平家起つ 5.平家の経済政策

 応保元(一一六一)年九月一三日、大規模な人事異動が発表された。

 まず、藤原公能の死去により空席となっていた右大臣に、内大臣藤原基房が昇格。これにより、藤原基房が一上(いちのかみ)としての職務を遂行できるようになった。

 空席となった内大臣に大納言筆頭であった藤原宗能が昇格。年齢から一上としての職務の遂行が懸念されていた藤原宗能であるが、左大臣が一九歳、右大臣が一八歳という異例な体制、特に経験不足への危惧に対する答えとして、経験実績ともに申し分ない内大臣が控えるというのは望ましい形式である。また、七八歳と言う高齢を考えたときも、大納言筆頭であるより内大臣であるほうが少ない負担ですむ。

 藤原宗能が抜けた大納言職には、三八歳の権大納言藤原忠雅と四四歳の権大納言源雅通の二人が揃って昇格した。

 二人が抜けた権大納言職には、藤原忠通の六男で、後に九条兼実と呼ばれることとなる権中納言藤原兼実が昇格。また、中納言藤原公通が権中納言を飛ばして昇格した。藤原公通は四五歳であるが、藤原兼実はこのときまだ一四歳である。一四歳の権大納言は若すぎると感じるであろうが、左大臣藤原基実と右大臣藤原基房の二人に次ぐ藤原摂関家の後継者としてはごく普通としてよい待遇である。

 中納言の空席を埋めたのが権中納言藤原実長、そして、藤原実長の抜けた権中納言の空席を埋めたのが、参議平清盛。平清盛は検非違使別当と右衛門督の兼任を継続している。正確に言えば参議から権中納言に昇格する際に改めて任命し直されているのだが、これは儀礼的なものであり、継続するか任命し直すかは特に意味は持たない。

 平清盛を参議より上の役職とすることは避けられぬことであり、昇格した後も検非違使別当を兼ねることもまた不可避であった。問題は、誰を平清盛のあとの参議とするかということ、具体的には、平清盛の後継者であり、平家の序列で二番目に位置する二四歳の平重盛を参議にするかどうかという問題に絞られていた。平重盛は従四位上内蔵頭であり、位階を一つあげれば参議として議政官入りすることは可能だ。しかし、三位以上の位階でありながら参議につけずにいる者は応保元(一一六一)年九月時点で六名いた。正三位が一名で従三位が五名である。特に正三位でありながら参議にもなることなく、既に六三歳を迎えていた藤原親隆の処遇が問題であったのがこのときである。

 結論から記すと、九月一三日に参議に昇格したのは、平重盛でも藤原親隆でもなく、三五歳の従三位左京大夫の藤原隆季である。現在で言うと東京都副知事が国会議員になるようなもので、順当とするしかない。

 そう、九月一三日時点では。


 応保元(一一六一)年九月一五日、二条天皇が何の前触れもなく平家の面々らに解官処分を下したのである。

 処分を受けたのは、平清盛の弟で常陸介であった平教盛、平清盛の正妻である平時子の弟であり平滋子の兄でもあることから後白河上皇と平清盛の双方の義弟である右少弁兼右衛門佐の平時忠、平清盛の次男で左衛門佐の平基盛、さらに処分を受けたのは平家だけではなく、右馬頭藤原信隆、そして、四月に政界に復帰したばかりの藤原成親も処分の対象となった。

 公的な処分の理由は、平滋子が産んだ皇子を次期帝位に就けるべく画策したことに対する処分である。ただし、その証拠はどこにも無い。平家物語における有名な暴言である「平家ニ非ズンバ人ニ非ズ」の発言者はこのときの処分を受けた一人である平時忠であるということになっているが、かの暴言を口にしとされているのはたこのタイミングではない。平時忠の生涯を考えると別の暴言を放ったことは可能性として想像できるが、それでも生まれたばかりの皇子を帝位に就けようなどと口にしたとは思えない。本当にそう言ったとしたなら、現在であればせいぜい支持者が激減して次回以降の選挙で全て落選するだけで済むが、この時代であれば、運が良ければ公職永久追放、通常であれば死ぬまで遠流となる暴言である。いかに浅慮な人であってもここまでの暴言は口にしない。

 そもそも、本当にこのような暴言を言ったならば解官処分だけで済むわけはない。ゆえに、生まれたばかりの皇子を皇位に就けようという言葉が出たこと自体が証拠の無い言いがかりであり、処分そのものは唐突でも、処分を下すまでは充分に準備をしていたことは容易に想像できるのである。

 なぜか?

 後白河上皇院政派に対するダメージを与えるとともに、二条天皇親政の強化を図っているからである。後白河上皇院政派にダメージを与えるには平家にダメージを与えるのがもっとも効率良いが、平清盛と平重盛の二人をはじめ、平家の、そして後白河上皇院政派の中心となっている面々にはまったく手を付けていない。それどころか、後白河上皇の強い推薦、すなわち、院政におけるキャリアアップ手段を利用することなく、既存の朝廷システムに則って相応の地位を用意するとしている。こうなると後白河上皇の権勢を頼る意味はなくなり、院政そのものの意味が無くなる。

 二条天皇親政派の突きつけた条件の前に後白河上皇院政派は揺らぎを見せ、およそ半月後の応保元(一一六一)年九月二八日、二条天皇による親政が完成した。平清盛が二条天皇親政派に転じたのである。二条天皇が里内裏としていた押小路東洞院殿の警護を平家の武士達が担当すると明言し実際に武装を敷いたことで、平清盛が後白河上皇からの決別したことが明示されたのであった。

 平家というのは良かれ悪しかれ一枚岩である。平清盛がいてその他の平家がおり、平清盛の指示のもとで全ての平家の者が同じ行動を見せる。平清盛の長男である平重盛が平清盛の一番の右腕であり、他の平家の者より一段上に位置してはいるが、平重盛とて平清盛の前ではその他の平家の一人に過ぎない。平重盛が父とは別に平家の中で一つの新勢力を築くことなどありえないし、ましてや父と袂を分かって別行動をするとはもっとありえない話である。

 平家の中には有能な者もいれば無能な者もいる。平清盛は全ての平家の者に対する責任を負っているが、朝廷によって官職を追われたとなれば話は別だ。平家の中でさほど期待できない者を解官させたことで平清盛を身軽にし、その上で平清盛を招き入れると、平家の中で役に立つ者、すなわち朝廷権力において有用となる者だけが選抜された状態で自らの派閥の一員になることとなる。


 二条天皇親政派はさらに平家に対する優遇を用意した。応保元(一一六一)年一〇月一九日、平清盛の弟の平経盛が若狭守に就任、同月二九日には、同じく平清盛の弟の平頼盛が右馬頭に就任した。平頼盛は、中務権大輔、太皇太后宮亮、尾張守を兼ねている上での右馬頭就任である。遡ると、保元の乱の後の源義朝が下野守を兼ねたまま左馬頭を兼ねたという先例があるから、左馬頭の一つ下の役職で兼職することそのものはおかしなことではないが、それにしても兼職が多すぎる。

 もっとも、それが平清盛の意向であるとしたら納得はできる。

 この時代の平家は、平清盛がトップに君臨し、その下に平重盛がいて、平清盛の弟や平清盛のその他の息子は平重盛のさらに下に位置するという構造である。平頼盛は平重盛の叔父であるが年齢差は五歳差であり、平重盛に何かあったときを考えると、平頼盛を平重盛のバックアップとする構想は無理なものではなかった。また、平家の軍勢をいくつかの部隊に分けるとき、主力の指揮は平重盛に執らせたが、その他の軍勢の指揮の一つは必ず平頼盛が担当していた。

 平忠盛の長男が平清盛で、次男の平家盛は久安五(一一四九)年に死去、平経盛は三男で、平頼盛は五男。四男の平教盛は九月一五日に解官となっている。その他に平忠盛の子として平忠度がいたこと、この時点の平忠度はまだ官界デビューしていないことは間違いないのだが詳細は不明である。

 まとめると、応保元(一一六一)年一〇月時点で平忠盛の子のうち官界に身を置いているのは、平家のトップである長男平清盛、三男平経盛、五男平頼盛の三人となる。平清盛から見れば、平経盛と平頼盛の二人の弟ということになる。平清盛は、二人の弟のうち、平重盛に万が一のことがあったときに平家を託せるのは平頼盛であると考えたのであるが、その判断は間違っていなかったと言える。貴族としても、武人としても、能力は平経盛よりも平頼盛のほうが高かったのは間違いない。ただ、平重盛に比べれば劣るという問題はある。

 その劣ると見抜いた平頼盛を選ばなければならないというのは、平家の最大の弱点である人材不足を如実に示す一例でもある。

 たしかに平清盛は武人として超一流であるが、政治家として一流とは言いがたい。圧倒的な武力を持つがゆえに議政官において存在感を発揮しており、その意見も無視されずにいるものの、成し遂げたい政策を実現するのに他者との妥協や協調を図ってはいないのである。

 政治というものは、いかに自分の意見が正しいと確信していても、自分以外の人の賛同を得なければ遂行することはできない。民主主義において賛同の意思表示を求めるのが選挙であるのだが、民主主義など存在せず選挙の無いこの時代であっても、議政官という議決システムで法案を審議して可決しなければ法として有効にならない時代ではある以上、誰からの賛同を得ることもなく自らの意見を押し通して法とすることはできない。

 賛同を求めるという資質を平清盛は明らかに欠いていた、あるいは資質はあったかもしれないが発揮することはなかった。自らの信念の正しさを確信していた上に、賛同を求める必要性を理解していなかったとするしかないのだ。説得するどころか協力を求める素振りすら無く、自分の正しさに周囲は黙って従うべきというのが平清盛の偽らざる心情であったと言うべきか、あるいは単にコミュニケーション能力が低かったのか、それとも孤高を気取ったのか。

 超然としていようと、コミュニケーション能力を欠いていようと、孤高な一匹狼と嘯(うそぶ)いてハードボイルドを気取ることはできるが、政治の世界での孤高な一匹狼は政権とは無縁の弱小な存在でしかない。議場に赴いて賛否の一票を投じることはできても、自らの意思を政治に反映させることはできないのが政治の世界というものだ。

 平清盛はそれがわかっていなかった。

 誰かの賛同を求める必要を感じたとしても、平清盛に賛同するよう要請するためには、平清盛も賛同を求めた相手の要求に応えなければならない。ギブアンドテイクはあってもゼロアンドテイクは存在しない。結局、平清盛の意見に無条件で賛同する人を探すとなると同じ平家の人しかいない。

 ならば平家を増やせばいいとなるのだが、それも難しい。平家の生まれでなくても、平家の政治に賛同する人、あるいは平家の勢力に飲みこまれることを受け入れる人を募れば政治勢力としての平家の拡張も図れるが、平清盛はそれを試みてもいない。そもそも、平家に仕える武士の多くは平忠盛に仕えてきた武士であり、平忠盛に仕えてきた武士達は平清盛のことを平忠盛の後継者であるがゆえにトップとして認め、時間とともに平清盛もトップとして認めるようになったという経緯がある。しかし、平清盛の個人的魅力で平家のもとに身を寄せる武士がいったいどれだけいるかとなると、これが心許ない。平忠盛は人を引きつける魅力があったが、平清盛は父と違って、既に味方である人をつなぎ止める能力ならばあっても、新しく人を引きつける魅力は乏しかったのだ。

 その穴を多少なりとも埋めることができていたのが、平清盛の長男の平重盛の存在である。武人としての力量は父に匹敵し、政治家としての能力は父を上回っている。平清盛には賛同できなくても、平重盛ならば、賛同はともかく協力ならば不可能ではないという貴族も少なくはなかったのだ。ただし、平重盛の訴える内容を耳にするまでは。


 ここで、視点を中国大陸に向ける必要がある。一一六一年、金帝国の南宋への侵攻がようやく止まったのだ。

 一一四二年の紹興の和議で南宋と金帝国との間の国境線は定まってはいたものの、情勢としては金帝国のほうが優位で南宋は防戦一方という構図であった。このまま両国ともに戦闘状態に打って出なければ平和は維持されたはずであるが、金帝国の皇帝に海陵王が就いてから平和が崩れてきたのである。

 海陵王が金帝国の帝位に就いたのは一一四九年。もともと従兄である熙宗を殺害して帝位に就いたという経緯もあり、海陵王への支持は必ずしも高いものではなかった。また、金帝国は契丹を倒して成立した国でもあることと、宋の北半分を侵略した国でもあることから、国内に契丹の遺民と宋の遺民も多くおり、国内に民族問題を起こしていた。特に、宋の遺民である漢民族が被支配民族となって金帝国にいると同時に、国境の南には漢民族の国家である南宋が存在しており、多くの漢民族が国境を越えて南へと向かっていると同時に、南宋からの金帝国に向かって多くの漢民族が流れ込んでいるという問題があった。

 国境を越えた商売というのは国内よりも利益をもたらすことが多い。しかも、同じ言葉を話す同じ民族が人為的な国境で分けられているだけである上に、国境警備が厳重ではない。というより、いかに軍事力に優れている金帝国と言えど、南宋との間をなす長大な距離の国境警備を厳重にできるほどの軍事力は無い。また、金帝国が宋の北半分を征服したと言ってもかつての宋の土地での経済からの利益を金帝国の徴税源として考えたとき、国境警備を厳重にするぐらいならば国境警備を甘くした上で漢民族の行き来を黙認するほうが税収は安定する。

 ただし、いかに黙認したとしても、金帝国の国内に在住の漢民族のほとんどは、自分のことを金帝国の国民ではなく南宋の国民であると考え、金帝国ではなく南宋の法に従って生活していること、税を納める先も金帝国ではなく南宋であることが多く、徴税吏が来たら南宋へと脱走するのも頻繁に見られたこと、そして何より、金帝国の軍に対して全く協力しないことは、金帝国にとって頭痛の種であった。

 金帝国皇帝となった海陵王が考えた問題解決の方法は一つ、南宋を併合して漢民族全体を金帝国の国民とすることである。この南宋併合が問題であった。海陵王を除く全ての人が反対したのだ。そのような軍勢を用意する能力など今の金帝国はないというのがその理由である。

 海陵王の決断は、よく言えば単純明快、普通に考えれば浅慮である。

 自らを金帝国の絶対独裁者とするべく、歴代中華帝国に倣って金帝国にも設置していた三省のうち中書省と門下省を廃し、尚書省のみを皇帝直属の組織とさせることで皇帝を頂点とするトップダウンの国家組織を作り上げ、首都を会寧から、燕京、現在で言う北京に遷したのである。その間には確認できるだけでも五〇名、記録によると一三〇名以上の家臣を粛正している。

