心だという言葉があるが、木曾義仲討伐後の鎌倉方の軍勢にとっての源行家は無関心の対象となったということか。

 このまま源行家が何もしないでいたならば鎌倉方としても無関心のままでいられたのである。しかし、謀反となれば話は別だ。平家の残党だけでも現在進行形で対処中なのに、木曾義仲らと一緒に暴れた面々の残党まで対処しなければならないとなると、無関心だなどと言っていられなくなる。何しろ京都を破壊した張本人だ。

 これを源義経の立場で捉えると迷惑千万な話になる。源義経が京都にいるのはその通りだ。源行家が京都近郊で潜んでいたのもその通りだ。だが、源行家が京都で企んでいることと源義経とは何の関係もない。謀反を起こしたのだから源行家を拿捕せよという指令が飛ぶこと自体はおかしくないし、実際に源頼朝はこのときに佐々木定綱に源行家追討を命じている。だが、その余波が源義経に及ぶとあれば、それさすがに源義経としては容認できる話ではなくなる。

 佐々木一族は源頼朝が挙兵したときから常に鎌倉方の一員として活躍していた一族であるが、佐々木一族が源頼朝の挙兵時に参加できたのは平治の乱で敗れて関東に逃れてきたからであり、本を正せば近江国佐々木荘が本拠地であり、このときも本来の所領に戻っていた。源頼朝が京都とその周辺に対する即時の軍事行動を指令するとすれば近江国の佐々木一族に指令を送るのが二番目に早い。ちなみに、一番目は源義経ら京都にいる面々である。


 京都へと派遣していた中原久経と近藤国平の両名に対し、源頼朝が書状を届けたのは吾妻鏡によると腰越状の翌日のことであり、その返信が鎌倉に届いたのは元暦二(一一八五)年八月一三日のことである。源頼朝からの指令は京都とその周辺の治安維持と年貢徴求についての整備であったが、この指令に後白河院が乗り、後白河法皇から太宰府ならびに九州一一ヶ国の国衙に対して、武士は源頼朝の支配下に入ること、荘園領主は平家政権樹立前の状態に戻すことを前提とした経営をすることの指令が出たのである。なお、中原久経と近藤国平の両名は京都に滞在する前提で鎌倉から派遣されていたのであるが、このときの後白河法皇からの指令を遂行するために九州へと向かっている。

 鎌倉に京都から返信が届いた頃、京都で最優先課題となっていたのは震災からの復興である。とは言え、疲弊している京都で大規模な復興はできない。これまでであれば院や貴族が私的に所有する荘園からの収入も復興予算として計算できていたが、源平合戦はその前提を完全に破壊した。荘園は所領となり、所有権と保有権とが分離し、武士が土地を事実上支配するようになっている。鎌倉から送り込まれた中原久経と近藤国平の両名に対して後白河法皇は平家政権樹立前の状態に戻すことを前提とした統治の回復を命じたのも、かつてのように荘園からの年貢がそのまま院や貴族の元に届くこと、すなわち、土地に勢力を持つ武士は荘園領主からの代理人であり年貢徴収は荘園領主からの代行であること、そして、徴収した年貢は京都の院や貴族のもとに送り届けることを念頭に置いてのものである。もっとも、そんなことは絵に描いた餅であり、血を流してまで守り通し、命を賭けてまで新たに手にした所領を、そう易々と他者に渡す者などいない。

 八月一四日、文治に改元。震災の余震が続いていることを理由としての改元である。いかに源頼朝の勢力が強くなろうと、そして、武士がいかに勢力を伸ばそうと、改元については朝廷の専権事項であり源頼朝は手出しできない話である。厳密に言えば従二位の貴族である源頼朝は新たな元号を決める会議に貴族の一人として参加する資格を有しているが、改元というものは、平成から令和への改元のように準備期間を用意した上で事前に発表するものではなく、前触れ無しに突然改元が決まり、前触れ無しに新たな元号が発表されるものである。そのため、京都で開催される会議に参加できない源頼朝は改元の場で自分の意見を示すことができない。

 そして、この新しい元号は、京都の貴族達の間に広がっていた感情を披露したものでもあった。権大納言中山忠親の日記によると、当初は「建久」とすることで話が進んでいたが、摂政近衛基通が「この頃は武を以て天下を統治しているが、今後は文を以て天下を統治すべきである」と主張したことから「文治」になったとある。摂政近衛基通の鶴の一声と言うよりも、朝廷内に広まっていた空気を察知しての反応と言ったところであろう。


 文治元(一一八五)年八月一六日の夜、平家追討の恩賞として鎌倉方の武士に恩賞が与えられた。これは源頼朝の推薦に朝廷が応えた形である。

 新田義重の子の山名義範、伊豆守就任。

 平賀義信の子の大内惟義、相模守就任。

 足利義兼、上総介就任。

 加賀美遠光、信濃守就任。

 安田義定の子、安田義資、越後守就任。

 そして、源義経、伊予守就任。

 源義経以外の五名が関東とその近くの令制国の国司に就任したのに対し、源義経は伊予国である。こう書くと、源頼朝が源義経を京都から追い出す算段でもしたのかと思うかも知れないが、もっとも、その考えはゼロでは無かったとは言い切れないにしても、既に記したように伊予守就任というのはかなりの好待遇なのである。

 さらに詳しく書くと、伊予守は白河院政期に播磨守と並ぶ最上級の国司職と定められ、伊予守の任期を終えた貴族は従三位の位階を得て公卿補任に名が記されるのが通例化していたのである。従三位の位階を得てもただちに参議となるわけではなく、しばらくの間は非参議であったが、それでも公卿補任に名を残すのは貴族としてのキャリアを考えると非参議でも文句の付け所がない待遇だ。たしかに鳥羽院政期の末期における知行国の増大と入れ替わるように伊予守の価値も落ちてきて従三位の位階を得られなくなるケースも登場するようになり、後白河院政となっても元に戻ることなく伊予守が必ずしも従三位が確約される役職ではなくなっていたが、それでも伊予守に任命されることはかなりの名誉を伴うことであった。

 源義経を伊予守と推挙したのは源頼朝である。東国における鎌倉方の権力基盤構築と治安維持については計算が立っていたが、畿内より西、特に山陽道や瀬戸内海といった海陸の交通の要衝を占めることはできずにいた。特に、瀬戸内海の海賊問題は完全に消滅したわけではなかった。ここで源義経を伊予守に推挙することは、源義経を一人の武将として瀬戸内海の治安維持、特に海賊対策を担当させることを意味する。評判はどうあれ、現時点の鎌倉方の武士を見渡したときに源義経以上に海戦の実績を残した武士はいない。水夫を容赦なく攻撃するのは戦場においては重大なマナー違反であるが、相手が海賊ならば、残酷だが、問題ない。それに、そういう源義経が伊予守としての職務遂行として船を操って航行しているという噂が広まれば、海賊がそもそも瀬戸内海に出没しなくなる。

 ただし、それはあくまでも鎌倉から捉えた視点であり、京都に思考の軸を置いて考えると源義経を京都から追放する算段となる。どんなに源義経をヒーロー視しない人であっても源義経不在は京都の治安にも直結すると考えるし、源義経が京都からいなくなってしまうことは受け入れることのできない話になる。

 忘れてはならないのは、このときの京都は養和の飢饉からまだ完全に回復したわけではない上に、木曾義仲による略奪から一年半しか経過していないという点である。貧困も暴力も忘れることのできないつい先日の話であり、その悪夢から脱却させてくれる存在が源義経であったのだ。

 同日、後白河法皇は源義経に対して左衛門少尉兼検非違使少尉の留任を命じただけでなく、四月二七日に任命した院御厩司(いんのみまやのつかさ)の役職についても源義経が継続して就任することを表明したのである。検非違使でありながら国司を兼任するという、例がないわけではないが珍しい事態が起こったのである。


 源義経を求める京都の声を源頼朝が知らなかったわけではない。源頼朝のもとには京都以外からの切実な声もまた届いていたのである。京都を無視するわけではないが、京都以外の声にも応えなければならないのが執政者たる者の責務だ。

 吾妻鏡は文治元(一一八五)年八月二四日のこととして記している。この日、源範頼とともに九州に派遣されていた下河辺行平が鎌倉へと戻ってきたのだ。勝手に帰郷したのではなく許可を得ての帰郷である。

 下河辺行平は九州からの帰郷の土産として酒と弓を献上した。

 この献上に源頼朝は疑念を覚えた。

 九州から届く報告は、いや、九州以外の土地から届く方向はどこもかしこも貧困に喘いでいるというものであり、それは九州に派遣した源範頼率いる軍勢とて例外ではなかった。多くの武士が勝手に帰郷することを選び、九州に残った武士達も兵糧のために馬を売り、武具を売って糊口をしのいでいた。それなのに下河辺行平は軍装を揃えてある上に馬に乗ったまま鎌倉へと戻り、源頼朝に酒と弓を献上することまでした。これはいったいどういうことなのか。

 これに対する下河辺行平からの回答は以下の通りである。

 源頼朝の言うように下河辺行平も兵糧が無くなり、周防国から豊後国に渡る前に家臣の鎧や兜といった武具を売り払ってどうにかして兵糧を手に入れ、下河辺行平自身の武具も船に乗って豊後国に渡るときの船の費用として売り飛ばさなければならなくなった。その代わりに奇襲攻撃に成功して敵将の一人を討ち取ることに成功した。その後の戦場での功績については源範頼から鎌倉に連絡があったとおりである。

 その上で、鎌倉に戻る許可を得たが手ぶらで戻るわけにはいかないと思っていたところ、極めて上質の弓であるが持ち主が生活に困っていたので弓を売りに出すことにしたという知らせを聞きつけ、着替えの小袖のうち一枚を脱いで弓と交換した。それが源頼朝に献上した弓である。また、酒については鎌倉に戻る前に下総国にある自分の所領から鎌倉に運ばせた酒である。

 そして下河辺行平は断言した。鎌倉を出発してから平家を討伐し、許可を得て鎌倉へと戻るまでの間、ただの一度として略奪などしていない、と。

 馬をどこで手に入れたのか、武具をどうやって準備したのか、そして、弓と小袖とが等価交換であったのかなどのツッコミどころはあるが、下河辺行平にしてみれば何一つ後ろめたいことはしていないという自負があったろう。

 吾妻鏡のこの記述は九州から戻ってきた下河辺行平を源頼朝が歓待したことを伝える記事であるが、同時に、源頼朝のもとに地方の厳しさ、特に西国の貧困の実情が届いていたことを示すエピソードでもある。そしてもう一つ、平家政権が目論んでいた貨幣経済がまだ浸透しきっていないことも示すエピソードでもある。


 文治元(一一八五)年八月時点で、京都が戦乱の災禍をまともに食らったことを忘れた京都人はいない。と同時に、京都だけが戦乱に巻き込まれたと考える京都人もいない。奈良が焼け落ちたこと、その中でも特に東大寺の大仏が破壊されたことは、この時代の人にとって災厄の時代を象徴づけるこれ以上ない出来事であった。

 平家滅亡により全てが平穏無事に進むと思われていたところで表面化してきていた京都と鎌倉との対立は、特に京都において再びの災禍を危惧するまでに至っており、何らかの形で民心安定を図る必要があるという点では、京都も、鎌倉も、意見の一致を見たのである。

 文治元(一一八五)年八月二一日、東大寺大仏開眼供養を開催することが決まった。破壊された東大寺の大仏の復活は、これ以上ない復興のシンボルであった。ただし、復旧工事が完了したのではない。少なくとも大仏を一般公開できるレベルまで蘇らせることができたとアピールするだけであり、工事はこれからも続く。

 それでもイベントの開催は民心安定に大いに役に立つ。また、これは不幸な出来事がもたらした結果であるが、南都焼討によって大仏そのものだけでなく大仏殿も焼失してしまっているため、大仏は野晒(のざらし)となっている。そのため、大仏開眼のイベントはより多くの人が目の当たりにできることとなる。大仏が破損しても大仏殿が健在であったならば、大仏開眼のイベントを目にできるのは大仏殿の中に入ることが許された人だけとなるが、大仏殿が消失してしまい大仏が野晒(のざらし)になってしまっているために、大仏の復旧工事の様子も、大仏開眼のイベントの様子も、より多くの人がその目にできるのである。

 このイベントに大いに乗り気になったのが後白河法皇だ。後白河法皇という人は元からして庶民的な流行に乗り気な人であり、それが皇族らしくないとして批判されることも多かった人であるが、こうした庶民が詰めかけるイベントとなると欠点はむしろアピールポイントになる。奈良に住む者ならば誰もが、いや、京都から徒歩一日で赴くことのできる奈良に足を運べる者ならば誰もが、性別も、身分も、立場も関係なく体験できるイベントとなる。

 さらに後白河法皇は正倉院に保管されていた天平開眼の筆、すなわち、天平勝宝四(七五二)年の大仏開眼の際に、実際に大仏の瞳を描き記したときに用いられた筆を用意させた。奈良時代の開眼供養会において開眼導師を務めたのはインドから招いた僧侶の菩提僊那(ぼだいせんな)であったが、今回の大仏開眼供養で開眼導師を務めるのは後白河法皇である。事実上はともかく理論上は後白河法皇自身とて出家した僧侶の一人にすぎないとなっているため、後白河法皇が筆をとること自体は問題ない。貞観三(八六一)年三月一四日の大仏修復記念式典では朝廷から皇族や貴族が詰めかけたものの実際に筆をとったのは皇族でも貴族でもない僧侶であったのに対し、今回は紛うことなき皇族、それも院政を取り仕切っている法皇自身が筆をとるというのだから、多くの人は貞観三年の大仏修復ではなく奈良時代の大仏建立をより強く思い浮かべることとなったのだ。

 なお、少なくとも八月二一日時点の案では、過去の二例と同様に仏師による大仏開眼を予定しており、後白河法皇が開眼のための筆を握ることも、ましてやその仏師を務めることも、全く予定に入っていなかった。後白河法皇はそこに割り込んできたのである。


 後白河法皇は、そして朝廷は、大仏開眼というイベントを前面に掲げることで高揚感を煽った、と書けば格好良く見えるが、実際には世論の不満を逸らそうとした。平家滅亡によって完全に捨て去ることができると考えていた貧困は今もなお続き、やってくると誰もが考えていた豊かな暮らしは一向にやってこないことへの不満を逸らそうとしたのである。

 後白河法皇はこの流れをさらに増幅させて自身のために利用しようとした。文治元(一一八五)年八月二三日、後白河法皇が蓮華王院本堂、現在では三十三間堂と呼ばれることの多い建物の東南に五重塔を建てると発表した。倒壊はしなかったものの震災で大きく破損した白河法皇の九重塔よりは小さいが、貴族の邸宅でも二階建てはまず存在しないこの時代、五重塔は当時の京都では例外的な高層建築である。また、白河法皇が白河の地に寺院を建立して、鴨川の東に京都の一部でありながら平安京の一部ではない自身の一大拠点を作りあげたのと同様に、後白河法皇も鴨川の東に自身の一大拠点を作り出すことにしたのである。それに加え、蓮華王院はすぐ南が六波羅の地であり、六波羅に拠点を構えていた平家が滅亡したことで主(あるじ)なき地となっていた六波羅に自身の勢力を拡げる意図もあった。

 平家が六波羅に拠点を構えたのは、鴨川の東であるために平安京には組み込まれておらず、それでいて京都の一部である土地に自身の軍勢を常時待機させることで京都に有言無言双方の圧力を掛ける目的があったからであるが、後白河法皇は平家が用いた政略をそのまま自身の院の勢力に組み込もうとしたのである。

 しかし、ここに大問題がある。

 後白河法皇には武力がない。

 過去二例の院政では源平双方を院の武力として計算できていたが、平治の乱以降は院や貴族が武士を私的な軍事力として計算することができない時代になっていた。さらに源平合戦を経て平家が滅亡すると、軍事力を私的に組み入れることがますます難しくなる。文治元(一一八五)年八月時点で日本国に存在する軍事力とは、イコール、鎌倉の源頼朝のもとに結集して言える鎌倉方の武装勢力しかない。

 だが、後白河法皇はそう考えなかった。

 後白河法皇が利用できる軍事力があると考えたのだ。

 源義経という軍事力が。

 文治元(一一八五)年八月二三日、およそ三ヶ月前の五月二〇日に京都で判決が下った九名のうち、平時忠と平時実の二名を除く七名に対する配流が実施された。刑執行責任者は、名目上こそ検非違使としての源義経であるが、実際には後白河法皇の側近である源義経であった。

 ではなぜ、平時忠と平時実の二名は刑がまだ執行されなかったのか?

