次に来るもの 4.白河天皇即位

 後三条上皇について、新たに帝位に就いた白河天皇がどのような思いでいたのかを示す面白い記録がある。後三条天皇は、摂関政治の否定、荘園の否定、内裏再建の三つに全身全霊をかけてきた。そのうち、内裏再建は既に完了し、摂関政治の否定は白河天皇の後継者が藤原氏を母としない実仁親王となったことで形になった。そして、後三条上皇が見えないところで君臨している。普通に考えれば全身全霊をかけてきた政策の残る一つである荘園の否定についても継続しているはずである。

 ところが、荘園の否定を前提とした組織である記録荘園券契所の記録が白河天皇の即位とほぼ同時に姿を消す。荘園整理自体が無くなったわけではない。だが、荘園整理をする組織が無くなったのに荘園整理がうまくいくだろうか? 荘園整理は本来の事務方である弁官局に移管された、正確に言えば元に戻されたし、実際に弁官局の作成した荘園整理の書類も残っているのだが、記録荘園券契所がおよそ三年に渡って実施してきた荘園整理に比べればその量は明らかに少ない。

 考えられる答えは一つである。

 白河天皇はイレギュラーな存在であった記録荘園券契所をレギュラーなシステムである弁官局に戻すという形で荘園整理を否定したのだ。後三条天皇が格差の縮小を求めて荘園を無くすことを最終ターゲットとした荘園整理をしたが、白河天皇は荘園整理が生活の悪化を招き景気を悪くしていると考えた。格差を無くすという考えは納得できるが、格差を無くすために貧しさを生んでしまっては何の意味も無い。そんな結果になるぐらいなら荘園整理など無くしてしまった方が良い。

 白河天皇の背後には後三条上皇がいる。それは事実だ。だが、白河天皇は後三条上皇に逆らったのだ。それも、後三条天皇の定めを何一つ変更していない。記録荘園券契所から弁官局に荘園整理を戻すという、それまでイレギュラーであった政治システムをレギュラーなシステムに戻すという、誰も文句を言えない形で逆らったのだ。

 記録荘園券契所での事務を一手に引き受けていた大江匡房に対する処遇でも、白河天皇は何ら文句の言えないものであった。記録荘園券契所での大江匡房は荘園整理の最大の実務者であったが、大江匡房のオフィシャルな役職は右少弁。弁官局における弁官の順位で行くと六番目、すなわち、一番下である。その一番下の弁官であったが、蔵人を兼任しているため、弁官局の中での地位は低かったが他の弁官よりは行使できる権力が大きかったというのが記録荘園券契所の存在を強めてもいた。

 その大江匡房を、白河天皇は蔵人に改めて任命した。天皇の代替わりで蔵人を任命し直すこと自体はおかしなことではない。そして、前天皇の蔵人であった人物をそのまま蔵人に任命し直すことは、政策の継承を意味する。だが、白河天皇は大江匡房の弁官局の中での地位を高めたのである。記録証券券契所の事務に専念できたのは蔵人であると同時に右少弁という低い地位であったことも理由だったのだが、弁官局の中における地位が上がると記録荘園券契時に関わっていられなくなり、弁官局での仕事に時間を割く必要がある。こうなると記録荘園券契所に関わっていられなくなる。白河天皇は後三条天皇の政権の重要人物であった大江匡房を高く評価するという、後三条上皇が何一つ文句を言えない形で荘園整理を否定したのだ。

 後三条上皇は自らが関白に比肩する存在になることを意図した。だが、白河天皇は、天皇の雑務を肩代わりできる存在としての関白は必要としたが、相談役としての関白は必要としなかったのだ。後三条上皇にとって自らの最大の協力者であり後継者である白河天皇のこの思いが読めなかったというのはかなりの誤算であった。

 摂関政治を否定するために自らが摂政や関白を上回る権威を持った存在になることを後三条天皇は意図して退位したが、肝心の白河天皇がそのような権威を必要としない統治者になるとは全く予期していなかった。と同時に、自らの体調についても想定を超えていたとするしかない。後三条上皇は退位直後の延久四(一〇七二)年一二月時点で既に体調を崩していたという記録もあるから、後三条上皇は退位前の時点で既に発病していたのではないかという説もある。

 退位まもなく明らかになったのは、後三条上皇が病気の身であるということである。後三条上皇が罹患していたのは、糖尿病であった。自分の母親が藤原氏で無いこと、白河天皇の皇太子となった実仁親王が藤原氏を母親としないこと、すなわち、藤原氏からの決別を自身の血統として重要視していたが、皮肉にも、藤原氏の多くの者が罹患した糖尿病に後三条上皇も罹患したのである。

 糖尿病になった藤原氏と言えば藤原道長が有名であるが、他にも、藤原道長の叔父の藤原伊尹、長兄の藤原道隆、甥の藤原伊周も糖尿病で亡くなっている。そして、後三条天皇と藤原道長との関係を家系で示すと、後三条天皇の母である禎子内親王は藤原道長の娘を母親としている。つまり、実母は藤原氏でないことはその通りなのだが、後三条上皇は藤原道長の曾孫でもあるのだ。

 皮肉にも、藤原氏の面々が罹患してきた糖尿病に、藤原氏でないことを前面に掲げてきた後三条上皇が罹患したのである。

 退位後の後三条上皇が延久五(一〇七三)年一月二三日に院蔵人所を設置させたことで、このときを以て院政の始まりとする人がいるが、上皇としての政務を取り扱う院蔵人所を設置し、身の回りの事務を取り扱う院司を雇うのは、上皇としての手順の通りである。後年の院政という政治システムの呼び名も既存システムである院の権威が高まった結果であり、新しく院という組織を作ったわけではない。退位して少ししてから院蔵人所を設置するというのもこれまでの手順通りであり、後三条上皇が何か新しいシステムを創始したわけではない。

 後三条上皇の体調不安がはじめて公表されたのは延久五(一〇七三)年二月二〇日のこと。後三条上皇がこの日、石清水八幡宮、住吉大社、四天王寺への御幸に出発したのである。

 京都の西を流れる桂川を下ると、山崎の地で宇治川、木津川との合流地点に出る。その合流地点の東にあるのが石清水八幡宮に出る。三つの川が山崎の地で合流して淀川となり、淀川を下って大阪湾(当時の呼び名は「茅渟の海(ちぬのうみ)」)に出ると、この時代最大の港である難波津に出る。ただし、難波津は土砂の堆積により港湾機能が薄れてきており、大阪湾最大の港湾が難波津の南にある住吉津に移ってきていた。この住吉津の近くにあったのが住吉大社。現在は大阪湾の埋め立てにより海から五キロ以上離れているが、この時代は海に面した神社であった。難波津と住吉津のほぼ中間に位置するのが四天王寺で、四天王寺もまた、現在とは違って海に比較的近かった。

 つまり、後三条上皇はほとんど歩くこと無く、川や海を船で移動したのである。石清水八幡宮、住吉大社、四天王寺と、寺社勢力を抑えつけることのできる権威を持った者が、想像だにしない絢爛豪華な船で移動するというのは、本来ならば後三条上皇の威光を示すはずである。そして、後三条上皇もそれを狙っていたのである。だが、この時代の人たちは思わぬ感想を抱いた。後三条上皇が歩けなくなるほどの重病であり、寺社の祈りに頼るまでに病状が悪化しているのだと思われるようになってしまったのだ。

 後三条上皇重病の噂は、噂で無くなった。

 延久五(一〇七三)年二月二〇日に出発した後三条上皇が京都に戻ってきたのは二月二七日のこと。それからしばらく後三条上皇についての動静が消え、その次に出た動静が三月一八日のことである。それも、後三条上皇の病状が悪化したので大規模な恩赦を実施するという知らせである。これにより後三条上皇が重病にあることは周知の事実になった。

 四月七日、白河天皇が後三条上皇のもとへと行幸したことで、後三条上皇の回復はかなり困難であることが公表された。同日、後三条上皇は住まいを源高房の邸宅に移した。なぜ源高房の邸宅に身を寄せたのかについてはっきりとした資料は残っていないが、源高房の息子である源高実は後冷泉天皇の蔵人を務めたことと、後年、白河天皇のもとに仕えたことが記録に残っていることから、藤原摂関政治との決別を計ってのものではないかと推測されている。ついでに言えば源高房は源氏の中でも少数派としてもよい醍醐源氏であり、この時代の源氏の主軸である村上源氏や、後に源氏の代名詞となる清和源氏とは一線を画している。

 最後まで摂関政治との決別を図っていた後三条上皇は、自らの命の終わりを悟ったのか、延久五(一〇七三)年四月二一日に出家。六日後の四月二七日には、近江国の三井寺新羅神社に祭文を奉納した。三井寺とは園城寺の通称であり、園城寺の敷地の一角に新羅神社が存在しているという構成になっていた。ちなみに、この新羅神社という神社はどのような神社なのかわからないのが実情である。普通に考えれば古代朝鮮半島に存在した新羅に関係のある神社なのだろうが、記録に残る最古の記録が新羅滅亡後なのである。伝承としては、唐から日本に戻って園城寺を開山した僧侶の円珍が、日本へと戻る船の途中で新羅の神に助けられたのがきっかけとなって、園城寺の一角に新羅神社も作ったとなっている。近年考えられているのは、そもそも新羅とは何の関係も無い神社であり、本来は「新羅(しらぎ)」ではなく「白木(しらき)」なのではないか、表面の木の皮を削っただけで漆などを塗っていない建物である真新しい神社、すなわち「白木神社」なのでは無いかという説である。となれば、新羅神社の歴史の浅さも説明が行く。

