平家起つ 6.二条天皇親政の終焉

 平安京で崇徳上皇の崩御のニュースが公然と語られるようになった長寛二(一一六四)年九月、平家納経の一回目の奉納が行われた。

 奉納先は厳島神社。

 厳島神社といえば社殿と大鳥居を思い浮かべるが、平家納経が厳島神社に奉納された時点ではまだ現在にあるような社殿や大鳥居は存在していない。ただし、伝承による厳島神社の創建そのものは推古天皇の年代にまで遡り、確実に存在していたことを裏付ける史料に絞ったとしても弘仁二(八一一)年にはその存在が確認できている。

 さて、厳島神社に平家納経があること、すなわち、お経を厳島神社に奉納したことを不可解に思う人もいるかもしれない。神社なのになぜ平家はなぜ仏教の経典を奉納したのか、と。確かに当時は神仏融合の時代であったから神社に仏教の経典が奉納されてもおかしいとは思われなかったというのはあるが、それは理由の半分でしかない。もう半分は平家の経済政策が存在する。

 この時代の厳島神社は厳島の最大の法人である。厳島は広島湾に浮かぶ島であり、この時代の広島湾の最大の港湾設備であった。現在からは想像できないかもしれないが、現在の広島市の沿岸部は遠浅であるために接岸に適していなかったのである。ここで厳島神社に経典を奉納することは、広島湾の港湾設備と周辺の船舶航行に対し平家の影響力を示すことができる、要は、海賊を力でねじ伏せることができるのだ。

 平家が経典を納経したことは知れ渡った。それもこれ以上ない豪華な経典だ。その経典が厳島神社にあるという知らせを海賊の立場で捉えるとどうか?

 厳島神社に襲い掛かって経典を盗もうと考えることまではできても実際に実行に移す者はいなかったであろう。何しろ平家の軍事力が背後に控えているのだ。厳島は、海賊が手を出そうものなら平家の軍事力の前に沈黙させられる存在へと登り詰めたのである。

 資産の保全を考える側に回ると厳島の安全性がクローズアップされることとなる。信仰心の高いこの時代、平家納経は美術品としての価値もさることながら、宗教的価値も高いものがある。御利益の期待できる見事な経典が奉納された厳島神社はただでさえ海賊にとってアンタッチャブルな存在であるのに加え、この時代で最強の軍事力を持つ平家が控えているとなると決して触れてはならない存在へと昇華する。しかもこれは、厳島神社に限らず厳島神社に奉納した人にも適用される。平家を見倣って何かしらを厳島神社に奉納すれば平家とともに厳島神社に奉納した仲間となり、奉納仲間が襲われたとあっては平家の誇りにかけて黙っているなどできなくなる。厳島神社の存在そのものが平家の軍事力に結びつくこととなるのだ。

 しかも平家納経は一度に納経されたものではない。何度かに分けての納経であり、納経の都度、厳島神社には平家の軍事力が存在することを周辺にアピールすることとなる。行動は物騒であるが結果は平和をもたらすものとなったのだ。


 行動はともかく結果として平和となったのは中国大陸でも起こっていた。海陵王に代わって金帝国の皇帝に就いた世宗と、采石磯の戦いの翌年に南宋の皇帝に就いた孝宗の両雄が並び立つ時代を迎えたのである。

 世宗率いる金帝国は、海陵王の目指したように南宋の併合をもはや目指さなくなっていた。それよりも海陵王が破壊した金帝国の経済の再建を優先させたのである。財政再建のために増税を課した一方で人員整理を行うという典型的な緊縮財政政策であり、景気回復は見られず国内の反発は大きなものがあった。一人あたりのGDPも南宋に大きく差を付けられ多くの漢民族が南へと逃れることに違いは無かったが、少なくとも南宋との間の平和は確立した。

 南宋の皇帝に就いた孝宗は、世宗と同様に人員整理に手を付けたが、同時に大胆な人事登用政策を展開した。科挙そのものは唐代には既に存在していたが、それまで南宋の宮中において絶大な権限を持っていた貴族層から、科挙での合格者を中心とする官僚層を朝廷の軸に据えることで、科挙の社会的役割は以前よりもはるかに高まるものとなった。そして、人員整理に手を付けたことは世宗と同じであったが、この人はむしろ積極財政を展開する人でもあった。積極財政というと、近年話題になっているMMT(現代貨幣理論)があるが、これは南宋で既に存在していた経済政策である。ただし、孝宗はMMTが経済情勢を悪化させ産業生産性を低下させると同時に物価高騰を招いているとして、MMTによる紙幣発行を抑制して物価を安定させ、農村の生産力回復をはじめとする産業復興を進めたことで、南宋の経済は金帝国を大きく上回るようになっていた。

 この二人の皇帝の間で結ばれたのが隆興の和議である。ここで、南宋は金帝国を主君とし、金帝国は南宋を臣下とすると扱われ南宋の知識人や庶民からの激しい反発を招いたが、それまで金帝国と南宋との間に存在していた毎年の年貢上納義務が廃止されたことは南宋にとって大きなポイントだった。

 というところで南宋の経済に大きなウィークポイントも露顕した。紙幣発行の裏に存在していた南宋経済の現実である。日本との貿易が大幅な赤字になっており、多くの南宋の貨幣が日本へと流れていってしまっているのである。市中に出回る資金そのものが減っていることが紙幣発行の理由でもあるが、この時代の南宋の貨幣制度は貨幣がメインで紙幣は貨幣の補助である。貨幣が国外に、特に日本に大量に流れていることは南宋の経済にとって深刻な問題であった。

 このタイミングで南宋の前に現れたのが平清盛率いる平家である。平清盛は宋との貿易を大規模に推し進めようとしているのみならず、外貨流入どころか流出も念頭に置いた貿易政策を提唱したのである。


 ここでこの一年で二条天皇親政に起こったことを振り返ると、藤原忠通が亡くなったことで藤原摂関家の分裂の兆しが見えた反面、崇徳上皇の崩御により崇徳上皇院政を旗印とする反二条天皇親政派権力を構築することは不可能になった。そして、もう一人の院政の可能性のある後白河上皇は、院政を断念した、かのように見えていた。一見すると二条天皇親政は安泰であるかのように見える。

 ところが、長寛二(一一六四)年閏一〇月二三日、姿を潜めていた後白河上皇が動き始めたのだ。

 何が起こったかというと、人事の玉突きである。

 スタートは一〇日前の内大臣藤原宗能の辞職である。

 辞職理由を聞けば誰もが納得するものがある。年齢だ。

 藤原宗能はこのとき八一歳である。そもそ七八歳になってようやく内大臣に登り詰めたという苦労続きの人であり、本来なら内大臣になる前に政界引退となるところであったが、左大臣近衛基実と右大臣松殿基房の後見役として無理を要請され、八一歳までの四年間に亘って第一線に残り続けたのである。そうして迎えた四年間、近衛基実は二二歳の関白左大臣として政権にとって不動の存在となり、右大臣松殿基房も兄とともに政権を支える二一歳の若き大臣へと成長している。もう後見役は必要ないと考えた藤原宗能は、権力闘争では無く、自身の役目を充分に果たしたと考えての引退であった。ただの引退ではなく、息子である従三位の参議藤原宗家を正三位に昇格するという報償を伴った引退となったことについても誰も文句を言う者はいなかった。

 さて、内大臣の地位が空席となったのであるから誰かが内大臣に就くことが可能となる。理論上、内大臣は常設の地位ではないため空席であっても問題はないが、内大臣の空席は通常であれば当日のうちに、例外的に長くなったとしても一ヶ月もあれば誰かが埋めるのが慣例となっていた。何しろ藤原道隆が永延三(九八九)年に就任して以降の内大臣は二五名、うち、前任者が右大臣に昇格したなどの理由で内大臣職が空席であった期間が一ヶ月を超えたのは長徳二(九九六)年に内大臣藤原伊周が罷免されてから、翌年に藤原公季が内大臣に就くまでの一年三ヶ月の空白がただ一例としてあるのみである。

 では誰が内大臣になるのか。

 この時代の多くの人が考えたのが、権大納言九条兼実の内大臣昇格である。二人の兄が左大臣と右大臣をつとめており、ここで内大臣が九条兼実となることで藤原摂関家はより強固なものとなって二条天皇親政を支えることとなると期待されたのだ。

 ところがここで横槍を入れてきた人物がいた。

 院政を断念したと誰もが見ていた後白河上皇だ。

 後白河上皇は、配流によりキャリアを中断させられていた権大納言藤原経宗に正当なキャリアの手順を積ませるべきであると訴えたのだ。平治の乱で後白河上皇に反発して藤原信頼の側に立ち、藤原信頼と袂を分かったのちも後白河上皇に対する嫌がらせをし、後白河上皇の逆鱗に触れたために逮捕され、拷問を受け、阿波国に配流となった人を、今まさに後白河上皇が取り立てるべきであると訴えているのである。後白河上皇は過去の屈辱を忘れたのだろうか、あるいは、既に配流を終えて帰京した藤原経宗にはこれ以上の罪を問わせることができないと考えたのだろうかなどと噂したが、後白河上皇の訴えはそうした個人的な怨念を超えた合理的な理由が存在した。

 まず、藤原忠通の息子達が成長したとはいえ、最年長の左大臣近衛基実ですらまだ二二歳という若者でしかなく、引退した藤原宗能に代わる後見役が朝廷に必要であると主張したのである。藤原宗能の後継者となると空席となった内大臣に藤原経宗を昇格させるということになるが、八一歳の藤原宗能はともかく、四六歳の藤原経宗はこれからもキャリアが続く。だが、左大臣が二二歳で右大臣が二一歳だとキャリアがそこで止まってしまう。既に職務にある人を罷免して新しい人をその職に任命するというのは、保元の乱や平治の乱といったレベルの大変動でも起こらない限り無理な話だ。しかも、現在の二条天皇親政のシステムは、平治の乱の後の混迷を知る者がいかにして混迷を起こさせぬようにするかを考えて構築したシステムであるから、いよいよもって大変動など期待できぬこととなる。左大臣も、右大臣も、大変動を起こさないように行動するし、それ以前に大変動を起こそうという動きを見せることすら許されないこととなるため、年齢を考えてもかなりの長期政権になることが見込まれる。

 この環境下で内大臣になるということは、内大臣より上に行く機会を失うことを意味するだけではない。内大臣は、左大臣とも右大臣とも違って議政官の議事開催権と議事進行権を有さない。行使できる権限だけを考えると権大納言のままであるほうがまだ強いのだ。


 後見役だけであれば内大臣でも可能だが、後白河上皇のいう藤原経宗の正当なキャリアへの復帰を考えると、左大臣、もしくは右大臣への昇格でなければならない。それは、近衛基実と松殿基房のどちらかに現在の地位から退かせることを意味する。一見すると図々しい横槍であるが、これに対しても後白河上皇は答えを出している。近衛基実を関白専任にさせよというのである。

 しかもこの答えは納得のいく根拠を伴うものであった。

 そもそも関白は慣例として議政官に顔を出さない。議事進行権も議事開催権も、権利として有してはいるが実際に行使することはない。これでは左大臣としての職務をこなしているとは言えない。関白と左大臣を兼ねるというのは、認められている権限こそ計り知れぬものがあるが、現実的に行使している権限となると少ないものとなる。実際、関白兼任であるために左大臣不在という状態が日常化し、右大臣松殿基房は通常の右大臣以上の職務遂行を要請されていたのである。だからと言って近衛基実が遊びほうけているわけではない。近衛基実は近衛基実でかなりの勤務過剰状態にある。議政官だけが免除されているだけで他の左大臣としての職務まで免除されているわけではないため、ただでさえ激務である左大臣職をこなしながら、摂政と比べれば軽いものの決して楽な職務とは言えない関白職も並行でこなしているという状態だったのである。近衛基実と松殿基房の両名ともが健在であることが前提となったシステムというのは、平常時は問題なくとも何かあったときに対応できないことを、すなわち、システムとして欠陥を内包していることを意味する。

 後白河上皇が提唱したアイデアは以下の通りである。まず、関白左大臣近衛基実が左大臣を辞して関白専任になる。関白左大臣から関白太政大臣になるというのは、太政大臣藤原伊通が健在なので不可。ただし、藤原伊通は既に七二歳という高齢である。藤原宗能が八一歳にして内大臣であるという例があったために着目されることは少なかったが、実際には七二歳の太政大臣でも充分に高齢であり、政界引退を決断しても何ら不都合はない。藤原伊通が政界引退した場合、関白専任から関白太政大臣に職務を変更することは容易である。他ならぬ近衛基実の実父である藤原忠通は二度もそれを経験している。

 近衛基実の後の左大臣には右大臣松殿基房が昇格する。右大臣から左大臣への昇格は律令制で想定してあるキャリアプランの基本であり、二一歳という若さを除けばこれまで何度も見られてきたことである。また、二一歳という若さを懸念する向きもあるが、関白兼任であるために議政官に顔を出せなかった兄に代わって議政官を仕切ってきたのはこの若き右大臣である。その都度、左大臣不在であるために臨時の左大臣代理を務めていたのが、今後は左大臣としてこれまでと同じ職掌をこなすようになるだけであり、年齢の若さがネックになったとしても経験の浅さというネックは存在しない。

