覇者の啓蟄 3.源義経逃走

 行方不明となっている源義経の捜索はまだ続いていた。

 文治二(一一八六)年二月一八日には源義経が大和国の多武峰(とうのみね)に潜伏しているという噂が流れた。多武峰(とうのみね)は源義経がいたことが確実な吉野から直線距離で五キロもない。いかに踏破の面倒な山道であるといっても少人数が移動するだけならば支障はない。おまけに多武峰(とうのみね)は単なる山ではなく、明治時代の神仏分離で現在は談山神社となっているが、神仏混淆のこの時代は多武峰妙楽寺(とうのみねしょうらくじ)という寺院であり、これまでの歴史で何度も興福寺と争ってきたという過去がある。南都焼討で平家が破壊した興福寺を源平合戦終結もあって立て直しているということは、現政権の手によって憎き敵が復活しているということ、すなわち、現政権に対する反発という目的で源義経を庇護することもありえたのである。もっとも、興福寺からすれば妙楽寺が同じ大和国にある寺院であることは知識として知っていても、勢力差があまりにも大きすぎて、興福寺にとっての妙楽寺は目障りな存在ではあっても敵とは認識していなかった。それどころか、大和国の寺院ということで妙楽寺のやらかしが興福寺にまで飛び火することすらあったのだ。

 そのあたりの例証とすべきことが同日に起こっている。源義経の捜索という名目で源義経と関係のある僧侶に対し鎌倉に出頭するよう指令が出たのであるが、このときの出頭命令が出た僧侶は二名おり、一名は源義経が元服前にいた鞍馬寺の東光房阿闍梨であることは納得できても、もう一人の僧侶は興福寺の周防得業聖弘である。鞍馬寺はともかく、興福寺からも呼び出されるというのは、今の感覚で言うと、地方議会で一人会派となっている野党議員がその地方議会で与党となっている政党に対抗する目的で目をつけられそうなことをやらかしたら、その地方議会全体の責任問題として発展し、与党にまで責任追及の手が及んだというところか。

 話を元に戻すと、源義経が本当に多武峰(とうのみね)にいたかどうかはわからないが、しかし、確実に言えることが一つある。源義経捜索という名目で鎌倉方の勢力が宗教界にまで深く入り込むようになったということである。これまでは朝廷の命令があったとしても宗教界は一歩引いた立ち位置にあったし、寺社の持つ荘園についても独立性を保っていた。しかし、今後は一歩引いた立ち位置にあり続けることも、荘園の独立性を保つこともできなくなったのである。

 それがさらに明瞭化されたのが文治二(一一八六)年二月三〇日に出された宣旨である。現在のカレンダーでは二月に三〇日は無いが、この時代のカレンダーは二月でも三〇日がある。この日、大和国、河内国、伊賀国、伊勢国、紀伊国、阿波国に対して源義経を捜索せよとの宣旨が下されたのであるが、令制国だけでなく、熊野と金峯山にも捜索命令が出たのである。大和国や紀伊国といった令制国だけであれば熊野も金峯山も一歩引いた対応をする、すなわち令制国に対して命令が出ても寺社としては無関係であるという態度で応じられていたのであるが、熊野、あるいは、金峯山と名指しされてしまっては宣旨に従うしかない。


 文治二(一一八六)年二月末には、宣旨とは別に後白河法皇の裁決が降っている。なお、吾妻鏡によると、裁決のあったのが二月二八日で、裁決に北条時政が従ったのが三月一日のこととなっている。

 何があったのか。

 兵糧米の未納分の納税免除である。平家討伐の軍勢を養うための兵糧を納税するよう指令が出ていたが、源平合戦終結による兵糧米徴収の根拠が無くなったことにより、今後の兵糧米納税を免除するというのが後白河法皇の指令だ。

 これは後白河法皇が正しいと言えば正しい。ただ、裏がある。

 前年一一月二八日、源義経と源行家の捜索のため源頼朝に対し、五畿、山陰道、山陽道、南海道、西海道の諸国に対する人員配置の権利と、財源として前述の地域に対し田一段あたり兵糧米五升を徴収する権利を与えた。これが後に守護地頭の設置とされる出来事であるが、そのうちの兵糧米の納税についての権利を没収したのである。

 兵糧米五升の納税はかなり大きな負担であった。

 坂本賞三氏の研究によると山城国愛宕郡の官物貢納の農地で一段あたり三斗の税が課されていたという記録がある。官物貢納は荘園とならないため荘園の手にできている免税の特権を得ていない。では、免税の特権を得ている荘園が免税の代わりにどれだけの年貢を荘園領主に納めていたかとなると、伊賀国に東大寺が保有していた荘園が一段あたり一斗四升三合の年貢貢納であったという記録がある。一斗が一〇升、一升が一〇合であるから、荘園となることで五三パーセントの減税になるのだから荘園となったことのメリットは大きい。ちなみに一斗四升三合という中途半端な数値になったのは、もともと一斗三升であったところで一〇パーセントの増税となたからで、増税前の比率では五七パーセントの減税効果だ。

 という状況下で一段あたり五升の増税となったのである。もとから一段あたり三斗であった土地は一八パーセントの、荘園での減税効果を得ていた土地では三五パーセントの増税だ。そう簡単に支払えるものではない。しかも、年に一度の収穫に基づく納税を終えたあとでの増税であるから、納税するためには翌年の収穫まで生活していくためのコメを納めなければならないこととなる。

 平家がやったように、木曾義仲がやったように、そして源義経がやったように、民家に押し入って食糧を根こそぎ奪っていくというよりはマシだが、増税というだけでも反発が沸き起こるのに割合も高ければタイミングも悪すぎる。軍勢維持のための必要経費だと言われてもそう簡単に是とすることはできない。

 ところが鎌倉方の立場に立つと一段あたり五升というのは貴重な収入源なのだ。何のために命を賭けて戦ったのか。国家大義のため、正義のため、社会を建て直すためという名目の裏には、新たな土地の獲得という目的がある。後に守護地頭の設置権と言われる権利も武士にとっての新たな所領の獲得を意味する。一段あたり五升という単純明快な数値を伴う権利を得たことは、新たに手にした所領が土地がどのような土地なのかに関係なく一定の収入を獲得できる。ここに農村居住者の感情の入り込む余地は無い。

 このときの後白河法皇の決断は正解であったとするしかない。後白河法皇の命じた兵糧米徴収の停止は三月一日に実行化したのである。ただ、いささかやり過ぎとも言えた。北条時政は同日、自身が得ていた七ヶ国の国地頭、すなわち、山城、摂津、和泉、河内、大和、丹波、近江の京都近隣に睨みを利かせることのできる七ヶ国の国地頭を辞職した一方で、源頼朝追討の宣旨を奉じたことから免職となっていた藤原光雅が復職、源義経と関係の深かったという理由から伊豆国への配流が決まっていた高階泰経が配流取り消しとなったのである。後白河法皇の巻き返しが始まったのだ。無論、それで黙っているような源頼朝ではない。


 後白河法皇の巻き返しの始まりとも言える文治二(一一八六)年三月一日、鎌倉では静御前と、静御前の母である磯禅師の二人が鎌倉に到着し、源頼朝の雑色である安達清常の屋敷へと入った。

 静御前は白拍子(しらびょうし)である。白拍子とは弾奏をして歌と踊りを披露するのを職業とする女性のことで、この時代の京都における最先端の芸能を彩る女性であった。平安京内外に住む庶民が気軽に白拍子を目にすることもできたことから現在で言うと会いに行けるアイドルと考えれば近いが、一方で貴族の屋敷に呼ばれることも多く、たとえば平清盛は最低でも二名の白拍子を愛妾として抱えたことが判明しているほか、他の貴族に愛された白拍子も数多くいる。そうした貴族の一人が源義経であり、源平合戦で謳われていることもあって静御前は歴史上もっとも有名な白拍子と言えるが、実は、静御前についての史料となると吾妻鏡しか存在しない。同時代の貴族の日記に目を通しても、静御前の名前だけでなく静御前のことと推測できる女性すら存在していない。平家物語や義経記では静御前のことが記されているが双方とも同時代史料ではない。静御前の母の磯禅師については徒然草の中で白拍子を生みだした人として兼好法師が描いているが、徒然草も平家物語や義経記と同様に同時代史料ではない。もっとも、静御前の推定年齢と、その女性の母の推定年齢と、白拍子が文献に登場するようになった頃とを考えると、白拍子の創設者が磯禅師であるかどうかは断言できないにせよ、磯禅師は白拍子が誕生して間もない頃にはもう白拍子として活躍していたことは考えられる。

 白拍子は鴨川右岸に数多く住まいを構え、鴨川右岸で自らの芸能を披露していたことから京都内外の庶民にとって身近な存在であったが、その他の地域に白拍子がどれだけいたかとなると、ゼロではないにせよ、京都ほどに気軽に会いに行ける存在であったとは考えられない。

 それは鎌倉とて例外ではない。

 古今東西、その時代の人達が、その土地の人達が、健全では無いと考えることを排除することに成功した都市など存在しない。仮に存在するとすれば、都市ができて間もなくの頃であるか、都市ができてから時間を経過しているのであれば、不健全を排除することに成功した都市ではなく不健全が隠れるようになってしまった都市である。鎌倉の場合は前者に相当した。不健全に対する需要はあるが供給は追いつかずにいたのがこのときの鎌倉である。

 そんな鎌倉に、源義経の愛人であったという背景があったにせよ、京都の最先端の流行を具現化した白拍子がやってきたのである。これで騒然としなければそのほうがおかしい。



 文治二(一一八六)年三月六日、源頼朝が鶴岡八幡宮に静御前を召喚して源義経の行方を尋問した。京都の最先端の流行を体現している人物がやってきたとあって鶴岡八幡宮はちょっとした騒ぎになったが、このときの静御前は白拍子としてではなく、あくまでも源義経の関係者の一人として尋問を受けることとなった。なお、この尋問は源頼朝が命じた尋問であるが、尋問の主担当は問注所で訴訟の事務にあたっていた藤原俊兼と平盛時の両名である。

 この尋問が問題になった。白拍子としての静御前でなかったことが問題になったのではない。尋問そのものが問題になったのである。

 静御前は吉野で身柄を確保されたときと京都に搬送されたときに尋問を受けており、尋問の様子は鎌倉にも伝わっている。もし静御前が過去二回の尋問と同じ回答をしたならば何の問題も生じなかったであろう。

 しかし、このときの静御前の回答は過去二回と異なる内容であったのだ。いや、あやふやな回答であったとすべきか。

 過去二回の尋問では吉野の山中で五日間を過ごしたと答えたが、いかに武士達に囲まれているとは言え、また人数が少ないとは言え、山の中を五日間も過ごせたのだろうかという質問が出た。これに対する静御前の回答は山の中ではなく山の中にある僧侶の住まいに身を潜めていたのであると答えた。その上で、僧兵達が攻め込んできたので源義経らは山伏の格好をして逃げようとしたこと、静御前もついて行こうとしたこと、そこで僧兵に捕らえられたこと、源義経らについて行こうとしたが山は女人禁制であるとしてついて行くのが認められなかったこと、京都へ戻ろうとしたら同行した者が金品を盗んで逃げてしまったため迷いながら儀王道に到着したことを述べた。

 このあとで静御前に僧侶の名を訊ねたが、静御前からの回答は忘れてしまったというものであった。なお、吾妻鏡には単に僧侶の名を訊ねたとだけあり、吉野で静御前を捕らえた僧侶の名を訊ねたのか、吉野で静御前を尋問した僧侶の名を訊ねたのかは不明である。確実に言えるのは、これで鎌倉における尋問が空虚なものとなってしまったことである。これ以上どんなに質問しても返ってくるのは無意味な内容であり、彼女をどんなに問い質そうとしたところで、鎌倉の知りたい情報、すなわち源義経がどこに逃亡したのかを知ることはできないのだ。なぜなら、彼女はそれを知らないのだから。

 命にかかわる場面に直面したのに、そのときのことを話させるとあやふやになる。これは何も静御前が源義経をかばったからでも、静御前が何らかの計略を立てているからでもない。彼女は精一杯だったのだ。生きるのに精一杯で、自分を取り巻く運命が勝手に二転三転し、自分をどうにかしてくれるただ一人の人物である源義経とは生き別れになるのが決まってしまったのである。山の中でどのように過ごしていたのか、自分を取り調べた僧侶は誰なのか、そのようなことを覚えていられる余裕などなかったのである。

 彼女は日を改めて取り調べを受けることとなるが、そのときの回答も同じである。源義経の所在はわからない。


 静御前の一度目の尋問と二度目の尋問との間に、三つの出来事が起こった。

 一つは文治二(一一八六)年三月九日に飛び込んできた知らせである。武田信義が亡くなったというのだ。源頼朝が挙兵した直後、武田信義は甲斐源氏のトップとして、それこそ鎌倉と肩を並べられるまでの勢力を作り上げていた。ピーク時には源頼朝、木曾義仲と並ぶ源氏第三の勢力とまで扱われたのが甲斐源氏であり、そのトップの武田信義である。それが、年月を経る毎に勢力が弱まっていき、一ノ谷の戦いの頃は鎌倉方の御家人の一人という扱いにまでなっていた。おまけに元暦元(一一八四)年六月一六日には息子の一条忠頼が鎌倉で殺害されたことで甲斐源氏の勢力は一気に弱まっていき、いまや鎌倉方の武士団を構成する一部とまでなっていた。

 その武田信義が亡くなったと吾妻鏡は記しているのである。

 ところがここに謎の点がある。武田信義が亡くなったとされてから四年後の建久元(一一九〇)年、さらに、亡くなったとされてから八年後の建久五(一一九四)年の記録に武田信義の名が存在しているのである。もしかしたら同名の別人である可能性もあるが、そもそもこのときに武田信義が亡くなったことのほうが虚報である可能性もあるのだ。なお、武田信義に対する記録は年を追う毎に激減しており、前述の二点を除いては武田信義の所在を記す資料が存在していない。

 なお、武田信義の死去とされる文治二(一一八六)年三月を境として、甲斐国における源氏勢力は武田信義の五男である武田信光が束ねるようになったものの、武田信光は甲斐国の中で兄の板垣兼信や逸見有義と争うようになっており、甲斐源氏の勢力そのものも、ピーク時のように鎌倉にとって脅威となる存在から、鎌倉には脅威とならないものの迷惑な対立を繰り広げる存在へと矮小化するようになった。

 二番目は、源義経の消息につながる知らせが伊勢神宮から伝わってきたのである。源義経が身につけていた太刀を伊勢神宮に奉納したというのだ。吾妻鏡によるとこの知らせが鎌倉に到着したのは文治二(一一八六)年三月一五日のことである。なお、これまでの戦いで源義経が常に身につけていた太刀を伊勢神宮に奉納したという知らせは届いたが、伊勢神宮に源義経自身が赴いて奉納したという知らせではない。いかに行方不明の身になっているとは言え一人きりで行動しているのではない。随身の一人を伊勢神宮に派遣するぐらいの人的余裕はある。

 ましてや伊勢神宮に源義経が太刀を奉納したという知らせを鎌倉で受け取ったということは、伊勢神宮からの知らせを鎌倉まで伝え、鎌倉から伊勢神宮まで捜索の手が伸びるまでに要する時間が、そっくりそのまま源義経にとっての逃亡時間となる。広範囲に源義経捜索が繰り広げられているから堂々と大通りを歩くことはできないにしても、静御前の供述通り山伏の格好をして歩けば修行のために各地を練り歩く者と偽ることぐらい可能だ。

 源義経に関する貴重な情報であったことはその通りであるが、源義経がどこに居るのかを特定するには役に立つ情報であったとは言えない。



 そして三番目の出来事、日付としては逆転するが、文治二(一一八六)年三月一二日の右大臣九条兼実の摂政就任である。

 源頼朝は九条兼実を摂政とするために、対立した末に事実上の政務放棄にまで至った後白河法皇と手を結ぶことまでした。後白河法皇を引っ張り出して九条兼実を摂政とすると同時に藤氏長者に任じるという院宣を出させたのである。さすがにこれは感極まるものがあったのか、九条兼実のこの日の日記には「紅涙眼に満つる」と記されている。

 ただ、ここで九条兼実が単に摂政になっただけでなく藤氏長者になったことは藤原摂関家の中で大きな波乱を巻き起こすこととなった。藤氏長者のレガリアたる朱器台盤が九条兼実のもとに渡っただけならばまだいいが、藤原摂関家の持つ所領がそっくりそのまま九条兼実のもとに移るかどうかが問題となったのである。朱器台盤を摂政や関白たる人物が保持するというのであれば、手放す側となった近衛基通とて、痛くないと言えば嘘になるがまだ耐えられる。だが、藤原摂関家の所有する荘園まで九条兼実のもとに渡るとなったら生活に直結する大問題だ。近衛基通は摂政を辞したことで公的には無職となる。従一位という生者の人臣最高位たる位階はあるから全くの無収入ではないし、そもそも元摂政や元関白という人物はこれまでの藤原摂関家で何度も登場している。あれこれ批判されることの多い藤原摂関家の独裁も、これまで積み重ねてきた実績がそのままマニュアルとなって受け継がれており、摂政を辞することとなった近衛基通もマニュアルに従えばどうにかなるのはその通りである。

 ただし、時代はマニュアル通りを許さなくなっている。具体的には貴族の持つ荘園と武士の保有する所領という土地の二重構造だ。要は土地の収穫のうち貴族の取り分が減っているのである。それでいて年月とともに藤原摂関家の人間の数は増えているから、藤原摂関家の所有する荘園といっても世代を経るごとに一人あたりの所有が減る。そこで個人ではなく藤氏長者の所有する荘園ということにして一人あたりの荘園所有を維持するという方法が採られるのであるが、木曾義仲によって復権した松殿基房と、松殿基房の子で木曾義仲が摂政に強引に推した松殿師家の親子が、木曾義仲失脚と歩調を合わせて権威を失うと松殿家そのものが藤原摂関家の勢力争いから交替することとなり、事実上、近衛家と九条家との間で藤原摂関家の勢力争いを繰り広げるようになったのである。

 ここで九条兼実が藤氏長者となったことで藤原摂関家の中心が近衛家から九条家に移ってしまうと、近衛家の巻き返しは極めて難しいこととなるだけでなく、その資産の根幹である荘園まで失ってしまっては、近衛家が松殿家と同じ命運を迎えることとなってしまうのだ。


 静御前の二度目の尋問が執り行われたのが文治二(一一八六)年三月二二日のことである。ただし、源義経の動静に関する新たな証言を得ることはできなかった。相変わらず源義経がどこにいるのかわからないばかりか、源義経との逃避行の詳細がどのようなものであったのか知ることもできなかったのである。

 その代わり、源義経の動静より大きな証言が得られた。

 静御前の懐妊が判明したのだ。父親については言うまでもない。

 尋問はただちに打ち切りとなり、源義経の子を妊娠していることが判明した以上、身重の身体で京都まで帰還させるのは困難であると判断して鎌倉で出産させることとし、出産ののち京都に帰還させると決まった。

 京都へと戻らないことが決められた女性がいる一方、京都から鎌倉へと戻ることが決まった男性もいた。北条時政である。

 誰かが鎌倉から京都へと向かう軍勢を指揮しなければならず、京都に滞在して鎌倉方の軍勢をバックにして朝廷や院と対峙しなければならないという状況下で、源頼朝の岳父という、本人の実力ではなく血縁を理由とした指揮の根拠を有する北条時政は、他の武士達からも指揮権を握るのもやむなしという同意を得ていた。そして、在庁官人としての経歴と、大番役の経験とが、京都における源頼朝の代理人としての職務をこなす土台となっていた。

 ただ、北条時政はやり過ぎた。

 源頼朝の代理人としての役割は果たしたが、限度も超えてしまったのだ。

 何ら法的根拠も無いのに犯罪者を勝手に斬首したのは、いかに治安維持を心掛けたと言っても受け入れることのできる話ではない。それでも源頼朝の是認ないし黙認があればどうにかなったが、源頼朝の不興が京都に伝わるとなると、源頼朝の京都における代理人としての北条時政の立場が弱くなる。それに加え、一条能保が、すなわち藤原摂関家の一人として数えられる人物が源頼朝の代理人として鎌倉から京都にやって来るとなると、北条時政が京都にいる意味が減る。一条能保では軍勢を指揮できないであろうという危惧もあるが、そもそも北条時政の武将としての指揮能力が目を見張るほど高いというわけではなく、軍勢を指揮してきたのは源頼朝の妻の父という血縁であることが理由だ。それならば下手に軍事に対して口を出さないだけ、源頼朝とは義理の兄弟という、北条時政が軍勢を指揮する根拠としてきたのと対等な血縁関係の根拠を有する人物を推戴するほうが揉めごとを起こさずにすむ。

 北条時政が京都を出発することを伝える書状に記された日付は、静御前の妊娠が判明した翌日である文治二(一一八六)年三月二三日である。京都にいる北条時政が静御前の妊娠を知っていたのかどうかは不明であるが、北条時政は静御前が京都に戻らず鎌倉に滞在し続けることになったことは知らずにいる。


 静御前は妊娠しているとは言え、出産日付から逆算すると、この頃の静御前は妊娠五ヶ月から七ヶ月の安定期にあったことが推測できる。

 さすがにこの時代の医学知識でも妊娠している女性を鎌倉から京都まで歩かせるわけにはいかないことぐらいは理解している。しかし、妊娠していてもできると考えられていることは現在よりもはるかに多い、つまり、今ならば休ませなければならないお腹の膨らみの人であっても、この時代の人にとっては動かせても平気という認識である。

 動かすことを命じるのが男性ならば反論のしようもあるが、それが女性なら、しかも、複数回の出産を経験した女性が命じるとなれば反論の余地は少なくなる。

 静御前にそれを命じたのは北条政子。

 北条政子が静御前に命じたのは、鶴岡八幡宮で白拍子の舞を見せること。

 舞と言っても、現在でも鶴岡八幡宮に伝わる静御前の舞の再現によると、現在のヒップホップダンスのような激しいものではなく、妊娠安定期の女性であればこなせてもおかしくない所作である。北条政子もそのあたりのことを理解した上で、鶴岡八幡宮で舞わせたと考えられる。

 それにしても、なぜ鶴岡八幡宮で舞わせたのか?

