平家起つ 7.平家の膨張と雌伏する源氏

 平清盛不在の京都では後白河上皇の院政が着々と形作られていた。

 まずは後白河院政の中心となる法住寺である。二条天皇と近衛基実の時代は貴族のほとんどが内裏のみに姿を見せていたが、今や多くの貴族が内裏と法住寺との間を往復するようになったのだ。

 この動きは、仁安二(一一六七)年四月四日に皇太子憲仁親王が正式に法住寺に渡御したことで加速する。退位した天皇は内裏に入らないのが鉄則であり、白河法皇も鳥羽法皇も内裏と一定の距離を置いている。置いているからこそ院庁が内裏とは別の組織として存在し、院政が朝廷から半ば独立しながら朝廷に深く潜り込む形での権勢を掴むことに成功したのである。後白河上皇もそれは理解していて、後白河上皇は住まいとする法住寺に身を置いて内裏から距離を置いている。また、白河法皇より前の上皇の多くが平安京の区画内に設けられた建物を住まいとしていたのに対し、白河法皇以降は平安京の区画の外に住まいを置くようになっている。後白河上皇の住まいのあり方は白河法皇と鳥羽法皇の住まいのあり方と同じであると言えよう。

 ただし、同じ敷地内に皇太子がいること、そして、この時代で最強の軍事集団である平家の本拠地である六波羅と接していること、この二点は過去二例の院政と大きく異なる。後白河上皇は過去二例の院政にはなかった目に見える二つの圧力を手に入れていたのだ。次期天皇を抱えていること、そして、軍事手段に出動命令を出すことが可能であること。どんなに後白河上皇の院政を認めない人であっても、六条天皇の身に何かあったとき、次の天皇となるのは皇太子憲仁親王であることぐらい知っている。どんなに朝廷の軍事力を甘く見ている人でも、今の日本国で最強の軍事組織は六波羅を本拠地とする平家であることぐらい知っている。内裏にこもっているのでは仕事にならない貴族は否応なく法住寺と六波羅に足を運ばざるを得なくなり、自分が身を寄せることなくとも、法住寺と六波羅に使者を派遣することなしに政務を遂行するなどできなくなる。

 ただでさえ院政というのは不明瞭な政治システムだ。いつから院政が始まったのかを明瞭に示すことはできない。気づいたら院が多大なる権限を持ち、逆らうことのできぬ存在へと成長していたという物である。院政を無視する貴族が多数を占めている間は院政とは名ばかりの存在になる。だが、院と内裏とを行き来する貴族が増えると院は無視できぬ存在となる。

 白河法皇は比叡山延暦寺の武装デモを山法師と呼び、意にならぬ存在の一つとして列挙したと平家物語は記しているが、後白河上皇は、白河法皇が頭を悩まされ、そして、この時代の平安京の庶民の多くが頭を悩ませていた僧兵の武装デモに対して、力でねじ伏せることが可能であると暗に示すことに成功していた。

 この動きは後白河上皇だけでなく貴族達もまた求めているものであった。ただ、平家の武力を動かす場合、今までと違って貴族の側が平家に頭を下げねばならない時代になっていた。後白河上皇は平家に命令できても、貴族は平家に命令できない。当たり前だ。誰が太政大臣に命令できようか。それまで自分の手下として動かす存在であった武士が、今や、自分たちの誰よりも上に立つ太政大臣である。プライドにかけて頭を下げずにいるならば、待っているのは実生活の身の危険。他に自分たちの身の安全を守ってくれる武士はもう京都近郊にはいないのだ。プライドを選ぶか身の安全を選ぶかで身の安全を選んだ貴族は多かった。たとえば、仁安二(一一六七)年四月二七日の夜、大納言藤原師長が、平清盛の弟である若狭守平経盛の私邸である白河宅を訪問している。

 これまで逆ならあった。平家が藤原氏の邸宅を夜間に訪問するのは、格下の者が格上の者の元を訪ねるというこの時代の儀礼に基づくものであった。それが今や、藤原氏の者が平家の者の邸宅を訪問するのである。たしかに大納言藤原師長は時流を失った人である。何しろこの人の父親は、悪左府と呼ばれて忌み嫌われ、保元の乱では首謀者の一人となった藤原頼長だ。連座で地位を失い、ようやくの思いで中央政界に復帰できたのは三年前。それからようやく大納言となった藤原師長にとって、自分が頭を下げてでも平家と手を組むというのは、従弟である摂政松殿基房や右大臣九条兼実と対抗するための方法として理に適ったものではあった。理に適ったものではあったのだが、藤原氏の者が武士の家を訪問するとは前代未聞でもあった。

 藤原師長のように平家に頭を下げた貴族もいたが、平家に頭を下げるのはどうしても納得のできない貴族も多かった。藤原摂関家の出である自分より上の官職の貴族なら頭を下げることは厭わないが、いかに太政大臣にまで登り詰めたとは言え、また、身の安全に関わる話であるとは言え、武士相手に頭を下げることはどうしてもプライドが許さないのだ。彼らが選んだのは、後白河上皇にどうにかしてもらうことである。皇族相手に頭を下げるのは、当たり前のことであるだけでなく、いかに皇族の前に頭を下げたかが自身の誇りの源泉ともなる。上皇に働きかけて平家に命令をしてもらえるならば、彼らのプライドは保たれ、平家の武力を期待する身の安全も図ることが可能だ。

 その結果が、法住寺に姿を見せる貴族の急増である。


 太政大臣平清盛は安芸国へ向かったが、安芸国より西に向かった記録はない。しかし、安芸国より西に派遣されていた人はいる。

 太宰大弐平頼盛だ。

 太宰大弐に選ばれながら太宰府に赴任しない者が当たり前であった時代に、太宰大弐となった平頼盛がどうして太宰府に赴任したのかが判明した。実際に太宰府に向かって太宰府に滞在し、九州とその周辺の情勢をこの目で見て、国外からの情報をその耳で聞き、京都から太宰府への往路を実体験した平頼盛に欠けているのは太宰府から京都への復路の実体験のみ、すなわち、太宰府からの帰路のみ。平頼盛を京都に呼び戻せば任務完了となる。

 平頼盛の収集した情報と平清盛自身が目にした情報を合わせれば、瀬戸内海の海路整備計画が完成するのだ。海外からの船が太宰府までやってくるところまでは完成している。あとは、太宰府に寄港した船にそのまま瀬戸内海を航行してもらい、大阪湾近くにまで来てもらう。

 平清盛が日本経済復興の全体像まで描いていたとまでは言わない。しかし、平清盛が経済政策としての貿易促進を考えていたことは断言できる。貿易促進そのものは平清盛の父の平忠盛が始めたことだ。平家だけ豊かになっているのが現状であるが、貿易の門戸は閉ざしていない。参加するのは自由であるし、参加して豊かになるのも自由である。現時点で貿易参加者が少ない理由の最たるものは、貿易港が限られていることだ。事実上、博多港だけが貿易港で、日本海沿岸や東シナ海沿岸の港で細々と行われるのみ。そもそも博多港以外の貿易は密貿易も同然で、博多港を頼らぬ海外交易となると奥州藤原氏を唯一の例外とするしかないほどであった。

 これを解禁しようとした。それも、京都と目と鼻の先で解禁させようとしたのだ。

 現在はイタリア半島とバルカン半島とに囲まれた海域をアドリア海と呼ぶ。しかし、中世ヨーロッパでは同じ海域をヴェネツィア湾と呼んでいた。アドリア海の一番奥にあるヴェネツィア共和国の支配する海であったからである。ヴェネツィア共和国はアドリア海の沿岸全てを制覇したわけではなく、拠点となる港に基地を構えることで海を支配していた。ヴェネツィア共和国の支配する基地に入港すれば船荷の積み降ろしや食糧などの補給、船の修理、次の基地までの海流や天候、さらには航海先の政情といった情報も伝わる。ヴェネツィア共和国やアドリア海沿岸諸国を目指して東地中海を航行してきた船は、アドリア海に入りさえすればヴェネツィア共和国の保護を受けた上での安全な航行ができたのである。

 塩野七生氏はヴェネツィア共和国の成立から滅亡までを描いた著書「海の都の物語」にてヴェネツィア共和国は海の上に高速道路を整備したのだと書き記しているが、平清盛が目指したのはこれだった。博多湾まで航行してきた船に瀬戸内海を航行してもらうことで、博多港ではなく大阪湾岸に停泊してもらい、京都と目と鼻の先で貿易してもらうのが最終目的である。そのためには、瀬戸内海が安全に航行できなければならない。瀬戸内海の安全な航行ためには、瀬戸内海沿岸の各地に基地を配備し、寄港できる設備を整え、海賊が出没しない安全さを用意しなければならない。

 その下準備が、太政大臣平清盛と太宰大弐平頼盛の兄弟が京都に帰還したことで完成したのである。

 太宰大弐平頼盛が京都に戻ったのは仁安二(一一六七)年四月。出発から九ヶ月間に渡っての現地調査に、太政大臣平清盛自身の確認も加えた結果が示された。

 仁安二(一一六七)年五月一〇日、権大納言平重盛に対し山賊海賊追討宣旨が下ったのである。平重盛が平清盛の後継者であることは既に明言されていたが、平家の推し進める瀬戸内海貿易整備計画を推し進める役割も平重盛が担うことがここで明瞭化されたのである。ただし、平重盛に命じられたのは瀬戸内海沿岸だけではなかった。平重盛が命じられたのは、現在の兵庫県南部から中国地方南部にあたる地域である山陽道と、四国及び現在の和歌山県にあたる地域である南海道だけではなかった。東海道と東山道についても平重盛に管轄として命じられたのである。現在で言うと、瀬戸内海沿岸に加えて、東北地方六県、関東地方一都六県、山梨県、長野県、静岡県、愛知県、岐阜県、滋賀県、三重県も合わせて管轄しろというのであるからかなり無茶な話である。


 もっとも、平重盛に対し、瀬戸内海沿岸だけでなく、東海道と東山道の山賊と海賊についても取り締まるよう命じたのは、名目だけとは言い切れない。

 この時代の行政区分に東北地方や関東地方という行政区分はない。現在の都道府県に相当する行政区分として国があり、複数の国をまとめる行政区分として道が存在する。しかし、東北地方や関東地方という概念ならある。そして、山賊や海賊の追討に限らず、複数の国をまたがる行政や軍事が必要な職務に対しては道単位を管轄とする指令が出る。現在の東北地方を構成するのは、現在の青森県、岩手県、宮城県、福島県の四県に相当する陸奥国と、現在の秋田県と山形県の二県に相当する出羽国の二ヶ国であり、二ヶ国とも東山道に属している。また、現在の関東地方を構成するのは、現在の茨城県に相当する常陸国、現在の栃木県に相当する下野国、現在の群馬県に相当する上野国、現在の千葉県に相当する下総国、上総国、安房国の三ヶ国、現在の東京都と埼玉県、および、神奈川県川崎市と横浜市に相当する武蔵国、そして、川崎市と横浜市を除く神奈川県に相当する相模国の計八ヶ国であり、下野国と上野国は東山道に、残る六ヶ国は東海道に属している。

 東北地方と関東地方に対する指揮権を発動させるためには、北陸地方を除く中部地方と、滋賀県と三重県も対象範囲に含まれることを受け入れた上で、東海道と東山道を管轄とする命令を下さねばならないのが令制国という制度である。

 平重盛に対する山賊海賊追討宣旨は瀬戸内海沿岸だけでなく東北地方と関東地方も対象としていた。そこには何があるのか?

 あった。

 東北地方には奥州藤原氏が君臨しており、関東地方には清和源氏の残党がいるのだ。

 奥州藤原氏は東北地方の一大勢力であり、その財力と軍事力は無視できぬものであった。特に、平家がまさに望んでいる海外交易は奥州藤原氏に莫大な資産をもたらし、その本拠地である平泉は平安京に次ぐ日本で第二の都市へと成長していたのは無視できない話であった。また、この時代に限らず一九世紀にいたるまで軍事において馬は大きな役割を担っていたが、この時代の最高の馬は奥州産の馬であった。スタミナも、スピードも、パワーも、奥州産の馬が群を抜いており、奥州の馬をいかに手に入れるかが貴族や武士のステータスになっていた。

 奥州藤原氏三代目当主の藤原秀衡は、京都にその名を知られてはいるものの、その素性はほぼ知られてはいなかった。京都に届いていたのは、藤原秀衡が一七万人の軍勢を抱えた軍事集団のトップであることとぐらいである。

 それでも藤原秀衡はまだ話の通用する相手であった。京都の人に素性が知られてはいなくとも京都に住む貴族や武士と商取引をしている。それもかなり信頼の置ける商売相手である。

 問題は関東地方の清和源氏の残党だ。いや、清和源氏の残党がいるのは関東地方だけではない。現在の長野県に相当する信濃国にも、現在の山梨県に相当する甲斐国にも清和源氏の残党は存在しているのである。

 仁安二(一一六七)年時点の清和源氏の残党の状況をまとめると、以下の通りとなる。

 源義朝と、源義朝の長男義平、そして次男朝長の三人は平治の乱で命を落としている。また、四男義門についての記録は乏しく、早世したとする説と、源義朝の逃避行に同行する前に亡くなったとする説と、同行中に亡くなったとする説とがある。確実に言えるのは仁安二(一一六七)年時点ではもうこの世の人でなくなっていたということである。

 三男の源頼朝は伊豆国に流罪になっており、平家の監視下に置かれていたと推測されるものの、この頃の源頼朝に関する具体的な記録は無い。平家の監視下に置かれていたと推測されるものの具体的な記録が無いのは源頼朝と同じ裁判で流罪となり土佐国へ配流となった五男希義と、後に後白河法皇の近臣となる藤原範季を養父として駿河国で過ごしていた 六男範頼についても言える。


 逆に記録が残っているのは七男今若、八男乙若、九男牛若の三人の男児で、この三人の男児は流罪とはならずにいたが成人を迎える前に出家することを前提として母のもとで暮らし、年齢を重ねると同時に別れのときが近づき、仁安二(一一六七)年時点では七男今若と八男乙若の二人が既に出家を済ませ、九男牛若のみが出家せずに母の元にいた。

 源義朝の子の九人の子のうち三人が亡くなり、三人が配流先で監視下に置かれ、三人が出家もしくは出家待ちである。この段階ではまだ平家のコントロール下にあったと言えよう。

 厄介なのが、信濃国と甲斐国である。のちに木曽義仲と呼ばれることとなる源義仲は既に信濃国で武士としての訓練を積み、小規模ではあるが武士集団を結集させていた。より大きな武士集団を結集させていたのが甲斐国の武田信義こと源信義で、甲斐国において国司と距離を置いた独自の権力を作り上げるのに成功していた。ただし、そのどちらも厄介ではあっても平家の驚異となる規模には至っていなかった。

