覇者の啓蟄 6.征夷大将軍源頼朝

 源頼朝が京都に到着した翌日の建久元(一一九〇)年一一月八日の早朝、三位以上の貴族が身につけることのできる参内用の直衣(のうし)が源頼朝のもとへと届けられた。これにより、源頼朝は一人の貴族として宮中に自由に参内できるようになった。もっとも、理論上は自由に参内できると言っても人生初の参内がそう簡単にすむわけはない上、源頼朝は軍勢を引き連れての上洛であり、その武力でこの国の戦乱を鎮静化させてきた人物である。その人物がこれから、藤原摂関政治の復興を目指している宮中へと乗り込むのだ。藤原北家でなければ居場所はないとまで言い切ることができる場所へ向かうとき、頼りになるのは、源頼朝と近しい限られた貴族を除けばむき出しの武力ということになる。

 法に従えば、平安京の敷地に入った瞬間に源頼朝は鎌倉方の武力を見せつけることができなくなるはずである。平安京の敷地内に武器を持って入ることができるのは、朝廷が任命した武官ないしは検非違使と、その部下達だけであり、源頼朝には武官としての正式な職位などない。だが、この時点の朝廷には源頼朝の味方であることが明瞭な武官がいる。

 参議を兼任している左兵衛督の一条能保だ。参議である貴族が何かしらの武官の役職を兼務することは珍しくない。たとえ武官の職位が名誉職になっていようと、武官の職位があれば、本人も、その部下も、武装して平安京の敷地内に入ることが許される。

 具体的な時刻は記されていないが、一一月八日の段階で一条能保は六波羅の源頼朝のもとを訪問し、佐々木定綱、和田義盛、梶原景時らとともに翌日の参内に向けての警備計画を立てている。侍所別当の和田義盛と所司の梶原景時がいれば、どの御家人をどのような形で配備するかを決定することが可能だ。侍所の指令によって警備役に選ばれた御家人達は一時的に一条能保の部下となり、左兵衛督の武力を前面に掲げての平安京警備が可能となった。

 また、実際の参内については権中納言吉田経房を通じて手筈を整えさせた。まずは宮中ではなく、後白河院へ訪問するのである。上洛初日は壮大なパレードを見せたものの六波羅に到着したのみ、翌日も参内はおろか六波羅から出ることすらなく、宮中公式参内は一一月九日であり、最初に訪問するのも後白河法皇のもとであることがここで内外に宣言された。

 ところが、日が暮れて、日が明けて、一一月九日になったというのに、六波羅は全く動きを見せない。源頼朝が後白河法皇のもとに向かうための準備は既に整っており、道という道、交差点という交差点には、ことごとく鎌倉方の御家人達が警備のために張り詰めている。理論上は左兵衛督でもある参議一条能保が、武官としての職務を遂行するために部下に命じて京都の警備を担当させているということになっているが、誰もそのような表向きの名目を信じることはない。

 動きがあったのは夕方になってから、現在の時制で言うと午後四時頃である。

 上洛時は武人として馬上の人であった源頼朝であるが、この日は貴族として牛車での移動である。貴族が参内するときに周囲をボディーガードとしての武士が固めることは通例であり、このときの源頼朝の乗った牛車の周囲もボディーガードである武士達が侍っていた。ここまでであれば普通の貴族の様子に見えたであろうが、源頼朝の牛車の周囲を固めているのは鎌倉方の御家人達である。恒例と言うべきか、吾妻鏡にはこのときの隊列をまとめている。

 後白河法皇のいる六条院を訪ねた源頼朝であるが、六条院で後白河法皇と二人きりとなったわけではない。複数名の貴族も同席しており、少なくともその中には権大納言吉田経房がいたことは記録に残っている。ただし、吾妻鏡には具体的に誰がいたのかという記録はない。

 以下は吾妻鏡に基づく記載である。

 まず源頼朝は貴族達の座の端に並んだ。権中納言吉田経房は貴族達の座から少し離れた奥の座におり、吉田経房が取り次ぐ形で後白河法皇が登場した。

 吾妻鏡によるとここで後白河法皇から源頼朝を大納言に任命する話が出たとあり、源頼朝から後白河法皇へ対してただちに返答することは無かった。

 その後、源頼朝は閑院内裏へと移動して後鳥羽天皇へ拝謁した。何度も述べているように、後鳥羽天皇は元服したものの摂政九条兼実は関白へと転じることなく摂政のままであり続けているので、摂政九条兼実は後鳥羽天皇の側に侍る形となっている。ここで後鳥羽天皇からどのような言葉があったのか、また、九条兼実とどのような話をしたのかは吾妻鏡に残されていない。話があったと記されているだけである。

 権大納言への就任に対する返信は六波羅へと帰還したのちである。権中納言吉田経房から、源頼朝を権大納言とするとした院宣が発給されたという連絡が六波羅に届いたのである。源頼朝が吉田経房に対して返信の書状を送り届けたことで源頼朝が権大納言就任を受け入れたこととなる。院宣が発給されたことを伝える私的な書状と院宣発給の連絡を感謝する私的な返信であるから、朝廷からの正式な権大納言就任を伝える流れが吾妻鏡に記されているわけではないが、公卿補任によると一一月九日に源頼朝が正式に権大納言に就任したとあるので、おそらく一一月九日中に源頼朝に対する正式な除目があったのだろう。なお、この時点で任命されたのは文官の官職であり武官の官職には任命されていない。そのため、御家人達を武装させて平安京の中で警備させるには、いったん左兵衛督一条能保の部下ということにさせ続ける必要がある。

 ちなみに、摂政九条兼実はこの日の日記に源頼朝が「朝大将軍」と自称したことを記している。征夷大将軍と明言しているわけではないが、このことから既に源頼朝は大将軍たることを目論んでいたことが読み取れると同時に、征夷大将軍をはじめとする武官の官職がこの日に与えられることが無かったことも読み取れる。

 そして、源頼朝のこの言葉が記されているのも九条兼実の日記のこの日の記事である。「謁頼朝卿所示之事等依八幡御託宣一向奉帰君事可守百王云々是指帝王也仍当今御事無双可奉仰之然者当時執法皇天下政給仍先奉帰法皇也天子如春宮也法皇御万歳之後又可奉帰主上当時全非疎略云々」(源頼朝が言うには、八幡の託宣での『君に帰し奉り百王を守るべし』について、ここで言っているのは帝王を指し示す言葉であって、今は後白河法皇が国政を執っていて後鳥羽天皇は皇太子のような立場になっているから、まずは後白河法皇に帰し奉り、後白河法皇が亡くなられた後で後鳥羽天皇に帰し奉るべきです)。これが後に院政において上皇や法皇がいかに権力を持ち天皇の権威が形骸化していたかを示す「天皇は東宮の如し」であるが、このフレーズを源頼朝が言ったこと、ここで取り上げられている院が後白河法皇であることはどれだけの人が知っているであろうか。しかも、ここで源頼朝が後鳥羽天皇を皇太子であるかのような立場であるかと評した理由が、後白河法皇崩御後を見据えての言葉なのだ。


 源頼朝が征夷大将軍を、より正確に言えば後世の人が征夷大将軍と認識している役職を求めていることは既に周知の事実となっていた。その役職がどのような権限を持ち、その役職を手に入れた源頼朝がどのように使いこなすかを完全に理解できている人はいないし、ましてや源頼朝の計略も知らない。大将軍として思い浮かべるのは木曾義仲の先例であり、かつ、木曾義仲の例は京都を蹂躙した木曾義仲を宥めるために妥協して役職を与えたという認識しかない。どのような理由で源頼朝が征夷大将軍を求めるのか理解できなかったのだ。

 ある程度わかっている範囲で言うと、征夷大将軍は征夷大将軍は位階相当の官職でないが、坂上田村麻呂まで遡れば先例なき選択ではない。気になる点として、この時点の貴族達がいかに軍事について疎くても、大将軍に与えられている様々な権利の中には作戦開始から作戦終了まで朝廷は大将軍の軍事作戦に介入できないという権利があることは知っている。その権利がどのような意味を持っており、源頼朝はその権利の持つ意味を重要視していることを把握していなかったのか?

 結論から言うと、把握していた。

 しかし、取るに足りない権利であるとも把握していた。

 ましてや権大納言の職位を手にした者が格下となる征夷大将軍に執着する必要性も感じていなかった。

 源頼朝が征夷大将軍に就任したとしても、この時点での考えでは問題点が二点あった。

 一つは範囲が不明瞭であること。征夷大将軍は特定作戦のためだけの臨時職であるのに、思い当たる作戦が存在しないである。作戦が存在しないのに征夷大将軍に就任しても、ただちに職位が消滅して終わりだ。

 もう一つは院政の存在。征夷大将軍の軍事作戦について朝廷が介入することは許されていない。しかし、院は違う。そもそも院という存在そのものが上皇や法皇の持つ個人的権威に基づく存在であり、院の発する宣言も上皇や法皇の感想であって国政に関する命令ではない。それがどんなに事実上の命令になったとしても、そして院宣という形で文書化されて全国に向けて発令されたとしても、法的な扱いとしては帝位を退いた皇族が示した個人的な感想なのである。個人的な感想なのだから、征夷大将軍の軍事作戦についても個人的感想を表明しようと勝手だ。

 そのことは源頼朝も理解していたからこそ、後白河法皇の存命中である現在と、やがて来るであろう後白河法皇の逝去後とを分けて語ったのだ。

 源頼朝はこの後、京内外の各地で大盤振る舞いをする。京都内外に住む人にとっての源頼朝とは、理念であって現実の存在ではない。源平合戦の渦中に苦しんでいた最中、特に木曾義仲の劫掠に苦しんでいた最中は、現在進行形で繰り広げられている横暴から自分達を救い出してくれる存在として源頼朝を捉えていたが、そこでの源頼朝とはあくまでも抽象的な存在であり、人格を持った一人の人間ではなかった。

 京都の人達を圧倒する壮麗なパレードは、源頼朝という存在の持つ勢力を否応なく見せつけることとなった。京都内外の人にとってはそれまで理念上の存在であった源頼朝が、パレードではじめて実在する人間であると気づかされたようなものである。それまでは実在性すら感じていなかった存在が生身の人間であると気付かされたとき、最初に生じた感情は不気味さである。源頼朝もやはり普通の人間であるという当たり前のことを、この当時の人は現実の源頼朝を目の当たりにしてはじめて実感したのである。一人の人間である源頼朝が遠く離れた鎌倉にいたまま自分達を操っていたのだと知って、かえって不気味に感じたのだ。

 その雰囲気を払拭する方法として大盤振る舞いは役に立った。六条院や閑院内裏、そして東大寺大仏殿の復旧工事に源頼朝がどれだけ貢献したかをアピールするのは源頼朝に向けられている視線を好転させるに十分であったが、誰もが思いつく範囲に留まるようでは世論の決定的な転換とはならない。

 建久元(一一九〇)年一一月一一日、再びパレードを組んで石清水八幡宮へ参詣した。一泊二日の参詣であるが、厳密に言えば〇泊二日である。徹夜で読経してもらっていたからである。その際に、石清水八幡宮へ一頭の馬と銀で装飾された一振の太刀を奉納している。

 石清水八幡宮から六波羅へと戻った翌日の建久元(一一九〇)年一一月一三日には、後白河法皇へ砂金八〇〇両、鷲羽二箱、馬一〇〇頭を進上している。このときは後白河法皇へ直接進上したのではなく、権中納言吉田経房にいったん預けた後での進上である。また、その後で朝廷にも一〇頭の馬を献上しており、朝廷へ献上された馬はこの後、各地の神社へ分けて奉納されている。

 女性に対しては馬ではないと考えたのか、建久元(一一九〇)年一一月一六日には後白河法皇の寵愛を受けている丹後局へ四〇〇反の絹糸と、二〇〇反の紺絹を贈り届けている。また、一一月一八日には清水寺へと参詣して、具体的にどのような内容でどのような規模あったのかの記録はないが、清水寺に対して多額の布施を納めた。


 建久元(一一九〇)年一一月一九日、源頼朝が一条能保とともに後白河法皇の六条院を訪問した。吾妻鏡には長時間の会談と記されているだけで、どのようなことが話し合われたのかの記録はない。ただし、ヒントならある。一一月二二日付の吾妻鏡に、源頼朝を大将に任命するという院宣が発給されたことの記録がある。この時代、大将と記されているだけであればそれは近衛大将のことを意味するが、近衛大将は二名いる。右近衛大将と左近衛大将だ。格で言うと左近衛大将のほうが格上だ。

 建久元(一一九〇)年一一月時点の左近衛大将は権大納言藤原良経の兼任、右近衛大将は右大臣藤原兼雅の兼任である。議政官の席次で言えば右大臣である藤原兼雅のほうが上であるが、武官としての席次となると藤原良経のほうが上になる。源頼朝は位階も申し分ない上に既に権大納言であるから、左近衛大将にも右近衛大将にも就任する資格を有しているが、定員一名の役職であるため、藤原兼雅か藤原良経のどちらかに近衛大将を辞めてもらわなければ源頼朝を近衛大将としなければならない。

 では、どちらが近衛大将を辞職することとなるのか?

 結論から言うと右大臣藤原兼雅である。右近衛大将を辞職して右大臣専任とすることが求められたのである。藤原兼雅に何かしらの問題があったというわけではない。藤原良経は摂政九条兼実の息子であり、公卿補任をはじめとする朝廷の公的文書では藤原姓を使用するが、一般には九条良経と呼ばれている。貴族としての経歴は浅くとも父親の威光は絶大だ。自分が手にしている兼職を取り上げられることについて藤原兼雅がどのような心境でいたのかを伝える記録はないが、そう簡単に了承しなかったことは推定できる。

 また、源頼朝が求めていた官職は征夷大将軍、正確に言うと後世の我々が征夷大将軍と呼ぶことになる官職であって、より上位の官職であることは認めても手にする権限となると源頼朝の納得できる権限を満たさない近衛大将ではない。源頼朝があくまでも征夷大将軍を求めたであろうことも推定できる。

 その結果が一一月二三日に開催された源頼朝と後白河法皇との二度目の会談である。源頼朝はこのとき、二〇〇反の長絹、一〇〇〇両の絹綿、三〇反の紺絹を手土産として持参しているが、手渡した相手は後白河法皇ではなく後白河院の台盤所、すなわち、院で働く女性達の控え室である。このときの会談でどのような内容が話し合われたのかは吾妻鏡に書かれていないが、その翌日の出来事に会談内容のヒントがある。

 建久元(一一九〇)年一一月二四日、右大臣藤原兼雅が兼務していた右近衛大将を辞職して右大臣専任となった。同日、空席となった右近衛大将に権大納言源頼朝が任命された。このような除目は通常であれば複数名の新たな官職が新しく付与されるものであるが、この日の除目は源頼朝だけが新たな官職付与対象者であるという特別な除目となった。名目上は前任の右近衛大将が兼職である右大臣に専念するために右近衛大将を辞職したことにより、空席となった右近衛大将に権大納言源頼朝を任命するという、誰が見ても建前だけの、それでいて、法に従えば何ら不都合ではない流れである。


 院政が権力を手にした理由は、上皇や法皇が人事に強く介入したからである。あくまでも推薦したというだけであり、天皇にしても、議政官にしても、上皇や法皇の推薦を拒否することは可能ではあるが、実際問題、天皇の父や祖父や曾祖父である上皇や法皇の推薦を誰が拒否できるであろうか。裏を返せば、院の推薦を得ることができれば議政官の議論を経ることなしに位階の昇叙や新たな官職を得ることができるということだ。

 院に取り入って自身の栄達を遂げるために上皇や法皇に贈り物を届けるのは常道であるし、栄達として新たな役職を手に入れたあとで御礼を伝えるために院のもとへ向かうのも常道である。ただし、院の側としても人事に関する推薦をした手前、推薦した人物が下手なことをすると院の信用問題にも発展する。それは特に、新たな官職を手にする場合は、官職に見合った牛車や衣服、調度品を院から下賜されるのが慣例となっていることからも読み取れる。官職相応のものに囲まれていないというのは、推薦した院の信用問題にまで発展するのだ。それは源頼朝とて例外ではなく、後白河法皇から牛車や装束が下賜されている。

