「それが大臣(おとど)たる者の言葉とは思われません。」
「どのように言われても構わない。朝(ちょう)にはそのような力などなく、民にはそれを受けるだけの力などないのです。」
元慶七(八八三)年、陽成天皇を迎えての会議、「陣定(じんのさだめ)」の場は紛糾した。
通常、陣定は午前中のみの開催であり昼には終わる。
また、天皇や太政大臣、左右大臣の参加はないのが原則である。
しかし、この日は違った。陽成天皇が出席すると言ったのである。これには太政大臣藤原基経も慌てた。
基経は急遽自分も出席すると表明。さらに、右大臣源多(みなもとのまさる)が参加を表明し、態度を不明瞭としていた左大臣源融も最後には出席を決めた。
ここに、時の朝廷の最高権力者が集うという、通常ではあり得ない陣定が成立した。
朝から始まった陣定は、昼はおろか夕刻になっても終わらず、日も暮れだすという長いものとなった。
陣定は大納言以下の貴族が集まっての会議であり、そこでの議決はあくまでも参考意見に過ぎなかった。本来ならそこでの意見をもとに天皇が大臣たちや摂政と相談した上で最終結論を下すのである。
今回も当初はそうした通例の会議となるはずであった。
だが、陽成天皇が出席している以上、この陣定は参考意見に留まるはずなど無く、事実上の最終意志決定会議となった。
陽成天皇はこのときわずか一五歳。前年に元服を迎えたばかりの幼さの残る少年であったが、すでに何かをしようという大人の気概は表に現れていた。
この陽成天皇の参加は驚きを持って迎えられたが、その意味は誰もがすぐに察知した。
陽成天皇の母である藤原高子(ふじわらのたかいこ)は基経の実の妹である。そのため、陽成天皇にとって基経は伯父である。しかし、この兄と妹の関係はお世辞にも良いとは言えず、それは伯父と甥という関係にも影響を与えていた。
藤原高子が清和天皇と結婚したのは一八歳。これ自体は別に不都合なことではない。
問題はその清和天皇の年齢。九歳である。自分の半分の年齢の男の子のもとに一人、家のためだと嫁に出された藤原高子は、それを命じた実の兄に対する憎しみを日々募らせていった。
それでも成人を迎えた清和天皇の子を産み、その子は陽成天皇となった。そして藤原高子は天皇の実母、すなわち皇太后という高い身分に上り詰めた。
しかし、それでもなお藤原高子が兄に対する憎しみを打ち消すことはなかった。しかも、その兄は、夫から、そして我が子から権力を奪い、事実上の独裁者として君臨している。その状況下では皇太后という地位など意味はなかった。
陽成天皇はこの環境の中で育ったのである。
この藤原高子には味方がいた。反基経の勢力である。
そして、この勢力が結合すれば、基経の勢力をはるかに凌駕することは誰の目にも明らかであった。
基経が全くの孤立無援であったわけではない。ただ、藤原家という血筋しか基経に味方する要素はないも同然であった。
それは陽成天皇を取り巻く空気にも現れていた。基経にとっては妹との争いであっても、現実には貴族間の派閥争いであり、宮中の空気を重苦しいものとさせるものであった。
それでも基経は関係改善に心を配っていた。息子の時平(ときひら)を何度か宮中につれてきたのも、大人ばかりという環境の中にいる陽成天皇の心の支えにさせると同時に、関係改善のきっかけとしてでもあった。また、陽成天皇の乳母であった紀全子(きのまたこ)の子、源益(みなもとのすすむ)も宮中に出入りさせるようにし、若者三人が常だって行動するという図式を成立させた。
学ぶのも一緒、遊ぶのも一緒という取り合わせは、ほほえましい若者の光景であった。
そしてそれは陽成天皇にとっても数少ない心の安らぎの時間であった。
家にあっては詩を詠み、外にあっては馬で野原を駆け巡る。それは健全な若者の光景としてみられていた。
ただ、それも表面上にすぎなかった。
「これは!」
陽成天皇が目の当たりにしたのは、橋の下に逃れた者の姿であった。
これには時平も源益も言葉を失った。
服はボロボロ、髪はバサバサ、痩せ細ったそうした人たちが、木をくり貫いて作ったか、土をこねて乾燥させたのか、明らかにちゃんとしたのではない器を手にしていた。
彼らは列を作り、大きな鍋で炊かれた粥を器に入れてもらっていた。
「施(せ)(食料の無料配給)ですね。」
この中での最年長である源益が言った。
「それはわかっている。なぜこんなことになっているのかと聞いているのだ。」
「貧しいからです。」
「なぜそんなに落ち着いていられる!」
源益は終始落ち着き払っていた。
それが陽成天皇の癪に触れた。
この三人の関係は、常に冷静でいる源益が場を仕切り、常に直情的な陽成天皇が逆らいながらも行動を共にし、最年少でありまだ一三歳の時平が二人の後を着いていくという図式である。
「コメもムギもないのです。収穫は乏しく、税は高く、家には食べ物などありません。食べ物を買いたくても高くてとても買えません。彼らにはああして施しを受けるしか生きていく術がないのです。」
そんなことは陽成天皇にもわかっている。
しかし、求めている答えはそうではなかった。なぜこのような事態になったのかが求めている答えだった。
それは源益にもわかっていた。しかし、答えようがなかった。答えがわからないのだから。
「主上(当時の人が天皇を呼ぶときに用いた敬語)、それは律令をないがしろにしているからです。」
答えを求められた橘広相(たちばなのひろみ)は喜びに満ちあふれた表情で応えた。橘広相は三人の直接の教師ではないが、学者出身の貴族であり、周囲からはその博識で一目置かれていた。
橘広相は藤原兄妹の権力闘争が渦巻いている中を生き抜くために、藤原高子(ふじわらのたかいこ)と手を組んでいた。基経への反発という点なら共通しているだけに、目指すところは違っていてもその組み合わせは意外なほどスムーズに実現していた。
この日、陽成天皇が橘広相と会ったのも母の影響が強い。基経の実子である時平もここにいたが、憎き基経の子であるとは言え、自分の子を兄のように慕う幼い甥に対する感情は悪いものではなかった。
「律令はいまのような本朝(ほんちょう・この当時の日本人が『我が国』といった感覚で使っていた言葉)を作ることなど書いておりません。律令の精神に帰り、本朝をあるべき姿に戻せば民は豊かになり、本朝はますます栄えるのです。」
「それだけで良いのか?」
「律令は正しいのに、それをもとに政(まつりごと)を行なっていないのが問題なのです。」
橘広相のあまりにも単純な言葉に陽成天皇は一瞬にして完全に感化された。
一方の源益は、橘広相の考えをあまり聞き入れていなかった。それはまだ、何だか疑わしいぐらいの感覚であり、明確な抵抗ではなかった。
時平は何となく陽成天皇と同じような感覚であった。陽成天皇のような熱狂的支持といったわけではなかったが、源益のように背を向けるのもどうかと思う程度の感じであった。
それからの陽成天皇は、源益と行動を共にする回数が減り、時平を連れて橘広相のもとを訪れることが増えた。
世の中に問題が多いと考えながら、その問題の解決は単純な思想で足りると思うのはいつの時代にもいる。それは、裕福な家の若者にかかる流行病のようなものであり、他者に危害を加えない限り無視すれば済む。ある程度の年齢になって現実を観る立場になると自然と治ることが多いから、暴れないなら放っておいて良い。
ただし、ここには問題が二つある。一つは治らなかった場合、もう一つは治る前に権力を握ってしまった場合である。
このときはその二つが重なってしまっていた。
それまでは摂政である基経のもとに権力が集中していた。陽成天皇が幼かったからである。しかし、元服した以上陽成天皇は大人であり、摂政職を置く必要はなくなる。なぜなら、摂政という職は「勅ス。天下ノ政(まつりごと)ヲ摂行セヨ」という勅令により置かれる職であり、それは天皇が年少であるためにその職務を遂行できないと判断されたときに置かれる職だからである。
即位からこれまでずっと基経の支配にあった陽成天皇は、元服を期にそれまで心に秘めていた思いを実現させようと画策した。
その狙いとは、天皇親政。家臣に任せず自ら政治を執り行おうというのである。陽成天皇は野心に満ち、気概に満ちていた。そして、その野心を味方する者が多いこの陣定に意志決定の場を設けた。
天皇親政のためには事実上の最高権力者である基経から独立する必要があった。そのため、陽成天皇は基経の意見には露骨に不快感を示す一方、橘広相ら学者の意見は真剣に耳を傾けていた。
ここにいる誰もが同じ問題に頭を悩ませていた。
朝廷の財源不足である。
現在は借金という形で税収の不足を後回しにする技術があるが、この時代はそうした考えなどなく、税収だけが国庫収入であり、それだけが支出可能な財政あった。
律令によって定められた理想は素晴らしいものであった。米は安く売られ貧しい人には無料で配られる。全ての医療は無料。それでいて直接税の税率はわずか三パーセント。その他に土地の特産物の納入と肉体労働があったが、それも本来ならば苦痛にならないレベルのものであるはずだった。
しかし、それはあくまでも理想だった。
国の支出に比べてあまりにも少なすぎる収入は最初から無理があった。それは国に何も起こらず、特別な支出がないということが大前提となっていたからである。
だが、最近の二〇年間を振り返ってみても、富士山の噴火にはじまり、死者の出る地震が京都だけでも三度発生。さらに、それよりも大きな地震が東北地方、関東地方、山陰地方に発生。日本全国に拡がる疫病の流行。台風による洪水と土砂崩れ。天候不順による不作。そして、海の向こうからは新羅の侵略。その対策のために国家予算は前年の一割以上の増加を必要とし続けていた。