 おそらくであるが、鎌倉で静御前に言い寄ってくる男がいた、それもかなりの数でいたのではないか。白拍子は現在のアイドルのようなものであり、京都での最先端の流行であることを鎌倉にいる多くの人は、知識としては知っていても、実際に目にすることはなかったであろう。

 その白拍子が、源義経の関係者としてではあるが、鎌倉にいる。となれば、静御前に会いに行こうとする者もいたであろうし、静御前に下心を抱いて接しようする者もいたであろう。そうした風潮を抑え込むためには、鶴岡八幡宮という鎌倉に住む者であれば誰もが意識せずにいられない場所で、北条政子という鎌倉に住む者であれば誰もが逆らうことのできない人の命令で、白拍子としてのパフォーマンスを見せるのがもっとも確実に解決できる方法となる。最先端の流行ということで衆人環視の元で白拍子の舞を見せる代わりに、今後、勝手に静御前に言い寄るなという警告でもある。仮に静御前に言い寄る者がこれから現れたならば、北条政子に目を付けられて終わりだ。鎌倉においては、源頼朝に逆らう者ならば何とか探せても、北条政子に逆らうことのできる者などいない。しかも、いかに安定期であるとは言え、妊娠して、安静にしていてもおかしくない女性に頼み込んでステージに立ってもらうのである。静御前に個人的に言い寄ろうとする者に北条政子が怒りを見せたとしても、北条政子の怒りのほうが正当化されるシチュエーションだ。

 静御前が鶴岡八幡宮で舞うことを公表したのは文治二(一一八六)年四月四日、鶴岡八幡宮で舞ったのは四月八日のことである。ただし、舞ったのはその前日である四月七日とする記録もある。

 日付は確定していないが、鶴岡八幡宮での舞の様子ははっきりしている。畠山重忠が銅拍子を打ち、工藤祐経が鼓を鳴らすというものである。現在の感覚で行くと、畠山重忠がドラム、工藤祐経がキーボードを務めるバンド編成といったところか。畠山重忠や工藤祐経が京都における白拍子のパフォーマンスのバックバンドに匹敵する腕前であったとは考えづらいが、このときの鎌倉で用意できる最上級の人材であったろう。

 吾妻鏡ではこのときに静御前が源義経を慕う歌を歌いながら舞ったので源頼朝の不満を買ったとし、その怒りを北条政子がたしなめたため無事に終わったとしている。静御前の見せたパフォーマンスが鎌倉方の面々の怒りを買い、静御前に言い寄るのではなく、静御前に対して言葉ではなく暴力をぶつける武士が現れたとしても、怒りを抱いた源頼朝ですら北条政子にたしなめられて怒りを鎮静化させられたのであるから、静御前に何かしよう者など現れるわけがない。そんなことをしたら北条政子に睨み付けられて身の破滅を迎えるだけだ。

 なお、このパフォーマンスに対するギャラとして源頼朝が着ていた着物である「卯の花重ね」を御簾(みす)から出して渡したともある。単に服を渡したのではない。現在の貨幣価値にすると一〇〇万円はするであろう着物を渡したのであるから、源頼朝が静御前に見せた応対としては最上級のものであったと評価できようし、これの意味するところも誰もが理解できたであろう。

 もっとも、一ヶ月後にちょっとした騒動が起こってしまうが。


 文治二(一一八六)年四月一三日、北条時政、鎌倉に到着。なお、このときに北条時政は京都に北条時定をはじめとする三五名の武士を残している。彼らの武士の筆頭に挙げられているのが北条時定であるが、この人の来歴はわからない。野口実氏の研究によると北条時政の弟のようであるが、甥や従兄弟という説もある。源頼朝の挙兵時に北条時政とともに源頼朝側の一員として立ち上がったらしいが、それからの動静は全くわからず、それから六年の歳月を経ていきなりここで登場しているのである。それでいて京都に残った武士達は北条時政不在の状況下でもこれといって問題なく過ごしているのであるから、北条時定には武士達を統率する何かがあったのであろう。

 これは北条時政に限ったことではないが、人物が京都から鎌倉へ、あるいは鎌倉から京都へと移動するとき、何の前触れもなく移動するということはない。出発前に書状を書いて送り、移動中にも書状を書いて送っている。いつ出発する予定であるか、いつ頃にどの地域に到着してその地域から出発したかというのは、リアルタイムではないにせよ、出発地である側にも目的地となる側にも早馬で伝えられる。無論、そうした早馬を用いた書状の送り届ができるのは、ある程度の人員と予算を抱えられ、かつ、どこからどこへと向かう移動なのかを公表できる場合に限られる。例えば源義経の逃避行については、当然のことながら書状を送り出してはいない。

 北条時政が京都を出発して鎌倉に向かっていることについては、鎌倉の源頼朝も、現在のようにリアルタイムとまでは行かないが、この時代としてはかなり早い段階で書状を受け取ることで情報として掴んでいる。また、受け取った情報に対する返信も源頼朝は発しており、移動中の北条時政は鎌倉の源頼朝からの書状を受け取りながらの鎌倉への帰還旅程となっている。

 そのため、北条時政が鎌倉に到着したとき、北条時政は自分が不在の間に鎌倉で何が起こっていたかを理解していたし、基本的には源頼朝も、北条時政が京都で何をし、また、北条時政が京都から鎌倉に向かう途中で何をしたかを理解している。

 北条時政が京都に北条時定を残したことは源頼朝も早期に把握しており、鎌倉から京都の六波羅に根拠地を構えた北条時定に対して何度か指令を送っている。

 その中の指令のうち、もっとも大きなインパクトを与えたのは、北条時政が鎌倉に到着してから七日後の指令である。源義経と源行家が京都洛中ないしはその周囲に身を潜めており、また、比叡山延暦寺が源義経を匿う動きがあるので、京都に残った北条時定に対して捜査指令を出したのである。なお、捜査指令は京都内外だけでなく鎌倉と京都をつなぐ道中でも有効であり、遠江国では安田義定が令制国内の湖や洞窟に源義経が潜んでいるとして各地を捜索させている。とは言え、遠江国での湖となると、それは浜名湖。東京で言うと山手線の内側の面積とほぼ同じである。捜索せよと命じる側はともかく、命じられる側となるとその労苦はただならぬものであったろう。


 源頼朝からの指令は、源義経と源行家の両名の捜索だけにとどまらなくなっていた。あくまでも一人の貴族として同じく貴族である同僚に対して苦言を呈するという体裁であるが、いかに勅宣や院宣であろうと正しくないことであれば食い止めるのが忠臣たるものであるという書状を送ったのである。

 これより少し前、藤原摂関家の所領相続に関しての意見を表明する書状も送っている。書状の送り先は後白河法皇である。前摂政近衛基通が藤原摂関家の保有するほとんど全ての所領を接収したことを問題視したのである。これらの所領は藤原摂関家のものであり、近衛基通個人の所領ではないというのが源頼朝の主張だ。そして、近衛基通の接収した所領は藤氏長者である九条兼実が保有すべきというのが源頼朝の主張である。

 この所領争いについては近衛基通にも言い分がある。元々は父の近衛基実の所領であり、父の死後は白河殿盛子、すなわち、平清盛の娘で近衞基実の妻である女性が相続していたのを、息子である自分が相続しただけなのだ。源頼朝の記すところによると、興福寺と春日大社の保持する所領を除く全ての所領を近衛基通が接収したという。

 この所領の所有権はかなりややこしい。近衛基実が所有していた時点では何の問題もなかった。近衛基実が亡くなった後で妻の平盛子が相続したのはグレーゾーンであった。そして、平盛子が相続した所領を平盛子の死後に後白河法皇が接収したことで平家と後白河法皇が対立し、治承三年の政変へとつながった。治承三年の政変で平清盛の娘である平盛子のもとに所領の所有権が戻るかと思われたが、ここで、公的には高倉天皇の保有する公領となった。実質的には平家の影響が強く出ることが明瞭な退位後の高倉院の所領となったことで事態はさらにややこしくなり、さらに高倉院の逝去によって所領の所有権が宙に浮き、最終的には後白河院のバックアップのもと、近衛基実の息子である近衛基通のもとに所領が相続された。これだけを書くと後白河法皇の横槍が問題であるものの近衛基通の行動そのものは正当化できるものであるように思えるが、忘れてはならないのは、源平合戦で平家が敗者となったことである。すなわち、平家の政策を見直すことが許されることとなる。無論、国民生活を向上させるような政策であれば見直す必要などないが、そうでない政策については、源平合戦の敗者にして国家反逆者たる平家の政策というだけで否定が可能だ。今回のように藤原摂関家の所領の相続における平家の政策の否定となると、平家の人物である平盛子が亡き夫の所領の相続であるという点を差し引いても、平家なのに藤原摂関家の所領を相続したことが問題となる。

 平家の政策を見直して否定するとなると、後白河法皇が主導する形で、近衛基実の所有していた所領を近衛基通に相続させるところまでは許容できる。なぜならその時点での近衛基通は現役の摂政だからだ。だが、近衛基通が摂政を辞職しても近衛基実の所有していた所領を保持し続けることは許されない。近衛基実の所領は摂政関白ゆえに所有する所領であり、個人として相続するものではないというのが源頼朝の訴えだ。

 ここでようやく横道に外れた話が元に戻る。

 源頼朝は後白河法皇に対して所領の所有権について考えを述べる書状を送っている。ここまでであれば源平合戦の勝者としての政治介入となるが、源頼朝が他の貴族についても後白河法皇に対する意見表明をすべしという書状を送ったとなると、朝廷として後白河院に対する抵抗の意思を示すということになる。鎌倉に居を構える武家の頭領としてではなく、従二位である源頼朝をはじめとする朝廷の上流貴族が揃った上での抵抗の意思の表明となると、後白河院への、さらには院政そのものへの強い牽制となる。


 これを後白河法皇の側から捉えるとどうなるか?

 絶望である。

 源平合戦の敗者は平家であるが、後白河法皇もまた、敗者に列せられることとなったのだ。

 平家物語の終わりは建礼門院平徳子の死の情景であるが、その一つ前の情景は、大原に籠もっていた建礼門院のもとを後白河法皇が訪れたときの情景である。平家物語ではその情景のことを文治二(一一八六)年の春のこととしか記しておらず、具体的な日付ではない。情景の描写から、四月の賀茂祭を終えたあたり、四月下旬から五月上旬にかけての描写であると推測されるだけである。なお、そもそも本当に後白河法皇が建礼門院のもとを訪れたかどうかの確証は存在しないが、承久四(一二二二)年に成立した説話集である「閑居友(かんきょのとも)」には後白河法皇が大原を訪れたことの記載が存在することから、かなり早い段階で後白河法皇が大原の建礼門院のもとを訪ねたことは人口に膾炙されていたことが言える。

 以下は平家物語での情景である。

 壇ノ浦の戦いで入水しようとするも源氏に救出されたことで命が助かり、出家して吉田の地に籠もろうとするも地震で建物が崩れてしまい、京都から離れた大原に籠もることを選んだ建礼門院平徳子は、比叡山の北西の麓にある大原の寂光院に入った。現在の大原は京都市の一部であるが、また、この時代でも行政区画的には山城国の一部であるが、感覚的には京都の一部ではなく比叡山の一部という感覚であった。

 この大原にいる建礼門院平徳子のもとを後白河法皇が訪れた。平家物語によると、後白河法皇だけでなく、内大臣徳大寺実定、前権大納言花山院兼雅、権中納言土御門通親といった公卿をはじめ、多くの殿上人や北面武士らを引き連れての大原御幸であったという。

 大原に着いた後白河法皇らの一行が目の当たりにしたのは、安徳天皇の母が暮らしているとは思えない建物であった。由緒ありげな住まいという言い方もしてはいるが、その実際は、屋根が隙間だらけで、壁に穴が空き、その代わりに家の周囲を手入れがほどこされていない植物が埋め尽くしているというものである。


 信じられないのは建物だけではない。いかに有力者であった人でも出家したからには一人の僧侶であるため、建礼門院が僧侶としての日常を過ごしていること自体はおかしくないのだが、その点を踏まえてもなお、去年まで天皇の母であった女性とは思えぬ日常であった。後白河法皇が大原にやってきたときに建礼門院平徳子は不在であったが、不在であった理由が花を摘みに行っていたからというものであったのだ。ここでいう花を摘みに行くというのは手洗いの暗喩のことではなく本当に花を摘むことであるが、いかに出家した身であるとは言え、普通ならそのような仕事は付き添いの女性が、それも、集団の中でもっとも身分や地位の低い女性がすることであるのに、建礼門院が自分でやっていたのである。しかも、たまたまではなくこれが日常の光景なのだ。

 さらに、建礼門院平徳子の側に仕え、建礼門院自身が花を摘みに行っていることを告げる女性についても平家物語は描き出している。絹なのか布なのかわからないボロボロの継ぎ合わせを身に纏った姿でいる老いた尼僧は、出家して修行の身となったのだから身を惜しんではならず、現在の運命は過去の因果によって決まり、また、未来の運命も今まさに何をしているかによって決まるのだと後白河法皇に述べた。後白河法皇が彼女の言葉に感心し彼女の素性を訊ねると、保元の乱の後で権勢を築き平治の乱の始まりの場面で殺害されてしまった信西の娘である阿波内侍であるという。その阿波内侍もまた、今や大原でみすぼらしい姿をして暮らす身となったのだ。

 阿波内侍に促されて後白河法皇と対面した建礼門院は、後白河法皇から大原に誰か訪れて来ることがあるかを訊ねられると、妹たちから使いの者が来ることが稀にあるが、それ以外に誰も自分のもとまで来ることがなく、自分は今ここで亡き息子の安徳天皇や平家一門の成仏を祈っているだけと答えた。

 後白河法皇は、人生の移ろいそのものは珍しくないが、ここまで大きく変わってしまう人生を歩むのはとても悲しくつらいと哀れんだのに対し、建礼門院平徳子は自らの人生を仏教の世界観である六道と比較して語り出した。

 まずは天上道。平清盛の娘として生まれ、安徳天皇の母となるなど全てが思いのままの人生であった。今から思うとあの頃は天上界とはこのような暮らしのことなのかと思うしかないという贅沢で満ち足りた暮らしであった。しかし、木曾義仲らに追い出される形で京都を離れたことから流転が始まった。源氏物語に地名が出てくる須磨や明石を、観光ではなく船での逃避行の一環として立ち寄らなければならなくなったときに悲しみに耐えられず、天人五衰(てんにんのごすい)の悲しみがはじまってしまった。

 次に人間道。人として生きるためには数多くの苦しみがあるが、その中でも愛別離苦、すなわち愛する者と別れる苦しみと、怨憎会苦、すなわち憎い者に会う苦しみを思い知らされた。逃れたはずの太宰府では緒方惟栄に追い出されて立ち寄るところもなくなり、平清経が入水したことで悲しみが始まってしまった。

 三番目に餓鬼道。船の上で波に揺られて朝から晩まで暮らすことで、日々の食事にも事欠くようになってしまった。仮に食べ物があっても船の上には水がなかった。船から見下ろすと目の前は海水に満ちているのに飲むことはできないのだ。

 四番目に修羅道。戦いに勝って勢力を盛り返してきて希望の光が見えていたのに、一ノ谷の戦いで敗れたあとは悪夢にうなされ続けた。明けても暮れても戦いの鬨の声が聞こえ、親は子に先立たれたことを嘆き、妻は夫に別れたことに悲しみ、漁業の船ですら敵の船に見え、白鷺が松の枝に留まっているのを目にしただけで源氏の白旗に見えてしまう日々が続いてしまった。

 五番目に地獄道。壇ノ浦の戦いでもはやこれまでと、二位尼こと実母である平時子が、建礼門院の息子である安徳天皇を抱きしめて海に飛び込んでいった。そのときに安徳天皇がこれからどこへ連れて行くのかと祖母に訊ねたら、二位尼は孫の安徳帝に海の中にある極楽浄土という素晴らしい世界へとお連れしますと答えたというのが平家物語の記載であるが、建礼門院平徳子の立場に立つと、自分の母が自分の息子を道連れにして自殺したのである。おまけに、自分も後を追っての死を選んだのに死ぬことができず、命を長らえている。自分だけではなく壇ノ浦で死ぬことができなかった人達のわめき叫ぶ声は地獄の罪人のようであった。

 最後に畜生道。死ぬことができず源氏に捕らえられて都へと連れ戻され、その途中で寄った明石で、先帝と一門が昔の内裏よりはるかに立派なところに威儀を正して居並んでいる夢を見て、ここはどこかと訊ねると、二位尼の声でここは龍宮城だとの答えがあった。とても素晴らしいところのようで苦しみはないのでしょうと訊ねると、龍畜経の中に書いてあるので弔ってくださいと言われ、そこで目が覚めた。

 以上が、平家物語にある建礼門院の語った六道と人生との対比である。

 ところがこれが、源平盛衰記となると大きく様相が異なる。源平盛衰記は平家物語の異本の一つであり、平家物語の増補改訂版であるとも言える。この源平盛衰記における建礼門院の言葉は手厳しい。平家都落ちのときに後白河法皇が比叡山に逃亡したせいで平家は苦しむこととなっただけでなく、太宰府に逃れたことでこれでどうにかなるかと思っていたところで直ちに攻撃を受けたのも後白河法皇の命令があったからだとし、自らが迎えてしまった運命の苦しみ以上に後白河法皇への恨みつらみの言葉が延々と続いているのである。

 また、平家物語における建礼門院の言葉の最後に出てくる「龍畜経」であるが、このような仏教の経典は存在しない。夢の中に出てきた単語であるから実在していなくてもおかしくないが、この点に関して研究者はこのような解釈をしている。まず、源信(げんしん)の「往生要集」によると、龍族は昼夜休むこともなく三熱の苦を受けていると説かれていると書かれている。三熱の苦とは龍や蛇が受ける苦難であり、熱風の苦しみ、衣服や住まいを奪われる苦しみ、そして、鳥に食べられる苦しみを指す。夢の中で平家一門がいる場は龍宮城であると答えた後、建礼門院が素晴らしく苦しみのない場所であると訊ねたのに対する答えが「龍畜経」である。つまり、苦しみのない場所であるとは答えておらず、輪廻転生によって龍宮城に異種として生まれ変わってしまったために、異種のための特別な経典を用いることで菩提を弔うことが求められたのである。

 後白河法皇はあまりにも変わってしまった現状に嘆きながら、建礼門院のもとを去って戻っていったというのが後白河法皇と建礼門院との対面の情景である。


 既に述べたように、後白河法皇が本当に建礼門院のもとを訪れたのかどうかは、実のところはわからない。しかし、この頃の後白河法皇はまさに政治家としての命運がつきつつあるのを実感せざるを得ない状況になっていたのである。それも、源平合戦の敗者の一人に自分も加わってしまったのだという現実を目の当たりにしたために。

 源頼朝は京都の貴族たちに対して自らの意見を表明するよう促す書状を送った。それは、ここ一〇〇年近く続いてきた院政からの脱却を促す書状でもあった。そもそも院政とは何なのかという本質的な問いかけをすると、法的根拠のない権力である。源頼朝が武力で鎌倉の地に新たな権力集団を作り上げたと言っても、源頼朝自身は従二位の貴族であり、住まいが京都でないというだけで、既に存在する侍所や、後に政所へと発展する公文所といった鎌倉の地に存在する個々の組織も、従二位の貴族であれば京都の自分の邸宅に構えていてもおかしくない組織である。一方、後白河法皇の権力基盤に法的根拠はない。後鳥羽天皇の祖父であることだけが、後白河法皇の権威の基盤ではあっても、そこに本来ならば権力は存在しないはずである。

 藤原摂関政治はデリケートなフィクションであった。一つ一つの権力は律令に規定されているものであるが、権力を独占しシステム化することで皇室と藤原氏との密接な関係を構築し、あくまでも律令に基づく権力を利用して政治を執った。この概念はこの時代でも有効であり、摂政九条兼実もデリケートなフィクションを続けることで藤原摂関政治のシステムを利用する政治が可能となる。

 一方、院政については律令の規定などない。白河法皇も鳥羽法皇も天皇の父や祖父や曽祖父であることは事実でも、そこには本来なら政治的権力など存在しないはずであった。白河法皇も、鳥羽法皇も、そして後白河法皇も、自らの意見を表明することはあっても、理論上は自らの意見がたまたま朝廷の政策と一致して、朝廷の出す法となり、朝廷の執り行う行政となったのであって、命令を下したのではないのである。しかし、誰が天皇の父や祖父や曽祖父の意見に逆らうことができようか。後白河法皇の一言は、理論上はただの感想でも事実上は命令になる。強い権威が存在するからこそ明瞭な権力のないまま実質的な権力者となることができるのが院政だ。

 その院政の仕組みそのものを源頼朝は否定しようというのである。後白河法皇の権力を取り上げようとすることは平清盛も木曾義仲もチャレンジしようとした。しかし、後白河法皇は既に皇位を降りた人であり、さらに言えば出家した人でもある。何らかの責任を取らせようとしてもこれ以上の責任を取らせることはできない。そこで、平清盛も、木曾義仲も、後白河法皇を事実上の軟禁状態にすることで後白河法皇の政治介入を防ごうとした。後白河法皇の側から言うと、二度の軟禁状態から脱出することに成功したと言える。源頼朝はそのようなことをしていない。後白河法皇には行動の自由も、意見表明の自由も残している。その代わり、朝廷の貴族たちに対して後白河法皇の意見への盲従ではなく自身の意見の表明を求めたのだ。一見するととても簡単で誰も文句の言いようのない、しかし、前例を探すと見つからないことを源頼朝は求めたのである。これは後白河法皇という個人を相手とする権力闘争ではなく、院政という政治システムそのものを相手とする権力闘争なのである。しかも、源頼朝の背後にはこの時代最大の軍事力が存在している。おまけに、源義経と源行家の両名を捜索するという名目で軍事力行使が認められるようになっている。

 源頼朝が源平合戦の勝者であり、当代最大の軍事力を手にしていることがわかっているからこそ、後白河法皇は軍事的に源頼朝に抵抗しうる存在を求め、その答えとして源義経を選び、そして、源義経は身の破滅を、後白河法皇は自己の政治的基盤の崩壊を招いてしまったのだ。


 源義経の行方は未だわからずにいる。文治二(一一八六)年五月六日には京中で源義経捜索が始まったが、それでも見つからずにいる。

 文治二(一一八六)年五月一〇日、捜査の手は前摂政近衛基通、そして後白河法皇のもとにも及んだ。近衛基通が、あるいは後白河法皇が、源義経や源行家を匿っているという風聞が広まったのだ。後白河法皇にしても近衛基通にしても全く身に覚えのない話であるが、これだけの地位にある人でも捜査の手から免れることができないというアピールとしては役に立った。

 そのアピールが功を奏したのか、五月一二日、捜索対象者の一人の潜伏先が判明した。場所は和泉国。その地の在長官人の邸宅内に源行家が潜んでいることが判明したのである。ただちに北条時定と常陸坊昌明の両名の指揮する軍勢が和泉国に向かい源行家の捕縛を試みた。

 源行家は自分の隠れ家に捜査の手が及んでいることを知って背後の山へと逃れ、山の中にある民家の二階へと逃げた、と吾妻鏡にはある。この時代に二階建ての民家など考えられないこと、また、源行家の潜伏先と推定される場所の古記録によると、民家有無はともかく、その土地に近木堂という寺院があったことが推定されることから、民家ではなく寺院の二階に籠もったのであろう。