 こうした東国における清和源氏の動きを平家は掴んでいた。ただ、不充分であった。情報は届いているのだが平清盛の頭の中では重要と扱われていなかったのだ。後述することになるが、源頼朝はかなり早い段階で平家に対抗する意欲を示している。その情報も送られてはいる。それなのに情報は平清盛のもとに届かないでいた。正確に言えば届いてはいるのだが、平清盛に届けられるその他の情報の中に紛れ込んでしまっていた。たしかに、不穏な動きはあるが平家に立ち向かう存在にはまだ発展しておらず、何かあったとしたら平重盛を派遣すれば解決するであろうという認識である。この時点で一三年後の源氏の総蜂起を想定できたとすればそのほうがおかしいとも言えようが、後世から判断すればかなり甘い見通しだとも言えた。

 清和源氏の残党が関東地方に残存している一方、京都にも清和源氏はいた。

 平治の乱で最後に平清盛のもとに下った源頼政である。

 源頼政は京都に残る清和源氏を束ね、かつての栄光とはほど遠いものの、一応の武力集団を結集させていた。とはいうものの、源頼政率いる軍勢は平家の軍勢の一部に組み込まれ、まれに後白河上皇のもとで独自の軍事行動をすることがあってもその規模はかつての清和源氏とはほど遠い小規模なものとなっていた。


 仁安二(一一六七)年五月一七日、誰もが想定していなかったことが発表になった。平清盛が太政大臣を辞任したのである。

 とは言うものの、ことが起こってから考えれば平清盛が太政大臣を辞したのも理解可能な話であった。

 太政大臣をさほど長く務めるというのは多くはなく、これまでの太政大臣を眺めると数ヶ月で辞任するのは通例である。平清盛も通例に従っただけなのだ。

 おまけに、既に太政大臣は名誉職となっており、国事行為において太政大臣の登場が求められるのは天皇の元服のときというのが日常の光景となっていた。太政大臣に与えられている議政官の議決に対する拒否権も行使されることはなく、議政官での議決に目を通すことはあっても口を開くことすらないというのが現実の太政大臣なのである。しかも、一度辞めた太政大臣に再び就任した事例は藤原忠通という例が存在するから、太政大臣を辞したところで天皇の元服を迎えるまでは太政大臣が空席であろうと困ることは無い。

 先に述べたように参議から左大臣に至るまでのキャリアは時間と行動の制約を受けるが、太政大臣になるとその双方ともに自由を得るが、だが完全な自由ではない。だが、太政大臣を辞したならば完全に自由だ。どこに行こうと、何をしようと、それが犯罪でないかぎり全て許される。

 さらに言えば、前太政大臣というのは、権力はなくとも権威ならある肩書きだ。平清盛が何を言おうと理論上は太政大臣であった過去の人の意見であり、現職の議政官達には従う義務など無い。しかし、誰が平清盛の意見を無視できようか。太政大臣を辞したとは言え、政界を引退したわけでも、ましてや平家のトップの座の地位を降りたわけでもない。平家のトップとして誰にどのような官職を推挙するかは平清盛の一存で決まるし、平清盛の意向と異なる推挙を藤原氏がしたとしたら、折れるべきは藤原氏のほうなのが現状だ。平家の軍勢に対する指揮権は平清盛のもとに集中し、他の誰かが、それが仮に平重盛であろうと、平家の軍勢を動かす必要が出てきたら平清盛の許可を得た上で平清盛から軍勢を借りなければならない。

 このような社会が完成しているのに、これで平清盛に逆らえる人がいたら見てみたい。


 平清盛は太政大臣の地位を降りたが、平家のトップの地位を降りたわけではない。

 平清盛は、祖父の平正盛、父の平忠盛の後を受けて平家のトップの地位に就いている。平清盛以外の平家の面々も、そのほとんどが伊勢平氏の頃からの継続だ。平家内部の組織においても、既存の伊勢平氏の内部組織をそのまま昇華させることで貴族集団としての平家の内部組織とさせている。

 ただし、一つだけ、伊勢平氏の頃には存在しなかった部門を、平清盛は平家の内部組織に加えている。

 政所(まんどころ)だ。

 政所というと鎌倉幕府の組織図の一部を思い浮かべるかもしれないが、本来は、親王、もしくは従三位以上の位階を持つ貴族の資産と荘園を管理するための組織であり、伊勢平氏が平家へと成長して平清盛が議政官に姿を見せるようになったことで、平家の中にも政所が登場するようになった。そして、組織の構築と人選を平清盛が直接実行した。政所は本来、個人資産の管理ではなく氏族資産の管理のための組織であるが、平清盛が直接スカウトしたために平清盛個人の持つ資産と荘園を管理する組織になってしまっており、平清盛が平家のトップから降りることそのものが断じて許されなくなっている理由だ。

 他に前例が無いから当然と言えるが、平家の政所は藤原摂関家の政所を参考にして構築されている。資産の管理も、荘園の管理も、伊勢平氏であった頃は平氏の内部でどうにかできてはいたのだが、伊勢平氏が平家になった瞬間にこれまででは駄目になった。現在のベンチャー企業も、スタートアップ当初は問題なかったが、企業規模が大きくなるにつれてこれまでの組織では企業の大きさに対応できなくなり、上場企業になると同時に上場企業に相応しい組織体になることが求められる。たとえば、スタートアップの頃は他の職務をつとめながら経理や法務を担当するという組織体であったのが、大きくなるにつれて兼業ではこなせなくなり、経理のプロや法務のプロを企業内に抱えなければ企業運営ができなくなるのでそれまでと異なる組織体を内部に構築しなければならないが、平家の政所設置はそれと同じである。

 長寛二(一一六四)年の文書に平家の政所で働く人たち、いわゆる家司の名が記されているが、平家の政所における家司の名としては、藤原や源を姓とする者の他、大中臣や大江など平安時代でもごく希に登場する姓の者、そして、中原や高橋など古代豪族に起源を持つものの貴族としてはほとんど名が残されていない者の名が見える。議政官だけを見れば藤原氏と源氏しかいない光景が当たり前であったが、そうでない場所、たとえば藤原氏の政所の家司や、政所だけでなく朝廷の省庁では、藤原氏でも源氏でもない人が数多くいるのは当たり前に見られた光景である。しかし、これが藤原氏と大きな違いなのであるが、藤原氏は藤原氏の政所で働く家司の人材も自前で用意できていて、家司を採用するのに藤原氏以外で優秀な者がいれば雇うことがあったというレベルであったのに対し、平家の政所で働く者の中には平家の者が一人もいない。

 平家の難点である人材不足については何度も書いてきたが、武家集団としての伊勢平氏から貴族集団としての平家と成長することはできても、貴族集団たるに必要な人材を用意できなかったのが平家の難点であり、平清盛は仕方なしに平家の外から人材を求め、平家の政所に集った面々は結果を出した。プロとしての誇りにかけて結果を出したというのもあるし、他より待遇が良かったというのもある。しかし、もっとも大きな理由は、平家の政所で働く家司となると朝廷の官職にありつける可能性が高かったことなのだ。

 朝廷官職のほとんどを藤原氏が占め、ほんの少しだけ村上源氏をはじめとする源氏が入り込んでいるという情勢では、藤原氏でも源氏でもない生まれの者や、藤原氏や源氏に生まれたが傍流扱いされる家系に生まれた者にチャンスはない。あるとすれば家司として働くことで中央政界の有力者とのコネを作り、中央政界の有力者の働きかけで家司から朝廷の官職へとステップアップすることだ。平清盛が政所の人材を集めるのに成功したのは、彼らに朝廷官職へのルートを用意したからである。

 平家の政所は平家の資産と平家の荘園を管理するのが職務である。それだけならば他の貴族と同じだが、平家は貴族集団であると同時に武士でもあるため、荘園問題が貴族や寺社以上に複雑になるという課題を抱えている。平家の政所の家司というのは他の貴族の家司よりも激務であることを要求される。その代わり、報酬が高く、中央政界へ進むチャンスも広く用意されている。

 平清盛が平家のトップから降りると政所の家司と朝廷との接点が切れてしまう。平重盛がいるではないか、あるいは平時忠がいるではないかと思うかもしれないが、平重盛は権大納言、平時忠は参議、どちらも朝廷名の要職ではあるが、他者の意見を差し置いて自分の求める人事を実現させられるだけの権限を持った官職ではない。前太政大臣の権威を持った平清盛が平家のトップに君臨していないと平家の政所は崩壊してしまうのだ。


 平家が武士でもあるために、平家の政所の家司が他の貴族の家司よりも激務になるとはどういうことか?

 貴族にとって荘園とは収入源であるが、武士にとっての荘園とは生活の基礎なのだ。たしかに現時点の平家の面々は六波羅に居住し朝廷に勤務している。だが、本来の武士は荘園に住まいを構え、荘園で武士団を形成し、荘園を守り、荘園の拡大を図るのが人生である。そして、この時代の武士に長男が全てを相続するという規定はなく、平清盛が平忠盛の全てを相続したのはむしろ例外であったのだ。平清盛は全てを平重盛に相続させるつもりであったが、平家はあまりにも巨大になりすぎてしまった。

 平家の巨大さを指し示す指標に、平家が権利として保持していた知行国がある。仁安二(一一六七)年時点の平家の知行国として確認できるのは、若狭、越前、能登の三ヶ国と、平家ではなく平徳子個人の知行国である尾張国の計四ヶ国だけと意外と少ないが、平家の知行国ではないものの平家が強い影響力を行使できる国となると、越後、越中、常陸、武蔵、駿河、遠江、三河、大和、摂津、丹波、播磨、淡路、安芸、そして九州一一ヶ国にまたがる。こうした国々からの租税と国司としての報酬がそのまま平家の資産となるだけでなく、現地に派遣された平家の国司は各地で武士としての自己の勢力を築くことが可能であったのだ。

 平家というのは良かれ悪しかれ一枚岩の組織である。だが、各地で勢力を築くということは、その土地で平清盛の目の届かない独自の勢力が誕生してしまうことを意味する。藤原氏のように内部で様々な流れが存在することが今後の平家で起こったとき、武士でもある平家の内部対立は、政治的対立ではなく武力抗争になることを意味する。

 それを食い止めるために、平家として保有する知行国、そして、平家の知行国ではないものの平家が強い影響力を及ぼすことのできる地域に対する扱いを、平家の政所が担当しなければならなかった。

 要は、国司に任命された平家の人間が、現地に赴いて、年月とともに平清盛のコントロールの効かない独自の勢力を築き上げそうとなったならば、政所からの指示のもと新たな国司の任官が行われ、従来の国司は京都に連れ戻され、別の人をその土地の国司に任命することで平家からの独立を阻止するというのが平家の政所に課せられた使命でもあったのだ。こうなると、平重盛が平清盛に匹敵する権威を獲得するまで、政所の背後に平清盛が君臨していなければならないのである。


 平家が政所を設置したことで、それまで平家の資産と荘園を管理していた人がどうなったのかを疑問に思うかもしれないが、その心配は無用であった。

 政所は基本的に事務作業であるが、事務作業だけで資産の管理と荘園の管理はできない。それに、外からやってきた人たちがいきなり自分たちにあれこれ指図するというのを快く受け入れる人も少ない。大所帯になったので自分にはできない仕事や苦手とする仕事をこなしてくれる人が来てくれるのはありがたいと思うし仕方ないとも思うが、平清盛の威光を背にしてあれこれ指図しているようにも感じ取れるのである。

 ところが、ここでワンクッション入ると話が変わる。

 平忠盛の頃から平家の資産と荘園の管理をしていた平家貞が平家の面々と政所との間に入って調整役を果たし、平家貞のもとでこれまで資産と荘園の管理をしていた者はそのまま事務作業以外の管理業務へと職務をシフトしていたのだ。

 特に平家貞の存在が大きかった。

 何しろ平忠盛の時代から平家に仕えてきた身であり、平治の乱勃発時に見せた機転で平家の命運を左右することとなったのも、平家貞が既に、平清盛ですら無視できることの許されない重鎮であったからである。平清盛ですら無視を許されないほどなのだから。平家に仕える多くの者にとっては頭の上がらぬ人である。その人が政所との間に立っているのだから平家の誰も逆らうことが許されないという構図が成立していた。

 その構図に危機が生じたのが仁安二(一一六七)年五月二八日のことである。平家貞が亡くなったのだ。享年八六。八六歳の高齢者をそこまで働かせてきたのかというのもムチャクチャな話に感じるが、平忠盛の頃から仕えてきた八六歳の高齢者がワンクッションの役割を務めていたからこそ何の問題も起こらずにここまで来たのだとも言える。無理を承知でワンクッションを務めさせてきた八六歳の死は平家の面々に悲しみをもたらすと同時に危機感ももたらした。平家貞亡き後、平家の内部に対立を招くことになるのではないか、伊勢平氏の頃からの平家と政所の家司との対立が激化するのではないかという危惧は深いものがあった。

 しかし、死してもなお平家貞は平家にとって欠かせぬ人物であり続けた。自らの職掌の後継者として、保元の乱と平治の乱で平家の軍勢の一員として功績を残し、平家の中でも人望の高い平盛国を指名していたのである。平盛国も平家貞が平家にとってどのような人物であったかを深く知る人物の一人である。そして、平家貞の役割を誰かが引き受けなければならないというならば自分が引き受けようという気概を持った人物であった。平家貞が直接指名したのに加え、平盛国自身の実績も平家の多くの者が認めざるを得ないものがあったのだ。

 結果、平家の政所はその職務の重さと対立の招きやすさとは真逆の、平穏無事な組織であり続けることに成功するのである。

 平清盛がいる限りにおいては、という条件が付くが。


 平清盛が太政大臣を降りたことで、名目上は藤原摂関政治による政務が、実際には後白河上皇の院政が成り立つこととなった。

 もっとも、仁安二(一一六七)年時点の後白河院政は過去二例の院政と違いがある。白河法皇も鳥羽法皇も院司を議政官に送り込むことで議政官そのものを自らの意に沿うように操縦したのに対し、後白河上皇はたしかに院司を議政官に送り込むことに成功したものの、議政官を操縦するまでには至っていない。藤原氏でも院司でもない第三の勢力が存在するのだ。

 平家という第三の勢力が。

 もとからして後白河上皇の院司は白河法皇や鳥羽法皇と比べて人材不足である。平家も人材不足であるが、後白河上皇の院司もまた人材不足である。そのため、平家を採用することで藤原氏との対立軸を生み出すことを意図するようにもなっていた。

 ただし、後白河上皇は一癖も二癖もある人物である。

 仁安二(一一六七)年閏七月一〇日、平清盛の末弟でこのとき二四歳の平忠度が昇殿した。それからおよそ二〇日後の八月一日、平清盛の三男である二一歳の平宗盛が参議に補任され右近衛中将を兼任することとなった。

 これの何が問題か?

