視点を京都に戻すと、武士団同士の抗争ではなく武官の人事が展開されていた。承安四(一一七四)年七月八日、源雅通が右近衛大将を辞任し、後任の右近衛大将に権大納言平重盛が就任したのである。
これにより、平家の武力発動に対する障壁はなくなった。何かあればいつでも平重盛が率いる平家の武力が動くとあっては、それまで寺社勢力から喪失していた躊躇が蘇る。平治の乱で清和源氏の勢力が瓦解し平家の軍勢のみが京都における唯一の武装勢力となったことで、武士同士が平安京で争う光景は消えた。武力衝突の危惧は寺社勢力と平家との対立のみであるが、それも平重盛が右近衛大将になったことで寺社勢力のほうが自重するようになった。
おかげで京都では平穏な日々が展開されるようになり、未来への希望も生まれてきていた。
承安四(一一七四)年八月、亡き近衛基実の子の近衛基通が従三位となり、その拝賀には福原から平清盛も詰めかけた。次の時代が示されたことは、暗雲の立ち込める時代の終わりを実感し、希望の抱ける時代の灯火が見えてきたかのような感覚だったのだ。
この祝賀ムードに包まれていた承安四(一一七四)年九月一日、後白河法皇は一つのイベントを開催した。「今様合」である。今様(いまよう)とは現在で言うJPOPのような時代の最新の流行歌で、現在と同様に次から次へと新曲が登場する。これが「合」となると、最新の流行歌が勢揃いして今様を競い合うイベントになる。こうしたイベント自体は昔からあったものの、後白河法皇の主催したイベントは規模が違った。
まず、今様合でありながら、今様だけでなく箏・笙・笛などの様々な楽器の演奏もあり、さらには演奏も伴わない芸事もあった。現在でも歌あり笑いありのステージショーがあるが、それと同じである。
また、一日一組ずつの出場であり、毎日勝敗をつける。現在の大晦日は赤と白との歌合戦であるが、この時代は右と左との対抗戦である。右と左と言っても政治信条のことではなく単に組み分けなだけで深い意味はない。
さらに、出場者の中には後白河法皇自身がおり、観覧者の中には一般庶民もいるという、身分の差も超えてのイベントというのは、平安時代を探すと意外と多い。しかし、皇族が観覧するだけでなく参加者であるイベントとなるとそうはない。
新しい時代への希望の最たるものは、平重盛が武力を行使でき、寺社勢力を制御できることに行き着く。
寺社勢力の視点に立つと、これまでのとおりに暴れることができなくなったことを意味するが、平家の側から眺めると、寺社勢力が暴れなくなったことだけを意味するのではなく、支持率が下がってきていることを盛り返すチャンスが訪れたことを意味する。
たしかにこれまで、寺社勢力が暴れても平家は動かなかった。だが、これまで暴れてきたことを無かったことにするわけではない。
さらにここに、平家の継承権争いが加わると、承安四(一一七四)年一一月一三日の出来事につながる。この日、春日祭にて近衛使を務めていた平維盛が病気と称して途中で京都へ戻ったのである。平維盛は平重盛の長男であり、このとき一七歳である。役職としては近衛使、右近衛大将である父とは上司と部下の関係になる。この日も父にして上司でもある平重盛の命令で春日祭に赴いており、病気と称して途中で帰京しているのは上司命令の遂行中に途中離脱したこととなるが、誰も途中離脱とは考えていなかった。任務を無事に遂行したのだと捉えたのだ。
平維盛の途中離脱の理由、それは、春日大社の神人を逮捕し、その際に死者も出してしまったことである。逮捕の理由は前年の興福寺と妙楽寺の僧兵の衝突、そして、その後に発生した延暦寺による清水寺襲撃への報復未遂についてであり、春日大社を擁する興福寺からすれば自分達だけの逮捕などおかしいではないかとなるが、まず先に興福寺、次いで延暦寺という順番で逮捕するとなればおかしくない。
平重盛の長男が近衛府の武人として行動をし、死者を出してしまったものの結果を出した、それも寺社勢力相手に結果を出したというのは、来たるべき未来への希望を抱かせるものがあった。一七歳という若き武人が、武人としての能力も実績も申し分ない父の指揮と、遠く福原に控える武家勢力のトップにして太政大臣にまで歩みを進めた祖父の庇護のもとで誕生したのだ。平維盛が一三歳の若さで右近衛権少将として貴族界にデビューしたのが嘉応二(一一七〇)年のこと。そのときは名目だけの武人という位置づけであったのが、それから四年で名実とも兼ね備えた武人として世間の前に現れたのだ。
後世の人からは「平家ニ非ズンバ人ニ非ズ」という言葉が飛び交ったとまで言われる時代であるが、実際の平家は藤原氏との融合と平家そのものの貴族化によって、武家政権としての平家の存在が薄くなりつつある時代であった。武人として中央政界に入るよりも、武人のキャリアの締めくくりとして中央政界入りする場合と、武人の血を引きながら貴族としての教育を受け貴族として中央政界入りする場合とが平家の勢力拡張の源泉であり、次代の武門を担う若者の登場はほとんどなかったのが現状だ。
平維盛は平清盛の孫であり平重盛の長男である。ただし、正妻の子ではない。そのために、他の平家の若者が貴族としての教育を受けて貴族デビューする中、平維盛は武人としての教育を受けた武人として中央政界にデビューすることとなった。
これだけなら平維盛のデビューは評判を呼ばなかった、あるいは、評判を呼んだとしても悪評に塗(まみ)れるものであったろう。父と祖父の権勢を頼りに貴族としての教育も受けずに中央政界デビューするというのは、平家に限らず多くの貴族が庶民の怒りを買う要素の一つなのだから。ところが、平維盛のデビューは悪評とは真逆の評判を呼んだのだ。
平維盛は絶世の美少年として名を馳せ、貴族からも庶民からも多くの視線を集めていたのだ。当時の記録にも「今昔見る中に、ためしもなき」とか「容顔美麗、尤も歎美するに足る」などとあり、一年後には光源氏の再来という評判すら立つのだからその程が知れよう。それでいて貴族ではなく武人としての日々を過ごし、近衛府の武人としての正装に身を固めて、美少年との評判のまま行列を彩るためだけに春日大社に向かったと思ったら、武人として昨年の興福寺の騒動に対処した。前評判は外見だけであった貴公子が、今や平重盛の後継者として、そして平家の武門全体を統率する次世代の指揮官として、周囲からみなされるようになったのだ。
高倉天皇は元服を迎えたものの天皇としての政務は着実にこなしていた。と同時に、院政を意図しながら政務を遂行せず、イベントを繰り広げるのみの後白河法皇との対比も明瞭となってきていた。
年が明けた承安五(一一七五)年一月四日の法住寺朝覗行幸において、高倉天皇が父である後白河法皇にはじめて笛を披露したところ、高倉天皇の笛の師匠である滋野井実国こと権大納言藤原実国が、笛を教えた功績により正二位に叙せられるという出来事もあった。
朝覗行幸とは正月に天皇が両親や祖父母の元を訪ねることであり、高倉天皇が法住寺に住まう父のもとを訪ねるのは院政の始まる前から存在する年中行事を高倉天皇もこなしたこと以上は意味しない。また、朝覗行幸に同行した貴族が、それまでの勤務に対する報償として位階が上がったり新たな役職を与えられたりすることもある。その意味で藤原実国の位階が上がったことはおかしくない。何しろ五人の権大納言のうち従二位であったのは藤原実国ただ一人で、残る四名は正二位であったのだから、他の権大納言とのバランスをとるという意味で藤原実国が昇格すること自体はおかしくない。
ただし、政務の評価ではなく笛を教えたことの評価であり、息子の笛の音色を聴いた後白河法皇の鶴の一声で位階を進めたとなると、藤原実国も、後白河法皇も、いったい何を考えているのかと言いたくなる。
この頃の後白河法皇の動静を見ると頻繁にイベントを開催している一方、政務にはほとんど手を出していない。口出しすることはあってもさほど重要視されてはいない。
後白河法皇はたしかに政務に口出しをする。だが、後白河法皇の口出しを全く無視しても政務には何の影響もない。白河法皇や鳥羽法皇は院司を議政官に送り込むことで間接的に朝廷の政務を操ったが、後白河法皇は院司をさほど送り込めてもいないし、送り込んだとしても後白河法皇の意思を議政官において展開することはない。意思を示していないのだから展開しようがないと言えばそれまでだが。
だからこそ一五歳の高倉天皇が、院政の渦中にありながら天皇としての政務を邁進できたのだとも言える。松殿基房が摂政であった頃、松殿基房が摂政としての職務のボイコットをしたときに、高倉天皇が摂政の政務もこなすという本末転倒な現象が起こったが、高倉天皇が元服を迎えた今、松殿基房は摂政ではなく関白になっている。松殿基房が政務をボイコットするしないに関係なく、高倉天皇は天皇としての職務をこなすことが求められるし、実際に職務をこなしている。
高倉天皇の政務の補佐についても、関白松殿基房の補佐を得られなくても左大臣藤原経宗と右大臣九条兼実の二人が高倉天皇を補佐する仕組みを作り上げ機能するようになっていた。内大臣源雅通が病気で出仕できなくなっていたことは痛手であり、二月二七日にはついに病死してしまったが、内大臣源雅通不在の頃から大納言筆頭である藤原師長が左大臣と右大臣の二人を支える体制を作り上げることで一五歳の若き天皇の政務は支障なく執り行えるようになっていた。
三月三日までは。
承安五(一一七五)年三月三日、突然の大ニュースが朝廷内外を駆け巡った。高倉天皇が天然痘に罹患したのである。天然痘流行のニュース自体は二月からあったが、三月に入ると勢いを増して平安京内外に広まり、ついには高倉天皇へと向かったのである。
現在は天然痘を根絶できているが、根絶するまでの天然痘は、医療水準が上がっても致死率が二〇パーセントから二五パーセントに達していた病である。平安時代では罹患したら三人に一人が亡くなり、三人に一人が顔や身体に一生消えぬ痕跡を残し、何事もなく完治する人は三人に一人とされていた。
天然痘の流行だけでも充分に大問題だが、天皇の罹患となるとさらに大問題となる。この時代としては最高の医療が用意され、また、加持祈祷も用意された。高倉天皇は平徳子を中宮に迎えてはいるが、まだ子供がいない。高倉天皇の身に何かあれば皇統にかかわる話になる。宮中では真剣に次期帝位について検討され、六条上皇の復位や、親王宣下を受けていない以仁王も挙げられた。
幸いにして高倉天皇の症状は鎮静化した。
その代わり、天然痘は内裏の中に留まることなく、平安京の中に留まることもなく、より広範囲な大規模な流行へとなってしまった。
伝染病のメカニズムは知られていなくても、天然痘が患者の周囲の人にも広まる病気であることや、一度罹患したら二度と罹患しない病気であることは知られていた。ちなみに、天然痘に二度罹患した人という記録は医学書を探せば出てくるが、極めて珍しい症例として取り上げられており、通常はゼロか一度のみの感染のどちらかである。一度感染して完治したなら天然痘が流行していようと命にかかわる話ではなくなる。一方、一度も感染したことのない人にとっては命にかかわる話になる。そして、天然痘に罹患して完治した人というのは少数派だ。
こうした条件が重なると、こうなる。
まず、天然痘に罹患した人は人の少ない場所に隔離される。男だろうが女だろうが、若かろうが老いていようが関係ない。ただし、ある程度の資産があれば隔離されたとしてもどうにかなる。高熱に苦しみ、のたうち回る日々を過ごさねばならないという点で天然痘という病気は貧富の差に関係ない行動を示すが、のたうち苦しみ回る日々の過ごし方となると貧富の差が如実に示される。
隔離されている自分のために食事や身の回りのものを持ってきてくれる人へ支払う謝礼は、一般庶民にはどうにもならない金額であり、それなりの暮らしをしている人でも全財産を失うレベルでの出費だ。なお、前述の通り天然痘は一度罹患したら二度目は平気でいられる病気であるため、かつて天然痘に罹患したことのある人が、今まさに天然痘に苦しんでいる患者の食事や身の回りの世話などをする人として重宝される。元患者は絶対数が常に少ないため、高い報酬を用意しての人の奪い合いとなる。天然痘に罹患して苦しんでいたときに全財産を使い果たしてしまった人が、次の天然痘の流行の最中に財産を築くというケースも散見された。
問題は、頼める人がいない貧しい人だ。天然痘に苦しむだけでなく、栄養失調でも苦しみ、天然痘より先に飢餓に苦しむこととなる。天然痘と戦う体力が無いと天然痘で命を落とす可能性は高まる。おまけに、自分で隔離施設が用意できる人は別として、天然痘に罹った人が隔離される場所はお世辞にも清潔な場所とは言えず、これまで天然痘に罹って命を落とした人の遺体がそのまま放置されている。これでは天然痘で命を落とす前に別の感染症で命を落とすこととなる。
豊かな人でも莫大な出費となり、そうでない人では全財産を使い果たしてもどうにもならないという病気が天然痘である。天然痘に罹ったら人生の終わりだと考える人が続出し、家の中にこもれば安全だろうと、外出する人が激減する。外に出ないということは、仕事ができず稼げなくなることを意味すると同時に、市場(しじょう)に出回る食料品をはじめとする生活必需品が激減することも意味する。生産者自身が天然痘患者である場合もあるし、天然痘に罹らないようにと自宅にこもっている場合もある。そのどちらも、生産そのものが止まることを意味する。
それでいて、平家が主導する南宋との貿易は続いていて、現在進行形で大量の外貨が流入している。市中に出回る貨幣が増え、物資が減っているのだから、発生するのはインフレだ。給与を金銭で受け取る人は、それまでならば買えたコメをはじめとする食料品などが買えなくなる一方、コメを蓄えることに成功している人はコメを手放さなくなる。コメの価値が毎日上がってきているのに、好き好んで安値で手放すことはない。そうでなくともいつ自分が天然痘に罹るかわからない日常を過ごしているのだ。蓄えを吐き出してしまったら、天然痘に罹ったときに自分の命を助け出す手段が無くなる。
ただでさえ資産の総量が減っているのに、資産の溜め込みまで発生したら、待っているのは資産の非流動化による不況だ。天然痘の流行は、天然痘そのものだけでなく、天然痘への恐怖もこの国の経済を破壊しだしたのである。
天然痘の猛威が生みだした不況に諍(あらが)うために、後白河法皇はまたイベントを開催した。不況時にイベントを開催することで景気を強制的に一時的に向上させることはよくある経済対策であるが、後白河法皇の場合は、経済対策であるかどうか以前に、そもそもそういうイベントへの愛着が人並み外れて強い人であるがために開催されたという側面がある。
その結果とも言うべきか、後白河法皇主催のこのイベントに対する庶民からの評価が低い。
では、後白河法皇はどんなイベントを開催したのか?