支出を抑えるために貴族や官僚の給与削減、あるいは公共事業の削減、さらには新羅からの侵略を目の当たりにしながら軍事力の削減とあれこれと手を打ち出していたが、それはもはや限界だった。
結果は増税。三パーセントであるはずの直接税が次第に増えていき、ときには収穫の半分を差し出してもなお足らないという事態にまで陥った。
それでも庶民は耐えていた。しかし、元慶二(八七八)年からの全国的な不作はその忍耐も破綻したことを示した。収穫はなく、餓死する者多数。生きている者は重い税から逃れようと有力者の庇護を頼るようになった。
荘園の始まりである。
不作であろうと税は課される。しかし、税を課されても払う余力はない。そのとき庶民はどうしたか。自分の土地を売ったのだ。それも有力者に。
それまでは自分の土地だから税が課された。しかし、これからは自分の土地ではない。税を取り立てに来た役人など簡単にクビにできるだけの権力を持った有力者の土地であり、自分はその使用人としてこの土地を耕しているだけ。税は土地の所有者であるその有力者の所に行って取り立ててくれ。できるものなら。
無論、所有者となった有力者に年貢は払う。だが、その額は律令に比べれば段違いに低い上、律令では題目にしか挙げられていない様々な保護が有力者より得られる。
有力者にとっても、手厚い保護を掲げれば土地を渡す農民が増え、納められる年貢が増える。年貢が増えれば豊かになり、豊かさはより手厚い保護を生み出す基となる。手厚い保護は評判を呼び、評判は土地を差し出す農民を増やす。
豊かさは豊かさを生み、その豊かさを持つ者の元へ逃れて身を守ろうとする者が増える。
農民は暮らしを向上させることを願い、貴族はさらなる豊かさを実現する。それが荘園制度を生み出した。
ここに国への負担という概念はない。
これは律令の定めた税制の崩壊である。富は有力貴族に集中し、国庫財政はたちまち空になった。
基経は藤原氏筆頭という最高の貴族でありながら、しかも、自身が最大の荘園所有者でありながらそれを憂慮していた。
無論、ここにいる誰もがそれを問題だと考えていた。
しかし、議論を重ねても出てくるのは「律令を再び活かし、律令通りの社会に戻そう」という意見ばかりであり、現実を見つめる意見が出なかった。
しかも陽成天皇は諸手をあげて賛成した。
だが、基経は訴えた。
「律令に従った結果が今の本朝ではないか。改めるは律令のほうだ。」
「それはおかしなことを仰る。」
太政大臣という最高位にまで上り詰めた基経であるが、自分はこの陣定で孤立しているということを理解した。
基経はわかっていた。
最大の荘園所有者となった自分では、それがたとえ国を思い、民を思ったことであろうと、自分の私利私欲ととられてしまうことを。
「ときに、時平。そちは今年でいくつになった。」
「一三です。」
「すると、忠平はもう四つか。」
時平には二人の弟がいる。四歳下の仲平と九歳下の忠平である。
「ついこの間生まれたばかりかと思っていたのに、時の経つというのは早いものだな。」
京の都が視界から消えるあたりまで、時平は馬で進んだ。
いつもは、家の中では弟たちと、家の外では陽成天皇や源益と一緒にいるので、そうではないのは久しぶりであった。
時平の横には、妻が時平の姉であることから時平にとっては義理の兄にあたる源能有がいた。
警護の者はいたがあまり近寄らずにいるため、ここは二人きりである。
能有は陽成天皇の父である清和天皇の兄であるため、陽成天皇から見れば伯父にあたる。
ただし、能有は母の身分が低いため皇位継承対象者から早々に外され、源の姓を与えられて皇族から外されていた。
ところが、この者の才能は高かったのである。基経は早い段階でその才能を見抜き、自分の娘を嫁に出すことで藤原一門に加えた上で、自分の側近の一人に任命していた。
基経はこの能有に、父が憂慮していることを学ばせる教師役を任せたのである。
その能有が連れてきたのは小さな村だった。
ただ、村ではあるのだが人の気配はなく、ほこりのかぶった民家があるのみだった。
二人は馬を降りて近寄った。
「誰もいませんね。」
「なぜだかわかるか。」
「いえ。でも、もう誰もいなくなってからかなり時間が経っているのではないでしょうか。だとすると……」
時平はそこまで言って言葉を詰まらせた。
このとき、時平は口に出すのもはばかられるような考えを浮かべていた。
一人残らず死んだのではないかと。
「だとすると、何だ?」
「いえ、何でもないです。」
「全員死んだとでも考えたか。」
能有の言葉に時平は敏感に反応した。
「……、はい。」
「安心しろ。この村の者が一人残らず死んだのではない。」
「そうですか。」
「ここは都に近い。この村の者は一人残らず都に逃れた。都に行けばまだマシだと考えたのだろう。」
このとき、時平は陽成天皇と源益と三人で行った貧しい人たちのことを思い出していた。
「村の暮らしが厳しいからだ。時平はこうした村の暮らしがどのようなものであるか知っておるか。」
「学んでいます。」
「学んだだけか。見たことはないのか?」
「はい。」
「ついてこい。村に残った者がどんな暮らしか見せてやる。」
そう言い終わったか終わらないかのタイミングで能有は馬に乗り、馬を駆けさせた。
時平はついていくのがやっとだった。
その村は無人の村よりさらに活気がなかった。
人はいた。しかし、誰もかもが痩せこけ、骨と皮だけの有様であった。
道ばたには生きているのか死んでいるのかわからない人が座っていた。気力は全くなく、ただ時の過ぎるのを眺めているだけであった。
人の死体も転がっていた。埋葬する者もおらず、野良犬に食べられるがままにされているのを止める者は居なかった。
「な、なな……」
時平は言葉を失った。そのおぞましい光景に時平は吐き気さえ覚え、視線を逸らした。
「目を逸らすな!」
能有は一喝した。
「は、はい。」
「ここにいる者も時平も同じ人間だ。暮らしだけが違っている。それだけだ。」
時平は正面を見据えた。
誰もが疲れ果てていてこちらを見ようとしない。
生涯目にすることの無いであろう豪華な服に身をくるんだ貴族のことなど、気にとめる余裕もなかった。
ここに比べれば、都で施しを受けている者など天国の暮らしではないかとさえ思われた。
時平は馬を降り、自分の襟をつかみ、服を脱ぎながら近寄っていこうとした。
「どこへ行く。」
能有の言葉に、時平の歩みは停まった。
「着ているものをくれてやるのか? それとも、銭でも与えるのか?」
「いけませんか!」
「誰か一人に与えればその一人は助かる。しかし、貰えなかった他の者はどうなる。この村の者全てに渡せたとしても、こんな村は本朝のいたるところにある。本朝の全ての民に銭と服を差し出せるのならそうしろ。時平にそれだけの財はあるかどうかは知らんが。」
「……、ありません。」
「無いのは時平だけではない。藤原の全ての財をかき集めても、本朝の全ての財をかき集めても、そんなことはできない。」
「まさか。本朝の全てを集めれば行き渡る……」
「無いのだ。服も銭も。本朝の全ての財を集めても、全ての民に行き渡らせることなどできん。時平はまさか、誰かが隠し持っているとか、誰かが不当にたくさんかき集めているとか考えていないか。全ての人に行き渡らないのは誰かのせいだとでも考えていないか。」
「考えています。」
「では、それは誰だ。」
「我々です。我々貴族です。」
本来なら時平は何も言い返せなかいはずだった。しかし、何かは言い返したかった。特に、陽成天皇ほどではないにせよ、時平もまた橘広相の影響を受けている。
一三歳という若さからくる無鉄砲さからか、経験も実績も申し分ない相手に、橘広相の理論を借りて逆らおうとした。
「では、我々貴族が全ての財を差し出せば、この世から貧困は消えるのか。」
「消えます!」
「そうか。」
能有はそう言うと唇をゆるませた。
「貴族はせいぜい百人。本朝の民は百万とも一千万ともいう。貴族から全ての財を召し上げて民に配っても、麦飯一杯ずつ配って終わりだ。」
「……」
時平は黙り込んだ。
自分は貴族として贅の限りを尽くしているという思いは、橘広相に出会ってからずっと抱いていた。
自分の着ている服も、自分の食事も、読み散らかした本でさえも、庶民には一生目にすることのない贅沢品だと知っている。
だからそこに負い目を感じていた。そして、そのせいで苦しんでいる人がいると感じていた。
その感じは、今日のこの日にはっきりとした。
そしてこう考えた。
想像を絶する貧困が現実に存在している。だからこれをどうにかしなければならない。
最初は自分たちが贅沢をしなければ彼らを助けられると考えた。
だが、それを無くしても麦飯一杯にしかならないことなど考えも及ばなかった。
「どうすればよいのか、考えが浮かんだか?」
「すぐには……、思いつきません。」
「簡単なことだ。本朝の財を増やせばよい。」
「!」
「収穫の五割が税だとして、一石(いっこく)(この当時の一石は約六〇キロ)しか収穫できなかったときと、二石収穫できたときとでは、手元に残るのは倍になる。どちらが豊かは言うまでもない。」
時平は黙って聞いていた。
「財の総量は決まっているものではない。増えるときもあれば減るときもある。財の総量が増えれば貧しい人も減る。時平、我々の仕事は財を分け与えることではない。財を増やすことだ。」
「では、それはどのようにすれば。」
「ついてこい。これが最後だ。」
能有は馬を引き返した。
時平は能有のあとをついていった。
別の村に着いた。
「にぎやかな村ですね。」
時平は村に近寄った。
村には活気があった。
「時平、そなたは知らないだろうが、この村はかつて道ばたに人の死体の散乱する生き地獄だった。さっきの村のようにな。それが今ではここまで戻っている。」
「そうですか。」