 平忠度はいい。昇殿なだけだ。

 問題は平宗盛の参議就任である。これは、後白河上皇が平家の三番手を平宗盛とすると指名したに等しいのだ。平清盛は、自分の後継者を平重盛とすることは早々に発表しており実際に権力を少しずつ平重盛に渡してきていたが、平重盛に次ぐ地位の人物も用意していた。平清盛の弟である平頼盛だ。瀬戸内海航路の整備のために太宰大弐に任命し実際に太宰府に赴かせたこと、その功績もあって正三位の位階を得たことなど、平頼盛が平家の序列の三番目であることは周知の事実であったのだが、これを後白河上皇は否定し、平宗盛を、平宗盛より位階の高い叔父を追い抜かせて参議にさせたのである。その上、平宗盛を平滋子の猶子とすることで、名目上ではあるが平宗盛を後白河上皇の子という扱いにしたのである。

 さらに平家内部に沸き上がるであろう不満を鎮静化させるためか、八月一〇日に平清盛に対して播磨、肥前、肥後などの地が大功田として与えられた。大功田は日本史上三度目の栄誉、しかも、二度目に栄誉を受けた恵美押勝は国家反逆罪に問われたために没収されたから、平清盛は事実上、史上二度目の栄誉を受けたのである。

 律令制では田地の世襲を認めていないが、国家に多大な功績があったと評価されれば例外的に世襲の田地が与えられる。これを功田と言う。功績の大きさにより、大功、上功、中功、下功の四等に区分され、下功は子供まで、中功は孫まで、上功は曽孫まで、そして大功は永久に相続でき、かつ、国家反逆罪として処罰されない限り没収されないとも規定されていた。荘園は律令の規定の例外を積み重ねて作り上げた、一つ一つは違法ではないものの積み上げてみれば律令の精神に反する存在であるのに対し、功田は律令の定めた堂々たる私有地であり、土地の相続を認めていない律令にあっても土地の相続を許された土地である。大功田は永世相続権を伴うから特例中の特例だ。仁安二(一一六七)年時点で大功と判断され大功田という特例中の特例の栄誉を受けたのは、前述のように二人しかおらず平清盛は三人目である。二人目は恵美押勝であることは既に記した。一人目は誰か?

 藤原鎌足である。

 荘園が当たり前の存在となった時代では、大功田がいかに栄誉あるものであってもその実利は乏しいとするしかない。しかし、平清盛に藤原鎌足が受けたのと同じ栄誉を与えるというのは、平家に対して藤原氏と同じ栄誉を与えたとするのに等しく、これから藤原氏に並ぶ、さらには藤原氏に取って代わる平家の時代が始まるのだと宣言するのに等しい。

 平清盛に対して藤原鎌足と匹敵する栄誉を与えたことは、平家内部に湧き上がる不満を利用して後白河上皇への支持を促す効果を発揮した。


 平頼盛は、平家の中で平重盛に次ぐ存在であると自他ともに認めていた。だからこそ、後白河上皇は平頼盛を冷遇した。平家の軍勢を指揮するとき、平清盛が指揮を執れないときは平重盛が指揮をする。軍勢をいくつかに分けるときは、平清盛が本隊を、分割した部隊のうちの一隊を平重盛が指揮をする。それが三分割以上であれば、平清盛でも平重盛でもない部隊の指揮は平頼盛が指揮をする。

 平重盛が常に父の側にあって父から平家の資産と権力を継承してきたのに対し、平頼盛は平清盛から独自に指揮権を受け取り、かなりの自由裁量で行動している。太宰大弐として太宰府に赴任したのはその例の一つに挙げられる。

 それが、ここに来て平宗盛の登場である。

 平頼盛にしてみれば、兄の長男である平重盛が自分より優遇されることは納得できていた。平正盛、平忠盛、平清盛と親から子への相続が続いてきたのであるから、伊勢平氏が平家となっても平清盛の子に平氏のトップの座が受け継がれるのは当たり前のこと、その上で、自分は五歳下の甥である平重盛を支える右腕になる未来を当然のこととして受け入れていた。年功序列ではなく実力で判断するにしても、平重盛の積み上げてきた実績は文句無しであった。平家を統率するのでも、軍勢を指揮するのでも、貴族としての役職を果たすのも、全てにおいて群を抜いていたのが平重盛である。

 一方、平宗盛にそのような実績は無い。そもそも軍勢を指揮する機会が無かったのだから軍勢指揮権については未知数であるのはやむを得ないとして、平家を統率するという視点に立つと、平重盛と違って頼りないところがある。二一歳という若さであることを差し引いても一つの集団のトップたるに相応しい要素を感じ取ることはできなかったのだ。

 それでも平宗盛には平重盛にない優位点が二点あった。一つは、平清盛の正妻の子であるという点。平重盛の母は高階基章の娘であり、平清盛の長男ではあっても母方の親族の支援を期待できないという宿命を背負っていたのに対し、平宗盛は平清盛の正室である平時子を母としている。血筋に徹底的にこだわる人であれば平重盛ではなく平宗盛のほうが平家のトップに相応しいと考えてもおかしくなかった。

 そしてもう一つ、このもう一点のほうが大きな点であったのだが、平宗盛は武士ではなく貴族としての教育を受けてきたのである。平家の人材不足は以前から問題であったが、平家がそれを黙って受け入れているわけはなかった。平家の必要な人材がいないなら平家で育て上げれば良い。そのために選ばれた人材が平宗盛であった。

 平宗盛の貴族としての素養がしめされたのが仁安二(一一六七)年九月二一日のことである。この日から後白河上皇と女御の平滋子が熊野参詣へ出発し、その警護として平家の面々も供奉したのだが、そして、権大納言平重盛と武蔵守平知盛は貴族である武士でもあるという形での供奉であったのだが、平宗盛は貴族としての供奉であったのだ。

 平家物語での平宗盛の描かれかたは惨たるものがある。後世から眺めれば、平宗盛をそのような人物として捉えることで平家が一八年後に迎えることとなる運命を説明できてしまう。しかし、当然ながら、仁安二(一一六七)年時点で平家の一八年後など見通せた人などいない。その上で仁安二(一一六七)年時点という条件で平宗盛を評価すると、この二一歳の若者を、一族の未来を担う貴族として評価することはあながち間違いではない。何と言っても、貴族としての教育を受け、貴族としてのキャリアの入り口になっていたのである。武士としての素養は乏しいことは、今後迎えるであろう平家の時代を考えたならば特にマイナス評価では無かった。

 平頼盛より上と捉えるべきか否かについては別であるが。


 平家の勢力伸長と、後白河上皇が平家を利用していることを、藤原氏はどう思っていたのか。

 時流を逃していることは理解していたが、時流を掴み直す手段ならばもう考え出し、もう動き出していた。藤原氏は積み上げてきた実績が他の貴族よりも群を抜いている。

 まず、平清盛がいかに藤原鎌足と並ぶ栄誉を手に入れたと言っても、また、平宗盛を貴族の一員となるよう教育したとしても、平家の人材不足は一朝一夕に解決できるものではない。実際、平家の政所すら人手を用意できず他の貴族から人員を集めている。その中には藤原氏もいる。

 議政官の面々を見ても、平清盛が辞した以上、権大納言平重盛を除けばあとは参議しかいない。能力はあるが放言癖のある平時忠と、貴族としての教育を受けてはいるものの経験実績ともに乏しい平宗盛の二人である。現在の国会で言うと少数野党とするしかなく、意見を述べる機会は与えられているが、その意見で会議の空気を変えるならともかく、数の力で議政官を支配することはない。その上、平重盛は無視できぬ存在であるが、平重盛は平清盛よりも藤原氏に対する敵対心は薄く、政務においては藤原氏と協調路線をとっている。つまり、平清盛が議政官にいない現在、藤原氏はこれまで通りの政務を遂行できる可能性は高いと考えたのである。

 松殿基房が摂政専任となったために議政官から離れたので、議政官は左大臣藤原経宗、右大臣九条兼実、内大臣藤原忠雅の三人が主導する体制となっている。一見すると四九歳の左大臣と四四歳の内大臣の中に埋もれている弱冠二十歳の右大臣なのだから、右大臣は飾りと感じるであろう。ところが、この二〇歳の右大臣はただ者ではなかった。

 まず、藤原摂関家のトップたる藤氏長者を兄の松殿基房が受け継いでいるのは一時的にやむを得ぬことであると考え、近衛基実の遺族に藤氏長者の地位が渡るように画策したのである。と書くと、兄を思う弟の優しさのように感じるが、実際にはそう甘くはない。

 摂政松殿基房の権威を空洞化させようというのだ。摂政となり関白となることで正解を牛耳ってきた藤原摂関家が摂政の地位を空洞化させようというのだから、それまでの藤原摂関家のスタイルを一八〇度転換する考えであると言えよう。

 仁安二(一一六七)年一一月一〇日、近衛基実の妻で平清盛の娘でもある平盛子が白河押小路殿に移った。以後、彼女は白河殿と呼ばれることとなる。これだけであれば特にどうということのない出来事であったろうが、その八日後に従三位の叙位と准三后の宣旨が彼女に下されるとなると普通の出来事ではなくなる。何しろ彼女はまだ一二歳なのだ。その上で彼女は、近衛基実の子である近衛基通を自らの養子として後見すると表明した。これにより、近衛家は平家の後ろ盾がある状態で藤氏長者の地位を待つこととなったのである。松殿基房が仮に藤氏長者の地位を独占し自分の子に継承させようとしたらここで平盛子と平家が立ちはだかることとなる。

 九条兼実の平家利用はこれだけではない。これまでの院政は、上皇や法皇の「強い要望」が議政官に届くことで上皇や法皇の意見が法となっていたが、九条兼実は院政への対策として、後白河上皇だけでなく前太政大臣平清盛にも情報を届け、また、意見も求めるようにしたのである。しかも、藤原忠実や藤原忠通の前例をそのまま踏襲するという前提で意見を求めたのだ。これまでと同じことを前太政大臣平清盛にも適用するだけであるから誰も何も文句を言えない。後白河上皇は平清盛が、平清盛は後白河上皇が意見を議政官に届けることを知っているので、互いが互いを牽制しあうようになる。平清盛が後白河上皇と同じ意見を持って議政官に圧力を掛けたならば恐るべき存在となるが、そのときは摂政松殿基房か左大臣藤原経宗を矢面に立たせればいい。これが右大臣であることのメリットである。


 年が明けた仁安三(一一六八)年一月、後白河上皇は前年に続き熊野詣に出向いた。このときも平家の貴族達が、貴族として、あるいは武士として帯同している。

 しかし、このときの熊野詣の裏では予期せぬ事態が起こっていたのだ。

 前太政大臣平清盛倒れる。

 予兆はあった。と言っても、平清盛ではなく平重盛であるが、平重盛が前年一二月の東宮御書始(ごしょはじめ)、すなわち、皇太子がはじめて学問を始めるときの儀式に、東宮大夫でありながら体調不良を理由に平重盛が休んでいるのである。さらに、一二月一八日には法勝寺で開催される大乗会の上卿に任命されていながら直前になって交替している。普通に考えればあまりにも平重盛に業務を集中させ過ぎたために起こった過労であろうし、当時の人もそう考えたが、過労についての医学的知識について、この時代に限らず二〇世紀以前の人に、二一世紀の常識と同レベルの知識水準を求めてはならない。平安時代も、平成初期も、少し休めば治るだろうぐらいの感覚しか無かったのだ。それが後に平重盛の、そして平家の破滅を招くのだが、仁安二(一一六七)年時点ではまだそのことに気づいていない。それに、年が明けた頃には平重盛の体調も回復していた。ただし、後白河上皇の熊野詣には帯同していない。熊野詣は転地療養の側面もあるので必ずしも五体満足の健康体でなければ参加できないというものではないが、さすがに病み上がりで参加できるものではない。

 年末は息子が倒れたことを心配した平清盛であるが、年が明けると平清盛のほうが体調不良を訴えるようになった。伝染病のメカニズムは知らなくても、病に伏した人の近くに住む人が同じような病気に罹るという知識はこの時代にもある。そして、親子揃っての体調不良となれば何かあると考える。平安時代はこのようなときに呪いとか怨霊のせいとかにしていたが、このときの平家はそのような考えを見せてはいない。純粋に、この時代としては最高水準の治療にあたっている。

 しかし、平清盛の体調は良くならなかったばかりか、二月に入ると命の危険すら囁かれるようになった。

 平清盛という人は、加持祈祷を全く否定しないという点では平安時代の人ではあるのだが、医学や薬学の重要性を認識し、日宋貿易によってこの時代では最高水準である南宋の医薬品を率先して輸入してきたという点では画期的な人である。これまでも日本は国内で生産できない医薬品を中国大陸から輸入しており、遣唐使の時代から日本の輸入品の最上位に位置していたのが医薬品だ。平清盛はその流れを加速させたため、日本国内に流通する輸入医薬品は質量ともに向上していた。

 この医薬品が平清盛の治療にも使われるようになっていた。

 最初の記録は二月九日、慌てて六波羅に詰めかけた蔵人頭平信範の記録である。彼はこのように記す。六波羅に向かい前太政大臣平清盛に拝謁したところ、今朝からずっと身動きがとれぬ状態が続いており平重盛をはじめとする平家の主立った面々が集っていた。平清盛は数日前から「寸白(すびゃく)」に悩まされ、一昨日は一時的に体調が回復したが機能から再び隊長が悪化し現在に至っている、と。寸白というのは本来であればサナダムシなどの寄生虫から来る病気のことであるが、平安時代末期になると身体が腫れるような痛みを伴う病気の総称になった。寄生虫ということにすれば、それまで健康であった人が理解できる理由で突然倒れることの合理的な説明にもなるため、本来であれば寄生虫由来ではない病気であっても寸白と扱うことは多かった。

 仁安三(一一六八)年二月一〇日、平清盛の体調はいったん回復したが、夕方になると再び体調が悪化し、各地から祈祷師が呼ばれ、最悪のときを迎える覚悟をせざるを得なくなった。南宋から輸入した医薬品が惜しげ無く使われると同時に、考えうる最高レベルの加持祈祷も繰り返されたが、症状の回復が見られなかった。このときの様子を九条兼実は「前太政大臣平清盛の生命がこの国の運命にかかっている。この人の命が尽きたらこの国は滅亡への道を進むであろう」と日記に書き記している。