蓮華王院百箇日施行である。蓮華王院を舞台とする一〇〇日間限定のイベントを開催したのだ。
百箇日施行はもともと一〇〇日間に渡って仏教に基づく善行を施すことで御利益を得ようとするものであり、百箇日施行に合わせて出家を希望する一〇〇名以上の男女の剃髪と僧衣支給もしているなど、蓮華王院百箇日施行には仏教行事としての側面も存在していたが、メインイベントは神道行事であった。
千手観音でも有名な三十三間堂を想像していただければわかるとおり、三十三間堂を擁する蓮華王院は仏教寺院であるが、この時代の常として、内部に鎮守をなす神社を構えている。蓮華王院における神社を蓮華王院惣社という。この蓮華王院惣社の祭礼を後白河法皇は新しく始めたのだが、石清水や春日、新熊野、今日吉といった平安京の人にも身近な神社に留まらず、紀伊国の日前宮、尾張国の熱田神宮、安芸国の厳島、越前国の気比の勧請も受けたのだ。何れも存在することは知っていても平安京内外の庶民が気軽に行くことのできる神社ではない。
それを気軽に行けるようにしたのである。
そもそも勧請を受けるとはどういうことか?
現在の美術家や博物館では、他の美術館や寺社の所蔵しているコレクションを一時的に預かって展示することが多いが、この時代にそのような展覧という概念は無い。その代わり、他の寺社から絵画や彫像の寄贈を受けることは多く、後白河法皇は前述の各地の神社に対して祀っている神の図像の寄贈を命じたのである。
その結果、蓮華王院惣社に参詣すると、あたかも各地の神社を一度に参詣できるかのようになったのだ。
開催場所である蓮華王院は後白河法皇の住まいとする法住寺の一画である。後白河法皇にしてみれば大規模なイベントを開催することで御利益を得て、天然痘の鎮圧を図るという目的があったが、大失敗とは言えないものの、成功か失敗かと言われれば失敗に区分される結果となった。イベント自体は盛況ではあったものの、それと天然痘流行の鎮静化とはつながらないどころか、この年の天然痘の流行が「施行病」という名で呼ばれるようになったのだ。もっとも、人を外に出して経済を活性化させるという側面については多少の効果があったので、大失敗と断じるわけにはいかない。
そしてもう一つ、蓮華王院百箇日施行は最後の最後で大仕事をするのである。どのような大仕事であるのかは実際にその最後のときが来たら記す。
天然痘の猛威が吹き荒れる中、朝廷は一つの決断を下す。
承安五(一一七五)年七月二八日、五ヶ月以上に及ぶ天然痘の流行を鎮静化させるためとして、安元へと改元することが発表された。
無論、それで天然痘の流行が収まったわけではない。
天然痘の猛威の吹き荒れ、改元まで行なったというニュースが日本中を駆け巡っている中、伊豆国で一つの騒動があった。
源頼朝殺害未遂事件である。
伊豆に戻ってきた伊東祐親が、自分の留守中に娘が勝手に源頼朝と結婚して孫までもうけていたことに激怒し、源頼朝と生まれて間もない孫を殺害しようとしたことは既に記した。そのときは伊東祐親が源頼朝を生かして監視しておくようにという指令があることを忘れずにいたため無事に済んだが、それで何もかもが解決したわけではない。それどころか、それから一年で情勢は伊東祐親にとって情勢が著しく悪化していたのである。
伊東祐親は平家の権勢を利用して自らの所領を広めていた。不法占拠ではないかと訴え出ても、それが京都にまで赴いての裁判となっても伊東祐親に勝てず、伊豆の武士達は伊東祐親の専横に絶えるしかなかったのであるが、そのタイミングで源頼朝が登場したことで情勢が一変した。事情が事情であるだけに源頼朝に平家の威光など通用しない。源頼朝は朝廷の定めた法にならば従うが、平家が勝手に出した命令になど耳を傾けることもなく平然としていたのだ。その上で、伊東祐親の専横に対して公然と叛旗を翻したのである。
叛旗を翻すと言っても、源頼朝は罪人として伊豆に幽閉されている身である。ただし、源頼朝は伊豆に一人で暮らしているのではなく、少なくとも安達盛長、河越重頼、佐々木定綱といった側近が仕えていたことは判明している。また、土肥実平、天野遠景、大庭景義といった武士たちも源頼朝の周囲にいたらしい。こうした武士の武力が伊東祐親に逆らう源泉となっていたのである。
伊東祐親が奪ってきた所領はこの一年間で次々と奪い返されていた。
前年、京都から戻ってみたら自分の娘が源頼朝と結婚していただけでなく孫の千鶴丸までもうけていたことに激怒した伊東祐親は、激怒の矛先を娘に対する強制的な離婚だけにしか向けることができなかった。それから一年、伊東祐親の怒りは収まるどころかさらに増してきており、源頼朝への復讐心をさらに増幅させていたのだ。その復讐心は、所領が一つ、また一つと奪われていることでさらに燃えたぎることとなっていたのである。
安元元(一一七五)年九月、ついに怒りが爆発した。伊東祐親は孫でもある千鶴丸を川に沈めて殺害。さらに軍勢を率いて源頼朝を殺害すべく動き出したのてある。源頼朝を生かしておくようにという指令も伊東祐親の行動を止める指令にはなり得なかった。京都へ送る報告は、源頼朝が犯罪に手を染めたため取り締まろうとしたが、その際に不幸な事故が起こって源頼朝が亡くなってしまったということにするつもりであった。
今までの伊東祐親であれば源頼朝殺害計画に成功していたかも知れないが、京都から戻ってからの一年で伊豆における伊東祐親の勢力は絶望的な乏しさになってしまっていたのに加え、源頼朝との間に生まれた子であるとは言え幼い孫を殺害したというのは嫌悪感を以て迎えられることとなった。そうでなくとも所領を奪われた人の恨みは根深いものがある。伊豆で権勢を振るいながら伊豆で孤立しつつあった伊東祐親は、一気に邪魔者を排除するつもりであったのが、逆に崖っぷちに追い込まれるようになった。何しろ次男の伊東祐清ですら父ではなく源頼朝を選んだのだ。父は息子も殺害計画に参加させようとしたものの、伊東祐清は父の命令を拒否しただけでなく、伊東祐親の襲撃を源頼朝に伝え脱走させることに成功させているのである。
息子抜きで襲撃を掛けて殺害を謀るも、ターゲットとなる源頼朝は不在。一方で、源頼朝の周囲を固める武士達は伊東祐親に刃を向けている。こうなると伊東祐親に残されている選択肢は二つしか無い。降伏して出家するか、戦闘に挑んで敗れるかのどちらかである。伊東祐親の選んだのは前者であった。
自らの殺害計画を知った源頼朝は馬に乗って熱海の伊豆山神社に逃げ込んだのち、伊東祐清の勧めに応じて北条時政の館に匿われて事なきを得たという。
伊東祐清が、自分の父が源頼朝を殺害しようとしていることを告げたとき、北条時政のもとに向かうべきと告げたのは、北条時政が伊東祐清の烏帽子親であったからというのは理由の一つであるが、それだけが理由ではない。というより、命に関わるピンチだというのに親類だというだけで避難先として推薦するのは無責任な応対である。
北条時政に頼るように薦めた理由は二つある。
一つは北条時政が在庁官人であったこと。
北条時政は平家の血を引く伊豆国の武人であると同時に、在庁官人、今で言う地方公務員であった。ただし、伊豆国衙、もしくは伊豆国田方郡の郡衙に務めていたらしいことはわかるのだが、具体的に伊豆国のどの役所に勤めていたかはわからない。ただし、このあとの北条時政の人生を追いかけると、京都で貴族たちと互角に渡り歩いているのがわかることから、伊豆国における実務的な、かつ、かなり高位な職務をこなしていたのであろうとは想像できる。
伊東祐親は平家に仕える一人の武人として京都に赴いていたが、それはあくまでも平家との個人的な関係であり、公的な裏付けは何もない。平家の権勢を後ろ盾にして伊豆国の所領を奪い取り、裁判に訴えられても根回しをして勝訴を掴み取っていたのが伊東祐親であるが、北条時政は天皇を頂点とする朝廷組織の中に組み込まれており、職務において朝廷の定めた法に従う義務が存在する。平治の乱のあとで源頼朝に課せられた判決は伊豆国への流罪であり、命じられているのは伊豆国で監視下に置かれている暮らしである。北条時政の日々の職務の中には源頼朝の近況を京都の朝廷に報告するものもあり、ここで源頼朝が殺害されましたなどという報告を上げようものなら在庁官人としての失態として処分モノだ。
また、所領を巡る争いにおいても北条時政は中立の立場であった。争いの当事者が工藤茂光であれば、伊豆介という伊豆国の官僚機構で序列第二位の人であるから、北条時政とて無条件に従ったであろうが、いかに工藤茂光の甥とは言え公的な官職を帯びていない伊東祐親については、北条時政には従う義理などない。かといって、北条時政は清和源氏に仕えてきた武士でもない上に、伊東祐親に所領を奪われたわけでもない。伊東祐親が平家の威光を利用して所領を拡張させていることに対する個人的な憤りはあっても、京都での裁判の結果は官僚の一人として従う義務がある。義理は無いが義務があるという点で北条時政は伊東祐親の襲撃から源頼朝を守る中立性が担保されている人物であった。
在庁官人である以上、伊豆国の国司の指揮下にある一人が北条時政のはずであるが、伊豆国を知行国とし伊豆国の国司を任命する権利を持つ源頼政との関係性については、全くのゼロとは言えないまでも、親密であったとは言えない。伊豆国が源頼政の知行国であり、伊豆国司は源頼政の息の掛かった人物がやって来ることは知識としては知っているが、仕事として源頼政の指名する国司に従うことはあっても、一人の武士として源頼政に従う意思は無かった。源頼政には自らに仕える者の所領を保証し、新たな所領を提供するという姿勢が見られなかったからである。
そして、この所領こそ、北条時政を薦めた理由の二番目になる。
伊豆国の国衙、および、伊豆国田方郡の郡衙はともに現在の静岡県三島市に存在しており、そのどちらも北条氏の根拠地である伊豆国田方郡北条のすぐ側にある。誰かに殺されそうになったからと人里離れたところにいくのは、実際には人目のつかない場所で殺害される可能性が高まるという危険な行為である。北条氏が苗字とした、北条氏の根拠地である田方郡北条は伊豆国の中でも人口密度の高い場所の一つであり、伊豆国の交通の要衝でもあるためにかえって周囲の目が働いて身の安全を図ることが可能となるのだ。ついでに言えば、ここで言う周囲の目のほとんどは伊東祐親によって所領を奪われた人でもあるので、周囲の目は伊東祐親への敵意となって働くことにもなる。
ちなみに公式見解としては、北条氏は桓武平氏高望流の子孫であり、北条時政をはじめとする歴代の北条氏は公式見解に基づいて、苗字ではなく姓を使うときは平の姓を使っている。北条の苗字を使用するようになったのは伊豆国田方郡北条を拠点としたからであり、地名を苗字に使用するのは関東地方とその周辺に根拠地を構えた平氏の子孫としてはごく普通のことであった。尊卑分脈によれば北条時政の祖父である北条時家は伊豆介を務めていたという記載もあるので、北条氏は伊豆に古くからいた一族ではなく、京都から伊豆に派遣された後に伊豆を根拠地とする武家一族になった可能性もある。
二つの理由から北条時政を薦めた一方、理由の中に北条時政の持つ武力は存在しなかった。そもそも北条時政に特筆すべき武力は無かった。嘉応二(一一七〇)年、伊豆大島で暴れ回っている源為朝の討伐部隊を結集する際に、指揮をする工藤茂光は北条氏からも帯同させたことは判明しているが、北条時政が参加したかどうかは不明である。その後の北条時政の活躍を見ても、策略家であることは事実でも前線に建って戦場を駆け巡るタイプではない。もっとも、北条時政自身の武芸を期待できないところが、避難場所として適切であったとも言えるが。
不明ついでにもう一つ不明なのが、この時代の北条氏の一族の構成。これがほとんど記録に残っていない。北条政子や、後に鎌倉幕府第二代執権となる北条義時こと江間義時はもうこの時代に生まれていたことは間違いないのだが、幼少期の姉弟について記した記録は無い。また、吾妻鏡における北条時政の記載は「北条四郎」、すなわち北条家の四男という記され方である。ならば兄が三人はいたはずなのだが、その記録は一人を除いて全く残っていない。乳幼児死亡率の高い時代でもあるので、もしかしたら夭折してしまったのかも知れない。
伊豆で源頼朝殺害未遂計画があったことを平清盛は知らなかったのか?