 簡潔に述べると源義経が政治家としての能力の乏しい人間であったからである。


 平時忠も、平時忠の息子の平時実も、平家一門の人間ではあるが本質的には貴族である。戦場を目の当たりにしたのはその通りでも、戦場を居場所だと感じることは無く、この親子は都を自分の居場所と考えていた。

 壇ノ浦の戦いで平家が負けたのは認めるが、それは軍事的敗北であって平家そのものの完全敗北であるとは考えなかった、いや、本心は完全敗北であると思っていたのであるが、そのことを認めてしまうのは本人のアイデンティティにかかわる話になってしまうので、敗北を認めることができずにいた。このときの親子にとっては、極めて不利な状況下であるのは認めても挽回できる可能性があると考えたのである。絶望的な危機から挽回した例を見渡すなら、他ならぬ源頼朝という例がある。源頼朝がそうであったように、絶望的な危機から挽回すること、それも自分が中心となって挽回することを考えた彼らの目に飛び込んできたのが源義経であった。源義経に縋(すが)ることで流罪を回避し京都に留まることを画策したのである。平治の乱の後の源頼朝が慈悲によって命を長らえることが許されたように、源義経の慈悲によって流罪を許されることを考えたのだ。

 源義経がもう少し政治的な能力を有する人物であったならば、平時忠とその息子の縋(すが)りつきを政治的な打算の産物であると考えたろう。源頼朝が死罪ではなく流罪となったのは平清盛の慈悲ではなく政治的打算の結果であったことを踏まえれば、平時忠親子に対して慈悲の姿を見せるのも政治的打算の側面を生みだしてしまう。ゆえに、平時忠親子を配流にすることなく京都に留め置くなど考えもしなかったはずだ。だが、源義経は文人官僚としての能力を有してはいても政治的な能力を有する人物ではない。平時忠親子の縋(すが)りつきを純粋に自分に対する縋(すが)りつきと考えてしまったのだ。それは自分が成功者であり勝者であることの証左であり、平時忠親子が自分に縋(すが)りついて配流から逃れようとするのも源平合戦の敗者が勝者の慈悲を願う姿勢であると考えるようになってしまったのである。

 なお、平時忠も、平時実も、目立つところで京都に居続けたのではない。公的には配流になった人間であり、九名中七名が正式に配流になったことは京都中の多くの人にとって周知の事実になっていたが、配流の際に残る二名も配流になったと多くの人が考えたのである。ゆえに、京都に居続けるにしても目立つような行動をすることは許されず、京都にいるものの人目を忍ぶ日々を過ごすことを余儀なくされている。

 もっとも、いかに人目を忍ぶ日々を過ごしていようと、それで源頼朝の情報網から逃れることはできない。京都と鎌倉の距離が生み出すタイムラグはあるが、それでもこの時代の概念では例外的なスピードで鎌倉の源頼朝は京都での情報を手にする人である。京都で源義経が何をしているのかを兄が理解するのにさほどの時間は要しなかった。


 京都と鎌倉との間で、また、源義経と源頼朝との間で断絶が生まれつつある文治元(一一八五)年八月二七日、後白河法皇は主立った貴族の面々を引き連れて奈良へと向かった。大仏開眼のためである。その中には源義経の姿もあった。従五位下の位階を得ている貴族でもある源義経は後白河法皇とともに奈良へ向かうことは何らおかしなことではない。だが、今や誰もが後白河法皇の行使できる唯一の武力こそ源義経であることを知っている。源義経は貴族として奈良へ向かうのではない。後白河法皇のもとには京都でヒーローとなっている源義経がいるのだと広く知らしめるために奈良へと向かうのである。

 また、京都から奈良へと向かう人は後白河法皇や貴族だけではなく、平安京とその周辺に住む庶民も含まれていた。京都から奈良まではおよそ四〇キロメートル。気軽とまでは言わないが、健康な者なら一日で、余裕を考えたとしても途中で一泊すれば歩いて行ける距離である。おまけに後白河法皇は奈良の開眼供養には誰でも立ち会えると宣伝していたのであるから、大仏開眼供養という一生に一度でも体験できるかどうかというレアなイベントであることを考えると、無理をしてでも奈良に行く者が続出しても不可思議ではない。それに、多くの人に奈良の光景を目に焼き付けさせることは大きな意味がある。

 大仏開眼は後白河法皇の権力回復と勢力伸長のための絶好のイベントであった。そのため、実際にはまだ修復工事が完成していないのにもかかわらず、大仏開眼供養を開催するのである。大仏が蘇りつつあることを京都の人は話としては知っていた。しかし、どれほどの復旧なのかは知らないでいた。また、奈良が灰燼に帰したことも、その後の復旧過程も、話としては知っていたが、ほとんどの人は知らないでいる。養和の飢饉は忘れることのできない実体験した過去であるが、南都焼討は重大な事件であることを知識としては知っていてもほとんどの人にとっては伝聞の話である。

 南都焼討とその後の奈良の様子を、多くの京都市民はこのときはじめて目の当たりにした。そして改めて、源平合戦での平家の暴虐を思い出させることに成功した。京都は飢饉に見舞われたし木曾義仲の略奪と暴行もまともに喰らってしまった。無事であった人を探すほうが難しいほどだ。その京都の人達に、京都よりも酷い被害を受けた場所があること、酷い被害を受けた人がいることを思い出させただけでなく、その原因が平家にあることを思い出させたことは、源平合戦終結によって到来するはずであった豊かな暮らしが未だに到来してこないことへの不満を逸らせることにも成功したのだ。

 後白河方法は何とも強烈なインパクトをもたらすイベントを企画したものだと感心させられる。あるいは、他の貴族のアイデアか、源頼朝が裏から手を回したか、それとも開眼供養での後白河法皇の燥(はしゃ)ぐ様子を見ると後白河法皇の先走りが生んだ怪我の功名か。


 文治元(一一八五)年八月二八日、東大寺大仏開眼供養開催。

 奈良に住む人、そして、大仏開眼供養のために奈良に詰めかけた人は式典の前から大仏の姿が目に映っていた。大仏殿の中に入って大仏を目にしたからではない。南都焼討で大仏殿が焼け落ち、大仏の残骸が野晒しになっていたからである。復旧は大仏を優先させて大仏殿を後回しにしていたこともあり、大仏がどのように復旧しているのかが誰の目にも明らかになっていた。

 現在に住む我々は奈良の大仏の色を黒っぽい銅の色として認識しているが、これは本来の大仏の色ではない。本来の大仏は金色に塗装されており、完成当初は金色に光り輝いていた。この金色に光り輝く姿こそ大仏の色であり、現在の色は歴史の積み重なりが生んだ姿である。大仏開眼供養のために詰めかけた人の目に飛び込んできたのは本来の色である金色に光り輝く大仏である。

 ただし、全身が金色では無い。金色なのは大仏の顔だけなのだ。これだけで、いかに急いだ大仏開眼供養なのかが誰の目にも明らかになっていた。そして、大仏の目を描く筆を持つのは後白河法皇自身。天平勝宝四(七五二)年の大仏開眼も、貞観三(八六一)年の大仏修復も、皇族はたしかに式典に参加したが、目を描きこむ筆そのものを手にしてはおらず、筆から伸びた紐を握っていた。ちなみに、紐を握っていたのは皇族だけではなく、年齢も性別も身分の差も国籍も関係な開眼供養の式典に出席した全ての者である。

 文治元(一一八五)年も理論上は同じである。筆から伸びた紐を全ての人が握っている。男性であろうと女性であろうと、貴族であろうと庶民であろうと、僧侶であろうと武士であろうと、式典に参加する全ての者が握っている。違っているのは、筆そのものを握っているのが後白河法皇だという点だ。

 多くの人が反対したが、皇族が大仏開眼の筆を握る前例などないという忠告は出家して僧籍にあるから関係ないとし、高所作業の危険さを訴える忠告は地震が起こって崩れることになろうとも構わないと一蹴した。万一は許されないということで、過去二回の大仏開眼では現在で言う高所作業用ゴンドラのような形で仏師が籠に入って持ち上げられた上で大仏の瞳を描いたのに対し、今回は籠ではなく足場を組んで横板を渡し、前もって問題がないことを院近臣が確認してから後白河法皇に登壇いただくということは後白河法皇も妥協した。筆を手にすることは妥協しない代わりに瞳を描く際の足場については妥協したというところか。

 後白河法皇が筆を手にして大仏の瞳を描き込むことで、それまで焼け落ちた廃墟となっていた大仏は、なお工事中ではあるものの大仏としての役割を取り戻したことになり、奈良の大仏は復活したことになる。筆を手にしたのは後白河法皇であるが、筆から伸びた紐は開眼供養に詰めかけた全ての人が握っていたため、全ての人を対象とする参加型イベントとすることに成功し、それが一日限りであったとしても源平合戦の混迷から脱却できたのである。

 ただし、冷めた人もいる。例えば、九条兼実はこのときの様子を自分の日記に呆れた様子で記している。もっとも、九条兼実は奈良に赴かず式次第を目にしてはいないと言えばそれまでであるが。


 京都、そして奈良において、大仏開眼という参加型イベントが多くの人を熱狂させていた頃、鎌倉では静かな、しかし、これから大きなうねりとなる動きが見られていた。

 京都で除目が執り行われたのが文治元(一一八五)年八月一六日。その結果が鎌倉に届いたのが八月二九日のことである。源義経が伊予守に任命されたこと、しかし、左衛門少尉、検非違使少尉、そして院御厩司(いんのみまやのつかさ)の兼任でもあるため、実際に伊予国に赴任することなく京都に滞在し続けていること、そして、今や後白河法皇の側近の一人となっていることが鎌倉に伝えられたのである。

 ただ、本当にこの日に到着した情報なのだろうかという疑念がある。吾妻鏡の文治元(一一八五)年八月二九日の記録も源頼朝の温情を記す内容となっているが、他の日の記事と比べても妙に不自然である。

 考えられるのは一つ。公的に情報を受け取ったのは八月二九日であるが、源頼朝のもとには前もって除目の内容が届いていたこと、そして、源義経が京都に留まり後白河法皇の側近となっていることを知った上で公的情報を伝えられたという流れである。源頼朝はそのことを是認とまではいかなくとも黙認として受け入れることはできたのだ。

 それにもう一つ、このときの源頼朝の心情を考えると、我が身に降りかかっている出来事を寛容な感情で受け入れる準備ができていたのだ。特に、家庭内の出来事と捉えられるならばなおさらである。

 何があったのか?

 平治の乱を最後に離れ離れになってしまっていた父の源義朝と再会したのである。平治の乱で敗れた源義朝は死を迎え晒し首となっているし、晒し首となった父を源頼朝は目の当たりにしている。その父の首が鎌倉まで運ばれてきたのだ。源頼朝は亡き父の首を見つけ出してもらうことを後白河法皇に請願し、後白河法皇はその請願に応えた。そして、検非違使の一人に源義朝の首を鎌倉まで運ばせることを約束していた。請願の内容自体は特に不可思議なものではない。首だけとなった、そしておそらく白骨化している父の首を探し出してもらいたいと訴え出ることを咎める者などいない。いかに平治の乱の当時は朝敵とされていた人物であろうと、今や平治の乱も過去の話となり、平治の乱の勝者である平家が源平合戦での敗者となったのである。戦乱の勝者にして従二位の位階を持つ者の請願を無碍にするなどありえない。ただし、その請願を実行に移すのは誰かという問題はあるが。

 通常ならば検非違使だ。検非違使自身が土を掘り返すわけではなくとも、見つけ出した首を後白河法皇の元へ届け、鎌倉の源頼朝の元へ届けるのは、検非違使、それも、相応の役職を持つ検非違使でなければならない。

 つまり、源義経である。

 源義朝の首を、すなわち源義経にとっても父である人物の首を弟の手で兄の元に届けさせるためであるならば、いかに京都を離れることが許されない職務であろうと京都を離れることが許されなければならない。父の首という名目で源義経を鎌倉まで呼び出すことができれば、生まれつつあった源義経との対立も完全に消滅するのだ。

 だが、後白河法皇は源頼朝の誘いに乗らなかった。後白河法皇が鎌倉まで派遣した検非違使は大江公朝(おおえのきんとも)、つまり、後白河法皇は実父の首を届けさせることすら認めず源義経を自身のすぐそばに留め置くことを選んだのである。

 このときの源義経の心情を伝える記録は、無い。

 三五年ぶりの父との再会の様子を、吾妻鏡は淡々と、しかし、父を弔う息子の姿としては理想的な情景で描き出している。文治元(一一八五)年八月三〇日に到着した使節を片瀬川まで出向いて白い水干で出迎えたこと、鎌倉まで来てくれた大江公朝(おおえのきんとも)に対しては九月一日に砂金と馬を褒章として与えたこと、亡き父は建設中の勝長寿院に葬ること、勝長寿院の建設が終わった後は大仏開眼と同様の流れで落成供養を開催すること、落成供養は一〇月二四日に開催することを淡々と書き記している。


 ただ、表面上は理想的な姿であっても、内面は炎が燃えたぎっていた。

 何の炎か?

 源義経討伐に、いや、後白河法皇との最終決戦に挑む覚悟の炎である。後鳥羽天皇はまだ幼く、藤原摂関家も内部分裂を隠しきれず、平家は滅亡し、院政を敷く資格のある人物はただ一人、すなわち後白河法皇しかいない。だが、いかに朝廷権力を安定させるためには後白河法皇の手による院政しかないといっても、それが結果を出すならともかく、パワーゲームとパフォーマンスに明け暮れて庶民の暮らしの向上には全くつながっていない。その上、源義経を身近に置くことで独自の武力を強大化させようとしているのであるから、厄介と言うしかない。

 かといって、源頼朝が後白河法皇の院政に取って代わる新たな政治体制の構築を画策したわけではない。というより、この時代の人間にそのような概念はない。他ならぬ源頼朝が創設した鎌倉幕府があるではないかと考えるのは現代人の視点であり、このときの源頼朝は自分のことを、鎌倉に拠点を構えてはいる以外は他と変わらぬ従二位の貴族であると考えている。武士として平家と対抗していた時代は終わり、これから先は貴族として後白河法皇と真正面から向かい合う時代を迎えたのだと源頼朝は考えたのだ。

 しかも、誰一人としてやったことのない、京都から遠く離れた鎌倉からのリモートコントロールによる院政との対抗だ。平清盛だって京都を離れていたではないかとする反論もあるだろうが、平清盛とて、平安京のすぐ隣の六波羅や、平安京から一日で移動できる摂津国福原に身を置いたのであり、通常であれば平安京から片道の移動でも半月を要する土地に住まいを構えたのではない。源頼朝は京都から片道半月の距離がありながら、この時代の交通通信事情で後白河院政と向かい合うのである。もっとも、京都から離れているためにかえって京都の影響を受けずに済むというメリットもあるので、一概に困難なチャレンジであるとは言えない。

 文治元(一一八五)年九月二日、源頼朝は梶原景時の息子の梶原景季と、僧侶の成尋の二名を京都に向けて派遣した。名目は亡き源義朝を弔うための勝長寿院における供養の道具を求めてのことであると同時に、勝長寿院の式典に参加できる武士を集めることであり、だからこそ梶原景季だけでなく僧侶の成尋も京都に向かわせたのである。

 勝長寿院は建設途中であり、勝長寿院で亡き父を弔うこと自体はただちに執り行うが、勝長寿院の完成は一〇月二四日とし、同日に鎌倉に可能な限りの武士を集めて勝長寿院の落成式典を開催することが決まったから、前段に述べたように鎌倉と京都との間には片道半月、往復では一ヶ月を要することを考えると、強行軍とまでは言わないが余裕があるとは言えない日程である。京都では当然ながら鎌倉方からの使者ということで警戒心を持たれたが、源頼朝は供養の道具を求めると同時に平家残党の配流が予定通り遂行されているかを確認し、かつ、謀反を起こしたという知らせのあった源行家についても調査させるつもりだと公表したことで、表立った警戒心は示すことが許されなくなったし、日程の厳しさも京都に伝えたことで余裕の無さを演出することもできた。何しろ亡き父の弔いだ。急いでいることを理解しない者を探すほうが難しい。

 なお、このときに源行家が謀反を起こした際に源義経と接触をもったという話があるというのでその点についても調べさせているが、源義経はあくまでも源行家についての調査の延長上であり、源義経を直接調べさせようとしているわけではない。ゆえに、後白河法皇も文句を言えない。


 文治二(一一八五)年九月二日に鎌倉を出発した梶原景季らが入洛したのは九月一二日のことである。梶原景季は源義経に対して面会を求めたが、源義経からの返答は現在のところ病床にいるため面会できず、源行家との件については病状回復後に改めて回答するというものである。また、亡き父の弔いに参加すること、また、そのための寺院である勝長寿院之落成供養を一〇月二四日に鎌倉で執り行うことについても源義経は無回答であり、流罪宣告を受けながら京都に留まっている平家の二名についての処遇については黙秘している。

 これで明白になった。

 源義経は鎌倉方から離れて京都についたのだ。後白河法皇に利用され、平家の残党に利用されていることが明白になったのである。吾妻鏡によると一度目の面会から三日後に梶原景季は源義経とも再び面会できたとあるが、それでも源義経が鎌倉から決別していることを隠し通すことはできなかった。

 その間、源頼朝は源平合戦でさほど活躍を見せなかった、しかし、清和源氏の中では無視できない人物を鎌倉に招いていた。

 先にも述べたが亡き源義朝を弔う勝長寿院の完成は一〇月二四日を予定しているが、源義朝を勝長寿院に弔うこと自体は文治元(一一八五)年九月三日に執り行っている。このときは源義朝の遺骨とともに源義朝の遺骨と一緒に鎌倉まで運ばれてきた鎌田政家の遺骨を葬ったのであるが、この葬列に僧侶以外で参加したのは、源頼朝のほかに、平賀義信とその息子の大内惟義、そして毛利頼隆の計三名のみであったのだ。

 平賀義信の父も毛利頼隆の父も平治の乱において源義朝とともに戦死しており、平治の乱で敗れたために朝敵となって断罪され続けまともな葬儀を執り行うことすら認められてこなかった人たちが、これを機に名誉を回復して正式に埋葬されたこと、清和源氏は平治の乱の敗者であったが源平合戦においては雪辱を果たして平家に勝ったこと、そして、清和源氏は鎌倉の源頼朝が中心であることを内外に宣伝する効果を持っていた。これによって、京都において後白河法皇に抱き抱えられる形となった源義経も、鎌倉から離れて独自の行動を起こすようになっていた源行家も、鎌倉方に楯突く存在であると認識されるようになったのである。

 鎌倉は着実に権威と権力を構築してきており、少なくとも関東地方における領地問題の裁定は鎌倉が受け持つようになっていた。これまで土地問題が起こったときは、公的には京都の朝廷に訴え出て判断を仰ぐ、実質的には戦って相手を滅ぼすことが土地問題の解決方法であったが、今後は鎌倉の裁決が土地問題の解決となった。そのことの記録が吾妻鏡の九月一五日の記録として存在している。


 ここで注目を集めることとなったのが、平家討伐軍の総大将である源範頼の立場である。源範頼が源頼朝ではなく源義経を、そして、その後ろにいる後白河法皇を選ぶ可能性もあったのだ。こうなると、後白河法皇が動かすことのできる軍事力が増大する。

 はっきり言って源義経個人に政治家としての能力は期待できない。また、源義経を利用しての軍勢拡張も期待できない。ゆえに、手持ちの軍勢で好き勝手に暴れ回ることまではできるが、軍勢の人員を増やすことも、暴れ回ることで支持を集めることもできない。しかし、源範頼が京都に向かって源義経と手を結んだら強大な武装勢力ができあがってしまう。それこそ鎌倉と二分する存在だ。一方、源範頼が源義経ではなく源頼朝を選んだなら、鎌倉だけが一大勢力で、源義経だけが孤立する小規模勢力となる。

 注目を集めていた源範頼の回答が判明したのは文治元(一一八五)年九月二一日になってからである。ただし、京都では少なくともそれより一〇日前には判明していたはずである。どういうことかというと、九月二一日に鎌倉に源範頼からの書状が届いていたのであるが、その中には源範頼が源頼朝に従うこと、源頼朝の命令に従って九州を発った後にまずは京都へと向かい、その後で勝長寿院の完成式典に参加する予定であること、そして、源範頼とともに九州にとどまって戦後処理に当たっていた全ての武士は源範頼とともに源頼朝の支配下にあることの再確認が告げられたのである。書状が鎌倉に届く頃には源範頼が京都に到着しているであろうというのが、源範頼からの書状の締めの言葉であった。

 実際に源範頼が京都に到着するのは九月二六日のことであるが、源範頼は源頼朝の配下の武人の一人であることを選び、源範頼に従っていた武士達も源範頼とともに鎌倉方の一員であり続けること、そして、九州を発って勝長寿院の式典のために鎌倉まで出向くこと、すなわち、後白河法皇ではなく源頼朝を選んだことはかなり早い段階で京都に伝わっていたのである。

 これで趨勢は決まった。

 後白河法皇が期待できる軍事力は源義経と源行家であり、源頼朝も源範頼も期待できない、すなわち、後白河法皇の意向がどうにかなる軍事力の総力を結集させても鎌倉方には手も足も出ないのである。