能有の言葉は一三歳の少年には少なからず希望を与えた。豊かになりつつある村があることは、素直に喜びを感じられることであった。
「そちの父の所領となったのが四年前、それから四年でここまで持ち直した。そなたの父が彼らを守り、そして、時を経ればそなたが村を守るようになる。」
「この村を……」
「この村は律令ではなく藤原が守っている。律令は素晴らしい考えのもとに作られた掟だが、その考えはもはや民を苦しめるだけでしかない。時平、財を増やすために求められること、それは、民に無理をさせないということだ。できること以上のことを求めず、できることだけを求める。そうすればおのずと財は増える。時平、父を継いでこの国を掴め。そしてこの国を改めよ。全ての村をこの村のようにするために。」
「この国を……、掴む……」
「律令の精神に則り、律令の理想を成す。」
「異議なし。」
この決議に異議を唱えたのは一人しかいなかった。
基経である。
陣定の結論は日が暮れてやっと固まった。
基経の意見は無視されるようになり、最後には基経も黙り込むようになった。
陽成天皇の親政はこのとき始まった。
「(命を懸けてでも止めるべきであっただろうか、それとも、私が間違っているのか)」
基経の失脚と誰もが考え、その喜びは誰もが隠せなかった。
ある者は正義の実現と考え、ある者は理想の現実化と考え、ある者は自分たちの時代の到来と考えた。
陽成天皇の側近の特長。それは学者揃いであるということ。それも、自分の理想を昔の日本、この時代から見ての昔、つまり、律令制が樹立されて間もない頃、天武天皇の時代の日本に理想を求める学者揃いであるということである。
学者に限らずインテリを自認する者が現在の社会を憂うこと古今東西変わりがない。そして、自分の理想を外に求めることも今と同じである。ただ、五〇年前を最後に遣唐使が事実上途絶え、唐に内乱(黄巣の乱)が起きて以後、学者は唐を理想としなくなった。理想が国境の外ではなく時間を超えた書物の中に移ったのである。
言うなれば復古であり、今の日本人の感覚で行くと護憲である。スタートの理想は正しいのだから、その理想が実現していない現在の社会のほうがおかしいと考える人間がいるのは昔も今も変わらない。
一方、基経は学者ではない。学者たちとは交流を持っているし、学者たちの学んだ書物も一通り学んでいる。また、自分の子供たちへの教育は学者の家庭と変わらぬ、時には学者以上の教育を施している。そのため、学者たちと対等に話ができるだけの素養を身につけている。
ただ、基経は実務家なのである。実務家の前には常に現実が横たわっている。理想と現実とが食い違っているとき、現実が間違っていると考えていられる学者と違い、現実のためには理想を捨てなければならないことを実務家は知っている。
「(時平はそろそろ戻った頃か。時平の時代にはこんな時代でなくなってくれることを願うが……)」
帰りの牛車の中で、基経は自分の無力を悟っていた。
基経は藤原氏の当主であるが、それは血筋ではなく抜擢による。
基経は藤原北家藤原長良の三男として生まれた。本来なら藤原の当主となれる家系ではない。だが、ときの藤原家当主の良房は、この若者の才能に目をつけた。基経を養子に迎え、自分の後継者、すなわち藤原家当主の座を用意したのである。
基経は目をつけられただけあって有能であった。ただ、欠点もあった。気が弱く我が強いのである。
他者の考えを聞き入れる能力はあった。しかし、それが自分の意見と異なるときは従わない。ただ、そこに強烈な自信はないから、自分の意志を通した後で、自分のしたことが誤りではないかと思い悩むようになる。
こうした人間が権力を握るとどうなるか。ひとたび自分の意志が通らなくなると何もしなくなるのである。自分の役割は無くなったと考え引きこもるようになるか、引きこもらなくても無気力になる。
それまでは最高権力者も同然であったから別にそれでも良かった。何しろ、自分と異なる意見に従わなければ意見のほうが勝手に立ち消えになるのである。
だが、今はそうではない。自分がいくら摂政で太政大臣だと言っても、天皇に対しては一臣下にすぎない。そして、天皇とは意見が合わなくなっている。
養子となり、養父の跡を継ぎ、摂政となり太政大臣となった。しかし、その後は何が起きたか。
飢饉であり、疫病であり、戦乱である。
こうした社会不安は自然がもたらす不幸とする考えはこの時代無かった。そうではなく、執政者に対し天がその地位に相応しくないと判断した結果の天罰だという考えが一般的であった。
たしかに自然災害が起こったときの対処が正しければ被害を少なくすることは可能であるからこの考えは一理ある。
だからなのか、基経は自分の執政者としての能力に疑いを持つようになった。いつものように我を通したがそれは受け入れられなかった。しかも、自分と異なる意見がこれからの政治だと決まった。
家に着いた基経は、一足先に家に戻っていた子供たちに迎えられた。
子供たちは父の思い詰めた様子と、一言もしゃべらずに奥に籠もったことに不安を抱いた。
「兄上、父上はいかがなされたのでしょうか。」
時平は弟の問いに答えられなかった。
子供たちの不安は翌日明らかとなった。
藤原基経、太政大臣辞任を表明。
これを聞いた藤原高子は狂喜乱舞した。しかし、陽成天皇のほうが現実を見たのである。
それは、基経の居なくなった宮中でまともに働いているのが伯父の能有ただ一人だという事実である。
陽成天皇は辞表の受けとりを拒否。
これに対し、基経は出勤ボイコットで応える。
太政大臣のいなくなった内裏は、基経に出勤を要請するが基経はあくまでも辞任を主張し、二者の関係は平行線のままとなる。
陽成天皇は自分の理想のために働くよう基経に求める。
基経はそのためには働けないと主張する。
陽成天皇は基経からの独立を望んでいたが、有能な実務家を必要とはしていた。そして、基経がいなくなって初めて気づいた。
今の宮中には基経以上の実務家がいないという事実である。議論をさせれば活発な討論をする貴族なら掃いて捨てるほどいる。しかし、基経のように話を聞き、基経のように決断し、基経のように働く者はただ一人、能有しかいなかった。
いかに能有が懸命に働こうと、能有は数多くの貴族の一人という立場。太政大臣という地位を利用できる基経の力には及ばなかった。
遅すぎる考えではあったが、陽成天皇にとって基経以上に頼れる側近などいなかった。
ただ、自分の理想を捨てる思いは全くなかった。
その間も政務は執り行わねばならない。
結果、陣定の開催回数が増え、会議の時間も回を重ねるごとに長引いていった。
それまでは基経がしていた決断を彼らに求めるしかなかったからだが、彼らに決断を求めるのは無謀だった。
長々と議論を繰り返したあげく、結局は結論の出ぬまま日没を迎える。たまに結論が早々に出ることがあったが、それは良くない内容の報告への回答で、うまくいかないことがおかしいと結論づけ、律令を守れと命令するのである。
その繰り返しは基経の耳にも届いていたが、基経はそれでも動かなかった。
貴族とは五位以上の者である。厳密には三位と四位との間に境界線が設けられており、三位以上を『貴』、四位以下を『通貴』と呼んで分けられるが、通常は双方あわせて『貴族』とする。
そして、位に応じた職務を遂行するのが貴族の役目である。言うなれば現在の国会議員や都道府県知事と同じような職務であるが、選挙で選ばれればそれまでの職が何であろうとその地位に就ける現在と違い、この時代は位を持つ者だけがその職務に就けた。
実績を残した無位無冠の者や一部特権階級の子弟がいきなり職務に就くことがあったが、それとて位を与えられた上でのことである。こうした幸運に巡り会えなければ、六位以下から這い上がり、位を得るしかなかった。
しかし、六位以下から這い上がってくると言っても、最下位から這い上がることは物理的に無理である。上に上がるチャンスは六年に一回から二回。だいたい七位以上になるとそのチャンスの回数自体が増えるので出世しやすくなるが、それ以下でそうした例はきわめて珍しい。そのため、最下位から出世レースに挑んでも、定年を迎えるまでに七位に達することができるかどうかである。
そのため、一部の者には特権として、五位やそれに近い場所から出世レースに挑戦できた。
その一部の者とは二種類。
有力者の子弟であること。
筆記試験で抜群の成績を残した者であること。
日本には科挙が無かったというのは間違いではない。確かに科挙という名称は制度として存在していなかったし、科挙で合格した者が宮中の中心となったわけでもない。
しかし、有能な人材を試験で選抜しようという概念はかなり前から存在していた。そして、それはこの時代ピークを迎えていた。
言うなれば、藤原氏を筆頭とする家柄によるエリートと、橘氏を筆頭とする学問によるエリートとの二大政党制が確立されていて、与党であった藤原派が政争に敗れ、野党である学者派が権力を握ったようなものである。
最高権力者の失脚は市井の噂話にも上り、それは明るいニュースとしてかけ巡った。
それは、家柄だけを頼りに権力を握った悪の無能な独裁者が、実力で這い上がってきた有能な学者派の正義の鉄槌を食らったという感覚であった。そして、あとは輝かしい未来がやってくるはずだった。
しかし、時代はもはや律令の理想を叶えられるようなものではなくなっていた。
税を集めなおそうにも、既に有力者の手に渡っていた土地からは税を集められなかった。
労働義務を課そうにも、有力者は自らの土地の農民を守り続けた。
地方の特産品にいたっては考えるだけ無駄であった。何が特産品なのかという記録すら既に失われおり、記録を掘り起こさなければならなかった。掘り起こすことに成功しても律令成立からすでに一八〇年以上経っている。一八〇年前の特産品の記録など役に立たなかった。
