平家起つ 1.信西政権

 「平家ニ非ズンバ人ニ非ズ」

 現在でも、平清盛率いる平家が、武士としての権勢を拡大し、その勢いがいかに強大なものであったのかを記すときに使われる言葉である。

 ただ、この言葉は二重三重の思い込みが重なっている言葉である。

 まず、この言葉を話したのは平清盛ではない。この言葉を語ったとされているのは平清盛の義理の弟である平時忠であり、語ったのは承安四(一一七四)年一月一一日に権中納言平時忠が従二位に昇叙したときのこととされている。

 次に、平時忠は武士ではない、平家の一員ではあるが、平時忠が平家の一員となったのは姉が平清盛と結婚したからであり、それまでは、桓武平氏ではあっても伊勢平氏ではなく、末端の貴族であった。

 三番目に、この言葉は平家物語から来ているのではない。江戸時代後期の歴史家である頼山陽が記した「日本外史」が出典である。頼山陽は日本外史の平家の評伝の箇所で平時忠が「非平族者非人也」と語ったと記している。平家物語でも確かに似たような文章はあるが、平家物語の巻第一の禿髪(かぶろ)の章では、平家物語の写本の一つである南都本によると「此一門ニアラザラン者ハ皆人非人也」となっていて、現在でも使われている言葉と異なる。

 四番目に、「人非人」とは「人間ではない」という意味ではなく、ましてや差別用語でもなく、この時代では「参議以上の役職を得られぬ貴族、あるいは三位以上の位階を得ることができないでいる貴族」という意味である。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての文献を調べると、人非人を罵倒語として使っているケースは見つからない。それどころか自らの身分の低さを伝えるときの自称として用いているケースすら存在する。

 そして最後、これがもっとも重要なのだが、平時忠はそもそも、そんなことを言っていない。厳密に言うと、平時忠がそのようなことを口にしたという証拠がどこにもない。同時代史料をどんなに探しても平時忠のこの言葉がどこにも出てこないのである。確かに平時忠は放言癖のある人であり、人生で何度か、その失言で左遷の憂き目に遭っている。だからと言って、物語としては面白くとも、権大納言という政治の重職にある平時忠がこのような尊大な台詞を口にしただろうかとなると疑問符が付く。

 そもそも平時忠が平家の隆盛を誇るように話したとされている初出は平家物語である。平家物語は平家の隆盛から滅亡までの流れを詳細かつわかりやすく描いている作品であるものの、どんなに短く捉えても平家滅亡から五〇年近くを経過してから誕生した文学作品である。その主題は権勢を思うがままに振るっていた平家が闘いに敗れて滅亡していく様子を描くことであり、権勢を振るっていた頃の描写は平家の態度が尊大であればあるほど効果的になるものの、史実との乖離もまた生まれる。

 ここでもう一段階進めて考える必要がある。

 平時忠がそのように言ったとしてもおかしくないと考えてしまう、あるいは、平時忠でなければ平家の誰かがそのように言ったとしてもおかしくないと考えてしまう何かが、この時代にはあったのではないかと。


 歴史の教科書を思い出していただきたいが、平安時代末期の日本史の流れを簡単に記すと、保元の乱と、その後に起こった平治の乱を経て平家政権が生まれ、平家に反発して源氏が立ち上がって平家を滅ぼして鎌倉幕府が生まれたというのがおおよその流れである。

 保元の乱から鎌倉幕府成立までの過程は間違いなく平安時代を構成する一部であり、歴史の教科書では平安時代の一部と扱われ、書店や図書館の書架でも、源平合戦に特化したコーナーが設けられていない限りは間違いなく平安時代のコーナーに図書が並んでいる。並んでいるが、図書館においても、書店においても、この時代は独特の光景を醸し出している。平安時代を構成する一時代でありながら明らかに平安時代とは思えぬ光景なのだ。

 平安時代としてイメージされることの多い、源氏物語に描かれたような優美な宮中絵巻や、貴族たちの恋の駆け引きを詠んだ和歌は、この時代のイメージと全く重なっていない。この時代から宮中絵巻が無くなったわけでも、この時代から和歌での恋の駆け引きが無くなったわけでもないが、平安時代のうち保元の乱から鎌倉時代成立までの時代について現代の我々が思い浮かべるのは、戦乱であり、血の日常であり、人が人を殺すのが当たり前となっている平家物語の光景であって、源氏物語の光景ではない。言わば、平安時代らしからぬ時代である。

 何も好き好んでこの時代の人達が平安時代らしからぬ時代を作り出そうとしたのではない。当時の人達も戦乱の時代を避けようとしたし、平和で豊かな日々を作り出そうとしていたのは当時の記録からも明らかである。それなのに、できあがった時代は、平和とは真逆の、豊かさとは真逆の、平安時代らしからぬ時代である。

 なぜ、このような時代となってしまったのか?

 答えは一つ、頻繁な政変だ。

 一三世紀のフィレンツェの詩人ダンテ・アリギエーリは、自らの住むフィレンツェが執政者の首を頻繁にすげ替える様子を嘆き、祖国フィレンツェの選択を、痛みに耐えかねてベッドの上で転々と身体の向きを変える病人に喩えた。危機を迎えているから指導者を変えて危機を乗り越えようとする。しかし、指導者を変えたところで危機は終わらない。危機が終わらないから再び指導者を変えようとする。それでも危機は終わらない。この繰り返しだ。病を治すためにはベッドの上で安静にし、投薬と充分な栄養と受けなければならない。寝返りを繰り返すのはベッドの上に横になっていると言っても安静を意味するわけではない。

 平安時代叢書はこれまでダンテの喩えを二回引用しているから、今回で三回目ということになる。ただし、過去二回の引用はともにダンテの喩えが実現しなかったがゆえに、すなわち危機にあっても藤原北家による長期政権によって一貫した政策を連続させることを選んできたがゆえに、日本国に平和と経済成長がもたらされてきたことを記した箇所である。一方、三度目の引用となる今回は、平和でも、経済成長でもなく、一三世紀のフィレンツェが陥っていたのと同様の頻繁な政変が起こっていたことへの喩えである。歴史年表に記されている政変を列挙するだけでも、これだけの政変が起これば一三世紀のフィレンツェでダンテが嘆いたのと同様の感覚を抱くのも当然と言える。

 ただし、ここで一点だけ見逃せないポイントがある。保元の乱から鎌倉幕府成立までの流れは間違いなく政変の連続であり間違いなく激動だ。だから、保元の乱から鎌倉幕府成立まで短期間に政変が連続していたとイメージしやすい。実際、平安時代の年表をまとめると、平安遷都から保元の乱までの時代と比べて明らかに密度が濃い。ところが、保元の乱から鎌倉幕府成立までの時代をよく見ると大きく二つに分けることができるのがわかる。保元の乱から平家政権樹立までと、平家政権樹立から鎌倉幕府成立までの時代だ。端的に言うと、前者の密度が薄いとは言えないものの、後者の密度とは比べものにならない。平家政権樹立をいわゆる「治承三年の政変」とすると、治承三(一一七九)年から壇ノ浦の戦いまではわずか六年間にあるのに対し、保元の乱から平治の乱を経て「治承三年の政変」に至るまでは実に二三年間にも渡っているのだ。

 この二三年間という長きに渡って、まさにダンテが嘆いたようなフィレンツェのように、日本国はベッドの上で転々と身体の向きを変える病人であった。それも、何をしても苦しみが終わらないために身体の向きを変えたのではなく、フィレンツェと違って偶然が次々と重なってしまった結果として寝返りを繰り返させられたのが保元の乱のあとの日本国なのだ。

 本作品では保元の乱終結から二三年間に亘って、ベッドの上で苦しみ続け寝返りを繰り返し、「平家ニ非ズンバ人ニ非ズ」という言葉を受け入れるような平家の尊大さの隠せぬ社会を築くこととなる日本国を描くこととなる。


 かつて、この国に死刑は無かった。

 薬子の変、最近は平城太上天皇の変とも呼ばれる弘仁元(八一〇)年の争いで、平城上皇側の責任者として藤原仲成が弓矢で射殺されてから三四六年間という長きに渡り、日本国に死刑は無かった。

 どんなに重い犯罪に手を染めた者であっても、逮捕されたあとで処刑される心配は無かった。律令に死刑は定められていても執行はされないでいたし、弘仁一一(八二〇)年に撰進された弘仁格と弘仁式により、律令に定められている死刑制度の廃止が正式に定められていたのである。そのため、重犯罪者は遠くへ追放され、軽犯罪者は牢に入れられるのが処罰となった。平将門や藤原純友はどうなのか、あるいは平忠常はどうなのかと思うかもしれないが、平将門と藤原純友は逮捕される前に戦場に散り、平忠常は反乱に手を染めながら源頼信に降伏し、京都へと連行される途中で亡くなった。三人とももしかしたら京都に連行されたあとで死刑になったかもしれないが、歴史は彼らに死刑という結果を迎えさせなかった。

 保元の乱は、三四六年という沈黙を破る衝撃的な出来事であった。どんな大罪に手を染めても、降伏すれば命だけは助かるというこの国の常識を白紙に戻し、弘仁格式で消滅したはずの死刑が復活したのである。捕らえられたら殺される可能性があると広めただけでも大ニュースであった。

 保元元(一一五六)年閏九月四日、後白河天皇は石清水八幡宮に宣命を納めている。その内容は、保元の乱での勝利には石清水八幡の加護があったからであるとして感謝を述べるとともに、藤原頼長は極悪人であるがために流れ矢に当たって亡くなったのであり、崇徳上皇を讃岐国への配流としたのも正しい措置であったと述べている。三四六年ぶりに死刑を復活させてしまったことについても弁解気味に報告し、その上で日本国の安寧を祈願する宣命であった。

 この宣命により、保元の乱の正式な終結が告げられることとなった。

 多くの人は、許されざる大事件が起こったものの、その大事件は無事に収束し、これで平和が戻ってきたと安堵の息をついたであろう。

 その安堵の息は、三年しか続かなかったが……


 後白河天皇が勝利して崇徳上皇は讃岐国に流され、関白藤原忠通が勝利して前左大臣藤原頼長は既にこの世の人でなく、平清盛が勝利して平忠正は甥の手によって処刑され、源義朝が勝利して源為義は息子の手によって斬首された。内部の対立という対立は全て、一方にとって最良の形で、もう一方にとっては最低最悪の形で収束した。

 戦争には、どちらが勝者かはっきりしないで終わる戦争と、勝者と敗者をこれ以上なく鮮明に描き出す戦争との二種類がある。ただし、前者の形で終わるような戦争を始めようと考える者はいない。戦争を開始するときは後者の、それも自分が勝者として戦争を終わらせることを想定しての後者の戦争を思い描いて開始する。

 勝敗が明瞭に示される戦争の中でも、短時間で勝敗が決する戦争は、勝者を簡単に傲慢に誘う。それまでの対立が一瞬にして解決し、自分の思い描いていた形で対立を解消させただけでなく、目の前には、勝者の庇護を求める敗者、あるいは、勝者に抵抗しようともするもどうにもならずに悔しさを隠せぬ敗者、そして、先日まで敵対していた遺体という、勝者をこれ以上なく勝者たらしめることはないという光景が待っているのだから。

 保元の乱の勝者となった後白河天皇の側は、単なる勝者ではなく、何をしても許される勝者になった。崇徳上皇側を破滅に導いた武力は健在であるだけでなく、その武力は、叔父を、弟を、父を、命令一つで斬首した武力である。命令遂行のためには家族であろうと殺害を厭わない軍隊が控えている権力者が命令を出すとき、その命令に従わざるを得なくなるのは戦争の敗者だけでない。戦争に関わらなかった面々もまた、命令に従わなければならなくなる宿命を持っている。

 相手は鮮やかな勝利を手にした武力だ。その武力が刀を抜き、弓矢を構えている状況で命令を突きつけるとあれば、どうやってその命令に逆らえようか。逆らったときに待っているのは自分一人の人生の終わりではない。自分たちの、そして、自分たちの子孫の滅亡である。父であろうと、弟とであろうと、叔父であろうと斬首するような武力が、どうして自分たちに慈悲の思いを見せると考えることができるであろうか。