 これで時代の趨勢が決まったと覚悟したのか、平時忠は源義経に縋(すが)ることを諦めて自ら流罪地である能登国へ向かうことを選んだ。なお、平家物語によると京都を離れる前に建礼門院平徳子に挨拶したとある。ちなみに、同じく流罪となっているはずの平時忠の息子の平時実はまだ源義経に縋(すが)ることを選んでいる。

 一ノ谷の戦いから壇ノ浦の戦いに至るまでの一連の活躍は源義経を支持する京都市民が数多くいたではないかと思うかも知れないが、それは伝聞で伝え聞いている源義経という名の偶像の活躍であり、また、京都で現実に検非違使として職務を遂行している人物と同一人物であることも知識としては知っているが、現実問題、多くの京都市民は源義経の実像を目にしていない。それまで源義経を支持していた京都市民も、仮に京都が戦場となり、戦場で源義経がやってきたことが目の前で切り広げられたならば、間違いなく見捨てる、それも今まで信頼していただけにより大きな失望となって源義経に反発することになる。

 それに、源義経を支持すると言ってもそれは源頼朝の京都における代理人としての源義経であって、源頼朝と対立する存在としての源義経ではない。源頼朝と源義経の対立がより深まって武器を手に戦場で対峙することとなった場合、京都の多くの人は戦場そのものから逃れようとするし、やむをえず戦場に直面しなければならなくなったなら源頼朝を選ぶ。戦場で活躍した源義経ではなく、トップである源頼朝を選ぶ。

 当然だ。

 源義経は戦場で華々しい活躍を見せたし、木曾義仲に苦しめられていた京都を木曾義仲から解放してくれた人であるが、源頼朝は木曾義仲よりもずっと前から続いていた平家政権を終わらせ、戦乱を終わらせて平和そのものを取り戻した人だ。源義経が京都を解放したときも源義経は源頼朝の派遣した現地指揮官でしかなく、その後の活躍がいかに華々しいものであったとしても源義経は源頼朝の作戦に従ったに過ぎないのである。

 文治元(一一八五)年九月二六日、九州から東へと進んできた三河守源範頼が入洛。壇ノ浦の戦いから半年間の九州平定成果を朝廷に報告し、平家が都落ちの際に後白河法皇の法住寺殿から略奪した名刀「鵜丸」を進上、さらに、南宋から輸入された錦、綾織りの伽羅、銀の延べ棒、墨、茶道具、花茣蓙(ござ)を献上、さらに、九州のコメと牛車用のウシを後白河法皇へ献上した。なお、同タイミングで鎌倉の源頼朝と北条政子の夫妻に、後白河法皇へ献上したのと同じく南宋から輸入された錦、綾織りの伽羅、銀の延べ棒を献上し、同時に九州産のコメと大豆、それに九州で生産された鎧兜弓矢を送り届けている。


 文治元(一一八五)年一〇月六日、梶原景季が京都から鎌倉に戻り、源義経と一度目は源義経の体調不良を理由に面会できなかったこと、二度目は面会できたものの、そのときの源義経は本当に窶(やつ)れた表情をして灸を据えた痕のあったことを源頼朝に報告した。一見すれば源義経は嘘偽りなく病床にあったのだろうと思えるが、息子からの報告を受けた梶原景時はそのように考えなかった。丸一日、さらには二日間の断食をすれば顔は否応なく窶(やつ)れるし、徹夜をすれば目の下にクマもできる。灸を据えた痕も三日もあれば用意できると訴えたのである。

 源義経は鎌倉からの使者に対して源行家と手を組むつもりはなく、健康を取り戻せば源行家を自分も討伐するつもりであることを訴えたが、源頼朝はもはや源義経の言うようには考えなくなっていた、いや、梶原景時の進言のほうを受け入れ、源義経への対策をとることにしたのだ。

 源義経を殺害するという、もはや後戻りのできない対策である。

 もっとも、源頼朝が梶原景時の進言を受け入れたにしても、色々とおかしな話がある。

 普通、暗殺を計画するとなったら極秘裏に進めるべきことであるのに、このときは極秘裏というにはお粗末な暗殺指令であった。何しろ、暗殺指令を受けた僧侶の土佐房昌俊の行動が記録に残っているだけでなく、京都でも十分に対策できていたからである。

 鎌倉で源義経の殺害を源頼朝が主張し、実行役を求めるものの名乗り出る者が誰もいない。そんな中で手を挙げたのが僧侶の土佐房昌俊である。土佐房昌俊は、もとは興福寺の僧兵であったが、土肥実平とともに関東に下向していたときに源頼朝が反平家で挙兵すると源頼朝に仕える一人の御家人として軍勢に加わっていることの記録が残る。下野国に所領を持っており、源義経の暗殺の際に老いた母と生まれて間もない我が子の未来を源頼朝に託している。あるいは、家族の安全を引き替えに源頼朝が土佐房昌俊に対して殺害を依頼したのかも知れない。

 さらに言えば、殺害しようとしてもかなりの可能性で失敗する、そして、京都で死を迎えることが間違いないというハイリスクな任務なのだ。御家人がいかに命知らずであろうと、死ぬとわかっている任務を好き好んで引き受ける者はそうはいない。それでも任務を引き受けるのであるからかなりの見返りがないと話にならない。本領安堵に加え、家族の面倒も源頼朝が看るというのは相応の見返りである。

 それにしても、なぜ高い可能性で失敗するのか?

 以下はその時系列である。

 一〇月九日、土佐房昌俊が弟の三上家季ら八三騎の軍勢を率いて鎌倉を出発した。

 一〇月一七日、土佐房昌俊らが京都に到着して源義経の京都での住まいであった六条室町亭を襲撃するものの源義経らは当日不在であり、自宅が襲撃されていることを知った源義経は佐藤忠信らを伴って自ら応戦し、源義経の軍勢に源行家率いる軍勢も加わって源義経暗殺計画は失敗に終わった。

 その後、逃走を図った土佐房昌俊は鞍馬山に逃れたものの捕縛され、一〇月二六日に家人と共に六条河原で梟首(きょうしゅ)された。

 このように一〇月九日に鎌倉を出発した土佐房昌俊が京都に到着したのが一〇月一七日である。問題は、その間に京都で何が起こっていたのかである。

 まず、一〇月一一日に源行家を制止するよう源義経に求めてきた後白河法皇に対し、源義経は、源行家の制止ができないこと、そして、源頼朝の追討の院宣を求めたのである。なお、この日は後白河法皇から院宣を賜ることができなかった。

 二日後の一〇月一三日、奥州藤原氏第三代当主藤原秀衡が、源頼朝討伐において源義経と行動を共にすることを宣言したというニュースがいきなり京都に満ちあふれた。同日、源義経が改めて後白河法皇に源頼朝追討の院宣を求めた。このときも後白河法皇は院宣を出すことはなかった。しかし、二日前と違ってこのときは奥州藤原氏が立ち上がるという噂が流れている中での源義経の行動である。この日に源義経は源頼朝と決別して源頼朝に叛旗を翻すことが京都中に知れ渡ることとなったのだ。

 三日後の一〇月一六日、後白河法皇が源義経の武力行使を制止しようと説得を試みるが、源義経は後白河法皇の意向に即答しなかった。なお、同日、源行家が北小路東洞院邸に移っている。単に移ったのではなく、既に住んでいる人がいるのに住人を強制的に立ち退かせてから移っている。

 つまり、一〇月一七日の源義経暗殺計画は、何の前触れもなく突然起こった出来事ではなく、京都中の人が近い未来にやって来ることを充分に理解していた上で起こった出来事なのである。しかも、既に住んでいる人を追い出して身構えるのであるからよほどの事態であるとするしか無い。

 さらに二つ、考えなければならない視点がある。

 一つは、源範頼は九州から京都経由で鎌倉へと戻ったが、源範頼一人が九州から鎌倉へと戻ったのではないという点である。源範頼は平家討伐を命じられた鎌倉方の軍勢の総指揮官であり、源範頼の元から離脱して勝手に鎌倉や自領に戻ってしまう武士は多かったものの、壇ノ浦の戦いの後も源範頼と共に九州に残り続け、このときはじめて九州を離れ京都に立ち寄り鎌倉へと戻ることとした武士はもっと多かったのだ。彼らは単に鎌倉に戻るのではない。勝長寿院の式典に参加する、すなわち、長く続いた源平合戦が鎌倉方の勝利に終わったことを祝うために鎌倉へと向かうのである。

 つまり、源範頼は単身鎌倉へと戻るのではなく、軍勢を指揮しつつ鎌倉へと戻るのである。これを京都に留まり続けていた源義経の視点で捉えると、軍勢を率いた兄が自分のことには目もくれず、素通りして鎌倉へと戻っていったこと、京都に存在する軍勢は源範頼の上洛前から京都にいた軍勢のみということとなることになるのであるが、ここでもう一つの考えねばならない視点が出てくる。鎌倉に向かったのが源範頼の率いる軍勢だけでなく、京都内外の武士も勝長寿院の式典に参加するために鎌倉へと向かったこと、すなわち、京都内外の武士の絶対数が少なくなったのである。

 かといって、行くなとは言えない。延々と続いていた、それこそ若き武士にとっては生まれる前から続いていた戦いが自分達の勝利に終わったことを祝すための式典なのである。強い命令で参加するなと言われれば従うかもしれないが、それで新たな忠誠を獲得できることはありえない。鎌倉に行くと言っても永遠ではなく往復一ヶ月なのだから、京都や京都内外から離れて鎌倉に向かうことを認めるほうがまだマシだ。

 吾妻鏡によると、源範頼が鎌倉に到着したのは、文治元(一一八五)年一〇月二〇日のことである。勝長寿院の式典が一〇月二四日であるから、ギリギリでは無いと言っても余裕を持った日程というわけではなかった。

 ここに土佐房昌俊らが京都を出発したのは一〇月九日であると吾妻鏡は伝えていることを重ねて考えると、源義経殺害未遂のとき、源範頼は鎌倉まであと三日のところにいたこととなる。そして、京都と鎌倉の最短距離、すなわち東海道を双方ともに選んだのであれば、かなりの可能性で土佐房昌俊は源範頼と、そして、勝長寿院に向かう多くの武士達とすれ違っているはずなのであるが、そのことを吾妻鏡は伝えていない。少なくとも、鎌倉へと到着した源範頼からの報告には、土佐房昌俊のことも源義経のことも記されていない。一見するとおかしな話である。

 しかし、こうも考えられる。

 源範頼も、源範頼の指揮下にあった武士達も、そして、勝長寿院に向かった全ての武士も、鎌倉が源義経を見限ることを知っていたのではないか、と。源義経を見限ることを知っているからこそ、予定通りに行動している者がいることをあえて伝えはしなかったし、源義経の殺害に成功しようと失敗しようと混乱になること間違いない以上、混乱を最小限に食い止める、すなわち、後白河法皇や朝廷の命令の届く範囲にいる武士の数を限界まで少なくしたのではないか、と。亡き源義朝を弔う勝長寿院を理由として。

 武士達は確かに源頼朝に従っているが、命令の上下関係で言えば源頼朝よりも後白河方法のほうが、後白河法皇よりも朝廷のほうが上に来る。つまり、源頼朝が鎌倉でどのような命令をしようと、後白河法皇の院宣が届いたならば、あるいは朝廷からの命令が届いたならば、武士たちは院宣や朝廷からの命令に従わねばならなくなる。のちの承久の乱で武士達は後鳥羽上皇の院宣に背くことになるが、この時代の武士達にそのような概念はない。

 ただ、命令が届く前に京都から遠く離れたらどうなるか。ネットも無ければ電話も無いこの時代、命令を相手の元に届けるには書状を相手の元まで運んでいかなければならない。そして、この時代の交通事情では京都から鎌倉まで通常半月、急いでも一〇日を要する。例外的に、紀伊半島から船に乗れば黒潮を利用することでもっと急ぐこともできるが、肝心の命令を届ける相手先が鎌倉ではなく京都と鎌倉の途中、それも、京都よりも鎌倉に近い東海道のどこかであった場合は、黒潮を利用して西から東へと急いだところで、上陸してから今度は逆に東から西へと引き返さなければならないから、やはり命令伝達に要する時間は長くなる。それこそ鎌倉に伝えるよりも命令伝達が後になるほどだ。

 これを職務怠慢などと考える人はいない。この時代の交通事情と通信事情ではどうにもならないことであり、重要な命令が発せられてから命令を受け取るまでの間の時間と空間の制約は命令を発する側が考慮しなければならなかったのがこの時代である。そして、源範頼に、あるいは源範頼に従う武士達に命令を発しようと、命令を受け取る側が命令を伝える書状を物理的に受け取ることができない状況にいるのであれば、命令を遂行できなかったとしても当然のこととされていたのがこの時代である。


 源義経は、自分が殺害されそうになったことを事前に予期していたのか。

 結論から言うとその通りである。だからこそ、その前に源頼朝を討伐する院宣を発するよう後白河法皇に求めたのである。だが、源義経は、武人としては戦場で目立ち、官僚としても京都で貴族達と渡り合える優秀さを持っていながら、政治家としての能力は欠けていた。もっとも、平均的な政治家としての能力を持ち合わせていたとしても、相手が源頼朝であるという状況下での政治的対立で勝てる人間などそうはいない。

 源義経が後白河法皇に院宣を迫ったのは自分が殺されそうになる前だけで三回を数え、その三回とも後白河法皇は院宣を出すことを渋っている。後白河法皇に対する毀誉褒貶は多くの人がそれぞれの形で形容しているが、それでも政治家として三〇年近くを生きてきた人である。政治家としての能力を欠いている源義経に比べれば、毀誉褒貶であるだけ後白河法皇の方が政治家として上回っていると言うしかない。

 どう言うことか?

 ここで源頼朝を討伐するように院宣を出したら、京都の武力は完全に消失し、京都の治安は崩壊するのだ。源義経は検非違使として京都の治安維持を担っている。それも、平家が破壊し、木曾義仲が何もかもを略奪して回った後の京都の治安だ。検非違使としての源義経は難しい中にあってもよくやっていたとするしかないし、だからこそ、後白河法皇は院として自由に操ることのできる唯一の武力として源義経を頼ったのである。ただ、その源義経は源頼朝が京都に派遣した人物であるという前提があり、源義経個人の操ることのできる武力には限界がある。源義経が恣意的に武力の発動を命じても、その命令に従う武士となると源義経個人に仕えている武士に限定される。その時点で京都にいる武士が源義経に従うとすれば、源義経の出す命令が源頼朝の意向に沿う命令であるか、あるいは院もしくは朝廷からの正式な命令であるときに限られる。

 タイミングを計るとすれば源範頼が鎌倉に向かう途中であるために鎌倉方の派遣した軍勢の多くが京都に滞在している瞬間を狙うこととなるのであるが、その軍勢の多くが京都を離れて鎌倉に近づいているとなると、院や朝廷からの命令を届けることができない、すなわち、源義経の恣意的な命令に従うことが物理的にありえなくなる。

 つまり、源義経がどうにかできる武力が極めて少ないタイミングを狙って源義経の身に危機が起こるかどかという局面になったのであるし、ここで源義経の要望に応じて源頼朝を討伐する院宣を出したとして従う武士はいったいどれだけいるのかという話になる。ゆえに、後白河法皇はまだ院宣を出さなかった。

 ところが、実際に源義経が殺されそうになったとなると話は別だ。源頼朝がいかに従二位の位階を持つ貴族であると言っても、源義経は京都の治安維持を担う検非違使である。その検非違使を殺害しようとしたのだから位階の高さなど関係なく何らかの処罰を下さねばならない。

 源義経が殺されそうになった翌日である文治元(一一八五)年一〇月一八日、後白河法皇は源頼朝追討の宣旨を出すこととなった。はっきり言うと、後白河法皇の敗北である。後白河法皇は躊躇したが、それまで左大臣として朝廷の重責を担っていた藤原経宗が、現時点で唯一の武力である源義経の申し出を拒否した場合に京都が迎えることになる運命、すなわち、平家都落ちの後の木曾義仲軍の入洛とその後の暴虐を暗喩したことで後白河法皇は宣旨を快諾せざるをえなくなったのだ。右大臣九条兼実は強く反発したが、朝廷の実務を主導している左大臣藤原経宗が強硬に主張した上、それまで躊躇っていた内大臣徳大寺実定も宣旨発給に賛成したことで朝廷の意見は宣旨発給となった。徳大寺実定は内大臣であると同時に左近衛大将を兼任している。もはや名目上でしか無くなったとは言え、律令の上では国政における武官のトップが宣旨発給に賛成したことは、源義経の武力発動を朝廷が認めたことになるのだ。


 源義経は自分で自分のことを政治的能力の乏しい人間であることを知っていたのか。

 おそらく、兄よりは劣っているとは自覚していたであろうが、それなりの政治的能力を持っているとは自負していたのではなかろうか。また、京都市民から受けている支持の高さも手伝って、源義経は自分自身が考えているよりも多くの軍勢を組織できると自負していたのではなかろうか。

 その思いは簡単に粉塵となった。

 後白河法皇に頼み込み、さらには朝廷が源義経の請願に動き、主に左大臣藤原経宗が中心となって源頼朝討伐の宣旨を発することが決まったものの、源義経に従う武士があまりにも少なかったのだ。

 院宣では無い。宣旨である。後白河院が法皇として出す命令ではなく、後鳥羽天皇の名で朝廷が発する指令である。左大臣藤原経宗が主導したとは言え後鳥羽天皇の名で発せられており、命令としては後白河法皇の出す院宣よりも強力だ。それなのに源義経に従って源頼朝追討に参加する武士があまりにも少なかったのだ。ゼロではないとは言え源義経が個人的にどうにかできる武士しか集められず、軍勢とするにはあまりにも少なすぎた。

 源範頼が鎌倉方の軍勢を率いて鎌倉へと向かっていることぐらい源義経だって知っているし、源範頼率いる軍勢に指令を送り届けることもできないことぐらい知っている。源義経にできたのは、京都とその周辺にいる武士に対して従軍指令を出すことだけであったのだが、その指令に従う武士があまりにも少なかったのだ。平安京の東隣の近江国に至っては全くの無回答であったという。

 さらに、京都と鎌倉との間の移動は短くても一〇日を要するのが通例であるが、京都から鎌倉への一方通行に限定するとは言え、一つだけより短い方法で移動できる手段がある。先にも述べた黒潮を利用することだ。紀伊半島から出港して黒潮に乗ることに成功したならば、鎌倉までもっと短い期間で移動できる。鎌倉から京都へ向かうときは陸路限定ではあるが、京都から鎌倉への一方通行であれば最短三日だ。

 文治元(一一八五)年一〇月二三日にはもう、源義経の殺害計画が失敗したこと、そして、源頼朝追討の宣旨が発せられたことが鎌倉に伝えられていた。その上で、源頼朝は軍勢を京都に向けて遣わすことを宣言した。しかも、その宣言が出されたのが鎌倉方のほぼ全ての武士が終結している場でのことであった。


