鹿ヶ谷(ししがたに)の陰謀について、平家物語はそれがいつのことであったのか具体的な日時を記してはいない。確実に言えるのは、平重盛が左近衛大将に、平宗盛が右近衛大将に就任した安元三(一一七七)年一月二四日以降であることのみである。
現在の京都の地図でいうと、平安神宮の北を走る丸太町通りをまっすぐ東に行くと鹿ヶ谷通りと交差する丁字路にたどり着く。この丁字路の地点からさらに五分ほど歩くと俊寛僧都の山荘の跡地への行程を示す石碑にたどり着く。ただし、実際に俊寛僧都の山荘までたどり着くためにはここからさらに三〇分ほど歩かねばならない。
俊寛(しゅんかん)とは法勝寺で二番目の地位である執行の地位にある僧侶で、後白河法皇の側近の一人である。彼は平安京から少し離れた土地に山荘を構えていた。僧侶が山荘を構えていただけであるならばどうと言うことはないが、この山荘に多くの者が詰めかけ、その中に後白河法皇がいたとなると重要な話になる。そして、この山荘で話し合われたのが平家打倒の計画だとなると、冗談では済まされない話になる。
平家物語によると、この場にいたのは後白河法皇と俊寛僧都、西光法師、権大納言藤原成親、そして、亡き信西の六男である静憲法印、近江中将入道蓮浄、山城守中原基兼、式部大輔藤原雅綱、検非違使尉中原康頼、検非違使左衛門尉惟宗信房、検非違使左衛門尉平資行、多田蔵人行綱といった名が挙がっている。
ただし、静憲法印はこの場が平家打倒の謀議の場であったとは知らなかったようで、このような話をすると漏れ聞こえて天下の一大事になると警告した。その言葉を聞いた権大納言藤原成親は、悪くなった空気を鎮めようと、さっと立ち上がって余興の舞を披露しようとしたところ、瓶子(へいじ)を倒してしまった。瓶子とは壺の一種で、注ぎ口の部分が小さくなっている容器である。同じ「へいじ」で「甕」の漢字を充てることもあるが、甕(へいじ)は瓶子より注ぎ口が大きいという違いがある。瓶子はもっぱら酒宴において、現在の徳利(とっくり)のように酒を入れておく容器として使われることが多かった。
後白河法皇は「これはどうしたことか」と訊ねると、藤原成親は「へいじがたおれました」と答えた。瓶子と平氏を掛けたわけである。この答えに気分を良くした後白河法皇はこの場にいる者に猿楽を踊らせようとしたところ、中原康頼がふらついて「あまりにへいじが多いので酔ってしまいました」と答え、その様子を見た俊寛僧都が「さて、それをどうすれば良いか」と西光法師に相談すると、西光法師は「クビをとるのがよろしい」と瓶子の首を取って席に着いた。
以上が平家物語に記されているあらましである。
上品か下品かと言われれば下品である。仲間内で集まっての乱痴気騒ぎで、その場でときの有力者や政権を批判して盛り上がったとかならまだわかるが、それでもこれが本当に平家を打倒するという密会なのかと言いたくなる話だ。そのため、そもそもこんな山荘での密会があったのかが怪しいという話が当時から存在しており、最初から平家の捏造ではないかとする説すらあるほどだ。
この話が平家の元に届いたときの経緯はどの史料もだいたい一致しているが、日付は史料によって異なる。もっとも早い日付だと安元三(一一七七)年五月二九日、もっとも遅い日付だと安元三(一一七七)年六月一日、ただし、時刻はどの史料も夜遅くのことであると記録している。
夜遅く、多田蔵人行綱が平清盛のもとを訪問し、あまりにも重大なことであるために直接平清盛に伝えたいと言ってきたのだ。門番を務める武士は怪しく思いながらも訪問客が訪ねてきたことを平清盛に伝えると、平清盛はその者と会うとして出向いてきた。ただし、多田行綱の周囲は平家の武士が取り囲んでいる。
多田行綱から平清盛に対して、後白河院が武具を大量に集めて武士に動員を掛けているのはなぜか知っているかを尋ねると、平清盛は延暦寺への襲撃のためであると回答。だが、多田行綱の返答は違った。後白河法皇が平家打倒を目指して軍勢を結集させており、その主軸を担うのは藤原成親と自分であること、その他に多くの者が計画に加わっていること、しかし、そのような大それた計画に自分は賛同できない以上、計画を白紙撤回させるためにここに来たのだと多田行綱は答えた。
平清盛はただちに平家の一門に結集を命じた。夜が明ける前に右近衛大将平宗盛に加え、平知盛、平重衡、平行盛の計四名がそれぞれ軍勢を結集して、夜が明けると平安京の人たちは京都の通りという通りが平家の軍勢を闊歩しているのを目の当たりにした。
その一方で、通例であれば平清盛から呼ばれるであろう人が一人、この軍勢に加わらないでいた。平重盛である。平重盛の妻の藤原経子は藤原成親の妹であり、藤原成親の娘は平維盛の妻となっている。藤原成親を捕らえるべき軍勢に平重盛を加えることはできないとして招集がかからず、平重盛は朝になってはじめて自分以外の平家の軍勢が結集しているのを知ったのだ。
平安京の庶民の多くは、この軍勢が延暦寺に向かって進撃する軍勢なのだと考えたが、その考えは裏切られた。
平清盛から後白河法皇に対し、既に軍勢を結集していること、そして、俊寛僧都の山荘で話し合われたことを知っていると伝えた上で、これから関係者の捕縛を始めると宣告。平家の軍勢は延暦寺ではなく、多田行綱の伝えた参加者達の捕縛に走ることとなった。
最初に捕縛されたのは権大納言藤原成親である。ただし、藤原成親は自分が捕縛されるとは思っておらず、ただちに後白河法皇のもとに赴くよう促された。藤原成親は延暦寺への平家の軍勢派遣に際して何かあるのだろうと考え、牛車に乗って後白河法皇の元へと向かっていった。しかし、牛車の歩みが進めば進むほど周囲の様子はただならぬものとなっているのに気づかされた。武士の数がどんどんと増えているのだ。そして、牛車の行き先は後白河法皇のもとではなく平清盛の邸宅である六波羅の泉殿で、門をくぐってすぐに藤原成親は牛車から降ろされた。平清盛の邸宅の中にいた武士からは縛り上げるべきかと平清盛に問いかける声が出たが、御簾の後ろに控えている平清盛からはそのようなことはしてはならぬとの回答があり、藤原成親は泉殿の中の一室に閉じ込められた。
その後も、一人、また一人と、俊寛僧都の山荘の場にいた者を連行するようにとの指令が出た。
ただし、連行を免れた人が二人いる。
一人は多田行綱。平清盛に密告した後の軍勢終結の混乱で姿を隠すことに成功したようである。
そして二人目が、後白河法皇。
この、後白河法皇の捕縛において、平家の中で史実では無いであろうと考えられている一つの騒動が起こったとされている。
安元三(一一七七)年六月二日に起こった、史実ではないであろうと考えられている出来事とは以下の通りである。
平清盛は明らかに冷静さを失っていた。出家して僧体となっていながら、僧体の下には鎧に身を包んでいるのが見えていた。平清盛は今まさに後白河法皇を捕縛すべく軍勢を差し向けようとしていたのだ。
これに平重盛が立ちふさがった。平家の者が揃って武装して戦場へと出向く格好でいるのに、平重盛は貴族であることを示す直衣姿で平清盛の前に立ちはだかったのである。
もとからして、藤原成親と義兄弟であるために計画から外されていた平重盛である。武装して駆けつけるように求められていなかったと言えばその通りではあるのだが、この場に、鎧はおろかまともな武器も持たずに貴族としての平服で現れたのみならず、平清盛の前に立ちはだかったことは予想だにしなかった。
それでも平清盛は後白河法皇の捕縛のために軍勢を差し向けようとし、平重盛に退くよう命じるが、平重盛は後白河法皇を捕らえようなど許されないことであると訴えた。
ここで平重盛が言ったとされているのが、「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんとすれば欲すれば忠ならん」という言葉であるが、実はこの言葉、平家物語には出てこない。これもまた、「平家ニ非ズンバ人ニ非ズ」と同様に、江戸時代の頼山陽の記した日本外記以降にようやく登場する言葉である。頼山陽によると、平重盛はこのとき、父の恩義は山よりも高く、後白河法皇の恩義は海よりも深く、忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんとすれば欲すれば忠ならんと言い、かくなる上はこの平重盛の首を刎ねるよう平清盛に涙ながらに訴えたのだと言う。そうすれば、父の恩義にも後白河法皇の恩義にも背くことはないと言って。
ところが、これが平家物語になると、平重盛は涙ながらに短い言葉でズバっと訴えたのではなく、父に向かって長々と叱り飛ばしている。良く言えば切実な思いであるが、口の悪い人だと、ダラダラとよくもまあそこまで延々と喋り続けられるものだと、日本史上初のフィリバスターは平重盛なのかと言いたくなるであろう言葉の量である。涙をこらえながらというのは日本外記に似ていなくもないが、それでも全文を読んだところで「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんとすれば欲すれば忠ならん」とは言っておらず、親に背くより国に背くほうが大罪である以上、後白河法皇には向かってはならないと言っている。なお、平重盛が周囲の者に向かって、後白河法皇のもとに攻め込もうとするならば、その前に自分の首を刎ねてからにしろとは言っている。