 生き残るためには、命令に従うか、相手の武力を上回る武力を用意して逆らうかのどちらかしかない。前者はともかく、後者はどうあがいても無理な話であった。

 その無理な話は、白河法皇をして天下三不如意に数えさせた山法師こと比叡山延暦寺も含まれていた。


 古今東西あまたの改革が存在するが、格差を固定させ、あるいは拡大させ、貧富の差を拡大することを目的とした改革はない。結果の是非はあれ、全ての改革は格差を縮小させ貧富の差を減らすことを目的として打ち出されるものである。

 格差解消の方法には二種類ある。格差の勝ち組の持つ権利や資産を減らして格差の負け組に配るものと、格差の負け組の権利や資産を増やして格差の勝ち組との差を詰めるものとの二種類である。そして、改革の圧倒的大多数は前者、すなわち、格差の勝ち組の権利や資産を削ることを骨子とする改革である。今まで良い思いをしてきた人に自分の味わってきた苦痛を味わわせたいという感覚は理解できるし、それで気分爽快にもなる。それに、貧困の理由を誰かが自分の分のものを奪い取っているからだと考え、奪われたものを取り戻せば何もかもうまく行くと考えるのは、短絡ではあるが、短期的な支持を獲得するのに有効な手段でもある。

 それは保元の乱の勝者として絶対的権威を手に入れた後白河天皇も例外ではなかった。信西を中心とする後白河天皇の側近たちの手によって、保元元(一一五六)年閏九月一八日、格差の勝ち組に負担を求める改革として、荘園整理の新制七箇条が発令されたのである。

 以下がその条文である。

 一、可令下知諸国司、且従停止、且録状、言上神社仏寺院宮諸家新立庄園事、

 一、可令下知諸国司停止、同社寺院宮諸家庄園本免外加納余田并庄民濫行事、

 一、可令且下知本社、且諸国司停止諸社神人濫行事、

 一、可令仰本寺并国司、停止諸寺諸山悪僧濫行事、

 一、可令下知諸国司、停止国中寺社濫行事、

 一、可令下知諸社司、注進社領并神事用途事、

 一、可令下知諸寺司、注進寺領并仏用途事、

 現在の法律であれば「第一条」「第二条」とするところであるが、このときの条文は全てに対して「一」と記されており、七つの命令は全て並行していることを明示している。そのため、以下は「第n条」ではなく「n条目」という表し方を用いる。

 現代の文に直して捉えると、一条目は荘園整理である。ただし、これまでの荘園整理令で見逃されてくることのあった寺社勢力に対しても容赦ない荘園整理を求めていることに特徴がある。具体的には後白河天皇が皇位に就いた久寿二(一一五五)年七月二四日以降に成立した荘園のうち、後白河天皇の宣旨を得ていない荘園を全て無効とし、荘園の所有権が有力貴族だけでなく寺社勢力であろうと没収すると宣言し、荘園の停止と荘園の没収を各国の国司に命令しているのが一条目である。ただし、朝廷からの宣旨、白河院の院庁下文、鳥羽院の院庁下文の何れかを所持している場合はいったん朝廷での審査が入るとの施行細則もある。もっとも、後白河天皇が皇位に就いた頃は存命であった鳥羽法皇はともかく、後白河天皇が即位する前にこの世の人ではなくなっている白河法皇の院庁下文を、後白河天皇即位後にどうやって手に入れたのか気にはなるが。

 二条目は、当時の荘園の範囲の不明瞭さを利用したグレーゾーンの取り締まりである。通常、荘園はどこからどこまでを範囲とするか明確となってはいない。国郡里制の境界線を越えた実生活に基づく生活圏で一括りにするのが荘園の単位であり、隣の生活圏との間の境界線は、他の荘園と接しているならばどこからどこまでを自分たちの荘園の範囲であるか明確に示す必要はあっても、接しているのが公地である場合は荘園の範囲が不明瞭であることが多かったのである。現在の東京の感覚で行くと、有楽町駅から少し東に歩けば銀座に着く。しかし、どこからどこまでが有楽町でどこからが銀座なのかはわからず不明瞭である。何しろ同じ建物の一階は中央区銀座を住所とし、二階は千代田区有楽町を住所としているところすらあるのだ。現在の東京における境界線の不明瞭さはせいぜいビジネス上の住所表記の相違であるからまだ笑い話にできるレベルであるが、平安時代の荘園の境界の不明瞭さは笑いにはならない。各国の国司は荘園になっていない土地に対して課税をするのであるが、荘園に接している土地を荘園側が勝手に耕作し荘園に編入していることが頻繁に見られるようになっていたのである。こうなると、荘園の境界線の不明瞭さが裏目に出て、本来ならば課税対象の土地であるべきところが課税対象から外されてしまうのである。二条目は荘園として明記されていない土地に対する荘園としての権利の適用を全て禁止するものであった。公地である土地を開墾して田畑とし、収穫を残したとしても、その土地は荘園であると認められず、土地からの収穫に対する課税が適用されることとなったのである。

 そして、三条目から七条目が、このときの改革案のメインである。三条目では神社に対し、四条目では寺院に対し、暴れ回ることを禁止した。法令上は「濫行」とあるが、実際にはデモ隊を組んで暴れ回ることを禁止する法令である。五条目で、その取り締まりを各国の国司に命令している。なお、神仏混淆の時代ではあるが法令上は神社と寺院とを明確に区別しており、三条目における神社の濫行禁止の管理監督は神社そのものに対して命令しているのに対し、四条目での寺院に対する管理監督は寺院だけでなく国司に対しても命令している。その上で、五条目において国司に対し重ねて管理監督を命令している。

 デモ隊の結成を禁止すると同時に寺社勢力に対する経済的取り締まりも図ったのが六条目と七条目であり、六条目では神社に対して、七条目では寺院に対して、それぞれ必要経費の報告を命じている。寺社が寺社として運営するために必要な費用を、寺社の持つ荘園で調達できないならば荘園の新設を認めるが、そうでなければ荘園の新設を認めないという意図が、さらには、既存の荘園の縮小も狙った意図があった。

 寺社勢力を狙い撃ちにする条文だけでも画期的であったのだが、その適用範囲の広さはもっと画期的であった。

 伊勢、石清水、賀茂、春日、住吉、祇園、興福寺、延暦寺、園城寺、熊野山、金峯山、松尾、平野、稲荷、大原野、大神、石上、大和、広瀬、龍田、日吉、梅宮、吉田、広田、北野、丹生、貴船、元興寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺、天王寺。確認できているだけでも、以上の全ての神社仏閣が荘園整理の対象となったのである。これまでであれば、寺社勢力の所有する荘園に対し何かしらの命令を発令しようものなら、ただちにデモ隊を組織して京都まで押し寄せ自らへの命令の白紙撤回要求を突きつけるところであったろうが、このときの後白河天皇にデモ隊は通用しなかったし、仮にデモ隊を組織させようと寺社内で画策しても、デモ隊に参加しようとする僧兵や神人、そして寺社に賛同する人たちはいなかった。当然だ。デモ隊に加わって京都まで行こうものならその場で殺されるのだから。

 さて、荘園整理の新制七箇条であるが、これについて現存する資料には二種類あり、そのうちの一つは条文の前に前文がある。前文では、日本全土の所有権は皇室のみに存在し、皇室の権威は皇室のトップのもとに集約されることを述べている。後世であれば「治天の君」と称するところであるが、文中にあるのは「一人」という文言のみ。荘園の存在を否定するものではないが、全ての荘園の所有権も皇室に由来するものであり、荘園の所有権の決定は皇室を統べる一人のみが決定すると宣言している。この不明瞭さがかえって保元の乱の後の時代を示すこととなっていた。

 ついこの間までこの国は鳥羽法皇が事実上の最高執政者であった。すなわち、「一人」とは鳥羽法皇のことであった。その鳥羽法皇が亡くなり、鳥羽法皇のシステムを継承するはずであった崇徳上皇は讃岐国に配流となった。ゆえに、院政というシステムが誕生していながら院政のシステムを行使できる存在がいないこととなる。穿った考えをしない限り、文中にある「一人」が意味するのは後白河天皇ということになる。

 後白河天皇が存在し、藤原忠通が関白であるのだから、一見すると藤原摂関政治の復活と言えなくも無いが、その外見上の構造を信用する者はいない。藤原摂関家の勢力が保元の乱で弱まったからである。藤原氏の家長たる藤氏長者の地位への復権が後白河天皇の宣旨と発動させた武力によってなされたことはその一例と言える。藤原忠通が朱器台盤の所有権を有しているとは言え、一度は失った所有権を取り戻したのは、藤原氏の権威ではなく後白河天皇の命じた武力発動の結果である。しかも、代々藤原摂関家に仕えてきた清和源氏が選んだ藤原摂関家のトップは左大臣藤原頼長であり藤原忠通ではなかった。確かに保元の乱の後、藤原忠通と源義朝はともに勝者の側に残ったが、保元の乱の前までは、藤原摂関家のトップは左大臣藤原頼長であり、清和源氏のトップは源為義だったのである。藤原忠通と源義朝は保元の乱の後のそれぞれのトップであり、武蔵国司として源義朝とつながりを持っていた藤原信頼を仲立ちすることでのつながりは期待できても、かつてのように清和源氏がそのまま藤原摂関家に仕えるという構図は成立していなかった、すなわち、藤原忠通には関白としての権威ならばあっても、いざというときに動かすことのできる武力は期待できなかったのだ。

 では、後白河天皇は完全無欠の独裁者となったのかというと、そうとも言い切れない。確かに後白河天皇のもとには保元の乱の勝者となった武力が健在である。ゆえに、武力の行使だけを考えるならば後白河天皇の命令一つで多少の無茶をさせることも可能となる。とは言え、それだけではただ武力を使って暴れるだけであって執政者の統治ではない。執政者には国内の庶民生活の向上を果たす義務がある。武力が手元にあるとき、庶民生活の向上を阻害する存在に対抗するために武力を使用するならまだしも、庶民生活を破壊する存在として武力を使用することなど断じて許されない。そして、後白河天皇の生涯を追いかけると、どうもこのあたりの感覚を欠いていたのではないかとするしかないのだ。それはライバルの排除に成功した保元の乱直後のこの時点においても例外ではなかった。

 ただし、このときの後白河天皇のもとには、明確な政治信条を持ったとは言い切れないものの、明確な国家再建プランならば持っていた政治家が一人いたのだ。

 その政治家の名を信西と言う。


 信西は出家した後の名で、出家前は高階通憲、出家直前は藤原通憲という名である。もとは藤原氏の生まれであるが七歳で実父を亡くしたことで縁戚でもある高階経敏の養子となり、以後、高階氏の一人として教育を受けてきた。

 高階氏は代々、参謀的存在を輩出し続けてきた家系であった。たとえば藤原道長の兄の藤原道隆の参謀は、岳父でもある高階成忠であった。高階成忠は娘を藤原道隆のもとに嫁がせると同時に、藤原道隆との間に生まれた娘を一条天皇の中宮として入内させることに成功したという実績を持っている。その娘こそ中宮定子である。すなわち、高階成忠がいなければ中宮定子もおらず、中宮定子もいなければ枕草子も生まれなかった。

 参謀的存在に憧れの職務を見いだす人は多い。特に、自分の知性の高さに疑いを持たない者にとって、自らの意見が他者の干渉を受けずにそのまま行動となって結果を生むというのは夢のような話だ。おまけに、当人は自分の意見を述べただけであって、その意見は最終決定ではないために責任が免除されている。さらに、集団のトップに立つのに必要なステップを無視し、規定に従えばかなり低い位置でありながら自らの意見を述べて組織を動かすことができるのだから、理想ここに極まれりというところだ。

 参謀になるに必要なのはトップの信任であって、組織の大多数の人の信任ではない。責任を追わなくていい上に出世に必要な段階を踏まずに一足飛びに権威を手に入れ組織を動かせる立場になれるのだから、自らの現在の地位の低さを受け入れたがらない人が参謀に憧れを見出すのは必定だが、参謀というのはそう甘い代物ではない。まず、飛び抜けた知力の高さが求められる。次にいかに結果を出しても評価されることはないという現実が待っている。最後に、参謀とは嫌われる宿命を持つ。