 海陵王は、一一五八年に南宋が紹興の和議を違反したとして正式に南宋に抗議をすると、翌年には金帝国の国土全域に対して徴兵令を敷いた。健康な成人男性を全員徴兵するという異常としか言いようのない命令であるが、皇帝からのトップダウンになっている金帝国に皇帝命令を制御する機能はなく、徴兵制反対を骨子とする反乱が金帝国の国内で発生するまでに至った。

 前述の通り、金帝国と南宋との間の国境は開いている。そして、漢民族は金帝国と南宋との間を自由自在に行き来している。どんなに情報を統制しようとも、これだけ人の行き来があれば金帝国で何が起こっているのかも、これから何が起ころうとしているのかも、南宋に伝わる。


 一一六一年一〇月一五日、かつては宋の首都であり、金帝国の支配下に組み込まれた後も金帝国の重要都市の一つであった開封を金軍が出発。南宋軍からの抵抗をほとんど受けることなく二八日に国境となっていた淮河に到着し、その後も南宋の領土に侵入し長江まで軍勢を進めた。金軍は全体を四つの軍勢に分けており、うち一軍は海陵王が自ら率いていた。

 今までであれば南宋の軍勢は金帝国の軍勢の前に敗れ去っていたが、このときは違った。四つに分けた軍勢の一つが南宋軍に敗れたのである。しかも、南宋軍のほうが国境を越えて金の領土へと進むまでになっていた。

 戦線の拡がりを懸念した海陵王は全軍を一箇所に集め、一気に長江を渡って南宋の首都である臨安へと向かうことにした。一方の南宋も、長江を渡ってくる金帝国の軍勢を迎え撃つべく一二万人の軍勢を集めた。

 一一月二六日、長江を渡ろうとする金帝国軍と、長江で迎え撃つ南宋軍との戦い、いわゆる「采石磯の戦い」がはじまった。

 南宋軍はこの戦闘に備えて三四〇隻の軍船を用意した。この軍船は小回りが利くだけでなく、当時の最新技術である「霹靂砲」を搭載していた。霹靂砲は紙で石灰と硫黄を包んだもので、これを水面に向かって投げつけると硫黄が燃え上がってカミナリのような爆音が鳴り響き、紙が破れて石灰が水面に広がると大量の煙が発生する。煙で身動きが出来ない金軍の軍船に南宋の軍船が襲い掛かり、煙が晴れた頃には金軍の船が南宋軍の手に落ちていた。「霹靂砲」の中には内部にヒ素を混ぜているものもあり、煙そのものの毒性で南宋の軍船が攻め込む前に金帝国の軍船の中では多くの兵士がバタバタと亡くなっていった。

 采石磯の戦いでの戦況の不利を見た海陵王は、全軍にいったん退却を命令。その上で翌日の再攻撃を計画し再戦を挑むも、前日の悲劇は繰り返され、金軍は軍船を全て燃やした上で北へと退却していった。金帝国にとっては痛切な敗戦であり、南宋にとっては金帝国相手の軍事情勢を一変する大勝利であった。

 南宋はこのとき金帝国の二万四〇〇〇名もの兵士が亡くなったと記しているが、現在の研究者が計算する金帝国の死傷者はもっと少ないであろうとしており、多く見積もっても四〇〇〇名の戦死者が上限であろうとしている。戦死者数だけを見れば海陵王は再戦可能であったろう。だが、海陵王は再戦を挑まなかった。いや、挑めなかった。軍勢を率いて南宋攻略に向かっている最中に首都では海陵王の従弟の葛王烏禄が皇帝に擁立されていたのである。その上で、もはや皇帝と扱われなくなった海陵王は期間中に殺害されたのである。

 死後も海陵王は殺害された。中華帝国の皇帝は日本国の天皇と同様に王ではない。にもかかわらず、海陵王は王ということになっている。死後、皇帝の資格なしとして王へと格下げとなり、さらに王族の籍すら外されて庶人に落とされた。そのため、金帝国の歴史では皇帝でありながら海陵王という名で記され、金帝国の正史には廃帝海陵庶人と記されている。


 金帝国が南宋の前に敗れ去ったことは、南宋との交易も一変することを意味した。

 これは平忠盛の頃から伊勢平氏が主張し実践してきたことであるが、平重盛もまた自由貿易を、それも南宋との自由貿易を訴える人であったのだ。自由貿易を推し進めるという経済政策自体は、それはそれで構わない。自由貿易で破壊される国内産業もあるが、成長を見せる産業もある。産業構造の変化を推し進めるのであれば自由貿易によって以前より豊かな暮らしが手に入るのも歴史が証明している。もっとも、産業構造の変化を推し進めなければ産業が破壊されるのみで失業者が急増し、一部の持てる人と、多くの持たざる人という構造が生まれてしまう。国内市場に海外からの製品が流入してくるのだから、海外からの製品に勝てるだけの生産をしなければ生き残れない一方、海外市場もマーケットとして見込めるのだから、海外からの製品に勝てる生産ができれば、海外への輸送のコストさえどうにかすれば、これまで以上の豊かさを手に入れることに成功するのだ。この成功は、レッセフェールでもやがていつかは生まれるが、レッセフェールでは、成功が生まれるまでに社会にもたらすダメージが大きすぎる。ゆえに、自由貿易の拡大を図るならば、失業の救済をセットにした産業構造の変化、具体的には失業者を勤労者として雇用した上で海外市場に勝てる生産ができる社会になるよう、国策として推し進める必要がある。公共事業に資金を投じるのでもいいし、国策として新産業の創設を支援するのでもいい。自由貿易下で国内の全ての人が生き残るための手立てを講じれば、自由貿易経済は暮らしを今まで以上のものとすることができるのだ。

 このメカニズムがわからずに自由貿易を推し進めると、格差の拡大、格差の固定、そして莫大な失業を生み出してしまう。自由貿易を訴える平重盛の意見には賛同できても、産業構造の変化の推進のための方策もなければ、具体的な失業回避策もない平重盛の意見は危険であった。それに、貴族たちは、貿易によって豊かになってきている平家の資産を、言い方を変えれば、平家は豊かになるが平家以外は知ったことではないという無責任極まりない態度を見たのかもしれない。顰蹙以外が考えられないこの態度も一個人であれば、あるいは一氏族であれば黙認できるかも知れないが、平家はもはや氏族集団でなく政治集団であり、断じて許されることではなくなる。

 平重盛は南宋との自由貿易をそのままで良いとしていたが、平清盛はかなり大それた計画を立てていた。自らが太宰大弐として太宰府を、そして博多港を管理できる立場であったからゆえのことと考えられるが、南宋と博多で交易するという、当時の人は当たり前過ぎていて誰も疑問に思っていなかったことに、平清盛は疑問を抱いたのである。そもそもなぜ博多港なのか、と。

 たしかに博多港はこの時代の日本で最大の交易港である。天然の良港であるだけでなく、港湾設備においても博多港を超える港はこの時代の日本に存在しない。また、大陸との距離を考えても博多港に入港した南宋の船を相手に交易するというのはベストチョイスであると普通ならば考える。だが、日本経済全体を考えると、博多は必ずしもベストチョイスではない。この時代の日本国の生産の中心は近畿地方であり、近畿地方で生み出された生産品を積んだ船を瀬戸内海で九州まで運び、博多港で南宋との交易の船に積み替えるのが南宋との交易の一般的な構図であったが、この途中が問題であった。

 瀬戸内海の海賊の問題もあるが、海賊の問題を解決したとしても瀬戸内海の航行そのものの安全性が現在と比べるに値しない低レベルなものであったのがこの時代だ。造船技術もあるし、操船技術もある。天候対策の点でも瀬戸内海の航行は安全とは言い切れない。この時代にモーターなどないし、スクリューなど概念としても存在しない。船の動力と言えば、人力で櫂を漕ぐか、海流に船体を任せるか、帆を張って風を捉えるしかない。それでいて、当時の船は帆が四角形だ。塩野七生氏の著書にもあったが、船の帆が三角形であれば逆風であっても船をジグザグに進めることで目的地まで向かわせることができるが、船の帆が四角形であると、順風ならば風を捕まえてかなりのスピードが出せるものの、逆風となったなら船は進むどころか後ずさりすることとなる。また、逆風であろうと順風であろうと風があるならまだマシで、そもそも風がないのでは船が立ち往生することとなる。


 ただし、瀬戸内海の海流は少し特殊だ。通常の海域ならば海流は常時一方通行であるが、瀬戸内海の海流は月の満ち欠けと連動して頻繁に変化を見せる。中央まで出ると東から西へと海流が進んでいるのに海岸沿いは全く潮の流れが無いなんてこともあるし、海岸沿いは東から西に海の水が流れているのに瀬戸内海の中央部まで来ると逆に西から東へ海の水が流れていることも珍しくない。これが瀬戸内海の航海を難しくさせている理由である。もっとも、風と潮の流れを手に入れることができれば瀬戸内海の航海そのものは不可能では無くなる。そう、手に入れることができれば、という難しさを伴うが。

 だが、それでも瀬戸内海は日本海や東シナ海に比べればそれでもまだ安全で航海しやすい海域なのだ。瀬戸内海を苦労するような船しか作れず瀬戸内海で四苦八苦する程度なのがこの時代の日本の海運である一方、南宋の船は瀬戸内海とは比べものにならない危険な海域である日本海や東シナ海を自由自在に航行している。もう少し後の時代となると日本の船乗りのほうが倭寇として名を馳せることとなるが、この時代の日本は倭寇どころか逆に海賊の被害を受ける側であり、大陸の船の前に逃げ惑うのが日本の側であったのだ。

 海賊ついでにさらに言うと、海賊の問題は大陸からやって来る海賊だけの問題ではなく日本国内の問題でもあった。瀬戸内海を航行する船は瀬戸内海の海賊に襲われる可能性が極めて高かった。海賊に抵抗したら待っているのは奪えるものは全て奪っての殺戮、あるいは拉致監禁と人身売買であり、安全に航行するためには海賊に前もって通行料を払わなければならなかった。さすがに海賊のほうも通行料だけとって船を沈めるということはしない。と言うより、そのようなことをしたら平家の軍勢がやってきて海賊が海の藻屑と消え去ることとなる。海賊が海賊として生き残るためには、通行料を払った船に対しては自分たちの縄張りを航行する限りにおいて航行の安全を保証しなければならない。徴収する通行料を安全な航行のための必要経費ということにすれば、一応は法に触れないこととなる。もっとも、願わくはそのような通行料など払いたくはないと考えるほうが当たり前であり、多くの船が通行料無き航行にチャレンジし、失敗し、襲撃される運命にあったのがこの時代だ。

 その瀬戸内海に、瀬戸内海どころではない危険な海域を航行しても平然としている大陸の船がやってきて、近畿地方の港に停泊したらどうなるか?

 苦労する日本の船を尻目に瀬戸内海を我が物顔で自由自在に航行できることとなる。

 東シナ海や日本海を越えるような船に襲撃を掛けるような瀬戸内海の海賊はいない。いないというより、できない。人海戦術で櫂をこいでスピードを上げれば船に追いつくこともできようが、追いついたところで、そのような船には乗組員だけでなく武装した兵士が護衛して同乗しているのが通例だ。そうした護衛のいる船に襲撃を掛けたら海賊のほうが海の藻屑と消えることとなる。

 海賊をものともしない船が近畿地方の港に接岸したなら、日本にとっては博多まで生産品を運ぶ必要が無くなるだけでなく、瀬戸内海の海賊に支払う通行料がゼロとなる。それまで博多港で日本の商品を受け取っていた南宋の船は、博多港で受け取るときの金額は商品価格に近畿地方から九州までの輸送費を上乗せした金額であったのが、輸送費を上乗せしないでいい金額となる。海賊だけが被害を受ける一方、近畿地方で輸出向けの生産品を作る人と南宋の船はメリットを受けることとなる。また、博多の近くで生産品を作っていた人が近畿地方にまで生産品を運ばなければならないということもない。近畿地方まで出向いた船は、往路でも復路でも博多港を経由するのが普通だ。近畿地方で充分な積み荷を積んでしまっているためにこれ以上の貨物を載せられないという場合を除き、博多港の近くで生産していた人は今まで通り南宋の船に向けて売ることができる。

 ただし、瀬戸内海はこの時代の日本国の最重要幹線であり、同時に、国防の面においてネックとなる海域でもある。関門海峡から瀬戸内海に入ったあと船を東に進めれば、到着するのは近畿地方、すなわちこの時代の首都圏である。その船が純粋な交易だけの船であれば問題はないであろうが、船に乗っているのが商人ではなく軍隊であったらどうなるか? 難波津に到着し、淀川沿いを北東に進めば、そこはもう平安京だ。平安京が陥落しようものならこの国は終わる。平安時代の日本国がいかに内裏焼亡の影響で里内裏を転々としてきた時代であるとはいえ、里内裏は平安京内にとどまる話であり、平安京の外に内裏が置かれることはない。しかも、平安京に国政のほぼすべての施設と人員を集中させている。平安京陥落は日本国滅亡に等しい。


 平清盛はそのことを考えなかったのか?