 そして、空席となった右大臣に藤原経宗が昇格する。右大臣が左大臣の補佐をすることはおかしくないどころか、律令制で想定しているキャリアプランだ。次期左大臣が、現職の左大臣の職務の補佐をしつつ右大臣としての職務をこなし、左大臣が退任した後に右大臣が新しい左大臣へと昇格するというのが律令制での想定であり、補佐をするという視点で言えば内大臣より右大臣のほうが補佐としてはより多くの仕事をこなすことができる。左大臣と右大臣とでは左大臣のほうが歳上であることが多いので、二一歳の松殿基房と四六歳の藤原経宗との関係はレアケースとなるが、前例のないことではない。

 その上で、空席となった内大臣に権大納言九条兼実を昇格させることで、若き左大臣と若き内大臣を四六歳という年齢実績ともに申し分なしの右大臣が支えるという政治システムが完成することとなる。藤原経宗という人物は、阿波国に追放となった経歴はあるものの、藤原忠実から政務のノウハウを学んだ実績もある人物であり、さらに言えば摂政や関白に就任する血縁関係も有している人物である。近衛基実と松殿基房の両名ともが健在であることを前提とするシステムよりも冗長性に優れたシステムであると言えよう。


 この、一つ一つはもっともなシステムは後白河上皇のアイデアの通りとなって長寛二(一一六四)年閏一〇月二三日に完成した。何も知らない人が見たなら、後白河上皇はなかなか素晴らしいアイデアを出したものだと褒め称える内容である。

 後白河上皇は藤原経宗が自分への侮蔑をした過去を忘れてはいなかった。と同時に、藤原摂関家の三兄弟に対抗するのに、特に摂政近衛基実に対抗するのに、藤原経宗以上に利用できる人材はいないとも実感していた。藤原忠通の指名した後継者に対抗するには、藤原忠実から政務を学んだ藤原経宗を、阿波国に流刑となった過去を白紙撤回させてでも対抗馬として用意するのが最善の策であった。

 藤原経宗もこの事情を把握し、自らが藤原摂関家の三兄弟と対抗するために後白河上皇に利用される存在となることを受け入れた。ただし、あくまでも若き関白近衛基実が暴走しないように食い止めると同時に後白河上皇の暴走を食い止めるのも役割であり、後白河上皇の望みを実現させることは無論、自分が前面に立って音頭を取ることは求められていないと納得した上での受諾であった。

 一方、藤原経宗の右大臣就任に皮肉を飛ばした人もいる。太政大臣藤原伊通である。平治物語によれば、藤原経宗がかつて阿波国に流罪となっていたことから、太政大臣藤原伊通は右大臣に就いた藤原経宗のことを「阿波大臣」と呼び、かつて吉備真備が右大臣であったことを引き合いに出して、「キビ(黍・吉備)の大臣とアワ(粟・阿波)の大臣が出たのだから、いつかはヒエ(稗)の大臣も現れるであろう」と皮肉を飛ばし、これが大いに広まって流行語となったのである。

 太政大臣藤原伊通は皮肉を飛ばしたが、現実に目を向けていた人もいる。

 平清盛だ。

 平清盛は後白河上皇が院政に向けて動き出したことを念頭に置き、後白河上皇に配慮を見せたのである。愚管抄はこの頃の平清盛が二条天皇と後白河上皇の双方ともに接点を以て行動していたをことを「アナタコナタ」と評している。

 その一例は現在でも簡単に目にすることができる

 京都駅からバスに乗って京都国立博物館前のバス停で降りると、京都国立博物館前の道路を挟んで南に三十三間堂と法住寺が存在していることに気づく。一つのバス停が日本を代表する一つの博物館と二つの歴史的建造物の最寄りのバス停となっているのである。京都国立博物館はさすがに平安時代に存在するわけないが、三十三間堂と法住寺とが隣接しているのは偶然ではない。後白河上皇が住まいとしていたのが法住寺殿であり、三十三間堂こと蓮華王院本堂を造営したのが平清盛である。しかも、平清盛は国費を全く投じることなく、全て平家の私財で賄ったのである。ちなみに、三十三間堂を築いたのは平清盛が最初ではなく、父の平忠盛も三十三間堂と呼ばれることの多かった得長寿院千体観音像の造営を私費で請け負って完成させており、平清盛は、父の業績を、場所を変えて再現したことになる。

 蓮華王院本堂は鎌倉時代の火災で焼失してしまったが、建立当時の蓮華王院は壮麗な五重塔も備えた本格的な寺院であり、蓮華王院そのものが法住寺に従属する宗教施設にもなっていた。すなわち、蓮華王院は宗教施設でもあるため荘園の寄進も可能であり、蓮華王院に荘園を寄進することで、荘園在住者は宗教施設を背景とする荘園の恩恵を獲得し、蓮華王院の保有する荘園からの資産は後白河上皇の経済基盤構築に寄与することにもなったのである。


 二条天皇は平家が後白河上皇とも関係を維持していることを理解していたが、今の二条天皇に平家との関係を断絶するという選択肢は無かった。朝廷の行使しうるただ一つの軍事力である平家を敵に回すことのメリットは存在しないのだ。単に自らの身の安全に関わるとかの話ではなく、執政者としての治安維持に関係する話なのである。

 平清盛は既に検非違使別当を辞任している以上、平清盛に検非違使として治安維持を命じることはできない。ならばもう一度検非違使別当に戻って治安維持の責任者になれと命じれば良いではないかとなるが、それもできない。

 何しろ、長寛三(一一六五)年一月時点で検非違使別当の職務にあったのは権中納言藤原顕長であり、役職だけで言えば同じく権中納言である平清盛と同格であっても、藤原顕長と平清盛とでは位階が違う。藤原顕長は正三位であるのに対し、平清盛は従二位にまで昇格している。自分より役職と位階の低い者が就いていた職務に就くことはありえない。ゆえに、検非違使別当に平清盛を就かせるという選択肢はここで消える。ならば、平清盛の後継者であり既に正三位の位階を得ている平重盛を検非違使別当にすれば良いではないかとなるが、それもできない。たしかに平重盛は正三位であるが、参議にもなっていない。長寛三(一一六五)年一月時点での平重盛は右兵衛督の役職は得ているものの議政官には名を連ねていない貴族なのである。権中納言である者から取り上げた役職を就かせるのにふさわしいポジションを、平重盛はまだ獲得していない。

 そこで編み出されたのが、平清盛の父である平忠盛に対して試みられた方法に似た手段である。平清盛を兵部卿にするのだ。平忠盛の場合は刑部卿であり、律令制の規定に厳密に従うと、平清盛は日本国の軍事の全権を担うのに対し、平忠盛の場合は日本国の警察権の全権を担う役職であるので両者の役割に違いがあるが、治安維持という点では、そして、治安維持のために自身の軍事力を発動できるという点では、刑部卿と兵部卿とで違いはない。違いがあるとすれば行使することが許される軍事力が兵部卿のほうが大規模であるというぐらいか。

 長寛三(一一六五)年一月二三日、平清盛が兵部卿を兼任することとなった。これにより、平清盛は自身の持つ武力を国の軍事力として動員することが可能となった。なお、自身の兵部卿就任に際し平清盛は一つの条件を出している。側近の一人である平盛国を検非違使の一員に加えることである。国内の治安問題に対していきなり軍事力を発動させることは問題があっても、側近の一人が検非違使の一員となり、検非違使から治安維持のために平家の武力を動員するよう要請されたならば、平家は堂々と武力を繰り出すことが可能となる。兵部卿としての軍事力発動だけでなく、警察から要請を受けての武力発動が可能となったことで、平家の武力を利用した治安維持は二段構えで構成されることとなったのである。

 二条天皇二三歳、関白近衛基実二三歳、左大臣兼左近衛大将松殿基房二二歳、内大臣兼右近衛大将九条兼実一八歳。この若さに加え治安維持に要する武力も確実なものとなったことで誰もが二条天皇親政は長期政権になると確信した。

 二月までは。


 長寛三(一一六五)年二月一五日、前年末の藤原経宗の右大臣就任に嫌味を飛ばした太政大臣藤原伊通が亡くなった。二月一一日に出家をして一五日に亡くなるという突然の出来事に動揺した者は多かったが、既に七三歳という高齢である。覚悟をしている人も多かった。

 だが、同月の出来事は誰も覚悟どころか想像すらしていない出来事であった。

 二条天皇が倒れたのである。それも命の危険を覚悟しなければならないほどの重い症状であった。重い症状とだけあって具体的にどのような症状であったのかを史料は詳しく伝えていないが、現代医学であれば対処しうる病気であったとしても、この時代の医学水準では命にかかわる話である。太政大臣藤原伊通もほぼ同時期に亡くなっていることを考えると、インフルエンザなどのような伝染病に揃って罹患し、七二歳と高齢である太政大臣藤原伊通は体力が無いために亡くなり、まだ二三歳の二条天皇はその若さから命を失うまでには至らなかったということもありうる。

 そこで同時期に倒れた人を調べてみると、少なくとも二人見つかった。五四歳の権大納言藤原季成が二月一日に亡くなっており、参議ではないものの正三位の位階を得ていた五九歳の藤原範兼が二月一一日に出家をしている。なお、藤原範兼はこのときこそ一命を取り留めたものの四月二六日に亡くなっている。朝廷という狭い世界は伝染病の流行に弱いという宿命を持っている。

 まだ二三歳という若さでの突然の病気に周囲は驚きを隠せなかった。何しろ二条天皇の身に何かあったとしたら帝位を継ぐのは二条天皇の皇子ということになる。第一皇子は源光成の娘を母親とする狛宮、第二皇子は伊岐致遠の娘を母とする順仁親王である。どちらも母の身分が低いという、現在では問題にならないがこの時代では大問題となる懸念事項があったが、もう一つ、これは現在でも通用する懸念事項があった。二人ともまだ二歳なのである。しかも、この二歳という年齢は数え年でのカウント方法であり、現在の満年齢に直すと狛宮は生後九ヶ月、順仁親王は生後三ヶ月の乳児である。

 帝位継承問題はやがて起こるであろうと考えていた人はいたが、それがまさか、生後一年に満たない乳児への帝位継承の可能性という問題として起こるであろうと考えた人はいなかった。

 起こってしまった以上、問題解決も考えなければならない。

 この時代の人たちの考えたのは、まず、二条天皇の病状回復を祈ること、次いで、二条天皇の皇子への帝位継承となった場合の政権である。

 年齢についてはどうにもならないが母の身分の低さについてならばどうにかなった。順仁親王の母后を中宮藤原育子とするのである。伊岐氏は藤原氏のうち後世からは徳大寺家と称されることとなる藤原公季の家系に代々仕えていた家系である。徳大寺家の出身で藤原忠通の養女となった中宮藤原育子を母親と公表することは、かなり無理のある話ではあったが、この時代の権力を前面に押し出せば無理を押し通すことができる。第一皇子である狛宮の立場が悪くなるではないかという批判も、皇統継続のための前には沈黙させられたのだ。


 病に倒れた二条天皇の病状は回復傾向にあったが、その二条天皇の症状を一気に悪化させる大ニュースが飛び込んできたのが長寛三(一一六五)年三月一一日のことである。平安京で大火災が発生したのだ。

 出火元は錦小路富小路というから、現在で言う錦市場商店街のほぼ真ん中のあたり。出火元から炎は北へ北へと拡大し、現在で言う京都市役所の当たりまで燃え広がった。炎は平安京の区画を超えて鴨川沿岸へと拡大し、京極寺や悲田院が炎に飲み込まれて灰へと化したのである。記録は被害地域の範囲と灰に帰した建物について記しているが、当然のことながら人的被害も軽いものではなかったろう。

 この火災に対するアクションを二条天皇が起こしたのは三月二三日になってのことである。遅いと思うかもしれないが、忘れてはならないは、二条天皇は二月に命の危険を感じるほどの大病を患ったということである。三月二三日にアクションを起こしたのも病床との兼ね合いを踏まえてのことであろう。

 二条天皇が行ったのは石清水八幡宮への行幸である。石清水八幡宮はのちに清和源氏が氏神とするようになるが、元々は平安京の南西の守護を司る神社であり、病気治癒を祈願する神社でもある。また、石清水八幡宮の神宮寺は薬師如来を本尊とする護国寺であり、薬師如来は医療を司る仏である。天皇が石清水八幡宮へと行幸するのは、石清水八幡宮そのものが平安京から少し離れているためにこの時代での転地療養に向いていた場所であったことに加え、神仏に国家的な医療の危機を救うことを祈願する目的も存在していた。医学も薬学も公衆衛生も現在のレベルとほど遠い時代にあって、石清水八幡宮への行幸というのは朝廷の取りうる最大限の医学的アクションであったのだ。それが火災に対するアクションかと言われれば、明らかに違う。だが、天災という意味では病気も火災も同じである。現実の医療問題に役立つかどうかは別の話であるが、少なくとも朝廷として天災に何かしらのアクションを起こしているというアピールにはなったので。