 これらは全て、参謀の意見が実現してしまい、実際に行動させられる立場に立つとわかる。苦労して出世してトップに上り詰めた人から、それまでに積み上げてきた経緯と経験を生かして命令を受け、その上で行動するならまだしも、どこの誰ともわからない人間がいきなり有力者の近くに立って有力者にあれこれ指図して命令させ行動させるのである。おまけに、行動させた結果がどんなに悪いものに終わっても責任をとらない。さらに言えば、本人は自分の知性の高さを信じているようであるが、命令される側はそう思っていない。文化大革命の頃の江青やチャウシェスク時代のルーマニアのエレナ・チャウシェスクのように有力者の妻であるというだけで偉ぶってあれこれと指図してきたことが身の破滅をもたらしたことは歴史上多く見られるが、彼女たちは女性だから嫌われたのでも、女性であることを活かして権勢を手に入れたから嫌われて破滅したのでもない。いきなり現れ、いきなり命令しだしたから嫌われ、そして、その命令が甚大な損害をもたらしたから破滅を迎えたのである。同じような結果を迎えたなら性別に関係なく破滅を迎えるものである。参謀という生き方には、こうした面々と同じような視線と運命が待ち受けている。

 高階通憲が将来の人生設計として参謀を選んだのは高階氏の一員であれば珍しい話ではない。もともと高階氏という一族は、参謀育成教育に相応しい人物がいるとなったら、他氏の生まれであろうと、それこそ藤原氏であろうと、高階氏の養子として迎え入れることも厭わなかった一族だ。実際、高階通憲が高階氏の養子になったのは実父の藤原実兼と七歳にして死別したという理由もあるが、幼くしてその才覚を認められていたからでもある。仮に高階氏の養子にならなければ、高階通憲ではなく藤原通憲として記録に名を残していたであろう。ただし、歴史に関わることのない無名の下級貴族として。

 高階氏の一員として教育を受け官界へと歩みだした高階通憲は、自身の将来もやはり誰かの参謀になることを考えていた。しかし、時代はそれを許さなかった。より正確に言えばかなり前から時代はそれを許していなかった。古今東西の文学と文章と歴史を学びながら、そして、政治を、法を、経済を、社会を学びながら、学んだことを活かす場が存在しなかったのだ。政界と官界は藤原氏と源氏が、学界は菅原氏と大江氏が占めている。高階氏の入り込む余地はない。高階氏の養子に入る前は藤原氏だったのだから藤原氏としての出世を期待できたのではないかと思うかも知れないが、そうは甘くない。そもそも藤原氏ではあるが藤原北家ではなく藤原南家である。政界の中心を為している藤原北家と違い、藤原南家は代々、学問の世界に身を投じる者を排出してきた家系である。その幼児教育ゆえに高階氏の教育に耐えうる幼児を世に送り出すことに成功していたとも言えるが。


 学問を学びながらも学界に身を置くことはできず、社会科学を学びながらも政界でも官界でも自らの望む地位を手にできないと考えた高階通憲であるが、地位を提供することはできないものの高階通憲に対する需要そのものはあった。現在でも、ハイスペックな人材を求めながらハイスペックな人材に見合う給与を用意しない職場は多いが、それはこの時代も同じであったということか。最初に高階通憲をスカウトしたのは中宮藤原璋子である。天治元(一一二四)年、中宮藤原璋子の側に仕えるところから高階通憲は官界生活をスタートさせ、藤原璋子が待賢門院となったことで自動的に待賢門院の蔵人となった。ここまでは高階氏の人間としては普通であるものの、ハイスペックな人材に対する処遇とまでは言い切れない。しかし、その後で鳥羽上皇のもとに異動し、院司となったのは、ハイスペックな人材に対する処遇としては的確でも高階氏としては異例であった。鳥羽院の院司一覧には、判官代の末席ではあるが高階通憲の名が記されている。その他の院司は、藤原氏、源氏、平氏であるから、高階氏である高階通憲の名は異彩を放つ存在であった。

 そしてここで、高階通憲は内大臣藤原頼長と出会う。藤原頼長は自身のことを知的エリートと信じて疑わず、他者を自分より知力の劣る者とみなして平然としている人であったが、高階通憲に対しては違った。自身を知的エリートと信じているからこそかもしれないが、藤原頼長は高階通憲の知性を認め、その学識を高く買ったのである。藤原頼長の目指す律令回帰の素晴らしさを高階通憲に対して語り、高階通憲がその理想を理解したことで、藤原頼長は自分の右腕になれる存在を見つけたのかもしれない。しかし、内大臣藤原頼長は高階通憲を評価しても、高階通憲は内大臣藤原頼長を評価しなかった。それどころか、失望した。たしかに高階通憲は藤原頼長の理想を理解はした。だが、同意はしなかったのだ。それどころか、内大臣藤原頼長に対して失望しただけでなく、この国のシステムそのものに失望したのだ。高階通憲は藤原頼長の知性を高いとは見なかった。その上で、この程度で知性の高さを名乗り、大した知性でもないのに血縁だけで内大臣になったのにもかかわらず、自身の知性の高さを内大臣就任の理由と語る藤原頼長に、そして、こうした内大臣を生み出した日本国の政治システムそのものに失望した。

 康治二(一一四三)年八月五日、高階通憲は出家を宣言した。表向きは失望に対する行動であるし、その思いに偽りはない。藤原氏でなければ望みの地位を得られないことは事実であり、高階氏の養子に入る前であれば、藤原北家でないにしても藤原氏の一員であれば就くことのできた大学頭に、今はもう就くことができずにいるのだから。高階通憲の出家宣言に対し、高階通憲には特例として文章博士や大学頭に就任する権利を与えるとしたが、それで出家を取りやめることはなかった。藤原氏に戻すことでさらに上への道を用意するとし、高階通憲個人だけではなくその子に対しても出世の道を用意するとしたが、それでも出家を取りやめることはなかった。

 康治二(一一四三)年八月二二日、正式に出家。出家後の名は、信西。出家直前、高階通憲を藤原氏に戻すとされたため、信西の俗名は藤原通憲となる。

 信西は出家した僧侶であるが、妻も子もいる。それは何も戒律を破ったのではなく、結婚して子供もいる状態で出家したのだから、おかしなことではない。高階通憲の確認できる最初の結婚は保安二(一一二一)年のことで、同じ高階氏の女性を妻に迎え入れていることが確認できる。その後、大治二(一一二七)年に二番目の妻の名が記録に登場している。もっとも、それは高階通憲の妻として名が残っているのではなく、彼女が後に後白河天皇となる雅仁親王の乳母(めのと)に選ばれたからである。記録の上での扱いも、高階通憲の妻が雅仁親王の乳母になったという記されかたではなく、新しく雅仁親王の乳母になった女性の名が藤原朝子であり、その女性の夫の名が高階通憲であるという記され方である。

 乳母とは育ての母のことであり、乳母の夫となると育ての父のような存在となる。藤原頼長は雅仁親王を操り人形とすることを画策したことがあるが、早々に断念している。藤原頼長ですら認めなければならない才覚の持ち主である信西が控えているとなっては、雅仁親王を操り人形とするどころか、下手をすれば藤原頼長のほうが信西の手で操り人形にさせられてしまうのだ。


 近衛天皇の崩御により、雅仁親王の第一皇子である守仁親王を即位させるまでの中継ぎとして雅仁親王が即位し、後白河天皇となったことで信西の運命は激変した。前述したように、信西は後白河天皇の育ての父のような存在であると同時に、後白河天皇の皇位強化にとって障害となる存在、すなわち崇徳上皇に対抗しうるための必要なパーツとなったのである。

 後白河天皇の政治家としての足跡を振り返ると、後白河天皇に明確な政治信条があったとは思えない。ただし、強烈なまでの権力欲ならばあったことは間違いない。権力者となることは重要な目的として存在していたが、権力を手にして何をするのかという考えは無かったのが後白河天皇という人だ。ゆえに、自らの権力を盤石とするためなら何でもした。育ての父である信西を利用することも躊躇わなかった。戦略においても、政略においても、後白河天皇は信西を利用した。そして、信西のアイデアは有効に働いた。参謀の地位を嘱望する者にとっては夢のような光景が展開されたのだ。

 鳥羽院政下において知を担っていたのは左大臣藤原頼長であった。ただし、旧来に回帰すれば全て解決するという単純な思考であり、多くの反発者を生み出した。反発する者に暗殺者を差し向けることも厭わなかった藤原頼長は、時代を掴むという点では支持者を集めることに成功していたが、政策を掲げるという点では支持者を集めることに失敗していた。そのため、藤原頼長に対する反発を掲げることで後白河天皇の政権は短期間で支持を集めることに成功した。保元の乱に至るまでを振り返ると、藤原頼長の受けることとなった運命は、不憫、である。現在進行形で権力を失っているのだということを見せつけられながら、一つ、また一つと権利と権力を失い、気がつけば手元に何も残らなくなっている。残されているのは後白河天皇の敵とみなされた存在のみ。

 左大臣藤原頼長は、崇徳上皇を担ぎ出したというよりも、自らの権力を維持するための選択肢が崇徳上皇しか残されていなかったのである。大同小異という四字熟語より発生した小異を捨て大同につくという言い方があり、大同団結という言葉もある。現在でも、与党に対抗するために個々の政策に違いのある野党が反与党という一点を実現するために大同団結することがある。保元の乱における崇徳上皇方も、崇徳上皇を中心とする政権を築くことを目的とするのではなく、後白河天皇方に敵と認定された面々が集まった大同団結であった。

 大同団結が敗れた保元の乱の後、信西の手元には莫大な権力が転がり込んできた。後白河天皇は自らの権力維持のためなら手段を選ばぬ人であったが、権力の行使そのものには無頓着な人であった。要は、権威と権力を手にしていることそのものが重要なのであって、権威と権力を手にして何をするかというビジョンは無かったのだ。信西は、保元の乱の勝利の瞬間から、このような人を利用できる存在になったのである。

 信西の知力は明らかに藤原頼長を上回っていた。ただし、権力者となってどのような国を創り上げていくかというビジョンの有無については藤原頼長のほうに軍配が上がっていた。だからこそ、藤原頼長は狂信的なまでに律令制への回帰を訴えたとも言える。一方、信西にはそのようなビジョンが無かったがゆえに、権力者となったそのときから行動を始めるようになった。

 ビジョン無しで政権を握ること自体は悪いことではない。政治とは、庶民がいかに以前より良い暮らしを手にするか、である。どうやって庶民の暮らしを向上させるかを明確に打ち出して政権を握るケースは珍しくないが、それが成功を生み出すことは極めて珍しい。理由は単純で、庶民の暮らしの向上として掲げるアイデアが間違っているのである。そもそも、庶民の暮らしを向上させるアイデアが本当にあるなら、新しく権力者となった人ではなく、それまで権力を握っていた人がやっている。政治に権力が与えられているのは、過去に起こった問題、現在起こっている問題、そして、このままでは未来に起こることとなる問題を、強引な方法を用いてでも解決させるためである。ビジョンを掲げて権力を握った者はビジョン構築のために権力を使うが、ビジョン無しで権力を手にした者は問題に対して権力を行使する。その場しのぎの行き当たりばったりと評価されようと、問題を認識し、その都度、政治に与えられている権力を行使して問題を解決するのは何の問題もないだけでなく、むしろ称賛されるべき行動である。

 信西はどのような政治を展開してどのような国を構築していくかという明確なビジョンを持った政治家ではなかった。しかし、何が問題で、どうすれば問題が解決するかという視点であれば持っていた。ゆえに、原理原則に囚われることなく政治を執り行うことが可能だったのである。さらに言えば、経済についてもわかっている人であったから、藤原頼長の政策が、いや、それ以前からの政策がこの国にもたらしていた貧困の根幹であることを見抜いていた。


 信西が認識していた保元元(一一五六)年時点の社会問題、それは貧困の連鎖である。職がないから生活に困り、生活に困るから犯罪に走り、犯罪に遭って農作物をはじめとする生産が途絶え、生産が途絶えたから職を失う。職をスタートに書き出してみたが、職だけがスタートではない。犯罪がスタートにもなるし、生産が途絶えたことがスタートにもなる。貧困の連鎖のスタートは人によって異なるが、貧困からの脱却はよほどの幸運に恵まれないと実現しないという点では万人に共通している。貧困の連鎖を食い止めるために信西が選んだのは大規模な公共事業であった。工事によって職を生み出すのだ。この点で、保元元(一一五六)年時点の平安京は条件が揃っていた。

 もともと平安京というのは完成した都市ではない。都市計画の途中で工事が止められてしまったために自然災害に弱くなり、一時的な税支出削減の見返りとして、多大な人命の喪失と、税による莫大な損失補填を余儀なくされた都市である。だが、こうも考えられる。止められてしまった工事を再開したらどうなるか、と。最終的には平安京の完成をゴールとする平安京建設工事の再開が立案されたのである。保元元(一一五六)年時点ではまだ正式発表とはなっていなかったが、その計画は保元元(一一五六)年時点で既に立てられていたとすべきである。