 権大納言兼右近衛大将に就任した、それも、藤原摂関家ではない人間が就任したのは後白河法皇の推薦が反映されたからということになっている。源頼朝自身は征夷大将軍、より正確に言えば後世に生きる我々が征夷大将軍と呼んでいる職務を望んでいたのであるが、その願いを反故にさせるためにより高い地位の職務である右近衛大将が源頼朝に与えられたという特殊事情である。それでも、体裁としては院の推薦による権大納言就任、そして、右近衛大将就任であるため、後白河院からの下賜はおかしくないし、御礼を伝えるために源頼朝が後白河法皇のもとを訪ねるのも常道である。

 建久元(一一九〇)年一一月二九日の夜に源頼朝が後白河法皇のもとを訪れた。そのとき、三浦義澄、足立遠元、下河辺行平、小山朝光、千葉胤正、八田朝重、小山田重成、三浦義連、三浦義村、梶原景季、加藤景廉、佐々木盛綱の一二名の御家人も同行していることが吾妻鏡に記されているが、後白河法皇のもとでどのようなやりとりがあったのかを吾妻鏡は記していない。翌一一月三〇日に、朝廷から藤原兼雅に下賜されていた右近衛大将とその周囲に侍る人達のための装束が朝廷へと返還され、同日中に源頼朝のもとへ下賜された。これにより、前述の一二名の御家人は右近衛大将に仕える側近の衣装を身にまとうことが許されることとなったと同時に、武官として上から二番目である源頼朝に仕えるという理由で、鎌倉方の御家人達が平安京内で武装することが許されることとなった。もっとも、それ以前から一時的に左兵衛督一条能保の部下になるという体裁で御家人達が平安京内での武装をしていたので、一条能保を挟まなくなったという以外に違いはない。

 さて、一一月二九日に源頼朝が後白河法皇のもとを訪れたと記したが、それは正式な御礼参りではない。正式な御礼参りは一二月一日である。さすがに周囲に侍る者が一二名というのは少ないと思った方もいるであろうが、一一月二九日の一二名というのはあくまで御礼参りの前の準備のための後白河院への訪問であり、本番となると壮大なパレードとなる。権大納言兼右近衛大将であり、かつ、後白河院からの下賜もあったため、パレードそのものは常道に則ったものであるが、鎌倉方の御家人達のうち右近衛大将の部下として正式に任命された者が、朝廷から下賜された衣装を身にまとって参加している。また、源範頼をはじめとして、鎌倉方の御家人のうち朝廷から正式な官職を得たことのある者は武人としてはなく文人官僚、ないしは貴族としてこのパレードに参加している。


 建久元(一一九〇)年一二月二日、権大納言兼右近衛大将源頼朝が、はじめて正式な権大納言として内裏に参内した。この日が源頼朝の議政官デビューである。

 多くの人は、政治家源頼朝がこれから京都でどのような政治を展開するのかに注目し、貴族達も新しい権大納言の言葉に耳を傾けようとした。なお、一二月二日に源頼朝が内裏でしたことは後鳥羽天皇への挨拶だけであり、議政官の一員としての職務は全く果たしていない。よほどのことがない限り議政官デビュー初日から政務に追われるということはないので、この日の源頼朝の行動は通例に則ったものである。

 しかし、源頼朝は通例に無いことをしたのである。

 建久元(一一九〇)年一二月三日、源頼朝、権大納言と右近衛大将の両官職を辞職。同時に、鎌倉へ戻ることを発表した。

 これでは一体何のために上洛してきたのか。

 源平合戦を終結させ、平泉も制圧して奥州藤原氏を滅亡させたあとの上洛だ。日本全国を武力で統一させたと言ってもいい源頼朝が上洛して権大納言兼右近衛大将に就任した。その後で待っているのは、平清盛のように朝廷内で官職を登り詰めて国政を牛耳ることではないのか。

 それなのに官職を捨てて、さらには京都まで捨てて、鎌倉へと戻るというのだ。そう言えば平清盛も六波羅に平家の本拠地を構築しつつ、本人は京都から離れた福原へと移ったが、それでも福原は京都から数日、それこそ二日で行くことができる距離であるし、平清盛は太政大臣になった上に平家の面々を複数名議政官に送り込んで国政を乗っ取った。一方の源頼朝は最高位が権大納言であるだけでなく他の源氏を議政官に送り込んでもいない。吉田経房や一条能保といった源頼朝とつながっている貴族が議政官に名を連ねていると言えばその通りであるが、それでも国政を操作できるほどの規模ではない。

 無論、源頼朝のこの行動の意味を理解している人はいた。最初から一時的な京都滞在を前提として一時的な官職だけを求めて上洛するのであり、京都の恒久的に住み続けるのでもなければ、永続的に朝廷の官職を手にし続けるわけでもない。だから、源頼朝が官職を手放すのはそう遠くない未来に起こることであると考えてもいた。しかし、それにしても権大納言就任から一ヶ月も経っていない、前任者を辞職させてまで就任した右近衛大将に至っては一〇日も経ずに辞職である。これではそもそも任官する必要すらなかったのではないかというのが多くの人の感想だ。

 源頼朝は、官職辞任を発表した後に京都内外の寺社に参詣して再度布施を納め、方々に挨拶をして回った。なお、九条兼実はその日記に「現役の近衛大将ならばともかく辞職した元近衛大将が半蔀車(はじとみぐるま)に乗っているのは初耳だ」とした上で、「前大納言で前大将である人物が半蔀車(はじとみぐるま)に乗って出仕。これは院宣である」と皮肉を書いている。半蔀車(はじとみぐるま)とは、摂政、関白、大臣、そして近衛大将しか乗ることの許されない特別な牛車であり、右近衛大将を辞職する前であった源頼朝は乗る資格があったが、辞職後も乗るとなると前例は無いという苦言だ。もっとも源頼朝にも言い分はある。半蔀車(はじとみぐるま)は後白河法皇が源頼朝へと下賜したものなので、乗らないわけにはいかないのである。


 建久元(一一九〇)年一二月一一日、源頼朝の鎌倉帰還前に、鎌倉方の御家人達に源平合戦とその後の功績に対する表彰として官職が付与された。

 左兵衛尉、千葉常秀こと平常秀。祖父である千葉常胤が功績表彰対象であったが、既に七三歳と高齢であったこともあり、孫である千葉常秀にその表彰を譲った。

 同じく左兵衛尉、梶原景茂こと平景茂。本来なら父の梶原景時が功績表彰対象であったが、梶原景時は既に左衛門尉の官職を得ていたため、息子である梶原景茂にその表彰を譲った。朝廷の職掌上は左衛門尉より左兵衛尉のほうが格上であるが、梶原景時は鎌倉方の内部で侍所所司の役職を務めている。それに、親より上の官職となったというだけで息子を厚遇するような梶原景時ではない。

 同じく左兵衛尉、八田知重こと藤原知重。梶原景時と同様に八田知家が功績表彰対象であったが、八田知家が既に右衛門尉であるため、息子である八田知重にその表彰を譲った。なお、元暦二(一一八五)年に勝手に朝廷からの任官を受けたということで源頼朝から怒りの書状を受け取った二四名の御家人のうちの一人である。

 右兵衛尉、三浦義村こと平義村。本来なら父の三浦義澄が功績表彰対象であったが、千葉常胤よりは若いもののやはり高齢であったこともあり、子の三浦義村にその表彰を譲った。

 同じく右兵衛尉、葛西清重こと平清重。これは本人の功績によるものである。

 左衛門尉、和田義盛こと平義盛。同じく本人の功績によるものである。

 同じく左衛門尉、三浦義連こと平義連。同じく本人の功績によるものである。

 同じく左衛門尉、足立遠元こと藤原遠元。同じく本人の功績によるものである。なお、足立遠元は既に右馬允であったので出世ということになる。

 右衛門尉、小山朝政こと藤原朝政。同じく本人の功績によるものである。なお、かつて右兵衛尉であったことがあるので、より上の官職に復帰したこととなる。小山朝政は八田知家と同様に元暦二(一一八五)年に勝手に朝廷からの任官を受けたために源頼朝から怒りの書状を受け取った二四名の御家人のうちの一人であるが、小山朝政はそのあとで官職を辞したため、八田知重と違って無官ということになっていた。

 同じく右衛門尉、比企能員こと藤原能員。同じく本人の功績によるものである。

 もともと後白河法皇から源頼朝に対して、鎌倉方の二〇名の御家人に官職を与えるので推薦するようにという話であったのだが、源頼朝はその推薦要請を辞退し、それでも食い下がったので半分の一〇名の推薦ということになった。

 これが建久元(一一九〇)年時点での源頼朝の京都での最後の記録となる。

 建久元(一一九〇)年一二月一四日、源頼朝らが京都を出発して鎌倉へと向かった。六波羅にある三台の牛車のうち二台は鎌倉で使用するために運び出されることとなったが、牛車は現在の乗用車と違ってそこまでの長距離を移動できる乗り物では無いため、佐々木定綱が責任者となって牛車を鎌倉へ輸送することとなった。


 それからの吾妻鏡の記事は建久元(一一九〇)年一二月の何日にどこに経由して鎌倉へと向かったかという記事になる。

 以下は吾妻鏡における記載である。

 一二月一五日、箕浦宿。現在の滋賀県米原市。

 一二月一六日、青波賀。現在の岐阜県大垣市。

 一二月一七日、黒田。現在の愛知県一宮市。

 一二月一八日、小熊。現在の岐阜県羽島市。

 一二月一九日、宮路山中で野宿。現在の愛知県豊川市。

 一二月二〇日、橋下。現在の静岡県浜名郡新居浜町。

 一二月二一日、池田。現在の静岡県磐田市。

 一二月二二日、懸河。現在の静岡県掛川市。

 一二月二三日、嶋田。現在の静岡県島田市。

 一二月二四日、駿河国府。現在の静岡市葵区。

 一二月二五日、奥津。現在の静岡市清水区。

 一二月二六日、黄瀬河宿。現在の静岡県沼津市。ここで留守を預かっていた北条時政が鎌倉方の一行を出迎えた。

 一二月二七日、竹下。現在の静岡県御殿場市。

 一二月二八日、酒匂。現在の神奈川県小田原市。

 一二月二九日、鎌倉に到着。

 復路に要した時間は往路の半分である。そして、復路は往路と違って全く事件らしい事件、さらには特筆すべき事項が一つを除いて記録に残っていない。日付と宿泊先の記録以外に何かしらの記載があったのは、宿泊する場所がなくて野宿になった一二月一九日と、北条時政が出迎えに来た一二月二六日だけであるが、これは例外的記載とは言えない。

 では、前段で一つを除くとした事項は何であったか?

 建久元(一一九〇)年一二月一四日に源広綱が行方をくらませたのである。源広綱は源頼政の子で、兄の源有綱がギリギリまで源義経と一緒に行動していたのに対し、源広綱は源頼朝に仕える御家人の一人であり続け、このときの上洛においても源頼朝と行動をともにしていた。それなのに、鎌倉へと帰還する当日になっていきなり行方不明となったのである。

 後に、源頼朝が右近衛大将に就任したときの拝賀の供奉人に選ばれなかったことと、駿河国の国務について希望が叶えられなかったこと、すなわち、以後も鎌倉方の御家人の一人であり続けた場合の自分の未来に絶望したことを理由として出家したことが判明している。

 源広綱は微妙な立ち位置にある御家人であったと言える。源頼政は平治の乱で源氏を離れて平家方を選び、平家政権下における数少ない源氏の武力であったが以仁王の令旨により反平家で立ち上がった人物である。その直前に従三位の位階を得ていたため、源広綱は武士であると同時に三位の位階を持つ貴族の子でもある。何となれば、源頼朝挙兵時の朝廷内の地位で考えれば源頼朝より上だ。それが、気がつけば源頼朝は正二位権大納言兼右近衛大将まで昇りつめたのに対し、源広綱は源頼朝の従者の一人でしかなく、貴族の子であるとか以前に朝廷内の地位という概念が適用されない立場になってしまっている。それでも鎌倉方の御家人の一人として源頼朝上洛時の報償対象となればまだプライドは維持できたであろうが、武人としての能力は上であることは認めてもそれまで無位無冠と心の底では見下すことの多かった他の御家人達が報償対象となったのに対し、源広綱はその中の一人としてカウントされることもなかった。考えてみていただきたい。これまで見下していた、いや、視界にすら入っていなかった存在が、自分の誇りの寄って立つ指標で自分よりも上の地位を獲得したことを。どんなに言い繕ったところで、位階や役職といった誰の目にも明らかな客観的指標が存在する以上、自分は追い抜かれた敗者なのである。

 出家というのは、自らの身に示された絶望という名の現実からの逃避行動でもあったのだ。


 建久二(一一九一)年元日、三日前に鎌倉に到着したばかりの源頼朝は、辞職したとはいえ朝廷から官職を受け取った身であることを鎌倉で誇示した。こうした誇示自体はどの貴族も多かれ少なかれ開催するものであるが、一月一日であること、辞職した後になってから開催すること、そして、京都から遠く離れた鎌倉の地で開催することの三点の異例が存在するため、他の貴族では見られない特殊なものとなった。

 その誇示の方法であるが、家人が主君の昇進を祝う場を主宰して主君を招くのである。現在でも「大盤振舞」という言葉があるが、その語源でもある?飯(おおばん)がそれだ。家人が主君を招いて御馳走を振る舞うと同時に、他の家人も相伴に預かるという儀式であるが同時に祝宴も兼ねており、この時代の武士においてはごく一般的な新年行事であった。ただし、今回は源頼朝の官職拝命が加わっているので特別なものとなる。

 また、源頼朝が元日はどこの家に招かれ、二日はどこに招かれるのか、三日はどこに招かれるのかという問題がある。当然ながら元日に招くのが最上級であり、日を経るにつれて格が下がるとみなされる。去年は順番を譲ったから今年は我が家が元日だといったやりとりがあったことは考えられるが、何しろ建久二(一一九一)年の正月は前年の官職拝命の後を受けた?飯(おおばん)なのだ。順番をそう簡単に譲るわけにもいかないし、去年は譲ったからという理由で今年の配慮を求めることも不可能である。

 そこで、建久二(一一九一)年元日は、名目上は千葉常胤のもとに赴くということにし、実際には京都での貴族経験のある平時家が対応することにしたのだ。平時家は平時忠の息子であり、平時忠は「平家ニ非ズンバ人ニ非ズ」とまで豪語したとされる平家の公達の一人である。父の威光もあって平時家は従四位下右近衛権少将兼伯耆守まで出世していたのであるが、この人は父と違って平家と訣別して鎌倉に赴いている。正確に言えば父の手で治承三(一一七九)年一一月に上総国に流罪となっていたのを上総介広常に拾われて上総介広常の娘と結婚し、上総介広常が粛清されたときも連座とならずに源頼朝の元に仕え続ける身となったという経緯がある。そのため、平頼盛が鎌倉を離れてから源頼朝が上洛して権大納言を拝命するまでの間、平時家は鎌倉における朝廷官職上の最上位官職経験者という位置付けになっており、このときの?飯(おおばん)の実質的な主催者を平時家とすることで、他のどの御家人よりも、あるいは鎌倉在住の文人官僚よりも元日の?飯(おおばん)として相応しいという形にすることで、どの御家人からも文句をつけられることのない元日とすることにしたのだ。また、源頼朝が上座に座り、他の貴族が下座に着し、その間に御簾を設けるという舞台を用意して、それまでの最上位官職経験者である平時家が御簾を上げて上座に控える源頼朝と下座に着す御家人達と対面するという儀式にすることで、官職拝命直後であるために特別である?飯(おおばん)であると演出することにも成功したのである。他の誰かがやったのでは御家人達の間で不平不満が出るであろうが、朝廷官職という点では鎌倉において他の追随を許さない平時家であれば、文句を言いたくても言えない。

 以後、吾妻鏡に残る?飯(おおばん)の記録は以下のとおりである。

 一月一日、千葉常胤。実質的には平時家。相伴は千葉常胤の子、長男の千葉胤正、次男の相馬師常、三男の武石胤盛、四男の大須賀胤信、五男の國分胤道、六男の東胤頼。そのほか、千葉一族の郎党の面々。