しかし、陽成天皇は結果を求め、陣定は結果が出ないことがおかしいと結論づける。
その負担は有力者の庇護を受けられない貧しい者に押しつけられた。
結果、村を逃げ出す者が増え、逃げ出さなくても自分の土地を有力者に売り渡す者がさらに増えた。
中には確かに自分の土地であることにこだわった者もいた。そして真面目に税を払う者もいた。しかし、その結果は無惨なものだった。
その高すぎる税を払えずに役人につれ回され、むち打たれて命を失う者が出た。
家の中の全てのものを役人に奪い取られ、来年の種籾もなくなり、一家全員が餓死する者が出た。
強制労働は過酷さを増し、道ばたに放置される死体となった者が出た。
誰もが律令を逃れて荘園の者になることを願うようになった。
そして、このときもっとも所領を増やしたのが、陽成天皇の側近となっていた学者出身の貴族たちであった。彼らは自分の所領に対して律令を適用するなど考えもしなかった。
自分の所領は増やす。それ以外は律令を適用する。
インテリの特権意識が如実に現れていた。
基経がこの動きに対して何もしていなかったわけではない。
まず、自らの保護を求める者を次々と増やしていた。すなわち、藤原氏所有の荘園の増大である。伸び率も伸び数も学者派に比べれば低いものがあったが、もとが大きいために最大の荘園所有者として目立っていた。
また、藤原氏所有の倉庫からコメを運び出し、税を逃れて都に逃れてきた貧しい人たちに、時には格安で、時には無料で分け与えた。しかもそれを陽成天皇の名で実施したのである。
はじめは律令の成果と感心した庶民であったが、それが藤原の倉庫から、藤原の指示により、藤原の家臣が行なっていることはすぐに明らかとなった。
陽成天皇は激怒した。そして、命じた。
基経にはただちにコメの支給を停止すること。
陣定には、基経がやっていた以上のコメの支給をこれからは国が行うこと。
結論から言うと、前者は成功し、後者は失敗した。理由は単純で、国にはそんなコメの蓄えなど無かったのである。
この時代のコメは単なる食料ではない。税の基礎であり、事実上の貨幣であった。確かに銅貨は存在していたが、銅貨の決済は少額に限られ、大きな金額はコメを中継にすることが多かった。
すなわち、銅貨の所有は市場での物の購入を可能とさせるものであり、庶民にとってはその多少が財産の大小を示す。しかし、貴族や国家にとっては貨幣の多少など財産とはさほど関係が無く、コメの在庫量こそが財産の大小である。そして、国にコメがないということは、単なる食糧不足ではなく、国家財政がそこまで逼迫しているということである。
基経が陽成天皇の命令に従ったことは、都にパニックを引き起こした。これまで何とかやりくりできたのは基経のコメのおかげであったのにそれが無くなった。
その途端、コメの値段が急騰。前年末には一升で四〇文だったのが、五月には六一文、七月には八九文にまで跳ね上がった。これはインフレなどというレベルを越えた経済危機である。
これに対し陣定は無力であった。コメの値段を下げるよう命令を出すが、これは完全に無視された。
ここにきてはじめて基経が内裏に現れた。
いまだ摂政であり太政大臣である。だから、基経が内裏にいることは驚きをもって迎えられたが、法に触れるわけではない。
「これ以上民に負担をかけると言うのであれば、民は暴れだし、都に限らず、本朝の全てが血にまみれることとなりましょう。」
実際、この数日前には上総国(現在の千葉県)市原で高すぎる税に対する暴動が起きたとの連絡が都に届いていた。
「何を言われる。貴公の持つ土地からどれだけのコメが穫れ、どれだけのコメが貴公の蔵に蓄えられたのかご存じないのですか。」
「左様。貴公の土地から税が納められていればこのような事態にはなっておらん。」
「律令を否定するのは、自らの財をため込むためであろう。げに豊かなるは……」
「その全てはとっくに都で放出しました!」
それは宮中で初めて見せた基経の怒りの声であった。
自分は身銭を切って救い出そうとしているのに、ここにいる者どもは身銭を切らないどころか蓄えを増やすのに懸命になっていた。それが基経には我慢ならなかった。
「律令を守るというなら、まず自分が範を示しなさい! 範を示せないならそんな律令など捨ててしまいなさい! 主上! なぜこのような愚か者どもの言うことを聞くのです! いま必要なのは民の貧しさを救い出すことです! それができないのなら退位なさい!」
宮中は静まり返った。
それは場の勢いで出たような言葉であったかもしれない。しかし、太政大臣が他の貴族を愚か者と罵倒し、天皇に退位を迫ったのである。
本来ならば、いくら太政大臣であろうとその場で命を無くしてもおかしくない状況である。
だが、そうはならなかった。
基経復帰の一報は、コメの値段を落ち着かせた。
それはいくら基経を嫌っている人であろうと認めなければならない事実であった。
反基経の急先鋒であった藤原高子ですらそれは認めなければならなかった。
基経はその経済の信頼に応え、税を安くし、労働義務を大幅に減らすことで、暫定的ではあるが庶民の負担を減らす処置をとった。
陽成天皇の陣定出席については、律令で定められていないとして反対した。ただし、大臣であるため基経も参加できない。
そこで、能有に従四位下の位を与えさせることで陣定に送り込み、議決をコントロールすることに成功した。
基経の権力奪取である。
だが、これが陽成天皇の精神に暗い影を落とした。
理想を実現させようとしたら失敗した。
その理想に反対した者がいま権力を握っている。
しかも理想と異なる行動をしているのに結果を出している。
これは自分の無力さと悔しさをたたき込まれ続けるということである。
陽成天皇はまだ一六歳の少年であった。その少年にこの現実は受け入れがたいものであった。
それでも何とか自分自身の精神の安定を取り戻そうとはしていた。しかし、安定して見えるそれは豪雨に晒され決壊寸前の堤防のようなものであった。
友人として行動を共にしていた二人のうち、源益とは橘広相の考えを受け入れるか否かで対立して以来顔を合わせていない。時平は父と行動を共にして宮中に顔を見せていない。
その代わりに毎日のように会っているのが、失望のただ中にある母藤原高子や、同じく茫然自失としている橘広相らの貴族たちである。
彼らもまた自分たちの理想が費えたことに失望していた。そして、彼らの失望は源益や時平と過ごしたときのような楽しい日々とは無縁であった。
そして、一一月、陽成天皇の心の堤防は壊れた。
源益の突然の死である。
それも病死ではなく、明らかに外傷を加えられての死である。しかも、場所は宮中。
陽成天皇に源益の死を伝えたのは母の藤原高子である。そして藤原高子からはただ一言、「源益は死んだ」とだけしか伝えられなかった。
それを信じなかった陽成天皇も、現実の死体となっている源益の姿を見てそれが事実であることを悟る。
それを目の前にしても何の感情も示さぬ母。
この母の態度が最後の一撃となった。
陽成天皇が半狂乱になって暴れ出し、周囲が何とか留めるものの、ケガや破壊の様子から、どう言いつくろうと人が暴れた痕跡は隠すことができない有様となった。
源益が誰かに殺されたのか、それとも事故死なのかは今でもわからない。しかし、一つの噂が立ち、それを打ち消すことはできなくなっていた。
陽成天皇が源益を殴り殺したのだという噂である。
それはこの後の陽成天皇の行動が輪をかけることになった。
馬好きの源益を偲ぶため、源益の飼っていた馬を引き取った陽成天皇は、宮中に厩を造らせ、源益の馬の手入れをしていた者も宮中に住まわせて世話をさせた。
しかし、これが噂になると、馬小屋を宮中に造り、馬を宮中に解き放って暴れさせたことになり、その馬の世話をする者を招き入れたことは卑しい身分の者を宮中に入れたことになるのである。そして、源益を殴り殺したのはその馬を手にするためであり、馬を暴れさせるのと止めたからであったと、噂の肉付けがされた。
関係が最後はこじれたとは言え、ともに時を過ごした親友を失って以後の陽成天皇は、周囲が声を掛けるのもはばかられるようになった。
世間のそうした噂に対処するため、基経は、厩を宮中の外に移設し、馬も世話役もそちらへ移転させた。そして、その馬の飼育は公用のためであるとアピールさせた。現在で言うと黒塗りの公用車とその運転手である。
これは多少なりとも噂を和らげる効果があった。
しかし、肝心の陽成天皇の行動が現状のままではどうにもならないと判断。
前回は言葉の勢いであったが、今回は熟慮の末に基経はこう言った。
「今のままでは退位させねばならない。」
時は年末。世間が新年の準備にいそしむ頃、基経は次年度の政局に頭を悩ませていた。
この状態で元慶八(八八四)年の正月を迎える。
陽成天皇の退位は、基経の中ではもはや既定路線になっていた。
久しぶりに陽成天皇に会った時平は、ついこの間まで三人で行動していた頃の面影もなくなっていることに驚きを隠せなかった。
オフィシャルな場でしか接することのない基経は、せめてプライベートな場だけでも陽成天皇が明るさを取り戻してくれていることを望んでいたが、自分よりも陽成天皇を知る時平の愕然はプライベートの陽成天皇もまたオフィシャルな場でのそれと変わらないことをこれ以上無く教えてくれた。
その上、陽成天皇に対する世間の評判は最悪だった。
このまま帝位に居続けることは、陽成天皇にとっても、国民感情にとっても不幸だった。
だが、誰を帝位に就けるのか。
最初の候補者は仁明天皇のときに廃太子された恒貞親王であったが、親王は既に出家し、還俗(僧を辞めること)の意志もないため立ち消えになった。
続いて候補に挙がったのが、仁明天皇の第三皇子である時康親王であった。時康親王の母は藤原総継の娘である沢子で、基経の母の乙春とは姉妹であることから時康親王は基経の従兄弟にあたる。