 二一世紀の現在、計算とはコンピュータでするものと相場が決まっている。少し前なら算盤だが、平安時代だと算木になる。算木は、算盤よりも計算に時間を要するが、算盤より精密な計算ができる。虚数解や無理数はさすがに難しいが、近似値であるならばそれも可能だ。実際、筆者自身も四次方程式の解を算木で求めたことがある。

 信西が計算に用いたのも算木である。算木を用いて計算する際には、算木を机に置くときにはパチンという音がするが、後世の歴史書である愚管抄には、この時代、信西の醸し出す算木の音が一晩中聞こえたと記されている。

 もっとも、信西が何かを計画しているらしいことは知られていても、それが平安京再建工事であると予想していた者は少なかった。多くの者は、公布されたばかりの新制七箇条の強化を計画しているのだろうと考えたのである。実際、保元元(一一五六)年一〇月には記録荘園券契所が再設置され、大納言藤原公教が記録荘園券契所のトップである上卿に任命され、権右中弁藤原惟方、左少弁源雅頼、そして、信西の子でもある右少弁藤原俊憲の三人の弁官が記録荘園券契所に派遣された。さらに、大学寮を中心に、文章博士、算博士、明法博士、外記(げき)、史(し)といったこの時代随一の知識人たちも寄人(よりうど)、すなわち、荘園整理のアドバイザーとして集められた。スタート時の寄人は十二名であったが、寄人になることが学会における権威であると認められるようになると、自らを寄人に推薦する者が続出し、九名増えて最終的には二十一名に膨れ上がるようになった。それも、当初はアドバイザーであったのがいつしか荘園整理の実務担当者になった。荘園整理担当者として自らの名が記されることが一つの権威となるに至ったのである。これは法によって寺社のデモを封じた信西の寺社勢力に対する圧力の第二段にもなった。寺社をターゲットとする荘園整理にこの時代の知識人たちを導入した理由には、寺社の持つ研究機関としての機能の弱体化を図るだけでなく、法の厳密な拡大適用による寺社勢力の免税を剥奪するという意図もあったのだ。当然ながら寺社勢力は反発を示すが、デモが事実上の厳禁となっただけでなく、デモを繰り出そうものなら理論武装した知識人たちと、文字通りの意味で武装した武士たちが待ち構えているとあっては、いかに僧兵と言えどそう簡単に平安京まで来て暴れまわるなどできない。平安京内外の庶民の憤怒を集めていた寺社勢力に対するこうした圧力は、強権的であるとは言え、支持は集めたのである。

 なお、このときの荘園整理において、荘園と認められた土地の所有権と荘園住民がまとめられ、その上で免税対象となることの確認もなされている。それがどのような意味を持つのかはその翌年に明らかとなるが、この時点では寺社勢力への攻撃の側面も持った免税の再確認としか認識されなかった。

 この認識は、保元元(一一五六)年一一月一八日に平安京内での武器の携帯を禁止する命令が出されたことでさらに強まった。平安京内で武器を持つことが許されるのは六衛府の武官や検非違使といった公的な武人に限られ、その他の者は武器を家の中に持つこと自体は認められるものの携帯して外出することは禁止された。平安京の外は武器携帯の禁止とはならないが、平安京の外から武器を持って平安京内に入ってきた瞬間に違法となった。一見すると平安京内の治安維持を目的とした命令に見えるし、実際に表立った名目は犯罪取り締まりの強化であるが、この命令は寺社に対する圧力の第三段となって機能した。

 新制七箇条で禁止しているのは「濫行」であってデモそのものではない。そのため、あくまでも平和的な意見表明手段としてならばデモそのものの権利は残されていたのである。しかし、どこまでが平和的でどこまでが暴力的であるかの線引きは難しいし、平和的なデモであったのに気がつけば武器を持って暴れまわるようになっているのも珍しくない。自分は正しいと思っているのだから、正しい自分の意見が受け入れられないとあれば、暴力に訴えてでも意見を通そうとするのがデモという集団狂気の空気だ。ゆえに、暴力に訴える可能性が出てしまうのがデモの本質であるが、暴力を伴わないデモも珍しくない。そして、後者のデモを取り締まるのは民主主義国であれば絶対に厳禁であるし、民主主義国でなくとも認められるべき権利である。かといって、暴力を容認するようでは、それはもはや国家ではない。

 このディレンマに対し、信西は単純明快な答えを示した。寺社のデモ集団が平安京にやってくるときに神輿や神木を担いでくること自体は違法ではないし、神輿や神木を守るためという理由で武器を手にした者が平安京の近くにやってくることまではデモの権利として認めるが、武器を手にしたまま平安京の中に入ったら、その瞬間に当事者は逮捕、デモ隊は解散が命じられるというのがその答えである。寺社のデモの厄介なところはその暴力性であり、暴力性が牙を剥く前に合法的な理由で取り締まりを受けるとなれば、寺社のデモの威力は激減する。


 時代は一ヶ月ほど戻って、保元元(一一五六)年一〇月、皇室における女性の地位について変化が見られた。まず、近衛天皇皇后藤原多子の姉である藤原忻子が後白河天皇の中宮になった。その一方で近衛天皇中宮の藤原呈子は皇后となった。皇后と中宮のスライドにより藤原多子は皇太后となった。亡き先帝の妃が皇太后となることは珍しい話ではないが、年齢を見ると珍しい話となる。中宮忻子二三歳、呈子皇后二六歳、そして多子皇太后、なんと一七歳。姉が中宮で妹が皇太后というのも珍しいが、この若さで皇太后というのはもっと珍しい。もっとも、後白河天皇の即位に至るまでの経緯を見ると理解できる話ではある。

 月が変わった保元元(一一五六)年一一月、崇徳上皇の中宮で近衛天皇の皇太后であった皇嘉門院藤原聖子が出家。皇嘉門院は藤原忠通の娘でもあるため、保元の乱の勝者と敗者とに分かれる宿命を背負わされていた。皇太后、皇后、中宮が入れ替わるのが先にあり、皇嘉門院藤原聖子の出家が後になったというのは、順番で行くとおかしな話なのであるが、事情が事情であるために不可解とはされなかった。

 皇嘉門院藤原聖子の出家に至るまでの流れは不可解とはされなかったが、この流れの中で一人の女性が全く姿を見せていないことは不可解とされた。美福門院藤原得子である。皇太子守仁親王の妃である姝子内親王は鳥羽上皇と美福門院藤原得子との間の娘であり、近衛天皇崩御後、のちに後白河天皇となる雅仁親王を皇位に就けることを強く訴えた女性である。彼女は自分の娘が嫁いだ守仁親王が皇位に就くこと、すなわち、自分が天皇の姑となることを狙っていた。後白河天皇が即位し、保元の乱によって崇徳上皇が勢力を失ったことで皇室に関わる四人の女性の地位が流動したことは美福門院藤原得子にとって予定通りであり、そう遠くない未来に起こること、すなわち、後白河天皇の退位と守仁親王の即位、そして、守仁親王に嫁いでいる自分の娘が中宮や皇后になるという流れの途中過程であると考えていたのである。

 年が変わった保元二(一一五七)年一月二三日、守仁親王妃である姝子内親王に准三后の権威が与えられた。准三后は本来であれば、太皇太后、皇太后、皇后のみに与えられる権威であるが、この時代になると内親王に与えられることも珍しくなくなり、皇族だけでなく摂政や関白にも与えられるのが通例となっていた。皇太子妃である姝子内親王に准三后の権威が与えられたことは、皇太子守仁親王の権威を熟成させると同時に皇太子妃姝子内親王の権威を、そして、彼女の実母である美福門院藤原得子の権威を熟成させ、まもなく訪れる近未来の権威を生成する役割を担ったのである。

 この血筋だけでも美福門院藤原得子の勢力はかなりのものがあるが、勢力構築の源泉は血筋だけではない。鳥羽法皇の所領の相続もまた美福門院藤原得子の勢力を築くのに役立っていた。本来であれば鳥羽法皇の所領は院政の後継者たる崇徳上皇が相続すべきものであったが、崇徳上皇は保元の乱に敗れて讃岐国へ流罪となった。とは言え、保元の乱の勝者である後白河天皇は現役の天皇であり、院の所領の相続権を有さない。この結果、鳥羽法皇の所領の相続権者として挙がったのが美福門院藤原得子であった。夫の死後に妻が相続することはおかしなことではない。また、出家して一人の僧侶となっている上に院号を持っている以上、院から院への資産の継承ということになるから、こちらも問題ない。ついでにいうとこの時代の日本に相続税という概念はないので、遺産相続で莫大な費用を税務署に吸い上げられるということもない。

 現在の感覚でいくと、社長の死去に伴い、社長の保有していた企業の株式を、別の企業の経営者にして筆頭株主でもある亡き社長の妻が相続し、二つの会社の筆頭株主となり、その二つの会社を合併させたというところであるが、企業合併と比べてもその規模は桁違いである。どれぐらい桁違いかというと、このときに美福門院藤原得子の所有することとなる所領はのちに八条院領として形成されることとなるのだが、この時代から二〇〇年後、八条院領を財源として、後に南朝となる大覚寺統が成立するのが可能となるほどの資産を残していたほどである。


 保元二(一一五七)年一月、信西が温めていたアイデアをついに公表した。

 平安京の工事再開と、その第一段としての大内裏再建工事の発表である。内裏が頻繁に火災に遭ってしまっているために平安京内の建物を点々としてきた里内裏の時代を終わらせるというその理由は、多くの人に工事の必要性を納得させる効果を発揮した。また、公共事業の持つ失業の削減も多くの人の支持を得ることにつながった。

 ただし、反発もあった。公共事業でよく見られる「税の無駄遣い」という批判である。工事というのは目に見えてわかりやすい税の使われ方である。そのため、それがどんなに必要不可欠な工事であろうと税の無駄遣いを許すなという批判を浴びやすい。税の無駄遣いを許すなという批判を受けないためには、工事そのものを中止するか、工事を目立たぬものとさせるか、工事の必要性を宣伝し回る必要があるが、信西はそのどれもしていない。その代わり、税の無駄遣いでないことを示した。

 信西はまず、律令通りに納税されたならいくらになるのかを示し、次に現在の出費を示して、残りの予算で平安京の工事を再開するとしたのである。大内裏の修復はその第一段であり、大内裏の修復完了と里内裏からの遷御が完了し次第、次の工事に移るとしたのだ。複式簿記のないこの時代ではあるが、歳入と歳出という概念ならばこの時代にもある。そして、その概念のわかる人であれば信西の主張する増税なき平安京再建が嘘でないことがわかる。また、歳入と歳出という概念が通じない人であっても、当時の最先端計算器具である算木を用いて複雑怪奇な計算に励む様子が伝われば、全く増税することなく工事費用を捻出して平安京再建工事を執り行うという信西の主張の裏付けになる。

 増税なき公共事業投資は、保元の乱の後の混乱、そして、死刑を復活させたという不穏な社会情勢を良い方向に動かす効果があった。何と言っても失業を減らすのである。おまけに、信西はここで律令に定められた徭役(ようえき)を前面に掲げた。徭役は本来であれば僧籍にある者を除く全ての成人男性に課せられる無償強制労働義務であるが、信西は強制労働の側面は残しても無償とはさせなかった。工事に携わる人に給与を払ったのである。給与が払われた人は実際に工事に携わった人だけではない。病気や怪我などの理由で就業できない人も徭役の対象となったが、実際に工事現場に連れ出されるわけではなく、自宅での療養であっても工事現場で働く人の一人としてカウントされ、満額ではないにせよ工事することで得られるはずの給与が支払われることで生活の支援となったのである。

 また、徭役は僧侶を除く全ての成人男性に課された強制労働ではあるが、必ず働きに出なければならないわけではない。まず、就業しているが収入が低い人は最初から徭役の対象外とされた。ここで対象外となる筆頭は荘園住民以外の農業や漁業に携わる人達、あるいは鍛治職人などの工業従事者達である。一方、荘園に関係する人は徭役の義務の対象となった。これは荘園領主が大貴族であろうと寺社であろうと関係なかった。荘園領主が免税である寺社であっても住民自身が出家していないなら対象とされたのである。ただし、もともと徭役には代わりの税を払うことで就業義務が免除されるという規定がある。つまり、徭役に出るより今の仕事を続けたいという人、あるいは、そもそも無業者であっても収入はあるという人は、税を払うことで労働義務から免除を得ることができる。