 後三条法皇は神仏に祈りを捧げて病気平癒を願ったが、神仏はその願いを答えなかった。

 延久五(一〇七三)年四月三〇日。後三条法皇が危篤状態に陥る。翌日、五〇〇名の僧侶が集められての読経が始まる。

 一方、白河天皇は後三条法皇が危篤状態にならなければ絶対に許さなかったであろう行動に出る。五月六日、白河天皇の生母である亡き藤原茂子を皇后と、藤原茂子の父である亡き大納言藤原能信を正一位太政大臣とすると発表。また、藤原能信の妻で藤原茂子の実母である藤原祉子にも正一位が与えると発表したのである。これの意味するところは誰もがわかった。後三条法皇が間もなく亡くなるというタイミングで、これまで白河天皇につきまとっていた藤原氏の血を引くという点をむしろプラスポイントに変えるのである。後三条法皇はまさか、最後の最後で自分が執念を燃やしてきた摂関政治からの決別を息子が否定することになるとは夢にも思わなかったであろう。

 この現実を後三条法皇がどう考えていたかを伝える記録はない。あるのは、息子が父との決別を宣言した翌日である延久五(一〇七三)年五月七日に後三条法皇が逝去したという記録だけである。後三条法皇このとき四〇歳。

 後三条天皇が即位する前、老いた藤原頼通の時代の終わりと、若き後三条天皇の時代の始まりというイメージが持たれていた。しかし、先に亡くなったのは後三条天皇のほうであった。八二歳の藤原頼通は隠遁したとは言え宇治の地で健在であり、その弟の藤原教通も七八歳の関白として現役であり続けていた。

 後三条法皇の死を宇治の地で知った藤原頼通はその死を嘆き悲しんだという。


 父の死後、白河天皇は奇妙な行動を見せる。

 内裏に何の損壊も起こっていないのに、内裏を出て、藤原頼通の邸宅である高倉殿を里内裏としたのである。もっとも、高倉殿の所有者は藤原頼通であるが、藤原頼通は宇治の地にいてここにはいない。

 名目は、大内裏の中で朝廷の饗宴などの儀式をするための施設である豊楽院(ぶらくいん)の再建工事のための一時的な里内裏であった。さすがに豊楽院の再建となると誰も文句が言えなくなる。何しろ康平六(一〇六三)年に全焼してから一〇年以上放置されていたのだ。内裏再建工事を重要政策としていた後三条天皇ですら豊楽院を再建対象とはしなかったのだから、豊楽院再建工事だけを考えれば内裏再建を重要政策とする後三条天皇の製作を継承したと言える。

 だが、豊楽院という設備の存在価値はもう一〇〇年に渡って失われていたのだ。豊楽院は屋外施設である。たとえば毎年一月一日に開催することになっていた朝賀(ちょうが)は毎年のように中止が相次ぎ、気がつけば朝賀という儀式そのものが年中行事から消えてしまったほどである。朝賀に限ったことではないが、豊楽院での儀式というものは、雪が降れば中止、雨が降れば中止、風が吹けば開催困難という環境である。一方、内裏の中には紫宸殿という、豊楽院ほどの敷地面積ではないがなかなかの広さを持った屋内施設がある。多少狭くなるが、豊楽院で無理して儀式を開催するより、紫宸殿で儀式を開催する方が天候に邪魔されずに済むようになったのだ。それに、内裏が何度も焼け落ちたことで、一条院や三条院などの建物を仮の内裏である里内裏とするようになることが増えたことで、かえって、さほど広くない建物で本来なら豊楽院で開催する儀式が執り行えるようなノウハウまでできあがっていたのだ。

 こうなると、無理して豊楽院を使うことも、豊楽院を建て直すことも、意味のあることではなくなる。豊楽院をそのまま放置することはむしろ合理的な選択であったのだが、白河天皇はその豊楽院を再建すると宣言し、さらに自分自身の身を高倉殿に移した。これは果たして何の意味があったのか?

 白河天皇は、自分が天皇になることを早い段階から意識していた。これまでの摂関政治について疑念を感じていたし、荘園の拡大による格差問題も考えていた。後三条天皇の皇太子となったときから父の推し進める荘園整理と摂関政治との決別についても賛成していた。

 ただ、それが結果を生んでいるのかという疑念も持っていた。いや、結果を伴っていないと確信もしていた。さらに厄介であったのが、後三条天皇は自分の推し進めている荘園整理と摂関政治との決別については何ら疑念を抱いておらず、むしろその不足こそが国民生活の悪化の原因であると考えていたことであった。

 後三条天皇の耳には、食糧生産の悪化、それに伴うコメの生産量の縮小、コメ不足という通貨不足、コメの値段が急騰する一方でのコメ以外の通貨である布地の値段の低下、すなわち、コメ基準でのデフレ、通貨基準でのインフレについて届いていたはずである。それに対する回答として物価の統制まで手をつけたが、それは経済を悪化させこそすれ好転させはしなかった。

 常々言ってきていることであるが、政治家としての評価は国民生活がどれだけ目に見えてよくなったかだけで決まる。正義とか、清廉潔白さなんていうのは、国民生活を向上させた上で問うべきことであり、国民生活の向上を果たしていない政治家については、正義とか、清廉潔白とかは考慮に何ら値しない。ただ、正義を貫いたとか、清廉潔白であり続けたというのは、人としての評価だとかなり高くなるのも現実である。

 後三条天皇は自らが正義を果たしたと考えていたし、清廉潔白についても文句を言えない。生活の悪化については不平不満を述べる者が多かったが、後三条天皇個人に対する評価は高かったのである。ゆえに、白河天皇が後三条天皇の政策に逆らい、後三条天皇の作り出した流れを変えようとすれば、それはかなりの確率で白河天皇の支持率を下げることにもつながるのだ。

 白河天皇はこのとき二〇歳。後三条天皇が三九歳で退位し、四〇歳の若さで亡くなったことを考えても、白河天皇は自分の帝位は最低でも二〇年は計算できると考えていたであろう。その長期に渡る帝位を不人気でスタートさせるのは今後の政務にかなりの支障が出る。

 現在、院政の開始者として認識される白河天皇であるが、即位当初の姿勢を客観的に見つめると、むしろ、藤原摂関政治の再建を図っていたように見えるのである。それも、後三条天皇の政策を継承しているという姿勢を見せながらの再建である。豊楽院の再建を名目とした内裏からの一時的な避難もそれである。

 内裏からなぜ避難する必要があったのか?

 このとき、内裏には二人の強い影響力を持った女性がいた。一人は紫式部の仕えていたことでも名を残す上東門院こと藤原彰子、そしてもう一人が、後三条天皇の実母であり、白河天皇にとっては祖母にあたる陽明門院こと禎子内親王である。

 もともと後三条天皇が反摂関政治の考えを持つに至ったのも、実母である禎子内親王の教育によるところが大きい。白河天皇の皇太子として、白河天皇にとっては異母弟である実仁親王をしていたのは後三条天皇、正確に言えば退位以後のことであるから後三条上皇であるが、この一点について執拗に守り通そうとしていたのが禎子内親王である。白河天皇が藤原氏の娘と結婚したことについては受け入れたが、その間に男児が生まれたとしてもその男児が皇位継承者になることについては徹底的に拒否したのである。

 白河天皇も、父の決めたことであるとして弟の実仁親王が皇太子になることについては受け入れていた。しかし、白河天皇に男児が子が生まれた場合、実仁親王ではなくその男児に帝位を継がせるという考えを隠さなかったのである。まだ子供がいない以上、弟である実仁親王が皇位継承権筆頭であることは認めねばならないが、それはあくまでもまだ子がいないことについての応急処置であると考えていたのだ。

 一方、禎子内親王は、実仁親王の次は、実仁親王の弟で、後三条天皇の第三皇子である輔仁親王が帝位に就くべきであると考えている。もっとも、実仁親王が成長し、結婚し、男児が誕生した場合、誠仁親王が皇族の女性との婚姻によって男児をもうけた場合に限りその男児に帝位が渡ることについては容認している。皇族から生まれた、さもなくば藤原氏以外の女性から生まれた男児が皇位を継承することが重要であり、藤原氏を母とする白河天皇のもとに帝位が流れるのを阻止できればそれでよしとしていた。

 自分が藤原氏でないという一点に強い誇りを持ち、藤原氏でない者が帝位を継承すべきであるという考えに固執しているだけでなく、亡き後三条天皇の実母ということで内裏において絶大な影響力を持っている女性がいる場合、その女性がいかに実の祖母であると言っても、白河天皇にとっては厄介な存在になる。いや、厄介だというだけならまだマシで、国政に多大な支障を与える存在になるのだ。

 古今東西、女性の政治家は数多くいる。結果を出した女性の政治家も数多くいる。しかし、妻であること、母であること、祖母であること、すなわち、政治家としての能力ではなく、政治家として権力を持った者の肉親や近親者であることを理由に政治に口出しするようになった者が結果を出したという例は極めて少ない。いや、自らの努力と才能ではなく、婚姻関係や血縁関係だけを頼りとする者が絶大な影響力を持つとメチャクチャになるのは政治に限った話ではない。なかなかの売り上げを見せることができるはずなのに、さほどの売り上げも示せず、利益も少なく給料も安いという企業をたまに見かけるが、そこで共通して見られるのは、創業者の肉親や近親者が権力を持っていてあれこれ口出ししてくるという構図である。