さて、時代とともに平重盛の話す言葉が感動的になってきている六月二日のシーンであるが、どうも、後白河法皇の捕縛を目指す平清盛を平重盛が諫めるシーン自体が無かったのではないか、さらに言えば、そもそも平清盛が後白河法皇を捕縛しようとしたという話なんか存在しなかったのではないかとも考えられており、その証拠として、これもまた九条兼実の日記からであるが、後白河法皇のもとを平清盛が訪問したのは史実でも、そこで話し合われたのは今回の事件の後始末についてであり、「あの事件以後、出仕する人がやたら減っている」という後白河法皇の嘆きがあったことの記録しかないのだ。
ただし、平重盛が平清盛に対して刃向かったのは事実のようで、平家物語では平重盛が独自に武士を結集させたことで平清盛の後白河法皇捕縛を断念させたとあるが、そこまではいかなくても平重盛は何かしらの軍事行動をとったと思われる。その責任をとったのであろう、公卿補任に安元三(一一七七)年六月五日に平重盛が左近衛大将を辞任したことの記録が残っているのがその理由である。
さて、平家物語は平重盛を褒めちぎっている一方、平清盛をかなり悪し様に描いた作品でもある。しかし、平家物語の先入観を外して鹿ヶ谷の陰謀からの流れを見ると、老いたとは言え、武将としての平清盛もまだ健在であったのだと感じ取ることができる。そもそも鹿ヶ谷の陰謀が露見したときに平重盛に出動命令が出ていないのがおかしいという考えに立ち返ると、平清盛の選択が理解できるのだ。
藤原成親と義理の兄弟であるために出動命令が出さなかったという理由はあるが、平重盛の弟や甥は武装しているのに、平家の二番手を自認する平重盛は無視されているのだ。愚管抄にも、藤原成親が平清盛に連行されてきたときに、藤原成親が平重盛に挨拶したこと、藤原成親が平清盛のもとに連れて訊かれたあとで閉じ込められたときに、外に連れ出すことはできないが必ず助け出すと部屋越しに励ましたことの記録がある。愚管抄は後世の歴史書であるが、同時代記録である九条兼実の日記には、藤原成親が配流になる見込みであるだけでなく、配流の途中で殺害されるという噂が京都中に広まっており、平重盛が父に対して助命嘆願したこと、藤原成親の身柄を平重盛が引き受けると表明したことの記録が残っている。つまり、平重盛を最初から除外した上で平家の軍勢を集めている。
ここで思い出さなければならないのが二ヶ月前の出来事である。比叡山延暦寺の僧兵が神輿を奉じて入京したとき、平重盛は何をしたか。神輿に矢を放ち、逃げた僧兵を追いかけて次々と切りつけたのである。延暦寺の僧兵にとって平重盛は恐ろしき武将との認識がまず存在していた。
そして、平家の軍勢が比叡山を討つために軍勢を集めているとの情報が入った。こうなると延暦寺としても警戒をしないわけにはいかない。ところがここで、平重盛が軍勢にいないとなると話が変わる。延暦寺にとってもっとも恐ろしい存在である平重盛が不在である軍勢の存在など信じられなかったようで、延暦寺はただちに京都の情報を取り寄せている。
その結果、延暦寺は一つの決断を示した。延暦寺から平家に対して支援を公表したのである。もともと平清盛率いる平家の軍勢と対決する想定であったのが、平家の軍勢の向かう先が比叡山延暦寺ではなく平安京内であり、後白河法皇とともに平家打倒を計画した者が逮捕されていること、また、平重盛がいない平家の軍勢であることから、平家の軍勢は延暦寺の僧兵と共同戦線を組むことが可能であると考え、平家に援軍に出ると申し出てきたのである。
平清盛は延暦寺からの援軍に回答を示さなかったが、少なくとも平家の軍勢が延暦寺と真正面からぶつかる事態を避けることができた。これこそが平重盛を外したことの功績である。延暦寺がいないだけで平家の軍事行動は劇的に軽くなる。平重盛の不在は痛いが、その痛みと延暦寺との正面衝突とを比べれば、平重盛が不在であることのほうがまだマシである。
西光が捕らえられたのは、平重盛が左近衛大将を辞任する二日前の安元三(一一七七)年六月三日であるとも、さらにその二日前の六月一日のことであるとも言う。その違いは、以下に記す出来事が事実であるとして、一日で完結した出来事か、三日間に渡って繰り広げられた出来事であるかの違いである。
平家物語によると、西光が捕らえられたときの情景は以下の通りであったという。
西光は急いで馬に乗り後白河法皇のもとに駆けつけようとしたが、その途中で平家の武士に捕まった。一緒に平清盛の邸宅に来るよう武士に言われた西光は、「まず院に奏上すべきことがある。そのあとにしてくれ」と武士に言ったが、武士は西光を馬から引きずり下ろし、強引に平清盛の邸宅へと連行していった。
これまでは御簾の後ろから指示するだけであった平清盛は、ここではじめて表に出て西光と対面した。
平清盛は西光に対し、卑しい生まれのくせに後白河法皇に取り入り、分不相応な官職に親子揃って就き、天台座主を流罪にさせようとし、平家を滅ぼそうなどと計画したこと、それは間違いないかと訊ねた。ただし、向かい合って訊ねたのではない。縄で縛られた西光を蹴り飛ばし、地面に倒れ込んだ西光の顔を踏みつけながら訊ねたのである。
西光も負けてはいない。平清盛に対し、一四歳、一五歳まで出仕できない生まれで、仕方なしに藤原家成のもとに出入りしているのを高平太と笑われ、海賊を捕まえて恩賞を得たら分不相応と笑われ、嫌われまくったくせに殿上人になり、それが気づけば太政大臣。せいぜい検非違使か国司で人生が終わる程度の生まれの人間のくせに分不相応ではないのかと反論した。
平清盛は激怒のあまり何も言い返せず、しばらくして西光を縛り付けたままにしておくよう命じたあと、容赦ない拷問を加えた。全ては平清盛の求める自白を得るためである。平清盛への悪態も拷問に次ぐ拷問のあとでは続けることができず、平清盛の求める自白を全て終えたあと、口を引き裂かれた末に五条西朱雀で斬首された。
これが平家物語における西光捕縛の様子である。ただし、六月一日なのか六月三日なのかはわからない。わかっているのは、西光の斬首が六月三日だということだけ。
安元三(一一七七)年六月四日、西光の自供に基づいて、法勝寺執行俊寛僧都、近江中将入道蓮浄、山城守中原基兼、検非違使左衛門尉惟宗信房、検非違使左衛門尉平資行、検非違使尉中原康頼といった事前に多田行綱が述べていた面々に加え、基仲法師、検非違使尉平資行らが逮捕された。その一方、平重盛が左近衛大将を辞任した六月五日に、前天台座主明雲(みょううん)に対する召還命令が下った。明雲に対する処罰の白紙撤回がここに決まったのである。
処罰が取り消しとなった前天台座主明雲とは反対に、西光の関係者に対する処罰は苛烈を極めた。
西光の子で尾張国に配流になっていた前加賀守藤原師高は平清盛からの命令として配流先で殺された。弓矢で射殺されたのだという。
牢に入れられていた藤原師経は牢から引きずり出されて六条河原で斬首された。
西光の子であるが白山事件には関わってこなかった藤原師平と彼に仕える三人の郎等も連座として首を切られた。
殺害されなくとも流罪からは免れることができなかった。
権大納言藤原成親は、権大納言を罷免となった上で備前国への配流となった。
近江中将入道蓮浄は佐渡国への配流となった。
山城守中原基兼は伯耆国への配流となった。
検非違使左衛門尉平資行は美作国への配流となった。
鹿ヶ谷の陰謀に直接かかわったわけではないが、藤原成親の子であるという理由で藤原成経は、俊寛僧都、平康頼とともに薩摩国鬼界ヶ島への配流と決まった。なお、源平盛衰記だと三人は元々別々の島へ流されていたのが一つの島に集まるようになったのだという。
この鬼界ヶ島であるが、実は薩摩国のどこなのか未だにわからない。この時代、鬼界ヶ島より南にも日本が続き日本語の通じる島々があることは知られていたが、朝廷の統治の及ぶ地域の南限は鬼界ヶ島であるという認識があった。これまで死刑に次ぐ最高刑は、佐渡国、隠岐国、そして伊豆諸島への島流しを前提とした伊豆国への配流であったが、ここにきて、薩摩国鬼界ヶ島への配流という前代未聞の刑罰が誕生したのである。これ以前にも鬼界ヶ島への配流があったらしいが、貴族や、貴族と同等の地位を手にしている僧侶の配流先として鬼界ヶ島が登場したことは多くの人にとって衝撃であった。
それにしても、事件の首謀者の一人ともするべき権大納言藤原成親は備前国への配流なのに対し、父が首謀者であるだけの藤原成経が鬼界ヶ島への配流というのは判決として異常ではないかと感じるかも知れないが、藤原成親が備前国で迎える運命を考えると鬼界ヶ島への配流のほうがまだマシであることがわかる。
藤原成親が配流先の備前国で四〇歳の生涯を終えたのだ。病気になったのではなく、餓死であるとも、崖の上から突き落とされての事故死であったとも言う。死因については特定できないが、藤原成親が備前国への配流に留まったのは、さほどの重い罪でないと判断したからではなく、流刑先での死を強要するためであったのだ。なお、朝廷の公式記録には藤原成親の詳細な死因について記録に残っていない。安元三(一一七七)年七月一三日に亡くなったことと、その前に出家していたことが記されているのみである。
これにより鹿ヶ谷の陰謀事件は全て終わった。
保元の乱から二一年、保元の乱の敗者として讃岐に配流となり、長寛二(一一六四)年に讃岐の地で亡くなった崇徳上皇の怨霊伝説についての記録がはじめて登場した。