 潜伏先の邸宅から源行家がいなくなっていることを確認した北条時定らは周囲を捜索し、すぐに源行家が潜伏している建物を発見し、建物を軍勢で包囲した。

 普通なら、もはや逃げることはできないと考えるものであるが、源行家はそうは考えない。この苦境下でも逃げることはできると考え懸命に抵抗するも、逃走を図ろうとする源行家を常陸坊昌明が捕らえ、最後の抵抗もむなしく源行家は捕らえられ、翌日に捕縛された息子の源光家とともに淀の赤井河原まで連行され、そこで親子ともども斬首された。

 源行家とその息子が打ち首となったことの報告はただちに京都へと送られたが、後白河法皇は終始無関心のまま摂政九条兼実のもとに報告するように言い、九条兼実もまた自分は預かり知らぬことと返答するのみであった。

 後白河法皇や九条兼実にとっては無関心でいられることでも、鎌倉の源頼朝にとっては最高の吉報となる。源義経がまだ見つかっていないことは気がかりではあるが、厄介極まりない存在であった源行家がもういないのである。

 源平合戦における源行家は、以仁王の令旨を各地に源氏に届けるところまでは価値を持っていたが、それ以降は疫病神とするしかなかったと断言できる。源行家自身は自己の栄達を考えての選択と行動であったろうが、その全てが源氏の勢力を分散し、余計な争いを生み、失わせる必要のない命を無駄に奪っていたのである。

 源行家は首が胴体から切り離されるその瞬間まで自分のやったことに何かしらの問題があるとは思いもしなかったであろう。よく言われることであるが、組織構成における意欲の有無と能力の有無とのマトリクスにおいて、最優先で仲間に加えるべきは意欲なき有能者、仲間に加えても意味のあるのは意欲ある有能者、仲間にしても害を成さないのは意欲なき無能者。意欲ある無能者は問答無用で組織から追放せねばならない。源行家は意欲ある無能者であった。源行家の不幸は、自分で自分のことを無能者だと気づいていなかったことである。


 相変わらず源頼朝は、京都とその周辺で何が起こっているのかの情報を、当時としては最速の、しかし、現在の感覚ではかなりのタイムラグを経た状態で獲得している。

 役職は有していないものの従二位の位階を持っているので、京都から遠く離れた鎌倉であっても源頼朝のもとに京都からの公的な情報が届く。広義で捉えれば京都から日本全国に送り届ける情報が相模国鎌倉郡にも届くということでもあるが、現実的には有力者のもとに公的な情報を届けるということになる。つまり、源頼朝は朝廷からの公的な情報を黙っていても受動的に受けられる立場にあるのだが、源頼朝はそのような悠長な態度など選ばない。公的な情報を受け取ったときにはもう私的に情報を得ており、事前に得ていた私的な情報と後からやって来る公的な情報との突合をするという手間をかけるものの、どのような公的情報が届こうと泰然としている。

 文治二(一一八六)年五月一三日に京都から届いた情報もその中の例の一つと言える。この日の鎌倉に到着したのは京都市内で強盗が多発していることを伝える知らせであり、発したのは後白河法皇である。

 いかに源頼朝が京都の貴族達に院政からの決別を促す書状を送ったとは言え、また、後白河法皇が敗北を受け入れなければならないという運命を突きつけられていたとは言え、院政には一つの大きなメリットがある。議政官の審議に掛けるより早く、事実上の指令を出せるのだ。法的には退位した皇族が私的な感想を述べるだけということになっているからできることであるが、京都で起こっている問題を遠く離れた鎌倉にいる源頼朝に対して伝えるとしたならば、何だかんだ言って院宣が最速になる。

 ここまでならどうということはない。強盗多発を情報として伝えるのは当たり前だ。

 しかし、その後を読むと尋常ならざる書状となる。後白河法皇は、北条時政が京都を離れてから京都の治安が著しく悪化しているとして、北条時政に京都に戻ってきてもらうことを求めたのだ。治安回復のために比叡山延暦寺に軍勢出動を求めたが延暦寺からの回答は僧兵の派遣を拒否するというものである。言いたいことは理解できる。治安回復を考えれば北条時政が京都に居た頃のほうが良かったのだし、比叡山延暦寺からの回答も満足いくものでは無かった以上、北条時政のいた頃に戻してほしいというのは理解できる。

 ただ、後白河法皇は源義経を利用して何をしたのかを考えると、北条時政を京都に戻すという選択肢を選ぶことはできない。

 後白河法皇は独自の軍事力を欲していた。源義経は答えの一つであったが失敗した。比叡山延暦寺の僧兵に頼ろうとして失敗したとも書状に記した。しかしここで、北条時政が京都に戻って独自の軍事力を持ってくれれば、源頼朝の義父であるために鎌倉方の軍事力を期待できる上、北条時政自身は暴走するところがあってもそれなりに結果は出していたのだから、後白河院の持つ独自の軍事力として計算できる可能性もあったのだ。

 これがもし、何の前触れもなく送り届けられた書状であったならば源頼朝とて多少の動揺は見せたであろう。だが、源頼朝はそのような甘い算段の通用する人物ではなかった。後白河法皇の目論見は見抜いていたし、もっと言えば、既に情報として掴んでいたことを公的な知らせとして確認しただけである。

 源頼朝からの返答は、拒否である。

 既に一条能保を京都に送り込んでいるし、武門について言えば北条時定が京都に残っている。そして、北条時定は源行家を討伐した実績を持っている。この両名が京都に滞在し続けるほうが北条時政を京都に戻すよりも適任だと答えたのだ。


 鎌倉までやってきた静御前が、四月上旬に鶴岡八幡宮で白拍子の舞を披露したことは既に述べた通りである。

 この時代の流行の最先端である白拍子が鎌倉にいることは鎌倉の面々、特に、あまり上品ではない方面で血気盛んな男どもの興味を引き、言い寄る男が数多く現れ、白拍子の舞を見せろと言ってきたが、静御前が妊娠していることが判明した以上無理をさせることはできないと判明し、北条政子の肝いりで一度だけ鶴岡八幡宮で白拍子の舞を披露させることにした。これで文句はないだろうという目論見である。そして、以後の静御前は北条政子の影響下に置かれると決まった。

 それから一ヶ月以上を経た文治二(一一八六)年五月一四日、静御前の宿所に突然、工藤祐経、梶原景茂、千葉常秀、八田朝重、藤原邦通といった御家人たちが酒を持って現れた。彼らとて静御前が妊娠していることを知っているし、言い寄ろうとするのがいたら北条政子に睨まれることも知っている。彼らとてそれは知っている。

 忘れてはならないのは、静御前が一人で鎌倉にやってきたのではなく母と一緒にやってきたこと、そして、静御前の母の磯禅師は、白拍子を誕生させた人物であるとは断定できないものの、かなり早い段階から白拍子として活躍してきた人物であるということである。今で言うと母親が有名なタレントでその娘もタレントであるという母娘と考えていただければわかりやすいであろう。

 彼らは、静御前ではなく、静御前の母の磯禅師に会いにやってきて、磯禅師に白拍子の舞を見せてくれと頼み込んできたのだ。酒を持ち込んで。

 ここまでであれば北条政子も、いい気はしないであったろうが黙っていることもできたであろうと言える。だが、酒の勢いで梶原景茂が静御前を口説いたとあれば話は別だ。静御前は、自分が源頼朝の弟の妾であるとし、源義経が叛旗を翻してしまったせいで流浪の身とならなければあなた方などと一緒に酒の席にいることもありえないと一喝、それだけならまだしも口説こうとするなど何を考えているのかと答えたのである。

 梶原景茂は梶原景時の三男で、文治二(一一八六)年時点では二九歳である。これぐらいの世代の鎌倉武士は、自分達が源平合戦の勝者であり、自分達に敵対する存在には勝者の権限を行使できるという思いを隠せなかった。つまり、何をしても許されるという思いがあったのだ。それを静御前は否定したのである。

 この後で梶原景茂らに対してどのような処遇が下されたのかの記録は無い。ただ、お世辞にもこれで梶原景茂の評判が上がることは無かったであろう。もっとも梶原景茂個人は父と違って純然たる武人としての評価を獲得しているので、戦場限定ではあるものの、汚名返上には成功しているようである。

 なお、静御前にはこの後でもう一度、勝長寿院で静御前が白拍子の舞を披露している。このときは源頼朝の娘の大姫の懇願によるものであり、さすがに北条政子も娘の願いを無碍にはできなかったようである。


 文治二(一一八六)年六月になると、京都では源義経が潜伏している場所について様々な風聞が飛び交い、その都度、鎌倉方の軍勢による捜索を受けるという光景が展開されていた。

 九条兼実の日記によると、文治二(一一八六)年六月一日に源義経が鞍馬に潜伏しているとの風聞が広まり、事実上の官兵となっていた鎌倉方の軍勢が鞍馬寺を捜索したものの源義経の姿を見つけ出すことはできなかった。なお、このときに源義経を知っている僧侶が捕縛されている。

 六月六日には源義経の実母である常盤御前と彼女の妹が尋問され、その際に鞍馬より南にある岩倉に源義経がいるとの証言が得られたことから付近一帯の捜索が繰り広げられたが、やはり源義経を探し出すことはできなかった。

 六月一二日には源義経が京都ではなく、あるいは騒動の隙に京都から離れて大和国の宇陀に潜んでいるとの報告が入り、北条時定が軍勢を率いて大和国へ出発した。なお、このときの宇陀遠征は全くの無駄足ではなかった。

 源義経はいなかったが、宇陀には源有綱がいたのだ。

 源有綱は源頼政の孫で、以仁王の令旨による挙兵時は伊豆国にいたため乱を免れることができた人物である。反乱首謀者の孫であり、当時の平家政権の立場から捉えれば対処すべき最重要人物である。平家が大庭景親に出動を命じたときの名目も、伊豆国に配流の身となっている源頼朝ではなく、伊豆国に滞在しているはずの源有綱の捜索だ。しかし、治承四(一一八〇)年六月時点で源有綱は伊豆国から姿を消している。確証はとれないが、このあとで源義経とともに行動するようになったことから、一時的に平泉に行った可能性もある。

 その後、源有綱の名は鎌倉方の武士の一人として、いや、源義経と行動をともにする武士として名が残ることとなる。元暦二(一一八五)年五月に源義経の婿であるとして他者の持つ荘園に勝手に押し入って自分の所領とする者が現れたという記録があり、その人物が源有綱であると記しているのが吾妻鏡である。吾妻鏡の記述が正確であるかどうかはわからないが、何らかの形で源有綱と源義経が関係を持っていた可能性は高い。

 吾妻鏡の記載によると、宇陀に向かった北条時定の軍勢と源有綱の軍勢とが争いとなり、敗北を受け入れた源有綱は深山に入って自殺。源有綱とともに戦った者も北条時定に捕らえられ京都へと連行された。

 一人、また一人と源義経の関係者が捕らえられ、尋問されながら、源義経本人の消息は掴めずにいる。六月二二日時点で、仁和寺、岩倉、そして比叡山に隠れているという噂は広まっていたが、そのいずれを捜索しても源義経の姿はなかった。いったいどこにいってしまったのかという焦りと、少なくない京都市民の間で広がる源義経はまだ生きていて欲しいという願いとが交差するという、複雑な感情が醸造されてきていた。

 結論から記すと、文治二(一一八六)年六月中旬時点で源義経は比叡山にいたことが確認されている。ただし、そのことが確認されたのは七月に入ってからであり、比叡山の捜索の手が及んだときにはもう源義経が比叡山を離れた後となっていた。


 源義経を捜索するためとして各地に守護と地頭を設置する権利を得たと吾妻鏡が記しているのは文治元(一一八五)年一一月二八日のことである。それでいて、源義経の捜索は上手くいっていないどころか捜索に手間取ってしまっている。

 このときの鎌倉方の獲得したのは各地への人員配置の権利と年貢徴収の権利であるが、源義経捜索のためとして与えられたはずの権利を得ながら活用しきれていないことは源頼朝の立場を悪くするものがあった。

 その第一歩として、文治二(一一八六)年六月一七日に越前国主徳大寺実定から北条時政に対する行動停止要請があった。厳密に言うと、北条時政が越前国に派遣していた代官が国務の妨げとなっているとして越前国の政務に対する介入を拒否したのである。徳大寺実定は越前国主であるが、同時に内大臣でもある。越前国司ではなく越前国主と書いたのも、内大臣である徳大寺実定が越前国を知行国としているからである。従二位源頼朝の義父であるということ以外に権威を持たない北条時政は無論、源頼朝ですら太刀打ちできない貴族としての権威を持つ人物の介入があった以上、この介入は受け入れるしかない。

 一度でも介入を受け入れると、次から次へと介入を受け入れなければならなくなる宿命を持つ。特に、貴族としての地位を基盤として鎌倉の地で権力を築いている源頼朝であるため、同じく貴族としての地位を前面に掲げると源頼朝とて受け入れなければならなくなる。しかも源頼朝は院政からの決別を貴族達に訴えているため、必然的に院政の前の時代である藤原摂関政治への回帰を目指すこととなる。つまり、藤原摂関政治の枠内で行動する限りでは源頼朝が一人の貴族でしかなくなるというアピールをしなければならない。

 その動きのピーク、あるいは藤原摂関政治の復権をイメージづける宣言は七月七日に下された。六月一七日は越後国だけであったが、七月七日は全国が対象である。鎌倉方が人員を配備し年貢を徴収する権利を有するのは、かつて平家の土地であった場所、ならびに源義経や平家の落人などの国家反逆者が潜んでいる場所に限るとし、その他の土地に関する人員配備の権利と年貢徴収の権利を源頼朝の側から返上したのである。その多くは藤原摂関家の土地であることから、これにより藤原摂関家は治承三年の政変以降に失っていた所領の多くを荘園として取り戻すこととなり、資産を取り戻すこととなったのである。なお、後白河院については所領を取り戻すことができずにいる。後白河院の所領を遡ると治承三年の政変の原因となった平家の所領や藤原摂関家の所領であり、平家の所領については引き続いて鎌倉に人員配備と年貢徴収の権利が存在し、藤原摂関家の所領については九条兼実をはじめとする藤原摂関家のもとに戻されている。

 ただし、藤原摂関家の側としても一時的な権利と資産の回復となったものの、切実な問題があった。そもそも藤原摂関政治のピーク時のように藤原摂関家でどうにかできる武士などいなくなっていたのだ。当然だ。そうした武士達をまとめ上げて作り上げた勢力が鎌倉であり、そのトップが源頼朝なのである。武士が藤原摂関家をはじめとする有力貴族からかつてのように所領を守るよう依頼されたとしても、今やもう藤原道長の頃のように貴族の言葉一つで武士が喜んで動くような時代ではない。武士に荘園を守ってもらうためには、源頼朝に頼むしかないのだ。

 名目は源頼朝のもとから各地の荘園や公領に人員を配備する権利も年貢を徴収する権利も失われた、いや、源頼朝のほうから返上したことで藤原摂関政治の土台となる貴族の荘園と資産が復活した。しかし、その荘園を守り資産を取り戻すために必要な武力を源頼朝に頼んで派遣してもらわなければならない、つまり、今まで通りのままとなったのである。越前国で徳大寺実定が北条時政の送り込んだ代官を黙らせることに成功したのは極めて限られた例外とするしかないのだ。


 源頼朝はこの空気感の漂っている京都に一人の人物を送り込むことに成功した。文治二(一一八六)年七月一二日、中原広元、上洛。このときは公文所のトップとして鎌倉方の事務方を統括し、後に政所別当となる人物の上洛は、武力ではなく、事務能力と弁論の力による貴族への対策を示すものであった。

 中原広元の兄の中原親能は鎌倉と京都とを頻繁に往復してきた人であるが、中原広元の上洛はこれが最初である。いや、中原広元は京都生まれ京都育ちであり、鎌倉の源頼朝のもとにいたのも京都を離れて鎌倉に到着したからであり、それからずっと鎌倉にいたというのがこれまでの経歴だ。このときの上洛ははつの上洛ではあるが、厳密に言えば故郷への帰還とも言える。

 とは言え、この人がただ単に里帰り目的で京都にやってきたわけではない。このときの鎌倉が用意できる、鎌倉にとっては最善の、京都にとってもは最悪の切り札だったからである。

 通常の上洛であれば貴族をはじめとする上流階級の歓待を受けるものであるし、それで気分を良くして翌日からの務めに上流階級の面々へ多少なりとも手心を加えることも珍しくないが、この人には全く通用しない。生真面目で融通が利かないというより、自分の信念を強く信じているために歓待で動かすことができないのだ。

 実際、京都に到着した中原広元が手を付けたのは、平家没官領、ならびに木曾義仲の保有していた所領のうち平安京内にある土地の一覧の作成と、源頼朝宛の書状の作成である。その書状が吾妻鏡にそのまま残されているが、まるでコンピュータの表計算ソフトで作ったのではないかと勘違いしてしまいそうな、事務的で何の感情もこもっていない、ただの一覧である。

 さらにこの人は、源頼朝からの密命を着実にこなすだけでなく、源頼朝に最大の利益が出るように策を巡らせて平然としている人である。源頼朝からしてみれば、命じた以上の結果を出すことが期待できると同時に、相手に同情したくなるレベルで相手へのダメージを与えるのが中原広元という人だ。

 その成果は七月一五日に示された。後白河院、前摂政近衛基通、現役の摂政である九条兼実との間の所領争いにおいて、それまでの源頼朝の意見を白紙撤回して近衛基通が所領を相続するとしたのである。一見すると院の意見を受け入れた上で源頼朝の主張を白紙撤回したのであるから源頼朝の降伏であるかのように感じる。だが、院政の否定に対する解として藤原摂関政治の復興を挙げた源頼朝ではあるものの、藤原摂関政治のピーク時の頃のように圧倒的勢力が構築されるのを黙って見ているわけにはいかない。院政を牽制できるだけの勢力があればいいのである。

 近衛基通が父の所領を継承したことで九条兼実のもとから荘園の所有権が切り離されて近衛家のもとに渡ったわけである。これまでの藤原家は、内部でどんなに争いを繰り広げていても外に向かっては藤原氏として一枚岩になっていた。だが、これを期に同じ藤原氏でありながら近衛家と九条家とが完全に分離することとなったのである。公卿補任には藤原が姓として記されるものの、もはや藤原氏としての統一体ではなく藤原氏ゆえに手にできる権利を争う関係がここに誕生したのである。しかも、近衛家を後白河院が推しているために九条家は院に対抗しうる勢力として鎌倉方への接近を図らねばならないのだ。裏を返せば、九条家を通じて鎌倉方が朝廷の中枢に食い込めるようになったのである。しかも、理論上は源頼朝の主張が白紙撤回された結果として。


 源頼朝は、前年に獲得した権力とアイデアが白紙になったのに、藤原摂関家の勢力が弱まったのに、院政に対する牽制が成功してしまったことを知って苦笑した。

 ただ、中原広元の暗躍による京都の勢力争いについては苦笑しても、未だ見つからぬ源義経の所在については苦笑できなかった。

 ただ単に見つからないのならばまだいい。源義経が現時点でいる場所はわからないのに、ほんの少し前までいた場所ならばわかる。つまり、源義経の所在を知っている人が多くいて、鎌倉方の捜索の手から源義経を隠すのに協力しているわけである。これが京都近郊における源義経への庶民感情なのだ。京都から離れたら源義経は拉致も略奪も容赦なく繰り返してきた悪人なのに、京都に近ければ近いほど源義経はヒーローと扱われる。そのヒーローを追い詰める鎌倉方は悪の権力者であり、受け入れるのではなく反発する対象なのだ。

 源義経とともに行動していた侍童が捕縛され、源義経が少し前まで比叡山にいたが今はもうおらず、北条時定の主導する捜索隊の派遣は源義経が比叡山を離脱したあとになっていた。

 そうした中、北条時定に公的な権限が与えられた。文治二(一一八六)年七月一八日に左兵衛尉に任命されたのである。朝廷の正式な武官となったことで、北条時定が主導する捜索は鎌倉方の捜索ではなく国の正式な命令に基づく軍事行動となったのである。これにより、源義経を匿うこと、また、逃走の手助けをすることは、鎌倉方への反抗ではなく国家反逆罪に問われる行為であると認定されたのである。なお、正式に任命された日付は不明であるが、この年の九月に北条時定が検非違使としての行動を見せた記録も残っているので、左兵衛尉に任命された前後のあたりで検非違使の一人に就いた可能性もある。検非違使ならば警察権と検察権と司法権が加わるから、捕らえた犯罪者、今回の場合は源義経本人と、源義経を匿い、また、源義経を逃すのに協力した人を逮捕するだけでなく有罪宣告することも北条時定には可能となったのである。

 文治二(一一八六)年七月二五日には、自称源義経の「一の郎党」である伊勢義盛の身柄が拘束されたが、伊勢義盛から源義経の在り処を答えさせることはできなかった。もっとも伊勢義盛は源義経が遭難したときから離ればなれであり、それから現在まで源義経と連絡が取れずにいるという答えであったのだから、在り処を答えることができなくてもやむを得ない。なお、このあとで伊勢義盛は斬首となっている。

 文治二(一一八六)年という年は、太陰暦では一九年間に三回ある閏年のうちの一年である。現在の閏年は二月に二九日目が追加されるが、太陰暦の閏年は月が追加される。この年は七月のあとでもう一回七月が繰り返される。この時代の日記や後世の記録だともう一回繰り返す七月のことを閏七月と記している。この文治二(一一八六)年の閏七月になると源義経に対する動静に一気に進展が見られるようになった。と同時に源義経の側も鎌倉方の捜査について把握できるようになっていた。源義経と一緒に行動していた侍童が捕縛されたのはすでに記したとおりであるが、当初は源義経が比叡山にいたという供述であったのに、月が変わると延暦寺の誰が源義経を匿っていたのか、また、その他の寺院等では誰が源義経の支援者となっていたのかの供述が出るようになり、その規模が想像以上に広いものであることが示されたのだ。

 文治二(一一八六)年閏七月一七日、摂政九条兼実より、源義経を匿い、源義経の逃亡に協力する僧侶を捕縛するよう命じる宣旨が北陸道各国と近江国に対して下されたが、その宣旨はさほどの意味を有さなかった。宣旨が出る前に源義経の協力者とみなされていた僧侶たちはとっくに逃亡していたのである。

 なお、詳細な日時は不明であるが、九条兼実は閏七月に、嫌がらせに近い一つの指令も出している。源義経の名を源義行(よしゆき)に変更するという指令である。これは、九条兼実の息子である九条良経と同じ読みであることからの変更指令であるが、この指令がどこまで意味があったのか疑わしい。そのことは、本人に改名指令が届いていないこと、そして、九条兼実は義行(よしゆき)からさらに義顕(よしあき)へと改名させる指令を出していることからも読み取れる。