 何度か記してきたが、一〇月二四日は勝長寿院の完成式典が執り行われる。吾妻鏡にはこの日に勝長寿院に詰めかけた者の名を全て記しているのでここで転記する。

 式次第を取り仕切るのは藤原重頼が担当する。この人はかつて蔵人、春宮少進、宮内権大輔を歴任していた人であり、源頼朝にスカウトされて鎌倉まで赴き源頼朝に仕えるようになった貴族のうちの一人である。藤原重頼が取り仕切っているだけに、この日の勝長寿院の式典の様子は京都で貴族が繰り広げる式典に似ている。あるいは、この時代の人達の思い浮かべる式典とは京都における貴族達の式典のこととイコールであるとも言えよう。

 まず、堂の左右に仮屋が建てられる。仮屋(かりや)とは式典終了後にただちに撤去する前提の仮設建築物で、現在で言うところの仮設テントといったところである。左が源頼朝のための仮屋で、右が北条政子と一条能保室坊門姫のための仮屋である。また、仮屋ではないが式典に参加する女性のためのスペースも設けられている。

 巳刻、現在の時制に直すと午前一〇時頃、衣冠束帯を身につけた源頼朝が勝長寿院に入場する。なお、源頼朝の前に一四名の随兵が先導している。畠山重忠、千葉胤正、三浦義澄、佐貫広綱、葛西清重、八田朝重、榛谷重朝、加藤景廉、安達盛長、大井実春、山名重国、武田信光、北条義時、小山朝政の一四名である。

 その後ろに三名が続く。源頼朝の太刀を持つ小山宗政、源頼朝の鎧を着る佐々木高綱、弓矢を手にする愛甲季隆の三名である。

 そしてようやく衣冠束帯姿の源頼朝が登場する。

 源頼朝の後ろには、五位から六位の位階を持つ鎌倉方の面々が三二名続く。彼らは衣冠束帯姿ではなく布衣、すなわち、衣冠束帯の次に格式のある服装で式典に臨んでいる。源範頼もこの三名の中に含まれている。この三二名の名を吾妻鏡に記されている順番に列挙すると、蔵人大夫源頼兼、武蔵守大内義信、三河守源範頼、遠江守安田義定、駿河守太田広綱、伊豆守山名義範、相摸守大内惟義、越後守石川義資、上総介足利義兼、前対馬守宗親光、前上野介藤原範信、宮内大輔藤原重頼、皇后宮亮源仲頼、大和守山田重弘、因幡守中原広元、右馬助村上経業、右馬助橘以広、修理亮関瀬義盛、式部大夫平繁政、判官代安房高重、判官代藤原邦通、蔵人新田義兼、蔵人奈胡義行、所雑色平基繁、千葉常胤、千葉胤頼、左衛門尉宇都宮朝綱、右衛門尉八田知家、刑部丞梶原朝景、武者所牧宗親、兵衛尉後藤基清、右馬允足立遠元の三二名である。基本的には位階に応じて持っている役職名、あるいは過去に持っていたはずの役職名を吾妻鏡は記しているが、千葉常胤と千葉胤頼の親子については役職名を付していない。もっとも吾妻鏡における正しい記載は「千葉介常胤、同六郎大夫胤頼」なので、実際には存在しない千葉介を役職名として記したとも言える。

 この、源頼朝プラス三二名の後ろに一六名の随兵が続く。下河辺行平、稲毛重成、小山朝光、三浦義連、長江義景、天野遠景、渋谷重国、糟谷有季、佐々木定綱、小栗重成、波多野忠綱、広沢実高、千葉常秀、梶原景季、村上頼時、加々美長清の一六名である。

 この後ろにさらに六〇名の随兵が続く。この六〇名は三〇名ずつに分かれ、源頼朝が仮屋に入った後は門の左右に控える。

 左方が、足利七郎太郎、佐貫広義、大河戸広行、皆河四郎、千葉胤信、三浦義村、和田宗実、和田義長、長江義景、多々良明宗、沼田太郎、曽我祐綱、宇治義定、江戸重宗、中山為重、山田重澄、天野光家、工藤行光、仁田忠常、佐野又太郎、宇佐美平三、吉河二郎、岡部小次郎、岡村太郎、大見平三、臼井常安、中禅寺平太、常陸平四郎、所朝光、飯冨宗長の三〇名。

 右方が、豊島清光、丸太郎、堀藤太、武藤資頼、比企藤次、天羽直常、都筑平太、熊谷直家、那古谷頼時、多胡宗太、莱七郎、中村時経、金子家忠、春日貞幸、小室太郎、河匂政頼、阿保五郎、四方田弘長、苔田太郎、横山野三、西太郎、小河祐義、戸崎国延、河原三郎、仙波二郎、中村五郎、原二郎、猪股範綱、甘糟広忠、勅使河原有直の三〇名。

 吾妻鏡の記載から個人名が特定できるなら可能な限り個人名の特定をしたが、吾妻鏡に「太郎」「二郎」など「誰々の長男」「誰々の次男」といった記載しかされておらず個人名が特定できなかった者については、吾妻鏡の記載に準拠した。

 この六〇名の後に、侍所部当の和田義盛と、侍所所司の梶原景時が来る。

 こうしてようやく式典が始まる。

 式典はまず、源頼朝が堂に上がるところから始まる。なお、源頼朝が戦場において身につける鎧をこの式典においては佐々木高綱が身につけていて、そのこと自体は問題ないのであるが、その鎧の着用方法が通例と違っているという指摘があった。これに対する佐々木高綱からの回答は、いざというときに主君にただちに自分の着ている鎧を渡せるよう、本来あるべき着用方法と異なる着用方法でなければならないと答えている。もっとも、このあたりは鎌倉武士らしいと言うべきか、ただちにブチ切れて怒り狂った様子で答えている。あるいは、戦場を知らない人間の机上の空論を振りかざすことに、戦場を巡り回った武士としてのプライドが許さなかったとも言えよう。

 源頼朝の後に、一条能保、平時家、藤原公佐、平光盛、藤原範信、宗親光、藤原重頼らが堂の前へ座り、大内義信らがその脇に座った。その後で勝長寿院の式典に呼ばれた僧侶の公顕と二〇名の僧侶が堂へ赴き開眼供養を執り行った。これにより、勝長寿院は正式な寺院となったこととなる。

 開眼供養を終えると布施が披露された。布施は長櫃(ながびつ)、すなわち、タテ一八〇センチ、横幅九〇センチ、高さ九〇センチほどの大きさの箱で、全体を覆う蓋がついている。この長櫃(ながびつ)は筑後権守藤原俊兼と主計允藤原行政の両名の指導のもとで運ばれ、布施の披露においては、平時家、藤原公佐、平光盛、源頼兼、藤原範信、宗親光、藤原重頼、源仲頼、太田広綱、山名義範、石川義資、山田重弘、中原広元、村上経業、橘以広、平繁政、平基繁、足利義兼、渋谷高重、大和邦道といった面々が入れ替わり立ち替わり布施を取り出したのであるが、その質と量は勝長寿院に詰めかけた人を感歎させるものがあった。

 まず、式典指導僧である僧侶の公顕に、錦の被り物五枚、綾織りの被り物五〇〇枚、綾の反物二〇〇反、長絹二〇〇疋、染絹二〇〇反、藍染めの布二〇〇反、紺色の布二〇〇反、砂金二〇〇両、銀二〇〇両、僧侶の衣服一式、袈裟が一〇式、馬が三〇頭。三〇頭の馬のうち一〇頭は鞍を付けて並べられ、残る二〇頭は馬の世話をする御家人が御家人が一頭につき一人ずつ脇に立ったのであるが、その御家人といういのが、千葉常胤、足立遠元、八田知家、比企能員、土肥実平、工藤祐経、岡崎義実、梶原景高、浅沼広綱、足立親成、狩野宗茂、中条家長、工藤景光、宇佐美祐茂、安西景益、曽我祐信、千葉師常、印東四郎、佐々木盛綱、二宮光忠と錚々たる面々である。さらにここに追加の布施が披露されたのであるが、金細工の刀を一腰、僧侶の装束、銀で作った数珠、源頼朝が着ていた着物一枚を源頼朝が直接奉納した。ただし、源頼朝が歩み寄って布施をしたのではなく、一条能保が源頼朝からいったん受け取って奉納している。さらに、コメ五〇〇石を僧侶の宿所に送らせた。質も量も豪華なら、携わる人も豪華とするしかない。この時点の鎌倉でこれ以上はできないと断言できる布施である。しかもこれは僧侶の公顕ただ一人に向けての布施なのだ。ここに、公顕の供とした僧侶一人一人への布施が加わる。一人につき、多色の被り物三〇枚、絹五〇疋、染絹五〇反、白布一〇〇反、馬三頭、うち一頭は鞍を付けている。この時代の馬は現在の乗用車に相当する。源頼朝が布施として奉じたのは現在で言うと高級車を御礼として僧侶に奉じたのと同じだ。もっとも、武士と違って僧侶は馬をそこまで乗り回すわけではない、つまり、宝の持ち腐れとなるが、馬を欲しがる武士は無数にいるし、農耕用に馬を欲しがる農民も多いので、馬を売れば高値で売れる。鞍を付けていない馬とはそういう馬である。

 これで勝長寿院の落成供養は終わった。指揮の規模そのものを比べれば後白河法皇が開催した東大寺大仏の開眼供養のほうが壮大かつ大規模なものであり、双方を比べれば見劣りすると感じるであろうが、それでも人生で一度でも体験できるかどうかという大イベントである。この日の壮麗さは広く語り継がれることになったであろうし、この時代のお国自慢があれば、近畿の人は奈良の大仏の開眼供養を語り、関東の人は勝長寿院の落成供養を語ったであろう。

 ただ、奈良の大仏開眼供養の場合は現在でも様々な資料が式典の様子を伝えてくれている、特に東大寺そのものが式典の様子を残しておいてくれているのに対し、勝長寿院にそのようなことは期待できない。なぜなら、勝長寿院は現存していないからである。少なくとも鎌倉時代は鎌倉の三代寺院の一つとして数えられていたが、室町時代より衰退し、戦国時代を迎える中で人知れず廃寺となり、現在は鎌倉市の住宅街の中にひっそりと勝長寿院の跡地である石碑が残るのみである。

 さて、勝長寿院の落成供養式典の様子を吾妻鏡に従って書き記したが、ここに登場する面々はまさに鎌倉方のオールスターズと言った様相である。ただ一人を除いて。

 文治元(一一八五)年一〇月二四日という日は、勝長寿院に鎌倉方の主立った者が全て揃った場であった。と同時に、ここにいないただ一人、すなわち源義経が京都で何をしたのか、源義経がどうなっているのかを広く喧伝する場になり、また、現時点で源頼朝が動員できる兵力を計算できる場にもなった。

 式典が終わった直後、源頼朝は和田義盛と梶原景時の両名を呼びよせ、京都に攻め上がることのできる者が何名で、そのうちただちに京都に攻め上がることのできる者は何名であるかを訊ねた。その回答は、総力を結集するなら御家人だけで二〇九六名であるがその全員を集めるとかなりの時間を要する。ただちに京都に向かわせることができるのは小山朝政と結城朝光をはじめとする五八名のみというものであった。

 文治元(一一八五)年一〇月二五日、源頼朝の命令により軍勢を鎌倉から出発させた。指令としては三点。美濃国と尾張国の両国の武士に墨俣に陣地を築いて京都から鎌倉へと攻め込む軍勢を食い止めることができるようにさせること、京都に赴いたならば源義経と源行家の両名を殺害すること、両名とも京都から脱出していたなら源頼朝が上洛するのを京都で待っていることの三点である。

 京都で源義経と源行家の両名が見当たらなかったら源頼朝の元へ連絡を届けるのであるが、このときはいつもと違って源頼朝のもとへ連絡を届けるために鎌倉まで行く必要は無かった。文治元(一一八五)年一〇月二九日、源頼朝が自ら、源義経と源行家の両名を追討するために鎌倉を出発したのである。軍勢は土肥実平が先陣を、千葉常胤が後陣を務め、この日の夜にはもう相模国中村荘、現在の小田原市で一晩を過ごした。源頼朝にとってはおよそ五年ぶりに鎌倉を遠く離れたこととなる。


 源頼朝が自分を殺そうと刺客を差し向けたことを期に源頼朝追討の宣旨を出してもらうことに成功した源義経であるが、自分が操ることのできる軍勢の少なさに絶望し、現実を思い知った。

 土佐坊昌俊からの襲撃はどうにかなったが、それは終わりを意味しない。それどころか、第二、第三の刺客が京都に送られてくること、いや、刺客ではなく軍勢が京都に押し寄せてくることを意味するのだ。そうなったとき、源義経に残された運命は二つである。

 一つはこのまま京都に留まって兄の手によって殺される。

 もう一つは、京都から逃げる。

 源義経が選んだのは後者だ。具体的な行動は文治元(一一八五)年一一月になってからであるが、同年一〇月中には既に源義経が京都を離れることを画策している。問題はどこに逃げるかであって、こちらも選択肢は二つあった。一つは北陸方面に逃れた後に東北地方へ向かうこと。もう一つは瀬戸内海方面に抜けて西国に向かうことである。京都からまっすぐ東に向かう、つまり、東山道や東海道を行こうものなら鎌倉からやって来る刺客に、あるいは軍勢に襲われて終わりだから選択肢から外れる。

 逃げるというのはプライドにかかわる問題であるだけでなく、それまで自分が築いてきた評判が瓦解することを意味する。逃げることに成功し、その後で何らかの形で京都に戻ってきてこれまでのような検非違使としての自分に戻ったとしても、京都市民から向けられる視線はこれまでのようなヒーロー視されたものではない可能性が高い。だが、チャンスはある。源義経がいなくなった後の京都が木曾義仲の頃のような惨状となったならば、「やはり源義経が必要だ」という認識が京都市民の間にできあがる可能性もあるのだ。源義経は、京都から自分がいなくなることで京都の人達にやはり源義経は必要なのだと再認識させることを目論んだのである。

 それにこのときの源義経には、京都から離れるのがどんなに言い繕っても事実上の逃亡でしかなくとも、理論上は任務遂行と言い繕うことができる状況にあった。源義経は検非違使であるため本来ならば京都から離れることは許されないはずであるが、平宗盛らを鎌倉に護送した前例からもわかるとおり、任務を帯びているならば京都から離れることが許される。このときの源義経には、自分に縋(すが)ることで京都からの配流を逃れようとしていた平時実がいた。平時実は父の平時忠とともに源義経に縋(すが)ることで京都からの配流を回避しようとしており、父の平時忠が情勢を悟って自ら流刑先に赴いたのに対し、平時実はこのときもまだ源義経のもとにいたのである。つまり、平時実を護送するという名目が立つなら京都離脱は逃亡ではなく任務となるのだ。問題は平時実の護送が終えたあとで京都に戻らなければ任務完了とならないことであるが、その途中で何らかの不慮の事態が起こって消息不明となったならば、公的には任務遂行中の事故と扱われるし、京都への帰還も容易となる。

 源義経に示された逃避行先の選択肢の答えは、西であった。これならば逃避ではなく公務となるのだ。あとは西に逃れた後で身をくらませ再起を図れば命は助かる。ただし、どうやって逃げるかという問題がつきまとう。何しろ相手は情報網を張り巡らせて鎌倉にいながら京都の最新情報を手にし続けている源頼朝だ。京都を離れて平時実の配流の地である周防国へ向かうという公的情報が流れたとしても、その途中で行方不明になったという未確定情報が流れたとしても、下手に逃げたところで何らかの形で刺客を送り込まれるのは目に見えている。

 この視点で捉えると、源義経には一つだけプラス要素がある。先に操ることのできる軍勢の少なさについて絶望したと記したが、裏を返せば源義経とともに行動する者が少ないために身を隠しやすくなる。つまり、逃げ切ることに成功する可能性が高いのである。


 一方、マイナス視点もある。源義経とともに行動する者の中に厄介な人物が二人いるのだ。

 一人は源行家、もう一人は平時実である。二人とも源義経を頼ると言うより利用しようとしていると言うべき態度で終始しているために、源義経に対してあれこれと口は出すが具体的に協力するわけではないのである。こんな人物が、それも二人もいるのでは逃避行以前に行動そのものがやりづらくなる。かといって、見捨てるわけにも行かない。極論を言えば叔父の源行家は見捨てても良いが、平時実は見捨てるわけにはいかない。平時実の護送が京都を離れる口実なのだから。

 文治元(一一八五)年一〇月三〇日、源義経と源行家の両名が、配流となりながら配流先に向かわずにいる平時実を配流先に向かわせるために西国に向かうことが決まった。あくまでも公務としてである。

 しかし、その公務は決定翌日に行動が頓挫する。源義経は西国に向かう船を手配するために郎従の一人、九条兼実の日記によると紀伊権守兼資と名の記されている武士を摂津国に派遣したのであるが、船の手配を求めた際に摂津国の武士である太田頼基に殺害されただけでなく、太田頼基は摂津国に城郭を構えて源義経らと徹底抗戦する姿勢を示したのである。

 こうなると、公務を理由とする京都離脱云々の話ではなくなる。西に向かおうとした源義経が、西に向かうどころかそのスタートの段階で船の調達に失敗したのである。京都にそのニュースが飛び込んできたとき、源義経らは北陸へ向かうという噂が流れだした。

 文治元(一一八五)年一〇月末時点の京都では間もなく源義経が京都にいられなくなることは周知の事実となっていたが、一〇月初頭の段階となると、さすがに源義経と源頼朝との対立を理解していた人は多かったものの、実際に源義経が京都から逃げなければならなくなるようになると考えるような人などいなかったと断言できる。それは源義経自身も例外ではなかったし、最大の首謀者としか形容できない後白河法皇も例外ではなかった。

 だから慌てふためいた。

 後白河法皇にしてみれば源義経は自分の行使することのできる貴重な兵力であって、源義経自身の意思で動かれるだけでも困るのに、その結果が京都からの離脱、すなわち後白河法皇の武力喪失なのだから、自己の権力の前提が全否定される大問題なのだ。

 後白河法皇に選ぶことのできる選択肢は無かった。鎌倉から何らかの形で源頼朝の派遣した刺客や軍勢が、あるいは源頼朝自身が京都にやってくることは目に見えている。つまり、源頼朝の武力に降伏するしかないのである。しかし、選択肢は無くとも源頼朝の送り出す武力を弱める方法はある。同じ降伏にしても、平家のように国中に貧困を招き出すのでもなく、木曾義仲のように京都を占領して各所で略奪と暴行を繰り返しても何もできないという降伏を作り出すのでもなく、朝廷の権威で制御できる降伏を作り出すのだ。そのためには源頼朝に対する大幅な譲歩が求められるが、見返りとして鎌倉の武力の支配を緩やかなものとするのである。