 そんなことはない。

 平清盛が考えたのは、難波津ではない別の港を近畿地方に建設することである。

 その港の建設場所は、博多に比べれば平安京にはるかに近いが、平安京と目と鼻の先と言うには多少の距離があり、侵略のために上陸されたとしても迎撃するだけの時間を稼げる場所であり、かつ、大型の船の航行と停泊に支障の出ない場所である必要がある。それでいて、平安京とは淀川と大阪湾を用いた水の道が、天候などで水上がダメになったとしても陸路でさほどの困難さもなく移動可能でなければならない。

 かなりムシの良すぎる話であり、そこまで都合の良い場所が果たしてあるだろうかと思うかもしれないが、平清盛は見つけ出した。

 その場所こそ摂津国大輪田泊、現在の神戸だ。

 この時代、難波港を出た船が瀬戸内海を経て博多に向かうとしたならば、河尻泊(現在の尼崎市)、大輪田泊(現在の神戸市)、魚住泊(現在の明石市)、福泊(現在の姫路市)、室生泊(現在のたつの市)という順番で西へ向かうのが一般的であった。前述のように風と潮の流れを利用するのがこの時代の瀬戸内海の航海であるが、昼夜通して航海し続けることは滅多に無く、航海できる風や潮の流れがやって来ないとなると、途中で風待ちや潮待ちをすることとなる。このときの港湾設備が泊(とまり)で、歴代の執政者はこうした泊の整備に努めてきた。たとえば、藤原良房が若き頃に右大臣であった清原夏野は失業対策も兼ねて魚住泊を大規模に整備している。

 目安としては泊から泊までの間が一日の航行距離であり、一日掛けて泊まで船を操り、風を待って、あるいは潮の流れを待って、次の泊を目指して航海に出る。これを繰り返すのが瀬戸内海の航行である。もっとも、風に恵まれ、あるいは潮の流れに恵まれれば、泊を一つ二つ飛ばして航行することも可能だ。交易のスタートを難波津と考えると、現在の尼崎市にある河尻泊を飛ばして現在の神戸市にある大輪田泊にめがけて船を進めれば一日分の行程を短縮できる。

 関西に在住のかたは、現在の神戸市営地下鉄海岸線が神戸市のどのあたりを走っているかを思い浮かべていただきたい。その路線のあたりがそのまま、平安時代の神戸の海岸線である。六甲アイランドも、ポートアイランドも、その他の埋め立て地も無いため、今から一〇〇〇年前の神戸は和田岬だけが海に突き出た地形であった。和田岬が突き出ていることで、風が西から東に流れているときに、東から西に向かいたい船があったなら、和田岬に隠れることで船が逆に押し戻されずに済むようになる。この和田岬に守られている港湾が大輪田泊である。風が東から西に吹いているとき、あるいは海流が東から西に流れているとき、難波津から和田岬めがけて出港すれば大輪田泊まで一気に航行できる一方、大輪田泊から難波津に向かうのに適切な風が西から東に向けて流れているとき、和田岬がジャマをして和田岬の影響を受けない場所まで出てから西から東へ向かうこととなる。つまり、難波津から大輪田泊まではすぐに行けるが、大輪田泊から難波津までは多少の時間がかかる。時速六〇キロを出せるサラブレッドなどこの時代の日本には存在しないが、この時代に存在する馬でも時速四〇キロまでなら出せる。おまけに、大輪田泊のすぐ近くにあるのはこの時代の最大の幹線陸路である山陽道だ。いかに律令制当時の道路行政が瓦解していたこの時代であってももっとも頻繁に利用されてきた陸路である。この時代の馬であっても、海を進む船より陸上を進む馬のほうが早く平安京に着く。

 平安京侵略を狙って大輪田泊に停泊した船があるとして、大輪田泊から難波津まで航行するのはスムーズに行かない一方、大輪田泊から平安京まで早馬を飛ばせば軍勢を難波津に結集させるだけの時間を稼げる。大輪田泊から上陸して陸路を進むとしてもその途中で迎撃できる。武士として国防を考えるなら大輪田泊はかなり合理的な選択だ。

 国防だけでなく港湾設備と船の安全な航行を考えたとき、関西在住のかたなら容易に思い浮かべることが出来るであろう神戸の地理がもう一つある。六甲山だ。六甲山からはたくさんの川が瀬戸内海に向かって流れているが、そのどれもが河川として小規模に留まっている。水害を気にしないでいいというレベルではないにせよ、京都の鴨川や桂川、大阪の淀川に相当するような大きな川ではない。そのため、神戸の沿岸に流れ込む土砂はさほど大量の物とはなっていない。土砂が大量でないということは、神戸の瀬戸内海沿岸にさほどの土砂が溜まらないこと、すなわち、大きな船が接岸できるだけの海深を維持できることを意味する。おまけに、六甲山は北から南に吹く風から海を守る壁になってくれてもいる。風から守られているということは海が穏やかだということだ。

 ただし、大輪田泊には難点もある。北から南に吹く風は六甲山が守ってくれる。西から東に向かう船は和田岬が守ってくれる。だが、東から西に吹く風から守ってくれる存在は無い。六甲アイランドやポートアイランドがある現在ならまだしも、海が広がるだけの今から一〇〇〇年前の神戸の地形にそうした存在は無い。

 律令制の頃から大和田泊の港としての可能性は検討されていて、東から西へ吹く風から船舶を守るために石造りの堤防である石椋(いわくら)を建設し維持することが定められ、摂津国では徴収した税のうちの一定割合を石椋の維持費として当てるよう定められていたのであるが、維持どころか建設の段階で頓挫したらしく、時間とともに空文化していた。

 平清盛はここに目を付けたのである。

 大輪田泊から失われている石椋を復活させ、大輪田泊の港湾機能を博多港と同等にまで引き上げると同時に、山陽道に面した集落である摂津国福原に都市を築き、大輪田泊と福原とを一つにまとめた都市を成立させるのである。摂津国福原は大輪田泊のすぐ近くの集落であり、平安京ほどの規模では無いにせよ、都市を築くのは不可能ではない規模の広さの土地もあった。また、都市に欠かせぬ上下水について目を向ければ福原は平安京よりも優れているほどであり、この土地に都市を築き上げるというのは無謀ではない現実的な平清盛のプランであったのだ。

 自由貿易は一般的に、都市部にメリットを、農村部にデメリットをもたらす。人口の大部分が農村部であるこの時代に自由貿易を推進する平家の政策は世論の多くを敵に回す政策であるが、平清盛がやろうとしたのは農村部への妥協ではなく都市化である。自由貿易でメリットを得られる人を増やそうとしたのだ。しかも、ゼロから始めるのではなく、元々定められていた規定を復活させるだけなのだから、前例踏襲にこだわる人ですら文句を言えないプランである。

 もっとも、石椋の復活そのものは難工事であり、実現させるのはもっと先の話になる。

 このプランを二条天皇親政派は承諾したのだ。もっとも、プランそのものに賛同したからではなく後白河上皇院政へのダメージを与えることが主目的であったが……


 平家の引き剥がしに成功した二条天皇親政派は、派閥のさらなる強化に打って出た。かつて、天皇親政を訴える面々と言えば藤原摂関政治を否定する面々であると相場が決まっていたが、院政以後、天皇親政支持と藤原摂関政治支持とが密接につながるようになっていた。厳密に言えば、院政以後貧しくなっているこの国の現実に目を向けた結果として、上手くいっていた藤原道長の時代への慕情が、藤原摂関政治への回帰と天皇親政との間に一致する認識を築いていた。

 応保元(一一六一)年一一月二六日、藤原忠通の養女で、この年一六歳になっていた育子(むねこ)が、義兄である関白藤原基実の猶子となったのである。摂政関白の娘が皇族に嫁ぎ、生まれた男児が天皇となり、天皇の祖父である者が次の摂政となり関白となる。このシステムを再現するのに藤原育子は適切な女性であった。ちなみに、藤原忠通の養女であったという記述からも想像できるように、藤原育子は藤原忠通の実子ではなく、今は亡き左大臣藤原実能の娘である。藤原育子と名乗るようになったのも藤原基実の猶子となってからで、それまでは藤原香子という名であった。

 応保元(一一六一)年一二月一六日、鳥羽法皇の皇女で美福門院藤原得子の娘でもある障子内親王に、二条天皇の准母として八条院の院号が贈られた。

 その翌日、藤原育子、入内。これにより、かつての藤原摂関政治と同様の皇室と藤原氏とのつながりが蘇った。もっとも、これまでも皇室と藤原摂関家とのつながりの復活は何度もあったのだ。娘が皇室に嫁ぎ、生まれた男児が帝位に就き、祖父である藤原氏の者が摂政に、次いで関白に就くという仕組みの復活は何度も何度も検討され実行されてきたのである。ただ、そのどれもがうまくいかなかった。理想とする藤原道長の時代の復活は果たせなかった。

 復活が果たせなかった理由は院政の影響に帰結すると考えれば実にわかりやすい回答であろう。そして、院政復活を目論む後白河上皇から権勢を奪うことによって院政を停止させ、かつてのような藤原摂関政治が、より正確に言えば、藤原道長の頃の豊かな日本が蘇ると考えるのも理解できる話だ。理解できる話ではあるが、年月を経る毎に劣化していることの原因と対策は、そこまで簡単な話ではなかった。たしかに院政も理由の一部ではあるのだが、それだけが理由なわけではないのだ。

 そもそも年月を経る毎に劣化しているとはどういうことか?

 後三条天皇のときは一気に、その後も年々、国民生活が悪化していたのである。当時の一人当たりGDPを計算すると、藤原道長の時代がピークで、後は年々減っている。急激ではないにせよ人口が増えてはいるので国内総生産という意味では増えてはいるが、国内総生産の伸びは人口の伸びを下回り、結果として一人当たりGDPを下落させていたのだ。

 なぜ年々貧しくなっているのか?

 社会構造が変化し、自然環境が変動したからである。


 先に自然環境について記すと、全地球的な寒冷化が挙げられる。温暖化の進んでいる現在とは真逆の、しかし、結果としては同じ結果を生み出した。

 不作だ。

 東京大学大気海洋研究所は、広島湾の海底の堆積物を採取してプランクトンの生成物を分析した結果として、平安時代前期の夏の平均気温が摂氏二五・九度を記録していたのに対し、平安時代末期、すなわち、応保元(一一六一)年頃の夏の平均気温は摂氏二四・〇度にしかなっていなかったことを突き止めた。正確な平均気温となるとサンプルは乏しいが、いくつかの史料から、気温低下は広島湾に限ったことではなく、全国的、いや、全地球的に起こっていたことが明らかとなっている。

 気象条件が悪化して豊作になることはない。現在は肥料や農薬といった技術によって気象条件の悪化に対応する手段を持っているが、この時代にそのような農業技術は無い。このように記すと、肥料としての人糞は昔からあったではないかと考える人もいるであろうが、調べてみると、人糞を肥料として使用するようになったと確実に言えるのは鎌倉時代に入ってからである。もしかしたら応保元(一一六一)年時点でそのような農耕を展開していた地域もあったかもしれないが、それでも人糞の使用はまだ一般的でなかったと考えるべきであろう。そもそも、人糞を肥料として使用しようと考えるなど普通では考えられない話である。農耕書で得た大陸の農耕知識として排泄物を肥料として使用することを知っていた可能性はあり、手に入らない動物の排泄物の代替品として人糞に目をつけた可能性ならある。

 肥料としての人糞はともかく、寒冷化によって収穫が減ったことへの対抗措置として、この時代の人達が、それまで農地とすることを躊躇っていた土地を開墾するようになったことは判明している。まだ有効であった墾田永年私財法によれば、土地を新たに農地として開墾すれば、その農地は開墾した本人のものだ。荘園全体で考えても、荘園内に保有する農地を増やすことで、単位面積当たりの収穫は減っても荘園全体の収穫は確保できる道を選ぶようになったのはおかしな話ではない。

 肥料や農薬の無い時代、優れた農地というのは、農地を潤す水や農地に流れ込む土が山から流れ込む水や土であることが必須条件であった。山から離れた田畑は、水ならばどうにか手に入れることができても、山から栄養価の富んだ土が定期的に供給されるわけではないため、定期的な農耕には向いていないのである。歴史ある農地を調べると、そこは山に接した平地であることが多く、実際、そのような土地から率先して農地として開拓されてきた経緯がある。平原で周囲に川が流れているために一見すると農地として向いているような場所であっても、山から遠ければ開墾されることは無かった。これまでは。

 しかし、この頃から山から遠い場所であっても農地として使用される例が増えてくる。ちなみに、前述の人糞を肥料として使用するケースが確実であるのが鎌倉時代であることを考えると、証明されてはいないが、農地を増やそうと山から離れた田畑を開墾したところ、寒冷化に加えて土地が年々痩せていくという現実を目の当たりにして、山からの土の供給の代わりに人糞を肥料として利用するようになったというのはおかしな話ではない。肥料としての排泄物の使用自体は他国でもみられることであるが、その場合でも家畜の排泄物が前提であり人間の排泄物を使用するよう薦める農耕書は無い。そして、日本の農耕に家畜はさほど見られない。牛も馬も農村に溶け込んでいる存在ではあったが充分な頭数ではなく、排泄物もまた農地の肥料として充足するほどの量では無い。肥料たる排泄物を生み出す存在としてだけでなく、現在で言うトラクターの役割を担う牛や馬も多くなかったのだから、農地に投じることのできる労働力は人間だけである。

 農業は基本的に同じ条件であれば労力に見合った収益が得られる産業であるが、前提となる「同じ条件」が寒冷化によって成立しなくなると、労力を増やさなければ今までと同じ収益を得ることができなくなる。田畑を耕す人はこの時代でのベストを尽くしていたのだから文句を言われる筋合いはないが、田畑を知らずに収穫だけに目を向ける人は、収穫の少なさに文句を言う。しかも、税は収穫に対する割合ではなく、豊作不作に関係ない一定量が課される。税で持っていかれたあとが生活資材だから、不作はそのまま生活苦を意味する。

 作物の少なさだけが寒冷化の招いた結末ではない。海に出る漁師も水揚げ高の少なさを嘆き、農耕によらない採集も労多くして益少なき生業になったことを嘆き、家を建てる大工も、陶器を作る陶工も、資材が減っていることを嘆き、そして全ての人が、売れないことを嘆いた。

 しかも、それは怠惰が原因ではない。怠惰が原因なわけではないが、以前よりも働いて運が良ければ以前と同じ結果を残せ、そうでなければこれまで以下の結果に留まるという時代になった、いや、なってしまったのだ。理想とする藤原道長の時代と同じ社会システムを作り出そうと、自然環境が許さなければ、同じ暮らしは成立しない。


 自然環境の悪化だけでも大きなハンデであるが、ここに社会構造の変化が加わる。

 社会構造で言うと、格差が挙げられる。格差と言っても、格差が広がったのではない。格差が固まったのだ。それも差別を伴う形で固まったのだ。

 格差は以前から存在しており、格差そのものだけを見れば以前より減っている。格差社会というフレーズに対してイメージするのは一部の金持ちに富が集中して多くの庶民が苦しい暮らしをしているという社会であろうが、この時代と、この時代の人たちが豊かさのピークだと考えていた藤原道長の時代とを比べると、格差の度合い、そして富の寡占という点では藤原道長の時代のほうが激しく、応保元(一一六一)年のほうがまだ富の分散が行われていたと言える。

 ただ、格差の問題について問題となるのは、一パーセント対九九パーセントという圧倒的な差が見られるときではなく、半々であったり、格差の勝ち組のほうが多くなったりしている時代のほうであることを忘れてはならない。平安時代というとイコール荘園というイメージを抱くかもしれないし、荘園は税を払わないでいいだけでなく税務調査を受けなくてもよい不輸不入の権利があった土地であるという高校日本史で学んだことを思い出す方も多いであろうが、不輸不入の権利についてはその通りでも、全ての土地が荘園となったわけではない点を忘れてはならない。

 かつては、荘園そのものが限られた存在であり、藤原道長の時代は総人口の二パーセント、すなわち一〇〇人のうち二人だけが荘園の住人という特別な存在であり、特別な権利を手にしていたが、時代とともに荘園の割合が増し、白河法皇の院政を契機として激増し、この時代になると荘園の住人である人のほうが多いという社会ができあがっていた。

 注意すべきは、荘園の激増は院政の結果であるが、院政を取りやめたところで荘園が減るわけではないということである。

 荘園に限ったことではないが、権利が価値を持つ要件の一つとして、その希少性がある。同じ権利を手にしていても、その権利を手にしているのが一〇〇人のうち二人だけであるならその権利は希少性を持ち価値を持ち特権へと昇華するが、一〇〇人のうち六〇人が権利を手にしているとなれば、権利から希少性が失われ、権利から価値は失われ、権利は特権とならなくなる。しかし、権利は権利なのだ。二人だけしか持っていない権利であっても、六〇人が持っている権利であっても、権利そのものの行使できる範囲に違いはない。特権であるか特権とは呼べなくなっているかの違いである。理論上は。