 後世の崇徳上皇怨霊伝説では、このときの火災も、このときの病気も、崇徳上皇の怨念が巻き起こしたものだとなっているが、この時代の史料にそのような記載は無い。それどころか、崇徳上皇に関する記載ものものがない。讃岐国で亡くなられた気の毒な上皇さまという話題が広まってはいたものの、怨念とまでは広まっていなかったのである。


 長寛三(一一六五)年五月九日、平重盛が二八歳で参議に昇格した。従三位どころか正三位になってもなかなか参議になれない貴族が多かったなかにあって、武士出身の平重盛が参議に姿を見せるようになったのは異例であるが、長寛三(一一六五)年時点の平家の存在を考えると、平清盛だけでなく息子の平重盛にも朝廷での重責を任せる必要を痛感したのであろう。

 何しろ二条天皇は自らの命を考えるほどの大病を患ったのみならず、そもそも完治していないのだ。自分の身に何かあったとき、右大臣藤原経宗が支えると言っても、藤原摂関家の若き三人が朝廷の主軸を担うこととなる。自身が長生きしての長期政権を考えるならば若さは経験を積む絶好のチャンスであるが、若くして亡くなるかもしれないという不安が現実のものとして考えられるようになったなら、少しでも不安要素を取り除いておきたいというのは当然の感情だ。

 ちなみに、長寛三(一一六五)年という年は平重盛のほかにもう一人の平氏が参議に姿を見せている。その者の名を平親範と言う。年齢は二七歳。父の平範家は従三位まで位階を進めたが参議に就くことなく四七歳で亡くなっている。平親範も平清盛や平重盛と同様に桓武平氏であるが、武士ではなく文官を一族の職務として選んだ桓武平氏高棟王流であり、平清盛や平重盛らの桓武平氏高望王とは一線を画している。そのため、平親範は平氏ではあるが平家としてはカウントされていない。それでも、議政官に藤原氏でも源氏でもない者が三名もいるというのは公卿補任を調べる限りにおいて日本国初の出来事である。

 平重盛の参議就任にはもう一つ異例が存在する。参議就任のタイミングだ。

 議政官の人員が入れ替わるときと言うのは、通常であれば一斉に入れ替わる。場合によっては新しい役職に就かない者を数えた方が早いほどだ。それが、長寛三(一一六五)年五月九日は平重盛ただ一人が人事異動の対象となっている。これだけでも二条天皇は平家を重要視したことが読み取れる。

 なぜここまで二条天皇は平家を重要視したのか?

 答えは後白河上皇にある。自分の身に何かあったらどうなるかを考えたとき、恐ろしい考えが二条天皇の脳裏に浮かび上がった。自分の身に何か起こったとしたら帝位に就くのは生後一年も経っていない順仁親王だ。幼帝の外祖父が摂政となるのは藤原摂関政治の基礎であるが、白河院政以後、藤原摂関政治の基礎が崩れた。天皇の父、天皇の祖父、天皇の曾祖父が権力を握る院政が誕生したのだ。そして、順仁親王の祖父となると後白河上皇の院政となる。これだけは何としても阻止しなければならない。そのためならば、後白河上皇との接近も図っている平家を二条天皇のもとに引き戻すのも重要なポイントであった。平家が必要なのではない。平家の持つ武力が必要なのである。


 長寛三(一一六五)年六月五日、疫病流行を理由に永万に改元することが発表になった。

 それの意味するところは誰もが理解した。

 二月に病に倒れた二条天皇の症状は完治していなかったのである。それどころか、症状はむしろ悪化しており、少なくとも四月時点で二条天皇の体調が思わしくないことは周囲にも漏れ伝わっていたのだ。

 改元から一二日後の永万元(一一六五)年六月一七日、二条天皇が退位へと動き出した。正式な退位はまだ先であるが、中宮藤原育子との間の子であるとして順仁親王を立太子させたのである。繰り返すが生後一年を迎えていない乳児である。それでも、皇太子に任命するところまでは理解できても帝位に就かせるとなると理解しがたいこととなる。それでも、後白河上皇院政が成立してしまうことに比べればまだマシであった。

 どういうことか?

 二条院政をはじめるのだ。

 病を理由に退位する。ここまでは過去に何度も存在してきたことだ。そして、幼帝の父として院政を展開するのは白河院政成立以降の通例だ。生後一年に満たない幼帝ではあるが、二条天皇が、いや、退位後を考えると二条上皇が病から復帰したら二条院政が可能となるのだ。

 永万元(一一六五)年六月二五日、二条天皇が退位し順仁親王に譲位した。六条天皇の治世の始まりである。治世開始と言っても数えで二歳、満年齢で生後七ヶ月である。さらに同日、後白河上皇の第七皇子で二条上皇の弟にあたる憲仁王が東宮に決まった。正式な親王宣旨はまだであるがそれも時間の問題であった。異例尽くしである。六条天皇に何かあったら憲仁王が皇位を継ぐこととなるのだが、六条天皇より歳上で、六条天皇の叔父であり、その上、憲仁親王もまだ数えで六歳、満年齢で四歳である。母親が藤原摂関家ならば無理を通す形で六歳の皇位継承者を誕生させることもあったろうが、憲仁王の母親は藤原氏ではなく平滋子、すなわち平家。六条天皇が退位した場合、これまでのように藤原摂関家ではなく、平治の乱の前までは武士としか見られてこなかった平家が天皇の外戚となるのである。

 何もかもが異例に次ぐ異例だ。

 なお、同時に関白近衛基実が六条天皇の摂政に就任した。当然だ。乳飲み子が帝位に就いたというのに、幼少の天皇を支える役割の摂政が不在などということはない。

 退位から三日後の六月二八日、二条天皇が正式に太上天皇となる。しかし、二条上皇の院政は始まらなかった。院政以前に日常生活に支障が出るまでになってしまっていたのだ。平清盛に命じて極秘理に医師を招いたが、極秘理と言いながらも記録に残っていることからも明らかなように、二条上皇の体調は周知の事実となっていた。


 永万元(一一六五)年七月二七日、六条天皇が正式に即位した。

 繰り返すが、六条天皇はまだ生後一年を迎えていない乳児である。乳児に即位の式典を滞りなく終わせようなど想像するだけ無駄だ。多くな人が当然のことと考えるように六条天皇は途中で泣き出してしまい、式典は中断してしまったのだ。これを見た参議の藤原忠親が、赤ん坊には儀式よりも乳のほうが大切だと機転を利かせ、慌てて乳母を呼び寄せて授乳させてようやく落ち着かせたという。

 混乱はあったが、それでも二条上皇の執念とも言うべき六条天皇の即位は実現した。実現はしたが二条上皇の思いは成就しなかった。息子の即位の翌日、二条上皇が押小路東洞院殿で崩御したのである。二三歳の若さでの崩御であった。

 当時の人の記録に二条天皇を悪しざまに語るものはない。聡明にして思いやりが深く、真面目に政務に取り組み国民生活の向上を常に心がけていた。しいて欠点を挙げるなら、父親である後白河上皇への敬意に欠けるところがあった点が挙がるが、親子としてではなく政治家同士の関係であると考えると、二条天皇と後白河上皇との対立もやむをえぬこととされたのである。

 もっとも、この二条天皇への追憶は、亡き二条天皇への思いだけではなく、これからの時代が期待できない時代であることへの絶望が生み出した、過去の時代である二条天皇の時代への慕情を含んだものでもあった。

 その初例として掲げるべきなのが、永万元(一一六五)年八月七日に香隆寺にて執り行われた亡き二条天皇の葬儀である。本来ならば厳粛であるべき空間が、厳粛をぶち壊す空間へと変貌してしまったのだ。香隆寺で起こった厳粛破壊は、寺院と寺院との争い、それも、他者から見ればどうしてそのようなことで争うのかという争いである。天皇の葬儀である以上、有力貴族や有力寺社は当然呼ばれる。その中に延暦寺と興福寺がいてもあたりまえのことである。ところが、延暦寺と興福寺がともに追悼するならまだしも、墓所の周囲にかける額の順番をめぐって争い始めたのだ。言い争いではなく殴り合いである。

 殴り合いは葬儀が終わっても続くどころか、三日後の八月九日に延暦寺の僧徒が興福寺への報復として、興福寺の末寺となっていた清水寺に押しかけ、本堂をはじめとする清水寺の主だった建物をことごとく焼き討ちするとなると、とてもではないが、これからの六条天皇の時代に対する希望を抱くことなどできなくなる。そして、「二条天皇の頃はこんな争いなど無かったのに」という追憶が生まれる。


 暴れまわる僧兵たちに対抗できる唯一の存在が平家であった。平安京内外の庶民も、朝廷の貴族も、平家に武力をいかに発揮してもらい僧兵に対抗してもらうかを考えた。

 かつてであれば、武士とは貴族に仕える存在であり、貴族の命令一つでいかなる危険な場面にも向かい合っていた。依頼を掛ける際の報奨も、第一線を退こうかというタイミングで貴族の仲間入りである五位の位階を与えればそれで充分であった。それが、貴族でもある武士が珍しくなくなり、国司を務める武士が珍しくなくなり、朝廷内で官職を手にする武士が珍しくなくなり、いまや平家は朝廷内で第三の勢力となっている。既に有力貴族である平家に貴族入りは報奨として通用しなくなっていた。

 しかも、平家の保有している資産が無視できぬ規模だ。役職が高くとも資産が乏しい貴族であれば資産を見返りに依頼をかけることができるが、平家相手にはそれも困難だ。依頼ごとがあるときに資産を差し出したら受け取ってくれるかもしれないが、本心ではやりたくないことをする代償としての資産提供となると、平家相手ではかなりの資産を用意しなければならない。それこそ貴族としての全財産を差し出すレベルでなければ平家を動かす資産提供とはならなくなっていた。

 血筋を誇りとする貴族の間では婚姻を報奨として利用することもあり、身分違いの婚姻を認め、武士の娘を嫁として迎え入れてあげても良いという態度は、かつてであれば有効であった。娘を差し出す武士の側もそれを名誉に感じていた。だが、今や平家の女性が皇室に嫁ぐ時代となっているのみならず、藤原摂関家に代わって平家が天皇の外戚となることも夢物語ではなくなっている時代である。摂政近衛基実ですら懇願して平家の女子を嫁に迎え入れたというのに、そうでない貴族が平家の娘を嫁として迎え入れてあげても良いという態度でいるなど通用する時代ではなくなっていた。

 平家に武力を行使してもらって自分達の安全を手に入れるなら、今まででは考えもしなかった見返りが必要になったのだ。

 永万元(一一六五)年八月一七日、平清盛が権大納言に昇格した。しかも、現役の権大納言である藤原実定を辞任させた上で平清盛を権大納言に昇格させたのである。藤原実定は権大納言を辞任することの見返りとして従二位から正二位に位階が上がったが、それは権大納言より先のキャリアを捨てさせるにはあまりに安すぎる見返りであった。何しろ藤原実定はまだ二七歳なのだ。

 それにしても権大納言である。永万元(一一六五)年八月一七日時点で平清盛より格上の貴族は七名、官職を外された藤原実定を加えても八名しかいない。かつての武士は貴族になるだけでも生涯の頂点を極める栄誉であり、ほとんどの貴族は武士のはるか上に立つ存在であったのに、今や、ほとんどの貴族が平清盛より格下となったのである。この鬱屈とした思いと、しかしながら平家の武力以外に自らの安全を保証できる存在はいないという思いと、折り合いを付けるのは簡単な話ではなかった。


 平家を利用しようとするのは貴族だけではない。

 息子の死と孫の即位を体験した後白河上皇が、自身の院政の開始を目指して動き出したのだ。

 ただし、この人の動きかたは常人のそれではない。普通ならいかにして平家に動いてもらうかを考えるところであるが、後白河上皇は問答無用で動かしたのである。

 永万元(一一六五)年八月、平安京を不穏な噂が飛び交った。

 延暦寺から暗殺者が差し向けられたというのである。

 ターゲットは平清盛。

 繰り返すが、平家がいかに朝廷第三の勢力へと成長したと言っても、平家は平清盛がただ一人の頂点として君臨する完全な独裁システムの組織である。平清盛の身に何かあったとしても平重盛が後継者となって全てを相続するのは既定路線であるが、だからと言って平清盛の身に何かあったとしたら平家は平穏無事とはいかず、分裂とまでは行かないにせよかなりの大打撃を受けること間違いない。

 デモ隊を組織して平安京まで繰り出し、他の寺院との争いを繰り返している側の立場から眺めると、自分たちがただ一つどうにもならない武力である平家は目障りに感じる。その目障りな集団のトップを亡き者とすることができれば、目障りが綺麗に消えるとまでは行かないにせよ、自分たちの行動を制限する相手が弱まること間違いない。

 噂に対し、平家は平清盛の弟である平経盛に武装をさせ内裏を囲むように警備させた。これにより権大納言である平清盛の暗殺の可能性が減るが、同時に、内裏にいる全ての人の安全も保証されることとなった。当然だ。この時代の最高の武力が周囲を取り囲んでいるのである。ここに好き好んで襲い掛かろうなどという者はいない。

 結局、噂は噂のままであり延暦寺から差し向けられたという暗殺者は全く姿を見せなかった。

 と同時に、噂の出所も判明した。後白河上皇だ。

 後白河上皇は、地位も、官職も、位階も、資産もいっさい提供することなく、ただ噂を流しただけで平家の軍事力を動かすことに成功したのだ。

 確かに院政開始とはなっていない。しかし、平家を利用するのはこうすればいいのだというパフォーマンスを見せ、自分はまだ健在であり、院政への野望は捨てていないというアピールとしてはこれで充分であった。


 後白河上皇はさらに平家への工作を始める。いっさいの報償を用意せずに平家を利用しただけではなく、平家にダメージを与えながら平家を利用しようとしたのだ。

 報償を用意せずに平家を利用したというのは既に記した通りであるが、平家にダメージを与えながら平家を利用したというのはどういうことか?