 源頼朝が刺客を、あるいは軍勢を京都に送り込む理由は、公的には自分自身に対する討伐の宣旨が発せられたことへの対抗措置であるが、その真相は源頼朝に刃向かうことを選んだ源義経と源行家、そして、彼らを利用して独自の軍事力を保持して鎌倉に対抗する勢力を維持しようとしている後白河院への対処である。すなわち、後白河院が鎌倉に対抗することを放棄することを宣言し、かつ、源義経と源行家の両名が後白河院のもとを離れ京都からも離れれば源頼朝が刺客や軍勢を送り込む意味が無くなる。

 文治元(一一八五)年一一月二日、源義経と源行家の両名が後白河法皇に呼ばれ、源義経は山陽道の、源行家は南海道の、荘園ならびに公領の沙汰権などを与えるとされた。これらの地域の荘園や公領の保有権の判定や年貢徴収に関する管理監督野権限が付与されたのである。これまでは平時実の配流に対する同行に伴う京都離脱であり、配流完了後は京都に戻る義務、すなわち間もなくやって来るであろう源頼朝からの刺客や軍勢の前に身を晒さねばならない義務を持っていたが、これにより京都に戻る義務が無くなった。

 ただし、後白河法皇の命じる公務に誰もが従うかと言われると、その答えは否である。これは後白河法皇の出した指令であって朝廷の正式な指令ではない。つまり、従わなくても法に基づいて罰せられることはない。そして、今の後白河法皇には自分の指令に逆らう者を処罰するだけの武力が無い。ゆえに、後白河院の意向に逆らったところで命の危機にさらされることはないのだ。

 源義経と源行家の両名に西国行きの指令が下った当日に源義経は西国行きの乗船の手配を再度試みた。前回と違い今回は後白河法皇の指令がある。それに、今回送り込むのは、数少ない源義経の家臣の一人で、現役の検非違使でもある斉藤友実である。それに、斉藤友実が向かった先はかつて源義経とともに戦っていた庄高家(しょうのたかいえ)であるから見知らぬ関係ではない。これならば船の手配も容易であろう。

 もっとも、庄高家(しょうのたかいえ)も、斉藤友実も、船を求めた源義経の家臣が摂津国で殺害されたことは知っている。庄高家(しょうのたかいえ)にしてみれば殺害事件の後で自分の元にやってきたのだから用心しないわけがないし、庄高家(しょうのたかいえ)のその気持ちを斉藤友実も理解している。摂津国での殺害事件と違って、庄高家(しょうのたかいえ)はかつて源義経とともに戦っていた武士だ。ゆえに、源義経のことも知っている。戦場の源義経はどんな悪逆非道なことを繰り返しても意に介せぬ人であったが、ただ一つ、仲間を見捨てるという行動だけはしなかった。それに、摂津国での殺害事件のときと違って今回は後白河法皇の指令という裏打ちもある。庄高家(しょうのたかいえ)は源義経との直接会って話をすることとなった。

 不安と期待とが入り交じった感情の中で源義経のもとに向かった庄高家(しょうのたかいえ)が源義経の前で示すことになった感情は、不安でも期待でもなかった。源義経は庄高家(しょうのたかいえ)に会うなり首を刎ねさせたのである。これで源義経は船を手に入れることとなった。なるほど、源義経は仲間を見捨てはしないという点では一貫していた。庄高家(しょうのたかいえ)はもう仲間ではなくなったということなのだ。


 いかに源頼朝の情報収集能力が優れていようと、電話もネットも無い時代に京都で起こっていることを鎌倉にいたままリアルタイムで把握できるわけはない。

 文治元(一一八五)年一〇月二九日に源義経と源行家の両名を追討するために鎌倉を出発した源頼朝らの軍勢は、一一月一日には駿河国黄瀬川宿、現在の静岡県沼津市まで到着していた。

 ところがここで源頼朝は一見すると不可解な、しかし、少し考えると納得できる行動をとった。駿河国黄瀬川宿で軍勢の動きを止め、先遣隊を京都に派遣するだけに留めたのだ。

 京都から鎌倉までの情報連携は早くても一〇日、通常でも半月を要するが、一つだけ裏技がある。紀伊半島から黒潮に乗ることができれば海路を三日で移動できるのだ。その代わり一点だけ問題がある。紀伊半島から出港した船が黒潮に乗ったなら、最低でも伊豆半島より東の地点でなければ黒潮に乗っての時間短縮の意味が無い。伊豆半島より西、たとえば浜名湖や遠州灘の任意の地点に船を到着させるとすれば、黒潮に乗るのはアルファベットのUの文字を描くようになってしまうためにかえって遠回りになってしまう。こんなのははっきり言って無意味だ。ゆえに、海路を選ぶなら黒潮を利用しない航路となるが、その航路は黒潮を利用できないためスピードも期待できない。一度に大量の荷を運ぶことのメリットがあるため海路が無意味とは言えないが、スピードを期待するならば海路ではなく陸路だ。

 情報連携だけを考えると、海路と陸路とでどちらが先に情報を入手できるかを考えたときのボーダーラインとなるのが駿河国黄瀬川宿なのだ。ここに滞在することで、考え得る限りの最速のタイミングでの情報を手にできるのである。

 源頼朝の立場に立つと先遣隊の派遣も危険なのである。いかに源頼朝がこの時代の日本で最大の軍事力を持った人物であると言っても、源頼朝討伐の宣旨が下っている。この時点の源頼朝は国家反逆者という扱いになっており、源頼朝に従う武士達も立場は同じだ。軍事行動次第では源平合戦どころではない戦乱を生みだしてしまいかねないのである。一方で、黙って動かないでいると、そちらもやはり国家反逆者として討伐される可能性がある。それも他ならぬ源義経によっての処罰だ。源義経と源行家とが手を組んだとしても集めることのできる軍勢はさほどの人数とはならないが、朝廷の正式な指令が出たならば話は変わる。鎌倉ではなく朝廷を選ぶ武士が多くなったならば鎌倉方全体が朝廷に討伐される可能性もある。ゆえに、源義経と源行家が軍勢を結集する前に源義経と源行家の両名をどうにかしなければならない。

 その役割を担うのが先遣隊である。彼らは京都に向かって源頼朝の意向を伝えると同時に、京都からの最新情報を折り返して届けるのが役割である。その彼らが京都に到着したのが一一月五日であるが、この間に京都ではとんでもない情報が飛び込んできていた。


 文治元(一一八五)年一一月三日の辰刻とあるから現在の時制に直すと午前八時頃、源義経が京都から逃亡したのだ。いや、源義経だけではない。堀景光、佐藤忠信、伊勢義盛、片岡為春、弁慶といった源義経とともに戦っていた武士だけでなく、源行家、平時実、源義経の父親違いの弟である一条能成、源頼政の孫である源有綱、豊後国の豪族である緒方惟義、源義経の正妻とされる郷御前、源義経の愛人と見られるようになっていた白拍子の静御前もいなくなったのである。その軍勢の総数は二〇〇騎ほどであったという。かなりの大人数であるが、これが源義経のどうにかできる軍勢の限界であったとも言える。

 これで京都は混乱に陥った。

 源義経が京都の治安維持において果たしてきた功績は無視できるものでないだけでなく、平家にしろ、木曾義仲にしろ、このような逃避行の際は、自分達の利用してきた使節や設備が、後にやって来る権力、すなわち、自分達を追い出した権力に利用されることのないように、徹底的に破壊するのが常だ。九条兼実は源義経がこのような破壊に走るのではないか、さらには平安京内外で乱暴狼藉に走るのではないかと危惧している。

 結論から記すと、源義経らは一ヶ所を除いてそのような乱暴狼藉を働かなかった。そのような時間が無かっただけでなく、源義経が京都で受け入れられた理由が平家と木曾義仲によって破壊された京都の解放者としての自身をアピールしたからである。源義経は京都から脱出するが、永久に京都から離れると決めたわけではない。一時的に京都から離れるが、時間が掛かろうと京都に戻ると決めた源義経にとって京都を破壊することは何のメリットもないのだ。なお、源義経がただ一つ乱暴狼藉を働いた場所は源氏六条堀川亭であり、源義経は京都から逃亡するときにこの建物を放火している。源氏六条堀川亭は源頼義や源義家の代から伝わる清和源氏の京都での住まいであり、平治の乱で源義朝が死を迎えてからは無主の地となり、福原遷都と木曾義仲の劫掠の損害を被って破損が激しくなっていた建物である。それでも京都における清和源氏の本拠地ということになっており、このままだと源頼朝の京都での住まいということになる。源義経は源氏六条堀川亭だけは焼き払って逃亡した。裏を返すと、建物としての被害は源氏六条堀川亭だけであり、その他の被害はこれだけの逃亡劇にしては極めて少ないとするしかない。

 とは言え、京都の治安を担っていた源義経がいなくなるのは京都の治安維持を考えると大問題だ。源義経がいなくなった瞬間に京都の治安が破壊され群盗が跋扈するような事態となるわけではないが、武力のエアポケットとなってしまうのである。ただでさえ減ってしまっている京都の武力のうち二〇〇騎もの軍勢が消えてしまったのだ。

 源頼朝の派遣した先遣隊が京都に到着したのはまさにそのタイミングであった。源義経がいなくなったが源頼朝の長い手が京都まで伸びていて京都の治安に目を見張らせていることを示すことに成功しただけでなく、源頼朝の持つ武力がどれほどのものかを示すこととなったのである。資料によれば、このときに到着した先遣隊は一〇〇〇騎ほどであったという。先に記したように、源義経が総力を結集させた軍勢が二〇〇騎であるから、先遣隊だけでも源義経の五倍の軍勢だ。全軍で鎌倉を出発した後に源頼朝は駿河国黄瀬川宿で留まり、一部だけを先遣隊として派遣したのであるが、一部だけであるはずの部隊なのに一〇〇〇騎を数えるとあればそれだけで鎌倉がどれだけの陣容を持った軍事組織であるか理解できるし、今の京都がどうにかできる全ての軍事力に源義経らの武力を呼び戻すことに成功して加えたとしても、先遣隊の一〇〇〇騎を相手にしたらそれだけで一瞬にして吹き飛ばされてしまう規模だ。これで京都の治安は源義経の京都脱出前と同レベルの安全性を確保することとなった。

 ただし、先遣隊は一つだけ釘を刺している。源頼朝からの書状が左大臣藤原経宗に届けられたのである。そこには後白河法皇と京都の貴族達に対する源頼朝の怒りが記されてあったという。


 源頼朝の派遣した先遣隊が京都に到着して間もなく、摂津国から急報が届いた。

 源義経の軍勢が壊滅寸前まで陥ったのだ。

 京都を出発した源義経らの一行は、船を手に入れるべく庄高家(しょうのたかいえ)を殺害するまでに至ったが、そのまま問題なく出港できたわけではない。文治元(一一八五)年一一月四日に摂津国神崎川の河口、現在の兵庫県尼崎市にまで到着した源義経らの一行は太田頼基の率いる軍勢に襲撃を受けたものの討ち破ることに成功した。しかし、それですんなりと出港できたわけではない。その翌日には、多田行綱や、豊島冠者こと池田奉貞らが率いる鎌倉方の軍勢が源義経らの一行に襲い掛かり、弓矢の応酬となった末に、天候の急激な悪化も手伝って源義経の率いる軍勢が散り散りとなったのである。ある程度の人数は無事に港までたどり着いたようであるが、二〇〇騎でスタートしたはずの軍勢なのに源義経とともに港までたどり着くことの成功したのは数えるほどであったという。しかも、散り散りになったといっても襲撃から逃れることはできず、源義経らの一行を襲撃すべく、池田奉貞や藤原範資といった面々は翌朝の襲撃に向け、現地の民家を借りて準備を整えていた。ここは何もない平原ではない。都市規模としては平安京と比べればかなり小さいとは言え、ここは港町、すなわちこの戦いは市街戦なのである。

 天候の悪化は夜になっても続き、この夜は暴風雨に見舞われたという。

 普通に考えればこの天候で出港することはないが、源義経は八ヶ月前の屋島の戦いにおいて悪天候の中でむりやり出港して四国に上陸したという前例がある。今回の行き先は四国屋島ではなく九州であるという違いはあるが、今回も前例のように無理して出港する可能性がある以上池田奉貞ら鎌倉方の軍勢の中には暴風雨の中であろうと源義経への襲撃をするべきという考えも浮かんだが、暴風雨の中で襲撃するのは危険極まりないだけでなく、デメリットも大きい。忘れてはならないのは、先に挙げたように市街戦になっているという点である。真夜中である上に暴風雨の最中である。こんな状況下で襲撃を加えようものならこの港町に住む多くの人も犠牲になってしまう。攻撃するのが源義経であれば民間人の犠牲など気にも止めなかったであろうが、そうでない普通の人間ならば民間人の犠牲のことを当たり前に考える。

 それに、屋島の戦いのときは現地の漁師を拉致して船を操らせたが、今回はそのような漁師がいない。厳密に言えば、源義経らがやって来る前に鎌倉方の軍勢が現地の人を保護していた。翌朝の襲撃に備えて準備を整えることの中には、現地の人達が源義経らに拉致されないよう保護することも含まれていたのである。

 源義経にしてみれば、八ヶ月前と同様に暴風雨の中であろうと出港しようとしたのに船を操る人がいないという状況となっている。しかし、それで引き下がるようでは源義経ではない。船が操る人がいないというのは出港しない理由にはならないのだ。

 文治元(一一八五)年一一月五日の真夜中、屋島の戦いを再現しようと瀬戸内海に向けて源義経らが出港した。その結果が海難事故である。船が破損して沈みだし、どうにかして陸地に戻ろうともがき苦しみながら本州へと引き返し、吾妻鏡によると、源義経とともに上陸できたのは、伊豆右衛門尉有綱、堀弥太郎景光、武蔵坊弁慶、そして、源義経の愛人とされている静御前の四名のみであったという。この上陸も後になって判明することであり、この時点では源義経らの多くが行方不明となっていた。

 のちに和泉国日根郡近木、現在の大阪府貝塚市に潜伏していることが判明する源行家はこの時点では行方不明であり、正確な記録は残されていないものの後の記録から推測すると、源義経の異父弟である一条能成をはじめとする多くの者は出港せずに留まっているところを拿捕されたと見られる。

 なお、情報は錯綜していたようで、京都ではこのときに源義経らが討ち取られて絶命したという風聞も、さらには淡路島に逃亡したとの風聞も広まっている。

 源義経と源行家が生息不明となったことが京都に正式に伝わったのが文治元(一一八五)年一一月七日のことであり、同日、源義経と源行家の両名が解官となったことが公表された。


 何度でも記すが、この時代の通信情報事情では京都と鎌倉との間にはタイムラグがある。タイムラグを限界まで減らそうと駿河国黄瀬川まで軍勢を進めた源頼朝であっても、源義経と源行家が解官となった文治元(一一八五)年一一月七日時点で掴めていた情報は源義経と源行家の両名が都落ちとなったという情報であり、京都を離脱した後でどこへ向かったのかという情報はまだ源頼朝のもとには届いていない。

 忘れてはならないのは、この時点ではまだ一〇月一八日に発せられた源頼朝追討の宣旨が有効であり、源頼朝の立場は国家反逆者となっていることである。その国家反逆者である源頼朝の派遣した軍勢が京都に鎮座しており、源頼朝を討伐すべく軍事指揮権が与えられたということになっている源義経と源行家が京都を離脱してどこかに向かったという状況になっていることである。つまり、実質はともかく、法的には源頼朝の立場が微妙なのだ。

 一一月八日、源頼朝は軍勢の指揮を北条時政に委ねて自分は鎌倉に戻ることとした。北条時政はかつて在庁官人として京都で勤務したことがある。もともと源頼朝が源義経を京都における自分の代理人としたのは、源義経が京都の貴族達と問題なく渡り合えるだけの文官としての能力を持っていたことである。今回は源頼朝の法的根拠を獲得すると同時に京都における源頼朝の代理人として、一年前の源義経のように京都の貴族達と渡り合える文人としての能力を持っており、かつ、軍勢を指揮する根拠を持った人物でなければならない。武人としての能力を考えると、北条時政以上の人物は鎌倉方にたくさんいる。だが、文人としての能力も持つだけで無く軍勢を指揮する根拠を持った人物となると北条時政しかいない。

 文人としての能力はともかく、軍勢を指揮する根拠とは何か?