結論から言うと知らなかった。
ただし、誰も伊豆で起こった出来事を平清盛に伝えなかったわけではない。
それどころか伊豆から平清盛のもとへは適切なタイミングで、かつ、適切な内容で情報が送られている。にもかかわらず平清盛が伊豆での出来事を知らなかったのは、単に、平清盛が情報の重要性に気づいていなかっただけのことである。平清盛にとって源頼朝とは平治の乱で捕らえられた一三歳の少年のことであり、それから月日が経って結婚して子供を儲ける年齢になったことの感覚を欠いていたとするしかない。ましてや、伊豆で騒動を起こして殺害未遂に至る人物になっていようなど想像すらしなかったとするしかない。
このときの平清盛の脳内を占めていたのは、なお鎮静化する気配を見せない「施行病」こと天然痘の流行についてである。平清盛という人は、加持祈祷もするという点では平安時代の人なのであるが、医療や薬学についての重要性を認めている人でもある。ただし、天然痘の治療法は現代医学でも存在しない。現代医学でも罹患してしまったらどうにもならない病気を、いかに当時としては最先端であったとしても、南宋から輸入した薬でどうこうできるわけはない。
現在は地球上から天然痘ウイルスが根絶されているから天然痘の治療法に対する研究も進んでいないとも言えるが、研究が進んでいたとしても罹患したら治療できない状況に違いはないであろう。ただし、それでも対策ならば提示されている。天然痘に罹らないようにする方法の提示である。天然痘ウイルスは感染力が恐ろしく強く、乾燥に強く、低温にも強いという特性を持っている一方、アルコールと紫外線に弱く、毒性を持たない遺伝子へと変異しやすいという特性を持っている。また、周囲への感染力は強いが感染範囲は狭いため、患者を隔離し、隔離先で患者が亡くなったとしても患者の遺体を放置させることで天然痘ウイルスはその場に閉じ込められ、紫外線によって天然痘ウイルスから毒性が失われることまではわかっている。つまり、なかなか天然痘の災禍が終わらないというのはその通りであるのだが、隔離を続ければ、時間を要するものの気づいたときには鎮静化しているのが天然痘の流行というものだ。
問題は、いつが鎮静化のタイミングなのか、という点である。
安元元(一一七五)年時点ではそのアピールにうってつけの人物がいた。
後白河法皇だ。
まず、安元元(一一七五)年閏九月七日、後白河法皇と建春門院平滋子が揃って熊野参詣より還向(げこう)した。このニュースが伝わることで、後白河法皇が揃って熊野に向かっていたことと無事であったことが平安京内外に広まった。
その上で後白河法皇は、蓮華王院百箇日施行のフィナーレを飾るパレードを開催したのである。パレードの開催日は安元元(一一七五)年一〇月三日であるから、蓮華王院百箇日施行と言いつつ実際には一〇〇日以上に渡るイベントであったわけである。
無論、平安時代に「パレード」という言葉は無い。「馬長行列」という。馬長行列が有名なのは祇園御霊会の馬長行列で、常に多くの観光客を沿道に集め、より多くの観光客を集めるためにより豪勢な行列となるよう彩ろうとし、さらなる豪勢さがさらなる観光客を生むという豪勢さのインフレを生みだしていた。その豪勢さはときに取り締まりの対象となったほどである。
今回の馬長行列(パレード)は取り締まりの対象となる可能性などない。表向きの主催者は法住寺であるが、法住寺が後白河法皇の住まいでもあることは誰もが知るところだ。豪勢にするなと命令を出すどころか、貴族や僧侶に対して豪勢な準備をして馬長行列に参加しろと命令を出したのである。右大臣九条兼実はこのときの馬長行列を「こんな風流で贅沢なものは初めて体験した。いったいどれだけの国家予算の無駄遣いになってしまったのだろうか」と非難しつつ、「京都に住む人は貴族も庶民も見物しない人などいなかった」と活況を示したことを日記に書き記している。
天然痘が「施行病」と呼ばれるまでに蔑まれた蓮華王院百箇日施行が最後の最後で華々しい成果を上げたのを見届けた後白河法皇は、イベントの終了から八日後の一〇月一一日に福原へ御幸し、平安京には一〇月一五日に帰洛した。このときの記録を最後に「施行病」についての記録が無くなり、天然痘パニックについて気づいたら鎮静化していたことに多くの人が気づかされた。
後白河法皇の主催したイベントが天然痘流行の終結を明示するまでに効果を見せたことで後白河法皇に対する支持が伸びてきたが、これを後白河法皇は活かせなかった。余計なことを始めてしまうのである。
安元元(一一七五)年一一月一〇日、内大臣に大納言筆頭藤原師長が昇格した。前任の源雅通が病に伏せるようになってからずっと左大臣藤原経宗と右大臣九条兼実を支えてきた大納言の昇格は誰も文句の無いことであったが、この人の素性には問題があった。この人は、かつて悪左府とまで呼ばれ、保元の乱で敗れた藤原頼長の息子なのである。
藤原頼長の敗死は藤原頼長に仕えていた人たちにとって失業を意味しており、多くの人が糊口をしのぐために他の貴族のもとに仕える身へと転職していた。
転職先での待遇は不満を募らせるものであった。
生前から藤原頼長は嫌われまくっていた人であったが、死ですら嫌悪感がリセットされることは無かったのである。その人のもとに仕えていた人たちは、そのほとんどが藤原頼長への不満のはけ口にもされていた。ある人はこのようなところで勤め続けることはできないとして別の勤め口を探したが、どこに行っても藤原頼長のもとに仕えていたという過去は消せなかった。ある人は藤原頼長のもとに仕えていた過去を受け入れ、屈辱に耐え続ける日々を過ごしていた。
というタイミングで藤原頼長の息子が内大臣にまで登り詰めたのである。かつて藤原頼長のもとで勤めていた人たちが内大臣の下で働きたいと申し出てきて、内大臣藤原師長は父にかつて仕えていた人たちを迎え入れた。いかに実権無き大臣とはいえ、内大臣ともなれば抱え込むことのできる人員も増える。藤原師長個人の資質には問題なくとも、藤原師長の周囲の人たちはこれまで受け続けてきた屈辱に対する恨みを抱え、いかにして恨みを晴らすかを考えている人たちである。これは物騒極まりなかった。
おまけに、藤原忠通の三人の息子の一体感は喪失していた。近衛基実は亡くなり、弟である関白松殿基房が藤氏長者の地位を継承しているが、藤原長者の地位は早々に近衛基実の子の近衛基通のもとに渡すべきとするのが多くの意見であった。ところが、近衛基通の幼さゆえに関白松殿基房が藤氏長者の地位を渡さないでいる状態が続いているのである。右大臣九条兼実は藤氏長者の地位の継承をはぐらかしていることを理由として実の兄である松殿基房への非難を隠さず、今では関白を無視して左大臣藤原経宗と協力して高倉天皇の政務を支えるようになっている。
その上、藤原師長は九条兼実と協力して政務をあたっているが、藤原師長の周囲の人たちは、本来であれば藤原頼長が手にしていたはずの藤氏長者の地位を藤原忠通が奪ったことが不当なことであり、奪われた藤氏長者を取り戻して藤原摂関家の主軸を担うのは藤原師長であるべきと公言するまでになっていた。
それでも大納言筆頭藤原師長の内大臣昇格はこのあとに起こる問題に比べればかなりマシであったと言える。
安元元(一一七五)年一一月二八日、後白河法皇は人事において日本中を揺るがすことをしでかすのである。
安元元(一一七五)年一一月二八日、権大納言平重盛が大納言に昇格した。なお、右近衛大将の兼任は継続している。
問題は平重盛の後任の権大納言に誰が昇格するかである。
このとき中納言は逆転現象が起こっていた。中納言は藤原宗家ただ一人であるのに対し、権中納言は九人いる。そして、九人の権中納言のうち二人が中納言藤原宗家より位階が上だったのである。中納言藤原宗家は従二位なのに対し、権中納言は藤原邦綱と藤原成親の二人が正二位なのである。
平重盛の後任の権大納言の候補は三人に絞られていた。位階は低いがただ一人の中納言である藤原宗家か、権中納言のうち正二位である藤原邦綱と藤原成親の二人の、合わせて三人である。
平清盛はかなり早い段階から権中納言筆頭である藤原邦綱を平重盛の後任の権大納言に推薦していた。中納言を経験しないでいきなり権大納言とするのは問題ありではないかという意見もあったが、五五歳という年齢に加え、これまでのキャリアを考えても三人の候補の中でもっとも評価されるべきは藤原邦綱であるとしてきたのである。
藤原邦綱はかなり特殊な経歴の持ち主である。姓からわかるとおり藤原氏である。血筋も藤原北家である。しかし、本流とはほど遠い傍流の出身で、文章生から蔵人を経て藤原忠通の家司を勤めるところから貴族界のキャリアを積み重ね、保元三(一一五八)年には殿上から追放される処分を受けながらも復帰に成功し、平治の乱の終結後に越後国司に就任したのを皮切りに各国の国司を歴任することで実績を積み重ねてきた人物である。そうは言っても藤原邦綱は藤原北家の出身ではないか、藤原邦綱はやっぱり生まれながらの貴族ではないかと思うかも知れないが、藤原邦綱と同等の生まれの者は掃いて捨てるほどいる。そもそも国司になる以前に蔵人になることもできずに人生を終えることとなる藤原氏も珍しくなかったのだから、藤原邦綱のように国司を歴任できただけでも異例中の異例であり、それこそが能力の証明であったのだ。
藤原邦綱の異例にさらなる異例が積み重なったのが六条天皇の治世の始まった永万元(一一六五)年のことである。蔵人頭に就任したのだ。翌年には参議になりいったんは辞職させられたもののすぐに復帰し、権中納言を経て中納言筆頭まで登り詰めてきたのが藤原邦綱だ。
藤氏長者の継承においても藤原邦綱の果たした功績は大きい。藤氏長者の地位は近衛基実の長男である近衛基通のもとにあることを確認した上で、近衛基実の資産を近衛基通が元服するまで近衛基実の正妻である平盛子が遺産を管理するというアイデアを出したのは藤原邦綱である。
また、国司を歴任したこともあってかなり裕福な暮らしをしている人でもあった。国司というと任地からの納税で裕福になるのが常態化していたが、藤原邦綱はその資産を土地の取得と邸宅の建築に加え、平清盛の展開している日宋貿易にも投資していた。平清盛の推し進める自由貿易政策について理解を示している数少ない貴族でもあることから、平清盛にとって議政官において頼りになる人物の一人であった。
ところが、平重盛の後任の権大納言として選ばれたのはもう一人の正二位権中納言である藤原成親であった。
藤原成親は平治の乱において藤原信頼とともに武装をして軍勢を率い、ともに敗者として捕らえられながら死罪となった藤原信頼と違い解官だけにとどまったという経歴を持っている。解官は翌年に早々に終了して中央政界に復帰し、嘉応の強訴で二度目と三度目の解官を経験したながら双方ともに復帰している。この奇妙な優遇について、愚管抄の作者である慈円は藤原成親が後白河法皇の男色の相手であったから解官されても許されて出世を果たしたのではないかとさえ記している。
後白河法皇にも言い分はある。藤原成親は嘉応の強訴以後の復帰からずっと検非違使別当を勤め、京都とその周辺の治安維持を一手に引き受けていたのである。功績を考えるのであれば二人の正二位のうち藤原成親のほうが権大納言に相応しいというのは一見すると無理のない理屈に聞こえる。
この後白河法皇の言い分に怒りを抱いたのが平清盛である。藤原成親が検非違使別当であるのは事実でも、治安維持を果たしたのは右近衛大将として平家の軍勢を指揮することが可能になった平重盛であって、検非違使別当と言いつつ治安維持には何の役には立っていないではないかというのが返答である。
福原からの書状に対する後白河法皇の回答はない。ただし、平清盛は自分の推薦した藤原邦綱は権中納言から中納言へと一段階は昇格し、藤原成親の権大納言昇格に合わせて兼任していた検非違使別当を辞任させ、後任の検非違使別当に平時忠を再任させている。これは後白河法皇なりの譲歩であったのであろうが、その譲歩は、平清盛と後白河法皇との間に生まれた対立を消すには不充分であった。
前年一一月末に人事の入れ替えがあったため、年が明けた安元二(一一七六)年は静かに始まった。
もっとも、安元二(一一七六)年という年は後白河法皇にとって特別な一年となる一年であった。生まれた年を一歳として数えるこの時代の年齢計算では後白河法皇が五〇歳を迎える年なのである。平安時代に誕生日という概念はなく年齢を重ねるのはその年の一月一日である。自分が生まれたのは何月何日なのかの記録すら残っていない人もいて、有名なところでは藤原道長の生誕の日が不明である。藤原道長どころか、皇室に生まれながら生まれた日の記録も残っていないケースすらあるのだ。