 構図を国家規模に拡大させると、この時代の日本国になる。後三条天皇の政治を継承する白河天皇がいる一方、後三条天皇の実母として圧倒的影響力を持つ禎子内親王がいる。この二人の政治に対するスタンスは、意見の一致を見るところもあるが、どうしても意見の一致を見ないところもある。普通に考えれば、先帝の実母であるとは言えオフィシャルな地位を持っているわけではない女性など何の権力も無いのだが、敬意を払わないわけにもいかない。結果、接さなければならなくなるのだが、そこでやかましくヒステリーを撒き散らすとあっては、平然としているなど不可能になる。

 白河天皇の生涯を追いかけていくと、崇徳天皇や平清盛が白河天皇の御落胤であるという説が出てくるとは思えないほどに女性関係が乏しいと言わざるを得なくなるのだが、その一因として、祖母のこうした姿もあったのではないかとさえ感じられる。


 宋に渡った僧侶の成尋(じょうじん)からの消息が届いたのは延久五(一〇七三)年一〇月のことである。およそ三〇〇巻の経典が日本に送られてきたのである。一方、日本からも、中国大陸の混迷の時代に日本で発展した仏教の経典を運んでいる。この時代の東アジアでは、漢文が共通語であり、話し言葉は通じなくても漢文で書かれていれば意思の疎通は充分に可能であった。

 さらに学問を極めた僧侶となると、サンクスリットを自由自在に操れるようになる。こうなると仏教の幅はさらに広がる、はずであった。

 宋に渡った成尋に待っていたのは、宋の仏教界の現実であった。唐の頃は、仏教を学びに唐にいけば意思の疎通に支障をきたすこともなく、より深く仏教を学べるはずであった。それが、五代十国の混迷を経て宋の時代を迎えると、漢文での意思の疎通はともかく、サンクスリットでの意思の疎通ができなくなっていたのである。時代とともに言語の乖離が大きくなったからではない。中国大陸における仏教が目に見えた衰退していたのであった。成尋はより優れた仏教を学びに宋に来たはずなのに、宋のほうが高僧の来訪として歓迎するようになっていたのだ。

 五代十国の混迷の最中に失われた仏典を成尋は持って来た。

 中国大陸では生まれようのなかった最新の仏教学説を成尋は持って来た。

 成尋は宋で新しく記された経典を日本に送ることはしたが、それはあまりにも少なかった。航海途中で失われたわけでも、費用の都合で送る数を減らしたのでも無い。それが宋の仏教の現実であった。

 成尋とともに宋に渡った僧侶たちは、二人を残して、経典とともに日本へと戻って来た。彼らは成尋が宋の皇帝に拝謁して日本からの外交使節としての役割を果たしたことを伝えたと同時に、宋の最新の仏教を日本に伝えるという僧侶としての目的は果たせなかったことを伝えた。これが日本の仏教界に与えたインパクトは小さく無い。救いを宗教に求めようとする人にとって、日本よりも優れた仏教を展開している国が海の向こうにあるはずという固定観念が、物の見事に崩されたのである。理想を抱き、理想郷を思い描く人は、その理想郷が具現化された社会として、過去の社会や海の向こうの社会を理想郷として見出すものであるが、その理想郷が物の見事に崩れ去ったのである。

 その代わりに日本に到来したのが、宋の暮らしの豊かさであった。特に、かつて日本で存在していた貨幣経済が宋ではまだ続いているだけでなく、より発展した形で形成されていると知らしめたインパクトは大きなものがあった。

 白河天皇の即位も、左大臣藤原師実、右大臣源師房、そして関白藤原教通という構成に違いはなかった。後三条天皇の頃と違いがあるとすれば、その全員が白河天皇より歳上という点である。年齢の違いは単に世代の違いや生まれ育った文化の違いを意味するのではない。幼い頃から貴族入りさせ、二〇歳になる前にはもう議政官の一員であることが宿命づけられているのが藤原摂関家というものである。左大臣藤原師実はたしかに三二歳という若さであったが、政治家としてのキャリアは充分なものがあった。

 その上、左大臣を補佐する右大臣源師房は六六歳を迎えており、政治家としてのキャリアは議政官の他の誰よりも抜きん出たものがある。さらにその後ろには七八歳の関白藤原教通がおり、京都を離れた宇治の地には、出家して一人の僧侶になった、ということになっている、藤原頼通がなお健在である。後三条天皇が生涯をかけて崩そうとしてきた藤原摂関政治は、ヒビ一つ入ることなく健在であったのだ。

 ただし、年齢が高すぎる。源師房の六六歳は、現在ならまだ大臣の一人としてもおおかしくない年齢だが、五〇歳で高齢者扱いされる平安時代では立派な高齢者である。七八歳の関白藤原教通と、八二歳の藤原頼通に至っては、現在は普通に見られる年齢でも、平安時代では平均寿命をはるかに超えた超高齢者だ。後三条天皇はヒビ一つ入れることもできなかったが、時代の流れは容赦ない現実を藤原摂関政治に突きつけた。

 もともと藤原頼通は世代交代に失敗していた。それでも自分が長生きすることで世代交代の失敗を挽回しようとした。そして、弟の藤原教通を中継ぎにするという手段に打って出た上で、藤原師実を後継者とすることに成功していた。三二歳の左大臣となれば問題はない。そして、藤原師実の子の藤原師通を貴族デビューさせることにも成功した。つまり、藤原頼通の孫の代まではどうにかなった。

 問題はタイムラグである。いかに藤原師実が左大臣で充分なキャリアを積んでいるとは言え、それを上回るキャリアの貴族など掃いて捨てるほどいる。今までであれば藤原摂関政治の安泰を最優先にすることも可能であったが、後三条天皇がそれを崩してしまった。藤原摂関政治は絶対のものでなく、議政官の議決を無視した天皇親政も可能であり、藤原摂関家とつながりを持たない天皇が再び誕生したら、そしてその天皇の側近になることができたら、藤原摂関家の作り上げた秩序を乗り越えた権力を手にできるのだ。

 しかも、そのような天皇候補がいる。それも二人も。白河天皇の次弟である皇太子実仁親王と、末弟の輔仁親王である。二人とも実母を藤原氏としていない以上、藤原氏が摂政となることはできない。この二人の幼児の側近となれば、将来、権力を掴み取ることができる。それが遠い将来なのか近い将来なのかはわからない。全ては白河天皇の手にかかっている話である。


 年が変わった延久六(一〇七四)年。やがていつかは起こるであろうと誰もが理解していた、それでいて現実に起こるとは考えてこなかったことが起こった。

 藤原頼通倒れる。

 宇治から届く藤原頼通の容態と連動するかのように、京都では不穏な動きが続いた。地震が相次いだのである。ただの偶然であるはずなのだが、京都の地では一つの時代の終わりを実感させるほどの大ニュースであった。末法の混迷はついこの間のことだったのだ。

 間もなく訪れであろうと誰もが覚悟していたニュースが届いたのは、延久六(一〇七四)年二月二日のことである。

 この日の卯刻、現在の時制にすると午前六時頃、藤原頼通死去。八三年間の生涯の終わりである。

 既に未来路線は敷かれており、藤原頼通がいなくなっても路線は変わらないと誰もが考えていた。後三条天皇の親政は終わり、白河天皇はこれまで通りの摂関政治に戻し、藤原教通はあくまでも一時的な藤氏長者で藤原摂関家のトップである藤氏長者の地位は左大臣藤原師実が継承し、藤原師実の後は藤原師通が継ぐというのが、この時代の誰もが考えていたこれからの未来であった。

 それが、藤原頼通の死とともに崩れたのである。それも、壊した張本人は関白藤原教通であった。

 藤原教通にとって、自分の関白の地位を藤原師実に譲るというのは、藤原道長の定めたことではない。そもそも藤原道長は藤原頼通の後継者として源師房を指名しており、藤原道長存命時にはまだ生まれていない藤原師実を後継者にするとは一言も言っていない。その予定を覆したのは藤原頼通である。藤原頼通は父の定めた後継者であるから、藤原教通としても兄が父の後継者であるというところまでは従っている。だが、兄が父の定めを覆したとあっては、弟としても無条件で従う義理も無くなる。

 藤原教通が考えたのは、息子の内大臣藤原信長に関白職を譲ることであった。

 左大臣藤原師実と内大臣藤原信長とでは官職に差があるが、貴族としてのキャリアで言うと藤原信長に軍配が上がる。そして、関白としての資格で言うと藤原師実と藤原信長との間に差は無い。

 藤氏長者は長子相伝と決まっているわけでは無い。藤原冬嗣、藤原良房、藤原忠平、そして、藤原道長と、長子ではないが藤原氏のトップに立った者というのは珍しくも無い。その上、長子でないが藤原氏のトップに立った者が、長兄の息子、つまり甥に藤氏長者の地位を喜んで譲ったという前例は少ない。強いて挙げれば藤原良房の後継者である藤原基経ということになるが、藤原良房に実子がいなかったことに加え、藤原基経を早い段階で養子にし、かなり前から後継者であると宣言した上で帝王教育を施し、後継者であることを宣言させてから貴族デビューさせている。

 それを言うなら、藤原頼通だって自分の後継者であると宣言させてから息子の藤原師実を貴族デビューさせている。だから、藤原師実が規定通り関白になるべきであるという言い分も通用する。