安元三(一一七七)年八月三日に、延暦寺の強訴、安元の大火、そして鹿ケ谷の陰謀といった大事件が勃発しているのは崇徳上皇の怨念によるものではないかととの言説が流れ、この日、それまで「讃岐院」であった院号が「崇徳院」に改められたのである。歴史学において、崇徳天皇、あるいは崇徳上皇と記すのもこの日の院号改定によるものであり、安元三(一一七七)年より前の史料に崇徳院の記載があるとすれば、それは後世の創作や後世の書き換えである。
個人の記録としては、前年に、建春門院平滋子、高松院姝子内親王、六条上皇、九条院藤原呈子と立て続けに亡くなったときに崇徳上皇と藤原頼長の怨霊によるものではないかとする日記の記述があるが、朝廷の公式見解として崇徳上皇に対して何らかのアクションを起こしたのは安元三(一一七七)年八月三日が最初である。
怨霊伝説について面白いというのは語弊があるが、それでもあえて言うとすれば、このあたりが当時の人の認識を反映していて面白い光景が見られる。このときの朝廷の公的見解としては崇徳上皇と藤原頼長の二人が怨霊となっていることが近年の政情不安の理由であるというものであり、崇徳上皇への院号を改めると同時に藤原頼長には正一位の位階と太政大臣の官職が追贈するという対処をしたのである。また、保元の乱における崇徳上皇と藤原頼長に関する宣命を焼き捨てさせたことで、保元の乱における崇徳上皇と藤原頼長に関する公的記録を無かったことにするのがこのときの朝廷の判断であった。つまり、崇徳上皇だけで無く藤原頼長も怨霊と認め、怨霊を鎮めようとした様子が見てとれる。
ところが、藤原頼長の怨霊伝説が全く生まれなかった。崇徳上皇の怨霊は恐れられながら、藤原頼長は相変わらず罵倒され続け、怨霊と認めること自体が無かったのだ。
さらに翌八月四日には、政情不安に対処するために治承に改元すると決まった。さらに八月二二日には、後白河法皇が、実兄である崇徳上皇の霊を慰撫するためとして、崇徳天皇の御願寺である成勝寺に赴いて御八講を修した。
こうした朝廷の動きは意外な効果をもたらした。
これまでの政情不安が嘘であるかのように、改元以降のこの年の政情がかなり安定してきたのである。しいて挙げるとすれば一〇月二七日に地震が発生して東大寺の大鐘が振り落とされるという事件が起こったが、事件らしい事件としてはこれだけである。
水面下では問題が潜んでいたが。
鹿ヶ谷の陰謀に対する捕縛の過程で内大臣平重盛が左近衛大将を辞任してからおよそ半年に渡って左近衛大将が不在であるという状況が続いていた。
この状況を打破する必要は誰もが考えていた。
純然たる武力だけを考えるなら内大臣平重盛が左近衛大将に復帰することが最良であったが、左右の近衛大将を平家が占めていることが鹿ヶ谷の陰謀の原因の一つとなったのだから、平重盛の復帰はあり得ない。
通例では右近衛大将が左近衛大将にスライドし、右近衛大将より下の官職の貴族が右近衛大将に就くところであるが、右近衛大将平宗盛は権中納言である。左右の近衛大将は権大納言以上の官職の貴族が兼職とするのが慣例であるため、慣例と通例とで食い違いが起こる。
慣例と通例の食い違いを正すとすれば、右近衛大将平宗盛を大納言以上の官職とさせた上で左近衛大将とし、平宗盛より下の職位の貴族を右近衛大将とするところであるが、平宗盛を権大納言以上の職位とするには、既に権大納言以上の職位の貴族が詰まっていて平宗盛を昇格させる余地が無い。
妥協案として示されたのが、大納言筆頭である徳大寺実定を左近衛大将に就任させることである。永万元(一一六五)年八月一七日に平清盛が権大納言に昇格させるために権大納言を辞職させられた徳大寺実定は、かつては二七歳の若き権大納言であったのが、一二年間のブランクを強要され、間もなく四〇歳になろうかという中堅の年齢になっていたにもかかわらず年齢相応のキャリアを積むことができずにいた。それでも大納言筆頭として左大臣と右大臣の二人に何かあったときは徳大寺実定が議政官を仕切るまでになっていたが、やはり一二年間の空白はあまりにも大きかった。
その償いとしても、また、四〇歳以降のキャリアプランを考えても、徳大寺実定を左近衛大将とするのは不合理では無かった。ただ一点を除いて。
徳大寺実定に武官としての才能が無い。全く無い。
平重盛が左近衛大将であるがゆえに抑え込むことに成功していた寺社勢力、特に比叡山延暦寺の僧兵達を考えると、徳大寺実定を左近衛大将とするのは頼りなく感じることでもあった。
間もなく年が変わろうかという治承元(一一七七)年一二月二七日、大納言筆頭徳大寺藤原実定が左大将に任じられた。これだけであれば、前任者との能力差と、朝廷の武力発動に関する懸念を生じさせたが、その懸念を埋める策は年明け早々に展開された。
新年間もない治承二(一一七八)年一月四日、権中納言兼右近衛大将平宗盛が従二位から正二位へ昇叙したのである。権中納言は九名いる。その中の誰一人として正二位はいない。従二位が五名で正三位が四名である、ここでただ一人の正二位の権中納言が誕生すれば、平宗盛は権中納言の中で一つ抜きんでた存在になる。
平宗盛が権中納言の中で一人だけ抜きんでた存在になったことは一月二〇日に生きることとなった。この日、延暦寺衆徒の蜂起が懸念されたことを伝えるため、右近衛大将として平宗盛が福原へ下向し、平家の武力の出動をちらつかせたのである。それだけで比叡山延暦寺の動きは止まった。
治承二(一一七八)年時点で高倉天皇は一八歳である。数えだから一八歳であり、現在の学齢にすると高校一年生である。この年齢での結婚など現在の日本の法律では許されないが、一〇歳になる前に結婚することも珍しくなかったこの時代、高倉天皇が結婚生活八年目に突入したと言っても誰も怪訝な顔をしない。
ただし、怪訝は無くとも懸念はあった。八年目になるというのに中宮平徳子に出産も妊娠の兆候も見られないのだ。
高倉天皇は既に二児の父になっていた。側室の女性に二年前に産ませた功子内親王と、同じく側室の女性に昨年産ませた範子内親王の二人の女児である。
男児がまだ生まれていないことも問題であったし、正室たる中宮平徳子との間に子供がいないことも問題視されていた。平清盛は娘に早く天皇の子をもうけるよう促しているが、こればかりは促そうが何しようがどうにかできるものではない。
平徳子に子が生まれないことも崇徳上皇の怨霊のせいにする向きも見られたし、延暦寺に対する極悪非道の仕打ちの因果が平徳子に降り注いだのだとする言説まで飛び出した。特に後者の言説は内大臣平重盛に重くのしかかったようで、平重盛は二月一日に内大臣の辞表を出したほどである。辞表は保留となったが平重盛はしばらく宮中から姿を消すこととなる。
このタイミングで平重盛が宮中から姿を消したことについて、平家内部における平重盛の地位の相対的低下があったからだとする説もあり、その考えも理解できる。だが、もう一点考えなければならないことがある。
平重盛は体調をかなり悪化させていたのではないかという点である。何しろ、腹痛を訴え、吐き気をもよおし、血を吐くことすらあったというのだから、これで日常の政務を執れたとしたらそのほうがおかしい。現代医学であれば、勤務どころか自宅での安静を命じるか、あるいは、入院して治療させているところであろう。
病名は、ストレス性胃潰瘍。ストレスで胃が痛くなるという比喩表現があるが、ストレスが溜まると本当に胃痛を起こす。ストレスは簡単に胃粘膜のバランスを崩し、胃壁を破壊するからであり、そのせいで吐き気と吐血をもよおすこともある。現在でもこれらの症状を訴えて病院に担ぎ込まれる人は多い。
ただでさえ暴走しがちな後白河法皇と平清盛を自分で制御し続けなければならないと考え、京都の治安維持も一手に引き受けているのは自分であると考え、延暦寺にも立ち向かわなければならないと考え、鹿ヶ谷の陰謀事件における平家の出動では無視された。何とか半年経って落ち着いてきたと思ったら、今度は自分が延暦寺に弓矢を向けたことの因果が原因で妹が妊娠も出産もしないと言われる。ここまでされてストレスが溜まらない人間がいたら見てみたい。
平重盛の内大臣辞任についてはいったん留保となったが、平重盛は相変わらず宮中に姿を見せずにいる。内大臣であるから不在でも政務が進むし、鹿ヶ谷の陰謀事件が平重盛の軍勢指揮無しに終わったことも、内大臣平重盛不在を受け入れる朝廷が成立しつつあることを示していた。
ただし、生真面目で融通が利かず、自らの考える正義のためには容赦しないという欠点はあるものの、基本的には人格者で、終始冷静であり、政治家としての能力も高く、人望も厚い平重盛が不在であることのデメリットは次第に顕在化してきた。
大納言徳大寺実定はごく普通の大納言であり、左大臣も右大臣も不在であるときに議政官を取り仕切る能力ならばあることは証明されたが、その能力が発揮されるのは平時の政務に限った話であり、異例事態となると多くの貴族と同様に動転を隠せないでいた。具体的には、大納言としての職務を果たすことはできても左近衛大将としての職務を果たすことはできないでいた。
その穴を埋めるためか、治承二(一一七八)年四月五日に平宗盛が中納言を飛ばしていきなり権大納言に就任したが、それとて、平重盛不在の穴を埋めるには値しなかった。
平重盛がいるならば、そう痛感させられる出来事が起こったのが治承二(一一七八)年四月八日、すなわち、平宗盛が権大納言に昇格してからわずか四日後のことである。
治承二(一一七八)年四月八日に起こったのは何か?