後白河法皇の生まれたのは大治二(一一二七)年九月一一日であるが、後白河法皇に毎年の九月一一日を特別な日として扱うという考え方はなかった。ただし、自分が安元二(一一七六)年に五〇歳になることは知っていた。
そのためか、後白河法皇の五〇歳を祝う祝典は、一月一日でも、後白河法皇の生まれた九月一一日でもなく、祝典に相応しい日取りを陰陽寮に調べさせた結果の日となった。
安元二(一一七六)年三月四日から六日にかけて、後白河院五十宝算、すなわち、後白河法皇が五〇歳になったことを祝すイベントが法住寺南殿で開催された。またイベントかと思うかも知れないが、同じイベントは白河法皇も開催していて、白河法皇、鳥羽法皇に次ぐ第三の院政の展開を自負する後白河法皇にとっては欠かすことのできないイベントであった。
三日間に分かれての祝宴の初日は舞と楽の披露、二日目には船を浮かべての管弦と蹴鞠の披露、最終日は高倉天皇が自ら笛を演奏するというものであった。そのどれもが白河法皇を模しながら白河法皇の規模を越えたものであり、五〇歳の祝典を鮮やかに彩るものであった。
ただ一つを除いては。
後白河法皇の五〇歳を祝う祝宴なのであるから祝宴の主役は後白河法皇であるはずである。ところが、後白河法皇から主役の座を奪い取った若者がいるのだ。平清盛の孫で平重盛の長男である平維盛である。この年に一九歳になっていた若者は、烏帽子に桜の枝と梅の枝を挿して、青海波を舞ったのである。これだけなら近衛府の若き武人が後白河法皇の五〇歳を祝う祝宴に舞人として参加しただけのことになるが、その美貌と華麗さは祝宴に詰めかけた女性の声援を一斉に浴び、物語の中でも青海波を舞ったシーンのある光源氏がこの世に実在したのだとまで言わしめるようになったのである。近衛府の武人としての職務を果たしただけと考えていた平維盛は、ただただただ当惑するのみであった。
もっとも、後白河法皇は主役の座を平維盛に奪われたことを特に気にしていなかったようで、祝宴が終わってから三日後の安元二(一一七六)年三月九日に建春門院平滋子を連れて摂津国の有馬温泉に御幸している。
祝宴のあとで疲れを癒やす旅行に出かけたのだと当時の日とは誰もが考えた。
それが建春門院平滋子との最後の思い出になるとは誰も、当事者である後白河法皇すらもまだ知らないでいる。
祭りの後の静けさともいうが、祝祭が終わると現実が戻ってくるものである。後白河法皇にとっての現実とは、何と言っても比叡山延暦寺であった。後白河法皇は出家時に園城寺の僧侶のもとで出家している。意図的に延暦寺を除外しての出家としていたのであるが、それで延暦寺が静かになるようなことはなかったのは嘉応の強訴の例にもあるように隠しようのない現実である。
安元二(一一七六)年四月二七日、後白河法皇が比叡山に赴き、天台座主である明雲(みょううん)より天台の戒を受けて延暦寺との関係修復を図った。事実上、後白河法皇が延暦寺に屈したこととなる。
後白河法皇が園城寺に荷担したことは理論上おかしなことではない。対立する二つの勢力があり、相対的に強者である側が周囲に損害を与えているとき、執政者の選択として相対的に弱体と思われる側に意図して荷担することで強者である側の被害を食い止めようとするのは通例だ。
ところが、荷担と、周囲への損害を食い止めることとが結びつかないと、荷担の意味が無くなるだけでなく、荷担そのものが周囲への損害を増長させることとにつながる。執政者が弱体である側に荷担することのメリットは、周囲への損害をもたらしている強者に対しプレッシャーを与えて行動を制限することにあるのだが、プレッシャーを与えても行動の制限につながらず、武装デモは相変わらず継続し、テロとしか評することのできない行動すら展開している。
だからと言って、強者の側につくことは意味を持たない。強者の武装デモは相変わらず存続するし、テロとしか扱えないことを繰り返すことも変わらないのだが、変わることが一つある。弱体とされる側のほうも暴れ始めるのだ。情勢の不利を受け入れていても執政者の支援があると考えているから存続できている存在が執政者の支援を失ったら、生き残るために自暴自棄になる。そのようなことをしたら身の破滅であると訴えても意味は無い。既に身の破滅を迎えているのだから、どうせ破滅を迎えるなら最後の抵抗ぐらいは見せようではないかという考えに至るのだ。
後白河法皇が圓城寺の側に立っていた間は延暦寺だけを問題として扱えた。それが、後白河法皇が延暦寺の側に立ったことで延暦寺と園城寺の双方が問題になってしまったのだ。それがどのような問題になるのか、源平合戦における園城寺を見ればその答えは見える。
前年末の人事争いにおける後白河法皇との意見の対立が見えてきた平清盛であるが、安元二(一一七六)年四月に人事争いで勝利を掴んでいる。それまで奥州藤原氏第三代当主藤原秀衡が就いていた鎮守府将軍の地位に、陸奥守藤原範季を就けることに成功したのである。地位を奪われて藤原秀衡は怒るのではないかという心配は無用である。そもそも任期満了に伴う交替の時期を迎えていただけのことであり、鎮守府将軍の地位そのものが在地の有力者でなく朝廷から派遣されてきたものの手にあることのほうが通例だったのである。
ただし、朝廷から派遣されてきた鎮守府将軍に奥州藤原氏が黙って従うかどうかは別の話であり、奥州藤原氏の武力を知っている朝廷側は最初から奥州藤原氏と血縁関係にある人物、ないしは、ビジネスパートナーなどの理由で奥州藤原氏とつながりの深い人物を選ぶことが通例と化していた。藤原範季はビジネスパートナーのほうである。
平清盛が藤原範季を鎮守府将軍に推挙したのは、平重盛の後任の権大納言に藤原邦綱を推挙したのと同じロジックである。貴族ではあるが藤原北家の本流でなく、もっと言えば藤原邦綱と違って藤原北家でなく、藤原範季の出身は藤原南家の出身である。藤原南家の出身でありながら、文章得業生から官界にデビューし、各国の国司を歴任して貴族としてのキャリアを積み重ねてきていたのが藤原範季である。国司歴任ということで、一代のみで資産を築き上げたという点でも、平清盛の推す自由貿易に賛同したという点でも藤原邦綱と一致しており、平家の日宋貿易において重要な輸出品である東北地方の砂金を入手するのに藤原範季の果たした功績は大きい。
奥州藤原氏としても藤原範季は信頼の置けるビジネスパートナーであり、その人物が陸奥守兼鎮守府将軍として陸奥国にやって来ることは歓迎すべきことであり警戒すべきことではなかったのである。
警戒という点で藤原範季を眺めたとき、警戒すべきはむしろ平清盛のほうであった。藤原範季はたしかに平清盛の命である平敦子を妻に迎えている人物であるが、朝廷内でキャリアを積み重ねることに成功したのは後白河天皇の蔵人となったのち、右大臣九条兼実の家司となったからである。平家とのつながりはあるが、平家と一線を画すことの多い九条兼実ともつながりを持っているのだ。
また、藤原範季は兄の子を養子として受け入れている人物であると同時に、身寄りの無い子を預かって養育している人物でもあった。それだけであれば誉められこそすれ貶される謂われはないが、養育してきた子の一人に源義朝の六男である源範頼がいるとなれば話は変わる。そうでなくとも奥州藤原氏のもとには源義朝の九男である源義経がいるのだ。そして、京都から東北地方へ向かうルートとして東海道を選んだならば、途中で伊豆を通ることとなる。伊豆には源頼朝がいる。
源頼朝、三〇歳。
源範頼、二七歳。
源義経、一八歳。
ただし、平清盛の脳内における源義朝の子らは、源頼朝は元服して間もなくの少年であり、源範頼は会ったこともない元服前の子であり、源義経に至っては母の手に抱かれたままの、生まれて間もない乳児のまま更新されていない。
平治の乱のあとで源頼朝を生かしておいたことの理由の一つに平清盛が源頼朝の武人としての才能の無さを見抜いた点を上げたが、その際に、政治家としての能力で言えば平清盛より源頼朝のほうが優れているとも記した。平清盛は、源頼朝、源範頼、そして源義経の三名の間の連絡のやりとりが成立できる環境を作り上げてしまったのだ。このあたりが政治家としての平清盛の能力の限界であったと言えばそれまでであるが。
平清盛の考えの中では、東国における清和源氏の再興など無かったか、あったとしても軽視できるものという認識であった。平治の乱の終結直後は、それがいつのことになるかはわからないが、やがていつかは清和源氏が再び一大勢力となって平家の前に立ちはだかることになる日が来るだろうとは考えていた。しかし、平治の乱の終結から一七年が経過しているというのに、やがていつかは、という平清盛の考えに変化は無かったのである。源頼朝の監視をさせるべく源頼政に伊豆国を知行国とする権利を与えたが、平清盛のもとには伊豆での源頼朝の様子についての情報など全く届いていなかった。実際には情報が届けられていたのだが、平清盛は関心を示していなかった。
平清盛にとってより重要であったのは、後白河法皇との間で人事争いでの対立があったがどうにか鎮静化したことと、信頼できる藤原範季に公的地位を与えた上で東北地方に派遣できたことで、これから先、日宋貿易の安定と拡大により、日本国の経済は前年の天然痘パニックで生じた大損害を埋める局面へと入っていくことのほうであった。
その重要なことは安元二(一一七六)年六月に二人の女性の身に起こった悲劇によってかき消された。
安元二(一一七六)年六月八日、建春門院平滋子が突然の病に倒れた。この病気のことを当時の記録は「二禁」と書き記している。「二禁」と書いて「にきみ」と読む。読み仮名から想像できると思うが現在の日本語におけるニキビの語源である。語源ではあるが、この病気はニキビではない。何かしらの腫れ物が身体のどこかに発症することを当時は二禁(にきみ)と呼び、時代を経て現在のニキビだけを二禁と称するようになった。そのため、史料の中に死因が二禁とあるのを見て「ニキビで人が死ぬのか?」という疑問を抱く人がたまにいるが、現在のニキビの語源ではあっても同じ病気を指し示すのではないとわかればその疑問は氷解する。
建春門院平滋子が倒れたというニュースが広まり、誰もが建春門院平滋子の容態を心配するようになっていた六月一三日、全く予想だにしなかったニュースが飛び込んできた。二条天皇中宮であった高松院姝子内親王が亡くなったのである。脚気に苦しんでいたところで下痢が止まらなくなり、ついには死に至ったというのである。三六歳の若さでの死であった。
院号宣下を受けてからの高松院姝子内親王は仏門に籠もる生活をし、人々の話題にあがることのない日々を過ごしていたこともあり、多くの人はそもそも高松院姝子内親王が脚気に苦しんでいたことも知らずにいた。現在であれば脚気という病気はビタミンB1の欠乏のために起こる病気であることをほとんどの人が知っているが、平安時代における脚気は謎の病気の一種であり、そのために命を落とすことも珍しくなかった。
建春門院平滋子の病状回復を祈るために六波羅の南にある今熊野観音寺に参詣していた後白河法皇は、全く予期していなかった高松院姝子内親王の死の知らせに動転し、慌てて白河押小路殿に向かったものの、既に息を引き取っている高松院姝子内親王の姿を見るしかできなかった。
高松院姝子内親王の所有していた白河押小路殿と高松院領は建春門院平滋子が相続することとなった。ただ、建春門院平滋子の病状は悪化し続けており、資産相続どころではなくなっていた。安元二(一一七六)年六月二三日には、実母の見舞いに来た高倉天皇が見舞いを断られるという事態すら起こった。
さすがに天皇でも実母の見舞いはする。そして、ほとんどの場合は見舞いをしたことそのものが天皇の慈悲深き功績の一つとして記録される。つまり、断られるなどあり得ない話であるのだが、伝染病となると話は別で、天皇まで罹患させてしまうわけにはいかないから、天皇としては見舞いをする意思を示したが、周囲の者が猛反対したために見舞いができなかったという体裁をとる。
このときに猛反対した拒否した人物のことを、九条兼実は日記に「前大相国」と記している。文字だけを見ればかつて前回の太政大臣であった人のことなので関白松殿基房のこととなるが、松殿基房は現役の関白であり、日記に書き記すとすれば関白と書き記すこととなるので、松殿基房は対象から外れる。なお、この時代の貴族の日記において、いかに実兄であると言っても役職のある人のことを兄と書くことはまずない。そのため、前太政大臣ではなく元太政大臣のこととなる。安元二(一一七六)年時点で元太政大臣に相当する人は二人存命である。平清盛と藤原忠雅の二人。この二人のうちどちらが反対したのかは確定してはいないものの、平清盛とする説が一般的である。一方で、当時の人は平清盛のことを「入道相国」と記すことが一般的であったことから藤原忠雅である可能性も高い。