 だが、藤原良房の時代には関白などなく、摂政はあくまでも臨時の役職。藤原良房は藤原氏のトップである藤氏長者の地位を後継者に譲ったのであり、摂政の地位も関白の地位も譲ったわけではない。さらに言えば、藤原良房はたしかに後継者として藤原基経を指名したが、藤原良房が隠遁したときの藤原基経の役職は中納言であり、藤原良房の後継者であるという点を除けば藤原基経は数多くの貴族のうちの一人でしかなかったのである。そして、藤原基経は藤原良房の威光を借りたにせよ、実力で貴族界のトップの地位を掴み取った。関白に就いたのもその延長上であり、関白になることそのものは目的では無かった。藤氏長者の権威はこの時代よりも低く、藤氏長者になったとしても関白になれるわけではない。だいいち、藤原基経が貴族デビューしたときに関白という役職は無い。

 一方、藤原師実は左大臣であり、藤原信長は内大臣である。どちらも藤原基経の前例と比べようのない高い地位にあるだけでなく、関白という権威が当たり前の時代に生きている。藤氏長者になると言うことは摂政や関白になることを意味し、それは圧倒的権威を伴う地位に就けることを意味するのだ。

 こうなると、藤氏長者になることの意味合いが藤原基経のときと比ではなくなる。

 ゆえに、単純に譲れるものでは無くなる。

 それは後三条天皇の親政だけが原因ではない。自らの時代の終わりを考えた藤原頼通の隠遁とセットになったのが原因である。それまで稼働していた藤原摂関政治が藤原頼通の隠遁とともに機能を停止し、同時に後三条天皇の親政が始まった。後三条天皇の親政は正義の実践であると同時に貧困を招いたが、後三条天皇の退位と死去は貧困の終焉を招かなかった。藤原頼通が隠遁したことで藤原摂関政治が瓦解したことが、後三条天皇の親政によって隠されていたのだ。隠されていた藤原摂関政治の瓦解が後三条天皇の退位によって明るみになったとき、白河天皇が、そしてこの時代の人たちが目の当たりにしたのは、かつての藤原摂関政治はもう蘇らないという現実であった。

 摂関政治では駄目、否定した結果が駄目、元に戻そうとしたら内輪もめ。後三条天皇の親政でガタガタになった摂関政治を復活させることで国民生活を建て直そうとしていた白河天皇が目の当たりにしたのがこの現実である。これで白河天皇はどうしろというのか。

 これに追い打ちをかけたのが異常気象である。

 地震が頻発していることは記したが、延久六(一〇七四)年三月二日にはここに大雪が加わる。平安時代というのは平成時代にも似た温暖化の進んだ時代であり、京都に雪が降ることは珍しくはないとは言え、都市機能を麻痺させるものではなかった。冬の雪は風流を彩る光景ですらあった。しかし、この日の雪は異常だった。四寸から五寸、メートル法になおすと一メートル五〇センチ近くも積もったのだ。雪対策の行き届いた地域ですら、自分の身長に匹敵する雪相手には苦労する。ましてや、雪というものがせいぜい風流を彩る程度のものでしかないという認識の都市にこれだけの雪が降ったらどうなるか。当然ながら、この時代に除雪車など無い。

 地震に続いて発生したこの大雪の前に、白河天皇は、そして、藤原摂関家はあまりにも無力だった。そして、人々は考えるようになった。藤原道長だったら、あるいは、後三条天皇だったら、と。さらに、これまで見下されることの多かった藤原頼通も、過去の栄光を担った人物の一人として見られるようになり、末法に恐れおののいていた時代が過去の栄光の時代になった。

 延久六(一〇七四)年六月一六日、白河天皇が内裏に復帰した。同時に、後冷泉天皇の中宮であった太皇太后章子内親王が出家して二条院となった。

 その四日後、女御藤原賢子が中宮となった。

 内裏で圧倒的影響力を持つ陽明門院こと禎子内親王に対する白河天皇なりの対策である。白河天皇にとっての実の祖母との関係は、もはや修復不可能なものとなっていた。

 禎子内親王はとにかく藤原摂関政治からの脱却を大前提としていた。そのために国民生活が悪化しているという現実から目を背け、あるいは、そのような事実など無いと言いたげな態度で、自分のただ一つの拠り所である血縁にこだわり続けていたのである。孫である白河天皇が藤原氏の女性と結婚したことは認めざるを得なかったが、その女性から産まれた男児が皇統を継ぐこと、そして、その女性自身がより高い公的地位を得るのは断じて認めなかった。

 その認めなかったことの一つを白河天皇は平然としたのである。藤原賢子を中宮にしたのがそれである。禎子内親王にとって、藤原氏の女性が白河天皇の后(きさき)の一人であることは許容できた。だが、中宮という公的地位はどうしても許せなかったのである。

 白河天皇にしてみれば、皇后でないだけでも妥協案であったのだが、さらにもう一つ妥協案を用意した。それが、妹の篤子内親王である。この時点で一二歳の少女は父の後三条天皇亡きあと禎子内親王のもとで暮らしていた。この篤子内親王を、将来、白河天皇のもとに男児が生まれたら入内させるとしたのである。

 それにしても、巧妙ではあるが陰湿なやり方でもある。

 禎子内親王にとっては自分の孫が皇室に嫁ぐのだから悪い話ではないし、実際、それが条件であるならばとして藤原賢子が中宮となることに同意した。一見すると、天皇の皇子のもとに嫁ぐのだからかなりの好条件だ。ただ、そのような皇子はまだ生まれていない。仮に今すぐ男児が生まれたとしても、既に一二歳である篤子内親王とは一二歳差になる。その男児が一〇歳で元服したとしても、そのときの篤子内親王は二二歳だ。二二歳の女性が一〇歳の男児のもとに嫁ぐというのは、前例のない話ではないが、極めて珍しい話である。これを篤子内親王はどのように感じ、そして、世間はどう見るであろうか。誰もが禎子内親王が徹底した反藤原氏、反摂関政治の人であると知っている。その人が、自分の納得のためという一点だけで孫の人生を奪うのだ。国民感情に対する認識の甘さと言ってしまえばそれまでだが、その点につけ込んだ白河天皇は只者ではないとも言える。

 実際、白河天皇は自分しか頼れなかった。

 摂関政治は崩壊したのだ。藤原師実は頼れる左大臣であるが、関白の地位を巡って内大臣藤原信長と争っている。関白藤原教通は我が子に肩入れしている。この時点で右大臣源師房は左大臣藤原師実の立場を支持している。つまり、議政官の中であれば左大臣藤原師実が権力を握れるが、議政官の外では関白藤原教通が権威を誇っている。本来なら議政官を支える存在として機能すべき関白という職務が議政官を機能不全に陥らせているのだ。

 しかも、結果は伴わなかったが、後三条天皇は親政を断行した。これにより、議政官がまともに機能しなくても国政はどうにかなってしまう仕組みが出来上がってしまったのだ。

 問題は、国政がどうにかなると言っても、政治に求められる唯一のこと、すなわち、庶民生活の目に見えた向上が果たせることと繋がるわけではないということである。ここでいう国民生活の目に見えた向上というのは、以前よりも良い暮らしになっていると庶民が実感できることである。以前というのは、個々人の青春時代であったり幼年時代であったりを指すとは限らない。生まれる前の時代も含まれる。そして、白河天皇の時代における「以前」とはずなわち、藤原道長の時代を指す。

 現在では数字で示すことしかできないのだが、藤原道長の時代と比べてGDPがマイナス九パーセントとなっている。食料生産性が落ち、市場(しじょう)では布地基準ではインフレ、コメ基準ではデフレが起こっている。藤原道長の時代の豊かな暮らしが理想の時代と見なされ、現在はその理想の時代からみるみる落ちぶれている時代であると見なされるようになっている。数字でも、実感でも、暮らしぶりの向上は見られない。

 暮らしぶりの低下は、荘園整理による生産の低下と、下品を廃すという名目での自由の剥奪による文化の破壊とイノベーションの破壊に由来する。ここまでは完全に人災であると断言できる。だが、白河天皇の前に突きつけられた課題は人災のもたらした経済破壊の後始末だけでは無い。ここに気候変動が加わるのだ。

 平安時代は平成時代と同レベルの、学者によっては平成時代以上に温暖化の進んだ時代であった。あまりにも暑い日々が続くために、縄文時代から受け継がれてきた竪穴式住居が見捨てられたほどである。およそ一万年に渡って続いてきた、地震に強く、冬の寒さにも耐えうる竪穴式住居を、まさにその保温性の高さゆえに捨てるようになったのだ。要は暑くて住んでいられなくなったのだ。

 気温が高いというのは、問題もあるが、稲作だけを考えればメリットもある。稲というのは本来ならば熱帯性の植物であり、寒冷地での栽培は難しい。実際、日本国における稲作の歴史は、いかに日本の寒さにも耐えうる稲を作り出せるかという歴史でもあった。六〇〇〇年前から現在に至るまでのイネの遺伝子の移り変わりを見ても、この国の田畑に携わった全ての人たちの苦労が見て取れる。それでも、暖かくなればなるほど稲は良く育ち収穫も増えるというのは変わらない。裏を返せば寒冷地の稲作はきわめて困難で、朝鮮半島での稲作は一五〇〇年しか遡ることができないし、北海道でも稲作が可能となったというのは一七世紀まで待たねばならないほどである。

 さて、平安時代の気温が高かったというのは、日本国で一万年に渡って受け継がれてきた竪穴式住居を捨てさせる理由にもなったが、稲作の収穫を増やす理由にもなった。その気温の高さが徐々に失われてきたのだ。寒冷化の始まりである。

 涼しくなったら夏が過ごしやすくなるというのは間違ってはいないが、農作物に与える影響は多大である。ただでさえ荘園整理で生産性が落ちているところに加え、気候変動での収穫の悪化が待っているのだ。かつての、より正確に言えば美化されたかつての豊作続きの日常と、目に見えて収穫の悪化が予想される現在。これで未来への希望が持てるであろうか?