 自分の名が改名させられたことを同時点で知らなかったと推測される源義経であるが、自分に関係する悲劇についてもやはり同時点では知らなかった可能性が高い。

 その悲劇とは、静御前の産んだ子である。

 源頼朝は、静御前の産んだ子が女の子であれば乳児を静御前に託して何もせずに京都に帰すとしていたが、産んだ子が男児であった場合は由比ヶ浜に埋めるとしていた。捨て子となるのではない。埋めて殺すのだ。

 そして、静御前の産んだ子は、男児であった。

 殺害が決定してしまったのだ。

 反乱の芽を摘み取るという措置であるというのは、同意はできないが理解はできる。平治の乱の直後、生まれて間もない牛若、後の源義経を生かしておいたことが、周り回って平家滅亡へとつながってしまったことを知らない者などいない。その理屈を適用すれば生まれて間もない男児を殺害するのも理解はできる。しかし、いくら理解ができるといっても、源頼朝のこの決定はあまりにも残酷にすぎる。実際、北条政子は夫のこの指令に猛反発している。

 通常であれば、いかに源頼朝の指令であろうと北条政子の反発があるなら和らぐところである。だが、このときばかりは違った。源頼朝は妻が何と言おうと静御前の産んだ子を殺害するように命令した。

 文治二(一一八六)年閏七月二九日、源頼朝の命令を受けた安達清経は、静御前のもとから生まれたばかりの男児を引き剥がそうとし、源頼朝を恐れた静御前の母の磯禅師も静御前から男児を引き剥がすのに加勢したために静御前は我が子を抱きしめ続けることができなくなり、生まれたばかりの男児は見殺しにされるために誘拐されることとなってしまった。

 吾妻鏡が記しているのはここまでである。この後で男児がどうなったのかを記す直接的な記録はない。そして、吾妻鏡以外の史料のどこを探しても、静御前のことも、静御前の産んだ男児のことも記されていない。つまり、この悲劇が本当のことでない可能性もある。

 とは言え、このときの源頼朝を、いや、それよりも前からの源頼朝の性格や行動を考えると、吾妻鏡に記したような悲劇は、本当に静御前の子に対して下された処分であったかどうかはともかく、鎌倉方の敵とされた人物に、そしてその関係者に下された処分として通常の光景であったろうとするしかない。源義経の子であったとされるために悲劇性は高くなるが、源義経の子でなくとも同じような悲劇に見舞われた人、そして、その悲劇に耐えなければならなかった人は鎌倉では珍しくなかったとするしかないのだ。

 そう言えば、「平家の公達」という言葉は人口に膾炙されていても、源氏にそのような言葉は見当たらない。源氏に貴族が少なかったのではなく、源氏の血を引く者の絶対数が少ないのだ。仮に静御前の子を生かしていたなら、そして、その他の源氏の血を引く者を生かしていたならば、後の承久の乱に至る一連の混乱は生じなかったであろうと推測できるのだ。歴史を語るにおいて厳禁とされるIFの話ではあるが。


 文治二(一一八六)年閏七月、吾妻鏡の記述に従えば静御前に生ませたばかりの我が子が殺された頃、源義経は南都、すなわち奈良にいたという。また、南都においても多くの人が源義経の逃亡を手助けしたともいう。ただし、確証は無い。確証がないのは当然で、逃避行を続けているというのに自分の所在を残すようなことをする者などいない。

 源頼朝は武将としては無能であるし、一人の武士としても貧弱であるが、有能な政治家でもある。冷酷極まりない所業を平気でこなしているし、実の兄弟であろうと討ち取ろうとしているが、単に恐怖だけで鎌倉方の武士達をまとめていたわけではない。敵に対しては容赦ないが、味方に対しては手厚く保護する。ここまではどんな執政者や権力者も変わらぬ所業であるが、味方であると断言できないものの敵ではないとは断言できる人たちに対する所業となると、大きく異なる。味方以外は敵とするか、敵以外は味方とするかである。平清盛も、平清盛をはじめとする平家の面々も、木曾義仲も、そして源義経も、味方以外は敵とする人であったのに対し、源頼朝は敵以外は味方であると遇する人であった。しかも、かつては敵であったが今は味方となった人に対しても例外ではなかった。

 それは、平家都落ちの際に帯同せずに鎌倉へと向かい、源頼朝の元に降った平頼盛とその子供たちが特に顕著であるが、その他にも平家の面々でありながら鎌倉方の一員として活躍している者がいる。

 また、名前からすると平家の一員に思えるが、平を姓とするものの平家の一員ではない平康頼も源頼朝の厚遇を受けた人物でもある。もっとも、平康頼の場合は鹿ヶ谷の陰謀に参加するなど反平家の動きを早くから見せていただけでなく、源頼朝の父の源義朝の墓が荒れるがままになっていたのを見かねて修理して弔ったという経歴があるから、特別と言えばそれまでであるが。

 文治二(一一八六)年八月一五日には、東大寺の復旧工事のために奥州で砂金を求めていた佐藤義清、いや、ここは出家後の名称である西行と記載すべきか、その僧侶を源頼朝は鶴岡八幡宮で歓待している。これにより、源頼朝は奥州藤原氏と奈良東大寺という二つの勢力との接近を図り、敵ではないために味方であるとする前提で関係を構築している。

 また、これは意外とするしかないのが、平治の乱の後で源義朝を尾張国で討った二人、すなわち長田忠致とその息子の長田景致の親子を源頼朝に仕える身となることを許している。父を殺害した当事者を家臣に加えていたのであるから一見すると異常事態に見えるかもしれないが、長田忠致は源義朝を討った功績として壱岐守に任じられたところ、自分の功績に見合うのは美濃国か尾張国であると不満を漏らして平家と訣別し、源義朝を討ったことを悔いつつ源頼朝のもとに加わり、鎌倉方の一員として戦場に立ったのである。そして、源頼朝はこの父子の願いを受け入れただけでなく、文句なしの功績を見せたならば望んでいた美濃国か尾張国の地位を与えるとしたのである。これは源頼朝の寛大を示すアピールとしてかなり有効であった。なお、このアピールはのちに冷酷な、しかし、そこまで利用しつくした源頼朝を誉めるしかない結果を生み出しているが、それはその日時を迎えたときに記す。


 政治家としての源頼朝は、有能ではあっても冷酷である。そして、支持率となると、特に農村部で高いものがあったとするしかない。源義経を捕縛しようとしているために都市部では源頼朝に対する不平不満もあったが、農村部ではそのような感情は生じなかったと言える。

 その年の収穫がどれぐらいになるかを予測するのは旧暦八月頃である。鎌倉時代の耕作として二毛作や二期作が広まったことを歴史の授業で習った人は多いであろうが、この頃はまだ二毛作も二期作も一般化していない。文治二(一一八六)年八月の記録を調べると、収穫が好調になると見込まれることの記録が出てくるのだが、それは二期作でも二毛作でもない。

 源平合戦で夥しい血が流れ、平家が壇ノ浦に沈んだのはあまりにも大きすぎる犠牲だ。しかし、その犠牲を生み出した結果であっても平和を取り戻したというのは、収穫において、いや、全ての産業においてプラスに働く。戦争と平和とを正義という観点や崇高な理念という観点から捉えるのではなく、純然たる経済の視点から捉えると、平和の方が儲かるという結論に至る。何が儲かるといって、戦争をしないことほど儲かるものはない。騒動はあっても大きな合戦はなく、田畑が戦場になることも、耕作者が戦場に連れていかれることも、略奪の被害に遭うことも無くなるだけで豊かな暮らしが取り戻せる。農村部で源義経に対する同情の感情を抱く者は少ない。農村部における源義経は産業の破壊者であり、その源義経を捕縛しようとしている源頼朝は悪に対する正義の存在にすらなる。前年の守護地頭の設置権、すなわち土地に人員を配置し年貢を取り立てる権利が源頼朝に与えられたことで税負担が増えることとなったことは納得し難いが、平和を取り戻したことで収穫が増えることを考えるならば、源頼朝以前の方がマシだという感情は生じない。

 文治二(一一八六)年八月は日本全体が平和を満喫できた時期であったと言える。

 しかし、九月に入ると風雲急を告げるようになる。

 源義経をめぐって鎌倉と興福寺との対立が顕在化するようになったのだ。それこそ、大和国が戦場になりかねないほどの対立だった。

 静御前とその母の磯禅師の両名が鎌倉を発って京都へと向かった四日後の文治二(一一八六)年九月二〇日、京都に隠れ住んでいた源義経の郎党の堀景光が、鎌倉方の御家人である糖屋有季に捕縛されたのだ。これだけならば源義経の家臣の一人が捕らえられただけの話であるが、堀景光の供述から、源義経が奈良の興福寺に潜んでいたこと、そして、堀景光が京都にいたのは源義経の使いとして藤原範季と連絡を取るためであったことが発覚したのである。

 藤原範季は藤原を姓としているが藤原北家の人間ではなく藤原南家の生まれであり、官界に身を投じたのも家柄ではなく文章得業生として大学寮で学問を修めた結果である。官界に身を投じてからは出世を重ねて貴族入りし、各地の国司を勤め上げつつ、平家とのコネクションも築いて平清盛の姪である平教子を妻として迎え入れていた。

 ここまでであれば平家とつながりのあるものの、平家都落ちに帯同することなく京都に残った数多くの貴族のうちの一人ということになっていたが、三つの点でこの人と源義経とが連絡を取り合っていたことは大スキャンダルとなる話になったのだ。

 まず、藤原範季は摂政九条兼実の有力な家司である。藤原摂関家の分裂に際し鎌倉方を選ぶことで近衛家との対立を打ち出した九条家が、よりによって鎌倉方の捜索している源義経とつながりを持つ者を家司としていたのである。

 二番目に、藤原範季はかつて鎮守府将軍として陸奥国に下向した経験があり、その際に奥州藤原氏とのコネクションを築くことに成功している。

 三番目、そして一番大きな問題点、それは、平治の乱の後で源範頼を引き取って養育していたことである。源範頼にとっては第二の父とも言える人物であったのだ。

 源義経が九条兼実と奥州藤原氏と源範頼との間につながりのある人物と連絡をとりつつ、奈良の興福寺に潜んでいる。これを全て、鎌倉方に悟られることなく続けていたのであるから、これをスキャンダルと呼ばずに何と呼べば良いのか。しかも、秘匿のターゲットとなっているのが、情報の重要性を熟知し、誰よりも情報系統の確立に専念してきた源頼朝だというのだから、二重の意味で驚愕である。

 鎌倉方は、京都に派遣されていた比企朝宗を先頭に軍勢を奈良へと差し向けると同時に、堀景光の供述で明らかとなった源義経の家臣の潜伏先の捜索に入った。

 翌文治二(一一八六)年九月二一日、源義経の家臣の一人である佐藤忠信が、潜伏先である中御門東洞院で自害。吾妻鏡によると、かつての恋人で今では人妻となっている女性に手紙を送ったことから潜伏先が見つかり、襲撃を受けた末に多勢に無勢であることを悟って自ら死を選んだという。

 同日、比企朝宗の率いる軍勢が、興福寺の聖弘の房に入り源義経を突き出すように求めるも、既に源義経は東へと逃亡したため興福寺にはいないことが判明。源義経を匿っていた興福寺の聖弘は捕縛されたが、鎌倉方のこの処置に対して興福寺の関係者は激怒し、一触即発の事態へと発展した。


 京都とその周辺とで文字通りの一触即発の事態へと発展していた一方、鎌倉でも一触即発の事態になりつつあった。もっとも、鎌倉における一触即発とは比喩的な意味である。

 鎌倉で何が起こっているかというと、荘園領主からの訴えが殺到してしまい、源頼朝が紛争の解決に忙殺される事態になってしまっていたのである。文治二(一一八六)年一〇月一日には、源頼朝は下文を一日で二百五十二枚も出したという記録がある。

 制度上、鎌倉における司法は問注所が担当しており、問注所のトップである問注所執事には三善康信が就いていた。政所も侍所も一廉(ひとかど)の貴族であれば組織として構えておくものであり、源頼朝も従二位の貴族として侍所を設置していたし、後に政所とする前提で公文所を置いている。例えば近衛家には近衛家の侍所や政所があるし、九条家には九条家の侍所や政所がある。より位階の低い貴族の場合はその貴族のもとに侍所と公文所が存在する。しかし、問注所という組織は鎌倉における画期的な組織であり、他で見られることはない。問注所の役割を果たす機能を内部で保持する貴族ならばいたが、鎌倉における問注所のように侍所や政所から距離を置いた上で、常設で司法を担当する独立した組織を構築した貴族はいないのだ。問注所の役割、すなわち、司法判断が必要となるたびに司法判断を下す機構を設置するのが通例であり、常設である鎌倉は異例なのである。

 問注所を独立した常設の組織として構築したのには理由がある。鎌倉では所領争いを巡る訴訟が多発していたのだ。鎌倉の御家人の所領をめぐる争いの多さは組織のトップである源頼朝の政務の大部分が所領争いの対応になることを意味する。

 そこで問注所の出番となる。この時点の問注所は後のように最終的な司法判断の組織となったのではなく、問注所執事である三善康信がまずは判断を下し、源頼朝が三善康信の判断を参考にして最終的な結論を下すという仕組みだ。所領争いにおける源頼朝の下す結論は鎌倉方の武士達に最終決定であることの共通認識ができていたし、その内容の客観性についても同意が得られていた。

 問注所の常設により源頼朝の日常の政務から所領争いの仲裁を軽減させることに成功したのであるが、それでもあくまでも軽減であって無くなったのではない。三善康信は問注所の執事として、鎌倉方に発生する様々な訴訟や仲裁について適切な判断をして源頼朝に送っていたものの、それが一日で二百五十二枚の下文発給という、現在のビジネスパーソンでも滅多に見られない過労がやってきたのだ。

 源頼朝は根本的な改善に乗り出さざるを得なくなっていた。

 武士達が問注所に訴え出るのは、それだけ所領を巡る争いが多いからである。

 これに対する根本的な解決策は一つしかない。

 所領争いが必要と無くなるレベルで鎌倉方の武士達の争いの芽を摘むことである。尋常ならざる下文発給量から七日後の文治二(一一八六)年一〇月八日、諸国謀反人跡、すなわち、平家や木曾義仲や源義経に関係する所領以外に対する地頭の干渉を停止するとの宣言を下した。吾妻鏡が守護地頭の設置としてきた権利を獲得した根拠は、謀反人である源義経の捕縛のためである。


 北条時政に代わるために一条能保が京都に送り込まれたのち、一条能保が京都で調査をし、一条能保がまとめた調査結果を鎌倉に送り、鎌倉の源頼朝から京都の一条能保へと返信を送る。つまり、鎌倉と京都とを情報が二往復することとなる。いかに源頼朝がこの時代では群を抜く情報網を構築していたとしても、現在のようにリアルタイムの情報のやりとりとなるわけではない。

 細かな記録を残しているように見える吾妻鏡であるが、当時の貴族の日記をはじめとする他の記録が残っているのに吾妻鏡には記録が無いというケースは珍しくない。それでも他の記録があるならまだいいが、他に記録が無いのに、他の出来事から確実にこの頃にあったはずと推測するしかない歴史的出来事もある。

 日時を追いかけると文治二(一一八六)年の一〇月中旬に一条能保から鎌倉に情報が届き、その回答が京都へと送られたのが一〇月末か一一月のはじめとするしかない。

 何が起こったのか?

 まず、公卿補任を追いかけると文治二(一一八六)年一〇月二九日に大臣の人事変更があったことの記録が残っている。摂政右大臣九条兼実が、右大臣を辞職し摂政専任となる。後任の右大臣は内大臣徳大寺実定、徳大寺実定の右大臣昇格によって空席となった内大臣には、九条兼実の長男である権大納言九条良通が昇格した。これだけを見ると別にどうと言うことは無い。時期的にも年末を控えていることから人事異動が起こる頃であるし、大臣兼任の摂政が大臣を辞任することも通例であるから特筆するほどのことでもない。

 だが、それから日をさほど置かない一一月二日に藤原範季が木工頭と皇后宮亮を解任させられたことを考えると、不可解という感想しか出てこなくなる。理論上は大臣の玉突き人事の影響が下部まで至ったということであるが、前述の議政官の面々を見ても前述の三名以外の記録が無い。大臣の人事変更の差異に朝廷組織全体の人事の見直しをするのは通例であるし、下部にまで波及するのに数日を要するのも通例であるが、大臣の人事から途中経過がなくいきなり下部の人事変更が発表されるとなると、異例とするしかない。なお、この際に藤原範季は賢明に弁明に努めたとあるが、弁明の甲斐無く解任が決まったという。

 これだけであれば、藤原範季が源義経と内通しているという情報が一条能保から源頼朝のもとへと届き、源頼朝から届いた指令に基づいて藤原範季が罷免されたと考えればいいだけであろう。

 だが、源頼朝から正式に朝廷に書状が届いたのは一一月五日になってからなのだ。そして、その書状ではじめて、源頼朝は、藤原範季が源義経と内通していた、あるいは現在進行形で内通していることを知っていることが公表されたのだ。つまり、一一月二日時点ではまだ、藤原範季がどういう理由で解任となったかは公表されていなかったのである。一一月五日になってから、源頼朝の書状に基づいて藤原範季が解任されたというのならばまだいい。しかし、その前に藤原範季が解任されたとなったらどうなるか?

 藤原範季以外に源義経と接点を持つ者、あるいは、本人は接点を持ってはいないものの誰が接点を持つかは知っている者にとっては不気味極まりない。鎌倉に悟られぬように秘匿しつつ行動しているはずなのに、ある日突然、秘密が秘密であるまま、秘密に関係している人が処罰されるのだ。あくまでも大臣の人事変更の延長として。

 しかも、そのトップに君臨している人物は京都にいないのだ。平清盛のように京都と目と鼻の先の六波羅にいるわけでもなければ、京都から二日もあれば移動できる福原にいるのではない。この時代の常識では片道でも半月を要する遠く離れた相模国鎌倉にいるのだ。その鎌倉にいる源頼朝が京都を監視している。

 これを不気味と呼ばずに何と呼ぼうか。


 京都で起こっていたのは、位階は持っていても役職は持っていない、すなわち公的には権力を持たないはずの源頼朝に対する忖度であった。源頼朝に率先して従うことが自分の生き残る方法であり、少しでも源頼朝に逆らうこと、具体的には平家の残党や源義経に対する協力的姿勢を見せることを慎むようになったのだ。

 その一つのピークとなったのが文治二(一一八六)年一一月一八日のことである。公卿らが集まって会議を開催し、源義経の捜査の強化を議決すると同時に、追討がスムーズにいくようにと寺社への奉幣をすることが決議されたのだ。この会議に参加した貴族は源頼朝に逆らう貴族ではないという公的なアピールとなり、源頼朝の監視から逃れることができるという安堵も獲得したのである。あくまでも一時的な安堵であり恒久的な安堵とはならないが、平家政権以後は恐怖を伴う監視をする権力が通例となっている中、貴族達のあいだでは権力者に逆らわないことがもっとも簡単で有効的な延命策であるというコンセンサスが成立していたのである。

 貴族達の間には源頼朝に逆らわないことが延命策であるというコンセンサスが成立していたが、このコンセンサスに乗ることのできない人物が二人いる。もっとも、貴族達とは記したが、そのうちの一人は貴族ではない。

 コンセンサスに乗ることのできない人物の一人は、後白河法皇である。保元の乱からのらりくらりと政界を渡り歩き、平家政権下でも、木曾義仲の占領下でも、最悪期こそ幽閉の身となりながらも最終的には権力者の地位に舞い戻っていた後白河法皇であるが、このときはさすがに第一線から離脱していた。平家物語の記載によれば、大原の建礼門院のもとに足を運ぶなど権力を喪失したことを受け入れたはずの後白河法皇であるが、それでも隙あらば源頼朝に対抗することを画策し続け、上手くいけば北条時政を自派に招き入れることもできるのではないか、それにより鎌倉方の勢力を弱めると同時に自派の勢力の再興隆が果たせるのではないかと考えていた。しかし、鎌倉にいるはずの源頼朝の視線が京都に届いていることを受け入れた後白河法皇は、ここで再び沈黙へと戻ることとなったのである。文治二(一一八六)年の一一月以降の後白河法皇については、どこに行幸したかの記録ならばあっても政治的なリーダーシップを発揮した記録は見当たらない。

 そして、コンセンサスを受け入れることのできないもう一人の貴族、それが他ならぬ源頼朝である。京都の貴族達は、源頼朝は恐怖によって権力体制を構築していると感じていた。もし源頼朝が平凡な独裁者であれば自らの得ている恐怖心を権力構築と拡充に利用したであろう。だが、源頼朝は超一流の政治家である。超一流の政治家は、仮に恐れられたとしても恐怖心をむやみに利用したりはしない。恐怖を利用するのは自らの支持率を高め政権の安定に寄与するときだけである。

 源頼朝は自らが獲得していた権利の放棄を京都に伝えたのだ。その権利こそ、荘園に人員を配置することと荘園から年貢を徴収することである。例外は平家や源義経の保有していた所領だけであり、その他の土地に対する地頭の介入を禁じるとしたのだ。これは荘園を抱えている貴族達にとって何よりの僥倖だ。自らの権利が侵害され収入源も絶たれたと実感していたところで、権利の侵害も収入の断絶も無くなったのだ。これで喜ばない貴族がいたとしたらそのほうがおかしい。

 ただし、少し考えると権利の放棄については二点の裏が見えてくる。一点目は、源頼朝が権利を放棄したのは、自らに来襲する訴訟の増大を食い止めるためである。鎌倉の御家人達が所領に関連すればするほど、源頼朝に集中する訴訟が増えていく。訴訟を減らすには御家人達が関連する所領の絶対数を減らすことだ。源義経はそれまでの源平合戦において、功績に対する見返りとして御家人達に所領を与えたが、与える対象はあくまでも平家の所領や源義経らの所領であった土地に限るとしたことで所領の絶対数を減らし、訴訟数を減らすことに成功したのだ。御家人達には不平不満もあったろうが、罪なき貴族の荘園を奪うわけにはいかないという正論と、源頼朝に反発したらどうなるかという現実とが、御家人達の不平不満を鎮静化させたのだ。

 さらに考えねばならないのが二点目である。源頼朝が権利の放棄を決定したのが文治二(一一八六)年一〇月八日である。一方、吾妻鏡によると権利の放棄の記録は文治二(一一八六)年一一月二四日に記されている。吾妻鏡には一〇月八日に発令された太政官符が鎌倉に届き、源頼朝の決断が一一月二四日に下されたとなっている。しかし、時系列的にはおかしい。そもそも源頼朝にしては時間が掛かりすぎている。だが、こう考えれば辻褄が合う。源頼朝はもっとも効果的なタイミングで京都に権利の放棄を伝えたのだ、と。恐怖心を和らげて自らへの支持を増やす時に効果を発揮するのは、事前に予想されていることに応えるのではなく、相手が喜ぶであろう全く予期していなかったことをいきなり発表することなのだから。


 結果はどうあれ、少なくとも京都の貴族達の間では、源義経に対して公然と協力するという光景が消失した。ただし、既に一年以上にも亘って動静が不明となっている源義経の在り処についての情報もまた、増えるどころか完全に消失した。タイミングが悪かったか、あるいは、源義経のほうが源頼朝の裏をかいたとすべきか。文治二(一一八六)年一一月二五日には源義経捜索を命じる宣旨が機内と北陸道諸国に対して下されたが、それでも源義経の所在を見つけ出すことはできなかった。いや、既に源義経ではなく源義行と改名させられ、源頼朝が権利の放棄を宣言した一一月二四日、すなわち、宣旨が下された前日には源義行からさらに源義顕を改名させられたから、ここは源義顕捜索を命じる宣旨とすべきか。

 もっとも、いかに朝廷から改名を命じられたとは言え、また、鎌倉幕府の公式史書である吾妻鏡には源義経ではなく、源義行、あるいは源義顕の名で登場することもあるとは言え、源義経のことを改名後の名前で呼ぶことは極めて乏しかった。当の本人のもとには改名の命令が届いているわけではないのもあるが、吾妻鏡を含む当時の記録も、源義経、あるいは、源義経が最後に就いていた役職である伊予守、また、伊予国の異称である予州というのが、源義経に対する名の記し方である。

 文治二(一一八六)年末から年が明けた文治三(一一八七)年一月にかけては源義経の消息が不明となっている代わりに、少しでも源義経と関係があるとされた貴族が追放されたり罷免されたりする状況が続いていた。多少なりとも叛旗の兆しを見せる者を敵として扱い、少しでも怪しい兆しを見せたら密告によって身の破滅を迎えるというのは、古今東西例外なく監視を張り巡らせる恐怖政治によく見られる光景であり、このときの京都も同じような事情が起きていたと言える。ここで密告を奨励して締め付けを厳しくするのが、無能な執政者が頂点に立って展開されるごく普通の恐怖政治であるが、源頼朝はそのような無能者ではない。

 するとどうなるか?