天皇の見舞いを拒否させるのは通常であれば大問題なのであるが、太政大臣クラスの猛反発という体裁を採ればどうにかなる。事情が事情であることを知っている人たちは、建前の裏に存在する真実を納得した。
そして理解した。
長くはない、と。
その予感は的中した。安元二(一一七六)年七月八日、建春門院平滋子が三五歳にして命を落としたのである。天皇の実母にして後白河法皇の妃の死は、高倉天皇にも、後白河法皇にも、そして平清盛をはじめとする平家の面々にも大きなショックとなって降り注いだ。
さらに女性ではないが、もう一人、命の危機を迎えている人がいた。
この年一三歳となっていた六条上皇だ。
生後一年も迎えていない段階で即位し、わずか二年八ヶ月で退位させられ上皇となった六条上皇は、結婚はおろかまだ元服も迎えていなかった。上皇ということで内裏から離され、後白河法皇の庇護下に置かれる日々を過ごし、そろそろ上皇の元服も検討すべきであるという話題が出てきた頃に突然、六条天皇が発熱と腹痛を訴えたのである。気が付いたときは既に重症になっていた。赤痢だった。
安元二(一一七六)年七月一七日、六条上皇が一三歳で崩御。
この一ヶ月で、三六歳の高松院姝子内親王、三五歳の建春門院平滋子、そして一三歳の六条上皇が相次いで、それも全員別の症状で亡くなったことに、時代への希望は消滅し、絶望が生まれた。
安元二(一一七六)年の夏のある日のこと、加賀国で騒動が起こった。
この騒動を平家物語の通りに記すと以下の通りとなる。
前年一二月に加賀国司に任じられた藤原師高は、自分は加賀国へ赴任せず、安元二(一一七六)年の夏に弟の藤原師経を目代として加賀国へ派遣した。なお、藤原師高と藤原師経の兄弟のことを、近藤師高・近藤師経と記す史料もある。
前年の加賀国司就任以後、加賀国内の荘園、特に寺院所有の荘園を強引に没収していた藤原師高は加賀国内でかなりの恨みを買っており、その弟で実際に加賀国へ派遣された藤原師経に対する加賀国内の領民の視線も厳しいものがあった。その上、季節は夏、今より平均気温は低いとは言え灼熱の中の移動である。
現在の石川県小松市までたどり着いた藤原師経ら一行は、国府へと向かう途中の山中に寺院があるのを見つけ、寺院の中で休息させてもらおうとし、寺院の中で僧侶が湯を浴びているのを見て自分たちも汗を流そうとした。寺院のほうも旅の貴族の一行がやってきたので歓待しようとはしたが、彼らが加賀国司の目代である藤原師経の一行と知ると、寺院の中に入ろうとするのを拒否。昔から国府の役人が立ち入ることは許されていない寺院であるとし引き返すように貴族に対して命じたのである。
この寺院を湧泉寺という。白山三社八院の一つをなす寺院であり、白山は石川県と岐阜県との県境にある霊山で、加賀国、美濃国、越前国の三ヶ国における白山信仰の中心をなす山である。中宮、佐羅宮、別宮の三つの神社と、護国寺、昌隆寺、松谷寺、蓮花寺、善興寺、長寛寺、隆明寺、そして今回の舞台である涌泉寺の八つの寺院とを合わせて白山三社八院と総称する。涌泉寺そのものは比叡山延暦寺の支配下にある寺院の一つであり、また、所有する荘園を加賀国司藤原師高に奪われた寺院の一つでもあった。
霊地であるために国府にかかわる人を境内に入れてはならないとする決まりはこれまでの加賀国司が全員守ってきたと主張する湧泉寺と、そのような法律はなく自分は国の定めた法にのみ従うと主張する藤原師経との争いは、その根本原因である荘園没収を巡る口論に発展し、奪った荘園を返せとする湧泉寺と、荘園は加賀国司藤原師高のものであるのが正しく寺院の勝手に決めた法を撤回せよとする藤原師経の対立はついに殴り合いに発展した。
僧侶と藤原師経の殴り合いではない。寺社にいる僧兵と藤原師経の周囲を守る武士達との殴り合いである。
その両者の殴り合いが素手で済むわけはなく、双方ともに武器を持ちだしての争いになり、旗色の悪くなった藤原師経は逃走して目代の館へと逃げ帰ることとなった。ただし、黙っているわけはなかった。
兄である国司藤原師高が加賀国内の荘園を奪っていることへの怒りは藤原師経が加賀の地で痛感した。ただし、延暦寺につながる湧泉寺の僧兵達の悪行についても反感が強いことを悟った藤原師経は、国法を無視する悪僧を懲らしめるべきという意見のもと、湧泉寺の僧兵を逮捕すべき軍勢の結集を命じた。平家物語はそのときの兵の数を一千余騎であると記しているが、これはいくら何でも多すぎる。実際にはその一〇分の一が限度であろう。それでも百名ほどの軍勢となれば一つの寺院を襲撃するのに充分な規模だ。
湧泉寺へとたどり着いた軍勢は、湧泉寺に対して、藤原師経への無礼を詫びること、国司藤原師高が取り返した荘園の所有権を正式に放棄することを命じた。当然ながら湧泉寺は従わない。それどころか再び僧兵に集合をかけて藤原師経の軍勢に対抗することを決めた。
ただ、藤原師経の軍勢は戦いにきたのではなかった。
湧泉寺を燃やしに来たのだ。
軍勢の手にした矢は火矢であった。通常の矢は矢先に鋭利な刃物などがついているが、火矢の場合は油紙などを巻いてある。火を付けてから弓矢を放つのが目的であるが、いかに木造建築が火災に弱いと言っても軍勢が向かい合っている最中に火の付いた矢が一回だけ飛んできたぐらいならば建物が燃える前に火を消すことができる。しかし、一〇〇人レベルで何度も何度も火矢を放てば、建物の消防能力よりも火矢によって生じる炎のほうが上回ってしまう。藤原師経が一〇〇名規模の軍勢を集めたのも火矢を用いて湧泉寺を燃やすことが目的であったからである。
藤原師経の計画は成功し、湧泉寺は炎に包まれた。
と同時に藤原師経は、湧泉寺が孤立した寺院でないことを忘れていなかった。湧泉寺は比叡山延暦寺に連なる寺院であるだけでなく、白山三社八院の一つをなす寺院である。湧泉寺が藤原師経の軍勢に燃やされたことを聞きつけた白山三社八院の合計十一の寺社の衆徒が激怒し、平家物語によればただちに二〇〇〇名を越える軍勢となって目代館に押し寄せたという。
この二〇〇〇名を越える軍勢が目の当たりにしたのは無人となっている目代館であった。
この一連の事件を現在の歴史家は「白山事件」と名付けている。
白山事件関連の詳細な日付が判明するのは安元二(一一七六)年八月一二日以降の出来事についてである。この日、白山三社八院の大衆が比叡山に詰めかけて湧泉寺の惨劇を訴え、延暦寺に対して朝廷に動くように要請。延暦寺も湧泉寺で起こった悲劇について確認し、白山中宮神輿を東坂本に移した上で、朝廷に対して加賀守藤原師高の流罪と、弟で実行犯である藤原師経の投獄を申し入れたのである。朝廷からの返答は、調査の上で事実であるなら処分を下すというものであった。
とは言え、白山事件に対して朝廷からの処分が下る可能性はきわめて低かった。
藤原師高が荘園を奪っていることも、藤原師経が湧泉寺に火矢を放つよう命じたことも、朝廷はまともに調査するつもりなどなかったのだ。延暦寺がどうとかではなく、この兄弟の父が後白河法皇の側近の一人である西光であったからである。
西光はもともと現在の徳島県にあたる阿波国の在庁官人であり、出家する前は藤原師光と名乗っていた。本来であれば阿波国における在庁官人としての生涯が待っているだけのはずであったが、信西の乳母の子であったことから信西の家来の一人となることに成功し、平治の乱の前では左衛門尉にまで出世していたという経緯を持っている。平治の乱において信西が殺害されたことを聞き、京都にいた藤原師光は出家を決意。そのときに信西の西の文字を受けて西光という法名を名乗るようになった。
平治の乱に直接関わったわけではないため処罰を免れた西光は、後白河法皇の側近として身を立てることを決意し、西光も人生の師とする信西の果たせなかった夢を果たすとして後白河法皇に仕えるようになった。ただし、西光は信西のような有能な人物ではない。後白河法皇の側に僧体の者が控えているというかつての信西の面影を感じさせる以外に西光の存在価値はなかったとさえ言える。
加賀国で白山事件が起こってから二ヶ月以上経った頃、源頼朝のいる伊豆でも問題が起こっていた。
源頼朝の殺害に失敗した伊東祐親は出家をして第一線から退いたものの、今なお周囲の恨みを買い続けていた。それが安元二(一一七六)年閏一〇月のことである。伊東祐親による源頼朝殺害計画は失敗に終わったが、今度は伊東祐親殺害計画が持ち上がったのだ。京都で裁判に持ち込みながら敗訴となり、伊東祐親に所領を奪われたままであった工藤祐経は伊東祐親の伊豆における立場が悪化していることは知っていたものの、今なお一定の勢力を持ち、自らの所領である伊東荘については今なお伊東祐親のものであり続けていたのである。
伊東祐親は出家したと言っても一時的に身を潜めるための方便であったと見え、安元二(一一七六)年閏一〇月のある日、伊豆奥野の地における狩りに出かけている。狩りはこの時代の武士の嗜みの一つであると同時に重要な訓練でもあった。
工藤祐経は家臣である大見小藤太と八幡三郎の二人に命じて狩りの場で伊東祐親を殺害するよう命じたのである。二人が選んだ方法は弓矢での射殺であった。
この目論見は失敗したが、伊東祐親には大打撃となった。
伊東祐親は殺害されなかったが、長男の河津祐泰が射殺されてしまったのだ。父子で苗字が違っている理由については、皮肉にも、父が伊東荘を手に入れたことに対する反発である。もともと河津を苗字としていたのを、伊東荘を手に入れたことを契機に苗字を伊東に変更した父と、父の侵略に反対し以前の苗字を使い続けていた河津祐泰との評判は圧倒的に息子のほうが高い。ついでに言えば河津祐泰の弟は父に合わせて苗字を伊東へと変更しているが、父の計画した源頼朝殺害計画には加わらなかったばかりか、源頼朝の脱出に協力すらしている。
父の苗字変更に付き合った次男は父の元を去って源頼朝の家臣の一人となり、父の苗字変更に従わなかった河津祐泰は殺害計画失敗のあとも父と行動を共にしている。
この皮肉が、河津祐泰の死につながった。
伊東祐親の長男が殺害されたというニュースは伊豆の武士の間に瞬く間に広まった。河津祐泰の死は気の毒なことではあるが、伊東祐親がダメージを受けたことの爽快感のほうが強く、殺害を命じた工藤祐経は犯罪者として弾劾されるどころか模範とすべき武人として称賛を受けるに至ったのである。
ただし、河津祐泰には幼い子がいたのである。うち、このとき五歳の十郎と三歳の五郎の二人は河津祐泰の妻に連れられて曾我祐信と再婚。二人とも曾我の苗字を名乗るようになった。
この二人が一五年後、鎌倉幕府成立間もない頃に起こった大事件「曾我兄弟の仇討ち」の主人公となる二人である。
安元二(一一七六)年一二月五日、建春門院平滋子の死からおよそ半年を経たこの日、建春門院平滋子の死を理由として平宗盛が権中納言を辞任した。平宗盛は、名目上ではあるが平滋子の猶子である。半年を経ていることは異例ではあるが、母の死に伴い一時的に官職を辞職することはある。
ただし、一時的な辞任であって、元の官職に復帰するか、あるいは辞任前より上の官職に就くのが一般的である。一二月に辞任すると言うことは、翌年一月の人事で元に戻るか、あるいは新たな役職に就くかのどちらかであることを意味した。
それでも権中納言が空席となったのは事実であり、平宗盛の辞任と同タイミングで参議の誰かを権中納言に昇格させることは何らおかしなことではなかった。そして、権中納言に昇格したのが参議筆頭の藤原成範と、参議で序列第二位となっていた平頼盛であったことは誰もが納得した。しいて言うなら、かつては平重盛に何かあったときの平家のトップ、すなわち平家の序列第三位は平頼盛のはずであったのだが、いつの間にか現時点での序列第三位は平宗盛であり、未来の平家のトップとして平重盛の長男である平維盛になっていたことを挙げるところであるが、そのどちらも既成事実と化しており、この頃になると平頼盛本人ですら平家の中での序列について何も言わずにいた。
二名の参議が権中納言に昇格したことで、新しく参議が二名誕生することとなるのもおかしなことではない。そして、蔵人頭を務めていた貴族が蔵人頭辞任すると同時に参議に就任することも通例通りで、辞任というより卒業としたほうが近いぐらいだ。
蔵人頭は天皇の主席秘書であり、文官から一名、武官から一名の計二名が選ばれるのが慣例となっていた。文官の場合は、左大弁、右大弁、左中弁、右大弁の中から一名が選ばれ、これを「頭弁(とうのべん)」という。武官の場合は左近衛中将と右近衛中将のどちらかから一名が選ばれ、これを「頭中将(とうのちゅうじょう)」という。源氏物語で光源氏の従兄にして親友にして恋のライバルにして政治上の敵である頭中将は、第四帖「夕顔」での役職が蔵人頭兼近衛中将であったからこのように呼ばれている。源氏物語の中で彼は太政大臣にまで登り詰めているのであるが、それがフィクションの世界であるから頭中将と呼ばれているのであり、実際には頭中将を辞したと同時にそのように呼ばれることは無くなる。