穏和な性格で人望も厚く、また、すでに五十五歳という落ち着きある年齢にあるために陽成天皇のように若さを暴走させる心配もなかった。また、和歌や音楽をたしなむ文化人であると同時にスポーツにも深い理解を示していたために、オフィシャルでは意見の違う者でもプライベートでの交流を保つなど、人間関係の構築と維持の能力が高かった。
つまり、一つを除けば特に問題はないように思われたのである。
ただし、その一つが問題であった。
病弱である。
そして、その一つが親王の帝位就任に関する最大のネックであった。
実際、廷議(大臣も出席する貴族の会議。ただし天皇は参加しない)では賛否両論噴出した。
最も強硬な反対意見を述べたのが左大臣の源融(みなもとのとおる)である。源融が協力に推薦した天皇候補、それは自分自身であった。
源融は嵯峨天皇の一二番目の子であり、臣籍降下して源姓を名乗るようになったが、嵯峨天皇から観て孫にあたる時康親王よりも自分のほうが天皇家の血筋が濃いことは、源融にとって立派な理由となった。
源融は延々と自説を主張し続けた。
病弱な天皇ではこの局面を乗り切れないが、自分にはその心配が無いと。
源融に味方する貴族もまた、自説を主張し続けた。
先に私はこの時代が藤原派と学者派という二大政党時代にあったと記したが、現在と違い明確な政党が形作られているわけではないため、誰がどちらの政党の所属なのかを明確に記せるわけではない。
また、その二政党だけが勢力を持っていたわけではない。
拮抗する二つの勢力の間でそのどちらにも荷担しない第三の勢力というのはいつの時代にもどの世界にも存在するし、それはこの時代の日本でもそう。そして、源融の意見を支持しているのがその第三勢力であった。
強いて挙げれば、家柄はあるが藤原派のような現状認識力はなく、理想に燃えるが学者派ほどの理論はない、そんな勢力である。
となれば話は早い。
何よりもまず優先すべきことは何かという問いに、同じ答えを導き出した両派が手を結ぶ。
最後は基経が「姓を賜った者が帝位についた例はない」と退けることで、長かった会議はこれで決した。
二月四日、陽成天皇退位。
同日、時康親王が天皇に即位した。光孝天皇である。
光孝天皇は自身の体調を理由とし、基経に国政を総覧するように命じる。「関白」の名称が誕生したわけではないが、事実上の「関白」職の誕生である。
だが、その他の大納言や中納言、参議などの役職には数多くの学者派が名を連ねており、そこからは藤原派の単独政権ではないことが読みとれる。
言うなれば、藤原派と学者派の二大政党の大連立政権である。そしてそれは、国家の危機に対する挙国一致内閣のようなものであった。
そのため、学者派の勢いが消え失せたわけではない。
陽成天皇は陽成上皇となった。
一七歳での上皇はあまりにも若すぎた。
そして、誰の目にも恐れられる存在であり続けた。
何の恐れか?
内乱の恐れである。
このときの陽成上皇は内乱の首謀者としてあまりにも適任であった。若くして帝位を奪われたために隠居生活に送り込まれた不遇な日々。しかも、かつては理想に燃え、太政大臣に辞表を提出させるまでに追い込んだ実績。そして、その太政大臣は今も太政大臣であり続けているという現状。
今の政権に不満を持つ者が陽成上皇をシンボルに掲げて反乱を起こしたとしたら。それが失敗に終わろうと、それを起こるということを考えるだけでも今の朝廷には恐怖であった。
国家予算の危急は軍事費にも飛び火していた。この時代は治安維持すら困難なレベルの軍事力しかなかったのである。出羽や上総の反乱は鎮圧できたが、現時点の国家財政はその時よりも悪化している。その状況でもし、人口の一割が集中している都とその周辺で何か起こったらと考えると、その結末に幸福をイメージさせる要素は何一つない。
この恐れを食い止めるために朝廷がとった方法、それが、陽成上皇の事実上の隔離である。宮中から追い出され、陽成上皇は母藤原高子とは離れて暮らすようになった。これ以後藤原高子は政界のキャスティングボードから名が消えるようになる。
生まれて初めての母親からの自立であるが、それは自由の獲得ではなかった。外に出る自由も限られ、名目は上皇の身を守るための警備が屋敷を取り囲んでいる。訪問することが禁じられているわけではないが、誰がいつ足を運んだのかは全て記録され公開される。この状況で陽成上皇のもとを訪ねるのは一握りの人たちだけとなった。
ちなみに、陽成上皇の「陽成」の名は、この隔離のために用意された屋敷の名である「陽成院」から来ている。
退位してからは陽成院の外に出ることが少なくなり、詩を詠むか、本を読むかして時間を過ごすのが陽成上皇の日課になった。その日課にほぼ毎日登場する唯一の人間、それが時平である。
陽成院と藤原家の邸宅とは二条通りを挟んで向かい合っている。そのため、時平が陽成院を訪問することを咎め立てることがあったとしても、隣人宅の訪問であると抗弁することができた。
時平が陽成院を訪問するのは父の命令でもあったが、仮に禁止されたとしても時平はその禁を破って訪問し続けたであろう。それには時平なりのメリットがあったのだから。
まずは、その知識欲。
陽成上皇は退位後、その財産のほとんどを図書購入にあてている。上皇に相応しいだけの財産を得ているが、それを使うには制限があった。武力による帝位奪還が恐れられている以上、朝廷が定めた以上の人を雇うことも、武器になりそうなものを買うことも禁じられた。しかし、本ならば許されていた。いや、推奨されていたというべきか。本ならば内乱の恐れなしとして。
紙自体が高級品であるこの時代、本を持っているというだけでもその人の裕福さが推し量れた。本の所有量が多い場合は不正蓄財が疑われたほどである。だが、上皇ならばその心配はなかった。何しろ、その財源がどこなのかも、それを何に使っているのかも朝廷が監視しているのだから。
この世に何冊とあるわけではない貴重な本でも陽成院にならばあるという評判が立った。その評判は、陽成院を訪問する新たな種類の人たちを生み出した。読書家という新たな知識層である。
体系的な学問を学ばされて試験で振り分けられる大学と違い、読書家の目的は知識を深めることそのものである。読む本の質や量にも左右されるが、こうした読書家は国に不満を持つことが明らかになっていない者であることが多く、朝廷も彼らは無害と判断して、陽成上皇のもとを訪ねるのにこれといった妨害は起きなかった。
結果、陽成上皇を中心とする読書家という知識層のサロンが形成されることとなり、時平はそこに名を連ねるようになった。そして、時平は、それらの本を読むことも、自宅に持ち帰ることも許されていた。
そうして持ち帰った本は藤原家に仕える専門の職人や、時には時平自身の手で筆写され、藤原家の図書コレクションを増やすのに役立った。
次に、いずれは就くことになる執政者としての素養形成。橘広相をはじめとする学者派のように律令に萌えるのではなく、現実に対処する能力の形成である。これは父の意向でもあった。
読書傾向は性格形成にも現れる。特に、父という国家最高の実務家がいる藤原家において推奨される本は、実用的な本や、歴史書の中でも事実を記した記録であることがほとんどで、理想や思想は歓迎されなかった。もっとも、時平自身がそうした実用書を好んで読むようになっていたこともあり、特に問題は起きなかった。
そして、かつては橘広相の考えに感化された時平が、今では橘広相の考えを一蹴できるまでの思考を持つようになっていたことは父を喜ばせることにもなった。
そして最後は人脈。
時平が執政者となったのち、時平の味方をしてくれる者がどれだけいるか。これも基経の意向であるが、陽成上皇のサロンに集う者を仲間とするよう画策したのである。
サロンに集う者は単に本を読むだけの者ではない。読書家というカテゴリーに縛ることはできるが、宮中においては各人の役を与えられた政権の歯車の一部である。宮中にあって時平と接するなどまずあり得ないことであったが、ここでなら接することができた。身分の差を超えてとまではいかないが、サロンでは人と人との接触があり、時平はここで自分とともに働ける者を見つけ出した。彼らは後に時平の手足となって働くこととなる。
だが、時平にとって最大の人脈は何と言っても陽成上皇である。自分に退位を迫った人物の子という思いはなかった。陽成上皇の前にいるのは自分の弟のような者であり、自分の意志を聞き入れてくれる者であった。
陽成天皇に失格を突きつけた基経ではあるが、陽成上皇は基経にとって必要な存在であり続け、時平にとっては自身を生涯支えるかけがえのない親友となるのである。
「今のこの国を省みて感じるのは働かずに生きる者の多さです。」
時平の性格が形作られていることは陽成上皇にも理解できていた。生前の源益に似た性格になってきたとも感じていた。しかし、その時に感じたような反発心は抱かなかった。
いくら太政大臣の子とは言え、上皇にここまで親しげに接し、それに対し、上皇も気分を損ねないどころか、むしろ喜ばしげに見ているのは、書を求めにこの陽成院に来た者たちにとって驚きでもあった。
そして、かれらはそこに、藤原一族の権勢の高さを見た。
「時平、働かずに生きるというのは施のことか。」
「いえ、より広いことです。高すぎる税は民を疲弊させ、その結果、民は逃亡し、荘園に逃れ、増収どころか減収を招いています。その減収の穴埋めのために増税し、それがさらなる減収を生む。この悪循環がこの国の問題です。働いて財を得ると高い税が課せられる。働かないと税は課せられず、それどころか誰かが善意で養ってくれる。どちらを選ぶかと問われたら、誰だって後者を選びます。しかし、もし、働いて財を得た者の税をあえて低くし、逆に、働かない者には誰も何の手助けもしないとすればどうなるでしょう。」