 永万元(一一六五)年九月一四日に、二条天皇を賀茂社で呪詛したとして出雲国に配流された平時忠を召還させたのである。「平家ニ非ズンバ人ニ非ズ」と言い放ったとされることでも歴史に名を残している平時忠であるが、有名なこの放言の信憑性に疑念はあっても、この人の放言癖は既に知れ渡っていたのである。現在でも放言癖な人は敬遠され政局からはじき飛ばされる運命を迎えるが、平時忠という人は、後白河上皇の寵妃である平滋子を異母姉としている人であり後白河上皇の身内にもあたるのである。後白河上皇自身、以前からこの義弟をもてあましていたのであるが、勢力を伸ばしつつある平家への打撃と考えるならば、それはそれで利用価値がある。

 平時忠は確かに桓武平氏であり、また、平家の一員でもあるのだが、何度か書いているように、この人、実は武士ではない。

 武士ではないとなると何なのか?

 正解は、下級貴族である。

 平時忠の系図を遡ると高棟王に行き着く。

 一方、平清盛の系図を遡ると高望王に行き着く。

 桓武天皇の子である葛原親王の子が高棟王で、臣籍降下して平高棟となった。また、葛原親王の子の高見王の子が高望王で、臣籍降下して平高望となった。これが、この時代の桓武平氏の公的な見解である。ただし、当時の史料に高見王という皇族の名は存在しない。もっとも、寛平元(八八九)年に五名の皇族が臣籍降下して平の姓を授けられたことの記録があると同時に、その五名の皇族の名が現存していないので、寛平元(八八九)年に平の姓を授けられた皇族の一人に高望王がいて、高望王の子孫が平清盛であるという可能性は高い。

 さて、同じ桓武平氏でも高棟王流の桓武平氏は京都にあって下級貴族としての日々を過ごしている一方、高望王流の桓武平氏は日本各地に点在し、そのうちの一つの勢力である伊勢平氏が武士として拡張していき、平正盛、平忠盛を経て、平清盛の時代を築き、平家と称されるまでになった。

 貴族としてカウントされることのなかった伊勢平氏が気づいたら莫大な資産を築くようになっており、さらに官職も手にして高棟王流の桓武平氏を追い抜いていった。これは高棟王流桓武平氏にとって、そして、その中の一人である平時忠にとって、鬱屈させる感情を生み出すに充分であった。

 単なる放言癖なだけであればまだやり過ごすことはできようが、放言癖な人の根底には、あまりにも高い自尊心と、自尊心を充足させるに足りぬ現実とが混在している。それまで見下していた武士としての伊勢平氏がいまや一大貴族勢力というのは、自尊心を破壊する現実として充分であろう。さすがに平時忠も平清盛の権勢を目の当たりにしてはある程度おとなしくならざるを得ないが、平時忠がおとなしくなるのは平清盛の前だけで、平清盛のいない場所では平清盛の威光を頼りに我が物顔で振る舞うのであるから、厄介なことこの上ない。

 しかも、平時忠は後白河上皇の義弟であると同時に、平清盛の義弟でもある。平時忠の姉である平時子が平清盛のもとに嫁いでおり、平時忠の妹である平滋子が後白河上皇のもとに嫁いでいるのだ。この血縁関係があれば、武士でなくとも貴族の一員である平家の一員を名乗るに充分だ。もっと言えば、下級貴族であるとは言え、平時忠は貴族としての教育を受け、貴族としてのキャリアを重ねてきたのである。平時忠は、武士出身の平家の者にはない貴族としての基礎知識と必須となる教養を兼ね揃えた数少ない人物の一人でもあったのだ。

 これが平家でなければ、平家であったとしてもその他大勢のうちの一人であるならば問題は無いのだが、後白河上皇の義理の弟にして平清盛の義理の弟でもあるとなると、平家として無視できぬ人物になってしまう。出雲へ流罪となっていたことは平家に安寧をもたらしたほどであるのだから、その人物が戻ってきて平家の一員となることは、平家にとって、敵とするには恐ろしいが味方とするのも恐ろしい人物を抱え込むことを意味する。

 平家としては、平時忠をどうにかして欲しいという思いはあったろうが、藤原頼長のように夜闇に乗じて気に入らない者を暗殺して解決するなどという選択肢は存在しない。上皇の義理の弟を殺害しようものなら、義弟をどうにかしようとした、すなわち、身内の不始末を身内で片付けたという体裁は成立せず、一族の命運にかかわる話になる。

 結局、平時忠をどうにかできるのは義理の兄でもある後白河上皇だけなのである。


 平家を利用しようとする後白河上皇は、平家を利用するだけでなく、自身の権力構築、そして、院政確立のために障害となる存在の排除にむけて動きはじめた。

 二条天皇親政と後白河上皇院政の対立は、二条天皇亡き後も続いていた。ただし、二条天皇の逝去により、前者は藤原摂関政治の復活、後者は院政の復活へと変貌していた。

 後白河上皇は、息子の二条天皇との対立から院政を断念せざるをえなくなっていたが、二条天皇亡き今ならば、そして帝位にあるのが未だ幼い六条天皇であるならば、実の祖父として院政の構築は可能だと考えていた。

 六条天皇の幼さが自派の権力構築において優位に働くのは、摂関政治にも、院政にも、双方ともに共通しているが、六条天皇を奉じることによって行使できる権力という視点に目を向けると両者の間に違いが現れる。

 後白河上皇にしてみれば、六条天皇の帝位が強まれば強まるほど、実の祖父であり崇徳上皇なき今は後白河上皇だけが院政の資格を有することの意味が強くなる。六条天皇の実の祖父であるという点を活かし、祖父が孫に“助言”をする形で政務を取り仕切り、“助言を支える”組織である院庁を構築することで、後白河上皇の院政が遂行しやすくなる。このとき、藤原摂関家は助言における障害になる。

 一方、六条天皇の帝位を弱めることがメリットとなるのが藤原摂関政治だ。既に近衛基実が摂政であり、松殿基房が左大臣であるという、内部の対立はともかく対外的には強固な体制を構築している。六条天皇が幼いことを権力の源泉とする点では院政と同一であるが、六条天皇の帝位が強まって摂関政治を不要とするほどまでに成長するのは藤原摂関家にとって不都合なのだ。藤原摂関政治の復活がスタートであったはずの二条天皇親政が、二条天皇自身の権限強化により、気がつけば文字通りの二条天皇親政になっていたのは、藤原摂関家にとってベストではなかった。最悪を知っているからそれよりはマシと考えることもできるが、藤原道長をピークとする最良の記憶は世代を超えて語り継がれている。その最良の時代に戻すために二条天皇のような親政の復活は受け入れがたいことであった。藤原摂関政治にとって必要なのは、藤原道長の頃のように摂政や関白を必要とする弱い帝権なのである。帝権が弱いために藤原摂関家が強固な存在として国家の中枢に君臨することで政務はスムーズに遂行されることとなるが、その強固な存在にとって障害となるのが、本来であれば退位したあとの余生を過ごすための組織である院庁だ。

 ここで後白河上皇と藤原摂関家とで利害の衝突が起こる。六条天皇の帝権を制限したい藤原摂関家と、六条天皇の帝権を強化したい後白河上皇との対立である。この対立は白河法皇も鳥羽法皇も体験したことであるが、当事者が後白河上皇となると普通ではなくなる。

 まず、六条天皇の父親は間違いなく二条天皇なのだが、母親の身分は低い。このことは、六条天皇の帝権を弱める最大のポイントだ。六条天皇の帝権を強めるには、それが何年後になるかわからないが、相応の家格の女性を娶り、その女性が男児を産み、その男児が帝位を継承するまで待つしかない。そして、ここで言う相応の家格の女性に藤原摂関家の女性を用意することは困難な話ではない。もっとも、数えで二歳、満年齢でも一歳の六条天皇の結婚となるとどんなに短くても一〇年、普通に考えれば二〇年後ということになる。藤原摂関政治としては、その一〇年から二〇年は弱い帝権であるために藤原摂関家が六条天皇を擁しての政務を展開することとなり、それからあとは六条天皇のもとに嫁いだ藤原氏の女性を通じて外戚としての藤原摂関政治を展開することとなる。時間はかかるが、これで藤原道長の時代に戻すことが可能となる。

 表向き、六条天皇は中宮藤原育子の子ということにされていたが、そうでないことは誰もが知っていた。そして、藤原摂関家はここをポイントとしてきた。ところが、永万元(一一六五)年一〇月九日を最後に、中宮藤原育子を表立って話題にすることが一切許されなくなった。この日、中宮藤原育子が出家したのである。夫の死に悲しむ女性が出家をすることは、この時代珍しいことではない。それは皇室とて例外ではないし、疑惑解明のためだろうと、出家した女性を無理矢理連れ戻そうものなら、疑惑解明より先に連れ戻そうとした者の社会的な死が待ち受けている。


 中宮藤原育子の出家が後白河上皇の差し金によるものかはわからないが、中宮藤原育子が出家したことが政局を有利に進める材料にできた人が、すなわち、通常であれば社会的な死が待ち構えていることをしようと特例的に免除されている人が一人、この時代には存在した。後白河上皇である。後白河上皇は、出家した藤原育子に世間の注目を集めさせ、現在でいうワイドショーのネタを提供し続けることで世間の注目を出家した藤原育子に向かわせ、その隙を突いて、かねてから計画していたことを秘密裏に実現することに成功したのだ。

 後白河上皇の第三皇子である以仁王の元服である。

 後白河上皇が求めているのは、帝権そのものの強化である。六条天皇の帝権を強化することは歓迎するが、それは六条天皇の帝権の強化を図ったからではなく、帝権の強化を求めた結果として六条天皇の帝権が強いものとなっていたという順番である。帝権の強化が後白河上皇にとっての最優先課題である以上、六条天皇の身に何かあったときに帝位を継ぐのは憲仁王であるというのは歓迎できることではない。

 以仁王はその名の通り親王宣下を受けていない。つまり、皇族の一人ではあるが帝位を継ぐ資格を有していない。だが、既に一五歳に達しており、親王宣下さえ済ませば皇位継承権でかなり優位に立つのだ。何かあったとき、帝位を継ぐのは一五歳であるという環境を創り上げることに成功すれば、帝権の強化に、引いては、自らの主導する院政の強化につながるのである。

 これは反発を受けること間違いないことであった。

 六条天皇の東宮は、後白河上皇と平滋子との間に生まれた子である憲仁王である。平家の血を引く憲仁王が皇位継承権筆頭であるというのは、平家にとっては一族始まって以来の慶事であり、藤原摂関家にとって頭の痛い問題であるものの、まだどうにかできる話であった。摂政近衛基実は平家の女性を嫁に迎えている。遠回りにはなるが憲仁王が親王宣下を受けて帝位に就いたとしても、藤原摂関家は皇室の外戚として振る舞うことができる。

 しかし、以仁王だとそれが不可能となる。確かに以仁王の実母はかつて権大納言まで務めた藤原季成の娘である藤原成子であるから、藤原家の血を引いた皇族でもある。しかし、以仁王の猶母、すなわち、以仁王の公的な母親として扱われているのは、鳥羽院の皇女である暲子内親王である。そのため、以仁王に外戚は存在しない、ということになっている。この以仁王の手に皇位が渡ってしまうと、外戚であることを利用した藤原摂関家の政治体制の構築は破綻するのだ。

 ゆえに以仁王の元服は秘密裏に開催し、終わってみれば後戻りできないというところまで持ってこなければならなくなっていたのである。

 後白河上皇の暗躍は藤原摂関家の苛立ちを招いたものの、摂政近衛基実も、左大臣松殿基房も、してやられたとして受け入れるしかなかった。


 ここで終われば後白河上皇の完勝に終わるところであったが、以仁王の元服に想像以上の怒りを見せる集団がいた。

 平家だ。

 ただでさえ後白河上皇に利用され、ここに来て憲仁王の帝位継承に黄信号が灯るとなると、平家としては、特に平清盛は黙っていられなくなる。

 平家の女性を母とする憲仁王が皇位継承権筆頭となったのは、平家にしてみれば思いもしなかった夢が降って湧いて出たようなものである。それがあるからこそ平家は利用されている状況を黙って受け入れていたのだとも言える。ただし、夢を夢で終わらせようなどという思いは無い。