延暦寺から大勢の僧兵が詰めかけ、また、鞍馬寺からも少なくとも二〇〇名の僧が集まって風早禅師の房舎を襲撃したのである。風早禅師の房舎があったのは大谷というから、鴨川を渡った京都の東、現在で言う祇園花月から円山公園にかけての辺りである。ここにある房舎にいきなり襲撃を掛けた理由は何か、風早禅師が何をしたのかはわからない。数少ない記録によると風早禅師は堀川左大臣こと源俊房の子であるとされており、また、その真の名は不明であると記されているので、源俊房の子であることが事実ならば、父とされる源俊房の没年が保安二(一一二一)年であること、そして風早禅師という尊称が与えられていることから、既に亡くなっている僧侶が生前に宿坊としていた房舎を襲撃したことが推測される。禅師とは、禅宗に限らず、多くの宗派において高徳な僧侶に対する尊称として用いられている語である。厳しい山林修業をこなしたり、医学に長けていて多くの人を救ったりしたならば生前にも与えられるが、そのような特別な評価が存在しないならば死後の敬称として用いられる。
この襲撃そのものは充分にニュースであるが、平安京の目と鼻の先のところで数百人レベルの集団が襲撃を掛けたにもかかわらず朝廷が何もしなかったことがさらなるニュースとなった。
そして多くの人が考えた。やはり平重盛が必要である、と。
僧兵達の襲撃のほうがまだマシと言いたくなる大事件が治承二(一一七八)年四月二四日に発生した。
通称、「次郎焼亡」。歴史用語では治承の大火という。この日の夜、七条北東洞院東より発生した火災は七条から八条に至る一帯、すなわち平安京内における庶民街を焼き尽くしたのだ。
前年の「太郎焼亡」こと安元の大火の被害に遭わなかった地域を狙ったかのように燃え広がった火災は、範囲こそ狭いが当時の人口密集地帯を狙ったかのような火災であり、被災人口は前年の安元の大火を上回るほどであったと推測されている。そして、この時代の人たちはこのときの大火を「次郎焼亡」、前年の大火を「太郎焼亡」と呼ぶようになった。次郎焼亡があったから前年の大火が太郎焼亡と呼ばれるようになったのであり、さすがに安元年間の史料に太郎焼亡などという記載は無い。第二次大戦が始まる前に第一次世界大戦などという歴史用語が存在しなかったのと一緒である。
ただ、この治承の大火に関する記録は乏しい。特に、鴨長明が記録に残してくれていないのが痛い。
それにしても、なぜこの二年連続の大火を、当時の人は「太郎焼亡」「次郎焼亡」などと呼んだのか。
これについて谷口廣之氏は、京都の地形がもたらす当時の人たちの宗教観に答えを求めている。平安京は東、北、西を山に囲まれた都市として計画され、桓武天皇の設計時点から平安京内に寺院を建立しないことを原則としてきた歴史を持っている。その代わりと言うべきか、平安京を取り囲む山々には数多くの神社仏閣が建立されてきており、平安京に住む人々は日常生活においてどうあがいても山を意識しなければならず、山を意識することが山々に建立されている神社仏閣を意識することとイコールになる。
当時の人たちが意識する山は主に京都の東にある比叡山のことであったが、京都の北西にある愛宕山も意識することがあった。特に愛宕山には天狗がいるとされ、その天狗を太郎坊天狗と呼んでいたとされている。
そして、この二年連続の大火、それも、双方とも東から西に向かって広がっていった大火を比べたとき、安元の大火は愛宕山に向かって広がっていったから太郎焼亡と呼ぶようになったのではないかとしている。ただし、谷口廣之氏は治承の大火が次郎坊天狗の住む比叡山を由来とするとしているが、前年の大火が太郎焼亡だから、今年のは次郎焼亡を呼ぶようになったのではないかという、単純なノリではないかと筆者は考えている。身に降り注いだ不幸を笑い飛ばすのも庶民の生きる知恵の一つだから。
嘆きたくなる出来事の連発してきた中、治承二(一一七八)年五月二四日、それまでの嘆きを一変する慶事が発表になった。
中宮平徳子、懐妊。
このニュースは瞬く間に京都中に広まり、さらに、福原にもただちに伝わった。待ち望んでいた慶事に平清盛は喜びを隠せなかったようで、いつもであれば福原に留まってなかなか上洛せずにいる平清盛が六月二日には上洛したかと思えば、六月一七日には厳島神社に中宮御産平癒の奉幣を遣わし、まだ産まれていないのに、さらにはお腹の子が男児であると決まってもいないのに、平宗盛の正室である平清子を中宮平徳子の産むことになる男児の乳母とすると決めたほどである。
また、内大臣の辞任を公表していた平重盛も、妹の妊娠を祝すとして辞表を取り下げて内大臣に復帰した。なお、平重盛の体調はまだ回復しておらず、かなり無理をしての参内であった。
この懐妊で救われた人が二人いた。もっとも、救われたのは三人のうち二人であり、残る一人にとっては地獄の始まりであったが。
治承二(一一七八)年七月三日、中宮徳子御産祈願による大赦が行われ、平康頼と藤原成経の二人が鬼界ヶ島から召還することとなった。
平家物語はこの様子を劇的に伝える。
鬼界ヶ島で島流しの生活を過ごしていたのは平康頼と藤原成経、そしてもう一人俊寛僧都もいたのだ。
鬼界ヶ島に到着した赦免の使者の書状のどこにも「俊寛」いう文字は無く、書状の中身を信じられない俊寛は、書状の本文ではなく、書状を包んだ紙である礼紙に自分の文字があるだろうと礼紙を手にするも礼紙に俊寛の文字は無く、書状の端から端まで読んでも、書状を裏返しても、俊寛の文字は無く、ただ平康頼と藤原成経の二人の名しか無かったのだ。鹿ヶ谷の陰謀の舞台となったのは俊寛僧都の山荘であり、事件の共犯は罪を許しても、主犯の一人と考えた俊寛僧都を許すつもりは無かったのである。
せめて九州まででも同船させてくれと頼み込むも断られ、自分がこんな目に遭ったのはお前の父親のせいではないかと藤原成経に怒鳴り散らすも、平清盛のもとに赴いて俊寛を許して貰うように頼むから少し待ってくれと言い、俊寛を鬼界ヶ島に置き去りにして船を出航させた。
島に取り残された俊寛は、最後まで船にしがみつき、船にしがみつく指を引きはがされても親を追いかける幼児かのように地団太を踏んで船を追いかけようとし、船に追いつけなくなると鬼界ヶ島の山に登って船に向かって叫び続けていた。
平清盛の俊寛に対する仕打ちをほほえましく見る人などいない。
多くの人が何か起こるのでは無いかと考え、実際に起こったのを目の当たりにして恐れおののいた。
治承二(一一七八)年七月一〇日、正室である平清子の病気を理由に平宗盛が右近衛大将を辞任。中宮平徳子の産む男児の乳母に内定している女性の身に何かあったとき、乳母の夫が何かしらの自粛をするのは通例であるとは言え、これは痛事である。
さらに痛事となったのが、七月一六日に平清子が亡くなったことである。三三歳での死であった。誕生予定の中宮徳子の皇子の乳母に内定していた女性の身に起こった不幸に、慶事は暗雲へと一転した。
不幸が起こったのは平清子だけではない。権大納言藤原隆季も治承二(一一七八)年七月二四日に娘の死を理由に中宮大夫を辞任したのである。二日後、平滋子の兄でもある平時忠が後任の中宮大夫に就任したが、やむなくの就任というイメージが強かった。
この事態に慌てふためいたのは、平清盛ではなく、後白河法皇であった。
八月一〇日より四天王寺に籠もること一二日間、九月二〇日より石清水八幡宮に籠もること一〇日間、とにかく神仏頼みの日々であった。なお、この頃の平清盛についての動静は乏しいが、娘の出産について考え得る最高の環境を用意したことは判明している。六波羅での自分の住まいである泉殿を娘の産所として提供したのである。衛生状態が現在と比べものにならない劣悪な時代にあって、現在でも対応しうる衛生状態である数少ない建物である泉殿は、この時代の出産場所として最良の場所であった。
限界まで追い詰められている世相において、中宮平徳子の出産だけが希望であり、無事に出産すること、そして、生まれてくる子が男児であることを願う動きが日本各地で見られるようになった。
神仏頼みの後白河法皇が、神仏頼みではなく六波羅の泉殿に直接足を運ぶのが珍しくなくなり、後白河天皇の第二皇子である守覚法親王を泉殿に派遣して、中宮平徳子が無事に出産すること、産まれてくる子が皇子であることを祈るために孔雀法を修法させもした。中宮平徳子に向けて経を読むのは守覚法親王だけでなく、後白河法皇自身も経を読み上げた。もっとも、後白河法皇自身は出家した僧侶であるのだから経典を読み上げることは僧侶として何らおかしなことではないと言えばその通りではあるが。
こうした祈りが届いたのか、治承二(一一七八)年一一月一二日、中宮徳子が無事に男児を出産した。後の安徳天皇の生誕である。平宗盛の正室である平清子が予定されていた乳母については、あまりにも早すぎる乳母の内定は良くないこととする思いがあったのか、皇子の生誕ののちに平時忠の妻である藤原領子が乳母に任命された。
中宮平徳子が次期天皇たる男児を産んだ。これだけであれば純然たる慶事として喜べたが、その後の平清盛の動きを追いかけると、果たして慶事として喜べるであろうかという感想を抱く。
治承二(一一七八)年一一月一六日に福原に戻り、一一月二八日に再び上洛した。ここまではまだいい。一二月二日に、妻の病気と死を理由に辞任していた右近衛大将の地位に平宗盛が復帰した。ここも問題ない。
ところが、福原に戻ってアイデアを練り、平宗盛を右近衛大将に復帰させてまで公表したアイデアを見ると、果たして平清盛は正気であったのか疑いたくなる。
アイデアを聞かされたのは後白河法皇であり、後白河法皇は慌てて九条兼実を呼び出し、関白松殿基房と協議するよう命じた。
平清盛から伝えられたアイデアは、生誕から一ヶ月も経っていない皇子を皇太子にするというアイデアである。これを聞かされた松殿基房は、ムチャクチャなアイデアだと考えたものの、調べてみると先例があったことに気づかされた。
生後一年も経たずに皇太子になった例は清和天皇と鳥羽天皇の二例がある。一方、生後一年以上三年未満に皇太子となった例は、醍醐天皇の第二皇子で醍醐天皇の皇太子であった保明親王、保明親王の子で同じく醍醐天皇の皇太子であった慶頼親王、そして、後三条天皇の第二皇子で白河天皇の皇太弟であった実仁親王の三例がある。そして三例は全て、即位前に亡くなっている。生後一年未満での立太子が過去二例あるのだから今回も問題ないであろうというのが平清盛のアイデアであり、松殿基房も否定しようのない先例に基づいたアイデアであった。
治承二(一一七八)年一二月八日、中宮平徳子の産んだ男児に親王宣旨が下され言仁と命名された。同日、平宗盛が言仁親王勅使別当に補任。