 信西は、この支払いを荘園領主に請求することとしたのである。前年の記録荘園券契所での荘園整理が土台となる租税台帳だ。荘園領主に与えられた選択肢は三つ、人を出すか、それがイヤなら税を払うか、あるいは荘園を失うかのいずれかである。税の支払いを拒否して荘園の住民を徭役に向かわせたら荘園売り上げが減るが、だからと言って、売り上げを記録するには荘園の住民を労働力として残さざるを得ず、残すためには税としての出費が求められる。出費も労働力派遣も拒否したら、今度は荘園として認められず免税の特権を失う。しかも、ここで言う荘園領主とは貴族だけではなく寺社勢力も含まれる、いや、そちらのほうが本丸だ。さらに言えば、その三つの選択肢の全てを拒否したら、平清盛と源義朝が率いる軍勢が待ち構えていることとなる。三つの選択肢の全てを拒否したあとで待っている第四の選択肢は、死。


 あまりに酷いやり口ではないかという批判にも、信西は、無償強制労働を免除してもらうために荘園領主の払った費用は失業している人の工賃に充てるのであり、この事業は失業対策でもあると主張したことで対抗したのである。こうなっては荘園領主も黙らざるを得ない。失業問題という社会問題に非協力的なケチという評判が立ったら日本中を敵に回すこととなる。いかに評判に対して超然と構えていられる人であっても、日本中の敵意を一身に浴びて平然としていられる人はいない。

 さらに、信西のこのときの徭役の導入は、就業してはいるものの収入が低く、工事に携わるほうが高い給与が得られるというケースの人たちに、現在の職業を辞して徭役に従うという選択肢を用意することにもなった。今の仕事を辞められたら困るという理由で引き止めておきながら、同時にまともな給与を払わずにいる雇用者は今に始まった話ではない。この社会問題に対し、徭役という国の定めた義務は、従業員が出て行くのを引き止めるだけで犯罪になるという、従業員にとっては絶好の、雇用者にとっては最悪の口実を呼び込んだ。

 その上、信西は自ら実例を示すことでその効果を示していた。具体的な日付は不明ではあるが、保元年間のどこかで信西は遠江国を知行国とすることに成功している。現在でも新商品の市場テストとして静岡県で先行販売して売れ行きを確認することがあるが、それと似たようなことを考えたのか、信西は知行国とすることに成功した遠江国において徭役を名目とする就業状況改善と荘園からの徴収について実験をし、結果を出していることを示したのである。こうなると「そんなの上手く行くわけない」などという批判を完全にかわせることとなる。

 工事の正式な開始は保元二(一一五七)年三月一八日の宣旨にはじまる。この宣旨でも示された信西の巧妙さは、小規模工事を広く行うのではなく、特定箇所に集中しての大規模工事としたことである。公共事業のもたらす経済効果は、仮に同じ一〇〇億円の投入であっても、一億円を一〇〇箇所で実施するより一〇〇億円を一箇所にまとめて投入する方がより高い経済効果となる。大規模な公共事業は税の無駄遣いという悪評を受けやすい反面、税の有効活用として失業を激減させる現実がある。前者の声を上げるか、それとも後者に気付くかどうかは、知性に由来する。知性の差異ではなく、優劣である。信西は自分と異なる意見を耳にすることはあっても、自分より頭の悪いものの難癖を聞き入れる人間ではなかった。

 信西が最初に集中させたのは大内裏の復旧工事であった。内裏だけを再建するのではない。内裏とその周辺を含む大内裏を修復したのである。特に信西が優先させたのが、大内裏の朝堂院、その中でも、大極殿、小安殿、青竜楼、白虎楼、朱雀門といった朝堂院の中の北部の建物群の再建であった。いずれも会昌門をくぐって朝堂院に入ったときに真っ先に目に飛び込む建物群である。一方、応天門をはじめとする朝堂院の南の建物の再建は後回しになっている。真っ先に目に入るところを工事することによって目に見えて平安京が復活してきているのを感じ取ることができるだけでなく、大規模工事であるがために工事のノウハウが積み重なる。つまり、かなり難しい工事であっても対応できる技術力が身につく。この技術力を生かす場面がまだまだ残されているとなれば、大内裏再建工事が完了しても次の仕事があること、さらに言えば、今後もずっと仕事があり続けることを意味する。

 生きていくために平安京に流れ込んできた人たちが直面した二つの現実、すなわち、治安の悪さと、平安京にたどり着いたところで生きていけるわけではないという現実のうち、前者は保元の乱の勝者、特に平清盛率いる伊勢平氏と、源義朝率いる清和源氏の武力が平安京に鎮座していることでリスクが減っていたが、後者は戦乱によって悪化していた。そこに飛び込んできた工事の知らせは、少なくとも工事に携わることで失業から脱し、その日の生活を取り戻すことができるという希望を生み出したのである。この希望は、保元の乱と、その後に執行させた死刑という血の匂いを消し去り、新制七箇条をはじめとする寺社勢力に対する封じ込めは、それまで憤懣を集める対象であった寺社が成敗されるという爽快さを生み出した。この時代に支持率調査はないが、仮にあったとしたならば、信西の主導する後白河天皇の新しい政治に対する支持率はかなり高い数値を記録していたであろう。


 平安京再建工事が始まった頃、東北地方で一つの動きが見られた。

 記録によると、奥州藤原氏二代目の藤原基衡が、保元二(一一五七)年三月一九日に亡くなったのだという。

 奥州藤原氏の独立性とか、奥州藤原氏の領域は事実上の独立国であったとかの言い方がなされることが多いが、実際には朝廷権力を利用して地域の有力者としての地位を確立していることがわかる。特に着目すべきが前述の美福門院藤原得子との関係性で、それが鳥羽院政期における奥州藤原氏の権力構築に一役買っていた。鳥羽院への接近を図ることで、朝廷から派遣される陸奥国統治の二つの職種、すなわち、国司たる陸奥守と、軍事最高責任者の鎮守府将軍を一人の人物に兼ねさせ、かつ、その人物に奥州藤原氏と関係の深い院近臣を就けさせることに成功したのである。康治二(一一四三)年に陸奥守兼鎮守府将軍となった藤原基成に始まり、藤原基成の甥の藤原隆親、藤原基成の弟の藤原信説、藤原基成の叔父の藤原雅隆、藤原基成の従弟の源国雅と、二〇年間に亘ってことごとく、院近臣で、かつ、極めて近い親戚関係の人達で占めさせることに成功したのだが、その全員が奥州藤原氏と深い関係を持っていた。

 どういう深い関係か?

 藤原基成の娘は藤原基衡の後継者である藤原秀衡の妻なのである。

 藤原秀衡は、藤原基成の娘と結婚する前に信夫佐藤(しのぶさとう)一族の女性を妻として迎え入れており、この女性との間に長子の信寿丸(のちの藤原国衡)をもうけている。その上で、藤原基衡は、藤原基成の娘を自分の後継者の正室として迎え入れている。家臣の一人の娘である女性が側室とされたか、あるいは離縁されたかはわからない。しかし、藤原基成の娘を後継者の正室として迎え入れただけでなく、その女性との間に生まれた次男の小次郎(のちの藤原泰衡)を、自分の二世代後の後継者に指名している。

 これにより、院近臣である藤原基成は奥州藤原氏と姻族関係となったが、深い関係はそれだけではない。

 まず、京都から東北地方の太平洋岸に向かう街道の要となる地点である武蔵国の国司は藤原基成の弟の藤原信頼である。後の平治の乱の首謀者の一人となる、かの藤原信頼である。藤原信頼は関東地方の安定のために相模国鎌倉を根拠地とする清和源氏に便宜を図ると同時に、奥州藤原氏にとって信頼できる商売相手にもなっていた。この時代の東北地方といえばこの時代で最高の馬と武具の生産地域であり、多くの武士が最高級品としての奥州ブランドの武具と馬を求めていたのだが、その武具と馬を奥州藤原氏から購入し、源義朝へと提供している。見返りは、関東地方における安定。奥州藤原氏にとっては、自分たちの勢力圏の南方が安定する上に、生産した武具や馬の定期的な購入者として信頼の置ける相手を確保でき、藤原信頼も関東地方の中心にある武蔵国の国司としての統治の実績を築くという政治家としてのメリットがあった。

 また、藤原基成に対しては現代の法に照らし合わせたらグレーゾーンとなる贈収賄関係も存在していた。奥州藤原氏はその財力を買収に使ったのだ。あるときは土地を開墾して荘園を作っては荘園の所有権を贈り、あるときは馬を贈り、あるときは砂金を贈った。名目はあくまでも親戚の生活支援であるが、実際上は生活支援のレベルをはるかに超えている。

 相続を考えると荘園を贈ったことはきわめて有効に働いた。荘園の所有権を父から子へ、兄から弟へ、あるいは伯父や叔父から甥へと相続されることは珍しくなく、所有権を手にすれば莫大な資産が、それも毎年定期的に手に入る。

 しかし、その荘園が陸奥国にあり奥州藤原氏の強い影響を受けるとしたらどうか?

 武力で東北地方に一大勢力を築いた奥州藤原氏が、いかに親戚関係であるとは言え、荘園を守る側ではなく荘園に攻め込む側になってもおかしくないのである。理論上は。

 実際にそれは無いであろうが、可能性がゼロでは無いというのは脅しとしても有効である。その上で、陸奥守兼鎮守府将軍に対して、親戚からの願いとして陸奥国の「適切な統治」をしてほしいと願うとなったら、要望に応じて陸奥国の「適切な統治」をすることとなる。しかも、「適切な統治」をしたことは、荘園からの莫大な資産を永続的に獲得できることに加え、陸奥国だけでなく出羽国の庶民生活の向上という政治家としての実績を生み出し、自身の貴族としてのキャリア形成にプラスとなる。私欲にまみれた結果であろうと、充分な公益をもたらすならば、そこに問題は無い。藤原基衡の影響下で陸奥守兼鎮守府将軍という地位に就くことは、ハイリスクとまでは言えないにせよミドルリスクではあった。何しろ贈収賄だ。しかし、リターンは、断じてローリターンでもミドルリターンでもなく、ハイリターンであったのだ。


 朝廷の権威を確保した上で陸奥国と出羽国に一大勢力を築いた藤原基衡が亡くなったとされているのが保元二(一一五七)年三月一九日であると記録は伝えている。ただし、明確な日付が同時代史料に残っているわけではなく、少し後の記録である。実際の没年はその翌年であるとの記録もあり、実際のところははっきりとしないのが藤原基衡の死去の様子だ。

 ただし、どの歴史資料においても共通して断言していることがある。それは、この頃の藤原基衡の死と連動して、藤原基衡の後継者として藤原秀衡が登場したということである。父の藤原基衡が異母兄である藤原惟常との争いの末に奥州藤原氏のトップの地位に就いたのに対し、藤原秀衡はスムーズに奥州藤原氏のトップの地位を継承している。尊卑分脈に記されている藤原基衡の子は藤原秀衡ただ一人であるから、父の権威を唯一の直系男児が継承したと考えると権威継承がスムーズであったことも納得できるが、実際にただ一人の直系男児であったのかどうかはわからない。と言うのも、前述の通り、藤原秀衡の次男で、のちに藤原秀衡の地位を継承することとなる藤原泰衡の幼名は「小次郎」、すなわち、「次男の次男」である。藤原秀衡は藤原基衡の次男であったが、兄が夭折したことから唯一の後継者として養育されたのではないかとの推測もある。

 奥州藤原氏を安定した勢力にすることに成功した藤原基衡はもういないが、その権威と勢力はそのまま藤原秀衡が継承した。ただし、藤原秀衡には父が体験する必要のなかった現実が待ち構えていた。中央との結びつきである院政の一時停止である。いかに情報通信速度が現在と比べ物にならないほど遅い時代であるとは言え、前年に保元の乱が発生し、後白河天皇が権威を掴んだことで院政が一時中断した状態になっていること、左大臣藤原頼長が亡くなったこと、後白河天皇の側近である信西が権力をつかむようになったことは平泉にも情報として届いている。