 白河天皇は、年々悪化している生産性の原因を荘園整理にあるところまでは見抜いていた。正義か不正義かで言えば不正義であるが、少なくとも飢饉は回避でき、失業率も減って、市場(しじょう)にはモノが溢れて物価も安定してはいたのだ。伯父の後冷泉天皇が就任直後に全力を挙げ、父の後三条天皇が心血を注いだ荘園整理を、白河天皇は一応は受け継いでいる。しかし、荘園整理の実務を一手に担っていた大江匡房を出世させることで形骸化させることに成功している。ただし、政治が社会を壊し、経済を壊すのは簡単だが、社会を立て直し経済を蘇らせるのは困難である。白河天皇が経済破壊の元凶と見抜いた荘園整理を形骸化させたことは、社会と経済を破壊する動きが止まったことを意味するのみであり、その再建が一瞬にして成り立つことを意味するわけではない。

 これに、気候の寒冷化が加わる。もっとも、気象庁はおろか温度計もないこの時代、感覚として例年よりは涼しいと感じることのできる日が続いているというだけであるが、それでも寒さからくる凶作の予期ならばできる。それも庶民感覚で把握できる。

 延久六(一〇七四)年八月二三日、承保へと改元すると発表した。新天皇即位が名目であり、気分一新が狙いであったが、前者はともかく後者に対する効果は無かった。


 藤原氏というのは、外にあっては一枚岩だが、中では激しい派閥争いを繰り広げる、現在の自民党のような存在である。その藤原氏の派閥争いが、外に向かっての一枚岩ではなくなってきてきたのが後三条天皇の時代であり、白河天皇即位当初の状況であったが、それでも藤原氏には圧倒的権威を持った存在が二人いた。

 一人は藤原頼通。宇治に隠遁したとは言え、その権威は圧倒的で、関白藤原教通ですら頭の上がらぬ存在であった。名目上は実の兄であるがゆえに頭の上がらぬ存在ということになっていたが、藤原道長の直接な後継者にして、五〇年近くに渡ってトップに君臨してきたという実績が、関白藤原教通を平伏させることのできる威光となっていた。

 そしてもう一人が、上東門院藤原彰子である。一条天皇の中宮にして、後一条天皇、後朱雀天皇という二人の天皇の実母であり、文化面に目を向けても源氏物語で有名な紫式部が仕えていたという、この時代の人にとってはもはや伝説の人と呼べる存在である。藤原道長の娘にして関白藤原教通の姉とくると、藤原氏全体の頂点に君臨する存在であるとも言えよう。

 その藤原頼通はもう亡くなり、残る一人である藤原彰子もいつ命を落としてもおかしくないという状況が続いていた。それでも、藤原彰子はまだ健在ではあった。ゆえに、藤原氏内部の派閥争いを表面化させることなくどうにか抑えることにも成功してはいたのだ。

 だが、それも藤原彰子の死によって全てが無に帰した。承保元(一〇七四)年一〇月三日、上東門院彰子死去。八七歳での死である。

 失われる命があれば、生まれる命もある。上東門院藤原彰子の葬儀に、中宮藤原賢子は参列していない。そしてそれを、当時の人は誰一人として、礼儀を失する無礼なことと考えていない。

 中宮藤原賢子はこのとき、妊娠七ヶ月だったのである。

 さらに、承保元(一〇七四)年一〇月一六日には、中宮藤原賢子が内裏を出て藤原定綱の邸宅に移っている。妊娠した女性が葬儀に参列しないのも、女性が出産にそなえて住まいを移すのも、この時代では、あるいは移す住まいを産婦人科や里帰り出産と考えれば現在でも通じる当然のことであり、中宮藤原賢子は当時としては当たり前のことをしただけのことである。ゆえに、誰も非難していない。

 ただし、これでややこしいこととなる。

 陽明門院禎子内親王は、藤原氏を女性としない者が帝位を継ぐべきと考えている。ここでいう帝位を継ぐべき者とは白河天皇の異母弟である皇太子実仁親王のことである。禎子内親王としては、後三条天皇の子のうち唯一成人していた、そして、皇太子であった貞仁親王が白河天皇として即位したことはやむを得ないことであるが、その次は実仁親王の時代であり、それから先は永遠に藤原氏と決別した皇統が続くと考えていたのである。

 ところが、白河天皇に男児が生まれるとなると話は変わる。白河天皇がこれから生まれる男児に皇統を譲り渡すことは充分に考えられるのだ。それも、他でもない、亡き後三条天皇の前例に従うと実現可能となるのだ。

 嫁姑の軋轢を甘くみてはいけない。妊娠した女性を流産に追い込んだ姑も実在する。安心して出産できるように里帰りをするというのは、こうした軋轢から新生児を守るという側面もある。

 さらに言えば、禎子内親王の支持率はお世辞にも高くはない。自らの実力ではなく、単に婚姻相手に恵まれていたというだけであれこれと口出しするような人に、おべっかを使う人はいても、心の底から尊敬するなどという人はいない。だが、まさにその婚姻相手に恵まれているという一点で、絶大な権威を手にしているのだ。このような女性から、比喩的ではない意味でも、中宮藤原賢子は身を守る必要があった。

 間も無く新年を迎えようかという一二月二六日、中宮藤原賢子は男児を出産した。男児は敦文と名付けられたが、この時点ではまだ親王に任じられてはいない。ゆえに、敦文親王という呼び名はこの時点ではまだ適切ではない。

 男児が誕生したことで、白河天皇は一つの決断をした。

 皇統は弟ではなく息子に継がせ、藤原氏内部の対立は左大臣藤原師実の側につくという決断である。この二点とも、理論上は何ら不都合なことはなかった。実子に皇位を継がせるのは、皇室の歴史に則った話である。実子を差し置いて弟や甥に皇位を譲った例は確かにあるが、その例は少ない。実子が生まれるまでは弟に帝位を譲ることとし、実子が生まれたら皇位継承権筆頭を弟から実子に変更する方がむしろ通例である。もう一つの、天皇が左大臣と協力することはもっと問題がない。摂関政治以前の律令制にも則った行動である以上、摂関政治への乖離を訴える人にとっても文句が言えない決断なのである。

 ただし、摂関政治との決別を求める禎子内親王がそれを許すかどうかは別問題である。いや、許すわけがないのである。亡き後三条天皇の意思に従い、より正確に言えば禎子内親王の主義主張に従い、前例を覆してでも藤原氏を母としない者が帝位に就くべきとするのが正しい道であると考えていたのである。

 もう一つ、白河天皇のこの決断を許さない勢力があった。藤原氏内部の派閥争いで敗北を命じられた関白藤原教通と、その息子の内大臣藤原信長である。藤原教通は、摂政・関白につながる藤氏長者の地位を、甥の左大臣藤原師実ではなく、息子の内大臣藤原信長に譲ろうと考えていた。しかもこれは前例どころか通例ですらあるのだ。藤氏長者の地位を受け継いだ弟がその地位を甥ではなく我が子に譲ったことのほうが通例で、甥に譲るか否かで揉めたことはあっても、実際に譲った例はない。

 この二つの勢力が白河天皇に対抗する勢力と認められた。こうなると次の展開はわかりやすい。主義主張を乗り越えて手を結ぶのである。要は野党共闘だ。

 白河天皇にとってはむしろありがたい構図である。敵がはっきりしただけでなく、正義と悪がはっきりしたのである。ここでいう正義と悪とは、白河天皇自身が属する側の方は無条件で正義であり、敵対する勢力は、どんなに正しいことをしようと、どのような事情があろうと無条件で悪である。正義という言葉は難しい言葉ではない。自分がいる側が正義で、自分の敵となる存在は無条件で悪である。

 一度正義と悪とを決めたら、行動は簡単になる。ついでに言えば現実から目を背けることも可能になる。

 まず、承保二(一〇七五)年一月一三日、中宮藤原賢子が東三条殿に住まいを移した。生まれたばかりの我が子も伴ってのことである。東三条殿と言えば藤原氏の本拠地。藤原道長の土御門殿や藤原頼通の高陽院などの建物が藤原氏の邸宅として名を馳せるようになっていたが、藤原氏の本拠地と言えばやはり東三条殿である。

 さらに、一月一九日には白河天皇が中宮の元へと行幸。子を産んだ中宮のもとを天皇が訪問すること自体はごく普通のことであるが、それが藤原氏の本拠地である東三条殿となると話は変わる。当然ながら禎子内親王は反発を見せるが、子を産んだ妻の元を夫が訪ねることを咎める姿は禎子内親王の支持率を下げるに充分であった。この流れの中で白河天皇は我が子に親王宣下をする。この日より男児の名は敦文親王となり正式に皇位継承権を手にしたこととなる。ただし皇太子は実仁親王のままであり、この時点での皇位継承権筆頭は皇太子実仁親王である。