 理論上は特権と呼べるか呼べないかの違いであっても、権利が希少性を失うことによって、現実的には大問題が発生する。権利を持つか持たないかの差異が乗り越えることのできない格差となって誕生するのだ。権利の持つ希少性が少なくなったとき、権利を持たない側は社会の敗者と扱われる。そして、社会の敗者が自分と同じ権利を持つことは、現時点で権利を手にしている人にとって何よりも耐えがたいものとなる。権利を手に入れる目的はそれが希少性に裏付けられた価値を持つからである。手に入れた権利から希少性が失われ価値を喪失させられることは、苦労して手に入れた権利が無意味になること、そして、権利によって手に入れた自らの社会的地位が低下することを意味する。その結果、権利があることを声高に主張するようになり、権利を持たぬ者と権利を持つ自分との間に断絶を構築するようになる。

 荘園の住人になるという藤原道長の時代であれば恵まれた特権も、この時代になると当たり前の権利となる。それでいて、荘園の住民にあれば行使できる権利の範囲に大きな差異はない。荘園の住民であれば免ぜられている負担を一手に引き受けさせられているのは荘園ではない住民、すなわち、この時代の人の認識における社会の敗者だ。しかも、負担は、負担を免じられている人が多くなればなるほど、負担を免じられていない人の元により多く降りかかるようになる。負担をさせられているというまさにその事実によって、荘園でない住人は荘園の住人より下に見られるようになる。

 負担をさせられているがために自分たちより下に見ている人が、自分たちと同格に並ぶことを、さらには、自分たちを追い抜いて自分たちより恵まれた境遇を得ることを、快く受け入れる人はそう多くはない。あの手この手で、自分が苦労して手にした権利を自分より下に見ている人が手にできないように画策するか、自分より下に見ている人が自分と同じ権利を手にする前に、自分に対して新たな権利をよこすように求めるようになる。さらには、自らの社会的地位の維持を重要視し、権利そのものは重要視しなくなる。一方、権利が希少性を失えば失うほど、権利を持たない側は自分がなぜ権利を持つことが許されないのかと憤るようになり、権利を求めるようになる。権利を持つ者が一パーセントや二パーセントであるならば、権利を持たない人の多さゆえに、権利を持つ人が新しく増えたところでさほど大きな問題とはならないが、権利を持つ人が無視できない巨大な勢力となると、権利を持つ人を増やすことが社会問題へと発展する。


 ならば、権利を持つ人を無くせば、この時代で言うと荘園を無くしてしまって誰もが等しい負担をするような社会を作り上げればいいではないかと思うかもしれないが、それをやった後三条天皇は失敗した。GDPマイナス九・一パーセントは多少の悪影響を与えたとかのレベルではなく、倒産と失業を続出させた大恐慌レベルの経済失政である。後三条天皇だから失敗したのではない。荘園を無くそうという政策だから失敗したのである。よく、理論は正しかったがその実行が不充分であったから失敗したという言い方をする人がいるが、政策のほうが間違っているのだから、その誤りに気づかぬまま後三条天皇以外の人が同じことをやっても、結局は同じ失敗に終わる。

 人類の歴史において、格差と無縁であった社会は存在しない。そして、格差は常に社会問題であると認識され、それぞれの時代の政権が執ってきた対策を列挙すればそれだけで世界史の教科書ができ上がるほどだ。トマ・ピケティの「21世紀の資本」にもあったが、格差の視点から歴史を眺めると、歴史は明確な回答を示す。格差と無縁の社会は三つの例外を除いて存在しないという回答である。その三つとは、戦争、革命、大規模自然災害の三つ。いずれも格差のほうがまだマシという大量死を伴う時代であり、格差解消のためであろうと好んで選択すべきものではない。

 平和な社会にあって格差がさほど重要な問題とならなかった時代というのならば存在する。それは、格差が無い社会ではなく、格差を乗り越える可能性が保持されていた社会である。ただし、そうした社会は一つのディレンマを呼び起こす。格差の負け組が格差の勝ち組に這い上がることも不可能ではないと同時に、格差の勝ち組から格差の負け組へと転落する可能性も存在するということだ。

 律令制は、庶民の間の格差を認めない社会を目指したものでもあった。しかし、一八〇年におよぶ律令制は失敗した。誰もが等しく貧しく、未来への希望もなく、あるのは飢餓への恐れと、果てしない戦乱という時代であった。

 藤原良房以降の藤原氏は、律令制を否定して格差のある社会を容認する代わりに貧しさから抜け出す手段を用意し、戦争を体験しなくても良い時代を作り出した。結果として、社会全体が豊かになり、一部の人は果てしなく豊かになった。そのピークが藤原道長である。藤原道長の時代に国民一人当たりGDPは頂点を迎え、個人の豊かさも社会全体の豊かさも頂点に達した。

 それが時代とともに崩れた。

 皮肉にも、格差を無くそうとした動きが、格差を固定化させ、社会全体を衰退へと誘ってしまっていた。

 格差を解消しようとすればするほど格差の勝ち組の数が増え、格差の間の流動性は喪失する。格差の勝ち組が増えることは、負け組に転落することが大いなる失望と同じ意味を成することとなり、勝ち組の中において負け組に対する露骨な差別感情を生み出す。それでいて、自分のことを格差の勝ち組であるとは考えない。格差社会における負け組であると認識し、格差是正のために自らの生活水準を引き上げるよう求めるようになる。 

 自らの貧しさを訴える庶民は多いし、自らより貧しい人がいることを認めている庶民も多いが、自らより貧しい人のために手を差し伸べる庶民は多くない。自らより貧しい人が努力する姿は娯楽として眺めることがあっても、その貧しい人が努力の末に貧しさから脱却し自分と同列に並ぶこと、さらには自分を追い抜くことを喜ぶ庶民も多くない。自分が追いかけられる立場になったとき、敗者になることを恐れるあまり、勝者のままであろうと最後まで抵抗するのはよくある光景だ。

 その抵抗の最も如実な形が、資産の蓄積。

 資産が蓄積されればされるほど市場(しじょう)に流れる資金が減り、働く人の収入が減っていく。現時点で存在する資産そのものを減らすこともなく、資産価値を減らすこともない社会を求めるとすれば、市場に流れる資金を減らすことによって自らが蓄積している資産の量と価値を落とさないようにするしかない。一方、働いて収入を得るということは市場に流れる資金から収入を獲得するということであるから、市場に流れる資金が減れば収入だって減る。以前と同じ働き方をしても得られる収入が減る社会というのはこういう社会だ。このような社会が構築されると、デフレになる。すでに資産を持つ人にとっては欲しいものが安値で手に入るが、働いている人にとっては働いても働いても資産を手にできない暮らしになる。


 ならば、蓄積された資産を吐き出すよう命じればいいではないかとなるが、そうはうまくいかない。なぜなら、まさに資産をため込んでいる人が命じる側の人であり、あるいは、命じる人の有力な支持基盤なのだ。たとえば現在に目を向けると、企業の内部留保を批判する声は多いが、内部留保ですら足元にも及ばない金額である高齢者の貯蓄について声を上げる政治家は、ゼロとは言えないにしても、そう多くはない。選挙制度のある現在では、最大の票田である高齢者層に負担を求める声をあげただけで落選決定だ。一方、大企業に対して内部留保を吐き出すように訴える声は、聴いた側に、自分ではない赤の他人が不正に富を蓄積しているのだという錯覚を呼び起こすことができる。社会問題の解決のために必要な財源を、自らは一切負担すること無しに、赤の他人に蓄積した資産を吐き出させることによって捻出するというのだから図々しい話であるが、社会正義が絡んでいるために、図々しい話ではなく正義の訴えなのだと言い繕うことができる。自分が格差の勝ち組でなく負け組であると訴え、税が貧しい人のために使われるという社会を思い浮かべるとき、自分は格差の勝ち組であるために負担を増やす側に回るべきと考えるのではなく、自分は貧しい側なのだから自分を優遇するように求めるという構図だ。

 話を平安時代に戻しても構図に大きな違いはない。格差の固定化と資金の埋没化が生み出す貧困は認識されていたが、そのために自らの負担を増やすことを受け入れる声は無かった。その代わりに、不正に資産を溜め込んでいる有力者に対して資産を吐き出すよう求める声は多かった。ただし、それが本当に不正蓄財であるならば法によって処罰できようが、ほとんどは正当な手段で、あるいは、正当というのに躊躇いを感じても違法であるとは断言できない手段で手にした資産なのだから、どのような法を前面に掲げても吐き出させることのできない資産になる。

 ところが、ただ一つだけ、資産吐き出しにつながる可能性のある政策がある。有力者の給与を減らすのだ。今でも公務員の削減や議員の給与削減を訴える声は大きいが、その声は平安時代にも存在していた。存在していて、実際に効果を発揮していた。役人の数が減り、待遇が悪化し、税支出に占める人件費が減り、議政官の一員に名を連ねる貴族であろうと無給になったのだ。今でも税負担への反発の言葉として税の無駄遣いを減らすことを求める声があるが、その声は今から一〇〇〇年前も変わらない。そして、声に応えた結果、貴族や役人といった公務員の給与が削られるというのも今と変わらぬ光景だ。

 ただし、給与が削られると弊害が二点発生する。給与を減らす前と同じ働きは期待できないという点と、給与に頼らなくとも生活できる裕福な者でなければ地位に就けないという点である。地位の低い役人の場合、人手が減っているのに求められる仕事はできないし、できたとしても報奨が存在しないのだから意欲など沸かない。それでも働くのは有力者となることへの希望があるからだが、有力者となっても待遇が期待できないとなれば希望も失われる。

 有力者は、給与が削られた代わりに他の方法で資産を築くようになる。そうしなければ有力者にであり続けることができないし、有力者になりたければ資産を築き上げなければならなくなったからだ。荘園を手にし、荘園からの収入で、給与無き役職であろうと資産を手にし続けることができるだけでなく、給与無き役職の持つ権威によって荘園をより強固なものとすることができ、ますます豊かになる。名目上は有力者の資産吐き出しのための税の無駄遣いの削減であるはずなのに、実際には有力者は有力者であり続け、資産吐き出しどころか資産蓄積が進んだ。資産の分配を狙った格差是正は、資産蓄積による格差の悪化を生み出した。

 これが二条天皇親政開始時点の日本国の経済情勢である。これだけの問題が絡み合っているのに、院政の否定だけで諸問題が解決するであろうか?

 後付けだから疑問を感じるが、当時の人は解決すると考えた。

 経済的苦境の全ての原因を、院政に、特に後白河上皇院政に求め、全ての責任を院政に押し付けることで経済的苦境から脱することを試みた。そして、伝説となっていた藤原道長の時代への回帰を図ることで豊かな時代の創造を試みた政治運動である。多くの人は、これで今までより良い暮らしが待っていると考え未来に期待した。

 そう、現実のものとして直面するまでは……


 応保元(一一六一)年一二月一七日、藤原育子入内。同時に従三位の位階と飛香舎を賜った。その一〇日後には女御宣下があり、当時の人は藤原摂関政治が蘇ってきていることを実感した。ここでいう藤原摂関政治は皇室と藤原摂関家との婚姻関係のみであり、藤原道長の頃暮らしぶりではないのだが、当時の人はその双方をイコールで考えた。長く苦しかった時代が終わり、過去の記録にあるような、そして伝え聞いてきたような昔のような豊かな暮らしが自分たちの手に戻ってくることを確信した。

 もっとも、皇室と藤原摂関家との婚姻関係のみといってもそこまで空虚なものではない。八条院の院号を得た障子に加え、女御宣下を受けた藤原育子との関係を考えると、二条天皇は藤原摂関家の全面バックアップが期待できたのである。ただし、一点だけ問題があった。今のままでは藤原育子に用意できるポジションがないのである。順番で行けば藤原育子を中宮とするべきところであるが、中宮はもう埋まっている。ならば皇后ならばどうかと言うと、皇后は皇后でやはり埋まっている。ただし、皇后藤原忻子は二条天皇の皇妃ではなく後白河上皇の皇妃である。本来であれば後白河天皇の退位に合わせて藤原忻子は皇太后となるべきところであったが皇太后になることはできなかった。近衛天皇の皇妃である藤原呈子が皇太后であったからである。ならば藤原呈子を太皇太后にして藤原呈子を皇太后にすればいいではないかとなるが、太皇太后には藤原多子がいる。しかも、太皇太后藤原多子は二条天皇のもとに入内している。この、太皇太后藤原多子が二条天皇の元に入内しているという問題がここに来て再認識された。

 仮に太皇太后藤原多子が出家して皇室から距離を置いたのなら、皇太后を太皇太后へ、皇后を皇太后へ、中宮を皇后へとスライドさせることによって中宮を空席とすることができ、藤原育子を中宮とすることができるのだが、太皇太后藤原多子はまだ二二歳である上に、近衛天皇の妻であった太皇太后を一人の女性として再入内させることによって二条天皇親政派は後白河上皇院政派へのプレッシャーを構成していたのである。

 割りを食ったのは中宮姝子(よしこ)内親王である。中宮姝子内親王に院号を与えることが真剣に検討されたのだ。中宮にいきなり院号を与え皇室から追い出すのかと思うかもしれないが、姝子内親王には院号を受けてもおかしくないとされる事情があった。永暦元(一一六〇)年八月一九日に病に倒れた彼女は出家しているのである。出家しても中宮の地位を剥奪されることはないが、無事に病が治っても還俗することなく、出家したまま一年四ヶ月に亘って二条天皇と別居状態にあったという事情だ。この姝子内親王に、出家していることと別居状態であることを理由に院号を与えることで皇室との関係を絶たせることで中宮位を空席にし、藤原育子を中宮にすることが検討された。

 これは様々な方面に波紋を投げかけた。

 二条天皇親政派の一員になったとは言え、藤原摂関政治とは一線を画している平家は特にこの流れに完全に同調することはできず、藤原育子の中宮就任に関連しているのか、年が明けてすぐに行動を見せた。まず、応保二(一一六二)年一月九日、平清盛が検非違使別当と右衛門督の両方の官職を辞任、その一八日後の一月二七日には平重盛が内蔵頭を辞任している。京都の治安維持の最高責任者と皇室資産管理の最高責任者の両名が辞任したのだから穏やかな話ではない。もっとも、平重盛の辞任の同日、平清盛の三男で平重盛の弟である平宗盛が一六歳にして左兵衛佐となっているのだから治安情勢と皇室資産管理の危惧を利用しての平家の勢力拡大の一環であったとも言えるが。