 一月二日、三浦義澄。相伴は、岡崎美実、和田宗実、三浦義連、比企能員、三浦義村、三浦景連、そのほか三浦家の郎党の面々。

 一月三日、小山朝政。相伴は、下川辺行平とその弟の下川辺政義、小山朝政の五男の長沼宗政、七男の結城朝光、

 一月四日、記録なし。

 一月五日、宇都宮朝綱。このとき、御家人達から選抜された者で、正月に弓矢の腕前を競う弓始(ゆみはじめ)も開催し、下川辺行平、榛谷重朝、和田義盛、藤沢清親が参加している。また、平時家と北条義時の両名は参加者に報償を渡す役割として参加している。

 あくまでも吾妻鏡の記載であるが、こうしてみると御家人達の誰もが?飯(おおばん)の順番で競い合ったようではないものの、名が記されている面々を見ると、平時家を前面に掲げなければ、いったいどのような争いに発展してしまったであろうかという不安も感じる。


 建久二(一一九一)年一月の途中までは、前年末の任官を祝すための儀式も加わった諸々の新年恒例行事が立て続いていたが、一月一五日、源頼朝が上洛したことの意味が発揮される出来事が起こった。

 公文所を政所へと改称させたのである。

 職掌は変わらない。組織のトップも公文所別当であった中原広元が京都在駐のまま政所別当として連続して就任している。しかし、前右近衛大将という公的な肩書きを得たことで、鎌倉に存在する公文所は今後、鎌倉在住の前右近衛大将のもとに存在する政所となったと対外的に公表したのである。これまで鎌倉の御家人は源頼朝個人に仕える形での主従関係であったが、それがたとえ名目上であっても、今後は前右近衛大将である上級貴族に仕える官人という扱いになったのだ。

 政所に携わる人員については中原広元をはじめ既に公文所時代に固定しており、それがそのまま政所の担当者となった。業務内容も大きな変化はない。ただし、一つだけ例外がある。従来の公文所の発給する文書は源頼朝の花押が記されていたが、政所となってからは源頼朝の花押が消えた代わりに「前右大将家政所下文」と記されるようになった。源頼朝個人に基づく組織ではなく、職掌に基づく組織であるという宣言である。また、既に存在していた侍所についても、従来の源頼朝直属の機関から、鎌倉の前右近衛大将の直轄組織へと変更になった。こちらは組織名も職掌も全く変更がない。

 なお、鎌倉での政所の設置ついての報告を京都に届けた後、京都は一つの回答を示している。二月一日に、それまで検非違使別当を兼務させていた権中納言土御門通親を権中納言専任とし、新たな検非違使別当として参議一条能保を任命したのである。前年の源頼朝上洛の後、何名かの武士は京都に残った。また、従来から京都に留まり続けている武士も存在していた。彼らはこれまで一時的に左兵衛督一条能保の部下となることで京都市中での武器携帯が許可されているという扱いになっていたが、一条能保が検非違使別当となったことで、京都市中で御家人達が武器を携行することだけでなく、彼らが事実上の警察官として京都市中の治安維持を担当することが可能となったのである。

 源頼朝は平家を滅ぼしたが、朝廷との関係性だけについて言うと、建久二(一一九一)年初頭の源頼朝は平家を踏襲していると言える。平安京に睨みを利かせることができる武力を平安京の東隣の六波羅に配置し、組織体のトップである人物は理論上こそいっさいの官職を降りた身となっていて、その住まいも京都から離れた場所であるが、組織体はトップの意向が強く反映されるようになっている。ただし、平家のトップであった平清盛は平家の面々を数多く議政官に送り込んで朝廷そのものを飲み込もうとしたのに対し、鎌倉方のトップである源頼朝は、吉田経房や一条能保といった、藤原摂関家の面々のうち源頼朝と協力関係を構築できている人物が議政官にいるというだけで、朝廷そのものの支配を企んではいない。実際、源頼朝が上洛し、やるべき事を終えて鎌倉へと戻った後、京都市中の人達における鎌倉方の認識は変化していた。遠く離れた鎌倉にいる馴染みのない武装集団と考えていたのであるが、源頼朝の帰還後は、鎌倉方の本拠地は平家と同様に六波羅であって、鎌倉は平清盛における福原と同様に、京都から離れた場所にある別荘地という認識になったのである。


 先に、建久二(一一九一)年一月一五日の政所設置以降、政所の発給する書状からは源頼朝の花押が消えた代わりに「前右大将家政所下文」と記されることとなったと記した。しかし、この文書の実物はない。

 政所の新たな書状発給様式への変更に失敗したという側面もあるが、新たな書状の書式に切り替えた直後に大事件が起きたからである。

 観光で鎌倉を訪れた人の多くの人が鶴岡八幡宮に参詣したことがあるであろう。そして、鶴岡八幡宮の本殿が山の上にあること、本殿のあたりから海を見下ろすと都市鎌倉が一望できることを体験したであろう。だが、これは移転建立当初の鶴岡八幡宮の姿ではない。

 建久二(一一九一)年三月四日の真夜中、現在の時制にすると午前二時頃、鎌倉の小町大路の辺りから出火。南から吹き付ける風は燃え広がった炎は鎌倉中を襲い、鎌倉方の拠点である大倉御所のほか、少なくとも、北条義時、大内惟義、村上基国、比企能員、比企朝宗、佐々木盛綱、一品房昌寛橋、仁田忠常、工藤行光、佐貫広綱の家が焼け、数十軒の民家も焼失。前述の文書の多くもこのときの火災で焼けて灰になってしまったのだ。

 さらに火災は鶴岡八幡宮へと飛び火し、流鏑馬馬場の五重塔、神殿、回廊、経堂が焼け落ちた。

 源頼朝らは安達盛長の家へと避難して火災から逃れることに成功したが、三月六日にようやく鎮火した後で源頼朝の目に飛び込んできたのは、炎に煽られて灰になってしまった都市鎌倉の光景であり、その中心を為しているはずの鶴岡八幡宮の焼け跡であった。それだけでも衝撃であったが、その日の戌刻、現在の時制に直すと午後八時頃に大地震が鎌倉を襲ったとなると、衝撃を超えて絶望になる。普通ならば。

 ところが、この大地震を吾妻鏡は信じられない言葉で形容している。吉兆だというのだ。吾妻鏡の記載によると、このタイミングでの大地震こそ帝釈天の思し召しによる吉兆が鎌倉を包んでいる証拠であるとしたとある。この公式見解は、衝撃に重なる絶望に打ちひしがれていた多くの人達を勇気づけることになったであろう。

 三月八日、源頼朝は二階堂行政と武藤頼平の両名を工事監督者に任命した上で鶴岡八幡宮の本殿を山の上に移すよう命じた。早々に鶴岡八幡宮の再建を始めることにしたのである。現在の我々が目にする鶴岡八幡宮の姿は、このときの火災後の再建工事を経た姿である。三月一三日にはもう仮設神殿への移転が執り行われたというのだから、かなりの急ピッチでの工事であったろう。

 突然の火災、そして地震。吾妻鏡には鶴岡八幡宮の復旧工事のことしか記されていないが、当然ながらその他の建物の復旧工事も並行して進んでいるし、この災害を契機として住所を変えた御家人もいる。また、都市鎌倉の復旧計画の中にはこれまでより災害に強い都市づくりもある。人間の手にはどうにもならない災害に見舞われても直ちに立ち上がって復旧へと進む姿は、現在進行形でその土地に住んでいる人にとって自分の生きている時代が躍動している時代であることを感じさせ、自然災害への苦しみよりも自然災害を乗り越える人智を実感させてくれる。災い転じて福となすという言葉があるが、この時の都市鎌倉に住む人にとっての火災は、まさにその言葉の実感であったろう。


 鎌倉が自然災害に見舞われ、火災と地震からの復旧に向けて動き出していた頃、京都ではこれからの時代に向けての一つの動きが起こっていた。

 建久二年(一一九一)年三月二二日と二八日の二回に分かれて発せられた宣旨である。研究者はこれを建久新制とも建久制符ともいい、ローマ数字を用いて、二二日の宣旨をⅠ令、二八日の宣旨をⅡ令として区別している。

 単なる宣旨ではなく新制あるいは制符として特別視されるのは、このときに一度に出された宣旨が、一つの物事に対して扱った単発の命令ではなく、今後の政治方針を全国的に広く宣言するものであったからであり、現在の感覚で行くと選挙前のマニフェストに近いと考えていただければ、多くの人に理解していただけるであろう。現在の感覚で行くと憲法改正、この時代の感覚で行くと律令の全面改定とまではいかなくとも、これからの政治に関する根幹を広く伝えるという意味で複数の条文からなる宣旨を発給することはこれまでも多々あり、それらは新制として特別視されてきたものであった。

 この時代の人達にとって強く印象に残っているのは保元の乱の後で信西主導のもと後白河天皇の名で発せられた保元新制であり、治承四(一一八〇)年には高倉天皇の名で保元新制を補完する形で治承新制が発せられている。今回の新制は保元と治承の二つの新制をさらに補完するものである。

 Ⅰ令は一七箇条、Ⅱ令は三六箇条からなっており、計五三条の条文を読む限りではそのうちの一つを除いて過去二例の新制と大きな違いはない。宗教界に対する対策と資産の保全、質素倹約を訴える内容などは過去二例が時代を超えて蘇ったと形容できる内容である。ただ、そのたった一つの違いがあまりにも大きい。Ⅰ令の第一六条だ。

 以下にその条文を記す。

 国司には令制国内の治安維持を目的とした軍事行動が認められている。

 厳密には、軍隊の出動が必要となった事態が令制国内で起こったならば、事件のあった地域の郡司が国司に事件を奏上し、国司から京都まで事件を届け、京都からその国に対して事件解決を命じる太政官符が送られ、国司が太政官符に基づいて軍隊を組織して令制国内の治安維持に務めるという仕組みである。ただし、時代とともに短縮化され、太政官符なしで軍事行動を起こす、あるいは、太政官符を求めはするが発令される前に鎮圧に乗り出すことも珍しくなくなった。当然だ。待っていたら助かる命も助からなくなる。ただし、いかに短縮化されようと、全く連絡することなく終わらせるということはほとんどない。連絡することなく軍事行動を繰り広げたために後三年の役における源義家は戦争ではなく私戦とみなされて朝廷からの報奨が与えられなかったし、突然の侵略であったために連絡がまともに取れなかった刀伊の入寇において、軍を指揮して侵略に立ち向かった藤原隆家も当初は報奨対象とならずにいた。一方、国司が独自に軍事行動を起こし、朝廷への報告が事後報告となったとしても、それが太政官符でないにしても、正式な指令が宣旨として、あるいは院宣として送られれば、国司の軍事行動は認められることとなるし、結果次第では報奨の対象となる。

 では逆に、明らかに軍事行動を起こさなければならない事態が起こっているのに国司が軍事行動を起こさないとどうなるか?

 その答えは、厳罰。

 問題が発生しているのに何もしないでいるのは国司の職務怠慢であり罰せられるというものだ。受領は倒るる所に土を掴めというのは国司の専横と強欲を示す言葉であるが、可能性は低いとは言え、大問題が起こったときに国司が果たさねばならない責務を考えると、国司というのはリターンの多い職務ではあるが断じてローリスクな職務ではないと言える。

 もっとも、現実問題として、国司にそこまでの軍事行動や治安維持活動ができるだろうかという問題がある。何と言っても国司を誰とするかは知行国主の裁量となる時代となっていたし、そうでなくとも、国司に任命された本人は赴任することなく代理の者を派遣することも珍しくもなくなっていた時代にもなっていた。

 そこで、国司ではなく別の者に治安維持を命じることが行われるようになった。

 その嚆矢となるのが仁安二(一一六七)年五月のことであり、このとき、権大納言平重盛に対して山賊海賊追討宣旨が下ったのである。その範囲はかなり広く、瀬戸内海沿岸に加え、東海道と東山道も平重盛の手による治安維持活動範囲であると明示された。実際問題、いかのこの時点の平家の勢力が絶大であったとはいえ、東北地方、関東地方、東海地方、そして瀬戸内海沿岸全体といった広大な範囲の治安維持活動を一手に担わせるのは無茶な話とするしかない。

 ところがこの無茶は先例となった。しかも、仁安二(一一六七)年の平家よりも優れた軍事力を持つ集団が誕生した。平重盛では無茶であった責務でも、彼らならこなしきれるであろう巨大な集団である。

 それが鎌倉方だ。


 鎌倉方は日本全国に人員を配置しており、鎌倉からの命令一つでいつでも軍勢を出動できるようになっている。これを朝廷として利用しない手はない。

 建久新制によって、前右近衛大将の源頼朝に対して日本全国の治安維持を務めるように指令が出た。つまり、治安維持を前提として源頼朝が指令を出した軍事行動であるならば、それは国が認める軍事行動であると自動的に朝廷として宣言することとなり、報奨対象として計算できるようになったのだ。

 さらに、建久二年(一一九一)年四月一日には京都在駐の中原広元が土御門通親の推薦によって明法博士に任命された。明法博士とは明法道のトップであり現在で言う大学の法学部の学部長に相当する職務であるが、現在と違ってこの時代に大学は首都に一校しか存在しない。また、現在の日本では、最高裁が憲法に照らして合憲か違憲かを判断し、その判断は判例となって強い拘束力を持つ一方、いかに法律に詳しいと言っても最高裁の判事ではない法学者の発言がそのまま判例となるわけではなく、あくまでも法解釈についての学説の一つと扱われる。ところが、この時代の明法博士の判断は現在の最高裁判決と同様に強い拘束力を持っていた。あるいは、権勢者にとって都合の良い法解釈をしてくれる人を明法博士に任命してきたというところか。

 その明法博士に鎌倉方の一員であることが周知の事実となっている中原広元が就任するとなると、新たな法律が律令に合致しているか否かの法判断が鎌倉方に委ねられることとなる。文字通りに解釈すれば鎌倉方の意見を国政の法判断として展開できることを意味するが、ここでいう新たな法律というのは建久新制のことなのだ。建久新制として出された宣旨が律令に照らして問題ないか、現在の感覚でいうところの合憲か違憲かの判断を、他ならぬ鎌倉方自身が下さねばならないことを意味する。しかも、その判断をするのが中原広元だ。建久新制について中原広元が問題なしと判断したら鎌倉方が問題なしとして判断したことを意味する一方、問題ありとなったならばどのような理由で問題ありなのかを公開しなければならない。狡猾なことに、建久新制として出された宣旨は律令的に見れば何ら違法ではない。鎌倉方に対して重い責任を背負わせる内容であるが、あくまでも法的には問題ない内容なのだ。

 ここで着目すべきはあくまでも源頼朝という一個人に対して出された宣旨であるという点である。源頼朝の身に何かがあったら、その瞬間に建久新制にて出された宣旨は効力を失い、鎌倉がいかに組織を形成していようと、そして、これまでの組織の動きに基づく軍事行動を見せようと、それは違法となる。

 また、いかに違法ではないと言っても、軍事行動は朝廷の管理監督を受け、朝廷の支配下で遂行することとなる。軍事行動を起こしても違法ではないし結果次第では報奨も得られるが、治安維持を果たせなかったら処罰の対象となってしまうという、朝廷にとっては都合の良い、鎌倉にとってはそれほどの旨味のない責務が課されることとなる。しかもそれは、中原広元という鎌倉方の人間が法的に問題なしと判断した結果である。

 源頼朝が征夷大将軍の官職を求めたのも朝廷からの管理監督を受けなくても良いというミドルリスクハイリターンを求めたからであり、治安維持を果たしてようやくノルマ達成、そうでなければ処罰対象という、ハイリスクローリターンの役割は源頼朝の求めるものではなかった。