 これで世論は白河天皇のものとなった。


 この上、白河天皇は外交でもポイントを稼いでいた。一月二六日、宋皇帝神宗からの返書が届いたのである。入宋僧成尋(じょうじん)の弟子らが帰国する際に持たせた外交儀礼の書状であるが、当時の東アジア情勢を考えるともっと複雑なものとなる。

 王安石の新法改革に陰りが見えてきたが、宋皇帝の神宗はまだ新法に対する期待をまだ持っていた。その打開策として宋を包囲する国との関係改善を模索しており、その方策の一つが宋の建国以来外交の無かった日本との外交関係構築である。外交というものが格下の国から格上の国に使節を派遣するものであるというこの時代、最良は日本からの正式な使節が派遣されてくることだったが、今のところその動きは無い。ゆえに、宋から日本に外交使節を送ったり書状を送ったりするのは宋が日本を格上と見なすことを意味する。だが、成尋(じょうじん)という上流貴族に連なる人間の訪問となると、日本からの使節訪問と捉えることも不可能ではなくなる。日本へ国書を送るのも、一人の僧侶の入国ではなく上流貴族の入国に対する返信という手順を踏めば問題ない。

 もっとも、日本から見れば、宋が日本を格上と認めて書状を送ってきたとなる。王安石の改革に合わせて日本でも改革が展開されていると考えていた宋皇帝神宗であるが、宋皇帝神宗は後三条天皇が亡くなり白河天皇が即位したことは知っていても、白河天皇が父帝の政策に背く動きを見せているとは知らなかった。宋皇帝神宗にとっては志を同じくする仲間に向けての書状であったかもしれないが、白河天皇にとっては外交ポイントを稼ぐ出来事にしかならなかったのだ。何しろ宋帝国から日本へと書状を送った、すなわち、宋が日本を格上と認めた書状を送ってきたのだから。

 亡き後三条天皇の政治に対する白羽天皇の叛逆はなし崩し的に始まった。即位直後に大江匡房を出世させることで荘園整理の手続きを混雑化させ、荘園整理の流れを止めることに成功したが、承保二(一〇七五)年四月二八日にはさらに一歩進む動きを見せた。播磨国赤穂郡の郡司の秦為辰から寄せられた開発した荒田の領有許可に対して許可を与えたのである。法令根拠は墾田永年私財法であるから誰も文句は言えないが、これは事実上の荘園再開である。

 荘園再開の次は、後三条天皇の側近であり、禎子内親王と内大臣藤原信長の派閥に属する貴族に対する処遇である。承保二(一〇七五)年閏四月二八日、源基宗の佐渡配流が決まった。安芸国司からの正式な訴状が出ている上、裁判により有罪となった上での配流であるからこれもまた誰も文句の言えないことであるが、敵に対する合法的追放処分は、敵とされた側にとってはたまったものではない。

 敵に対する合法的追放処分があれば、味方に対する合法的抜擢もある。ともに正四位下である藤原公房と源俊明を参議に抜擢したのである。位階からすれば参議はおかしくないというのはあくまでも建前であり、三位でも参議になれないというのが通常の状態になっていた。この状態を誰もが当たり前と考えていたところで、正四位下の二人を参議に任命したのはわかりやすかった。藤原公房は藤原北家の人間であり、源俊明は亡き藤原頼通の側近の息子である。特に源俊明の父の源隆国は皇太子時代の後三条天皇と対立することが多く、後三条天皇の即位は源隆国のキャリアの終焉のみならず、源隆国の三人の息子のキャリアの終焉を意味する、はずであった。だが、源俊明の二人の兄は有能であった。後三条天皇も認めざるを得ない有能さで議政官の一員としてキャリアを積んでいたのである。ただし、才能に見合った出世を果たすことはできず、長兄の源隆俊は権中納言、次兄の源隆綱は参議でキャリアを終えた。次兄の源隆綱が承保元(一〇七四)年九月二六日に、長兄の源隆俊が承保二(一〇七五)年三月一三日に死去したからである。

 藤原公房はともかく、源俊明の参議就任は兄二人の死去を受けての就任であるとも捉えられており、とりあえず禎子内親王の反発は生まなかった。このタイミングで禎子内親王の反発を一手に引き受けていたのは藤原公房のほうだったのである。もっとも、禎子内親王のこの感情は大間違いであった。後に白河天皇の側近となるのは源俊明のほうなのである。

 承保二(一〇七五)年七月一三日、一人の武将が世を去った。源頼義、八八歳での死である。前九年の役からおよそ一〇年を経て、清和源氏を率いていた頃の武人の面影はもはやなく、そこにいたのは老いた僧侶のそれであった。

 この時代から一五〇年ほど経た説話集である『古事談』によると、源頼義はかつてから自分の行動を殺人と考え、その罪の重さに苦しんでいたという。そのため、伊予国司の任期を終えたと同時に官界を引退して出家し仏門に入っていた。この時代の高齢者が自らの死を予期したときに出家して仏門に入ることは珍しくない。特筆すべきは、仏門に入ったときの源頼義の選択である。石清水八幡宮を選んだのだ。ここまで書くと、八幡神は源氏の氏神だから当たり前ではないかと考えるかもしれないが、実は、この時点ではまだ、八幡神が源氏の氏神であったわけではない。源頼義は長男の源義家の元服の儀こそたしかに石清水八幡宮で開催させたが、次男の源義綱は賀茂神社、三男の源義光は園城寺に付随する新羅明神で元服の儀を開催している。

 源氏というのは、歴史の浅さを宿命づけられた一族である。皇室に生れながら、財政や政略などの理由で臣籍降下して民間人となったとき、臣籍降下した皇族が親王であれば源氏となり、ただの王であれば平氏となる。源氏の祖先を遡れば親王であった者まで遡れるし、さらには天皇にまで遡ることも可能であるが、源氏としての歴史は親王が親王でなくなった瞬間から始まる。古事記や日本初期の時代にまで遡ること可能な一族と違い、源氏はどう無理をしても平安時代の初期から中期までしか遡ることのできない、貴族としては新興勢力であったのだ。

 源頼義の所属する清和源氏は二〇〇年に満たない歴史しか持たない新興勢力である。現在の感覚からすれば二〇〇年は充分に伝統だが、この時代の感覚ではつい最近誕生したばかりの新興勢力である。ゆえに、代々受け継がれて来た伝統などない、とみなされている。

 源頼義が自分の身を石清水八幡宮に寄せたのは、石清水八幡宮が、皇室由来でありながら民間にも開かれている神社だったからである。そもそも石清水八幡宮は宇佐神宮から勧請されて平安京の南西に建立された神社であり、平安京の守護を祈願するために存在していた。平安京から少し離れたところにあるため、平安京の庶民にとって、自分たちを守ってくれるということで参拝することの許された、それは同時に、平安京からちょっと離れたところにピクニック気分で出かけることのできた場所であった。その場所に源頼義が身を寄せたのである。

 この時代の八幡信仰は、後の時代のように武神としての信仰であったわけではない。しかし、神社でありながら中に寺院を取り込むという、神仏混合のあり方としては珍しい部類に入っていたために、南都北嶺の争いや、山門寺門の争いを繰り広げている仏教に対して一定の距離を置くことができていた。

 この時点の清和源氏は、源頼義の子の源義家が軍勢を率いることができるようになっていた。ただし、軍勢を動かす必要は、この時点ではなかった。源義家はいざとなれば軍勢を率いることができるということが知られてはいたが、理論上はあくまでも一人の下級貴族だったのである。延久二(一〇七〇)年時点で下野国司を務めていたことは記録に残っているが、承保二(一〇七五)年時点での源義家の消息は不明である。

 白河天皇が源頼義の死去に対して特別なアクションをとったという記録もない。前九年の役の功績を知ってはいたが、白河天皇にとってはかつて国司を務めたことのある老いた下級貴族の死でしかなかったのである。礼を失することは無かったが、特別扱いしての追悼も無かった。


 この頃、白河天皇は一つの計画を始めている。

 それは、内裏からの離脱。

 父後三条天皇が心血を注いできた内裏再建を白紙にするかのような行動は白河天皇から敵と認定された人たちの怒りを呼び起こすこととなったが、それで白河天皇の行動に迷いが出ることはなかった。

 承保二(一〇七五)年八月一三日、平安京の東を流れる鴨川を東に渡った白河の地に御願寺の建設を始めた。後に法勝寺と呼ばれることとなる寺院である。ただの寺院建立開始ならニュースにならないが、この建立開始がニュースとなったのは、白河天皇自身が立ち会ったことに加え、左大臣藤原師実をはじめとする貴族たちが列席したことである。しかも、その中には、太政大臣藤原教通と、内大臣藤原信長がいなかった。寺院建立はただの名目で、白河天皇の派閥の結束を固めると同時に、世間にアピールする狙いがあったと言える。ちなみに、現在の我々が白河天皇、あるいは、白河上皇、白河法皇と呼ぶのは、京都の白河の地に由来する。

 注目すべきはその翌日である。寺院建立を見届けたあとで鴨川を西に渡って内裏に戻るかと思われた一行が、内裏ではなく高陽院に向かったのだ。亡き藤原頼通の邸宅に立ち寄って故人を偲ぶのかと思った瞬間、白河天皇は当時の人を絶句させる宣言をした。高陽院を里内裏とすると宣言したのである。白河天皇に従って寺院建立に立ち会った貴族たちはそのまま高陽院に入れたし、高陽院から自宅に戻ることも、翌朝にはさもそれが当然であるかのように高陽院へと出勤することもできたが、白河天皇に従わず内裏に残った貴族たちは締め出されたのだ。無論、内裏にとどまって政務をしていたために白河天皇に付き従うことができなかった者はいたし、そうした者はさすがに高陽院で政務の続きをすることも認められている。問題は、白河天皇の行幸に帯同できない理由がないまま内裏にとどまっていた皇族や貴族たちである。