 仁安三(一一六八)年二月一〇日夜から翌一一日にかけて、平清盛は出家した。正妻である平時子も夫とともに出家した。平時子は従二位の位階を得ていたことから、この後、二位尼と称されることとなる。


 このときの出家は、天台座主である明雲(みょううん)が戒師となるという、この時代の出家において考えうる最高ランクの出家の儀式である。天台座主明雲は比叡山延暦寺出身の天台座主であり、平清盛と延暦寺はかつて祇園闘乱事件で争った関係であるが、その後の両者の関係は良好なものがあり、延暦寺出身の天台座主が平清盛の出家において戒師となることは誰もが疑念に感じなかったほどである。それどころか、とりあえず延暦寺がこの機会に暴れるようなことはないだろうという安心感をも生み出した。

 ただ、安心感は延暦寺についてだけであった。平清盛が出家して僧体となったことは平安京の内外に既に広まっていた。そして、平清盛亡き後のこの国がどうなるのかと誰もが噂し合った。噂の中に、平清盛亡き後のこの国を楽観視するものなど何一つなかった。

 その悲観論に追い打ちを掛けたのが、二月一三日に発生した大火である。およそ三〇〇〇戸もの民家が火災に遭い、千手堂、悲田院、京極寺といった建物が灰燼に帰したのである。どんなに政治に興味の無い人でも、どんなに平清盛を悪し様に言い、平清盛が死んだら将来の希望が生まれたと言って喜ぶような人であっても、これだけの被害を招いた火災を目の当たりにして将来の希望を抱くなどできない。九条兼実が日記に書き記した将来への不安は、九条兼実ただ一人ではなく、この時代の全ての人に共通する思いであった。その不安を払拭するのはただ一つ、未だ目覚めぬ平清盛の回復しかないのだ。

 平清盛が病に伏し、出家したことの知らせは熊野詣から戻る途中の後白河上皇のもとにも届き、後白河上皇は予定を早め二月一五日に帰京した。通常ならば自邸に戻るところではあるが、このときはそのまま六波羅邸に御幸した。これはあまりにも異例のことであった。

 後白河上皇は六波羅邸への御幸の途中に平時忠を通じて蔵人頭平信範に対し、摂政松殿基房のもとに向かわせた。大赦の命令である。慶事や凶事に際し恩赦をすることはこの時代よくあることであったが、臣下の一人が体調不良のため出家したことを理由とする恩赦というのは先例がない。だが、後白河上皇は平清盛がこの国の平和のために大きな功績を残したことを掲げ、平清盛の病気平癒を願って大赦をさせたのである。

 摂政松殿基房が六条天皇の名で大赦の布告をまとめたことを六波羅に伝えた頃、六波羅では前代未聞の異常事態が起こっていた。六波羅に御幸していた後白河上皇が、六条天皇の退位と、皇太子憲仁親王の即位を決断したのである。元からして六条天皇を戴く体制は無理があった。その無理も六条天皇が成長し元服を迎えれば無理ではなくなるが、そのための時間はもはや残されていなかった。

 五歳の六条天皇から八歳の皇太子憲仁親王への譲位という異例尽くしの譲位であるが、それでもまだ元服に近い年齢である憲仁親王のほうが政情の安定に寄与すると考えられた。また、皇太子憲仁親王は平家の後ろ盾がある。平清盛がいなくなったあと、平家は平重盛のものとなる。平重盛が後見する体制を考えると、六条天皇よりも憲仁親王が帝位に就くほうが安定性を増す。何と言っても、平重盛は東宮大夫なのだ。

 計画は極秘裏に進められたが、それでも仁安三(一一六八)年二月一六日に九条兼実が皇太子憲仁親王のもとに参上し、皇太子の周囲の者と譲位について相談したことは記録に残っている。もっとも、それは九条兼実という人が日記を詳しく残す人であったからで、それがなければ皇太子憲仁親王のもとに九条兼実が向かったことも知られることはなかったか、あるいは、知られたとしても内大臣の皇太子訪問という日常の政務としてよく見られる光景の一環としか見られなかったであろう。


 仁安三(一一六八)年二月一九日、六条天皇が譲位し、皇太子憲仁親王が践祚する。高倉天皇の治世の開始である。未だ八歳ということもあり、六条天皇の摂政であった松殿基房はいったん摂政を辞任した後、改めて高倉天皇の摂政に就任している。仮に平清盛が体調を回復していたなら平清盛が摂政になった可能性があったが、平清盛は未だ予断を許さぬ状況が続いており、摂政は松殿基房以外に適任者がいなかった。なお、平治の乱で大内裏が戦場となったために二条天皇も六条天皇も里内裏を転々としていたが、高倉天皇以後はおよそ九〇年近くに渡って閑院を里内裏と、いや、里内裏ではない正式な内裏とすることが通例化する。里内裏とは閑院からの一時避難のことであり、緊急事態が終われば内裏である閑院に戻ってくるという光景が通例化したのだ。

 同日、平重盛が春宮大夫を、平教盛が春宮亮を辞任した。どちらも皇太子のための職務であり、辞任は儀礼的なもので、皇太子が天皇として即位したら任務満了となる職務である。また、平信範も同日に蔵人頭を辞任している。こちらは天皇の代替わりに合わせての辞任である。この日に辞任した三名は、不手際でも、一身上の都合でもなく、自らの職務の卒業というのがもっとも近い認識と言えよう。

 辞任した職務もあれば新たに就く職もある。平清盛の弟である平教盛がこの日蔵人頭に任命されたのである。平信範は平氏ではあるが平家ではない。平時忠と同様に京都にあって貴族としての平家であり続けた人であり、平時忠と違って平清盛と血縁関係を持っていなかったがために平家にカウントされていない。一方、平教盛は伊勢平氏出身の文句なしの平家である。このとき四一歳であり、貴族のキャリアアップの一環として考えると四一歳での蔵人頭の就任は遅いが、平家が天皇の周囲の実務を担当するようになったという点では画期的である。

 二月二二日、蔵人頭を辞した平信範が六波羅を訪問している。平清盛の命の危機はまだ続いているが平信範の目には最悪を脱したように見えたようで、安心感を抱いている。

 二月二四日、平信範が再び六波羅を訪問している。このときはじめて、平清盛の症状が回復に向かっているだけてなでく、意識が明瞭になっていることが確認された。平清盛はここで、自分が病床にあった間に六条天皇が退位して高倉天皇が即位したことを知った。

 二月二八日、退位した六条天皇が太上天皇となる。現時点でも史上最年少の上皇である。


 平清盛の容態が回復したと言えるのは仁安三(一一六八)年三月になってからである。回復したと言っても健康には程遠く、この時代の治療の常でもある転地療養を平清盛は選んだ。

 その場所が摂津国福原だ。もともとこの地に都市を建設しようとしていたのだから、平清盛が京都から離れた一時的な滞在地として選ぶのは自然なことだ。

 それでもなぜ、このタイミングで京都から離れたのか、優秀な医者を探すならば京都のほうが優れているのではないかという疑問はどうしても抱くが、平清盛が置かれている環境を考えると転地療養は理に適っている治療法である。

 まず、京都から離れることで日常の煩わしさから遮断される。マネジメントに失敗している職場でよく見られることであるが、体調不良で休んでいるのに職場から出勤するように求められたり、自宅で休むにしても電話が頻繁に架かってきたりするような状況では休みにならない。メールならば後でまとめて返信できようが、電話となると安静どころではない。しかし、電話を架ける側はただちに答えが来ることを待っているのだ。相手が安静でなければならないのは理解していても、電話ぐらい平気だろうと考えているのである。この時代は電話などないから、手紙か、急いでいるときは直接訪問することになる。京都だと簡単に訪問できてしまうから、現在の感覚で行くと京都に留まっている限りいつでも電話が架かってくる状況に置かれているに等しい。だが、転地療養だと京都から平清盛のもとを訪問するだけで大仕事になるので、平清盛にしてみれば訪問される回数が減る。現在でいう電話のストレスから解放される。

 次に食事がある。平安京は外部から食料を運び込んでくることが前提の都市である。川や池はあっても海はなく、周囲を山に囲まれてはいるが山の幸は平安京の需要を満たせるほどではない。貴族ともなれば飢餓とは無縁でいられようが、それでも新鮮な食材とは縁遠くなる宿命を持つのが平安京という都市だ。食料は味や栄養よりも長持ちするか否かが問われ、食材は何よりも保存が優先される。目の前に海が広がり、背後に山が控え、海の幸でも山の幸でも平安京より新鮮な食材に恵まれた環境なのがこの時代の福原だ。福原に移ることで得られる栄養は京都よりも優れていることが多かった。

 そして、福原だからこそ得られる衛生がある。特に水だ。平安京も上下水を計算して建設された都市ではあるが、安全な水を充分に供給したか、また、排泄物をはじめとする下水処理を充分に提供したかとなると、合格点はつけることができない。一方、福原であれば六甲山から新鮮な水が手に入り、下水処理も可能だ。そのまま海に流して終わりという現在からすればあり得ない下水処理ではあるが、この時代の下水処理のレベルを考えるならば平安京の下水事情よりはるかに優れている。

 最後に情報の連続性がある。安静というのは厄介なもので、必要とされる状況が多ければもちろん安静の妨げになるが、自分が必要とされていないと感じさせるのもまた安静の妨げとなる。体調を戻して復帰したら自分の居場所が無くなるというのは、平清盛にしてみれば最悪の事態だ。自分の安静のために訪問を制限させる必要はあっても、訪問をゼロとさせるわけにはいかない。訪問が情報入手の手段でもあるからだ。京都から離れることは、京都に滞在していれば自動的に手に入る情報が、京都から離れているために届かなくなることを意味する。安静先でも定期的に情報収集をするためには、京都と離れてはいても、安静先が京都からある程度の情報の届く距離であることが求められる。摂津国福原であれば京都からさほど離れていない上に、陸路も海路も整備されているので京都と定期的な情報連絡が可能だ。訪問の難易度を上げることで訪問の回数を減らしても、訪問や手紙での情報収集を継続させる必要はあった。ただし、最後の情報の連続性について平清盛は、この時点では判明しなかったものの後日から捉えれば失敗とするしかない対処をしている。その失敗の内容については、実際に失敗が判明したとき記すこととする。


 摂津国福原に都市を築くという野望は既に動き始めていた。

 鎌倉時代の記録になるが、応保二(一一六二)年時点で平清盛が使者を摂津国八部郡に派遣して検注を実施し、小平野、井門、兵庫、そして福原の四箇所の荘園の領域を拡大させたことの記録がある。また、永万年間に摂津国八部郡の山田荘を、平家が保有していた越前国大蔵荘との交換によって獲得していることも記録に残っている。これらの拡張により都市としての福原の基盤が造られ、それまで大輪田泊の近くの集落という位置づけであった福原が、大輪田泊を内部に抱える大都市へと成長していった。

 後世に住む我々は福原遷都のことを知っている。そのため、首都にしようとまでした都市を転地療養の地とするのはおかしなことではないかと思うかもしれないが、仁安三(一一六八)年三月時点では間違いなく、平清盛の脳内に福原遷都という概念はなかった。福原は京都経済圏の一部を構成する都市であり、平清盛は京都に最も近い国際貿易港を抱えた都市を構築しようとしていたのである。

 国際貿易港を抱えているという点では異例であるが、その他の視点に目を向けると平清盛は従来の踏襲をしていることが読み取れる。宇治に似ているのだ。藤原頼通が平等院を構え、藤原忠実が引退後の余生を過ごした土地である宇治は、平安時代における最上級の別荘地であり風光明媚な観光地でもあった。京都の喧騒から逃れて一時滞在するにしろ、引退して余生を過ごすにしろ、京都と適度の距離があるために煩わしさから逃れられると同時に、京都と適度に近いために京都の情勢が耳に届いてくる。

 さらに、宇治は京都と奈良とを結ぶ交通の中間にあると同時に、水運を利用して大阪湾に向かうときに必ず通る土地だ。京都から奈良に向けて動き出すとき、あるいは、大阪湾に出て熊野詣でをはじめとする海路をとるとき、宇治の地を通らないという選択肢は事実上存在しない。よほどのへそ曲がりか、軍事上の必要のために宇治を通らないというケースは考えられるが、通常であれば必ず宇治を通る。藤原忠実が存命であった頃に宇治を藤原忠実の隠居の地としていた理由の一つとして、誰かが宇治を通るたびに、引退してもなお藤原忠実が宇治の地で健在であることを意識させる目的もあったほどだ。

 平清盛の手によって福原の一部となった大輪田泊は、大阪湾から瀬戸内海航路をとろうとするときに、必ずとは言えないにせよ、多くの船が最初に立ち寄る港である。何しろ、大阪湾に出て一日航海し、これ以上航海していたら日も沈むというタイミングで現れるのが大輪田泊なのだ。瀬戸内海の高速道路化が完成したならば多くの人が瀬戸内海を航行するようになり、瀬戸内海の重要拠点である大輪田泊と、大輪田泊を擁する福原、そして、福原に住まいを構える平清盛の存在は極めて大きなものとなるはずである。ついこの間までの藤原忠実のように。


 仁安三(一一六八)年三月一一日、平頼盛が皇太后宮権大夫を辞任した。と言っても、何かしらの不祥事があったからでも、あるいは政治的な対立が背景にあったからでもない。後述するように厳密に言えば対立はあったが、表向きは対立が無かったことになっている。

 何があったのか?