 平家の行動も藤原摂関政治復活を求める動きを止めることはできず、応保二(一一六二)年二月五日、姝子内親王に院号が授けられた。以後、姝子内親王の史料における呼び名は、立后寺の御所の名から「高松院」となる。出家しているとは言え、また、別居状態にあったとは言え、在位中の天皇の皇妃に院号が授けられるなど前代未聞である。高松院こと姝子内親王が二条天皇のこの決断をどのように受け止めたかを直接記している史料はない。しかし、間接的に記している史料ならばある。一四年後に高松院姝子内親王は亡くなるのだが、その知らせを受けた後白河院が熊野詣を途中で切り上げて慌てて戻り、高松院の様子を目の当たりにすると、そこに広がっていたのは中宮であった女性とは思えない質素な暮らしのもと、一人の仏教の僧徒として日々を過ごしていたことの痕跡だけであったのだ。後白河院は「なぜこのような大事を今まで知らせなかったのか」と絶句したとの記録があるが、裏を返せば、一四年という長きに渡って高松院姝子内親王は省みられることがなくなっていたのであろう。

 姝子内親王に院号が授けられたことで空席ができた中宮の地位に、予定どおり藤原育子が就いたのは二月一九日のことである。およそ半月の空白があるのではなく、およそ半月しか空白がなかったというべきであろう。その半月の慌ただしさと、予定が成就した後に待っているであろう安寧の日々はコントラストになるはずであった。そして、およそ半月の間に起こることが今後を左右することになろうとは誰も想像しなかった。

 堀河天皇の子で出家していた最雲法親王が五八歳で亡くなったのが、まさにそのおよそ半月の間のうちの一日である応保二(一一六二)年二月一六日こと。出家した皇族が、それも皇位継承権の一人として数えられることのなかった皇族が亡くなったことは、悲劇ではあっても歴史を左右する出来事になるはずはなかった。本来ならば。だが、最雲法親王が亡くなったことで弟子でもある一人の皇族が還俗し朝廷に戻ってきたのである。

 その皇族の名を以仁王という。このときまだ一二歳。この少年が後に歴史を動かすきっかけになるとはこのとき誰も予想していない。


 前述の通り、藤原育子が中宮に就いたとき、検非違使別当の地位は平清盛の手にはなかった。では誰が検非違使別当の地位にあったのかというと、誰でもなかった。検非違使別当に就いている貴族が一人もいなかったのである。

 中宮藤原育子の周囲を取り巻く環境はこれ以上なく強固であるはずであった。前関白藤原忠通と現役の関白である藤原基実がバックアップし、中宮大夫は異母弟でもある権大納言藤原兼実、中宮権大夫は中納言藤原実長なのだから、この時代の藤原摂関家のとりうる最強の構成であったと言っても過言ではない。ただし、宮中においては最強でも、宮中の外まで通用するとは限らない。

 現在の日本国において閏年といえば、四年に一度、二月二九日がカレンダーに登場することを意味するが、これは明治維新での太陽暦導入後の話であり、それまでは一日が追加されるのではなく一ヶ月が追加されていた。元々は三年に一度一ヶ月が追加されるというカレンダーであったが、天体観測と計算の結果一九年に七回、一ヶ月を追加するカレンダーで落ち着いた。つまり、一九年のうち七年は一年が一二ヶ月ではなく一三ヶ月になるわけである。

 では、追加する一ヶ月はどのように記すか?

 同じ月をもう一回やり直すのである。二月が終わって本来ならば三月が始まるところであるが、二月が終わったと思ったら三月一日ではなく二月一日に戻るわけである。もっとも、それでは混乱することが目に見えているので、記録の上では本来の月と繰り返す月とを書き分けている。これを閏月(うるうづき)といい、同じ二月一日でも、本来の二月一日はそのままとし、追加した二月一日は閏二月一日と記している。

 その応保二(一一六二)年閏二月一日、京都中の人たちに現実を思い出させる出来事が起こった。延暦寺の僧徒が蜂起したのである。園城寺長吏である覚忠の天台座主補任拒否がその理由であるが、覚忠が藤原忠通の子であるとなると話はややこしくなる。現役の関白の兄が絡んでいる以上、朝廷として比叡山の要求をすんなりと受け入れるわけにはいかない。かと言って、比叡山延暦寺の武装蜂起に対抗できる存在が今の朝廷はいない。平清盛は検非違使別当を辞任しているのである。

 誰の目にも明らかであった。応保二(一一六二)年閏二月九日、朝廷は慌てて平清盛に対し検非違使別当と右衛門督の兼職を命じた。これにより一時凌ぎではあるが比叡山延暦寺の蜂起を食い止めることには成功した。成功したが、それは朝廷の権威による沈静化ではなく朝廷の権威低下と平家の勢力伸長の再確認でしかなかった。


 ただし、平家がその勢力伸長をより強固に進めることはできなかった。応保二(一一六二)年三月一七日、平家の弱点が露わとなる悲劇が起こったのである。

 この日、平清盛の次男である平基盛が二四歳の若さで亡くなったのだ。

 前年九月に解官となっているが、その直後から押小路東洞院皇居の紫宸殿の造営の任務を担当しており、他の解官となった面々と違って軽微な処分であったことが窺わせる。また、年が明けた一月二七日には兄の平重盛から内蔵頭の職務を引き継いで官職への復帰を果たしている。この、一度は解官となったものの直ちに復帰した前途有望な若者は、平家の未来を考えたときのキーパーソンになる、はずであった。

 その平基盛が二四歳という若さで病死した。

 源平盛衰記では藤原頼長の怨霊によって宇治川で溺死させられたとされているが、これは物語に装飾を施しただけでしかない。実際、病に苦しむ平基盛のために僧侶が招かれて加持祈祷をしたものの、祈祷の効果なく平基盛が亡くなったことが記録に残っている。

 息子の突然の死に平清盛は動揺を隠せずにいた。動揺を隠せずにいたのは弟を亡くした平重盛も同じであったが、平重盛は父の平清盛よりも先に平家の弱点に対する行動の必要性を感じ、行動を起こした。

 人材不足だ。

 平家は人が少ない。戦場に連れて行く武人の数ならどうにかなっても、朝廷に身を寄せる貴族の数となると、藤原氏は無論、源氏にも劣る。源氏と言っても武士としての清和源氏でなく村上源氏をはじめとする公家源氏のことであるが、こうした勢力と平家がまともに対抗しようとするなら貴族たりうる平家が必要となる。必要となるのだが、その一翼を担うべき弟の平基盛の死去はただでさえ少ない人材を減らしてしまうことも意味した。

 平重盛は、弟の子である平行盛を養育することとしたのである。それも、朝廷において他の貴族と渡り合える文人として育て上げることを目指したのだ。

 平家を取り巻く運命は、文人平行盛をという未来を許さなかったが……


 朝廷の権威低下を目の当たりにした二条天皇親政派であるが、経済情勢の好転は無理でも、政権安定に関して言えば盛り返す策はあった。不遇を被っている人を復帰させるのである。配流となり京から離れて暮らさざるを得なくなっている人、あるいは京中にとどまっても解官させられたままになっている人を復帰させることは、二条天皇親政派に対し穏健的というイメージを抱かせることに成功する。そうでなくとも後白河上皇はこれまで陰湿な行動を繰り返してきていた。保元の乱にしても平治の乱にしてもそうだ。二条天皇親政派の主導した処罰であっても、ここで処罰を終了させることは二条天皇親政派による穏健的な政策遂行をイメージさせる効果を持つ。実際に穏健的であるかどうかではなく、二条天皇親政派の対抗軸である後白河上皇院政派の陰湿さをイメージさせることによる相対的なイメージ向上が実現する。

 まず、応保二(一一六二)年三月七日、二年前に阿波国に配流となっていた藤原経宗が召還された。その三日後の三月一〇日には、前年九月に処分を受けていた藤原成親の解官が解かれた。前者は後白河上皇への反発ゆえに、後者は二条天皇への反発ゆえに処分が下されていたことを解かれたものであり、一見すると真逆の出来事に対する対処であると言えるが、二条天皇親政の強化という一点においては共通する一点が見えてくる。

 二条天皇のこの姿勢に後白河上皇が対抗するには、後白河上皇もまた穏健的なスタンスで臨むべきであったが、後白河上皇はその逆をやった、いや、やってしまった。しかも二条天皇の穏健のニュースがそろそろ忘れ去られようかというタイミングで。

 応保二(一一六二)年五月八日、後白河上皇の意向で二条天皇の側近の一人である能登守藤原重家が免官となったのだ。院宣により源雅頼を召し捕るべしと藤原重家が偽証したらしいというのがその理由であり、この時代の法に従えば不確定でも有罪でおかしくはないのだが、このタイミングで、確たる理由も無しに免官とさせたのは後白河上皇に対する不平不満を増しこそはすれど、支持を増やすことには全くつながらなかった。


 二条天皇親政が着々と形作られて行く過程で、過去の人になりつつあった二人の藤原氏に動きが見られた。

 応保二(一一六二)年六月八日、前関白藤原忠通が法性寺にて出家した。既に現役を退いている身であり、六六歳という年齢からも出家することはごく普通のことと見られた。後継者たる関白左大臣藤原基実はもう二〇歳になっている。右大臣兼左近衛大将藤原基房ももう一九歳になっている。元服を迎え成年に達した後継者が複数人いる以上、残る生涯は仏門に捧げ、俗世間から離れた安寧な暮らしをするというのは藤原摂関家の理想の老後であり、これもまた良き時代の復活をイメージさせるものがあった。なお、この法性寺で出家したことが、藤原忠通を歴史の教科書ではなく国語の許可書に載せる理由となった。小倉百人一首第七十六番「わたのはら漕ぎ出でて見ればひさかたの雲居にまがふ沖つ白波」は法性寺入道前関白太政大臣の詠んだ和歌であるが、この法性寺入道前関白太政大臣とは藤原忠通のことである。

 一方、同じ藤原摂関家の老後でありながら藤原忠通と真逆の老後を迎えていたのが、藤原忠通の実父である藤原忠実である。藤原忠実も元服を迎えて成年に達した後継者が複数いる上での出家という点では藤原忠通と同じ境遇なのであるが、保元の乱で完全に地位を失い、保元の乱のあとで藤原経宗を招いて政務のノウハウを教えたと思ったら平治の乱の混迷で藤原経宗は地位を失い、気が付けばかつて摂政も関白も太政大臣を経験したとは思えない一人の老いた僧侶になっていた。

 息子の出家から一〇日後の応保二(一一六二)年六月一八日、一人の老いた僧侶が亡くなったことのニュースが届いた。元従一位、元摂政、元関白、元太政大臣、さらには准三宮の権利をも得ている藤原忠実の八五歳の死は、ニュースにはなったが忘れ去られていた過去の人の死という以外に意味を持たなかった


 後白河上皇と対比しての穏健をイメージさせようとしていた二条天皇であるが、応保二(一一六二)年六月、一つの出来事が起こっている。二条天皇を賀茂社で呪詛したとして、後白河上皇の近臣である平時忠が出雲に、従三位修理大夫である源資賢が信濃に、源資賢の子の源通家が伊豆に、藤原範忠が周防に配流されたのである。いきなり配流となったのではなく六月二日に解官、同月二三日に配流決定というスケジュールであるから、現在の感覚で行くと六月二日に逮捕され同月二三日に判決が下ったとするべきであろう。五月八日に後白河上皇の意向で二条天皇の側近の一人である能登守藤原重家が免官となったことへの意趣返しと言えばそうだが、免官ではなく流罪というのは大きな差がある。

 天皇呪詛に対する刑罰となると、この時代の慣例では流罪相当である。とは言え、その証拠があるのだろうかとも考える。配流となった者の全員が後白河上皇の側近であるが、だからといって天皇への呪詛などするであろうか。現在は皇室への悪口を吐こうと罰せられることはないが、それでも社会的信用は失う。極めて忍耐強い人であるか、絶望的に知性を欠いている人でなければ、皇室に対する悪口を言ったあとでも接点を持ってくれる人にはならない。ましてや、皇室への反逆だけで有罪となり、律令によれば死罪であるところを天皇の慈悲により一等減して流罪となるのがこの時代だ。いかに時流を掴めなくなったことの悔しさがあろうと、呪詛などするであろうか?

 犯罪捜査では、それによって誰が利益を得るかという視点で真犯人を求める方法がある。これを応用すると、利益を得るのは二条天皇親政派になる。何と言っても最大の対抗勢力に大ダメージを与え自らの勢力を強固なものとするのだから二条天皇親政派にはこれ以上ない利益だ。だが、なぜこのタイミングで配流するのかという疑問も湧く。そうでなくとも後白河上皇院政派は自滅しつつあったのだ。何もしなくとも破綻することが目に見えている相手に、しかも、穏健をイメージ作っている真っ最中に、穏健と真逆の行動をするものであろうか?