 憲仁王自身が六歳という幼さであることに加え、六条天皇は生後一年をようやく迎えたばかりの幼児。天皇が高齢を迎えたことで退位を選ぶときが来る未来を考えると六条天皇より歳上である憲仁王が帝位を継ぐ可能性は狭まるが、不測の事態で六条天皇が退位しなければならなくなった未来を考えると憲仁王が帝位に就くことは現実的な選択だ。

 この環境に以仁王が登場したら憲仁王の立場を奪ってしまう。

 平家が天皇の外戚となるチャンスは間違いなく奪われる。

 いざというときを考えると憲仁王ではなく以仁王が次の天皇に相応しい年齢なのだ。

 後白河上皇はこの辺りも気を配っていたようで、以仁王の存在に目を向けられることのないよう出家した中宮藤原育子に世間の目が向いている隙を突いて元服させただけでなく、元服そのものも太皇太后宮藤原多子に主導させた上で式典を執り行わせたのである。あくまでも皇室の中での話であるとするスタンスを貫いたのだ。

 そのスタンスに平清盛は不快感を隠さなかった。後白河上皇に利用されただけでなく、平家の血を引かない以仁王を担ぎ出そうとする動きへの不信感は後白河上皇のもとに伝わり、後白河上皇は、以仁王が元服してから一〇日も経ぬうちに憲仁王を親王宣下させざるをえなくなった。親王と王とでは同じ皇族でも大きな違いがあり、その違いが平清盛の抱いた不信感を払拭するのに役立った。

 親王は天皇になれるが、王は天皇になれない。

 親王宣下を受けた憲仁親王は未だ元服を迎えていない六歳の幼児であるが、親王であるために天皇になる資格を有し、元服を終えた以仁王は一五歳でありながら親王宣下を受けていないために天皇になる資格を有さない。

 その上、間もなく年が変わろうかとする一二月二七日には、亡き二条上皇の后でもあった太皇太后宮藤原多子が出家せざるをえなくなるまで追い込まれたのを目の当たりにしたことで、後白河上皇は平家の利用をいったん見直さなければならなくなった。

 後白河上皇はここではじめて、平家は誰かに利用されることを受け入れるだけの存在ではなく、院政と藤原摂関家に並ぶ地位を目指す一つの政治集団へと向かいつつあることを理解したのである。


 後白河上皇の院政復活への動きが見られたものの、年が明けた永万二(一一六六)年の開始当初は藤原摂関政治が統治の根幹であった。たしかに、藤原摂関政治の理想とする藤原道長の頃には存在しなかった平家という新しい政治集団が宮中で一定の存在感を示してはいるが、それでも議政官において過半数を占めるまでの勢力とはなっていない。驚異の規模としては、村上源氏が議政官の過半数を占めていた頃のほうが藤原摂関家の立場では驚異である。

 ただし、藤原摂関家として平家を無視することは許されない話でもある。この時代の朝廷が行使できる唯一の武力であると同時に、東宮憲仁親王は平家の女性から生まれた男児であるために、摂政を務めるのは天皇の近親者であるという原則に従えは、平家の者が憲仁親王即位後の摂政に就く可能性も存在するのである。

 平家の権勢を抑える必要は藤原摂関家も持っていたが、藤原氏というのは原理原則に無条件に従う集団ではなく、想像しているよりも臨機応変な集団でもある。藤原摂関家が頂点と考えていた藤原道長が、息子の藤原頼通の次の後継者として、藤原氏でない源師房を考えていたほどである。さすがに藤氏長者の地位を継承させるわけではないが、天皇の祖父として平清盛が君臨するようなことがあったとしても、藤原摂関家はあの手この手で平家を取り込んで自分たちの政務に利用することぐらいする。既に記してきたように、摂政近衛基実が平家の女性を嫁に迎え入れたのもその一環だ。

 平家の権勢が無視できぬものとなっても、平家を藤原摂関家が抱え込んでしまえば、平家の権勢増大は驚異どころか歓迎すべき光景にすらなる。

 まず、一月一二日、平重盛の近江権守兼任と、平経盛の若狭守重任が決まった。人事権を藤原摂関家が握っているからこそできる芸当である。近江国と若狭国の国司としての権限を付与することは、位階相当の役職を付与することだけでなく、平安京の東の安全の確保を一任したことを意味する。この時代、日本海から京都に到着するための最短ルートは、若狭国、現在の福井県の日本海沿岸の港に到着したのち、少し歩いて琵琶湖までたどり着き、琵琶湖を船で渡って大津に出て、大津から京都まで徒歩で行くというルートだ。このルートの入り口である若狭国を平経盛が、ルートの大部分を占める近江国を平重盛が管轄することで、日本海と京都とを結ぶ通商路が平家の支配に組み込まれたこととなると同時に、ルート上に存在する比叡山延暦寺と園城寺の武装デモに対しても平家が国司権限で鎮圧することが合法となったのである。平家に地位を与えることで平家の支持を、平家に寺社勢力と対峙する公的な役割を与えることで庶民の支持を獲得する、一石二鳥とも言うべき対応である。

 藤原氏はさらに、東宮憲仁親王の支持を明確にすることで平家への接近を図った。

 永万二(一一六六)年初頭の政局は、摂政近衛基実を中心とする藤原摂関政治と、後白河上皇による院政の二大派閥があり、そこに第三の勢力として平家が台頭してきているという図式である。現在でもよく見られることであるが、国会の過半数を占めている政党でも第三極である政党と連立を組むことによって敵対する第二党との間の関係を優位に進める光景は珍しくない。ここで言うと藤原氏が第一党で、院政が第二党、そして平家が第三極である第三党であり、院政を阻もうとする目的を掲げて第一党が第三党と、それも、第一党である藤原氏のほうから第三党への歩み寄りを見せて政権をより強固なものとさせようとしたのである。


 平家と藤原摂関家との接近に対し、後白河上皇は、一見すると人道的な、しかし、よく見るとかなり陰湿な対応をした。

 永万二(一一六六)年三月二七日、平時忠は正五位下に復帰させたのだ。いかに人事権を藤原摂関家が握っていると言っても、一人の貴族の位階をどうにかするぐらいの権限は後白河上皇とて保持している。それに、配流先から戻されたとは言え、京都に戻された時点ではまだ位階も役職も得ていないことのほうが問題と言えば問題であったのだ。貴族出身の平氏でありながら平家の一員であると同時に、平家の一員でありながら貴族としてカウントされてはいなかったというのが京都に戻った時点の平時忠であり、その点が平家をして平時忠の処遇に対して最後の一点で踏みとどまることのできていた点でもあった。しかし、復位したとなると平時忠は貴族の一人としてカウントされるようになる。しかも、後白河上皇の義理の弟だ。こうなると平家は内部に大問題の人物を抱え込まなければならなくなることを意味する。

 陰湿と記したのは、これが誰にも文句の言えぬ理由での復帰であったからである。

 このとき復帰したのは平時忠一人ではない。平治の乱のあとで配流となった藤原惟方と源師仲の二人もその罪を許されたのである。平治の乱に関連して追放された人たちを許すのと同タイミングでの赦免を平時忠にも適用したのだ。何しろ、犯罪の被害に遭遇した本人が処罰された加害者を赦免するという名目なのであるから文句の付け所がない。

 しかも、平時忠と同タイミングで赦免された二人に対する扱いは御世辞にも誉められたものではない。配流の直前に出家した藤原惟方は赦免となっても還俗せずに官界から離れた生涯を過ごし、源師仲は位階を取り戻したものの官職とは無縁となったのである。配流が解かれたことそのものは喜ぶべきことであっても、配流先が京都になっただけの事実上の刑期延長であったのだ。

 それでも後白河上皇にしてみれば充分に温情措置である。

 それは、永万二(一一六六)年四月六日の出来事も手伝っている。

 この日に何が起こったのか?

 権中納言藤原公光が何の前触れもなく、権中納言と、兼職としていた左衛門督の両方の官職を外されたのだ。藤原公光の姉は以仁王の実の母親である藤原成子であるが、以仁王の公的な母親は鳥羽院の皇女である暲子内親王である。もっとも、公的な母親がいかに内親王であると言っても実の母親は藤原氏であることは公然の秘密であり、藤原公光は以仁王が帝位を継承することとなった場合に外戚となる可能性のある人である。憲仁親王が皇位継承筆頭であるという前提で藤原氏と平家が手を組んでいる状況下で、藤原公光は無官となった。

 しかも、同日に参議正三位平重盛が左兵衛督に就任しているのだ。ちなみに、それまで左兵衛督であった藤原隆季は検非違使別当を兼ねたまま右衛門督に転身している。左衛門督と左兵衛督と右衛門督では別の職務ではないかとなるかもしれないが、かつてであれば明確に分かれていても、永万二(一一六六)年の頃にはこのようになっていた。

 律令制における公的な武官は、近衛府、兵衛府、衛門府の三種類。それぞれに左右がいるから左近衛府、右近衛府、左兵衛府、右兵衛府、左衛門府、右衛門府の六つの部隊が存在することとなる。これを六衛府という。左と右とでは左のほうが格上とされ、右の役職を終えた者が左に異動となった場合、それはステップアップを意味した。

 近衛も、兵衛も、衛門も、いずれも朝廷を警護するのが役割であることに違いは無いが、本来の意味で言うと、近衛は内裏を、衛門は大内裏を、兵衛は近衛と衛門の中間を警護する。天皇から見ると、天皇にもっとも近いのが近衛、次いで兵衛、遠くにいるのが衛門ということになる。


 近衛府も兵衛府も衛門府も、トップの役職をカナで記すと「カミ」となるが、対応する漢字が異なる。近衛府は「大将」と書いて「カミ」と読み、兵衛府も衛門府は「督」と書いて「カミ」と読む。もっとも、時代とともに漢字と読みが一致するようになり、「大将」は「タイショウ」、「督」は「トク」が読みとなっている。

 漢字表記からも想像できると思われるが、六衛府の中では近衛府が一段飛び抜けて存在しており、実際、近衛府のトップである近衛大将、左右が存在するから左近衛大将と右近衛大将の両名は早い段階から武官一筋の者が就く職務ではなく、上流貴族の兼職となっていた。もっとも、武官の職務ではあり、武士に対する指揮命令権も存在している。藤原基実が右大臣に就任する際に、左右の近衛大将のどちらも経験すること無しに右大臣になったことを藤原信頼から批判されたが、この批判の内容も無茶な内容の批判というわけではないのだ。シビリアンコントロールが当たり前である時代であっても、軍事にかかわる責任を経験したことがあるのとないのとでは緊急時に取りうる対応の差に大きな違いが出るのだから。

 一方、兵衛府と衛門府とはその規模が徐々に縮小していくとともに名目のみの職種へと変貌しつつあった。とは言え、議政官の一員を構成する貴族やこれから議政官入りしようかという貴族にとっては兼職するのが当たり前の職務であり、権中納言藤原公光が左衛門督を兼任していたのも、参議平重盛が左兵衛督を兼職するようになったのも、役職や位階を考えれば何のおかしな話ではない。もっとも、武士でもある参議平重盛が左兵衛督を兼職するとなると、平重盛の軍事行動は律令で定められた軍事行動を武官として行使することを意味するようになる。

 さて、兵衛府と衛門府が縮小したのと反比例するかのように拡大した組織がある。

 検非違使だ。平安京内外の治安維持を担い、警察権と検察権と司法権を一手に握っている検非違使は、儀礼的な職務と化した兵衛府や衛門府と違って、より直接的に武士と関わることが多くなる職務だ。そして、検非違使のトップである検非違使別当の地位は、左兵衛督、右兵衛督、左衛門督、右衛門督の四名のうちの誰かが兼任することが多かった。

 ここまで来ると、なぜ藤原公光が左衛門督から外されたのかが見えてくる。検非違使別当を兼ねている参議藤原隆季が左兵衛督から右衛門督に転身した。後任の左兵衛督は平重盛である。左兵衛督、右兵衛督、左衛門督、右衛門督の四名のうち誰かが検非違使別当に就任することが多く、右より左のほうが格上で、藤原公光が辞したことで左衛門督は空席となったことから四名のうちただ一人の左は平重盛ということになった。その後で検非違使別当の交替が起こるとしたとき、後任の検非違使別当は平重盛である。

 既に若狭国と近江国に対する武力出動の公的権威を得ている平家が、さらに首都平安京も武力出動についての合法権威を獲得する未来が見えてきた。


 藤原摂関家の当主である摂政近衛基実はまだ二四歳の青年であるが、培ってきた経験は二四歳という若さと不釣り合いなほど豊富なものであった。

 二条天皇の親政が二条天皇の崩御により終焉を迎えても大きな混乱を見せなかったのは、摂政近衛基実が藤原摂関家をまとめあげて二条天皇の親政を継続させることを内外に示し、平家を懐柔して藤原摂関家の勢力を拡充させることに成功していたからである。