参議に空席が二つできて、蔵人頭が二人いる。右近衛中将を兼任していた藤原実宗と、左大弁を兼任していた藤原長方の二人である。二人とも嘉応二(一一七〇)年からおよそ六年間に亘って蔵人頭を勤めてきたので、参議になったことは当然と見なされたし、六年間も参議にさせてもらえず留め置かれてきたことはおかしいのではないかという意見まで登場しておろ、そして、無事に二人とも蔵人頭を卒業した。
さて、蔵人頭が二人揃って参議になったので蔵人頭のポストが二つ空いた。
文官から一名、武官から一名というのは慣例であって、これまでに何度か、二名とも文官から選ばれたことも、逆に二名とも武官から選ばれたこともある。安元二(一一七六)年一二月時点の蔵人頭の候補は二名とも武官であった。左近衛中将である藤原雅長と、平清盛の四男で右近衛中将である平知盛の二名である。
ところが、後白河法皇の回答は違った。右近衛中将という点では平知盛と同格であるが、序列では平知盛より下に扱われていた藤原定能と藤原光能の二人が蔵人頭に補されたのである。これには驚きを隠せなかった人も多く、藤原定能とは義理の兄弟の関係にあたる九条兼実ですら「希代」のことと日記に書き記している。
九条兼実は希代のことと記したが、藤原定能と藤原光能の二人が揃って後白河法皇の院司であったことを考えると希代のことではなくなる。とは言え、二人が蔵人頭としての役職務を務める資質を有しているかとなると話は別である。
自分の息子を蔵人頭にしようと画策していた平清盛は怒りを隠せなかったというが、議政官の人事については後白河法皇の口出しが有効である時代を迎えてしまっていた。文句を言おうと白紙撤回はできないのだ。
平知盛の蔵人頭就任を拒絶された平清盛は激怒したが、激怒のほうがまだマシである態度を見せた人がいる。大納言平重盛である。平重盛は右近衛大将を兼任している。武官のトップの地位である左近衛大将は内大臣藤原師長が兼任している。
平重盛はとんでもないアイデアを出したのだ。
空席になっている太政大臣に藤原師長を昇格させようというのである。後白河法皇の人事介入を食い止めるためには誰かが太政大臣にならなければならず、もっとも太政大臣に相応しいのは内大臣藤原師長であるとしたのである。ただし、太政大臣となると左近衛大将に就任できない。そこで、まずは内大臣藤原師長が左近衛大将をいったん辞任し、大納言平重盛が左近衛大将に遷る。そして、権中納言に復帰する平宗盛を右近衛大将とするというアイデアである。
武門について平家に口出しできる者はいない。
そして、後白河法皇の人事への口出しはいささか度を超している。
しかも、何一つ法を逸脱せず、慣例から外れてもいない。
親族の不幸によって一時的に辞職していた者が復帰するときに以前より上の官職に就くことは珍しくなく、右近衛大将は上の官職という点で文句無しの職務だ。しかも、ここでいう親族の不幸というのが建春門院平滋子の死なのであるから、一時的な辞職の後に上の官職を用意することについて後白河法皇は何一つ文句を言えない。
年が明けてから少し経った安元三(一一七七)年一月二四日、内大臣藤原師長が左近衛大将を辞任。平重盛がいったん右近衛大将を辞任した上で左近衛大将に就任、権中納言に復帰した平宗盛が右近衛大将を兼任することとなった。さらに、平清盛の弟である平経盛が正三位に昇格し、話題となっていた平知盛も従三位へと昇格すると同時に右近衛中将から左近衛中将へと武官の地位を一つ上げた。
兄弟が揃って左右の近衛大将に就いた例を探して過去二〇〇年間を遡っても、寛徳二(一〇四五)年の藤原教通と藤原頼宗、そして、平治二(一一六〇)年の松殿基房と九条兼実の二例しか無く、藤原摂関家でない者が、それも武士が、揃って左右の近衛大将に就いたというのは前代未聞である。もっとも、平家は自分たちのことを、武士ではなく、武士としての側面も持つ貴族と考えていたのであるが。
してやられた感のある後白河法皇であるが、このときはまだ安穏としていた。何しろこの時点ではまだ藤原師長の太政大臣就任の計画がまだ公表されておらず、安元三(一一七七)年二月三日に開催された平宗盛の拝賀式において、後白河法皇は殿上人を派遣したほどである。建春門院平滋子の猶子であった平宗盛は、実体を伴ってはいないが後白河法皇と父子関係でもあるからそのこと自体はおかしくない。
ところが、安元三(一一七七)年三月五日の出来事は後白河法皇を当惑させた。してやられたと笑っていられる話ではなかったのだ。
内大臣藤原師長が、左大臣藤原経宗と右大臣九条兼実を飛び越えて太政大臣に就任。同日、位階が従一位へと昇叙することとなった。これで、関白、太政大臣、左大臣、右大臣の四人の従一位が揃ったこととなる。なお、父が罪人である藤原師長の太政大臣就任には異論もあり、通常は太政大臣に就任するにあたって作成する太政官符には、新しく太政大臣に就任する人が先祖代々皇室に仕えてきた家系の人であることを記すのであるが、藤原師長の場合はその文面の作成が拒否されるという事態が起こっている。
空席となった内大臣には大納言平重盛が昇格。後任の大納言には一二年間に亘って官職を持たず位階のみを与えられていた徳大寺実定こと藤原実定が就任している。平家物語によると、安芸国まで出向き、平清盛に挨拶した後に厳島神社への参詣をしたことが大納言復帰の理由であると記しているが、徳大寺実定が人生ではじめて厳島神社に参詣したのは二年後のことなので平家物語の記載は間違いである。
ただし、平家のサポートで官職に就いたことは考えられる。何しろ徳大寺実定が一二年間に亘って官職を持たなかった理由が、永万元(一一六五)年八月一七日に平清盛が権大納言に昇格する際に、空席を用意するために辞任を求められたことにあるのだから、二七歳からの一二年間を奪い、三九歳になるまで放置しておいたことに対する損害賠償だとすれば納得はいく。
源頼朝が伊東祐親の不在の間に伊東祐親の娘と結婚をし、京都から戻ってきた伊東祐親が激怒したことから源頼朝殺害未遂事件まで引き越したことは既に述べた。また、伊東祐親の襲撃から身を守るために北条時政のもとに避難したことも既に記した。
安元三(一一七七)年三月、源頼朝はまたもやしでかすのである。
この時点の北条時政は源頼朝を監視すべき在庁官人の一人である。勝手に殺されるのは問題であるが、勢力を持つのもそれはそれで問題であるというのがこの頃の北条時政の認識であったのだ。
北条時政は強力な武力を持った勢力ではなく、また、在庁官人であるものの、同時に武士でもある。伊東祐親は平家に私的に呼ばれて京都に向かったのに対し、北条時政は職務として京都に向かうことがあった。この職務を大番役という。地方の在庁官人である武士を京都に呼び寄せ、内裏や院、摂関家などの邸宅の警備をさせることであり、任務が命じられた武士は上京して、最長で三年間、京都に滞在してその任務を勤めることが求められた。武士にとっては負担が大きいが中央政界との結びつきを強める絶好のチャンスであり、可能性は低かったものの、中央での官職を手にすることも不可能では無かった。中央での官職を手にする可能性は低かった一方、地元での公的官職を手に入れる可能性は高く、戻ってきたときには出発する前より高い地位を帯びて帰ってくることが通例であった。その上、京都の最先端文化も持ち帰るので、地元において一目置かれるようにもなった。たとえば息子や弟を連れて行って任務を終わらせて地元に帰らせると、京都の洗練された最先端文化を身につけた都会人ということで女性にやたらとモテるようになり結婚相手に困らなくなったという。なお、このときの大番役で北条時政が息子を連れて行ったかどうかは不明である。年齢的には北条宗時も江間義時も大番役でおかしくはない年齢であるが、大番役を務めたという記録はない。
平家が伊東祐親を私的に呼び寄せたのは大番役を模した結果であるが、北条時政の場合は文句なき大番役である。最長の三年間では無く、また、中央政界における官職を手に入れることも無かったが、それでも大番役の任務を終えて伊豆に戻ったことで伊豆における自らの未来は希望に満ちたものになる、はずであった。
その希望を破壊する現実が伊豆で待ち構えていた。
娘が源頼朝と結婚していたのである。彼女のことを後世の人は北条政子と呼ぶが、彼女がその名前で呼ばれるようになるのは建保六(一二一八)年のことであり、それまでは別の名であった。ただし、別の名であったことは判明しているのだが、何という名であったのかは現在でもわからない。そのため、建保六(一二一八)年以前の彼女のことも北条政子と呼ぶのが通例化しており、本作でも通例に従う。
北条時政もまさか自分が伊東祐親と同じ目に遭うとは思ってもみなかったが、そこから先の反応が伊東祐親と違っていた。正確に言えば、伊東祐親の身に起こったことを知っていたし、伊豆で何が起こったかも知っていた。その上で、自分が伊東祐親と同じ行動をとったらどうなるかも理解していた。北条時政は娘の結婚を受け入れたのである。
源頼朝と北条政子との結婚は北条氏の運命を激変させたきっかけであっただけに、あれこれと脚色された伝説が残っている。
曽我物語によると、北条政子の妹が不可思議な夢を見たという。太陽と月を手に掴んだ夢だというのだ。妹の見た夢を姉に話すと、姉が言うには、それは不吉な出来事の前兆を示す夢であるから手放さないとならないという。姉の言葉に不安になった妹を見て、姉は自分が身代わりになると申し出ただけでなく、不吉な出来事に怯える妹に小袖を渡した。小袖とは現在の着物のルーツと一つとなっているこの時代の服の一種である。貴族の女性は十二単の下に下着のような感じで小袖を身にまとっていたが、そうでない女性にとっては普段着である。普段着と言っても第一次産業革命を迎えるまで衣料とは高価なものであり、在庁官人の娘である、すなわち、伊豆では裕福な暮らしに部類されるはず北条政子ですら、簡単に手に入るものではなく、貴重品である。
曽我物語では妹の夢を小袖で買ったとする話になっているが、ここは、不吉の前兆である夢と引き替えに小袖を渡し、何かあれば小袖を形見とさせようとしたと考えるべきであろう。なお、妹を思う姉の心情に感心できるのはここまでで、曽我物語によれば妹の見た夢を自分の見た夢とすることに成功した北条政子は、後に天下を掴む源頼朝と結婚した。太陽と月は天下のことであり、源頼朝のことであったというのが曽我物語における北条政子の結婚の話である。そう考えると妹を騙した姉になるわけで、妹思いのフリをして、なかなかに図々しいことをしている。
源平盛衰記における記述はもっと物語的である。
源頼朝と北条政子とが恋人同士になっていることに怒った北条時政は、伊豆国の目代として赴任してきた山木兼隆のもとに娘を嫁がせようとし、輿入れ、すなわち結婚式の始まりのタイミングで北条政子が脱走し源頼朝のもとに駆け込んだというのがその粗筋だ。結婚式の直前に脱走して愛する男のもとに走ったというのだから、政略結婚に負けずに純愛を貫いた女性ということで北条政子の結婚についての物語性は増すものの、新婦に逃げられた山木兼隆の立場になるとかえって哀しくなってしまう。もっとも、源平盛衰記におけるこの物語は嘘であるが。
曽我物語は妹の見た夢の話であるから本当かどうかなど証明しようがないが、源平盛衰記の話は明確に間違っていると断言できる。山木兼隆が伊豆に来たのは二年後のことであり、そのときにはもう源頼朝と北条政子の夫婦は結婚生活三年目を迎え、北条政子は娘も出産していたのだから。
ただし、源平盛衰記の記述の中に真実と思われることも混ざっている。鎌倉幕府の正史とも言うべき吾妻鑑によると、北条政子のほうが源頼朝のもとに言い寄ってきたとあり、それも真夜中の、しかも雨の降りしきる中に源頼朝のもとを訪ねたのだという。
北条政子が源頼朝のもとに足を運んだのは、源頼朝に惚れ込んだこともあるだろう。この時代の美男子と言えば平維盛が挙げられるが、源頼朝も日本史上に名を残す美男子であった。おまけに、一三歳まで京都で過ごしていた源頼朝は伊豆において例外的とも言うべき都会的センスを持っていた。そして、清和源氏の御曹司にして熱田神宮の宮司の孫という貴種。これだけ揃えば源頼朝は恋愛に不自由しなかったであろうし、北条政子を一人の女性として捉えれば源頼朝に言い寄るのも理解できる。
ただ、そんな外見だけで北条政子は人生をかけた勝負に出るだろうか?