 近衛天皇中宮である皇太后藤原呈子が院号宣下を受けることが決まり、皇太后でなくなることが決まったのである。皇太后藤原呈子に仕える役職である皇太后宮権大夫という職務が消滅することが決まったことから、この時点で辞任すること自体はおかしなことではなかった。

 三月一三日、皇太后藤原呈子が正式に院号宣下を受けた。以後、彼女は九条院と称されることとなる。これだけを見れば、皇族に嫁いだ女性が夫を亡くした後で迎える通常の光景であったが、それからわずか七日後に起こったことを捉えると、通常の光景であると平然と構えていることはできなくなる。

 仁安三(一一六八)年三月二〇日、高倉天皇が正式に即位。同日、女御である平滋子が皇太后となった。この瞬間、平家が史上はじめて正式に天皇の外戚となった。

 平滋子が皇太后となったのに伴い、皇太后宮大夫に大納言源雅通が、皇太后宮権大夫平宗盛が、皇太后宮亮に藤原定隆が就任した。このとき、表向きは対立が無かったことの虚構が剥がれ落ちた。正三位でありながら参議に昇れないでいる平頼盛が皇太后宮権大夫から外され、従三位で参議となった平宗盛が皇太后宮権大夫になったのである。これは、平家の三番手を巡る争いで平頼盛が平宗盛に負けたこと、すなわち、平重盛の身に何かあったときに平家を継ぐのは、武人としての評価を獲得し、平清盛から一定の権限を与えられるまでに信頼を得ている平頼盛ではなく、武人としての評価は存在しないものの貴族としての教育を受けている平宗盛であると公表されたことを意味すると同時に、今後の平家が武士ではなく貴族たることを内外に宣言することにもつながった。無論、平家の権勢の最大の源泉である武力を捨てたりはしない。ただ、武士が貴族社会に乗り出してきたのが平家なのではなく、貴族でありながら武力も行使できる集団が平家なのだと宣言したのである。

 一連の流れを平家の三番手であることを自負していた平頼盛がどのように感じたかを、平家が誰一人として思い浮かべなかったわけはない。それどころか、ほとんどの人は平頼盛の心情を充分に理解し、どうにかできぬものかと考えていた。

 平滋子を皇太后とさせたまさにその人も当然ながら理解していた。理解していたからこそ、今回の人事を強行したのである。

 人事を主導したのは後白河上皇だ。


 こうした平家の勢力伸長に対し、藤原摂関家が、特に右大臣九条兼実が黙っているわけはなかった。九条兼実は人事の穴をつくことを考えたのである。

 平清盛が太政大臣を辞任したために太政大臣が空席となっていることに目をつけ、太政大臣に内大臣藤原忠雅を昇格させることを考えたのである。内大臣から太政大臣への昇格は他ならぬ平清盛が先例として存在している以上、平家の中で文句を言える者などいようはずがない。その上で、藤原忠雅が太政大臣であり続けるならば平清盛が太政大臣に復帰すること自体あり得ないこととなる。太政大臣が求められるのは天皇の元服のときの加冠役のみであり、その他のときは名誉職となっている太政大臣が空席であっても問題ない。

 この、空席であっても問題ない太政大臣の職務に、本来の太政大臣の役割を果たす人物が就任したらどうなるか?

 平家がいかに議政官で人数を占めるようなことがあっても、仮に議政官の過半数を平家が占めるようなことがあっても、議政官の議決を覆す権利が太政大臣には存在する。太政大臣の地位に藤原氏が就けば、平家がいかに議政官で新たな法を決議しようと拒否権を発動できるのである。この拒否権を発動できる人物に九条兼実が操ることのできる人物が就任したらどうなるか?

 藤原忠雅は九条兼実より二四歳も歳上であるが、政治家としての能力を眺めると二四歳も歳下の九条兼実のほうがはるかに上に感じる。藤原忠雅のキャリアを眺めると、悪左府としてこの時代の怨嗟の的になっていた藤原頼長の時代に従三位となり参議になっているが、藤原頼長のもとで藤原忠雅が出世できたのは、藤原忠雅が藤原頼長の男色の相手だったからだとする噂も飛び交っていたほどで、藤原忠雅は、議政官における一票を行使する能力ならあっても、議政官を主導する能力に欠けていると考えられていたのだ。だからこそ、右大臣に次ぐ職位でありながら議政官における権限を有さない内大臣であることができ、右大臣も左大臣も経験することなしに太政大臣に就任することも許容されたとも言えるし、二四歳も歳下の九条兼実が手札の一つとして計算することができたからこそ太政大臣になることができたとも言える。議政官において九条兼実の意見が平家によって握りつぶされたとしても、太政大臣藤原忠雅が拒否権を発動すれば、平家の意見のほうを握りつぶすことができる。

 仁安三(一一六八)年五月一七日、名目上は辞任した平清盛の後任として、実際上は藤原氏の権力維持のため、内大臣藤原忠雅が従一位に昇格すると同時に太政大臣に就任した。

 ただし、九条兼実の策謀に黙って従うようでは藤原氏ではない。藤原氏というのは外に対しては一枚岩になっても内部では激しい派閥争いを繰り広げる氏族であり、それは太政大臣藤原忠雅とて例外ではない。ここで藤原忠雅は九条兼実の掌の上で転がされているような人物ではなかったことが判明したのである。

 藤原忠雅はまず、摂政松殿基房への接近を図った。松殿基房にしてみれば、摂関家の全権を握ろうという弟に対抗しうる勢力は、ありがたい存在でこそあれ迷惑ではない。その上で、藤原忠雅が平家にも接近するようになった。政治家としての能力を数値化したら平均より下に位置するのが藤原忠雅であるが、世渡りという点では平均より下ではなかったのだ。あるいは九条兼実は若すぎたというべきか。


 平家に対する対抗策の必要性を感じていたのは藤原氏だけではない。後白河上皇もまた、平家を利用しながらも平家の権勢を抑える必要性を痛感していた。

 もっとも、その方法は陰湿の一言にまとめられるものである。九条兼実もどちらかと言えば陰湿だが、後白河上皇の前には清廉潔白にして無邪気な子供のようにすら感じる。

 仁安三(一一六八)年七月三日、平時忠が右衛門督兼検非違使別当に就任した。これにより京都の警察権、検察権、司法権が平時忠のもとに渡ったこととなる。ただし、何度か記しているが、平時忠は平家の一員ではあっても武士ではない。そのため、平家の武力の発動は期待できない。

 ところが、武力の発動が期待できないはずの平時忠が見事なまでに検非違使別当の職務を果たすのである。六波羅に滞在する平家の武人の全面協力があったからでもあるが、平時忠の指揮の下で京都の治安が劇的に改善されたのだ。平時忠の治安維持方針は一貫していて、悪人を厳罰に処す、である。犯罪者は逮捕され、罪が軽ければ牢に入れられ、重ければ流刑となるのがこの時代である。死罪は保元の乱や平治の乱のような軍事衝突に限られるというのが、死刑復活後の概念であった。しかし、新しく検非違使別当となった平時忠にはその概念が通用しなかった。逮捕する際に犯罪者が死んだとしても仕方がないと断じ、犯罪者が検非違使のもとに投降したときに刑一等を減じることはしたが、流罪になるところが入牢になるのだから、犯罪者としては命の危険がより増すこととなる。この時代、流刑であれば配流先で健康に過ごせる可能性を期待できたが、牢に入れられるとなると、満足な食事も与えられず、衛生面は話にならず、刑期満了で出所するよりも遺体となって牢の外に出る方が当たり前という世界なのだ。抵抗すれば殺される、抵抗しなければ死ぬこととなるとあっては、犯罪そのものがハイリスクローリターンになる。死を覚悟しての犯罪に走る者がいる以上、どんなに厳しい取り締まりをしても犯罪が消えることはない。だが、犯罪に走った後の身の処遇を知ったとき、犯罪に走る者の数は減る。

 想像もしなかった活躍により平時忠は正三位に位階が上がり参議から権中納言に昇格、平時忠に協力した平知盛と平忠度も位階を上げ、平教盛が平時忠の昇格によってできた空席を埋める形で参議に昇格した。これで議政官に平家が四人、福原にいる前太政大臣平清盛を含めると五人が国の中枢に位置することとなった。

 これだけであれば平時忠の予想だにせぬ活躍と、治安回復の協力者に対する褒賞と捉えることができるが、ここでもまた、平頼盛が無視されているのである。たしかに平頼盛が平時忠に積極的に協力しているとは言えないが、それでもここまで参議入りできずにいることは異常事態だ。


 平頼盛が参議になることができたのは仁安三(一一六八)年一〇月一八日になってからである。あまりにも遅い参議就任であるが、それでもこれで追い抜かれた平家の面々を追い抜き返すチャンスが巡ってきたこととなる。

 ただし、平頼盛にはたった四〇日しかチャンスが与えられなかった。

 参議に就任してから一ヶ月と一〇日を迎えた一一月二八日、後白河上皇の命令により平頼盛は何の前触れもなく全ての官職から外され左遷されてしまったのである。しかも、息子の平保盛も父と一緒に全ての官職から解官されたのだ。

 後白河上皇が挙げた解官の理由は以下の三点である。

 三月二六日の皇太后平滋子の代初めの入内に奉仕しなかったこと。

 無断で厳島神社に参詣したこと。

 九州一一ヶ国に課せられている大嘗祭関係の課役を果たさなかったこと。

 以上の三つである。

 一つ一つは事実であるが、全て言いがかりである。そもそも平滋子が皇太后になる前に皇太后権大夫を辞している平頼盛に、新しく皇太后となった平滋子の代初めの入内に奉仕する義務は無い。貴族として奉仕することが求められることはあるが、他の職務があればそちらが優先され、奉仕を優先しようものなら職務放棄になる。

 厳島神社への参詣にしても、平家として瀬戸内海の高速道路化を構築している途中の出来事であり、その頃の平頼盛に京都に在住していなければならない理由はない。既に皇太后権大夫を辞していても太宰大弐の兼任は続いているので、京都を離れて九州へと向かうことは権利どころか職務遂行のための義務である。厳島神社に向かったのも瀬戸内海の航行の安全の確立のためであり、厳島神社のある安芸国が太宰府の管轄でないことは事実でも安芸国に立ち寄るのは安全確立のための当然の措置であり、訪問しなかったことを咎められるならまだしも、無許可での訪問を咎められる謂われはない。

 最後の九州一一ヶ国に課せられている大嘗祭関係の課役についてだけは全くの非が無いとは言えない。平頼盛は太宰権帥を兼ねており、太宰権帥は九州一一ヶ国に対する指揮命令権が存在する。瀬戸内海の安全を確立させることがミッションとして課せられていることは事実でも、九州一一ヶ国の国司の管理監督も責務である以上、部下の不祥事を上司がとるという意味での責任は存在する。とは言え、それが太宰大弐だけでなく他の官職も全て剥奪されるほどの問題であるとは言えない。

 息子の平保盛が解官となった理由については高倉天皇即位の大嘗会における五節の舞姫の奉仕や、皇太后平滋子の入内時における平保盛の行動が挙がっているが、具体的にどのような行動かは不明である。わかっているのは、後白河上皇はこれを問題視して解官処分を下したことだけ。


 ただでさえ冷遇されてきたところでようやく参議までたどり着き、これからというところで言いがかりでしかない理由で左遷した。

 さすがに平頼盛に対する後白河上皇の冷遇は度を超していた。

 後白河上皇は平家で三番手である平頼盛を冷遇することで平家の内部分裂を意図した、そして、その意図はかなり働いてはいたのだが、冷遇が度を超すと内部分裂はむしろ縮小化し、一体感はむしろ増す。

 その一例として、仁安三(一一六八)年一一月に、まさに平頼盛が解官となった理由である厳島神社の整備を上奏したことに始まる一連の動きが挙げられる。

 理論上は厳島神社の神主である佐伯景弘から朝廷に提出された解状であるが、その背景には平家が存在していることを匂わせたのだ。

 厳島神社が国家の平和を祈念するための神社であると同時に安芸国第一の霊社であり、多くの人々の参詣と尊崇を受けてきていると述べた上で、厳島神社の社殿が災害によって破損したので朝廷に上奏したこと、神社の修理には朝廷への届け出が必要であること、修理の規模が多大なものとなり神社そのものの資産でまかないきれないことを述べている。

 そして、厳島神社整備の予算捻出のために安芸国司の重任を求めるようになった。本来であれば通常は任期を終えた国司は京都に戻るものであるが、例外的措置として同一国司にもう一期国司を継続してもらいたいとしたのである。現在の地方予算は一年間で使い切ることが求められるが、この時代の地域の予算は国司の任期中に使い切ることが求められる。つまり、単年度予算ではなく複数年度に渡る予算の使い方が可能なのであるが、それでも任期を超えた予算の計上はできない。

 しかし、同一国司が連続すると、前回の任期のときに使い切れなかった予算を持ち越して使うことが許されるようになる。これを利用して、その地域での大規模な修繕があり多大な予算を必要とするとき、国司を重任させることで予算を確保することがあった。このときの厳島神社からの解状には、伊勢の多度社、駿河の浅間社、常陸の鹿島社など、これまで国司を重任させることで造営された例を列挙しているだけでなく、このときの厳島神社が造営すべき建築物とその寸法も記している。

 それだけであれば厳島神社から寄せられた普通の誓願であるが、安芸国の国司が平清盛の家臣の一人である藤原能盛であるとなると普通の誓願ではなくなる。しかも、平知盛が太宰大弐を辞職させられてしまったために瀬戸内海西部の警備が万全ではなくなってしまったことを理由に厳島神社の造営が瀬戸内海の航行の安全のための設備を兼ねることを明示したのみならず、平家の軍勢を安芸国に常駐させた上での厳島神社の造営をすることを求めたのである。平家の軍勢が常駐するとなると安芸国は平家の強い影響下に置かれることとなる。ただでさえ平清盛の家人が国司を務めている安芸国である。国司重任を求めるとなると、これを期に安芸国を平家の知行国に移行することを求めるに等しい。

 それだけであれば後白河上皇も、あるいは九条兼実も反対したかもしれないが、月が変わった仁安三(一一六八)年一二月一三日、平重盛が病気を理由に権大納言の辞任を表明すると事態は大きく動き出す。

 平家は平清盛から平重盛へと継承されることを前提として組織立てられている。特に平家の武力は平清盛から平重盛に受け継がれることが大前提であり、平清盛の身に何かあったら平重盛が平家の軍勢を指揮するようになるのだ。ところが、平重盛がいなくなってしまったあと誰が平家の軍勢を指揮するのか?