 北条時政が源頼朝の義父であるという点である。これだけは他のどの御家人も勝てない要素であり、一人の武人として軍勢を指揮して京都に行くのではなく、源頼朝の妻の父が娘の婿の代理として京都に赴くのである。北条時政が話す言葉は娘婿である源頼朝から託された言葉であり、北条時政に従う武士達も北条時政だから従うのではなく源頼朝の義父だから従うという図式だ。

 さらに源頼朝は二名の者を北条時政と同行させた。一人は大和守山田重弘、もう一人は一品房昌寛。一人は官界、もう一人は宗教界に顔を利かせることの人物であり、北条時政の文人としての能力が源義経には及ばなくとも彼らにサポートさせることで穴を埋められ、同時に、北条時政は軍勢指揮に専念することもできる。


 北条時政は自分達の軍勢が京都に向かっていることについての書状を先行して京都に送り届けた。

 この書状を知った後白河法皇は、源頼朝が京都に派遣した先遣隊だけでも一〇〇〇騎という軍勢であるのに、それを超える軍勢が京都に近づいてきていること、そして、源義経と源行家が行方不明になったことで完全にパニックに陥っていた。文治元(一一八五)年一一月一一日、後白河法皇が畿内ならびに近国の国司に対して源義経を捜索するよう命令を発し、源頼朝に対しては、源頼朝追討の宣旨発給への弁明の書状を書き記し、院別当である高階泰経に託して源頼朝のもとに送り届けようとした。吾妻鏡によると源頼朝は一一月一五日に書状を受け取ったとあるから、実際には一一月一一日では無くもっと早い段階で出発させた、あるいは、源頼朝が受け取ったのがもっと後の日付であるかであろう。

 それでも一一月一一日の段階では後白河法皇はまだマシだったと言える。

 機能不全に陥っていたのが朝廷である。源頼朝討伐の宣旨を出すように主張していた左大臣藤原経宗は立場が一気に危うくなった一方で、源頼朝の討伐そのものに反発していた右大臣九条兼実は立場を強めることに成功した。ただし、九条兼実が朝廷を掌握することはできずにいた。宣旨を出すべきか否かで迷った末に宣旨発給に賛成した内大臣徳大寺実定は自分の賛成意見が無かったかのように振る舞った一方、それまで源義経への支持を示していた貴族達は身の失脚につながると恐懼していた。朝廷の趨勢は源頼朝討伐の宣旨の白紙撤回と源義経ならびに源行家の討伐の指令へと傾いていたが、明瞭な形となってはいなかった。なお、明確に宣旨発給に賛成していたわけではない権中納言吉田経房は彼の日記の中で、宣旨による討伐命令をそう簡単に白紙撤回してよいのか、立場を入れ替えた宣旨をただちに発給してよいのかという苦言を書き記している。

 結果として宣旨の白紙撤回はうやむやとなり、後白河法皇の発した院宣が近隣の国々にのみ伝わっているという状況のままとなったが、これで万事解決と考えている者はいない。平家のようなことが起こるのではないか、あるいは木曾義仲のようなことが起こるのではないかと考えていた後白河法皇や京都の貴族達がもっとも恐れている事態が起こったのは、一一月一三日のことである。この日に鎌倉方の先遣隊の一部が京都を出発して西に向かったのだ。目的地は播磨国である。播磨国は後白河法皇の知行国の一つであるだけでなく、後白河院の最大の資産とも言うべき令制国であった。この播磨国にいる後白河法皇の代官を播磨国から追放して、播磨国の倉庫を封印したのである。これにより後白河院の財政基盤は大ダメージを受けることとなった。

 翌一一月一四日の九条兼実の日記はかなり混迷に満ちているが、九条兼実はまだ良かった。この人は源頼朝討伐の宣旨に反対した人なのだ。問題は源頼朝討伐の宣旨に賛成した人、あるいは中立であった人である。彼らは源頼朝のターゲットとなってしまった。その中でも最大のターゲットとなったのが後白河法皇だ。院の保有していたはずの播磨国に知行国の権利が奪われたのはスタートに過ぎない。

 もうすぐ北条時政の率いる軍勢がやって来るという恐怖に京都は怯えていた。


 吾妻鏡の記載に従えば、文治元(一一八五)年一一月一五日に院別当の高階泰経が鎌倉に到着したとある。いかに急いでも一一月一一日に京都を出発した使者が一一月一五日に鎌倉へ到着するというのは、黒潮を利用すれば絶対に不可能とは言えないが難しい話である。既に記した通り一一月一一日より先に出発したか。あるいは、鎌倉に到着したのはもっと後の日付であろう。あるいは、実際に高階泰経が到着したのではなく高階泰経の出した書状だけが鎌倉に届いた可能性もある。このあたりの吾妻鏡の記載には不整合な点がある。

 以下は不整合を無視して高階泰経が実際に鎌倉に向かったという前提で記すが、高階泰経は後白河院の院別当であると同時に大蔵卿、現在で言う財務大臣であるから、後白河法皇はかなりの高位の人物を使者として鎌倉に派遣したこととなる。

 高階泰経は、源頼朝のもとにただちに向かったのではなく、鎌倉に到着してすぐに一条能保の屋敷へ向かった。一条能保に源頼朝との間の中継をしてもらうためである。いかに出家しているとは言え皇族である人物からの書状を理論上はまだ国家反逆者として討伐対象となっている人物に直接渡すのではなく、宣旨の対象外となっている貴族を通じて書状を渡すという形式となる。

 ただ、形式云々を考えていられたのはここまでである。

 一条能保を通じて高階泰経の持参した後白河院からの書状を受け取った源頼朝は、自分一人で書状を読むのではなく、御家人達が見守る中で書状を読み上げさせた。

 書状の内容は源頼朝を呆れさせるものであった。

 源行家と源義経の謀反を許可したのは天魔に魅入られた仕業であり、源頼朝追討の宣旨が発令されなければ宮中に入って自殺すると言ってきたので、宮中が穢れてしまっては政治が取れなくなるから当面の災いを逃れるためやむをえず討伐の宣旨を出してしまった。たしかに一度は朝廷の許可を出したことになるが本心からではなく、本当の討伐許可は出していないも同じである。これが後白河法皇からの書状の中身であった。

 源頼朝は高階泰経に回答した。

 後白河法皇が源行家と源義経の謀反を許可したのは天魔に魅入られた仕業だと書き記されたのは甚だ謂われないこと。だいいち、天魔とは仏法を守るためのもので、道理を解せぬ者を抑えるもの。源頼朝は朝廷に敵対した平家を降伏させ、政務においても朝廷に忠実に奉仕している身であるのに、どうして反逆者扱いをして、深く考えることもなく簡単に院宣を出してしまうのか。源行家にしても、源義経にしても、行方を捜して捕らえるまでは、あちこちで荒らし回り、各地では生活も荒れ果て、多くの人が命を落としてしまうではないか。その原因を作った日本国を滅ぼす大天狗は、どう考えても他の者ではないか。

 源頼朝が後白河法皇を「日本一の大天狗」と評したことは有名であるが、それはこのときの返答のことである。

 源頼朝の回答は脅しではなかった。高階泰経は鎌倉で、河越重頼と下河辺政義の両名の所領が没収されたこと、河越重頼に至っては所領没収だけでなく息子の河越重房とともに誅殺されたことを知った。また、河越重頼がそれまで就いていた武蔵留守所惣検校職には畠山重忠が就くこととなった。河越重頼には二人の娘もおり、一人は源義経の正妻である郷午前、もう一人の娘は下河辺政義のもとに嫁いでいる。つまり、源頼朝への叛逆を示した源義経に連座して、義父である河越重頼と義兄弟である河越重房の両名が誅殺され、妻が源義経の正妻と姉妹である下河辺政義は命こそ取り留めたものの所領没収という結末を迎えたのだ。

 これで恐怖を感じないとすればそのほうがおかしい。


 行方不明となっていた源義経の動静に対して、吾妻鏡が初めて記録として残すのは文治元(一一八五)年一一月一七日のことである。行方不明になってから一二日を経てようやく源義経の動静が判明したのだが、判明したのは動静であって所在ではない。どういうことかというと、少し前まで源義経がいたという場所が見つかったのであり、源義経自身が現時点でどこにいるのかはわからないのだ。

 この少し前から源義経が大和国の吉野に潜んでいるという噂が流れており、吉野の金峯山寺は僧兵達に源義経の捜索を指令してから数日を経た一一月一七日の亥刻、現在の時制に直して午後一〇時頃に源義経の愛人である静御前の姿が見つかったのである。もっとも、発見当時は静御前と判明したわけでなく、ここにいるのに似つかわしくない女性が一人佇んでいたのが僧兵達に見つかったのである。

 金峯山寺に連れてこられた女性はここで源義経の動静をはじめて伝えたのだ。

 自分は源義経の愛人の静御前であること。源義経らは船が沈んだ後にただちに大物浜、現在の兵庫県尼崎市に引き返し、人目を忍んで逃避行を続けて吉野の山中まで来て五日間を過ごしたこと。源義経らを捜索する僧兵達の姿が見えたので源義経は山伏の姿をして吉野を離れたこと。静御前には京都に戻るよう命じたこと。源義経らは吉野からどこへ向かったのかはわからないこと。そして、無事に京都に戻れるように源義経が金銀を静御前に渡した上で護衛の者も残したのであるが、その護衛の者が静御前に渡されたはずの金銀を奪ってどこかへと逃走してしまったこと。静御前はどうしたらいいかわからないまま、雪の降る吉野の山中に放置され、命の危機にあったところを僧兵達に助け出されたこと。

 金峯山寺の僧兵達は静御前を哀れに思うと同時に、源義経らの一行に対する捜索指令が出ていることから、しばらく金峯山寺で休ませた後に静御前を鎌倉まで送り届けることにした。なお、金峯山寺は源義経らがまだ遠くに向かっていないと考えて山中の捜索を続けている。

 三日を経た一一月二〇日の、流罪を免れようと源義経に取り入っていた平時実が捕縛された。平時実も源義経らと一緒に出港しようとしていたのであるが、船が沈んでしまったために陸地まで逃れ、どうにかして京都に戻ろうとしていた途中で捕獲された。

 普通であれば平時実が捕縛されたことのニュースがこの日の京都を席巻したであろう。だが、この日の京都を包んだのはそんなニュースではなかった。この日、吉野から源義経が生きていること、しかし、その行方は不明であることの情報が京都に届いたのである。この瞬間、義経英雄伝説が始まった。

 源義経が京都のヒーローであったのは一年半だけである。だが、その一年半があまりにも鮮やかで、かつ、そのラストが悲劇的なドラマであるために源義経は伝説となったのだ。源義経が兄に逆らうようになったのは知っているが、その裏に後白河法皇がいること、平家の落人も源義経も利用しようとしていること、そして、戦場ではいざ知らず少なくとも京都における源義経は侵略に対する守護者であることを忘れることはできない。


 文治元(一一八五)年一一月二四日、京都はついにそのときを迎えた。

 源頼朝の義父として北条時政が上洛したのである。

 ただ、上洛した兵力に京都市民の多くは戸惑った。

 源頼朝は先遣隊として一〇〇〇騎の兵を送り込んでいる。その後で本隊がやって来るという話であったから、源頼朝の送り込む正式な部隊はもっと多いと思っていたのである。それなのに、北条時政とともにやって来たのは先遣隊と同じく一〇〇〇騎。先遣隊と変わらぬ人数に「もしかしたら鎌倉方の軍勢はさほどの人数を集めることもできないのではないか」「鎌倉方は恐れているほどの脅威ではないのではないか」という感想を抱いた者が多く現れた。

 ただ、その感想はただちに打ち消される運命にあった。

 北条時政の率いる軍勢と先遣隊とを合わせると鎌倉方の送り込んできた軍勢は二〇〇〇騎を数える。これは源義経が無理に無理を重ねて集めた軍勢の一〇倍だ。

 さらにここに新たな情報も続く。土肥実平の率いる第三陣が関東を出発して京都に向かってきているというのだ。

 どうにかして集めることのできる軍勢を数倍の規模の軍勢が次から次へとやって来る。これを恐怖に感じない人がいたらそのほうがおかしい。

 鎌倉方の示した人的余裕はそれだけでも脅迫材料として申し分なしあるが、北条時政はここに追加する脅迫材料を用意した。京都に到着した北条時政は平家都落ちの後で主(あるじ)無き地になっていた六波羅に陣を構えたのである。平家政権時に平家が見せていたのと同じ無言の圧力を京都に与えることに成功したのだ。

 その上、北条時政のこの行動は何ら法に違反していない。

 北条時政は源義経と違って公的地位を持っていない。つまり、検非違使をはじめとする公務を理由として軍事行動を平安京内で行使することは許されていない。だが、六波羅は平安京の敷地内ではない。いつでも平安京の中に軍隊を突入させる準備は整っているという圧力をかけるところまでは違法ではないのだ。また、この時点ではまだ公的には源頼朝討伐の宣旨が有効であり、源頼朝の代理人として京都にやってきた北条時政も名目上は国家反逆者という扱いになっている。法に従えばこのまま平安京の区画内に入った瞬間に拿捕される、ということになっている。実際には誰も拿捕しに来る人がいないが。

 なお、このときに北条時政が六波羅に陣を構えたことを以て、北条時政を初代京都守護、そして、後の六波羅探題の初代として扱うようになるが、それは後世からの視点であって、北条時政自身が自分を新しい職務の初代であると認識していたわけではない。北条時政のことを新しい職務の初代と認識していたわけでは無かったのは北条時政自身だけではなく、このときの京都にいる誰もが同じである。しかし、京都にいる誰もが新しい時代を迎えてしまったことは理解した。

 なお、このときの恐怖の影響かどうかは知らないが、この年の新嘗祭ではちょっとした騒動が起こっている。新嘗祭の最中に殿上で源雅行が藤原定家を嘲笑したことから藤原定家が激怒し、持っていた脂燭で源雅行の顔をぶん殴ったのである。結果は、藤原定家の謹慎処分だ。もっとも、藤原定家という人は文人として著名になっていたと同時に、神経質な上に口よりも先に手が出る人としても有名であったようで、このときも「またやらかしたのか」といった感じで捉えられたようであるが。


 北条時政の京都入洛の翌日である文治元(一一八五)年一一月二五日、朝廷は新たな宣旨を出した。

 源義経と源行家の両名を捜索するよう従二位源頼朝に命令を出したのである。

 この瞬間、源頼朝は国家反逆者ではなく、朝廷の命令により源義経と源行家の両名を捜索する権利を手にしたのである。

 後白河法皇も、朝廷の貴族達も、これで源頼朝は望んでいた全てを手に入れられ、この宣旨を受け取った北条時政は喜んでただちに源義経と源行家の両名の捜索に向かうものと考えた。

 だが、北条時政は違った。この条件では引き下がれないとしたのだ。

 これには後白河法皇も、朝廷の貴族達も、驚きの様子を隠せなかった。彼らの考えでは、いかに源頼朝の義父であるとは言え一介の在庁官人でしかなく、京都在駐経験があるとは言え大番役としての日々を過ごしたに過ぎない無名の武士が、院に、さらには朝廷に楯突くなど考えられもしないことであったのだ。

 源頼朝が軍勢を京都に進めているという知らせは途中から源頼朝の代理人が率いる軍勢がやって来るという知らせに変わった。その代理人が源頼朝の義父であることは知識として伝わってきた。調べてみたところ伊豆国の在庁官人であり、また、かつて伊豆守であった権中納言吉田経房と顔見知りであり、そして、大番役として京都で過ごした日々があるところまではわかるが、それ以上のことはわからずにいた。

 実際に京都にやってきた北条時政を見てもパッとしない人物である。黙っていればどこぞの貴公子とまで言われた木曾義仲や、若き貴公子として京都のヒーローとなっていた源義経と違い、また、何だかんだ言われようと京都の貴族として形作られつつあった平家とも違い、特に目立つことのない中年の武士であるとしか感じられない。九条兼実も入洛当初こそ「北条四郎時政」と本人が称した名をそのまま日記に書き記したが、その後では「北条丸」と日記に書き記している。つまり、北条時政を軽んじている。

 しかし、軽んじていたはずの北条時政はなかなかにタフな交渉相手であった。

 源義経と源行家を捜索するよう命じるのはいいが、朝廷からの法的な根拠ならびに、職務遂行のための財政支援を求めたのである。

 吾妻鏡は文治元(一一八五)年一一月二八日のこととして、源頼朝の代官として後白河院に参内した北条時政が、後白河法皇より源義経と源行家の両名を捜索するためとして、令制国単位に源頼朝の任命した人物を配置すること、ならびに、その人物が源義経と源行家の両名を捜索するための財源を確保することを認めさせた。

 これを吾妻鏡では、守護と地頭の設置としている。

 しかし、この場にいて北条時政がどのような権利を主張して認めさせたかを目の当たりにしたはずの右大臣九条兼実はそのように記してはいない。九条兼実の記しているのは、五畿、山陰道、山陽道、南海道、西海道の諸国に対する人員配置の権利と、財源として前述の地域に対し田一段あたり兵糧米五升を徴収する権利である。


 鎌倉幕府成立年を一一八五年とする人の根拠となっているのは、この、文治元(一一八五)年一一月二八日に源頼朝が獲得した守護地頭の設置の権利である。ただ、鎌倉幕府の根拠の誕生でありながら、史料を読む限りあっさりとしたものである。

 あっさりとしたものとなるのには理由があり、守護にしても地頭にしても源頼朝が創出した役職ではなく、既存の役職なのだ。正確に言えば、名称そのものは存在しなかったものの、守護という概念も地頭という概念も平安貴族の中に当たり前の存在となっており、当たり前となっていた概念なのである。その当たり前の概念を従二位の位階を持つ上流貴族である源頼朝も利用するようになったとしか考えず、誰もがそこに何かしらの新たな意味を持つとは考えなかったのだ。

 先にも記したように、吾妻鏡は文治元(一一八五)年一一月二八日に守護と地頭の設置する権利を得たと謳っているが、九条兼実の日記を読む限り、鎌倉方が獲得したのは各地への人員配置の権利と年貢徴収の権利である。この権利を保有する正式な役職が史料に登場するのは平家政権下において治承五(一一八一)年二月に平盛俊が任命された丹波国諸荘園惣下司がその初出であるが、それより前から、国司が現地の有力武士に権限を与えて令制国単位の治安維持を担当させることが見られるようになっており、このときに北条時政が獲得した権利も、以前から存在していた権利を源頼朝に与えたに過ぎず、異例ではあるものの前例の無い話ではないのだ。

 後に守護は令制国の治安維持関連を、地頭は荘園や公領の管理監督と年貢徴収を担当する職務になるが、このときに北条時政を通じて源頼朝が獲得したのは、職掌範囲は前者、職務内容は後者という職務である。このことから、歴史学者の石母田正氏はこのときの北条時政が獲得したのは守護と地頭の任命権ではなく、国地頭の任命権であったと提唱している。国地頭は令制国単位に荘園と公領の管理監督と年貢徴収の責任を委ねられていると同時に令制国内の治安維持も職務として課されており、令制国内の武士に対する指揮命令権も保有していた。つまり、軍事行動が必要となったならば命令一つで令制国内の武士を動員できたし、そのための予算としての年貢徴収も許されたのである。

 これはかなりの大権である。律令の上での武官のトップは左近衛大将であり、文治元(一一八五)年一一月時点での左近衛大将は内大臣徳大寺実定である。日本国内の全ての武官は内大臣でもある左近衛大将徳大寺実定の指揮下に入ることになっている。だが、そのような律令制上の原理原則など通用しない時代になっていた。いかに左近衛大将が指令を出そうと武力を自由自在に操ることのできる時代ではなくなったのである。それに、ほとんどの武士は武官ではない。武器を持って戦うこともある無位無冠の庶民であるか、あるいは下級役人で、ごく稀に従五位下以上の位階を持つ貴族であることもあるという頻度だ。本来ならマイナスに働く点であるが、指揮命令系統だけを考えるとプラスに働いた。左近衛大将がどのような指令を出そうと、無位無官の武士達には従う義務が無いのである。ちなみに、源義経が検非違使少尉であったのは武士が武官でもあったという希有な例であるが、検非違使も本を正せば令外官であるから、純然たる武官であるかと問われれば否という答えにもなる。

 話を元に戻すと、朝廷が北条時政を通じて源頼朝に与えた権限は、朝廷の権威に基づく武士の発動権を持った人物を令制国単位に置くことを認めるというものでもあったのだ。しかも、全く新しい権威や権力ではなく、事実上はかなり前から、法制上も平家政権時に先例のある役職である。そのような法に従わないとして我を張ろうとした者もいたようだが、相手は日本最強の武力集団となった鎌倉方の派遣した者だ。逆らおうものなら待っているのは身の破滅である。何しろ鎌倉方は、国家を支配していた平家ですら滅ぼしたのだから。


 時代は鎌倉の源頼朝のものとなった。誰もがこの事実を認めざるを得なくなり、源氏に逆らった者だけでなく、源氏であっても源頼朝に逆らうことが危険なこととなった。時間は前後するが、文治元(一一八五)年一一月二六日には源義経と関係の深かったという理由から大蔵卿高階泰経が出仕停止を命じられたという記録もある。もっとも、この頃は鎌倉にいたとするのが吾妻鏡の記載であるため、このあたりは不整合が生じている。

 確実に言えるのは、この頃の雰囲気として源頼朝に逆らうのは命懸けの話になるという共通認識ができあがっていたことである。壇ノ浦の戦いで平家が滅んでからわずか八ヶ月で、情勢はここまで変化したのだ。