源頼朝を貴種と記したが、実際には流罪となって伊豆に流されてきた身である。しかも、清和源氏そのものが平治の乱で壊滅状態になっており、平家の側に立った源頼政のもとに残った者でない限り、清和源氏というだけで犯罪者集団扱いされるまでになっているのが現実だ。時代は平家のものであり、清和源氏の生き残りの面々は生かしてもらえているだけでも平家に感謝すべしという風潮すらあったのだ。それなのに、源頼朝は京都から情報を定期的に受け取っているだけでなく、平家を背後に持つ伊東祐親に公然と逆らい、伊豆の武士の多くの支持を手に入れることに成功していた。源頼朝に言わせれば、生かしてもらえていることに感謝などする謂れなどなく、父や兄を死に追いやった平家にあるのは憎しみしかない。そして、誰もが非現実的と考える清和源氏再興を、源頼朝は真剣に考えていたのだ。
北条政子が惚れ込んだのは、源頼朝の美貌ではなく、源頼朝の野心のほうであったとすべきであろう。
北条時政は自分の娘が源頼朝と結婚したことを朝廷に報告したが、それでどうこう言われることはなかった。朝廷は、そして平家の面々は、北条時政から上がってきた娘と源頼朝との結婚をそもそも気にも止めなかったのだ。
朝廷も、平家も、それどころではなかったとするのが正解であろう。
安元三(一一七七)年三月二一日、京都中に衝撃が起こっていた。前年の白山事件の回答が朝廷から届かないことに業を煮やした比叡山延暦寺の大衆が、藤原師高と藤原師経の兄弟の処罰を求めて武装デモを集めだしたという噂が届いたのである。
噂はあくまでも噂であり、本当にデモ集団が動き出すかどうかはわからず、平安京には緊張が走った。
比叡山は近江国、現在の滋賀県の山であるが、京都の目と鼻の先にある。平安京に噂が流れるのと、平安京の噂が比叡山に届くのと、さほどのタイムラグはない。京都が延暦寺のデモに脅えているというのは、延暦寺にとって自らの意見を通しやすい環境が整うことを意味する。
今までであればそれだけで充分に圧力であったろう。
だが、この時点の武官は、左近衛大将が平重盛、右近衛大将が平宗盛であり、左近衛中将も平知盛であるという、平家の軍勢を総動員できる体制になっている。特に平重盛がトップに君臨しているのは大きい。何しろこの人は殿下乗合事件で摂政松殿基房を相手に一歩も引かなかった人なのだ。平家物語は平清盛を悪役とするために平重盛を聖人君子として描いているし、実際に、相対的には平清盛よりも平重盛のほうが聖人君子に近いのだが、絶対的には平重盛もなかなか血の気も多く、けっこう暴れ回っている。相手が延暦寺の僧兵であろうと、殴り合いだろうが何だろうが受けて立つという気概に溢れていた。
平家の武士と延暦寺の僧兵との全面対決がいつ起こってもおかしくないという安元三(一一七七)年四月六日、予期せぬ出来事が起こった。二条南高倉西より火災が発生し、藤原師長の邸宅や、亡き建春門院平滋子の九条御所などが焼亡したのである。平家は延暦寺の僧兵の手による放火と宣伝し、延暦寺は平家に対する天罰と言い放った。
安元三(一一七七)年四月一三日、ついに両者が衝突した。延暦寺の僧兵が、十禅師権現、白山妙理権現、八王子権現の三つの神輿を奉じて平安京へ向かってきたのである。権現(ごんげん)とは、神道の神々を仏教の仏や菩薩が仮の姿で現れたものであると扱う本地垂迹(ほんちすいじゃく)説に基づく神仏習合の神号であり、十禅師権現と八王子権現は比叡山、白山妙理権現は白山の祀る神に由来する神仏習合の神である。
天皇を神の子孫とする時代における神輿とは、神にして天皇の祖先が乗っている輿であり、天皇とて逆らうことの許されない存在であった。何しろ断じて頭の下げることの許されない天皇であろうと神輿に対しては頭を下げなければならないのである。延暦寺の僧兵が平安京までデモ行進をするときに神輿を奉じて群れを成したのも、神輿を奉じることでデモ集団を皇室ですら太刀打ちできないアンタッチャブルな存在へと昇華させる目的があった。白河法皇が鴨川の水と賽子の目と並んで意にならぬものの一つに比叡山延暦寺の僧兵を挙げたのも、神輿があるがために延暦寺の僧兵に手出しをする手段が存在しなかったからである。
神輿を奉じて平安京へと押し寄せる延暦寺の僧兵からの要求は、既に伝えてあるとおりの加賀国司藤原師高の流刑と弟で目代である藤原師経の入牢である。デモの自由は認めても、武器を手にしての平安京入京は認めないという法は、理論上こそまだ有効であったものの、法より神仏の意思のほうが上だと考える僧兵達に、法は通用しない。
武装して平安京へと押し寄せる集団を目の当たりにした朝廷は説得を試み、高倉天皇が里内裏としていた、いや、もはや里内裏ではなく事実上の内裏となっていた閑院の警備を固めさせた。これが大内裏のままであれば平家の武力がいかに他の追随を許さぬものであっても一氏族の軍勢で守れるものではなくなっていたであろうが、大内裏が使用できなくなってしまったために閑院を内裏とするようになったことで、平家プラスアルファの武力で警護できる狭さになってしまっていた。
まず、源頼政に閑院の北側の門を固めさせた上で、源頼政の郎従の一人である渡辺唱を使者として僧兵に申状を送った。かつてであれば、僧兵に対抗するのは伊勢平氏と清和源氏の連合軍であったが、平治の乱で清和源氏が壊滅状態になっている今、京都における数少ない清和源氏の生き残りである源頼政ができたのは三〇〇騎ほどの軍勢を率いて北門を守るのと、使者を派遣することだけである。以前であれば延暦寺の僧兵とて清和源氏の武力の前にはたじろいだであろうが、三〇〇しかいない今となっては最初から武力として見なされてすらいない。
武力と見なされているのは平家のみである。内裏となっている閑院は東西南北のそれぞれに複数の門があり、延暦寺に近い東側を平重盛が率いる軍勢が守り、南と西をその他の平家の者が守るという布陣であった。南と西を守るために集められた平家の武人として、平家物語は平宗盛、平知盛、平重衡、平頼盛、平教盛、平経盛の名を挙げている。武人としてデビューしたばかりの平維盛の名は無い。
北側の門を源頼政率いる清和源氏が、残る三方向を左近衛大将平重盛率いる平家の軍勢が警護することとなったのだが、源頼政の率いるのが三〇〇騎、残る三つの門は平家率いる総勢三〇〇〇騎という構図であり、平安京の中に入っても武装を解かなかった延暦寺の僧兵達は、もっとも守りの薄い北門から内裏に入ろうとした。
ここで源頼政は一世一代のギャンブルに打って出た。
まず、延暦寺の僧兵達に対して頭を下げて延暦寺の僧兵達を迎え入れたのである。
そして、こう言い放った。
「今回の訴えは道理に適ったことであり、裁許が遅くなったのはとても残念なこと。神輿をお入れすることも当然のことであり、私は何も言わずにお通しいたします。ですが、この源頼政の守る門はわずか三〇〇騎ほど。しかも、こちらからお通ししますと申し上げてから内裏に入るというのであれば、延暦寺の皆様は、普段は大きなことを言っておきながら、いざとなると多勢に無勢の弱みにつけ込んで内裏に入ったなどと京都中の笑いものになることでしょう。それであるならば東を守る左近衛大将平重盛様の元へと向かい、そちらからお入りすべきではないでしょうか」
頭を下げて迎え入れている源頼政を侮蔑の視線で眺め、源頼政は平治の乱で源義朝を裏切って平清盛の側に寝返った者ではないかとあざ笑う僧兵もいたが、デモ集団の指揮をする僧侶の一人が、源頼政が平治の乱で寝返ったのは裏切りではなく過ちを認め正しき道を進んだからであるとし、神輿を奉じている自分たちが、正しき道を進んだ者に泥を塗って内裏に入るなど許されないことであり、京都中の笑いものになるようなこともまた断じて認められないことであると主張したことで、デモ隊の動きは内裏の東へと向かうこととなった。
源頼政の一世一代のギャンブルは成功した。
内裏の東にいるのは平重盛である。
平重盛はいったいどう出てくるかと思っていた延暦寺の僧兵達は、信じられない光景に出くわすこととなった。
駆け引きも何もあったものではなく、平重盛は単純な答えを示したのである。
デモ集団に向かって矢を一斉に放つよう命じたのだ。
神輿があろうがなかろうが関係なく、雨あられと矢を放つという、良く言えば単純明快、この時代の常識では不遜極まりないことを、平重盛はしたのである。
延暦寺の僧兵達はたじろぎながらも天皇の祖先たる神の神輿に矢を放つ平重盛に非難を続けたが、平重盛は何の答えも示さない代わりに矢を放ち続けさせた。
これは前代未聞のことであった。
僧兵達は神輿を意に介さず自分たちに向けて矢を放つ人間がいるなど夢にも思っていなかった。僧侶も、神官も、次々と射殺され、長刀を持って武士に向かっていこうとした僧兵は、平家の武士に近寄る前に力尽きた。
そのうち、弓矢の動きが止まった。ただし、矢が飛ばなくなったのは攻撃の終了を意味したのではない。平家の軍勢が各々槍を持ち、刀を抜いて僧兵へと向かっていったのである。既に矢で傷を負っていた僧兵は平家の武士の前になすすべなく、僧兵の死体が平重盛の前に山となって築かれ、多くの僧兵達が、神輿を三つとも捨ててまで比叡山へと戻っていった。
ただし、これを僧兵が許すわけはないと誰もが考えた。そして、多くの人が比叡山から再び僧兵が襲撃してくると考えたのだ。
僧兵達が捨てた神輿はそのままにされた。この時代、神輿を触れることが許されている人間はごく一部の人たちだけとされており、神輿に触れることの許されていない人が神輿に触ると神罰が下るとされていた。そのため、放置されたままの神輿はそのまま神社となり、三基のうちの一基の神輿を祀った神社のひとつが白山神社として京都市中京区に現在も残っている。
後白河法皇はこの騒動に激怒したものの、平家も延暦寺も双方とも問題ありとして、双方ともに処分を下すように命じた。ただし、安元三(一一七七)年四月一三日の時点では誰一人として後白河法皇の命令を遵守できる状況では無かった。
延暦寺の第二陣が来るという噂が京都中を駆け巡り、翌日には高倉天皇が内裏とする閑院を出て、父の住む法住寺へと避難した。法住寺は目と鼻の先に六波羅を要する土地であり、平家が天皇を守ることだけを考えるなら内裏となっていた閑院よりも優れていた。法住寺へと避難したのは高倉天皇だけではない。関白も、太政大臣も、左大臣も、右大臣も、およそ貴族という貴族が法住寺へと避難し、法住寺が内裏になったかのような様相を呈していたのである。この状況で後白河法皇の命令を遂行できる者などいなかった。
それでもまだ法住寺はマシだったかも知れない。
延暦寺が神輿を奉じて入京したのはこれが六回目であるが、神輿に矢を向けられたことは初めてである。そもそも神輿に弓矢を向けること自体がありえないことであり、これから先、ありえないことを平然としでかす平家の軍勢が群れをなして、比叡山を登って襲撃してくるだろうと考えたのである。延暦寺はこれで終わりだと考えた僧兵達の中には、延暦寺の建物という建物を全て破壊して山野に身を潜めようとした者まで現れた。
後白河法皇が比叡山に遣わしたのは平時忠である。平家でありながら武士でなく、左衛門督の武官の官職を持ってはいたものの平家の軍勢に加わってはいない。恐怖と怒りとに満ちている延暦寺の僧兵達の中に単身乗り込んだときは殴り殺されそうな雰囲気であったが、比叡山の雰囲気は平時忠から渡された書状によって一変した。
平時忠の持参した書状は後白河法皇の直筆であり、そこには、延暦寺の当初の要求であった加賀国司藤原師高の尾張国への流刑と藤原師経の入牢について記されていた。また、神輿に矢を放ったとして、平重盛に仕えている武士のうち六名も入牢が決まった。
ただし、延暦寺側も全くの問題なしであったわけではない。天台座主の明雲を藤原師高と藤原師経の兄弟の父である西光が告訴したのである。比叡山の側にも全く問題が無いとは言えず、このままでは明雲もまた流罪になる可能性が高かった。
このままでいけば、天台座主の明雲が有罪になるかどうかがトップニュースになっていたところであろうが、安元三(一一七七)年四月二八日、延暦寺と平家との激突をもしのぐ大事件が発生した。
後に「太郎焼亡」とも呼ばれる安元の大火である。
鴨長明の方丈記には、鴨長明が体験した五つの災厄の記録が登場する。その最初に登場するのがこの安元の大火だ。
以下、鴨長明の方丈記より安元の大火の様子を抜粋する。