 平家の序列第三位を平宗盛としたはいいが、平宗盛に軍勢を指揮する能力は無い。軍勢指揮能力だけを言えば平宗盛よりもその弟の平知盛のほうがまだ信頼を置けた。ただ、平頼盛はもっと信頼を置けたのだ。平重盛が不在で平清盛が福原でなお静養中であるとき、朝廷が平家の武力を必要とする局面が出てくるとすれば、参議をクビにしたはずの平頼盛を呼び戻すしかなくなる。

 平家のこの駆け引きは後白河上皇を激怒させ、平頼盛の家人六名が武官職から外される事態となった。平家の武力を頼ることがあろうとも平頼盛を呼び戻すことはありえず、平頼盛の部下に軍勢指揮をさせることも許さず、残された平家の貴族に平家の軍勢を動かすように命じたのである。

 平頼盛の処遇を巡る後白河上皇と平家との対立は年を持ち越すこととなった。


 仁安四(一一六九)年一月五日、前権大納言平重盛が正二位に昇位した。昇格させるから権大納言に復帰しろという要求も加わっているものであったが、平重盛からの回答は位階の上昇をありがたいこととして受け入れるものの、健康上の理由から職場復帰は無理とするものであった。平重盛が病気を理由として権大納言を辞任したことはまるっきりの嘘ではなく、たしかに平重盛は健康体と言えなかった。それでも貴族としての政務は不可能ではなかったろうが、朝廷が平家に求めているのは武力の統率と行使である。軍勢を指揮するために戦場に降り立つほどの健康とまでは至っていなかったのも事実だ。

 後白河上皇は平重盛が平頼盛の冷遇を解消しない限り復帰しないと悟った。ただし、それと平家に対して折れることとは別問題である。平家の内部分裂を起こすための第二弾に打って出たのである。

 まず一月一一日、参議平教盛を丹波権守兼任とさせることに成功した。

 さらに一月一四日には、熊野詣での同行者として平康頼を抜擢した。平頼盛の子で仁安元(一一六六)年に尾張国司に任命された平保盛が、自分の代わりに国司の代理である目代に任命した上で尾張国へ派遣した人物である。そのとき、荒れ果てていた源義朝の墓を修理し、源義朝を弔うための堂を立て、念仏を唱えさせ、その保護のために三十町歩もの土地を寄進したことで評判となった人物だ。その人物を後白河上皇の熊野詣の同行者としてスカウトとしたと言うことは、後白河上皇にしてみれば平頼盛からの人材引き抜きと平家の内部分裂のきっかけになる、はずであった。

 その期待は簡単に外れた。平教盛は平重盛の代わりにも平頼盛の代わりにもならなかった。平康頼は職務の一環として後白河上皇と同行はしても、平頼盛や平保盛を裏切って後白河上皇のもとに仕えるという人生は選ばなかった。

 後白河上皇は前年一一月に出されていた厳島神社からの誓願を受け入れ、二月二〇日に藤原能盛の国司重任と厳島神社造営の日程が公表された。造営開始は四月二日。一時的に神体を移す仮殿は四月一二日より建設を始め、四月一八日に神体を移して正殿の造営を始める。正殿の造営が完了し次第、六月一八日もしくは七月二日のどちらかに神体を戻すというのが陰陽寮の定めたスケジュールである。かなり急なスケジュールではあるが、スケジュールは神体の所在についてであって全体の工事完了を謳っているわけではないところがポイントである。


 院政に挫折して時代が二条天皇親政のものとなったときに後白河上皇が仏教に救いを求めていたことは既に記した通りである。

 その後白河上皇がしばらく出家せずにいた理由として、僧体になった後に生まれた子が帝位につくことの難しさがある。出家して僧体となったならば、本来ならば婚姻は許されず子をもうけることが許されなくなる。二条天皇が帝位を譲るとすれば、その第一候補は二条天皇の子であろう。これが白河法皇であれば、子、孫、さらには曾孫に至るまで自らの権勢をもとに院政を敷くことができたが、実の子である二条天皇と対立した末に敗れた後白河上皇に子や孫への権勢は期待できない。とすれば、二条天皇の次の代や次々代を狙って後白河上皇のもとで皇位継承候補者を養育しなければならず、それまでは僧籍に入ることが許されない。

 かと言って、僧籍に入らないままでは色々と制約がある。出家して法皇となれば事実上はともかく理論上は一人の僧侶となり、身を置く寺院の名で荘園を確保して資産を築くことができ、周囲を固める武士をはじめとする人員も寺院の名で制限なしに集めることが許されるのに対し、上皇のままでは基本的に朝廷の派遣した人員しかおらず、朝廷の監視下での資産形成しか許されない。

 高倉天皇が即位したことで、後白河上皇の院政は、不充分ではあるが成立した。不充分を充分にするには後白河上皇自身の権勢を相対的に強めなければならない。

 白河法皇が院政を成功させたのは、白河法皇の時代における最大の権勢を得ていたらからである。藤原摂関家の勢力が後退したことで相対的に白河法皇の権勢が時代のトップとなり、時代の権力を手に入れたのが白河法皇の院政の根幹だ。

 後白河上皇が白河法皇のように時代で最高の権勢を手に入れようとするとき、後白河上皇には白河法皇が気に止むことのなかった存在が立ちふさがっていた。

 平家だ。

 保元の乱の前から伊勢平氏は貴族界に出入りしていた。平治の乱ののち、伊勢平氏は平家へと成長し、朝廷の行使できる唯一の武力となったことから勢力を伸ばし、議政官入りし、大臣になり、太政大臣になり、いまや天皇の外戚だ。こんな存在は白河法皇の頃には無かった。後白河上皇には平家と向かい合うことが求められたのである。

 平家と向かい合うために選んだのが平頼盛への冷遇である。平家の三番手である平頼盛を冷遇し、四番手以後の者、特に、貴族としての教育を受け武士とは一線を画すことが求められた平宗盛を厚遇することで平家の内部分裂を起こさせて平家の権勢を弱めようというのが後白河上皇のプランだった。ところが、このプランは失敗した。平頼盛への冷遇が酷ければ酷いほど平頼盛への同情と後白河上皇への反発が強まる。また、軍勢指揮能力を考えても平頼盛不在はあまりに大きな痛手であり後白河上皇の冷遇を受け入れるわけにはいかない。それを知っている平家はからの回答は平頼盛の冷遇の白紙撤回を求めるというもの。

 後白河上皇の立場に立つと、平家の求める平頼盛への冷遇の白紙撤回を受け入れることはできない。受け入れることは後白河上皇のこれまでの冷遇が全て誤りであったことを認めることになるからでもあり、また、平家の勢力が後白河上皇の勢力を上回ることを認めることにもなる。

 後白河上皇は平家との間に落としどころを見つける必要が生じていた。仁安四(一一六九)年二月二九日、後白河上皇がはじめて出家を考えていることを表明する。これにより、今後、後白河上皇のもとに男児が誕生しても、その男児が帝位を継承することはないことが決まった。もっとも、高倉天皇が元服し、婚姻し、高倉天皇のもとに男児が生まれ、その男児が帝位に就いたときに天皇の祖父として権勢を振るう可能性や、六条上皇が再び帝位に返り咲いたとき、あるいは、それが何年後かはわからないが六条上皇のもとに男児が生まれ、その男児が帝位に就いたときのことを考えると、出家して天皇の父となる可能性を絶ったところで致命傷にはならない。一方で、出家することで朝廷の制約が外れ、資産拡大と人材確保についての制限が無くなることは後白河上皇にとって大きなメリットとなる。

 仁安四(一一六九)年三月一三日、後白河上皇が高野山への参詣に出発。熊野ではなく高野山なのかというのがこのときの世相の反応であり、出家を決意したのだから寺院に参詣することそのものはおかしくはないという特に着目されることのないニュースであった、はずであった。

 重要なニュースであったことが判明するのはその帰路である。まっすぐ京都に戻るのではなく遠回りをしたのだが、その遠回り先が摂津国福原であった。仁安四(一一六九)年三月二〇日、後白河上皇が福原にある平清盛の邸宅を訪問。名目上は出家を志している上皇が一足先に出家した平清盛のもとを訪問したという体裁であるが、そのような名目を信じる人などいない。


 後白河上皇が平清盛のもとに足を運んだことはセンセーショナルなニュースとなって平安京内外に広まった。平清盛が後白河上皇のもとへと向かったならばここまでのニュースとはならなかったであろうが、皇族が民間人の私邸を、それも京都から離れたところにある私邸を訪問したとあっては大ニュースだ。

 それだけでも大ニュースだが、このときの福原訪問は、後白河上皇の勢力を平家の勢力が上回ったことを示すのみならず、後白河上皇が自らの院政のために平家に妥協する姿勢を見せたことも意味する。後白河上皇の出家は時間の問題であったが、出家後の後白河院政が平家の強い影響を受けるとあっては、時代の趨勢が決定する。

 仁安四(一一六九)年四月八日、高倉天皇即位のための改元が、正式な即位から一年以上を経てようやく行われた。改元後の元号は、嘉応。

 新元号となると通常はこれから始まる新時代に向けての希望的観測が世情を包み込むものであるが、後白河院政が平家の強い影響下で成立することが時間の問題とあっては、とりうる行動は一つしかなくなる。

 平家に従うのだ。

 嘉応元(一一六九)年四月一二日に皇太后平滋子が院号宣下を受け建春門院となると、いよいよもって後白河院政における平家の存在価値が世間に広まる。六波羅に足を運ぶ貴族、さらには平清盛が滞在する摂津国福原に足を運ぶ貴族が急増したのである。転地療養のための福原滞在であったはずの平清盛も、時間の経過とともに、転地療養の意味が喪失していった。

 と同時に、福原の存在価値が急騰していった。

 少し前の宇治のように、福原が、京都から距離を置いた、それでいて、京都と情報がつながる都市へと変わっていったのだ。情報がつながると言ってもインターネットどころか電話回線もない時代であるから人の往来か手紙のやり取りになるし、リアルタイムではなく数日レベルでのタイムラグも起こるが、転地療養で人と会う機会を減らしながらも京都からの情報収集は怠らなかった平清盛にとって、何もせずに手に入れることのできる情報の質と量が向上することはメリットのあることであった。もっとも、命の危機のために出家して福原で転地療養をはじめてから一年以上経過している。体調が完全に治っていなくとも最悪の症状からはとっくに脱していたであろう。


 嘉応元(一一六九)年六月一七日、後白河上皇が出家した。そのため、以後は後白河法皇となる。

 法皇となった後白河院であるが、過去二例の院政の法皇と比べて弱い勢力の法皇としてスタートさせられた。白河法皇も鳥羽法皇も体験した寺社勢力に加え、白河法皇も鳥羽法皇も体験する必要のなかった平家の圧力にも直面しているのだから。ちなみに、寺社勢力に対する後白河法皇のスタンスを示す例がここに存在し、後白河法皇の出家時に同席した僧侶は八名とも園城寺の僧侶なのである。山門派と寺門派の争いにおいて後白河法皇は明瞭に寺門派こと園城寺の側に立つこと、より正確に言えば、山門派こと比叡山延暦寺に対する敵対姿勢を見せたことは、延暦寺の姿勢を軟化させるどころか硬化させるに充分であった。

 話を平家の存在に戻すと、たしかに平清盛は第一線を退いている。公卿補任を見ても、前年までは前太政大臣として名前が残っているが、嘉応元(一一六九)年に目を向けると平清盛はおらず、さらには平重盛が前権大納言として引退した貴族扱いとなっている。議政官には権中納言平時忠の他に、参議平宗盛、参議平教盛の三人がいるのみで、平氏ではあっても平家ではない平親範を加えても、これが本当に時代の趨勢を作ろうという氏族なのかと疑問を抱く。

 だが、議政官の構成がピークを過ぎたという理由で平家を軽んじる人はいなかった。

 出家した平清盛が福原の地から京都に無言の圧力を加えているだけでなく、権大納言を辞任した平重盛が六波羅にあってこちらは京都に有言の圧力をかけているのである。

 平重盛の有言の圧力はただ一つ、弟である平頼盛の政界復帰である。自分の代わりに平家の軍勢を指揮する平頼盛が不在では、朝廷が期待する平家の武力発動は効かないとし、後白河法皇に対して平頼盛に対する解官の白紙撤回と政界復帰を求めていた。平頼盛に対する処遇は後白河法皇にとって、平家に従わずにいる自分というアイデンティティに関わる問題であるとして最後まで妥協せずにきたことであるが、平重盛はその妥協を、後白河法皇の完全屈服を前提として求めたのである。平重盛の背後には遠く福原の地にいる平清盛の存在があるが、平清盛の存在がなくとも、平安京と鴨川を挟んだだけで目と鼻の先にある六波羅に、この時代最大の軍勢を常備させている平家の圧力がある。それだけで充分だ。

 後白河法皇は熊野詣に出かけるなど平重盛の圧力を交わそうとしてきたが、圧力をかわそうとすればするほど圧力は強まっていった。


 嘉応元(一一六九)年一一月二五日、高倉天皇の八十嶋祭が開催された。八十嶋祭とは、新帝即位の大嘗祭の翌年に開催される即位儀礼の一つで、八十嶋祭使を乗せた船が淀川を下り、現在の大阪港にあたる難波津に出て、難波津周辺の大小多数の島々を日本列島に見立てて、島々の霊を招き寄せて日本列島の主たる天皇の資格を祝福する儀式である。なお、「日本列島」と書いたが、この時代は「大八洲(おおやしま)

」という。本州、四国、九州、佐渡、淡路、隠岐、壱岐、対馬の総称で、北海道も沖縄も組み込まれていない代わりに、令制国として行政単位を構成している佐渡、淡路、隠岐、壱岐、対馬の五ヶ国を日本列島の構成単位としている。無論、この時代の人がこの八つの島以外を日本列島として認識していなかったわけはない。ただ、日本列島の島の多さを朝廷そのものが把握できていなかった。そのため、八十嶋祭という名になっている。島の数が八〇だから八十嶋祭なのではなく、八十嶋とは「たくさんの島」という意味である。

 八十嶋祭のとき、平家と後白河法皇との間で一つの妥協が図られたと考えられる。と言うのも、平重盛の正室である藤原経子が物使役として公脚を引き連れて六波羅から出立したからである。たしかに藤原経子は高倉天皇の乳母でもあるから、高倉天皇の儀式において何かしらの役割を果たしたとしてもおかしくはない。また、夫がいかに後白河法皇に対して圧力を強めていようと、妻が夫と歩調を合わせなければならない義務はない。とは言え、六波羅から公卿を引き連れて出立するとなると平家の側も相応の事前準備が必要となる。後白河法皇に圧力をかけてはいてもこれは別として対応したというより、後白河法皇から妥協を引き出したがために八十嶋祭の祭礼に応じたと考えるべきであろう。

 その妥協の内容こそ、平頼盛の解官の白紙撤回である。

 平頼盛の解官が白紙撤回されたのは嘉応元(一一六九)年一一月であることは判明しているが、具体的に何日のことなのかはわからない。また、解官の白紙撤回は成立したものの参議への復帰は未定という不明瞭なものである。それでも後白河法皇へ訴え続けてきた内容は、一部ではあるが実現した。八十嶋祭の祭礼を後白河法皇は建春門院平滋子とともに七条殿の桟敷で見送ったことは記録に残っているが、そのときの後白河法皇の様子を伝える史料はない。


 白河法皇が嘆いた天下三不如意の一つ、山法師こと僧兵によるデモ活動であるが、保元の乱の後に成立した信西政権が打ち立てた新制七箇条によって、理論上は法的に、事実上は軍事的に取り締まることができるようになっていた。

 どんなに信西に対して反発心を抱いている人であろうと信西の武装デモ制限策の有効性については認めざるをえず、朝廷の基本政策として継続していた。これは平治の乱で清和源氏の軍事力が壊滅し、京都に残る清和源氏の勢力が源頼政率いる平家の一部隊のみとなっても変わらなかったどころか、平家の武力が持つ圧力がむしろ向上したことでますます強化されるようになっていた。

 ここに、朝廷や院による寺社勢力内への人事介入が加わる。これは寺社勢力内から見ると不平不満を強制的に押さえつけるられていることを意味する。不平不満が無いのではなく、いつ爆発してもおかしくない不平不満が溜まっていたのが嘉応元(一一六九)年の年末時点の状況であった。中でも、かねてから対立の続いていた比叡山延暦寺こと山門派と、園城寺こと寺門派の対立は、後白河法皇の明白な形での園城寺優遇策、すなわち、延暦寺への弾圧策によって山門派からの爆発がいつ起こってもおかしくない状態に陥っていた。新制七箇条に基づく寺社所有の荘園に対する荘園整理は、本来であれば全ての寺社がその対象とならなければならなかったが、寺門派の荘園については見逃されたり手心を加えられたりする一方で、山門派の荘園は法の綿密な適用がなされたのもその一例である。また、この年の後白河上皇の出家時に立ち会った戒師をはじめとする八名の僧侶が八名とも園城寺の僧侶であったことも一例に加えてもいいだろう。

 という状況で迎えた嘉応元(一一六九)年一二月、ついに爆発した。きっかけは何月何日のことかは不明であるが、延暦寺が一二月一七日に異例の速さで対抗手段に打って出たとあるから、一二月中旬のことと推定される。

 何があったのか?