 源義経に接点を持っているとして勝手に展開されている恐怖政治によって追放された貴族が、他ならぬ源頼朝によって解除されることもあるのだ。検非違使であったために源義経と接点があったとされた平知康がその例である。勝手に繰り広げられている恐怖政治によって京都から追放されたが、その平知康に手を差し伸べたのが他ならぬ源頼朝なのだ。追放されたのならば鎌倉に来れば良いとして招き寄せただけでなく、追放処分自体が不条理であるとして後白河法皇と権大納言吉田経房に対して処分再考を促す書状を書き送っている。なお、平知康は姓こそ平であるが平家ではなく、源頼朝挙兵時は鎌倉方の一員と見なされて平家方から討伐対象と扱われている。

 源頼朝の与(あずか)り知らぬところで勝手に京都で恐怖政治が繰り広げられ、源頼朝の敵と扱われたために京都から追放されたら、よりによって源頼朝に招かれて鎌倉に行くこととなったのである。普通に考えると、これで京都の政界は混乱を極めることとなったであろう。ところが、政界は特にこれといった混乱を見せなかった。理由は単純明白で、恐怖政治ということで互いが互いを監視しあっていてくれるなら、余計なことに口出す無能どもが黙っていてくれるのだ。

 文治元(一一八五)年一二月六日の源頼朝の提案を受け入れる形で、同年一二月中に右大臣九条兼実を中心とする合議体制が成立していた。その合議体には源頼朝が認めた面々のみが参加し、日常の政務について討議を繰り広げ政務を遂行していた。藤原摂関政治のピークである藤原道長の時代、すなわち、左大臣藤原道長が議政官の討議を国政の結論とするという政治体制が復活していたのである。単純に言うと、選ばれた者は忙しい日々を過ごしていて、恐怖政治がどうだとか、密告がどうだとか、追放がどうだとか言っていられるような暇などなかったのだ。だいいち、源義経と接触していたとして閑職を剥奪された藤原範季は摂政九条兼実の家司なのに、九条兼実に対しては誰も何も言わないのだ。少し前であれば摂政に逆らえるわけなどないだろうというのが九条兼実に対して誰も何も言わないことの答えになったであろうが、近衛家と九条家との対立が隠せなくなっているだけでなく、前摂政近衛基通をはじめとする近衛家側の貴族にとっても朝廷内の権勢を取り戻す絶好の機会である。それなのに九条兼実は平穏無事である。要は、九条兼実が主導する政権運営に横槍を入れる者が黙り込んでいてくれるおかげで、政権運営はかえってスムーズにいったのである。恐怖政治に恐(おそ)れ戦(おのの)き、密告だの追放だの官職剥奪だのとやっていられるのは、政治と無関係である暇な貴族だけであったのだ。


 年が明けた文治三(一一八七)年一月、未だ源義経の消息は把握できずにいる。しかし、源義経の逃げ道は、一つ、また一つと封鎖されていた。源義経を捉えよとの院宣が発令され、各国では源義経を捜索する動きが活発となっていた。

 源義経の道を塞いだのは、令制国や各地の武士等だけではない。宗教界でもまた源義経の逃げ道を塞いでいた。

 その中の一つが伊勢神宮である。

 源義経は伊勢神宮に奉幣したが、源頼朝もまた伊勢神宮に奉幣した。それも、源義経の叛逆が無事に沈静化するように願ってのことである。伊勢神宮の立場に立つと源義経と源頼朝とで真逆の奉幣ということになったが、源頼朝はこのときの奉幣で、馬八頭、金二〇両、太刀二腰を奉納している。全てを合計して現在の貨幣価値に直すと一億円は超える金額だ。おまけに、伊勢神宮の主要な所領の一つである相模国の大庭御厨は鎌倉のすぐ近くである。これでは、いかに権利を返上したといっても、ついこの間まで全ての荘園および公領に対する人員派遣と年貢徴収の権利を持っていた人物が、鎌倉のすぐ近くにある大庭御厨を人質に取っているようなものだ。国家反逆者となって逃亡中の身となっている人物と、今や日本中の誰もが無視できぬ存在となっている人物と、伊勢神宮はどちらを選ぶのか。その答えは一つである。

 さらに源頼朝は、源義経だけでなく、鎌倉方に逆らう存在の行動名目を封鎖していった。具体的には平家の落人が担ぎ出すことのできる人物を減らしていった。もっとも、殺害したのではない。大原に隠遁した建礼門院平徳子に、摂津国にある真井と島屋の二カ所の荘園を寄進したのである。この二カ所ともかつて平宗盛が所有していた荘園であったのを平家没官領として鎌倉方が支配するようになっていたのを、あくまでも名目は一人の僧侶に寄進するとして、実質的には平家の生き残りのうちもっとも担ぎやすそうな人物の生活の資とすることを目的として、建礼門院の所有とさせたのである。

 建礼門院が大原の地で、安徳帝の母とは思えぬ質素な暮らしをしていたと平家物語は記している。平家物語の記載が史実であるかどうかは断言できないが、少なくともかつてのような栄華に満ちた暮らしでなかったことは間違いない。建礼門院本人が受け入れたとしても、かつての平家の栄光を知る者、特に平家の落人となってしまい、機会があればリーダーを担ぎ上げて源氏に対抗すべく挙兵することを狙っている者にとって、建礼門院の生活の質の低下は絶好の口実である。個人の貧困に対する反発ならば私怨でも、安徳帝の生母の貧困となればそれは十分に政治的問題であり、安徳帝の生母に貧困を強いる鎌倉方を政治的に攻撃する絶好の口実となる。

 源頼朝がここで二カ所の荘園を建礼門院に寄進したことは、建礼門院自身の感情はともかく、政治的には大きな意味のあることであった。執政者としての源頼朝を批判する口実を一つ摘み取ることに成功したのであるから。

 もっとも、このように源義経の逃げ道を塞ぎ、平家の落人が担ぎ出すことのできる存在を塞いだことが、源義経や平家の落人が、源頼朝に、そして鎌倉方に完全屈服するようになったことを意味するわけではない。反発の余地が無くなれば無くなるほど、反発は地下へと潜っていく。

 その例が源義経であり、また、現在でも続く平家の落人伝説である。この時代としてはかなり大規模な操作網を敷いているのに、平家の落人が逃れた集落は存在し続け、源義経は未だに消息がつかめずにいる。それがこの時代の限界であると言えばそれまでであるが。


 文治三(一一八七)年二月一〇日、鎌倉に衝撃的な情報が届いた。

 源義経の消息が判明したというのだ。なお、この時点では未確認情報であり、断言とはなっていない。

 源義経の居場所は、奥州平泉。奥州藤原氏の根拠地である。

 伝え聞いたところによると、源義経は山伏の姿をして伊勢国から美濃国を経たのち、陸奥国へ向かったという。なお、この時点で美濃国、現在の岐阜県から、奥州平泉、現在の岩手県までどのようなルートを通ったのかは不明である。美濃国ではなく近江国に出たのちに北陸へ出て、奥州平泉へ向かったとする話もあり、また、山伏の格好をしただけでなく、稚児の扮装もしていたという話もある。

 奥州藤原氏第三代当主の藤原秀衡は源義経を迎え入れたが、そのことを藤原秀衡は公表していない。藤原秀衡にしてみれば当然で、源義経は国家反逆者となっている人物である。いかに六年間に亘って平泉で過ごしてきた、それも奥州藤原氏の元で過ごしてきた過去があるといっても堂々と在住を公表できるものではないことぐらいわかっている。

 源頼朝は公式と非公式の双方で源義経を鎌倉に引き渡すよう平泉に話を持ちかけることとした。まずは公式であるが、文治元(一一八五)年一一月二五日に発給された宣旨により、源義経は討伐の対象となっている。この宣旨の履行を藤原秀衡に求めたのである。これに対する藤原秀衡からの回答は国家反逆罪に当たるような行為はしないという宣言であった、すなわち、源義経が平泉にいるという事実を公表しない回答であった。

 後述するが、未確認情報ではなく、非公式ながらも源義経がいることが確実となったのは三月五日になってからであり、奥州平泉に源義経がいることが公式に判明するのは九月になるのを待たねばならない。公式と非公式との違いであるが、源頼朝の派遣した雑色(ぞうしき)が源義経を確認したのは九月に入ってからであり、それまでは断片的に入ってくる情報でしか源義経の所在を確認できなかったのだ。

 ではなぜ、非公式ながらも源義経が奥州平泉にいることが判明したのか?

 三月五日に判明した情報は単に源義経が平泉にいるというだけの情報ではなかった。奥州藤原氏の武力の一翼として源義経が組み込まれているという情報であったのだ。奥州藤原氏の軍勢を分析した結果、平泉の軍勢指揮官の一人として源義経の所在が確認できたのである。ここではじめて未確認情報が確定情報となった。

 これまでは平泉からの武具や馬が流通してきて鎌倉方の軍勢を強固なものとさせてきていたのに、目に見えて供給が減ってきている。かといって生産が落ちてきているわけではないとなると、考えられる答えは一つ、平泉が軍勢を強化している。そして調べて出てきた答えが、奥州藤原氏の軍勢指揮官の一人に源義経と見られる人物が、いや、源義経であるとしなければ説明できない人物がいる。

 奥州藤原氏と鎌倉方とが双方ともに総力を挙げて軍勢を結集させて真正面から激突すれば鎌倉方が勝つであろうが、鎌倉方としても受けることになるダメージは無視できるものではない。ましてや、正面衝突になるから勝算が立つのであり、誰が負けるとわかっている戦いに真正面から向かい合うというのか。勝利を考えるならば自らの軍勢が優位になるように考える。そして、源義経が平家相手に何をしたかを考えると、平家の軍勢が受けたような攻撃を鎌倉方も受けるようになることも十分に考えられる。


 源義経の在処が奥州平泉であることが判明しつつある頃、京都では一つの騒動が起こっていた。騒動の中心は例によって例の如く後白河法皇である。

 後白河法皇の寵愛する丹後局こと高階栄子が従三位に除されたのである。カレンダーは少し遡るが、摂政九条兼実は文治三(一一八七)年二月二〇日の日記に、「法皇の愛妾、故業房の妻、卑賤の者」と丹後局のことを書き記し、まるで玄宗皇帝が楊貴妃を寵愛するかのような有様であるとしている。そしてこのように書き記している。丹後局の娘が後鳥羽天皇のもとに入内するのではないか、と。

 文治三(一一八七)年時点の後鳥羽天皇は数え年で八歳、満年齢にすると六歳から七歳、現在の学齢で行くと小学一年生である。普通であればいかに現役の天皇であるとは言え、時間を掛けて未来を構築していくべき年齢であるが、源平合戦期に諸々の事情があった末に後白河法皇だけが残った結果として後白河院政が復活している。そして、後白河院政がそれまでの白河院政や鳥羽院政と比べてどうであるか、また、鎌倉に誕生している巨大勢力がこれからどうなるかを考えたとき、そう遠くない未来に後白河院政を廃して天皇親政を復活させるか、あるいは、後鳥羽院政を考えなければならない。

 そのことは後白河法皇の寵愛を受けているというだけの女性が公的地位を獲得し、さらにはその女性の娘が将来入内するであろうことが噂されていることからも、このときの貴族達の間に未来を見据えた共通認識が成立していた。

 そして、貴族達に一つの同意が生まれた。

 後鳥羽天皇に対する帝王教育である。

 帝王教育は前年一二月に既に始まっていた。藤原道長の時代に一条天皇が七歳で御書始(ごしょはじめ)、すなわち、皇族の教育の始まりを告げる儀式が開催された先例もあることから、後鳥羽天皇が数え年の六歳、間もなく七歳になるというタイミングで御書始(ごしょはじめ)を執り行ったことは特に珍しいことではない。珍しいとするしかなかったのは、それからおよそ二ヶ月後の文治三(一一八七)年二月二七日に開催された御書所作文である。御書所は宮中の書類を管理する部署であり、御書所作文は本来であれば御書所で働く者が定期的に開催している漢詩作りの集まりであるが、このときは後鳥羽天皇が教育の一環として臨席するとあって錚々たる面々が集ったのである。開催場所となった南殿の艮子午廊(うしとらのしごろう)は、まるで源平合戦など無かったかのような、あるいは、保元の乱以降に誕生してしまった武士の世の中など無かったかのような雰囲気になった。

 考えてみれば無理もない。保元の乱からおよそ三〇年に亘って、文が軽視される武の時代になっていたのである。武ではなく文で生きることを宿命づけられている貴族達にとっては自己のこれまでの研鑽を発揮できる絶好の機会であり、また、後鳥羽天皇に自分を売り込む絶好のチャンスでもあるのだ。

 前年一二月に始まった後鳥羽天皇の帝王教育については権中納言藤原兼光が教育の責任者である侍読(じどく)に選ばれていた。高倉天皇が皇太子であった頃に春宮学士を務め、即位後も高倉天皇の侍読(じどく)であったという経歴から藤原兼光が後鳥羽天皇の侍読(じどく)を務めるようになったものの、高倉天皇の侍読(じどく)であった頃はまだ正五位下であったが、今や従三位権中納言という高い位階と高い役職にある。これだけの位階と役職を務めている者が侍読(じどく)でもあるというのは異例であり、そう遠くない未来に権中納言藤原兼光に代わる新たな侍読(じどく)が選ばれるのは時間の問題であった。そして、多くの者が新たな侍読(じどく)になろうと艮子午廊(うしとらのしごろう)に殺到したのである。

 殺到した面々を九条兼実は日記に書き記している。式部大輔藤原光範、左中将滋野井公時、大蔵卿藤原宗頼、左中将藤原公衡、頭左中弁源兼忠、文章博士藤原光輔、権右中弁藤原定長、蔵人右衛門権佐藤原定経、蔵人右少弁藤原親経、蔵人勘解由次官藤原宗隆、右少将藤原公継、皇太后宮権大進藤原家実、蔵人藤原基定、以上一三名である。多くても七名から九名である御書所作文の参加者数が、このときは一三名という通例を破る人数であり問題になるところであったが、一三名の参加自体は高倉天皇臨席時の先例があるので問題とは扱わないこととなった。また、ここで参加した者の心情も誰もが理解していた。

 御書所作文には、実際に漢詩を作る者だけでなく、できあがった漢詩を鑑賞する者もいる。彼らは、議政官入りはまだでも侍読(じどく)となるには高すぎる位階と役職を手にしてしまっている者であり、鑑賞者としてでなければ御書所作文において文人としての自分を売り込む機会を得ることはできない。このときに集まった面々もまた九条兼実は日記に書き記しており、藤原敦経、大学頭菅原在茂、文章博士藤原業実、大江維房、大内記菅原長守、山城守藤原通業、藤原宗業、大舎人助菅原為長の名が記されている。また、菅原在高と藤原頼範の両名は、参加を希望するも年齢がまだ若いということで参加を見送られている。


 後鳥羽天皇の教育をきっかけとして自身の栄達を成し遂げようとする貴族達がいる一方、既に権勢の側に加わっている貴族達は政務を遂行しつつあった。

 その中心となっていたのが摂政九条兼実である。

 文治三(一一八七)年二月二八日、九条兼実主導による記録所の設置が決まった。荘園整理のための機関の設置は藤原時平以降何度も試みられ、後三条天皇の時代には強力な効果を生み出した荘園整理の機関を、九条兼実も設置することとしたのである。ただし、これまでの記録所は増えすぎた荘園を減らすことを主目的とし、荘園の完全撤廃をゴールとしてきたのに対し、九条兼実はそのような目論見など立てていない。九条兼実の目論見は、平治の乱以降の平家政権から源平合戦に至るまでの混乱の中で所有権が不明瞭になっていた荘園について、その所有権を明確に示すものである。一説には、鎌倉での訴訟多忙に対する対応策の一つとして源頼朝が九条兼実に依頼して設置させたともいうが、実際のところは九条兼実の権力奪取の一環である。従来、荘園の所有権を巡る訴訟は院が対応していた。本来であれば朝廷の職掌であるべきだが、白河院政以後、鳥羽院政、後白河院政と、院が荘園の所有権を巡る訴訟を取り仕切り裁決を下すのが慣例化していたのである。九条兼実は後白河法皇から荘園整理に関する司法権を取り上げて朝廷のもとに戻したのである。

 さらにこの記録所にはもう一つの役割があった。朝廷の日々の政務や儀式に要する費用の調査も記録所が担当することとなったのである。これを公事用途勘申(くじようとかんしん)という。従来であれば朝廷の財務管理の一貫として大蔵省が担当し、大蔵省のトップである大蔵卿が責任者となっていたが、九条兼実は自分自身をトップとする財政管理を試みたのだ。

 九条兼実はこれまでの院政を見直して藤原道長の時代に回帰することを目論んでいた。藤原道長の時代には存在しなかった鎌倉方という巨大武家勢力が存在するが、九条兼実自身は源頼朝と良好な関係を築くことに成功している。先に記録所の設置は源頼朝の依頼によるものとする説もあると記したが、そのような説が出るほど九条兼実と源頼朝の意見は整合性を得ていた。ただ、これは九条兼実が源頼朝の傀儡であることを意味するわけでも、源頼朝が九条兼実の手足であることを意味するわけでもない。この両者の行動には意見の一致が見られ、互いが互いの打ち出す政策を許容でき、更には利用できていたのである。

 これは、源義経が奥州平泉にいることが判明してからも継続して通用する話であった。源義経が京都におけるヒーロであっても、奥州藤原氏にとって源義経が利用できる存在であっても、源頼朝は源義経を討伐しなければならなくなっている。いかに表面上は反逆者源義経を許すなという態度でいようと、源義経が討伐対象であることを快く思わない貴族は京都にたくさんいた。しかし、九条兼実は源頼朝と意見を同じくしていた。源義経が平家討伐に至るまでの過程でどれだけの拉致と略奪を繰り広げてきたかを九条兼実は知っているし、後白河法皇が源義経の武力を利用しようとしていたことも九条兼実は身を以て痛感している。源義経を討伐するよう訴える動機こそ源頼朝と九条兼実との間に違いはあったものの、源義経をこのままにしていては日本国に大規模な被害をもたらすという主張では意見の一致を見ており、そうならないためにも源義経を討伐すべしという対処方法についても意見の一致を見ていたのである。


 源平合戦期の日本は奇跡が二つ起こっている。

 一つは国外からの侵略を受けなかったこと。

 そしてもう一つが、奥州藤原氏が特筆すべき動きを見せなかったことである。

 源平合戦期は、日本という国家を二分した、いや、木曾義仲を含めて考えれば天下三分となった五年半なのに、その隙を狙って日本への侵略を図る国外勢力もなければ、自派の拡張を目論む第四勢力も現れなかったのだ。日本への侵略を考える国外勢力があったならば源平合戦期は侵略の絶好のチャンスであったし、東北地方で確固たる勢力を築いていた奥州藤原氏がその勢力をさらに拡張させようと考えたとしたならば、やはり侵略の絶好のチャンスであったのだ。そのどちらか一方でも現実の物となったなら、日本という国家の存亡を脅かす事態になっていたであろう。

 源平合戦期、朝鮮半島国家の高麗は、軍事政権による国内の混乱が続いていた。国内世論を安定させるために国外に敵を作り上げることは混迷を迎えている国の常套手段であり、高麗やその前の新羅は何度も日本を仮想敵国としてきたが、さらには新羅に至っては四回も日本侵略を試みたが、このときの高麗は国内世論の安定を図ることすら贅沢となる混迷を迎えていた。つまり、日本を侵略したくても侵略できない国内情勢の混乱であったのだ。また、このときの高麗は軍事政権であると言っても軍事国家ではなく、軍隊そのものの規模は乏しかった上に、ただでさえ乏しい軍事力のうち国外に向けて動かすことのできる軍勢のほとんどを、北方で国境を面している金帝国対策として向かわせなければならないため、日本を仮想敵国として軍事計画を策定しようとしても、日本からの侵略に向かい合うところまではどうにかなっても日本へと侵略するまではできずにいたのである。