安元三(一一七七)年四月二八日、その日は南東から北西へと風が強く吹いていた。戌刻頃に平安京の南東から出火し、北西まで広がった。朱雀門、大極殿、大学寮、民部省まで火が移り、一晩のうちに灰になってしまった。火元は樋口富小路で、舞人を泊めていた小屋から出火してしまったという。炎は風にあおられてあちこちへと移っていくうちに、扇を広げたように末広がりへと拡大していった。炎から遠い家は煙に燻され、炎に近い家は炎を吹きつけていた。炎は夜空へと灰を吹き上げたので灰が炎の光に映えて赤くなり、風にあおられ吹きちぎられた炎が飛ぶかのように、一町、二町を越えて移っていった。炎に包まれている土地の人は正気を保っていない。ある人は煙に苦しみ悶え、ある人は炎へと飲み込まれていく。ある人は、身体は助かったものの、家のものは全て焼けてしまい灰になってしまった。焼け落ちた貴族の邸宅は一六軒。庶民の住まいとなると数えることもできない。平安京の三分の一が焼け落ちたという。数十人が亡くなり、馬や牛などはどれだけ命を落としたのかわからない。
以上が鴨長明の記録である。
鴨長明は戌刻、現在の時制に直すと夜八時頃に出火したと伝えている。その他の記録では亥刻とあり、こちらは現在の時制に直すと午後一〇時頃となる。誤差はあるものの、夜に発生した火災であることに違いはない。また、火災発生源が樋口富小路であること、多くの官庁が焼け落ちたことも他の記録と一致する。一町、二町を越えて移ってゆくというのも、本来の区画整理で定められた道路が時代とともに狭くなっていき、町のあり方が平安京の本来の建設プランから変わってきていることを示す好例である。距離としての一町はおよそ一〇九メートル、わかりやすく言うと、サッカーの一方のゴールからもう一方のゴールまでの距離がだいたい一町である。区画としての一町はおよそ一〇九メートル四方の一画であり、東西南北を道路が走っている。
本来であれば区画と区画の間には広い道路が走っており、町と町との間に空間があることで火災が道を挟んだ向こうまで向かわないようにする都市計画プランであったのが平安京であるが、家を大きくしようとする増改築の繰り返しが道を狭くさせ、平安京という都市が、道を挟んだところにも火災が燃え広がるようになってしまう都市になってしまっていたのがこの時代だ。無論、風にあおられて炎が飛び、二〇〇メートル以上離れたところで火災を起こすこともあったろうが、本質的には、道の狭さと隣家との近さが火災の被害を拡大させる要因になった。
方丈記は大極殿とだけしか記していないが、信西の手によって再建され、平治の乱で戦場となったために放置されていた大内裏が焼失したのもこの大火である。大内裏が火災に遭うのはこれで三度目であるが、過去二回は曲がりなりにも再建計画が立てられ、信西のような本格的な再建計画も存在していた。だが、安元の大火のあと、大内裏は二度と復活しなかった。
失われた建物は大内裏だけでは無い。以下が、安元の大火で焼失した建物である。
焼け落ちた家屋はその他に二万ともいう。また、町単位でも二〇〇町は焼失したという。鴨長明の記す平安京の三分の一が失われたという記録も大袈裟とは思えない。
安元の大火の最後の記録は、出火翌日の辰刻、現在の時制にすると午前八時頃にもまだ燃えていたという記録である。おそらく、その少し後になってようやく鎮火したのであろう。
それにしても、鴨長明は建物の被害について詳細に記しているし、その他の記録にも歴史ある建物が安元の大火で焼け落ちてしまったことを記してもいるのであるが、建物の被害に比べて死者の数が少ない。鴨長明の記す死者の数だけが少ないのではなく、他の記録においても死者の数が少ないのである。災害の死者がゼロでなければ多いとするのはその通りであるが、首都の三分の一が焼け落ちるというとてつもない大火災であったにもかかわらず死者が少なかったのが安元の大火の特色であったとも言える。
鴨長明は炎が次々と広まっていったことを方丈記に記したが、すぐに広まったとも、逃げる場所も無いままに炎に包まれたとも記してはいない。炎は容赦なく広まったが、炎から逃げるぐらいの時間を稼げるだけの進み方でもあったのだ。
幸いにして命を失わずに済んだ人は多かった。と同時に、命以外の全てを失った人は多かった。住まいを、仕事を、財産を失った人は多かった。
それなのに、救済はなかった。かつて藤原道長は、住まいを無くした人のために全財産をはたいて住まいを作り、職を用意した。全ての人に住まいが行き届くまで藤原道長はテント、当時の言葉で言う庵(いおり)で過ごしたが、この時代に藤原道長はいなかった。四月三〇日、中宮庁が強盗の襲撃を受けて財物が盗まれた上に放火され、その上、襲撃の際に右衛門の陣に矢が射られるという事件まで起こった。
平家も、後白河法皇も、そして朝廷も、全くの無策であった。それどころか、白山事件の後始末のほうを優先させたのである。たしかに白山事件は白山事件で重要であるが、安元の大火の被災者を放置するのが許される事件であろうかとも考える。何しろ、関係者への処罰は一人を除いて完了しているのだ。
安元二(一一七六)年五月四日、白山事件で息子二人が処罰された西光の訴えに関する動きが出た。西光の訴えが認められて、天台宗のトップにして比叡山延暦寺のトップでもある天台座主の明雲が検非違使に逮捕されたのである。逮捕翌日にはもう判決が出たというのだから、はじめにストーリーがあった上での逮捕劇であったことがわかる。
逮捕翌日の五月五日に下った判決は以下の通り。
宮中での法会や経典の講義を行う公会請用の資格の剥奪。
比叡山延暦寺が務めてきた宮中での延命法、不動法、如意輪法の三檀の修法のうち、如意輪法の本尊である如意輪観音の護持役の返上。
宮中に伺候して天皇の健康無事を祈持する護持僧の役目の改易。
天台座主の地位を剥奪されたわけではなく、流罪になったわけでも牢に入れられたわけでもないが、ここまでの処分が重なると、明雲が天台座主であり続けることができるかどうかというレベルではなく、天台座主が天台座主であり続けることができるかどうかというレベルの話になる。この判決によって延暦寺が突きつけられたのは、白山事件の責任が延暦寺に存在するかどうかではなく、延暦寺に突きつけられた責任を明雲個人の責任とするか、延暦寺としての責任とするかの選択だけである。前者とするなら、明雲を天台座主から降ろす代わりに他の人を天台座主にすれば、天台座主は今まで通りの地位と権勢を保持できる。後者とするなら延暦寺の権威も権勢も失う。延暦寺が選んだのは明雲を見捨てることであった。明雲に責任を負わせることで、延暦寺は延暦寺の延命を図ったのである。
延暦寺からの回答を経た安元三(一一七七)年五月一一日、嘉応の強訴と白山事件の責任は明雲にあるとして、延暦寺の所領のうち明雲個人に記する所領を全て没収した上で、天台座主の職務から明雲を外し、鳥羽天皇第七皇子である覚快法親王を次の天台座主とすると決まった。
訴えを起こしたのは西光であったが、そこから先の主導者は後白河法皇である。天台座主交替以後の処遇の局面で白山事件についての憤怒を強引に鎮めざるを得なくなっていたのが、ここに来て一気に蘇り、訴えを起こした西光ですらここまでは求めていないという残酷さが現れるようになってしまったのだ。五月一二日、明雲に対し、水を飲むことと火を通した食事を口にすることが禁止された。さらに、この時代の法務の専門家、現在で言う大学の法学部にあたる明法道の学者に対し、明雲を強制的に還俗させて一般人として処分する場合の罪刑を検討させるまでに至った。何れも後白河法皇の独断である。
明法道の回答待ちではあるが、想定される刑罰としては、いったん死刑宣告となったのちに罪一等減して流刑になることとなるであろうことは推測された。明雲に責任を負わせることで生き残りを図った延暦寺も、明雲に対する処分が次から次に追加されていくのを目の当たりにしては明雲を捨てるなどできなくなる。五月一三日には延暦寺が再び武装デモを結集し京都へと向かい出すに至り、第一報を聞きつけた後白河法皇は左近衛大将平重盛に出動を命じ、京都では白山事件の再来かと緊張が走るまでになった。
延暦寺の側も、白山事件のときと同様に平重盛が軍勢を構えて待ち構えていると知ったことで、このままもう一度武装デモを派遣すると血を見る惨劇を招くのは明らかであることから、延暦寺は武装デモの派遣を断念することとなった。ただし、黙って処罰を受け入れたわけではない。五月一五日に延暦寺の僧綱が法住寺殿に参上して、座主配流の例は無いとして処分の再考を求めたが、後白河法皇は拒絶した。ここではじめて、延暦寺は後白河法皇の激しい怒りを知った。
安元三(一一七七)年五月二〇日、明法道からの回答が届いた。明雲を強制還俗させることは可能であり、その上で明雲の行動は謀叛の罪にあたるため死罪相当であるが、罪一等を減じて流罪とするのが適切であるとの回答である。これを踏まえ、明雲の罪名について議政官の場で検討が始まった。
平清盛が参議に就任したときにも記したが、参議の末席というのは議定において最初に発言する義務があり、その発言は議定の場の雰囲気を決定するため、キャリアを一つ一つ積み上げてきた年功者が務めることが多い。安元三(一一七七)年時点で参議の末席を務めている藤原長方はまだ三九歳であるが、任官からこれまで事務方としてのキャリアを着実に積み重ねてきたことが評価されての参議入りであり、また、参議となって以後も事務方の二番手である右大弁を兼任していることから、議政官における発言は理想よりも現実に則ったものとなることが多かった。この日の藤原長方の発言も明雲に対する刑罰の軽減を求めるものであった。
白山事件を突き詰めると、延暦寺からのデモ集団も、デモ集団に向かい合う者も、互いに自分たちを守ろうとするために相手に対して過剰に防衛してしまうことから争いに発展してしまったのであり、明雲はそもそも謀叛に該当しないというのが藤原長方の主張である。その上で、強制還俗は許されず、流罪とすることもできないと藤原長方は主張した。この藤原長方の主張は議政官の誰もが実感していながら口にできることではなかった。その口にできなかった言葉が会議の冒頭から飛び出したことから、議政官の空気は明雲に対する処罰の緩和に終始し、これ以上の明雲に対する処罰はすべきではないという結論を上奏した。
議政官からの上奏を聞いた後白河法皇はさらに激怒した。議政官の議決を白紙撤回した上で、独断で明雲に対する流罪を宣告したのである。流刑先は伊豆国。もっとも重い流刑先の一つである。明雲を伊豆へと連行するのは、伊豆国を知行国とする源頼政の責務とされた。
明雲に対する流罪判決に激高した延暦寺からは明雲奪還への動きが見られ、延暦寺の態度に激怒した後白河法皇は流罪判決を破棄して明雲を斬首せよとの命令を発した。しかし、後白河法皇の命令が届く前に源頼政に捕らえられた明雲は既に伊豆国へと向かって連行されていた。明雲が斬首とならずに伊豆へと連行されていることも後白河法皇は許せぬことであったが、この怒りをさらに加速させる知らせが安元三(一一七七)年五月二三日に届いた。延暦寺の僧徒が源頼政の軍勢を襲撃し、明雲を奪い返したのである。奪還にきた僧兵の軍勢はおよそ二〇〇〇名にも及んだという記録もあり、無茶に無茶を重ねても三〇〇騎しか集めることのできない源頼政に、二〇〇〇名からなる軍勢の襲撃を跳ね返す能力など無かった。
怒り心頭に発した後白河法皇は左近衛大将平重盛と右近衛大将平宗盛を呼び寄せ、平家の全兵力を結集させて比叡山を攻撃せよと命令するが、平重盛も、平宗盛も、朝廷の命令ならばともかく、後白河院の命令で平家の全軍勢を動かすことはできないとし、どうしても動かすというならば平清盛の許可が必要であるとして出動を拒否した。
後白河法皇は朝廷に対して軍勢出動を要請すると同時に、平清盛を京都に呼び寄せるように早馬を飛ばした。朝廷からの返信は、そもそも後白河法皇が処分を下す前にこれ以上の明雲に対する処罰はすべきではないという結論を上奏しており、再審議の結果もやはり、これ以上の明雲に対する処罰はすべきではなく、いかに後白河法皇からの要請であろうと軍勢出動は不可とするものでった。
後白河法皇ができたのは、源頼政へ譴責処分を下すことと、平清盛に上洛してもらい平家に対して軍勢出動を命じさせることだけであった。この時代の交通インフラと福原から京都までの距離を考えると、五月二三日の上洛命令に対し、上洛したのが五月二七日というのはかなり早いのだが、それでも後白河法皇は平清盛の遅さに文句を言い、その上で平家の全兵力を挙げて比叡山を襲撃するよう命令した。
平清盛は後白河法皇の命令を拒否しようとしたが、後白河法皇との決定的な対立を回避する必要性に加え、延暦寺に対する牽制もあるとの認識から、延暦寺襲撃を承諾。五月二九日には平安京内での武器携行禁止が再確認されると同時に、平安京の周辺での武器を持って歩く人に対する取り調べ、各国の国司に対する延暦寺ならびに延暦寺に関連する寺社の持つ荘園の没収、そして、近江国、越前国、美濃国の三ヶ国に対する域内の武士の動員命令が下された。
このままで行けば延暦寺襲撃は現実のものとなったであろう。
しかし、自体は想像だにしない方向へと進んでいく。
鹿ヶ谷(ししがたに)の陰謀がそれである。
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