 尾張守藤原家教の目代として尾張国を統治していた右衛門尉藤原政友が、美濃国にある延暦寺の荘園を荘園整理の対象としたのだが、それが実力行使を伴うものであったのだ。荘園整理は国司の重要な仕事と位置づけられており、特に山門派の荘園にいかに手を付けるかが院における国司の評価基準となっていたほどである。

 尾張国の目代が隣国美濃にまで手を伸ばすとはどういうことかと思うかもしれないが、実際にはおかしなことではない。現在の県境でも同じことが言えるが、山脈や、渡海困難な海洋によって明白に生活圏が分断されているのでない限り、行政区画を無視した生活圏が構築されるのは珍しい話ではない。そして、荘園とは行政区画を無視した生活圏を単位として確立されている。尾張国から美濃国へ行くというのは、現在で言うと名古屋市から岐阜市に行くようなものであり、鉄道なら三〇分で移動できる距離である。当時は名古屋から岐阜まで三〇分で移動できるような公共交通機関など無いが、馬に乗れば、あるいは徒歩であっても、移動困難とは言えない距離だ。おまけに、この時代の濃尾平野は日本有数の穀倉地帯である。そのため、多くの者が荘園構築を図り、荘園を手にすることに成功した者は収穫に裏付けられた莫大な資産を手にすることとなったのである。彼らの目に尾張国と美濃国との間の国境線など映らなかった。

 尾張国と美濃国との間の国境線が目に飛び込んで来ないのは荘園構築者や荘園領主、あるいは荘園住人といった荘園関係者だけの話ではない。山門派への攻撃を欠かさない後白河法皇のことだ。国境を越えようと、山門派たる延暦寺所有の荘園を召し上げることができれば、あるいはダメージを与えることに成功すれば、後白河法皇の院政のもとで大幅な出世を果たせると考え、そして実行されたのだ。荘園整理という合法手段を旗印として。


 ただ、それで黙っている比叡山延暦寺ではなかった。嘉応元(一一六九)年一二月一七日、尾張国司藤原家教の兄で尾張国を知行国としている藤原成親の遠流と、目代として尾張国に派遣されていた右衛門尉藤原政友の禁獄を訴えたのである。

 この訴えを後白河法皇は完全に無視しただけでなく、訴え出た比叡山延暦寺のほうが違法であるとし、延暦寺からの使者を追い返した。藤原成親は権中納言であり、また、後白河法皇の院近臣でもある。延暦寺の訴えに従って流刑にしようものなら後白河院政の政権運営に大ダメージを受けることとなる。それに、前述のように荘園整理を旗印にしている以上、藤原成親は弟を通じて知行国の権利を持つ貴族としての役目を果たしたに過ぎず、行動は合法なのである。これでは、後白河法皇が揉み消したところで、同意はされなくとも理解はされるであろう。

 こうした後白河法皇の判断が延暦寺の怒りの炎に油を注いだ。嘉応元(一一六九)年一二月二二日の夕刻、延暦寺の大衆が京極時に集結し強訴の構えを見せたのである。信西の手による新政七箇条はまだ法としては有効であり、寺社のデモの権利は認められているものの、武装してのデモは禁じられている。

 しかも、ここに大きな落とし穴があった。新政七箇条の定めた武装禁止は平安京内だけが適用範囲であり、平安京の区画外であれば武装して集結することまでであれば合法なのだ。そして、後白河法皇は法住寺の区画内の法住寺殿に院政の拠点を作り自らの住まいとしているが、法住寺があるのは平安京の区画外である。つまり、比叡山延暦寺の僧兵達が武装して法住寺の近隣に詰めかけたとしても違法ではないのだ。これまでは平家の本拠地である六波羅と目と鼻の先であることから武装して押しかけようなどと誰も考えなかったというだけで、このときの山門派のように平家の武士達と真正面から向かい合う覚悟を持って行動するなら話は別だ。

 山門派の覚悟は京都の内外の人々を恐怖に陥れた。保元の乱の前の京都市民であれば、戦乱というものは知識としては知っているものの現実に目の当たりにするものではなかった。しかし、保元の乱と平治の乱を知ったあとの京都市民は、戦乱を現実のものととして知るようになった。現実のものとして知ったのは比叡山延暦寺も同じことで、信西の政策による僧兵の締め付けが手伝ったという側面もあるが、戦闘に打ってでるならどうなるかを知った以上、そして、後白河院の発動できる武力がどのようなものであるかを知っている以上、そう簡単に僧兵を京都に乗り込ませることはできないでいた。乗り込ませようものなら流血の大惨事になるのは目に見えている。武力を手に集結するところまでは法で取り締まることはできず、取り締まりが可能となるのは実際に武力衝突が起こってから。だから武装しないデモであれば可能であったのだが、白河法皇を悩ませた強訴というのは、武装した僧兵が暴れまわるからこそ意味を持つのである。比叡山延暦寺の最大の圧力手段が失われればデモの威力も弱まる。だから自重していた。自重していたのだが、今や自重の限界を超え、覚悟をともなった行動の時代を迎えるようになったと考えるようになってしまったのだ。

 後白河法皇は検非違使別当を兼ねている権中納言平時忠に自らの身辺警護を要請し、平時忠は後白河法皇の要請に応えて法住寺殿に平家の軍勢を派遣した。その内容は、前権大納言平重盛率いる二〇〇騎、参議平宗盛率いる一三〇騎、そして、解官は解かれたものの未だ参議に復帰できずにいる平頼盛率いる一五〇騎である。貴族としての教育しか受けていなかった平宗盛が一三〇騎を率いることができたのかという疑念については、一三〇騎しか率いることが許されなかった、それも、平重盛と平頼盛の二人が平宗盛を支える形で軍勢を率いるという状況下での軍勢指揮であったという点が答えになるであろう。


 一夜明けた嘉応元(一一六九)年一二月二三日、京都内外の多くの人は法住寺を舞台に平家と山門派との武力衝突が起こるであろうと予想したが、山門派の行動はその予想を大きく裏切った。まず、武装を一旦解除して自らを合法状態とさせた上で、平安京に乗り込んで内裏に向かったのである。八基の神輿を担いで待賢門と陽明門の前で騒ぎ立てたことで注目を集めることに成功したと同時に、武器を手にしていない以上、山門派は何ら法令違反に手を染めていないのであるから取り締まることもできなくなったのである。このとき内裏には高倉天皇、摂政松殿基房、そして天台座主の明雲もおり、修明門を平経正と源重定、待賢門を平経盛、建春門を源頼政が警護していたが、この警護は法に基づいた規模でしかなく、また、平家の武力の多くを法住寺殿に向かわせていることもあって増援は困難であった。

 内裏における騒動を聞きつけた後白河法皇は、ただちに蔵人頭平信範と蔵人吉田経房を内裏に集結した山門派のデモ隊に派遣して、要求は後白河法皇が聞くから平安京を出て法住寺に出向くよう命じるが、山門派のデモ隊はこの命令を拒否。平信範と吉田経房の二人は未だ元服を迎えていない高倉天皇の幼さを示した上で、幼き天皇相手に騒動を見せることは人間道理に反すると訴えてそのようなデモは不当であるともしたが、山門派は天皇の年齢に関係なく内裏に赴いて天皇に直接訴えて勅定を承るのが先例であるとして拒絶。天台座主明雲が説得にあたるも山門派のデモは沈静化の気配すら見せなかった。

 嘉応元(一一六九)年一二月時点の平安京の治安対策の最高責任者は、検非違使別当でもある権中納言平時忠である。平時忠は、交渉はすでに決裂した以上、一刻も早くデモ隊を解散させることを第一に考えるべきと主張。要求を聞き入れるならデモ隊の要求をただちに受け入れ、要求を拒絶するなら武士を派遣してデモ隊を逮捕すべきと進言した。この進言に基づき、二三日夜半、法住寺殿で後白河法皇が臨席しての公卿議定が開かれた。

 公卿議定ではまず、内大臣源雅通が武士の派遣に難色を示した。流血の事態は何としても避けるべきであるというのがその理由である。右大臣九条兼実は内大臣の意見に反発したが、内大臣源雅通は、仮に流血の事態を避けることに成功したとしても、デモ隊が八基も神輿を担いで来ている以上、武力衝突が起これば神輿のうちのどれかを破壊する可能性が高く、神輿を一つでも破壊しようものなら、今回はどうにかなっても近い未来に山門派のさらなる反発が懸念される以上、武士の出動は明確に反対するとした。とは言え、武士ではない内大臣の意見であり、後白河法皇が直接、武士に対して出動命令をすることは不可能ではない。実際、この公卿議定の場で内大臣の意見を無視して平重盛に対して平家の武士の出動を命じている。

 ところが、平重盛の意見も内大臣源雅通と同じ意見であった。流血の事態は何としても避けねばならず、ここで出動しようものならどれだけの命が失われるか想像もできない上に、季節は真冬、しかも夜である。多くの建物が照明と暖房のための火を灯し続けていることは考えられるため、ここで戦闘が起ころうものなら大規模な火災となる危険性も高まる。戦闘そのもので失われる人命も多大だが、火災により失われる人命も断じて無視できるものではない。人命を最優先に考える以上、いかに後白河法皇の命令であろうと動くことはできないとしたのである。

 深夜、法住寺殿からデモ隊に対し、右衛門尉藤原政友を解官させ禁獄させるとする妥協案を示した使者が派遣されるが、デモ隊はこの要請を拒否。あくまで権中納言藤原成親の配流を主張し続けた。

 打つ手なしと判断した後白河法皇は、嘉応元(一一六九)年一二月二四日、権中納言藤原成親の解官と備中国への配流、および、右衛門尉藤原政友の禁獄を正式に発表した。デモ隊の要求が全て認められたこととなり、山門派のデモ隊は歓喜して神輿を撤収し比叡山へと戻っていった。右大臣九条兼実は、後白河法皇は当初こそデモ隊の要求を認めないとしておきながら、デモ隊が内裏前で騒ぎ出したら要求を全て認めたというのは朝廷の政策としてあり得ないことであると難色を示し、武士を招集しながら派遣しなかったことも厳しく批判した。

 これだけでも不平不満の溜まっていた右大臣九条兼実が怒り心頭に発したのが嘉応元(一一六九)年一二月二七日から二八日にかけてのことである。まず二七日に後白河法皇が突然、デモ隊の制御に失敗したという理由で天台座主明雲を高倉天皇護持僧の役から外し、さらに、翌二八日には流刑となったはずの藤原成親が召還された一方、事件処理に当たった検非違使別当兼権中納言平時忠と蔵人頭平信範が「奏事不実(奏上に事実でない点があった)」の罪により解官され配流されることとなったのである。九条兼実はこの急転直下の出来事を「天魔の所為なり」としている。


 嘉応元(一一六九)年一二月三〇日、藤原成親が権中納言に還任し、前年に全官職を解官された平頼盛が参議に復帰した。

 首都の治安を守る検非違使のトップが不在というのは、一般庶民の生活の安全を考えたときに、一刻も早くどうにかしなければならない話となる。そして、前任の検非違使別当が権中納言であった平時忠である以上、後任の検非違使別当も権中納言であるほうが望ましい。ここまではわかる。ただ、どうしてその答えが権中納言に復帰したばかりの藤原成親なのかわからない。わからないのはこの時代の資料を振り返る現代人だけでなく当時の人も理解できなかったようで、年が明けた嘉応二(一一七〇)年一月五日、権中納言藤原成親が検非違使別当に就任したことに対し「世以て耳目を驚す。未曽有なり」という評判が沸き起こったことが記録に残っている。

 新人事発表からわずか二日後の一月七日には山門派のデモ隊が再びやってくるというデマが広まった。実際にその動きが見られることは無かったが、後白河法皇はこのデマを信じて検非違使に出動を命じている。

 さて、首都でこれだけの混乱が起こっていることを福原の平清盛はどう捉えていたのか?