陽成上皇は時平の言いたいことがわかった。
まるっきり律令の逆である。
「真面目に働いている者が恵まれた暮らしを送るべきです。その真面目に働いている者の犠牲の上で働かずに日々を送る者まで救ってやる必要はありません。医療の無料はもはや限界を超えました。コメの支給も限界を超えました。手厚い保護という名目のために今の苦しみがあるのですから、捨てるべきは手厚い保護のほうです。」
律令は手厚い福祉を謳っている。しかし、時平はその逆、福祉を削ることを主張している。
時平の言うことが正しいかどうかわからない。ただ一つ言えることは、律令は失敗したということである。
橘広相に感化された少年はもういなかった。そこにいたのは橘広相を完全に否定する、すなわち、公然と学者派に反旗を翻す若者であった。
しかも、それは太政大臣の子。つまり、数年後には国政の中心に姿を示す少年である。
陽成上皇は、これまで幼い弟のように思っていた少年が成長したことを感じていた。と同時に、このままでは時平と学者派との間に血なまぐさい対立が生じることも感じた。
だが、上皇となってしまった自分にはどうにもできなかった。
危惧されたとおり、光孝天皇は健康ではなく、健康面から政務に支障が生じることさえ起こるようになった。
その穴を埋めていたのが太政大臣としての基経である。光孝天皇即位直後のような両派の友好関係などそこにはなく、事実上、基経が、能有ら数少ない協力者とともに政務を執り行うようになっていた。
それでも、基経の政務は国に安定をとり戻していた。コメの値段は落ち着き、収穫の安定も手伝って、都に逃れる難民や土地を売る農民が減ったのである。それは荘園の縮小を、特に、陽成天皇の頃の混乱で所有地を広げた者の荘園の縮小を招き、学者派の貴族に経済上のダメージを与えた。
そんな中、基経に味方する若者が宮中に姿を見せることとなった。時平である。
翌仁和二(八八六)年一月二日、年明け早々に時平に元服をさせた基経は、元服の場所に宮中、それも仁寿殿という宮中のど真ん中にある最重要儀式のための場所を用意させた。
さらに、元服と同時に与えられる冠を授けるのは光孝天皇、儀式の場には祝いの金銀で飾られた品々が並び、雅楽が吹奏され、貞数親王をはじめとする上卿の子弟が舞を演じ、おまけに元服と同時に正五位下の位を授けるという異例尽くしの元服の儀となった。
これは世の中に藤原派の勢力がどれほどのものであるのかを示すものでもあった。
そして、時平はこのとき橘広相と久しぶりの再会を果たす。
参議となっていた橘広相は、位の上では自分よりも下ではあるが、いずれは基経の跡を継ぐこととなる少年に、相反する二つの感情を示した。
一つはかつての弟子の成長を喜ぶ顔。
もう一つは、その少年が憎き基経の子であり後継者であることを睨む顔。
後ろに基経がいるからとは言え、今ここに橘広相がいるのは天皇の命令でもある。本心としては従いたくなかったが、拒否することは得策ではなかった。
自分が基経と相反する存在であると認識している橘広相は、その出世のスピードが明らかに遅いことを気にしていた。いや、気にしていたどころではない。橘広相にとっては出世レースこそが人生の全てであったのだ。
まったく、学者派としての名声を得ていながら、それも学識の高さから絶大な尊敬を集めていながら、参議止まりというのは屈辱以外の何者でもなかった。陽成天皇を弟子にしたときでさえ、出世という橘広相の要求が満たされることはなかった。ましてや、その陽成天皇失脚後では出世が厳しくなる。
ならば、これまでのことを清算して基経に取り入るか。
それはできなかった。何と言っても自分の宮中における存在価値は学者派に身を置くことであり、基経に取り入ること、すなわち、学者としてのこれまでの人生を全て破棄することは、自分の存在理由を消すことでもあった。
そうなったとき、自分に出世など無かった。
そして橘広相は考えた。基経との関係は最悪でも、時平とならばどうにかなるのではと。何しろ、かつての弟子なのであるから。
時平はそうした態度の橘広相に対し、礼節を尽くした態度で応対した。
だが、このときの様子は陽成上皇にこう話した。
「宮中には出世目当ての俗物どもが多すぎます。橘広相も含め。」
時平が橘広相を下の名の呼び捨てにしたことも、陽成上皇はもう驚かなかった。
「時平は出世したくないのか?」
「私が出世することでこの国が豊かになるなら望みます。」
このとき、陽成上皇は時平の出世欲の無さを初めて知った。
時平の人生を調べてみて感じるのは、その個人的な欲望の無さである。出世にも、蓄財にも興味がなかったのではないかと考えざるを得ないほどに、時平には個人的な欲望が欠落していた。
しかし、それは無欲ではない。むしろ貪欲である。その欲望の矛先が物欲ではなく名誉欲に向かっていると考えればよい。
「橘広相も所詮は出世を望む人間の一人にすぎなかったということか。」
「ええ。」
藤原時平一六歳、陽成上皇一八歳、この若い二人はもう橘広相から決別していた。
時平が元服する前と後とで、陽成院のにぎわいは激変した。名目は陽成院にある書であり、あるいは陽成上皇への拝謁であったが、本音は時平にあった。
基経の後を継ぐことが既に決まっているとあって、今ここで時平に接しておけば、時平が権力を握った後にいろいろと便宜を図ってくれるだろうという打算である。
もっとも、時平は礼儀を守って接しはしたが、それ以上はなかった。それは陽成上皇も同じで、時平元服前から陽成院に足を運んでいた者や、純粋に書を求めに来た者でもない限り、彼らの満足いく結果は得られなかった。
しかし、そうした者は国家の中枢を知る者がほとんどである上に、これまでは宮中ということでフィルターにかけられていた情報、特に、気分を害するような内容のものでさえ、ダイレクトに陽成上皇に伝えられるようになったことは有意義であった。
結果、陽成上皇や時平が意識しないうちに国の最新の情報が陽成院に集うようになった。
「帝の体調は思わしくないようです。」
本来なら再重要機密として伏せられるべき内容でさえ、陽成院に行けば自由に手に入るようになった。
「しかし、帝にはたくさんの御子がおられます。帝位に就くとなると御子の中からの即位となりましょう。」
「上皇の復位はないということですか。」
「はい。」
「して、その中のどなたが帝位に。」
「……、たいへん申し上げにくいのですが……」
「なるほど。言葉に詰まるということはあの方ですね。」
時平はその答えが誰なのか想像ついた。
それは、陽成上皇の逆鱗に触れること間違いない名前であった。
「困りましたね。私は再び上皇に帝になっていただきたいと考えていたのですが。はてさて、どのように帝にそのことを伝えればよろしいでしょうか。」
光孝天皇の容態を伝えた者は、時平のその口調に戸惑っていた。決して無礼な口調ではない。むしろ丁寧な口調である。しかし、その口調が礼儀正しいと言えるかと問われると、その答えはNoである。
「私は父の権勢という重石があり、下手に行動すると色々と勘ぐられてしまいます。おお、そうです。橘広相殿ならば適任ではないでしょうか。橘殿は帝であられた頃教えを請うていた方です。いうなれば師匠に当たるのですから適任ではないでしょうか。」
陽成上皇のことを知り尽くしている時平にはそれをしたらどうなるか理解できていた。その上で行なった時平の嫌がらせである。
だが、これを聞いた橘広相は嫌がらせだとは全く感じず喜びを隠さなかった。
陽成上皇との悪化した関係もこれで修復できる喜びというのは三割程度しか正解にならない。橘広相にとって重要なのは時平が自分を指名したということである。それは未来への展望であった。無論、その未来とは出世のことである。
一方、基経はそのころ、光孝天皇の後継者探しに奔走していた。
自身の後継者については全く問題がなかった。わずか一年というハイスピードで時平を従四位下に昇進させ、右近衛権中将にさせたことで、自分の後継者は時平であると公にしていたからである。時平はまだ若すぎるという面もあるが、成長するまでの間、自分や、能有ら自身の協力者の支えも期待できた。
それとは逆に光孝天皇は皇太子を定めていなかった。そのため、明確な後継者が存在しなかった。
光孝天皇自身には意中の後継者がいたが、それを公表できずにいたのは基経の一言が理由であった。
『姓を賜った者が帝位についた例はない。』
基経がこう宣言したから自分は帝位に就けたのである。
しかし、自分の考える後継者は姓を持っていた。
光孝天皇の即位前から国家財政は破綻にあった。そのため、いかに皇族であろうと天皇になる可能性の低い者は経費削減から皇族を外され、「源」の姓が与えられて家臣の一人として処遇されるようになった。これを「臣籍降下(しんせきこうか)」と言う。
能有もその中の一人である。
光孝天皇は即位と同時に大勢の子を臣籍降下させた。
ところが、その中に後継者に適任の者がいたのである。第七皇子の定省(さだみ)親王、今は源定省と名乗る二十歳の青年であった。
光孝天皇の即位当初はそれでも良かった。臣下となった源定省は基経も一目置かざるを得ない有能な家臣であったから。
だが、後継者選定となると困るのである。源定省の能力は問題ない。また、光孝天皇の実の息子なのだから血筋でも問題ない。年齢も二十歳と若く、光孝天皇のように健康面の不安もない。しかし、源定省=定省親王は源の姓を受ける身である。
それが問題となったのである。
制度を選んで能力を捨てるか、能力を選んで制度を捨てるかという問題はなかなか解決できず、皇太子、つまり、帝位継承者を指名できずにいるという状況が続いていた。