 摂政や関白は議政官に顔を出すことができない。ゆえに、立法機関である議政官の場で摂政近衛基実が自らの意見を述べることも、ましてや自分の言葉を法として成立させることもできない。ただし、議政官のトップたる左大臣は実弟の松殿基房であり、議政官の開催権や議事進行権は有さないものの議政官の三番手である内大臣も実弟の九条兼実である。自らの意思を松殿基房と九条兼実という二人の弟を通じて議政官に届けさせることで、奏上された法案を議政官で審議し、上奏されて天皇の代理たる摂政近衛基実が署名捺印する形での法治が成立していた。

 議政官を見渡しても、源氏が三人、平氏が三人いる他は全て藤原氏が独占しており、一見すると藤原摂関政治は藤原道長の頃のように戻ったかのような姿をしている。

 しかし、時代はもう藤原摂関政治が圧倒的な存在感を示し、他の勢力は存在すら認められないという時代ではない。院政が完全に消滅しているわけではないのだ。

 院政が厄介なのは、後白河上皇の資質もさることながら、藤原摂関政治への反発を示すための選択肢として存在していたことである。白河法皇や鳥羽法皇がそうであったように、後白河上皇のもとに姿を見せることで、現時点で権勢を掴めていないことへの反発と、後白河上皇の個人的な感情での抜擢による位階や役職獲得による人生一発逆転の可能性が存在するとなると、藤原摂関政治もかつてのような頑強さを期待できない。このハンデの中で近衛基実はよくやっていたとするしかないし、二人の弟も兄をよくサポートしていたとするしかない。

 永万二(一一六六)年六月六日、平清盛が従二位から正二位に昇格した。権大納言で正二位というのは位階と役職の釣り合いが取れていないように見えるが、永万二(一一六六)年六月六日時点の議政官の構成を見ると必ずしもそうとは言えなくなる。

 以下の表を見ていただきたい。

 正二位でありながら権大納言であると言っても、摂政でも正二位、左大臣でも正二位なのである。かつて問題となっていた位階のインフレは改善されていない。ここで平清盛が正二位に上がってもなお権大納言のままであるのは、永万二(一一六六)年六月時点ではやむを得ないことであるとも言えたのである。

 さらに、永万二(一一六六)年六月時点の議政官の構成を考えるともう一つ気になる点が出てくる。

 若さだ。

 五〇代が三名、四〇代が八名、三〇代が六名、二〇代が七名、そして内大臣藤原兼実こと九条兼実は一九歳。これまでの歴史を振り返ると、院政に限らず、藤原摂関政治に反発する声の多くは時流を掴むことのできずにいる若者の声であることが多かった。高齢者が権力の中枢を握り、高齢者が退かないために空席がなく、七〇代から八〇代の高齢者がようやく引退したかと思えば次に来るのは六〇代から五〇代の者という図式が長期化していたことが、若者をして一発逆転のチャンスとしての院政を狙うきっかけになっていた。

 ところが、摂政近衛基実の構成する議政官は最年長の葉室顕時ですら五七歳であり、摂政近衛基実を加えた平均年齢は三七・二四歳、議政官に顔を出すことの許されない摂政近衛基実を除外しても議政官の平均年齢は三七・七九歳である。この平均年齢の若さは、若者が時流に乗るときの選択肢として院政ではなく藤原摂関家を選ぶきっかけにすらなった。父が藤原忠通であるから若くして朝廷の中枢に君臨することとなったというのはあるが、多くの若き貴族にとっては、父の藤原忠通のもたらす威光があろうと、摂政近衛基実のほうが自分たちの意見をくみ上げてくれる若きリーダーであったのだ。

 この図式は後白河上皇にとって痛手であった。白河院と鳥羽院の過去二度の院政は、若さゆえに時流に乗ることの許されない若者を招き入れることも権力構築の要素の一つであった。それが、若者のほうが藤原摂関家に行くとなると、後白河上皇のもとに顔を見せて後白河上皇の采配一つで出世を果たそうと考える者は、若さではなく能力の低さゆえに権勢を掴めずにいる者ということとなる。

 こうなると、後白河上皇のもとに身を寄せているのは無能ゆえに時流に乗ることのできずにいる社会の敗者ということとなる。この現実を後白河上皇は苦々しく感じ、院政に期待を寄せている者は自己に向けられている社会的評価を目の当たりにすることとなる。

 院政と、藤原摂関政治との対立は、摂政近衛基実率いる藤原摂関家に軍配が上がったと誰もが見ていた。

 永万二(一一六六)年七月二六日までは……


 永万二(一一六六)年七月二六日、その知らせは突然訪れた。

 摂政近衛基実、死去。死因は赤痢と推定されている。

 その第一報が飛び込んできた時は誰もがたちの悪い冗談だとしか思わなかったが、実際に近衛基実が息を引き取っているのを目の当たりにすると誰もが混乱に陥った。

 二条天皇の崩御ののち、二歳の幼帝六条天皇の時代となってもさほど大きな混乱を見せることはなかったのは二四歳の若き摂政が藤原摂関家の軸を担っているからである。その軸が何の前触れもなく失われたことで、藤原摂関家を中心とする現行の政治システムがどうなってしまうのかがクローズアップされたのだ。

 政権交代が選挙の結果である現在と違い、保元の乱から一〇年、平治の乱から七年しか経っていない永万二(一一六六)年時点で、政権交代というのは戦乱の結果である。人命に関わる大事態を未然に防いでくれていた摂政近衛基実がいなくなった瞬間に、全ての人の脳裏に思い浮かんだのは、危機感である。

 藤原忠通が後継者を定めていたため、空席となった摂政の地位は近衛基実の死去の翌日である七月二七日に左大臣松殿基房がそのまま就任した。ただし、左大臣が摂政や関白を兼任すると、その左大臣は議政官から姿を消さなければならなくなる。内大臣九条兼実が健在であるが、官職で言うと二人の間に右大臣藤原経宗が存在する。すなわち、左大臣松殿基房が議政官から離れたら右大臣藤原経宗が議政官を取り仕切ることとなる。

 藤原経宗は、自分は調整弁になることを受け入れて政界に復帰した身であることを自覚していた。ただ、そこで言う調整弁の役割とは摂政近衛基実と後白河上皇との対立を緩和する調整弁であり、藤原忠通の子らの対立を緩和するための調整弁ではなかった。

 近衛基実の死によって、それまで隠蔽されていた問題が顕在化したのだ。

 藤原氏内部の覇権を巡る近衛家と松殿家との対立という問題が。

 具体的に言えば、左大臣松殿基房が継承するのが藤氏長者の地位だけなのか、それとも藤原摂関家の全資産を継承するのかという問題があった。

 藤氏長者の地位と藤原忠通の資産の双方を近衛基実は相続した。近衛基実の死によってその双方ともが宙に浮いた。藤氏長者の地位は松殿基房が相続するのは既定路線であるが、資産まで相続するという想定は無い。しかし、近衛基実の息子となると長男ですらまだ七歳である。また、この男児は近衛基実の正室である平盛子との間で生まれた子ではなく藤原忠隆の娘との間に生まれた子であり、藤原忠隆は平治の乱を引き起こした藤原信頼の父、すなわち、藤原信頼が母方の伯父であるというのは、国家反逆者の甥という評価になるのだ。

 血統はともかく年齢を理由に相続できないとなると近衛基実の遺族はたまったものではない。一時的という名目で松殿基房が相続するとしても、近衛基実の子が成人を迎えたのちに松殿基房が相続した資産を返す保証はどこにも無い。藤氏長者の地位と摂政の官職はどうにもならないが、近衛基実の遺産を松殿基房に渡さないためにはどうすべきか。


 このときにアイデアを出したのが参議の藤原邦綱である。彼が出したアイデアはこうであった。

 まず、松殿基房は、摂政の地位と、近衛基実の長男が成人するまでの間に限り藤氏長者の地位を継承するが、近衛基実の資産の相続は認めない。その上で、近衛基実の長男を近衛基実の正妻である平盛子の養子とし、近衛基実の長男が成人を迎えるまで平盛子が遺産を管理するとしたのだ。

 これに賛意を示したのが内大臣九条兼実である。彼は、これから一三年後、自身の日記である「玉葉」に、平盛子はあくまで仮に相続しただけで、近衛基実の長男である近衛基通を正当な相続者であると書き記している。

 賛意を示したのは九条兼実だけではない。平家もまた、平盛子への遺産相続を支持している。松殿基房が藤氏長者の地位を継承するのに伴い、藤氏長者に付随する資産である殿下渡領、勧学院領、御堂流寺院領の所有権が松殿基房のもとに移るのはやむを得ぬこととしたが、その他の近衛基実の資産は、藤原忠通から相続したものも含め、あくまで一個人として得ている資産でありその相続権は妻と子のもとにあると主張したのである。

 平盛子が一時的に相続することに成功した資産を大きく分けると三種類ある。

 荘園、邸宅、そして古記録である。

 中でももっとも重要なのが古記録だ。

 藤氏長者としての政務のマニュアルを確保することは、藤氏長者の地位を継承する以上のメリットがある。政務のノウハウがまとまっているマニュアルがあると無いとでは政務遂行がスムーズに行くか否かが大きく異なる。藤原忠実から藤原経宗へ統治のノウハウを伝えたと言っても、藤氏長者が代々受け継ぎ加え続けてきた古記録は、藤原忠実一人から伝えられる分量の比ではない。確かに前例の無い事態に陥ったときに対応できなくなるという欠点はあるが、日常の政務に限って言えば、マニュアルがあると無いとではその行動に大きな違いが出る。松殿基房が藤氏長者となると言っても、その統治の手元にマニュアルが存在しない以上、松殿基房の統治はスムーズな物となる可能性が乏しくなるのだ。

 ただし、一時期であるとは言え、平盛子が相続することは、藤原摂関家が受け継いできたマニュアルを平家が手にできることも意味する。これは諸刃の剣だ。平家のトップである平清盛は権大納言にまで登り詰めている。しかも平盛子は後白河上皇のもとに嫁いでいる。

 これは何を意味するか?

 平家が藤原摂関家に取って代わることも、後白河上皇が藤原摂関家の政務のノウハウを学ぶことも可能になるのだ。


 永万二(一一六六)年八月二七日、仁安に改元。六条天皇即位に伴う改元である。

 祝賀ムードを伴う改元の裏で、人事の改編が行われていた。まず、権中納言藤原顕時と参議藤原邦綱がそれぞれ役職を辞職させられ、代わりに藤原光隆、藤原成頼、藤原成親の三名の公卿が参議に任命された。また、議政官入りはまだであるが、五三歳の藤原顕広と三二歳の藤原成範、そして三四歳の平頼盛の三名が従三位の位階を獲得した。五名のうち藤原氏の四名は後白河上皇に近い人であった。

 一方、公卿補任に名を記されるには至っていないが、平清盛の三男の平宗盛が従四位上、四男の平知盛が正五位下に昇叙した。前述の平頼盛も加えると、これで平家の貴族が五名を数えることとなる。

 ここで特筆すべきが、議政官入りとはならなかったものの従三位に昇叙した平頼盛である。参議にならなかった代わりに修理大夫と太宰大弐の二つの官職を兼ねているのであるが、そのうちの太宰大弐がポイントである。太宰府の事実上のトップである太宰大弐であってもその他の兼職をしていると京都に留まって現地に赴任しないことが通例であるのに、平頼盛は太宰府に向かったのだ。

 このことを、平頼盛の単独行動ではないかとする声もあった一方、平清盛からの指示による太宰府赴任ではないかとの声もあった。

 そのことの答えは翌年五月に判明するが、その前に記さねばならないことがある。仁安元(一一六六)年一〇月一〇日の出来事だ。

 この日、後白河上皇が東山七条末御所に住まいを移したのである。名目は憲仁親王の立太子の式典のためであり、ほとんどの公卿、特に平家一門の出席のもと式典が盛大に開催されたのであるが、その場に平頼盛の姿はない。しかし、そのことを咎められたりはしていないどころかむしろ称賛されている。その根拠となっているのが太宰大弐としての太宰府赴任である。

 さらに、憲仁親王の立太子を祝すとして、平重盛の正妻である藤原経子が憲仁親王の乳母に選ばれ、平重盛自身も乳母夫として皇太子憲仁親王の後見役の地位を獲得した。また、権大納言平清盛が春宮大夫、平教盛が春宮亮、平知盛が春宮大進と、それぞれ皇太子憲仁親王のサポート役に任命された。

 皇太子のことを「とうぐう」とも言う。「とうぐう」に対応する漢字は二種類あり、「東宮」だと皇太子に任命されていなくとも次期天皇を約束されている人のことを示す。一方、「春宮」となると個人を示すこととなる。仁安元(一一六六)年一〇月一〇日よりまえだと、憲仁親王は次期天皇が約束されていた「東宮」であり、一〇月一〇日になると「東宮」であと同時に「春宮」でもあるという人になる。