それから七日後の治承二(一一七八)年一二月一五日、言仁親王立太子。これが異例尽くの立太子であった。生誕の地であることを差し引いても六波羅で挙行されたのも異例なら、その周囲を固めた面々の構成も異例だ。皇太子の後見人で教育係でもある東宮傅(とうぐうのふ)に左大臣藤原経宗が就任したのはいいとして、春宮大夫に権大納言平宗盛、春宮権大夫に権中納言花山院兼雅、春宮亮に平重衡、春宮権亮に平維盛と、後白河法皇の近臣は排除され、平家一門と平家に近しい貴族で固めたのである。高倉天皇が皇太子であった頃の構成も今回に近いものがあったが、高倉天皇のときよりも露骨だ。一つ一つは通例であるが積み上げてみると異例になっているという、藤原摂関政治の開始時にも、院政の開始時にも見られたことが、ここでも起こったのだ。
平清盛はどうやら、自分に興味の無いことは完全に思考から消してしまう性質であったようである。俊寛僧都を鬼界ヶ島に放置したこと、源頼朝が暴れ始めていることの報告を無視していること、平清盛を権大納言に就かせるために現役の権大納言である徳大寺実定を辞任させ一二年も放置したことがその例である。
これは平清盛に限ったことでは無いが、「自分はこんなに苦労しているのに」とどんなに考えていても、苦労している様子が目に見えないという理由で完全に放置されることはある。これは危険である。苦労している人を放置するのは苦労してきた人生を完全否定し、その人の意欲を削いで自暴自棄へと陥らせる。ならば、苦労を認めて苦労に対する償いをすれば良いのかというと、それは正しいのだが、解決方法が問題になることもある。
清和源氏の一族である源頼政はもう七四歳になっていた。公卿として見なされるのは従三位以上の位階を得るか、参議以上の役職に就いてからである。正四位上が意味を持たなくなってきていることもあり、正四位下の一つ上は従三位。参議に推挙されたことのない源頼政にとっては、従三位の位階を得ることが自身の栄達であったのだが、仁安二(一一六七)年に正四位下にまで位階を進めてから一三年に亘って源頼政はずっと正四位下であり、完全に忘れ去られていたのだ。
毎年、今年こそ、今年こそと願うものの、従三位の中に自分の名は無い。
平治の乱で源義朝を裏切ってまで京都に残り自分の未来を切り開いたのに、懸命になっても三〇〇騎の兵しか集めることができず、天台座主の明雲の連行は失敗し、自身と自身の子孫の武士としての未来に絶望してきた源頼政であるが、貴族としてならばどうにかなる可能性があった。そして、従三位になれば未来が切り開けるはずであった。と言うより、それしか無かったのだ。
治承二(一一七八)年一二月二四日、源頼政が念願の従三位に昇叙した。平清盛が後白河法皇に推挙したことが昇叙の決め手となっており、その推挙の文面も残っている。源氏は平氏ともに日本国を守る役割を担っているが、我々平氏は勲功により朝恩が一族に行き渡っているのに。源氏の勇士は逆賊となり罰を受けている。だが、源頼政だけが正しき道を歩み、勇名を世に轟かせている。源頼政は既に七〇歳を過ぎ重い病にも伏せているので紫綬の恩を授けて欲しいというのが平清盛からの推挙の文面であり、後白河法皇は平清盛からの推挙を受けて源頼政に従三位の位階を与えた。
本来であればこれで大願叶ったと喜ぶべきところであろう。
だが、源頼政は全く喜べなかった。
名目こそこれまでの功績が認められての従三位への昇叙であるが、そのきっかけは今年もまた昇叙できなかったのかという和歌を源頼政が詠んだのを平清盛が聞きつけたからであり、推挙の文面もこれまでの功績だけでなく既に老いた身であるから特別な配慮を願うという文面である。
これまでの苦労はいったい何だったのか。
苦労を評価する意味での従三位なら手放しで喜べたし、平清盛への感謝の気持ちだっけ持てた。
それが、和歌を知るまで思い出すこともなく、和歌を聞いてはじめて源頼政の位階を思い出し、「忘れていた」という理由で慌ててそれっぽい文面を記して、老いた身であることを協調させた上で従三位へと昇叙させた。
それまでの苦労は完全に無駄だったのだ。
清和源氏の最高位は正四位下であり、源頼政はこれまで平家に仕えてきてくれたから特例として従三位に昇叙させたという後付けの理由が公表されたが、そのような理由など折れた心を立て直すのに何の役にも立たなかった。
源頼政もそうだが、苦労が報われずに心が折れた人が多い。
前年、平重盛が内大臣を辞めたのはストレス性の胃潰瘍と推測される体調悪化である。これもまたストレスが積み重なった結果であると言える。
そしてもう一人、苦労が報われずに心が折れた人がいる。
権大納言平宗盛だ。治承三(一一七九)年二月二六日、平宗盛が権大納言と右近衛大将の双方の役職の辞職を申し出たのだ。前年に妻を亡くしたことで心を病んでいたところに加え、平重盛が一時的に内大臣を辞任したことで、それまで平重盛が一手に引き受けてきた平清盛と後白河法皇との仲立ちを平宗盛が引き受けることとなった。
これが心労を積み重ねるものであった。
平清盛と後白河法皇との間で意見の一致を見るのは皇太子言仁親王についてだけであり、人事でも、経済政策でも、延暦寺対策でも、この二者の間は激しい対立関係を呼び起こすようになっていた。
平宗盛は平家の一員である。平家の一員として平清盛に従う義務がある。平重盛のように父に向かって叱りつけるだけの度量もない平宗盛は、父の言葉にただ従うだけであった。
平宗盛は権大納言である。朝廷に仕える貴族の一員として朝廷の命令に従う義務がある。平重盛のように議政官で圧倒的存在感を示し、いざとなれば武力発動にも乗り出すという度量もない平宗盛は、朝廷の命令にただ従うだけであった。
自分の意見を持たないのかと思うかも知れないが、自分の意見を持たないのではなく、意見を持っても表明することが許される環境ではないのだ。良くも悪くも一枚岩であるという平家の構造が、ここに来て一枚岩であることがデメリットとなったのだ。これまでであれば平清盛に従って行動していればどうにかなったが、今はもう、平清盛がアンタッチャブルな存在になってしまったことに加えて、これまで平清盛を多少なりとも制御できていた平重盛はいないも同然である。
おまけに平清盛は福原にいる。いかに福原と京都はある程度近いとは言え、鉄道や自動車で移動できる現在と違い、ネットで情報のやりとりができる現在と違い、この時代の交通通信事情では一日や二日のタイムラグで済む近さではない。つまり、平清盛からの指示は常に数日遅れの指示になっている。「京都でこういう問題が起こりましたがいかが致しましょうか」と福原に問い合わせて、返事が来る前に問題が解決していたり、そもそも状況が変化していて平清盛からの指示ではむしろ事態が悪化したりするというケースまである。かといって、平清盛の指示に従わないと平清盛は激怒する。ならば問題が起こったときに平清盛に情報を届けないでいてやり過ごそうとすれば良いと思うかも知れないが、それはそれで平清盛は激怒する。
そうでなくとも平清盛は怒りに任せるところがあり、しかも残酷な性格だ。生まれつきというか、若い頃からそうだったがというか、以前であれば制御する人がいたのだが、年齢と出世に伴い制御できる人がいなくなり、平清盛の暴走をただ一人止めうる人であった平重盛の不在は、平家の面々が、特に、平重盛が席を外している状況下では平宗盛が、平清盛の怒りに直面させられることとなる。
平宗盛に掛かっているプレッシャーは相当なものであるのは目に見えていて、周囲の人はどうにかしなければならないと考えたようで、治承三(一一七九)年一月七日に、平時忠が正二位に昇叙した。権中納言、中宮大夫、左衛門督を兼ねていることへの評価に伴う昇叙ではない。その一二日後、平時忠が三度目の検非違使別当に就くこととなったのだ。
同日、平知盛が春宮権大夫兼右兵衛督となり、平頼盛も左兵衛督に就任した。具体的な日付は不明だが、平宗盛の就いていた春宮大夫の役職が権中納言藤原兼雅へと移すことも決まった。
少なくともこれで、京都の治安対策は平宗盛から平時忠に権限委譲され、武力発動についても、皇太子言仁親王の身の回りについても、平宗盛に掛かる負担は減るはずであったが、その程度で平宗盛に課せられたプレッシャーが減ることは無かった。
その結果が治承三(一一七九)年二月二六日の辞任劇である。
その辞任劇の二日後、高倉天皇の側室の一人である藤原殖子(たねこ)が高倉天皇の第二皇子を出産した。後に守貞親王と名付けられるこの男児は皇位継承権第二位の男児なのであるが、藤原氏の女性から産まれたこともあり、皇太子言仁親王のときと違って全く大騒ぎされていない。このあたりも平家の女性が天皇の子を産むことの大フィーバーと大きな落差がある。
鬼界ヶ島に置き去りにされた俊寛僧都についての記録が治承三(一一七九)年三月二日に存在している。
藤原成経と平康頼の二人だけが許され、俊寛僧都については鬼界ヶ島に置き去りになっていることは関係者にも伝わっていた。
流罪というのは京都から遠く離れた場所に追放されることである。
一方、貴族というものは、国司などの地方官に選ばれて実際に赴任するケースを除いて京都に留まるものである。ゆえに、家族の誰かが流罪になり、配流先の家族の様子がどんなに気がかりであったとしても、貴族である限り流罪先の家族を訪ねることは許されていない。
しかし、貴族でなければ流罪先を訪ねることは許されている。現在とは比べものにならない命懸けの旅行となるが、鬼界ヶ島は、離島ではあっても無人島ではない。平家物語は鬼界ヶ島の様子を伝えるが、鬼界ヶ島に住む人の様子を書き記してはいても、鬼界ヶ島には誰も住んでいないなどとは書いていない。人が住んでいる島であるということは、その島までの交通手段も存在するということである。
俊寛僧都はその名の通り僧侶である。俊寛僧都の身の回りの世話をしてきた僧侶もいるし、俊寛僧都の身の回りをする侍童(さぶらいわらわ)もいる。
俊寛僧都の侍童として有王という少年がいた。この少年は俊寛僧都の娘に頼まれて、俊寛僧都の様子を見に鬼界ヶ島まで赴いた。南の島で元気にやっているであろう俊寛僧都に京都での哀しい現実を伝えるために。
ところが、鬼界ヶ島に到着した少年が目の当たりにしたのは変わり果てた俊寛僧都の姿であった。かつては剃髪であった髪が、白髪の交じったボサボサの髪になり、ほとんど何も食べておらず痩せこけ、ボロボロになった服はただ股間を覆うだけになり、どこかで手に入れた海草と、漁師から貰った魚を手にフラフラと歩いて行くカゲロウのような姿になっていたのだ。この人に京都で起こった不幸を伝えなければならないのかという思いは、少年の足取りを重くさせた。
俊寛僧都は有王が自分の元を訪ねてきてくれたことを感謝し、これで自分は帰れるのだと感激したが、俊寛僧都が耳にした知らせは絶望を伴うものであった。