 源義経のように源頼朝からの逃避行を選んだ者もいるが、多くは源頼朝への降伏を選んだ。当然だ。源義経と源行家の両名を捜索するという名目で全国各地に源頼朝の息の掛かった御家人が配備されることが決まったのだ。ただでさえ情報の重要性を認識している源頼朝が、京都と鎌倉との間だけでなく、日本全国をその情報網ネットワークに組み込むことに成功したのである。これで逃げ延びられるとすれば、かなりの幸運に恵まれなければならない。

 一方で、源頼朝のもとに下ることは、かなり高いレベルで身の安全が確保できるであろうという期待を抱かせることでもあった。その中の一人に、木曾義仲によって皇位に擁立されるところまで至った北陸宮、すなわち後白河法皇の子で、源平合戦の火蓋ともなった以仁王の遺児がいた。北陸宮は源頼朝のもとに庇護され、詳しい日付は不明であるが文治元(一一八五)年一一月中に帰洛したことが記録に残っている。なお、北陸宮は後に臣籍降下によって源姓を賜ることを願ったものの祖父でもある後白河法皇の拒否に遭い、皇籍に身を残したまま嵯峨の野依に移って「野依の宮」と呼ばれるようになった。

 日付が判明している例で言うと文治元(一一八五)年一二月三日に、源義経の異父弟である一条能成が源頼朝のもとに下った。源義経とともに都落ちして海路で西に向かおうとしていたところで暴風雨に遭い、消息不明となっていたところで出頭したのである。源頼朝は一条能成の命を奪うことはなかった。ただし、一条能成がそれまで就任していた侍従の役職を辞職させている。

 源義経の側に立った者は何らかの処分を受けるだろうと誰もが思っていたところで飛び込んできた一条能成の辞職の知らせは、京都の貴族達に安心を生みだした。源義経の異父弟であることを踏まえても一条能成が源義経とともに行動していたことを源頼朝が重要視していたことは間違いない。その一条能成でも役職の辞任だけで済んだのだ。権力争いの敗者になったのは事実でも、流罪になるわけでも死罪になるわけでもないというのは、それだけで安心材料となる。何かしらの処遇を受けることになる者は多いであろうが、平家政権のときよりも穏当なものとなる期待を抱けたのである。

 その安心感と期待感に対する源頼朝からの回答が示されたのは文治元(一一八五)年一二月六日のことである。

 鎌倉の源頼朝から京都の朝廷宛てに書状が送られてきた。「天下の草創」と掲げた、源頼朝が現した朝廷改革案である。

 朝廷人事に対する源頼朝の強い希望を伝えるものであり、理論上は源頼朝の希望を叶えられなくても問題ないはずである。従二位というかなり高い位階を持つ貴族が自身の朝廷人事の希望を伝えたという体裁なので、より上位の位階を持つ貴族が逆らうことはおかしくない。だが、現実問題としていったい誰が源頼朝に逆らえようか。源頼朝の要望とは事実上の命令なのだ。


 まず、後鳥羽天皇への奏上は以下の一〇名に限るとした。右大臣九条兼実、内大臣徳大寺実定、権大納言三条実房、権大納言中御門宗家、権大納言中山忠親、権中納言藤原実家、権中納言土御門通親、権中納言吉田経房、参議藤原雅長、参議日野兼光の一〇名である。これに合わせて、筆頭に挙げた九条兼実には、本来ならば摂政もしくは関白でなければ得られない内覧の権利の付与も求めた。ただし、誰を摂政とするかは藤原摂関家の決めることであり源頼朝は口出ししないとした。欺瞞である。摂政近衛基通は摂政以外の役職を兼務しているわけではない。ここで内覧の権利を奪われたら近衛基通は摂政としての職務をこなせなくなるのが目に見えている。

 以上が議政官である。

 実務方に目を向けると、藤原光雅を右大弁から解官するように求めた。藤原光雅は一〇月に源頼朝追討の宣旨を奉じた者である。代わりの右大弁には九条光長と壬生兼忠の両名を就けるよう要望した。

 その他の実務方としては、それまで高階泰経が就いていた大蔵卿に葉室宗頼こと藤原宗頼が就くことを望んだ。また、右小弁として藤原親経を、右馬頭として侍従の藤原公佐を、左大史として小槻広房を任命することを望んだ。なお、小槻広房は日向守であるだけでなく実際に日向国、現在の宮崎県に赴いているので、日向国からの帰還も要請した。その一方で、小槻広房の父方の叔父であり左大史である小槻隆職については源頼朝追討の宣旨を実際に起草したことを理由に左大史を罷免すべきと要望した。

 後白河院に対しても源頼朝は要望を送っている。これまで源義経が検非違使と兼職としていた職務の中には、院が独自に持っている軍事力を司る院御厩司(いんのみまやのつかさ)があるが、この職務の別当として藤原朝方を復帰させて欲しいと要望したのだ。もともと院御厩(いんのみまや)の別当は藤原朝方であったのだが、木曾義仲によって追放されて空席となっていた。そこに源義経が入り込んだわけであるが、源義経は院御厩司(いんのみまやのつかさ)、つまり、院御厩(いんのみまや)のトップ層の一人ではあってもトップである別当ではない、すなわち組織図上のトップが空席なのである。木曾義仲の後始末という名目を掲げた上に、木曾義仲によって追放された者を復職させるのであるから、誰も文句の言いようがない。そう、藤原朝方の復帰によって後白河院が独自に持つ軍事力が著しく低下しようと文句は言えないのである。

 地方政治に目を向けると、吾妻鏡にあるような守護地頭の任命権とは関係なく、既存の知行国の権利についての要望を述べている。源義経が国司となっていた伊予国は右大臣九条兼実の、石見国は権大納言中御門宗家の、越中国は前権中納言藤原光隆の、美作国は権大納言藤原実家の、因幡国は権中納言土御門通親の、近江国は参議藤原雅長の、和泉国は蔵人頭九条光長の、陸奥国は蔵人頭源兼忠の、そして、豊後国は源頼朝の知行国とすることを要望した。

 源頼朝は「天下の草創」として新たな役職や権利の付与を要望しただけでなく、役職の解任や権利の剥奪についても要望した。参議平親宗、大蔵卿高階泰経、右大弁藤原光雅、刑部卿難波頼経、右馬権頭平業忠、左大史小槻隆職 左衛門少尉藤原信盛、右衛門尉藤原信実、右衛門尉藤原時成、兵庫頭藤原章綱の解職を要望し、その他に源行家と源義経本人ならびにその家来や味方である人々について調べだし、官職を持っている役人は解任するよう、また、僧侶や陰陽師でつながりがある者がいるとの話があるので調査し、事実であれば追放処分とすることを要求した。

 源頼朝の要求する解官と追放の内容は、安心感と期待感に完全に応えたものではなかったが、源頼朝が権力を握った直後に感じていた思いと比べれば穏当なものであったと言える。木曾義仲のような略奪や暴行は論外として、このときの多くの貴族が考えていたのが治承三年の政変直後の平家政権である。あのときにどれだけの人が追放され、解官処分と受けたかを忘れていない人はいない。源頼朝の要求は平家政権がやったことに比べればかなり軽いのだ。


 源頼朝からの「天下の草創」の要求が朝廷に伝えられてから二日後の文治元(一一八五)年一二月八日、京都と鎌倉の双方で、源頼朝のもとに引き渡された人がいた。

 まず京都で源頼朝のもとに、正確に言えば京都に滞在している北条時政のもとに引き渡されたのが、源義経の愛人とされている白拍子の静御前である。吉野で身柄を確保された彼女はこの日、京都にいる北条時政のもとへと姿を見せた。静御前が北条時政に何を語ったかは不明であるが、この日にはもう北条時政の命令によって源義経らの捜索のための軍勢が吉野に向かって派遣されていることから、身柄を確保されたときと同じ供述をしたと推測される。静御前の身柄確保はただちに鎌倉へと情報として送られ、一二月一五日にはもう、源義経が吉野に身を潜めたのちに行方不明となっていること、そして、静御前の身柄が北条時政の元にあることの書状が鎌倉に届いている。

 同日、鎌倉に姿を見せたのが平忠房である。平忠房は平重盛の子であり、平家物語によると、屋島の戦いで敗れた後に壇ノ浦へと向かう平家の軍勢から離脱し、紀伊国に逃れて源氏に対する徹底抗戦に打って出て、三ヶ月間に亘って籠城戦を戦い抜いたとある。その後、平重盛には旧恩があるからその子については罪を問わないという源頼朝の誘いに乗って鎌倉に出頭したのだという。

 平忠房についてもっと記すと、この人についての同時代史料にはあやふやな面がある。吉田経房の日記は間違いない同時代史料なのであるが、吉田経房の日記には、寿永三(一一八四)年四月に平忠房が密かに鎌倉へと逃れた後、許されて京都へと戻るという風聞が広まっていたと書き記されている。その一方で、文治元(一一八五)年一二月に平忠房が鎌倉に出頭したことを記している。つまり、吉田経房の日記に従うと、一ノ谷の戦いで敗れた後で鎌倉まで向かいながら、翌年三月の屋島の戦いには平家方の一員として参加していることとなる。時系列的にはやってやれないことはないものの、整合性がとれているとはいいがたい。そこで、吉田経房が寿永三(一一八四)年四月に書き記したのは別人ではないか、あるいは風聞が広まっていることを日記の中に書き記したのみで実際に平忠房がどうなったかを把握していたわけではなかったと推測される。

 平忠房は平重盛の子、つまり、平清盛の直系の孫であるから、各地に散らばっていた平家の落人にとって担ぎ上げる絶好のシンボルである。平家物語によると紀伊国有田郡に少しずつ平家の落人が集い、軍勢となり、籠城戦となったとある。その数はおよそ五〇〇騎とあるからさほどの多さではないが無視できる少なさでも無い。その五〇〇騎の軍勢を対処すべく向かった熊野別当湛増が率いる軍勢と争いになり、籠城戦へとなった末に三ヶ月にも及ぶ戦いとなり、その戦いを終わらせるべく源頼朝からの赦免があったというのが平家物語の主張だ。吾妻鏡にも平忠房が鎌倉にやってきたことの記録があるから、文治元(一一八五)年一二月に平忠房が源頼朝のもとに降ったのは史実なのだろう。なお、吾妻鏡には同タイミングで平宗盛の二人の子と平通盛の子の一人の計三名の身柄も確保したことの知らせが届いてきたとあるから、平忠房自身は自分が平家統合のシンボルだと考えたかも知れないが、源頼朝にとっては平家の落人の一人としか認識しなかったかも知れない。それに、後述するが平家そのもののトップは既に存在していたのである。しかも、そのトップは北条時政によって捕縛されていた。

 吾妻鏡はそのあとの平忠房の動静を記さない。その代わり、吉田経房が平忠房の動静を日記に記している。一二月一六日、鎌倉からの帰路の途中で斬首。


 平忠房が自分で自分のことを平家統合のシンボルと考えたのは、記録にはほとんどと言っていいほど名を残していなくても、少なくとも武士としての活躍は見せていたからである。一ノ谷で、屋島で、そして壇ノ浦で敗れて各地に散った平家方の武士が再起を誓うと考えたならば、屋島の敗戦の後で離脱したにせよ、紀伊国に陣を構えて抵抗を見せていた武士としての平忠房であれば平家統合のシンボルと考えられたし、参集して共に戦う意志を見せるのも理があった。

 ただ、忘れてはならないのは、平家は貴族なのである。武士であると同時に貴族であるというレベルではない。藤原氏に取って代わる一大勢力を築こうとした貴族集団なのだ。その貴族集団が他の追随を許さない武装勢力を抱えているというのが全盛期の平家の構図なのである。

 そして、貴族としての平家には平家の正当な後継者もいたのだ。その者の名を平高清(たいらのたかきよ)という。文治元(一一八五)年時点で一三歳であり、おそらくまだ元服もしていなかったと考えられる。残されている肖像画も元服前の男児のそれだ。ただし、ほとんどの人はこの男児のことを平高清とは呼ばない。平六代(たいらのろくだい)と呼ぶ。六代(ろくだい)という呼び名は単純明快で、平家の第六代当主であるからそのように呼ばれる。初代が平正盛で、以下、第二代平忠盛、第三代平清盛、第四代平重盛、第五代平維盛ときて、平維盛の子として平家第六代当主となるから平六代である。

 平高清は貴族としての平家のトップたることを期待されて育てられてきたため、武人としての教育は全く受けていない。木曾義仲に攻め込まれて平家都落ちとなったときも、父の平維盛は息子を妻に預けた上で、自分の身に何か起こったときは息子を連れて再婚するように言い残している。平維盛の妻、すなわち平高清の母は権大納言まで勤めた藤原成親であるから、藤原氏の娘を妻として迎え入れるという点を考えると再婚相手に困ることはなかったろう。また、藤原成親は鹿ヶ谷の陰謀に関わったために流罪となり流刑地で死を迎えた人である。早い段階で反平家を主張した人物の娘とその孫とあれば、いかに平家第六代当主であろうと平高清個人には何かしらの温情が与えられてもおかしくないのだ。

 平家都落ちの後、平高清は嵯峨の菖蒲谷に身を隠した。京都に修学旅行に行く中学生や高校生は嵐山に足を運ぶことも多いであろうからイメージがつくと思うが、身を隠した場所は嵐山から見て川を挟んだ北側だ。つまり、現在の修学旅行の感覚では京都の一部と認識される場所である。しかし、当時の概念では京都ではない。京都から離れたところにある場所で、京都での捜索の目から離れつつ京都との接点を維持することを考えれば、隠匿の地として相応しい場所と言えたのだ。

 平高清がいつ北条時政に見つかったのかはわからない。文治元(一一八五)年一二月一六日に北条時政が平高清を伴って鎌倉に向けて京都を出発したという記録もあるが、この記録も怪しい。まず、北条時政自身が鎌倉に向かったという記録との不整合が起こる出来事もこの後に出てくるし、そもそも平高清が鎌倉に向かったどうか怪しいとするしかない記録も存在する。確実に言えるのは、文治元(一一八五)年一二月一七日時点では確実に平高清の身柄が鎌倉方の元にあったということである。


 文治元(一一八五)年一二月一七日、源頼朝のいわゆる「天下の草創」の奏上を受け入れ、貴族の大規模な罷免が実施された。

 高階泰経、大蔵卿を罷免。併せて伊豆国へ配流。

 高階泰経の子の高階経仲、右馬頭を罷免。

 源義経の異父弟である一条能成、侍従を罷免。

 源義経の右筆である中原信康、少内記を罷免。

 平業忠、右馬権頭を罷免。

 藤原章綱、兵庫頭を罷免。

 平知康、太夫判官を罷免。

 平信盛、左衛門少尉を罷免。

 藤原信実、右衛門尉を罷免。

 藤原時成、右衛門尉を罷免。

 平親宗、参議を罷免。

 藤原光雅、右大弁を罷免。

 小規隆職、左大史を罷免。

 難波頼経、刑部卿を罷免。併せて安房国へ配流。

 さらに源頼朝の希望する新人事についても着々と進んでいた。

 完成したのは文治元(一一八五)年一二月二八日のことである。この日、右大臣九条兼実に内覧の権利が与えられたことで、そう遠くない未来の新たな摂政が決まった。摂政近衛基通は自身の手から内覧の権利が奪われたことに対する抗議の意を示すため、摂政としての職務のボイコットに入った。正式にボイコットに入ったのは年が明けてからであるが、文治元(一一八五)年一二月末時点では既に政務への消極的ボイコットを示していた。

 一方で、今なお源義経の行方も、源義経に付き従ってきた武士達の行方も不明のままである。義経記によると、貴族の大規模な罷免があってから九条兼実に内覧の権利が付与されるまでの間に、吉野に捜索に来た源頼朝方の軍勢の隙を見て源義経が吉野を脱出し、源義経の腹心の一人で、源義経が吉野を脱出する際に殿(しんがり)を務めた佐藤忠信が京都に潜入したという。ただし、義経記は後世の創作色の強い書籍であるため、その信憑性については疑う必要がある。

 確実に言えるのは、文治元(一一八五)年が終わりを迎える前に源頼朝が日本国において盤石な地位を掴むことに成功していたということである。源頼朝自身は何ら新しいことをしてはいない。後白河院の院政は継続させているし、摂関政治だって継続させている。特筆すべきは京都ではなく相模国鎌倉に身を置いていることぐらいである。だが、一つ一つは法や慣例で定められていることであり前例が存在することであっても、積み上がってみればこれまでにない新しい政治権力が誕生していたのだ。

 その新しい権力は院政をも凌駕し、藤原摂関政治を裏から操ることまで成功しつつある。京都ではこの新しい権力とどのように接するかに四苦八苦し、鎌倉ではこの新しい権力をどのように扱うかに苦悶する、それこそ源頼朝自身が苦悶するという時代がはじまったのである。

 鎌倉幕府はこのときはもう成立していたとする説が有力となるのもおかしなことではない。


 年が変わって文治二(一一八六)年一月五日、文覚が平高清を伴って京都に入ったという記録がある。平高清が鎌倉まで護送されたことは間違いないのだが、文覚の奔走によって斬首とはならず、この日に無事に京都に戻ってくることができたというのだ。

 しかし、ここで不整合が起こる。

 平高清が京都を出発して鎌倉へと向かったのは一二月一六日、そして京都に戻ったのが一月五日。つまり、往復で二一日。

 早すぎるのだ。

 早馬に乗せて急いだ、あるいは紀伊半島から海路で進み黒潮に乗って急げたならば不可能ではない。実際に、源頼朝が京都の情報を手にし、検討し、返信を京都に送り届けた際に要した時間の中には二一日を下回るものもある。だが、平家のトップであることが宿命づけられている人物の護送と帰還をそこまで急ぐものであろうか。

 ここで吾妻鏡の記録を確認してみると、そもそも源頼朝のもとに平高清の身柄が届けられたという記録がないのだ。平高清の身柄拘束に成功したという知らせならば届いているが、平高清自身が鎌倉に姿を見せたという記録は無いのだ。文治元(一一八五)年の吾妻鏡の記載を読んでも、平高清を拿捕したという記録ならばあっても鎌倉まで連行したという記録はない。

 そこで、このような想定ができる。

 平高清は北条時政ではない誰かに連れられて鎌倉まで連行されていたが、その途中で鎌倉から連行不要という連絡が来たので引き返したのではないか、と。そして、ここでの北条時政ではない誰かというのが文覚なのではないか、と。こう考えると、時系列も、この後での平高清と文覚の関係も、双方ともに納得できるのだ。文覚は一人の僧侶として平高清の助命を源頼朝に求め、源頼朝は文覚の助命に応えたのである。その代わり、政界から離れて一人の僧侶として生きていくことが条件である。そのため、文覚は平高清を鎌倉の近くの源頼朝の目の届くところへの配流とし、適当な寺院があればその寺院で出家させて寺院の別当とさせることも提案している。