 建久新制の宣旨が鎌倉に届いた前後である建久二年(一一九一)年四月五日、鎌倉に激震が再び走った。

 京都の一条能保と中原広元の両名からそれぞれ同じ連絡が来た。

 近江国佐々木荘で、佐々木定重が一人の僧侶を斬りつけ、鏡を割ったというのである。斬りつけたのはともかく、鏡を割ったというだけで大問題となるのかと思う人もいるであろうが、これが実は大問題なのだ。何しろ、斬りつけられた者は比叡山延暦寺の僧侶であり、割られた鏡は日吉大社の神が宿るとされている鏡なのだ。日吉大社は比叡山延暦寺の支配下にあるから、こうなると鎌倉方と比叡山延暦寺との対立へと発展することが目に見えている。

 比叡山延暦寺は源義経を匿ったために源頼朝に屈した過去がある。これは延暦寺に限ったことではないが、古今東西、屈辱を受けたとき、延々と屈辱を受け続けているわけはなく、相手の非を見つけたならば容赦なく攻撃し続け、鬱屈した思いを解消しようとするものだ。解消に至るまでの攻撃をクレームと見做すことは多いが、クレーマーとされている人達が自分のことをクレーマーと認めるわけはなく、正義の実践であると考える。

 話を近江国に戻すと、近江国佐々木荘は延暦寺の荘園であり、この荘園からの年貢は延暦寺にとって貴重な収入源であった。年貢が納められないとなると延暦寺としても困るというレベルではなく、この荘園から年貢が納められないとなったら延暦寺の僧侶の日々の食事にも影響が出てしまうというレベルの話なのであり、だからこそ延暦寺は年貢納入を強く求めてきたのである。

 だが、そのような延暦寺側の事情があるのを受け入れたとしても、荘園住民としては延暦寺の願いに応えることはできない事情があった。水害に遭ってまともな収穫を得ることもできず、その日の暮らしに困っている状況であったのだ。年貢を納めるとしたら今度は荘園住民のほうが餓死してしまう。地獄絵図が展開されていた養和の飢饉のついこの前である。その地獄が再来してしまうのだ。

 その結果、年貢を納めるように求める延暦寺と、納めるだけの年貢の余裕がないため年貢減免ないしは年貢免除を求める荘園住人という対立構造となり、延暦寺は強引な取り立てに打って出て、取り立てに抵抗する荘園住民が、荘園の地頭である佐々木定綱の次男である佐々木定重を担ぎ出して抵抗し続けているという構図になったのである。この緊張はいつ崩れるかわからないという状況であり、このときの事件は緊張が崩れた結果であった。

 白河法皇が嘆いた比叡山延暦寺の強訴は、武装した僧侶である僧兵が隊列を組んで、日吉大社の神輿を担ぎ出して平安京へ向かうというスタイルである。ただし、神輿を担ぎ出して武装デモに向かうのは京都の朝廷に対してのみであり、朝廷相手でなければ神輿を担ぎ出すより小規模となる。

 小規模と言っても充分に脅威だ。吾妻鏡の伝える京都からの書状の内容に従うと、延暦寺の僧兵達は日吉神社の鏡を捧げ持って佐々木定綱の屋敷へ乱入して暴れ回り、家中の男女に暴力を振るい、さらに乱暴を働いたとある。そのため、留守を守っていた次男の佐々木定重が抵抗して相手に斬りかかり、そのはずみで誤って鏡を割ってしまったというのが京都から届いた書状の内容だ。もともと存在していた延暦寺と荘園住民との対立、そして、地頭として荘園住民の側に立っていた佐々木定重という構図があったからこそ、屋敷内への乱入となり、屋敷内の人達への暴力と暴行となった結果、延暦寺にも被害者が出ただけでなく、神が宿るとする日吉大社の鏡が割れることとなった。

 比叡山延暦寺はこれに怒り、佐々木定重の身柄を延暦寺に引き渡すことを朝廷と鎌倉の双方に求め、延暦寺からの正式な抗議を伝える使者を鎌倉へ派遣することを決めた。これは屈辱を晴らす絶好の機会なのだ。


 何度も述べているように、源頼朝は京都と鎌倉との間での書状を片道七日でやりとりできるだけの体制を整えている。建久二(一一九一)年四月五日に鎌倉で書状を受け取った源頼朝からの返書は、早ければ四月一二日には京都に到着しているはずである。実際、京都在駐の中原広元がかなり早い段階で土御門通親を通じて働きかけをした記録がある。ただし、正確に言うとこのときは土御門通親のほうが中原広元を利用して九条兼実への対抗を試みるようになっただけで、比叡山と佐々木一族とのつながりについてはどうにもならず、後白河法皇が源義経を利用しようとしたシチュエーションに似てきたこともあって、中原広元から土御門通親との接点を切っただけでなく、後の話になるが、この年の一一月にはあらゆる朝廷の官職を辞す宣言するまでになる。

 源頼朝は、京都からの書状を受け取った翌日である四月六日に、佐々木定綱の三男の佐々木盛綱と、五男の佐々木義清の両名を父親のもとに派遣させている。遅くても四月一五日までには現地に到着しているであろうという計算のもとである。

 ところが、このタイミングは悪かった。四月五日に到着したのはあくまでも第一報であり、そのあとで第二報、第三報と到着してきたのである。しかも、後になればなるほど近江国における情勢は混迷を増すようになっていたのである。

 何しろ、佐々木定綱の行方がわからなくなった。

 どうやら鎌倉に向かってきているらしいというのが連絡の内容であり、比叡山延暦寺との対立がいつ実際の衝突に発展するかわからないために、次男の佐々木定重に留守を任せて、鎌倉の協力を仰ぐために佐々木定綱は鎌倉へ向かっているらしいのだ。

 つまり、佐々木定綱は自分が地頭を務める近江国の荘園が危機的状況にあるために鎌倉に支援を求めようとしたら、留守になってすぐに対立は犯行へと発展してしまい、実害まで生じるようになったしまったということだ。おそらく道中で連絡を受けるであろうが、それでも所在が不明であるために断定はできない。

 続報が届くたびに情勢が悪化しているのを悟った源頼朝は、四月一六日に梶原景時を京都へ派遣することとした。延暦寺からは既に正式な抗議が届いており、実行犯である佐々木定重は死罪、その家族についても流罪とせよというのが延暦寺から鎌倉に届いた講義の内容である。

 その抗議は四月二六日に京都での武装デモと発展した。日吉、祇園、北野社の神輿を担ぎ上げて宮中への強訴に打って出たのである。摂政九条兼実は延暦寺の無茶な訴えに怒ったものの、今の京都ではどうにもできなかった。京都の留守を預かる形となっている一条能保は、貴族としての源頼朝の代弁者となることはできても、武力を駆使できる存在ではない。検非違使別当であると言っても、盗賊相手ならば京都近郊にいる御家人達の協力を仰ぐことができても、前年七月に左衛門尉を辞した北条時定がいなくなったこともあり、京都内外で比叡山延暦寺への対抗を計算できる武力は見当たらない。

 源頼朝は比叡山延暦寺に対し、近江国で佐々木一族が持つ所領の半分を割譲するなどの譲歩も見せたが、比叡山延暦寺から鎌倉に来た使者はあくまでも佐々木定重の死罪と、父の佐々木定綱、ならびに、佐々木定綱の兄弟全員の流罪を求めた。

 事態は五月に入っても鎮静化するどころか悪化する一方であり、一条能保が検非違使別当としての職務を果たすこともできないと嘆くまでになっていた。また、内裏の警備を受け持っている安田義定からは、比叡山延暦寺からの強訴に何もできずにいることを嘆く言葉が源頼朝の元に届いていた。延暦寺からの要求はあくまでも犯罪者本人の死罪とその家族の流罪であり、源頼朝は建久新制によって日本国内の治安維持が命じられている。比叡山延暦寺は自分達の行為についての違法性は全く触れることなく、治安を乱しているのは佐々木一族であるとして、源頼朝に対して建久新制の実行を要求した。

 近江国における佐々木一族の問題について源頼朝は完全に暗礁に乗り上げたかに見えた。

 だが、源頼朝のいないところで問題は解決していたのである。


 既に何度も記しているが、京都から鎌倉までの情報連絡は最速で七日を要する。

 そして、鎌倉まで派遣された比叡山延暦寺からの使者はあくまでも佐々木一族に対する処罰を求めており、源頼朝はその対応をできずにいるというのが建久二(一一九一)年五月初頭時点での鎌倉での情勢だ。多くの人はこのまま事態が膠着すると考えていた。

 だが、源頼朝がどうにかする前に、京都で決着が早々に付いてしまった。

 建久二(一一九一)年五月八日、京都から書状が届いた。

 四月二六日に後白河法皇の口頭での要望、二八日には正式な書状での院宣が発せられたのだ。

 佐々木定綱、薩摩国へ流罪。

 佐々木広綱、隠岐国へ流罪。

 佐々木定重、対馬国へ流罪。

 佐々木定高、土佐国へ流罪。

 堀池八郎実員法師、投獄。

 井伊真綱、投獄。

 岸本遠綱、投獄。

 源七真延、投獄。

 源太三郎遠定、投獄。

 実行犯とされた佐々木定重は延暦寺の訴え通りの死罪ではなく流罪となった一方、佐々木定重の親や兄弟というだけで流罪とするように求められた人達は延暦寺の求めの通り流罪となった。また、佐々木定重とともに延暦寺からの税の取り立てに抵抗した面々は牢屋行きへと決まった。

 鎌倉がどうにかする前に後白河法皇が判決を出し処分を決めてしまったのだ。

 これは延暦寺にも源頼朝にも不満の残る結論であったとするしかない。そのため、延暦寺からはあくまでも佐々木定重の死罪を求める声が挙がったし、源頼朝は建久新制の実践をしなければならない自分と御家人を守らねばならない自分とのギャップ、そして、現実問題として水害に遭ってしまったために年貢を納めることのできないでいる荘園住人に対し、餓死させてまで納税させることが許されるのかという問題とがのしかかっていた。

 その上で、源頼朝は一つの決断を下した。

 佐々木定重に死を命じたのである。

 建久二(一一九一)年五月二〇日、近江国へと派遣した梶原景時に対し、佐々木定重を斬首するように命じた。罪状は、住民が餓死しようと年貢と称して食糧を略奪する比叡山延暦寺に対して、荘園住民の生活を守るために抵抗したこと。比叡山延暦寺は、自分達の年貢徴収がもはや強盗と化していることを認めないばかりか、強盗と化した僧兵達から住民を守るために抵抗した佐々木定重のほうを犯罪者であるとし、執拗なまでの死罪を要求する訴えがあったため佐々木定重を死罪とする。これは建久新制を守った結果であり、その後で荘園住民が餓死することとなったとしても建久新制を守っている限り見捨てるしかないと、全国に向けて公表したのだ。

 源頼朝のこの公表は比叡山延暦寺を激怒させたが、比叡山延暦寺から突きつけられた要望は何一つ欠けることなく全て満たすことに成功したのである。しかも、労多くして功少なしと誰もが痛感した建久新制についても、法は法であるとして遵守するとしたのだ。

 たしかに比叡山延暦寺の願いは全て叶った。しかし、これでいったい誰が延暦寺に親近感を抱き、延暦寺に正義を見いだそうか。

 これ以上の意趣返しはなかろう。


 混迷化していた近江国での佐々木一族に対する処罰は後白河法皇の院宣で決まった。院政以前の日本国を取り戻そうとしていた摂政九条兼実も、これまで一〇〇年続いていた院政というシステムの強固さを痛感するしかなかった。意趣返しをしたとは言え、鎌倉方ですら院政に逆らえないという現実の前にはどうにもならなかった。

 この状況は後白河法皇にとって絶好のチャンスであった。それまでは通すことのできなかった覲子内親王の院号宣下を通すことに成功したのである。丹後局高階栄子との間に生まれた女児は法皇の実子であるため院号宣下そのものはおかしなことではないが、一一歳での院号宣下は異例だ。彼女はこのときに「宣陽門院」の院号が与えられ、宣陽門院の実母でそれまで従三位の位階を得ていた丹後局は従二位へ昇叙した。このときから丹後局は、丹後二品、あるいは、山荘のあった浄士寺から浄土寺二位と呼ばれるようになった。

 それまで問題となっていた院号宣下の問題があっさりと実現してしまったことを目の当たりにした九条兼実は、後白河法皇への対抗措置が必要だと痛感し、自分の後継者である九条良経の妻として一条能保の娘を娶ることにした。一条能保は源頼朝の義弟であるため、遠いとは言え、源頼朝と九条兼実との間はこれで親戚関係となったことになる。近江国の佐々木一族に対する処罰は後白河法皇の権力の強さと比叡山延暦寺の横暴が世間の話題を賑わせ、権力と横暴とに屈して御家人を一人殺害しなければならなくなった源頼朝に対しては同情が生まれていた。その源頼朝と親戚関係になることは九条兼実にプラスに働いた。

 九条兼実が院政への対立を選んで鎌倉方を選んだことは、九条兼実に対抗する立場の者にとっては院政を選ぶことが政権の獲得につながる第一歩となる。

 その代表が、院政を選び、丹後局と宣陽門院との接近を選んだ土御門通親こと従二位権中納言源通親である。宣陽門院宣下と同時に宣陽門院の執事別当となったことで莫大な資産を運用する立場となったため、宣陽門院自身もそうだが土御門通親も手にできる資産は多大なものとなった。さらに、後白河法皇と接近したこともあって土御門通親はかなりの割合で自分の意思を院宣として反映させることに成功することとなった。

 土御門通親は二月一日に検非違使別当でなくなり、検非違使別当は一条能保が就いている。つまり、京中における警察権力は土御門通親のもとには存在しないはずであるが、建久二(一一九一)年六月になると院宣として独自に警察権力を行使するようになった。警察権力と言えばまだ聞こえはいいが、やっていることは自分達に反発する勢力への牽制であり、実際の治安取り締まりには威力を発揮しない。武力の大部分は鎌倉方が握り、京都在駐の鎌倉方の御家人は源頼朝の影響力のもと、緊急時は検非違使別当である参議一条能保の指揮下で行動することとなっている。つまり、土御門通親は鎌倉方の武力を頼らずに武力を構築しなければ院宣を前面に掲げた警察権力を創り出すことができなかったのであるが、世の中には鎌倉方に反発する者もいるし、平家の残党や源義経の残党というわけではないが、源平合戦とその後の流れについて行くことのできなかった武士も存在する。こうした面々のうち武力を期待できる者を集めれば、鎌倉方と全面対決できるほどではなくとも、それなりの武力を創り出せる。後は、院宣として彼らを警察権力として行動させれば完成だ。


 警察権力であることを前面に掲げているから、目の前に強盗が現れれば取り締まるために出動することはあるが、先に記したように彼らの主目的は九条兼実と鎌倉方への対抗であり、後白河院と丹後局、宣陽門院、そして土御門通親にとって不都合な存在の失態を見つけて追求する材料を提供することだ。建久二(一一九一)年七月一七日、土御門通親の院宣が生み出した独自の警察権力は一つの結果を生み出した。九条兼実の家司が後白河法皇を呪詛したという落書があったことを丹後局から追求され、九条兼実が弁明に務めるという事態が起こったのである。

 現在の日本は政権を批判しようと逮捕されるわけでも、ましてや命の危機を覚悟しなければならないわけでもない。それどころか、政権とは批判されなければならない存在であり、政権を批判しない方がおかしいという画一的な思考を強制する人達が存在するほどだ。さらには皇室批判を展開したところで、顰蹙を買うことはあっても命にかかわることはない。だが、この時代はそうではない。政権批判はそれだけで逮捕要件であるし、皇室に対する批判を表明しようものなら、良くて流罪、下手すれば死罪となる話である。ただし、いかに言論を厳しく規制しようと批判の感情が消えることはなく、このような言論の自由の無い場所では、無名の人間が夜闇に乗じて意見を表明したというスタンスでの落書きが使われることがある。このときに丹後局が九条兼実を追求したのもそれだ。呪詛の内容として丹後局が九条兼実に記した証拠としての落書きには「通親、定長、基親等卿非常者也」と記されていたとある。皇室批判ではなく貴族への批判であるからギリギリどうにかなる範囲であるが、彼らへの批判の先に後白河法皇への批判があることは明瞭であった。九条兼実としては、その落書きが自分の家司によるものだという証拠がないものの、ヒステリーを引き起こしている人間相手にそのような言い分は通用することなく、ただただ弁明に努めるしかなかった。