 中国大陸では南宋と金帝国との対立で南北に分裂して睨み合っていたものの勢力均衡による安定と平和を迎えていた。ただし、緊張状態も続いていた。特に南宋は、日本を味方に迎えることイコール日本海の対岸に金帝国の敵国を作り上げることとなるため、何とかして日本との軍事同盟の締結を模索していたが、その交渉相手であった平清盛が亡くなったことで外交戦略を見直さなければならなくなっていた。これがもし、日本国内の動乱によって平清盛とその一族が滅んだというのなら南宋が日本に出兵する口実を手に入れることもでき、日本を支配下に置くことで朝鮮半島と金帝国を包囲することも可能となる状況を迎えていたのであるが、平清盛は病死であり、平家一族は日本の朝廷に叛旗を翻して討伐されたために、南宋は日本への内政干渉の口実を失っていた。

 南宋と対峙する金帝国も日本への侵略は検討した。日本を侵略することに成功すれば、現在進行形で侵略している南宋を東から包囲することになるので金帝国にとってメリットのある話となる。ただ、このときの金帝国が日本を侵略することを考えると三つの問題があった。

 一つは海軍力。金帝国から日本は遠かった。日本に行くには日本海を横断するか、あるいは、朝鮮半島沿いに軍船を進めねばならないが、そのどちらも金帝国の海軍力では不可能であった。日本との交易もあったし、樺太や北海道に金帝国の商人が姿を見せることも珍しくなかったが、いかに金帝国の軍勢がこの時代の東アジアでトップを走る規模であると言っても、その軍勢を日本に運ぶ方法がなかったのだ。

 二つ目は国内問題。金帝国は、後に満州民族と呼ばれることとなる女真族の国家であるが、金帝国の国民に占める女真族の割合は七分の一でしかなく、女真族は自分達の六倍の人口を持つ異民族を統治しなければならない宿命を背負っていたのである。特に、金帝国が侵略して統治下に置いた契丹人は女真族にとって脅威であり、契丹人の反抗を軍事力で無理に抑えているのが金帝国の通常の光景であった。

 そして三つ目の問題が、後に全世界的な問題なる存在。金帝国の北西に目を向けると、新興勢力であるモンゴルの萌芽が見られていたのだ。ただ、日本にとって幸運であったとすべきなのが、源平合戦期のチンギス・ハンはモンゴルの数多くの有力者の一人ではあってもモンゴル全体を統括する皇帝ではなく、この時点ではまだモンゴル帝国も誕生していなかったことである。チンギス・ハンの即位までたった二〇年間のタイムラグしか無かったことを考えると、源平合戦が早めに収束したのは幸運と言える。


 日本国内に目を向けると、奥州藤原氏が無視できない存在として目に入る。

 奥州藤原氏の本拠地である平泉は日本海より太平洋のほうが近い土地であるが、奥州藤原氏自身は日本海沿岸に交易ネットワークを持ち、その範囲は本州に留まらず北海道から樺太にまで広がり、さらには日本海を挟んだ金帝国とも交易ネットワークを拡げていた。そして、日本海沿岸を航行する船がもたらす富が平泉に集まり、多くの人が平和な暮らしと平泉の富を求めて東北地方に足を運んでいたのである。このときの平泉の人口は鎌倉を凌駕しており、人口推計では京都に次ぐ日本第二の都市となるほどに発展していた。

 奥州藤原氏の勢力圏である東北地方から南に兵を進めたならば、そこは鎌倉が確固たる支配権を確立している関東地方であるから、侵略することで得られるメリットよりも侵略するデメリットのほうが大きいから動かなかったのはわかる。しかし、日本海沿岸に沿って軍勢を進めて北陸を手にするチャンスはあったのだ。しかも、北陸を制圧した木曾義仲が京都に出向き、さらには自滅したために権力が一時的に空白になり、奥州藤原氏にとってはチャンスが目の前に広がっていたのである。それなのに奥州藤原氏はこれといった動きを見せなかった。これは、損得勘定を抜きにして侵略を是とすることの多い世界史の通例から見ると異例であったとするしかない。

 こんな状況下であったのが源平合戦であるのに、源平合戦期には、国外からの侵略も、奥州藤原氏の挙兵も無かったのである。これは奇跡とするしかない。

 ただ、国外からの侵略はともかく、奥州藤原氏の挙兵が無かったことは、奥州藤原氏という存在が、理念ではなく実利で行動する集団であったことを考えると納得いく話にもなる。

 源平合戦期の奥州藤原氏は、朝廷に忠誠を誓うと同時に、鎌倉の源頼朝と協力関係を築いていた。理念で考えると、朝廷への忠誠は微妙であるが納得できる。しかし、源頼朝との協力関係という理念は危険なギャンブルであったとするしかない。源平合戦が源頼朝の勝利に終わったからいいものの、そうでなければ、たとえば木曽義仲が勝者となった未来や、あるいは平家が勝利を収めた未来では、源頼朝への協力関係があったことが奥州藤原氏の立場を悪くする話になる。

 ところがここに、理念など関係ない損得勘定が入り込んでくると話は単純になる。


 先に、源平合戦は奥州藤原氏にとって勢力拡張のチャンスであったと記した。そして、関東地方はともかく日本海沿岸に沿って軍勢を進めるチャンスがあったと記した。ただ、それで得られるメリットがどこまであるだろうかという根本的な問題がある。現在の新潟県は日本有数のコメの産地であり、また、江戸時代から明治時代にかけての富山県や石川県は日本有数の人口の県であったが、この時代はそこまでの生産を生み出してはいないし、そこまでの人口も抱えてはいなかった。純然たる産業生産量だけで考えるならば奥州藤原氏が根拠地としている平泉と奥六郡のほうが上であり、平泉を中心とする奥州藤原氏の経済圏に北陸を組み込んだならば、平泉の勢力が伸びる以上に平泉に掛かる負担が増すのだ。要は、北陸を養うために東北地方の物資を供給しなければならなくなるのである。しかも、北陸のほうから平泉に頭を下げたわけではなく、平泉が侵略した結果なのであるから、物資の供給に加え、侵略した各地に奥州藤原氏から人員を派遣して実際に統治しなければならない。勢力拡大を図ろうとしたときに損得勘定を考えたなら、勢力拡大しない方が最適解であるという結果になる。

 これは侵略の成功の可能性が立つ北陸をターゲットとした場合の話であり、南の関東地方に矛先を向けると、侵略によって得られる成果以前に存亡の危機に直面することを意味することとなる。何しろ内戦の一方の当事者の本拠地であり、鎌倉方の軍事力の供給源であるのだ。そんなところに侵略しようものなら、待っているのは戦勝どころか身の破滅だ。奥州藤原氏が鎌倉方と協力関係を築いたのも、理念で考えれば危険なギャンブルであったが、損得勘定で考えれば自らの安全性を高める選択であった。鎌倉方と協力関係を結ぶということは、奥州藤原氏の支配下にある東北地方に鎌倉方が攻め込んでくることを回避するという安全保障にもなるのである。

 また、奥州藤原氏はこの時代における日本有数の資産家でもあったが、その資産の基礎となっているのは奥州平泉を中心とする地域の産業に加え、日本の国内外を取引相手とする流通である。流通を基礎とする資産構築には、いや、ほとんど全ての資産構築には一つの前提がある。平和であることだ。戦争となったならば資産構築以前に日常生活に汲々とする暮らしになってしまう。そんな状況を回避して資産を構築し、豊かな日常を過ごすためのベストは、自身と商売相手の双方が平和であることだが、自身はともかく商売相手については、平和を願うことまではできても戦争を禁じることは難しいし、実際に源平合戦という戦争状態になっている。ゆえに、源平合戦期の奥州藤原氏が選ぶことのできる選択肢は、少なくとも奥州藤原氏の勢力圏である東北地方は源平合戦と距離を置き、領域を接している関東とは安全保障を結ぶことで平和を構築することしかない。

 その奥州藤原氏が鎌倉との安全保障の要としてきたのが源義経であった。一五歳で鞍馬を出た源義経が身を寄せたのが平泉であり、源義経は平泉の地で六年間学んでいる。現在の感覚で行くと、故郷から離れた大学と大学院に通い、大学院を卒業した後で兄の立ち上げた新事業に参加したようなものである。源頼朝にとっての奥州藤原氏は弟を育ててくれた感謝こそあれ憤怒をぶつける対象ではない。また、弟だけでなく、鎌倉方の軍勢が必要とする軍馬や武具も源義経がいるという前提で奥州藤原氏は提供してくれているのだから、これもまた感謝としか形容できない。

 ところがここに来て、奥州藤原氏と源頼朝との関係に亀裂が生じてきた。

 源義経が奥州藤原氏のもとにいるのだ。


 奥州藤原氏にとっての源義経は貴重な切り札であった。承安四(一一七四)年に鞍馬寺を出て新天地を求めた源義経を奥州藤原氏が受け入れたのも、源義経が源義朝の実子であったからだ。もっとも、源義経の母の常盤御前の再婚相手である一条長成と、奥州藤原氏第三代当主藤原秀衡の舅である藤原基成の父とは従兄弟同士の関係であったから、当時一五歳であった源義経は、何の計画も無しにいきなり東北に足を運んだわけではなく、縁戚関係を頼れるという理由で平泉に足を運んだのであるし、奥州藤原氏にしても、有名人であるために源義経を平泉の地で受け入れたのではなく、ある程度の血縁関係があったから受け入れたとも言える。

 さらに奥州藤原氏は、切り札ではないものの源氏との関連性を構築していた。安元二(一一七六)年に陸奥守となり、藤原秀衡の後任として鎮守府将軍に就任した藤原範季である。藤原範季は藤原南家の人間であり学問の力で官界に身を投じるようになった人物であるが、それだけであれば、藤原北家には遠く及ばないにしてもそれなりに数多くいる藤原南家の人物の一人であったろう。だが、藤原範季という人物は、平治の乱の後に源義朝の六男である源範頼を引き取り、事実上の養父として養育してきた人物でもある。源範頼は源義経と違って詳細な伝記が語られてきた人物ではなく、鎌倉方の武士の一員として源範頼の名が確認できるのは寿永二(一一八三)年二月になってから、それも何の前触れもなくいきなり源頼朝の元で活躍する武人の一人として登場するが、この時代の人にとっては源義朝の六男を養育している人物が東北の地で奥州藤原氏と関係性を築いたことが自明の理になっていた。

 治承四(一一八〇)年に挙兵するまでは源義朝の子が反平家で挙兵すると考えている人は少なかったが、既に源頼朝が伊豆国において平家方の面々に逆らっていることは少し調べればわかる話であった。その段階で既に源頼朝の弟二人と関係性を持っていたのであるから、奥州藤原氏はなかなかの先見性があったのであろうし、だからこそ源平合戦勃発からさほど時間を置くことなく奥州藤原氏は鎌倉方と関係性を構築できたと言える。

 ただ、源義経がこのような運命を迎えるとは奥州藤原氏も想像してはいなかったろう。何しろ、上手くいけば源頼朝の後継者にもなるという希望的観測すら描けていたのだ。平泉を出発した源義経が富士川の戦いのあとで源頼朝の陣営にたどり着いたときは再会に涙した兄と弟という関係であったが、今の源頼朝と源義経は互いが互いを討伐対象としている関係である。厳密には源頼朝のほうに源義経を討伐せよという宣旨が出ているのみであるが、その宣旨が出る前は、源義経に対して源頼朝を討伐せよという指令が出ていたのだ。

 このような人物を抱え込むこととなった奥州藤原氏は難しい選択を迫られたのである。鎌倉方は明らかに奥州藤原氏を敵視するようになっている。かといって、簡単に源義経の身柄を鎌倉に引き渡すこともできない。源義経が朝廷に背く謀反人であるというのは平泉の地にも届いている話であるが、自分の所で青春期を過ごしてきて、平泉を離れてからは結果を残し、運命に翻弄された末に流浪の身となったために自分を頼ってきた人物を、いかに討伐の宣旨が出ているとは言えあっさりと見捨てるのは、それが奥州藤原氏の安全を手にするための方策であろうとも、奥州藤原氏に対する信用問題に関係する話にもなってしまうのだ。

 それに、源義経は奥州藤原氏が長きに亘って弱点としてきた二点を克服することのできる人物でもある。奥州藤原氏の二点の弱点、それは、当主の後継者問題と、軍勢指揮官の人材難である。

 鎌倉方は従二位の位階を得ているという、文句なしの上級貴族である源頼朝をトップに据える組織である一方、奥州藤原氏のトップである藤原秀衡は従五位上と、平泉の地ではトップであっても日本全体で見てみれば数多くの貴族のうちの一人である。後の戦国時代であれば官職や位階ではなく実力で勝負できるが、この時代にそのような実力主義という概念が通用することはない。数少ない例外として二〇〇年以上前の平将門を挙げることができるが、その平将門も桓武天皇の子孫であることを前面に掲げて自らの正統性を主張して勢力を築いたのであり、実力を前面に掲げたのではない。奥州藤原氏も初代の藤原清衡が安倍氏と清原氏の双方の血を引くと同時に、朝廷から正当な統治権、すなわち、鎮守府将軍と陸奥国司の官職を得ていることと、朝廷から正当な位階を得ていることを組織構築と組織維持のために前面に掲げており、それは藤原三代が連綿と受け継いできたことであった。ただ、奥州藤原氏の統治下においては通用する権威も、奥州藤原氏の領域を一歩でも出ると弱いものとなってしまう。莫大な資産を持つ身であるから無視できないが、あくまでも数多くの貴族のうちの一人が平泉に居を構えているだけというのが奥州藤原氏の公的な位置づけなのである。


 トップですら従五位上という特筆することのない位階である奥州藤原氏は、いかに財力を有していても朝廷とまともな交渉をすることもできないのが現状なのだ。位階を得て貴族に列せられている藤原秀衡が直接交渉に臨むなら貴族の一人として相手にしてもらえることもあるが、何度も言うように、その藤原秀衡とて京都の視点では数多くの貴族の一人でしかない。藤原秀衡の生年は不明であるが、文治三(一一八七)年時点ではおそらく六五歳近くになっていたはずであるから、そろそろ後継者問題を真剣に考えなければならない頃に来ている。だが、藤原秀衡の後継者となると、無位無冠である長男の藤原国衡と、陸奥出羽押領使の役職は得ているもののお世辞にも高い位階を得ているとは言えない次男の藤原泰衡しかいない。しかし、源義経がいるとなれば話は別だ。位階こそ従五位下であるが、名目上でしかなかったとは言え伊予国司になった経歴があるのが源義経である。国司を務めたことのある貴族であれば中央政界での発言権も無視できぬものがあるが、同じ国司でも差異はあり、小さな国の国司と大かな国の国司とでは扱いも異なる。伊予国の国司は全国の国司の中でも、美濃国、越前国、播磨国と並ぶ、あるいはそれら以上の発言権を生み出すことのできる、最上級の国司経験だ。年齢を考えても後継者を考えなければならない時期を迎えている藤原秀衡にとっては、それが正式な後継者ではなく一時的な中継ぎであったとしても、源義経は計算ができるのである。

 いかに剥奪されたとは言え、従五位下の位階を得て官職も獲得し、最後は伊予守まで出世していた源義経は平泉において突出した官職経験である。剥奪された位階と経歴は復活することもあるだけでなく、復活と同時にさらに上の位階へと進ませることも可能だ。他ならぬ源頼朝がその例である。討伐対象となったために位階も官暦も失ったままであるとしても、源義経には今なお消えることのない京都における名声がある。平家討伐における源義経の活躍を知らぬ者などいないし、今は朝敵として討伐対象になってはいるものの、それでも源義経は京都ではヒーローであったし、公表できないものの源義経をサポートしている人だっていたのだ。ここで奥州藤原氏が源義経を後継者として推戴したとあれば、奥州藤原氏は無視できぬ存在でなくなるし、粗雑に扱うべき存在でもなくなるのである。

 さらに源義経には奥州藤原氏が欲していたもう一つの弱点である軍勢指揮能力が存在する。源義経は軍勢を率いて平泉に戻ってきたのではなく、単身とまでは言えないにしてもごく少数の人員で平泉に戻ってきている。つまり、源義経が平泉で軍勢を指揮するとなった場合、源義経は自身に仕える軍勢を率いるのではなく、見ず知らずではないとはいえ一緒に戦ってきたわけではない軍勢を率いることとなる。普通に考えれば簡単にはいかない話であるが、源義経が積み上げてきた源平合戦での名声が存在すれば話は別だ。平泉の多くの兵士は、源義経が戦場に至るまでに繰り広げてきた拉致も略奪も知らないし、戦場での卑怯千万も知らないが、その代わりに、一ノ谷での、屋島での、そして壇ノ浦での名声を知っている。

 奥州藤原氏は東北地方では群を抜く軍事力を持った集団であるが、日本全体で見ると最強というわけではない。おまけに藤原秀衡の長男の藤原国衡は正妻の子ではなく何の公的地位も得ていない一方で、次男の藤原泰衡は正妻の子である上に公的地位も得ている。こうなると後継者争いも現実なものとなるし、軍勢を指揮するとしても兄弟揃って動くのではなく一方が相手のことを気にせずに各個に動くようになってしまう。こうなると待っているのは奥州藤原氏の中での後継者争いに始まる内紛だ。そうなってしまった場合、ようやく東北の地で構築することに成功した勢力そのものが物の見事に瓦解して、この一〇〇年間が完全に無に帰すこととなってしまう。だが、源義経が軍勢を指揮するとなれば話は別だ。源義経が中継ぎの後継者であることを認めた上で軍勢を託せば組織の瓦解は防ぐことができるし、上手くいけば鎌倉方の軍勢と対等に渡り合うこともできる。

 これでは良いことばかりではないかとなるが、一点大きな問題がある。源義経は朝廷から討伐対象とされている人物なのだ。いかにメリットがあろうと、匿うこと自体が朝廷への翻意となってしまうのである。

 匿えば朝廷への叛旗。

 突き放せば自身の未来の崩壊。

 奥州藤原氏は、第三代当主の藤原秀衡を中心に、この不安定な状況をいかにして克服するかを検討した。ただ、そこで明瞭な方針を打ち出すことはできなかった。源義経の身の安全を保証しつつ、鎌倉とも朝廷とも敵対関係とならないよう務めねばならないのである。そのために、源義経が奥州平泉にいることを誰もが知っていながら、公的には源義経が平泉にいることを認めない、あくまでも、平泉に源義経はいないと宣言するのではなく、源義経が平泉にいるかどうかの質問に対する黙秘を続けるのである。この難しい芸当を、文治三(一一八七)年時点ではおそらく六五歳近くになっていた藤原秀衡が一手にこなさねばならなくなっていたのである。


 藤原秀衡が公的に認めているわけではないが、奥州藤原氏の根拠地である平泉に源義経がいるらしいことは確実である。

 ならば平泉まで誰かを派遣して源義経を連れ戻せば済むだろうと考えるのは浅慮に過ぎる。この時の源義経の行動は、現在でいう政治亡命なのだ。

 国交の存在しない国に逃れたわけでも、ましてや交戦国に向けて亡命したのではない人物に対する扱いは難しい。身柄を引き渡すよう要請しようと断られたらどうにもならない一方で、強引に身柄を引き渡すよう実力行使に訴え出ようものなら関係は悪化し最悪の場合は戦争に至ってしまう。このときの鎌倉と平泉との関係で考えると、源義経を強引に連れ戻すには、スパイを送り込むか、あるいは軍勢を送り込むかという話になる。こうなると前者は関係悪化、後者に至っては全面戦争となる。この時代最大の軍事力を持つ源頼朝と言えど、奥州藤原氏と全面対決となっては無傷では済まない。

 それに、平泉のもたらす富がある。文治三(一一八七)年時点の産業生産性で、東北は関東を圧倒していた。コメをはじめとする食糧生産だけでなく、武具にしても、軍馬にしても、関東の武士達の生活は東北での生産が供給されることが前提となっていた。いや、東北からの供給を前提としていたのは関東だけではなく日本全体がそうであった。京都でも、コメをはじめとする生活必需品は東北がなくてもどうにかやっていけるが、そうではない日用品となると見渡すところに平泉からもたらされた物品があり、奥州藤原氏が北海道や樺太、日本海対岸の金帝国との交易で手にした物品があり、そして何より、この時代の主要な通貨の一つでもある砂金がある。平泉と全面対決となったなら、こうした物品が日常生活から完全に消えるのだ。

 先に平泉の立場に立って源義経を鎌倉に引き渡すわけにはいかない事情を記したが、鎌倉の立場に立ってもやはり、源義経を強引に鎌倉へと連行する、あるいは、平泉の地で亡きものとさせるわけにはいかない事情があったのである。源頼朝も、平泉との経済的な関係は現在と変わらぬまま、源義経についてだけは妥協を許さないという交渉を続けるしかなかったのである。

 そのあたりの交渉の一例が文治三(一一八七)年三月八日のこととして吾妻鏡に記載されている。この日、興福寺の周防得業である聖弘に対する尋問が始まったのである。興福寺で源義経を匿っていたとして聖弘が鎌倉に呼び出されたのは文治二(一一八六)年二月一八日であるから、鎌倉と奈良との移動時間を考えても聖弘は一年近く鎌倉に滞在していたこととなる。なお、鎌倉では小山朝光のもとに預けられていたという。

 一年に亘って鎌倉に滞在し続けてきたのは、聖弘が源義経を匿っていたことを隠しもせず、悪びれもせずにいたからである。異なる政治信条の人間を連れてきて一年に亘って身柄を拘束しておきながら、聖弘にしてみれば一年に亘って拉致監禁も同然の中で周囲が全て源義経を敵とする風潮のある中で生活していながら、聖弘は自らの意見を変えることなく源義経を擁護し続けていたのである。この環境で洗脳されなかったのであるから聖弘の意思はそれほどに強固なものであったのか、それとも洗脳工作自体が稚拙であったか。

 ただし、洗脳工作に失敗して聖弘が源義経を支援する姿勢を崩さないでいることと、今後も聖弘が源義経を支援できることとは同じことを意味するわけではない。このあたりのことを源頼朝が理解していないわけはない。


 以下、吾妻鏡に記している面会の様子である。尋問ではなく源頼朝と聖弘との一対一の会談の様子である。

 まずは源頼朝。

 「源義経は日本を破滅させようとしているテロリストだからこそ、行方をくらませてしまった後、日本各地で捜し回り処罰するよう何度も宣旨が下されたのだし、この国の誰もが源義経に反発を見せている。それなのに、貴房ただ一人は源義経のために祈祷しているだけでなく、源義経に味方をしている。これは何かを企んでいるからではないのか?」

 これに対する聖弘の返答はこうである。

 「源義経は貴方の代理として平家を討伐する間、戦いが無事に終わるよう祈祷をしてもらいたいと丁寧に頼んできたのであり、その思いに応え続けてきたのです。これは報国の気持ちではないですか。源義経が関東から叱責を受け、逐電するときに仏門での師匠と檀家との関係を頼りに奈良へ来たときに、まずはいったん被害を逃れるために退いた後に源頼朝様のもとに出向いて誤り申し上げるよう説得し、伊賀国へとお送りしただけです。だいいち、関東の安全をも源義経の功績ではないですか。それなのに告げ口を真に受けて、それまでの功績を無かったことにし、恩賞の地を没収するというのですから、誰であろうと反発するに決まっています。早く今の怒りを捨てて、仲直りするように源義経を呼び戻して、兄弟仲良くしようと思うのがこの国を治める人のするべきことではないですか。私は源義経の味方をしているのではなく、この国を平和にするためなのです」。