 平高清は鎌倉に向かっていないが、捕らえられた平家の面々のうち最低でも一名が文治二(一一八六)年の一月に鎌倉にいたことが判明している。平時忠の息子で、源義経に縋(すが)ることで配流を逃れようとしていた平時実である。平時実が鎌倉の地で目の当たりにしたのは鎌倉方の面々がどのように新年を迎えたかである。

 吾妻鏡の記述を考えると、平時実は鶴岡八幡宮の新年参賀に集結した鎌倉方の御家人達を目にしたはずである。そして、その軍勢の質と量を目の当たりにしたはずである。平時実は平家ではあるが武士ではなく貴族である。正確に言えば元貴族である。そのため、武門のことに詳しいわけではない。だが、そんな平時実であっても鎌倉方の軍勢規模を理解できたのだ。鶴岡八幡宮での儀式は、京都を模した、それも劣化コピーした儀式である。だからと言ってその劣化コピーをあざ笑うことなどできない。参加しているのは源平合戦の勝者達であり、武士としての修練を積んだ者でなくとも敵に回したらどうなるかぐらいわかる。

 平時実はしばらく鎌倉に滞在した後、上総国に配流されることとなる。


 京都に派遣された北条時政は源頼朝の課されたノルマを果たしていたし、源頼朝の期待をある程度は応えていた。だが、期待の全てに応えていたわけではない。

 源頼朝の提示した朝廷の人事案と、源頼朝の関係者の罷免、そして、吾妻鏡では守護地頭の設置と記す源頼朝が手にした地方の人事任命権については問題なくこなしていたと言える。平家がかつて本拠地としていた六波羅に陣を構えて鎌倉方の京都における拠点を構築したことも、源頼朝の課したノルマを完全にこなしたと評価できる。

 北条時政の率いた軍勢の力もあって、京都は完全に源頼朝の勢力下に置かれることとなった。鎌倉方と対抗すべき武力を模索した後白河法皇も文治二(一一八六)年一月一九日に静養目的の伏見御幸という名目で京都から離脱しており、この時点での北条時政は京都における最大の武装勢力になっていたと言えよう。

 ただ、源義経の捜索に失敗している。源義経がどこにいるのかを把握できていないのは北条時政に限らず鎌倉方の誰もが把握できていないことであるから、源義経の捜索未完了を以て北条時政を弾劾するのは不条理とするしかないが、何らかの手を打つ必要はある。それに、北条時政はいかに在庁官人としての経験を持つ身であろうと、源頼朝の岳父であることに加え鎌倉方の軍勢が背後に控えているからこそ京都において立ち居振る舞えているのであり、どちらか一方でも欠けたならば京都の貴族達と対等に接することはできなくなる。武力を六波羅に在駐させることは継続できても、源頼朝の岳父という特別な関係のある人間が京都に在駐するのは永遠というわけにはいかない。

 北条時政でなければ京都における鎌倉方の代理人としての職務をこなせないというのは、組織の永続性を考えても健全な話ではない。ここで北条時政に代わる人材、欲を言えば北条時政以上に貴族と渡り合えるだけの人材を京都に送り出すことは対応策としておかしな話ではない。

 また、北条時政の良からぬ話も鎌倉まで伝わってきており、このまま北条時政を京都に留め置かせるのは民心の反発を買うのが必定となっていた。理由はどうあれ、京都ではスーパースターであった源義経を京都から追い出したのは北条時政である。北条時政にしてみれば源義経が京都で成し遂げていた実績を自分でも繰り返すことで京都における自分の、引いては鎌倉方の支持を獲得しようという目的があったのだろうが、その方法は強引に過ぎた。

 北条時政は何をしたのか?

 検非違使に届け出ることなく、最低でも一八名の盗賊を六条河原で斬首したのだ。

 源義経が京都で人気を獲得していたことの理由の中には、木曾義仲によって破壊され尽くした京都の治安を取り戻したという点がある。もっと言えば、治安回復こそが源義経に対する京都の人達からの人気の源泉だ。北条時政が京都における人気を獲得しようと犯罪者に対して厳しく接したのは感情としては理解できる。だが、これは許されざることなのだ。源義経は検非違使であった。ゆえに、犯罪者に対して何かをしてもそれは警察権の行使であり違法ではない。しかし、北条時政は、いかに従二位源頼朝の義父であると言っても個人としては無位無冠の庶民であり、軍勢を指揮して六波羅に陣取っているところまでは看過できても、勝手に武力を発動することは問題なのである。盗賊を捕らえて処罰するという、一見すると問題なく思えることであっても、法に従えば北条時政のほうが違法になるのだ。


 文治二(一一八六)年一月二八日、左馬頭一条能保を北条時政の後任として京都に送り込むことが決まった。名目は、源平合戦期に鎌倉まで逃れてきた一条能保とその家族が、平和が戻ってきたので京都に戻ることになったというだけである。

 しかし、中御門流一条家に生まれた藤原摂関家の早熟の天才として一一歳にして国司に任官したという記録も持っている一条能保は、早々に権力闘争に敗れ窓際族へと追いやられ不遇を託っていた。その一条能保が人生を賭けたギャンブルに打って出たのが清和源氏への接近である。源義朝の娘と結婚したことで源頼朝と義兄弟となったのだ。忘れてはならないのは、一条能保が結婚した時点での源頼朝は平治の乱の敗者として伊豆国に流罪となっていた国家反逆者であった。そんな人物と接近したら危険極まりないと考えるのが普通であるが、一条能保はそう考えなかった、いや、そのようなギャンブルに打って出なければ人生を逆転させることができないほどに追い込まれていたとするべきか。

 そのギャンブルは危険であった。京都における源頼朝のスパイの役割を担うことを求められたのだ。若くして過去の人となっていた一条能保に注目する人などいなかった。源義朝の娘と結婚したことに注目した人ならば探せばいるかもしれないが、それでも特に何か怪しむ人などいなかった。

 木曾義仲の侵攻の頃には鎌倉まで避難していたことが窺えるが、その点で着目する人もそうはいなかった。戦場になりそうな京都から逃れようとする者は多かったから、一条能保もそうした避難者の一人と見られるだけであった。

 その一条能保が気が付けば源頼朝のもとにいる文官の一人となり、鎌倉方の中でそれなりの権威を持つまでに至っていた。しかもこの人は源頼朝と義兄弟である。北条時政が義父であるという理由で京都における源頼朝の代理人となっているとき、北条時政に代わって京都における源頼朝の代理人となれる人材として一条能保はうってつけであったのだ。さらに、北条時政と違って藤原摂関家の中枢にも顔が利く。貴族社会の中で渡り歩くことを考えたとき、無位無冠の北条時政ではなく、位階も官職も持つ貴族である一条能保のほうが何かと融通が利くのである。

 ただし、この人は藤原摂関家の生まれであり、鎌倉方の一員を構成してはいても武芸に通じているわけではない。そのため、北条時政のように軍勢を指揮する能力は期待できない。裏を返せば、北条時政のように法的根拠無しで犯罪者を捕縛して勝手な処罰を加えることは考えられない。この人が犯罪者を捕縛し何らかの刑罰を下すことがあるとすれば、それは一条能保が検非違使をはじめとする何かしらの官職を得て、その官職での業務遂行しかありえない。この面でも暴走を見せてきた北条時政の代わりの人材としてうってつけとなる。

 源頼朝は一条能保への見返りも忘れてはいない。藤原摂関家の人間である一条能保には確認できるだけで六人の娘がいるのだが、そのうちの一人である娘の一条保子を後鳥羽天皇の乳母とすること、一条全子を西園寺公経の妻とすること、名は記録に残されていないが別の娘を九条兼実の次男である九条良経の妻とすることに成功させている。特に一条保子を後鳥羽天皇の乳母とするのに成功したことは一条能保の藤原摂関家の一員としてのキャリア構築に極めて大きく働いた。一条能保は藤原摂関家の一員ではあっても、摂政に就いた父系の直系の先祖は七代前の藤原道長にまで遡らなければならないという、藤原摂関家でもお世辞にも本流と言えない生まれである。そうした生まれでありながら若き俊英として一一歳で国司に就いたことは一条能保のプライドの寄って立つところであり、そのあとでキャリアが築けなかったことはプライドを引き裂くところであった。その一条能保が、源頼朝を背景とすることで朝廷や藤原摂関家の中枢に食い込め、貴族としてのキャリアで一気に逆転できるのである。源頼朝の配慮は感謝でしかない。


 源頼朝は一条能保を通じて藤原摂関家への工作も図った。既に内覧の権利を得ている右大臣九条兼実を正式に摂政にすることを図ったのだ。

 九条兼実が源頼朝に近い人物であるからというのもあるが、藤原摂関家の復活による後白河院政への牽制の意味も存在していたのである。摂政近衛基通は内覧の権利剥奪に対する抗議の意を込めて文治元(一一八五)年末から政務ボイコットに入り、年明けの文治二(一一八六)年元日に大外記清原頼業が叙位勘文(じょいかんもん)を近衛基通の邸宅に持参しようとしたところ追い返され、新年一月の叙位が滞ってしまったという事態も起こっていた。文治二(一一八六)年時点の後鳥羽天皇は、数えで七歳、満年齢ではまだ五歳の幼児である。後鳥羽天皇の親政など年齢からしてありえず、摂関政治が停まってしまったのである。

 内覧の権利を剥奪せずに近衛基通を摂政としたままでの藤原摂関家の復活もアイデアの一つとしてありえたが、実際問題、現役の摂政である近衛基通を鎌倉方として支援するのは厳しいものがあった。摂政としての能力の低さが問題だったのだ。摂政としての政務のボイコットは、抗議の意思表示としてならば機能したが、ボイコットによって期待できること、すなわち、摂政が不在となることの摂関政治の停止が国政に与えるダメージとなると、これがゼロとするしかなかったのである。幼帝ゆえに天皇親政はありえず、摂政も不在であるというのに、政務には何の支障もない。このような人物を鎌倉方が担ぎ上げて後白河院政への牽制を目論んでも、その目論見は失敗に終わる。摂関政治の復権を利用して後白河院政への牽制を図るならば、近衛基通に代わる新たな摂政として、右大臣九条兼実を摂政に推すのが現時点で考えられる最良の選択肢なのだ。

 摂政近衛基通は立場が苦しい人生を歩まされてきた人物である。父の近衛基実が亡くなったとき、近衛基通はまだ六歳であった。摂政の地位は叔父の松殿基房のもとに渡ってしまったこともあって、関白の実の息子として生まれながらも父の後ろ盾を頼れず、幼き近衛基通は藤原摂関家の一員として摂関の地位に就くためのキャリアを築くのにハンデを背負わされ続けてきたのである。しかも、母方の系図を見れば平治の乱の首謀者である藤原信頼の甥でもあるため、松殿基房に渡ってしまっている摂政関白の地位を取り戻すのは難しいと考えられた。

 そのハンデを補うために近衛基通が考えたのが平家との接近である。平清盛の娘を正室として迎えたことで平家を後ろ盾とすることに成功し、治承三年の政変を期に弱冠二十歳にして摂政となったのである。その後、木曾義仲の手によって三ヶ月間だけ摂政の地位を失ったものの木曾義仲の失脚とともに摂政に復帰し、文治二(一一八六)年時点まで至っていた。

 ただ、近衛基通には致命的な欠陥があった。政治家としての素養が乏しいのだ。政治家としての素養は生まれながらのものではなく教育や経験によって育てるものだという考えはその通りであるが、その点を踏まえても、参議も、中納言も、大納言も経験したことのないのに治承三年の政変を期にいきなり関白内大臣となり、いきなり経験不足を露呈したまま誰もリカバリーをできず、ただただ年月だけを積み上げてきたのだ。

 もっとも文治二(一一八六)年時点ではまだ二七歳であるからこれから経験をさらに積み上げれば立派な摂政や関白になる可能性もある。現時点で最良の摂政であるかどうかと言われると否と答えるしかないだけなのだ。

 この、現時点における最良の摂政であるか否かという点を源頼朝は危惧していた。正確に言えば後白河院に対抗する勢力としての藤原摂関家の現状を危惧していた。三九歳の右大臣九条兼実であれば後白河法皇の院政に対抗する摂関政治を構築できると考えたのである。

 近衛基通にしてみれば人生を全否定するに等しい話である。と同時に、妻が平清盛の娘であるということを考えると、壇ノ浦の戦いから約一〇ヶ月に亘って摂政の地位を保全できていたことを奇跡と考えるのもやむなしとなる。そう、自身の無能が原因でなく、愛する妻の血筋が理由で摂政の座から降ろされるのだと考えれば、まだ自分で自分を宥(なだ)められる。それでも黙って源頼朝に従うつもりにはなれないとボイコットをし、ボイコットの結果、摂政の地位がこぼれ落ちるのを看過しなければならなくなった。しかも、自分が摂政の政務をボイコットしても国政は支障なく執り行われているという事実を目の当たりにしながら。


 九条兼実は自分が摂政として推されていることをどう考えていたのか。

 嬉しさはあるが、同時に強烈なプレッシャーに襲われてもいた。無理もない。過去の摂関政治と違い、文字通り内乱終結後の日本国の舵取りをしなければならないのである。しかも、遠く離れた相模国鎌倉にかつての平家を彷彿させる巨大軍事組織があるだけでなく、その組織の構成員の多くは朝廷の官僚ピラミッドとは無縁の武士である。平家の場合は平家の面々が何らかの形で位階や役職を持っていたから朝廷と密接した権力たりえたが、鎌倉方の場合は源頼朝一人だけが従二位の位階を持つ貴族で、その他の武士はその多くが無位無官なのだ。例外として源頼朝の実弟の源範頼がいるが、源範頼とて源頼朝に従う一人の武士である。実弟ですらこうなのだから、源頼朝の親族でない鎌倉方の武士達は、ただ源頼朝の命令に従って行動するのみで、朝廷からの指揮命令を直接受け入れることはない。必ず源頼朝を挟まねばならないのである。

 源頼朝を挟まなかったらどうなるかは、源義経という先例が如実に示している。後白河法皇は源義経を直接コントロールすることで鎌倉方に対抗する武力を模索したが、三ヶ月前は京都のスーパーヒーローだった源義経が今や行方知れずの逃亡者である。この先例を前にして、誰が好き好んで源義経と同じ境遇を受け入れるというのか。

 源頼朝のような人物を常に念頭に置いた統治というのは先例がない。その先例のない統治が九条兼実に課されることとなったのである。

 更に厄介な問題となっていたのが後白河法皇の事実上の政務放棄だ。伏見に行ったまま帰ってこないだけでなく、北条時政に対して熊野詣の費用を捻出するよう院宣を下したのである。これまでの歴史を振り返ると、白河法皇も、鳥羽法皇も、年末年始に熊野詣をはじめとする宗教施設に出向いて滞在している。名目は御幸であるが実際には年末年始のリフレッシュだ。また、後白河法皇が伏見に出向いているのも去年までであれば眉をひそめられたであろうが、源平合戦が平家の滅亡という形で終わった、すなわち平和が取り戻されたというアピールをする点を踏まえると、後白河法皇の行動は無意味ではなかった。しかし、伏見に出向いた後は熊野詣に出向くとあっては、京都に戻ってくるのはいつのことかわからなくなる。つまり、しばらくの間は後白河法皇が政務を執ることがないことが判明しているのである。

 摂政近衛基実だけでなく後白河法皇も政務を放棄し、左大臣藤原経宗は源頼朝討伐の宣旨に積極的に賛成したこともあって、左大臣の役職を失ったわけではないが政務の第一線から離れている。朝廷はもはや右大臣九条兼実がトップに立つしかないのだ。九条兼実とて摂政や関白の地位を望まなかったわけではないが、まさか内戦終結直後の困難な政治情勢である上に、院政が止まってしまい、鎌倉方の武力が睨みを利かせている中で摂政に就任するとは夢にも思わなかった。九条兼実は摂政に就くことよりもプレッシャーに押しつぶされないことを考え、幼帝のときに内覧が任じられた先例は無いとして源頼朝に対して内覧の権利の返上を申し出たが、源頼朝はその申し出を一蹴し、九条兼実を摂政とするように働きかけたのである。


 九条兼実の摂政就任は時間の問題となっていた。外堀が一つ、また一つと埋められていったのである。

 文治二(一一八六)年二月一四日、蔵人頭の藤原兼忠が九条兼実のもとを訪れた。後鳥羽天皇が手習いを始めるのに際し、通例であれば摂政近衛基通の所有する御本を使用するところであるが、近衛基通から九条兼実の所有する御本を用いるように話があったというのである。九条兼実はこのとき、天皇の手習いに使用する御本が後白河院のもとにあって今は手元にないとして断っているが、後鳥羽天皇の教育の段階から携わるということは、後鳥羽天皇とは生涯に亘って関係性を持つことを意味する。それは摂政たる者の手にできる特権でもあり、通常であれば現役の摂政である近衛基通が絶対に手放すはずのない権利であったはずなのだが、近衛基通はあっさりと手放したのだ。まるで自分は摂政に相応しくないと自分から摂政を辞任するかのように。

 なお、純粋に後鳥羽天皇の教育という視点だけに目を向けると、九条兼実は近衛基通よりも適任であると言える。日付は遡って二月九日のこととなるが、この日に開催された釈奠(せきてん)、すなわち、孔子ならびに儒教における先人を祀る儀式において、文章博士藤原業実が『論語』の「君子泰而不驕、小人驕而不泰(君子は落ち着きがあって威張らない。小人は威張っていて落ち着きがない)」を元に「文泰而不騙」を出題したところ、土御門通親こと権中納言源通親が難色を示してこの出題を止めるということがあった。源通親は普段から漢詩の才能を鼻にかけ漢詩文を得意としていたのに、いざ漢籍の知識が求められる局面を迎えたら難色を示したわけである。これに対して九条兼実は苦言を呈している。九条兼実は、自分で鼻にかけるところはなかったが、なかなかに学のある人物である。

 また九条兼実はこの頃に、前年の新嘗祭での暴力事件で謹慎処分となっていた藤原定家を家司として招き入れてもいる。藤原定家を自派に招き入れることで九条兼実の帰属としての勢力伸長を測ったとも言えるが、藤原定家という人は、暴力的な性格が有名であったと同時に文人としての才能は文句無しな人でもある。この人を家司として招き入れることは、物騒ではあるものの九条兼実の邸宅内における文的素養の向上にもつながり、藤原定家の所有する書籍をそのまま九条兼実ならびに九条兼実の関係者全員が読むことができることを意味する。これはかなり大きいメリットだ。この時代は現在のように書店で気軽に本を買える時代ではない。本を持っている人から借りて書き写さなければ本を自分のものとすることができなかった時代である。おまけに、紙も高値だ。本を自宅で所有するだけでも裕福な人しかできないことであり、本を大量に保有するとなると、裕福であるだけでなく書籍を手に入れるのにかなりの執着心を持っていなければできない。藤原定家はこの両方の条件を満たしていた人である。

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

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