 奥州藤原氏は鳥羽院の院司である者との結びつきにより東北地方における権威を獲得していたのである。それも、陸奥守兼鎮守府将軍という、陸奥国の文武双方、いや、武だけで言えば陸奥国だけでなく出羽国にも強い影響を与えることのできる地位を奥州藤原氏の親族でもある院司の貴族が就くことにより、奥州藤原氏は地方の有力武士団としての存在を確立させることに成功していたのだ。その大前提である院政が一時停止状態になったことは、奥州藤原氏の存亡を脅かす事態となったことを意味する。この危機を若き後継者である藤原秀衡が一手に背負うこととなったのである。

 藤原秀衡がどのように危機を乗り越えたか、それは実際に危機を乗り越えたそのときに記すこととなる。


 保元二(一一五七)年三月一八日の宣旨によって大内裏再建工事の開始が宣言されて間もなくの、三月二二日、大内裏再建工事の先陣として、紫宸殿、清涼殿、承明門、建礼門といった建物や構造物の再建工事が始まり、三月二六日には大内裏そのものの再建工事が始まった。

 信西が算木を駆使して計算し続けているという噂話は広まっていたが、その話が事実であると思われる展開の速さである。再建工事の宣旨が出てから早々に計画が立てられて再建工事に取り掛かることとなったのではなく、宣旨が出た段階で既に充分な計画が立てられていたのであろう。

 計画を立てる時に陥りがちなミスとして、何もかもがうまくいく前提で計画を立ててしまうというのがある。笑い話として、スケジュールを立てるときに一〇〇メートル走を一〇秒で走れる陸上選手を念頭に置いてフルマラソンを一時間一一分で走ると計算する、などという揶揄があるが、揶揄する人自身がフルマラソンを二時間六分で走ると計算していることも珍しくはない。実際には特別な訓練を積んだランナーが充分な準備を整えなければそもそも完走することもありえず、完走したとしても四時間を切ってゴールすればそれはかなりハイレベルな記録と評すべきなのが現実なのに。

 信西が一度に再建工事を展開するのではなく大内裏より工事を始め、それも、大内裏の一部から工事を始めたことは、無理をさせず現実的にできる工事のスケジュールを立てていたからである。工事に限ったことではないが、何かを成し遂げるためには人員と予算と時間が必要であるということをわかっていない人は多い。国家予算をつぎ込めるといっても無限ではなく、徭役で人を集めることができるといっても投じることのできる人員には限界がある。おまけにこの時代の工事に機械化など期待できない、すなわち、工事の規模に応じて必要となるのは機械ではなく人員である。こうなると、限られた予算と限られた人員で最も効率的に工事をするにはどうするかに頭を悩ませることとなる。

 さらに厄介なことに、予算の集め方も人手の集め方も強引なものがあった。強引に予算を集め人手を集めるということは、同時に不満も集めやすい。ましてや後白河天皇の時代が始まったばかりだ。後白河天皇は息子である守仁親王の即位までの中継ぎの天皇であることを前提として即位したとは言え、これからどれだけ後白河天皇の時代が続くかわからない。それに、父から子への譲位であることを踏まえれば、後白河天皇の時代とその息子である守仁親王の時代とは一つの連続する時代と捉えるべきであろう。その時代がまさに始まった直後に、いかに失業対策とは言え一般庶民に負担を求めているのである。現在進行形で負担を求めているところに加え、賃金をケチったり過酷な労働をさせたりしようものなら、一般庶民からの政権支持は一瞬にして消え失せる。後に残るは不平不満渦巻く不穏な社会情勢だ。こうなっては失業対策であろうと工事は失敗する。

 おまけに、平安京再建の第一段として選んだのは大内裏だ。大内裏再建工事が失敗に終わることは今後の政務に支障が出ることを意味する。里内裏が通例になったとは言え、政務遂行を考えるとやはり大内裏がもっともスムーズに政務を遂行できる設備である。平安京の中心が朱雀大路からだんだんと東に移動してきて大内裏はもはや首都の中央北辺に位置する施設でなくなってきてはいたが、信西の構想のゴールは平安京の完成、つまり、捨てられた右京も首都機能の一部をなすよう、桓武天皇が計画した形の平安京を実現させることにある。それはかなりの時間を要する計画であるが、時間を要することは同時に失業対策としての工事が延々と続くことを意味する。工事が続いて失業者が減れば、貧困が減り、社会情勢から不穏さが消える。最終的には、平安京の東を流れる鴨川だけでなく、平安京の西を流れる桂川の治水も完了させ、水害に悩むことのない完成された安全な都市ができあがる。そのとき、大内裏は平安京の中央北辺という本来の役割を持つ。

 朱雀大路の北辺に大内裏がある、すなわち、首都の中央北辺に政府中枢があるという都市計画は、平城京という成功例が存在しているし、かつて唐の首都であった長安がまさにその形であった。信西は無茶なスケジュールを立ててはいなかった。投じることのできる予算、投じることのできる人員をいかに有効活用するかを考え、無理のないスケジュールを立てて実行した。平安京再建そのものが無茶ではないかと思うかもしれないが、野心に満ちた計画ではあっても実現不可能な計画ではなかった。

 この野心に満ちた計画を支えたのが信西の子供達であった。既に述べたように、信西は僧侶であっても幼い頃から寺院で暮らしてきた僧侶ではなく、結婚生活を過ごしてきたのちに出家した僧侶である。そのため、子供もいる。また、出家直前に高階氏から藤原氏に復帰したため、子供達の姓も高階ではなく藤原である。

 記録荘園券契所で右少弁として実務にあたった長男の藤原俊憲は、内裏再建に際して左少弁五位蔵人として貴族入りし、内裏再建工事の実務に当たっている。また、母を同じくする藤原貞憲は、少納言兼兵部権少輔として内裏再建工事に携わり、まだ五位の位階を得てはいないが貴族入りは目の前となっていた。

 ただし、信西も、信西の子供達も平安京再建工事の重要人物ではあっても最高責任者ではない。信西はあくまで現行法に基づいた再建工事を展開しており、この時代の職掌で大規模な公共事業を担当するのは、現在の国土交通省に相当する修理職(しゅりしき)であり、そのトップ、すなわち現在の国土交通大臣に相当する修理大夫(しゅりのだいふ)は参議従三位藤原忠能の兼職である。


 さて、歴史の教科書などでは保元の乱での功績により平清盛が重用されるようになり、後の平治の乱において平家が主導権を握るまでになったと書かれることが多いが、保元の乱の翌年である保元二(一一五七)年の参議以上の貴族の構成を見ると、教科書などにあるような単純の記述ではないことが読み取れる。なお、議政官となると下図から関白藤原忠通と太政大臣藤原実行が離れるため、総勢二四名体制となる。

 一瞬でわかるとおり、平清盛の名前が無いどころか、平氏の名そのものがない。議政官二四名中二二名が藤原氏であり、残る二名も源氏ではあるが清和源氏では無い。議政官の構成を見る限りでは信西政権において伊勢平氏も清和源氏も武力が期待されることはあっても政治家としての期待がなされることは無かったと断言できるのである。

 その断言の根拠となるのが、保元二(一一五七)年八月一九日の大幅な人事刷新である。太政大臣藤原実行と左大臣藤原実能が政界を引退したことによる人事の上昇ではあるのだが、新しく地位を掴んだ者は九名もいるのに、その全員が藤原氏で平氏ではない。地位が空いたのだから下の役職から引き上げられるはずなのに、そして実際に引き上げられているのに、そこに平清盛の名は無いのである。

 おそらくではあるが、保元の乱直後の平安京の人たちに「平清盛を知っていますか」と質問したら過半数の人が知っていると答えるであろう。しかし、「平清盛が藤原氏に代わって権力を掴む時代が来ると思いますか」と質問して、「思います」と答える人は断じていないであろう。保元二(一一五七)年時点の人たちにとって平清盛とは、伊勢平氏のトップである武士、あるいは京都から少し離れたところに住まいを構える金持ちの新構成力のトップという認識でしかなかったのだ。

 令和元年五月に、六波羅にて平家の邸宅を囲む堀の跡が見つかったという報告が新聞やテレビのニュースを賑わせたことを覚えている方も多いであろう。六波羅の地に邸宅を構えた最古の記録は平清盛の祖父の平正盛に遡ることができ、平家の最盛期には一大拠点へと発展し、鎌倉時代には六波羅探題が六波羅の地に置かれたものの、南北朝の頃にはもう武士の根拠地としての地位を失っていたことが判明しているので、清水寺の麓から京都の鴨川東岸にかけての一帯である六波羅が京都における武士の一大拠点であったのはおよそ三〇〇年に限った話となる。その三〇〇年の礎(いしずえ)となった伊勢平氏の邸宅跡と推測される遺構から見つかったのは、従来の平安京の邸宅ではなく、この時代としては高い防御力を持った要塞とも言うべき建物の痕跡だったのだ。

 伊勢平氏の邸宅を迎える前は人が住む土地でなく、南北朝時代からあとは寺院が点在するものの話題に出てこない土地になったのが六波羅だ。その証拠に、令和元年五月の発掘調査報告会において、弥生時代までの遺跡はあるがそれから伊勢平氏の邸宅が築かれるまでの間の時期の地層からは埋葬以外の遺跡が見つかっていないこと、そして、短期間の発展が見られたあとで時代が新しくなると同時に出土品が減少していることが明示されたのである。

 それにしても、鴨川を渡ってすぐという掛け値無しの一等地がなぜ、新興勢力である伊勢平氏のものとなったのか。

 令和元(二〇一九)年五月の発掘調査報告会において、六波羅の地に伊勢平氏が邸宅を築くまで、六波羅の地は主として埋葬地として用いられていたことが示された。六波羅という地名ではなく鳥辺野(とりべの)という地名であるが、北の蓮台野、西の化野(あだしの)と並ぶ平安京の三大墳墓地として挙げられていたのが、平安京から鴨川を渡った東にある土地である。源氏物語においても鳥辺野という地名は登場するし、藤原道長が荼毘(だび)に付されたのも鳥辺野の地であったとの記録がある。

 この埋葬地を住宅地に変えたのが伊勢平氏であると歴史資料は伝える。

 つまり、葬送の地であることを知っての上で邸宅を建てたのが伊勢平氏だというのであるが、もう一つ理由があるのではないかと私は考える。既に「天下三不如意」でも記したが、かつて鴨川東岸は頻繁に洪水を繰り返す土地だったのだ。それが、時代とともに河岸段丘が形成され、鴨川の水位が相対的に低下し、洪水の可能性が減ってきた。ここに目を付けたのが、平清盛の祖父の平正盛ではないかと推測される。葬送の地である上に洪水が頻発する土地であったがために、寺院ならばあっても宅地はほとんど無かったのが鳥辺野、いや、もはや地名は墳墓地である鳥辺野ではなく住宅地である六波羅と記すべきであろう、鴨川東岸の地だ。葬送の地であることをタブー視することさえなければ、洪水の可能性が激減した六波羅は、鴨川を渡るだけで平安京南部に直結するという絶好のロケーションを備えた土地になるし、さらに言えば、武士として平安京に睨みを利かせるという意味でも最高の場所となる。

 かつて洪水が多発していた土地に家屋を建てることは、実際に住むにあたって一つのメリットも保持していた。

 平家物語は平清盛の邸宅のことを泉殿と称していたとある。また、平重盛の邸宅は池殿と呼ばれていた。貴族の邸宅は庭に池を設けていることが多いが、泉殿にしても池殿にしても、庭に水を張るのではなく建物そのものを泉や池の上に建てていたのだ。特に泉殿は外から水を引き込んで水を張ったのではなく、泉の湧き出る土地の上に建物を建てたのだ。平安時代以後の日本国の建物は夏の暑さに対処することを前提とした建物となっており、夏の涼しさを得られた代わりに冬は寒さが吹き込むのが当たり前であった。この寒さの吹き込みが冬場にもたらすのが部屋の乾燥である。乾燥すると火事が起こりやすくなるだけでなくインフルエンザをはじめとする感染症にも罹りやすくなる。ところが、六波羅の伊勢平氏の邸宅は建物そのものが水の上に建っているのでそもそも湿気がある。火事が起こりづらいだけでなく湿度も保てるので感染症に強い建物ができあがる。

 ただでさえ人口密度の高い鴨川西岸の左京に、大勢の武士を、それも馬とともに抱えておくことのできる邸宅を建てるなど考えるだけでも無駄だ。しかし、土地が余っている鴨川東岸の六波羅なら数千人レベルの武士団を抱えておくことのできる住宅地を造成することも可能だ。それも、貴族の一般的な邸宅である寝殿造りと比べて建物そのものは小さいが、この当時の建設技術の最高水準を極めた建物が群を為している光景は圧倒的であったろう。いざとなれば京都に向かって数千人単位の武士団が馬に乗って鴨川を渡ってやって来るとなれば与えることのできる圧力も違う。