 聖弘のこの返答に対する源頼朝からの反応の言葉は吾妻鏡に記録されていない。

 しかし、源頼朝からの答えは吾妻鏡に残されている。

 聖弘、勝長寿院の供僧職に就任。以後、鎌倉の地で関東の平和安泰を祈祷することとなる。吾妻鏡は感動のあまりに勝長寿院の供僧職を聖弘に与えたとあり、勝長寿院の供僧職とすること自体も僧侶としてのかなりの厚遇を示すことを意味するが、実際には、自分の理念に基づいて源義経への手助けをしている者を鎌倉に留めておかなければ危険であると判断したからである。聖弘が鎌倉にいて僧侶としての日々を過ごしているのであれば、少なくとも聖弘と源義経との連絡を監視できるのだ。


 平泉に源義経がいることを奥州藤原氏は隠しきれなくなっているものの、あくまでも公的には認めていない。鎌倉にしても、平泉に源義経がいることを把握していながらも、奥州藤原氏に対して源義経の引き渡しを要求せずにいる、いや、源義経の身柄の引き渡しを要求できずにいる。

 何しろ鎌倉と平泉との関係は今までと同じであろうとしているのだ。これが平凡な政治家であればただちに敵対関係となり軍事的緊張を生み出すものであるが、藤原秀衡も、源頼朝も、断じて平凡ではない。双方とも緊張の理由が存在することを理解していながら、そんな理由など無かったことにして今まで通りであることを継続させている。今まで通りを継続させることのメリットとデメリット、現状を破壊することのメリットとデメリットを考えれば、優秀な政治家はメリットの大きい現状維持の方を選ぶものだ。

 その上で、原理原則を前面に掲げて対抗している。今まで通りであることを継続させるものの緊張の原因は消えていないことを再確認するために、原理原則を前面に掲げて相手を攻撃し、攻撃された側もまた原理原則を掲げて防戦に努める。第三者から観れば何でそんな些事にこだわるのかという争いを見せることがあるが、それは、些事の解決ではなく相手に非を認めさせることが目的なのである。

 鎌倉と平泉の対立における主導権は源頼朝のもとにあった。何と言っても源義経は朝廷が認めた国家反逆者であり、源義経を匿うことは国家反逆罪に該当する行為だ。しかし、藤原秀衡はあくまでも源義経が自分のもとにいることを認めずにいた。源義経を鎌倉に引き渡すように求めたところで、奥州藤原氏から何かしらの回答が返ってくることは無い。そのため、源頼朝が藤原秀衡に対して平泉でも認めざるを得ないポイントを突いて攻撃し、奥州藤原氏が源頼朝の攻撃を正論で返すというやりとりになる。

 源頼朝が奥州藤原氏に対する攻撃材料は二点あった。

 一点目は中原基兼の身柄拘束を解くこと。

 もう一点目は、奈良の大仏の再建工事に使用する金三万両の貢納がまだであること。

 ともに奥州藤原氏も認めねばならない点であり、源頼朝にとっては絶好の攻撃材料、奥州藤原氏にとっては痛恨の一撃になる点である。

 まず中原基兼についてであるが、この人が奥州藤原氏のもとにいたのは、鹿ヶ谷の陰謀の際に平清盛によって陸奥国への配流となったことが理由である。しかし、源平合戦によって源氏が勝利し平家が滅亡したことは、平家政権の下した処分が白紙撤回されることも意味する。

 源頼朝は源平合戦の途中で、平治の乱の敗者に課された処分の白紙撤回を求めて実現させている。他ならぬ源頼朝自身が白紙撤回の適用を受ける例であり、歴史的記録としては平治の乱の敗者である源頼朝は伊豆国に配流となったという記録になるものの、法的記録では源頼朝の伊豆国への配流処分が誤りであり、源頼朝キャリアにおいて伊豆国への配流は無かったこととして扱わねばならないのである。

 この白紙撤回処分は源頼朝一人が適用対象となったのではない。平治の乱以降の平家政権が命じた処分の全てが白紙撤回されたのであり、その中に中原基兼が含まれていたのである。ゆえに、中原基兼は陸奥国への配流が白紙撤回されたこととなったのであるが、問題はその後だ。陸奥国への配流が終わったことで京都への帰還が許可されたが、京都に戻らなければならないわけではなく、京都に戻るかどうかは本人の自由意志なのである。そして、中原基兼は京都に戻らなかった。

 源頼朝は平泉で身柄が拘束されているとして中原基兼を解放するよう訴え、藤原秀衡は源頼朝に対し、中原基兼は京都の圧政から逃れてきた亡命者であり、平泉で手厚く保護しているのだと反論している。

 中原基兼がどのような理由で京都に戻らなかったのかを記す資料は無い。源頼朝の主張するように本当に身柄が拘束されていたのかもしれないし、藤原秀衡の反論したように亡命者として平泉で保護を受けていたのかもしれない。なお、記録に残る中原基兼の動静はここで終わる。彼がこの後どのような運命を迎えたのか、二一世紀に住む我々は知ることができない。

 源頼朝からの攻撃材料の二点目である奈良の大仏の再建工事に使用する金三万両であるが、これについて藤原秀衡は法外な要求であるとして一蹴している。現在の貨幣価値に直すと九〇億円というとてつもない金額だ。この年の一月に源頼朝が伊勢神宮に奉納したのは、馬八頭と太刀二腰を加えたにせよ、金二〇両である。奥州藤原氏の財力がいかにこの時代に置いて突出していたとしても簡単に払えるような金額では無い。さらに、ここで黄金の貢納を要求したのは単に金銭の提供を求めたのではないという点も無視できない。貨幣としての黄金の供出ではなく、再建した大仏にメッキをするための黄金の供出である。大仏再建は国家的事業であり、日本中の誰もが各々の役割を果たすという形で再建工事に関与しており、鎌倉方は大仏再建工事に用いる木材を、平泉は再建した大仏にほどこすメッキ用の黄金の供出が求められたのである。そして、源頼朝は自発的に木材を提供して東大寺に送り届けている。後にこの材木提供が大きな意味を持つが、この時点では鎌倉方に課されたノルマを果たしたという扱いになっているだけである。それでも、ノルマを果たしたのは鎌倉であって、ノルマを果たしていないのは奥州藤原氏の方であるという構図ならば成立していた。

 とは言え、藤原秀衡にしてみれば、いかに国家的事業であるとは言え、自分の与り知らぬところで勝手に決められた税を払えと言われているに等しい。しかも、京都に直接納めるのではなく、東日本の納税の管理監督は鎌倉の自分のもとにあるという名目で、平泉からの納税はいったん源頼朝のもとに納め、平泉を含めた東日本全体の貢納を源頼朝がまとめて京都に届けるという仕組みだという。これは二重の意味で承諾しがたい話である。中原基兼の処遇については源頼朝に反論を示すことができた藤原秀衡も、金三万両の件については、貢納そのものの正統性を訴えるところまではできても、国家行事に逆らう意思を見せることは厳しい話であった。


 京都では、摂政九条兼実が主軸となった政治の立て直しが進みつつあった。源頼朝の推薦した一〇名の貴族を中心に、それまでの後白河院政から、藤原道長の時代を理想型とする院政以前の政治形態への回帰が図られていたのである。既に述べた記録所がその例の一つであるが、その他にも天皇の食事を司る役所である御厨子所(みずしどころ)の復活させるなど、いつの間にか歴史の闇に消えてしまっていた組織や形骸化してしまった制度の復旧を図る一方、平家政権下で増大化した議政官の削減にも意欲を見せていた。目標とするところは、この時代の人達が理想としていた藤原道長の時代の日本国への回帰であり、そのための復興である。

 ところが、九条兼実のこうした意欲は、他ならぬ後白河法皇の手によって形骸化させられていた。その最大の理由は後白河法皇が朝廷の人事について強い発言権を持っていたからである。いかに九条兼実が摂政であるとは言え、白河院政から鳥羽院政を経て後白河院政と続いてきたことにより院政が日本の国政に深く根付いてしまった結果、法皇の意向と摂政の意思とでは法皇の意向のほうが高い発言権を持つに至ってしまったのだ。

 さらに厄介なのが、後鳥羽天皇がまだ幼帝であり、現状ではまだ政務を執るわけにはいかない、すなわち、摂政九条兼実が天皇の職務の代行とならねばならないという点である。院政の最たるメリットは、帝位を退いた上皇や法皇は天皇としての職務から解放されるという点である。摂関政治において摂政や関白が権力を持つことができたのは、摂政や関白が天皇の代理として権力を行使できるという理論上の権力、すなわち、現実的に行使することはないが行使することが法的に許されている権力が存在しているからであり、その権力を背景として自身の意思を権威へと昇華させ、合法的に国家の法として成立させるシステムが成立していたからである。具体的には、議政官の議決において権威を行使して自らの意思を議政官の議決とさせることに成功したからである。

 日本国における法とは天皇の名で発せられるものであるが、天皇自身の意思でゼロから法を作り上げて発するのではない。請願はまず議政官に上げられ、貴族達の合議によって上奏された法案に天皇の御名御璽が加わって正式な法となって日本国全体に発令される。天皇が幼少期である、あるいは病床にあるなどの理由で摂政が置かれている場合は、摂政の署名捺印があれば天皇の御名御璽があったとみなされ、正式な法となって日本国全体に発令される。つまり、法案成立の過程で摂政は個人の意見を表明することはできず、議政官から上奏された法案にそのまま署名捺印するしかない。

 なお、同じことは関白でも言えるが、関白は摂政より職掌が狭く、関白の署名捺印が天皇の御名御璽と同じとみなされることは無い。つまり、法案成立までの過程に何ら関与することはできず、自らの意思に関係なく法案が法として成立するのを黙って見ているしかない。理論上は。

 また、律令の制度としては、天皇に上奏する前に太政大臣が拒否権を発動して法案を議政官に差し戻して再審議させることはできるが、文治三(一一八七)年時点に太政大臣はおらず、太政大臣からの法案差し戻しは存在しない。ちなみに、太政大臣に法案差し戻しの権利はあるものの、その例はほとんど無い。やはり、太政大臣もまた、法案が議政官においていかなる議論がなされるかを待つしかなく、自分の意見と関係なく法案が法として成立するのを見過ごすしかない。理論上は。

 そして、院政における上皇や法皇も摂関政治における摂政や関白と同じ構図である。院がどのような意思や意見を持とうと、議政官の議決によって法案が法となるのをだまって見ているしかない。理論上は。


 だからこそ、歴代の摂政や関白、そして院は、自らの意見の代弁者となり人物を、最低でも議政官の過半数を占めることができるだけの規模で用意している。これを貴族の立場から眺めると、摂政や関白、そして院の代弁者たる人物になることができれば、議政官の一員という高い地位と位階を手に入れることに成功することを意味する。そこから後は自身の栄達と豊かな暮らしだ。そして、こうした人物を抱え込むという点で、院は摂政や関白より大きなリードがある。日々の政務に負われる摂政や関白と違い、日々の政務から解消され多少の余裕がある院は、人材を集めるという点で大きな優位点があるのだ。また、摂政や関白は藤原氏の生まれであることが中央政界に名を連ねるための必要条件であるが、院の場合は藤原氏でなくとも中央政界に身を置くことが可能となるという優位点を有していた。

 貴族の持つ本音に従えば、求めているのは日本国の再興ではなく自身の栄達であり、そのために、より高い役職、そして、より高い位階を求める貴族が多い。位階や役職を求めようとしないようでは貴族ではないと言えるほどだ。これが通常態であるところなのに、平家政権は貴族達を退け平家の面々を貴族社会に送り込んだ。結果として、議政官をはじめとする貴族の役職の空席が減り、残り少ない空席を平家に取り入ることで奪い合うか、貴族としてのプライドを保つために武士である平家に取り入るなどせず、代償として、官職無し、あるいは低い官職のままの日々を過ごすことを余儀なくされた。ただでさえ平家政権下で押しとどめられ続けてきた役職や位階への渇望は、平家滅亡と同時に噴出してもおかしくなかったのである。九条兼実に対しては、貴族達の出世欲をここまで食い止めることができたことを評価するならまだしも、食い止めることができなかったことを咎めるなど筋違いですらあったのである。あるいは、貴族達の出世欲を煽ることで人事に口出しをし、結局は人事権を手にすることで貴族達を操ることに成功した後白河法皇の老獪さを称賛すべきか。

 仮に後鳥羽天皇が元服して天皇親政が実現できていたら九条兼実もどうにかなったのである。だが、後鳥羽天皇はまだ幼く摂政を必要としている。何しろ文治三(一一八七)年時点の後鳥羽天皇は現在の学齢で言えば小学一年生だ。そして、摂政である九条兼実は他の役職を兼任していない、と言うより、兼職していられる余裕など存在しないのが摂政という役職だ。つまり、九条兼実は自分自身を議政官の一員とすることができず、議政官の議決を自らの意思の通りにするには九条兼実の意志の代弁者を用意して議政官に送り込まねばならなかったのである。少し前であれば、内側では分裂はしていても外に対しては一枚岩となるのが藤原氏というものであったが、今の藤原氏にそのような一枚岩は期待できない。近衛家と九条家との争いがあり、その他の藤原氏も各々の家で分裂して勢力争いを繰り広げているのがこのときの藤原氏である。この状況下で九条兼実が議政官を通じた政務を行うのは困難とするしか形容できなかった。九条兼実にできたのは、文治三(一一八七)年五月八日に九条兼実の政策に賛成する貴族達の意見をまとめて意見封事一七通として後白河法皇に奏上することだけであった。奏上の意欲は立派であるが、それがどこまでの実効性を持っていたのかは怪しい。少なくとも意思表示にはなったが、貴族達の中での多数意見を占めるまでには至らなかったのである。

 九条兼実自身が執政者としての能力の低い人物であったとは言わない。ただ、九条兼実の政策は理想としては妥当であるものの貴族達の求める現実とは咬み合っていなかったのだ。

 個々の貴族一人一人は九条兼実の政策で大きな打撃を受けるわけではないだけでなく、所有している権利が公的に認められ、収入についても所有権に応じた収入が法的根拠を伴って認められるようになったのであるし、貴族以外の人間も現時点で保持している権利が奪われるわけではないのであるから、これまでの平家政権や木曾義仲の蛮行で失われてしまった権利や収入を取り戻せるようになっている。藤原道長の時代への回帰は短絡に見えるが、掲げた政策自体は理論的なものであり客観的には同意できるものである。

 ここまではいい。


 ここまではいいのだが、政権にかかわる人物が九条兼実の政策に同意するかどうかではなく、後白河法皇にとりいって役職と位階を求めることを優先させる人物だらけであるため、九条兼実の政策を遂行するのに協力的ではないのが問題となっていたのだ。それに、現時点で生き残っている貴族はその全員が、平家政権の被害者であり、木曾義仲の被害者であり、源平合戦の勝者なのである。被害者としての償いと勝者としての権利を求めているのに、九条兼実が掲げているのは平家政権の前に持っていた権利の保障であって、平家政権の前よりも権利が増えるわけではないのである。それならば、世情の評判を求めて九条兼実に従うよりも、後白河法皇に取り入って位階や役職を手に入れる方が、平家政権前よりも多くの権利と収入を獲得できることとなる。実際、九条兼実が摂政となってからというもの、毎年のように位階のインフレが発生することとなる。

 おまけに、位階や役職を手に入れた貴族が、新しく手にした権利や権力で何をするかと言われても、その答えは、無。権利や権力、そしてさらなる収入を手に入れることには執心しても、その成果の社会貢献はゼロである。源平合戦からの復興を図らねばならない状況下で、復興を考えている九条兼実に同調することなく自己の権利回復と拡張には熱心でも社会に全く還元しないとなると、いかに正統な政権であると言っても政権そのものに対する支持率は断じて高いものとならない。

 それに、支持率を取り戻そうとしても政権の政策遂行能力は低い。九条兼実の掲げる政策が、京都復興の、そして日本復興のために有効であるとどんなに頭の中では認めていても、自身の栄達の資産回復を後回しにするような貴族はそう多くはない。かつてであれば国家予算と朝廷の用意できる人員ではどうにもならない事業でも藤原摂関家の資産と人員を用意することでどうにかなったが、今の九条兼実にそこまでの余裕はない。

 ところが、日本全体を見渡すとどうにかなるまでの資産と人員について、かつての藤原摂関家のように用意できる集団がある。

 鎌倉だ。

 資産だけで言えば奥州藤原氏のほうが凌駕しているが、人員まで含めて考えると鎌倉の源頼朝ならどうにかなるのだ。

 その顕著の例が、里内裏である閑院である。直近で言えば福原遷都を断念した後で安徳天皇が京都に還幸したときから閑院が里内裏となっていたが、遡ると平治の乱における大内裏での戦闘がある。保元の乱の後で大内裏を復活させようとし、実際に後白河天皇を大内裏に住まわせることに成功した信西であるが、その試みは平治の乱で終焉を迎え、二条天皇も六条天皇も大内裏ではなく里内裏を転々とするようになり、高倉天皇になってようやく閑院を里内裏とすることで落ち着きを見せていた。

 ところが、福原遷都で閑院は崩壊した。福原に首都機能を移すという平清盛の野心は平安京を荒廃させるに十分であった。福原に遷都すると言っても福原に新しく建物を建てるのではなく、平安京の建造物をいったん解体して福原まで運び、福原で組み立て直すのである。里内裏となっていた閑院もこうした被害と無縁というわけにはいかず、他の建造物よりはマシであったとは言え、福原遷都とその失敗による平安京帰還は建物としての閑院に大ダメージを与えるに十分であった。そして迎えた養和の飢饉と木曾義仲の京都劫掠、そして、元暦二(一一八五)年七月九日に発生した巨大地震でダメージを受けたままである閑院を修繕することもできず、閑院は安徳天皇と後鳥羽天皇の里内裏であり続けていたのである。


 この里内裏である閑院の復旧工事を、源頼朝が資材を投入し、人員も用意して再建すると発表したのだ。源頼朝は既に東大寺再建工事について木材を提供すると公表しており、これで源頼朝が私的に手がける国家施設の復旧工事については二例目となる。

 いかに源頼朝が権力を手にしたと言っても、普通の貴族と比べて突出した資産を持つわけではない。源頼朝の自由に操ることのできる資産となると従二位の位階を持つ貴族としては平凡とするしかない。源頼朝個人に仕える御家人の多さ、すなわち、動員できる人数となると突出しているが、それとて近衛家と九条家が手を取り合い、徳大寺家をはじめとする他の藤原氏の家が束になれば、源頼朝の出せる以上の人数を動員することは不可能ではない。つまり、源頼朝は、藤原氏がその気になればやってやれなくはないことを代わりに遂行したのである。

 国家予算でどうにかするには時間を要することを私財を投じて遂行することは珍しくない。藤原良房まで遡ることのできる藤原氏の伝統と言ってもよいし、藤原氏が専横を極めているという批判を受けていようと政権を握り続けることができたのは、皇室とつながりを持ち続けたことよりも、その瞬間に起こった問題を、国政に図るのでは時間が掛かってしまうと判断して私的に解決してきたからである。それが政治の有様として正しいかと言われると、原理原則としては正しくないが、政治の目的である庶民生活の向上という価値基準で考えれば、正しい。

 その正しいことを、藤原氏ではなく遠く離れた鎌倉にいる源頼朝がやった。たしかに再建の陣頭指揮を執るとして中原広元が上洛しているが、中原広元は源頼朝の代理でしかなく、京都にいても工事責任者として職務を果たしているだけである。

 このときの京都の庶民感情は相反するものがあった。平家都落ちの前から源頼朝は京都の希望であり、木曾義仲に侵略されていたときは源頼朝が京都を助けに来てくれるという期待もあった。その源頼朝がまさに今、京都を復興させるために私財を投じているのである。その一方で、実際に木曾義仲から京都を解放したのは源頼朝ではなく、源頼朝の代理人という扱いであったにせよ源義経である。また、京都の人達の認識の中では平家討伐における最大の功労者であるのも源義経である。源頼朝という人は、その、京都のヒーローである源義経を破滅に導いた悪役である。結局はデマだと判明したが、文治三(一一八七)年五月三日には、源義経が先月三〇日に美作国で殺害されたという話が伝わり、多くの人が自分達のヒーローである源義経が亡くなったことを嘆き苦しんだことの記録も残っている。このようなデマが受け入れられたのも、源頼朝をどこかで受け入れられないという京都での世論があったからである。その中には、名目上は遠く安全なところにいて命令だけしていた人間が今更恩着せがましく何かしようとしていることへの義憤、本音を言えば首都の人間が地方の田舎者に助けられたという屈辱感がある。いかに源頼朝が一三歳まで京都で過ごし、伊豆に配流となっても京都の貴族としての矜持を持った生活をしていても、また、現時点で従二位の貴族としての自己を成立させていても、源頼朝は京都の人間とはみなされなくなっているのだ。


 もっとも、鎌倉側のほうにも京都から見下されるに値する理由がある。源平合戦の勝者となった鎌倉の御家人達がやらかしていたのである。

 文治三(一一八七)年五月二六日、安田義定の代官が伊勢国の斎宮寮田を横領したことが発覚した。伊勢神宮に関連する田畑であるが、所有権となると朝廷直轄の領地である式田であるため、平家没官領だとか、木曾義仲や源義経といった国家反逆者の所領を没取したのではない。これは冗談では済まされない不祥事だ。安田義定の代官の所業であって安田義定自身の犯罪ではないが管理監督者責任になる。

 この知らせが鎌倉に届いたときに安田義定は鎌倉におり、ただちに源頼朝の尋問が始まった。安田義定にしてみれば何の知らせもないときにいきなり飛び込んできた部下の不祥事であり、どういうことかと問われても答えようがない。自分は鎌倉にいて現地で何が起こっているかなどわからず、現地からの情報があり次第責任をとると安田義定が答えたものの、それは源頼朝が納得できる答えにはならない。

 源頼朝が安田義定に下した、そして、朝廷に届くように発した宣告は、安田義定に与えた平家没官領の没収である。安田義定にしてみれば部下の勝手なやらかしでの連帯責任であるが、だからと言って異議を唱えることはできない。安田義定にできるのは源頼朝の裁決に従うことだけである。