俊寛僧都の息子は天然痘に罹り亡くなっていた。
俊寛僧都の妻は、夫が帰れなかったことを知り、息子を亡くしたことのショックも重なって亡くなった。
俊寛僧都の身内で生き残っているのはこの年一二歳になる娘ただ一人であった。
有王は、俊寛僧都の娘から預かった手紙を俊寛僧都に渡した。
俊寛僧都の娘からの手紙は、有王と一緒に俊寛僧都が帰ってきてくれることを願う手紙であった。
家族の消息を知り、俊寛僧都は一つの決断をした。
帰らない。
このまま鬼界ヶ島で命を落とす。
恥をさらしながらも生き続けて京都に戻っても、最愛の妻も息子も亡くなり、残された娘は、ここで自分が京都に戻っても生き恥をさらした僧侶の娘として生きる生涯が待っている。ならばここで命を落としたほうが娘のためになる。
もともと満足な食事を摂れていなかった俊寛僧都は、この日から断食を始めた。ただただ阿弥陀の名号を唱えながら飲まず食わずの日々を過ごし、有王が鬼界ヶ島に到着してから二十三日後、俊寛僧都は三七歳の命を終えた。これが治承三(一一七九)年三月二日のことである。
俊寛僧都は鬼界ヶ島で荼毘に付され、有王は俊寛僧都の遺骨を首にかけて京都へと戻った。父の帰還を待っていた俊寛僧都の娘は父の死に悲しみ、奈良の尼寺である法華寺に入って母の後生を弔い、有王は高野山に上ったのち、蓮華谷の法師となって諸国を行脚するようになった。
治承三(一一七九)年三月、平重盛の容態が急変した。
前年の内大臣辞任も体調不良によるものであり、妹の懐妊を理由に無理して内大臣に復帰していたが、無理を重ねたことがかえって体調をおかしくさせたのだ。
そうでなくとも平重盛は仁安二(一一六七)年に過労で倒れた過去を持っている。そのときも少し休めば治るだろうという軽い思いで周囲は平重盛を復帰させたが、ストレスから体調を壊した人に対し、気合いとか、ちょっとした休みとかで治るなどと考えるのは根本原因の解決にならない。組織に属す人ならば組織のあり方を、日常そのものにストレスの原因がある人ならば日常そのものを見直さなければ、二度目の倒れ、三度目の倒れを呼び寄せてしまう。
平重盛の場合、明らかに、平清盛と、平家という組織そのものと、平氏という家族そのものがストレスの原因であった。平重盛だから倒れたのではなく、平重盛が抜けたあとで平重盛の立場に立つこととなった平宗盛は、倒れはしなかったものの役職辞任を申し出ている。
平清盛がどのような人であったかという分析は、様々な学者が様々な説を挙げている。独善的であるとする説、人の心を汲むのに長けた温厚な人であったとする説、当時としては斬新なイノベーションを展開した優秀なビジネスマンであるとする説、短気なところがあり怒りだしたら制御できなくなる人とする説など。
これらは全て、現在の企業での優秀なワンマン社長の生涯に見られる性格である。独善的に自分で何もかも決めてさっさと行動し、自分とともに働いてくれる部下を手厚く保護し、時代の最先端を走ることで成功を築き莫大な財を築くも、成功がまさに過去のしがらみとなって、自分の独善さを制御できぬ老人へと化す。成功した自分の決めることに間違いは無く、自分の言うとおりにしても上手くいかないのは自分の言うことを守らなかっただと決めつけ、決断がもう時代遅れになっているのに決断させないことを認めず、そして終始怒りがちになる。
平重盛がストレスに弱いのではない。平宗盛は逃げ出したのでも無い。平清盛が過去の成功者であったがゆえにストレスの元凶となり、どうにもならなくなっていたのだ。
ストレスに晒されている人に必要なのは、過労にさいなまれている人に必要なのは、まずは充分な休息である。休息と言っても自宅に籠もってずっと横になっていることを意味するのではない。日常から離れた場所に出向いてリフレッシュするのも休息の一種である。
その意味で、平重盛がこの時代の貴族の間で大流行となっていた熊野詣に出かけたことは正しい。ただし、胃を悪くしていなければ、の話であるが。
まともに食事を摂ることができなくなっているだけでなく、食べたものを吐き、血を吐くという容態の人にとって、いかに何度も体験したことであるとは言え、熊野詣に赴くのはリフレッシュどころか荒療治だ。治承三(一一七九)年三月一一日、熊野詣から帰洛した平重盛が再び内大臣を辞任した。前年は無理して内大臣に復帰したが、さすがにこのときの平重盛に職場復帰を求める声はなく、それどころか、平重盛の死も本気で考えられるようにまでなった。
平安京の庶民が楽しみにしているイベントである賀茂祭に平家が深く入り込んでくるのはもう慣れていた。ウンザリする向きの中にも楽しみを見いだす人はいて、特に女性は、平重盛の息子の平維盛を楽しみにしていた。絶世の美少年であることは以前から京都中の話題になっており、治承三(一一七九)年の賀茂祭は言仁親王生誕から最初の賀茂祭ということで、春宮権亮の平維盛が東宮使として特別な姿で現れるのではないかという期待を掛けられていたのである。そして実際に四月二一日の賀茂祭で見せた平維盛の姿は、これまでに見たこと無い東宮使と評判になった。
と同時に、平維盛は悲壮感を抱かせる表情でもあった。女性からの黄色い歓声を浴びても、平維盛には女性からの声援を喜ぶ余裕などなかった。
無理もない。父が亡くなるかもしれない状況なのだ。
平清盛も息子達の病状悪化に悩んでいなかったわけではない。
自分の性格が息子達のストレスとなって健康を破壊していることには気づかなかったが、息子達を思う父親としての姿は消えることが無かった。
平清盛の見せたのは、医学と、神仏頼みの双方である。双方とも過去に例を見ない大きなスケールのものとなった。
まずは神仏頼みであるが、少し遡っての治承三(一一七九)年三月一七日、後白河法皇が平清盛の平安京内の御所である八条第に御幸し厳島巫女の舞を観覧したのを機に、御所、八条第、五条坊門富小路といった各所に厳島信仰の別宮を勧請させたのである。
厳島巫女の舞は翌三月一八日にも後白河法皇の平安京内の御所である七条殿で開催され、ことの期は後白河法皇と並んで平清盛も揃って観覧した。
三月二九日には、左大臣藤原経宗、大納言徳大寺実定をはじめとする一行が厳島神社に参詣するまでになった。
いかに平清盛がこの時代にしては医学的知識を学ぶのに旺盛な人であり、南宋から医薬品を輸入してきた人であろうと、ストレスと過労に対する医学について二一世紀と同レベルまでの知識を有してはいない。だから神頼みに走ったと言いたくなるところであるが、参詣というのはストレス緩和や過労対策としてあながち間違ってはいないのだ。
どういうことか?
まず、参詣する時間は絶対に仕事を休まねばならない。参詣しながら仕事をする人はいないし、遠くにある寺社への参詣であればその往復も仕事から離れる時間になる。仕事がストレス元凶であるときに強制的に仕事から切り離されるのはストレス緩和とリフレッシュの効果を生み出す。また、家庭内のストレスが原因であるとき、一人で参詣に赴くという名目で一時的に家庭内から離れることも可能だ。
次に、いかに都市のただ中にある宗教施設での神仏頼みであろうと、寺社の境内の中というのは基本的に静かである。多くの参詣者が詰めかけるので喧(かまびす)しいこともあるが、基本的に参詣しているときというのは街の喧噪から離れた場所で時間を過ごすことを意味する。騒音に晒されるのもストレスとして大きく、ストレスから離れるのはストレス緩和の基本だ。
そして、これがいちばん重要なことだが、参詣は能動的である。参詣の手順を自分で考えなければならないわけでもないし、誰かに指示して参詣させることもない。自分が指揮して誰かに何かをさせるというのはなかなかにストレスを感じるものだ。特に自分の指示の結果が評価に直結し、それで上役から何かを言われるような日常を過ごす中間管理職にとって、上役から何か言われるわけでもなければ、部下の責任を背負う必要もないというのはストレスから逃れるという点で効果を発揮する。
もっとも、参詣をしたのは平重盛本人でないため、こうしたメリットを平重盛本人は全く享受できていない。
平重盛を中間管理職扱いするのもどうかとは思うが、平重盛の上に平清盛が君臨していることのストレスがどのようなものであったのかは、平重盛不在時に平宗盛がどうなったかを知るだけで推測可能だ。その現実に気づくことなく、そして神仏そのものがストレスを緩和するわけではないことにも気づくことの無いまま、神仏頼みにはストレス緩和の効果があるという結果だけを知っている。この前後関係を見誤ると、神仏のおかげで平重盛の病が治ると考えるようになってしまう。
当然ながら、そのような奇跡など、無い。
平清盛が息子達のために見せたのは神仏頼みだけでは無い。特に重症となっている平重盛に対しては、この時代では平清盛以外にできないことをしたのである。
南宋から医師を招いたのだ。
国外から医師がやってきて日本で診療をすること自体は歴史を遡ると皆無とは言えないが、平重盛一人のために医師を南宋から招いたというのは前代未聞だ。
ところが、平重盛は父の子の行為を拒否した。無論、ただで追い返すなどしていない。治療してもらったと同じ診療代を払って帰国してもらうようにしたのである。
南宋から招いた医師が治せて日本在住の医師が治せないなどありえない。
南宋から招いた医師でも治せないからどんな名医でも治せない。
治らないというならそれは自分に課せられた寿命だ。
自分が南宋から呼び寄せた医師の診療を息子が拒否した。呼び寄せた医師が見事な診療をし、息子を健康に戻すであろうと期待していた平清盛は、息子の覚悟を耳にして息子の死を覚悟することとなった。
治承三(一一七九)年五月二五日、病状の悪化した平重盛がついに出家した。
多くの人が来るべき時を迎えてしまったと考えた。まだ四二歳なのにもかかわらず、死を予期されるようになってしまったのである。
それでも一縷の望みをつなぐ人はいた。他ならぬ平清盛自身が五一歳のときに寸白(すびゃく)を理由に病に伏して出家したという経緯を持っている。そして、平清盛自身が死を覚悟とする大病に苦しみながら復帰した経験を持っている。だから、自分の息子も、自分より九歳若いという違いはあったが、自分と同じ苦しみを体験するものの自分と同じように復帰するものと信じていた。出家したのも自分と一緒ではないかという、息子の死を受け入れるという思いの反面、まだ希望を捨てずにいた。
その希望を捨てきれずにいたのは平清盛だけではない。多くの人が平重盛の復帰に希望を抱いていた。
その希望を叩きのめしたのは治承三(一一七九)年六月のことである。
と言っても平重盛の病状が急激に悪化したのではない。希望を叩きのめすニュースは全く想像だにせぬところから飛び込んできたのだ。亡き近衛基実の正室である平盛子が倒れたというニュースが。