 これにさらに追い討ちをかけたのが、八月一六日、皇太子実仁親王の御袴着である。皇族や貴族のことをして生まれた男児が生まれてはじめて袴を着るというこの儀式は、普通の皇族や貴族であればここまで盛大なものとならなかったであろうが、実仁親王は皇太子。盛大にならないわけがなかった。

 ましてや、高陽院締め出しの衝撃が残っている最中である。ここで皇太子実仁親王の御袴着に顔を出して白河天皇の許しを得て、高陽院締め出しを解いてもらおうとする者が続出し、いかに皇太子とはいえ御袴着の儀としては通例に無い集まりとなったのだ。そして、白河天皇は皇太子の御袴着に参加した貴族を許し、高陽院に入ることも許したのである。

 これを一般庶民はどう考えるであろうか? 白河天皇に逆らいながら、高陽院から締め出されたとあって慌てて皇太子のもとに顔を出し、白河天皇の許しを請うたのである。しかも、この時点での世間の支持は白河天皇のもとにあった。裏を返せば、禎子内親王や、太政大臣藤原教通とその息子の内大臣藤原信長、そしてその周囲にいる者は世間から敵認定されていたのである。その敵認定されている者に数えられている者が敗者となって、世間の支持を集めている側に対して完全に屈服するという姿は、白河天皇の寛大さを示すと同時に、世間の溜飲を下げる効果も呼び寄せた。

 経済がうまくいっていないとき、不満をそらすために敵を人為的に作り出すことは珍しくない。それが国外の敵であれば戦争を煽る風潮となるし、国内であれば派閥争いとなる。普通選挙制度のある現在では、投票で国内の味方に勝利を、敵に敗北を与えることができる。憎しみを抱いている政治家や政党が選挙で負けたときというのは、戦争で勝利したときに似た高揚感をもたらす。ついでに言えば、落選した側が選挙結果を不正であると糾弾するのも理解はできる。誰だって自らが敗者であると認めたくはない。

 白河天皇は国内に人為的な敵を作り出すことで、庶民の支持を集めることに成功していた。ただし、経済政策がうまくいっていたとは言えない。と言うより、うまく行きようがなかった。

 後三条天皇が破壊した荘園制度の復活を、後三条天皇の政策に何一つ逆らうことなく成し遂げたことは賞賛できることである。ただし、荘園制度のもたらす生産性の向上は一瞬にして誕生するものではない。どんなに短期間でも次の収穫まで待たねばならないし、土地の開墾から始めるとなると一年や二年でカタのつく話ではない。それでも、土地の開墾ならまだ良い。後三条天皇が荘園制度を破壊したことで、大ダメージを受けることとなったのは、人である。農民とは、自然に立ち向かって収穫を得ることを職業とする農業技術者である。より高いレベルの技術者がより高い収入を得るのは経済の仕組みとして当たり前のことであるが、後三条天皇は荘園整理という形でその人たちに対する処遇を悪化させてしまった。処遇が悪化したところに人は戻ってこないし、処遇を元に戻したとしても人が戻るとは限らない。仮に戻ってきたとしても以前の生産性を期待できない。

 全てを無かったことにしたとしても、失われた生産性を取り戻すには、土地を元に戻し、肥料を以前のように用意し、種籾も元のように戻し、水路を元のように戻さねばならない。これらのどれ一つとして、命令一つで勝手に実現するものはない。壊れた田畑を元に戻し、失われた肥料を用意し、無くなった種籾も手にし、水路を復元させて水量を確保する。それでようやく、その年の農業を始めることができるのだが、それでも以前の生産を取り戻せる保証はどこにもない。何しろ農業の最大の敵とは自然なのだ。以前の生産性の源泉であった気温や降水量が保証されているわけはない。

 その上、当時の人は肌感覚でしかわからなかったが、現在の研究によれば、藤原道長の時代と比べ、白河天皇の時代は平均気温が下がっている。暖かくなることと豊作とが結びつく稲を主産業としている状態で、気温低下は収穫を考えると絶望的な事象だ。

 間違いなく、白河天皇の時代になっても後三条天皇の政策によって発生してしまった不況が一瞬にして解決していない。しかし、不況感ならばどうになかっていた。それが、目先をごまかすための内なる敵の創造であり、内なる敵への攻撃であり、内なる敵が受けるダメージである。それに拍手喝采を送っている間は、不況ではあっても、不況感をごまかすことはできる。

 不況感をごまかす拍手喝采は、承保二(一〇七五)年九月二五日、一つのピークを迎えた。

 記録によると、この日、関白藤原教通が亡くなったとある。ただし、公表はされていない。長男の内大臣藤原信長が父の死を一切公表しなかったからである。

 関白藤原教通が既に八〇歳を迎えていることは周知の事実であるが、体調も良くなく、いつ亡くなってもおかしくないことはほとんど知られていなかった。あくまでも噂話程度であったのである。公式に姿を見せることが少ないことから何かしらの問題があるのではないかという噂話は広まっていたが、長男の藤原信長はをそれを否定も肯定もしなかったのだ。

 藤原信長の思いは一つ、父の持つ関白の地位を引き継ぐことである。自身は内大臣であり、官職としては上に左大臣藤原師実と右大臣源師房の二人がいる。普通に考えれば関白の地位が巡ってくるわけはない。また、藤原師実も源師房も従一位であるのに対し、藤原信長は正二位と一段階下の位階である。

 しかし、内大臣を太政大臣に昇格させた例は存在する。藤原兼通がそれで、天延二(九七四)年二月二八日に藤原兼通は内大臣から、右大臣も左大臣も経験することなくいきなり太政大臣になり、さらに同年三月二六日には正式に関白に就任している。この前例を前面に押し出せば、藤原信長も、位階さえ無視すれば、一気に太政大臣になって関白に就任するということが不可能ではなくなる。現職の関白から関白の後継者に任じられたという形を作り出せれば不可能も可能になるのだ。

 ただ、藤原教通は最後まで自分の息子に関白を譲るという宣言をしなかった。宣言をしないままで亡くなったのである。息子に関白の地位を譲るとしなかったのは、それが亡き兄の意思であり、当時の決定事項であったからであると同時に、父として息子の能力に疑問符をつけざるを得なくなっていたからだとも言える。その一方で、自らの手にした関白の地位を甥の藤原師実に譲るつもりにもなれずにいた。決断のつかないまま時間だけが過ぎていき、関白の地位が宙に浮いた状態で、空席となった。

 繰り返すが、九月二五日時点ではまだ藤原教通の死は公表されていない。だが、白河天皇はそれを気にすることなく、父の死去に伴う服喪として、藤原信長の内大臣辞任を許可するという発表もしている。これは儀礼的なものである。父が亡くなったときに大臣がいったん辞職して一定期間を置いて再度元の地位に戻ることはごく普通であったから、このときの白河天皇の判断はこの時代の常識に則ったものである。息子から正式に父の氏が報告されていないという一点を除いては。

 白河天皇はさらに、翌二六日に左大臣藤原師実に内覧の宣旨を下している。正式に関白にしたわけではないが、内覧の宣旨が下ったということは藤原師実がそう遠くない未来に関白に就任することを意味する。また、藤原道長の時代がそうであったように、内覧の宣旨はあったものの関白に誰も就任せず、左大臣をトップとする議政官を中心とした政治体制の復活を宣言することも可能になる。そのどちらも、藤原信長にとっては受け入れ難いことであった。

 内大臣というのは、大臣ではあるが議政官においては一票を持つだけである。議事開催権も、議事進行権もない。会議に参加して表決に加わることはできても、会議の進行を左右させることも、会議そのものを開催させることもできず、ただただ受け身になるしかないのが内大臣という職務の宿命である。何しろ、左大臣が不在の場合は右大臣、右大臣も不在の場合は、内大臣ではなく、内大臣の下に位置する大納言が左大臣の代理を務めるというのが決まりであったのだから。

 当然ながら藤原信長は不満を訴えるが、父の死を公表できない状態が続いている。不満があるなら関白藤原教通自身が白河天皇のもとに赴いて訴えれば良いと返されては、藤原信長も黙り込むしかなくなるのだ。

 関白藤原教通の死が息子の名で正式に公表されたのは、一〇月に入ってからのことであった。同日、正式に一時的な内大臣辞任も発表された。

 藤原教通の死の公表も、藤原信長にとってはまだ挽回のチャンスがあると考えていた。内覧の宣旨が下っても正式な関白ではない。また、オフィシャルな権力ではないが、藤原氏のトップであることを示す藤氏長者の地位は父から受け継いだと考えており、オフィシャルな地位では従弟に後れをとっても、また、位階で後れをとってはいても、藤原氏内部では自分がトップであると藤原信長は考えていたのである。