 そこで、配流になった面々について調べてみると以下のことがわかる。

 配流になった四人のうちの一人である平時忠は、これが貴族キャリアにおける二度目の処分である。一度目は前年の九月であるから一年未満で二度目の処分だ。平時忠は平清盛の義理の弟であるが、一枚岩であることを強さの源泉とする平家においては例外的に平清盛と分かれて独自の行動をする人でもあり、特に妹である平滋子が後白河上皇のもとに嫁いでからは妹を頼って後白河上皇に接近するようになっているなど、氏族として二条天皇親政派を選んだ平家にしてみれば扱いづらい存在になってきていた。そもそもこの人は伊勢平氏の武士ではなく、京都で貴族として過ごしてきた貴族平氏の一員であり、平清盛と義理の兄弟になったことで、武士としての経験ゼロで平家の一員となったという経緯を持っている。前にも述べたが、この人はのちに平家の権勢を示すかの暴言を口にするとされているほどの人物であり、かの暴言は事実無根でもその他の史料からもこの人はかなり失言を繰り返す人であったようで、深く考えないで暴言を吐く癖はあったことは想像できる。もしかしたら賀茂社での呪詛というのも、この人の暴言のことであったかもしれない。

 藤原範忠は、今は亡き美福門院藤原得子と接近していた過去があり、その延長で後白河上皇に仕える身となっている。藤原範忠が兄なのか由良御前が姉なのかは不明であるが、藤原範忠は源義朝の正妻で源頼朝の実母である由良御前ときょうだいであることは判明しており、後白河上皇に仕える身であると同時に尾張国の一大勢力である熱田神宮の大宮司も兼ねていた。保元の乱では源義朝の率いた軍勢の中には藤原範忠からの援軍も含まれていたことからも清和源氏との良好な関係性があったことは見てとれるが、平治の乱では義兄弟である源義朝と袂を分かつだけでなく、甥である源希義を捕らえて朝廷に差し出すなど清和源氏とは関係を絶っていることが読み取れる。ちなみに、他の三人と違って、この人だけは六月二三日ではなく配流が翌年まで延ばされている。

 源資賢は鳥羽院の寵臣で鳥羽法皇の葬儀においては信西らとともに入棺役を務めている。芸事に堪能であったがゆえに後白河上皇と接近したという考えが広く見られるが、自らの政治信条に加え、源氏の中でも宇多源氏という政界においてさほど地位を持たない家系に生まれた源資賢にとって、天皇親政が実現し摂関政治が復活した政治体制というのは自身の栄達の終焉を意味する。彼のような生まれの者にとっては院政こそが自らの一発逆転のチャンスであったのだ。彼は後白河上皇を支持したのでなく院政というシステムを支持したのである。息子の源通家も、宇多源氏であるという血筋の問題は父が受けるとの同じ境遇を甘受せねばならず、自身が栄達を手にするためには父源資賢と同様に院政を選んでキャリアを構築する以外に方法がないという点で認識を同一としていた。


 こうしてみると、四人とも二条天皇親政と後白河上皇院政との選択において後白河上皇院政を選択したことは見てとれるが後白河上皇の政治に賛意を示して後白河上皇のもとに足を運ぶようになった者が一人もいないことが見てとれる。平時忠の場合は妹が嫁いだのが後白河上皇であったからであり、藤原範忠は美福門院藤原得子との関係の延長、源資賢と源通家の親子の場合は、一発逆転としての院政を求めたからであって後白河上皇を求めたわけではない。四人をここで後白河上皇の元を去らせることは、後白河上皇の権勢を抑制すると同時に、復帰後の地位の用意次第では院政ではなく二条天皇親政を選ぶ可能性があることを意味する。後白河上皇である必要が無いのだ。

 そして先に記した「誰の利益か?」というポイントに戻ると、二条天皇と同時に大きな利益を得ている人がいることに気づかされる。

 平清盛だ。

 良かれ悪しかれ平家というのは一枚岩の組織であり、平清盛は平家のトップである。ただし、平清盛個人の魅力によって人を引きつけたわけではない。平家に仕える武士の多くは平清盛の父の平忠盛に仕えた武士であり、平忠盛の後継者であるから平清盛にも仕えているという武士ならば多かった。平清盛が平忠盛の筆頭後継者であることは今や覆しようのない事実であるが、それを本心から受け入れることとは別問題である。平時忠のように何となれば平清盛に代わって平家のトップの地位を狙ってやろうではないかという野心のある者もいたから、そのような者が現れたならば芽のうちに積んでおいて損はない。

 また、平清盛は伊豆に追放した源頼朝のことをまだ忘れてはいない。清和源氏は勢力としてきわめて弱体化したが、それでも消滅したわけではない。全国各地に清和源氏は点在しているし、そのトップになることを予定されている源頼朝への牽制への必要も感じていた。ただし、源頼朝に何かあった場合、藤原範忠が大宮司を務める熱田神宮からの反発が懸念される。繰り返すが源頼朝は熱田神宮の宮司の娘から産まれたことから尾張国の一大勢力である熱田神宮が背後に控えているのだ。藤原範忠に貴族としての責任を取らせるという名目で熱田神宮の勢力を弱めることは、熱田神宮の勢力そのものの強固さと、今なお無視できずにいる清和源氏の双方にダメージを与えることを意味しており、平清盛の視点に立てば、無理して実現させるつもりは無いが、可能ならば実現したいとは思ってはいたことである。

 誰の利益かという点で考えると、平時忠と藤原範忠の二人については平清盛にとって文句なしの利益となる。もっとも、平清盛にしてみれば念入りに企画して実行したものという認識はなかった。前から気になっていたことを解決するチャンスがたまたま巡ってきたので同乗したというのが実情であろう。

 一方で、自身の側近が四名も追放となったことに対し後白河上皇がどのような思いであったのかは、この頃の後白河上皇が信仰の世界にのめり込むようになっていたことから推し量ることもできる。四人の側近が突然の配流となったと知り、そして、自分にはどうにもできないことであると知り、自らの無力を目の当たりにして平然としていられる人などいない。


 応保二(一一六二)年七月一七日、前年九月に平時忠らとともに解官の身となっていた平教盛が本位に復し、能登守に就任した。同日、平経盛が太皇太后宮亮に就任。左馬権頭と若狭守との兼職である。そして、およそ一ヶ月後の応保二(一一六二)年八月二〇日、平清盛が従二位にまで出世した。

 この連続の平家優遇には何があったのか?

 平家の勢力を利用しようとすると同時に、平家における平清盛の勢力を弱めようとする動きがあったのだ。

 平清盛は平家のトップであるが、平清盛を平家のトップとさせている理由は、平清盛自身の魅力ではなく、平清盛の父の平忠盛の威光がなお健在であったからである。平忠盛の第一後継者であり、また、既に平家の一員である者に対する平清盛の温情は忠誠を強固とさせるものがあったが、新しく平家の一員に加わる者がどれだけいたのかとなると、語尾を濁さざるを得なくなる。

 朝廷に仕える一個人として平清盛を捉えたならば実績を残しているから従二位にまで登り詰めること自体はおかしなことではないが、平家の未来を考えると、このまま平清盛が平家のトップでいいのかという疑問符も付く。無論、多くの者はこのまま平清盛がトップでいいと考えているが、中には平清盛からトップの座を奪ってやろうではないかという野心を抱く者もいる。そうした中の一人が配流になった平時忠であるが、平清盛の弟たちもまた、平清盛から平家のトップの座を奪ってやろうではないかという野心を捨てていないかと言われれば、それは嘘になる。

 朝廷の貴族たちは、刀を抜き、弓矢を手にし、馬に乗って戦場を駆け巡る争いとは無縁でも、権力争いであれば百戦錬磨だ。自分たちの脅威となる集団をいかにすれば弱めることができるかを考えたなら、優遇にしか見えない方法だけを用いて集団を弱めるなんてのはお手の物。集団のトップの対抗馬となる者を優遇してそれなりの地位を与え、集団のトップにある者を優遇して武器を奪うなんていうのはよくある手段だ。

 集団のトップの対抗馬となる者、すなわち、平教盛が能登守になり、平経盛が太皇太后宮亮兼左馬権頭兼若狭守となった。ここまではわかる。

 しかし、平清盛が従二位に昇格したことと、集団のトップにある者を優遇して武器を奪うこととは、どうつながるのか?

 平清盛の持つ武器は、検非違使別当という地位にある。警察権、検察権、さらには司法権まで有した検非違使別当という職務を、平家の武力を背景にして遂行できるというのは平清盛にとって大きな武器であったが、従二位にまで出世した貴族が検非違使別当を務めるというのは慣例から外れている。従二位にまで出世した貴族が武力を手にすることがあるとすれば、それは近衛大将しかないというのが通例だ。

 しかし、左近衛大将は右大臣藤原基房が務め、右近衛大将は権大納言藤原兼実が務めている。前者は一九歳、後者は一五歳。ともに二〇歳の関白左大臣藤原基実とともに藤原摂関家の軸を担う若者である。若さゆえに避けることができない経験の浅さを、左右の近衛大将を兼任させることによる権力増強で補っているのだから、位階こそ従二位でも役職では未だ権中納言である平清盛が横入りして奪えるようなものではない。すなわち、検非違使別当を辞任せざるを得ないが位階相当の武官の地位は残っておらず、武士でありながら公的な武力の発動が認められない状態となるのだ。

 平清盛もそれを理解していたが、拒否するという選択肢は残されていなかった。検非違使別当辞任を遅らせたのがささやかな抵抗であるが、抵抗とするには弱かった。それでも平清盛は妥協案を示しており、その妥協案は受け入れられた。

 応保二(一一六二)年九月二三日、平清盛が検非違使別当と右衛門督両官職を辞任。

 応保二(一一六二)年九月二八日、平清盛の四男である平知盛が左兵衛権佐に就任。

 応保二(一一六二)年一〇月二八日、左馬頭平重盛が右兵衛督に転任。同日、平清盛の三男である平宗盛が後任の左馬頭に就任。

 平清盛の三人の息子が朝廷の公的な武人としての官職に就いたことで、いざという時に平家の軍勢が出動できなくなるという事態を避けることに成功した。


 年が明けた応保三(一一六三)年一月五日、平重盛が従三位に昇位した。公卿補任で名が記されるのは権中納言平清盛に次いで平家で二人目となる。ただし、応保三(一一六三)年における平重盛の肩書きは非参議、すなわち、位階はあるが議政官の役職を何ら持たない貴族という位置づけである。もっとも、応保三(一一六三)年時点で非参議である者は平重盛を含めて五人いる。前年も五人いたがそのうちの一人である藤原資賢は配流になったので応保三(一一六三)年の公卿補任から姓名が抹消されている。

 一人減って一人増えたのだから非参議は五名のままで、平重盛が非参議の末席に名が記されるようになったという新鮮さはあるものの、平重盛と平清盛以外を見ると藤原摂関政治の継承と感じ取ることができ、平清盛と平重盛を含めて考えると、藤原摂関政治が存続し、危惧されていた平家の武力も期待できる上での二条天皇親政による時代が始まったと感じることができる。そこには期待がある。

 その期待は現実の前に叩きのめされた。

 きっかけは恒例とも言うべき比叡山延暦寺と園城寺、そして興福寺も加わった僧兵の争いである。

 スタートは応保三(一一六三)年三月三日。この日、延暦寺からデモ集団が押し寄せ、園城寺僧侶の小乗戒を延暦寺で執り行わせること、その際に園城寺の僧の武装を禁じることを要求してきたのである。

 何とも厚かましい要求であるかのように見えるが、双方とも本来であれば延暦寺の言う通りなのである。比叡山での主導権争いの結果、比叡山を降りて別個の勢力となったのが園城寺であり、本来であれば比叡山で小乗戒を執り行うのがあるべき姿であった。また、その際に武具の類を携行しないこともあるべき姿であった。ゆえに、あるべき姿に戻すべしという理屈は成り立つ。ただ、あるべき姿に立ち返るとなると、園城寺の僧侶であるのに武具を携行せずに比叡山に赴いて小乗戒を執り行うことになるが、こんなものを本当に実行しようものなら、園城寺の僧侶は比叡山延暦寺の僧兵から殴る蹴るの暴行を受けて殺されてしまう。いかに延暦寺が園城寺の僧侶の小乗戒は平穏無事に執り行うと宣言しても、現在進行形で殺し合いをしている二つの勢力があって、一方の勢力のもとに丸腰で単身乗り込むというのはそう簡単に受け入れられるものではないのだ。

 さらに延暦寺はデモ集団を派遣させても、法に則って武装させないままでいた。禁止となっているのは武装しての平安京入京であって、自らの訴えを届けるためのデモ行進そのものが禁止になっているわけではない。平清盛が検非違使別当を辞したのは事実でも、平清盛の三人の子が朝廷の武官の官職を得ている以上、平家の軍勢がデモを取り締まるために派遣されるのは何らおかしなことではない。

 結果、延暦寺から派遣されたデモ集団は、自分達の訴えを、理論上は平和理に、事実上は充分な圧力を平安京の庶民に掛けながら、朝廷に届けることができたし、朝廷側も、理論上は平和理に、事実上は充分な圧力をデモ集団に掛けながら、デモ集団の行動を制御することができたのである。


 現在でも見られることであるが、公表しなければならないニュースであるものの、そのニュースを公表すると絶対に大騒ぎになるというときに、より大きなニュースで沸き立っている裏でひっそりと、しかし、法に基づいて公表するという姑息な手段をとることがある。たとえば東日本大震災の起こった三月一一日は、震災の記憶を思い出させるニュースがテレビや新聞を賑わせ、通常であればトップニュースとなり新聞の一面を飾るであろうニュースがテレビでは短時間の報道で終わり新聞では小さな紙面にとどまるというのは毎年の光景だ。

 これと同じことは応保三(一一六三)年三月二九日にも起こった。この日、全国的に適用される大々的な知らせと、その裏であまり目立たぬように、しかし、きわめて重要な知らせの双方が発表になったのである。

 全国的に適用される重要な知らせとは改元である。天然痘の流行を鎮静化させることを願って長寛へと改元すると決まったのだ。改元の理由自体は、永暦から応保への改元のときと同じであり、理由だけを見ると応保への改元は効果が無かったからもう一度改元したのだろうとしか見えない。しかし、同日に発表された知らせを知ると、改元は意図的に作り出した大ニュースであることが読み取れる。

 そのニュースとは、園城寺の僧侶が天台座主になるとき、比叡山で受戒すべしと言う命令であった。延暦寺の訴えが部分的にではあるが認められたのである。当然ながら園城寺はこの命令に従わなかった。

 これだけでも大問題であったが、同日、奈良の興福寺から、園城寺の僧侶は奈良で受戒すべきであり、そもそも延暦寺は興福寺の末寺なのだから延暦寺は興福寺に従うべしと公表したことで大騒ぎになった。

 ニュースを隠すための改元という大ニュースは、一見すると隠すことに成功したように見えた。しかし、延暦寺のデモの圧力に加え興福寺から発せられた声明は不穏な情勢が待ち構えていることを予期させ、本来であれば慶事として迎え入れられるはずの改元を台無しにさせてしまったのである。


 宗教勢力の対立というより武装勢力が宗教を利用して対立している構図であり、二条天皇親政派は、延暦寺への妥協と、延暦寺が主導する形での対立の鎮静化を考えていたように見える。改元のタイミングでは園城寺の僧侶のうち比叡山で受戒することが命じられたのは天台座主に上り詰めた一人だけであるのに対し、長寛元(一一六三)年五月二二日には、園城寺の全ての僧に対して延暦寺で受戒せよという命令が出たのだ。

 園城寺にしてみれば到底受け入れられる命令ではない。かと言って、朝廷の発した命令であり、従わなければ国法に反することとなって罰せられる。

 命令に従わぬ園城寺の僧侶たちを罰しに来るのが、朝廷の派遣した役人や、最悪でも武士ならば園城寺どうにかなった。だが、長寛元(一一六三)年六月九日、園城寺の考える最悪を遥かに下回る存在が罰しにやってきた。

 比叡山延暦寺の僧兵だ。

 とは言え、朝廷から刑罰を下すよう命じられて園城寺に派遣されてきたわけではない。名目は、園城寺の衆徒が大津の東浦を追捕して神人の首を切ったことを咎めるための派遣であり、要は落とし前をつけにきたのである。殺人事件があったのだから、延暦寺から僧兵がやってきたことそのものは園城寺も受け入れざるを得ないことであった。ただ、それがエスカレートして国法を守るためとして園城寺に姿を見せ、延暦寺に赴いて受戒せよと園城寺の面々に向かって迫るとなると、これは延暦寺と園城寺の対立の歴史を全て白紙に戻す、延暦寺にとっては最高の結果を求める行動へと、園城寺にとってはこれまでの歴史を全否定し自らのアイデンティティを全否定する結末を求める行動へと、一変したのである。