だが、いつまでもその状態を続けることは許されなくなっていた。光孝天皇の体調がより一層悪化したのである。
後継者問題は危急であると判断した基経は、光孝天皇の推す源定省をバックアップすることを決める。この時点ではまだ、特に源定省に対し問題ありと考えていなかった。
そして、時平の助言を受け、基経はその情報を陽成院に伝える役割として橘広相を推薦。橘広相はそれを、嬉しさを隠しながら受諾した。
「定省はかつて、朕に仕え、朕にかしずいていたものではないか!」
次期天皇が自分ではなく源定省であることを聞いた陽成上皇は怒りを露わにした。天皇であった頃たびたび見せた直情的な行動が舞い戻ってきたかのようであった。
「帰れ! 貴様の顔など見たくもない!」
橘広相はかつての弟子の暴れぶりに身をすくませ動けなかった。
陽成上皇は周囲の制止を聞かず、内裏へと足を運んだ。
それと入れ替わるように、呆然と立ち尽くしていた橘広相のいる陽成院にもとに牛車がやってきた。
見たこともない牛車に戸惑っていた橘広相は当初こそ警戒していたが、その中に乗っている人を見て感激の涙を流した。
一方、内裏へと向かった陽成上皇は入り口で止められた。
陽成上皇が入り口で立ち往生していることを聞きつけた時平は内裏の中から走って入り口に向かった。
「なぜだめなのか!」
「ここより先は、上皇であろうと神であろうと、帝の認めた者しか立ち入ることができません!」
そのとき、陽成上皇の後ろから牛車がやってきて、陽成上皇に見せつけるように隣に停まった。
牛車から降りてきた集団は何の咎めもなく内裏へと入れた。
その先頭を歩いている者の顔を陽成上皇は知っていた。
「定省!」
陽成上皇は源定省としてその名を呼んだ。
定省親王は陽成上皇に視線を投げかけたが、侮蔑を込めた笑いをした後、すぐに正面を向きなおした。
その代わりに応対したのが、前から三番目を歩いていた橘広相である。
「皇太子殿下を呼び捨てにするとは不敬にもほどがございますぞ。」
「上皇を罰すると言われるのですか。」
「上皇と言えど、不敬は不敬。律令によれば遠流の刑です。今回は目をつぶりますが、次にそのような処遇に出たときは私でも目をつぶれませんぞ。」
橘広相はそう言って中に入る人々の一人として宮中ヘと消えていった。
このとき、時平は橘広相が思いの外手強い人物だと思い知った。
姓を捨て、皇籍を再び手にした定省親王は基経の考えている問題なしの人物ではなかった。臣下としては問題なしでも、トップに立つ者としては、基経にとって問題ありだったのである。
それは定省親王の取り巻きを見れば一目でわかった。
源定省であった頃の行動の中に学者派を思わせるものは無かった。それどころか、基経に近い考えの現実主義的な人物と思われていたのである。
それが、帝位が見えたと同時に学者派に鞍替えである。
それを知った基経は後悔した。自分の選択にである。
定省親王の鞍替えも、定省親王の立場に立てばわからぬものではないのだから。
天皇とは名ばかりで実際の権力は基経の手にある。それに逆らおうとした陽成天皇は退位させられ幽閉同然の暮らし。しかも時平という後継者の育成にも成功しデビューさせているだけでなく、退位させたはずの陽成上皇との関係を、時平を通じて良好なものにさせている。
これを黙って耐えているような人間ではなかった。そして、定省親王の考えたアイデアが、基経と対抗する勢力である学者派への接近であり、そのトップである橘広相との接近だったのである。
ただし、これには大きな葛藤があった。自分の目指す政治が、学者派よりもむしろ藤原派に近いのである。
考えを選んで基経に屈するか、考えを捨てて基経を屈服させるか、定省親王の回答は後者だった。
仁和三年(八八七年)八月二五日、源定省、親王に復帰。これに伴い、生後間もない長男の源維城も皇族に加わることとなった。後の醍醐天皇である。
翌八月二六日、定省親王、皇太子となる。
同日、光孝天皇崩御。定省親王が宇多天皇となる。
陽成上皇の逆鱗に触れ意気消沈していた橘広相は、牛車で出迎えに来た新天皇からの思いも掛けぬ誘いに狂喜乱舞した。そして、陽成上皇と時平の二人との関係の断絶を決意した。
藤原氏の専横を望まない勢力を自身のもとに集めることに成功した宇多天皇はまず、その矛先を時平に向ける。
陣定の開催を決定し、時平に参加を命じたのである。
太政大臣である基経に参加資格はなかったが、従四位下である時平は参加する義務があった。
臨時に開かれた陣定は、明らかに学者派のものであった。
「昨今の政は一部の者の専横が続き、帝をないがしろにする風潮がありました。それは許されるものではなく、改めねばなりません。」
「左様。今の危機は律令の精神をないがしろにしてきたつけが回ってきたのです。今こそ帝を中心とする正しい国に戻さねばなりません。」
「その一部の者の私利私欲のために民は今も苦しみを募らせている。これを如何に罰するべきか、この討議は欠かすことができません。」
陣定は位の低い者から順番に意見を述べる。相反する二つの勢力があって意見を述べ合うときは建設的な意見の交換となるが、一方が圧倒的な勢力を持っているときは順番が進むにつれて意見がほぼ固まり、先鋭化する。
スタートは従五位下からのため、従四位下である時平に順番が回ってきたときはかなり意見が固まっていた。
時平にはわかっていた。今の陣定は学者派の天下であり、ここで行われていることは議論ではなく、自分を、そして、あわよくば藤原の勢力をそぎ落とそうとするものであることを。
「で、どうするのですか。一部の者を罰すればこの国は良くなるのですか。一部の者への文句を言えばこの国は良くなるのですか。」
時平は場の雰囲気にあえて反旗を示した。
「いまこの場をより良く生きる。その積み重ねが今のこの国です。律令の理想の始まりから現在まで百八十年、時代も変わり、人も変わっています。律令と実情が合わなくなったのを少しずつ直していったのを今ここで全て無くせとするなら、百八十年の現実の移り変わりを全て無くせということになります。文句を言うことや罰することが、そんなことになるのでしょうか。」
時平のこの発言自体は何も真新しいものではない。基経が日々言っていることである。
ただ、この場で言うことはそうとうな勇気であった。自分以外の全てが敵なのである。
時平の発言は、時平が間違いなく基経の後継者であることを認識させるに役立った。
ただし、一人、この発言に関心を寄せた者がいた。
源能有である。
宇多天皇は当初、時平を単なる基経の子供としか見なかったが、能有はそうではなかった。この人物の可能性が高いことを知ったのである。
どのような言葉で宇多天皇を説得したかは不明だが、宇多天皇は能有の意見を受け入れて一つの決断をする。
「藤原時平を蔵人頭(くろうどのとう)に補す。」
蔵人頭自体は四位で若い者が就く職であり、従四位下で一七歳である時平が就くことはおかしいことではない。
しかし、蔵人頭とは天皇の秘書のような職であり、一日中天皇の側にいることが求められる職務である。
基経との対立を宣言した宇多天皇が、その基経の子を自分の秘書に任命した。
これは、基経にも、学者派にも、衝撃を与えずには済まなかった。
「時平はたしか一七歳だな。」
「はい。」
「そなたを蔵人頭にしたことを訝しがる者はいるが、位も、年齢も、蔵人頭たるに不可解なものではない。」
宇多天皇はこのとき二一歳、一七歳の時平とほぼ同年代と言って良い。
それでいて面識はさほどない。
時平は源定省であった頃から宇多天皇を知っているが、それほど詳しくは知らない。宇多天皇は時平を全くと言っていいほど知らず、陽成上皇と一緒にいることが多いことと、基経の後継者であるという点のみが情報としてインプットされている。
陽成上皇との折り合いが悪いこともあり、陽成上皇の隣にいることの多かった時平と接することはまずなかったし、書を求めて陽成院に足を運ぶこともなかった。つまり、時平に対する認識は白紙状態に近い。
基経の専横に対する反発はあったものの、政治的意見は基経と同じである。
基経はこのとき五二歳。平均寿命が四〇歳の時代での五二歳はいつ何があってもおかしくない年齢である。そして、何かあったときに基経の後を継ぐのは、この時点ではまだ従四位下である時平。
太政大臣として権力を握っているから問題なのであって、位がもっと低ければ、学者派の支配する宮中にあって自らと意見を同じくする数少ない者の一人にすぎなくなる。
「時平、陽成院を捨て、朕の右腕になれ。」
宇多天皇は時平に将来をかけてみる気になったのである。
「で、時平はそれを受けるのか?」
宇多天皇の言葉を持ち帰った時平は父に相談した。
「右腕になることは承知しますが、陽成院を捨てることはできません。」
「であろうな。」
「今の宮中でまず成すべきことは学者派の巣食う現状をどうにかすることです。それができぬのに帝の右腕となれば、ただの出世競争の一点に終わります。」
「学者連中は文句の一つも垂れていれば朝より禄(ろく・給与のこと)が与えられる。だがな、時平。政(まつりごと・政治のこと)は能書きだけではどうにもならん。政の善し悪しは難しいものではない。いかに人が幸せに暮らすかだ。幸せならば善、そうでなければ悪。それだけだ。それをなせぬ者は、政の場から追い出されなければならない。」
時平は、誰も聴く者がいないこの場で父がはっきりと「追い出す」と言ったのを耳にした。
「父上、何かなさるおつもりですか。」
「時を逃してはならない。しかし、時が来ぬのに動き出したらただの愚か者だ。今は時ではない。時が来たら、時平、そなたにも動いてもらう。」
「承知しました。」
それから三ヶ月、時平は朝から晩まで宇多天皇の側に待機する身となった。