 だが、白河天皇はこの考えを根底から否定する。

 承保二(一〇七五)年一〇月一三日、白河天皇が直接、藤氏長者は藤原師実であると宣言したのである。従一位の藤原師実と正二位の藤原信長とでは位階が違うとあっては藤原信長も何も言えなくなる。これにより、藤原氏の所有する財産は藤原師実の手に渡り、藤原氏内部で通用する印鑑も藤原師実だけが利用できるようになった。同じ書類を作るのでも、藤原信長の書状は一個人の書状であるが、藤原師実の書状は藤原氏全体の書状となったのである。現在の感覚で行くと、会社の広報に関わるプレスリリースについて、藤原信長の出すプレスリリースは一社員の個人的な情報発信であるのに対し、藤原師実の出すプレスリリースは会社を代表する公式な情報発信となるという違いか。

 そして一〇月一五日、左大臣藤原師実を正式に関白に任命するとした。これで藤原信長は関白就任の道が途絶えた。藤原師実は左近衛大将を兼ねているから、これで文官と武官の双方のトップに立ったこととなる。全ての文官に対する人事権を手中したと同時に武官に対する人事権、すなわち、この時代にはもはや無視できない勢力になってきていた武士に対するコントロールが可能となったということである。ここまで来ると藤原信長にどうこうできる権力ではなくなる。

 この現実の前に藤原信長が選んだのが、ストライキであった。内大臣としての職務を放棄し、出仕しなくなったのだ。この時点ではまだ父の服喪期間中ということで内大臣を辞職していることになっているので、出仕しないこと自体はおかしな話では無い。とは言え、それが服喪としての出仕ではないことは誰の目にも明らかであった。何しろ、白河天皇による服喪期間解除の指示にも逆らったのである。

 内大臣という職務は必須の職務ではない。内大臣は、格で言えば右大臣と大納言の間に位置するが、右大臣不在時の職務を内大臣が務めることは許されていない。極論すれば、内大臣不在で政務が停まることは無いのである。

 ただし、そのあとに問題がある。

 関白左大臣藤原師実は三四歳である。いかに医療制度が現在と比べものにならないレベルの時代であろうと、命の危機を感じられるような年齢では無い。だが、右大臣源師房はもう六八歳。何かあると考えてもおかしくない年齢である。右大臣不在という自体はそう遠くない未来に考えられる。穴を埋めるとすれば内大臣の昇格ということになるのだが、ストライキをして政務をボイコットしている人物を評価して昇格させるというのは無茶がある。

 それに、左大臣と右大臣と対立という構図は政権を考えると望ましいものではない。かつては珍しくも無かった光景であったが、藤原良房以後の摂関政治で、左大臣と右大臣が異なる派閥の首領で占められるという光景は異例になった。政権の活性化よりも政権の安定化を選んだ結果である。安定より活性化を選ぶべきと考えるのは理屈としてありえるものの、活性化を選んだ結果がどうなったかは、理屈ではなく、唐の滅亡、新羅の滅亡、五代十国の混迷という、この時代の人たちにとってのリアルな悪夢として答えが出ている。

 このままでは問題になるというのは明白である。ゆえに、どうにかしなければならないとは誰もが理解している。だが、ボイコットをしているとなるとどうにもならなくなる。とにかくどんな方法でもいいから藤原信長を内裏に、厳密に言えば里内裏となっている高陽院に引っ張り出してこなければならないのだ。

 承保二(一〇七五)年一〇月二七日、藤原師実が左近衛大将を辞任した。この時代にシビリアンコントロールという言葉は無いが、文官が武官より上に立つべきであり、軍人が政治に口出しするのは許さないという概念はあった。文官と武官の双方のトップに立つのは絶大な権限を持つが、シビリアンコントロールの概念では許されない話でもあった。ゆえに、短期間で藤原師実が左近衛大将を辞職したこと自体は、おかしくない話ではあった。

 それにしても、あまりにも短すぎる。関白就任が一〇月一五日で左近衛大将辞任が一〇月二七日である。わずか一二日間が文武双方のトップであった時間なのだ。シビリアンコントロールを前面に掲げたにしても一二日間というのは短すぎる。

 武に対する忌避は親譲りであったとも言えるが、そこには藤原師実の焦りもあった。何と言っても政務ボイコットの末にストライキに突入している内大臣を動かす必要を感じたのだ。

 白河天皇ははじめのうちこそ悠長に構えていたが、内大臣藤原信長のボイコットが本気であると知るとさすがに慌てはじめた。

 承保二(一〇七五)年一二月一四日、白河天皇は父の死に伴い一時的に辞職していた内大臣に藤原信長を再度任命すると同時に内裏に出頭するよう命令。それも飴と鞭の両方を用意しての命令である。鞭の方は出頭しないことに対するペナルティ、飴の方は人事である。翌日、新しい人事を発表するので出頭するようにというのが白河天皇の示した命令であった。

 この命令を耳にしたとき、藤原信長の脳裏に浮かんだのは、左大臣と右大臣の二人を追い抜いての太政大臣就任であった。内大臣から太政大臣になった先例ならば存在する。この先例が自分に適用されれば、藤原師実に持って行かれたと感じている藤氏長者の地位と関白の役職の双方も夢ではなくなる。

 その期待を持っていた、そして、期待が叶うならばボイコットを取りやめるつもりで待っていた藤原信長に届いたのは、右近衛大将任官の命令である。藤原師実の辞任によって空席となっていた左近衛大将に右近衛大将でもあった右大臣源師房が昇格。その昇格によってできた空席に内大臣藤原信長を就任させるというものであった。右大臣が左近衛大将、内大臣が右近衛大将を兼ねるという仕組み自体はごく普通のことであり、藤原信長としても文句を言えるものではない。ただ、落胆を呼ばずにはいられないものであった。

 落胆を呼ばずにはいられなかったが、既に内裏に身を寄せているだけでなく、帰宅が許されないとあって、藤原信長は一二月一九日まではおとなしくしていた。そして、白河天皇の命令に従って一二月一九日に右近衛大将を拝命した。

 藤原信長を表に出すことには成功したが、問題は解決しないどころか悪化した。右近衛大将に就任することは受け入れたが、それでストライキ中止とはならなかったのである。


 年が明けた承保三(一〇七六)年、日本国は内大臣不在という一点を除いて平穏であった。ただし、視点から国境を除外すると平穏とは無縁となる。

 平穏を壊したのは宋である。王安石の新法改革がこの年に終わったのだ。

 ただ、法律は国境でとどめることができるが、法律によって生み出された新たな経済は容易に国境を越える。そして、新たな経済はさらなる法律を以てしても制御することが困難である。

 その一例が、宋銭の国外持ち出しを認めるものである。宋は貨幣経済にあったが、その貨幣を国境の外に持ち出すことは厳禁となっていた。その結果、宋の国内に流通する貨幣が多くなりすぎて物価が高騰していたのである。かといって、貨幣に見合ったモノの供給などそう簡単にできるわけではない。そこで王安石が狙ったのが貿易である。貿易によって国外のモノを輸入できれば宋国内の物資不足の解消をできる。

 当初、王安石は貿易に否定的であった。物資は欲しいが、単に物資を貰うなどできる話ではない。宋にモノを輸出する側は、宋から何かしらのモノを輸入しなければ取引にならないのだ。そこで宋としては輸出する製品を考え出さなければならないのだが、この時点の宋に輸出品は無かった。輸出できるモノが無ければ金や銀で国外の製品を買うという手も採れるのだが、この時代の宋は年貢を毎年、遼と西夏に朝貢しており、貿易に回せる貴金属など無かったのである。

 そこで王安石は、宋の国内にあふれている銅銭の国外輸出を考えたのだ。思い出して欲しいのは、成尋(じょうじん)の渡航の際、日本から貨幣的存在として金や水銀などを持って行ったことである。貨幣経済が破綻した日本であるが、貴金属に限らずコメや布地が貨幣的存在として流通していた。つまり、貨幣に対する需要そのものは存在していたのである。これは日本国に限った話ではなく、貨幣そのものが存在していなくても貨幣に対する需要を持つ市場の成熟を見せている国が宋の国境の外にあったのだ。宋銭を国境の外に持ち出すことを許せば、宋の物価を下げることも、国境の外の物資を輸入することも可能になるのである。

 承保元(一〇七四)年に国外持ち出しが解禁された宋銭は、承保三(一〇七六)年には既に日本国内での流通を見せるようになっていた。それどころか、あまりにも貨幣が国外に、特に日本に持って行かれてしまうので、それまでの貨幣過剰状態から、貨幣不足状態へと変貌してしまったほどである。

 と、ここまで書いてきて一つの事象に気がついた。これは円安ではないかと。この時代、日本国の通貨単位など無いが、日本の製品が宋に流れ込み、宋から日本に輸出できる製品が無いために通貨で支払わざるを得なかった。宋銭ぐらいしか日本の需要が無かったのである。同品質なら安い方が売れる。同じ金額なら高品質のほうが売れる。では、安値かつ高品質な製品なら? たしかにインフレは収まったが、典型的な貿易赤字が宋に襲いかかったのである。宋が貿易赤字なら日本は貿易黒字ということになるのだが、これが日本にとってメリットのあったことなのかと聞かれると単純に肯定できなくなる。同じ品質のものを日本国内でも国境の外でも買えるのであれば何の問題も無いのだが、購買力で言えば宋のほうが優れている。日本国内で製造した製品であっても、輸送代を上乗せしてもなお宋で売った方が利益になるとなれば、日本国内で流通するのではなく宋に持って行かれてしまうこととなる。物資不足は宋だけで起こった話では無いのだ。結果、コメと布地に次ぐ第三の通貨としての銅貨が日本国内に広まったが、日本国内のインフレが収束することは無かった。

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

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