 延暦寺からやってきた僧兵たちは、園城寺が命令に従わないことの報復として、園城寺の堂塔房舎と、園城寺配下にある修学院、解脱寺、一乗寺、嵩福寺、梵釈寺を焼き払った。

 殺人事件に対する報復であることは理解しても、延暦寺のこうした蛮行を多くの人は憎しみを持って眺めたが、違法なのは園城寺のほうであって延暦寺は何ら違法なことはしていない。蛮行ではあっても正当な処分ではあるのだ。

 ただし、法で認められているとは言え、多くの人が蛮行と眺めることをしでかしておきながらその後も安泰でいられるほど世の中甘くはない。延暦寺は明らかに図に乗ってやりすぎた。多くの人から憎まれるようになった存在が法を守っているとき、あるいは法の抜け穴を突いているときというのは、ほんの少しだけ法に抵触したら、その瞬間に一斉に敵意を向けられるときであることを意味する。

 そのときは長寛元(一一六三)年七月一〇日に訪れた。この日、延暦寺の僧侶と日吉社の神人に対し、京内での出挙禁止命令が出たのである。本来であれば出挙は貞観四(八六二)年三月二六日に正式に廃止されているが、尾張国郡司百姓等下文でも見られた通り、社会福祉を前提とした種籾の貸し出し自体は存在していた。生活に困っている人が借金に、この時代で言うとコメの貸し借りに頼ることはおかしくない。そして、困っている人にコメを貸すこと自体は宗教施設である延暦寺にとって慈善活動の一種ではあり咎められる代物ではない。春に種籾を貸し、秋に収穫されたコメを利子付きで返済させるのであれば、法的にはグレーゾーンではあってもまだ慈善事業として認められはしたのである。ただし、その利率が高いとグレーゾーンではなくなる。


 尾張国郡司百姓等下文で告発された藤原元命でも告発時の利率は一八パーセントであり、それでも暴利とされたのであるが、延暦寺も日吉社も藤原元命の暴利を超える利率を設定して貸し出した。それも強制して貸し出したのである。こうなると充分に社会問題であり、出挙禁止命令は正しい対処である。

 たしかにコメはムギよりも撒いた量に対する収穫が多く見込める穀物である。だから、農業を営んでいるなら春に借りたコメに利子をつけて返すことも不可能ではない。

 理論上は。

 実際上は、コメを返したことが称賛の対象どころかノルマを果たした前例になり、次年度も同じだけの割合で返すことが求められるようになる。設定した利率は一律でなく個々人によって異なっていたが、仮に利率が五割だとして、春に一〇借りて秋に一五を返した人に、次年度は二〇を貸して三〇を返すよう命じたとしたらどうなるか?

 できるわけない。

 返済の割合ではなく返済の量が許容できる分量ではなくなるのだ。

 しかもこれは、無事に収穫できれば、という条件が追加された話である。寒冷化を迎えコメの収穫は明らかに減ってきていた。それで利子付きでコメを返すとなったら一大事だ。

 それでも農業をしているならコメを返す手段がゼロではないが、農業以外の職業の人がコメを返すとなるとこれは難事だ。ただでさえコメの収穫量が減っているのだから市場に流通しているコメの価格は上がっている。布地や金銭でコメを買おうとしても、働いて手にした布地や金銭で手に入れることのできるコメの量は時間の経過とともに減ってきていたのだ。それでも何とかコメの値段が安いと考えたときにコメを買って秋まで保存してコメを無事に返したとしても、こちらもまた賞賛どころかノルマを果たした前例になり、次年度は同じ割合で、ただし前年度より大量のコメを半ば強制的に貸し付けられ、秋に前年度の負担を遥かに超える量のコメを返さなければならなくなるのだから、これはたまったものではない。

 だから、京内での出挙の禁止そのものは社会政策としては正しい。そして、京都市中の住人は延暦寺と日吉社への返済義務が無くなった。春に借りたコメを返す必要はなくなったのだから、たしかにこれは喜ぶべきことであろう。

 ただし、このときの朝廷は大切なことを見落としていた。

 次年度の生活をどうするかという問題である。

 想像していただきたい。返ってこないのに貸す人がいるであろうか、と。名目上は慈善事業であったとしても、実際には営利事業である。貸したのに返ってこないというのでは、誰が好き好んで貸すというのか?

 借金しなければ生きていけなくなっている人の返済義務を無くしたとしても、そのあとでの安定した収入がなければ生活は成り立たない。延暦寺や日吉社の強制的な貸し付けは大問題であったが、それでも一時凌ぎの生活支援にはなったのである。だが、次年度はもう延暦寺も日吉社も貸してくれない。返済義務の免除は公的支援の一種であるが、次なる公的支援無しで生活を成り立たせることはできないのである。朝廷はこのことを見落としていた。

 延暦寺への怒りが生み出した政策が、延暦寺ではなく貧しい庶民を苦しめることとなったのだ。


 延暦寺、園城寺、そして興福寺といった寺社の争いは、延暦寺に対する出挙停止命令でいったん鎮静化した。興福寺は訴えを無視されてプライドが破壊され、延暦寺は出挙停止で営利事業が破壊され、園城寺は寺院そのものが破壊され、平安京内外の人達はいつまた寺社間の争いに巻き込まれるか分からないという恐怖が続くという、どこも得をしない結果が伴って。

 それでも改元の効果が遅くなって現れたからか、長寛元(一一六三)年の後半はさほど大きな動乱を呼び起こさぬ平穏な時間が過ぎていた。

 一箇所を除いて。

 京都以外も比較的平穏であったが、長寛元(一一六三)年後半において平穏とは呼べなかった場所が日本国で一箇所だけ存在する。讃岐国だ。厳密に言えば讃岐国全体ではなく、讃岐国に配流となったまま過去の人へとされてきていた崇徳上皇だ。

 この時代、崇徳上皇のことが完全に忘れ去られてしまったわけではないが、京都へ戻るべきだと訴える人がいなかったのも事実だ。長寛元(一一六三)年時点の崇徳上皇は、後白河上皇にとっても二条天皇にとっても讃岐国に留まってくれないと困る存在であったのだから。

 後白河上皇がいかに仏教に救いを求める日々を過ごしていても、また、長寛元(一一六三)年時点では有名無実と化してはいても、後白河上皇はまだ自分に院政を執り行う資格があるとしていた。その根拠となっているのは、自分がただ一人の上皇であり、讃岐に配流となった崇徳上皇は罪人であるために院政を執り行う資格を有さないという点である。

 二条天皇も、父である後白河上皇と政策遂行について対立はしていても、父が保元の乱で崇徳上皇に勝利したことは、自らの政権の正当性の根拠としている。反逆者である崇徳上皇は罪人であり、崇徳上皇の帰京は自身の政権の正統性を揺らぐものとさせてしまう可能性がある。

 崇徳上皇が讃岐国に配流され続けているままであるならば、崇徳上皇は保元の乱の敗者であり罪人である。そして、時間が経てば忘れ去られる存在になるであろうというのが、後白河上皇と二条天皇の双方に共通にした認識であった。

 ところが、崇徳上皇は忘れ去られた存在にならなかった。後の怨霊伝説のせいでバイアスが掛かっているが、保元の乱の前の崇徳上皇の人気は高いものがあり、保元の乱で敗者となって讃岐国に配流となったことは表立って語られなくなってきてはいるものの、完全に忘れ去られる存在ではなかったのだ。公然と語ることができないのは、二条天皇にしろ、後白河上皇にしろ、この時代の政権が崇徳上皇を敗者として扱い、表立って話すのをタブー視させてきたから、言うなれば、中国のネットで天安門事件を書き込むような扱いになっていたからで、庶民の間では忘れ去られていたわけではないのだ。

 表立って話すことが許されない崇徳上皇に対する期待は水面下で広まりつつあった。そして、断片的に崇徳上皇の噂が京都に届いてきてもいた。

 ただ、ここに後世の崇徳上皇怨霊伝説が加わるとこのようになる。

 崇徳上皇が讃岐の地で仏教に傾倒し、法華経、華厳経、涅槃経、大集経、大品般若経からなる五部大乗経の写本作りに専念していたことが語られているが、そこから先がエスカレートする。

 曰く、墨ではなく自分の血で経典を書きあげた。

 曰く、書き上げた経典を朝廷に送り届けたところ、その不気味さから経典が讃岐国へ送り返された。

 曰く、経典が送り返されたことに激怒し、舌を噛み切った。

 曰く、「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」、あるいは、「この経を魔道に回向す」と血で書き込んだ。

 曰く、髪を伸ばし続け夜叉のような姿になった。

 曰く、生きながら天狗になった。

 曰く、崩御するまで爪や髪は伸ばしたままであった。

 曰く、崩御後も、棺から蓋を閉めているのにも関わらず血が溢れてきた。

 ただし、これらの話が登場するのは崇徳上皇が亡くなってから一九年も経ってからであり、経典そのものを見た人も、経典を京都に届けたとする人も、さらには讃岐国で崇徳上皇が経典を書いていたことを見たとする人も一人もおらず、そのような記録も無い。

 そもそも、長寛元(一一六三)年における崇徳天皇に関する公的記録は一つしか無い。この年の一二月二五日に、崇徳院の中宮であった皇嘉門院藤原聖子が髪を全て剃る再出家をしたという記録だけである。平安時代の女性の出家は毛髪を全て切り落とすのではなく肩口で切り落とすものである。藤原聖子の一度目の出家は平安時代の女性の出家として一般的なスタイルであった。それが、この時代の女性としては異例な完全な剃髪での出家である。その知らせだけでこの時代の人にとっては一つの覚悟を抱かせるに充分な知らせになった。崇徳上皇は讃岐国から戻って来ることができないのだという覚悟を抱かせる知らせである。この記録の他に崇徳上皇に関する公的記録は無い。

 讃岐での崇徳上皇の姿を怨霊伝説として彩っているのは「保元物語」の、それも全ての写本に共通して載っているわけではなく一部の写本だけである。一方、「今鏡」では怨霊伝説とは似ても似つかぬ、穏やかで、ただし、京都への想いは消えぬ様子が残されている。おそらく、実際の崇徳上皇の様子を現在に残しているのは今鏡における崇徳上皇の様子のほうであろう。

 ちなみに、小倉百人一首第七十七番の崇徳院の和歌である「瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ」はまだ宮中にいた頃に詠まれた和歌であり、讃岐に配流となった後の和歌ではない。讃岐に配流となった後で崇徳上皇の詠んだ和歌は別に残されていて、室町時代に編纂された風雅和歌集に、崇徳上皇が讃岐で詠んだ和歌である「思ひやれ都はるかにおきつ波立ちへだてたるこころぼそさを」が載っている。

 崇徳上皇の書き記した経典は、実物を見たことのある人も、崇徳上皇が経典を書き記しているところを見た人もいないが、崇徳上皇でない人の書き記した、同時代の著名な経典ならば現在でも目にできる。一般人が目にできるのは精巧な模写ではあるが、実物も間違いなく保管されている。

 保管されている場所、広島県廿日市市宮島町。

 保管されている経典の名、平家納経。

 史料にはじめて平家納経の存在が確認できるのは長寛二(一一六四)年九月になってからであるが、経典に施された細工だけを見ても一年やそこらでできはしない代物であることがわかる。

 平家納経は全体で三三巻からなるのであるが、その全てが単なる経典の枠をはるかに超えた美術品になっている。

 まず、紙そのものが美術品。様々な色に染められている上に金箔や銀箔が施され、雲母を砕いた砂子が輝きを彩っている。

 さらに、経典でありながら、経文だけでなく絵画も施されている。絵画を描いた絵師の名は残されていないが、この時代の寺院の記録を見ると、寺院に絵画専門の僧侶がいたこと、その僧侶は寺院の中でもかなり高い地位にあったことが記されているので、おそらく平家はその時代のトップレベルの絵師をスカウトして描かせたのであろう。なお、平家写経の絵画の画風は源氏物語絵巻に似た画風であるが、同一の絵師による作品ではなく、その時代の最先端の画風で絵画を描いたのであろう。絵画の素晴らしさだけを見ても一年やそこらで完成したものでないことはわかる。

 経典の本文をなす経文であるが、こちらは絵画と違ってプロが書き記した文ではない。プロではないのは当然で、平家の面々が自分で、一人一巻ずつ分担して書き記したからである。なお、三三巻のうち五巻は、経文を墨ではなく、群青、金泥、銀泥、緑青で書き記しているので文字が派手である。また、一巻につき一人の分担の原則を破って何人かで分担して書いたと思われる巻もある。

 平家納経に見られるように、この頃の平家の経済力は目を見張るものがあった。

 平家を政治組織として捉えると、自浄作用の期待できない組織であり、無視できぬ勢力であると同時に危険な政治組織としか捉えることができない。ところが、政治組織でなく企業として捉えるとなかなかに平家は優秀な組織になる。

 平家の経済力の源泉は何と言っても貿易であるが、貿易というイノベーションで経済の勝者となったことだけでなく、マネジメントの点でも平家には無視できぬ点がある。

 リーダーに全ての権力を集中させた一極集中だ。

 企業をはじめとする組織の構造にはいくつかある。社長をはじめとするトップが全ての権限を握る組織構造や、トップが号令を出すが最高経営会議にもある程度の権限が存在する組織構造、組織の内部が細分化されていて細分化された個々の組織の一部がかなりの独自性を持っており、組織全体のトップでも細分化された個々の組織の一部には指揮権が存在しない組織構造など、組織の数だけ組織構造が存在する。そして、数多くの組織構造のどれもがメリットとデメリットを内包している。

 デメリットのない組織構造は存在しない。ゆえに、組織構造を作るときは、いかにデメリットを甘受した上でメリットを選ぶかという話になる。他の組織が採用している組織構造をそのまま採用することもあるし、時間とともに組織構造を構築していった結果、他の組織と似た組織構造になったということもある。

 平家が構築したのは、平清盛が組織の全てに対する指揮命令権を持つトップダウン組織であり、組織の内部の分担はあっても平家は一つの組織である。厳密に言えば平忠盛を頂点とするトップダウンの組織であったのが、平忠盛の死去によって平忠盛の子の平清盛が組織のトップの地位を相続し、伊勢平氏の組織を昇華させた結果が平家という組織である。


 民主主義というのは政治においては意味のある仕組みである。特に、民主主義の持つ自浄作用は他の仕組みよりもかなり優れている。だが、民主主義が企業の利益を求めるのに相応しい仕組みであるとは言えない。嘘だと思うなら従業員で統治する企業があるかどうか思い浮かべていただきたい。思い浮かべることのできる人はいないはずである。しいて挙げればティトー政権下のユーゴスラビアで労働組合の支配する企業を国策として導入したという例はあるが、これは失敗した。ワンマン社長が全ての決定権を握る企業というのは、社長の独裁が非難されることもあるが、従業員を酷使せず、従業員とその家族の生活を保障し、取り引き相手を貧困に陥らせず、環境を破壊しない限りにおいて、社長の独裁は文句を言えるものではなくなる。

 なぜか?