 丹後局と土御門通親の権勢の寄って立つところは、何と言っても後白河法皇の存在である。いかに摂政九条兼実が院政を否定して院政以前の政治体制を取り戻そうとしても、後白河法皇は後鳥羽天皇の実の祖父であるという一点は崩しようがない。

 しかし、後白河法皇の権勢の寄って立つところは後鳥羽天皇の実の祖父であるという一点であり、後白河院政は過去二例の院政、すなわち、白河院政と鳥羽院政の継承政権というわけではない。何となれば、そもそも白河院政と鳥羽院政との間も連続した政権ではない。鳥羽院政は白河院政の仕組みを利用したが、基本的にはゼロからの政権構築であり、白河院と鳥羽院の双方に仕える者は数多くいても、院政という仕組みが存在して院政のトップに立つ法皇が交代するというスタイルではなく、白河院と鳥羽院がそれぞれ別個に存在していて、白河法皇の逝去を経て鳥羽院が力を伸ばしたという歴史のつながりだ。それは鳥羽院と後白河院との間でも同じことが言え、鳥羽院の権勢を後白河院がそのまま継承したのではなく、天皇の父や祖父であるという個人的な関係によって権勢を作り上げたのである。院の個人的な血縁関係によって権勢が定まり、院の崩御と同時に権力組織としては瓦解することとなるというのは院政という仕組みの持つ欠点である。


 それでも何らかの対処は考える。院政は、権力の継承は不可能でも資産の継承ならば可能であることは、鳥羽法皇が先例を作っている。鳥羽法皇の資産の多くを鳥羽法皇の娘である八条院暲子内親王は継承した。また、八条院は実母である美福門院藤原得子からの資産も相続しているため、全国で二〇〇箇所を超える荘園を保有する一大荘園領主となっていたのである。これだけの荘園を有することで手にすることとなる資産がどれだけの巨大さであったのかは、後の南北朝時代の南朝の源流である大覚寺統の経済基盤となったことからも理解いただけるであろう。

 後白河法皇も鳥羽法皇と同じことを考えた。宣陽門院覲子内親王への資産相続を図ったのである。これについては宣陽門院の実母である丹後局をはじめとする後白河院の面々も特に異議を唱えることはなかったし、むしろ遅すぎる話であった。

 鳥羽法皇は暲子内親王が四歳のときから資産の継承を少しずつさせており、暲子内親王が八条院の二六歳で院号を得たときには朝廷内において無視することのできない勢力を構築することになっていた。八条院の院号宣下は鳥羽法皇逝去の五年後であるが、そのときには後白河天皇や平清盛ですら無視できぬ存在となっており、後白河院政の成立後も八条院はアンタッチャブルな存在であり続けた。何しろ猶子である以仁王が平家に叛旗を翻して挙兵したときですら、後白河法皇だけでなく平家の面々ですら八条院には手出しできなかったほどだ。

 この八条院の成功を宣陽門院においても、すなわち、これまでの後白河院政において勢力を作り上げていた自分達も再現できると考えたのであるから、賛成はあれど反対はありえないとも言える。

 ただ、不吉な予感を感じ取ってもいた。先に述べたように暲子内親王が四歳のときから鳥羽法皇から暲子内親王へと徐々に資産を継承させていき、気づいたときには無視できぬ勢力となっていたのである。それに対し、宣陽門院の場合はそのような資産継承が進んでおらず、ここに来て慌てて資産継承を進めている。意味するところは想像できた。後白河法皇の身体に明らかな不調が現れていたのである。鳥羽法皇が長期的視点から八条院への資産相続を目論んでいたのに対し、後白河法皇は自身の体調不安が露顕してはじめて自らの死後を考えるようになって、ここでようやく資産相続を考えるようになったのだ。

 世の中には不死の人などいないが、自らの死後のことまで考えて行動する人は少ない。だからこそ、自らの身に何かが起こるかも知れないという現実を直視してから行動を始める人が多い。それは後白河法皇とて例外ではなかったが、後白河法皇の周囲の人達もまた例外ではなかった。丹後局にしても、土御門通親にしても、後白河法皇個人の存在が後白河院の面々における権力の寄って立つところであるために、後白河法皇の体調不安は自己の破滅にもつながってしまいかねないとここにきて気づかされたのである。


 経営学では個人の資質によることなく企業が永続する前提のことを「ゴーイングコンサーン」という。日本語に訳すとしたら「継続企業の前提」となるが、日本国のビジネスシーンを眺めると、日本語訳ではなく英語をそのまま使用する方が多い。そして、一廉(ひとかど)のビジネスパーソンであればゴーイングコンサーンという語で何を意味するかわかるし、何のために経営戦略なのかに対する返答としてゴーイングコンサーンを目的とするという返答があれば、熟慮ののち、納得する結果になることは多い。

 ゴーイングコンサーンという用語そのものは二〇世紀初頭に経済学者ジョン・ロジャーズ・コモンズが打ち立てたものであるが、概念そのものは紀元前には既に存在していた。現在の世界を見渡してもゴーイングコンサーンを断念している企業や組織など見当たらないだけでなく、人類の過去を見てもそのような企業や組織はほとんど無い。

 「ほとんど無い」と記したからにはゴーイングコンサーンを断念している組織が存在したからで、その希有な例が院政であった。院政に関連する人々自身はゴーイングコンサーンも考えているのであるが、院政という存在そのものがゴーイングコンサーンを許さない構造になっている。それでもゴーイングコンサーンを試みて、既に述べたように、鳥羽院が八条院に資産を継承させたように後白河院の資産を宣陽門院に継承させようとしている。後鳥羽天皇の実の祖父であるために権力を握っていた後白河院の全てを宣陽門院がそのまま継承できるわけではないが、それでも宣陽門院は八条院のように無視できぬ勢力になることが期待できる。

 振り返って鎌倉方はどうか?

 個人に寄って立つシステムになっているという点では、鎌倉方も後白河院と大差ない。何となれば、組織そのものは別でも白河院や鳥羽院を前例として利用できるだけ後白河院のほうが一歩先を進んでいるとも言える。

 そのことを源頼朝が理解していないわけはない。

 同時に、後白河法皇もそのことを理解していないわけはない。

 源頼朝は鎌倉を永続的な組織にしようとし、後白河法皇はその企みを否定しようとしていた。だからこそ源頼朝の求めた征夷大将軍に否定的であり、あくまでも源頼朝個人に対して権大納言を、そして右近衛大将の役職を付与したのである。ゆえに源頼朝も前権大納言、あるいは、前右近衛大将という肩書きで行動するしかなかった。

 では、源頼朝が征夷大将軍になることの意図を後白河法皇は理解していたのか、あるいは、その他の貴族は理解していたのか。

 結論から言うと、源頼朝が征夷大将軍を求めていることは理解していたが、征夷大将軍の役職を手にした後、源頼朝が征夷大将軍の役職をどのように利用しようとしているのかは理解していなかった。特に、鎌倉方をゴーイングコンサーンの効く組織として成立させることと、源頼朝が征夷大将軍に就くことの関連性は誰も理解していなかった。

 源頼朝が征夷大将軍の地位を望んでいて、後白河法皇は征夷大将軍に就けさせないようにしている。源頼朝が征夷大将軍の役職を利用してどのような形で鎌倉方を永続的な組織とさせるかは理解していなくても、征夷大将軍となったならば鎌倉方は源頼朝個人ではなく源頼朝の身に何か起こっても組織として継続することになることは理解していたし、だからこそ後白河法皇は、現在の鎌倉方というものが源頼朝がいるために機能している組織であるとし、源頼朝の身に何か起こった瞬間に組織として瓦解するようにさせ続けようとしていた。


 永続的な組織とするための要素の中には建物もある。人のつながりがどんなに重要であると言っても、人のつながりを実践するシンボル的存在になり得る建物を用意するのとしないのとでは、建物を用意するほうが組織を永続的なものとさせやすくする。

 都市鎌倉は建久二(一一九一)年三月四日に大規模な火災に遭い、鶴岡八幡宮をはじめとする鎌倉の建物の多くが灰に帰してしまった。その中には源頼朝の邸宅も兼ねていた鎌倉方の中心地である大倉御所も含まれていた。

 大倉御所の復旧工事そのものは六月中にある程度の形ができあがっており、七月には鎌倉方の御家人達を収容できるまでに回復、七月二八日には源頼朝が正式に戻って大倉御所が鎌倉における武士達の中心地として復活した。なお、工事はまだ続いている。

 同時進行で復旧工事を進めていた鶴岡八幡宮においては八月中に形となってきており、こちらの工事もまだ続いているが、八月一五日の放生会(ほうじょうえ)を例年通り開催するところまでこぎ着けることができた。

 この大倉御所と鶴岡八幡宮という二つの建物が火災を経て復旧した、いや、火災前より壮麗な建物となったことで、鎌倉方という組織の永続性のシンボルとなった。鎌倉における全ての政務は大倉御所で遂行され、鎌倉における宗教行事は鶴岡八幡宮が軸となって執り行われる。この二つが存続すれば、組織としての鎌倉方も存続できる。

 あとは法的根拠があれば完璧だ。この時点では前権大納言にして前右近衛大将である源頼朝がいることを前提とした組織であるため、ゴーイングコンサーンとしては弱い。その弱さを補うには、源頼朝のいない環境でも機能するような法的根拠を用意することである。それが征夷大将軍なのだが、この時点ではまだ得られていない。征夷大将軍をどのように活用しようとしているのかを理解している人も、探せばいるかもしれないが、多くの人は知らないでいる。知っているのは、後白河法皇が反対しているために源頼朝が征夷大将軍に就くことができないでいるという点だけである。

 源頼朝は征夷大将軍の官職を得るために、正確に言えば後世に生きる我々が征夷大将軍と呼ぶ職務を得るために、この時代の誰もが想像もしなかった方法を選んだ。

 丹後局へのさらなる接近を図ったのだ。それも意外な人物に託しての接近であった。

 北条時政の後妻で、北条政子にとっては義母に当たる牧ノ方だ。

 牧ノ方の上洛は、名目上は氏神への参詣に伴う上洛であるが、実際には丹後局との接近のためである。牧ノ方はかつて平頼盛に仕えていた牧宗親の親族であることが判明しているものの、牧宗親の娘とする説、牧宗親の妹であるとする説、牧宗親の姉であるとする説があってその出自ははっきりとしない。しかし、藤原北家の血を引く女性ではあることは確実で、いかに後白河法皇の寵愛を受けていても藤原氏ではなく高階氏である丹後局とは会えない身分差ではない。それに、夫の北条時政はかつて後白河法皇からスカウトもされたほどの人材であることも考えると、前権大納言の義理の母でもあり北条時政の妻でもある藤原北家の女性とあれば、丹後局とて会わないわけにはいかない。しかし、かつては主君であったはずの平頼盛が源頼朝の配下に加わる身となっただけでなく、義理の娘がその源頼朝の妻となったというのであるから、牧ノ方の人生もわからないものである。


 それにしてもなぜ丹後局なのか。しかも、牧ノ方を利用しての接近という誰も想定しない方法をどうして選んだのか。

 その答えは建久二(一一九一)年一〇月二〇日の吾妻鏡の記載に存在する。中原広元が京都を去って鎌倉へ戻ることにしたのである。中原広元は四月一日に明法博士に任命されたばかりであるのだが、僅か半年で辞職したのだ。

 中原広元が明法博士に就任したとき、摂政九条兼実は強く反対した。明法博士は律令制に従えば日本国における法学の最高権威者であるが、事実上は讃岐氏や惟宗氏の世襲職となってきており中原氏の就任は例がなかった。また、明法博士の官位相当は正七位下である。鎌倉の源頼朝の元に向かう前に既に従五位下であり、源平合戦終結後は国司に任官された経験もある中原広元が明法博士に就任するというのは明らかに釣り合わない官職であり、鎌倉方の役職として政所別当を務めているだけでなく、それが名誉的な称号であったとは言え検非違使も左衛門大尉も兼任していたというのも、異例と言えば異例であった。

 ただ、九条兼実の反論は弱かった。家柄の先例が無いことと位階が高すぎること、そして兼職の多さしか反論の根拠がないのに対し、中原広元を明法博士に推挙した土御門通親は中原広元の法学者としての能力を買って推挙したのであり、その実態がいかに鎌倉方に対する意趣返しを込めた企みであったとしても批難される謂われはない。

 明法博士としての中原広元は九条兼実と対立する存在になっていた。九条兼実がどのようなアイデアを出そうとそれは違法であると苦言を呈するのが通例になっていたのだ。敵の敵は味方とする論理で行けば、九条兼実と対抗する土御門通親や丹後局、そして後白河法皇にとっては味方となる。中原広元はあくまでも宣旨をはじめとする朝廷からの指令書が法的に正しいかどうかを判断しているだけであり、何も後白河法皇や土御門通親に協力しているわけではないし、丹後局に至ってはそもそも接点がない。否定するだけでアイデアを出すわけではないから、アイデアを出す側、建久二(一一九一)年一〇月時点では九条兼実の側からすれば憤懣(ふんまん)遣(や)る方(かた)無い。もっとも、中原広元からすればそもそもアイデアを出すこと自体が許されておらず、政策立案者のアイデアが適法であるか否かを審判するしかないのであるが。

 この両者の対立が頂点に達したのが新たな武官の任命についてである。丹後局の息子である山科教成を左近衛少将に、一条能保の子の一条高能を同じく中将に任命するという話が出たとき、九条兼実は山科教成の左近衛少将就任に反対した。まだ一八歳という若さであることに加え、山科教成の能力に疑問を持っていたからである。山科教成は丹後局の実の息子であるが、実の父である平業房は治承三年の政変によって死を迎えてしまったため、後白河法皇の指示で藤原実教の養子となっている。つまり、生まれたときは平氏であったが、三歳になったかならないかのタイミングで藤原氏になったという経歴を持っている。そのため山科教成の本名は藤原教成であり、公卿補任を見ても藤原氏として記載されているのであるが、この人は藤原氏とは一線を画した立場を維持し続け、山科家の初代と見做されるようになった。ちなみにこの山科家であるが、戦国時代も江戸時代も、明治維新も乗り越えて、なんと、令和の現在も続いている。

 話を建久二(一一九一)年に戻すと、山科教成の左近衛少将就任に反対する摂政九条兼実に対し、明法博士中原広元は就任させるべきと主張した。文治三(一一八七)年に一一歳で元服したと同時に従五位下の位階を得て中務少輔に就任し、その翌年には従五位上右兵衛佐に就任、文治五(一一八九)年には位階を正五位下へと上げてきたという、左近衛少将就任に必要とされるキャリアを積み重ねてきた以上、左近衛少将への就任を否定することはできなかった。九条兼実の言うように本人の能力に疑念があるとしても、九条兼実の個人的な評価ではなく、これまでの実績という客観的な評価を考えたならば左近衛少将就任はむしろ順当とするしかないのだ。

 これで九条兼実と中原広元との対立は決定的となり、九条兼実に対して論陣を張っただけでなく我が子の左近衛少将就任を後押ししたということで、中原広元と、中原広元の属する鎌倉方全体に対する丹後局からの好感を獲得することに成功したのである。


 中原広元は既に鎌倉へ書状を送り、明法博士をはじめとする朝廷から付与された官職の全てから降りることを告げていたが、そのことが公表されたのは建久二(一一九一)年一一月五日のことである。検非違使も左衛門大尉も兼任している上で明法博士も兼任していた中原広元は、摂政九条兼実との対立の激しさからこれ以上明法博士としての職務を遂行できないとして明法博士を辞職するだけでなく、朝廷のあらゆる官職を捨てると公表したことで、九条兼実の立場は極めて悪化し、鎌倉方は丹後局と土御門通親の同情を獲得することに成功した。

 というタイミングで、丹後局と牧ノ方の接触である。あくまでも私的な訪問であるが、いったい誰がそのような体裁を信じるというのか。しかも、牧ノ方が京都に到着したタイミングというのがあまりにも絶妙であった。牧ノ方が鎌倉を出発したのは九月二九日であり鎌倉到着は一一月一二日であるから、牧ノ方の京都滞在期間はさほど長いものではない。しかし、その短い期間で牧ノ方は丹後局と接触することに成功し、後白河法皇と丹後局の支持を獲得し、好感触を得たままの状態で牧ノ方は京都を発って鎌倉へと向かった。その空気がまだ消えぬ中で、中原広元は官職を辞すことを宣言したのである。それでも慰留が重ねられた結果、検非違使も左衛門大尉の兼任は続き、明法博士の辞職のみが受け入れられることとなったほか、本来であれば京都在駐が求められている検非違使の職務でありながら鎌倉へ下向することも認められた。

 そもそもどうして政所別当である中原広元が京都にいたのか?