 安田義定は鎌倉方の武士の一員であるが、そのスタートは甲斐源氏であり、富士川の戦いの後に遠江国を本拠地とするようになり、木曾義仲とともに上洛して途中までは木曾義仲の軍勢の一員であった。だが、最後は木曽義仲と袂を分かって源義経の率いる軍勢に加わり木曾義仲を殲滅させ、その後の一ノ谷の戦いにおいても鎌倉方の軍勢の一員として参戦し、平家を討ち破るのに協力している。

 その後の安田義定は文治三(一一八七)年まで遠江国に住まいを置きつつ、鎌倉と遠江国とを往復する暮らしをしていたようである。甲斐源氏の一翼を担っているはずの安田義定が武田信義から独立した一つの勢力を築くこととなった上に、木曾義仲と行動を共にしたことがあるなどの問題もあったが、基本的には甲斐源氏の参加ではなく源頼朝に従う御家人であり、かつ、鎌倉と京都を結ぶ中間地点にあたる遠江国を根拠地としていることは、源頼朝にとって好都合な存在であった。また、源義経が行方不明となったという第一報を聞きつけて直ちに遠江国内での源義経捜索を命じるなど、源頼朝への忠誠という点でも疑いようのない人物であった。もっとも、悪く考えれば、源頼朝に忠誠を誓うことが武人としての自身を存続させるための唯一の手段であったとも言える。何しろこの人は甲斐源氏でありながら甲斐国と袂を分かち、遠江国にてゼロから自分の軍団を作っているのだ。ルーツを辿れば長元三(一〇三〇)年まで遡ることができる甲斐源氏という歴史と伝統を持つ巨大組織から独立して遠江国に新たな軍事集団を作り上げるのだから、源頼朝に逆らうなどという選択は到底許される話ではない。

 なお、責任を取らせるために源頼朝は安田義定に与えた所領を没収したが、それで自動的に伊勢国の斎宮寮田の横領問題が解決することは無い。というより、安田義定については源頼朝も知っているが、安田義定に仕えている武士の一人一人のことまで源頼朝まで把握しているわけではない。極論を言えば、悪事に手を染めても源頼朝の元に知らせが届く前にどうにか対処すれば無かったことにすることもできる。理論上は。

 それを許すような源頼朝ではない。後述するが、安田義定に対して下した処分が早すぎるのだ。これは、かなり早い段階から源頼朝が安田義定の家臣についての情報を集めており、情報が届き次第処分を下す準備を整えていたからとするしかないのだ。

 源頼朝は第二弾として、文治三(一一八七)年六月二〇日に、伊勢神宮の領地を不法占拠している地頭に対して直ちに不法占拠した土地から出ていくことを命令しているが、その中の文面で、退去しないなら不法占拠している者の名を鎌倉に届けることとなると記している。不法占拠している武士の立場に立てば一縷の望みに思えるが、このままでは名を鎌倉に届けるという脅しは不法占拠している武士の名が源頼朝の元に届いてまだいないことを意味するわけではない。もう名前が届いているが現時点ではまだ知らないということにしているという脅しである。ここでもし、本当に名前が届いてしまったら、その後で待っているのは鎌倉から送り込まれる刺客との、負けるとわかっている対決である。


 鎌倉武士のやらかしの第二弾の記録として他に残っているのは、文治三(一一八七)年六月二九日の出来事である。

 このときに責任を追及されたのは、畠山重忠。ただし、事件の構図は安田義定のときと同じで、畠山重忠本人が他者の所領を勝手に奪ったのではなく、伊勢国沼田御厨で畠山重忠の代官が不法占拠したことが発覚したのだ。なお、このときは事件そのものの連絡が来たのみであり、畠山重忠に対する処罰ではなく事件の詳細な調査を命令している。

 安田義定のときと違って調査指令が出たのは、畠山重忠のこれまでの功績がある。畠山重忠は、源頼朝の挙兵当初は平家方であり、石橋山の戦いの後で三浦一族の本拠地である衣笠城を落として三浦義明を討ち取っているなど、畠山重忠は挙兵直後の源頼朝にとって手強い存在であったろう。その畠山重忠であるが、房総半島で勢力を盛り返し武蔵国へと進軍してきた源頼朝の前に降伏したことで、それからは一貫して源頼朝の忠実な御家人であり続けていた。

 当初は源頼朝に刃向かい、それからは源頼朝の忠実な御家人となった治承四(一一八〇)年時点の畠山重忠は一七歳という若さであった。そして、この一七歳の若者が畠山一族のリーダーとなって源頼朝に仕えることとなり、畠山一族はこの一七歳の若者をトップとすることを選んだのである。畠山重忠の父の畠山重能が大番役として京都にいたため、源平合戦勃発時は惣領たる畠山重忠が一七歳という若さで畠山一族を指揮することとなったという事情があるものの、そこには源氏を選ぶか平家を選ぶかという葛藤もあった。畠山重能は息子と違って平家方を選び、あくまでも平家物語における伝承であるが平家都落ちの段階まで平家とともに行動していたという。一方、父の不在中に一族を仕切るようになった畠山重忠は今や忠実な源氏方の武士だ。確実な資料に残る範囲を探しても息子の活躍と反比例するかのように畠山重能についての記載は消えている。平家とともに運命をともにしたか、息子に家督を譲って隠居したかであろう。

 源平合戦勃発から七年、平家滅亡から二年を迎えた文治三(一一八七)年時点の畠山重忠は二四歳の若き武将であり、かつ、既に七年間に亘って源頼朝に仕えてきた有能な武人である。また、鶴岡八幡宮での静御前が白拍子の舞を披露したときに銅拍子をつとめるなど、この時代の上流階級の嗜みの一つであった音楽にも通じていた。あるいは、一七歳にして最前線に立たねばならなくなったことに対する数少ない心の慰みが音楽であったというところか。

 若くして活躍するということはその人を英雄視させやすくする。平家についた父と一七歳にして決別し、それから畠山一族をその手で率い、源氏の武士として各地の戦いで奮闘した。そうした日々の中での数少ない慰みが音楽を奏でることだというのだから、悲劇性も手伝ってこの若き武人は鎌倉方を彩るヒーローの一人でもあったのだが、それに加えてもう一つ、この人には評判を得ているものがあった。

 清廉潔白な人柄である。

 若さから来る非現実的な思考と行動とも言えるが、この人はこの時代の武士にしては珍しく、何事においても潔い人であったのだ。だからこそ、父の不在においても畠山一族のトップとして部下達を率いることができたのだし、父の不在を感じさせぬほどの成果を残せたのだと言えるし、源義経の舅である河越重頼が連座して誅殺されたとき、河越重頼の持っていた武蔵留守所惣検校職の後任として畠山重忠が選ばれたのも、畠山一族が武蔵国に本拠地を持つ武士団であったからというのは理由の一部でしか無い。畠山重忠のこれまでの功績と評判が、畠山重忠を武蔵留守所惣検校職とさせたのである。

 そんな畠山重忠が、自分の部下のしたこととは言え、伊勢国において他者の所領を不法占拠している。これは大スキャンダルとなるはずであった。


 結論から言うと、畠山重忠に対する処罰は九月まで引き延ばされた。安田義定のときと違い、畠山重忠の家臣についての実情を調べなければならなかったことに加え、他の問題も源頼朝に課されていたのである。その問題の解決策として畠山重忠は計算できる人物であったのだ。

 このときの源頼朝に課されていた問題は四つ。

 一つは、壇ノ浦に沈みながら未だ見つからぬ三種の神器の一つである天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)。

 二つ目は、いつ対決することとなってもおかしくない奥州藤原氏との関係。

 三つ目は、美作国で発生した領地争いである。

 この三番目であるが、梶原景時と原宗行能が最勝寺や尊勝寺といった寺院の領地を勝手に横領しているという訴えがあり、それに対し梶原景時と原行能の両名がそれぞれ弁明としての陳状を提出したのである。厳密に言えば梶原景時からの書状の日付は文治三(一一八七)年八月五日、原宗行能からの書状は同年八月八日である。

 吾妻鏡によると両者からの弁明は以下の通りである。

 まずは梶原景時からの書状であるが、尊勝寺が保有する荘園のうち美作国の林野(現在の岡山県美作市栄町)と英多保(現在の岡山県美作市英多)の二箇所について、梶原景時の家臣が地頭として派遣され、年貢徴収をはじめとする実務に携わっていることを認め、何ら違法な点はないとして尊勝寺が要求する地頭の交替については拒否している。なお、この書状を作成する前に何度か尋問があったようで、既に詳細は述べているために新たな弁明を書状に記すことはないとしている。

 原宗行能からの書状は、最勝寺が若狭国今重(現在の福井県美浜町)に所有している荘園を原宗行能が横領しようとしているという訴えに対し、自分はそもそも横領しようなどという意思はないと否定している。原宗行能の名を語って勝手に土地を横領しようとしている不届き者がいることは認め、そうした不届き者直ちに逮捕され処罰されるべきとしている。

 ちなみに、この両名を梶原景時と原宗行能と記したが、梶原も原宗も苗字であって姓ではない。両名とも正式な姓を持っており、書状には平景時と惟宗行能という正式な姓名を自身の署名として用いている。


 四つと記しておきながら三つしか記していないと思うかもしれないが、四番目はしっかりと存在する。それも、何よりも最優先で対応しなければならないこととして存在している。

 京都の急速な治安悪化がそれだ。

 源義経がいた頃は検非違使としての源義経が警察権力を働かせることができた。

 北条時政が京都に派遣されていたときは、強引ではあるが強盗を許可無く殺害したことで治安の回復の第一歩を記せた。

 しかし、北条時政に代わって京都に派遣された一条能保は、貴族に対しては源頼朝の期待に応える対応はしても、治安維持と治安回復については役割を果たさなかった、いや、果たせなかった。源義経は朝廷から正当な権利を与えられた検非違使であり、北条時政は正当な権利を有さないながらも独自の軍事力を行使できた。それに対し、一条能保は検非違使でもないし独自の軍事力も持ち合わせていない。一条能保の他には中原広元も京都に滞在しているが、中原広元は京都復興の責任者であって武力行使のために派遣された人物ではない。そもそも中原広元も一条能保と同様に文人官僚であって、武力とは無縁の人物である。

 文治三(一一八七)年八月一二日、後白河法皇から一条能保に対し、武士を動員して治安維持に当たらせるよう依頼が来たという正式な情報が源頼朝の元に届いたのだ。

 源頼朝はかなり早い段階から京都の治安悪化を危惧していたが、その一方で、後白河法皇や朝廷との駆け引きもしていた。

 たしかに自分の代理として一条能保を派遣しているが、一条能保はあくまでも貴族であり武力行使ができる人間ではない。京都の貴族相手であれば一条能保は源頼朝の代理を問題なく務められるが、前述のように一条能保が独自の軍事力を行使することはない。軍事力を行使する意思がないのではなく、軍事力そのものが絶無なのである。

 ベストは朝廷が、セカンドベストは後白河院が、何らかの形で合法的に源頼朝の指揮下にある軍勢を京都に招き入れることであり、そのために京都に派遣する人員として畠山重忠は計算できる人物であった。しかし、家臣が土地を横領したというスキャンダルに見舞われてしまっては畠山重忠を京都に送り出すことはできない。少なくとも現地調査をするという名目で時間を稼ぎ、その上で根も葉もない噂であったとする結論を出したならば畠山重忠は無罪放免となって京都に送り出すこともできる。

 無罪放免の前例は梶原景時と原宗行能が作ってくれた。梶原景時は事実を認めた上で自分の行動が何ら問題のない正当なものであったとし、原宗行能は自分の与(あずか)り知らぬところで問題が起こっているので容赦なく容疑者を処罰してくれと願い出ている。畠山重忠も梶原景時や原宗行能のような態度を示せば問題なく京都へ送り込めるのだ。

 治安悪化という一刻の猶予もならない事態であることを踏まえても、このときの源頼朝の決断は遅かった。しかし、決断した結果、京都の想定を超える答えを出すことに成功した。

 畠山重忠を選ぶことはできなかったが、千葉介常胤と下河辺行平の両名を送り出したのである。なお、後白河法皇が一条能保に私的に依頼したのみで朝廷からの正式な依頼でないため、源頼朝も一条能保を通じて、旧知の仲である権中納言吉田経房に向けて千葉介常胤と下河辺行平の両名と、軍勢の使用する馬を送り届けたという体裁になっている。


 京都は治安悪化についての対処を一通り終えた源頼朝のもとに東北地方から不穏な知らせが飛び込んできたのは文治三(一一八七)年九月四日のことである。

 源頼朝は源義経の所在を探るために平泉に雑色を派遣した。その雑色から源義経の所在が確認できたという答えが返ってきたのである。

 雑色(ぞうしき)とは、本来であれば天皇の側に侍り秘書として仕える職務である蔵人の見習いであり、天皇の側に仕えながら昇殿を許されない職務の人のことであったが、時代とともに貴族の周囲に侍り秘書的な職務を果たす人のことを雑色と呼ぶことが増えてきていた。従二位の位階を持つ源頼朝も当然のように雑色を抱えており、安達清経のように現在にも名を残す雑色が存在していたことが確認できている。このときに奥州に派遣された雑色が安達清経であるどうかははわからないが源義経の捜索のために鎌倉と京都を行き来してきた安達清経が奥州に派遣された可能性は否定できない。

 名が記録に残っていない源頼朝の派遣した雑色は、平泉に観光に出かけたわけでも、人目につかぬよう隠密行動で平泉にまで向かったのではない。後白河法皇の出した院宣を平泉に届ける公的な使者として平泉に向かったのである。

 吾妻鏡の記述に従うと、平泉に源義経がいるらしいという未確認情報を受け、鎌倉から京都へと使者を派遣し、京都で後白河法皇の院宣を受けて鎌倉に戻った後で平泉に向かい、平泉から帰ってきたのが九月四日であるという。

 院宣の内容は、二年前に出ている源義経討伐を再確認する院宣である。朝敵となった源義経を匿うことは国家反逆罪であることを藤原秀衡に伝える内容であり、その院宣を受けた藤原秀衡からの回答を雑色は持ち帰ってきた。

 藤原秀衡からの回答は、自分は国家反逆者ではないというものである。単純に考えればその通りで、好き好んで国家反逆者になると答える者など、ゼロとは言えないが普通ならばいない。ただし、源義経が自分のもとにいることを正確に否定してはいない。回答を避けているのだ。

 そして、源頼朝が平泉に派遣した雑色は、はっきりとその目で源義経の姿を確認しているだけでなく、奥州藤原氏の軍備強化が着々と進んでいるところも確認している。ただし、源義経と直接会って話をしたかどうかは吾妻鏡には記されていない。もしかしたら、雑色は源義経の姿を見たが、源義経は雑色から隠れることに成功したと考えたのかもしれない。

 何のための軍備強化かと問われれば、その答えは自衛であろう。奥州藤原氏は他の有力武士団と違い、一つだけ大きな例外を持っている。それは、国外からの侵略がありえるという土地だということ。北海道や樺太、千島だけでなく、日本海の対岸にある金帝国や朝鮮半島の高麗も交易圏としているのが奥州藤原氏だ。国際交易というものは必ずしも平和のままに完了するとは限らない。場合によっては戦乱の火蓋が切って落とされる可能性が存在するのが国際交易というものだ。特に、一方が豊かでもう一方が貧しいとき、貧しさから脱却する手段として交易相手に侵略することは人類史上何度も見られたことである。国際交易路があるということは富の源泉となる一方、国外からの侵略者が通ってくるルートが完備されているということでもある。たとえこちらに侵略の意図がなくとも、向こうから侵略してくるようなことがあったならば、抵抗した末に死を迎えるか、侵略を受け入れた末に虐殺されるかだ。そこに平和という未来はない。ただし、侵略を断念させる方法が一つだけ存在する。どんなに話し合いの通じない野蛮な人間でも、殴り合いで勝てるかどうかならば理解する。そして、殴り合いで負けるとわかっている相手に殴りかかっていくような人間は、破滅を求めている人間以外にはありえない。ゆえに、奥州藤原氏が軍備を拡張することは、仮に侵略してくる動きを見せようものなら打って出るという意思表示を内外に示すことを意味する。

 もっとも、こんな見えすいた言い訳を文字通りに受け入れることはない。奥州藤原氏にとっての最大の脅威は、東北地方の南、関東地方に勢力を築き上げることに成功した鎌倉方である。この時代の日本国内最大の軍事組織と南で接していることを考えたとき、軍備拡張を図るのは当然の帰結といえよう。いかに国外情勢を踏まえてのことであるという公式見解を発表しようと、それは見え透いた言い訳でしかない。

 軍備拡張の必要性があったのに、その軍勢を指揮する指揮官がいないと嘆いていたのが奥州藤原氏である。そんなところに、源義経というこれ以上考えられない人材がやってきたのだ。国家反逆者とみなされると言われようと、源義経を手放すなど奥州藤原氏の選択肢の中にはない。

 奥州藤原氏からの返答は直ちに京都へと送られ、次の対策が練られることとなった。


 奥州藤原氏のもとに源義経がいるという話を、藤原秀衡が公的に認めたわけではない。鎌倉では源義経が平泉にいるのは既定路線となっていたが、京都ではまだ源義経が平泉にいることを知らない、あるいは平泉という話を聞いてはいても受け入れることのできない人もいた。

 源頼朝はこの空気を利用した。源義経は確かに奥州藤原氏のもとにいるが、源義経と行動を共にしてきた全ての人が平泉にいるわけではない。源行家のように既に討ち取られた人もいるが、戦場から離脱して身を隠している人もいる。

 また、身を隠しているのは源義経の関係者だけではない。壇ノ浦の戦い以後、いや、平家都落ち以後に各地に散らばることとなった平家の残党もいるのだ。

 源義経の残党や平家の残党、そして、源義経の捜索のためとして、この時点での鎌倉方の九州における指揮官である宇都宮信房と、朝廷より九州総追捕使の役職を拝命している天野遠景の両名に命じて、鬼界ヶ島までの捜索を命令したのである。鬼界ヶ島はこの時代の日本国の南端とされている島であり、それより南の島々にも日本人が住んでおり日本語が公用語である社会であることは知っているものの、日本国の統治圏の範囲ではないとされていた。ちなみに同じことは北海道や樺太や千島にも言え、日本語が通じる日本人が住んでいることは知識としては知っていても、統治園の範囲外となっている。この時代のアイヌ語と日本語の関係は、現在におけるアイヌ語と日本語の関係よりももっと近い。言語学的に論じるならば、アイヌ語と日本語というより、日本語の北海道方言と本州方言というべきであろう。

 話をもとに戻すと、鬼界ヶ島まで使者を派遣するということは鎌倉方が日本国の南端まで勢力圏を広げることを意味する。名目は源義経や平家の残党の捜索であろうと、鎌倉方が勢力を伸ばすことに利用できるのであれば利用しない手はない。

 また、この捜索命令によって一時的にではあるが、奥州藤原氏から鎌倉に向けられる視線が弱まったとも言える。奥州藤原氏のもとに源義経がいることを公的に認めたわけではなく、雑色が源義経の姿を確認したことも知らない。ここで源頼朝の視線が北方ではなく西や南に向かうのであれば、奥州藤原氏としては願ったり叶ったりである。

 さらに奥州藤原氏には、視線を東北に向かわせない追い風が吹いた。

 文治三(一一八七)年九月二七日に、厳島神社の神主である佐伯景弘から神器宝剣の捜索失敗が正式に報告されたのである。壇ノ浦の戦いで海に沈んだ天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は、これで正式に京都に戻ることはなくなった。後に伊勢神宮より献上された剣を形代(かたしろ)とすることで三種の神器を復活させることとなるが、それは後鳥羽天皇より二代後の順徳天皇の時代になってからである。どうして伊勢神宮から献上された刀を形代(かたしろ)とすることになるのかの理由は本作の終わりに知ることとなるはずである。


 奥州藤原氏に対するさらなる追い風が吹いたのが文治三(一一八七)年九月二七日のことである。この日、畠山重忠の所領四ヶ所が没収となり、千葉常胤の長男である千葉胤正のもとに預けられることとなったのだ。東北地方に鎌倉方が軍勢を出動させるとなった際には鎌倉方の軍勢を率いることになるであろう指揮官の一人と目される人物が軟禁状態になったわけであるから、奥州藤原氏にとっては危機が減ることとなる。

 奥州藤原氏にとって追い風であることは、鎌倉方の立場に立つと向かい風である。何しろ優秀な武人が一人減るのだ。しかも、誰かが責任を取らねばならない悪事があったのは事実でも、畠山重忠本人が他者の所領を没収したわけではないので、この判断は不当と言えば不当である。いかに部下の責任は上司にもあるとしても、このときの判断は厳しいとするしかない。

 畠山重忠もそのことを訴えていて、千葉胤正のもとに預けられることとなったその瞬間から一切の飲食を絶つハンガーストライキを始めたのである。

 現在でも政治運動の一環としてハンガーストライキが繰り広げられることがあるが、実はハンガーストライキというものはやっている人の自己満足でしかなく、たった二つの例外を除いて、ハンガーストライキによって政権の政策が大きく動くことはない。

 ところが、このときの畠山重忠はハンガーストライキにおける二つの例外の双方もとに該当したのである。

 ハンガーストライキが意味を持つ例の一つは、実際に絶食する人が権力の一翼を担っている人物でいること。日本での成功例だと、東京佐川急便事件で金丸信を略式起訴で済まそうとしたことに抗議するとしてハンガーストライキに打って出た青島幸男参議院議員の例がある。比例代表で一三二万票もの票を集めた政党の党首が国会議事堂の前でハンガーストライキを繰り広げたことで、金丸信は略式起訴ではなく逮捕され起訴されることとなった。ただ、これは背景に一〇〇万票を超える有権者がいる国会議員がやったから意味があるのであり、いかに将来有望な政治家になると予期される人であっても、現時点ではまだ無名である人物が学生運動の延長上でハンガーストライキを決行したところで意味は無い。意味があるのは、その人物の後ろに一〇〇万人レベルの支持者がいるときである。

 ハンガーストライキが意味を持つもう一つの例が、その人物が権力の監視下に置かれて軟禁状態にあること。権力によって監視下に置かれた場合は、その人物の保護が権力者に求められることとなる。監視下に置かれた人が死を迎えるようなことがあったら権力者の責任問題に発展するのだ。このときの畠山重忠の場合で考えると、畠山重忠の部下が他者の領地を不正に手に入れたところまでは畠山重忠の責任問題であるが、畠山重忠が軟禁下に置かれることとなってからは、畠山重忠の身に何かあった瞬間に源頼朝の責任となるのである。いかに千葉胤正のもとに預けられたと言っても、千葉胤正は源頼朝の命令で畠山重忠を預かっただけである。また、畠山重忠は源頼朝の判決に抗議するとして絶食しているので、千葉胤正がどうにか食事をするように勧めたとしても、源頼朝が判決を覆さない限りハンガーストライキは続き、責任は源頼朝のもとに向かうのである。

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

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