蔵人頭は天皇の日々の雑務を引き受ける役職であり、自身の政治的意見の表明や、議論への参加が仕事となるわけではなく、ある程度決まった日々の雑務をこなすのが仕事である。そのため、律令に反対するという時平の政治的意志が表に出ることはない。
とは言え、自分と考えの一致する者かそうでないかはやはり違う。時平自身の政治的意志が現れなくても、時平に仕事を命じる宇多天皇の意志は出る。
能有が見込んだとおり時平はやはり有能だった。
日々の業務はそつなくこなし、自分よりも年上であるはずの部下をまとめあげ、アドバイスは適切で、機敏に動き回っていた。
そして、誰よりも早く出勤し、誰よりも遅く残って事務処理をこなしていたため、宇多天皇は煩雑な業務に追われることなく、目指すべき政治を突き進むことができた。
宇多天皇は父の死という事態を受けて即位した身であり、また、正式な即位をした身ではない。つまり、先帝の失政が原因の政権交代ではなく、たとえ先帝の死が予期されうる状況であったとしても、現時点は不測の事態に対する臨時の状況である。こういった場合、真っ先に宣言しなければならないのが前政権の政治の継承であり、それは人事の継承という形をとることが多い。
この時点の宇多天皇は先帝の人事をそのまま継承しており、基経は太政大臣であり、学者は相変わらず陣定で議論していて、二派の対立は変わらず続いている状況。そんな中、時平が蔵人頭になったのが数少ない例外であった。
もっとも、蔵人頭が新帝擁立に伴い交代することは当たり前と見なされている上、若者の就く職務ということで他の職務より交代が多いので、時平を選んだということは注目を浴びても、このタイミングでの交代は特に注目を浴びず、そのため、時平の蔵人頭就任が先帝の人事を覆すものとは誰も考えなかった。
だが、二派の対立はさらなる深みを生じており、基経の言葉を借りれば「時が来る」そのとき、そしてそれが人事という点での大変革を招くときは間近であった。
「陣定は相変わらずか。」
宇多天皇はため息混じりに話した。
「はい。議論は一向に進まず、父はもはやその決済を求めてすらいません。」
「太政大臣がそれでは情けない。時平、そなたの父を侮蔑するような言葉を言うのは気が引けるが、朕としては大臣も陣定も力を合わせてもらいたいのだ。だのに、それがこの対立。どうだ、朕自ら政務を取り仕切れば問題は解決せぬか?」
「一人で全ての政をこなすことは不可能にございます。家臣に任せられるところは任せることも、帝たるもののつとめにございます。」
「それはわかっておるが、任せようにも今の状況では任せられん。」
宇多天皇は、当初利用しようとしていた学者派が頼りにならないことを理解した。しかし、基経に頼ることもできないと考えていた。能有はよく働いてくれているが、相談できる相手ではなかった。また、時平は相談できる相手ではあるが、実力はともかく、頼りになれるほどの経験や実績がないと考えていた。
結果、頼れるのは自分だけということとなる。
それまでは排除すべきと考えながらも自分が手も足も出ない存在ゆえどうにもならないと考えていた基経のことを、このあたりになると手も足も出る存在と認識するようになり、軽視しだすようになっていた。
学者派に対する意識はもっと低かった。議論はするが行動はせず、ただ理想を述べるだけ。メリットがあるとすれば文章を書く能力が優れているぐらいなもの。
「ならば彼らに国の文書を記す役を命じてはいかがでしょうか。」
「文章作成係か。」
「彼らはその能力なら高いものがあります。わけのわからぬ議論をさせて遊ばせておくぐらいなら、筆の一本でも持って手を動かしている方がまだましです。」
「手厳しいことを言うな。時平は。しかし、その考えはいいだろう。議論させるぐらいなら奴らに文章書きでもやらせておくか。」
時平の言を受け、宇多天皇は国の正式な文書の作成を学者派に任せることにした。
しかし、これは時平の仕掛けた罠であった。
誰一人これに気づくことなく、この状態で一一月を迎える。
一一月一七日、宇多天皇即位の儀。これで正式な天皇となり、先帝の政治の継承ではなく自身の考える政治の実現を迎える。それから二〇日までは祝賀の宴が設けられる。
同月二一日、即位に伴う人事刷新が発表される。ほとんどの人事はこれまでと変わらず、これといって注目を集めなかった。
ここまではこれまでの新天皇即位と同じである。
ところが、二一日の午後、宮中にいる者の全員が、いや、都に住む者の全員が耳を疑う事態が起きた。
宇多天皇は先帝の例を引き継ぐ形で、基経に国政を総覧するように命じた。
「万機はすべて太政大臣に関白し、しかるのちに奏下すべし。」
ここに初めて「関白」の語が世に登場する。
ところが、これを基経が辞退したのである。
基経の政務ボイコットは先例があった。それを都に住む者は忘れていなかった。基経の政務ボイコットはイコール物価高騰であることを。
その知らせが広まると同時に人々はコメの買い占めに走った。結果は米価高騰である。米価暴騰は他の商品の値段も押し上げ、人々はコメ以外の物品の買い占めにも走り、店頭からは商品が消え失せた。
この知らせは同日の夜にはもう宮中に届いていた。
宇多天皇は基経のボイコットの恐ろしさをこのときになって初めて知った。
思い当たる節はあった。それも自分の責任で。
学者派の貴族との対立は解決しないどころかかえって混迷を深めるばかり。それでいて自分はその対立を利用して基経を追い出そうとし、最近では軽んじてさえいる。
ところが、そうした宇多天皇の思惑とは反対に、事実上の最高権力者として国を支えているのが基経なのである。物価の安定も、治安の安定も、学者派の専売特許と考えられていた外交ですら、基経が支えることで成り立っていた。そしてそれを民衆はわかっていた。わかっていたからこそ、基経のいなくなった瞬間に民衆は自分たちの身と生活を守り始めたのである。
宇多天皇は、基経の実の息子である時平を側に置いていながらそれがわかっていない、しかも、ねぎらいの言葉一つかけるでなく、軽視した上に追い出す算段に終始している。
これでは職を辞したくなるのも当然である。
今になってそれを理解したのだから遅すぎる。これは宇多天皇にとってあまりにも大きすぎる失点だった。
宇多天皇は直ちに時平を呼び寄せ父を説得するよう命じるが、基経からの回答はNo。それどころか、国政の大事を親子関係に頼って解決しようというのは何事かと叱責される始末。
ならばと、親子の情ではなく天皇の正式な代理として、蔵人頭としての時平に説得を命じる。ところが、これの返事もNO。太政大臣と蔵人頭では身分の差が大きすぎる。息子だからと接しはしたものの、オフィシャルな場面では問題であった。
宇多天皇にとって基経のパイプは時平しかない。その時平とのパイプが公私ともに失われたのは痛手だった。
となると一つしか手はない。
天皇として直接基経に接するのである。
だが、天皇が家臣の元を訪問することは断じてあり得ないこと。つまり、基経と直接話をしたいから来るようにと命ずるしかないのである。
そして、二五日。
宇多天皇は橘広相に命じて、そのための書状を作成させた。天皇からの公式な文書の伝達である以上、文書作成を担当する者の筆でなければならなかった。
橘広相は推敲を繰り返し、自ら完璧と自負する内容の文書を仕上げた。内容を確認した宇多天皇はその文書を正式な詔勅として基経へと送る。
こうした権力者宛の書状は二種類ある。ひとつは受け取った人間だけが読む書状、もう一つは公になる書状である。今回の書状は後者に属した。
そのため、橘広相が何を書いたかが一般に公開された。橘広相が推敲を繰り返したのもそのためで、古今東西の名著からの引用が随所にちりばめられた文章になっている。一見しただけでも難しく、書いた人間は自分の知性の高さを大いに誇ったであろう内容であった。
だが、忘れてはならないのは、このときの藤原家には目の前に陽成院という国内で最大の図書館があったことであり、その図書を自由に読める立場にあったということである。
つまり、橘広相が相手を惑わそうと難しい単語を使ったところで、藤原家の人間はその意味を理解できるのである。そして、その文の中に「宜しく阿衡(あこう)の任をもって卿の任とせよ」との一文があったことが問題になった。
阿衡とは中国の殷王朝時代、優秀な臣下であった伊尹が任じられた官である。この故事を橘広相は引用した。
ところが、「阿衡」がそうした良い意味であったのはその時代だからである。全ての言語は時代とともに変化し、単語の意味も変化するもの。殷王朝時代は良い意味であった「阿衡」もそれから一五〇〇年以上経ったこの唐代では「位は高いが職務はない」という窓際族への侮蔑的な意味を込めた言葉に変わっていたのである。
それを知っている基経は、書面を見て激怒する。
基経の立場に立てばわからなくもない。今まで一生懸命やってきて、冷遇されても耐えてきて結果を出し続け、そして、追い出されようとしているそのときに、自分の意志を露わにした。そのタイミングで届いた宇多天皇からの書状の文面が「阿衡」。さらに、それを書いたのは、今までさんざん自分を疲れさせていた橘広相。
これでは怒るのも当然である。
これは単なる言葉尻をとらえての言いがかりと考えてはいけない。限界までストレスで追いつめられた者への最後の一撃であり、例えるならば、表面張力で何とかこぼれないでいるコップに注がれた最後の一滴なのである。
もはや基経のボイコットは避けられぬものになった。
橘広相がそのことを知っていたのか、それとも知らなくて書いたのかという問いについては、どうやら後者らしい。つまり、橘広相は善意でこの言葉を使用したのであろうと考えられている、と同時に、外へ目を向けることもなくなり、ただ古代の日本を理想としている橘広相という人物の能力の限界を示していた。
0コメント