 鎌倉方における京都復旧工事の現場責任者である。

 福原遷都、木曾義仲の劫掠、元暦二(一一八五)年の震災、さらに六条殿の火災といった京都を襲った災害からの復旧工事について、鎌倉方は人的および物的支援をした上で復旧工事に協力し、何となれば鎌倉方だけで工事を完了させかねない勢いを見せていた。その工事の現場責任者が中原広元であり、明法博士をはじめとする朝廷の官職を受けた点についても、まずは工事ありきで、工事の管理監督と並行して朝廷官職を務めていたのである。

 その中原広元が摂政九条兼実との対立を理由として朝廷の官職の全てを降りると宣言してしまった。慰留の結果、明法博士のみの辞職が認められ、また、兼職としてい検非違使も左衛門大尉も兼任したまま鎌倉へ下向することを許されたが、もはや対立はどうにもならなくなった。

 ただし、鎌倉下向の許可を付与されたものの中原広元は京都に留まり続けている。工事を途中で投げ出して帰ってしまうわけにはいかないからである。もっとも、工事はほとんど完成しており、何なら現段階で工事を止めても支障ないレベルになっていた。実際、元暦二(一一八五)年の地震で倒壊した法住寺の再建工事はこの年の一二月に完成し、後白河法皇も年内に法住寺へと遷御している。中原広元が京都を発って鎌倉に向かったのはその後であった。


 後白河法皇が復旧なった法住寺へと遷御したのは建久二(一一九一)年一二月一六日。その二日前、政局において大きな動きがあった。

 九条兼実、摂政を辞任。

 ただし、九条兼実が失脚したのではない。後鳥羽天皇の元服後、およそ二年間に亘ってなおも摂政であり続けていた九条兼実が、いったん摂政を辞任にした上で改めて関白に就任したのである。

 それでも世間一般ではまだまだ九条兼実を摂政と呼んでおり、京都の中原広元から鎌倉へ送られた書状において、中原広元は関白となったはずの九条兼実を「摂政殿」と書き記している。タイムラグがあったのではないかと思うかも知れないが、中原広元から鎌倉に向けて送られた書状は後白河法皇が法住寺に遷御したこと、すなわち、九条兼実が摂政から関白に移ってから二日後のことの出来事を伝える書状である。六条殿から法住寺への遷御が一二月一六日で、中原広元からの書状が鎌倉に到着したのが一二月二四日であるから、源頼朝が東海道を整備して京都と鎌倉との間を七日間でやりとりできるようにした結果を踏まえれば順当である。

 一二月二九日には、法住寺の修復に尽力してくれたことを感謝する丹後局からの書状が届いた。厳密には丹後局と吉田経房の連名での書状であり、鎌倉で大火が起こった上で地震が発生し、大倉御所も鶴岡八幡宮も罹災してしまったというのに、庶民への負担を一切増やすこと無しに鎌倉の復旧を進め、京都の再建工事も予定通りに終わらせたことを評価するものであった。

 ところで、建久二(一一九一)年という年は閏年である。

 現在の閏年は二月が二八日までではなく二九日まであるという年であるが、旧暦の閏年は日ではなく月が増える。建久二(一一九一)年の場合は一二月が終わると来年になるのではなくもう一度一二月がやって来る。つまり、一年間が一三ヶ月になる。

 建久二(一一九一)年一二月が終わり、閏一二月を迎えたとほぼ同タイミングで驚愕のニュースが飛び込んできた。

 後白河法皇、倒れる。

 腹痛と下痢が激しく食事を摂ることもできなくなり、関白九条兼実は後白河法皇の病状を聞きつけ、崇徳院と藤原頼長の墓への奉幣と、安徳天皇の御堂を建立して菩提を弔うよう法皇に勧めた。後白河法皇が倒れたのは法住寺に戻ってすぐであったと九条兼実は日記に書き記している。その後、後白河法皇の体調はいったん回復して一時期は六条殿まで御幸できるまでに回復したが、病状は再び悪化して身動きできなくなった。

 記録によると、後白河法皇が体調悪化を周囲に訴えたのは建久二(一一九一)年一二月二五日のことであり、朝廷が公表したのは一二月二七日のことである。ただし、後白河法皇の健康状態が悪化していることはかなり前から知られており、後白河院から宣陽門院覲子内親王への資産相続の話が出た頃には既に、後白河法皇の健康状態に難ありということは周知の事実となっていた。

 建久二(一一九一)年閏一二月一七日に後白河法皇の平癒を祈って非常大枚が出され、閏一二月二九日には九条兼実の進言に基づく御堂建立などが決定となった。

 この状態で建久三(一一九二)年を迎える。建久二(一一九一)年一月の段階では、鎌倉の火災も、後白河法皇の体調悪化も、そして、それまで近かったはずの九条兼実と源頼朝との間の距離が離れ、距離を置いていたはずの後白河法皇と源頼朝との距離が縮まるとも考えた人などいなかったのに、今や、その全てが既知の事実となっている。

 そして、ほとんどの人はこう考えた。建久三(一一九二)年の早い段階で後白河法皇は亡くなり、後白河院政も終わりを迎える、と。


 建久三(一一九二)年一月、例年であれば新年の祝賀気分に盛り上がるところであるが、この年は後白河法皇の病状悪化のために祝賀ムードは自粛となり、静かな正月となった。鎌倉では源頼朝が年末から潔斎して祈請や法華経の読誦を続けており、正月らしい時間の過ごし方としては鶴岡八幡宮への参詣のみであった。

 後白河法皇は自らの命の終わりを確信したようで、後白河院の中での最大の資産とも言うべき六条殿長講堂領を宣陽門院へと相続させた。これにより、宣陽門院は母の丹後局とともに強力な勢力となり、関白九条兼実は厳しい状況に追い込まれていった。

 後鳥羽天皇は既に元服し、摂政を必要としない身となっている。裏を返せば九条兼実は以前のように摂政として圧倒的権力を行使できる身ではなくなり、自らの勢力で議政官の議決を法とする以外に自らの意思を国政に反映させることができなくなった。かつてであれば藤原氏が議政官の圧倒的勢力を構成し、藤氏長者となれば議政官の議決を自由に左右できるようになっていたが、今や藤原氏は一枚岩ではなくなり、藤原を姓とはしていても九条家と近衛家とでは強力ではなく対立となり、その他の藤原氏も藤氏長者の存在を認めてはいても付き従うわけではなくなっていた。ただし、一枚岩ではなくなった藤原氏の内部においてもやはり藤氏長者たる九条兼実の存在は絶大であり、九条兼実に逆らうとすれば、九条兼実に反発する者同士で結集するのではなく、後白河法皇や宣陽門院、丹後局、そして、理論上は親政も可能となった後鳥羽天皇に擦り寄ることで権勢を手にすることがもっとも確実である。

 この情勢を当の九条兼実の立場から眺めると、手強いとするしかない事態である。

 後白河法皇の身にいつ何が起こってもおかしくない状態になってしまったまま一月を終え、二月になると誰もが後白河法皇の後を考えて行動するようになった。

 その中の顕著な例が後鳥羽天皇である。

 建久三(一一九二)年時点で院政を敷く資格を有しているのは後白河法皇だけであり、後白河法皇がいなくなった瞬間に院政そのものが終わる。そして、それまで摂政であった九条兼実は関白となった。たしかに藤原摂関政治の復旧を願っている九条兼実にとってはあるべき姿に戻るはずであるが、その前提となる藤原氏の結束は終わっている。これを後鳥羽天皇の立場で捉えるとどうなるか?

 後鳥羽天皇は数えで一三歳、満年齢だと一一歳から一二歳、現在の学齢だと小学六年生だ。これぐらいの年齢を幼いと思う人は多いだろうが、それでも政治についての意見を持つぐらいはできるし、天皇親政も狙って狙えないことはない。

 これは周囲の人達にも言え、後鳥羽天皇の親政という名目で後鳥羽天皇の周囲に侍ることを狙えば、後鳥羽天皇親政が実現した瞬間に人生一発逆転が狙える。

 後鳥羽天皇が病床にある後白河法皇のもとへ行幸したのは建久三(一一九二)年二月一八日のことである。病に苦しむ実の祖父のもとを訪れること自体は何らおかしなことではないが、天皇行幸がそう簡単に終わるわけはない。

 このとき、後白河院の持つ所領の多くが相続となり、併せて相続対象となった所領は公事免除、すなわち、課税対象外の土地であるという院宣も発給された。また、将来の後鳥羽院政を前提とした院の所領の相続も行われ、後白河法皇のいる法住寺に加え、蓮華王院、六勝寺、鳥羽離宮といった院政に関連する建物の所有権が後鳥羽天皇に託されることとなった。後白河法皇の意思として、後鳥羽天皇の親政、さらには、早期退位後の後鳥羽院政を後鳥羽天皇に伝えたものであった。


 後白河法皇の症状悪化は鎌倉にも伝わっており、鎌倉方は後白河法皇の病状回復を祈祷するためという名目と、後白河法皇の身に何か起こったときにただちに動くことができるようにという実利的な理由から、鎌倉に戻ってきていた中原広元を再び京都に派遣することになった。中原広元は明法博士を辞してはいても、兼任している検非違使も左衛門大尉もまだ職務としているので、平安京内の自由がある程度は利く。また、武官の職務の兼任であるため、鎌倉方の御家人を一時的に家臣とすることで鎌倉方の武士が平安京内で武装することが許されるようになる。鎌倉を出発したのは二月四日で、二月二二日には中原広元が無事に京都に着いたという連絡が鎌倉に届いた。中原広元からの書状は二月一三日に京都に到着したと記すものであったから、最速ではないにしてもかなり急いだものである。

 急いだ理由は単純明快であった。後白河法皇の症状がさらに悪化しているというのだ。それこそ、いつ命を落としたとしても誰も疑念に抱かないレベルだ。具体的にどのような症状の悪化なのかは中原広元からの書状に記されていないが、石清水八幡宮に参詣した中原広元の祈祷が通じなかったことは記されている。

 さらに中原広元は行動を追加した。兼任していた検非違使と左衛門大尉を辞職すると申し出たのである。朝廷はこの辞職を受け入れ、中原広元は鎌倉方の政所別当に専念することとなった。検非違使でも左衛門大尉でもなくなったことで中原広元を通じた平安京内の武力行使はできなくなったが、権中納言一条能保が左兵衛督を兼ねているので、一条能保を通せば鎌倉方の御家人が平安京内に武装して入ることは違法ではない。

 ここで中原広元が検非違使と左衛門大尉の二つの職を辞職したことは、この二つの職の空席ができたこと、すなわち、位階はあっても官職を持たずにいる貴族に官職を譲ることを意味する。既に病床にある後白河法皇であるが、意識を失っているわけではない。空席となった官職を後白河法皇からの推薦によって獲得するチャンスとあれば、官職を求める無官の貴族が後白河法皇のもとに殺到し、後白河法皇が亡くなった後も後白河院の後継勢力が九条兼実に対立できる存在としてさらに強固なものとなる。

 関白九条兼実としてみれば、最後の最後まで後白河法皇が厄介な存在として目の前に立ちはだかるだけでなく、間もなく迎えるであろう後白河法皇亡き後も後白河院が続くのだ。これを厄介と感じない者などいない。

 後白河法皇の症状は二月中旬にある程度回復したときがあったものの、月末に至ると再び悪化し、三月に入ると予断を許さないまでになっていた。


 誰もがそのときを覚悟していた渦中の建久三(一一九二)年三月一三日、そのニュースが朝廷に届いた。

 後白河法皇崩御。

 死の間際を見とった一人が右大臣藤原兼雅である。藤原兼雅から伝えられた記録によると、後白河法皇は自らの死を覚悟していたため臨終に備えて僧侶達を呼び寄せ、死後の往生を祈祷させたという。また、この時代において死を間近に迎えた人は西方浄土に向かって最後の瞬間を迎えることで往生に備えるのが通例であったが、後白河法皇は巽(たつみ)の方角、すなわち東南に向いており、また、最後の最後まで笑顔であったという。この時代の概念でいけばこのままでは往生できないはずであるが、後白河法皇はそれでいいとして眠るが如く最期の瞬間を迎えた。

 後鳥羽天皇は父親を知らずに生きていた人である。後鳥羽天皇の父の高倉帝は後鳥羽天皇が生まれてから一年を経ることなく崩御しており、母方の祖父である坊門信隆こと藤原信隆は後鳥羽天皇の生まれる一年前に亡くなっているため、後鳥羽天皇にとって最も身近な男系近親者となると実の祖父である後白河法皇ということになる。後白河法皇に対する評価は様々な者があるが、肉親としての後白河法皇の死についての感情を抱くことができるのは後鳥羽天皇をはじめとするごく一部の人だけだ。

 後鳥羽天皇のが祖父の死をどのような思いで迎えたかを残す史料はない。ただ一つ、これはもしかしたら間もなく死を迎える祖父が詠んだ一首を新古今和歌集に載録させたということだけが、このときの後鳥羽天皇の感情を推し量ることができるだけである。

 「露の命消えなましかばかくばかりふる白雪をながめましやは」

 この和歌は亡くなる少し前の後白河法皇が詠んだ和歌である。この和歌がなぜ新古今和歌集に載録されたのかが明言されていないからこそ、新古今和歌集が誰の命令で編纂されたのかを踏まえれば、その答えは見えてくる。

 後白河法皇の死と同時に政治としての後白河院政も終わりを迎え、理論上は関白九条兼実の主導する形で、院政以前の政治形態である藤原摂関政治が復活したこととなった。

 九条兼実は後白河法皇の生涯を日記に振り返るようにまとめている。「鳥羽院の第四皇子にして御母は待賢門院。二条院、高倉院の父で、六条帝、先帝(安徳帝)、当今(後鳥羽)三帝の祖であった。保元以来四十年あまり天下を治め、寛大な慈悲深さは生まれつきにして、慈悲は世に行う。仏教の徳に帰依すること、殆ど梁の武帝より甚だし」と、その治世を高く評価するかたわら、ただ延喜天暦の古きしきたりを忘れてしまったことを恨めしく思う、とも記している。

 一方、ここ一年間の九条兼実と鎌倉方との距離感、そして、丹後局をはじめとする後白河法皇側の人達と鎌倉方との接近を踏まえると、後白河法皇の崩御によって後白河院政そのものは終焉を迎えたものの、政治勢力としての後白河院の後継団体は結集可能であると考えた。

 その中で真っ先に動き出したのが土御門通親である。後白河法皇の資産の多くは宣陽門院へと相続済みであり、また、邸宅などは退位後を見据えての後鳥羽天皇への所有権譲渡となっていたが、それでも後白河法皇自身が保有していた資産は存在する。後白河法皇の死と同時に、後白河法皇個人の所有していた蓮華王院の宝蔵は封印されたが、土御門通親は右大臣藤原兼雅に働きかけ、朝廷の命令として蓮華王院の宝蔵の封印は解除された。名目上は個人としての資産相続を見届けるためであり、後白河法皇の娘である宣陽門院や後白河法皇の孫である後鳥羽天皇に、後白河法皇が残した資産が正しく相続されることを見届けるとしたのであるが、関白九条兼実は土御門通親のこの動きを批判し、あくまでも後白河院が主体となって資産相続をすることで、朝廷の介在は許されないとしたのである。だが、土御門通親は関白九条兼実の批判を無視した。


 後白河法皇の死はただちに全国に向けて発せられたが、この時代の通信事情で日本全国に後白河法皇の死の知らせを届けるには一ヶ月を要する。鎌倉には後白河法皇が亡くなってから三日後に知らせが届いたが、これは異例中の異例の早さであり、後白河法皇の死をその日のうちに知ることができたのは京都内外の人達だけである。