 早いのだ。

 決定も、決断も、早いのだ。

 経済において早さというのは大きなメリットを有している。市場獲得において出遅れはきわめて大きなハンデとなる。最高経営会議にしろ、あるいは従業員の議決によるにしろ、あるいは株主総会の議決によるにしろ、人を集めて会議を繰り返して結論を出すというのは時間が掛かる。話し合いをしている間にも市場は激変し、話し合いの結果は通用しなくなる。市場の激変に適合し他に先んじて市場を獲得するとすれば、他よりも早い決断と行動が求められる。それが、独裁だと早いのだ。

 平家は平清盛が全ての決断をして命令をする。平家を構成する面々は平清盛の命令に従う駒となっている。無論、平重盛をはじめとして平清盛に意見する者はいるし、平清盛もそうした者の意見を受け入れている。ただ、決断をするのは平清盛であり、命令を出すのも平清盛なのだ。そして、平家の誰もが平清盛の決断を受け入れ命令を行使する義務を持つ。決断を受け入れ命令を行使したならば、その者には自身と家族の生活が充分に保証できるだけの報酬が得られる。

 また、平清盛の命令も無茶な命令ではない。誰がどのような職務を担当しているのかを把握できているし、その人にこなせないような職務を担わせることもしない。個々の職務を取り上げるならばその人にこなせる職務であるが、積み上げた結果その人のこなせる職務の限界を突破するようなことがあれば、奮闘を促すのではなく職務のほうを削っている。

 絶大な権力を持った独裁者が君臨している組織というのは、組織全体が一つの方向に向かって動くという習性を持つ。組織の存続に関わるような問題が起こったとき、組織としてどのように行動すべきなのかという意見の対立は組織の内部で必ず生じる。だが、独裁者の決断となれば意見の対立を消滅させることができる。独裁者に従えないために組織から離脱する人がいるものの、組織に残った者は、その行動が組織外からの支持を得るかどうかは別にして、一つのまとまった行動をするようになる。独裁者が存在しない組織であり、複数の有力者の話し合いで物事を決定する組織や、組織の構成員一人一人の意見をまとめる組織でも、最終的に意見をまとめて組織全体の行動とさせることはできるが、そこまでに要する時間と、組織内部で発生する対立が組織今後にもたらす悪影響とは無縁でいられない。意思決定の短さというのは、対立を少なくし、悪影響を最小限に食い留めるというメリットも存在する。

 組織のあり方として一人のリーダーに全責任と全決定権を与えるというのは珍しくない組織構造であり、古今東西様々なところで見られた組織構造である。ただし、このような組織構造には欠点も数多く存在する。全責任と全決定権を持つリーダーの判断が間違っているときの修正ができないというのも欠点であり、それが後の平家政権の崩壊の原因の一つともなるのであるが、もっと大きな欠点は、リーダーの後継者である。現在でも世界に冠たる企業のトップが世襲であるというケースは珍しくない。それは、世襲を廃した場合に生じるデメリットを完全に打ち消すだけの大きなメリットを世襲は持っているからである。

 そのメリットとは、リーダーが退場した後も組織が継承されるというメリット。

 理想としてはリーダーが退場した後も組織内で次なるリーダーを用意して組織を継承するべきであるが、誰が次なるリーダーになるのかというのは組織内に大規模な派閥争いを生み出す。多くの人にリーダーになるチャンスが存在するということは、リーダーの地位を巡る争いと無縁ではいられないということだ。しかし、リーダーの地位を世襲と定めると、リーダーの子や孫が次なるリーダーであることが事前に明示されるため、後継者争いは完全に鎮静化する。次なるリーダーの資質の問題があったとしても、後継者争いの生み出す組織へのダメージに比べれば小さなもので済む。

 平清盛はかなり早い段階から長男の平重盛を後継者に指名し、平家の面々は誰もが平清盛の次は平重盛が平家のトップに立つことを当然のこととして受け入れていた。また、平家以外の者も平清盛の次は平重盛が平家を率いることとなると考えており、そのための準備も着々と整えていた。

 一例を挙げると長寛二(一一六四)年初頭の位階が上げられる。三男の平宗盛は前年一一月一八日に正五位下に登り詰めたばかり、四男の平知盛は年明け間もない一月五日に従五位上となったばかりである。ところが、前年に従三位に登り詰めていた平重盛はこの年の二月一七日に正三位へと昇格しているのである。まだ参議に就けておらず武官としての官職である右兵衛督を帯びているのみだが、藤原氏と源氏以外で三位以上の位階を得ている氏族が複数名いるというのは寛弘二(一〇〇五)年が最後のことであり、平清盛と平重盛の二人が名を連ねたのは実に一五八年ぶりの快挙だったのである。ちなみに、一五八年前に名を連ねていたのは平惟仲と平親信の二人、すなわち平氏である。もっとも、二人とも桓武平氏ではあるが高棟王流であり、平清盛らの平家は同じ桓武平氏でも高望王流なので、直接の祖先と子孫というつながりではない。


 平家が組織を強化させていた頃、二条天皇親政の主軸である藤原摂関家に大きな転換点が生じていた。

 藤原忠通が倒れたのである。それも、明らかに命にかかわる容態であった。藤原忠通の身に何が起こるか誰の目にも明らかであった。

 すでに政界を引退し、息子達に藤原摂関家の次代を担わせていた身である。理論上は藤原忠通の命が尽きることが政界に大きな影響をもたらすものではないはずである。だが、太政大臣を二度経験し、摂政も関白も経験し、三人の息子がそれぞれ関白左大臣、右大臣、権大納言となっている人物の死が全くの無影響で済むはずは無かった。

 長寛二(一一六四)年二月一九日、元従一位、元摂政、元関白、元太政大臣藤原忠通、六八歳で死去。同時に、関白左大臣藤原基実、右大臣藤原基房、権大納言藤原兼実の三人が服解となった。服解とは、朝廷に仕える者の両親が亡くなったとき、喪に服している間、一時的に官職を解かれることである。本来であれば三年間は喪に服すのが規定であったが、時代とともに短縮されてきて、極端なときには天皇の命令により喪が明けたと宣告されて数日間で政務復帰が命ぜられたこともある。

 藤原頼長のもとで律令制の再興が図られてきた影響に加え、あまりにも短い期間では非人道的でもあるため、さすがに数日間で政務復帰ということはなくなっていた。実際、このときの復任は三人とも三月二九日である。

 それでも一ヶ月以上に渡って、関白左大臣と右大臣の双方とも不在であり、権大納言も一人が不在であるというのは政務遂行において大きな支障となっていた。


 先に、関白左大臣藤原基実、右大臣藤原基房、権大納言藤原兼実の三人と記した。そもそも本作品はこれまで、藤原忠通の子を、藤原基実、藤原基房、藤原兼実と記してきた。しかし、現在の多くの歴史書ではそのように記されてはいない。関白左大臣近衛基実、右大臣松殿基房、権大納言九条兼実と記されている。

 平家は良かれ悪しかれ一枚岩な組織であるのに対し、藤原氏は、外に対しては結束するが、内側では派閥争いを繰り返す組織である。何度も記してきたが、藤原氏というのは現在の自民党に似た組織であり、内部で様々な政策を掲げる集団が存在して相互に派閥争いを繰り広げ、派閥争いの勝者が藤原氏全体の指揮者となり、国益と同時に藤原氏の利益をもたらしてきたのがこれまでの歴史だ。派閥争いがありながらも広い意味で藤原氏の結束は存続し、議政官の過半数を握り続けることで政権を握り続けてきたというのが藤原氏の政権維持の方法である。

 その関係は長寛二(一一六四)年になっても健在であり、藤原摂関政治の再興という点では外に対して一枚岩になっても、誰が摂政や関白に就くかという争いは潜在化していた。たとえ本人は認めていなくとも、周囲は藤原氏内部の派閥争いを認識していたし、藤原氏内部の派閥争いと自らの権勢とを結びつけることで権力のおこぼれに預かろうと企む者も多かった。

 しかも、藤原氏のトップは藤氏長者であると明確化されているが、藤氏長者の継承権については長子相続が厳密に定められているわけではない。藤原忠通は近衛基実こと藤原基実を藤氏長者とさせることで藤原氏のトップとさせ、弟たちには兄を補佐するようにさせた。

 これが、年齢差のある兄弟であるなら問題は無かったであろう。あるいは、年齢差はあってもキャリアに大きな違いがあるというなら問題は無かったであろう。だが、長寛二(一一六四)年時点の年齢では、関白左大臣近衛基実が二〇歳、右大臣松殿基房が一九歳、権大納言九条兼実が一五歳である。九条兼実だけ少し離れているが、それでも三人とも近い年齢であり、かつ、キャリアについても大きな差異はない。そして何より困ったことに、明瞭な敵がいない。藤原忠通が、父の藤原忠実や弟の藤原頼長と争っていた頃は兄弟が力を合わせることが公的にも私的にも利益になっていたし、そもそもその頃はまだ幼かった。だが、藤原頼長が亡くなり、藤原忠実が亡くなり、そして藤原忠通も亡くなり、後白河上皇の院政が頓挫したいま、兄弟は力を合わせるのではなく、争う関係へと向かいだしたのだ。敵がいれば内部でいかに対立していても外に向かっては一枚岩になるのが藤原氏という組織だが、後白河上皇の院政が頓挫したことを最後に藤原摂関政治に反発する勢力は目に見えなくなった。こうなると、平和で平穏な日々を過ごしながらも、対立が潜在化することとなる。

 そのことは史料に記されている苗字にも現れている。当人は自分の姓を藤原であると考えていたし、公的にも藤原を名乗っている。それ以前に日常生活で苗字を使おうなどと考えてすらいない。あまりにも増えすぎた藤原氏の中でも、主流とはかけ離れている人達が通称として苗字を用い、それがあたかも姓であるかのように呼ばれていることは彼らとて知識としては知っている。だが、藤原氏の本流であると自覚している彼らが苗字などという本流から離れた者の用いる擬似的な姓を用いるなど考えもつかなかった。それでも後世の人は、彼らを近衛と、松殿と、九条と呼ぶ。時代とともに藤原氏の本流であると自覚している者も藤原という姓とは別に通称としての苗字を使うようにもなったからである。そして、その苗字の起源を由緒あるものとさせるために苗字の始祖を求めるようになる。ゆえに、同時代史料では藤原でも、後世に記された記録だと、近衛であったり松殿であったり九条であったりする。

 話を藤原忠通の亡くなった直後に戻すと、長寛二(一一六四)年四月一〇日、潜在化している藤原氏内部の対立が、二者の間での協定につながった。その流れの中で一つの動きが生まれた。近衛基実と平家の協力関係樹立である。近衛兼実は隆盛著しい平家と手を組むことで、それまで藤原摂関家が手にしていながら平治の乱で完全に喪失した清和源氏の武力に変わる武力、そして、その財力を期待できるようになった。そのために近衛基実は、藤原氏としてできる最大の厚遇を平家に提供した。その厚遇とは、近衛基実自身。近衛基実は平清盛の娘を妻に迎え入れたのである。平清盛の娘の平盛子はまだ九歳であったが、この年齢での政略結婚はこの時代において珍しいことではない。ただし、平清盛は幼い娘を嫁がせるのに際して要求を突きつけている。三男の平宗盛と五男の平重衡の二人を摂関家の政所の別当とさせたのである。これも、かつて清和源氏を用いていた頃のように平家の武力を藤原氏が私的に利用できる環境を構築するのに役立った。

 近衛基実が平家の武力と財力を手に入れたことは、松殿基房と九条兼実にとって脅威となるはずであったが、その対抗策としてなのか、それとも世間へのアピールのためなのか、二人の貴族が政界に復帰している。

 一人は保元の乱で敗者となった藤原頼長の子で土佐国に流罪となっていた藤原師長、もう一人は応保二(一一六二)年の賀茂社における二条天皇呪詛事件で信濃国に配流となっていた源資賢である。

 この頃はまだ、罪人が罪を許されて京に帰還した、あるいは、刑期満了を迎えて京都に戻ってきたと考えた。しかし、後の動きを調べると、この二人は同じ役割を持っての京への帰還であり、その結果として同じ境遇が待っていることに気づかされる。その役割とその境遇がどのようなものであるのかは、実際にそのときを迎えた箇所で記すことになる。


 長寛二(一一六四)年八月二六日、それまで公然と語られることの無かった崇徳上皇について、ようやく公然と語ることが許されるようになった。

 と言っても、崇徳上皇の配流が終わったのではない。

 崇徳上皇が讃岐の地で崩御したのだ。

 崇徳上皇が亡くなったことで崇徳上皇院政の可能性は消滅した。消滅はしたが、記憶の中の崇徳上皇まで消えるわけではなかった。人気があったのに悲運にさらされ配流となり、配流となった先で崩御した上皇は、亡くなったがゆえに、より強固なイメージを持った存在へと昇華したのである。現在の社会に対する不満を束ねる偶像としての崇徳上皇の誕生である。

 さらにここに崇徳上皇への冷遇も加わる。崇徳上皇への冷遇は、崇徳上皇への同情と、崇徳上皇への偶像化に働くこととなった。

 当作品ではここまでずっと「崇徳上皇」と書き記しているが、この頃の記録に「崇徳上皇」の諡(おくりな)

はない。あるのは「讃岐院」という院号である。院号として、住まいとした建物の名、あるいは住まいを構えている土地の名を用いるのは通例であるから、崇徳上皇が讃岐院と記録されるのは例に依っているのであるが、無神経にもほどがある。

 帝位を退いたあとで平安京を離れて余生を過ごすことは珍しくなく、過去二例の院政はともに平安京から離れた土地を院政の舞台としてきた。だから、理論上は白河院や鳥羽院と同じ扱いである。ただ、それと崇徳上皇への院号とを同列に扱うのみならず、讃岐の地を院号とするのは非難を受けるに値することであったのだ。崇徳上皇は讃岐に移り住んだのではなく、讃岐に配流となったのだから。

 長寛二(一一六四)年時点の記録は、後の崇徳上皇怨霊伝説からは想像もできない淡々としたものである。

 讃岐国から届いたのは崩御の知らせと埋葬の知らせである。伝承としては火葬での煙が都の方向へと靡(なび)いたというが、葬儀での煙に対する明確な記録はない。確実な記録は、長寛二(一一六四)年九月一八日に亡き崇徳上皇が讃岐国の白峰山の山頂で荼毘に付され、白峰山には御陵である白峯陵(しらみねのみささぎ)が設けられたという点のみである。なお、崇徳上皇を祀る京都の白峯神宮が造営されたのはは明治維新直前の慶応四(一八六八)年のことであり、崇徳上皇の京都帰還は死後七〇四年を経過してのとこである。

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

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