奇しくも亡き夫の享年と同じ二四歳での発病である。
当時の記録には平盛子が何も食べることができなくなったとあり、口の悪い人は「藤原氏でないのに藤原氏の所領を押領したから春日大明神の神罰が下ったのだ」などと言ったが、右大臣九条兼実はこれに苦言を呈している。「それならなぜ一四年間に亘って神罰が下らなかったのだ」と。
希望を抱いていた平盛子が倒れたことを平清盛は知らずにいた。息子の病状回復を祈願するために安芸国に赴いて厳島に参詣していたからである。
平清盛のもとに知らせが届く前にそのときは迎えてしまった。
治承三(一一七九)年六月一七日、平盛子死去、夫と同じ二四歳という若さでの死であった。
一四年前に亡くなった近衛基実の資産を相続したのは妻である平盛子である。これが問題になった。彼女は夫の資産を一時的に相続している。自分の実の子ではないにせよ最愛の夫の子であり、夫が亡くなったあとは自分の養子として迎え入れていた近衛基通に、最愛の夫の残した資産をそのまま渡すためである。
ところがここで横槍が入った。
後白河法皇が平盛子の資産を全て後白河院領に組み入れてしまったのである。平盛子の無くなった翌日である六月一八日にはもう、後白河法皇の院近臣である藤原兼盛を平盛子の資産管理の責任者に任命したというのだから、用意周到などという以前に、人としてどうかと言いたくなる行動である。
平家は、近衛基実の資産を一時的に高倉天皇の管理下に置き、近衛基通が摂政や関白に就いたときに近衛基通に渡すべきとした。一時的に高倉天皇の管理下に置くというのは平盛子の遺言通りであるだけでなく、やがていつかはやって来る近衛基通が摂政や関白に就く時代のことを考えると、平家にとってもっとも都合の良い方法である。直接近衛基通に相続させないのは、このときの近衛基通の官職がまだ参議にもなっていなかったからである。位階だけは従二位であり、右近衛中将と美作権守を兼職しているが、摂政や関白を務めてきた人の資産を継承するに相応しい地位ではない。
嘉応二(一一七〇)年に一一歳にして元服した近衛基通のもとに嫁いだのは平清盛の六女である平完子である。養母が平家であるだけでなく妻も平家であるというのが近衛基通であり、藤原摂関家、特に近衛家と平家とのつながりを考えると、養母の親族にして妻の親族でもある平家が高倉天皇の名で資産を守り、近衛基通が摂政や関白に就いたら資産を譲るというのは平家にとって最良の結末である。
その最良の結末を後白河法皇は壊した。後白河法皇が平盛子の資産を手中に収めた翌日である六月一九日、平時忠が権中納言中山忠親に対して平盛子の遺言どおり高倉天皇の保有とすべきと通告した。ただ、後白河法皇は平家の動きに気を止めることもなく、翌六月二〇日は九条兼実が平盛子の資産の相続について後白河法皇が何かしらの報告をするらしいと日記に書き記している。
後白河法皇は六月二一日に確かに行動を見せた。ただしそれは平盛子の資産の相続ではなく、病に伏せる平重盛の見舞いであった。
平盛子の資産についてはなし崩し的に後白河法皇のものとなりつつあった。
平家は娘の資産を返すよう後白河法皇に訴えるが後白河法皇は取り合わない。平家と後白河法皇との対立はもはや隠しようが無くなり、いつ決壊するかわからない緊張を強いられていた。そして、多くの人が願った。平重盛がいればこのような緊張を回避できるのに、と。
その願いは叶わなかった。平清盛は出家ののちに体調を回復させたが、息子は違ったのだ。
治承三(一一七九)年七月二九日、前内大臣平重盛死去。享年四二。
平清盛は自分の後継者を失った。
平家は平清盛以上に頼りになることも多かった優秀な指揮官を失った。
議政官は、武士出身で貴族としての教育を受けていないにもかかわらず貴族界での重鎮となっていた優秀な政治家を失った。
日本国は、平家と後白河法皇との間のつながりを取り持つことのできる人を失った。
平重盛の死はあまりにも大きな痛手であった。
兄の死の翌月、平知盛は春宮権大夫を辞任した。喪に服すためである。しかし、平宗盛まで官界を離れている以上、平知盛がどうにかしなければならない。わずか一ヶ月後の治承三(一一七九)年九月五日に、平知盛が正三位に昇叙した上で春宮権大夫に復任させられたのである。
権大納言と右近衛大将を辞職している平宗盛は朝廷から少し離れたところに身を置いていた。と言っても平清盛のいる福原に赴いていたのでもない。鴨川の東の六波羅の地に留まり、動揺を隠せぬ平家の武士たちを統率する役割を背負った。
権中納言平時忠が検非違使別当として京都の治安を守り、権中納言平頼盛が参議平教盛とともに朝廷の中での平家の立場の維持を保とうとしたが、それにしても議政官における平家はわずか三名である。非参議の平経盛と同じく非参議の平知盛、そして、前権大納言である平宗盛がいるが、そこまで数えても六名というのがこの時点での朝廷における平家の勢力であった。藤原氏にとって変わろうかとする勢力と思われ、天皇の外戚たる資格を持ち、そして、この時代で最高の武力を持った集団が、気が付けばここまで縮小してしまっている。
今更ながら平重盛の抜けた穴の大きさを痛感させられたのだ。
ところが、平重盛の抜けた穴の大きさを悲劇と捉えなかった人がいる。後白河法皇だ。
かつて、後白河法皇は平家の三番手と自他ともに認めていた平頼盛を冷遇し、武人として未来を感じ取ることのでいないでいた平宗盛を厚遇した。平家の中の勢力バランスを崩すためである。それがここになって権中納言平頼盛への接近を図ったのである。福原にこもって京都に出てこない兄ではなく、平重盛が亡くなった今、平頼盛が平忠盛の正当な後継者たるべきではないかというのだ。
平頼盛も、一度は捨てたはずの野心を完全に喪失させたわけではなかった。年齢は既に四七歳、あるいは、まだ四七歳とするべきか、甥の死はチャンスではないかとする後白河法皇の誘いに完全に乗ったわけではないが、次世代の権勢を手にするチャンスではないかと考えるようになりつつあったのだ。
それでも九月まではまだマシだった。
治承三(一一七九)年一〇月九日、もはや平家と後白河法皇との対立は隠しようのない代物であることが表沙汰になるのである。従三位左近衛中将松殿師家が権中納言に任官したのだ。
従三位の位階を持ち、左近衛中将として武官の職務を務めている貴族が権中納言になった。また、苗字を見ればわかるとおり、松殿師家は関白松殿基房の子である。位階も役職もある関白の後継者が権中納言となったのだから、これだけを見ればごく普通のことに思える。普通でない点を探すとすれば、松殿師家は松殿基房の三男であって長男ではないことぐらいであるが、兄二人は正妻の子でないため松殿基房の後継者とはされていないので、これもまたこの時代としては珍しいことではない。ちなみに、兄二人は松殿の苗字に連なる系譜ではあるものの、松殿の苗字を史料に残してはおらず藤原の姓のみが残っている。
ただ、この松殿師家がまだ八歳の男児であると知ったならば、珍しいことではないなどとは断じて言えない。しかも、従二位右近衛中将近衛基通はもう二〇歳になっているのに非参議のまま議政官の一員に加わることもできずにいるのだ。
これの意味することは誰もが理解した。
松殿師家が八歳とは思えぬ神童であるというわけでも、近衛基通が二〇歳になっていながら参議以上の役職に就くに相応しい資質を有していなかったわけでもない。近衛基通に地位を与えぬことで近衛基通への資産相続を封じるのである。それが八歳の男児の権中納言抜擢という、近衛基通を、そして関係者を激怒させる行動を伴ったとしても、後白河法皇の預かり知らぬところである。
さらに後白河法皇は平家を激怒させる行動に出る。院近臣の藤原季能が越前守となったのだ。それだけならどうと言うことのないように見えるが、仁安元(一一六六)年以来、越前国は平重盛の知行国であり、その知行国の権利は息子の平維盛が相続していたのである。その相続を無視して後白河法皇が国司を任命した、すなわち、平重盛の手にしていた権利を後白河法皇が奪ったのである。
この後白河法皇の人事介入に議政官は静まり返っていた。平家の三名のうち平時忠と平教盛は反発を見せたが、平頼盛は明確な反対を見せなかった。さらに藤原氏の面々は積極的に後白河法皇の意見に賛成した。
これだけされて平家が黙っているわけは無かった。しかも、平重盛はもうこの世の人では無い。鹿ヶ谷の陰謀事件のときは平家の行動にブレーキを掛ける役割も担っていた人がもう故人となっているということは、行動が日時とともにエスカレートする運命を持っている。あとはタイミングの問題だけであった。
京都では不穏な情勢が空気を包み込んでいた。いつ平家が爆発するかわからないのだ。六波羅からは不穏な空気が立ち込め、後白河法皇は可能な限りの武士を集めようとし、その中には平頼盛も含まれていたが、ほとんどと言っていいほど武士は集まらなかった。平穏無事に解決するように多くの京都市民は願っていたが、その願いを打ち消す絶好の口実が起こったのである。それも、完全なる天災として。
その天災とは、地震。こればかりは人間がどうこうできる代物ではない。地震が発生したのは治承三(一一七九)年一一月七日、時刻は戌刻というから現在の夜八時頃のことである。その揺れは比較的大きかったものの、取り立てて大きな被害となったわけではない。しかし、平家物語はこの地震をこれからの予兆であると記している。実害の多寡にかかわらず、京都で地震が起こったという知らせは福原にいる平清盛にとってはこれからの行動のためのこれ以上ない口実であった。
治承三(一一七九)年一一月一四日、平清盛が福原に軍勢を結集させた。名目は、京都で発生した地震からの復興支援である。ただし、この名目を信じる人はいない。何しろ揺れはしたがさほどの被害は生じさせなかったのだから支援の必要もなかったのだ。福原には地震の第一報だけが届いて被害の少なさは伝わらなかったのかと考えて福原へと早馬の第二陣を向かわせようとした人もいたが、それは無駄であった。平清盛は京都の心配をしているのではなく動くタイミングを狙っていたのである。
京都から一日で行けるわけではない福原での軍勢結集がなぜ京都にまで情報として届いたのかと思うのかもしれないが、厳密にいうと福原での軍勢結集そのものが情報として届いていたわけではない。京都に広まっていたのは、七日前の地震を名目として福原でも軍勢を結集させていたという話である。福原でも、と書いたのは間違いではない。同日、京都にも続々と平家の軍勢が集まりだしていたのだ。そして、彼らは、福原からの平清盛の指示の通りに結集したのだと述べたのである。