 「とうぐう」に仕える人はピラミッド構造になっていて、トップは大夫。大夫の下に大夫を支える亮がいて、亮の下には大進。ここまでは各役職が一名ずつであり、貴族の兼任も珍しくない。その貴族兼任の役職三つを平家が独占しているわけである。しかも、平家が独占しているのは「春宮」であって「東宮」ではない。「東宮大夫」や「東宮亮」のように役職名の一文字目が東の文字であると、皇太子が誰であろうとその職務であることを意味するが、「春宮大夫」や「春宮亮」のように一文字目が春の文字になると、その役職に就いたときの皇太子のときに限っての職務に、すなわち、憲仁親王に限定した職務になるのである。

 このことを、当時の人は皇太子憲仁親王の周囲を平家が支えていることから、やがていつかは平家の時代が来るのではないかと思うようになった。しかし、まさに同日起こったことには気づいていなかった。

 仁安元(一一六六)年一〇月一〇日、それは後白河上皇院政の復活の日だったのである。


 仁安元(一一六六)年一一月、前月に露顕していた後白河上皇院政の復活が高らかに宣言された。

 まず、摂政左大臣松殿基房が左大臣を辞任し摂政選任となる。

 左大臣には右大臣藤原経宗が、右大臣には内大臣九条兼実がそれぞれ昇格。

 そして、内大臣には権大納言平清盛が就任した。

 円融天皇の治世に内大臣職が復活してから一九六年間、内大臣に就いたのは藤原氏と源氏しかいなかった。内大臣以外の大臣まで広げても昌泰四(九〇一)年の右大臣菅原道真まで遡らないと登場しないという、実に二六五年ぶりの出来事だったのである。

 当時の人はたしかに、平清盛が内大臣に就くことは前代未聞と考えた。しかし、そう遠くない未来にやって来ることであるとも考えていた。

 以下に記したのは仁安元(一一六六)年一一月時点の参議以上の官職の貴族の構成である。六月より変更のあった貴族は色を付けてみたので一目瞭然と思われるが、わずか五ヶ月でこの変更具合である。その全てに後白河上皇が絡んでいるのだ。

 ただし、一点だけ後白河上皇の思い通りにならない点があった。左大臣藤原経宗である。この人は後白河上皇院政に反発して平治の乱で藤原信頼の側に立ったという経緯がある。配流先である阿波国から戻されたのは藤原摂関家に対抗するためという後白河上皇の意図が存在していたからであり、その意図を飲んで政界に復帰したのが藤原経宗という人だ。その人が左大臣という議政官の最高位に昇ったとき、真っ先に考えたのは藤原摂関家への対抗軸になることではなく、後白河上皇の暴走を食い止める役割を担うことであった。


 そもそも、極論すれば、藤原摂関家の対抗軸になる必要は無かったのが仁安元(一一六六)年一一月時点の政局だ。近衛基実不在の穴を摂政左大臣松殿基房は何とか埋めていたとはいうものの、二歳の幼児が天皇であるという状況を、左大臣を兼職とする摂政が埋めるのは事実上不可能である。ゆえに左大臣を辞任し摂政選任になるのはやむを得ないこととするしかない。

 ただし、ここで前例が関わってくる。

 大臣を辞した者が再び大臣になる例については、松殿基房の父親である藤原忠通が太政大臣を二度経験するという前例を作っている。しかし、左大臣を二度務めたという前例は無い。何しろ、阿倍内麻呂が初代左大臣に就任してから五二四年間に及んでいるにもかかわらず、松殿基房まで四二名の左大臣を数えるにすぎないのである。そして、その四二人の左大臣の誰一人として左大臣に複数回就任した者はいない。太政大臣はさほど長期間務める職務でないから二度の経験があっても不可思議ではないが、左大臣は議政官の最高権力者であり、一度就任したら長期間に亘って左大臣のままであり続けることが通例化していたのである。この時代の藤原氏が何かと理想としてきた藤原道長が二一年間に亘って左大臣であったことは左大臣として異例なことであったかもしれないが、その二一年間の左大臣経験のある藤原道長ですら、左大臣の在任期間となると五番目の長さになる。ちなみに一位は藤原頼通の四〇年間、二位は源俊房のが三八年間である。それをたった二年で辞任するのだから、松殿基房も逡巡するものがあったろう。

 二三歳にして左大臣を辞職するというのは、このあとのキャリアに残されているのは摂政や関白の専任になることと、太政大臣を務めることがあるかどうかという未来であり、あとは死ぬまで議政官に関わることがなくなることを、すなわち、自らが法の作成に関わることが許されなくなることを意味するのである。


 仁安元(一一六六)年一一月の人事は議政官だけではない。議政官未満の役職についても人事が発令されている。

 その中には、当作品でもその放言癖を何度も記している平時忠も含まれている。平時忠はこのとき蔵人頭、すなわち、天皇の秘書のトップに就任しているのである。

 平家にとって厄介な人物でありながら、追放されても戻ってきて中央政界に戻ってきている平時忠のことを、九条兼実はかなり悪し様に日記に書き記しており、慈円も愚管抄の中で平時忠をかなり下品に書いている。にもかかわらず中央政界にそれなりの存在を見せているのは、単に後白河上皇の義理の弟だからという理由だけではない。

 暴言を吐く人であり、敵を数多く作る人でもあるが、無能は有能かの二択をせざるを得ないなら、有能と判断するしかないのだ。

 前述の通りこの人は武士ではなく貴族である。そもそも桓武平氏ではあるものの伊勢平氏ではなく、武士としての訓練を積んできたわけではなく、京都にあって貴族としての教育を受けてきたのが平時忠の人生である。

 貴族として必須となる教養や、貴族に求められる実務能力となると、平家の送り出せる数少ない人材の一人が平時忠であった。何しろ、蔵人を経験し、大学頭を経験し、検非違使を経験し、右少弁を経験したのであるから、この時代の下級貴族の中ではかなりのエリートコースである。三七歳での蔵人頭というのは、藤原氏であったら遅いキャリアアップということになるが、藤原氏でない者のキャリアとしては、順当どころかむしろ早いほうの部類に属する。

 しかも、蔵人頭に就任したときの平時忠は蔵人頭に専念したのではない。修理左宮城使、検非違使、右中弁、左衛門佐と四つの職務を兼ねている上での蔵人頭就任である。現在の日本でいうと、国土交通省、警察庁、内閣法制局、防衛省の四つの省庁でかなり高い役位を兼任している内閣官房長官というところか。

 これだけの職務を兼任するだけでも激務であること間違いないが、恐ろしいことに平時忠はその全てについてノルマを果たしたのである。

 のちに三度に亘って検非違使別当に就任することとなる平時忠は、犯罪者への容赦しない処罰によって京都の治安を回復させたという実績を生みだしている。そして、そのよう謝しない処罰ができた理由を、平時忠が平家だから、すなわち武士だからできたのだと当時の人は感じたようであるが、平時忠自身は武士であったことはない。婚姻関係によって武士の集団の一人になったが、平時忠自信は自分のことを平家という貴族集団の一員である貴族であると認識していた。


 平時忠は自身のことを貴族と考え、後白河上皇と平清盛の二人の義弟であることを念頭に置いて行動していた。そして、隙あらば平家という貴族集団を自分の手に掴もうという野心を抱いていた。

 ただし、平時忠がいかに平家にとって数少ない貴族の教育を積んだ人物であったとしても、平時忠に平家を継がせるという選択肢はなかった。

 平清盛の後継者は権中納言平重盛であるというのが、平清盛も、他の平家の者も、そして他ならぬ平重盛自身も自覚していることであった。平家は確かに貴族集団であるが、同時に武家集団でもある。平家に求められているのは藤原氏に取って代わる貴族勢力になることではなく、その武力でこの国と国民を守ることである。国を守り国民を守ることは武力に寄るものだけではなく政治的な配慮や決断も求められるし、行動には法の制限も課せられる。だからこそ貴族としての平家でもある必要があるのだが、その意味で平重盛は完璧だった。

 仁安元(一一六六)年一二月二日、内大臣平清盛が春宮大夫を辞任し、後任の春宮大夫に権中納言平重盛が就任した。単に皇太子に仕える地位を息子に譲ったのではない。内大臣がその兼職とする職務を自身の後継者に譲渡したのである。以前から平重盛を平清盛の後継者とすることは明言されていたが、このときは、単に平家のトップの地位を平重盛に継承させるのではなく、貴族としての継承も平重盛なのだと宣言することになった。

 平清盛は武士として一流であり経済人としても一流であるが、政治家としては一流であると言いがたい。貴族としての素養を平清盛に求めても、そもそも貴族としての教育を積んでいない平清盛に求めるのは無謀である。一方、平時忠は貴族としての教育を受けていて、放言癖はあるものの政治家としての能力はノルマ水準の期待ならばできるが、この人に軍勢の指揮ができるかと言われたら誰もが否と答えるであろう。

 ところが平重盛は違う。

 戦場において武士を率いる能力は問題ない。平家が軍勢を率いたとき、その一部を平清盛以外の者が率いるとしたら、最優先に名前が挙がるのは平重盛だ。また、確かに貴族としての教育を積んでいるわけではないが政治家としての能力を考えても平重盛の能力はかなり高い。そしてもっとも重要な点として、この人は敵を作らない。戦場で敵となった相手には容赦ないところを示すところがあり、この時点では清和源氏の面々を、後に比叡山延暦寺の僧兵を、容赦なく攻め立てる人でもあったが、それは戦場での敵味方であったためである。


 清和源氏の主だった者は保元の乱で処刑され、残った源義朝らは平治の乱で敗れて命を落とした。源頼朝ら、生き残った源義朝の子達は追放されて京都にいない。

 しかし、清和源氏が京都から完全に姿を消したのかというとそれも違う。清和源氏の中には平治の乱で平清盛の側に立った者もおり、そうした者は京都に健在であった。

 ただし、かつて伊勢平氏と互角かあるいはそれ以上の武力を持った勢力ではなくなっており、清和源氏ではあっても平家の動員しうる武力の一員となっていた。

 その一人が源頼政である。間もなく仁安元(一一六六)年も終わろうかという一二月三〇日に、六条天皇の名で、実際には摂政松殿基房によって内昇殿を許されたのだ。源頼政としては栄誉あることではあるかもしれないが、それにしてもようやく内昇殿である。源義朝の頂点を知る者にとってはあまりにも乏しい栄誉である。

 それに、この日の人事は源頼政一人ではない。平家の面々で確認できるだけでも三名が新たな役職を手にしている。平重衡は、それまで平宗盛が就いていた左馬頭の役職に就任し、平資盛が国司の中でも希望者の殺到する事で有名であった越前国司に就任。それまで越前国司であった平保盛は尾張国の国司に転任したのである。

 平重衡は平清盛の五男であり、平宗盛は平清盛の三男であるから兄から弟への役職異動である。

 平資盛は平重盛の次男で平清盛から見れば孫にあたる。

 そして、平保盛は平頼盛の子で平清盛の甥である。

 平家の身内優遇と言えばその通りであるが、それより深刻な、貴族集団としての平家の人材不足が如実に出た格好だ。平家を優遇したのではなく、平家の勢力拡張のために平家でどうにかできる人材を探した結果がこうのだから。

 ただし、身内優遇が必ずしも悪であるとは言えない。

 その一例が、尾張国司に任命された平保盛のエピソードに見える。もっとも、平保盛自身のエピソードではないが。

 平保盛は、尾張国司に任命されたのち、自分が尾張国に赴任するのではなく、家人の平康頼を国司の代理である目代に任命した上で、平康頼を尾張国へ派遣した。尾張国と言えば源義朝が最期を迎えた土地であり、尾張国知多郡野間荘には源義朝の墓があった。ただ、その墓は荒れ果てていた。平康頼は源義朝の墓を修理し、源義朝を弔うための堂を立て、念仏を唱えさせ、その保護のために三十町歩もの土地を寄進したのである。

 このエピソードは京都にも届き、平家の面々の真摯さ、特に平康頼の礼儀正しさが評判となったのである。同時に、身内優遇ではないかという非難の声はかき消されることとなった。


 仁安元(一一六六)年一二月にはもう一つニュースがあった。皇太子憲仁親王か御所としていた東三条殿、東三条殿と言っても藤原北家の本拠地である邸宅のことではなく、二条大路南西洞院大路東にあった邸宅のことであるが、この建物が火災に遭って焼け落ちたのだ。

 さすがに皇太子の邸宅が焼け落ちたのである。普通ならばただちに再建するところであるが、後白河上皇は違った。

 皇太子の邸宅を再建する代わりに自分の邸宅の拡張工事を選んだのだ。

 法住寺南殿と言えば、信西の邸宅跡の敷地に藤原信頼の邸宅を移設して建てさせた建物であるが、この建物では手狭であるとして平然と建て直させたのである。いかに犯罪者として弾劾されている人物であるとは言え、建物を移設させた上に、狭くなったからという理由で簡単に建て直させている。このあたりにも後白河上皇の人間性が垣間見える。

 ただし、改築後の法住寺は、政務遂行の拠点としてかなりハイレベルな設備を整えた建物になった。法住寺南殿は各種の儀式が全て執り行える建物へと進化し、敷地内の七条上御所に皇太子憲仁親王が、七条下御所に後白河上皇と平滋子が住まいを構えるようになったのであるから、これではまるで内裏だ。

 年明け早々の仁安二(一一六七)年一月一九日には後白河上皇が移り住んだというのだから、東三条殿が焼けてからすぐに工事を始めたわけではないのか、あるいは東三条殿が焼けてから工事を始め、工事が完成する前に移り住んだかのどちらかであろう。後白河上皇にしてみれば焼け落ちた邸宅よりも機能的な新しい邸宅のほうが良いだろうと考えたのかもしれない。たしかにその理屈はわかる。わかるが、後白河上皇の選択が人道的かと言われると答えは否である。

 このあたりが、実際に皇太子憲仁親王が移り住むのはもう少し先になった理由であろう。果たして、後白河上皇はこれまでの住まいが灰燼に帰してしまった幼い憲仁親王の気持ちを理解していたのであろうか?