 結論から言うと情報としては掴めていたが、その情報には不確定なものであった。平清盛という人はたしかに情報の重要性は理解している人である。ところが、平清盛の集めている情報収集手段は常設ではない。緊急時は大量に情報が入る代わりに通常はさほどの情報が入らない。福原の重要性が増したことで福原を訪問する人、そして、福原と京都とを結ぶ手紙のやり取りは増えているが、人も手紙も定時連絡ではないのだ。本作では先立って平清盛が福原で転地療養することのメリットを四点記し、四点目に情報の連続性を挙げた。その上で、失敗とするしかない対処をしたと記した。失敗とするしかない対処こそ情報収集の仕組みの構築についてである。

 本来であれば、緊急時だけでなく平常時であっても、また京都から離れた場所に身を置いていたとしても、情報を得続けることのできるシステムを作り上げておきべきところであるが、平清盛は平常時の情報収集システムを作り上げることに失敗していたのだ。情報収集システムそのものはあるものの、システムが稼働するのは緊急時のみ。平常時、情報が向こうからやってくるのを平清盛が集めることはあっても、平清盛の側から必要とする情報を能動的に集めることはなかったのである。福原の重要性を上昇させることで福原にも自然に情報が集まるようになったが、意図的な情報収集の構築までには至っていなかったのだ。

 それでいて平家の意思決定は平清盛のトップダウンだ。普段の平清盛は、些事であれば平重盛が決断を任せているが、緊急時だと判断すれば平清盛が乗り込んで決断をする。つまり、指揮系統が二重構造で存在することとなる。しかも、緊急時であるか否かを判断するかのは平清盛であり、そこに明確な基準はない。平重盛が平清盛のこの行動を黙って受け入れていたのは単に親子であったからであり、平清盛が実の父でなければ到底受け入れることなどできなかったであろう。

 ただでさえ定例の情報獲得手段を構築していない上に、平清盛は京都から離れた福原で暮らしている。平安京から福原までの距離は、現在の京都から神戸の距離ではない。ネットは無論、乗用車も鉄道も無い時代に京都から福原まで勝手に情報がやってくるとすれば、その情報は尾鰭の付いたものへと増幅されている。平清盛が手に入れている情報は真実が減らされたものであったと考えられ、ただちに情報収集にあたっている。

 嘉応二(一一七〇)年一月一三日、平頼盛、福原へ向かう。

 翌一月一四日、平重盛、福原へ向かう。

 平清盛が一日のタイムラグを置いてこの二人を呼び出したことで、福原が動きだすことは明白となった。平清盛が動き出すということは平家の軍勢が総動員されることを意味する。それだけでも物騒な話であるが、向かう先は比叡山延暦寺となると物騒の度合いが増す。これはもう全面戦争だ。

 どうなることかと見つめていた最中の嘉応二(一一七〇)年一月一七日、平清盛、上洛。これで武力衝突は現実味を帯びてきた。なお、名目はあくまでも弟の平経盛の務めてきた若狭守の任期満了と、後任の若狭守の推薦をはじめとする国司たちの任命のためである。実際、平清盛の上洛の翌日には平経盛の任期満了に伴う若狭守辞任と後任国司の指名をはじめとする各地の国司任命人事が執り行われている。その中には平頼盛の尾張権守兼任も含まれている。


 ただし、平清盛上洛のその理由をまともに信じる人はいなかった。藤原成親もそうした人の一人で、平清盛が上洛したまさにその日、藤原成親が検非違使別当の辞任を申し出たのである。危急の最中にこれは無責任と思うかもしれないが、ここで検非違使にできることなどたかが知れている、いや、検非違使にできることなど無い。藤原成親が狙ったのは、検非違使別当を辞職することで平家の誰かが検非違使別当になることである。平家の行動が武装蜂起でなく警察権力の発動ならば、これから起こるであろう武力衝突も朝廷の権威でどうにかなる可能性がある。何度も述べているが、平安京内のデモは禁止されていないのもの、武装した上での平安京内のデモは禁止されている。これは、事実上は寺社勢力の制御を狙ったものであっても、名目上は寺社勢力に限ったことではない。ゆえに、平家もまた、武装禁止の対象となる。平家の誰かが検非違使別当になるなら警察権力の発動となって平安京内でも武装していられるのであるが、検非違使とならなければ武装していること自体が違法行為になるのだ。山門派に限らず寺社勢力のデモ隊は、どうでもいい些事でも難癖をつけて暴れまわろうとする。目的は暴れまわることであって不正を糺すことではないのだが、不正を糺すというのは暴れまわるときの絶好の口実になるのだ。

 そこで平家の誰かが検非違使別当となったなら話は進むのだが、実際にはそうならなかった。武装禁止は平安京内だけの話であり、平安京の外では問題無しなのである。平家が本拠地を平安京の区画外である六波羅に置いていることのメリットが如実に発揮されることとなったのだ。

 これから戦乱が起ころうとしている上に、その一方が比叡山延暦寺の僧兵。山門派の人にとっては身を守ってくれるありがたい人たちであっても、それ以外の人にとっては迷惑至極の存在だ。ここで平家が山門派の僧兵達を徹底的にやっつけてくれるなら、物騒ではあるものの溜飲の下がる話になる。さらには、自分も武装して平家の一員となれば、これまでの怨みを晴らす絶好も機会に立ち会えるだけでなく、上手くいけば平家の勢力伸長の波に乗って人生を一気に好転させることも不可能ではない。そして何より、誰もが比叡山延暦寺の僧兵が相手であろうと間違いなく平家が勝つと考えている。戦争において明らかに勝つとわかっている側に一刻も早く加担するのは、戦争そのものを忌避できないときの次善の策の定番でもある。

 結果は、六波羅に詰め掛ける者の続出。嘉応二(一一七〇)年一月二一日の記録にも「幾多なるを知らず」「近日上下奔波し、更に以て安堵せず」と記されている。

 六波羅のこうした状態は山門派にとって大きな危機であった。山門派の内部では要求が白紙撤回されたことへの不平不満が渦巻いていたが、六波羅の武士集結の情報は比叡山延暦寺内部の意見を分断させることにもなったのである。強硬派はデモ再開を訴えるが、現実を直視する者は山門派の不利を悟り、要求の縮小ないしは撤回を訴えた。

 山門派内部でのこうした意見対立の情報は後白河法皇の元にも早々に届いてきており、一月二二日、後白河法皇は再び法住寺殿で公卿議定を開催した。議題は、もう一度藤原成親を配流し、平時忠と平信範の二人を召還することである。ただし、後白河法皇の議案は議論されたものの結論とは至らなかった。状況は山門派不利ではあるものの後白河法皇が有利であるというわけではなく、武力衝突となれば多くの人命が失われる可能性大であることに変わりはない。すなわち、現状のまま経過すれば山門派衰退による山門派の降伏も夢ではないが、行動してしまったら失われる命が数多いという状況である。

 公卿議定において後白河法皇が山門派に歩み寄りを示したことが情報として比叡山延暦寺にも伝わり、山門派の強硬派もここで一旦落ち着きを見せている。


 それから五日後の嘉応二(一一七〇)年一月二七日、単身上洛した山門派の僧綱が後白河法皇と面会し、改めて山門派の要求を示した。要求内容に変更は無く、これに対する後白河法皇の回答は、要求を認める代わりに今後一切のデモを禁止するか、デモを続ける代わりに要求を全面的に取り下げるかというものであった。これに対する山門派からの回答はない。

 後白河法皇は二月一日にさらなる妥協案を示す。藤原成親の再配流、平時忠と平信範の両名の召還を認めるという妥協案である。なお、この時点でも山門派からの回答はない。また、妥協案は正式な決定ではなく、二月四日時点で藤原成親の再配流が未定であり、再配流そのものが取りやめになるのではないかという憶測が流れている。

 嘉応二(一一七〇)年二月六日、山門派の回答の無いまま、藤原成親の解官と再配流が決まり、平時忠と平信範の両名の召還の宣下が正式に発令された。同時に、山門派の要求を認めたことから今後一切のデモが禁止されたこととなった。並行して、六波羅に詰めかけていた武士達にも解散が命じられ、平安京はようやく平穏を取り戻したこととなる。

 この一連の騒動を「嘉応の強訴」という。

 それにしても、この一連の騒動における後白河法皇の行動は意味不明である。強硬姿勢を見せたかと思えば山門派の要求丸呑みの姿勢も示し、貴族を集めて議論をさせた一方で、議決を無視して折衝にあたる。武士に動員をかけた一方で武力を活かすこともなく、終わってみれば山門派の勝利というべき内容だ。比叡山延暦寺の僧兵達に対して今後一切のデモを禁じるとさせたのは賞賛されるべき妥協点であると言えるが、それ以外に賞賛できるものはない。

 ところが、この意味不明さ、あるいは、約束を守ろうという意欲の欠落が、後白河法皇に味方をする。解官の上で配流と決まった藤原成親であるが、解官はなされたものの配流はいつまでたってもなされず、後述することになるが、嘉応二(一一七〇)年四月二一日には配流がなされないまま藤原成親の召喚が決まり、権中納言兼右兵衛督兼検非違使別当に就任したのである。現在でいうと、裁判で無期懲役となったのにいつまでたっても刑務所に入れられることのないまま日常生活を過ごしていたら、二ヶ月半で刑期満了となって釈放が決まり元の職務に戻ったようなものである。それでも犯罪に対する刑期を勤め上げたことに違いはなく、すでに罪を償った人に対して同じ罪でもう一度裁くこと許されないという鉄則はこの時代でも有効である。そのため、山門派が再び藤原成親の解官と配流を要求することはできないのだ。

 山門派は激怒したが、山門派の面々は、刑期満了で出所したという扱いになっている藤原成親が政界に復帰しているのを黙って見つめているしかできなかった。後白河法皇が最初からこれを狙っていたとすれば後白河法皇はなかなか策士である。もっとも、狙っていたとは夢にも思えないが。


 懸案となっていた平頼盛の政界復帰は嘉応の強訴のどさくさに紛れての政界復帰であり、後白河法皇が自らの過去の過ちを認めたわけではない。しかし、過去の過ちを認めなくとも、それがどさくさに紛れた結果であっても、平頼盛は政界に復帰し、平家の軍勢指揮が可能な者が相応の官職を得ることに成功した。

 嘉応の強訴が政界にもたらしたのは平頼盛の政界復帰だけではない。

 平清盛が政界の第一線を退いた後に迎えた政界の現状が、特に藤原摂関家の現状が誰の目にもわかる形で白日の下に晒されたのである。

 まず、摂政松殿基房は高倉天皇の代理としての職務を果たすことはできてもそれ以上の役割を果たす能力を持ち合わせていないことが如実に示された。もっとも、摂政はかなりの激務である。六条天皇よりは歳上であるとは言え、高倉天皇はまだ九歳、満年齢にすると小学三年生だ。儀式において天皇として定められている役割を果たすことはできても、二条天皇のように親政を執り行うなど不可能である。

 右大臣九条兼実はそれなりに役割を果たす能力があることが知れ渡ったが、同時に敵を数多く作る人であることも示された。左大臣藤原経宗が健在な状況下での右大臣であるから、九条兼実の意見は議政官における意見の一つとして討論されることはあっても、強権を以て意見を議決させる可能性は無い。それどころか、議政官の中において九条兼実に反発する意見を束ねることが国政を動かす意見の採決へとつながることまで示された。

 現時点で藤氏長者の地位は摂政松殿基房のもとにあるが、近衛基実の息子である近衛基通が元服して政界入りしたならば、藤氏長者の地位は近衛基通の元に渡すことが決まっている。だが、摂政松殿基房が大人しく藤氏長者の地位を甥に譲り渡すであろうかという疑念は払拭されることがなかった。

 有能とは言い切れない松殿基房と、有能ではあるが敵を多く作る九条兼実との関係において、平清盛は近衛基通への藤氏長者相続を前提とする九条兼実支持を表明した。嘉応の強訴のどさくさで平頼盛が政界復帰を果たした一方、放言癖はあるものの事務処理能力と検非違使としての業務遂行能力ならばあったことが判明した平時忠が解官されている。貴族界を渡り合うことのできる平家の中でのただ一人ともいうべき人物がいなくなった以上、現時点で議政官に身を置いている貴族との関係で平家はやっていくしかないのである。

 平清盛はまず左大臣藤原経宗へ接近した上で、左大臣藤原経宗も藤氏長者の地位が近衛基通に相続されるべきとする意見であることを確認し、その上で右大臣九条兼実への支持を表明した。さらに権大納言藤原隆季にも接近して近衛基通への藤氏長者の地位の相続について九条兼実と意見を同一とすることを確認した。

 平清盛が接近したのは議政官の貴族だけではない。皇太后平滋子の皇太后宮大夫である村上源氏の源通親を高倉天皇の側近の一人とさせることに成功し、高倉天皇と摂政松殿基房との関係に楔(くさび)を打ち込むことに成功した。

 平家と朝廷との関係についてゴールに達したのは嘉応二(一一七〇)年四月のことである。


 全ては四月一九日の後白河法皇の南都御幸にはじまる。南都とは奈良のことで、平安京と違って平城京では都市内に寺院を数多く建立させており、遷都後に残された寺院が平城京廃都となった後に都市の中軸と担うようになったことから、南都御幸と記すだけで上皇や法皇が奈良の地の寺院に向かうことを意味するようになっていた。

 その中でも特別であったのが東大寺だ。奈良における寺院の勢力では興福寺が群を抜いていたが、奈良の地で興福寺の勢力がいかに強くとも興福寺は法相宗の寺院であり、京都のすぐそばにある比叡山延暦寺の権勢が強くとも、あるいは園城寺が寺門派として一時代を築こうと、天台宗に限定している寺院であることの枠を越えることはない。一方、東大寺は、形骸化したとは言え日本国の全ての国に建立されている国分寺と国分尼寺とをまとめる寺院であり、総国分寺としての役割が乏しくなったとしても、嘉応二(一一七〇)年時点ではまだ日本国内の全ての仏教宗派を学ぶことのできる寺院としての権威を持っていた。一度出家した人が別の宗派の寺院でもう一度受戒することは珍しくなく、そのための寺院として全ての宗派を学ぶことができる寺院である奈良の東大寺が選ばれるのもごく普通のことであった。

 ところが、東大寺に平清盛が待ち構えているとなると話は変わる。鳥羽法皇と藤原忠実の例があるとは言え、法皇と一民間人が当日に東大寺で揃って受戒するのは異例中の異例だ。しかも、藤原忠実の頃は藤原氏の衰退途上であったのに対し、平清盛の場合は平家の興隆途上のできごとだ。藤原忠実は衰退しつつある藤原氏の権勢を取り戻そうとして鳥羽法皇と接近するための行動であったのに対し、平清盛はまさに権勢を強めようとする最中に興隆の拍車を強めるための行動であったことが大きな違いである。

 平清盛が後白河法皇と揃って受戒したのが、後白河法皇が京都を出発した翌日である四月二〇日。そして、四月二一日には平重盛が権大納言に復帰し、また、嘉応の強訴でも述べたが二月に解官され流罪となりながら配流されることなく京都にとどまっていた藤原成親が権中納言兼右兵衛督兼検非違使別当に復活した。山門派は怒りを見せたものの、刑期満了ゆえに出所したと同じ扱いになる藤原成親について山門派がどうこうできる余地は残されていなかった。

 そして、嘉応二(一一七〇)年四月二三日に、亡き近衛基実の嫡男である近衛基通が一一歳にして元服。この直後に平清盛の六女である平完子が近衛基通の元へと嫁いだことで、藤原摂関家と平家との関係は完成した。

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

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