 それだけの武士団を常時抱えておくことは、普通に考えるならば財政的に厳しいものがある。ところが、平清盛はそれを簡単にクリアするのである。それも、デモンストレーションを伴った形で平安京の庶民に見せつけたのである。

 公共事業というものは、税金を投入して行うとは限らない。裕福な者が自己の資産を注ぎ込んで建物や公共インフラを整備することもある。現在でも首都圏や近畿圏で見られるような大都市近郊の私鉄はその例だが、私鉄でなくとも建造物などを個人の資産で建設することはままある。

 平清盛はまさに保元二(一一五七)年に行われている大内裏再建工事において自身の財力を見せつけたのである。まず、平清盛自身が大内裏の仁寿殿、平頼盛が貞観殿、平教盛が陰明門、平経盛が淑景舎と、伊勢平氏の四兄弟がそれぞれ、大内裏再建のための出資と人員の派遣をしたのである。なお、源義朝も平清盛に対抗すべく出資したが、清和源氏の総力を結集しても北廊の建設が限界であった。


 保元二(一一五七)年一〇月八日、後白河天皇が大内裏に遷御した。単に遷御したのではなく、これまでの里内裏の変遷の歴史そのものが白紙に戻され、皇室は内裏に鎮座する存在であることが確認されたのである。この日に遷御したのは後白河天皇だけではなく、皇太子守仁親王をはじめ、忻子内親王、統子内親王、姝子内親王といった主だった皇族が揃っていたのもその一例である。しかも、こうした皇族の面々の上に後白河天皇が立つという図式を印象付けさせながらの遷御であったのだから、単に皇族の面々が揃って大内裏に遷御するのでなく、本来の平安京が後白河天皇の時代になって蘇ったことをイメージさせることにもつながった。

 平安京の設計プランの中に里内裏という概念はそもそも存在しない。帝位を退いた上皇が大内裏から距離を置いた場所に余生の住まいを構えることは想定していても、天皇が大内裏を離れることは全く想定していなかったのである。ところが、天徳四(九六〇)年九月二三日の火災で内裏が焼失したことで里内裏の歴史が生まれてしまった。このときの日本国の帝位に就いている人物が凡庸な人物であったら一刻も早い内裏再建を大前提として行動したであろう。ところが当時の天皇である村上天皇は英出した人物であった。内裏再建は当然ながら着手するが、既存の建物の中から最低限の内裏機能をこなせる施設を選び出して臨時の政務を執り出したのである。普通ならば不可能であるはずのところが、村上天皇の優秀さゆえに、内裏であることを想定していない建物であっても内裏でこなすべき政務がどうにかなってしまったのだ。

 このとき火災に遭った内裏は一年二ヶ月の復旧工事を終えて村上天皇の遷御するところとなったが、その一年二ヶ月の間、村上天皇の臨時の内裏となった冷泉院での政務の一部始終が完璧なマニュアルとなって後世に残ってしまった。一度マニュアルができあがってしまえば二度目からは容易だ。しかも、そのマニュアルを作ったのが英傑たる村上天皇とあっては、ちょっとやそっとの大事件であっても対応できてしまう。内裏に再び何かが起こり、内裏で政務を執り行えなくなったときを迎えてしまっても、平安京内の任意の建物を利用して政務を遂行する里内裏が可能となってしまったのである。

 緊急措置であるはずの里内裏は、内裏の度重なる火災のせいで通常態になってしまった。しかも、里内裏は内裏と比べて建物のもたらす政務遂行能力こそ劣っているものの、平安京の中心が朱雀大路から東へと移動していき、朱雀大路から西の右京は事実上の都市機能を喪失した一方、平安京の区画外の鴨川の近く、さらには鴨川の東岸ですら京都の都市機能の一部を担うまでになると、里内裏であることは、朱雀大路の北辺に位置する内裏より都市の中心に近い建物であることを意味するようになる。こうなってしまったら、無理して内裏を再建するよりも里内裏でどうにかしてしまうという選択肢は間違いではなくなってしまった。

 保元二(一一五七)年一〇月の時点で大内裏はまだ工事中である。しかし、すでに内裏機能としては充分なまでに整っており、里内裏で執り行う以上の政務のしやすさが確約されていた。そして何より、工事中であるにもかかわらず大内裏そのものの壮麗さは見事であった。信西は本来の平安京に戻すための工事をしたのであり、伊勢平氏たちが出資と人員派遣によって建築したのも復元であって新設工事ではないのだが、それでも、本来あるべき平安京の姿に近づいている最中の大内裏は、里内裏が当たり前である時代の終焉と、これからの時代の壮麗さをイメージ付けさせるに充分であった。

 そしてもう一つ、信西によってイメージ付けさせることに成功した点がある。

 院政の否定だ。より正確に言えば天皇親政だ。

 上皇は確かにいる。ただし保元二(一一五七)年時点でただ一人の上皇である崇徳上皇は讃岐国に流されている。ゆえに、京都近郊に上皇はいない。現在は信西の主導する政権であると言っても最高執政者は後白河天皇であり、院政を執り仕切る者はいない。鳥羽法皇の資産を相続したのも美福門院藤原得子であり、院政の資産ではなく、出家した夫の資産を出家した妻が相続したという図式である。美福門院藤原得子は莫大な資産を手にし、その発言力も無視できぬものがあったが、鳥羽法皇のような政務への影響力までは無かった。本来のあるべき姿である天皇親政が本来のあるべき姿を取り戻しつつある平安京で実現しつつあるというのは、これからの時代を強烈に印象付ける効果があったのだ。

 新しいことを始めるときというのは多かれ少なかれ反発を生む。そうでなくとも武力に訴えて崇徳上皇側を倒して成立させた政権だ。高い支持率を生みづらい政権が、反発を抑えるために、新しいことを始めるのではなく、間違っていたことを正して本来あるべき姿に回帰させるのだとすることは珍しくない。この点についてピンとこない人がいるかもしれないが、その場合は明治維新を思い浮かべていただきたい。明治維新の直後に成立させた諸政策は、その根幹にあるのは西洋近代化であるが、名目としては律令時代への回帰であった。江戸時代までの歴史を本来あるべき日本の姿ではないとし、本来の姿に戻すとして諸政策を展開したのが明治維新である。現在の日本が、英語の ministry の訳語に「省」を、同じく英語の minister の訳語に「大臣」を充てているのも律令への回帰を求めたことの名残である。明治維新と比べれば信西政権の行動などまだまだ緩いものであるとさえ言える。


 保元二(一一五七)年一〇月八日、信西はこの流れに従って一つの行動を起こした。前年の七箇条に続く三五箇条の発令である。ただし、全七箇条の条文そのものが残っている保元元(一一五六)年と違い、このときの全三五箇条は、条文の原文はおろか、どのような内容であったかが判明している条文ですら一二箇条しかない。その一二箇条も後世の記録から推測するしかないというものであり、同時代史料として存在しているのはこの日に三五箇条の発令があったと記した記録のみである。

 この三五箇条のうち推測可能な一二箇条の内容であるが、前年の七箇条で主たる取り締まり対象とした寺社への規制に加え、京都市中の犯罪の取り締まりや、社会風俗の規制、また、服装や調度品、牛車といった身分に応じて定められるべき所有物が身分の限度を超えていることを指摘した上での取り締まり、朝廷公事の振興といった、政治と治安の再建政策が中心であったことはわかっている。

 それにしても気になるのは、身分を超えた所有物についての取り締まりである。これは事実上の贅沢禁止令ではないか。

 財政政策についての考え方は二種類ある。現在の税収でまかなえるだけの支出をするか、それとも、先に支出を決めた後に税制を定めるかの二種類である。前者は緊縮財政であり、後者は積極財政と言える。この二つの財政についての考え方で、世の中を好景気に誘うのは積極財政しかない。緊縮財政は人類史上何度も試みられてきたし、今も現在進行形で展開しているところもある。しかし、その中の一つとして好景気を呼び寄せたものはない。

 信西の展開した大内裏再建工事は、理想的な積極財政であった。法の厳密な適用によって、実際上はともかく名目上はいっさい増税することなく、積極財政を展開して失業を減らし景気を向上させた。やったことは古くさいケインズ経済学ではないかと考えるかもしれないが、結果を出した政策に文句をつけるわけにはいかない。

 だが、この三五箇条に含まれる事実上の贅沢禁止令は景気に冷水をぶちかます愚策であったとするしかない。生活水準が向上し、それまでの生活では夢見ることすらできなかった商品が合法的に手に入るのだから、手に入れることを選んで何の問題があろうか。二一世紀の現在の暮らしを見渡しても、たしかに、その日の食事に事欠く暮らしをしているのに、せっかく手にした給与を、生活必需品の食料や衣料品ではなく、決して生活必需品とは言えない製品、たとえば高級料理やブランド物のバッグを買うために使う人もいる。この状況に眉をひそめる人ならば贅沢禁止令によってそうした人たちの無節操な消費行動を抑える役割も期待できると考えるかもしれない。しかし、それで救える人より、それで売り上げが下がって生活できなくなる人のほうが多いのが現実だ。ブランド物のバッグを作る人や売る人にとって、生活を切り詰めてまで買おうとする人にバッグを売るのはさすがに躊躇するものがあるし、職業倫理も問い詰めなければならないものがある。だが、普通に生活できている人が生活の余裕からブランド物のバッグを買うというのに何の問題があろうか?

 信西は律令に定められた身分に基づく日用品の所有を厳命したにすぎないと考えたかもしれないが、贅沢禁止令により景気に冷水を浴びせたことという事実は変わらない。そして、贅沢禁止令の他に判明している条文も、ことごとく緊縮財政へと舵を切る政策発表である。信西はこれまでの積極財政を捨て、緊縮財政へと自身の経済政策を転換したのかと考えるしかなくなる。

 しかし、一点だけつながっている点がある。

 それは、増税しないこと。

 信西は納められないままとなっている税を納めるようには命じても、新たな税を創出して納税せよとは命じていない。

 その点に軸足を移すと、信西の方針転換も理解できる。

 万策尽きたのではないのか、と。

 信西が大内裏再建にあたって算木を用いて計算に計算を重ねたことは記録に残っているとおりであるが、その計算は建物の再建ではなく予算の捻出のためであったろう。いかに信西が博識であったとしても、すでに記録として残っている平安京の都市プランの復活ならばどうにかなっても、個々の建物の設計図までどうにかなったとは思えないし、どうにかできると考えたとすれば傲慢に過ぎる。建設は素人がどうこうできるものではない。しかし、予算についてならば信西はどうにかできる、と言うよりも、この時点の後白河天皇政権において信西の他に予算をどうにかできる人はいない。建設については素人でも予算に関してならば信西はプロフェッショナルだ。

 大内裏再建という大規模公共事業はたしかに景気を向上させ失業を減らした。しかし、これは公共事業の持つ宿命であるが、事業の最初と最後に着目を集めることはあっても途中で着目を集めることは難しい。また、一つの事業が完了したあとで別の事業を始めようとしたときは、着目がゼロであるとは言わないが一度目ほどの着目は集めない。事業による失業の救済は続いても、着目に基づく景気の向上に視点を移すと、スタートダッシュのような景気の向上は見られなかったのではないでと思われる。そして、景気を上向きにさせるために予算をギリギリまで投じ、限界を迎えた。

 これは、予算の限界であり、同時に、信西の経済政策の限界であった。

 ここで緊縮財政への転換を図ったのは、緊縮財政を正しいと考えたからではなく、国債という概念のない時代にあっては緊縮財政以外に執るべき手段が無かったからだとも言えるのである。

 緊縮財政は景気を悪化させ失業を増やすが、支持率低下と必ずしもイコールとなるわけではない。特に、天下国家を指揮する能力は無いのに語る意欲ならば旺盛であるという意識の高い人たちに向けて、公共の危機と税の無駄遣いの削減という聞こえのいいフレーズを用いて訴えれば、相手が経済を理解していないという前提ではあるが、結果を伴うこともある。おまけに、信西が指し示したのは藤原頼長とはまた違った、しかし、結論としては一緒である、過去への回帰である。藤原頼長は信念を持って律令制への回帰を訴え最終的には身を滅ぼすこととなったのに対し、信西は政権維持と経済対策として過去への回帰を狙った点で違いがあるとはいえ、過去への回帰という点で違いは無い。