 仁安二(一一六七)年一月二〇日、皇太子憲仁親王の実母である平滋子が、後白河上皇の局から女御へと出世した。内大臣平清盛の義理の妹でもあるので血統については問題ないが、女性としての地位に目を向けると後白河上皇の局というのは指摘されると痛い指摘になる。だが、女御となれば文句を言われることではなくなる。

 それでも平家の一員というのはまだ立場としては弱い。平家は確かに内大臣と権中納言の二人の貴族を議政官に送り込んでいる家系であり、平家ではなく平氏という広い括りで見ると参議の平親範の三名が議政官にいる血筋でもあるが、それでも藤原摂関家に比べれば大きな差が見られる。

 この差につけ込んだのが後白河上皇である。

 そして、後白河上皇のつけ込みを利用したのが平清盛である。

 後白河上皇の利害と平家の利害は完全に一致したのだ。

 後白河上皇は院政の障害となる藤原摂関家を抑制する存在を求めていた。そして、平家はその答えの候補として最有力となっていた。

 平家は自らの勢力拡張の機会を狙っていた。平清盛が内大臣まで昇格したものの、その他の平家は権大納言平重盛ただ一人のみ。より多くの平家を議政官に送り込むチャンスは常にうかがっていた。

 両者の利害が一致した結果、二度に亘って平家に対する人事が発令された。

 仁安二(一一六七)年一月二八日、六条天皇が後白河上皇の住まいとしている法住寺南殿に朝觀行幸した。同日、権中納言正三位平重盛が従二位に昇格。これで平重盛はそう遠くない未来に権中納言より上の役職、具体的には中納言もしくは権大納言への昇格がほぼ約束された。また、太宰大弐として太宰府に赴任していた平頼盛が従三位から正三位に昇格した。表向きはまさに太宰大弐として太宰府に赴任していることが評価されての報奨であるが、この時点ではまだ平頼盛の昇格が真に意味するところが公表されてはいない。


 仁安二(一一六七)年一月時点の貴族のトップの構成は、摂政正二位松殿基房、左大臣正二位藤原経宗、右大臣正二位九条兼実の三人がまず存在し、その下に内大臣正二位平清盛が来る。

 つまり、太政大臣が不在である。

 これが着目された。

 平清盛を太政大臣にさせれば内大臣以下の役職が空き、人事の玉突きが起こる。その玉突きのターゲットを平家に絞れば、貴族としての平家の貴族の勢力を伸ばすことが可能となるのだ。

 仁安二(一一六七)年二月一一日、内大臣平清盛、位階が従一位に昇叙すると同時に太政大臣に就任。

 後任の内大臣には大納言藤原忠雅が昇格し、大納言の空席には権大納言藤原師長が昇格、そして、権大納言の空席を埋めるために権中納言平重盛が権大納言への昇格を果たした。ただし、権中納言から権大納言への昇格を果たしたのは平重盛一人ではなく藤原公保も一緒である。空席を見逃すほど藤原氏は甘くはない。

 それでも平家は第三の貴族を議政官に送り込むことに成功した。

 ただし、平家の送り込んだ第三の貴族とは、平時忠である。復帰してわずか二年で参議となり議政官入りした平時忠はこの時点では警戒されていたが、のちに平時忠の参議入りは正解であったことが判明する。それは同時に、平清盛の弟も、平重盛以外の平清盛の息子も、貴族としての力量という視点では、何かと悪評のある平時忠を超えることができないという現実を突きつけることでもあった。その代わり、平清盛の四男である平知盛を従四位下武蔵守となることに成功した。

 また、平清盛が太政大臣となったことで時流を察した内大臣藤原忠雅は、長男の藤原兼雅を太政大臣平清盛の娘と結婚させることに成功した。

 それにしても太政大臣が平家である。

 太政大臣が武士である。

 藤原良房が太政大臣の職務を復活させてから三一〇年間、太政大臣という職務は、保安三(一一二二)年の源雅実をただ一人の例外として、藤原氏が就任するか空席であるかのどちらかしかなかったのだ。それが今や、武士出身の貴族が太政大臣である。時代の移り変わりであるとは言え、議政官の決議に対し拒否権を発動することが許され、決議を差し戻すことのできる権威を持った官職が武士の手に渡ったのだ。

 さらに言えば、太政大臣の役職は議政官に対する拒否権だけではない。天皇の職務の一つに皇族の元服における加冠役があるが、天皇の元服のときは太政大臣が加冠役を務める。六条天皇が元服を迎えたとき、あるいは、六条天皇の身に何か起こってしまい皇太子憲仁親王が帝位を継いだとして、帝位に就いたあとの皇太子憲仁親王がまだ元服を終えていない年齢だったとするならば、太政大臣として平清盛が加冠役を務めることとなるのだ。


 藤原氏はどうして平清盛の太政大臣就任を認めたのか?

 松殿基房と九条兼実の対立、また、近衛基実の遺族と松殿基房の対立から、相手に権威を譲るぐらいなら平清盛に権威が渡る方がまだマシと考えたとする説もある。

 ただ、藤原氏というのは内で対立を見せても外に対しては結束を誇る氏族集団だ。その藤原氏が平清盛の太政大臣就任に何の横槍も入れずにいるのは不可解とするしかない。

 その答えは、藤原氏のリアリズムにある。

 太政大臣は人臣最高位であり、平清盛の手にした従一位の位階は生者としてなら最高位である。従一位の上には正一位が存在するが、正一位は死者に対する名誉の称号であり従一位を超える位階は生きている限り望むことができない。つまり、平清盛は役職と位階の双方で頂点を極めたこととなる。

 ところが、太政大臣に就く前の平清盛が何であったかを思い出すと、一つの答えが見えてくる。太政大臣に就く前の平清盛は内大臣だ。そして、内大臣には議政官の議事進行権も開催権も存在しない。議政官の議長は左大臣、左大臣不在のときは右大臣、右大臣も不在のときは大納言筆頭が議政官を仕切る。しかも、内大臣は議政官への出席を必ずしも求められたりはしない。参加することは何の問題も無いが、欠席しても問題なしと扱われるのが内大臣という職務だ。たしかに大臣なのだから貴族達から一定の敬意は払われるが、その弁論によって議政官の場の空気を変えることはあっても、内大臣に付随する権力によって議政官を支配することは許されない。議決においても一票を行使することはできるが、弁論による以外に他者の票決に影響を与えることは許されていない。

 内大臣である平清盛が、右大臣も左大臣も経験せずに、一気に太政大臣へと登り詰めた。これは一気に出世したという言い方もできるが、体の良い追放であるとも言えるのだ。

 前例はある。天延二(九七四)年、内大臣藤原兼通は右大臣も左大臣も経験せずに太政大臣となった。承暦四(一〇八〇)年、内大臣藤原信長は右大臣も左大臣も経験せずに太政大臣となった。どちらも、議政官で権力を行使させないための体の良い形での追放としての太政大臣就任であった。太政大臣は議政官に関わることが許されない。情報収集ぐらいはできるが議事の途中に口出しすることは許されない、すなわち、法の作成に関与することができない。いかに太政大臣に議政官の議決を覆し差し戻す権利があると言っても、その権利が行使されることはまず無い。言わば伝家の宝刀だ。抜かれる可能性は否定しないが、その可能性はきわめて低い。

 平清盛は、内大臣からいきなり太政大臣に昇格することによって、法の作成に関与することが許されなくなったのである。いかに後継者である平重盛が権大納言として議政官に留まっていても、大納言筆頭ではないから平重盛が議政官を操縦することは、よほどのことがない限りあり得ない。

 法というものが議政官で審議した末で生まれる物である限り、そして、摂政が松殿基房である限り、藤原摂関家の意見は議政官において決議となり、法となって、全国へと発令される。発令される前に太政大臣平清盛が口を挟むことは理論上ありえるが、口を挟んだときというのは、いつ、どのような理由で口を挟んだのかが全て広報される。それが国民の支持を得られる内容であれば問題ないが、そうでない内容で口を挟もうものなら、平清盛に対する支持は、そして、平家そのものに対する支持は、間違いなく下降する。


 平清盛は太政大臣に就任したときに待ち構えている現実を知らなかったのか?

 それはありえない。太政大臣が理論上の権限を持った事実上の名誉職であるというのはこの時代の常識だ。

 それでも平清盛が太政大臣となったのは、太政大臣となることで獲得するものがあるからだ。

 一つは自由な時間。左大臣以下参議に至る役職の貴族というのは激務である。休日という概念どころか自分の時間という概念も存在せず、現代風の言い方で言うと二四時間三六五日働き続ける職務である。さすがに文字通り休み無しで働けるわけはないから適宜に休みはとるし、熊野詣に出かけるなどレジャーを満喫してもいるが、それも返上させられることは珍しくない。親の死に伴う服喪期間のように職務につけない場合は一時的な解職という扱いにするほどだ。

 これが太政大臣になると、制約が減る。太政大臣も理論上は二四時間三六五日が拘束時間である職務であるが、実際には丸一日拘束されるどころか、拘束される時間のある日のほうが少なくはるほどだ。

 二番目が行動の自由。一番目にもつながるが、事前に「今日は何も予定が入っていないので自由に使える」とわかっていれば行動の制限も緩やかになる。左大臣以下参議に至る役職の貴族の場合、熊野詣をはじめとする参詣に出向くことは多かったが、それは事前に申請を出し許可を得た上ではじめて京都を離れることが許されるものであり、行き先も目的もかなり制限される。だが、太政大臣となれば、目的も、行き先も、制限がかなり緩む。さすがに国外に出向くとなると問題となるが、日本国内であればかなり自由に移動できる。

 もっとも、自由に移動できるとはいうものの、これまでの太政大臣がそこまで自由に移動していたわけではない。せいぜい京都とその周辺で、熊野詣ですら遠出である。ところが、太政大臣平清盛の行動範囲はこれまでの太政大臣の行動範囲を遙かに超える。

 仁安二(一一六七)年二月二五日、平清盛が安芸国の厳島に向かったのだ。厳島神社と平清盛との関係というと平家納経や大社殿、そして海に浮かぶ大鳥居を思い浮かべるかもしれないが、太政大臣としての平清盛が厳島に赴いたときは、このうちの一つしか存在していない。すなわち、既に奉納が始まっていた平家納経である。平家納経も全てが奉納を終えたわけではなく暫時奉納されつつある状況であった。ちなみに、平家の納経のうち般若心経の奥書には「仁安二年二月二十三日 太政大臣従一位平朝臣清盛書写之」とある。

 飛行機や新幹線で気軽に移動できる現代と違い、この時代の移動は時間を要する。京都で会議があり、京都での会議に出なければならないとなれば京都から離れることが許されなくなるのも当然だ。平安時代の貴族の生涯を追うと、国司をはじめとする地方官に選ばれ実際に赴任したときと、配流となって京都から追放されたときを除いて、実に見事なまでに京都から出ていない。京都とその周辺の移動が限度で、五畿から出る熊野詣では人生を掛けた大旅行である。現在で言う近畿地方の外に出た貴族を探すとなると、国司として赴任したことがある貴族か、流刑先から戻ってきた貴族か、あるいはその両方を経験した貴族だけである。

 この感性で日本全土を統治するのである。地方で発生している問題、あるいは地方と京都とを結ぶ通商網の問題は、知識としてならば頭の中にあったろうが、現地に出向いて現状を把握することはなかった。仮にその必要を感じていたとしても、この時代の貴族にとって、京都から離れることそのものが許されざる話だったのである。

 平清盛は違った。太政大臣となったことで京都から離れることが許されるようになってからわずか一四日後にはもう安芸国、現在の広島県へ向かっているのである。現在なら京都から広島は新幹線で気軽に日帰りできる距離だが、この時代となると人生を掛けた大旅行になる。その大旅行に出かけ、安芸国の現状をこの目で把握し、安芸国と京都との通商路をこの目で体感し、問題点とその解決方法をまとめることに成功したのである。

 平清盛のこのときの行動の回答は、平清盛の帰京後に示されることとなる。

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

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