 その代わりと言うべきか、後白河法皇の死に伴う全国家的服喪期間はかなり長い。現在でも亡くなった日を一日目として数えて七日目である初七日の法要があるが、このときの後白河法皇の死については初七日を迎えるまでが全国家的服喪期間とされた。もっとも、こうした服喪期間はこの時代としてはおかしなことではない。後白河法皇の死は衝撃的なニュースであったが、後白河法皇が三月一三日に亡くなったことで、三月一九日まで喪に服すことになるというのはこの時代の人達にとって言われなくともわかることであった。

 建久三(一一九二)年三月一五日、亡き後白河法皇が埋葬された。現在でも三十三間堂の近くに残る後白河天皇法住寺陵が埋葬地である。

 近親者が死を迎えたときに残された人に様々な儀が課されるのは、忙しくさせることで自ら死を選んでしまわないようにさせるという側面もある。後鳥羽天皇はいかに元服を迎えたとはいえまだ幼く、国家的行事でもあるため後白河法皇の葬儀は関白九条兼実の両肩にのしかかることとなる。この時期の九条兼実の日記を読むとかなり追い詰められていたようで、後白河法皇が埋葬された翌日の三月一六日は方違えを理由に丸一日休み、一七日から政務に復帰している。

 後白河法皇の初七日でもある三月一九日には後鳥羽天皇も政務に復帰し、理論上、この日から後鳥羽天皇親政が始まることとなる。なお、国家的な服喪期間は終わっても親族としての服喪期間は続いているため、後鳥羽天皇は正殿を避けて倚廬に移っている。倚廬(いろ)とは天皇や皇族が両親や祖父母の喪に服すときに籠もるための仮の建物であり、後鳥羽天皇が倚廬(いろ)に入ったことで、政務遂行のために参内する貴族達も、正殿ではなく倚廬(いろ)に参内することとなる。その後の記録を見ても、亡き後白河法皇に対して喪に服している後鳥羽天皇に従うために通例の政務とはならないものの、基本的にはそれまでの政務が復活していることが読み取れる。

 京都では後白河法皇の初七日で基本的な服喪期間を終えたが、鎌倉は京都よりも長い服喪期間となっていた。源頼朝の判断である。

 既に述べたように後白河法皇が亡くなったという知らせが鎌倉に届いたのは後白河法皇の死から三日後である。一条能保から源頼朝に向けて送られた書状を受け取った源頼朝は哀しみに打ち震えたと吾妻鏡にある。三月二二日には京都における後白河法皇の葬儀の様子が伝えられ、丹後局が後白河法皇の死とともに出家したこと、その他にも出家した貴族がいたこと、また、法成寺で埋葬されたときの様子と参列者の詳細も、一条能保からの送り届けられた書状に書き記されていた。


 後鳥羽天皇が倚廬(いろ)を出て通常政務に完全に復帰したのは四月二日のことである。この日、間もなく迎える予定の賀茂祭については後白河法皇の喪に服すために中止となることが決まった。賀茂祭は建久新制で華美な装飾を慎み質素なものとするように命令が出た影響で前年度はそれまでより簡素なものとなっていたが、この年の中止は簡素化に次ぐ中止ということで賀茂祭そのもののあり方に影響を与えることとなった。何しろ、二年連続で従来の賀茂祭でなくなったことから従来の賀茂祭の様子を取り戻すことができなくなってしまっただけでなく、賀茂祭そのものが中止になることが珍しくなくなってしまったのである。賀茂祭だけを考えれば平安時代と鎌倉時代の境界線は明白で、建久二(一一九一)年より前が華やかな賀茂祭のある平安時代、建久二(一一九一)年からが質素な賀茂祭しかないかあるいは賀茂祭そのものがない鎌倉時代という時代区分が成立するほどだ。

 話を後白河法皇の死に戻すと、京都では後白河法皇の死後の服喪を終えて後鳥羽天皇が倚廬(いろ)を出たあとも、鎌倉では後白河法皇を追悼する行事が続いていた。初七日の法要を鎌倉でも開催しただけでなく、三十五日、四十九日の法要も開催していた。仏教では人が亡くなると七日ごとに裁判を受けるとされており、その都度、極楽浄土へ導いてもらうための手助けとして法要を営むことになっている。そうした法要は京都でも当然ながら営んでいるが、鎌倉でも京都に負けない規模の法要を営んでいたのだ。何しろ鎌倉中の僧侶を集めても足らないので、武蔵国、相模国、伊豆国の各所から僧侶を鎌倉に派遣してもらうよう依頼したほどである。

 こうした鎌倉における熱心なまでの法要の様子は京都にまで届いていた。

 こうした鎌倉の知らせは、九条兼実に反発する意味で後白河法皇に接近していた人達にとって喜ばしい知らせであった。死と喜びとを結びつけるのは不謹慎であるという叱りを受けるかもしれないが、それでもあえて記さざるを得ないほどに喜ばしい最高の知らせであった。後白河法皇は亡くなったが、勢力としての後白河院は健在であり、その協力者として鎌倉方が存在するのだという知らせとなったのである。

 これは九条兼実にとって痛手であったとするしかない。後白河法皇は確かに亡くなった。それなのに、九条兼実の目指す政治の障壁であり続けた後白河法皇はなおも健在であるかのような状況になってしまったのだ。

 源頼朝が存在するために鎌倉方という集団も存在している。ゆえに、源頼朝の懐柔に成功すれば鎌倉方という勢力そのものを自派に引き込むことに成功するとも言える。九条兼実はどうにかして源頼朝と連絡を取ろうとしたものの、鎌倉からの返答はつれないものである。亡き後白河法皇の法要については執り行ったという連絡が来るものの、政治的な見解となると途端に乏しくなるのである。何も源頼朝が政治的に無関心であったからではない。それどころか源頼朝という人はかなり政治的な人である。それでもなお政治的な見解が乏しくなるのは、公的には源頼朝が権大納言も右近衛大将も辞したからである。

 ただし、一点だけ九条兼実が源頼朝と取引できる余地があった。


 その知らせは突然訪れた。

 鎌倉に第一報が届いたのは建久三(一一九二)年七月二〇日のことである。七月一二日に源頼朝が征夷大将軍に任命されたというのだ。

 征夷大将軍の地位を求めながら後白河法皇によってはぐらかされてきたのが、後白河法皇が亡くなってから四ヶ月後にいきなり征夷大将軍就任である。

 第一報が到着してから六日後の七月二六日、源頼朝を征夷大将軍に任じる除書(じょしょ)、すなわち、朝廷が正式に役職に任命したことを伝える書状を持参する使者が京都から鎌倉に到着した。検非違使庁の官人である中原景良と中原康定の両名がその使者である。

 ところが、除書(じょしょ)の内容も、どのようにして源頼朝が除書(じょしょ)を受け取ったのかもよくわかっていない。吾妻鏡には除書(じょしょ)の内容とされる文面が載録されているし、受け取ったときの状況も書き記されているものの、その記載が当てにならないのだ。どういうことかというと、これから六〇年後の時点で源頼朝の征夷大将軍就任時の除書(じょしょ)を参照しようとしたところ、除書(じょしょ)そのものが既に失われ、受け取ったときの状況の記録も残されていなかったのである。吾妻鏡の編纂はそれより後の時代であることから、吾妻鏡に載録されている文面は後世の創作とするしかないのだ。

 とは言え、創作しようにも全くのゼロから創作するのは困難だが、記録は残されていなくても記憶として残されているということならばある。そして、吾妻鏡編纂の段階で容易に参照できる史料、いや、人口に膾炙されている作品ならば存在した。

 平家物語だ。

 平家物語第八巻では源頼朝が征夷大将軍に任じられたときの様子が描かれており、吾妻鏡は平家物語から転写したとするしかないのである。ただし、平家物語は源頼朝が征夷大将軍に就任したのは寿永二(一一八三)年としているので、年が全く合っていない。

 以下は平家物語に記され、その後に吾妻鏡に載録されたこととなる光景である。なお、前述のように平家物語は寿永二(一一八三)年のこととしているが、吾妻鏡では建久三(一一九二)年七月二六日である。

 征夷大将軍任命の除書(じょしょ)を受け取る光景はかなり儀礼的なもので、かつ、衆人環視のもとで行われるものとなった。まず、京都からやってきた二人の使者は衣冠束帯を身にまとって鶴岡八幡宮に並んで立ち、三浦義澄、比企能員、和田宗実、ならびにそれぞれの郎従が一〇名、武装して鶴岡八幡宮に参詣して除書(じょしょ)を受け取り、源頼朝のいる大倉御所へと向かう。大倉御所では源頼朝が衣冠束帯の姿で待っており、跪いて辞令書を捧げ持ってきた三浦義澄から源頼朝が除書(じょしょ)を受け取って、ここではじめて源頼朝は正式に征夷大将軍となったこととなる。なお、三浦義澄がこの役目を受け取ったのは源平合戦勃発直後の三浦義明の死に報いるために、子の三浦義澄に栄誉を与える意味があったからであると平家物語は述べており、その内容を、日付を買えて吾妻鏡に記載している。


 それにしてもどうして源頼朝は征夷大将軍を渇望したのか。

 江戸時代まで続く征夷大将軍の持つ権威と権勢を考えたならば、武家のトップである人物が征夷大将軍を求めたとしてもおかしなことではない。だが、この時点での征夷大将軍という職位は、江戸時代や室町時代のような圧倒的権威と権力が付帯する職位ではない。

 既に何度も述べたように征夷大将軍という職位において重要なのは「大将軍」である。これが単なる「将軍」であれば軍事作戦の開始と終了は朝廷が決定し、作戦遂行中も朝廷の管理監督を受けることとなる。しかし「大将軍」となったなら軍事作戦の開始も終了も大将軍の判断で決めることができるし、軍事作戦中となれば作戦遂行において朝廷の管理監督を受けることがない。さらに、軍事作戦の範囲とされた土地も租税をはじめとする朝廷から課される義務が免除となり、荘園についても荘園領主に対する年貢貢納が免除となる可能性が高くなる。年貢貢納免除については荘園領主と荘園住人との私的な契約であるため必ずしも大将軍に課されている権利が適用されるとは限らないが、かなりの割合で貢納免除を獲得できる。これはかなりのフリーハンドを獲得できる職位だ。

 それならばどうして、これまで征夷大将軍の職位を求める者が現れてこなかったのか?

 一言で言うと、実利が無いからである。

 征夷大将軍の官位相当は低い。歴代を振り返ってみても延暦二三(八〇四)年の坂上田村麻呂の正三位が最上位で、その他の例を見ると従三位から従四位下の位階の者が就く職位である。戦場に散った木曾義仲を除けば、征夷大将軍とは貴族としてのキャリアを作り上げていく上での通過点でしかなく、征夷大将軍としての職務を果たした後で中央政界においていかに出世していくかという点しか注視されていなかったのである。その意味で、正二位にまで登り詰め、権大納言をも経験した人物が求めるとしたらあまりにも不可解である。先に征夷大将軍になり、征夷大将軍としての職務が評価されて位階が上がり議政官入りすることを目指すならキャリアプランとして考えられるが、源頼朝はその逆を狙っている。キャリアアップどころかキャリアダウンになるのだからこれは不可解とするしかない。

 キャリアを無視して私財を溜め込むことだけを考えたとしても、得られる収入は微々たるもの、もっと言えば私財持ち出しとなるのが征夷大将軍という職務だ。あくまでも国内で起こっている内乱を鎮めるために軍勢を派遣するときの指揮官が征夷大将軍であって、征夷大将軍には内乱鎮圧だけが求められる。朝廷からの干渉を受けない理由は軍事作戦に支障を来さないことが求められるからで、軍事作戦そのものが正常に展開されていなければ征夷大将軍は非難を受けることとなる。実際、宝亀一一(七八〇)年に征東大使に任命された藤原継縄は作戦を遂行していないという理由で罷免され、同年、藤原小黒麻呂が改めて持節征東大使として任命されている。また、持節征東大使となった藤原小黒麻呂であるが翌年六月に軍事作戦を展開できないまま軍勢を解散し、持節征東大使を辞している。厳密に言うと征夷大将軍と持節征東大使では与えられている権限が違うが、それでも同じ職掌ということになっている職務の歴史を振り返ると、源頼朝がどうして渇望するのかわからなくなる。

 ところが、源頼朝が征夷大将軍に任官したことで、源頼朝が征夷大将軍になることのメリットが判明したのだ。


 まず、源頼朝は征夷大将軍で無ければならないと考えていたわけではない。必要なのは「大将軍」の官職であって、官職名の先頭二文字が「征夷」であることにはこだわっていなかった。

 内大臣中山忠親の建久三(一一九二)年七月九日の日記によると、源頼朝の要望はあくまでも「大将軍」であって、どのような大将軍であるかまでは細かく指定していない。そこで、朝廷では、「総官」、「征東大将軍」、「征夷大将軍」、「上将軍」といった職務を源頼朝に任命する役職名として検討することとなった。

 まず、「総官」については平宗盛が治承五(一一八一)年に任命された過去があるものの、この官職がいかに権限の強くとも大将軍としての権限までは付与されておらず、そもそも源平合戦の敗者である平家に与えた職務を源頼朝に与えるというのは不吉であるとして却下された。

 次いで「征東大将軍」については木曾義仲に与えられた役職名であり、京都の人にとって木曾義仲とは思い出したくもない過去であり、こちらもまた不吉であるとして却下された。

 四番目の「上将軍」については中国史に目を向ければ先例があるものの日本史に目を向けると存在しないことから却下された。

 唯一「征夷大将軍」だけは坂上田村麻呂という先例があり、吉例ということで源頼朝に付与するに相応しい役職とされた。

 ここまではいい。源頼朝が渇望していた大将軍に対する回答として征夷大将軍を用意したのだから、朝廷としてはこれで源頼朝の要望に応えたこととなる。問題は、源頼朝が征夷大将軍になって何をしようとしているのかである。

 考えられるのは、作戦開始から作戦終了まで朝廷から干渉を受けることがなく、それでいて京都から離れた場所に居続けても許される公的地位を手に入れる。また、源頼朝の勢力の強い地域において、軍事作戦進行中であることを理由として租税をはじめとする義務の免除を適用させることも考えられる。それでも、ここまでして懸命になって渇望する理由があるだろうかというのが正直な感想だ。源頼朝が権大納言や右近衛大将をことで前権大納言や前右近衛大将の称号を手にしたのだから、発揮できる権利と権勢だけを考えればそれで満ち足りたではないかというのが朝廷での率直な思いであったし、そこまで大将軍を求めているなら仕方ないから征夷大将軍を付与してあげようかというのが関白九条兼実をはじめとする京都の貴族達の感覚であった。つまり、重要視していなかった。

 実際に源頼朝が征夷大将軍に就任して、それが取り返しのつかない譲歩であったことに気づいた人はどれだけいたであろうか?


 なぜ取り返しの付かない譲歩になったのか?

 忘れてはならないのは、後鳥羽天皇は三種の神器が揃うことなく即位した天皇であるということである。安徳帝を擁し、三種の神器を持ち出して西国へ逃れた平家は、壇ノ浦の戦いで安徳帝を入水させ、三種の神器も海中に沈めてしまった。三種の神器のうち、八咫鏡(やたのかがみ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)については拾い上げることに成功したものの、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)はついに見つかることなく、捜索打ち切りが宣言されたのである。

 そして、三種の神器のうちの天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は、そもそも本物ではない。いや、神道の考えでは本物なのだが、神道の考えに則らないで眺めると、本物であるとは言い切れない。どういうことかというと、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は熱田神宮に御神体として祀られており、三種の神器として継承されてきたほうの天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は形代なのである。形代(かたしろ)とは、人や物を模して作ったのちに神の霊や人の霊を宿らせたもので、模した結果が瓜二つであるか否かを問うことなく、神道では形代を本物と同じと扱う。つまり、熱田神宮に祀られている本物の天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)から作ったもう一つの本物を皇室では皇位継承のレガリアとして用いていたのだ。

 そう易々とできるわけではないものの一度は形代とすることができたのだから、熱田神宮に依頼して形代をもう一度作ってもらい皇室に納めてもらうことで、三種の神器としての天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を取り戻すことは可能だ。事情が事情なのだから、普通なら皇室からの依頼に応じてただちに形代を用意することも不可能ではなかろう。

 ところが、建久三(一一九二)年に源頼朝が征夷大将軍に任命された瞬間に形代を用意することができなくなってしまった。

 どういうことか?