京都の人たちはこれから起こることに悪い予感を抱き、多くの庶民が京都を脱出しようとした。そして、脱出に成功した人はその行動が正解であったことを知った。
治承三(一一七九)年一一月一五日、平宗盛の命令のもと、平安京内で軍勢が蜂起し、六波羅の軍勢が鴨川を東から西へ渡って平安京に突入したのである。同日、福原から平清盛が率いる軍勢が平安京に向かっているという情報も届いた。
平家によるクーデタ、いわゆる治承三年の政変がここに始まったのだ。
平家の軍勢が押し掛けた貴族の邸宅では、邸宅を守ろうとする数少ない警備の兵が平家の軍勢の前に破れ去り、混乱に紛れて逃げようとして失敗する貴族も、捕らえられて命乞いをする貴族も続出した。平宗盛に大軍を指揮する能力はなく、通常であれば兵の暴走が見られるような局面であったが、平清盛が遠くに控えていることは彼らの行動を最後の最後で踏み止める能力ならばあったようで、少なくとも捕らえられた貴族が殺されることはなかった。平清盛から殺さないよう命令が下されていたからである。また、抵抗を示さなかった貴族については屋敷の封鎖だけで済み、外に出ることができないものの邸宅内に止まるのであれば安全は保証された。
法住寺殿の後白河法皇の元には平安京内の各地からの被害状況が届いており、法住寺殿に向かっている平宗盛に対し、後白河法皇は妥協案を示した。関白松殿基房と、わずか八歳で権中納言となったばかりの松殿師家を解官とすると表明したのである。その上で平清盛と連絡をとるために、平治の乱で殺害された信西の息子である静憲法印を使者として平清盛の元へと向かわせた。
ところが、静憲法印が受けたのは話し合いではなく平清盛からの声明文であった。
内大臣平重盛が亡くなった際の配慮がなかったばかりか、越前国に対する知行国の権利を没収したこと。
近衛基通を無視して八歳の男児である松殿師家を権中納言に就けたこと。
藤原成親をはじめとする面々が鹿ヶ谷に結集して平家滅亡への策謀を巡らせたこと。
これらは全て平家として看過できるものではなく、また、日本国の行く末を考えても適切なことではないため、我々は行動を起こすつもりである。
関白松殿基房と、権中納言松殿師家の解官について平清盛は何も言わず、捕縛した貴族については流刑とし、後白河法皇は鳥羽離宮に向かってもらうつもりでいることを述べた。
これらのことを聞いた静憲法印は、驚きはしたものの、一つ一つの理由は平清盛の立場に立てば納得できることでもあるため、まずは要求を後白河法皇のもとに伝えるとして平清盛の元を去った。
同時に、平清盛から平宗盛に対して後白河法皇の住まう法住寺殿に赴くよう指令が出た。平宗盛の率いる軍勢がやってくることを聞きつけた法住寺殿では女官たちを脱出させた後で平宗盛と向かい合うこととなった。
静憲法印から平清盛の回答を聞き、平宗盛と面を向かい合わせた後白河法皇は一つの決断をした。後白河法皇院政の停止である。
後白河法皇の決断で全てが終わるだろうという希望的観測が京都市中を包み込み、血は流れたもののこれで平和になったと多くの人が考えた。さらに、平清盛は比叡山延暦寺への対策も忘れてはいなかった。覚快法親王を天台座主の座から降ろさせ、明雲を天台座主の地位に復帰させたのである。これで延暦寺からの動きも気にせずに良くなり、平和は復活したと多くの人が考えたのだ。
しかし、一一月一七日に平安京内外の人たちを仰天させる発表がなされた。
治承三(一一七九)年一一月一七日、関白松殿基房が関白を解任となり、権中納言松殿師家が権中納言を解官となった。ここまでは予定通りである。
ところが、平清盛が背後に控えた状況下での除目(じもく)はこれだけでは済まなかった。
太政大臣藤原師長が太政大臣を解任となった。
権大納言源資賢が権大納言を解任となった。
権中納言兼春宮大夫花山院兼雅が春宮大夫を解任となった。
権中納言兼右衛門督平頼盛が右衛門督を解任となった。
権中納言三条実綱が権中納言を解任となった。
権中納言源雅頼が権中納言を解任となった。
参議兼左近衛中将藤原定能が左近衛中将を解任となった。
議政官の面々だけを取り上げてもこれだけの貴族が職務の全てあるいは一部を失ったのである。議政官以外に目を向けても、少なく見積もって三九名、部分解職も含めると四三名の貴族が何かしらの処分を受けた。下級役人まで含めると最低でも五十名以上が何かしらの処分を受けている。
一方で、平重盛が辞職して以後空席となっていた内大臣には近衛基通を就任させた。
これだけであれば、異例ではあるが理解可能な話であった。しかし、同時に近衛基通を関白兼任とさせたとなると異例を飛び越えて理解不可能となる。参議も、中納言も、大納言も経験したことのない人物がいきなり関白内大臣なのだ。なお、関白となったことで藤氏長者の地位を手にすると同時に後白河法皇が横取りしていた近衛基実の資産が全て息子である近衛基通のもとに返却されることとなった。ここまでは亡き近衛基実の意思の継承であるからまだいい。だが、太政大臣が不在となっても左大臣藤原経宗が健在である。経験や実績を踏まえるといかに関白兼任であると言っても内大臣より左大臣藤原経宗のほうが朝廷内において格上となるところであるが、高倉天皇の名で関白内大臣に対し、大内裏の中で牛車を使用すること、護衛を連れての宮中参内することが許可され、左大臣藤原経宗より上座に着座することが命じられたのである。これは朝廷内のバランスを破壊するに充分であった。
同時に、平家や、平家の息のかかった面々には新たな官職が用意された。九条兼実の長男である九条良通は、一三歳の若さで権中納言に就任し、同時に右近衛大将に就任した。参議藤原家通は右兵衛督を兼職することとなった。平清盛の末弟である従四位上平忠度は伯耆守の官職を手にした。平教盛の息子で平清盛から見て甥にあたる平通盛は越前守を兼任することとなった。平経盛の息子で平清盛の甥である平経俊は若狭守の官職を手にした。
平家の面々が国司の地位を手にしたことからもわかる通り、平家の知行国が激増した。名目は国司の交替であり、除目による新たな国司の任命という体裁をとってはいたが、国司に誰を任命するかを決めることのできる権利、すなわち、知行国の権利を平家が没収したに等しい。事件前、平家の知行国は一七を数えていた。それが事件後は三二に達したのである。
事前に解職が通告されていた松殿基房は、関白を辞職させられただけでは済まなかった。治承三(一一七九)年一一月一八日、松殿基房は太宰権師に任命され、太宰府での勤務が命じられた。事実上の配流である。
それでも松殿基房は配流という名目がなかっただけマシと言える。
太政大臣を辞職させられた藤原師長は現在の名古屋市瑞穂区に相当する尾張国井戸田への配流が決まった。
権大納言を辞職させられた源資賢は丹波国への配流が決まった。
後白河法皇の側近であった平業房は伊豆国への配流が決まり、連行される途中で逃亡したものの、清水寺付近に潜んでいるところを見つけ出され殺害された。
平時忠の次男である平時家も解官となり上総国への配流と決まった。父ですら息子を守らず平清盛の命令に従うしかなくなっていた。
かつては自他共に認める平家の三番手であり、事件の直前には後白河法皇から接近されていた平頼盛は右衛門督を解官されていた。事件での混迷の中、平清盛が六波羅にいる平頼盛を追討するという噂が広がり、九条兼実は既に六波羅で戦闘状態に入ったようだとまで日記に記しているが、これは誤報であった。平頼盛は平清盛に逆らう意志を見せなかったばかりか全面的な恭順を誓っており、平清盛が軍勢を率いたことは事実でも、それは福原への帰還のためであった。
平頼盛との戦闘状態の噂が広まり、それが誤報であるという知らせが流れ、平清盛が福原へと帰還した治承三(一一七九)年一一月二〇日、後白河法皇に対する最終処分が下った。鳥羽離宮での幽閉である。後白河法皇は平宗盛の率いる軍勢に護衛され、牛車に乗せられて鳥羽離宮へと向かい、鳥羽田中殿に幽閉され、平家の武士の監視下に置かれることとなったのである。ごく一部の者以外は出入りが許されず、後白河法皇は鳥羽離宮の外への連絡の道を失った。ここで完全に後白河法皇の院政はその機能を停止した。
治承三(一一七九)年一一月二一日、太宰府へ向かっている途中の松殿基房が路上で突然出家した。出家したことで自動的に太宰権帥を解職となり、備前国への配流へと変更になっている。なお、後任の太宰権帥として権大納言藤原隆季が任命されているが、こちらは左遷でも配流でもなく、実際に太宰権帥としての職務が求められてのことであり、権大納言との兼職となっている。
同日、最後まで自邸に閉じこもって平家に抵抗していた大江遠業が、我が子らの頭を折った上で自宅に火をかけて自決した。後白河法皇の側近の一人であり検非違使佐として京都の治安維持の実務を担っていた壮絶な死に、多くの人が衝撃を受けた。
壮絶な死を迎えたのは大江遠業だけではなかった。治承三(一一七九)年一一月二四日、白河殿倉頂であった藤原兼盛は手首を切られ、備後前司の藤原為行と上総前司の藤原為保の二人は殺害されて海へ突き落とされたのである。
これで治承三年の政変は終わった。
治承三年の政変で報奨を得た人をまとめると以下の通りとなる。
一方、治承三年の政変で処罰を受けた人をまとめると以下の通りとなる。
そしてここに、鳥羽離宮にて幽閉されることとなった後白河法皇が加わる。
保元の乱でも平治の乱でもここまで酷くはなかった。それなのに、歴史用語としての治承三年の政変については強く認識されていない。
同時代の史料に保元の乱や平治の乱は登場する。だが、治承三年の政変という歴史用語は登場しない。
当然ながら、治承三年に平清盛が後白河法皇を幽閉し、関白松殿基房はじめとする朝廷の主だった面々をことごとく罷免し追放したことは知っている。それなのに治承三(一一七九)年一一月のこの出来事を特記するようなことは起こっていない。
理由は簡単だ。治承三年の政変は源平合戦のプロローグとして位置付けられ、源平合戦の一場面として認識されているのだ。後鳥羽天皇の元号を採用すれば元暦二年、安徳天皇の元号を採用すれば寿永四年、西暦を採用すれば一一八五年に平家は滅亡する。その間わずかに五年半。治承三年の政変から壇ノ浦の戦いに至るまでの流れはあまりにも劇的で、あまりにも急激で、あまりにも無常で、だからこそ、治承三年の政変は壮大な激変におけるプロローグになってしまっている。
しかし、治承三(一一七九)年一一月時点に生きる人は、自分の生きる時代のことをプロローグだと考えてはいなかった。いったい誰が、治承三年の政変からわずか五年半で平家が滅亡することを想像したであろうか?
― 平家起つ 〜平家ニ非ズンバ人ニ非ズ〜 完 ―
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