 過去への回帰というのは、指し示す未来の形をイメージ付ける容易な方法の一つである。過去への回帰に類似する方法としては、他国の模倣、マニュアルの整備と遂行といった指し示す未来へのイメージ構築がある。それらは全て、遂行は空想に近いという現実があるが、それでも一定の支持を集める効果がある。かつて熱狂的に藤原頼長を支持しながら、藤原頼長政権の崩壊を経て保元の乱で敗者となったために地位を失った人たちにとっては、一度は失った理想の再現にもなったのである。

 また、後白河天皇は保元の乱の勝者であり、勝者であるがゆえに圧倒的な権威を持つ。権威に従うことで自らの地位を掴もうという人たちにとっては、政治思想や経済政策への不同意があっても、従うことそのものは受け入れられる話になる。

 現在のように選挙を避けては通れない時代では庶民の声を無視するなど政治家として許されないし、選挙の無い時代でも庶民の声を自らの支持基盤とするなら庶民の声を無視することは自らの政治家人生を終わらせるものであるが、信西は庶民の声に耳を傾ける政治家ではないし、庶民の声を支持基盤とする政治家でもない。いや、自らの状況を考えたとき、庶民の支持を得ることは最初から諦めねばならない。結果のためならば自らが嫌われることも引き受けるのが知的参謀の役割を背負うことの宿命である。

 結果を実際に出すかどうかは別であるが。


 保元二(一一五七)年一〇月二二日、大内裏再建工事における功績を称える叙勲が発表された。

 まず、参議従三位藤原忠能が正三位に叙された。藤原忠能は修理大夫(しゅりのだいふ)、今で言う国土交通大臣として平安京再建工事の最高責任者を兼ねており、内裏の中心をなす紫宸殿の造営においても結果を残した。平安京再建工事は信西の発案と計画であり、藤原忠能は命令を実行したに過ぎない。しかし、矢面に立って命令を実行し責任を果たした者は、ただアイデアを出して命令するだけの者よりも評価され高い報償を得ることは当然のこと。この叙勲については誰も異議を唱えなかった。

 問題は二番目の功績を残した者である。平清盛だ。

 紫宸殿の後ろにそびえる仁寿殿を造営させたのは平清盛である。ところが、このときの平清盛は既に正四位下にまで上り詰めており、位階が一つ上がると正四位上となる。慣例として正四位上の位階を得た者はただちに参議以上の役職が保証され議政官入りする。と言うより、議政官入り確実な正四位下の位階の者に対して、近い未来の議政官入りを確約するのが正四位上への昇格だ。何しろ議政官入りをさせないために正四位下からいきなり従三位に昇格させられることもあったほどだ。正四位上で何の役職も無い者はありえないが、従三位で無役職の者は珍しくないと言うのがそのメカニズムである。既に正四位下まで上り詰めている平清盛に何かしらの褒賞を与えるとするなら、議政官入りが確約される正四位上か、あるいは議政官を保証しないものの二段階の昇格となる従三位となる。この双方とも、最高責任者である藤原忠能に与えられた報償を飛び越える報償となる。藤原忠能は命令に基づいて平安京再建工事全体の責任を担い、内裏の中心をなす紫宸殿の再建を実現させたのに、上がった位階は一つだけ。一方、自費を投じて建物を一つ造営しただけの平清盛に二段階昇進をさせることはできないし、かといって、一つだけの昇格として議政官入りを確約させるのも、修理大夫藤原忠能への報償を超えることとなる。妥協を重ねた末、平清盛の長男で一九歳の平重盛が正五位下に昇格し、一一歳の平宗盛が従五位下に叙せられ貴族の一員として名を刻むこととなった。

 造営に対する報償としてはほかに、平清盛の弟で、兄のあとを受けて安芸国司に就任していた二四歳の平頼盛が貞観殿の建造に伴い従四位下に、同じく平清盛の弟で淡路国司でもある二八歳の平教盛が陰明門の建造に伴い正五位下に、平清盛の弟で常陸国司である三三歳の平経盛が淑景舎の建造に伴い従五位上に昇格することとなった。播磨守でもある平清盛を含め伊勢平氏の四兄弟で四つの国の国司であり、今回の再建工事で平清盛の子にも報償が与えられたこともあって、伊勢平氏の勢力伸長は強く印象付けられることとなった。

 伊勢平氏の面々が続々と報償を受けたのに対し、源氏で報償を与えられたのは一人しかいない。出雲国司である源光保である。西廊の造営が評価されて報償の対象となったが、彼もまた平清盛と同様に正四位下であり、報償を与えると修理大夫藤原忠能に対する報奨を超えてしまうため、平清盛と同様に息子の源光宗に報償を譲った。一方、北廊の造営を果たした源義朝については何の報償もなかった。出雲守に対する下野守、西廊に対する北廊と、源光保と同様の役職で同様の功績を果たしたにもかかわらず、源義朝の名前が挙がることはなかったのである。

 なぜか?

 信西は源義朝を無視したのではなく、北廊と西廊を合わせて一つの建物であると考え、源氏全体で一つしか報償を用意できないとしたのである。源義朝は下野国司と同時に左馬頭を兼ねているが、位階は高いものではない。それでも、源氏に与えることのできる報償となると、源義朝の位階を上げるには不足していた。源氏でどうにかできるとすれば源光保の息子の位階を上げるぐらいしたか無かったのである。

 この日の叙勲対象は、ある意味、信西の考えを明瞭に示したものと言える。このときの叙勲の理由は大内裏再建工事に私財を投じて貢献したことへの見返りであり、注ぎ込んだ財力に応じた結果なのである。世の中には貧者の一灯という言葉があるが、このときの信西にその言葉は通じない。いかに源義朝が尽力したとはいえ、北廊の建設だけでは叙勲対象とならなかったのはその例の一つと言えるのだ。

 叙勲の評価は私財の何割を注ぎ込んだかではなく、私財をいくら注ぎ込んだかだけが基準となったのだ。たとえば、全収入の四分の一と五〇分の一を注ぎ込んだ場合、全収入の四分の一を注ぎ込んだ者をより高く評価したくなるのが人情というものである。年収四〇〇万円の者にとって一〇〇万円は途方もない金額だが、年収一億円の者にとって二〇〇万円は、気軽とは言えないにせよ途方もない金額とまでは言わない。どれだけの割合で注ぎ込んだのかに視点を向ければ四分の一である年収四〇〇万円の者が評価となるが、割合でなく金額で評価すると二〇〇万円を注ぎ込んだ年収一億円の者に軍配が上がる。これは人情に欠けると言いたくなるし、面を向かって文句を言いたくもなるが、ある意味、理路整然とした考えではある。

 信西はただ単に理路整然と金額だけで評価したのではない。巧妙なのは、財政が行き詰まっているために緊縮財政とならなければならないことへの一つの解として、私財を投じることを促したことに加え、その対象に伊勢平氏を選んだことである。藤原氏でないどころか、武士である伊勢平氏が、私財を投じた貢献によって叙勲の対象となった。これは伊勢平氏に限らず、今まで藤原氏でなかったという理由だけで将来の展望を描けずにいた者に夢を示すこととなったのだ。人生で望むべくも無かった中央官界への道への希望という可能性である。出家直前こそ藤原氏であったが、人生の多くを高階氏の一員として過ごしてきた信西だからこそ、このように考えたのだとも言える。

 一方、伊勢平氏の若者たち、若者と言っても三三歳の者も含むが、伊勢平氏の次世代を担う面々が揃って叙勲されたことは、世の人に伊勢平氏の財力を思い知らせることにつながったと同時に、伊勢平氏と並べて語られることの多い清和源氏の面々に複雑な思いを抱かせるに充分だった。

 保元の乱の直前の時点で、平清盛の公的地位は安芸守、源義朝は下野守。保元の乱での功績の結果、平清盛は安芸守から播磨守へと転身、すなわち安芸守を辞めた後に播磨守になったのに対し、源義朝は下野守を兼任したまま右馬権頭になったのち左馬頭に昇格した。ここまでは歴史物語である『保元物語』だけでなく『兵範記』にも残されている事実であり、保元の乱のあとの待遇で平清盛と源義朝との間に格差がつけられたことが後の平治の乱の原因の一つとされているが、保元の乱直後の褒賞については、差異はあるが格差はないとも言えたのである。

 しかし、保元二(一一五七)年のこのときの報償は、明らかに格差があった。伊勢平氏の面々は続々と報償を受けたのに対し、源氏は北廊と西廊の二つでようやく一つ分の報償にしかならなかったのである。これは、投じた私財の量の違いがそのまま格差を生み出したことを意味する。

 保元の乱における最大の苦労者は誰かと言われれば、この時代の人は間違いなく源義朝の名を挙げたであろう。保元の乱において最大の兵力を指揮していたのは平清盛であるが、崇徳上皇方の立て籠もっていた白河北殿の攻略に最大の功績を見せたのも、後白河天皇方に逐次情報を伝達していたのも源義朝であるし、そして何より、平清盛と違って実の父と実の弟を処さねばならなかったのが源義朝だ。実の父はダメで叔父ならばいいのかという話は絶対にないが、それでも、世間に与えるインパクトで言えば平清盛よりも源義朝のほうがより多くの犠牲を引き受けたというイメージを伴っていたのである。

 しかし、この日の叙勲に源義朝の名がないどころか、源氏の名そのものが一人しかいない。これは世間の目にとっても、源氏の面々にとっても、そして、源義朝自身にとっても複雑な感情を抱かせるに充分であった。


 保元の乱で後白河天皇方として、崇徳上皇方の立て籠もる白河北殿に向けて向かった軍勢は六〇〇騎。平清盛率いる三〇〇騎、源義朝率いる二〇〇騎、そして残る一〇〇騎を指揮したのが、足利義康とも呼ばれる源義康である。源義康は死期の迫った鳥羽法皇が頼れる武人のとして列挙した五人の武人の中にも含まれており、保元の乱で一部隊を任されるほどの信頼を得ていた。

 ところが、源義康の記録は保元二(一一五七)年で消える。三一歳の若さで病没したのだという。これは源義朝にとって大きな痛手であった。もともと源義康の父である源義国が下野国において勢力を築いていたことを利用し、自身も下野国司となることで、関東地方において勢力を築き上げていたのが源義朝である。源義国は保元の乱の前年に亡くなったが、後継者である源義康は源義朝の貴重な協力者であり、保元の乱においても、乱のあとの関東地方の勢力維持においても源義康に頼るところが多かったのである。ところが、その源義康が三一歳という若さで亡くなった。源義康の後継者たる源義兼はこのときまだ三歳であり、とてもではないが父の穴を埋めてもらうことを期待できようなどない。

 もっとも、源義国と源義康の威光はなおも健在であったようで、当主が亡くなり後に残されたのが三歳の幼児とあっては起こると思われていた所領を巡る争いが全く起こらなかったのだ。これには、源義康の兄、源義兼にとっては伯父にあたる源義重が全面バックアップをしたことも手伝っていた。

 源義国は下野国足利に荘園を築き上げ自らの勢力の拠点としたが、長男の源義重に荘園を相続させていない。その代わり、源義重は上野国新田に荘園を新しく築き上げている。地図で見ると、東に下野国足利、西に上野国新田があるという形で、この二つが合わさって北関東における清和源氏の勢力の北の防衛ラインを構築していた。下野国足利が誰かの手に渡ってしまおうものなら清和源氏の防衛戦が突破されることを意味するし、兄として、弟が甥のために残した資産に手を出そうとする者がいるなら立ち向かうのも当然のことであった。

 この結果、源義朝は、関東地方の平穏を手に入れることに成功した。ただし、京都における信頼できる優秀な部下を失ったことに違いは無く、清和源氏の勢力衰退につながる話にもなった。

 ちなみに、後に室町幕府を開くこととなる足利氏は、源義康を足利家初代当主、父の死の時点でまだ三歳の幼児であった源義兼を足利家二代目当主としてカウントしている。また、太平記の時代で足利尊氏とともに登場する新田義貞の新田氏は、源義重を初代とカウントしている。そのため、この時代の史料では源義重と源義康の兄弟と記されている二人が、後の時代の資料では新田義重と足利義康という名で記され、源義兼のことも足利義兼と記すことが見られる。

 このときの三歳の幼児が、後の源平合戦において、源頼朝の義弟となり、源頼朝に仕える御家人の一人になろうとは、このとき誰も想像していない。

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

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