 源頼朝は清和源氏の当主の地位を継承する血筋の人間であると同時に、母方の系図をたどると熱田神宮の宮司にたどり着く。源頼朝の実母は熱田神宮の宮司の娘であり、熱田神宮そのものに対して源頼朝は強い発言権を有している。

 そして、熱田神宮からはこのように宣言させる。

 源頼朝が受けた征夷大将軍の地位こそが天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)の形代であり、その地位は熱田神宮に関係する血筋の者が継承する、と。

 天皇の即位に必要なレガリアとしての三種の神器のうち、八咫鏡(やたのかがみ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)については現状のままとするが、実物が熱田神宮に祀られている天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)については征夷大将軍を形代とし、その地位は、今は源頼朝、源頼朝の次は源頼朝の子孫が継承するとしたのだ。

 征夷大将軍の位階そのものは決して高いものではない。源頼朝の子が征夷大将軍を継承するとなった場合、その者が源頼朝と同等の位階を獲得している保証はどこにもないが、征夷大将軍の役職を得るに十分な位階を獲得している可能性は高い。

 これにより、征夷大将軍が存在することで後鳥羽天皇は三種の神器が揃った帝位とすることができる一方、後鳥羽天皇が帝位を降りて次の天皇を擁立しようとするとき、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)の形代である征夷大将軍が存在しなければ帝位継承ができないこととなる。

 三種の神器は、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)が天皇としての仁を、八咫鏡(やたのかがみ)が知を、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)が武を象徴している。その武の象徴である天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)が、この瞬間、征夷大将軍という形に姿を変えたのだ。

 これは源頼朝だからこそできることである。熱田神宮につながる源頼朝だからこそ熱田神宮での天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)の形代について口出しできるのだし、自分自身ではなく自分が手にした新しい官職に三種の神器の一つとさせることができたのだ。

 気づいたときには遅かった。位階相当は低くとも、藤原氏だろうが院だろうが、摂政だろうが関白だろうが太政大臣だろうが、そして、天皇ですら無視できることのできない存在になってしまったのだ。しかも、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)の象徴する武を具現化する存在として征夷大将軍源頼朝がこの世に誕生したのだ。

 源頼朝は極めて巨大な権力を手にしたこととなる。ただ一言、「征夷大将軍を辞す」と表明するだけで皇位継承が停まってしまうのだ。

 本作の冒頭で、源頼朝の作り上げた政権が平家政権と違って長期政権となった本質的な違いがあったと記した。その本質的な違いがここである。多くの学者が、研究者が、歴史期を学び歴史を愛する者がそれぞれの鎌倉幕府成立の瞬間を述べるように、作者も鎌倉幕府成立の瞬間を記す。

 鎌倉幕府の成立は、建久三(一一九二)年七月一二日。源頼朝が征夷大将軍になったその日こそ、鎌倉幕府成立の瞬間である。かつての主流学説に回帰することとなるが、それでもなお、鎌倉幕府成立は建久三(一一九二)年七月一二日であると記す。


 源頼朝が征夷大将軍となったことは多くの人が知っていても、征夷大将軍という役職が恒久的な存在として確立されたことが取り返しの付かないこととなったことを京都の人達はまだ知らずにいる。

 それは関白九条兼実も例外ではない。

 これまで後白河院の存在によって思い通りの政務を執り行えないことを危惧していた九条兼実は、後白河法皇亡き後の後白河院の存在を強固なものとさせていた鎌倉方を、後白河院から距離を置いた鎌倉幕府とさせたことで朝廷から遠ざけることに成功し、後白河院の存在に左右されることのない政務遂行が可能となったと考えた。無論、この時点で鎌倉幕府という名称は存在しない。しかし、待望の征夷大将軍の官職を手にしたことで鎌倉の勢力が京都から距離を置いたことはわかっていた。

 鎌倉幕府がこの後どのような組織となって日本国に君臨することになるかを知っている我々からすると、鎌倉幕府成立への引き金を引いた九条兼実のこのときの思考はあまりにも楽観的に感じるが、はっきり言って、この段階で鎌倉幕府が一五〇年続くこと、また、征夷大将軍が六三〇年という長期に亘る権威を持つ役職になることを想像した人など誰もいない。九条兼実の思考のほうが正常で、自らの血統に征夷大将軍を重ね合わせることで皇室の存続問題にまで発展させることを思いついた源頼朝のほうが異常なのである。

 そこで九条兼実の掲げた政策を挙げると、三点にまとめられる。

 一つは記録所の機能再開である。記録所の設置自体は文治三(一一八七)年二月二八日にまで遡ることができ、九条兼実の手による古き良き時代への回帰の目玉としても良い政策であった。特に、後三条天皇の頃のように荘園に関する管理監督権だけでなく、公事用途勘申(くじようとかんしん)、すなわち、朝廷の日々の政務や儀式に要する費用の調査に関する監査についても記録書の職掌としたことで、財政管理を試みた。ただ、記録書の試みは後白河院と、後白河院を利用しようとする貴族達の消極的抵抗によって骨抜きになっていた。記録書による監査を試みても協力する者は少なく、監査は形骸化し、次第に名目上だけの存在へと化してしまったのである。九条兼実は五年の年月を経て記録書の機能を復活させ、再び設置当初の働きを見せるよう試みたのだ。

 二点目は公卿の削減である。平家政権下で議政官の人数が増えただけでなく、上位の位階を持つ貴族の数も増え、本来ならば大臣相当の位階である従二位ですら大臣はおろか大納言に就任することもできず、権大納言の人数を増やしてどうにかするという状況になっていた。九条兼実はこれを藤原道長の時代に回帰することを試みたのである。とは言え、既に位階と役職を得ている貴族から位階と役職を取り上げることはできない。できるとすれば、空席を埋めないことである。政界を引退したり死を迎えたりしてできあがった位階や役職の空席を埋めないことによって、藤原道長の時代の議政官構成を取り戻すことを画策したのだ。


 三点目は経済対策である。既に平家政権の頃から宋銭が流通しており日本国内は貨幣経済に飲み込まれつつあった、正確に言えば一度は失われた貨幣経済が復活しつつあったのだが、ここにきて貨幣流通の是非を論じるようになったのである。その結果が、宋銭流通の禁止と、物価高騰を抑えるための估価法の制定である。

 ただ、これは強引に過ぎた。宋銭を禁止したならば待っているのは現物取引だ。それも、通常はコメを貨幣として用いる取引だ。ただでさえ飢饉の記憶の残るこの時代である。コメを貨幣とするということは、市場(しじょう)に出回るコメの絶対量が減ることを意味する。何しろコメを外に運ばずに溜め込んでおけばコメの価格が上がる一方になる。仮に服一着に対してコメ一〇升という交換レートであった場合、飢饉によってコメの値段が上がると、コメ八升での交換、コメ五升での交換、コメ二升での交換となる。こうなると、好き好んで早々にコメを手放す者などそうは現れない。ところが、コメは財貨であると同時に食糧なのだ。飢えに苦しむ人にとってコメが手に入らないというのは、生活が苦しくなるとかのレベルを超えて命に直結する話になるのである。そこで九条兼実は物価そのものを法で定め、その金額以外での販売を禁止するという手段に出たのであるが、そこで示されている金額は実体経済を無視したものであった。

 商品の価格は需要と供給のバランスではなく供給者の意思のみで決まる。需要は価格決定の一要素ではあるが、供給者のビジネス上の判断、俗な言い方をすれば売り手が最も儲かるような金額を設定して市場(しじょう)に商品を送り出す結果が価格だ。その価格を供給者本人ではなく法で定めたならば、供給者は儲からなくなるだけでなく、そもそも商品を市場に送り出すことも無くなる。考えていただきたい。創り出すのに必要な原価や人件費を足すと最低でもコメ換算で五升はなければならない商品を、法によってコメ三升と決めてしまったなら、いったい誰がその商品を作り出すというのか。

 また、これはコメを持っている側にも同じことが言える。それまではコメ換算で五升でなければ買えなかった商品がコメ三升で買えるのだから、その時点で市場(しじょう)に出回っている商品は安く買えるだろうが、その商品はもう市場(しじょう)に出回らなくなるか、あるいは、小さくなるか内容量が減るか品質が落ちるかしてコメ三升分の価値しかない商品になってしまう。それではコメを放出する意味も失われる。それに、永遠とは言わないがコメはそれなりに長持ちする食品だ。しかも、この時代は新米よりも古米のほうが高値で取引される時代である。コメを市場(いちば)に持ち込んでもまともな商品が手に入らないというなら、まともな商品で妥協するのではなく来年までコメを寝かせておいた方が価値が上がるのだから、ますますコメを市場(いちば)に持ち込む意味が失われる。

 商品を作って、あるいは商品を用意してコメと交換しようと市場(いちば)へ足を運ぶ者、そして、コメを用意して商品と交換しようと市場(いちば)へ足を運ぶ者、その双方の足取りを、物価を法で定めることで止めてしまうと何が起こるか?

 貧しくなる。


 コメを用意する者は、コメを用意したところでまともな商品が手に入らない上に、コメを溜め込んでおけばおくほど価値が高まるから、コメを用意することを止めてしまう。

 商品を作る者や商品を用意する者は、どんなに商品を用意しても十分なコメが手に入らないから、商品を作ることも商品を用意することも止めてしまう。つまり、失業だ。

 しかもこれは現物取引に限ってしまった場合の話である。

 ここに宋銭が絡むとどうなるか?

 多少はマシになる。

 貨幣であればコメよりも溜め込んでおきやすくなるだけでなく、遠隔地との取引も容易になる。それこそ国境を挟んだ取引も可能だ。南宋との交易をしていた平家が滅び、金帝国との交易をしてきた奥州藤原氏が滅んだものの、交易そのものは継続している。日本から物資を運んで、南宋から、あるいは金帝国から物資を運び込むのが一般的な交易であるが、商品と商品とを交換するバーター取引が成立しないとき、不足する支払いはこの時代の東アジア共通通貨となっていた宋銭で執り行うこととなる。物価を定めてしまったせいで市場(しじょう)に商品が流通しなくなったとしても、国外からの輸入品が定めた物価での流通に耐えられるならば、市場(いちば)に輸入品を並べることによって経済はまだどうにかなる。

 だが、九条兼実は宋銭流通を停止してしまった。こうなるとバーター取引を成立させるために交換する物資を増やさねばならなくなる。そして、この時代の経済は日本の物資を国外が欲しがるという輸出超過の状態にあり、結果として宋銭が日本に大量に流れ込んでいるという状況だ。命懸けで海を越えて商品を売って商品を仕入れて日本国内に持ち帰った結果が宋銭だというのに、その宋銭が日本国内では何の役にも立たなくなるというのが九条兼実の命令だ。そんな命令を守るとしたならば海を越えて運び入れる商品の数そのものを増やさねばならないが、それではいったい誰がそんな交易を受け入れるというのか。

 たとえば南宋の陶器と日本の木材の交換で取引が成立しているものの、木材のほうが価値が高いので南宋が陶器をどれだけ用意しても日本の木材との交換はできないというケースがあるとする。日本から輸出した木材と交換できるだけの陶器を南宋で用意できたとしても、木材を運んできた船に積み込みきれないというケースだ。このような場合、南宋は陶器だけでなく宋銭も支払いに追加する。宋銭は文句なしの価値を持っているだけでなく小さくて重量もあるので、船に積み込めばバラストの代用品としても通用する。航海中は船の安全運行をもたらし、日本に帰港したら積み込んだ宋銭が日本国内で価値を発揮して市場(しじょう)で流通する。それこそ、日本国内でコメをはじめとする食糧も買える。だからこそ危険を覚悟の上で荒波に乗り出すのだ。

 その根底をなす宋銭流通を九条兼実は禁止したのだ。

 九条兼実は古き良き時代を取り戻すことを考えていたが、古き良き時代と同じことをしても古き良き時代と同じ生活が戻るわけではない。鎌倉方の勢力を鎌倉幕府へと昇華させてまで後白河院の勢力を弱らせて実現させた政策であったが、この政策は完全に失敗であった。


 源頼朝という一個人を軸とする鎌倉方から、征夷大将軍という皇位継承と深く結びついた存在を軸とする鎌倉幕府となったことで、正二位の位階を持つ貴族である源頼朝という個人に由来する鎌倉方の統治機構も、征夷大将軍という存在に由来する統治機構へと昇華させる必要が生じた。

 征夷大将軍の役職を手に入れた源頼朝が最初に手を付けたのが政所の改定である。これまでの政所は正二位の位階を持つ貴族であるために設置が許されている政所であるのに対し、建久三(一一九二)年八月五日を以て征夷大将軍の官職に付随する政所となった。

 政所を構成する役人の面々は八月四日以前と八月五日以降とで違いは無い。しかし、政所の発給する書状の署名は変わることとなった。これまでは源頼朝の名と花押の記載であったが、八月五日以降は政所家司の署名と花押の記載のみとされたのである。ただし、御家人達はこの決定に反発を見せ、千葉常胤や小山朝政といった有力御家人は、鎌倉幕府の発行する書状ではなく、従来の書状を求めた。さすが源頼朝の決定に逆らうことはできないと政所家司の署名と花押だけでは不安だと訴え、源頼朝の署名と花押を記した文書も並行して発行させるといった光景も見られた。つまり、署名と花押以外は全く同じ書状が二枚発行されるようになったわけである。

 源頼朝からすればこれは本意ではない。

 自分が征夷大将軍の官職を獲得したのは、征夷大将軍が官職ではなく地位となること、その地位は源頼朝の身に何かあっても源頼朝の血を引く者が受け継ぐことが可能なこと、現時点で源頼朝に臣従する面々が源頼朝ではなく征夷大将軍という地位へ臣従することで、従来の鎌倉方という枠組みを超え、鎌倉幕府という新たな権力体制となることを目論んだからである。ここで源頼朝個人の署名と花押を求められると鎌倉幕府という新たな組織の前提が崩れてしまうのだ。

 源頼朝には既に跡継ぎとなっている男児がいる。後に源頼家と呼ばれることとなる万寿である。寿永元(一一八二)年生まれであるから数えで一一歳、現在の学齢で行くと小学四年生だ。建久三(一一九二)年時点の源頼朝は四六歳であるから、いかに平均寿命が今より短い時代であるとは言え、自らの老後と死を直視しなければならない年齢ではない。どんなに短く考えてもあと一五年は源頼朝が征夷大将軍であり続けることは可能であり、そのあとで嫡子である万寿が二代目の征夷大将軍となり、万寿の子が三代目の征夷大将軍となるといった形で、征夷大将軍が関東における特別な存在であり、かつ、皇位継承に絡むために朝廷からも手出しできない存在であり続け、鎌倉幕府が日本国における特別な集団となることを源頼朝は意図していた。

 そして、源頼朝のこの意図をさらに強くする人物が建久三(一一九二)年八月九日に誕生した。のちに源実朝と呼ばれることとなる千幡である。万寿の身に何か起こったとしても、万寿の弟である千幡が征夷大将軍の地位を継承することを源頼朝は意図するようになったのである。

 源頼朝は画期的なシステムを構築し、さらに源頼朝のもう一人の後継者候補が誕生したことで、源頼朝は鎌倉の地に永続的な権力を作り上げることに成功したと確信していたであろう。

 だが、源頼朝の手にした征夷大将軍という役職、そして、源頼朝の直系の子孫は、まさに産まれたばかりの千幡こと後の源実朝で終わるのである。その上、鎌倉幕府という権力は源実朝の死後になって完成することとなる。そこに源氏の征夷大将軍はおらず、ただ、鎌倉幕府に仕える御家人達の生き残りがいるだけになるとは、このとき、誰も知らない。

―― 平安時代叢書第十八集 覇者の啓蟄~鎌倉幕府草創前夜~ 完 ――


いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

0コメント

  • 1000 / 1000